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過去ログ11101~11200>>>

#11300 
バラージ 2023/01/22 22:54
国枝慎吾選手も引退表明

 ああ、歴史に大きな足跡を残した選手がまたコートを去る……。お疲れさまでした。

>『どうする家康』
 1話から物語が過去に遡るんじゃなくて、回想シーンもわずかに含みながら基本的には時代が先に進んでいく物語だったんですね。いきなり本役で子供時代はほとんど省略、今川義元の出番も1話でほぼ終わりだったか。しかしそれにしても今年は豪華な配役だなあ。去年はあんた誰?みたいなマニアックな配役が多かったけど。個人的には今年みたいな豪華配役のほうがワクワクします。



#11299 
バラージ 2023/01/18 20:55
科拳

 ネットニュースで見ました。なんか『少林寺三十六房』とか『少林寺木人拳』の免許皆伝試験の映像が頭に浮かんで、ちょっと笑っちゃいましたね。
 かつてのボードシミュレーションゲームが再販されたりリメイクされる例はゲーム誌なんかで結構あるようですが、『太平記』が米国でねえ……。欧米人は源平合戦と南北朝時代と戦国時代の区別ってちゃんとついてるんだろうか? なんか「サムライが戦争してる時代」と一緒くたにイメージされてるような気がしないでもない。



#11298 
徹夜城(今日になってサイト内の新年挨拶を外した管理人) 2023/01/15 22:28
共通テストの誤植

 報道で知りましたが、今年の共通テストの世界史の問題で「科挙」を「科拳」とする誤字があったそうで。そりゃまあ「挙」と「拳」は似てますが、いまどきそんな活字拾い間違いみたいなことってあるのかな?最近は同音の誤変換はよくあるのですが。
 「科拳」と聞くと、何やら拳法の達人たちが集められて御前試合をやってるみたいな絵が頭に浮かんでしまいます。一応武官の採用試験の武科挙というものもあったんですが、拳法の科目があったかどうかは…明代に倭寇対策で拳法使いと思われる僧兵が動員されたりしてましたけどね。

 さて正月は瞬く間に過ぎ、更新作業はまだできてません(汗)。
 ゲーム関係のところでもチョコチョコやるか、と動き出してもいるんですけど、そんな時に「ゲームで南北朝!」でタイトルだけ紹介しているミニボードゲームの「太平記-血戦楠木正成-」に、実は英語版、それもどうやら2016年ごろに出ていた、ということをつい先日知りまして。「Warriors of Japan]というタイトルで、その画像もネット上で確認しましたが、オリジナルよりも豪華感があってビックリ。
 このボードゲームって、ずいぶん前にこの伝言板で話題にしたようにマニアの間では「名作」だったようでして、発売から四半世紀も経ってから英語版が出てるとか、なかなか大変な作品なんだな、と。日本ですらマイナーな南北朝に英語圏でどれほどのニーズがあったのか、と思っちゃいますが。
 そんなわけでもしかするとこのゲームについて作業をするかもしれません。



#11297 
バラージ 2023/01/15 20:22
鎌倉史追記

 以前触れた義時晩年に伊賀の方が1221年11月に産んだ娘と、1222年12月に産んだ息子のその後は不明。息子については、『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』では脚注で北条時尚か?と推測しています。ただ時尚は『吾妻鏡』には出てこず系図類にのみ記されている人物で、通称が陸奥七郎ということぐらいしかわかりません。義時の他の娘については公家の一条能基の妻、武士の中原季時の妻、戸次重秀の妻、佐々木信綱の妻などがいるようです。
 また一条実雅の妻となった義時と伊賀の方の娘が1222年2月に娘を産んだことも以前書きましたが、『吾妻鏡』によるとそれ以前の1220年8月に息子も産んでいたようです。この男女のその後も不明。ちなみに実雅と義時娘の結婚は1219年10月です。



#11296 
バラージ 2023/01/15 12:26
その後の鎌倉史 噂の真相

 北条義時死後の鎌倉史延長戦。今回は義時急死の直後に起こった伊賀氏の変(または伊賀氏事件とも)について。まずは事件の大まかな流れを。

 1224年6月13日午前中の義時の急死を受けて、幕府は昼過ぎに報せの飛脚を京に向かわせ、未亡人となった伊賀の方は出家。18日に義時の葬儀が行われ、頼朝の墓所である法華堂の東の山上に墳墓が設けられたとのこと。なお六波羅探題の泰時と時房はこの時点では鎌倉に到着しておらず葬儀に参列していません。泰時が鎌倉に到着したのは26日。13日に鎌倉を発った飛脚が16日に京に到着し、泰時は17日に京を発った後、遅れて19日に京を発った時房とともに鎌倉に到着しており、飛脚が3日で付いた行程を10日掛けて下っていて日数が掛かりすぎています。『保暦間記』には、鎌倉の情勢が不穏だとして泰時はしばらく伊豆国に逗留し、時房を先に鎌倉入りさせて情勢を確認した後、26日に鎌倉入りしたと記されているとのこと。なお泰時はまず由比ヶ浜に宿を取り、翌27日に改修を加えていた自邸に入っています。
 28日に泰時は政子のもとに参じ、政子は泰時と時房を軍営御後見(執権・連署)に任命。事を急ぎすぎかと政子は大江広元に相談しましたが、広元はむしろ遅すぎるくらいだと賛意を述べています。義時の死後、鎌倉では不穏な噂が飛び交っており、泰時は弟たちを討ち滅ぼすために京から下向してきたという風聞があって、伊賀の方の長子政村の周辺は騒然としていたとのこと。また伊賀の方の兄弟である伊賀光宗らは政村の外戚であったため泰時の執権就任に憤っており、伊賀の方は公家で三寅の側近である娘婿の一条実雅を将軍とし、息子の政村を執権として光宗ら兄弟に政治を行わせようと密かに企んでいるという噂を泰時方の人が聞き付け、泰時に告げたものの泰時はその噂は事実ではないとして全く動じず、必要な人以外が泰時邸に参じることを禁じています。29日には泰時の長子時氏と時房の長子時盛が新たな六波羅探題として上洛。2人は世上の噂を案じて上洛の延期を申し入れたものの、泰時・時房が京の人心の不安を抑えるために上洛させたとあります。
 7月5日になると鎌倉中が騒がしくなり、光宗兄弟が三浦義村邸に何度も出入りしたため、人々は何かを相談してるのだろうと怪しみます。夜には光宗兄弟が伊賀の方の住む旧義時邸に集まり、何かを心変わりしないと誓い合い、これを密かに聞いたある女房が話の始めは聞いていなかったが様子が不審だと泰時に告げたものの泰時はやはり全く動じず、兄弟が心変わりしないと誓ったのはまことに神妙だと言ったとのこと。17日になると鎌倉近辺の武士たちが集まってきて、さらに騒ぎが大きくなります。その日の深夜、政子が女房1人を伴って突如義村邸を訪れ、恐縮して出迎えた義村に政子は、義時の死後泰時が下向してから世が騒がしく静まらない。政村と光宗らがしきりに義村のところに出入りして密談しているとの噂があるがこれは何事か。泰時を滅ぼして世を意のままにしようというのか。義時の後を継ぐのは承久の乱で大功を立てた泰時しかいない。政村と義村は親子のような間柄で談合の疑いを否定できないであろう。両人ともが事なきを得るように諫言すべきであると糾弾します。義村は何も知らないと返答しますが政子は納得せず、政村を支えて世を乱す企てがあるのか和平を探る意志があるのかはっきりと断言せよと迫ったため、義村は政村に逆心は全くないが光宗には何か考えがあるようだと答え、光宗は自分が制止すると誓約したので政子は御所に帰ったとのこと。
 翌18日に義村は泰時邸を訪れ、かつて義時殿ご存命の折り義村は忠勤に励んだことから政村殿の烏帽子親とされ、また愚息泰村は泰時殿の御猶子としていただきました。その御恩を思えばどうして泰時殿と政村殿のどちらかを贔屓にすることなどありましょうか。光宗にはいささか企みがあったようですが私が諫言して諦めさせましたと述べたところ、泰時は喜びも驚きもせず、私は政村に害心など全く抱いていない。なぜ世人は敵対していると思うのでしょうと答えたとあります。
 30日夜にまた騒動が発生。御家人たちが旗を上げ甲冑を着て鎌倉市街を走り回りますが、実際には何事もなかったため明け方には静まります。翌閏7月1日、政子は三寅と共に泰時邸に滞在して義村に何度も使者を遣わし世の騒ぎを鎮めるよう命令していましたが、前夜の騒動に驚いて義村を呼び寄せ、私は若君を抱いて時房・泰時といっしょにいるから義村も別にいてはならず同じくこの場にいるようにと述べ、義村はそのまま辞すことができなくなります。その上で政子は他の宿老も呼び寄せ、時房を通じて事態の収拾に尽力するよう誓わせます。3日に政子の御前で世上の事について審議が行われ、時房や老病の広元も参上。評議の結果、光宗が実雅を関東の将軍にしようとした陰謀が露見したが実雅は公卿なので鎌倉で処罰せず身柄を京に送って罪名を奏上することとなり、また伊賀の方と光宗らは流刑とし、その他の者は疑いがあっても処罰しないことに決定しました。
 23日にまたも騒ぎが起こったものの実雅は京に送還され、光宗の弟朝行・光重らが同行。29日に光宗が政所執事を解任され、所領52ヶ所没収の上、外叔父の二階堂行村に預けられています。8月22日に実雅が入京し、27日には光宗が誅殺されるとの噂が立ち鎌倉中が騒動となりますが、そのような事実はなかったので鎮静化します。29日に伊賀の方が伊豆国北条郡へ流され籠居となり、光宗は信濃国に配流され、上洛後京へ留まっていた朝行・光重はそのまま鎮西(九州)に配流されることが決まりました。10月10日、朝廷で実雅の越前国配流が決定し、29日に実雅が解官されて配流されています。11月9日には朝行・光重が鎮西に配流されました。

 以下の伊賀氏事件の通説について、永井晋氏は冤罪説を唱えています(『鎌倉幕府の転換点』NHKブックス/吉川弘文館、『北条政子、義時の謀略』ベストブック)。永井氏は義時の葬儀における息子たちの参列順が朝時、重時、政村、実義、有時と長幼の順(有時は四男だが元服が政村・実義より後と思われ、通称も政村・実義の四郎・五郎に対して有時は六郎)となっており、政村が上席に着けられておらず嫡子として扱われていないことから、伊賀の方が政村に北条家の家督を継承させようとはしていないことは明らかで、後継者決定や遺産相続は泰時の帰還を待って話し合いで決める考えだったとしています。なお『吾妻鏡』は義時の葬儀を取り仕切ったのが誰かを記しておらず、山本みなみ氏は政子(『史伝 北条義時』小学館)、永井氏は伊賀の方と推測しています。山本氏はこの時点で泰時が嫡男になっていると見なし、嫡男泰時不在のまま政子が義時の葬儀を差配したとしているのに対して、永井氏は義時が後継者を決定しないまま急死したと見なし、この時点で北条家の家督代行は伊賀の方だとしています。『吾妻鏡』はこの時点で泰時を嫡男だとはっきり書いていないので永井氏の論のほうに説得力を感じますね。
 また永井氏は『吾妻鏡』が伊賀氏による陰謀の噂が流れていることを記すばかりで、実際に陰謀があったとは書いていないことも指摘しています。そのような前提で見てみると確かに泰時も義村も陰謀の存在を否定しており、政子1人が陰謀の噂を事実と見なして伊賀氏の処分を強行しています。伊賀氏が義村を頼ったのも政村の烏帽子親であることに加えて、義村自身の言う通り息子の泰村が泰時の偏倚を受けており、また泰時の前室が義村の娘で時氏を産んでいるなど、泰時・政村両者と強いつながりを持っていたからでしょう。また不穏な噂が流れ御家人たちが浮き足立つ中で、義村・伊賀氏と泰時はお互いの真意がわからず慎重になっていたものとも思われ、おそらく政子が義村にねじ込んだ翌日に義村が泰時への弁明に赴いた際に、義村は泰時が政村に敵意を持っておらず政子1人の暴走だったことを知り、泰時もそれを確実に伝えた上で事態の収拾に当たろうとしたものと思われ、時房なども終始事件からは距離を置いた対応をしています。さらに永井氏は鎌倉殿三寅の後見である政子が泰時を執権に任命するのは不当なことではないが、北条家の家督継承を行うのは義時後家の伊賀の方であって、泰時が家督を継承する前に北条家累代の職と見なされる執権に就任させたのは政子による家督継承への不当な介入だったともしており、非常に説得力があって従うべき見解のように思いますね。
 それから関係者の処罰範囲が最小限にとどめられ、政村や義村が全くのお咎めなしに終わっているのもその傍証と言えるでしょう。しかも翌1225年7月に政子が死ぬと翌8月には早くも光宗の弟の朝行・光重は恩赦として罪を許され、光宗自身も同年12月にはやはり恩赦によって許されて、いずれも幕政に復帰しています。このような迅速な対応が取られたのも政子以外は事件を冤罪だと認識していたからでしょう。政村・伊賀氏・義村らと泰時の間にその後も疎隔がなく、政村らが泰時の得宗家に終始忠実だったことからも両者の間に確執がなかったことは明らかです。なお永井氏は宇都宮朝業(信生)の私家集『信生法師集』にある、1225年4月に朝業が光宗を配流地の信濃国姥捨山麓に訪ね和歌を詠み交わしたというエピソードを引き、身に覚えのない罪で追われた光宗の無念の強さを記すとともに、かつて兄頼綱がやはり言いがかりに近い理由で義時に出家させられた過去を持つ朝業が光宗に深く同情していたことを紹介しています。光宗は幕政復帰後、1244年には評定衆となってますが、政所執事は光宗解任後は母方の実家二階堂氏の家職となり伊賀氏が復帰することはありませんでした。光宗の曾孫が幕末に幕府を裏切って後醍醐天皇に通じた兼光となります。
 また伊賀の方は『吾妻鏡』によると配流された4ヶ月後の1224年12月12日より病となり23日には危篤となったとの報せが、24日に伊豆国北条から鎌倉に届いており、以後『吾妻鏡』には名前が出てこないため間もなく死去したものと推測されています。一方で『明月記』にある1227年2月に京で公家の西園寺実有(一条実有)と結婚した義時の娘を伊賀の方の娘として、その前年(1226年)に入京したと記されているその母を伊賀の方とする見解もあるようです(近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書)。何の罪もないのに政子によって冤罪に落とされた伊賀の方の境遇を思うと、個人的には後者の説を信じたいところ。唯一、政子の死後も罪を解かれなかったのが一条実雅。『尊卑分脈』によると1228年に配流された越前国で死去しています。おそらく朝廷を通した罪科だったため幕府の恩赦が及ばず、また幕府が朝廷に恥をさらしたくなかったためなんではないかとも思われ、なんとも不運。ちなみに90年代頃までは実雅の父能保に嫁いだ頼朝妹の没年が不明だったため、実雅も頼朝妹の子でそのため将軍候補に擬せられたとされてましたが、現在では実雅誕生の前年に頼朝妹は死去しており、実雅の母は藤原有恒の娘とされています。そのため摂関家の三寅より身分が低く頼朝との血のつながりもない実雅が将軍候補となるのはやはり不自然と言わざるを得ません。なお実雅の妻だった義時と伊賀の方の娘は『明月記』によるとやはり政子の死後、1225年11月以降に公家の唐橋通時と再婚するために入京しています。

 永井氏は政子が伊賀氏を攻撃した理由について、鎌倉殿との血縁関係も無くなり北条家とも代替わりに伴って縁の薄くなった政子が、自らの影響力を維持するために北条家の後家として自分以上に大きな影響力を持つことになる伊賀の方を潰すために仕掛けたでっち上げだったとする説を唱えています。その上で泰時・時房・義村らはいずれもそのような陰謀に与せず、事件を穏便に収めようとしたとしています。
 ただ個人的には以前も書いた通り政子は直情径行できわめて感情的な人物であって、本心を隠して行動しなければならない陰謀には本質的に向いてないと思うんですよね。むしろこれは政子の個人的感情から出た独断的暴走と言っていいんではないかと推測します。政子は伊賀の方にいわゆる女同士の何らかの個人的悪感情を以前から抱いており、そのような個人的感情と情勢判断とが彼女の中でごちゃ混ぜになって、あの女ならやりかねないという感情的判断から自分が無意識に望んでいた方向へと暴走してしまったんでしょう。周囲の人間のほとんどはそれを誤りだと判断して何とか事を穏便に済まそうとしたけれど、頭に血の上った政子は聞く耳を持たなかったものと思われます。

 さて、以上の永井説に対する他の研究者の反応にはやや鈍いものがあり、賛成・反対以前に触れていないものが多いのが個人的には不満なところ。まあ、そもそも伊賀氏事件に触れている一般向けの本が多くはないというのもあるんですが、伊賀氏事件に触れているものでも通説を記すのみで永井氏の冤罪説に全く触れていないものが多い。触れているのは管見の限りでは『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』(吉川弘文館)、目崎徳衛『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館)、岡田清一『鎌倉殿と執権北条130年史』(角川ソフィア文庫)、呉座勇一『頼朝と義時』(講談社現代新書)といったあたりでしょうか。そのうち『現代語訳吾妻鏡』は説の紹介のみで、目崎氏と岡田氏はいずれも永井説に否定的ですが詳細な反論ではなく印象論にとどまっているのであまり説得力はありません。呉座氏は、政子は伊賀の方に敵意を持っていたと思われ、陰謀があったかはともかくとして冤罪だった可能性は高いとしており、僕の意見に近いものがあります。ただし政子が伊賀氏の増長を問題視し、かつての比企氏のようになることを恐れたとしているのは、『吾妻鏡』に伊賀氏の増長と言えるような記述がほとんどないことから賛成できません。
 本郷和人氏や坂井孝一氏はいずれも永井説に直接触れてはいないものの、近著で通説の一部を疑問視しているので(本郷『北条氏の時代』文春新書、坂井『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』NHK出版新書)永井説から何らかの影響を受けたものと考えられます。ただし坂井氏が政子が泰時を贔屓した理由に泰時の母=八重説を持ち出してるのはちょっとどうかと思いますね。また山本みなみ氏も永井説には触れず、そもそも著書(『史伝 北条義時』、『史伝 北条政子』NHK出版新書)の参考文献に永井氏の著作が含まれていません。山本氏は基本的に通説を支持してるんですが、それは山本氏が政子贔屓だからなんではないかと思われます。山本氏の著書は非常に冷静かつ詳細な分析がされていて参考になるところも多いんですが、政子に関してだけはやや感情的なまでに擁護していると感じられるところがあります。山本氏に限らず女性研究者はおしなべて政子に甘い。女性作家が必ずしも政子を美化していないことと対照的で、個人的には興味深く感じられます。ただし北条家の家督継承を行う伊賀の方の頭越しに政子が泰時を執権に任命したのは政子の越権行為だったとする見解については、山本氏や呉座氏も肯定しています。

 なお伊賀氏事件については大河ドラマ『北条時宗』でも確か重時と政村がいっしょに風呂(温泉?)に浸かりながら回想的に触れていた記憶があります。伊東四朗演じる政村が、あの時はまだほんの子供でしたとか言ってましたが、90年代あたりまではなぜかそういう認識が一般書なんかでは普通だった記憶があるんですよね。ドラマでは伊東政村は7代執権に就任すると、周囲に人がいなくなってから天に向かって、やりましたぞ母上!とか叫んでました(笑)。


>名画座修正情報
『卑弥呼』……DVDがキングレコードよりバラ売りもされるようになったようです。



#11295 
バラージ 2023/01/09 00:24
どうなる家康

 鎌倉史の続きをやるとか言っときながら、去年やりすぎた燃え尽き症候群かどうも筆が乗りません。まあ伊賀氏の変(伊賀氏事件)は必ずやりますが、もう少し時間がかかりそう。

 さて今年の大河『どうする家康』の初回を観ましたが、うん、これはなかなか面白い。少なくとも去年よりはずっといい。家康の生涯を描く大河は1983年の『徳川家康』以来となりますが、あれは僕が子供の頃に全話観た大河でとても印象に残ってます。脚本の古沢良太氏はインタビューで家康を平和主義者として描くと言ってたように思いますが、それは実は1983年版の原作者の山岡荘八の考えといっしょなんですよね(呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』角川新書)。あとCGも去年とは打って変わってかなり良い。なんか大河のCGって1年置きに良かったり悪かったりを繰り返してるような気がするんだけど(去年の『13人』はダメ。一昨年の『青天』は良かった。その前の『麒麟』はダメ。その前の『いだてん』は良かった)、演出チームのせいなのかな?
 配役も素晴らしくてワクワク感があります。野村萬斎が今川義元役で、公家風メイク無しのいかにも名将という感じ。1983年版の成田三樹夫もなかなかの名将ぶりだったような記憶がありますが、公家メイクはしてたんだよな。萬斎さんの大河出演は『花の乱』の細川勝元以来でしょうか? 初回で討死しちゃったけど、ここから話がさかのぼるだろうからまだ見せてくれるでしょう。岡田准一の信長もいかにも最強覇王って感じですが、次週以降出てくるだろう親父の信秀が藤岡弘、というまさに最強父子(笑)。阿部寛の武田信玄も含めて、どいつもこいつもやたら強そうなんですけど。
 あとは瀬名(築山殿)役の有村架純かな。1983年版の池上季実子は気位が高く夫婦仲が良くないような設定(昔過ぎて記憶が曖昧)、『直虎』の菜々緒は夫の尻を叩くようなキャラだったような気がしますが(あまり観てなかったんでこれまた曖昧)、今回は妙にほんわかとしたこれまでとはまた違うキャラクターのようですね。有村さんはかなりの演技派だと思ってるので期待しております。


>中国の南北朝時代
 徹夜城さんがTwitterで触れてたネタ。去年本屋で中公新書の『南北朝時代』っていう新刊の背表紙を見つけて手に取ってみたら、中国の南北朝時代の本で、おお、さらにマイナー、などと思っちゃったんですが、中国の南北朝時代のファンって日本にどれぐらいいるんだろ? 全くいないってことはないでしょうが、相当に少ないことも確かなんでは。三国志の延長といっても間に五胡十六国時代を挟んでかなりのスパンがありますし、三国志ファンでも興味があるのはせいぜい西晋の滅亡くらいまでなんでは。そもそも日本の三国志はほとんどが諸葛亮の死で終わっちゃうからなぁ。むしろ近年人気な中国時代劇ドラマの影響のほうがまだありそう。『鳳囚凰』『北魏馮太后』『王女未央』『蘭陵王』『後宮の涙』『独孤伽羅』『独孤皇后』など南北朝時代を舞台としたドラマはそこそこあるんですよね。まぁ、どれも史実なんてそっちのけの自由奔放史劇のようですが。ちなみに僕は1つも観てません。

>正月に観た歴史関連の録画映画
『未完の対局』
 1982年の日中合作映画。戦後初の日中合作映画だったそうです。公開当時テレビCMがよく流れてたのを覚えてますね。大正時代から満州事変・日中戦争期、そして戦後までの日本と中国を舞台に、日中の囲碁の名棋士とその子供たちの数奇な運命を描いた大河ドラマ映画。基本的にフィクションですが、実在の棋士の呉清源が一部モデルになってるとのこと。日中双方に配慮しつつ日本軍の非道さを余すところなく描いてますが、製作された時代が時代だけに今観ると作風がかなり古くさく、70年代初期の『戦争と人間』三部作を思わせます。中国も第5世代が台頭するのは80年代半ば以降で、やはり今観ると作風が古くさい。小林稔侍や石田純一がほんの脇役とか、まだ子供の伊藤つかさとかは妙に懐かしいんですが、それもまた映画を古くさく感じさせました。



#11294 
徹夜城(明日から仕事始めの管理人) 2023/01/03 23:43
あけましておめでとーございます

 もう三が日も終わろうとしている時間になって新年のごあいさつ申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さすがに更新度合いが低いサイトになってしまい、当然ながらアクセス数も下がり気味で新規の人もあまりいないような…と思ってるところです。今年はなんとか頑張っていろいろなコーナーの更新をしていきたいものです。「史点」ばっかりじゃなくて。
 
 ヘンテコ歴史本のコーナーは相変わらず人気ではあるんですが、これは、という新作にお目にかからない。いや、変な本とかトンデモ主張はネット上でいくらでも見つかるんですけどね、同じ話ばっかりで新鮮味がない。
 そうそう、一番最後にとりあげた田中英道氏のユダヤ人来日本ですが、また同様の主張の新作が出てるようです。その宣伝を兼ねた動画を見ましたが、田中先生、ますますのめりこんでまして、あれじゃ日本に来た外来文化はみんなユダヤ人由来になっちゃいそう(だって能楽までふくめてました)これって新手の日本文化自虐論じゃないかと思ったり(笑)。いわゆる「渡来人」ばなしは全部ユダヤ人ってことにされちゃってる。
 別の講演では、秦の始皇帝の父ともうわさされる呂不韋について「ラビ」だと凄まじい語呂合わせでユダヤ人ネタにしてしまっていました。


 南北朝列伝もまだまだ建設途上ですし、そもそも本職(!?)のはずの後期倭寇コーナーがながらく放置状態で、いい加減形にしなくちゃと改めて思っています。ああ、実は「しりとり人物」も次回はとうの昔に決まっていて、資料集めもだいたいすんでたりするんですが…

>バラージさん
 そうですね、「鎌倉殿」は実のところ「草燃える」の三谷流リメイクだったと僕も思ってます。そこらへん、味付けが三谷さん風味なので雰囲気はまるで違うとも思いますけど大枠で見れば。「真田太平記」と「真田丸」よりはずっと近いでしょうね。

 さて今年の大河は「どうする家康」ということで…「鎌倉殿」の最終回でまさかの登場(吾妻鏡を愛読してたってのは事実なんですが)。おかげで三年連続で大河に家康が出ているという不思議なことになってしまいました(笑)。
 似てるような似てないようなのケースが「信長」→「琉球の風」にあって、「琉球の風」の冒頭は「信長」のラストからつながり、仲村トオルの秀吉が亀井滋矩に「琉球守」を約束する、というつながりをもたせてました。そういやこのドラマでもやや強引に家康を出してますね。

 「レkし映像名画座」のほうは、いま見てる三本を見終えたら…とか考えていたんですが、なんせ「オスマン帝国外伝」があと100回以上あってなかなか見終わらないんですよね。今年中に見終えられるかどうか…




#11293 
バラージ 2023/01/02 01:00
新年あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。
 いきなりですが、確か去年も年頭に書いた歴史映像名画座の修正情報総まとめをば。なんか急かしちゃってるようでどうもすいません。気づいた度にポロポロ書いちゃってるんで、まとめといたほうがいいだろうってことでして。

『火の鳥』(実写映画)……復刊ドットコムよりBlu-ray化されています。
『母恋ひの記』……「~谷崎潤一郎「少将滋幹の母」より~」というサブタイトルが付いています。
『陰陽師』……主人公は安部清明ではなく安倍晴明です。
『源義経』(日テレ年末大型時代劇)……原作は大河ドラマと同じく村上元三です。
『GOJOE・五条霊戦記』……『五条霊戦記 GOJOE』が正確な邦題のようです。また平忠則役は岸井一徳ではなく岸部一徳です。
『鶴姫伝奇』……「興亡瀬戸内水軍」というサブタイトルが付いています。
『風雲児信長』……オリジナルの『織田信長』は104分で、戦後公開された『風雲児信長』は短縮版だそうです。
『戦国疾風伝 二人の軍師』……「~秀吉に天下を獲らせた男たち~」というサブタイトルが付いています。
『人斬り』……ポニーキャニオンよりBlu-ray&DVD化されています。
『勝海舟』……解説欄の文末の「事実上の「封印」状態が続く作品となった。」は、その下のメディア欄にある通り、今となっては実情に合わない文章になっているので改訂をお願いします。
『春の波涛』……解説欄の文末の「現在に至るまで一切ソフト化されていない。」は、その下のメディア欄にある通り、今となっては実情に合わない文章になっているので改訂をお願いします。
『小説吉田学校』……DVDは東宝から発売されています。
『孫子』……DVDはビデオメーカーではなくエースデュースエンタテインメントから発売されています。
『大漢風』……DVD邦題は『大漢風 項羽と劉邦』です。
『三国志 諸葛孔明』……DVDもVHS同様に全3巻です。またビデオメーカーではなくエースデュースエンタテインメントから発売されています。
『火龍』……DVDはコニービデオではなくアット・エンタテインメントから発売されています。『西太后(完全版)DVD-BOX』での発売(『西太后 第一部』『西太后 第二部』『続・西太后』との4本セット)で、バラ売りはないようです(レンタルはバラでされている)。
『末代皇帝』……DVDはビデオメーカーではなくコニービデオから発売されています。
『孫文の義士団』……李玉堂役はワン=チェシーではなくワン=シュエチーです。
『黄山伐』……映画祭「シネマコリア 2005」で『黄山ヶ原』の邦題で上映されたとのこと。「黄山ヶ原」と書いて「ファンサルボル」と読むらしく、HuluやAmazonprimeでも同邦題で日本語字幕付きで配信されています。
『ジンギスカン』(1965年の米国映画)……劇場公開邦題は「・」の入った『ジンギス・カン』だったようで、VHS化の際に「・」の抜けた『ジンギスカン』という邦題になったようです(DVD邦題もVHS邦題と同じ)。
『チンギス・ハーン』……本国公開年はモンゴル語版と英語版のWikipediaによると1990年のようです。
『マンドハイ』……モンゴル語版Wikipediaを見ると、オリジナルの上映時間は273分のようです(日本公開版は、ぴあによると174分)。
『ソドムとゴモラ』(1962年の映画)……株式会社アネックよりBlu-ray&DVD化されています。
『ピラミッド』……脚本のウィリアム=ホークナーは、正しくはウィリアム=フォークナー。あの有名な小説家のフォークナーのようです。
『侵略者』……VHS邦題は『侵略王アッチラ』です。
『ニュールンベルグ裁判』……頭の「ニ」が削除されて「ュールンベルグ裁判」になってしまっています。
『REIGN/クイーン・メアリー 愛と欲望の王宮』……オリジナルは全78話のようです。
『リベレイター』……「南米一の英雄 シモン・ボリバル」というサブタイトルが付いています。
『スターリングラード大攻防戦』……劇場公開邦題は『白銀の戦場 スターリングラード大攻防戦』で、『スターリングラード大攻防戦』はビデオ・DVDなどのソフト邦題です。
『ヨーロッパの解放』……正確には全5部作で、日本では第1部と第2部、第4部と第5部をそれぞれ1本にまとめて公開したようです。

 以下の作品はソフト化されてないか、ビデオ化のみでDVD化はされていませんが、各種動画サイトで配信はされているようです。
『紅顔の密使』『紅顔の若武者・織田信長』『桶狭間 OKEHAZAMA~織田信長 覇王の誕生~』『徳川家康(映画)』『お吟さま(1962年)』『かぶき者慶次』『江戸城大乱』『竜馬を斬った男』『足尾から来た女』『しかたなかったと言うてはいかんのです』『三国志&三国志II 天翔ける英雄たち』『水滸伝(1983年)』『エカテリーナ』『パン・タデウシュ物語』

 また、中国史作品に出演している以下の中華圏俳優はそれぞれ同一人物ですので、記載を統一したほうがいいかと。
『墨攻』のウー=チーロン、『新忠烈図』の呉奇隆、徒然草の『墨攻』のニッキー=ウー。
『墨攻』『始皇帝暗殺』の王志文と、徒然草の『墨攻』のワン=チーウェン。
『ヘブン・アンド・アース 天地英雄』の王学圻と、『孫文の義士団』のワン=シュエチー(上記の通りワン=チェシーは誤り)。
『水滸伝』(2011年)の張函予と、『孫文の義士団』のチャン=ハンユー。
『岳飛伝 THE LAST HERO』の劉承俊と、『ラスト・ソルジャー』のユ=スンジュン(韓国俳優です)。
『大明劫』『蒼穹の昴』の余少群と、『1911』のユイ=シャオチュン。
『ラストエンペラー』のウー=ジュンメイと、『宋家の三姉妹』のヴィヴィアン=ウー。



#11292 
バラージ 2022/12/31 15:23
本年の鎌倉史 新しくて古い

 今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の総論的感想です。といっても各論的なものの他に総論的なのもちょくちょく書いてたんですが、まぁ総まとめ的なのをさらっと。
 一言で言うと、予想した通りと言うか予想以上にと言うべきか、大筋で『草燃える』の焼き直しだったかなと。もちろん別の作品なんでちょこちょこマイナーチェンジはしてるものの(『草』オリジナルの架空人物は使えないし)、頼朝挙兵直前から話が始まり承久の乱でほぼ終わる物語構造も、純朴な青年が頼朝の影響を受けて冷徹な政治家へと成長し後半はピカレスク風となるキャラクター造形も、ほぼ『草』を踏襲したものと言っていいでしょう。義時の盟友として描かれるという触れ込みだった三浦義村も、三谷お気に入りの山本耕史が演じるだけにそんな風になるかあ?と思ってたらやっぱり『草』と同じ野心家キャラになっちゃった。結局これは三谷幸喜が世代的におそらく熱心に観てたであろう(でなきゃ義時主人公でやろうという発想にはなるとは思えない)『草』の影響が排除できなかったんだろうってのと、三谷自身が自認してる通り俳優の当て書き傾向が強いってことに原因があるんでしょう(だから江口のりこ演じる亀の前もあんな史実とかけ離れた人物になってしまった)。
 義時をピカレスクで描くっていうのは実は義時悪人説の裏返しに過ぎず、そういう意味ではかなり古くからある人物像で、決して新しいものではないんですよね。研究者でも義時を陰謀家として捉える見方もあれば、悪人説を否定して義時を英雄として捉えるものもありますが、ここまでの各論を見ても義時は悪人ではないものの英雄とも言い難いというのが個人的な感想。頼朝時代の義時は寵臣の1人として可愛がられたもののほとんど手柄を立てていませんし、頼朝死後も時政が失脚するまでは政権の主導者でもありません。時政が失脚した牧氏の変やその後の和田合戦でも信頼できる史料からは必ずしも義時のみが主導権を握っていたとは読み取れないし、実朝暗殺も義時の大失態と言ってよく、承久の乱も後鳥羽上皇が挙兵したから戦ったまでで、もし後鳥羽が挙兵しなければ義時(もしくは幕府)の側から後鳥羽に戦を仕掛けるなどあり得なかったことは明白です。そう考えると義時はどうも今一つパッとしない人物で、頼朝のような一時代を画する英雄とは言い難い。そもそも主人公には向いていなかったとも言えそうです。ちなみに義村についても近年の研究では常に政子・義時側に付いていたことが強調される傾向で、実朝暗殺黒幕説や伊賀氏の変黒幕説もほぼ否定されているため、義時の盟友という描き方も十分あり得たと思うんですが、結局そうはなりませんでした。まぁ視聴者の多くは史実にそこまでのこだわりはないだろうし、僕も別の時代ならそこまで気にしなかったとも思うんですけどね。個人的に熱望してた題材なんでやはりガッカリ感が強い。単純にドラマとしても三谷の作風はやっぱり趣味に合わねえなあというのが正直な感想です。ま、僕がどう思おうと世間的には評判が良かったみたいなんでどうでもいいんでしょうけど。
 僕もドラマそのものはともかく、ドラマにかこつけて好きな時代の細かいネタ話ができたのは楽しかったです(笑)。毎週長々と書いちゃってどうもすいませんでした。とか言いつつ来年もちょっとだけ鎌倉史延長戦を書かせていただこうかな。次の時代の大河『北条時宗』の時代に入るあたりまでのネタで数回ぐらい書きたいと思います。


>昼メロか!
 『人形劇 平家物語』第3部の録画をようやく視聴終了。なかなか観る気が起きなかったんですが、観始めると1話20分なんでわりと早く観終わりました。木曽義仲が主役のターンですが、義仲については『13人』の登場段階で結構くわしく書いちゃったんで(何をどこまで書いたかいまいち覚えてないんですが)、そっちにはなかった吉川英治(もしくは人形劇)オリジナルの要素と思われる部分を。
 まず義仲がやたらと美化されてて、やっぱり吉川は義仲に思い入れがあるんだなぁと。入京した義仲軍の乱暴狼藉を義仲の足を引っ張ろうとする行家の謀略にしちゃうところなんかその最たるもので、義仲と後白河法皇が合戦に及んだ法住寺合戦も義仲にはそんなつもりはなかったのにハプニングから思わぬ合戦になってしまったという珍妙な展開に。ひょっとしたら吉川はご贔屓の義仲と天皇(法皇)が合戦に及ぶなんて書きたくなかったのかも。義経の描き方ももろに判官贔屓で、どうも個人的には受け付けない。
 そしてやっぱりなんといっても義仲の女性関係。あんなに美化されてる義仲なのになぜか女性関係にはやたらだらしなく、第2部で出てきてた巴と葵に加えて山吹に冬姫(藤原基房の娘)も絡んで、なんだか昼メロみたいなドロドロ状態に。巴と葵については以前書きましたが(#11280)新たな2人の説明を。山吹は語り本系『平家物語』にのみ名前が出てくる人物で、義仲最期の合戦で巴が登場した時に、義仲は信濃国より巴と山吹という2人の便女(身の回りの世話をする女性)を連れてきたが、山吹は病で京に留まったとのみ記されており、直接的には登場しません。前記の通り、読み本系の『源平盛衰記』にしか出てこない葵も名前が出てくるだけの人で、2人とも「巴の相方」という以上の役割はないんですよね。おそらく古典物語(もしくは『平家物語』)特有の表現方法で、清盛が寵愛した白拍子の祇王・祇女姉妹なんかも妹の祇女は姉の祇王の相方というだけの個性のない役どころだったりします。上記の通り山吹と葵が共に出てくる系統本もなく、『新・平家物語』の山吹と葵は完全に吉川のオリジナルキャラクターと言っていいでしょう。
 また藤原基房の娘については、法住寺合戦で後白河を幽閉した義仲が摂政の近衛基通を解任して前関白の基房と手を結んだ際のこととして、『平家物語』には義仲が基房の婿になったとあり、やはりそこから大きくふくらませたキャラクター。まぁ、こちらもほぼオリキャラですね。ちなみに基房の弟たちである九条兼実の『玉葉』や慈円の『愚管抄』には両者の婚姻について何ら記されていないため、これは『平家物語』の虚構とする説が有力です。また前記の通りこの頃の摂政は基房の甥の基通で、基房は政権から疎外されていたため義仲と手を結んだと思われますが、人形劇(吉川『新・平家』も?)は話を単純化するためか基通をリストラして、ずっと基房が関白(摂政?)のままだったことにしてるようです。なお『源平盛衰記』には、頼朝が上洛させた範頼・義経軍が迫っても義仲は基房の娘との別れを惜しんでイチャイチャして出陣しようとしないので家臣が切腹して諌め、それでもまだイチャついてたので家臣がもう1人切腹して、義仲はようやっと腰を上げたというエピソードもあり、『太平記』の新田義貞と勾当内侍のエピソードはこの逸話を踏襲したものと思われます。あと巴が和田義盛の家臣に捕まるくだりで、ああ、なるほど、あのネタは『新・平家』で早くも使われてたのか、と。しっかしまあ吉川はほんと義仲が好きだったんですねえ。そのあたりが俺の好みと全然合わねえんだよな。
 その他、久々に登場した感のある平頼盛がちゃんと池禅尼の息子になってて、あれれれれ? 確か最初のほうじゃ清盛の同母弟とおぼしき描写があって、おいおいとツッコんだはず(#11245)。いつの間にか設定が完全に変わっちゃってる。明らかに吉川の設定ミス、もしくはリサーチミスですが、二次作品でも修正はしないもんなのかな? 史実どうこうとかではなく、作品内の設定が途中で完全に変わっちゃってるんですが。あと平宗盛が気弱ながらも意外にいいやつに描かれてるのは珍しい。一方で優れた人物に描かれがちな平知盛や平教経が微妙にイヤなやつなのはもっと珍しい。
 第4部・第5部は以前触れた通り録画し損ねたので、これにて『人形劇 平家物語』の感想は終了。まぁ、そもそも4&5部は判官贔屓全開だろうから正直あんまり観る気がしないんですよね。

>DVDで観た映画
『禅 ZEN』
 道元の伝記映画。坊さん映画は敬遠気味でほとんど観てないんですが、公暁がちょっと出てくるらしいんで、じゃあまあ観てみっかとDVDを借りました。最初の舞台は中国なんですが、役者がちゃんと中国語をしゃべってるのが良い。坊さんの格好は日中であまり変わりないから、日本人俳優が日本語で演じてたら中国だか日本だかわかりませんからね。あと中国ロケのおかげもあるんだろうけど、映画はやっぱりテレビに比べて圧倒的にお金かけてるなぁと。監督やスタッフの力量もあるんでしょうが、大自然やセットの画が圧倒的に雄大です。ただ肝心のお話のほうは……つまらないわけではないんですが面白いわけでもなく、宗教映画としてよくあるような話を一通り並べただけという感じの平凡な作品。悟りもえらく簡単に開いちゃうし、宗教映画って難しいもんですね。史実絡みでは道元と公暁(なぜか僧ではなく武士の俗体)が若い頃に友人だったというフィクション設定にあまり意味がなかったような。ほんとにただそれだけという感じで、ストーリーにほとんど影響を与えていません。宋で出会った寂円が公暁そっくり(二役)というのも初対面で驚くだけでストーリーとはほぼ無関係ですし。それから道元の母の藤原伊子もちょっとだけ出てきましたが、実はこの女性が義仲と婚姻したとされる上記の基房の娘とされています。その後、伊子は源通親(土御門通親)の側室となり道元を産んだとされていますが、これには疑義も呈されているようです。また怨霊に悩まされる北条時頼が妖蝶の幻覚を見てましたが、『吾妻鏡』には妖蝶が大量発生したという記述がよくあるみたいなんですよね。安彦良和のマンガ『安東 ANTON』でもネタとして使われてました。ほんとかいなとも思うんですが。


 それでは本年もお世話になりました。また来年。



#11291 
バラージ 2022/12/27 12:12
鎌倉史追記 甘い生活

 『13人』最終回の続きです。あ、そういえば本郷和人氏が『13人』での政子の演説のおかしいところに、婦人公論.jpの連載でツッコんでました。
 えーと、まずは承久の乱の追記。後鳥羽方諸将のうち、最も奮戦した武将の1人である山田重忠は美濃源氏で、治承・寿永の乱(源平合戦)では源行家や木曽義仲に味方したため、頼朝が義仲を滅ぼした後は冷飯を食わされました。地理的にも京に近いことから後鳥羽方に参じたものと思われます。慈光寺本『承久記』によると三浦胤義と共に御所で最後の決戦をしたいと後鳥羽に言上するも、合戦に巻き込まれることを恐れた後鳥羽に門前払いされ、「大臆病の主上にたばかられたわ!」と大声で罵った後、幕府軍との決戦に望み討死しています。『草燃える』には登場してるようですね。佐々木広綱は『13人』にも出てきた佐々木4兄弟の長男定綱の嫡男です。佐々木氏は近江国を所領としていたことからやはり京との地理的な近さで在京御家人になったと思われ、牧氏の変で平賀朝雅を攻撃した武将の1人でもあります。敗戦後に捕らえられて斬首されてますが、映像作品には未登場。4兄弟の次男経高も後鳥羽方に参じて敗戦後は鷲尾に逃れ、泰時が功績を鑑みて恩赦を申請すると伝えたところかえってそれを恥として自害したとのこと。『13人』の他に『草燃える』『平清盛』に登場しています。また糟屋有久・有長・久季兄弟は比企能員の娘婿の有季の息子たちで、北陸道軍と戦って討死。映像作品には未登場です。
 乱に積極的に関わった公家たちにも重い処罰が下され、一条信能・中御門宗行・葉室光親・源有雅・高倉範茂ら後鳥羽側近の公卿は鎌倉への護送途中で処刑。院近臣の僧の尊長は戦場から逃亡し、1227年に潜伏先で捕らえられた際に自殺を図り、運ばれた六波羅で翌日に死去。しかし坊門忠信は姉妹である実朝の妻の西八条禅尼による助命嘆願で越後国への流罪となり、さらに配流途中で恩赦され帰京しています。一条信能と尊長は頼朝の妹婿だった能保の庶子で、前回鎌倉方に走ったと書いた甥の頼氏や同じく能保の庶子で三寅の側近かつ義時の娘婿となった実雅とそれぞれ一族の対応が分かれました(信能・尊長・実雅もそれぞれ母が違う)。一条氏は頼朝死後に源通親と対立して低迷し、後鳥羽・順徳の人脈につながって勢力を回復したとのこと。坊門忠信は父信清の姉妹である七条院殖子が後鳥羽を産み、後鳥羽の院近臣として出世。信清の娘(忠信の姉妹)の1人は後鳥羽の女房の坊門局、1人は順徳の女房の位子、1人は実朝の妻の西八条禅尼となりましたが、承久の乱によって運命は暗転しました。信能・尊長・忠信・信清・殖子・坊門局は『草燃える』に登場したようです。なお卿二位藤原兼子は、史実では実朝後継に推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽に却下された頃から遠ざけられ、また夫の大炊御門頼実が後鳥羽の挙兵に反対だったこともあって乱には関わっていません。1229年に頭部の腫瘍(脳腫瘍か?)で死去しましたが、痛みのあまりのたうち回ってうめき叫ぶという壮絶な死に方だったとのこと(上横手雅敬『鎌倉時代 その光と影』吉川弘文館)。
 祖父の後白河法皇のごとく責任を臣下に押し付けようとした後鳥羽上皇は隠岐へ、積極的に協力した息子の順徳上皇は佐渡へそれぞれ配流。順徳の兄で乱に関与しなかった土御門上皇も父が配流されたのだからと自ら希望して土佐に配流され(後に京に近い阿波に移される)、将軍候補だった雅成親王・頼仁親王も但馬と備前に流罪となり、順徳の子で践祚したまま即位してなかった懐成親王は廃位されています(九条廃帝、半帝、後廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)。土御門・順徳は『草燃える』には出てきたようですね。ダメ君主だった祖父の後白河と違い、文武に渡る才の持ち主で政治にも精力的に取り組んだ後鳥羽ですが、曲がりなりにも京の畳の上(?)で死ねた後白河に対して、臣下によって隠岐に流罪にされるという前代未聞の悲惨な最期を遂げました。もちろん後鳥羽が失敗したからですが、後白河だって清盛・義仲と対立して2度に渡って幽閉され、義経に脅されて頼朝追悼宣旨を与えたことを「天魔の所為」と頼朝に言い訳して激怒され、「日本国第一の大天狗」と罵られるなどそれ以上の失敗をしてるとも言え、このあたり才能や努力だけでなく世の中には運というのもあるんだなあと思わされます。なお『13人』では配流される後鳥羽のところに文覚の幽霊だか幻覚だかが現れてましたね。これ、元ネタは『平家物語』でして、後鳥羽の政治を批判したため隠岐に流された文覚が後鳥羽を呪い、怨霊となって承久の乱を起こし後鳥羽を隠岐に呼び寄せるという筋立てになっているようです(上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』塙新書)。でも『13人』じゃ文覚と後鳥羽の関わりがほとんど描かれなかったから、観てるほうもなんで文覚がでてきたのかよくわかんなかったのでは? 猿之助がいつもの怪演してるってだけで(笑)。ちなみに史実では文覚が流されたのは対馬で、配流途中に九州で客死しています。同時代人である慈円の『愚管抄』には、文覚は修行は十分に積んでいたが学はない上人だと書かれているとのこと。
 最後に主人公義時ですが、合戦が始まると戦場にはいないため史実ではますます存在感が希薄に。そんな中、『吾妻鏡』に印象的なエピソードが1つあります。まだ乱の帰趨が明らかでない6月8日の午後8時頃、義時邸に雷が落ち人夫1人が感電死しました。義時は大いに恐れ、大江広元を呼んで「兵を上洛させて朝廷を討とうとしたら、このような怪異が起きた。これは運命の縮まる前兆ではないでしょうか?」と相談したところ、広元は「これはむしろ吉兆です。頼朝公が藤原泰衡を討つため奥州に出陣した時も落雷がありました」と言ったとのこと。んー、なんか義時、微妙にかっこ良くないなあ(笑)。そんなちょっと情けない義時の姿が、義時子孫の政権下で編纂された『吾妻鏡』に記されてるのは不思議ですが、それだけにおそらく事実なんでしょう。もちろんこんなカッコ悪い義時は『13人』ばかりでなく、『草燃える』でも描かれていません(笑)。
 追記と言いつつ、また長くなっちゃったな。

 さて乱後のエピソードは、もうこれで終わりなんだから好き放題にやっちゃえということか、はたまた物語としての完結性優先ということなのか、かなり自由奔放というか史実無視みたいなハチャメチャな展開になってしまいました。
 まず泰時と時房がいつの間にか鎌倉に帰ってきちゃってますが、史実では2人が鎌倉に帰還するのは義時の死後です。京都占領後に泰時・時房は戦後処理のため京に常駐し、これが六波羅探題の始まり。承久の乱での出陣が義時との今生の別れとなったわけですが、もちろんその時は3人ともそんなことになるとは思っていなかったことでしょう。ドラマはまぁ最終回としての話の収まりのほうを優先したんでしょうね。前倒しで御成敗式目まで出てきちゃったし。なお泰時は乱後に後鳥羽方の敗残兵をかくまった僧の明恵と親交を持ち、その思想に深い影響を受けたと言われます。
 それから牧の方とその娘(平賀朝雅の元妻。『13人』では「きく」)が再登場して京で泰時・時房と再会してましたが、これもフィクション。もちろん実際に会った可能性もないわけではありませんが、そのような記録は残っていません。なお前にも書いた通り、娘が再婚した公家の藤原国通は実朝の右大臣拝賀式に出席しており幕府とは友好関係を持っているので、牧の方と幕府の仲もある程度修復されていたのではないかとする説もあるようです。なお大江親広の妻となっていた義時と姫の前(『13人』では比奈)の娘の竹殿も乱後に公家の土御門定通と再婚しています。
 また廃位された仲恭天皇の復位を狙う動きがあるとして、義時が仲恭天皇を暗殺しようとする描写がありましたが、これもほぼほぼフィクション。どうやら母方の縁戚に当たる慈円が幕府に復位を願う願文を納めてるようですが、幕府は特に反応していないようでそれ以上の展開はなかったと思われます。
 そして禍々しい義時像を彫った運慶が捕らえられて殺されそうになってたのも、これまた全くのフィクション。義時より数ヶ月早く亡くなった運慶は晩年は専ら鎌倉で活動してたようですが、処罰されそうになったという記録はおろか伝承や俗説もなかったはず。権力の亡者となった義時を批判する役回りなんでしょうが、演じてる相島一之が三谷幸喜とは学生時代からの付き合いだから見せ場を作ったのかな?

 最後に1224年の義時の死。『吾妻鏡』では病死とされてますが、『13人』では伊賀の方(ドラマでは「のえ」)による毒殺説を採用してましたね。それにプラスして義時死後の伊賀氏の変の要素も前倒しで入れられ、なぜか伊賀の方が義時に追放されちゃうという史実無視の超展開になっちゃってました。まず毒殺説の元ネタですが、これは前記の尊長です。尊長は承久の乱で後鳥羽の側近となり、敗戦後は逃げ回った末に6年後(義時の死から3年後)の1227年に六波羅探題に捕らえられたんですが、藤原定家の日記『明月記』によると六波羅の捕手に捕まりそうになった尊長は自害を図るも死にきれず、重傷を負ったまま捕らえられて六波羅に連行されました。連行された尊長は探題の北条時氏(泰時の長子)・時盛(時房の長子)の前で「早く首を切れ。さもなくば義時の妻が義時に飲ませた薬を私に飲ませて早く殺せ」と言って驚かせた上、問い詰める人々に「今にも死ぬ自分が嘘など言うか」と答えたとのこと。この事実と『百錬抄』に義時は急死したとあること、義時死後に起こった伊賀氏の変において伊賀の方らが三寅に代わる将軍として擁立しようとしていたとされる娘婿の一条実雅が尊長の異母弟だったことなどから、義時の死は妻の伊賀の方による毒殺の可能性もあるとする見方があるようです。
 しかし僕の読んだ限りでは、近年は毒殺説を支持する見方はほとんどないように見受けられます。永井晋・本郷和人・坂井孝一・呉座勇一・山本みなみの各氏はいずれも『吾妻鏡』の病死説を取っており、毒殺説を支持していません。山本氏が比較的詳細に分析しており、『吾妻鏡』では脚気を長く患った上に酷暑による暑気あたりで下痢や嘔吐を伴う体調不良が重なって急死したとあるとのこと。くわしくは6月12日朝に体調を崩して危篤状態となり、日付が変わる13日になると臨終も近い状態となって、午前4時頃に3男重時が使者となって三寅に出家の許しをもらい、午前10時頃(または午前8時頃)に死去したとあります。また新史料としては、中世鎌倉で形成された聖教資料『湛睿説草』の中にある義時の次男朝時が閏7月2日に父の四十九日仏事を行った際に仏前で読みあげられた言葉を記した「慈父四十九日表白」に、義時は夏の初め頃から体に痛みを感じ、床に臥しがちだったが、秋(素秋)の末に亡くなったとあるとのこと。義時が死んだのを秋とするのは事実に合わず、なぜそう書いてあるのかは不明ですが、「体に痛みを感じ床に臥しがちだった」というのは『吾妻鏡』と符合しており、義時の死は病死と考えるのが妥当としています。なお本郷氏は江戸時代以前の日本の歴史には毒殺というものがほとんどないということも指摘してましたね。
 また山本氏は、尊長と実雅は兄弟といっても30歳近く歳の離れた異母兄弟で、しかも承久の乱では後鳥羽の側近尊長と義時の娘婿実雅は敵味方に分かれており、さらに伊賀の方の兄弟の伊賀光季は後鳥羽方に討たれているため後鳥羽方の尊長は伊賀の方にとって兄弟を殺した敵の一味であり、手を結ぶとは思えない。また逃亡潜伏生活を続ける尊長と、鎌倉にいる伊賀の方や実雅がどうやって連絡を取るのかも疑問である。尊長は捕まる時に捕手方の武士2人に傷を負わせ、自害し損なって重傷で担ぎ込まれており、どうやっても死は免れない。そのためどうせ死ぬと思って、北条氏にダメージを与えてやろうと適当な嘘を言ったのだろうとしており、支持できる妥当な見解と思われます。あるいは単純な嘘ではなく、逃亡潜伏中にどこかで聞きかじった根も葉もない噂話だったのかもしれません。義時が急死ということからそんな噂が流れたのかも。
 それから「慈父四十九日表白」には、長く連れ添った妻(伊賀の方)は先立たれた恨みを抱き、子息たちは片親を失った悲しみの涙に溺れた、と記されてるとのこと。義時が妻子たちから慕われてた様子がうかがえますが、朝時は伊賀の方とは血のつながりがなく関係性が薄いにも関わらずそう書かれていることからも、伊賀の方と義時の仲は睦まじいものだったと思われます。個人的にその傍証と思われるのが義時の晩年になっても伊賀の方が子供を産んでいること。伊賀の方が1205年に政村を、1208年に実義を、年月不明ですが一条実雅の妻となった娘を、それぞれ産んでいることは以前触れましたが、『吾妻鏡』によると承久の乱後の1221年11月に娘を、そのわずか1年後の1222年12月に息子をそれぞれ出産しています。この時、義時は50代末から60歳という年齢。その歳で若い妻に年子を産ませてるんだから絶倫と言うべきかなんというか。ちなみに実雅に嫁いだ娘も1222年2月に娘を出産しており、母と娘がダブル妊娠状態だったというんだからなんとも。そう考えるとやっぱり義時と伊賀の方は晩年までラブラブだったんではないかと思われます。そもそも伊賀の方とは20年も連れ添った伴侶であり、姫の前(『13人』では比奈)とは10年程度、妾だったと思われる阿波局(『13人』では八重)が仮に妻だったとしてもやはり10年程度と考えると、義時最愛の人はやはり伊賀の方だったんではないでしょうか。昔の妻より今の妻ですし。娘や息子が産まれるわ孫娘が産まれるわで、義時はわりと満ち足りた晩年を送ったんではないですかね。
 なお当時の高齢出産は母体に生命の危険があったことを考えると、伊賀の方は最後の息子を産んだ時でもせいぜい30代後半だったと思われます。それでも危険だし、年子だったことも考えると30代半ばだったかも。だとすると最初の政村と最後の息子は17歳差ですから、政村を産んだ時は確実に10代だったということに。政村が産まれた時、義時は43歳なんでなかなかの年の差カップルだったんだな。まあ当時は普通だったのかもしれないけど。実雅の妻が娘を産んだのも確実に10代ですね。政村より1歳年上でも18歳だもんな。
 なお『吾妻鏡』には義時は倒れた時から臨終まで南無阿弥陀仏を唱え続けたとありますが、さすがに危篤状態になったら念仏は唱えられないんじゃないかなあ。ま、この辺は義時が極楽往生したということを表現した潤色なんでしょう。とはいえ愛する妻子に囲まれて見送られ、また死後のゴタゴタは見ないですんだんだから、幸せな死に方だったと言えるのも間違いないでしょう。

 さて、1年に渡る大河ドラマ鎌倉史もこれでおしまいですが、ドラマ全体の総論感想みたいなのはまたも次回送りに。今年のうちに書くと思いますが、ま、別に長いもんじゃないし、ちゃちゃっと軽く書いちゃいます。あと伊賀氏の変など義時死後の鎌倉史にも追々触れたい。てなわけでドラマの後の鎌倉史延長戦についてもたぶん来年になってからもう少しだけ書き続けさせていただきます。



#11290 
バラージ 2022/12/23 23:46
今週の鎌倉史 決戦天下

 『13人』最終回、ひょっとして承久の乱でほぼ終わりか?と危惧してたら、ちゃんと一応は義時の死までやりましたね。とはいえ詰め込みすぎで最終回1時間スペシャルでも時間が足りなかった感じだけど。

 さて、いよいよ承久の乱本編ですが、そういやこのドラマ、合戦シーンがショボいということを忘れてた(笑)。しかも前半20分で終わりなもんだから、ダイジェスト感が強いというか、あれじゃ三浦胤義や藤原秀康がその後どうなったかもわかんないよなあ。てなわけでやはり大まかな流れの説明を。なお承久の乱前後の状況については公家の日記のような一次史料が乏しいとのことで、慈円が後鳥羽上皇の挙兵を止めるため書いたとの説もある『愚管抄』も乱の直前で終わっています。そのため後世の編纂史料である『吾妻鏡』や軍記物語の『承久記』に頼らざるを得ないようです。

 政子の大演説で御家人たちの士気が上がったのを見た幕府首脳陣は早速義時邸にて軍議を開きます。参加者は北条義時・泰時・時房・大江広元・三浦義村ら。東海道の足柄・箱根の関を固めて迎撃する防衛策が優勢でしたが、1人強硬に反対したのが広元でした(そういや『13人』では失明したはずの目がまた見えるようになってたな。なんで?)。いたずらに時を過ごせばその間に心変わりする御家人も出てくる。運を天に任せて京へ出撃するべきだという主張です。官宣旨は広くばらまかれており、追討の対象が義時だけだということはやがて知れ渡ります。そうなれば後鳥羽方に寝返る御家人が出てくる恐れもあると考えたんでしょう。また自分の嫡子の親広がすでに後鳥羽方に寝返っていたため、あえて強硬論を吐いたということもあったかもしれません。進撃か防衛か結論が出なかったため、義時は鎌倉殿代行の政子に二案を提示し意見を求めたところ、政子は広元の進撃案を支持して武蔵国の武士が集まり次第出撃するべきだと述べたため、義時は東海道・東山道の武士に飛脚を送り出陣を命じました。ところが京を脱出した公家の一条頼氏(高能の子。能保と頼朝妹の孫)が21日に鎌倉へ逃れてきて西園寺公経・実氏父子の拘禁と伊賀光季の自害の様子を告げると、幕府は再び消極論に傾きます。これに危機感を覚えた広元は、ぐずぐずしているから迷いが生まれてしまった。もはや武蔵の御家人を待たず泰時1人だけでも出陣するべきだ。そうすれば武士たちも付いてくる、との意見を述べ、政子が年老いて寝込んでいた三善康信にも意見を求めると同意見だったためついに義時も決断し、翌22日に泰時が嫡子時氏、弟有時・実義らと共にわずか18騎で出陣しています。次いで時房、足利義氏、三浦義村・泰村父子らが出陣し、北条朝時は北陸道の大将として出陣(『13人』では朝時も泰時らと同じ東海道軍にいましたが、実際には第2戦線の北陸道軍の大将となっています)。義時ら宿老連中は老齢のためか鎌倉に留まっています。あるいは義時は晩年は脚気に苦しんでいたとあるのでそのためかもしれません。
 ところで不思議なのはここまでの作戦決定の過程で義時の影が非常に薄いこと。義時ばかりでなく武士たちの影が皆薄く、文官の広元・康信と女性の政子が強硬論を吐いて作戦を主導しているように見えます。広元らはまだしも女性の政子が合戦の判断をするのは不自然に思えるんですが、『吾妻鏡』がなぜそのような描き方をしたのかはよくわかりません。もちろん実際にそうだった可能性もなくはないとも思うんですがどうもねえ。泰時がたったの18騎で出陣したという話も怪しい。泰時の武威を誇張した『吾妻鏡』のヨイショ記事っぽいんだよなあ。ちなみに慈光寺本『承久記』では義時は果敢に軍議で大軍の上洛を決定したとあるとのことですが、こちらはこちらでいかにも軍記物語的。兵力不足の場合は重時(泰時・朝時の弟)を大将とする援軍を送り、さらに義時が10万騎を率いて出陣する。敗れたら東国に下り足柄・清見関に堀を設け、鎌倉の由比ヶ浜で決戦を挑む。そこでも敗れたら鎌倉に火を放ち陸奥に下って抗戦するとあるそうですが、この辺もいかにも軍記物語っぽいですね。

 22日~25日に出陣した幕府軍は雪だるま式に膨れ上がり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍合わせて19万の大軍となったとあります。明らかに盛った数字でしょうが大軍になったのは事実なんでしょう。26日には後鳥羽が美濃国に派遣していた藤原秀澄(秀康の弟)から関東の武士が上洛しようとしているとの報が届き、幕府の内部分裂を信じて疑わなかった後鳥羽は予想外の展開に仰天します。29日には時房・泰時が大軍を率いて上洛しているとの続報が入り、6月1日には鎌倉で捕まり追い返された押松が勧誘作戦の失敗を報告。3日には幕府の東海道軍が遠江国に到着したとの知らせを受け、後鳥羽は追討軍を派遣します。慈光寺本『承久記』によると大将は秀康で、軍勢は1万9000騎とありますから幕府軍の10分の1に過ぎず、勝負になりません。後鳥羽方の主力だった在京御家人は三浦胤義のように東国出身の傍流なので動員兵力は東国の嫡流である兄義村よりも劣りますし、西国出身で後鳥羽に取り立てられた北面武士の秀康などはもともと小規模な武士でした。
 それでも朝廷軍は美濃・尾張国境の木曽川・墨俣川を防衛線として陣を張ります。5日には幕府の東海道軍が尾張国一宮に到着し、軍議を行い軍勢を配置して、夜には東山道軍が朝廷軍を打ち破りました。朝廷軍の大内惟信は敗戦の中で逃亡してそのまま行方をくらまし、秀康・胤義・佐々木広綱らは敗走。踏みとどまって戦った山田重忠も杭瀬川の防衛線を突破されて退却しています。慈光寺本『承久記』は秀澄が少ない兵力を12か所の防衛柵に分散配置したことや、軍勢をまとめ尾張国を攻撃するという重忠の献策を秀澄が退けて墨俣で迎撃する消極策を取ったことが後鳥羽方の敗因としています。しかし呉座勇一氏は圧倒的な兵力差がある以上、重忠の積極策は非現実的で文学的脚色と見るべきとしています(『頼朝と義時』講談社現代新書)。仮に事実だったとしてもやはり敗因は作戦選択ではなく兵力差でしょう。本当に10倍の戦力差があったならどんな作戦を取ったところで敗戦は免れなかったはずです。
 逃亡した大内惟信は惟義の子で、惟義は源氏一門筆頭の平賀義信の長子であり、平賀朝雅の兄にあたります。牧氏の変で弟の朝雅が討たれた後は惟義が伊勢・伊賀の守護を引き継ぎ、摂津・丹波・越前・美濃の守護も歴任して西国守護の統括者的存在となり、また義時の6男実義が元服した際には理髪役を務めました。息子の惟信も源仲章や源頼茂らと共に幕府の政所執事になるなど鎌倉と京を往復して活動しています。実朝暗殺後まもなく惟義は死去したと思われ、惟信が後を継いでいます。惟義・惟信父子は源氏一門を粛清する北条氏と潜在的に敵対しており、惟義が存命なら後鳥羽は彼を総大将に起用したのではないかとする見方もありますが(『頼朝と義時』)、この時点で惟信が乱から離脱しているところを見ると西国にいたという行き掛かり上の理由で後鳥羽方に付いただけで、三浦胤義のような積極的な動機はなかったように思われます。『明月記』によると惟信は1230年に比叡山の日吉社で法師となって潜んでいたところを六波羅探題によって捕らえられ、慈光寺本『承久記』によると西国に流されたとあるそうです。殺されなかったのはさすがに乱から10年も経っていたからでしょうか。逃げてみるもんですね。ちなみに惟義・惟信ともに映像作品には未登場です。
 7日には幕府軍の三浦義村が北陸道軍の大将が上洛する前に軍を京に進めるべきだと進言。8日には朝時ら北陸道軍が、越中国で朝廷軍を打ち破っています。一方、朝廷では8日に帰京した秀康らが敗戦を報告して朝廷は騒然となり、公家の坊門忠信や高倉範茂らまでも戦場に投入することを決定。次いで後鳥羽は比叡山延暦寺の助力を乞おうと、土御門・順徳上皇や雅成・頼仁親王、公家連中に幼い仲恭天皇までも引き連れて比叡山に上るも、翌9日には延暦寺から衆徒の微力では東国武士を防げないと断られ、10日に帰京。同日には拘束されていた西園寺公経・実氏父子の謹慎を解いており、親幕派の公経を通じて幕府との和平交渉を行おうと考え始めたと思われます。
 12日に後鳥羽は軍勢を宇治・瀬田などに派遣し、幕府軍と宇治・瀬田で合戦に及びます。宇治・瀬田の合戦については呉座氏の現代ビジネス連載コラムにわりと詳細に記されてるんで割愛。ただし呉座氏は『頼朝と義時』の中では、『吾妻鏡』にある泰時の活躍ぶりは後世に創作された“泰時神話”の色彩が強いと指摘しています。個人的には、泰時が渡河を強行した理由は、朝時の率いる北陸道軍が京に来る前に決着を付けたかったんではないかと思います。朝時に手柄をさらわれたくなかったんではないかなあ。泰時の舅の義村の7日の進言もそれを背景としたものなんではないでしょうか。結局、15日に入京した泰時らに対して、朝時の北陸道軍は諸説あるものの17日から24日に入京したようです。

 最後に後鳥羽方諸将の最期について記しておきましょう(参考:坂井孝一『承久の乱』中公新書)。三浦胤義は慈光寺本『承久記』によると、兄義村に自分の思いをぶつけ最後は兄の手にかかって死のうと東寺に立てこもりました。義村が入京してくるのを見ると兄に向って大声で叫び、後鳥羽に味方したのは兄弟不仲だったからだが、和田合戦で伯父(実際には従兄)の和田義盛を滅ぼすような、どこまでも義時の味方である兄を味方に誘う書状を送ったことを後悔していると告げましたが、義村は馬鹿者に関わり合っても無意味だと考えて別方面に転進してしまったため、胤義は残った三浦軍と戦った後に自害したとのこと。ロマンチスト胤義と、常に勝ち組に付いてきたリアリスト義村の対比が鮮やかですが、個人的には愛した女のために死地に赴いたロマンチスト胤義のほうに惹かれますね。もっともさすがの義村もよほどバツが悪かったか、もしくは弟が討たれるのを見たくなかったのかもしれないけど。
 藤原秀康・秀澄兄弟は逃亡し、10月に捕らえられて処刑されています。ただし次弟の秀能はどういう理由か、出家して許され後鳥羽が配流された隠岐に渡っているとのこと。秀康は『13人』が映像作品初登場。一方、『草燃える』にはなぜか秀能だけが登場しているようです。大江親広は宇治の合戦後に逢坂関の東の関寺付近で行方知れずとなり、そこで死んだとも、所領の出羽国寒河江荘に下って死んだとも言われるとのこと。和田義盛の摘孫で和田合戦での敗北後に京に逃れた和田朝盛も後鳥羽方に参加してましたが、敗戦後に再び逃亡し、1227年に見つかって捕らえられています。その後の処遇は不明。朝盛は『草燃える』に登場しています。

 やはりまた長くなってしまった。乱後から義時にの死までの話は次回に続きます。


>前回の追記
 押松と源頼茂は『13人』が映像作品初登場。源頼政・仲綱は多くの作品に登場してますが、宗綱や広綱は未登場。有綱は映画『富士に立つ若武者』と大河『新・平家物語』に、頼兼は大河『義経』に登場しているようです。『富士に立つ若武者』はこないだ観たけど有綱がどこに出てたか全然わからんなあ。たぶん頼朝に決起を促す武士たちの中の1人だったと思われます。禅暁も映像作品には登場していません。



#11289 
バラージ 2022/12/18 02:50
鎌倉史その2 宣戦布告

 前回の話の続き。
 源頼茂の乱によって大内裏の多くが焼失したことは前回書きましたが、王権の象徴である大内裏の焼失に後鳥羽上皇は衝撃を受けたようです。そのためかその後1ヶ月半ほど寝込んでいるとのこと。しかしまもなく立ち直った後鳥羽は大内裏の再建に向けて動き出します。実は当時、大内裏はすでに日常的には使われていなかったので、無理に再建する必要はなかったらしいんですが、後鳥羽は再建に強くこだわったようです。1219年末から再建計画は本格化し、翌1220年には造内裏役という臨時課税が行われました。『13人』では日本全国の武士に課税すると言ってましたが、史実では日本全国の荘園・国衙領に課税されており、武士だけではなく公家・寺社を含めたすべての荘園領主に税が課せられたようです。しかしこの大増税には各層から猛反発が起こり、公家・武士・寺社を問わず納税拒否が続出(あれ? どこかで聞いたような話だ)。幕府も再建協力には消極的だったようで、そもそも大内裏焼失の原因となった頼茂の謀反もさらにその原因となった実朝暗殺も幕府に責任の一端があったとも言えるため、後鳥羽は幕府に対する不満をさらに高めたと推測されています。

 そして1221年4月20日に順徳天皇が懐成親王に譲位(仲恭天皇)。行動の自由な上皇となって父である後鳥羽の討幕に協力するためと考えられています。同月下旬には後鳥羽が城南寺の仏事守護(慈光寺本『承久記』による。古活字本『承久記』では流鏑馬)を名目に畿内近国の武士を招集し、28日には1000騎が後鳥羽の院御所高陽院に集結。5月14日には京都守護の大江親広と伊賀光季に後鳥羽が参陣を要請し、素直に応じた親広は古活字本『承久記』によると後鳥羽に朕に付くか義時に付くかと迫られ、後鳥羽に従ったとのこと。光季は親幕派公卿の西園寺公経より警告を受けていたため仮病を使い辞退し、後鳥羽は次いで公経・実氏親子を拘禁します。翌15日に後鳥羽は光季邸に大内惟信・三浦胤義・佐々木広綱ら800騎の軍勢を差し向け、わずか30騎程度で多勢に無勢の光季は奮戦するも屋敷に火を放って自害し、ここに承久の乱が勃発します。
 大江親広は広元の嫡男で、義時の娘の竹殿(母は姫の前〈『13人』では比奈〉)を妻としていました。広元は老齢によるものか健康状態によるのか1208年頃から徐々に親広への家督継承を進めていたものと思われ、親広は広元・義時と共に病弱な実朝の代理をしばしば務めており、政所別当も義時・時房とともに常任されてました。実朝暗殺後の京都守護に伊賀光季(義時の妻である伊賀の方〈『13人』では「のえ」〉の兄)とともに任じられたのも、そのような重職にあったことや義時との関係性によるものと思われます。そんな人物が後鳥羽方に付いたのだから、それを19日に知った舅の義時や父の広元の衝撃はかなり大きかったものと思われます。逆に幕府に殉じた光季およびその実家伊賀氏の株は『13人』での描写とは逆に大いに上がったことでしょう。まあ伊賀の方が悲しんだことは事実でしょうが、あんなふうに義時を恨むわけがありません。ちなみに親広は『草燃える』にも出てこなかったようです。

 続いて同日に後鳥羽は義時追討の官宣旨を日本全国の守護・地頭に向けて発します。この官宣旨は現物が実在しているとのこと。さらに『13人』でも描かれてましたが、『承久記』諸本によると後鳥羽は7通の院宣を東国の有力御家人に送ったとあり、特に慈光寺本『承久記』は院宣の文面も引用して、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村の8人に送ったとあるそうです。そこから長村祥知氏は後鳥羽が現存する官宣旨の他に院宣も発給し、全国の不特定多数の武士を官宣旨で、東国の有力御家人を院宣で動員するという二段構えの戦略を立てたとする推測をしているとのこと。それに対して西田知広氏は同時代史料で後鳥羽が義時追討の院宣を出したとするものはなく、また官宣旨と院宣の両方が出されたとする史料が軍記物語を含めても存在しない(慈光寺本『承久記』は院宣のみを記し、実在する官宣旨に触れていない)ことから、慈光寺本『承久記』は実在する官宣旨をもとに院宣を創作したとしており、呉座勇一氏もそれを支持しているようです(呉座『頼朝と義時』講談社現代新書)。
 光季と公経が15日にそれぞれ送った飛脚が19日に鎌倉に到着し、幕府は後鳥羽の挙兵を知ることになります。幕府や御家人にとってはまさに青天の霹靂だったことでしょう。同日に義時追討の官宣旨を帯びて鎌倉に潜入した藤原秀康の従者の押松丸を捕らえることができたのはそのおかげでした。また三浦胤義が兄義村に送った「義時を討てば恩賞は望みのままだ」との後鳥羽の言葉を伝えた使者も同日に義村邸に到着してますが、義村はその使者を追い返し、胤義の書状を義時に提出しています。慈光寺本『承久記』によると、秀康に後鳥羽へ味方するよう誘われた胤義は「兄に“兄弟2人で日本を支配しよう”と持ち掛ければ、たやすく義時を討てる」と言ったとあり、また古活字本『承久記』では「日本国の惣追捕使に任命すると約束すれば兄は必ず寝返る」と言ったとあるとのことですが、義村は牧氏の変や和田合戦や実朝暗殺と同様に義時・政子側に付いており、結局これは胤義の希望的観測に過ぎなかったようです。
 こうして政子邸に集められた御家人たちを前にしての政子の大演説となるわけですが、ドラマではかなりアレンジしつつも、まあ大筋ではあの通りだったかと。ただし実際には義時については何も触れておらず、もっぱら頼朝公の御恩を強調しています。また討ち取るべき敵将として秀康と胤義を名指ししており、2人が特に首魁と考えられていたようです。なお『吾妻鏡』では政子は御簾の中にいたまま安達景盛に代読させてますが、『承久記』では政子自身が演説しており、どう考えても後者の方が絵になるのでドラマや漫画ではもっぱら政子自身が大演説をしています。ま、そりゃ当然ですな。

 最後に近年の承久の乱における新説について。従来、後鳥羽の挙兵の目的は討幕とされてきましたが、実はここまで書いた通り後鳥羽の官宣旨や院宣には義時の追討とのみ記され幕府の追討とされていないことから、長村祥知氏が後鳥羽の目的はあくまで義時の追討であって討幕ではなかったとの説を唱えており、それを支持する意見もある一方でそれに対する反論もあって、意見が二分しているようです。僕が読んだ限りでは、坂井孝一氏・永井晋氏はどちらかといえば義時追討説を支持しており、本郷和人氏・鈴木由美氏・呉座勇一氏・山本みなみ氏はどちらかといえば討幕説を支持しています。僕自身は両者を読み比べてみて、やはり旧来通りの討幕説のほうに説得力を感じますね。



#11288 
バラージ 2022/12/15 19:33
今週の鎌倉史 推し、燃ゆ

 平知康が押松になってるってんなアホな(笑)。それとひょっとして最終回が承久の乱で終わり? それじゃ完全に『草燃える』の焼き直しじゃん。それとも何かまだ隠し球があるのか?

 さて、今週は承久の乱への序曲からその勃発まで。まず冒頭で起こっていた源頼茂の謀反事件について。
 頼茂は以仁王とともに挙兵した摂津源氏の源頼政の孫に当たります。頼政の嫡男仲綱と嫡孫宗綱は頼政とともに自害しましたが、頼政の三男広綱と仲綱の次男有綱は当時、頼政・仲綱が知行国主を歴任していた伊豆国におり、そこで挙兵した頼朝軍に参加しています。有綱については以前も何度か触れてますが、頼朝によって義経の与力とされさらには義経の婿となりますが、義経が頼朝と反目し謀反を起こすとそれに従ったため畿内を逃亡中に捕らえられて討たれています。広綱も頼朝に重用され一ノ谷合戦後には範頼・平賀義信と並んで頼朝の推挙により駿河守となりましたが、1190年の頼朝上洛時に突如逐電。翌年、出家して上醍醐にいたことがわかりましたが、逐電の理由は頼朝の右大将拝賀の際に供奉人に選ばれなかったことと駿河守になりながら国務を行えなかったことで面目を失ったからだとのこと。頼朝はいずれも勝手な思い込みでまことに奇っ怪だと怒ったそうです。
 頼政の次男頼兼については以仁王挙兵時の動向は不明ですが、木曽義仲入京後に行われた京中守護軍の編成において頼政の子であることから大内裏の警護を命じられているとのこと。摂津源氏は代々、大内裏を警護する大内守護に任じられていたことによるものでしょう。義仲が後白河法皇と対立した後は、頼朝に接近したようで以後は大内守護と在京御家人を兼ね、京と鎌倉を往復して朝廷と幕府に両属する立場となって、頼朝にも重用されています。最終所見は1205年のようで、この頼兼の嫡男が頼茂となります。
 頼茂は父同様に大内守護と在京御家人を兼ねる立場となり、やはり京と鎌倉を往復して活動しています。1213年の和田合戦の時は鎌倉にいたようで幕府側として参戦しており、また1216年には同じく院近臣と在京御家人を兼ねていた源仲章などと共に増員された政所別当の1人となっており、1219年の実朝右大臣拝賀式にも参列して実朝暗殺事件に遭遇しています。
 その頼茂が、九条三寅が次期鎌倉殿として下向中の1219年7月13日に、後鳥羽上皇の命を受けた在京武士に討たれるという事件が起こりました。『愚管抄』『吾妻鏡』『仁和寺日次記』『六代勝事記』『百錬抄』『皇帝年代記』などを総合すると、頼茂は実朝暗殺後は源氏名門の自分が次の将軍になるべきだと考えていたが、摂関家の三寅が後継将軍に決まったことから謀反の心を起こし、在京武士たちがそれを後鳥羽に訴え、後鳥羽は頼茂を召喚したが応じなかったため追討の院宣が発せられた。在京武士たちが頼茂のいる大内裏に押し寄せ、頼茂は合戦の末に立てこもった仁寿殿に火を放ち自害。その火が大内裏に延焼し、ほぼ全焼して累代の宝物も失われてしまったとのこと(坂井孝一『承久の乱』中公新書、山本みなみ『史伝 北条義時』小学館)。
 しかし、いくら名門とはいえ河内源氏の頼朝とは血筋の遠い頼茂が実朝後継の将軍位を望むとは思えず、また望んだところで幕府御家人の支持が無ければ到底不可能な話で、不自然の感は免れません。そのため一昔前は後鳥羽の討幕の意図を知ったことから口封じのために消されたなんていう説もありましたが、実際に後鳥羽が挙兵するのは2年も後の話で、根拠のある説でもないため現在ではあまり省みられていません。そのため一周回って現在は諸書の通り頼茂が将軍位を狙ったという説を坂井氏や呉座勇一氏(『頼朝と義時』講談社現代新書)などは支持してますが、個人的にはやはり前記の理由で納得しがたい。
 それに対して山本氏は、『愚管抄』に(前回も取り上げた)藤原忠綱と頼茂の間で怪しい共謀があったが不問に付されて、忠綱が鎌倉へ使者として下されたとあり、そこで忠綱が九条基家を次期将軍にしようと運動していたともあることに着目しています。忠綱は頼茂討伐の翌月に後鳥羽の不興を買って失脚していますが、その忠綱の赦免を申請していたのが卿二位(藤原兼子)でした。そこから、もともと卿二位が実朝後継に推していた頼仁親王が後鳥羽に拒絶され、卿二位や忠綱が1218年に順徳天皇の後継をめぐって対立していた政敵である西園寺公経の外孫三寅が実朝後継の最有力候補となったため、卿二位らが何らかの妨害を企て、それが発覚したのが頼茂謀反と忠綱失脚の真相だとする佐々木紀一氏の推測を紹介しています。つまり頼茂謀反は承久の乱にいたる公武対立ではなく、後鳥羽院政下での寵臣同士の権力抗争の1つという捉え方で、個人的にはこちらのほうがはるかに納得できますね。『吾妻鏡』には頼茂が討たれた理由を叡慮に背いたためとしか記されておらず、幕府には預かり知らないところで起こった事件だったんではないでしょうか。なお三寅下向に尽力したと思われる慈円は『愚管抄』で忠綱や卿二位に辛辣な批判を浴びせています。

 また『吾妻鏡』には記されておらず、そのためか『13人』でも描かれていませんでしたが、1220年には幕府によって頼家最後の男子禅暁が殺されています。禅暁は母が一品房昌寛の娘で栄実の同母弟ですが、出家して仁和寺に入室していました。時期は不明ですが兄栄実が出家した1213年よりは後でしょう。なお仁和寺は頼朝の庶子貞暁が1192年に入室した寺ですが、貞暁はその後1208年に高野山に移っています。やがて1219年に実朝が暗殺され、その後継将軍として親王を下してもらう交渉のために上洛した二階堂行光が、閏2月5日に禅暁を仁和寺より連れ出し京を出立したと『光台院御室伝』にあるとのこと。その後のくわしい経緯は不明ですが、1年2ヶ月後の1220年4月14日に京の東山で誅殺されたと『仁和寺日次記』にあるそうです。実朝を殺した公暁に荷担したとの嫌疑によるとのこと。
 しかしどう考えても冤罪と言ってよく、幕府側の疑心暗鬼によるものと考えざるを得ません。公暁が鎌倉に呼び寄せられていることから考えても、おそらく義時や政子はもともとは頼家の遺児たちをそれほど警戒していなかったと思われます。そんな彼らにとって公暁が自分たちを殺したいほどまでに恨んでいたこと、特に義時にとっては自分を殺そうとしたことに強い衝撃を受けたと思われます。そこから残る頼家遺児の禅暁にも警戒が及び、また頼朝との血のつながりが薄い三寅の後継に反感を持つ御家人が禅暁を担ぎ出すような危険性をも考えて、強引に誅殺に持っていったんではないでしょうか。
 この禅暁誅殺が三浦胤義を京の側に押しやることになります(『13人』では陰謀を企む義村が胤義を京に送り込んでいたが、これは全くオリジナルのフィクション)。『承久記』諸本のうち最も成立が古いとされる慈光寺本『承久記』によると、京に上って検非違使になっていた胤義は、後鳥羽上皇に仕えるよう口説きに来た藤原秀康からなぜ鎌倉を離れ京で朝廷に奉公してるのかと聞かれ、自分の妻は一品房昌寛の娘で故頼家公の妻となり若君を産んだが、頼家公は北条時政に殺され、さらに若君も義時に殺されてしまった。毎日涙に暮れる妻のために京に上って院に仕え、鎌倉に一矢報いて妻の心を慰めたいと思ったと述べているとのこと。また前田家本『承久記』では、頼朝・頼家・実朝の三代将軍亡き後は鎌倉に主として仰ぐ人がいなくなったからだと述べているそうです。ちなみに『草燃える』では胤義は頼家の側近として描かれ、頼家の最期にも立ち会ってた記憶がありますね。

 そしていよいよ承久の乱勃発ですが、思いの外長くなったのでまた次回に続くのであった。


>再来年の大河の主人公の話
 東洋経済オンラインで三宅香帆という人が書いている『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』という連載コラムで、紫式部の人となりを著書の『紫式部日記』を通して描いてるんですが、これがなかなか面白い。紫式部というと具体的にはどういう人かあんまり知らなかったんですが、そのコラムを読むとずいぶんと人間味が感じられます。

>史点
 中国の“白紙革命”のニュースで僕がテレビで見たものに、警官だったか白い防護服を着た医療者?だったかに向かって、「今流行ってるのはコロナじゃなく、ただの風邪だ!」みたいなことを言ってるおっさんがいて、おいおい、こういう人どこの国にもいるのねと思っちゃいました。ゼロコロナ政策によるロックダウンに対する不満と苛立ちから出たものなんでしょうがそれにしても。こういう人が混じっちゃうと運動の評価が難しくなっちゃいますねえ。ちゃんとした運動してる人たちにはいい迷惑というか。
 ドイツのクーデター計画未遂はちょっと驚きました。しかし第二帝国復活のクーデター計画というと、ワイマール共和制時代を舞台としたドイツのドラマ『バビロン・ベルリン』を思い出しちゃうなあ。そういや第4シーズンはまだなんだろうか?



#11287 
ろんた 2022/12/15 19:33
『ゾミア』打ち切り&『天幕のジャードゥーガル』

 以前、注目しているとか書き込んで、単行本を買ってたんですが、なんと3巻で終わり。まあ、2巻がどこ行っても置いてなくて、結局e-honで買わざるを得なかったんでおかしいとは思ってたんですけど。っていうか、わたしが読んだ次の号でヤンマガ本誌からWebへ移動、原稿がたまったところで終了したらしい。編集部も力が入っていて、単行本を宣伝する煽りには明らかにウクライナ戦争を下敷きに「大国の侵略vs.抗う人々」「いま読むべき歴史漫画」とあるし、単行本第1巻は70頁、50頁×2、30頁と増ページの連続で4話しか収録されていない。とりあえずどんなお話だったか、おさらいすると……

 1215年、モンゴルの侵攻を撃退し、復興し始めた金国首都・中都大興府。語学の天才ネルグイと武の天才バートルは、元奴隷でありながら耶律楚材にその才能を見出され、将来に希望を持ち始めていた。だが楚材はモンゴルの間諜であり、軍を引き込んで中都大興府を陥落させる。混乱の中、瀕死の重傷を負ったネルグイは西夏へ向かう奴隷商人に拾われ、バートルは、チンギス・ハーンに取って代わるという野望を胸に、楚材に連れられてモンゴルに仕える。「自由が欲しければ戦え」というバートルの言葉を胸に、チンギス・ハーンの暗殺を目指すネルグイは、己の才覚で運命を切り拓き奴隷身分から解放されると、ホラズム王国の王子・マイスール、恐るべき武の使い手の少女・ミマと出会い、西夏とモンゴルの和睦に立ち会う。このミマは、中原の西に位置する何者も侵せない広大な山脈群「ゾミア」からやって来た「山の民(ミゾ)の神」であり、ハーンの命を狙っていた。ネルグイは、帰国してモンゴルと戦うというマイスールと別れ、ミマとともにハーンが陥落させたばかりの西遼国高昌都に向かうが……

……ということで、すごく面白いんだけど、なぜ打ち切りなんだ! 考えてみると

(1)馴染みのない時代
(2)日本人が一人も出てこない
(3)可愛い女の子や色っぽいお姉さんが出てこない
(4)話の展開が急すぎてキャラに感情移入できない

ってあたりが理由でしょうか。でも異世界転生とか剣と魔法ものとかだと、(1)や(2)は当たり前だし、(3)もそう致命的とは思えないんだなぁ。結局は(4)だろうか。上に書いたあらすじも、半分くらいは第1話のものだったりするし。中都大興府が陥落するまでを、一巻分ぐらいでたっぷり書けばまた違ってきたかな?

とか思ってたら、なんとほぼ同時代を描いたマンガが「このマンガがすごい!2023 おんな編」で第1位をとったとか。『天幕のジャードゥーガル A Witch's Life in Mongol』(トマトスープ/秋田書店 ボニータC)というんですけど、どんな話かというと……

 1213年、イラン東部の都市・トゥース。奴隷市場を訪れた学者一家の妻・ファーティマは、購入する奴隷を半値にする代わり、奴隷商人から少女・シタラを預かり教育することになった。笑顔が可愛いので、教養さえあれば高貴な方の側仕えに高く売れる、と考えたのだ。最初、シタラにはクルアーンの暗唱すら難しく思われたが、それは亡母と暮らした家に帰りたいとの思いからの芝居だった。そんな彼女に一家の息子・ムハンマドは、賢くなることの大切さを説く。そして8年後、ムハンマドはニーシャプールへ留学して見聞を広め、ファーティマに仕えるシタラは美しく教養深い女性へと成長、ファーティマは彼女を息子の妻にと考えているようだ。だが、トゥースがモンゴルの第四皇子・トルイに敗北すると、シタラの運命は激変する。ファーティマは殺害され、シタラは捕虜とされたのだ。それでも、奴隷の身分を隠すべくファーティマと名乗ったシタラは、その教養を買われトルイの妃にエウクレイデスの『原論』を講釈する役目を与えられる。そんな中、シタラことファーティマは、第三皇子・オゴデイの第六夫人・ドレゲネを見かける。「……私はあなたの妻ではありません。あなたの敵です」と夫に言い放つドレゲネにファーティマは強い印象を受け……

……ということらしい。ちなみにネットで無料公開されている第5話までであらすじは作成。ヒロインは実在したドレゲネの側近ファーティマ・ハトゥン。絵柄はトキワ荘派っぽい(?)けど、画力がすごい。特にキャラの表情。ああっ、コレも面白そうだ!! しかし、本屋で見かけたことない。あと「イラン」って国はまだ無くて、トゥースもニーシャプールもホラズムじゃないかな。この後、あっという間に崩壊するけど。ちなみにニーシャプールは400人の職工以外は殺害されるんだけど、ムハンマドは死んでない模様。第1話に「のちに高名な学者となるトゥース市の少年ムハンマド」とあるから(笑)。



#11286 
バラージ 2022/12/10 22:48
訂正

 「道家の妻倫子(夫が公経)の母」は「道家の妻倫子の母(夫が公経)」の誤りでした。すいません。



#11285 
バラージ 2022/12/10 16:52
今週の鎌倉史 大混乱

 まず先週の『13人』追記。実朝暗殺もまたえらく狭い所で……。義時らのほとんど目の前で実朝が公暁に殺されちゃうんだもんなあ。実際には『愚管抄』にあるように、実朝に中門に留まれと命じられた義時ら数万(『吾妻鏡』では千騎。まぁ、どっちもかなり盛ってるでしょうが)の武士たちは実朝暗殺に全く気づかなかったとあり、暗夜ということもあったとはいえ義時らからは見えない場所で凶行は行われたと言っていいでしょう。公暁が実朝を斬る時に「親のかたきはかく討つぞ」と言ったのを随行した公卿たちははっきりと聞いたと記されてるにも関わらず義時らは全く気づかなかったわけですから、かなり遠い手前のところで待たされていたと考えられます。

 そして今週。いやはやなんとも……大事件と大事件の間の橋渡しの回なんですが、それなのにと言うべきかそれゆえにと言うべきか、まさに史実3割・虚構7割の嘘っぱち回となってしまいました。いったいどこから突っ込んだらいいのやら。結局、主人公の義時がカッコ悪くちゃ困るからこうなっちゃうんだろうなあ。実は歴史ドラマって脇役よりも主人公のほうが描き方が制約されちゃうんですよね。ま、とりあえずこの時代の大まかな流れに触れていきますか。

 最初に阿野時元(『尊卑分脈』では隆元とする)の挙兵の話。ドラマではそれ以前からちょこちょこ出てた時元ですが、『吾妻鏡』ではこの実朝暗殺後の挙兵が初登場でなおかつそこだけの登場です。『吾妻鏡』によると1219年1月の実朝暗殺の翌2月15日に駿河国より飛脚が来て、時元が11日に多勢を率いて城郭を深山に構えた。これは宣旨を賜り東国を管領することを企てたものだと伝えてきたとあります。19日には政子の命令で義時が自らの被官である金窪行親を始めとする御家人を時元討伐のため駿河国に遣わします。22日には討伐軍が駿河国阿野郡に到り時元らを撃ち破り、翌23日には時元が自殺したとの報せが駿河国より幕府にもたらされました。
 しかしこの『吾妻鏡』の記述には疑問があります。ドラマでは時元が源氏嫡流最後の男子みたいなことを言ってましたが、まだこの時点では頼家の庶子禅暁や頼朝の庶子貞暁が存命ですし、そもそも時元は嫡流ではなく傍流です。頼朝の甥に過ぎない時元が東国の支配者として御家人に支持されるとも朝廷に認められるとも思えない。時元自身にもそれはわかっていたはずで、宣旨を賜り東国の管領を企てるとは考えがたいんですよね。しかも挙兵といっても深山に城郭を構え立てこもっており、攻撃に出ていません。鎌倉殿を狙っての挙兵なら攻撃に出るはずですが、むしろ恐怖に怯えていたように思えます。永井晋氏は討伐軍が向けられることを知ってやむなく挙兵したと推測してますが(『鎌倉幕府の転換点』NHKブックス)、あるいは現地勢力や家臣などの誰かに何らかの讒言をされたとか、テロによる社会不安から時元が過剰な自己防衛に走り、それが余計な疑いを招いたなどの推測もできそうです。『承久記』にも時元は冤罪だったとあるとのことで、幕府も時元もテロの衝撃から疑心暗鬼の虜になっていたのかもしれません。
 なお以前も書きましたが、時元の母の阿波局(『13人』では実衣)は実朝が将軍となった1203年を最後に、死亡記事のある1227年まで登場していません。よって時元挙兵にどう反応したかなども一切不明なんですが、そもそも実朝政権下で乳母の阿波局の消息が20年以上記されないというのは不自然な話。その間にもう1人の乳母の大弐局など他の女官の名前はちらほら出てくるのに、政子や義時の妹の阿波局の名前だけが出てこない。実際には阿波局は1203年以後まもなく死亡していたのであって、 1227年の死亡記事は『吾妻鏡』編纂者の何らかの錯誤だったんではないでしょうか。時元にしても実朝の乳母子でありながら実朝政権下では一切登場せず、挙兵した時も駿河国にいたというだけで守護にもなっていません。理由は不明ですが阿野氏は実朝政権下では冷遇されていたと思われます。呉座勇一氏は現代ビジネスの連載コラムで、『吾妻鏡』では頼家に誅殺された父阿野全成の罪が後に許された形跡がないので謀反人の子である時元も謹慎状態だったと推測してますが、頼家が失脚し実朝を北条氏が補佐する体制になったんだから阿野氏が許されなかったとは考えがたい。父方も母方も実朝の従兄弟でなおかつ乳母子でもある時元が逼塞しているのは本来おかしな話なんですよね。ただ推測する材料もなく、その間の事情は不明と言わざるを得ません。実朝か政子か義時が何らかの理由で阿野氏を嫌ったのかも。なお時元は『13人』が映像作品初登場。『草燃える』には出てこなかったようですが、ナレーション処理か何かだったのかな。

 次に実朝の後継者下向の話。これもドラマでは大幅に省略された上、義時に都合のいいように変えられてましたが、実際には大揉めに揉めて幕府は対応に苦慮し、事態は紆余曲折しています。『吾妻鏡』によると2月13日に政所執事の二階堂行光が政子の使者となり、後鳥羽上皇に皇子の頼仁親王か雅成親王を後継将軍として下向してもらうよう要請するために上洛。14日には伊賀光季(義時の妻の伊賀の方〈『13人』では「のえ」〉の兄)が治安維持のためか京都守護として上洛し、29日には大江親広(広元の嫡子で義時の娘婿)も京都守護として上洛しました。閏2月12日には行光の使者が鎌倉に帰還し、上皇はいずれ親王をどちらか1人下向させるが今はまだその時ではないと4日に返答してきたので鎌倉に戻るべきか?と報告してきます。『愚管抄』によると、後鳥羽は将来日本国を2つに分けるようなことはできないと考えて断ったとあります。14日には幕府が京へ戻る行光の使者に親王の下向をなるべく早めてもらうよう要請するようにとの命令を下したとのこと。3月8日に後鳥羽の使者として寵臣である藤原忠綱が下向してきて政子に実朝への弔意を伝えた後、義時には後鳥羽の寵姫である白拍子の亀菊(伊賀局)の所領の摂津国長江庄と倉橋庄の地頭を改補するよう要求し、11日に忠綱は帰京。12日に義時・時房・泰時・広元が政子邸に集まり、忠綱を通して後鳥羽が命令してきたことについて早急に結論を出すことを確認。15日、時房が政子の使者として後鳥羽の要求への返答と、親王下向を重ねて要請するために1000騎を率いて上洛の途に付きます。28日には入京した時房と交代した行光が鎌倉に帰還しています。
 『吾妻鏡』はその後の4月から6月の記事を欠いており、『愚管抄』などに頼らざるを得ません。それらによると詳細な経緯は不明なものの、時房は後鳥羽の要求を拒否した上で再び親王将軍の下向を求めるという強硬な態度を示し、それを受けて後鳥羽も態度を硬化させて再び親王下向を拒否したため事態は膠着したようです。1000騎を率いての軍事的威圧を加えたことがかえって裏目に出たわけで、幕府は悪手を打ってしまったと言っていいでしょう。ただし後鳥羽は皇族でなく人臣であれば摂関家の子弟だろうと下しても良いと妥協案を示し、それを受けて幕府では三浦義村が九条道家(兼実の孫で良経の子)の長男教実を迎える案を出しており、また後鳥羽の返答を伝える使者として再び下った忠綱は自身が養育した道家の弟基家を次期将軍にしようと運動して、それが後鳥羽の不興を買い失脚しています。結局、道家の舅の西園寺公経が養育していた道家の3男三寅が次期鎌倉殿に決定し、6月3日に下向の宣下がされ、25日に京を発ち、7月19日に鎌倉に到着しています。幕府が朝廷と交渉を始めてから実に5ヶ月以上が経過していました。なお道家の母は一条能保と頼朝妹の娘であり、また道家の妻倫子(夫が公経)の母はやはり能保と頼朝妹の娘全子なので、道家の子は父方からも母方からも一応頼朝と血のつながりがあり、義村もそれを賛成する理由に挙げています。
 朝廷で三寅下向に最も尽力したのは一般的に三寅の母方の祖父で親幕派公卿の公経だとされてますが、山本みなみ氏は公経が1218年に些細な誤解から後鳥羽と仲違いして籠居を命じられたことがあり、その政治力は低下していたため三寅下向を推進したのは摂関家出身の慈円ではないかとの説を唱え、慈円が道家・公経・後鳥羽を説得して三寅下向にこぎ着けたとしています。慈円は公経への書状で、後鳥羽上皇は本心では三寅下向にも反対だったが、自分がいろいろ工作してようやく下向にこぎ着けたと記しているとのこと(『史伝 北条義時』小学館)。
 なお、後鳥羽の寵姫である白拍子の亀菊は『草燃える』にも出てきませんでしたが、松坂慶子が演じた架空人物の小夜菊が終盤では亀菊の役割を果たしていたらしい。他にも二階堂行光、大江親広、頼仁親王、雅成親王、九条道家など、このあたりの人物は『草燃える』にも出てきてない人が多いんだよな。一方で伊賀光季、藤原忠綱、西園寺公経は『草燃える』に出てきたようです。ただし『草燃える』は伊賀の方が出てきてないので、光季はただの御家人としての登場だったでしょう。
 また滝沢馬琴には『水滸伝』を翻案した『傾城水滸伝』という作品があり、『水滸伝』の登場人物の性別を全て逆にして、後鳥羽上皇から寵愛をうけた亀菊の専横に世をはばまれた烈婦たちが、北条義時のために討たれた源頼家の息女三世姫を擁立し近江賤ヶ岳江鎮泊にたてこもって、亀菊および義時と戦うという内容だそうですが、作品が完結する前に馬琴が他界したとのこと。

 最後に義時の後継ぎ問題について。ドラマでは自らの子の政村を後継ぎにしてほしいと言う「のえ」(史実では伊賀の方、または伊賀氏、伊賀局など)に対して、義時が後継ぎはまだはっきり決めてないが基本的には泰時、それがダメなら朝時だみたいなことを言ってました。
 しかし史実を見る限りでは以前も書いた通り義時は政村を後継ぎに考えていた可能性が高いと思われます。泰時は母の阿波局(『13人』では八重)の身分が低かったと推測されるため当初から一貫して庶長子だったと思われ、また前室の矢部禅尼(『13人』では初。泰時と矢部禅尼の離婚はどうやら完全スルーのようですね)との嫡子時氏は実朝の偏倚(名前の一字拝領)も受けておらず、後室の父の安保実員は安保氏の中でも分家だったようで有力な御家人でもありません。朝時は母の姫の前(『13人』では比奈)の実家比企氏が滅ぼされて母が父義時と離婚していた上に、1212年に女性問題で実朝の勅勘を蒙り義時から一時義絶されています。その際に廃嫡されたと思われ、後に許されるものの以後は一貫して泰時より下位に置かれています。
 それに対して、以前から書いてるように伊賀の方の子の政村・実義や実家の伊賀一族は朝時が廃嫡された頃から義時によって大幅に取り立てられています。1213年5月の和田合戦において伊賀の方の父伊賀朝光とその次男光宗は合戦で活躍した形跡がないにも関わらず、乱後に恩賞として常陸国佐都と甲斐国岩間をそれぞれ賜ってますし、「相州(義時)鍾愛の若公」とされる政村は同年12月にわずか9歳で実朝の御所で元服するという異例の待遇を受けており、翌1214年には実義も7歳で元服し実朝の偏倚まで受けています。1215年に朝光が、1217年にその妻である二階堂行政の娘がそれぞれ死去していますが、1219年の実朝暗殺後には前記の通り朝光の長男光季が京都守護として上洛しており、また後継将軍交渉に起用された政所執事の二階堂行光(行政の子。『13人』にはまだ出てきてる行政は実朝政権期にはとっくに死んでると思われる)が同年9月に死去すると光宗が後任の政所執事となっているなど、明らかに政村後継を見据えた体制に入っていたと言っていいでしょう。
 朝光は蔵人所に代々使えた下級官人の出身で、武士というより武官も務めることのできる諸大夫であり、姻戚としてやや貧弱なことは否めませんが(永井晋『鎌倉幕府の転換点』NHKブックス)、それでも姻戚がほとんど頼りにならない泰時や朝時よりはマシですし、伊賀氏が姻戚として貧弱だからこそ取り立てようとしたんでしょう。ただし義時が死ぬ時までついに後継者を公的には決めなかったことも確かなようなんですが、それについてはまたそのあたりになってからということで。



#11284 
バラージ 2022/12/03 11:35
若干訂正

 『愚管抄』の引用で、中略されている部分がまだ他にもありました。正しくは以下の通りです。

「夜に入て奉幣終て、宝前の石橋を下りて、扈従の公卿列立したる前を楫して、下がさね尻引て笏もちてゆきけるを、法師のけうさう(行装)ときん(兜巾)と云物したる、馳せかかりて下がさねの尻の上にのぼりて、頸を一の刀には切て、たふれ(倒れ)ければ、頸を討ち落して取てけり。追いざまに三四人同じやうなる者の出きて、供の者追いちらして、この仲章が前駆して火ふりてありけるを義時ぞと思て、同じく切ふせて殺して失せぬ。義時は太刀を持ちて傍らに有けるをさへ、中門に止まれとて留めてけり。大方用心せず、さ云ばかりなし。みな蜘の子を散すが如くに、公卿も何も逃げにけり。(中略)皆散々に散りて、鳥居の外なる数万の武士これを知らず。この法師は、頼家が子をその八幡の別当になして置たりけるが、日ごろ思持ちて、今日かかる本意を遂てけり。一の刀の時、親の敵はかくうつぞと云ける。公卿どもあざやかに皆聞けり。かくしちらして一の郎等とおぼしき義村三浦左衛門と云者のもとへ、我かくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへ行かんと云たりければ、この由を義時に云て、やがて一人この実朝が頸を持たりけるにや。大雪にて雪の積もりたる中に、岡山の有けるを越えて、義村がもとへ行きける道に人をやりて打てけり。とみに打たれずして切ちらし切ちらしして逃げて、義村が家のはた板のもとまで来て、はた板を越へて入らんとしける所にて打とりてけり。(中略)実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり。同意したる者共をば皆打ちてけり。また焼払いてけり。(中略)その夜次の日郎従出家する者七八十人まで有りけり。様悪しかりけり。」



#11283 
バラージ 2022/12/02 23:54
今週の鎌倉史 和歌親分を消せ

 今週の『13人』は実朝暗殺完結編。改めて思い出したんですが、そうか、『13人』は「『吾妻鏡』が原作」だったんだ。だから当然ながら基本的には『吾妻鏡』に準拠した展開になってるわけですね。しかし#10691でも書いた通り、『吾妻鏡』はこの事件に関して何らかの作為を持った書き方をしており、現場にいた公家の証言を基にしたと思われる『愚管抄』の記述のほうが信用性が高いとされています。というわけで『愚管抄』における実朝暗殺の記述を以下に記します。

「夜に入て奉幣終て、宝前の石橋を下りて、扈従の公卿列立したる前を楫して、下がさね尻引て笏もちてゆきけるを、法師のけうさう(行装)ときん(兜巾)と云物したる、馳せかかりて下がさねの尻の上にのぼりて、頸を一の刀には切て、たふれ(倒れ)ければ、頸を討ち落して取てけり。追いざまに三四人同じやうなる者の出きて、供の者追いちらして、この仲章が前駆して火ふりてありけるを義時ぞと思て、同じく切ふせて殺して失せぬ。義時は太刀を持ちて傍らに有けるをさへ、中門に止まれとて留めてけり。大方用心せず、さ云ばかりなし。みな蜘の子を散すが如くに、公卿も何も逃げにけり。(中略)皆散々に散りて、鳥居の外なる数万の武士これを知らず。この法師は、頼家が子をその八幡の別当になして置たりけるが、日ごろ思持ちて、今日かかる本意を遂てけり。一の刀の時、親の敵はかくうつぞと云ける。公卿どもあざやかに皆聞けり。かくしちらして一の郎等とおぼしき義村三浦左衛門と云者のもとへ、我かくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへ行かんと云たりければ、この由を義時に云て、やがて一人この実朝が頸を持たりけるにや。大雪にて雪の積もりたる中に、岡山の有けるを越えて、義村がもとへ行きける道に人をやりて打てけり。とみに打たれずして切ちらし切ちらしして逃げて、義村が家のはた板のもとまで来て、はた板を越へて入らんとしける所にて打とりてけり。実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり。同意したる者共をば皆打ちてけり。また焼払いてけり。その夜次の日郎従出家する者七八十人まで有りけり。様悪しかりけり。」

 現場を目撃した公家(中略部分に出てくる平光盛と推測される)の証言に基づいただけあって、なんとも緊迫した臨場感にあふれる記述です。これに対して『吾妻鏡』はいくつかの異なる記述をしてますが、その最大のものは前回書いた義時が白いワンちゃん(ドラマでは携帯電話のCMのお父さんのようでした。「おい! 式に出るな!」by北大路欣也)のおかげで体調不良となり助かったという記述です。『愚管抄』では上記の通り、義時を始めとする御家人連中は実朝の命令で中門に留まってただけなんですが、『吾妻鏡』はなぜそのような曲筆を行ったのか?
 これについては上記『愚管抄』の「大方用心せず、さ云ばかりなし。」、つまり(実朝や義時を含めた)ほとんどの武士たちが何の用心もしていなかったことには言うべき言葉もない、という部分に理由があると平泉隆房氏(「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」『皇学館論叢』133号)や山本みなみ氏は推測しています(『史伝 北条義時』小学館)。つまり『愚管抄』の著者・慈円は実朝や幕府の不用心さを強く批判しており、また『六代勝事記』にも「なを恨らくは武勇のはかりごとのたらざるにたるものか」との批判が記されていて、そのような幕府批判・義時批判に対する弁明として『吾妻鏡』編纂者は義時が現場にいなかったと捏造する必要があったと推測しており、非常に説得力のある推測だと思われます。また暗殺の動機という観点からも、親王将軍下向の方針が実朝暗殺後も続けられており幕府の方針転換がないことから、義時黒幕説や御家人共謀説には無理があるとされています(呉座勇一『頼朝と義時』講談社現代新書)。
 また三浦義村黒幕説についても、牧氏の変や和田合戦では実朝側近として活動し、後の承久の乱・伊賀氏の変でも北条氏に協力した義村がこの時だけ反逆するのか? 実朝を自らの手で暗殺した公暁の将軍擁立は他の御家人たちに支持されないなどの批判があり、また義村を公暁の乳母夫とする通説についても高橋秀樹氏が疑問を呈しています(『三浦一族の中世』吉川弘文館)。
 ドラマではほとんど全ての主要人物が公暁の実朝暗殺計画を知っていたというものすごい展開になってましたが、実際には公暁本人の他は共犯した3、4人の僧だけしか知らなかったと思われ、実朝暗殺は義時にとっては生涯最大の痛恨事、幕府にとっても一大不祥事で大失態だったと言っていいでしょう。まさに彼らにとっても衝撃の大事件だったわけです。
 ちなみに慈円は暗殺された実朝にも批判的で、『愚管抄』には「又おろかに用心なくて、文の方ありける実朝は、又大臣の大将けがしてけり。又跡もなくうせぬるなりけり(愚かにも用心がなく、武士なのに武より文に力を入れた実朝は、右大臣の名誉を汚し、後を継ぐ者もなく消えてしまった)」と記しています。もちろん公暁についても、頼朝公は大変立派な将軍だったのに、その孫にこんなことをしでかす者が現れてしまった、と最大級の批判を加えています。

 なお後鳥羽上皇ら朝廷からは幕府と縁の深い公卿が5人も就任式に派遣されています。坊門忠信(実朝妻の兄)、西園寺実氏(母方の祖母が頼朝の姉妹)、藤原国通(妻が平賀朝政の元妻で、義時の妹婿)、平光盛(祖母池禅尼が若き日の頼朝を救う)、難波宗長(蹴鞠の達人でそれを理由に下向)の5人ですが、晴れがましく下向したらそんなことになっちゃって呆然としただろうなあ。


>中国史マイナー時代ドラマ
 BS12で遼の5代皇帝景宗の皇后で6代皇帝聖宗の母の睿智蕭皇后を主人公とした中国ドラマ『燕雲台 The Legend of Empress』の放送が開始されたようで。これ前にもチャンネル銀河とかで放送されてて、DVD化ももうされてるんですけどね。主人公は歴史映像名画座にある『大遼太后』の主人公と同じ人で、古典『楊家将』では敵役ラスボスの人物です。一方、チャンネル銀河では同じ時代の北宋側の3代皇帝真宗の章献明粛皇后を主人公とした『大宋宮詞 愛と策謀の宮廷絵巻』が放送開始。こちらもすでにDVD化されています。それにしてもまたえらくマイナーな時代をドラマ化するなあ。あるいは日本人にはマイナーでも、本場中国では別にそうでもないのだろうか?



#11282 
ろんた 2022/11/28 22:39
「殺人ウサギ」考

 お久しぶりです。あんまりお久しぶりなので軽いネタです。重いネタはあんまり書いた覚えがないけど

 少し前にネットで「殺人ウサギ」の話を見かけました。中世の写本には人を襲うウサギの絵が描かれていることがあり、狩られる者が狩る側にまわる諧謔、ウサギは民衆の象徴で「大人しくしているからといって調子に乗ってるといてまうぞ」というメッセージだとか、諸説あるらしい。で、最初は(面白いなぁ)と見ていたんですが、突然(アレってコレのことか?)と閃いてしまったのです。

 アレというのは「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1975)。タイトルから分かるように聖杯伝説のパロディですが、予算が少ないところを知恵とギャグで乗り切っている映画。馬が使えないのを逆手にとって、アーサー王以下、馬に乗っている体でスキップし、従者が後から椰子の実を鳴らして効果音を入れている。ただし、メンバーの一人テリー・ジョーンズが中世史の研究者だったので、最も時代考証が確かなアーサー王伝説の映像化と言われているとか。

 そして、ここに「殺人ウサギ」が登場しているわけです。聖杯の手掛かりがあるという洞窟に騎士が入るけど、誰も戻って来ない。洞窟の中には可愛い白ウサギちゃん。でも騎士が近づくと恐ろしい速さで飛びかかってきて、のど笛を噛み千切ってしまう。洞窟の中は死体だらけ。まあ、モンティ・パイソンなんで「聖なる手榴弾」で退治しちゃうんですけど(笑)。

 この話に元ネタがあるとは、初めて見てからン十年、露ほども気づかなんだ。テリー・ジョーンズ恐るべし。「たた~くといたいよ~」と唱えて頭に板を打ち付ける巡礼のネタは、半裸で鞭打ちする巡礼だと思うんだけど。



#11281 
バラージ 2022/11/25 23:01
頼朝挙兵映画

 1961年の東映映画『富士に立つ若武者』を観ました。これまたDVD化されてないんで、またもVHSのネットレンタルで観賞(U-NEXTで配信もされているようです)。
 平治の乱で伊豆に流された源頼朝が平家打倒に立ち上がるまでのお話で、物語は伊豆に配流中の頼朝が平治の乱を回想するシーンから始まります。父義朝や家臣たちとはぐれ、雪山で行き倒れになった頼朝を救ったのは狩人の兄とその妹(架空人物)。頼朝は兄妹ともども平家の追っ手に捕まるも、なんだかんだで命は助かり伊豆へ流罪に。そんな頼朝の身辺に仕えるのは狩人兄妹と忠臣の佐々木定綱・盛綱兄弟です。史実では定綱が長男、盛綱が三男なんですが、次男の経高は登場せず。人物配置的に三兄弟じゃ多いってのはわかるんだけど(実際2人でちょうどいい)、なぜ三兄弟の中で経高がハブられたかは不明。伊豆で幅を利かせてるのは平家の手先の堤権兵衛(堤信遠)で、堤の横暴に反抗する佐々木兄弟を抑え、じっと忍の一字の頼朝。そこへ伊豆一の豪族北条時政の娘の政姫(北条政子)が頼朝旧知の文覚を連れてくる。本作の文覚は『地獄門』で惚れた女を心ならずも殺してしまい出家したなんて話はどこへやら。頼朝に向かって「あんな美しい女(政姫)を見てお前は何とも思わんのかっ!」と叱咤する生臭坊主な破戒僧っぷり。やがて平家の独裁に反感を持つ武士たちが頼朝に期待して集まってくるも、頼朝はあくまで慎重。平家に派遣された平兼隆(山木兼隆)が伊豆に赴任してきて、頼朝はさらに屈辱的な扱いを受けるが、それでも耐える頼朝。そんな中、頼朝と政姫は激しい恋に落ちる(結構激しいラブシーンあり)。文覚は、頼朝と政姫が結婚すれば挙兵の時に北条が味方になるとニンマリ。同様に頼朝と北条が結びつくと危険と考えた兼隆は、保身で頭がいっぱいの時政に政姫との結婚を申し込む……。
 いかにも東映娯楽時代劇といった感じの勧善懲悪ものになっていて、主人公頼朝を助ける架空人物の狩人兄妹はひたすら健気だし、敵役の平兼隆と堤権兵衛はさしずめ悪代官と十手持ちといったところ。ほとんど『水戸黄門』みたいなノリで、特に堤役の俳優はもろ悪役商会といった感じでした。そんな悪役たちの弱い者いじめを主人公が耐えに耐えて最後に怒りが爆発するという定番と言えば定番の展開ですが、回想シーンの平治の乱と最後の頼朝挙兵はなかなかに大規模な合戦&チャンバラシーンで、当時の東映の底力を感じさせましたね。今時のテレビドラマなんざ比べ物にならないスペクタクルっぷりでした。印象的だったのは、義朝らが自害しようとしたり、家臣や宗時から死を覚悟で戦おうだの死ぬ気で逃げろだの言われるたびに、「いや! わしは生きる!」みたいな台詞を頼朝が言うところ。やたら何度も出てくるんで、当時15~20年前に起こった戦争における滅びの美学とか死の美学の否定みたいなのがあったんかな?とちょっと思いました。
 ヒロインは政姫ですが、狩人の妹も頼朝に想いを寄せてたりして、そのあたりの三角関係など恋愛パートに力が入ってるのもドラマに膨らみを持たせてて面白い。頼朝の「わしはこの恋に生涯をかけているのだっ!」みたいな台詞もあって、『人形劇 平家物語』で「恋にかまけている暇はない」とか言ってた人と同一人物とは思えない(笑)。ただ歴史的な部分で言うと本作でも伊東祐親とその娘(八重)の逸話は全くのスルー。まぁ、そこを入れたらストーリーが全然変わっちゃうから仕方ないのかもしれんけど不遇よのお。他にも頼朝が平治の乱の時点から本役の大川橋蔵なんで到底13歳には見えないというかそもそも大人として扱われてるとか、そのためか挙兵まで史実では20年のところを10年に縮められてるとか、俊寛捕縛(鹿ヶ谷の陰謀)と源頼政の挙兵(以仁王挙兵)が同時に起こったことになってるとか、そのあたりの史実関係はかなりユルい様子。また個人的には『修禅寺物語』を観たばかりなので時政や政子のギャップがすごい。いや別作品だから当然なんですけど、平家や兼隆の顔色をうかがうばかりの時政は役者も平凡な感じなので『修禅寺~』の東野英治郎演じる悪徳時政と同一人物とは思えないし、頼朝との恋に一途な政子も24年後には息子を心ならずも殺さねばならぬ羽目になってヨヨヨと泣いてたりするのかと、妙に諸行無常な気分になっちゃう。また本作では宗時は二枚目岡田英次がかっこよく演じてますが、義時は出てきません。まあ物語に必要ないしね。
 文覚を演じる大河内傳次郎の滑舌が悪くて半分くらい何言ってるのかわかんないし、映像も夜のシーンは暗すぎてよく見えないんですが(配信ならもっときれいに見えるのかな?)、全体的にはストレートな娯楽時代劇になっていて、思いの外になかなか面白かったです。


>鎌倉史追記というか書き忘れ
 義時に源仲章暗殺を命じられたトウ、あっけなく捕まっちゃって失敗してましたが、ちょっと罠がショボすぎねーか? 上から網がドサッて、凄腕の殺し屋があんなんで捕まっちゃうって納得できんなあ。
 さて、前回書き忘れましたが、実朝が将来的に幕府を京に移転するみたいな話をしてましたね。これにも一応元ネタらしきものがあるようです。ただしそれは実朝死後の話でして、河内祥輔氏は実朝暗殺後に幕府が要請した親王将軍東下を後鳥羽上皇が拒絶した理由について、親王将軍の安全問題が浮上して幕府の京移転など幕府にとって受け入れがたい要求が後鳥羽より出された可能性を指摘しているとのこと。



#11280 
バラージ 2022/11/22 19:09
今週の鎌倉史 世にも奇妙な物語

 しっかしまあ『13人』、ここに来てまたでかい嘘っぱ……じゃなくてフィクションをぶちこんできたなあ。いろんな黒幕説をミックスしてオリジナルの話にしてるようですが、公暁の実朝暗殺を実朝自身を含めてみんながみんな知ってるという驚愕の展開に(笑)。まぁ、いろんな説を矛盾しないように上手く組み合わせてるなぁとは思いますが。実朝暗殺については以前に#10691で触れてますが、次回まで続くようなので次週にまとめて書くことにして、今週出てきたネタについて軽く触れときますかね。

 まず冒頭に出てきた義時が白い犬の霊夢を見て大倉薬師堂を建立したという怪しげな話。いきなりなんとも奇妙な話ですが、実はちゃんと『吾妻鏡』に載ってるんですよね。その後、義時は実朝暗殺当日の戌の剋、その霊夢に出てきた白い犬が傍らにいるのを見て体調不良となり御剣役を源仲章に譲って退出。神宮寺で回復した後に自邸に帰ったが、御剣役を代わった仲章は公暁に義時と誤認されて殺害された。その時、大倉薬師堂の戌神像は堂内に鎮座していなかったとあります。戌神の加護で義時は命を救われたという不思議話なんですが、なんでこんなマンガ日本昔ばなしが『吾妻鏡』にあるのかというと実朝暗殺を防げなかった義時の責任を回避するため……なんですけど、くわしくはまた次回に。
 それから久しぶりに登場していた公暁の母の辻殿(『13人』では「つつじ」)。史実では1210年にすでに出家してるようなんですが、ドラマでは俗体のままでしたね。ちなみに『吾妻鏡』では公暁の母は辻殿なんですが、『尊卑分脈』では兄の一幡と同じく若狭局、縣篤岐本『源氏系図』では三浦義澄の娘となっているとのこと。とはいえ史料の性格から『吾妻鏡』が最も信頼性が高いものと思われます。辻殿の没年は不明なので、ドラマ通りにこの頃もまだ生きてたのかもしれないし、あるいはもう死んでたのかもしれません。なお『吾妻鏡』には一幡と公暁以外の頼家の子の母は記されていませんが、やはり諸史料で若干の混乱があるようです。すでに触れている和田氏に擁立されて自害した男子は『尊卑分脈』にある栄実に比定されてますが、それによると母は一品房昌寛の娘となっています。『吾妻鏡』には出てこない末弟の禅暁の母は慈光寺本『承久記』では一品房昌寛の娘ですが、『尊卑分脈』では辻殿となっているとのこと。唯一の女子である竹御所の母は『尊卑分脈』では源義仲の娘ですが、「竹の御所」が比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから実際の母は若狭局ではないかとする説もあるようです。
 また公暁のまわりをうろちょろしてる三浦義村の4男の駒若丸。後の三浦光村ですが、公暁の門弟で公暁とは男色関係にあったとする説もあり、竹宮惠子の『マンガ日本の古典 吾妻鏡』(中公文庫)ではその辺もそれとなく描かれてましたね。『草燃える』では若き日の京本政樹が演じてたとのことで、総集編観たけど全然覚えてないな。光村は後に宝治合戦で北条氏・安達氏に討たれてますが、『北条時宗』の初回で演じてたのは遠藤憲一。これまた光村が出てきたのは覚えてるけど、エンケンさんだった記憶はなし。それにしても京さまがエンケンさんに成長しちゃうとは、いったいその間に何があったんだ?(笑)
 そして生田斗真が怪演してる源仲章。おそらく元ネタは実朝暗殺黒幕説の1つで、五味文彦が提唱した御家人共謀説でしょう。五味氏は院近臣と御家人を兼ねる仲章は後鳥羽と実朝の双方に仕える二重スパイ的な存在で、接近する後鳥羽と実朝の両者を結びつける役割を担っており、義時や三浦義村らは御家人層の利益から遊離して朝廷に近づく実朝とそれを補佐する仲章を殺害することを狙ったという説です。これについてもくわしくは次回また。


>やっぱり平家の出番が少ない
 『人形劇 平家物語』第2部、後半の6話をようやく視聴終了。時間をかけてちょこちょこと観てたんで、もう最初の方の記憶があんまり……。と思ったら、いつの間にか第4部・第5部の放送も終わってたんですねえ。すっかりチェックし忘れてて、第3部までしか録画してません。大河ドラマは清盛と平家に主人公をしぼって描いたんで人形劇では義仲・義経まで描いたってのもあるんでしょうが、やっぱり子供向けの人形劇には清盛よりも義経って考えもあったんではないかと思われます。原作が1950年代の作品なので歴史観というか歴史認識というか歴史学的な部分が古いのはしょうがないんですけど、個人的にはやっぱり判官贔屓がなあ。だからもともとあんまり気乗りがしてなかったんですよね。そういや放送時期は『炎立つ』と同時期だったんだなあ。奥州藤原氏がほとんど出てこないのも、あえてかぶらないようにという考えだったのかな?

 まず富士川の戦い。頼朝が石橋山で敗れ房総半島に逃げたところから、いつの間にやら復活して坂東を制圧しています。その間はまるごとカットで、八重のエピソードもないためか伊東祐親も台詞で降伏しただったか討ち取っただったかと言うだけで済まされてしまいました。一方の平家側では斉藤実盛が坂東の味方がいなくなった危険性を諫言するも受け入れられず、福原まで引き返して援軍を要請……って、だから遠いって! どうも、この人形劇(というか原作からなのかな?)、移動距離とか移動時間というものをことごとく無視してるような……。合戦は頼朝側の夜襲で決着し、有名な水鳥の羽音に驚いてというエピソードはなし。さすがに非現実的すぎるということか、それともそれじゃ平家があまりにカッコ悪すぎるからか?(その勝ち方じゃ源氏もあまりカッコ良くないし)
 そしてそこへ弟義経が参陣し兄弟涙の対面。しかしなぜか早くも義経に疑いの目を向け、佐竹討伐にも参加させない頼朝。いや、ちょっと早すぎないか? 兄弟の疎隔はもうちょっと後になってからでもいいような。藤原秀衡もようやく登場で、平家と源氏を争わせて漁夫の利を得ようという策士ぶりを見せ、これはなかなか良い。
 一方、木曽義仲も挙兵し、2人目の女武者・葵が登場。『源平盛衰記』の義仲最後の戦いで、巴と並ぶ女武者だったが礪波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)で討たれたと回想的に名前が出てくるだけの人なんですが、本作ではほぼ完全にオリジナル設定のようです。そして義仲はその葵とあっさりベッドイン。清盛に勝るとも劣らないスケベぶりだな。意外といい人キャラだったのに、女にはだらしないというのが吉川英治のお気に入りなのか? 途中からは巴・義高母子も合流して、女同士のひそかな争いが始まり、ちょっと昼メロみたいなドロドロっぷりになってきた。吉川の意図に反して、妙に禁欲的な?頼朝が1番まともな人に見えてしまう……。
 清盛のほうは富士川での敗戦に激怒。大将の孫維盛を流罪にする!とか言い出すんだけど、孫可愛さの妻時子に丸め込まれ敗戦責任はうやむやに。婆さん、身内に甘すぎねえか? なんか身内の不始末に甘いダメな社長や政治家の一家みたいに見えちゃうんだよなあ。ちなみに史実では時子は関係なく、家臣の諫言で許されたようです。
 そして比叡山延暦寺が清盛の福原遷都に不満を持ち、興福寺などと結んで反抗しようとしたため、清盛はやむなく京へ還都し、関白の藤原基房に興福寺への取りなしを依頼……って基房は治承3年の政変で清盛に関白をクビにされたはずですが。この頃は清盛の娘婿で基房の甥の近衛基通が摂政のはず。しかし坊主たちの傍若無人ぶりもひどいというか、貴族同様に坊主もみんな悪!みたいな描かれ方ですな。
 鎌倉では鶴岡八幡宮の上棟式で頼朝が義経に馬の口牽き役を命じるも、義経が難色を示し頼朝が激怒するという『吾妻鏡』にある話が描かれますが、義経自身が嫌がったという『吾妻鏡』の記述に反して、人形劇では義経はやろうとしたのに弁慶ら家臣が止めるという展開に。あくまで義経をいい子ちゃんに描こうとするためか。判官贔屓、ここに極まれり。
 そして熱病に冒された清盛がついに大往生して第2部が終了。えっ? 全5部のうち第2部で清盛が死んじゃうんだ。残り3部で清盛死後って、あくまで清盛主人公だった大河とはあえて変えたのか、それともやっぱり義経出さなきゃってことなのか。やっぱりなんか平家の出番が少なかったなあ。

 NHKサイトにある第4&5部のあらすじを読んだ感想としては、①やっぱ頼朝と梶原景時は徹底的に悪者かい!②法然が出てきたのか。やっぱり戦前の『親鸞』から続く思い入れ?③義経正室(百合野)だけでなく父の河越重頼も出てきたのね。④平宗盛に出生の秘密なんてあったの?⑤義経は静と百合野だけでなく史実通り平時忠の娘(夕花)とも婚姻しちゃうのか。やっぱり清盛・義仲と同様の女好きに描かれてる?(笑) てか頼朝にだって八重に亀の前に大進局といるんだけど結局政子しか出てこないのね。



#11279 
巨炎 2022/11/21 13:08
人形劇「平家物語」も観終えましたが…

一応、第一、二部は平清盛、第三部は木曽義仲、第四部、五部は源義経が主役だったでしょうか。
この辺り、こちらに登録されている更に40年前の大映製作劇場版三部作を思わせますが…。

しかし劇場版は尺故に青春時代に絞って描かれた清盛の四十年の変転を
義経編と殆ど変わらない尺の駆け足展開で描くって何なんでしょう。
最終回も後白河法皇から任官されて報告しなかった一件をスルーして、
平時忠の娘を側室にした事を梶原景時が密告して頼朝が叛意と見なすという
義経贔屓が酷過ぎて作品全体が矮小化されてしまったように思えました。



#11278 
バラージ 2022/11/18 21:27
今週の鎌倉史 COMPLEX

 うーん、実朝暗殺はやっぱり黒幕説で行くのか? 公暁単独の暴走じゃ物語にしづらいんだろうなぁ。源仲章もまたえらいデフォルメされてるよな。あんな人に描かれてるのは他に見たことないんですけど。なお公暁は一般的に「くぎょう」と読まれてきましたが、近年「こうきょう」または「こうぎょう」が正しいのではないかとする説が出されており、『13人』では「こうぎょう」が採用されているようです。

 さて今回の『13人』はこれまた奇妙で特異な実朝の後継者問題の話。実朝の後継者として後鳥羽上皇の皇子を下されるよう幕府が卿二位(藤原兼子)に要請してましたが、実はこの話は『吾妻鏡』にはなく、『愚管抄』にしか記されていない話です。『吾妻鏡』には、1218年1月に政子の熊野参詣が政所で決定され、時房がお供をすることに決まった。2月に政子が上洛。4月14日には政子が朝廷より従三位に叙せられたが、前例のないことだったので朝廷の議定では紛糾したらしい。15日には後鳥羽より対面するよう政子に仰せが下ったが、政子は辺鄙の老尼が龍顔に拝するなど益も無いことなので、ご要望にはとても沿えませんと申し上げて、諸寺参拝を切り上げて帰ってきたとあるのみです(なお時房のみは後鳥羽の仙洞御所に招かれて蹴鞠を披露したため遅れて帰還しています)。なお永井晋氏は、後鳥羽は政子に参内させるために従三位を与えたはずなので、政子の辞退は後鳥羽の心証を悪くしたとしています(『北条政子、義時の謀略』ベストブック)。
 一方、『愚管抄』によると政子は上洛中に卿二位と会談し、彼女の斡旋で従三位になった(さらに後に従二位に昇進。『吾妻鏡』によると同年10月)とあり、また実朝暗殺後に幕府が後鳥羽の皇子を将軍後継として要請してきたことについて、熊野参詣の際に実朝に子がいないことから卿二位が政子に皇子を将軍にすることを持ちかけたと聞いたがその名残だろうか。後鳥羽上皇の乳母でもある卿二位は、上皇の后妃である坊門信清の娘・西御方を養女としていたが、その西御方が産んだ上皇の子(頼仁親王)を卿二位が養育していた。卿二位はその親王を天皇にさせたいとも思ったが、それが駄目なら将軍にとでも思ったのだろうかと慈円は記しています。

 しかし将軍の後継者を実朝とは血のつながりのない親王にすることを、幕府の人間でもない卿二位のほうから言い出すのはきわめて不自然な話。そのため実際には政子の側から卿二位に相談したのだろうとされています。ちなみに慈円は、世の人が卿二位を疎ましく思ってそんな想像をするのだ。後鳥羽院の順徳天皇へのお気持ちを考えれば皇位争いなどあるはずがないとも記してますが、慈円は卿二位には批判的な一方で、九条家の血を引く順徳はやたら持ち上げる傾向があるようです。
 問題は親王将軍を持ちかけた幕府の主体が誰かということ。旧来の説では、この頃の実朝は政治にタッチできない傀儡で北条氏が全ての実権を握っていたとする認識から、主体は北条氏であり御家人たちはもはや傀儡に過ぎない将軍は源氏でなく親王でも良いと考えていたなどと唱えられてました。しかし近年では実朝は決して傀儡ではなく親裁を行っていた、もしくは志していたとする説が有力で、親王将軍構想には実朝自身が積極的だったとする見方が主流です。細かな部分については諸説出されてますが、実朝自身が親王将軍後継を推進する側にいたことは間違いないと思われます。問題はその動機でしょう。
 これは旧来から言われてきたことですが、いくら子が無く、側室もいないとはいえ、実朝は当時まだ27歳で、正常であれば男子が生まれる可能性はあるわけです。実朝の父頼朝が長女大姫を儲けたのは30歳を過ぎてからでした。そのため実朝自身や義時・政子・大江広元ら幕府首脳部は、理由は不明ですが実朝に子ができないことを確信していたと考えられます。しかしそうだったとしても普通は実朝に血筋の近い人物、兄弟や甥や従兄弟などを後継者にするはず。それもいなければもう少し遠い血筋の親族となるでしょう。しかし実朝や幕府首脳部は全く血のつながりのない後鳥羽の子を後継者にしようとしており、かなり特異な例と言えます。似たような例としては摂関家から養子を取って自らの後継者にしようとした戦国初期の室町幕府管領・細川政元くらいでしょうか(こちらの理由についても諸説ある)。
 実朝に最も近い親族である後継者の第1候補は兄頼家の子の公暁と禅暁でしょう。ただしこれも旧来から言われてきたことですが、北条氏がクーデターで頼家政権を転覆させ、頼家を幽閉した後に暗殺してしまったため、頼家の子を将軍とすることは忌避されたのだとされています。他に実朝の異母兄の貞暁もいますが、幼い頃に出家して長く鎌倉を離れている上に実朝より年上で30歳を過ぎており、なおかつ政子が迫害をして鎌倉より追い出した過去があることからやはり忌避されたとされています。その3人以外には生存している頼朝の直系男子子孫はなく、他に適任者はいなかったとする説が有力。範頼・全成の子やその他の源氏一族も将軍候補に入れる研究者もいますが、頼朝の直系男子以外は将軍候補者とは考えにくい。室町幕府や江戸幕府でも将軍は全て開祖の尊氏や家康の直系男子で占められています。
 ただ個人的には北条氏が頼家遺児をそれほどまでに忌避したかという点には疑問もあります。それほど忌避しているのなら公暁を鶴岡八幡宮別当として鎌倉に呼び戻すでしょうか? むしろそれほど警戒していなかったからこそ公暁を鎌倉に呼び戻したと考えたほうが筋が通っています。義時や政子にすれば、頼家政権を転覆させたのは父時政であって、自分たちは父に従わざるを得なかったのだ。頼家を殺したことについても、義時は父の命令でやらざるを得なかったと自分の中で自己正当化していたんではないかと思われます。しかし公暁の側から見れば、そんなものは都合のいい言い訳に過ぎず、その行き違いが後の悲劇につながっていくのではないでしょうか。

 そう考えると、やはり親王将軍構想の主体は実朝だったと僕は推測しています。なぜならこれは幕府の将軍位の問題だけではなく、源家家督の問題でもあるからです。幕府首長という公的な地位になら義時ら家臣も口出しできますが、源家家督という「家」の問題に他家の人間はなかなか口出しできなかったはず。もし源家家督の問題に口出しできるとすれば政子くらいでしょうが、政子が源家断絶もしくは源家家督を他家からの養子に継がせるという選択肢を選ぶとは思えません。結局、当の源家家督である実朝が言い出して聞かなかったから義時・政子らも許容せざるを得なかったのだと思われます。
 ではなぜ実朝は甥の公暁や禅暁ではなく、血のつながりのない後鳥羽の子を後継者にしようとしたのでしょうか? 坊門信清は実朝の妻の父でもあり、後鳥羽后妃の西御方は妻の姉妹で、その子の頼仁は実朝の外甥でもありました。さらに頼仁の妻である花山院経子の母・一条保子(夫は花山院忠経)の母は頼朝の姉妹(夫は一条能保)で、頼仁と経子の間に子が生まれればわずかながら頼朝の血を引いているということも影響したとする推測もあります(山本みなみ『史伝 北条義時』小学館)。しかし血で言えば甥である頼家遺児のほうが圧倒的に近いわけで、それに対して頼仁とは直接の血のつながりがない上に、経子との子が生まれても傍系でしかも女系を3つも経た子孫としかならず、いくら尊い血筋でもそちらを優先する理由が考えにくい。
 さて、ここからは全くの個人的な推測、というより想像になるんですが、僕は実朝の抱えたコンプレックスにその理由があるんではないかと考えています。まず、あまり言及されていませんが実朝は直系ではなく傍系から家督を継いだ将軍(鎌倉殿)で、一般的に傍系から家督を継いだ将軍はもともと将軍を継ぐ予定の人間として扱われていなかったため、将軍就任後に自らが将軍にふさわしいことを示すために積極的に政務に携わろうとすることが指摘されています。足利6代将軍義教や8代将軍義政、徳川5代将軍綱吉や8代将軍吉宗などがその代表でしょう。さらに実朝の場合は父頼朝や前任者である兄頼家の指名で鎌倉殿になったわけでもなく家臣のクーデターで擁立された鎌倉殿だったため、その正統性に疑義があり当人もそれを強く感じていたと思われ、そのため自らの鎌倉殿としての正統性に相当なコンプレックスを持っていたものと推測されます。その実朝が次の鎌倉殿(将軍)を兄頼家の子に譲るということは、頼家から実朝に移った嫡流が再び頼家流に戻るということであり、実朝流は子のない実朝一代の傍流で終わることを意味します。実朝にとってはそれが耐え難いことだったのではないでしょうか。だからこそ兄頼家の子らに鎌倉殿を継承させず、将軍位を血のつながりのない親王に譲るという奇策に走ったのではないかと個人的には想像するのです。父頼朝を9歳(満年齢では7歳)で亡くした実朝にとって、自分の名付け親にもなってくれた後鳥羽は“擬似父親”とでも呼ぶべき存在であり、その子を自らの後継者にすることは彼の中ではそれなりに正統性のあるものだったのでしょう。しかしどのような理由があるにせよ、公暁にとっては頼朝の血を引く自分ではなく、頼朝と血のつながりのない親王が次の将軍になるなど、到底受け入れられるものではなかったことは言うまでもありません。

 なお親王将軍構想に関連してですが、頼朝が晩年に推進した娘の大姫や三幡の入内政策についても、後鳥羽天皇(当時)と娘の間に生まれた自らの外孫を東国に下してもらい、東国独立国家の王として擁立する計画だったとする説が唱えられたことがかつてありました。佐藤進一氏の唱えた説のようですが、そのようなことを暗示する史料すらなく、ほとんど根拠がありません。この説はおそらく実朝時代の親王将軍構想から逆算して推測されたものだと思われ、頼朝の京都志向・公家志向として否定的にとらえられていた入内政策について鎌倉幕府=東国国家論の立場から反論するために考え出されたものでしょう。現在では頼朝の入内政策はすでに事実上の権力を握った自身ではなく、息子の頼家、さらには子孫代々の政権の安定化のために天皇家と姻戚関係を持とうとしたものと理解されています。

 また前記の室町大名・細川政元は、将軍足利義稙をクーデターで廃して足利義澄を将軍に擁立した戦国時代下克上の幕開けともされる明応の政変を行った剛腕政治家でありながら、修験道に凝って妻帯をせず、修行の旅に出ると言ってたびたび京を出奔しては家臣や将軍義澄に連れ戻されるような奇人でもありました。妻帯しないため子もいなかったことから前記の通り摂関家の子を養子にしたんですが、細川一門からの反発は当然ながら強く、一門からも養子を取った結果、後継者争いが激化して、不利になった摂関家出身の養子とその家臣たちに暗殺されています。このあたりも実朝とすげえ似てるんだよな。やっぱり実朝も一種の奇人将軍だったのではないだろうか?



#11277 
バラージ 2022/11/15 20:27
時代

 つい最近友人がついにAmazonprimeに加入したとのこと。今のテレビはAmazonprimeとかYouTubeが初期設定から組み込まれていて、加入するとすぐテレビでそういうのが観れちゃうらしいです。
 いや、実は僕も動画配信加入を最近考え初めてたんですよね(テレビには付いてないけれども)。というのも最近DVDスルーならぬ動画配信スルーのみの外国映画とか、劇場公開されたけどDVD化はされず動画配信のみとか、DVD化はされたけどレンタル店に置かれてないとかいうパターンが激増してるんですよ。特に最近は僕の好きな中華圏映画のDVDスルーにろくなのがなくて、知らん俳優ばっかり出てる中国の若い人向け動画配信専用CG満載ファンタジーアクション時代劇安売り映画みたいなのばっかりになってきてるんですよねえ。劇場公開される一流映画と両極化してて、その中間ぐらいのウェルメイドな映画は動画配信オンリーに流れてるっぽい。たぶん中国映画の値段が全体的に高くなってて、輸入してDVD化しても採算が合わないんでしょう。なので最近はレンタル店に行っても借りたいDVDがさっぱりありません。東京とかでは劇場公開されたけど、こっちには来なかったやつ(日本映画・外国映画問わず)で観たいのがたまにあるくらい。近くの全国チェーンレンタル店もコロナ以降は客が激減してる感じで、コロナ前に比べるといつ行ってもガラガラ。そのうちつぶれるかもしれませんね。
 以前も書きましたが、おそらくソフト(DVD、Blu-ray)から動画配信への流れは止められないでしょう。僕はVHSからDVDに変わったみたいに、DVDからBlu-rayに変わるかには懐疑的だったし、実際変わりませんでした。3Dにも懐疑的だったし、4Kにも今だに懐疑的なんですが、ソフトから動画配信への移行は、VHSからDVDへの変化と同様に、あるいはレコードからCDへ、さらにダウンロードへ、ストリーミングへみたいに確実に起こるであろう変化なんだと思います。


>鎌倉&伊豆映画
 1955年の松竹映画『修禅寺物語』を観ました。こちらはDVD化も動画配信もされてないんで、時々使ってるVHSのネットレンタルで借りて観賞。
 原作は岡本綺堂の戯曲で未見未読ですが、岡本自身が短編小説化しており、そちらは去年の年末に出た短編集で読みました。岡本が伊豆の修禅寺に伝わる鎌倉幕府2代将軍源頼家の面と称される古い面を見て、それに着想を得て書かれたものとのことで、修禅寺の近くに住む高名な面作り師と2人の対照的な娘たち、そして修禅寺に幽閉された頼家の関係を描いた作品です。戯曲では最初から頼家が修禅寺に幽閉されており、面作り師の父娘が主人公ですが(昔、手塚治虫の『七色いんこ』で大まかなあらすじを読んだ)、小説版ではどちらかといえば頼家のほうが主人公で比企氏の乱から話が始まってました。映画はそれでも尺が足りないと思ったか頼家が将軍の時代から話が始まっており、大幅にオリジナルな展開。政子・時政・義時・比企能員・仁田忠常など原作には出てこない人物も登場しています。とはいえもちろん史実通りではなく、頼家将軍時から時政が執権になっているし、頼家が病に倒れることもないまま比企氏の乱が起こり、最後は火矢をかけられた修禅寺が派手に炎上して全焼しています。頼家は北条ばかりでなく比企も権力闘争に自分を利用してるだけだと嫌悪感を示し、修禅寺に流された後は将軍ではなく1人の人間として生きたいと言い出すなど妙に厭世的なキャラクターに設定されていて、なんとなく頼家より実朝っぽい。
 全体的には史劇というより時代劇の雰囲気で、予算もあまり掛けなかったのか少々こじんまりとした感じ(とはいえテレビドラマなんかに比べれば十分豪華なんですが)。スペクタクルなシーンは比企氏の乱と最後の修禅寺襲撃シーンぐらい(どっちも夜戦として描かれてるんで映像が暗くてちょっと見にくかった)で、そこら辺もなんとなく松竹っぽかったですね。原作より歴史度は上がってますが、そのためかえって本来の主人公だった面作り師父娘の存在感が薄くなり、物語の焦点がぼやけて、ずいぶん陳腐な話になってしまった感じ。結末も原作とは大幅に異なります。演出も平板で正直ちょっと退屈でした。政子が出てきたことで僕の苦手な母子もの要素があったのもマイナス。俳優陣も総じていまいちで、良かったのは悪役の北条時政を演じる東野英治郎ぐらい。東野さんが面作り師役をやれば良かったのに。

>永楽帝ドラマ
 来年の1月からWOWOWで『永楽帝 大明天下の輝き』(原題:山河月明)という中国ドラマの放送が開始されるようです。「『三国志 Three Kingdoms』や『項羽と劉邦 King's War』を手掛けた中国大河ドラマの巨匠ガオ・シーシー監督のもと、明の最盛期を築いた第3代皇帝・永楽帝の波瀾万丈の生涯をオールスターキャストで描く」「厳しい時代考証を経て再現された豪華絢爛な衣装や建造物に加え、迫力満点のモンゴルとの戦争シーンなど見どころは満載。実力派俳優たちが繰り広げる壮大な歴史絵巻をご堪能いただきたい」とのこと。
 でも個人的には同じくWOWOWで来年1月から放送開始されるリウ・イーフェイ主演の時代劇『夢華録』のほうが気になってたりして。



#11276 
バラージ 2022/11/13 16:17
鎌倉史追記 家族の肖像

 『13人』ではなんだかあんまり描かれてない主人公北条義時の子供たちや家族たちの話。阿波局(『13人』では八重)の子である長男泰時と、姫の前(『13人』では比奈)の子である次男朝時についてはこれまでにも書いたんで割愛します。

 朝時の同母弟の三男重時は1198年生まれですが、兄2人と違って『吾妻鏡』に元服記事がありません。記録が残ってなかったんでしょう。泰時・朝時ともに13歳で元服しており、同年齢で元服したと仮定すると1211年に元服したと考えられます。元服の記録が残ってなかったのは庶子ということもあるでしょうが、義時と離縁した姫の前もすでに他界し、継室伊賀の方(伊賀氏、伊賀局とも。『13人』では「のえ」)との間に2子も誕生して、嫡流から外れていたためかもしれません。
 朝時・重時の同母姉妹の竹殿は生年不明ですが、大江広元の嫡子親広の妻(妾とも)になっています。
 伊賀の方の第1子である五男政村は1213年になんと9歳で元服。さらに同母弟の六男実義に至っては翌1214年に7歳で元服しています。これほどの若さで元服するのは何か特別な事情でもない限り珍しく、兄頼家の失脚で急遽元服した実朝でさえ12歳での元服でした。あるいは義時は女性問題で廃嫡された朝時に代えて現妻の子らを嫡子に据えようと急いで元服させたのかもしれません。政村の元服記事には「相州(義時)鍾愛の若公」と記されており、実義はおそらく実朝の偏諱(名前を一字貰う)を受けたと思われ、いずれも御所で元服しています。また政村の烏帽子親は三浦義村、実義の理髪役は大内惟義で、それぞれ「村」「義」の一字をもらってますが、問題は政村の「政」。祖父時政の一字をもらったとする説もありますが、実朝を廃そうとして幽閉された時政の一字を付けるとは考えにくい。あるいは実際には政村も実義同様に実朝の偏諱を受けて実村または朝村と名乗ったものの、後に当主となった兄泰時をはばかって政村と改名し、『吾妻鏡』はそれを隠蔽し曲筆したのかも。実義に対する惟義同様、義村は政村の理髪役で、烏帽子親は実義同様に実朝だったのかもしれません。実義も後に泰時の一字をもらって実泰と改名しています。
 なお妾(伊佐朝政の娘)の子である四男有時の元服記事も『吾妻鏡』にはありませんが、政村・実義の通称がそれぞれ四郎・五郎で有時の通称が六郎なので、妾腹の有時の元服のほうが後になった可能性もあります。1200年生まれの有時が13歳なのは1213年ですが、元服はそれより少し遅れたのかも。
 また泰時の嫡男時氏の元服記事も『吾妻鏡』にはありません。時氏は1203年生まれで、1205年生まれの叔父政村より2歳上ですが、父泰時と同年齢で元服したとすると1214年元服となり、年下の叔父政村・実義より後に元服した可能性が高い。名前を見ても実朝の偏諱は受けておらず、やはり泰時はこの時点でも義時の嫡子として扱われてはいなかったと思われます。泰時継室の子時実は1212年生まれですが、やはり元服記事はなし。元服は実朝没後なのが確実なので、名前の「実」は母方の祖父安保実員からのものでしょう。

 伊賀の方の父伊賀朝光は1215年に死去し、舅である二階堂行政邸の裏山に埋葬され、義時もそれに立ち会ったと記されてます。朝光はもともとは藤原姓でしたが、1210年に伊賀守に就任した後、伊賀氏を称するようになったとのこと。
 また珍しいことに『吾妻鏡』には伊賀の方の母である二階堂行政の娘の死亡記事もあります。1217年に京において亡くなったとのことで、夫の死後なんらかの理由で京に上っていたようです。
 二階堂行政の没年は不明ですが、実朝期には政所下文の署名から姿を消しているとのことなので息子に家督を譲って隠居したか、すでに死去していたのかもしれません。



#11275 
バラージ 2022/11/10 19:39
今週の鎌倉史 「提督、やっぱり陸はいいですね」「提督、酒はほどほどにしましょう」

 今週の『13人』は、実朝治世でも最も不可解でわけのわからん事件、渡宋船建造計画の話。しかし1216~17年の話なので、1213年の和田合戦からはまたちょっと飛びました。てなわけでまず和田合戦後から3年ほどの間に起こった面白事件を軽くざっと触れときますかね。

 まず、これは和田合戦前のことですが、山本みなみ氏によると1209年4月から1212年11月の間に書かれたと推定される慈円の書状には実朝が上洛するとの噂を聞いたという記述があるとのこと。鎌倉中期の無住道暁による仏教説話集『沙石集』にも、時期は不明ですが実朝が上洛を望み評議が開かれたが、八田知家の反対により断念したという話が載せられているそうです。おそらく1211年に疱瘡の創痕による籠居から3年ぶりに解放された実朝が、父なる後鳥羽や京への憧れから上洛を志したのではないかと山本氏は推測しています。それが断念されたのは泉親平の乱や和田合戦が起きる直前の鎌倉の不安な政情に原因があるのではないかとも推測されてました(『史伝 北条義時』小学館)。ただ和田合戦後の比較的平穏な時期にも実朝の上洛はされておらず、右大臣拝賀式もわざわざ鎌倉で行っていることを考えると、病弱な実朝に上洛は耐えられないと判断された可能性も考えられます。姉の大姫や母方の叔父の北条政範もおそらくは上洛の疲労が原因で病に倒れており、周囲の反対もあったのではないかと個人的には推測しています。なお1211年10月には『方丈記』で有名な鴨長明が鎌倉に来ているようですね。
 また和田合戦が終わってから4ヶ月しか経ってない1213年9月には、畠山重忠の末子で僧となって下野国にいた大夫阿闍梨重慶に謀反の疑いがあるとの密告があり、実朝は長沼宗政に重慶を捕らえるよう命令しています。ところが宗政は重慶を討ち、首を切って持参してきたため、実朝は「重忠はもともと冤罪で討たれた。たとえその子供が陰謀を企んだとしても大したことではない。したがって命令通りに捕らえて連れてきて取り調べの上で処分を下すべきなのに、殺してしまうとは粗忽で罪業のもとだ」と嘆息し、宗政は実朝の機嫌を損ねてしまいました。これを実朝の家臣源仲兼より伝えられた宗政は逆に怒って、「その法師が反逆を企んだのは間違いない。捕らえてくるのは簡単だが、もし連れてくれば多くの女性や尼たちが同情して軽い処分しか下されないだろうと思って、このように誅伐を加えたのだ。こんなことでは今後誰が忠節を尽くすだろうか。これは将軍の誤りだ」と述べ、かつて頼朝公の時代にはいかに武備を重んじたかを述べた上で「当代の将軍は和歌や蹴鞠を生業として武芸は廃れたようなもので、女性ばかり大事にして勇士などいないかのようだ。没収した所領も勲功の士に与えられず、多くは女性に与えられている。例えば榛谷重朝(畠山重忠を讒言したとして討たれた)の所領は五条局に与えられ、中山重政の所領は下総局に与えられた」など他にも数えきれないほど多くの暴言を吐いたとのことですが、仲兼は何も言い返せずに座を立ったとあります。実際、和田合戦で滅亡した和田氏の所領のうち相模国渋谷庄は因幡局に、陸奥国由利郡は大弐局(実朝の乳母)に恩賞として与えられています。合戦の恩賞が女官に与えられるというのは確かに理解しがたく、宗政の不満は御家人たちに広く共有されていたと思われ、翌月には宗政の兄小山朝政の申し出で宗政は許されています。
 同年11月には前回書いた通り、泉親平の乱で擁立された頼家の遺児が政子の命令で栄西を師として出家しており、法名栄実に比定されています。1214年2月、実朝の具合が良くないということで栄西が祈祷に呼ばれますが、どうやら二日酔いのようだということで、栄西が実朝に二日酔いに効くとして茶を勧め、『喫茶養生記』を進呈しています。実朝は病弱なくせに酒好きだったようで、和田合戦が起こった時も酒宴の最中で酔っぱらっていたというのは前回書いた通り。11月にはこれまた前回書いた通り、栄実が京で和田氏らの残党に再び擁立されて討たれています。1215年11月には、実朝が和田義盛ら合戦の死者が御前に集まる夢を見たため、突如仏事(法要)を行いました。やはり実朝はずいぶんと繊細な人だったようですね。

 そしていよいよ渡宋船建造問題。
 事の起こりは1216年6月。かつて1195年に重源に従って東大寺大仏を再建した宋の工人の陳和卿が鎌倉に来たことです。陳和卿は、当代の将軍は権化の再誕なので恩顏を拝するために参上したと述べたとのこと。実際に実朝に拝謁すると陳和卿は感極まって泣き出し、あなた様は前世において宋の育王山の長老で、私の前世はその門弟でしたと述べたそうです。実は実朝は1211年6月3日の丑剋(深夜2時ごろ)に就寝中、夢の中に1人の高僧が現れ同様のことを告げられていましたが、そのことを言葉に出さず誰にも告げていなかったとのこと。6年も経ってから陳和卿の言葉と符合したことで、これを信じるほかなくなったと『吾妻鏡』には記されています。『13人』では実朝が同時代の僧の明恵のように夢日記を書いていて、それを源仲章が盗み見たという設定になってましたが、『吾妻鏡』には実朝が夢日記を書いていたというような記述はありません。
 11月、実朝は前世に住んでいた育王山を拝むために宋へ渡ろうと思い立ち、唐船を建造することを陳和卿に命じます。60数名の従者も定めて、結城朝光にこれを奉行させたとのこと。義時や広元はしきりに諌めたものの、実朝は頑として聞かず、造船は実行に移されたとあります。
 1217年4月、渡宋船が完成し、数百人の人夫を御家人から供出させ、船を由比ヶ浜に浮かべようとしました。実朝が出座し、義時も臨席、二階堂行光が全体の指揮を取ったそうです。陳和卿の説明に従って全員が力を尽くして船を曳きましたが、昼頃から午後4時頃までかかっても、由比ヶ浜の遠浅の浜辺は唐船が出入船できるような海辺ではないため、ついに海に浮かべることはできなかったとあり、実朝らは帰還して、唐船はいたずらに砂浜で朽ち果ててしまったと記されています。

 この実朝治世下でも最も奇天烈な事件については、山本みなみ氏によると歴史学者や文学者によって事実かどうかも含めて様々な説や解釈が取られているそうです。北条氏から逃れるため政治的亡命をしようとしたとか、将軍の命令に従う御家人を選別しようとしたとか、幕府の首長として南宋を巡検しようとしたとか、挙げれば切りがないとのこと。他にも実朝にタカろうとする陳和卿のペテンに引っ掛かったなんて説も昔読んだような。管見の限りでは、近年の歴史学者は著書でこの時代を扱ってもこの事件についてはスルーしてるものが多い印象。史実ではないと考えているか、解釈に困っているかのどちらかだと思われます。永井晋氏(『鎌倉源氏三代記』吉川弘文館)や本郷和人氏(『承久の乱』文春新書)はスルー派で、呉座勇一氏も『頼朝と義時』(講談社現代新書)ではスルーしており、現代ビジネスの連載コラムでは劇中で描かれていたため言及してましたが、神のお告げに頼り失政を犯した実朝を批判する意図で後世に作られた実朝伝説だろうとしています。実朝を高く評価する坂井孝一氏は、前記の将軍に従う御家人を選別しようとした説(『源実朝』吉川弘文館)に加えて、実朝の真の目的は日宋貿易を始めることだったという説を唱え(『鎌倉殿と執権北条氏』NHK出版新書)、先見性がありすぎたがゆえの失敗とまで持ち上げてますが、さすがにこれは贔屓の引き倒しが過ぎるような。実朝が日宋貿易を考えていたことを示すような形跡はどこにも見られません。
 これらの説に対して山本みなみ氏は実朝の宗教性に着目し、実朝が仏教の中でも前世の信仰に耽溺し得た人物だったと指摘しています。実朝の生きた中世は、前世の信仰が確立している社会であり、実朝が再誕や後身を信じたとしても不思議ではない。この渡宋計画には実朝の聖徳太子信仰が影響しており、父頼朝と同じく実朝は熱心な太子信仰の持ち主だった。それは舎利信仰とも密接に関わっており、実朝が舎利信仰の聖地である育王山を訪ねたいと願うのは自然なことである。実朝が最も関心を抱いたのは合戦で多くの命を奪った父頼朝の死後の行方であり、またその子である自分自身の罪業で、父同様に和田合戦などで殺生を重ねた自分の死後を相当に案じていた可能性が高い。仏教では罪業は前世からのものと理解するため、実朝が精神的に不安定な時に陳和卿から前世の話を聞き育王山を訪れたいと願ったのもうなずけるとしています(『史伝 北条義時』)。
 この山本氏の見解は非常に納得できるものがあります。改めて考えてみると、この事件について『吾妻鏡』の記述をそのままに受け取っている説はあまり見受けられませんが、僕個人の印象としてはこの渡宋船建造計画についての『吾妻鏡』の記述をまるごと創作説話としてしまうのはちょっと躊躇を感じます。月日の流れに従って複数の箇所に事件の推移が記されており、『吾妻鏡』の単純な曲筆や説話類の混入とは見なしがたいように思うんですよね。
 山本氏の説に付け加えると、この計画には実朝の病弱さも影響しているように思われます。『吾妻鏡』を読んでいると、実朝は終生自身の病弱さに悩まされた人だったと思われます。病弱な実朝にとって死というものは常に近接したところにあったと思われ、死後や前世や来世も普通の人よりもずっと身近なものに感じられていたはず。病気で寝ていると余計なことばかり考えてしまうものですし、実朝も普通の人に比べると常に死というものを意識していたと考えられます。
 ただ、山本氏が義時も当初は将軍の不在が幕府の存続に危険をもたらすため反対したが、実朝の熱心な信仰心に押され最終的には容認したのだろうとしている推測には少々疑問。どのような理由があるにしても、武家の棟梁である幕府の首長が外国に渡って数年も日本を不在にするなどあまりに非常識な話ですし、鑑真や遣唐使の例を見ても海を船で渡ること自体が危険を伴い、また病弱な実朝が海を渡ること自体に耐えられるかなどの問題を考えれば、容認するとは到底考えられません。船が海に浮かばなかった理由として、由比ヶ浜の遠浅の海がそもそも船の出入りを不可能にしていたという『吾妻鏡』の記述を考えれば、おそらく陳和卿はそれをわかっており、義時・広元ら幕府首脳も陳和卿からそれをひそかに聞いて、失敗を見越したから途中からは反対しなくなったんではないでしょうか。実朝にいくら諫言しても聞き入れないわけですし。
 臨床心理学者の河合隼雄氏は著書『明恵 夢を生きる』(講談社+а文庫)の中で、明恵同様に自らの夢を記録し続けた戦国時代の僧の多聞院英俊を明恵と比較して、英俊は夢に対して具体的な意味を持たせようとしすぎ、自分の願望と現実の区別を冷静に判断できていない。夢は多義的であるため、それを判断するならば1度現実に戻って考え、実際に実現する可能性があるかを検討すべきだと述べています。実朝の夢と陳和卿の間に起こったこともユングの言うシンクロニシティ(共時性。意味のある偶然の一致)の一種だったのかもしれませんが、実朝も夢を安易に現実と結びつけて非現実的な行為に及び、それが大失敗につながったということなのでしょう。



#11274 
バラージ 2022/11/04 23:25
今週の鎌倉史 あるいは裏切りという名の犬

 今週は和田合戦(和田義盛の乱とも言う)。まともに全部書いていくとかなりの量になってしまうんで、ドラマと史実の違いや歴史研究における史実考察にできるだけ話をしぼりまして。

 まずドラマではなぜか三浦義村・胤義兄弟と共に八田知家や長沼宗政も当初は和田側に付いてましたが、史実では知家と宗政は和田側に付いてないどころか、そもそも和田合戦に参戦していません。おそらく2人とも当時は鎌倉におらず、領国の北関東にいたんではないでしょうか。ちなみに知家は当時67歳だった和田義盛と同年代もしくはやや年上だったと推測されます。でも市原隼人だからいつまで経っても若いんだよな。相変わらず胸をはだけてセクシーだし(笑)。和田合戦の時に鎌倉にいたのは知家の嫡男の八田知重(小田知重とも)で、館が義盛邸に隣接していたため合戦の準備をしていることが真っ先にわかり、すぐさま大江広元に報告したことによって和田合戦が始まっています。またその弟の八田知尚や、長沼宗政の弟の結城朝光も幕府側(北条側)として参戦しています。
 それから大江広元が実朝の祖父義朝の髑髏を取りに御所に戻っていたのももちろん全くのフィクション。ただしモデルとなったと思われるエピソードはあって、広元は御所に突入した和田勢を幕府方が押し返した時に、重要書類を運び出すため政所に向かっており、それが話の元になっているんではないかと思われます。ドラマでは和田挙兵直後にそんな台詞を言ってましたが、史実ではもっと後の時間ですね。
 また泰時・朝時兄弟が実際には不仲だったとか、泰時と矢部禅尼(『13人』では初)は実際にはすでに離婚していたとか、巴御前が和田義盛のもとにいたというのは全くのフィクションとかいうのは以前にも書いた通り。

 そして三浦義村の裏切りについて。ドラマでは義盛は義村の裏切りに勘づいており、寛容にも義村に義時側に付いてもいいぞと言い、それを受けて義村は義盛の了承を得たとして義時側に付いてましたが、当然ながら史実はそうではありません。義村・胤義兄弟は義盛に対して御所の北門を封鎖するという起請文(誓約書)を書きながら、直前になって一族のよしみを重んじて主君の実朝に背くことはできないとして義時に義盛挙兵の急報を走らせ、それを受けて義時は御所に駆け付けたとなっています。要するに味方するという誓約書まで書きながら土壇場で裏切ったわけですね。鎌倉中期の説話集『古今著聞集』には、実朝の時代のある正月に御家人が集まった時、若い千葉胤綱が義村の上座に座ったため、不愉快になった義村が「下総の犬は臥所(寝床=座る場所)を知らん」と皮肉ると、胤綱は顔色ひとつ変えず「三浦の犬は友を食う」と和田合戦の時のことを言い返したという逸話が記されているとのこと。胤綱が義村の非難に平然と言い返していることから、義村の上座に座るという無礼な行為もおそらくはわざとやったものだと思われます。それだけ義村の裏切りの印象が強く、またそれに対して御家人たちが必ずしも好感を持っていなかったことの証しとも言えるでしょう。
 ただし『明月記』には義村と義盛が以前から対立関係にあったと記されているとのこと。また『愚管抄』は義盛のことを三浦の長者と記しているため、1200年に義村の父義澄が死んだ後は京では義盛が三浦一族の惣領と見られていたようです。従兄弟とはいえ義盛は義村より20歳ほど年上と推定され(そのためか『明月記』は義盛を義村の叔父と誤認識している)、義村は義盛に惣領の座を脅かされていたと考えられています。だからこそ義盛も義村兄弟から起請文を取ったのかもしれません。一方で義村と義時は母方の従兄弟であり、北条氏と三浦氏はもともと密接な関係であって、最初から義村は義時に内通していたと推測されています(山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、坂井孝一『源氏将軍断絶』PHP新書)。起請文を出した以上、義村が裏切るとは義盛も思わなかったはずで、義時らに奇襲攻撃をかけた義盛は義村にもその情報を事前に伝えており、義村も直前まではあくまで義盛の味方として行動しています。
 また義村が義盛を裏切る論理として実朝が持ち出されているのも興味深い。一族の和田氏から北条氏に寝返るのでは大義名分が立ちませんが、将軍実朝に謀反するわけにはいかないと言えば一応名分は立つわけです。もっとも上記『古今著聞集』の逸話を見る限り、やっぱりただの裏切りと見られていたのも間違いありませんが。将軍実朝の存在は合戦の帰趨に大きな影響があり、後述しますが合戦中に西相模から駆け付けた御家人たちはどちらに付くべきか判断が付きかね、実朝の御教書(命令書)が届けられて初めて北条方(幕府方)に付いています。『愚管抄』にも、義盛が義時を攻めたが実朝は義時といっしょにいたので実朝が前面に出て戦ったため、武士たちは皆義時側に付いたと記されているとのことで、義時が実朝を担ぎ、義盛の謀反とすることができたことが勝因の1つとする見方が有力です。
 なお『吾妻鏡』では上記の通り義村は義時に義盛挙兵を報せ、それを受けて義時が御所に駆け付け、政子と実朝の妻を鶴岡八幡宮に避難させたと記されてますが、『明月記』によると義村は直接御所に義盛挙兵を報せ、それを受けて政子と実朝の妻が避難しており、『吾妻鏡』は義時の功績を捏造する曲筆を行ったようです。確かに御家人の義村が同僚の義時にだけ報せて、将軍の実朝に報せないのはおかしいですもんね。

 さて、挙兵した1213年5月2日、和田軍は義時邸・広元邸に加えて将軍御所を襲撃。義時邸では残っていた家臣たちが奮戦し、夾板(はさみいた。板塀の一部?)を切って隙間から矢を射て戦ったとあり、これがドラマで泰時たちが板塀をずらっと盾にして戦ってたやつの元ネタなのかな? てか、あれ、どっちかっていうと映画『レッドクリフ』が元ネタだよなあ(笑)。そして和田軍は横大路を守る泰時・朝時・足利義氏ら幕府軍を蹴散らして御所に突入。義盛3男の朝比奈義秀が御所に放火して炎上し、御所は全焼して灰塵に帰しました。実朝はあわてて義時・広元と北門の外にある頼朝墓所の法華堂に逃れたと『吾妻鏡』にあります。しかし『明月記』によると、実朝は最初に駆け付けた広元の急報で即座に広元と共に法華堂に逃れたとあり、御所が炎上してからの避難では遅すぎるため、そちらが正しいだろうと推測されているようです。前記の通り北門を攻める予定だった義村が寝返ったことで実朝は北門から無事法華堂に脱出できたことになり、義村の功績には大きなものがありました。なお『明月記』によると当時実朝は酒宴を開いており、かなり酔っ払っていたとのこと。ただ諸研究書がそろって指摘している、和田勢も実朝を確保して擁立しようとしてたというのはどうかなあ? もちろん選択肢の1つには入っていたでしょうが、頼家遺児を擁立しようとしてたことを考えれば、義盛はともかくその子供たちは実朝が死ぬことになっても仕方がないぐらいは考えていたんではあるまいか?
 和田軍で最も大暴れしたのはその朝比奈義秀で、幕府方の武士を次々討ち取り、和田一族で唯一幕府方に付いた従兄弟の高井重茂とはお互い馬上で組み打ちとなって、双方落馬の末に義秀が重茂を討ち取っています。この合戦で義秀を落馬させたのは重茂だけだったとか。続いて義秀が馬に乗り直す前に北条氏一の剛の者の義時次男朝時が切りかかるも、返り討ちにあい負傷して逃れます。馬に乗り直した義秀に鎧の袖をつかまれた足利義氏はとても敵わんと馬を飛ばしたところ幸運にも袖が外れ、さらに家臣が間に入って討たれたこともあり、大急ぎで馬を飛ばして逃れることができました。さらに義秀が武田信光と戦おうとすると、息子の信忠が割って入り、死を覚悟して父を守る心意気に感じて義秀は見逃したとあります。これらの記述は軍記物語的で、おそらく各御家人またはその子孫の報告を基に再構成して列挙されたエピソードと推測されています。『明月記』や『愚管抄』には義秀の名は一切出てきませんが、鎌倉においては義秀の鬼神のごとき活躍は語り草となっていたのでしょう。しかし泰時が防戦につとめ、兵の少ない和田勢は徐々に劣勢となり、由比ヶ浜に一旦退きます。広元が政所へ文書を取りに行ったのはこの時のこと。
 明けて翌3日。和田勢への味方として、縁戚でもある武蔵国横山党の横山時兼らが合流。義盛と時兼はもともとこの日を挙兵と決めていたとのことで、義盛は何らかの理由で半日早く挙兵したようです。その理由については、幕府方の態勢が整わないうちに奇襲攻撃をかけた(坂井『源氏将軍断絶』、呉座勇一『頼朝と義時』講談社現代新書)、『明月記』にある義盛討伐の密議を知ったため(山本『史伝 北条義時』)、八田知重の報告で挙兵がバレたため(永井晋『北条政子、義時の謀略』ベストブック)など諸説あるようです。援軍を得た和田軍は再び士気が上がり、逆襲に転じます。一方、前記の通り西相模から曽我・中村・二宮・河村らが駆けつけるも、どちらに味方すべきかわからず参戦しなかったため実朝が花押を加えた御教書を送り、それによって幕府方に加わっています(ドラマでは和田勢へ援軍するために来たとされてましたが、これは横山党とごっちゃになったのかな?)。さらに千葉成胤(胤綱の父)も幕府方に駆けつけ、泰時も奮戦して、義秀ら和田勢と激戦が展開されますが、ついに和田勢の主力武将の1人の土屋義清が流れ矢に当たり討死。さらに義盛4男義直が討死すると、義盛は「もはや合戦を続ける意味もない」と号泣して落胆。ついに討ち取られました。和田勢は総崩れとなり、5男義重・6男義信・7男秀盛も討死し、嫡男常盛とその嫡男朝盛・3男義秀・横山時兼らは敗走して、合戦は終結しました。以上の『吾妻鏡』の記述に対して、『明月記』では隣国より来援した千葉成胤が和田勢を追い立て、三浦義村が退路をふさいで打ち破ったとあり、『吾妻鏡』は千葉と三浦の功績を泰時の功績に置き換える曲筆を行っているとのこと。
 翌4日、常盛と時兼らは甲斐国で自害。朝盛は京に逃れ潜伏し、後年の承久の乱において後鳥羽上皇方として参戦し幕府軍と戦っています。義秀は残存兵と共に500騎、船6艘で安房国に渡ったとされますが、『明月記』には残存兵500騎が船6艘で安房国に渡ったとはあるものの義秀の名はありません。その後の消息は不明で、『和田系図』では高麗へ渡ったとしているそうですが、さすがにこれは信じがたい。
 泉親平の乱で陸奥国に配流された義盛の甥胤長は9日に処刑され、また大将軍として擁立された頼家遺児(千寿丸とされる)は11月に政子の命で御所で出家して栄西のもとで僧になりましたが(『尊卑分脈』の栄実とされる)、翌1214年11月に京で義盛・義清らの残党が頼家遺児を擁して挙兵しようとしているとの噂が聞こえたため、在京する幕府の武士が襲撃して自害しています。

 うーむ、やっぱり長くなっちゃったな。ちなみに今回取り上げた中で『13人』に出てない人のうち、和田常盛、朝盛、武田信光、千葉胤綱は『草燃える』には出てきたようです。また前回取り上げた人では渋河兼守と安念が、前々回取り上げた人では東重胤が『草燃える』に出てきたようで。総集編は観たけど全然覚えてないな。それから『草~』の義秀役が『踊る大捜査線』の署長役の北村総一朗だったらしい。全然イメージわかんなあ。義盛を伊吹“格さん”吾郎が白髪カツラで演じてたことしか覚えてません。また21歳か31歳で死んだ胤綱の役の俳優が65歳の人だったそうで(笑)。どう考えても上記エピソードではないだろうから、承久の乱のあたりで出てきたのかな?



#11273 
バラージ 2022/10/28 21:04
鎌倉史追記 円満離婚?

 そういえば書き忘れてましたが、今のところネタバレになるのかならないのかよくわからないけど、史実においては前回か前々回放送の時代に北条泰時と正室の矢部禅尼(『13人』では初)はすでに離縁しています。離縁の正確な時期は不明ですが、泰時の継室(後妻)である安保実員の娘が泰時の次男時実を1212年に産んでいるので、それ以前には離縁していたと思われるとのこと。離縁の理由も不明ですが、離縁後も北条氏と三浦氏の関係が悪化しておらず、矢部禅尼が1203年に産んだ泰時の長男時氏が嫡男のままなので、双方納得の上での円満離婚?だったと思われます。
 矢部禅尼は泰時との離婚後は父三浦義村の従兄弟の佐原盛綱(父佐原義連が三浦義澄の末弟)と再婚しており、そのため矢部禅尼が産んだ盛綱の息子3人は北条氏が三浦氏を滅ぼした1247年の宝治合戦において母方の甥の北条時頼の側に付きました。三浦本宗家や他の佐原流が滅亡したため、禅尼の子の盛時が三浦宗家の家督を継承することが許され、三浦氏を再興しています。矢部禅尼は1256年に死去し、孫の時頼は50日の喪に服しているとのこと。
 つまり矢部禅尼は大河ドラマ『北条時宗』の序盤にはまだ生きてるんですが、話が煩雑になるのを嫌って出さなかったのかな。『13人』でも今のところ離婚の気配もありませんが、時代をずらして描くのか、それともやはり話が煩雑にならないようにこのままスルーしちゃうのか。そういや泰時と初(矢部禅尼)の子供が生まれた気配もないよなあ。時氏は承久の乱にも出陣してるはずですが。



#11272 
バラージ 2022/10/28 00:47
今週の鎌倉史 歴史の闇に消えた

 今週の『13人』、僕はながら観で気づかなかったんだけど、泉親衡を演じてたのが生田斗真、つまり源仲章の変装だったとのこと。なるほど、その前のシーンで後鳥羽ら朝廷の面々がなんか悪巧みしてたのが前フリだったのね……って、いやどう考えても御家人連中に面が割れてんだろ! 仲章、しょっちゅう鎌倉に出入りしてんだし!
 それとずっと気になってたのが、京の朝廷のシーンが特に後鳥羽上皇になってからずっと狭い同じ部屋ばっかりで……。朝廷というより、どっかの部屋を間借りしてるように見えてしまう。10年前の『平清盛』の時はそんなことなかったと思うんだけど、予算がそんなに苦しくなってんのかなあ? それとも脚本や演出による意図的なもの? 舞台的・演劇的演出みたいな。出てくる人もいつも同じ4人(後鳥羽、藤原兼子(卿二位、卿局)、慈円、仲章)ばっかりで、『13人』は登場人物が『草燃える』に比べると全体的にリストラ気味ですが特に朝廷側は登場人物が10分の1ぐらいに激減しています。慈円が後鳥羽の知恵袋みたいになってるのもどうも。天台座主として相談役の1人ではあったでしょうが、承久の乱直前に成立したと言われる『愚管抄』は後鳥羽の挙兵を諌めるために書かれたとも言われており、もうちょっと距離を取っていたんではあるまいか。なお、劇中では描かれませんでしたが後鳥羽は前回にあたる1210年に、土御門天皇から弟の順徳天皇へと譲位させています。

 さて、今週は泉親衡の乱。史実における展開は『吾妻鏡』によると以下の通り。
 1213年2月、信濃国の青栗七郎という武士の弟の阿静房安念という僧が千葉成胤を訪ねてきて、謀反への助力を頼み捕らえられたことが事件の始まりでした。成胤は安念を義時に引き渡し、義時は実朝に報告。実朝は広元と相談して安念を尋問するよう命じたところ、翌日までに安念は全てを白状し、謀反の一味が一網打尽に捕らえられました。主要参加者130人余、その仲間が200人という大規模な企てで、首魁は信濃国の御家人の泉親衡(親平とも)。2年前から計画を立て、仲間を集めて頼家の遺児(『吾妻鏡』『愚管抄』に名は記されてないが、『北条九代記』『尊卑分脈』では千寿丸または千手丸とされる)を大将軍として義時を討とうとしていたとのこと。翌3月、幕府は親衡の隠れ家を突き止め捕縛の武士を遣わすも、親衡はその武士らと戦い数人を打ち殺して逃亡。そのまま行方不明となっています。

 謀反の一味として捕縛された中に幕府の重鎮である和田義盛の4男義直と5男義重、甥の胤長が含まれていたことから、これが和田合戦の序曲となっていくんですが、そもそもこの事件にはいくつかの疑問点があります。まず首謀者の泉親衡がよくわからない。『尊卑分脈』によると信濃源氏出身とされますが、この事件以前には全く姿を見せておらず、そんな人物がなんで鎌倉で130人もの謀反賛同者を集められたのか不思議です。しかも逃亡して行方不明となったまま、2度と現れませんでした。親衡をはじめ参加者に信濃の武士が多いことから源義仲の残党、あるいは義仲滅亡後に頼朝から信濃国を拝領したと推測される比企氏の残党が企んだと推測する説もありますが、それにしても大がかり過ぎる。そのため事件は和田氏を陥れようという北条義時の陰謀で、親衡はその手先だったとする説もあります。90年代あたりはそのような義時黒幕説がわりとメジャーだった記憶。でも義盛を陥れるためだとしたら手が込みすぎているし、もし万が一親衡が捕まって自白してしまったらどうするんだなどと考えるとリスクが大き過ぎるように思われます。
 むしろストレートに黒幕は和田氏の側だったと考えたほうが納得しやすい。親衡が謀反を企て始めた1211年は義盛が上総国司任官の願いを取り下げた時期にあたります。『13人』にもあったように義盛は1209年に上総国司任官を実朝に内々に願うも、実朝に相談された政子は否定的でした。しかし義盛は「一生の余執」とまで述べて正式に嘆願書を提出。義盛は当時すでに63歳で、嫡男常盛への家督継承を見据えて家格を上げておきたいと考えたと推測されています。一時は実朝も善処を約束しますが、結局1211年に後鳥羽上皇の近臣である北面武士の藤原秀康が上総介に就任。実朝には推薦はできても決定権は朝廷の側にあり、義盛の期待には応えられませんでした。義盛はあきらめて嘆願書を取り下げてますが、義盛の上総国司任官には北条氏の反対もあったと思われ、和田一族には義時への反発が高まっていたと思われます。義盛自身もさることながら特にその息子世代には、他の御家人より上位の座を占めつつある義時への反感や、将軍として頼りにならない実朝に対する不信感が広がっていたと思われ、親衡を焚き付けて謀反のリーダーに祭り上げたという可能性も全くないとまでは言えないように思います。実際、『明月記』には春に謀反(泉親衡の乱)を起こした者が改めて結集しているとの噂や落書があり、首謀者は義盛だとされた。義盛は実朝に弁明して許されたものの、御所で義盛討伐の密議が行われており、その動きを察知した義盛はさらに兵を集め、謀反の計画を立てたとあるそうです(山本みなみ『史伝 北条義時』小学館)。『愚管抄』にも義盛が義時を深く妬んで討とうとしたが、それが露見したので合戦に及んだとあり、『保暦間記』にも義盛の息子たちが頼家遺児の擁立を謀り、義盛も同意したため合戦となったとあるとのことで(『史伝 北条義時』)、事件に和田氏が深く関わっていたのは間違いないと思われます。

 次に不思議なのは、事件に対する実朝の態度が妙に鷹揚で融和的なこと。『吾妻鏡』によると、上総国より駆けつけた義盛の嘆願を受けた実朝は息子の義直・義重を許してしまっています。義盛は自身の長年の勲功を訴えたとあり、実朝らしい情緒的な判断とも言えますが、一味が頼家遺児を担いでいたということは、場合によっては実朝自身も廃されかねないとも考えられ、ずいぶん甘い対応とも言えます。坂井孝一氏は計画の攻撃対象はあくまで義時で、実朝は自らが攻撃対象になっていなかったため事態を楽観視していたのだろうとし(『源氏将軍断絶』PHP新書)、呉座勇一氏は捕らえられた安念の尋問には拷問も伴っただろうから供述には実際の計画よりだいぶ尾ひれがついていたと思われ、実朝も謀反計画には半信半疑だったのではないかとしていますが(『頼朝と義時』講談社現代新書)、個人的にはどちらも今一つ納得しがたいように感じます。
 胤長が配流され、義時が胤長邸を家臣の金窪行親と安東忠家に与えて、和田氏の義時への反感が頂点に達すると、和田常盛の嫡男(義盛の嫡孫)で実朝の近臣だった朝盛が出家して京へ向かおうとして一族に連れ戻されています。朝盛は弓ばかりでなく和歌もよくする武将で実朝に寵愛されており、名前から実朝の偏諱を受けていたことも推測され、一族と実朝の板挟みになったためとされています。しかし和田氏の目的があくまで義時を倒すだけで実朝に反逆するわけではないのなら、そこまで追いつめられることもなかったはず。義盛自身はともかく、その息子たちは実朝を廃して頼家遺児を擁立する可能性も考えていたんではないでしょうか。和田合戦の翌年には京で和田氏の残党が政子によって出家させられた頼家遺児を擁立して反逆を企んだとの噂が流れ、幕府方によって討たれており、やはりその可能性はあったのだと思われます。
 ただ、同じく『吾妻鏡』にある、拘束先から脱走した薗田成朝が馴染みの僧に出家を勧められ、謀反計画への参加を認めつつも受領になる望みを叶えられない限り出家しないと言って逐電したと実朝が聞き、その志に感心して恩赦の命令を出したとか、処刑すると決定された渋河兼守が無実を訴えた和歌10首を詠んで感じ入り、これを許したなんて話はいくらなんでもでさすがに信じがたく、説話類の混入なんではないかと。ただ、実朝の情緒的な性格からこのような逸話が発生したという可能性はありそうです。

 さて、事件の首謀者である泉親衡は前記の通り逐電して行方不明となり、2度と姿を現しませんでした。それがこの事件の謎を深くしてるとも言えますが、確か以前も書いたような気がするけれど、実はこのような大事件を起こしながら逃げて行方不明となった人物は、この時代には他にも何人かいます。1201年の建仁の乱の首謀者の1人である越後の城資盛もそうで、またネタバレは避けますが来週の『13人』にも1人いたりします。彼らがどうなったかは不明ですが、見つからないよう人気のない山奥とかを逃げてるうちに足を滑らせて転落し、動けなくなって誰にも発見されないまま死んで、遺体も誰にも見つからなかったとかなのかもしれません。歴史の真実というのは意外にそういう非劇的で散文的なものなのかも。


>前回の追記
 そういえば竹宮惠子の『マンガ日本の古典 吾妻鏡』では、疱瘡から回復した後の実朝の顔中に創痕がある“あばた面”がばっちり描かれてました。下巻の表紙にもなっています。『13人』ではお茶の間に不快感を与えない程度におさめられてたかな。
 また義時が泰時の従者の鶴丸に平盛綱の名を与えてましたが、名付け方が甚だ適当だったような。本当に何の根拠もない100%の思い付きといった感じで、もう少し何か根拠や展開があっても良かったんでは? 脚本のせいか演出のせいかなんともおざなりな描写だったように思います。
 あと、そのまた前の回に阿野時元が出てきてましたが、『吾妻鏡』では時元は実朝の死後にしか登場しません。阿波局(『13人』では実衣)も1203年(もしくは1205年)を最後に、1227年の死亡時まで登場しておらず、この時期の阿野氏についてはほとんど不明です。



#11271 
バラージ 2022/10/22 22:50
今週の鎌倉史 和歌者のすべて

 北条時政失脚後は事件が少ないと前回に書きましたが、今週の『13人』はそれを逆手に取って(?)1209年から1212年までの4年間を1日の出来事として描くという荒業に(笑・ナレーションの長澤まさみも登場してたな)。そして1205年から1209年までは省略されてしまいました。まあ、一応歴史上の展開はあるので描かないと話がつながらないけど、だからといっていちいち細かく描くほどの話でもないということで、上手いやり方ではあるとも思いますが、おかげでネタが詰め込み状態に。

 まず今回は源実朝の疱瘡(天然痘)が治ったというところからドラマが始まってました。実朝というと歴史学においても古くから「北条氏に実権を握られた傀儡」「悲運の歌人将軍」といったイメージで語られてきましたが、近年そのイメージを覆す見解を提示しているのが他ならぬ『13人』の時代考証を手掛ける坂井孝一氏。坂井氏は当時の和歌は貴族社会では必須の教養であり政治的ツールそのもので、実朝は1209年には従三位の公卿に達し政所を開設して親裁を開始しており、実朝は北条氏の傀儡などではなく政治に積極的に取り組んだ賢君だったとして高く評価し、政治から遠ざけられて和歌に溺れた惰弱な将軍という実朝像を否定しています(『源実朝』講談社選書メチエ、『源氏将軍断絶』PHP新書)。呉座勇一氏も基本的にそれを支持している(『頼朝と義時』講談社現代新書)ようですが、僕個人の考えとしては坂井氏は実朝をちょっと持ち上げすぎというか贔屓の引き倒しというか、少々過大評価しているように感じられます。実朝が北条氏の傀儡ではないという検証については非常に説得力がありますが、賢君だったというのはいくらなんでも言い過ぎなんではないかと。各論部分については今後実朝関連ネタが出てくるのを待ちますが、正直ちょっと無理のある強引な解釈が多いように思います。
 坂井氏の実朝評価については山本みなみ氏による反論があり(『史伝 北条義時』小学館)、そちらのほうに説得力があるように感じます。山本氏によると、『13人』でも描かれた通り1208年2月に疱瘡に罹患した実朝は、回復まで2ヶ月もかかっており、かなりの重症だったと思われます。そのため実朝は疱瘡の創痕をはばかって、幕府の公的行事で最も重要なものの1つである鶴岡八幡宮への参詣を1208年2月から1211年2月までの3年間行っていないとのこと。その期間には将軍が箱根権現・伊豆山権現と三嶋大社に参詣して幕府の安泰を祈願する二所詣も行われておらず、将軍が重要な幕府祭祀に参加できないという状況が生じており、幕府はこの異常事態を実朝の代理として義時や大江広元・親広父子が鶴岡八幡宮への奉幣使を務めることで乗りきっているそうです。また山本氏は「慈円自筆書状写」に、この時期の実朝が将軍御所に3年間籠居していたと記されていることから、この時期の実朝がどこまで親裁権を行使できたのか慎重に考えるべきだとしています。実際、『吾妻鏡』を読むと実朝はその後もたびたび病に臥せっており、かなり病弱な人だったことがうかがわれます。
 また実朝はその籠居していた時期に和歌の創作に没頭していましたが、そんな中で『13人』でも描かれたように、1209年11月に切的という弓で的を射る競技が行われました。義時が弓馬の事を忘れないよう実朝に諫言したためとのことで、勝負形式で行われ負けた方が勝った方を酒宴でもてなしたそうです。その際、義時と広元が「武芸を重視して朝廷を守護すれば幕府は長く安泰なことでしょう」と実朝に遠回しに諷諫したとあります。坂井氏は義時が酒に酔った勢いで29歳年下の甥に人生経験を語ってしまったのだろうとし、呉座氏は『吾妻鏡』は北条氏の幕府支配を正当化しているため頼家・実朝には否定的だから割り引いて考えるべきだとしていますが、山本氏は籠居した状態で重要な幕府祭祀に参加できない実朝が武芸への関心も失えば御家人たちの信頼を失い幕府の安定が損なわれかねないと義時・広元らは危惧していたとしており、そちらのほうに説得力があります。実際『吾妻鏡』にはその後も実朝が武芸に関心を示した形跡がなく、1213年には御家人の長沼宗政が実朝を「和歌や蹴鞠ばかりを重んじて、武芸は廃れたようなものだ」と批判する事件が起こっています。山本氏は坂井氏による和歌・蹴鞠に長じた実朝への高い評価を引用した上でその効用を認めつつも、武家の長である以上それは武芸にも長じていることを前提としたものではないかと疑問を呈しており、頼朝・頼家も和歌・蹴鞠に才を発揮したが彼らは同時に弓矢の達人でもあったとして、上記の義時・広元・宗政や『愚管抄』著者である慈円の実朝批判を引用して、当時から実朝は文弱な将軍と評価されていたとしています。永井晋氏も御家人たちに武威を示せない実朝の権威には限界があったとしており(『鎌倉源氏三代記』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)、個人的にはそちらのほうに説得力を感じますね。

 個人的には実朝という人は頼朝や頼家に比べて格段にわかりにくいというか不可解な人だなと思っています。実際、実朝の時代の施策については研究者の間でもかなり見解が分かれているものが多い。例えばこれまた『13人』でも描かれてた実朝に子供ができなかった問題。実朝は20代半ばまで子供ができなかったにも関わらず側室も置かず、自らの後継者に血のつながりのない後鳥羽上皇の皇子を迎えようとしたことから様々な推測がされています。『13人』のように女性に興味のない男色家だったのではないかとする推測もあれば、肉体的欠陥によって性行為を行えなかったという推測もあり、また単に子供ができなかっただけとか、単純に「不明」で片付けるものもあります。そもそも推測する手がかりが全くないので、いずれの説も推測というより想像に近い。坂井氏は『源実朝』では肉体的欠陥か性的志向と推測してましたが、『源氏将軍断絶』では正室である坊門信清の娘(『13人』では千世)との夫婦仲の良さに加えて、彼女が後鳥羽の従兄弟であったことから他に側室を持つことがはばかられたのではないかとしています。しかしこれはいくらなんでも想像の飛躍が過ぎるように思え、納得できかねますね。ともかく実朝という人はよくわかんない人だなというのが僕の印象。
 また、実朝の行動や政治的判断にはやや感情的で極端な傾向も見られるように感じます。『13人』ではすっ飛ばされた1206年に、本領の上総国に下国した実朝側近で歌人としての才があった東重胤が、実朝の和歌に託したたびたびの帰還要請にも関わらず遅参したため、怒った実朝によって籠居に追い込まれるという事件がありました。困った重胤は義時邸を訪ねて相談すると、義時は実朝に和歌を贈ることを勧め、自分も実朝に取りなすことを約束。義時が重胤の和歌を実朝に披露すると、実朝はいたく気に入り3回も吟じた後、重胤を許して御所に迎え入れたとあります。そもそも怒るのは当然としても籠居にまでするのは厳しすぎるんではないかと思うんですが、それ以上に良い和歌を作ったら許されちゃうというのもなんとも。なんというか実朝という人は非常に感情の起伏が激しいことがうかがわれ、このあたりは親父の頼朝ではなく母親の政子に似たんではないかなあ。
 また『13人』でも描かれてた義時の次男朝時の女性問題。これもドラマではずいぶん脚色されてましたが、『吾妻鏡』によると朝時は1211年に京より下ってきた実朝正室の官女である佐渡守親康の娘(『13人』では「よもぎ」)に惚れて恋文を渡すも彼女がなびかなかったため、1212年5月のある日深夜に彼女のもとへ忍び込んで誘い出したことが発覚。それが実朝の怒りを買って、義時も朝時を義絶し駿河国に下向させたとのこと。いくらけしからんといっても京の公家なんかにはよくあることのようにも思え、何もそこまでという気がするんですが、義時が義絶という父子の縁を切るような処分までしているのは実朝の怒りがよほど凄まじかったからでしょう。このエピソードからも実朝が好悪の感情が強く、すぐ頭に血がのぼりやすい感情的な人物であることがうかがえるように思います。なお朝時は北条氏と和田氏の緊張が高まった翌年には義時に呼び戻されており、和田合戦で活躍してなし崩し的に許されたようです。ただしこの事件によって義時の嫡子としては廃嫡されたことも確かなようで、以後は一貫して泰時の下位に置かれています。

 ちなみに『13人』では坂井氏が時代考証を務めているため傀儡ではない賢君という新たな実朝像が描かれるかと思いきや案外そうでもなかったのは、実朝を持ち上げるとその分主人公の義時が沈んでしまうためでしょう。ドラマでは義時が家臣の平盛綱を御家人にしてほしいと実朝に要望し、それが却下されると実朝を恫喝するというシーンがありました。これは大枠では『吾妻鏡』にある話ですが、やはり詳細は違ってます。1209年、義時が自らに長年仕えた家臣のうち功績ある者を御家人に準じた身分にしてほしいと実朝に要望するも却下されてるんですが、実朝は将軍の陪臣(家臣の家臣)を御家人扱いするとその子孫がもともとの出自を忘れ、北条氏ではなく幕府に直接奉公しようとする可能性があるため望ましくないと答えたとのこと。ドラマでは実朝に拒否された義時が逆に恫喝してましたが、史実ではそんなことはなく単に却下されただけです。しかしそれでは義時が実朝に怒られただけみたいになって、義時主人公ドラマとしては困るんでしょうね。ここに義時を主人公とする難しさがあります。
 義時は『草燃える』でもそうだったように、『13人』でも後半徐々に悪人化してきましたが、史実としてどうかは別として、創作作品ではそうでもしないとキャラが立たないという問題があります。創業者としての美味しいところは頼朝が全部やっちゃってますし、史実の義時はダメな二代目を必死に支える番頭さんといった感じですが、でもそれじゃあ物語の主人公としては面白くないですよね。平岩弓枝の伝奇小説『かまくら三国志』や、安彦良和の伝奇マンガ『安東 ANTON』では義時はラスボス的悪役でしたが、それらの作品での義時が1番キャラ立ちしているのも確かで、昨年出版された大河便乗の義時小説はいずれも義時の性格付けに苦労しているように見えました。
 なお『13人』での平盛綱の出自はもちろんフィクションですが、史実における盛綱の出自がはっきりしていないのも確か。盛綱は得宗被官として泰時から時頼の代まで仕えており、大河『北条時宗』では時頼の御内人として登場してましたね。やはり氏素性の定かでない男を養子とし、それが平頼綱という破天荒な設定になってました。ただし頼綱の父は盛綱ではなく平盛時という説もあるようです。執権泰時の初代の家令(後の内管領)となったのは尾藤景綱で、盛綱は景綱の後を継ぎ2代目の家令となったようですが、どうやら景綱は出てこないかな。というか義時の被官(家臣)である金窪行親や安東忠家はいつ出てくるんだ?とずっと思ってたんですが、この分だと出てこないんだろうなあ。



#11270 
バラージ 2022/10/20 21:27
「元始、女性は太陽であった」という言葉は子供の頃に中森明菜の歌で知りました(笑)

 正確には中森明菜の歌のほうのタイトルは『原始、女は太陽だった』。

 平塚らいてうは脇役として2015年10月~16年3月の朝ドラ『あさが来た』に出てきてましたね。僕はたまたま観ましたが確か1週だけのゲストキャラで、主人公(モデルは明治~大正の実業家・教育者の広岡浅子)が創設した女子大の学生・平塚明として登場し、主人公を批判するという役どころでした。その次の朝ドラ『とと姉ちゃん』にも平塚はゲストキャラとして出てきたようで、こちらはすでに大家となった後。出版社を経営する主人公(モデルは雑誌『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子)姉妹が原稿を依頼するという流れだったようですが、僕はそのあたりは観ていません。また1985年の大河ドラマ『春の波涛』にも出てきたみたいです。

 大杉栄は1995年のNHK単発ドラマ『涙たたえて微笑せよ』に出てきた記憶あり。大正時代の流行作家・島田清次郎(マンガ『栄光なき天才たち』でも描かれてた)を主人公とした作品で、島田が大杉に傾倒し心酔していたという設定でした。またギロチン社を題材の1つとした2018年の映画『菊とギロチン』にも大杉はちょこっと出てきてましたね。他にも大杉の出てきた作品は結構あるようで、1960年の新東宝映画『大虐殺』(関東大震災後の朝鮮人虐殺と甘粕事件・ギロチン社事件を描く)、1970年のATG映画『エロス+虐殺』(日蔭茶屋事件をモデルとした前衛映画。当時存命だった登場人物は仮名にされているようで、平塚らいてうは平賀哀鳥の名で登場するようです)、1988年の映画『華の乱』(与謝野晶子を中心に大正時代の文化人群像を描いた、これまたフィクション色の強い作品)などに登場しているとのこと。2014年のテレビドラマ『足尾から来た女』にも出てたようですね。
 伊藤野枝は上記の大杉登場作品のうち、『大虐殺』『エロス+虐殺』『華の乱』に出てきたようです。『涙たたえて微笑せよ』にも出てきたかもしれないけど記憶にはありません。



#11269 
徹夜城(明日から泊りがけでお出かけする管理人) 2022/10/19 23:09
なぜか最近いろいろ立て込んで

 特に今週はあれこれと用事が立て込んでしまいまして、カネにもならんことで多忙になってます(笑)。

>BSドラマ「風よあらしよ」
ちょいと遅れましたが、全三話を見届けました。この辺、事前知識はほとんどなかったので展開があまり分からずかえって楽しめました。わずか三話とはいえ、NHKドラマはちゃんと金かけるなあとまず思いました。
主人公は伊藤野枝、平塚雷鳥に触発されて青踏社に入り女性運動家に。やがて大杉栄と恋愛関係になり、ここで大変なスキャンダルも起こるわけですが、ともかく大杉と実質夫婦・同志として活動…まぁ結末については書きますまい。

 平塚雷鳥も意外と映像作品で出てきたことないんじゃないかなぁ。今回は脇役で登場しました。大杉栄だってこれまで何かで登場したことがあったかどうか。
 見終えた感想として、幻に終わった東映映画「実録・日本共産党」が実現していたらこんな感じだったかもな、ということでした。あれも実在の女性運動家が主人公で、
共産党活動家と大恋愛で悲劇になりますしね。「仁義なき戦い」のスタッフ・キャストで作る予定だったので雰囲気は今回のものに結構近かったかもなと思ったわけです。


>倭寇イメージ
 バラージさんがご紹介の本も「新書太閤記」も未読なのですが、戦前というか戦中における倭寇イメージって結構肯定的だったんじゃないかなと思ってます。太平洋戦争ごろだと「倭寇」は日本人の南洋進出、世界進出と重ねてとらえられていて、あの宮崎市定もそういうタイトルの論文を書いてますね。
 後期倭寇については構成員の大半が福建や広東人だったりするのでそういうイメージは現実とは乖離するんですが、その辺は巧みに逃げていたような。これが戦後になると倭寇を「階級闘争」として別の意味で肯定的にとるものも出てきてますが、あまり広まってはいないかな。
 九鬼水軍が倭寇とつながるかは…村上水軍だってどうだろうな、と僕は思ってますが、ともかくこうした水軍・海賊勢力が南朝側につくことが多かったのは確か。南朝につくのって非主流派傾向がありますし。ただそれが南北朝合一後に足利に逆らってたかは微妙かな、と。

 呉座さんといえば、つい先ほどyoutubeで偶然ご本人が大河ドラマについて延々熱く語っておられるのを発見、聞き入ってしまいました。さる日曜日夜に配信したもので、「鎌倉殿」をメインに過去のさまざまな大河ドラマについてとめどなく話しておられて、ああ、この人も好きなんだなぁと。リアルタイムでは「太平記」が最初、とおっしゃてて、「太平記」についても少し言及(NHKの歴史番組で映像がやたら使われる、とか)されてました。


>ルパン三世のコラボ
 「コナン」に続いて「キャッツアイ」か。アニメ制作会社は同じだけど作者はまったく異なるし、僕はどうしてもこの手の企画には無理を感じるんですけどねぇ(実際「コナン」とのコラボも未見)。
 ま、考えてみると他の作家の創作キャラを自作に勝手に出して「コラボ」の源流をつくったのはルブランの「ルパン対ホームズ」になっちゃうんじゃないかと。



#11268 
バラージ 2022/10/17 11:22
平家物語なのに平家の出番が少ない

 『人形劇 平家物語』第2部の前半6話を視聴。いよいよ源平合戦に突入です。なんかツッコミどころが一気に増えたような。
 そういや『親鸞と日本主義』(中島岳志、新潮選書)を読み直してみたら、1931年頃に吉川英治が、腐敗した貴族政治を倒そうと立ち上がった平将門を世相に重ね合わせて描きたいと言ってるインタビューが紹介されてて、やっぱりそういう考えを持ってたんだ。そういう考えが戦後にも持ち越されたんだなと思った次第。まぁ読んだのにすっかり忘れてたですけど(笑)。ちなみに吉川が平将門を書いたのは結局戦後になってからのようです。

 さて人形劇。まずは鹿ヶ谷事件ですが、ここはまぁ当然ながら通説通りの展開です。実は近年、新説が唱えられてるようで、この事件については諸説あるようです。この頃、後白河法皇およびその近臣と山門(比叡山延暦寺)の対立が激化し、後白河は平家に山門攻撃を命令するも、清盛ら平家は山門攻撃には反対で、後白河に諫言するも押し切られてしまいました。その直後に平家打倒の謀議で院近臣がまとめて捕らえられる鹿ヶ谷事件が起こっており、清盛が山門攻撃を回避するためか院近臣勢力を一掃するために起こしたでっち上げとする説も有力なようです。しかしおそらく原作はもちろん、人形劇でも山門云々の話は無し。時代的にそこまで研究が進んでなかった可能性もありますが、物語的にも神輿に矢を射た清盛の革新性という創作と矛盾しちゃいますもんね。ちなみに古典『平家物語』で有名な、他の2人と島流しにされた俊寛が1人だけ帰れないという話もやってました。国語の古文の教科書だったか副読本で読んだなあ。でもこれ史実としては確認できない話のようです。
 それにしても朱鼻の伴卜とか時忠(だったかな?)とかに散々平家打倒の企てがある、法皇も怪しいとか言われてんのに、なぜか一笑に付し、しまいには怒り出す清盛。しかし多田行綱の密告でほんとに謀議があったことを知って激怒……ってやっぱり回りの人の言ってたことのほうが正しかったじゃねーかよ! 「法皇様がそんなことをなさるはずがない」とかなんで清盛がそこまで後白河のことを信じてたのか不思議。しかもそんな事件があったのに、徳子の出産の祈祷に舅の後白河が訪れるとまた感謝して砂金を献上したりしちゃうし、なんだか清盛がお馬鹿さんに見えてしまう……。
 そして平家の良心?重盛が死去。息子にすがり付いて泣く二位尼時子……って前も書いたけど、あんたそれ他人の子ですよ?(笑) これ原作でもそうなのかな? 確かに『平治物語』『平家物語』とかでは重盛の母が誰かは触れてなかったかもしれませんが、歴史学的には当時でもすでに明らかだったんじゃないかと思うんだけど。あれ? そういや殿下乗合事件は省略か。「平家にあらずんば人にあらず」もなかったような(あったっけ?)。
 そういやTBS大型時代劇『平清盛』では、名取裕子演じる厳島神社の巫女の阿矢という女性がヒロインのようで、史実で清盛の妾だった厳島内侍がモデルのようですが、なんとこの阿矢が宗盛を産んじゃうらしい(史実では宗盛の母は時子)。いや~自由ですな(笑)。
 さて、後白河が死んだ重盛の所領を没収。さすがの清盛も後白河の仕打ちに激怒して、軍勢を率い福原から上洛し、後白河を鳥羽殿に幽閉。治承3年のクーデターです。清盛、感情の起伏が激しいなあ。しかしここのナレーションがまた後白河の非道を棚に上げて、皇室を蔑ろにする清盛の暴挙みたいな感じになってて、なんだかなぁとなってしまう。おそらく原作に準拠したナレーションの言葉遣いが、現代の皇室に対するような過剰な尊敬語なのも違和感。思い出したけど確か原作もそうで、そこがどうも個人的に合わなかったんだよなあ。
 そんなこんなでついに清盛はみんなの反対を押し切って福原遷都。しかしなんだかこのドラマの清盛の福原に対する思い入れは説明不足でいまいち伝わってこないような……。

 さて一方の源氏です。つーか第2部、平家物語と言いつつ源氏の話のほうが多くないか? おかげで肝心の平家の話が薄くなっちゃったような……。
 まず頼朝は北条政子と結婚し、なぜか文覚が仲人に(笑)。ってやっぱり伊東祐親の娘(八重)とのエピソードはなしかよ。吉川は『曽我物語』は参照しなかったんかなあ? それとも曽我兄弟の仇討ちの話だろうからと思ってもっと後になってから読んだとか? 吉川は戦前に『源頼朝』を書いてるけど、そっちでも出てこなかったみたいだし。どうも吉川は頼朝に思い入れを持てなかったようで、『源頼朝』は平家滅亡で終わりにしちゃったようです。おかげで『新・平家』系作品には祐親娘は登場せず、『草燃える』も史実重視の姿勢なのか登場しなかったため、2012年の大河『平清盛』まで祐親娘は映像作品に出てこないことになっちゃいました。『新・平家』より後に山岡荘八が書いた『源頼朝』では祐親娘のエピソードがちゃんと出てくるらしいんだけど。でもそっちはさらに早く、義仲滅亡で物語が終わってしまうようで。
 そして以仁王の令旨を受けた頼朝がついに挙兵するも石橋山で敗れ、真鶴岬から安房国へ渡ろうとする頼朝のもとに身重の政子が駆けつける……って移動距離よ! さすがに身重の状態で伊豆から神奈川まで来るなんて無茶すぎるだろ。てか来られても足手まといになるだけだし……。対する頼朝も「わしは今、恋になど構っておれん」とかなんとか。もう夫婦なんだから「恋」と言っちゃっていいのかというのも気になりますが、それよりもこんな大変な時に来られても困るっていう頼朝の気持ちもわかるけど、いやそもそもあなたその後も亀の前とか大進局とか恋にかまけまくってますよ?(笑)

 続いて義経。ついに平泉へ……と思ったら、なぜか平泉から熊野くんだりまで舞い戻る義経。なんで? 理由は? ながら見でなんか見落とした? てか移動距離! そしてそこで身投げしようとする婆さんを助けて、義経が私の母になってくれとか言ったら、妙にベタベタしてきて京に行こうとする義経に、ババを捨てる気か!とすがり付く婆さん。ババア、うぜえ(笑)。助けなきゃ良かったのに(まぁ弁慶の母親なんだけど)。そこから義経が源行家・平時忠・弁慶と次々知り合う展開に。しかし義経と行家がそれ以前から知り合いみたいな感じになってたけど、これもそんな描写あったっけ? で、平家に捕らわれた行家の息子を救うために時忠のところへ直談判しに行くんだけど、義経いわく時忠殿は平家の中では話のわかる人だから……って、んな無茶な(笑)。いろいろと後の伏線にするためだろうけど、このあたりどうもちょっと無理が多い。義経と弁慶の五条大橋の戦いはここに持ってきたかとか、時忠の娘(夕花)が義経と絡んで、後に妻になることをナレーションで触れるのは上手いと思いましたが、ここで平家が直接義経を殺さない理屈なんかもかなり苦しいものがあります。そして義経は再び平泉に戻り(移動距離!)物語から姿を消すんですが、平泉も奥州藤原氏も全然出てこねーなあ。義経を描いたら、もうこの辺で出てそうなもんですが。

 最後に源義仲(木曽義仲)。回想シーンで親父の義賢が出てきたのにはちょっとびっくり。まさか出てくるとは思わなかった。大蔵合戦が映像作品で描かれたのは大河『平清盛』が初めてじゃなかったんですね(大河『新・平家』には義賢は出てこなかった模様)。しかしなぜか親父を殺した義平の弟の頼朝をまるで恨んでない様子。それだけならまだしも頼朝が義仲を警戒してるという家臣の言葉を、まさか頼朝殿がそんなことをと一笑に伏す義仲……ってまたこのパターンかよ! いや警戒するだろ普通。自分の兄貴が義仲の親父を殺してんだから。義仲が親父を殺した男の弟頼朝に敵意がない一方で、何の恨みもない平家を攻撃する理由も特に説明されてないんだよな。なんか源氏だから平氏を攻撃するのは当然みたいになっちゃってる。頼朝殿と共に平家を滅ぼそうみたいなこと言ってる義仲にすげえ違和感。
 それから巴がばっちり義仲の「妻」になってましたね。確か前も書いたけど、『平家物語』諸本では巴は義仲の便女(身の回りの世話をする女性)で、『源平盛衰記』のみで義仲の妾となってるだけ。ちなみに『平家物語』で最も古態を保ってるとされる「延慶本」では幼い頃より義仲と共に育ったとされているようです。さらに息子の義高がなぜか巴の子という設定に。義高の母は『吾妻鏡』ばかりか『平家物語』でも不明ですが、『尊卑分脈』では義仲の乳母子の今井兼平の娘になっているとのこと。しかしこれは年代的に合わないということで、兼平の父で義仲の乳母の中原兼遠の娘の誤りではないかとする説があるようです。一方、巴の出自も『平家物語』では不明ですが、『源平盛衰記』では兼遠の娘となっているそうで、その辺を組み合わせてこういう設定にしたのかも。ちなみに『源平闘諍録』では巴は兼遠の子で兼平の兄である樋口兼光の娘となっているらしい。しかしこの辺の続柄はどれも信用しがたい。とはいえ義仲の妻とか義高の母を新たな架空人物として設定するのも人物関係がごちゃごちゃしてめんどくさいってことでこういう設定にしたのかもしれませんね。



#11267 
バラージ 2022/10/14 20:46
倭寇プチネタ

 そういや『戦国武将、虚像と実像』(呉座勇一、角川新書)にほんのちょっとだけ倭寇ネタがありました。
 吉川英治の『新書太閤記』において九鬼水軍の人物が登場し、その人物が以前は倭寇だったことに引け目を感じていると秀吉に言ったところ、秀吉は「南朝の忠臣が逆賊の足利に従うのを潔しとせず、皇国の威を世界に示そうと倭寇になった云々」と言うシーンがあるとのこと。ずいぶん突飛な珍説ですが、戦前戦中当時は一般レベルでそのような説が唱えられてたらしいです。そしてそのような元倭寇が秀吉の朝鮮出兵・大明征服に参加していくというのが『新書太閤記』のもともとの構想の1つだったらしい。


>言った言わないどっちなの?
 自民党の三重県議小林貴虎が、安倍元首相国葬に反対するSNS発信の8割が大陸からだったとツイートし、差別ではないか?根拠は?と問われ、高市早苗大臣が政府の調査結果だと講演で言っていたとツイートした問題。
 当初は記者の追及に曖昧な答え方をしてた高市大臣が問い詰められて結局否定すると、小林県議もツイートを撤回した(当初は訂正と言ってたらしい)んだけど、両者とも具体的な説明は避けるという甚だ怪しい雲行きに。クローズ(非公開)の集会だからくわしい説明は控えるって何なんだよ。他の出席者も高市大臣のそのような発言があったか「記憶にない」と逃げを打つような回答をする中で、1人だけ「政府の調査結果とは言ってなかったが、個人的な感想を述べているニュアンスで『国葬反対のSNS発信の8割が隣の大陸の人かなと思っている』と言っていた。たぶんリップサービスだと思う」との回答が。さもありなんという感じで、このあたりが事実なんだろうな。タカ派の星と呼ばれ、安倍さんのお気に入りだった高市大臣の普段の言動から考えても、そういうことを言って不思議じゃないし、そもそもその講演を行った集会が日本会議で、小林県議は元統一教会と深い関係があると来れば、もうね……。熱烈な高市支持者らしい小林県議が、高市大臣の将来のためとかなんとかいう周囲の説得で、泥をかぶったんじゃないのかな? お前が余計なこと言わなきゃこんな大問題にならなかったんだぞとか言われて、詰め腹切らされたんでしょう。ある程度時間が経ってから撤回となったのも、その間に関係者間の意見のすり合わせが行われたんじゃないでしょうかね。
 それにしても小林貴虎って聞き覚えがあると思ったら、ちょっと前にLGBT否定でもっととんでもないことしてたのね。こんな人、県議続けさせちゃダメだろ。

 一方、安倍氏を国賊と言ったとされる村上誠一郎衆院議員は1年間の党役職停止処分に。謝罪しながらも本人は発言した記憶がなく、今一つ納得はしていない様子でした。こっちはこっちでどうも怪しいような。国葬を欠席すると言って実際に欠席した村上議員への見せしめっぽいんだよな。その発言が取り沙汰される前から、安倍派から相当攻撃されてたらしいし。
 しかしこういう真相は藪の中みたいな政争?を続けて見せられると、あんたら鎌倉幕府か!と思ってしまうのは今年の大河のせいなんでしょうか(笑)。

>わりとどうでもいい話
 『草燃える』の源実朝が篠田“ウルトラマンタロウ”三郎と書きましたが、よくよく考えると畠山重忠が森次“ウルトラセブン”晃嗣で、三浦義村が藤岡“仮面ライダー”弘、と特撮づいたドラマだったんだな(笑)。頼朝役の石坂浩二だって『ウルトラマン』のナレーションだったし。

>ルパン三世vsキャッツ・アイ
 なんとコラボアニメ『ルパン三世vsキャッツ・アイ』が製作され、2023年にAmazonprimeで独占配信されるとのこと。えー!マジ!?とちょっとびっくり。まあ、この手のコラボものはよくありますけど。僕は『キャッツ・アイ』は原作マンガが大好きでコミックスも全巻持ってますが、アニメは時々しか観てなかったんだよなあ。杏里が歌ってた有名な主題歌はもちろん知ってるし、あの曲も好きなんですけどね。でも予告編を観たら、かつてのテレビアニメ版と比べてもだいぶ絵柄が違う……。まぁ、しょうがないんでしょうけど。



#11266 
バラージ 2022/10/08 14:05
鎌倉史その2 とんだとばっちり

 鎌倉史、牧氏の変の続き。
 時政の失脚により、京にいた平賀朝雅も討たれてますが、『明月記』や『愚管抄』は地元の京で起こったそちらのほうがくわしく記されてます。特に藤原定家の『明月記』はほぼリアルタイムの情報だけに生々しい臨場感がありますね。それによると1205年閏7月26日の明け方、定家の召使いの男が急いで走ってきて、院御所に武士が大勢集まって旗指物が大量に見える(=合戦の支度をした軍勢がひしめいている)と知らせます。驚いた定家は人をやって様子をうかがわせますが、院御所への出入りは禁じられ門は厳重に警備されているとのこと。事情がよくわからず、未明のうちに主の九条良経邸を訪ねると、関東から「朝雅は謀反を起こしたから在京武士たちはこれを追討せよ」との実朝の判が押された書状が来て、院にも奏されたためだと教えられたそうです。合戦ではすでに兵を集めていた朝雅側がかなり善戦したようで、攻め手側にも結構被害が出たとのこと。そのためか攻め手側は朝雅邸に数度に渡って火をかけたようで、『愚管抄』によると朝雅は館から打って出て、包囲網を突破して大津のほうへ逃れようとしましたが、山科あたりで追い付かれたため自害したとあります。伯耆国守護の金持という武士が首を持ってきたため、後鳥羽上皇も車で門を出て御覧になったとも記されてます。このあたりは諸書で異動があり、『明月記』では金持が朝雅を討ち取った。金持は朝雅に恨みがあったらしいと記し、『吾妻鏡』では朝雅を追った武士の1人として金持広親の名もあるものの、討ち取ったのは山内持寿丸(後の山内首藤通基)としています。『明月記』には合戦の様子について、京中の恐怖は例えることができないとも書かれており、リアルな緊迫感がうかがえますね。
 『明月記』によると、朝雅は前夜に院御所の番を勤め内北面に出仕しており、他の出仕者たちと蓮華王院宝蔵の絵を見ていました。そこへ朝雅の従者がやってきて2人は何かを密談し、しばらく立ったまま問答をしていたそうです。やがて朝雅は座に戻り、再びみんなと絵を見ていましたが、しばらく経ってから、急用のため帰参しますと人々に告げて退出したとのこと。定家はこの時初めて自らが追討されることを知ったのだろうかと記しています。また『吾妻鏡』には、当日に朝雅は院御所で囲碁会に参加していましたが、そこへ召使いの子供が走ってきて朝雅を呼び、追討使が来たことを告げました。朝雅は驚いたり動じたりせず、座に戻って目の数を計算した後、関東より追討使が来たが今さら逃げるところもないので身の暇を給りたいと後鳥羽上皇に申し出て退出したと記されてます。『明月記』や『愚管抄』には記されてない情報なので事実かは今一つ定かではありませんが、事実だとしても前日に情報を得ていたなら落ち着き払っていて当然か。とはいえ義時側の史書である『吾妻鏡』にもこのようなエピソードが書かれているのは興味深い。『13人』ではなんだか公家みたいになよなよしい人物でしたが、『明月記』の記述と合わせてもなかなかに冷静かつ堂々とした武者ぶりで、伊勢伊賀平氏の乱鎮圧の手際など見ても朝雅はひとかどの人物であったのだろうと思われます。だからこそ武蔵守・京都守護に加えて伊勢守護・伊賀守護・伊賀知行国主に任じられたんだろうし、朝雅擁立の陰謀にもそれなりの説得力があったんでしょう。
 ちなみに北酒出本『源氏系図』によると朝雅の享年は24歳だったとのこと。なので『13人』の朝雅はやっぱりおじさん過ぎなんだよな(笑)。

 それから亀の前事件のあたりで牧の方の兄として出てきた牧宗親。この人については実は続柄について混乱があり、『愚管抄』では牧の方の父が大舎人允宗親という人物だとされています。牧宗親を牧の方の兄とするのは『吾妻鏡』で、『13人』は「原作は『吾妻鏡』」ってことでそちらが採用されたんでしょう。『愚管抄』で牧の方の兄とされるのは大岡時親という人物で、『吾妻鏡』にもやはり牧の方の兄として登場するんですが、宗親が登場しなくなったあたりで入れ替わるように登場するものの(宗親の最終所見が1195年で、時親の初見が1203年)、宗親と時親の関係については特に触れられてないようです。一応2人とも牧の方の兄なので兄弟なんだろうと思われますが、直接的にそう書かれてるわけではないみたい。そこで『愚管抄』と『吾妻鏡』の宗親を同一人物と見る説がある一方で、両書の宗親は別人で、『吾妻鏡』の宗親は時親と同一人物であるのを編纂時に間違えてしまったとする説もあるようです。
 時親は畠山重忠討伐に反対して帰宅した義時のもとに牧の方の使者として訪れ、「自分が継母だからと侮って、讒言者だと言うのか」という牧の方の怒りを伝えたため、義時は重忠討伐に同意したと『吾妻鏡』には記されてます。時政らは牧氏の変で7月19日に失脚しますが、時親もそれに連動して8月5日に出家しており、牧氏(大岡氏)も没落しました。『草燃える』『13人』ともに時親は登場していません。

 また同月に時政の娘婿である下野国の宇都宮頼綱も謀反を疑われ出家遁世しています。どうやらこれは完全に冤罪だったようで、姻族の小山朝政や結城朝光の尽力もあり追討は回避されています。義時・大江広元ら幕府首脳部も頼綱への疑いには無理があったことをわかっていたんでしょう。クーデターによる政情不安から誰もが疑心暗鬼になっていたものと思われます。頼綱は以後は京を拠点とし、浄土宗に帰依するとともに歌人としても名を成しました。やはり『草燃える』にも『13人』にも出てきませんが、映画『親鸞 白い道』に登場したようです。


>『主戦場』配信開始
 ドキュメンタリー映画『主戦場』の出演者が訴えた控訴が棄却され、二審も監督側の全面勝訴。それに合わせてデジタル配信が開始されました。ただ、配信してるのがMIRAIL(ミレール)というあまり聞いたことのないプラットホームで、配信の一般的料金はよく知らないんだけど、レンタル48時間で1100円てのはDVDレンタルに比べるとずいぶん割高のような……。でもまあその値段だけの価値はある映画です。

>名画座情報
『人斬り』……ポニーキャニオンよりBlu-ray&DVD化されました。
『お吟さま(1962年の映画)』『水滸伝(1983年の映画)』『エカテリーナ』『パン・タデウシュ物語』……DVD化はされていませんが動画配信されています。



#11265 
バラージ 2022/10/06 23:49
今週の鎌倉史 転落

 現在地元で公開中のウォン・カーウァイ5作品4Kレストア版を順次観賞しております。90年代に公開された頃の記憶の懐かしさと、今でも全く古びていない、むしろあの頃よりも面白く感じるウォン・カーウァイの先進性。その2つがない交ぜになった興奮の中で熱に浮かされて、鎌倉だの平家だのちょっとどうでもよくなってる今日この頃(笑)。
 しかしせっかく始めたことだし、残ってる興味と熱をかき集め、気力と脳ミソを振り絞って今回も鎌倉史の話を。ちょうどタイミング良く来週1回休みだし(笑)。

 『13人』は先週今週と2週に渡って牧氏の変(牧氏事件ともいう)。ついに時政失脚です。しかし今回もまた史実から大きく改変されているようで。
 『吾妻鏡』によると1205年閏7月19日、牧の方が奸謀を企み、時政邸にいる実朝を廃して平賀朝雅を将軍にしようとしているとの噂が流れました。そこで政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景らを時政邸に遣わして、実朝を迎え取らせます。実朝が義時邸に入ると、時政が召し集めた武士たちはことごとく義時邸に移り実朝を守護。同日、時政はにわかに出家し、同時に出家するものが多数に上ったということです。翌20日、出家した時政は伊豆国北条郡に下向しました。義時が執権となり、義時邸に大江広元・安達景盛が集まって評議し、朝雅を誅殺するよう在京御家人に命じる使者を送ったとあります。26日には朝雅が在京御家人に討たれていますが、これについては後述。
 他の史料ではどうかというと、まず同時代史料である藤原定家の日記『明月記』には、朝雅が在京御家人に討たれたことを記した26日条で、ある人が言うには時政の嫡男義時が時政に背き、将軍実朝母子と同心して継母の党を滅ぼしたとのことだが、実否は不明である、とあります。また同日条の別の箇所では、人々が言うには時政は頼家卿のごとく伊豆の山に幽閉され出家した、ともあります。混乱の中での伝聞情報で定家も実否はよくわからないとしており、細かい情報は伝わってなかった可能性もありますが、この時点では実朝を廃して朝雅を擁立する陰謀があったとは京に伝わっていません。
 承久の乱直前に成立したとされる慈円の『愚管抄』において、初めてその陰謀が記されます。それによると実朝を殺して朝雅を大将軍にしようと準備していると聞いた政子が騒いで三浦義村を呼び、このようなことを聞いたが間違いない、助けよ、どうすれば良いかと聞けば、義村は謀をよくする者だったため、実朝を連れ出して義時邸に置き、何もないのに郎党を大勢集めて陣を張り、実朝の仰せであると鎌倉にいた実朝の祖父の時政を呼び出して故郷の伊豆へやってしまった、とあります。その上で、政子は実朝の母で頼朝の後家であるから親に対しても躊躇しない。義時にとっても時政は親であるが今の妻との関係で悪事をすればやはり容赦しない。そのうえ実朝は母方の祖父が自分を殺そうとしたのだから時政が幽閉されたのも当然だ、とも記しています。

 上記の記述にはいくつかの疑問があります。まず、そもそも本当に実朝を廃して朝雅を将軍に擁立する陰謀があったのかが疑わしい。近年の書籍では基本的に陰謀の存在自体は疑っていないものが多いんですが(坂井孝一『源氏将軍断絶』PHP新書、呉座勇一『頼朝と義時』講談社現代新書、山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、など)、永井晋氏などは事実かどうか含みを持たせた書き方をしていますし(『鎌倉幕府の転換点』NHKブックス/吉川弘文館、『鎌倉源氏三代記』吉川弘文館)、ネットで「深掘り 鎌倉殿」を連載してる渡邊大門氏にいたってははっきりと疑問を呈しています。僕もそんな陰謀など存在しなかったんではないかと考えてまして。まず時政にはそもそも実朝を廃して朝雅を擁立しなければならない理由が希薄です。上記諸研究書は畠山重忠討伐の論功行賞が実朝の母政子によって取り仕切られ、実朝の後見人である時政が排除されたため、時政の娘婿で源氏の名門として御家人の最上位に置かれていた平賀氏の朝雅を将軍にしようとしたとか、政子・義時と時政・牧の方の一族間の対立が決定的となったため、時政が主導権を取り返そうとしたなどという説を挙げてますが、いずれも説得力を欠きます。実朝という“玉(ぎょく)”を握っている時政がそのような薄弱な理由で、政子・義時や御家人たちの猛反発が予想される実朝廃位・朝雅擁立を謀るとは考えにくいんですよね。いくらなんでもリスクが大きすぎます。また、そもそも京にいる朝雅をそのまま将軍にしても、鎌倉を掌握するのには役立たないのではないか? 実朝を廃しても鎌倉に将軍(鎌倉殿)が不在になるだけで、時政が鎌倉の権力を握り続けるのは不可能でしょう。
 それによく読めば『愚管抄』にも『吾妻鏡』にも時政の具体的な計画についての記述はありません。実朝を廃して朝雅を将軍にするという“噂が流れた”、“そのような話を聞いた”などとあるだけです。源平合戦期を扱った歴史本を読んでると、当時の貴族の日記などには世間に流れるその手の“噂”がよく記されてるようですが、事実ではないただの噂であることも多く、以前紹介した時政が重忠に敗れ山の中に逃げたなんてのもその1つ。時政の陰謀についても、そのような噂が流れたのは事実でしょうが、義時や義村はそれを利用して時政から実朝を奪い取り、失脚させたんじゃないでしょうか。比企能員の乱から一幡や頼家の暗殺、畠山重忠の乱といった時政の強引すぎる権力掌握は御家人たちに不信感と強い反発を呼び起こしており、このままではその走狗と見られていた義時や義村も時政と共倒れになる恐れがある。彼らは、自分たちは時政とは違う、時政のやり方には反対で堪忍袋の緒が切れた、と御家人たちに示すことによって自らの保身を図った可能性が高い。また実際に時政の強引すぎるやり方にはついていけないと思っていたとも思われます。あるいは陰謀の噂自体が義時や義村が流したものという可能性さえあるかもしれません。ただ、仮に義時らの陰謀だったとしても政子は何も知らなかったはず。直情径行で自らの感情をすぐ露わにしてしまう政子は、自らの本心を隠して行わなければならない陰謀には不向きだったでしょう。

 さて、もう1つ諸史料の記述で気になるところが。それは実朝の所在です。以前も書きましたが、1203年9月2日の比企能員の乱後、10日に実朝は政子の御所から時政の名越邸に移っています。ところが15日、実朝と共に時政邸に移った乳母の阿波局(『13人』では実衣)が政子のところにやってきて、実朝様が時政邸にいるのは当然ですが、牧の方(『13人』では「りく」)を見ていると実朝に害を加えようという心が見えて時政邸に置いておくのは不安ですと訴えます。政子もそのことはかねてから考えていた、早く実朝公をお迎えするべきだと答え、義時・義村・結城朝光らを遣わして実朝を迎え取らせました。子細のわからぬ時政は狼狽し、女房を通して謝罪しましたが、実朝が成人するまで政子邸にてお育てすると返答されたと記されています。
 しかし牧氏の変ではなぜか実朝はまた時政邸に戻っており、にも関わらず『吾妻鏡』にはそれ以前に実朝が時政邸に戻ったという記述がありません。いったいいつの間に実朝は時政邸に戻ったんでしょうか? これについて呉座氏は、おそらく時政は政子に無断で実朝を自邸に招いたのだろうとした上で、義時・政子はそれを拉致・監禁と判断して時政の行動を謀反と認定したと推測しています(『頼朝と義時』)。しかしその一方で呉座氏は比企氏の乱直後の件については牧氏の変から逆算して牧の方が実朝に悪意を持っていたことを強調するために創作された逸話の可能性があるとも指摘しており、それが創作であるならば実朝は政子邸に移っておらず、ずっと時政邸にいたままだったということになるはずです。実際、実朝は10月8日に時政邸で元服しており、また実朝がずっと時政邸にいたからこそ時政は実朝の後見人として権力を独占できたとも考えられます。だからこそ義時らが時政を失脚させるためには実朝の身柄を確保する必要があったのでしょう。もう1つ個人的に可能性として考えられるのは、比企氏の乱直後の実朝の時政邸から政子邸への移動は創作ではなく、『吾妻鏡』の編纂ミスで本来は牧氏の変についてのものだったのではないかというものです。いくら浅はかな政子でも単に噂が流れた程度で陰謀があると断定するとは考えにくいので、情報源は阿波局だった可能性も考えられるんではないかと。
 なお『13人』では人物が動かないと物語的にも絵的にも持たないということなのか、やたらあちこちに行ってる実朝ですが、実際には時政邸からほとんど動かなかったはず。また以前から言ってますが、実朝は将軍になった時点で11歳、2年後の牧氏の変の時点でも13歳のガキンチョです。役者が本役なんで大人すぎるんだよな。
 なお、この事件は一般的に「牧氏の変」とか「牧氏事件」と呼ばれるんですが、事件の中心人物は明らかに時政で、ご先祖を擁護する『吾妻鏡』が牧の方に罪を押し付けてるだけでしょう。上記『明月記』『愚管抄』ばかりでなく、承久の乱後まもなく書かれたとされる『六代勝事記』や鎌倉末期成立とされる『北条九代記』でも時政の陰謀としているとのことで、南北朝期成立とされる『保暦間記』でようやく時政と牧の方2人の陰謀とされているそうですから、時政主犯であることは明らか。そう考えると事件の名称も「北条時政の変」とか「元久の政変」(事件の起こった1205年は元久2年のため)などと呼称する方が適当なんではないかと思われます。

 こうして時政政権はわずか2年余りの短さで崩壊したわけですが、頼朝没後の6年間を通して見ても、非常に事件の多かった激動の6年間だったと言えます。時政失脚後、実朝が暗殺されるまでの15年間で大きな事件は和田合戦ぐらいしかないことを考えると、要因はいろいろ考えられるものの結局は時政の個性に帰せられると言っていいんではないでしょうか。『13人』では演じる坂東彌太郎さんの個性に合わせたのか、それとも時政をそういう人物と三谷氏が認識してるのか、時政はやたら好々爺に描かれてますが、実際の時政はどす黒い野心を露わにして権力への道を邁進したと言って間違いなく、諸研究書でも一致してそれが指摘されています。また時政は、亀の前事件でも怒りのあまり頼朝に断りもなく伊豆国北条へ帰ってしまったことからもうかがえるように、短気で感情的な一面もあったと考えられ、野心は大きいが慎重さの足りない人物だったんでしょう。
 その後の時政の消息はほとんど記されておらず、1215年に伊豆で病死しています。享年78歳とのこと。平賀朝雅と結婚した時政と牧の方の娘(『13人』では「きく」)は公家の藤原国通と再婚し、牧の方は時政の死後、その娘を頼って上洛したようで、1227年に牧の方は国通邸で時政の13回忌を行っています。すでに義時も政子も死んでおり、牧の方は彼らよりも長生きしたことになります。時政の13回忌は非常に豪勢なものだったようで、定家は『明月記』で牧の方の贅沢ぶりを批判してるとのこと。

 書き出してみると思いのほか書くことが多くなっちゃったんで、この牧氏の変ネタはもうちょっとだけ次回へと続きます。



#11264 
バラージ 2022/10/01 16:52
司馬とか吉川とかドレフュスとか

>「司馬の他に安部龍太郎、井沢元彦(笑)なども批判されてますが、後者二人へのそれは妥当だと思うんだけど、司馬への当たりはきついかなぁ。」
 それだけ司馬遼太郎(や吉川英治や山岡荘八)の影響力が他のお二人より大きいからでしょう。影響力が大きいからこそ史実と違ってるところは強く批判しておかなきゃならないということなんだろうと思います。ちなみに僕は司馬の本は『城塞』と『豊臣家の人々』しか読んでおらず、特にファンというわけではありません。

>「時局に迎合した、と戦後に大分叩かれたみたい。もっとも本人は言うべきことを言っているという認識」
 吉川英治の皇国主義的行動は「時局に迎合」したわけではなく、自らの信念からの行動だというのは『親鸞と日本主義』(中島岳志・著、新潮選書)を読んでもよくわかりますし、『戦国武将、虚像と実像』でもそう感じられる書き方だったかと思います。もっとも信念からの行動だから問題がないわけではなく、むしろだからこそ問題だとも言えなくもないわけですが……。

>「『宮本武蔵』は加筆はしておらず、一部の削除(伊勢のあたり)に伴いつじつま合わせをしているだけとのこと。」
 僕はオリジナルの戦前戦中版はもちろん、戦後版も読んでないのではっきりとは言えませんが、Wikipediaの「宮本武蔵 (小説)」の項を見ても、かなりの書き換えがされてることが桑原武夫の研究で明らかになってるようですよ。

>「歴史上の人物を描くと関係各所から抗議を受けるというのは面白かった。『高山右近』の時には上智大学の神父から抗議されたらしい。」
 歴史上の人物というよりも宗教上の人物の問題なんじゃないですかね? 『親鸞と日本主義』では、倉田百三の『出家とその弟子』についても作中の親鸞像が史実の親鸞とも浄土真宗の教義とも異なり、キリスト教的な思想や観念が含まれていると宗教家や哲学者から強く批判されたと記されてます。倉田は個人的な悩みからキリスト教に惹かれたり仏教に惹かれたりふらふらしてたので、どうも彼の中でその辺がごっちゃになっちゃったみたいですね。吉川の『高山右近』についてはよく知りませんが、ひょっとしたらキリスト教の教義的な部分からの批判だったのでは? 批判してるのが歴史学者ではなく神父のようですし。

>「一番印象的だったのが、パーソナリティの赤江さんとナンキャン山ちゃんが、ドレフュス事件を全然知らなかったことでした。学校で教えるはずだけど。」
 いや、知らなくても全然不思議じゃないと思いますよ(笑)。お二人は僕より5~8歳ほど年下だし住んでた地方も違うんではっきりとはわからないけど、僕の高校時代で言えば世界史を専攻しないとドレフュス事件は習わないはず。日本史や地理を専攻してれば習ってないはずですし、理系コースだったりすればなおさらのこと。文系で世界史を専攻してたとしても、あくまで受験科目として専攻してるだけで特に歴史に興味がないなら、受験が終わって20~30年も経てばもう忘れてても普通と言いますか(僕だって物理や数学のことなんてほとんど忘れてるし・笑)。ドレフュス事件は日本ではマイナーな歴史用語ですし、こう言っちゃ何ですが世の中の人全てが歴史に興味あるわけじゃありませんしね。



#11263 
ろんた 2022/10/01 00:44
『戦国武将、虚像と実像』(呉座勇一)読了

 読んでみました。記述が各論になっているので、総論的な終章(大衆的歴史観の変遷)からまとめてみると、

・歴史上の人物像は時代とともに移り変わり、それぞれの時代の価値観が反映される。ただ江戸時代の人物像は複雑で、庶民と知識層で異なり、知識層間でも権力との距離によって異なる。例えば秀吉。「人たらし」との評価は一致しているものの、庶民は秀吉のサクセスストーリーに喝采し、儒者は朝鮮出兵を侵略と非難、国学者などは壮挙として称賛といった具合。そして戦前、戦後の評価には、この多様な江戸期の人物像の一面を取り上げて強調しているものが多い。だから提唱者が「新規で独創的な見解」と考えて発表しても、数百年前に同じ事が言われていたりする。また徳富蘇峰の『近世日本国史』に「新規で独創的な見解」が書かれていたり。

・逆に何百年も前から定着しているように思えるが、実は数十年前に成立したものがある。斎藤道三が革新者だったというのは、司馬遼太郎の創作。「革命児信長」という評価は徳富蘇峰もしているが、神も仏も信じず既成の権威を認めない信長像や古典的教養にあふれる常識人という明智光秀像も『国盗り物語』の影響。石田三成が忠臣という評価はあったが、そこに正義感が強すぎる欠点を加えたのは、同じく司馬の『関ヶ原』。司馬の人物造形は極めて明確で、彼らが現実にそのような人物であったかのように読者を錯覚させる。だが、それは史実ではない。司馬が多数の歴史エッセイを執筆して己の史論を積極的に世に問うたことも、誤解に拍車をかけた。

・歴史小説の書き手も読み手も、歴史小説を単に娯楽作品として生産/消費しているのではなく、「歴史を学ぶ」「過去から学ぶ」という意識を持っている。そこで紹介される逸話・名言は実のところ真偽不明なものが多いが、史実かどうかの検証はなおざりにされた。後代の創作かもしれない話に依拠して人生訓を語る「大衆的歴史観」は危ういと言わざるをえない。フィクションでも良いと考えるのなら、『SLAMDUNK』や『ONE PIECE』のような純然たるフィクションから人生訓を学んだ方がよほど健全だ。歴史小説家は、事実に基づいているが、あくまでフィクションである、と公言するか、史実か否か徹底的に検証するか、すべき。真偽が定かではない逸話を史実のように語り、そこから教訓や日本社会論を導き出す司馬遼太郎のような態度には、やはり問題がある。

・歴史から教訓を導き出すのではなく、持論を正当化するために歴史を利用する、ということも往々にして行われる。問題意識が先行し、先入観に基づいて歴史を評価してしまうのだ。客観的中立公正に歴史を評価することは不可能。大事なことは、自身の先入観や偏りを自覚すること。

 ということで、わたしの批判めいた書き込みは忘れて下さい(汗)。司馬の他に安部龍太郎、井沢元彦(笑)なども批判されてますが、後者二人へのそれは妥当だと思うんだけど、司馬への当たりはきついかなぁ。まあ、わたしが司馬ファンだからそう感じるのかもしれないけど。『国盗り物語』について一言しておくと、これ、斎藤道三一代記として構想され、信長を後継者に指名して非業の最期を遂げるところで終わるつもりだったんですよ。だから道三は信長の先駆者として設定されている。でも編集部(週刊サンデー毎日)の意向で連載を続けることになって信長編が構想される。多分ここで明智光秀が濃姫の従兄、信長とは道三の弟子同士と設定され、両者の相克から本能寺で激突することになったんじゃないかな。だから二人の人間性が正反対になっている。単純な野望とか怨恨が動機じゃなくて、光秀が信長に本能寺の変に追い込まれている感じが読みどころなんだけど。『関ヶ原』の三成も、家康と対照的になるように設定されているんじゃないかな。あと、家康観が蘇峰の焼き直しというのは言いすぎのような気がする。

 それにしても、リアリティのある人物を描いて批判されるとは、歴史小説家って因果な商売だなぁ(笑)。この辺、事実と芸術的真実とかの話になって、かなりややこしくなりそうな予感。もう一つ、大岡昇平が「歴史小説にフィクションを入れるな」的なこと言ってた気がするんだけど(『歴史小説論』岩波同時代ライブラリー)、どこにしまい込んだのか出て来ません。もし、出て来たら紹介するかも。


>徹夜城さん
 現在の信長像は、かつて言われたほど革新的ではない、革命家ってのは言いすぎ、という感じですかね。京で楽市楽座やってないじゃん、とか。戦争ばっかりしてたんで、内政で新機軸を打ち出す余裕がなかったという見方もできるかと思いますけど。
 信長の下では働きたくない、というのは激しく同意。織田家って究極のブラック企業な気がします(笑)。しかし、経営者とか向けの雑誌では、信長型リーダーが待望されていたりして。まあ読者は自分のこと、信長本人か五大軍団長だと思ってるんでしょうね。実際には林秀貞(通勝)や佐久間信盛以下なのに。(彼らも無能レベルに達するまではすごく有能だったはず)

 吉川英治とか錚々たるメンバーの「従軍」については、また菊池寛の話をしなきゃならなくなるんですけどね。内閣情報局の意を受け、「従軍」を「アゴアシ付の大名旅行+支度金300円」で取りまとめたのが文藝家協会会長にして文藝春秋社社長の菊池寛だったりするんで。菊池寛あるいは文藝春秋社は日支事変勃発以後、戦争協力に前のめりになってました。臨時増刊号を連発して、そこから『現地報告』『航空文化』『大洋』という月刊誌が生まれ、内閣情報局や陸海軍の情報部と関係ができる。そして極めつけが対外宣伝のために制作された『ジャパン・ツーデー』。英独仏三ヵ国語で本誌記事が抄録された『文藝春秋』の別冊付録(新聞四頁大)。いわば海外版『文藝春秋』だけど、日本の読者には何の役にも立たず、海外の友人知人に送れ、と呼びかけている(笑)。南京大虐殺で地に落ちた日本の評判を何とかしようとして、多分、内閣情報局が資金を出したんじゃないかな。在外日本人会や公的機関にも送り付けていたらしい。他にも色々あるんだけど、昭和18(1943)年には、陸海軍に一機ずつ航空機を献納したりしている。あと「満州文藝春秋社」を創設していて、吉川英治を取締役に引っ張り込んでいる。(ネタ本:斎藤道一,高崎隆治,柳田邦夫『危うし!?文藝春秋 [文春ジャーナリズム]全批判』第三文明社)
 吉川英治と辻政信の関係は何となく納得なんですが、実は服部之総とも付き合いがあり、ネットに対談が載っていたりします。(吉川英治・服部之総対談「「吉川文学」問答」)


>バラージさん
 吉川英治は愚直なくらい真面目で、沼にはまるとヤッカイさんになるってのが印象ですけど……あれ? これがファナティックってことかな?(汗) 上の対談でも触れてますが、時局に迎合した、と戦後に大分叩かれたみたい。もっとも本人は言うべきことを言っているという認識(これはわたしもそう思う)。そして、この言葉は使ってないけど、自分の作品を教養小説ととらえている。『宮本武蔵』は加筆はしておらず、一部の削除(伊勢のあたり)に伴いつじつま合わせをしているだけとのこと。あと、歴史上の人物を描くと関係各所から抗議を受けるというのは面白かった。『高山右近』の時には上智大学の神父から抗議されたらしい。で、服部之総は執筆中の『新平家物語』を、歴史とがっぷり四つに組んでいるのは初めて、と高く評価している。それまでは歴史上よく分かっていない部分で想像力を働かせていた、としているけど、確かに『宮本武蔵』はそうだし、それ以外のものは既存の大衆文芸の最解釈だったりする。ああ、そういえば、荘園制がよく分からない、と吉川がぼやいてました。言われてみれば、荘園制の研究で成果が出て来たのって『新平家物語』の後かな?


>ドレフュス事件
 これ以前、町山智浩さんがラジオで紹介していた映画ですかね。一番印象的だったのが、パーソナリティの赤江さんとナンキャン山ちゃんが、ドレフュス事件を全然知らなかったことでした。学校で教えるはずだけど。もっともわたしの知識も大佛次郎から得たものなので時代遅れかも。



#11262 
バラージ 2022/09/28 19:09
ドレフュス事件の映画

 フェデラー現役最後の大会レーバーカップ(ま、公式戦ではなくエキシビション・マッチに近い大会ですが)生放送、あまりにも深夜~早朝なんで起きてられず録画しといたら途中で放送が切れてた(笑)。たぶん放送自体が途中で終わっちゃった模様。まあ急遽放送予定を変更したみたいなんで仕方ないか。10月2日朝に録画されたダイジェスト版が放送されるみたいなんでそっちで観ようと思います。
 そして今週の『13人』は牧氏の変の前半戦。来週で完結するみたいなんで感想も来週まとめてでいいや。

 さて、『オフィサー・アンド・スパイ』というフランス映画を観ました。19世紀末のドレフュス事件を描いた映画です。ドレフュス事件の映画というと歴史映像名画座に載ってる『ゾラの生涯』と、ケン・ラッセル監督による1991年のTVムービーで日本では劇場公開された『逆転無罪』(ビデオ化のみでDVD化はされてない)などがあるようですが、僕はいずれも未見。
 本作は『逆転無罪』と同じく、ユダヤ系のドレフュス大尉の有罪に疑問を抱き極秘の独自捜査をして冤罪の証拠を見つけ出した情報局長ピカール中佐が主人公。僕はドレフュス事件については教科書的知識しかなかったんですが、権力による冤罪と人種(ユダヤ人)問題という意味で興味があったんで観に行きました。監督はフランス出身で3歳の時にポーランドに渡るも両親がホロコーストの犠牲となったロマン・ポランスキー。
 なかなか面白かったです。最終的に冤罪が証明されることは知ってても、細かい事件の経緯は知らなかったんでサスペンスフルな展開に結構ハラハラしましたね。ヨーロッパの実話歴史映画&社会派映画らしく、ハリウッド的エンタメ感というか劇的な演出風の感じがなく、実録風の抑えた演出が良かった。軍権力による杜撰な捜査による冤罪と、軍の面子や事なかれ主義によって、自らの誤りを隠蔽するために圧力をかけたり証拠捏造を行うなど、当時のフランスの状況はなにやら近年の日本ともよく似ているような。社会に吹き荒れる反ユダヤという理不尽な風潮も、いまだ強固な米国のトランプ支持者とかヨーロッパにおける極右の台頭なんかを見てるとなんだかあの頃と似てきてるような。ラストが全面的なハッピーエンドという感じじゃなく、ちょっともやもやしてるのも、歴史上はこの後もヨーロッパの反ユダヤの嵐はおさまらずナチスの台頭によってホロコーストが起こることを暗示してるんでしょう。ポランスキー監督の過去のあれやこれやもあって、いろいろと言われたりもしてるようですが、優れた映画であることは間違いありません。そもそもフランス映画界は事件直後に作られた無声映画シリーズ以来、120年以上もこの題材を扱ってなかったらしく、そっちのほうがどうなんだという気もします。
 それにしても邦題は英語題直訳のようですが、もう少し考えろよなあ。フランス語原題の直訳は「私は告発する!」で、事件に抗議したゾラが新聞に書いた記事のタイトルだそうです。別に邦題は原題のまんまじゃなくてもいいんだけど、こんな邦題じゃなあ。


>平家への道 貴族の肖像
 『人形劇 平家物語』、第1部を観終わったまま、ぱったりと視聴が止まっております。なんとなくいまいち続きを観る気が起こりませんで。そんなわけで第1部の範囲で登場する公家(貴族)たちに関する歴史話を。

 政治家としてだけでなく学者としても博覧強記だった信西(藤原通憲)と藤原頼長。人形劇や大河『平清盛』では(多分『新・平家』でも)描かれていませんでしたが、この2人は保元の乱以前から交流がありました。わずか7歳で父を失った通憲は高階氏の養子となったんですが、そのため「当世無双の宏才博覧」と称されながら学者の家系である実父の後を継げず、家名再興を断念せざるを得ませんでした。鳥羽上皇の側近として実務官僚の道を歩もうにも、院の政務補佐は当時勧修寺流藤原氏が独占しており、出世の道も閉ざされた通憲は官途に絶望して出家を志すようになります。博覧強記な通憲が出家しようとしているとの噂を聞いた頼長は、「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」という書状を通憲に送り、数日後には通憲と会って2人で世の不条理を嘆いて、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と言い、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と2人で涙したと頼長の日記『台記』には書かれてるとのこと。そんな2人が保元の乱では敵味方に分かれて殺し合うことになるんだからなんというか。
 ちなみに鳥羽も通憲の出家を思い止まらせようと藤原への復姓を許したり、通憲の子の俊憲に学者系の役職に就任するため必要な資格を得る受験を認める宣旨を与えたりしたんですが、通憲の決意は変わらず出家してしまったのでした。しかし出家した後も政界から離れず、むしろそれを利用して同じく出家した鳥羽法皇の側近に食い込んでいくんだから、最初からそれを狙ってたんでないの?という気もしますが。

 次に信西と対立して平治の乱を起こした藤原信頼。この人については近年その人物像についての見解が分かれています。『平治物語』や『愚管抄』では後白河天皇(のち上皇)の寵愛のみで出世する無能な人物と記されており、大河『新・平家』『人形劇』では基本的にその線に沿いながらも、信西もなぜか悪人な分だけ存在感が少々薄くなっていたような。保元の乱までは最高の展開だった大河『平清盛』も、そこで息切れしたのか以後は通俗的な描写に終始していたので、信頼もほぼ通説に沿った描写でした(ついでに言うと、ドラドラ塚地だと28歳で死んだ信頼には年を取りすぎてるような……)。
 しかし近年、元木泰雄氏が新たな信頼像を提示しています。信頼は成り上がりの信西とは違って、祖父や父から続く伝統的な院近臣家の出身であり出世の早さは不思議ではない。また信頼の異母兄(庶兄)基成は陸奥守となって現地に赴任し藤原基衡の嫡男秀衡に娘を嫁がせており、信頼自身も坂東に進出していた源義朝を武蔵守として後援していた上、信頼の嫡男信親と平清盛の娘の婚姻も成立しているなど、信頼は当時の有力武士たちに強い影響力を持っていたとしています。ただしこの説については、信頼の官位昇進の早さは家門や能力のみで説明するにはあまりに異常な早さであり、後白河の寵愛以外では説明できないとする古澤直人氏の批判もあるようです。
 個人的には、信頼の武門に対する影響力についての元木氏の指摘は傾聴に値するものの、信西殺害後にどう政権を運営していくつもりだったのかがさっぱりわからず、計画性の無さや見通しの甘さが見られることも否定できません。公家にしては武張った人で権力志向は強くても、政治的な見識には乏しかったような気がします。少し後の時代にやはりクーデターを起こした木曽義仲みたいな人だったんではないでしょうか。

 最後に二条天皇親政派の藤原経宗(大炊御門経宗)と藤原惟方(葉室惟方)。『人形劇』では惟方だけが出てきて、経宗はリストラされてしまいました(笑)。やはりどうしても人形の数に限りがあるので、実写作品に比べると登場人物が限られちゃうのは仕方がない。大河『新・平家』にはちゃんと経宗も出てきたようですし、大河『平清盛』にももちろん出てきました。この2人、平治の乱では上手く勝ち組となったものの、乱後まもなく失脚してしまいます。『平清盛』でそのあたりが描かれてたかどうか記憶にないなぁと思ってWikipediaを見てみても、結構詳細な説明文が付されていながらやはりそのあたりの記述はありません。保元の乱後は失速した感じだったからうっかり調べ損なって描かないでしまったか、省略してしまったんだろうか?
 乱後、二条親政を目指す2人は後白河上皇に圧力を加え、1160年に後白河が藤原顕長邸で桟敷から道行く人々を見物していた(後白河は庶民の生活を眺めるのが好きだったらしい)のを、材木を外から打ちつけて視界を遮るという嫌がらせを行い、後白河は激怒。清盛に命じて2人を捕らえさせ、目の前で拷問を加えさせた上で流罪にしてしまいました。信頼の信西殺害に加担した責任を問われたとする説もあるようです。経宗は1162年に許されて帰京し、以後は慎重に行動して後白河に従順となり、順調に出世して1189年に没するまで政界の長老として厚遇されました。それとは対照的に惟方が許されるのは1166年まで待たねばならず、帰京後も中央政界には復帰できなかったそうで、晩年は和歌に没頭し穏やかに過ごしたとのこと。没年も不明です。



#11261 
バラージ 2022/09/23 21:33
今週の鎌倉史 我が生涯に一片の悔いなし!

 今日の深夜に行われるフェデラー現役最後の試合がWOWOWで緊急生放送決定。WOWOWさん、ありがとう。歴史的瞬間を目撃できます。


 さて今週の『13人』は畠山重忠の乱。実はこの畠山重忠の乱については『吾妻鏡』以外にくわしい記述がほとんどないんですよね。『愚管抄』にも一応記されてはいますが、時政の時代に北条氏にとって邪魔な武士の1人として重忠が合戦で討たれたという程度で、くわしい経緯は書かれていません。そのため細かな事情については『吾妻鏡』によるしかないんですが、『吾妻鏡』の記述には不自然なところも多く、そのままには信じがたいため慎重な取り扱いが必要となります。基本的に合戦当日までの流れはまたも呉座勇一氏の現代ビジネスでの連載にある通りですが、その他の部分について追記。

 『吾妻鏡』によると1205年4月に重忠の従兄弟で時政の娘婿の稲毛重成が時政の招きで武蔵国から鎌倉にやってきます。1195年に妻(時政の娘)を亡くした後、悲しみの余り出家して隠居してた人だったので、鎌倉の人々は何事かと驚いたとのこと(ちなみに『13人』ではなぜか俗体のままでした)。なお1198年には重成は亡妻の追善供養のため相模川橋を架け、頼朝がその落成供養に参列した帰途に落馬して間もなく死去しています。
 6月20日、重成の招きで重忠の嫡子の畠山重保が鎌倉にやってきます。21日に時政が義時・時房に畠山討伐を諮り、最初は反対した義時らも最終的には同意しますが、これについてはくわしくは呉座氏の連載を参照。22日午前4時頃、軍兵が競い走るように由比ヶ浜に向かい、謀反人を討つべしということなので、重保も家臣3人を連れて由比ヶ浜に向かうと、命令を受けていた三浦義村が待ち受けており、重保を攻め殺します。
 さらに重忠が鎌倉に向かっているとの噂が伝えられたため、道中で誅殺すべしとの命令が下され、義時が御家人オールスターズの大軍を率いて出陣。両軍は正午頃に武蔵国二俣川にて相見えます。重忠は19日に小衾郡菅谷の館を出ましたが、率いていたのは庶長子重秀をはじめとしたわずか134騎。鶴ヶ峰の麓に陣取っていたところ、重保が討たれ大軍が向けられたことを知ります。家臣たちは、敵は大軍で我らは少勢なので本拠に戻り敵を待ち受けて合戦するべきだと進言しますが、重忠は家や親を忘れて戦うのが将たる者の本意で重保が討たれた以上本拠を顧みることなどできない。かつて梶原景時は本拠を出て京へ向かう途中に討たれたが命を惜しんだように見えるし、以前から陰謀を企んでいたようにも見える。そのように見られることは恥だとそれを退けます。そこへ鎌倉軍が攻撃を仕掛け、安達景盛が主従7騎で先頭に立っているのを見た重忠は、彼は弓馬の友だ。それが万人を抜いて1番に来るとは、感じ入らずにいられようか。重秀、命を捨てて戦ってこいと命じます。景盛の家臣らの多くが重忠に討たれ、その後も激戦が数時間続きますが、午後4時半頃に弓矢の名手の愛甲季隆の放った矢が重忠に当たり、季隆が重忠の首を取って義時の本陣に献じて、重秀や家臣たちもことごとく自害し合戦は終わりました。
 翌23日、午後2時頃に義時らが鎌倉に帰還。時政が戦場の様子を尋ねると義時は、重忠の弟や親類はみな他所におり戦場にいたのはわずか100騎余り。謀反の噂は虚偽であり讒訴による誅殺だった。討たれた重忠の首を見た時には旧交が思い出され涙を禁じ得なかったと言い、時政は何も言えなかったとあります。午後6時頃、三浦義村は重ねて考えを巡らせ稲毛重成の弟の榛谷重朝父子を謀殺。重成は大河戸行元に、その子の小澤重政は宇佐美祐村に討たれました。このたびの合戦の起こりはひとえに重成の謀によるもので、平賀朝雅が重保に対する遺恨から畠山一族が反逆を企んでいると牧の方にしきりに讒言し、時政がひそかにこの事を重成に示したところ重成は同族のよしみを変じて、鎌倉に兵乱の兆しがあると重忠に虚偽の情報を知らせ、それを聞いた重忠が鎌倉に向かう途中で討たれてしまったのが真相だと記されています。
 7月8日、政子が重忠余党の所領を勲功のあった者に与えます。将軍実朝が幼少のためとのことで、20日にもその他の遺領が政子の女房5、6人に与えられました。

 以上『吾妻鏡』に記された事件の経緯にはところどころ納得しがたいところがあります。猛反対した割には義時らがあっさり軍勢を率いて合戦に及んでいるとか、重忠の南下を聞いてその日のうちに急遽大軍を動員して出陣し、その日のうちに合戦に及ぶというのは時間的に可能なのか?とか、重忠と景盛が旧友だったと思われるエピソードがほとんどないとか、いくら勇猛な重忠とはいえ少勢の軍相手に4時間以上も手こずるものなのか?とか、重成兄弟誅殺と真相判明の展開が急激すぎるとか、真相にも関わらずこの時点では時政や朝雅に何の処罰も及んでいないとか。
 学者間でも見解が分かれているようで、義時・時房が畠山討伐に反対したくだりについても、無実の重忠を殺すことに加担した義時らをかばうための『吾妻鏡』の曲筆ではないかとする説(呉座勇一『頼朝と義時』講談社現代新書)、父権の強かった当時は父時政に逆らいきれなかったとする説(山本みなみ『史伝 北条義時』小学館)、『吾妻鏡』にあるほど強く反対したかは疑問だが乱後の武蔵国支配が融和的なので内心は消極的だったとする説(清水亮『歴史街道』9月号)など、かなり見解が分かれています。ただ、後に時政が失脚した後も武蔵国の重忠旧領は畠山氏や他の秩父一族に返還されず、義時が重忠の遺族を救済した形跡もないとのことですし、重忠の妻(時政の娘)が足利義兼の庶長子義純と再婚して重忠本領と畠山氏名跡を継ぎ、平姓畠山氏が断絶して源姓畠山氏が始まったとされている(ただし義純の生涯には不明な点も多く、畠山氏から所領を譲られた形跡がないため畠山を名乗ったのは義純の子の泰国からだとする説もあるらしい。また義純が結婚したのは重忠と時政娘の間に生まれた娘だとの説もあるとのこと)にも関わらず、上記の通り重忠旧領のほとんどは政子によって勲功のあった者や政子の女房たちに与えられています。源姓となった畠山氏が足利氏の一庶流に転落する一方で、1210年には時房が武蔵守に就任して以後武蔵国は相模国と並ぶ北条氏の重要な政治基盤となっていることから考えても、義時らが長い目で見た畠山氏討伐に反対だったとは思えません。ただ父時政のやり方があまりに性急で露骨すぎたため、他の御家人たちの反発を買い北条氏の立場が危うくなることを危惧したということなんではないでしょうか。
 三浦義村らが稲毛重成・榛谷重朝兄弟を討ったのも、『吾妻鏡』には義村が考えを巡らせてとしかありませんが、義村が独断でそんなことをするとは、またできるとは考えにくい。そこでこれについても時政の暴走に反発した政子・義時らの指示によるものだという説(『史伝 北条義時』)と、自らへの疑惑と不信感が増大していることに焦った時政が責任転嫁したトカゲの尻尾切りだという説(『頼朝と義時』)があるようです。義村のその後の牧氏の変における行動などを見ると政子や義時に立場が近いため、前者の可能性が高いんではないかと個人的には思いますが、時政にとっても自らへの批判をかわすために重成に責任を押し付けるのは悪い話ではなかったと思われ、そのために反対もしなかったんではないでしょうか。なお榛谷重朝までが討たれた理由は今一つはっきりしません。重朝は重成の弟ですが、討たれる段階になって突然名前が出てきており、それ以前の乱との関係は不明。兄と同様の嫌疑で討たれたと推測されますが、本当に重忠を追い落とそうとしたのかは不明と言わざるを得ません。また『13人』でも少し描かれてましたが、義村は源平合戦当初の衣笠城合戦で畠山重忠ら秩父一族に祖父三浦義明を討たれており、その後秩父一族が頼朝に降伏すると頼朝は三浦氏と秩父一族に平家と戦うためには結束しなければならないから恨みは水に流せと命じています。両者はそれに従いましたが三浦氏は内心ずっと遺恨を持ち続けており、大義名分を得た義村はこれがチャンスと畠山重保・稲毛重成・榛谷重朝ら秩父一族を次々に殺していったとする推測が有力です(『頼朝と義時』、坂井孝一『源氏将軍断絶』PHP新書、永井晋『北条政子、義時の謀略』ベストブック)。なお重朝についての記録はあまり残っていませんが、彼もまた頼朝の家子(いえのこ)の1人で弓の名手として知られた武将でした。高橋直樹の小説『北条義時 我、鎌倉にて天運を待つ』(潮文庫)では、このあまり記録のない重朝を魅力的に造形しており非常に印象に残りました。
 政子が幼少の実朝に代わって乱の論功行賞を行ったという記述についても、時政が恩賞を与えた書状が存在する一方で政子による恩賞の書状が存在しないことから疑問視する説があります(『史伝 北条義時』)。ただし時政による恩賞の書状は形式に疑いがあるとの見方もあり(清水『歴史街道』9月号)、ここでもやはりやや見解が分かれているようです。なお『13人』では実朝が時政の差し出した畠山討伐の文書に花押を押してしまった責任から乱後の論功行賞に関与しなかったように描かれてましたが、実際には上記の通りあくまで幼少のためです。そもそも時政が実権を握れたのも幼少の実朝に代わって後見人として政務を代行したためでして。役者がいきなり本役の大人になっちゃったからわかりにくいけど、前回も書いた通り実朝はこの時まだ13歳ですからね。『草燃える』総集編でも実朝が将軍になったとたんに篠田“ウルトラマンタロウ”三郎になって、おいおい兄貴役の源“郷ひろみ”頼家より年上じゃねーか、どう見ても弟には見えねーぜ?と思っちゃったんだよな(笑)。
 それから今月号の『歴史群像』で、『13人』の中世軍事考証をしてるという西股総生氏が、現地の地形などから『吾妻鏡』の二俣川合戦の記述は創作で、実際には幕府軍は待ち伏せをして二俣川を渡河する畠山軍に奇襲攻撃をかけたと推測しています。その上で捕虜などは取らず畠山軍を全滅させる殲滅戦を展開したとも推測しており、確かにそれなら畠山軍が少勢なわりに合戦が長時間かかったことも理解できます。そう言われてみると『吾妻鏡』の畠山重忠の乱や二俣川合戦は、実際の記録というよりも軍記物語の記述に近いように感じられ(鎌倉時代には『畠山物語』という全4巻の軍記物語があったとする説もあるらしい)、そう考えると安達景盛の活躍なども『吾妻鏡』編纂期に権力に近い位置にいた安達氏の先祖顕彰逸話が紛れ込んだくさいし、弓の名手愛甲季隆の矢で討ち取られたというのも妙に劇的っぽい。『愚管抄』では、強い重忠にあえて組打つ者もいなかったため最期は自害したと記されており、京における伝聞情報のためそちらが正しいとは断言できませんが、一聴に値するのも確かです。

 さて、この畠山重忠ですが怪力エピソードが非常に多い人でして、『源平盛衰記』には宇治川合戦で渡河した際に馬を失い徒歩で渡ろうとしたところ同様に馬を失った武士がしがみついてきたためその武士を対岸まで放り投げたとか、鵯越の逆落としの際には大事な馬を傷つけたくないと自分が馬を背負って駆け下りたなんて話が記されてます。到底事実とは思えませんが(『平家物語』にはない話だし、『吾妻鏡』によると重忠は一ノ谷合戦では範頼の大手軍に属している)、実は史書である『吾妻鏡』にもめちゃくちゃな怪力伝説が記されてたりします。1200年に梶原景時が滅ぼされた時、景時に味方したとして捕らえられそうになった勝木則宗が大暴れしたんですが、重忠は座ったまま左腕一本で則宗の腕をつかみへし折ったとのこと。また1192年に奥州合戦の死者を弔うため頼朝が永福寺を建立した際には、寺の池に置くための一丈(3m)もある巨大な石を重忠が1人で何個も運んだとのこと。もう人間技じゃねーよ! さすがに事実ではなく伝説が紛れ込んだんでしょうが、実際の重忠も怪力だったからこそこんな伝説が生まれたんでしょう。『13人』ではシュッとしたイケメンの中川大志くんが演じてましたが、実際には力士や柔道家みたいな格闘家タイプのムキムキマッチョマンだったに違いない。あるいはシュワルツェネッガーとか『北斗の拳』のラオウとかみたいな(笑)。

 その他の小ネタ。重成が捕らえられたところで見たことのない強面の武士が出てきたなぁと思ったら長沼宗政とのことで。小山政光の子で、小山朝政の弟、結城朝光の兄ですな。この3兄弟、3人とも『13人』に出てきてるけど、バラバラに出てきて兄弟であることにも特に言及されないという(笑)。朝光の母は頼朝の乳母の寒河尼で(朝政・宗政は前妻の子)、寒河尼の兄弟が八田知家なんだけど、この寒河尼グループは比企尼グループ以上に無視されちゃってるなあ。そもそも寒河尼が出てきてないし。
 それから伊賀の方(『13人』では「のえ」)が妊娠の兆候のつわりを見せてましたが、史実では畠山重忠の乱の当日に第1子の政村を出産しています。



#11260 
バラージ 2022/09/16 00:12
フェデラー引退

 1つの時代が終わりました。
 奇しくも先週終わった全米オープン男子シングルスでは19歳のアルカラスが初優勝。週末には、00年代初めに20歳で世界ランキング1位となった、フェデラーと同世代のヒューイットの記録を抜いて史上最年少のランキング1位に。新しい時代が紡がれていきます。



#11259 
バラージ 2022/09/14 22:03
さよならヌーベルバーグ

 映画板のほうにも書きましたが、映画監督のジャン=リュック・ゴダールが死去。91歳と長命でした。フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、アラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、ロジェ・ヴァディム、ルイ・マルなど、他のヌーベルバーグの巨匠たちはすでにみな鬼籍に入っており、ヌーベルバーグ最後の巨人だったと言っていいでしょう。まあ、ヌーベルバーグ自体がもう歴史の1ページですね。とか言いながら僕はヌーベルバーグ映画はゴダールの『勝手にしやがれ』とアニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』ぐらいしか観てないんだけれども。


>伊藤野枝ドラマ
 今頃気づいたんですが、NHK-BSで伊藤野枝を主人公とした『風よあらしよ』という連続ドラマが放送されてたようです。主演は吉高由里子。わずか全3話でもう2話まで終わってるんで、いまさら知ってもあれなんですが。



#11258 
バラージ 2022/09/12 23:22
今週の鎌倉史 暴走老人

 今週の『13人』、また派手にフィクションぶちかましてたなあ。北条贔屓の曲筆だらけの『吾妻鏡』以上に時政を擁護して、牧の方と平賀朝雅に悪役押し付けてるじゃん。それにしても朝雅はしょっちゅう鎌倉に帰ってきてるな(笑)。実際には京に行きっぱなしのはずですが。
 『吾妻鏡』では、1204年10月に実朝の正室を迎えるための使者として上洛した北条政範は道中で発病し、11月3日に入京、5日に死去しています。その間の4日に、政範と共に上洛した畠山重保が京で出迎えた朝雅と酒宴の席で口論に及んでおり(内容は不明)、朝雅はそのことを(なぜか翌年の6月になってから)姑の牧の方に讒訴し、唯一の男児を失って悲しみに沈んでいた牧の方は畠山父子を誅殺しようと時政と密かに計ったとされています。確かに話の展開が不自然で納得しがたく、そこでドラマは大幅に脚色したんでしょうけど、その方向性がね……。
 実は『吾妻鏡』には記されていませんが、『仲資王記』元久元年(1204年)11月3日条によると政範と共に時政も上洛していたようです(山本みなみ『史伝 北条義時』小学館)。つまり実朝正室を迎える使者の一行は時政が率いており、政範はあくまでその一員だったということになります。そう指摘されて改めて考えてみると16歳の政範がそんな大役を任されるのは確かに不自然。時政は自分の後継者として政範を朝廷に御披露目するつもりだったとする推測もあるようです。そうなると実際に重保と口論に及んだのは朝雅ではなく時政だったのかもしれず、また朝雅だったとしてもわざわざ牧の方に御注進に及ばずとも京にいた時政がすでに知っていたわけで、『吾妻鏡』がそれを隠蔽しようとしたのは明らか。要するに『吾妻鏡』は牧の方と朝雅に悪役回りを押し付け、時政を擁護しようとしたわけですね。北条氏からすると後の経緯から時政を全面的に擁護することはできないものの、かといって御先祖様なのも間違いないので悪人にしすぎるのもよろしくないという微妙な位置付けの人ということになります。
 政範の死を看取った時政は喪に服すため鎌倉に帰還したと推測されており、『吾妻鏡』では愛児政範の死で取り乱した牧の方が娘婿朝雅の讒訴もあって時政に畠山追討を促すという展開になってますが、時政自身が京にいた、さらにはもしかしたら時政自身が重保と口論に及んだとすれば、畠山父子に強い怒りを持っていたのは他ならぬ時政だったと思われます。『島津家文書』によると時政は娘婿の重忠父子を勘当したが、元久2年(1205年)正月に千葉成胤のとりなしによって両者はいったん和解したと記されているとのこと(坂井孝一『源氏将軍断絶』PHP新書)。しかしこの和解は表面的なものに過ぎず、6月には畠山重忠の乱が勃発することになります。
 ちなみに時政が権力を握って以後の流れを簡単な年表にすると以下の通り。

 1203年9月2日 比企能員の乱。
 9月7日 実朝、征夷大将軍就任。
 9月10日 頼家を伊豆国修禅寺に幽閉。
 10月9日 時政・大江広元、政所別当就任。武蔵守の平賀朝雅が京都守護として上洛。時政が武蔵守の職務を代行。
 10月27日 侍所別当和田義盛を通して武蔵国御家人に時政への忠誠を誓うよう命じられる。
 11月3日 義時の手勢が逃げ延びた一幡を見つけ出し暗殺。
 12月 伊勢国・伊賀国の平氏残党が蜂起(三日平氏の乱勃発)。
 1204年1月頃 時政と畠山重忠が合戦に及んだという噂(誤報)が京に流れる。
 2月 伊勢国守護の山内首藤経俊が敗走し、平氏残党が伊勢・伊賀を制圧。
 3月6日 義時が従五位下相模守に任官。
 3月 朝雅が幕府と朝廷の命により平氏残党討伐に出陣。
 4月 北条政範が従五位下左馬権助に任官。朝雅が10日から12日の合戦で平氏残党を平定。
 7月18日 北条氏の手勢により頼家が暗殺される。
 10月14日 時政と政範、実朝の正室を迎えるための使者として上洛。政範は道中で発病。
 11月3日 時政・政範、京に到着。
 11月4日 酒宴の席で朝雅(時政?)と畠山重保が口論。
 11月5日 政範死去。その後、時政は鎌倉に帰還。
 時期不明 時政、重忠・重保父子を勘当。
 1205年1月 千葉成胤の仲介で時政と重忠が和解。
 6月 畠山重忠の乱。

 以上の流れを見ても時政の強烈な権力志向は明らかで、また『愚管抄』などにあるように一幡や頼家暗殺の噂はいかに情報統制を敷こうとも京まで漏れ伝わっており、それはおそらく鎌倉でも同様のことだったと思われます。時政のあまりに強引なやり口には、御家人たちも口にこそ出せないものの不満が溜まっていたと思われ、この頃の鎌倉は思っていることも口に出せぬ暗い時代だったことでしょう。それを感じ取った時政はさらに強権的な手段を取っていくという悪循環で、権力の魔物に憑かれた老人の妄執はさらに暴走していくのでした。



#11257 
バラージ 2022/09/09 21:28
今週の鎌倉史 第三の女

 連続の書き込みになっちゃってすいません。それにしても今週の『13人』、実朝がいきなりでっかくなっちゃったなあ。実際にはまだ13歳のはずですが(笑)。今週は次の大乱までのつなぎの回といった感じですが、なぜかかなり派手にフィクションがぶちこまれています。
 まず、いろんな御家人が実朝に様々な武芸や教養を教えるというシーンがありましたが、教養はともかくとして実朝は武芸には終生ほとんど関心を示さず、そのため御家人たちに不信感を抱かれたり、義時や大江広元に諫言されたりといったことが記録されています。それからその武芸を教えていた1人の八田知家ですが、北関東の人で鎌倉には常駐してなかったんじゃないかなあ? 頼家の命で下野国において阿野全成を誅殺してたように、北条氏からはちょっと距離を置いていた御家人のようです。足立遠元ともども生没年不明ですが、知家は当時すでに60歳手前くらい、遠元は60代と推定され、ドラマでははたしてどのあたりまで出てくるんでしょうか? なお知家の嫡男で頼朝の親衛隊とも言うべき家子(いえのこ)の1人となった知重は後に小田に改姓し、南北朝時代の小田氏の祖となりました。
 それから時政が畠山重忠に武蔵守にしてやるから武蔵国惣検校職を辞めろみたいに言ってましたがこれもフィクション。前回も書きましたがこの時期の武蔵守は平賀朝雅で、1203年10月に上洛した朝雅に代わって舅の時政が武蔵守代行となり、比企氏滅亡後の武蔵国への影響を強めようとしてました。時政は武蔵国の御家人に自らへの忠誠を誓わせており、おそらくこれに反発したのが惣検校職の重忠で、これまた前回書いた通り1204年1月には時政と重忠が合戦に及んだという噂が京に流れています。ま、時政と重忠が対立しているという大まかな流れはドラマも合ってますが、これについてはくわしくは次週以降で。
 そしてそれ以上にフィクションだらけだったのが朝廷側。源仲章が朝雅をそそのかして北条政範を暗殺させたみたいな描写になってましたが、これは当然ながら全くのフィクション。史実では政範は鎌倉から京へ向かう道中ですでに発病していたことが複数の史料から確認できます。生田斗真が演じるということで予感はしてましたが、仲章がえらく陰謀家みたいに描かれてますね。史実の仲章は院近臣と在京御家人を兼ねてはいたものの基本的には学者(儒者)で、文官的役割を担った、まぁはっきり言って小物です。あんな大それたことするとは思えないなあ。ま、この辺も次週以降でまた。
 なお政範は1204年4月に16歳で従五位下に叙され左馬権助に任官しており、一方42歳の義時はその前月に従五位下相模守になったばかり。この時点では政範が時政の嫡子になっていた可能性が高く、時政に従って汚れ仕事を行ってきた義時には大きな不満があったことでしょう。しかし幸運なことに政範が急死したため、義時の嫡男の座はほぼ確定しました。となるとフィクションなんかでは義時が政範を暗殺したという展開もありそうなもんですが、これが見かけたことないんだな。義時が悪役回りの作品は頼家時代のものがほとんどで、この時代を扱った作品は義時が主人公のものばっかりなんですよね。義時主人公じゃない『草燃える』総集編でも確か普通に病死だったような。よく覚えてないけど。
 あ、それからお役御免かと思ってた九条兼実が再登場してましたね。この頃はすでに有名な法然に帰依して出家してたはずですが俗体のままだったな。弟の慈円は天台座主で法然の浄土宗には批判的でしたが、後鳥羽上皇による浄土宗の弾圧には反対の立場だったようです。
 それと時政の娘で実朝の乳母の阿波局(『13人』では実衣)は、『吾妻鏡』ではこの辺というかもうちょっと前で出番は終了。1203年の比企能員の乱直後に政子邸から時政邸に移った実朝に付いて共に移るも、牧の方(『13人』では「りく」)が実朝に害を加えようという心が見えて時政邸に置いておくのは不安だと政子に訴え、実朝は再び政子邸に戻されたという記事が事実上最後の登場となっています。頼朝死後に告げ口魔としてあれほど暗躍した割には、その後ぷっつりと登場しなくなるため、僕はてっきり間もなく死んだものと思ってたんですが、『吾妻鏡』では1227年に死亡記事があるとのこと。しかしその間全く名前も出てこないというのはいくらなんでも不自然です。死亡記事では甥の執権泰時が30日の喪に服したとあるそうですが、両者の交流を示す記事は全くなく、それほど親密だったとも思われません。息子の阿野時元も実朝や北条氏から特に優遇はされておらず、むしろ冷遇されていた可能性すらあります。ひょっとしたら1227年に死亡した阿波局は、時政の娘のほうではなく泰時の母のほうなのかも。『吾妻鏡』が2人を取り違えたか、もしくは何らかの理由で隠蔽したのかもしれません。ま、特に根拠のない個人的な憶測に過ぎませんが。

 そして今週は義時最後の妻の伊賀の方(または伊賀氏、伊賀局とも。『13人』では「のえ」)が登場。これが映像作品初登場となります。
 『草燃える』には出てこなかったんですが、これは義時が主人公じゃないってのもあるかもしれないけど、そもそも原作の1つとなった義時主人公の短編「覇樹」(『炎環』収録、1964年)でも承久の乱後に義時晩年の側室としてチラッと出てくるだけなんですよね。これは短編だからということもあるんでしょうが、以前にも書いた通り当時は姫の前のその後が不明だったため、伊賀の方の位置付けも不明確だったからなんではないかと思われます。子供もその頃に生まれたことになっていて、確か90年代当時の歴史本なんかでも、義時死後に起こった伊賀氏の変当時、伊賀の方の長子政村がまだほんの子供だったかのように記述されてた記憶があるんですよね。2001年の大河『北条時宗』でも伊東四朗演じる政村が伊賀氏の変を回顧して「あの頃はまだ子供でした」とか言ってた記憶があるし。しかし政村は実際には1205年生まれで伊賀氏の変当時は20歳になってました。『吾妻鏡』にもちゃんと出産記事があるようなんで、なぜ90年代当時はそんな認識になっちゃってたのか、今となってはもうよくわかりません。僕もそれを知ったのはつい数年前のことでして。ちなみに『草燃える』では姫の前(野萩)退場後は、最初の妻の茜(大庭景親の娘という設定の架空人物)を演じた松坂慶子が2役で演じた小夜菊という架空人物が義時と深い関係を持つので、伊賀の方が出てこなかったのはそのためもあるのかなあ?
 その伊賀の方ですが、姫の前に比べると創作作品ではあまり良く描かれていません。伊賀の方の個性が垣間見えるのは義時死後の伊賀氏の変のみなので、その逆算からか悪女とまでは行かなくとも、あまり良くない印象の女性に描かれることが多いんですよね。「覇樹」でもその登場はわずかながら、老いた義時が若い伊賀の方に溺れるといった描かれ方でした(ちなみに伊賀の方はおそらく義時より20歳ほど年下だったと思われます。そう考えると若い後妻にデレデレってのもあながち間違いではないかも・笑)。去年から今年にかけて集中的に読んだ源平鎌倉小説で伊賀の方が出てきたのは『北条義時』(嶋津義忠、2021年)、『義時 運命の輪』(奥山景布子、2021年)、『竹ノ御所鞠子』(杉本苑子、1994年)といったあたり。このうちかなり古い参考文献を使った嶋津氏の『北条義時』は、義時死後に伊賀氏の変を起こしたことが末尾で触れられてるだけ。史実通りの時期から出てくる『義時 運命の輪』では全くの悪女でこそないものの、姫の前に比べるとやはりあまり良い女性には描かれていません。唯一比較的良い人に描写されている、というより悪い人に描かれていないのが90年代に書かれた『竹ノ御所鞠子』。時代的に姫の前は登場しない作品で、伊賀の方は主人公鞠子の母に比較的親切な愛想の良い女性として描かれ、伊賀氏の変は裏でグルになった政子と三浦義村の罠に掛かったという展開でした。
 『13人』に話を戻すと、まず「のえ」が二階堂行政の孫という位置付けに、へ?と。調べてみたら確かに伊賀の方の父の伊賀朝光の妻は行政の娘のようです(ただし伊賀の方の生母が行政の娘なのかは不明)。てことは姫の前の父の比企朝宗同様、朝光も『13人』には出てこないってことなんでしょう。でも親父の朝光を無視して母方の祖父なんていう源平マニアでもわからん線で話を進めるってどうなんだろ? 朝光の息子で伊賀の方の兄の光資・光宗なんかも出てこないのか? わりと重要な出番があると思うんですが。ちなみに朝光の子孫が南北朝時代の伊賀兼光です。
 肝心の伊賀の方=のえは比較的いい人に描かれるのかと思いきや最後でやっぱり……というオチでしたね。ただ、あんまり悪女系で話を進めると物語進行が少々しんどいような気もします。はたして今後どうなるんでしょうか? 実は僕は伊賀氏の変については永井晋氏の唱えた冤罪説(『鎌倉幕府の転換点』吉川弘文館)を支持してるので、そこから逆算して伊賀の方は温厚で押しの強くない良い人だったんじゃないかと個人的には思ってるんですよね。



#11256 
バラージ 2022/09/09 14:54
最近映画館や録画で観た歴史映画

『島守の塔』
 太平洋戦争末期の沖縄戦を描いた反戦映画。戦局の不利が明らかになった1943年から物語は始まり、やがて空襲から米軍上陸、凄絶な沖縄戦の展開と終結までを、戦中最後の沖縄県知事となった島田叡、島田と協力して沖縄県民を守り抜こうとした沖縄県警部長の荒井退造、架空人物である県職員の女性らを通して描き出していきます。主演の島田役は萩原聖人、荒井役は村上淳で、架空人物のヒロインを吉岡里帆が演じています。監督は『地雷を踏んだらサヨウナラ』やドキュメンタリー映画『SAWADA』などの五十嵐匠。
 戦場シーンなどはところどころ記録映像を使用しており、戦争映画にしては明らかに低予算なんですが、映像表現の妙でそうは感じさせない優れた映画となってました。沖縄戦の悲劇は『ひめゆりの塔』をはじめ何度か繰り返し描かれてきましたが、学徒隊でも軍人でもない人が主人公というのは珍しい。もちろん学徒隊も軍人も出てきますが。非常に丁寧に作られた良心的な映画で、俳優たちも熱演。なかなかの佳作でした。やっぱりこういう映画は作り続けなきゃダメですね。
 島田叡を題材とした映画というと、TBSの佐古忠彦が監督したドキュメンタリー映画『生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事』がありましたが、地元の映画館には来ず。調べたらもうDVD化されてるみたいだけどレンタル店にあるかな?

『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』
 去年公開されたけど、映画館では観逃してしまった米国のドキュメンタリー映画。ウッドストック・フェスティバルが開催された1969年に、ニューヨークのハーレムで開催された黒人(アフリカ系米国人)ミュージシャンたちによるもう1つの音楽イベント「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」を撮影したドキュメンタリー映画です。当時撮影されたライブ映像に、当時のインタビューやニュース映像、フェスティバルに参加したミュージシャンや観客たちの現在のインタビュー証言を加えたドキュメンタリーで、スティービー・ワンダー、B・B・キング、マヘリア・ジャクソン、ハービー・マン、マックス・ローチ等々そうそうたるミュージシャンたちの素晴らしいライブが見もの。知らないミュージシャンも多いんですが、誰も彼もみんなすげえと感動。面白かったです。


>大河の信西
 大河『新・平家』総集編は90年代にレンタルビデオで観たんですが、あんまり記憶に残ってないんですよね。合戦も全部室内撮影なんでショボかった、特に室内プールを使った海戦シーンは『ひょうきん族』のコントみたいだなと思ったというのが1番大きな記憶で、あとはどう見てもオッサンの仲代達矢が10代から演じるの無理あるだろとか、あんまりいい印象がない(笑)。他は清盛と母親の別れのシーンとか、源為朝が藤原頼長に夜襲を献策して却下されるシーンをぼんやり覚えてるくらいで、信西については全く記憶がありません。
 大河『平清盛』の信西は90年代の一般的信西像だったんですが、実は放送された頃にはまたちょっと違う新たな信西像がすでに出されていたようで、信西は必ずしも義朝を冷遇しておらず、また信西と清盛もそこまで突出して親しかったわけではなく、清盛は信頼とも姻戚を結ぶなど八方美人な立場を取っていたとのこと。

>さらば女王
 イギリス女王エリザベス2世は年齢的に大往生でしょう。ご冥福をお祈りします。むしろ問題は後を継ぐチャールズ皇太子(という呼び方に慣れ親しんじゃってる)が超絶不人気なことか。ダイアナ妃映画が何本か(『スペンサー ダイアナの決断』、ドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』など)公開を控えてるタイミングってのも因縁深いというかなんというか。



#11255 
徹夜城(うかうかしてると史点が訃報ネタだらけになると恐れる管理人) 2022/09/09 10:11
英国女王死去

 先日のゴルバチョフ氏に続き、大物かつご長寿の訃報が。イギリス女王エリザベス2世が96歳でとうとうお亡くなりに。寸前まで新首相認証とかやってたんですけどねぇ、まぁ長く患うことのない、いいお亡くなり方ではないでしょうか。
 「女王陛下の007」って映画がありましたが、今後は国王陛下のためにはたらくことになるわけで。「M」も男に戻ったことだし。

 そしてえらく長いこと「皇太子」であり続けたチャールズさんが新国王に即位、「チャールズ3世」になったわけですが、チャールズという国王もかなり久々で、日本に「上皇」が復活いた時のような、歴史引き戻され感を覚えます。



#11254 
徹夜城(天外魔境3を今頃クリアしたPCE・FXマニアの管理人) 2022/09/05 21:16
大河「新平家」の信西といえば

>「新平家の信西
 僕も一応吉川英治の「新平家」を読んではいますが、信西のワルイメージはなんといっても大河ドラマ版が強烈で…大河「新平家」は総集編しか見られませんが、そんな部分的な映像だけでも信西の悪役っぷりは凄いものがあります。演じたのが小沢栄太郎。悪役をやらせたらそれはもう、という役者さんで、特に山本薩夫監督作品(悪役がやたら輝くという特徴がある)で強烈な印象を残した人です。

 大河「新平家」放送時には、そのなんともいやらしいワルっぷりに視聴者から「早く殺せ」という電話が殺到したとか伝説になってます。「太閤記」の高橋幸治演じる信長の延命嘆願が出たのと対になって語られますな。
 そっちの印象があったもんだから、大河「平清盛」での阿部サダヲ演じる信西が進歩的帰属像だったことは新鮮ではありました。


>先週のブラタモリ
 「知名度の低い世界遺産」の代表みたいに言われる石見銀山が取り上げられました。これで少しは観光客が増えるかな、と。僕も行ったことはないんですが、専門の後期倭寇活動と関わってくる話なので関心は深く、世界遺産登録されたときは「そりゃ当然」と言ってたんだけど、世間的には全然知られてないんですよね。

>31世紀
あらら、やっちまいました(汗)。
ま、あれですよ、ノストラダムスの大予言もその辺まで予言してるそうですし(笑)。



#11253 
バラージ 2022/09/03 22:56
貴族なんて悪じゃよーとか言ってりゃいいんじゃろ?(by『神聖モテモテ王国』)

 録画消化が止まってた『人形劇 平家物語』、一気に第1部を視聴終了。保元の乱から平治の乱を経て平家全盛の時代までといったあたりですね。しかしやはり細かいツッコミどころがいくつか。原作に起因すると思われるところ、本作品に起因すると思われるところ、原作と本作のどっちに起因してるのかよくわからないところなど、いろいろありますが、感想含めてちょこちょこ書いていこうかな。
 まず保元の乱ですが、なぜか崇徳上皇方が圧倒的に優勢という、史実とも『保元物語』とも違うことになっちゃってます。主人公の清盛が最初から圧倒的に有利な側に付いて、あっさりと勝っちゃうんじゃ物語として盛り上がらないってことなんでしょうか? それにしても清盛の伯父?(史実では叔父)の平忠正もまたえらく情けない人物に描かれてるなあ。それに引き換え源為義は妙に立派な人物で、平氏と源氏のどっちが主人公なんだっていう(笑)。史実の為義は天下御免の無法者なんですけどね。『保元物語』でもおとなしく処刑されたわけではないようですし。そういや忠正が忠盛のことを弟って言ってたけど、なんで兄弟を逆にしたんだろ?
 そしてこのあたりから登場した藤原信西もまた腹黒な悪者で……。史実はもちろん、『保元物語』『平治物語』でも信西はそこまでの悪者じゃないはずなんですが、大河『新・平家』もそうだったようなので多分原作もそうなんでしょう。やはり貴族(公家)なんてみんな悪!ってことなのか。史実の信西や藤原頼長は政治家としてだけではなく学者としても名高く、信西が宋の人と中国語で話せたという逸話は90年代に五味文彦だったか上横手雅敬だったかの一般向け歴史本で知りました。それを受けてか網野善彦の『日本社会の歴史』(岩波新書)にもその逸話は載ってましたね。信西は源平マニアには改革派政治家といった印象が強く、人形劇みたいな腹黒悪党に描かれるほうがむしろ珍しい。平治の乱での最期も確か『平治物語』では土中で自害してたんじゃなかったっけ?
 そして信西の敵対貴族として平治の乱を起こした藤原信頼や藤原惟方もこれまた悪者で、悪者同士の争いということに。とにかく貴族はみんな悪(笑)。平治の乱は勢力関係が結構複雑なんですが、放送時間の短さか子供向けにわかりやすくするためなのかずいぶんと単純化しています。後白河上皇側近の信頼と二条天皇親政派の惟方が反信西の一点で手を組んだというのを、ただの反信西勢力として一緒くたに。信西敗死後の惟方の寝返りは清盛の計略にハメられたからということにして、主人公清盛を立てる役回りにされてしまいました。にしても義朝……信頼らの策略にハメられたからって簡単に疑心暗鬼になりすぎだろ。つい5分前までは清盛に限ってそんなことを……とか言ってたのに、5分後にはもう疑ってるし(笑)。1話20分だから展開が早い早い。あと、源頼政がなぜか義朝のおじ(伯父?叔父?)になっちゃってる。さすがに原作は史実に沿ってると思うんだけど、名字が同じなのに関係の薄い別勢力じゃわかりにくいということで子供向けにわかりやすくしたんだろうか? 藤原氏も忠通・頼長兄弟だけでなく、信西も信頼も惟方もみんな藤原一族みたいになってたし(いやまぁ全くの間違いというわけではないんだけど)。
 平治の乱後は主人公の清盛が突然の悪人化。常盤御前に祇王に仏御前と次々美女を手ごめにしていくという、今だったら大スキャンダルになりそうなことをしています。これ、大河『平清盛』の時も気になったんだよな。あまりに唐突で。権力を得て「おごる平家」になったってことなのかもしれないけど、大半は女性問題なんで権力者になったからってのとは直接的には関係ないような。
 一方で皇室はやっぱり一貫して悪人には描かれない。後白河天皇→上皇もずっと普通の人だし、後白河と二条の父子対立も描かれません。源平ファンとしてはずっと穏和でいい人の後白河にはどうにも違和感を禁じ得ないんですが、原作が執筆された1950年代には作者や読者の心情的に、歴史上の人物であってもまだまだ皇室を悪くは描けなかったということなのか。
 あと伊豆一国さえ支配してない北条氏が関東一円に勢力を持つ豪族みたいに言われてるとか、ちょこちょこ気になるところはあるものの、個人的にちょっと面白かったのはおそらく人形劇オリジナルキャラクターと思われる藤原綾麿という貴族。名前からしていかにもで笑っちゃいましたが、小物の悪役?として、いい味出してました。もうちょっと出番があっても良かったような気もするけど、第1部でお役御免なのかな?


>徹夜城さん
 いや、今年に入ってからだらだらと長い書き込みが続いてすいません。90年代から無駄に無意味に溜まってた源平知識と、大河連動で次々出版された源平歴史学本による最新知見が、今年の大河への個人的不満からスパークしちまいまして(笑)。これまでのペースから見て次に頼朝大河が作られるとしても、おそらく早くとも30年後。こんなこと言いたかないけど、その頃生きてるかどうか……。生きてたとしてもネットに書き込む気力はもうないだろうし……(ああ、イヤだイヤだ)。考えてみりゃ『草燃える』だって40年前で、子供の頃すぎてリアルタイムで観てないわけで……。てなわけでもう書きたいことはこの機会に全部書いちまえ!全部吐き出しちまえ!という気分になっております。来年からはまた元通りになるんでご容赦を。

>さらば、ゴルビー
 ゴルバチョフ氏もついに他界ということで、そうか、もうあの頃から30年以上経っちゃったのか。あの80年代後半から90年代初期の大変革は衝撃的でしたが、はるか遠い昔のことに感じられますね。いや実際はるか遠い昔のことなんだけれども。冷戦を終結させた功績には大きいものがあるものの、ロシア国内では超大国ソ連を崩壊に導いた戦犯とする空気が一般にも強いらしく、急速に影響力と存在感を失いましたね。ウクライナでも別の理由から批判的な見方が主流のようで。ご冥福をお祈りします。

>「近頃の中学の歴史は31世紀まで扱いますからねぇ。」
 すいません。誤記だとわかっていても、おお、最近の教科書すげえ!などと思ってしまいました(笑)。31世紀かあ。SF映画でも見かけないけど、どんな時代になってるんだろ?

>ドラマ『アイドル』
 忘れてたけど、NHK-BSで8月に放送された『アイドル』という単発ドラマを観ました。昭和初期から終戦間際まで、戦時下の日本で1日も休むことなく営業を続けた劇場ムーラン・ルージュ新宿座の絶対的エースであり、アイドルだった実在の人物・明日待子(あしたまつこ)を描いた作品です。うーん、期待したほどではなかったかなあ。調べるとかなり脚色されてたようだし、1時間15分弱のドラマだからさらっとしか描かれてない感じでした(1時間30分の完全版は未見)。



#11252 
徹夜城(夏休みが終わるとすぐ定期テストになるので大変な管理人) 2022/08/31 21:50
ゴルバチョフ氏も「歴史上の人」に

 バタバタやってるうちに8月もオシマイ。安倍元首相殺害事件のあと「史点」も書かないまま9月突入になっちゃいますが、いきなりゴルバチョフ元ソ連大統領の訃報がありました。
 先週、ちょうど中3の定期テスト範囲が戦後史で、扱った問題テキストにゴルバチョフのペレストロイカを問う問題なんかも問題が出てたんですね。ゴルバチョフ改革は結果的に冷戦終結、ソ連崩壊を招くわけで歴史的重要性は確かにあり、出題率自体は高め。毎年授業で触れる際には「この人、まだ生きてるんだよー」とやるのが定番ネタだったんですが、とうとう90歳で逝去。名いつともに「歴史上の人」になったな、と思ったわけです。まぁ近いうちに史点ネタで書いておきます。

 近頃の中学の歴史は31世紀まで扱いますからねぇ。2001年の911テロとか日朝首脳会談とか、東日本大震災まで歴史教科書に出てきます。この仕事も長くやってるうちに「自分もリアルタイムで見てきた歴史」の部分が増えてきてしまいました。


>バラージさん
 すでに「太平記大全」なみの「鎌倉殿」解説になってきてますねぇ。いろいろ勉強になってます。


>Kocmoc Kocmaさん
「人形スペクタクル・平家物語」の再放送にも驚きましたが、ドラマ版「まんが道」がいきなり集中再放送されていたことに気づいて驚きました。そうか、藤子Aさん追悼企画を夏休みにやってたのか、と。これ放送してた時は手塚治虫も存命だったんですよねぇ。

 川本喜八郎さんの「項羽と劉邦」、そこそこ進んでいたものではあったのですね。「項羽と劉邦」だと内容的には大人向けになったかなぁ。中国で作った人形劇ドラマは途中までしか確認してないんですが、雰囲気は「三国志」に似てて、やはり子供向けという印象でした。


>ろんたさん
 呉座さんのその本は未読ですが、興味は惹かれますね。
 司馬遼太郎の影響ってのはどのくらいのものか、僕自身はつかみかねてますが…ひとつには僕が愛する南北朝ものをとうとう書かなかった、それどころか「小説にもならん時代」とか言っちゃったことがあるのが、悪い方向で南北朝の扱いに影響射てるかも、とは思ってます。エッセイなんかで南北朝に触れたコメント、「正成は気のいい河内のおっさん」とか「後醍醐は天皇ではなく中国的皇帝になろうとした」といったものは面白いとは思ってます。
 僕自身の司馬作品体験は最初が「項羽と劉邦」だったもので(僕が三国志にハマったので親が買ってくれたんです)、ファーストインパクトのせいか、この中で司馬が作中に散りばめた中国歴史観は結構すりこまれてます。中国史専門家からキビシイ批判があったりもしたようですが、全否定もできない視点はいろいろあるかな、と個人的には思ってます。

 信長=革命児とするのは戦後の傾向ですが、司馬作品の影響はどのくらいなのかなぁ。歴史学界も全体的にはそうした信長評価が支配的で、「室町の王権」の今谷昭さんが信長の保守性を主張したラずいぶん反発があったとか読んだことが。まぁ現在では「室町の王権」もかなり批判されてますし、信長像もまた違ってきてるのかな
 歴医学ではなく歴史談義ネタとして、僕は信長について「上司には絶対したくないタイプ」と評してます(笑)。あと、案外ノリが中国的なんじゃないかな、とか。

 吉川英治の「三国志」といえば長らく日本における「三国志」の定番だったわけですが、執筆されたには日中戦争の最中で、吉川自身従軍取材をやってます。吉川三国志はプロローグ部分がほとんど吉川の創作になってますが、この中で黄巾の乱の背後に北方異民族の策動があるというくだりがあり、これがどうも当時の日本で「中国の背後に欧米が」という見方を重ねてるように見えます。

 まぁ戦前戦中は文学者ら知識人の大半が戦争支持、国粋主義に迎合してましたからねぇ。吉川英治が婦人雑誌に掲載した「大楠公夫人」なんてすごかったですから。息子たちを南朝天皇のために働き戦死するよう育てていくという当時の「女性の鑑」みたいな描かれ方ですが、いま読むとすごく怖い。そんな教育のわりに三男の正儀は…とツッコミたくなりますが、戦前は正儀の北朝への寝返りは事実上「なかったこと」扱い。鷲尾雨工「吉野朝太平記」は正儀を主役にはしてましたがその辺までは書かなかった。
 それよりもう少し前だと、直木三十五みたいに正成夫人が正行の自害を止める「太平記」のエピソードを、「母親が子の自殺を止めるのは当たり前」と言っちゃえる余裕がまだあったんですがねぇ。

 吉川英治に話を戻すと、戦後は戦後の流れにちゃんと乗って「新丙家」とか「私本太平記」とかで戦前歴史観をくつがえす内容も書いてはいますが、敗戦直後に辻政信をかくまったりもしてますからねぇ。

 徳富蘇峰の名前が出たんでついでに。
 実は僕の母方の伯父、伯母はみんな蘇峰が名付け親なのだそうで(ラジオ番組か何でそういうのがあったらしい)。この人、開戦詔勅にも添削で関与してますし、当時を代表する大文化人の位置にいたわけです。
 以前、TBSで「あの戦争は何だったのか」というドキュメントドラマが作られましたが、西田敏行が蘇峰を演じてました。開戦を煽った文化人として記者に追及され、反省といえば反省のようなセリフがあったかな。でも敗戦直後に企画された「日本人による戦争責任追及」についてはバッチリ反対していたりする。
 それにしてもこの人、確認したら長生きしてるんですねぇ。文久年間に生まれて敗戦後しばらくあとまで生きていた。現在だと第二次大戦出征兵士の存命者くらいの感覚でしょうか。ちょうど明治維新から敗戦までと戦後の長さもつりあいましたし、なるほど戦後史の授業が長くなるわけです。



#11251 
バラージ 2022/08/30 19:28
今週の鎌倉史 衝撃の黒歴史

 おお! トウが善児を殺した! まあ、そうなるよな。いや、そうなるんじゃないかと予想はしてたんだけど、前回までの展開では何にも予兆がないんで、なんなんだ?と思ってたんですよね。しかし善児が何考えてんだかは最期まで今一つわからんかったな。
 それにしても頼家の死体はちゃんと片付けんと。ひそかに暗殺したんだから、ほっぽっといたらダメでしょ(笑)。

 さて、そんな頼家の暗殺は最後の見せ場ということか、かなり激しいチャンバラで華々しい最期を遂げてましたね。なかなかの見せ場でした。しかし史実の頼家暗殺はもっと陰惨。『愚管抄』によると、1204年7月18日に北条氏によって送り込まれた刺客たちは武芸に長けた頼家を討ち取るのに手こずり、首を縄で締め男性器を取る(切り落としたか、タマをつぶすかしたんだろうか?)などして刺し殺したとあります。あまりに強い頼家を殺すのに苦戦して手段を選ばず残忍な手口が使われたわけですが、そりゃそんな描写、日曜夜8時のお茶の間には──いや時間帯関係なくテレビでは描けないよなあ(笑)。ちなみに『吾妻鏡』の1204年7月19日条には、前日に修禅寺で頼家が亡くなったとの飛脚が伊豆国から来たと記しているだけです。これも北条氏の“大本営発表”、そして『吾妻鏡』編纂当時の幕府の公式見解なんでしょうねえ。北条氏が頼家を殺したなんて北条幕府には絶対に書けなかったことでしょう。刺客たちを送り込んだのは時政の命を受けた義時と思われますが、一幡や仁田忠常の殺害といい頼家の暗殺といい、義時はこの辺の汚れ仕事を全部請け負ってる感じですな。望んでやったことなのか、父の命令でやらざるを得なかったのか。そういや『13人』では、修禅寺に幽閉されてる頼家のもとに三浦義村だの政子だの畠山重忠だの北条泰時だの京の猿楽師だの、いろんな人が入れ替わり立ち替わり訪れてましたが、実際には厳重な監視下に置かれていたはず。あんな自由に人と会えてちゃ、幽閉した北条氏にとって危険すぎるよな(笑)。
 ところで比企氏の乱は時政の賭けが見事成功したとも言えますが、全面的な成功ではなく、かなり危うい想定外の事態になってしまったことも間違いありません。一幡を討ち漏らし、頼家が回復したことによって、時政のクーデター政権はいつでも覆されかねない危険な状態で出発することになってしまいました。全ての御家人が頼家排除に積極的に同意したわけでもない以上、敵対勢力がいつ一幡や頼家を担ぎ出して北条氏を攻撃しないとも限りません。朝廷に使者を送り、元服もしておらず無位無官の千幡の征夷大将軍就任を要請して後鳥羽上皇の命名で実朝の名をもらったのも、クーデターによって担ぎ出された幼い千幡の権威付けを図らねば正統な鎌倉殿である頼家や一幡に対抗できないという危機感の表れでしょう。1192年に征夷大将軍となった頼朝は1194年に辞任した可能性があり、1199年に父の後を継いだ頼家も征夷大将軍に就任したのは1202年で、必ずしも重要ではなかった征夷大将軍にすぐ実朝を就任させたのは、令外の官である征夷大将軍は無位無官の実朝にもすぐ就任できたためということのようです。逃げた一幡を探し出して殺し、頼家を幽閉して後に暗殺するという強硬手段を取ったのも、実朝を擁する時政政権が非常に不安定な政権だったからだと思われます。

 なお頼家の暗殺は1204年7月ですが、『明月記』によると同年1月には時政が畠山重忠と合戦して敗れ大江広元が殺されたという誤報が京に届いており、ドラマでもその萌芽は描かれてましたが、すでに時政と重忠の仲は悪化していたものと思われます。また前年の1203年12月には伊勢・伊賀ですでに忘れられていた平氏残党が蜂起する三日平氏の乱が起こり、時政の命で京都守護として上洛していた平賀朝雅が幕府・朝廷の命を受けて1204年4月に平定しています。でも、これもスルーかなあ。
 その平賀朝雅も先週から出てきたんだけど、なんだかえらく公家っぽいような。朝雅はあくまで武士であって別に公家ではないんですけどね。逆に院近臣と在京御家人を兼ねていた源仲章は、演じるのが生田斗真ってことでなんかえらく男前だな。仲章にそんなイメージはないんだけど。なぜか後鳥羽のもとにいっしょにいた慈円も『愚管抄』に仲章のことを書いてますが、別に高く評価してるわけでもありません。個人的には朝雅と仲章のキャラと配役は逆のほうがしっくり来るような気が。また三善康信が実朝に和歌の講義をしようとして上手くいかず、より和歌の知識を持つ仲章が代わって講義するというシーンがありましたが、実際には2人とも和歌を嗜んだ様子はないですね。どうも実朝は『新古今和歌集』を取り寄せて独学で和歌を学んだようです。


>吉川英治と呉座勇一
 『人形劇 平家物語』、1話20分だからサクサク観れるとか言っときながら、その後は録画だけしてほとんど観ていません。どちらかといえば人形よりも人間の出てるもののほうが観たいという僕の個人的嗜好のせいでして。吉川英治の小説も僕はほとんど未読。亡き祖父が買いそろえた吉川英治全集が昔うちにあったんですが、『新・平家~』や『三国志』を中高生の頃にちらっと読んでみたんだけど全集だから1冊がやたら重たい上に、やはり文体がちょっと古いのでなんとなく趣味に合いませんでしたね。『三国志』については僕はその頃すでに「正史派」でしたし。
 吉川については以前も書いたんですが、中島岳志の『親鸞と日本主義』(新潮選書)によるとバリバリの皇国主義者で、『出家とその弟子』の倉田百三なんかといっしょにペンによる報国の先頭に立ち、昭和天皇の終戦の詔勅を聞いた時には表に飛び出し地面にひれ伏して号泣したという、かなりファナティックな人だったようです。『宮本武蔵』ももともとはかなり皇国史観バリバリの小説だったそうですが、戦後しばらくしてから民主主義的な価値観への転換に伴って大幅に書き換えられ(GHQによる発禁処分を恐れたという話もある)、現在流通してるものは全て戦後版とのこと。もともとの戦前戦中版を読みたければ図書館でも探すしかないようです。なお『親鸞と日本主義』のキャッチコピーは、「なぜ〝南無阿弥陀仏〟は、ファシズムと接続したのか──。信仰と愛国の危険な〝蜜月〟に迫る力作評論!」というもので、小説『親鸞』を執筆した吉川については「第四章 大衆の救済──吉川英治の愛国文学」に出てきます。ただ、どっちかっていうと倉田百三のめちゃくちゃぶりを描いた「第二章 煩悶とファシズム──倉田百三の大乗的日本主義」や、山崎雅弘の『「天皇機関説」事件』(集英社新書)にも出てきた蓑田胸喜についての「第一章 『原理日本』という悪夢 第二節 蓑田胸喜と『原理日本』」なんかのほうが印象的。でも僕はところどころ立ち読みしただけだったりして。

 呉座氏の『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)も僕はところどころ立ち読みでして……どうもすいません(笑)。僕は江戸時代の戦国武将像が興味深かったですね。へえ~、江戸時代はこんな風に思われてたんだ、という。なお、こちらの秀吉の項でも吉川英治の話題が。『新書太閤記』が小牧・長久手の戦いという中途半端なところで終わっているのは、連載中に敗戦となってしまったため、その後の朝鮮出兵を大日本帝国に先駆けた壮挙として描けなくなったためという指摘が興味深く、『親鸞と日本主義』の記述とも符合してるんですよね。
 司馬遼太郎による人物造形によって作られた歴史上の人物イメージは、むしろ幕末や明治のほうに顕著な傾向があるように思いますが、そちらについてはすでに十分な批判があるのに対して戦国について言及した著作は少ないためもあって、これまた興味深かったですね。信長については確か明治期から尊皇家と共に革命児としての評価もあったが、戦後に尊皇家としての評価が消えて革命児としてのイメージだけが残ったみたいな話だったような。と思ったら以下のサイトで呉座氏自身がそれについて軽く触れてる文章がありました。
https://koken-publication.com/archives/1496



#11250 
ろんた 2022/08/28 15:33
呉座勇一氏の新刊

 著者へのインタビューという形で、新聞の書評欄に呉座勇一氏の『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)が紹介されていました。

「信長論とか秀吉論は居酒屋談義では決してなく、ナショナリズム的で政治的な歴史認識問題と結びついている。歴史は悪用されてきたし、今後もその可能性があることを押さえておく必要があります」という問題意識から、明智光秀、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、真田信繁、徳川家康に対する「大衆的歴史観」を分析しているとのこと。記事では「悪用」の一例として信長の例をあげ、江戸時代には「天性残忍」、戦前には尊皇家、戦後には革命児とされてきたとしている。もちろん江戸時代の信長像は家康を持ち上げるためで、戦前のは天皇制称揚のために徳富蘇峰が言い出したこと。で、戦後のは司馬遼太郎『国盗り物語』(1963-66)の影響だという。

 そして「今回調べてみて、改めて司馬さんの大衆的歴史観への影響はすごいと思いました」というのはその通り。司馬原作でなくても、様々なメディアで色んな作品が司馬の人物像を再生産しているし、もう定番化してそこから抜け出せないようなものさえあるから。ただ「司馬さんが徳富の影響を強く受けていて、その徳富は帝国主義万歳、植民地万歳みたいなナショナリストだった」というのはどうだろう。尊皇家という信長像がどう影響すれば革命児となるのか。ここは戦前と戦後の切断を読み取るところじゃないだろうか。切断はあるけれども影響はある、信長以外で影響がある、というなら分かるんだけど。

 しかし、紹介記事だけで批判的なこと言うと、トンチンカンなものになっちゃう気がして恐い(笑)。まあ、読みますけど。


>『新平家物語』
 吉川英治は『三国志』『新書太閤記』しか読んでないのでアレですが、世のため人のためお国のために小説を書く的な考えがあったようで『宮本武蔵』は人間修養の大切さを説き、『三国志』では支那をバカにしていると足下をすくわれるぞと説き、『新書太閤記』ではお国のために戦おうと説いてますね。太閤記定番の清洲城城壁修復ネタで藤吉郎が、城が落ちればお前たちの妻子もどうなるか分からないのだぞ、と語り、感激した人足によって修復があっという間に終わるという展開になってたりして(笑)。敗戦ショックで筆を一時的とはいえ折ったというのは、誠実というか愚直というかイノセントというか、大東亜戦争の理念ってヤツを信じてたんだなぁ、と思わせます。これに比べて吉川英治と親しかった菊池寛なんかは『文藝春秋』(S20.02号)で、東京の空襲は大したことない、地方より東京の方が安全、などと説いていたくせに次のS20.03号を出した後に雑誌は休刊し、行方をくらませている。そして東京大空襲があったわけで、何とも酷い話。(戦中、戦後の『文藝春秋』については色々不透明な話がある)
 で、『新平家物語』は舞台となった時代を戦後の混乱期とリンクさせているようで、特に若者たちの生きる指針となるようにとの願いがあった、と聞いたことあります。清盛の家が異様に貧乏なのはそのせいだとか。
 そして第三部の再放送の話。わたしは毎週買うのが面倒なので月刊のテレビ雑誌を買ってるんですが、9月の最終週に「平家物語(再)」とあるだけだったんで、第三部なのか第一部、第二部なのか分からない状態でした。まあ、第三部だとは思ってましたけど。すると、それ以降も月の最終週に放送するんだろうか?

>縄文人の話
 過去の人々が現代の人間とまったく異なった価値観を持って生きていた、というのが歴史の面白さの一面ではあると思うんだけど、どうしても自分たちの価値観を投影してしまうのが悪い癖。やたら「家父長制」を振り回す人たちとか(汗)。ほんの何十年か前の「農家の嫁問題」とか考えれば分かりそうなもんだろうけど。



#11249 
Kocmoc Kocma 2022/08/25 22:30
人形劇「平家物語」第3部

人形劇「平家物語」、14日放送予定だった第一部12話が台風の影響で予定されていた時間に放映されず、その後1話ずつずらして放送され、第2部最終話が25日のさらに早朝(というか未明)に放送され、それでも第2部までは最後まで放映されました。

第3部は9月27日(火)~30日(金)に一日3話ずつ、時間はさらにさらに早くなって2:55~と3:15~と3:35となりました。第4部第5部の放送は未定。

ご指摘があったように、小説を原作にしているので(読んでいない)、古典の平家物語とも、史実とも異なるところはいろいろあり、”歴史スペクタクル”と銘打っていたことは今般の再放送があるまですっかり忘れていて、それでよいのか?という気もしないでもないです。

清盛の母、最初のあたりは我儘勝手で強烈な印象を残しますが(トゥルゲーネフのお母さんみたいでもあるか)、忠盛が別の女性を迎えるあたりで「ああ、やっぱり別れたのかあ、それともあっさり死んじゃったのか?(『戦争と平和』のエレンのように?)」と思いきや、忠盛の死に際して清盛と大揉めし…それが夫の死後に「一人寂しく暮らしている」と聞いて清盛が訪ねてみたら、気ままで、しかし朗らかで明るく暮らしていて不仲だったはずの亡き夫を甲斐甲斐しく供養していたりして、清盛とも楽しそうに会話するという展開。かなり現代的な感覚の女性のようでなかなか共感を呼んでいました。


「項羽と劉邦」、川本喜八郎さんはだいぶ人形作りを進めていて、残された人形の展覧会も数年前池袋であったのです。引き継いでくれる方を探しているようです。
プロダクションの方のお話だと、NHKに持ち込んだ企画は実現せず、その後一時WOWOWが興味を示していたとのことですが、それもだめで、中国資本との提携も探っていたとのことですが…。
父のアトリエの片づけをしていたら、ちょうど川本さんから父あてのはがきで「項羽の企画をNHKに持っていくという企画会社の担当者がなんだか頼りない人たちでどうなることやら」などと書かれていて、その話を裏付けるものでした。




#11248 
バラージ 2022/08/24 21:48
今週の鎌倉史 大本営発表

 比企尼がまだ生きてた!(笑)
 それにしても冷血な殺し屋善児がいきなり仏心出してきたんだけど、なんで? 理由が全然納得できないんですけど。跡継ぎとして育てられたトウって女の子も範頼を殺した時に1人だけ助けたあの女の子なんだろうけど、家族含めた周りの人間を皆殺しにした男に殺し屋として育てられたってのにその葛藤がまるで見受けられず、普通に殺し屋になっちゃってるのもどうにも違和感。そもそも善児がなんであの子だけ殺さず跡継ぎに育てたのかもわかんないし、そのあたりの架空人物の描写がすげえ雑な気が。

 今週の『13人』は先週の比企氏の乱の続きで、相変わらず基本的には『吾妻鏡』準拠ですが、一部にオリジナル展開あり。
 まず頼家の子の一幡ですが、前回書いた通り『吾妻鏡』では合戦に敗れた比企一族が小御所に火を放ち、一幡も焼死したとされています。焼け跡から遺骸は発見されなかったものの一幡が最後に着ていたものと思われる焼け焦げた小袖が見つかり、乳母の証言でも確認されたとのこと。一方『愚管抄』によると、これまた前記の通り軍勢が攻め寄せる前に一幡は母の若狭局に抱かれて逃れたとあり、おそらくこちらが事実でしょう。『吾妻鏡』にあるのは北条氏による公式発表(および『吾妻鏡』編纂当時の北条幕府の公式見解)であり、北条氏も一幡脱出の噂は聞き及んでいたものの、一幡の生存は北条氏にとって非常にまずい事態なのでそれを否定するために、比企氏が小御所に火を放って全焼したことを利用して上記のような発表をしたのだと思われます(藤原定家の『明月記』1203年9月7日条にも、頼家が死去した後、家臣たちに権力争いが起こり一幡は時政に討たれたとある)。一幡は頼家の正統な後継者であり、生きていたら千幡(実朝)の後継者としての地位は著しく正統性を失い、ひいては千幡をかつぎ出した北条氏の行為が他ならぬ謀反だったことがあまりにも自明のこととなってしまいますからね。
 なお一幡の脱出を軍勢が攻め寄せる前と『愚管抄』は記してますが、一方で寄せ手側が小御所に籠る糟屋有季(比企能員の娘婿)に対して、その名を惜しんで小御所を出て降伏するように促したとあることから、この時に女子供も脱出を認められた可能性もあり、それに紛れて若狭局と一幡が脱出した可能性も考えられます。だとすると寄せ手の大将の義時の大失態であり、また攻め寄せる前だとしても北条氏側の失策であったことには間違いありません。北条氏もあるいは一幡を殺すまでは考えておらず、捕らえることが可能ならば出家でもさせるつもりだったかもしれませんが、上記のような発表をした以上、生かしておくわけにはいかなかったと思われます。以後執拗な捜索が行われ、2か月後に義時はようやく一幡を見つけ出し、藤馬(『鎌倉年代記裏書』では万年右馬允)という郎党に刺し殺させて遺骸を埋めさせたと『愚管抄』には記されています。
 なお前記の糟屋有季は降伏勧告を断固断って戦い、8人を討ち取って自らも討死したとあり、その子息たちは京に逃れ、後に承久の乱で討死しています。『愚管抄』は有季の行動にくわしいことから著者の慈円は有季の子息たちから事件の顛末を聞いたと考えられているようです。

 また仁田忠常の死に方もドラマでは『吾妻鏡』とも『愚管抄』とも違いました。『13人』ではなぜか自害しちゃってましたが、『吾妻鏡』『愚管抄』両書では、展開は大幅に異なるものの殺されたという点では共通しており、ドラマはここまでの描写や展開からああいうことになっちゃったんでしょう。
 『吾妻鏡』ではドラマの通り、危篤状態から回復した頼家がひそかに和田義盛と忠常に時政討伐を命じるため使者として堀親家を派遣(さすがにドラマのように面前に呼び出したりはできないでしょう。間違いなく北条氏は頼家を厳重な監視下に置いたはずですし)。しかし義盛は頼家からの書状を時政に差し出し、親家は捕らえられて殺されてしまいました。翌日、忠常は能員追討の褒賞のため時政邸に招かれるも、なぜか夜半になっても出てこなかったため、外で待っていたお付きの者が怪しみ帰宅して弟の五郎・六郎に報告。時政討伐の命を頼家から受けていたことがバレたと早合点した弟たちは、義時のいた大御所(政子邸。旧頼朝邸)を襲撃するも返り討ちにあいます。その頃、ちょうど時政邸を出た忠常は帰宅途中に騒ぎを知り、もはやこれまでと御所へ行こうとしたところを加藤景廉に討たれたとあります。どう考えてもきわめて不自然な展開で、『吾妻鏡』の記述は到底信用できません。北条氏のプロパガンダ臭がプンプンです。
 『愚管抄』の話はもっと単純でわかりやすく、忠常は頼家寵愛の近習だったが、頼家の状態を知らなかったため時政の命に従って能員を討った。だが頼家がどうなっているか知ったため、3日後に御所で義時と2人になった時に戦って討たれたとあります。忠常は頼朝・頼家2代に渡って重用された剛の者で、義時がタイマンで勝てるのか?という疑問はあるものの、大筋ではこの通りだったでしょう。なお時代が下る史料なので信頼性にはやや問題があるものの、『鎌倉年代記裏書』や『保暦間記』には忠常は一幡の乳母夫だったとあります。
 おそらく時政は忠常と天野遠景に能員を殺させるために大嘘をついていたものと思われます。たぶん能員が頼家と一幡を殺して幕府を乗っ取る気だとかなんとか。そうでなければ一幡の乳母夫(かもしれない)の忠常が、一幡の祖父の能員を殺すはずがありませんからね。

 あと頼家の出家に伴う剃髪の時期も、ドラマは『吾妻鏡』『愚管抄』のどっちとも違います。『吾妻鏡』では上記の忠常討死の翌7日に政子の計らいで頼家が出家させられたとあり、『愚管抄』では逆に8月30日に頼家は自分から(極楽往生のため)出家して一幡に全てを相続させることにしたとあります。『吾妻鏡』では回復後、『愚管抄』では自ら出家で、どちらも意識不明中ではありません。そもそも寝てる状態であんなにツルツルに剃っちゃうのは難しいのでは?(笑) 実は主人公の義時が死ぬ時に人事不省に陥ってから周囲が慌てて出家させてるんですが、たぶん髻だけ切って出家の形をとったんじゃないかなあ。まあドラマはわかりやすさ優先でああなっちゃったのかもしれないけど。

 最後に義時の妻子たちの話。ドラマでは姫の前(『13人』では比奈)が義時と離縁した後、京に赴いたことにナレーションで触れてましたが、彼女がすぐに再婚したことには触れてませんでしたね。再婚相手は公家の源具親。『明月記』1226年11月5日条に、具親の子は北条朝時(姫の前の長子)の同母弟で幕府より任官の推挙があったと記されているとのこと。具親の嫡男の源輔通は比企氏の乱の翌1204年に産まれており、姫の前は乱後に離縁して京に下ってから間もなく再婚したことになります。父親の比企朝宗は1194年が『吾妻鏡』の最終所見ですでに死去していたと思われ、比企氏も族滅して他に身寄りもないでしょうから生活していくためにも再婚せざるを得なかったでしょうね。この頃の女性にはよくあることです。朝宗は在京経験が長かったので、京に何か縁でもあったのかもしれません。具親の次男の源輔時も1233年に朝時の猶子となっているため、姫の前の息子と見られているようです。『明月記』1207年3月30日条には前日に具親の妻が死去したと記されており、ナレーションでも触れられていた通り姫の前は再婚後3年ほどで死去しています。『草燃える』放送当時はこの史実は判明しておらず、姫の前(『草燃える』では野萩)は比企氏の乱後なんとなく出てこなくなったようですね。
 『13人』では姫の前は基本的に穏やかで心優しい女性に描かれており、また義時との結婚に劇的なエピソードがあるためか去年読んだ小説『北条義時』(嶋津義忠、PHP文庫)や『義時 運命の輪』(奥山景布子、集英社文庫)でも同様にかなり理想化された女性像になってましたが、僕は実際にはかなり気の強い女性だったんではないかと思っています。もともと義時のアプローチを1年以上も無視し続けていましたし、『吾妻鏡』でもその頃の姫の前を「権威無双」と表現しています。見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁しない」という起請文(誓約書)を書かせて結婚させてやったと記されてますが、頼朝がそのような条件を持ち出すとは思えず、これは姫の前が出した条件だったと考えたほうが話の筋が通っている。頼朝の仲介にもそのような条件を突き付けたくらいですから、相当に気の強い女性だったんでしょう。
 義時と姫の前の子供たちには、前記の朝時の他に重時と娘の竹殿がおり、朝時は1193年に、重時は1198年に生まれています(竹殿の生年は不明)。このうち朝時は母の身分が低かったと思われる異母兄泰時に対して身分のしっかりした正室の姫の前の長子であり、義時の嫡子として扱われていたと推定されています。1206年の元服式が御所で行われ、また名前から実朝の偏諱を賜ったことが推測でき、そうすると烏帽子親も実朝だったと思われることから、義時と姫の前の離縁後もある時期までは嫡子として扱われ続けたと思われます。母親との離別時に11歳だった朝時は、上記の異父弟に対する扱いからも母親への思慕を終生持ち続けたものと思われ、父義時や後に朝時に代わって嫡子となった兄泰時との関係はあまり良くなかったようです。一方、弟の重時は母との離別時に6歳で母の記憶があまりなかったのか、異母兄泰時との関係も良好でした。大河『北条時宗』では平幹二朗が演じてましたね。『13人』では比奈の子らしき子供たちが出てくるシーンはあったものの、当て書きしかできないと自認する三谷幸喜は当て書きのしづらい子役を描くのは苦手なのか、ドラマ全体に子供(子役)の登場が非常に少なく、大人になってから突然出てくる印象があります。約10年で3人の子供を産んだ比奈が、出産はおろか妊娠してるシーンもないというのはいかがなもんだろうか。
 なお義時の四男の有時が1200年に生まれているんですが、やはり『13人』には未登場。母親は伊佐朝政の娘で義時の妾(側室)とのことですが、朝政は常陸伊佐氏らしいという以外は詳細不明。有時は四男ながら通称は六郎で、義時の継室である伊賀の方(『13人』では「のえ」)の子でそれぞれ四郎・五郎を通称とされた政村・実義(実泰)よりも下位に置かれており、この母子も『13人』に出てこないのは仕方がないのかなあ。義時が妻以外に女作ってたみたいになっちゃうのがまずいんすかねえ? 有時も目立たない息子だし(とか言ってて大人になったら突然出てきたりして・笑)。


>男女逆転『大奥』がNHKでもドラマ化
 映画とTBSドラマで実写化された、よしながふみのマンガ『大奥』がNHKでもドラマ化されるとのこと。来年1月からドラマ10で放送開始です。これまで映画1作目で吉宗&水野祐之進、TBS連ドラで家光&万里小路有功、映画2作目で綱吉&右衛門佐をやりましたが、原作が昨年2月に完結したそうで、今回は家光から大政奉還まで描くそうです。NHKって実は案外こういうところにも目配りしてるんですよね。21世紀大河最大のヒット作『篤姫』だって、菅野美穂主演のフジテレビ連ドラ『大奥』の影響で作られたのは明らかですし。そのうち今年の大河の主演つながりで『信長協奏曲(コンツェルト)』も再実写化しちゃったりして(笑)。



#11247 
バラージ 2022/08/19 21:14
チャン・イーモウ、5たび文革映画を撮る

 ドキュメンタリー映画『主戦場』を観た身としては、杉田水脈などというトンチキな人が総務政務官になったことにただただ呆れるばかりです……。


 『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』というチャン・イーモウ監督の中国映画を観ました。東京など全国では5月に公開されたというのに、地元ではようやくの公開です。原題は「一秒鍾」、英語題は「One second」。邦題はもう少しなんとかなんなかったのか。
 1969年、文化大革命の時代。映画フィルムをバイクで運ぶ男が店の中で休憩してるのを見つめるどこか挙動不審な男。と、バイクからフィルムの一巻を盗み逃げ去る薄汚い身なりの子供を目撃した男は追いかけて捕まえる。取り戻したフィルムを持って戻るとバイク男はすでに出発していた。フィルムを届けるため映画館への道を歩く男は盗んだ子供と再び会うが、その子供は実は女の子だった。騙し騙されの追いかけっこの末に彼らは映画館に到着。実は男は劇映画の前にかけられるニュース映画に1分ほどだけ映っているという娘の映像を観るために労働改造所を脱走してきたのだった。一方両親に捨てられ幼い弟と二人暮らしの少女は、ある事情でどうしてもフィルムが欲しかった。やがて残りのフィルムも到着するが、運搬中のアクシデントでフィルムは泥まみれに。映画を心待ちにしていた男と村人たちは、映画館を一手に仕切る館主の号令のもとにフィルムの洗浄作業に取りかかる……。
 『活きる』『初恋のきた道』『サンザシの樹の下で』『妻への家路』に続くチャン・イーモウ監督5度目の文革映画ですが、同時にこれはフィルム映画という、今やデジタル化で失われつつあるものへの愛に満ちた“映画の映画”でもあります。果てしなく続く悠久の砂漠のシーンなんかは、チャン・イーモウが撮影を務めたチェン・カイコー監督のデビュー作『黄色い大地』など第5世代の初期作品を思わせましたね。映画上映のシーンは日本で言えば戦前とか戦後すぐみたいな時代なんで、さすがに僕が物心ついた時の映画館はああではありませんでしたが、子供のころにやってたスライドや8mmフィルムの上映会みたいのを思い出しました。館主がフィルムをぐるっとつなげて無限ループ上映できるようにするところなんかは、イーモウお得意の大仕掛け嘘道具と思われ、なかなか面白かったですね。これがデビュー作だったヒロインのリウ・ハオツンは今やすっかり売れっ子スターだそうで、これまでコン・リー、チャン・ツィイー、ドン・ジエ、ニー・ニー、チョウ・ドンユイとニュー・ヒロインを次々に発掘してきたチャン・イーモウの面目躍如といったところか。
 ただ、最後のエピローグは余計な蛇足に思え、なんか不自然な気がしました。と思ったら、パンフレットを読むとやはり当局の検閲でラストが悲劇的すぎると修正命令が出て追加撮影したらしい(まあ、そのおかげでずっと汚い身なりにボサボサ頭で真っ黒な顔だったリウ・ハオツンの可愛らしい素顔が見れたというところもあるにはあるんだけれども)。また主人公の娘に関する、ある重要な描写もやはり悲劇的すぎるとの理由でカットされてしまったとのこと。その2つの修正がないほうが絶対、より胸に残る映画になってたはず。まったく持って権力による検閲というのはろくなことをしません。やれやれ。


>60年代フレンチ・サブカルチャー
 NHK-BSの『世界サブカルチャー史』番外編、フランス60年代です。ヌーベルバーグの時代ですな。取り上げられた映画などのサブカルチャーは、『地下鉄のザジ』(1960年)、『勝手にしやがれ』(1960年)、『ピアニストを撃て』(1960年)、『女は女である』(1961年)、『突然炎のごとく』(1962年)、『小さな兵隊』(1963年)、『鬼火』(1963年)、『シェルブールの雨傘』(1964年)、『アイドルを探せ』(1964年)、『気狂いピエロ』(1965年)、『中国女』(1967年)、『夜霧の恋人たち』(1968年)、『家庭』(1970年)など。パリ五月革命なんかも取り上げられてました。やっぱりこれくらい昔だと、「歴史」って感じがしますね。やっぱり90年代以降、特に21世紀はまだ「歴史」ではないな。個人的には。



#11246 
バラージ 2022/08/18 00:23
今週の鎌倉史 わるいやつら

 今週の『13人』で1番びっくりしたこと。比企尼がまだ生きてた!(笑) いや前も書いたけど、さすがにもう死んでると思いますが……。それから名前だけで終わると思ってた阿野全成の息子の頼全がちゃんと出てきましたね。ちなみに史実で頼家が病に倒れるのは頼全が誅殺された後です(頼全誅殺の命が下されたのが6月24日で誅殺されたのは7月16日。頼家が倒れたのは7月20日で重体となったのが8月下旬)。さらには後に出番があると思われる全成と阿波局(『13人』では実衣)の息子の阿野時元、そしてこっちは出番があるかわからないけど娘も子役でちらっと登場。全成の娘には公家の四条隆仲の妻と、やはり公家で阿野家の祖となった藤原公佐の妻がいるようですが、はたしてどっちなのか。あと朝廷では1202年に源通親(土御門通親)が死去してますがこれもスルーか。

 今週はついに比企能員の乱。史実や研究については呉座勇一氏の現代ビジネスの連載でもくわしく説明されてるんで大筋はそちらやWikipediaにおまかせして、ここではそこで触れられてない細かいことや僕の私見を。なお呉座氏の連載にもあるように比企能員の乱は実際には北条時政のクーデターであり、山本みなみ氏は「比企能員の乱(または比企氏の乱)」という呼称は実質に合ってないとして、『保暦間記』にある「小御所合戦」の呼称を使うべきと提唱しており(『史伝 北条義時』小学館)、その呼称を採用するものも増えているようです。
 そんな比企能員の乱、『13人』では主人公の義時が北条氏側の中心人物として動いていたように描かれてましたが、実際には首謀者は時政で間違いないでしょう。当時すでに60代半ばに達していた時政は、これが人生最後の千載一遇のチャンスと乾坤一擲、いちかばちかの大勝負に出たのだと思われます。『玉葉』には梶原景時の変の時点で景時が千幡擁立の陰謀があることを訴えたと記しており、時政は頼朝死去後間もなくから頼家を廃して千幡を擁立する陰謀を巡らしていた可能性が高い。そして阿野全成・頼全や阿波局もそれに加担しており、時房も頼家側近として活動しながらスパイとしての役割を果たしていたと考えられます。義時は『吾妻鏡』では小御所攻撃軍の大将を務め、『愚管抄』では小御所より逃げ延びた一幡を探し出して殺させており、やはり北条と比企の対立となれば実家の北条に味方せざるを得なかったでしょう。妻の姫の前(『13人』では比奈)が比企氏ですから、父から疑いの目を向けられないようにと考えればなおさらのことで。政子の立場はさらにもっと複雑だったと思われますが、合戦が避けられず孫の一幡を取るか息子の千幡を取るかという立場に立たされれば、実家の支持する息子を取る他はなかったものと思われます。
 なお『13人』では全体的に時政を気のいいおっさんに描き、妻の牧の方(『13人』では「りく」)が夫を焚き付けて謀略を企む役回りになってましたが、『吾妻鏡』で牧の方が前面に出てくるのはもう少し後のこと。しかも『吾妻鏡』以外の諸書ではもっぱら時政を謀略の中心人物としており、『吾妻鏡』は時政が悪者になりすぎないようになるべく牧の方を悪役に仕立てあげているとする説が有力です。この後も時政はどす黒い欲望を丸出しにして権力への道を邁進していきます。
 あと、なんか変だなと思ったら小御所が炎上してなかった。『吾妻鏡』では合戦に敗れた比企一族が小御所に火を放ち、一幡も焼死したとあるはずですが……。まぁ『愚管抄』では炎上したとは書かれてないんだけど、ドラマはどっちかというと技術的な問題なのかなぁ。でも『草燃える』総集編では炎上してたような。新大型時代劇『武蔵坊弁慶』でも最終回で高館が炎上してましたし、今回はストーリー的な理由なのかな? そういや『人形劇 平家物語』の保元の乱でも火攻めがされてなかったけど、そちらは人形劇だけに技術的な問題?

 さて、滅亡した比企氏ですが、後世によほど記録が残ってなかったのか比企能員の息子たちのほとんどが名前不明です。嫡男は『吾妻鏡』に余一兵衛尉とありますが、余一というのは通称で兵衛尉は官位であり、実名は記されていません。頼家の側近となった庶子2人はそれぞれ通称の三郎(または弥三郎)、四郎(または弥四郎)とあり、三郎は一般的には宗員とされることが多いんですが『吾妻鏡』には通称で三郎としか記されてないんですよね。四郎は『吾妻鏡』に数ヶ所出てくるうち1ヶ所だけが「時員」となっており、能員の息子たちのうち唯一実名が記されてる人物です。一方で比企判官四郎宗員という人物も1ヶ所だけ出てくるんですが、それが時員と同一人物なのか別人(三郎の誤りなど)なのかは不明。さらにその下に五郎もいるんですが、やはり実名は不明です。以前も書きましたが、比企尼の夫の比企掃部允も実名は不明(掃部允は官位)で、実名を「遠宗」とする系図類もあるようですが信頼性は低いとのこと。鎌倉幕府の有力武士でありながら、これほど情報に乏しい一族も珍しく、同じ滅亡した一族でも梶原景時の子息は景季・景高・景茂など、畠山重忠の子息は重秀・重保など、和田義盛の子息は常盛・義秀・義直・義重など、いずれもほとんど実名が記されてます。北条氏が比企氏の情報を徹底的に隠滅したことがうかがわれ、それだけ北条氏にとって不都合な情報が含まれていたんでしょう。
 それから『13人』では能員の妻(『13人』では道)がやたら頻繁に出てきましたが、これも『草燃える』の影響っぽい。『草~』では能員の妻(『草~』では比企重子)は比企尼の娘で能員は娘婿という設定だったらしく、能員が比企尼の甥で猶子という史実とは異なります。永井路子の原作はたぶん史実通りだと思うんですが、猶子というのが視聴者には理解しにくいと思ったんでしょうか? この重子が政子にライバル意識を持ってるという設定だったらしく(総集編は観たけど印象に残ってない)、どうも『13人』はそれを踏襲してるっぽいんだよなあ。史書における能員の妻についての記述はとても少なく、『吾妻鏡』では頼家の乳母として河越重頼の妻(比企尼の次女)、平賀義信の妻(同三女)に次いで3人目に出てくるのと、比企氏滅亡後に能員の妻妾と2歳の末子が安房国に配流となったという記述があるだけです。つまり能員の妻は死んでいません。また『吾妻鏡』には比企氏滅亡直後に能員の舅の渋河兼忠が誅殺されたとあることから能員の妻は兼忠の娘かとも思われますが、一方で『愚管抄』では能員の娘で頼家の妻妾の若狭局(『13人』では「せつ」)の母をミセヤノ太夫行時(比企郡の有力武士三尾谷氏と推測する説あり)の娘としており、兼忠は比企一族と共に小御所で討たれた人物として名前が出てくるだけです。兼忠の娘と行時の娘のどちらかが先妻でどちらかが後妻なのか、それともどちらかが妻(室)でどちらかが妾なのか、どちらが頼家の乳母の1人で、どちらが(もしくは両者が)安房国に配流になったかなどは不明。
 それから若狭局の生死についてもはっきりしません。『吾妻鏡』では比企一族が小御所に火を放ち一幡も焼死したとあるので、おそらく若狭局も死んだのだろうと推測できますが、より事実に近いと思われる『愚管抄』では上記の通り北条方が攻め寄せる前に一幡は母(若狭局)に抱かれて落ち延びたとあり、一幡は2ヶ月後に義時の手勢に見つけ出されて殺されたとありますが、若狭局については不明です。能員の妻妾と2歳の子が流罪のみで命は助けられてるように、当時は女性と幼児は助命されるという暗黙の了解があったようで、若狭局も命は助けられた可能性は高いように思われます。



#11245 
バラージ 2022/08/14 17:04
作品内というより作品外のこと

 観る時間があるかどうかと思ってた『人形劇 平家物語』。1話20分という短さもあり、ちょこちょこと観て4話まで視聴。んー、なんというか作品の出来どうこうではなく、なぜこういう設定や筋立てになったのかという作品外というか作品成立過程のほうが気になってしまいます。原作の吉川英治『新・平家物語』はなにしろ1950年代の小説なんで、歴史学的にというか歴史認識的に古い部分があるのは当然で仕方ないんですが、そういう史実との対比ではなく単純に物語としてなんでこんな設定&展開に?と思っちゃうところがあるんですよね。
 僕は原作未読なんで原作と人形劇の違いはよくわからないし、溝口監督&雷蔵主演の映画版や、大河の総集編は観たんですがあんまり記憶に残ってない。そういう前提の上で、思ったところをつらつらと書かせていただきます。

 まず最初に、ん?と思ったのは、主人公清盛の母泰子がえらく悪妻悪母に描かれちゃってるところ。そういや映画だったか大河だったかでもそういう描写で、かなり違和感があったことを思い出しました。清盛の母が祇園女御という白河法皇落胤説を取ってるわけですが、清盛の母についてはほとんど不明だし祇園女御も人物像についてはわからないところが多いんでほとんどフィクションの描写になっちゃうのは仕方がないにしても、歴史物語で主人公の実母があんな悪妻悪母に描かれるのは結構珍しいような。それと対比するかのように忠盛のほうはえらく情けない父親で(笑)。
 もう1つ気になるのは、なんかやたらと藤原氏全盛の時代と言及されるところ。藤原氏が全盛だったのは100年以上前の道長のころで、その後摂関政治は徐々に衰退して清盛の若い頃は院政の全盛期のはずですが、人形劇でも一応院政のシステムにも言及されてるもののもっぱら藤原氏が悪政を敷いてたみたいな話になってて、まるで頼長が時の権力者みたいな描かれようです。原作の執筆された1950年代当時は、歴史学界においても腐敗した貴族政治を武家政治が超克していくというやや左派的な革命的歴史観が主流を占めていたと思われ、その反映もあるかとも思われますが(もっとも貴族政治と武家政治に関するそのような観念というか歴史観はあるいは戦前から、もしくは当の武家政権だった江戸時代からあったのかもしれませんし、今でも一般レベルではそう思っている人も多いでしょうが)、その場合の「腐敗した貴族政治」には院政も含まれているはず。しかし本作では貴族政治の代表として藤原氏がやたら悪どく描かれてるのに対し、皇室(あえてこの語句を使う。理由は後述)はあまり悪く描かれていません。せいぜい鳥羽上皇と崇徳天皇(のち上皇)父子の仲の悪さが描かれるくらいでそもそも崇徳は完全に被害者だし、鳥羽もそこまで悪者ではなく信西や忠通がそそのかしたみたいな描写になっちゃってます。
 これはおそらく戦前戦中はバリバリの皇国主義者だった吉川(参考:中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書)には、戦後になっても皇室を悪玉としては描き得ず、「腐敗した貴族政治」の一員にすることはしたくなかったんじゃないかと思われます。それに加えて考えられることとして、敗戦の衝撃からなかなか筆を取れなかったという吉川の『新・平家』執筆動機として、平家の滅亡と日本の敗戦を重ね合わせて描くという構想が当初はあったらしく、それを知って思い至ったんですが吉川は清盛が打倒した「腐敗した貴族政治」を、軍部が権力を握る以前の「腐敗した政党政治」に重ね合わせたんではないかと。そのような政党政治に対する嫌悪感を吉川は戦後も持ち続けていたと考えると、出てくる貴族全員悪人(妻時子の一族は除く)みたいな極端な設定も納得がいくような。
 そしてそこからさらに連想すると最初に書いた主人公清盛の実母の悪妻悪母ぶりの理由もなんとなく推測できます。情けない父親とやたら強くてわがままな母親という通俗メロドラマみたいな構図は、敗戦後に失墜した父権とそれとは対照的に強くなった母親たち女性という戦後の家庭や社会状況を写し出したものと思われ、吉川はやはりそういう戦後的風潮に強い反感・嫌悪感を持っていたんではないでしょうか。それと並行して描かれる文覚の発心譚における袈裟御前の、今となってはやや時代錯誤な貞女ぶりとの対照も意図的なものを感じますね。史実の文覚は生年不明なものの清盛よりはだいぶ年下だったと考えられ、同じく文覚発心譚を題材とした1953年の映画『地獄門』(原作は菊池寛の大正時代の戯曲『袈裟の良人』)では平治の乱の頃に設定されてますが、基ネタの『源平盛衰記』では文覚と清盛は特に関係なかったはずですし。
 ちなみにこの文覚発心譚、『地獄門』を観た時にも思ったんですが、袈裟御前の選択というか行動がどうにもこうにも受け入れにくい。現代人にはちょっと理解しかねる行動で、人形劇を除けば最後に実写化されたのは1972年の大河『新・平家』のようですし、このあたりの“古さも個人的にはどうもね……。あと、人形とはいえ袈裟の生首を見せられるとちょっとぎょっとしちゃいますね。むしろ人形だけに余計怖い(笑)。
 あとは忠盛がやたら貧乏な設定だとか(史実ではむしろかなりの富裕だった)、舅の平時信もこれまた貧乏だとか(史実ではやはりそこまで貧乏ではない)、映画ではクライマックスになってる有名な清盛が神輿に矢を射るシーンとか(史実については以前書いた#9309参照。実際にはそんなことしたら極刑は免れないらしい)、いろいろ史実と違うところもありますが、おそらくこれらも貴族と武士の対比や迷信を否定する合理精神など戦後的価値観を意図的に導入したんでしょうね。そういや映画や大河では時信は藤原氏だったが追放されたため、時子が嫁入りした平氏を名乗ることになったという設定らしく、原作もそうなのかな? これは貴族はみんな藤原氏、平氏と源氏はみんな武士ということにしてわかりやすくするためなんでしょうか? 人形劇はそこは原作を踏襲しなかったようですが、お話を入れる隙間がなかったのかな? また泰子(祇園女御)に息子が4人もいる設定で、「大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典」によると清盛の他は教盛・経盛・頼盛みたいだけどこれじゃ池禅尼に息子がいないことになっちゃうぞ(笑)。清盛の先妻の息子の重盛も時子の息子になっちゃってたり、このあたりはどういう意図で変えたのかわからんなあ。それとも吉川が知らなかったのか、まだ史実が判明してなかったのか。
 ま、とにかくこの後もちびちびと観てみますかね。かこつけて源平話をするために(笑)。しかしたった4話であっという間に保元の乱に突入しちゃったなあ。



#11244 
徹夜城(いまごろPS2のRPGをプレイしていたりする管理人) 2022/08/10 10:40
人形スペクタクル「平家」も30年前ですか…

 いきなり再放送になって驚いた人形劇「平家物語」ですが、気がついたらほぼ30年も前に放送したのか、と驚いてしまいました。僕は「人形劇三国志」にドはまりした世代でもあり、そのスタッフ・キャストも大きくかぶる「平家物語」放送決定のニュースには結構興奮した覚えがあります。

 この人形劇「平家」は、実際には吉川英治「新平家物語」が原作なんですよね。のちの文覚の「地獄門」と同じストーリーが最初に入ってるのもそのせいで。原作がそれですから「三国志」よりも大人向けに作ってまして、放送枠も夜の「銀河テレビ小説」でした。
 「人形劇三国志」とのつながりでブームがおこるとの読みがあったのか、当時光栄が歴史SLG「源平合戦」を発売したりもしてました。光栄でも源平ものはさすがに後にも先にもこの一作だけだったような。他メーカーでも記憶がありません(海外メーカーのであったりするんですが)。
 大河「太平記」放送に合わせて南北朝ゲームが数本でた時も光栄は出さなかったからなぁ。歴史ものゲーム全体でも結局三国志か戦国ものばっかりになってしまってますし。

 歴史もの人形倪ということでは、中国で「項羽と劉邦」があって、日本でも一部放送されていました。これがなんとも「人形劇三国志」に雰囲気がにてるんですが、確か川本喜八郎さんも同ネタを構想されていたような。


>ろんたさん
 確かに言われてみれば、というか、「狩猟と採集」をはっきり分けて男女分業のイメージで語っていたのも根拠薄弱といえばその通りですね。一応つい最近でもそういう生活様式の人々の在り方から類推ということもできるんでしょうけど先入観だけから想像するのはあぶなっかしいでしょう。



#11243 
バラージ 2022/08/09 19:54
米国サブカルチャー史完結

 NHK-BSの『世界サブカルチャー史』、最後の10年代編が終了。さすがに10年代まで来ると歴史というより現在進行形のジャーナリズムに近いですね。取り上げられた映画などのサブカルチャーは、2010年3月にフェイスブックがアクセス数でグーグルを凌ぐ、『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013年)、『ワイルド・スピード EURO MISSION』(2013年)、『ダラス・バイヤーズクラブ』(2013年)、『アメリカン・スナイパー』(2014年)、2015年6月にアメリカ最高裁が同性婚をアメリカ全州で認める、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)、『ムーンライト』(2016年)、『パターソン』(2016年)、2017年10月にセクハラへの抗議が映画界から社会現象に発展、『ゲット・アウト』(2017年)、『ブレードランナー2049』(2017年)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)、『ジョーカー』(2019年)など。
 『世界サブカルチャー史』は来週のおまけのフランス60年代編で完結です。


>今週の鎌倉史 あのちゃん
 『13人』、頼朝の兄弟最後の生き残り、阿野全成も退場。この全成、僧だったため範頼や義経のように合戦に出陣したこともなく、『吾妻鏡』にもあんまり記述がありません。そのためもあってか、以前も書きましたが映画やドラマなどには子供時代の今若として出てくることはあっても、大人になった阿野全成としてはめったに出てこない。『13人』以前は『草燃える』くらいで、大河でも『義経』は今若時代のみ、『源義経』にいたっては義経の鞍馬寺時代から話が始まってるんで全く出てこないんですよね。同じ頼朝陣営にいたはずなのに。人物像がうかがい知れる記述も少ないためか、『草燃える』では秘めた野心家キャラに描かれてた一方で、今回は気弱な巻き込まれキャラにされてました。ただ史実では「悪禅師」と呼ばれていたので、実際にはもっと強面キャラだったのかも。
 『吾妻鏡』によると全成は1203年5月19日に謀反の疑いで武田信光に連行されて御所に拘禁され、宇都宮朝業に預けられました。翌20日、頼家は比企時員(能員の子)を政子邸に派遣し、政子邸にいた全成の妻妾で政子の妹の阿波局(『13人』では実衣)の引き渡しを要求。政子は「謀反などということを女性に話すわけがないし、全成は2月に駿河国に下向して以後音信不通だったのだから、阿波局に疑うべきところはない」と妹を強硬にかばって引き渡さなかったとのこと。25日に全成は常陸国に配流され、6月23日に頼家の命令で八田知家が下野国で全成を誅殺。翌24日、大江義範が在京する全成の息子の頼全を誅殺すべしという命令を京の源仲章と佐々木定綱に伝えるために上洛し、7月16日に在京御家人によって東山延年寺で頼全が誅殺されています。
 今一つ詳細が不明な事件ですが、阿波局は頼家の弟千幡(実朝)の乳母で、その夫である全成は千幡の乳父となります。貴人と乳母とのつながりの強さを考えると、阿波局と全成が千幡を鎌倉殿後継または鎌倉殿にするために何らかの活動をひそかに行っていたことは考えられます。さらにその背後に阿波局の父北条時政がいた可能性も後の展開から考えられ、頼家や比企能員が千幡擁立派に先制攻撃を加えたと推測する見解もあるようです。ただ、この時点で千幡擁立の主体が時政だったのか阿波局だったのか全成だったのかは決め手がなく、見解も分かれているため創作作品における全成の人物像も違ったものになるのでしょう。
 なお全成の子頼全についてはさらに史料がなく、京都側の史料にも登場しないため誅殺された理由も不明確。頼家や能員から何らかの疑いを受けたんでしょうが、具体的に何があったかはわかりません。生母も不明で、阿波局ではない可能性もあります。また千幡の乳母には他に大弐局・上野局・下総局がおり、大弐局は加賀美遠光の娘で頼家の養育係を務めた後、実朝の養育係にスライドしたようです。上野局・下総局は詳細不明。やはり嫡男の頼家と庶子の実朝では、乳母について残された情報量も違ってくるんですねえ。

 それから今回は頼家の中小御家人救済策も描かれてました。これは実際に『吾妻鏡』に記されてる政策で、有力御家人の余剰の土地を中小御家人に再分配するという政策でしたが、既得権が侵される有力御家人たちが猛反対したため仕方なく延期したとされています。
 あと、小ネタとしては13人の1人として前からちょくちょく出てきてた八田知家。この人は頼朝の乳母の寒河尼の弟で、頼朝の父義朝に従って保元の乱を戦っており、平治の乱が初陣だった頼朝よりもおそらくは年上で、13人の1人となった時点で50代後半だったと思われます。演じてる市原隼人が若いんで全然そうは見えないんだけど。
 それから三浦義村が平家追討に出陣する時に八重に預けてった初という赤ん坊。先週大人になって再登場しましたが、後に北条泰時の妻になった娘の矢部禅尼だったんですね。矢部禅尼の生年は平家滅亡後の1187年なんで、1184年生まれ説のある次男の泰村だと思ったんですが違ったようで(泰村は1204年生まれ説のほうが有力)。3年くらいの違いは誤差の範囲で、ストーリー展開のほうを優先させたってことなんでしょうか。

>『人形歴史スペクタクル 平家物語』
 本放送当時は観てなかったのはもちろん、そもそもやってることを知りませんでしたね。当時は社会人になりたてで、子供向けの人形劇はもう卒業って感じでした。僕が多少なりとも観てたNHK人形劇というと『プリンプリン物語』『人形劇 三国志』『ひげよさらば』といったあたりでして。一応録画予約しましたが観る時間あるかなあ?



#11242 
巨炎 2022/08/09 07:06
とりあえず観ました「平家物語」

エンディングテーマは聴き覚えが…。
初回は「地獄門」エピですか(笑。

https://sakuhindb.com/pj/6_BDBDB7E6BDB8/writing.html


\#11240 
Kocmoc Kocma 2022/08/07 21:15
人形歴史スペクタクル 平家物語 29年ぶり再放送

人形劇「平家物語」(初回放送1993年)が、NHK総合で再放送されることが決まりました。「三国志」の方は何度か(CSも含めて)再放送があったようですが、「平家物語」は29年ぶりの放映だそうです。大河ドラマとのタイアップなのだと思われます。
第1部「青雲」・第2部「栄華」を8/9~8/21(火曜から日曜)午前4:20~と4:40~一日2話ずつの放映です。早朝の放映です。
NHKプラスでの配信もあります。第3部以降の放映は未定。

川本喜八郎人形ギャラリー(渋谷ヒカリエ8階)も、現在(2022年6月5日~)の「平家物語」の展示は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を意識してだと思いますが、「夢 静の巻・吉野雛の巻」「鎌倉の御家人たち」、入口角ケースが木曾義仲、中央島ケースが巴御前です。実演映像もあります。
渋谷に行く機会がありましたら、こちらも是非ご覧ください!





#11239 
ろんた 2022/08/07 10:47
縄文人の話

 ちょっと前に「縄文人の摂取食糧の60%は植物性。女性の採集が縄文時代を支えた」(<うろ覚え(汗))という話を聞きました。
 どうしてそんなこと分かるんだろうと思ったら、骨のタンパク質(コラーゲン)で炭素と窒素の安定同位体比(δ13Cとδ15N)を測定することで過去の食生活を推定でき、この値は食物の割合に応じてその特徴が反映されるとのこと。でもこれ個人間の差異が大きくて、ごちゃごちゃに出土した骨が何人分かという特定にも使えるらしい。さらに植物の場合、生育場所や品種などによって炭素と窒素の割合が違ってくるという話もあって、一律に植物性が60%というのは疑問符が付くとか。まあ、門外漢には判断がつきかねるんですが、どうも、そういう研究結果もある、というのを政治的に利用しようとしている勢力があるみたい。
 ただ「女性の採集」という言葉には引っかかる。「男は狩りに出て女は家を守っている」というのは性分業の合理化だ、女だって仕事をしていた、ってことらしいんですが、誰もそんなこと考えてないって(笑)。逆に「女性の採集」というのが性分業の合理化じゃないかと思ったりして。我々って「採集」と聞くとブドウ狩り、ナシ狩り、ミカン狩りを連想しちゃうけど、当然ながらそんな観光農園が縄文時代にあるはずもなく、「採集」の現場は人跡未踏の原生林なわけで、鹿、猿、猪、熊、狼がウロウロしているわけですよ。鹿に蹴られりゃ肋骨が折れるし、猿は目玉を狙ってひっかいてくるし、猪の牙に引っ掛けられたら出血多量でお陀仏、熊や狼については言わずもがな。そんな危険なところに出張っていくんだから武器も持っていただろう。いや、ひょっとしたら「採集」と「狩猟」を分けて考えるのが近代人の偏見で、護衛を兼ねて狩猟組が同行し、男女の分業とか無かったんじゃないか? 女性のハンターもいたって説もあるらしいけど、そう考えれば腑に落ちる気がする。まあ、素人考えですけど。

>アルキメデスの大戦
 わたしの方は映画を失念しておりました(汗)。でKINENOTEで調べると、主人公は大和建造を阻止するために山本五十六に引っ張られて海軍に入ることになっている。なんか漫画のあらすじと正反対。で、wikiを見てみると、主人公が建造を阻止したのは大艦巨砲主義の大和で、主人公が建造に尽力したのは大鑑ミサイル主義(?)の大和らしい。そしてその情報をアメリカ側にリークして、交渉の席に座らせるとか、ジェットエンジンの技術をドイツから持ってくるとか、主人公がご都合主義的に重要局面に必ずからんでくる。なんか読んでもいないのに、ついていけない、と思ってしまいました。「数学の天才」って何でもできるんだなぁ。



#11238 
バラージ 2022/08/05 20:39
今週の鎌倉史 こっちがほんとの女武者

 日曜夜の『新・信長公記』、バカバカしくてなかなかに面白い。力抜いて気楽に観れるのがいいっすね。その日の『鎌倉殿の13人』の印象がちょっと薄れちゃうほどで(笑)。キムタクのボクシングドラマでも好演だったヒロイン役の山田杏奈ちゃんもいいですな。


 それにしても『13人』、頼家が地図の真ん中に線を1本引いて領地の多寡は運次第と言ったエピソード、そのまんまやっちゃうのか。『吾妻鏡』が頼家の暴政の象徴的エピソードとして記してるわりと有名な話なんだけど、これ、かなり怪しいんだよなあ。頼家=暗君を印象づけるための創作エピソードっぽい。実際には頼家がその後もたびたび堺争論調査のために調査官を派遣してるという話が他ならぬ『吾妻鏡』に載ってるんですよね。頼家は荘園領主の訴えにも地頭の訴えにも片寄らず是々非々で裁定を下していることが残されている文書からも明らかになっており、代替わりに伴って起こった頼朝時代の裁定を覆そうという動きには否定的だったようです。また頼家が蹴鞠にのめり込む描写も『吾妻鏡』通りですが、これについては公家的階級に足を踏み入れ、御所を出ての自由な行動がしにくくなった鎌倉殿にとって、閉鎖空間でできる身体運動としても重要だったとの指摘もあります。それから『13人』では描かれていませんが、頼家が蹴鞠と並んで熱心だったのが狩猟。富士の巻狩りほど大規模なものではありませんが、頼家も模擬軍事訓練とも言うべき狩猟をたびたび行っており、鎌倉殿としての務めを熱心に果たしていたことがわかります。なお鎌倉新仏教の1人として有名な栄西が1199年に鎌倉に下向しており、頼家や政子の帰依を受けて1200年には頼朝の一周忌法要で導師を努めた他、政子が創建した寿福寺の開山も努め、以後は京・鎌倉間を往来して、1202年には頼家の庇護で京に建仁寺を建立しています。
 それから頼家の命令で北条頼時が泰時に改名するというエピソードが出てきましたね。史実では頼時が泰時に改名した理由は不明、というよりも『吾妻鏡』には改名したとさえ記されておらず、いつの間にか頼時から泰時に変わってるんですが、そもそもの最初から泰時であって頼時とは名乗っていなかったんではないかという推測は以前書きました(#11223)。『吾妻鏡』に頼家の命令で改名したという似たような話が載ってるのは泰時の叔父の時連→時房のほう。頼家の側近の京下り公家の平知康が「連」という字は銭を紐で「貫」くに通じ下品で良くないと言ったためという話で、時房の姉で頼家の母の政子がそれを聞いて激怒したということですが、これも怪しい。もし不満があるなら頼家失脚後に元の名前に戻しそうなもんですが、以後死ぬまで時房のままですし、政子がそれに対して何か言ったとの話もありません。時連の「連」は烏帽子親である佐原義連の偏諱を受けたものですが、義連は三浦義澄の弟で三浦氏の庶流に過ぎず、鎌倉殿頼家直々の改名のほうがありがたかったはず。おそらくは頼家暗君説と絡めて、頼家を裏切ったか最初から間諜だった時房への批判を回避するための創作でしょう。しかし『13人』はもう1回似たような話の時房改名もやるんだろうか? それともそっちはいつの間にかヌルッと変わってるのかな?
 頼家をめぐる女の争いもドラマ独自の展開というか、頼家が若狭局(『13人』では「せつ」)よりも辻殿(『13人』では「つつじ」)を寵愛してるという、時代考証の坂井孝一氏の主張とも真逆の展開になってます(#11224参照)。それはそれとしてもドラマは頼朝、義経、頼家と正室と側室の争いという似たようなパターンが何度も続き、正直ちょっとしつこい。頼朝の場合は史実ですが、あとの2人のは創作ですし。あと頼家の妾には他にも三男(または次男)の栄実と四男の禅暁を産んだ一品房昌寛の娘と、長女の竹御所を産んだ源義仲の娘がいたはずです。ちなみに歴史とは関係ないんだけど、家族の付き合いでフジテレビのドラマ『魔法のリノベ』を観てたら、頼家役の金子大地とつつじ役の北香那ちゃんが恋人役で出てきました。そういや朝ドラ『ちむどんどん』で新聞社の部下と上司役やってた飯豊まりえちゃんと山中崇も、深夜ドラマ『オクトー 感情捜査官 心野朱梨』でも警察の部下と上司役で、こういうのって偶然なんだか狙ってやってんだかよくわかんないけど、なんだかなあ。

 そして1201年の建仁の乱(城長茂の乱)、やっぱりスルーされちゃったか。描かれないだろうとは思ってたけど言及すらなしでした。まぁ『草燃える』でもそうだったみたいだし、『マンガ日本の古典 吾妻鏡』でも「語り」部分で済まされちゃってたしね。
 建仁の乱というのは、越後の豪族の城氏が幕府に反乱を起こした事件です。城氏については以前も書きましたが(まだ過去ログ化されてない#11101~#11200のどっか)、城長茂(初名は資職)は平家の要請で1181年に信濃の義仲を攻めるも敗退し、その後は越後北部に逼塞。義仲や平家の滅亡後、梶原景時の斡旋で頼朝に降伏し、1189年の奥州合戦に従軍して御家人にも列せられたようです。
 そのような経緯から景時とは親しかったらしく、景時滅亡の翌1201年1月、いつの間にか京にいた長茂は大番役として在京していた小山朝政邸を襲撃。朝政は景時排斥の先鞭をつけた結城朝光の長兄でした。しかし朝政はたまたま不在で、応戦した朝政の郎党たちに撃退されると、長茂は後鳥羽上皇・土御門天皇らのいる仙洞御所に乱入し幕府追討の宣旨を要求するも拒否されて逐電。朝政らは長茂の行方を捜索するも見つからず、一報がもたらされた幕府の命で厳しく追及された結果、吉野に潜伏してることが2月に判明し、在京御家人の攻撃を受けて長茂は討たれました。別の場所に潜伏してた長茂の甥(兄の故資永の次男)資家、(同三男)資正と、藤原秀衡の子息で唯一生き残っていた四男隆衡(高衡)も討たれています。隆衡もまた奥州合戦で降伏した後、やはり景時預りになっていたようです。隆衡は仙洞御所からの逐電後、父秀衡と縁のあった公家の藤原範季邸に一時潜伏したんですが、城氏の郎党が範季邸に踏み込んで隆衡を無理やり連れていったとのこと。自分ばっかり助かろうとしてズルいぞってことなんでしょうか。また長茂は討たれる直前にすでに出家してたとのことで、ずいぶんと無謀で無計画な挙兵だったようですが、ひそかに上洛しただろうから兵力も少なかったでしょうし、後白河法皇は武士に脅されると安易に追討院宣を出してたんで、朝廷から簡単に宣旨を得られると甘く見てたのかもしれません。後鳥羽や源通親らは一貫して幕府を支持しており、この時点では決して反幕的ではなかったことは明らかです。
 事件はこれだけでは終わらず、4月に長茂の甥で資永の長男の城資盛が越後の鳥坂城で挙兵し、越後と佐渡の武士がこれを攻撃したが撃退されたとの知らせが幕府にもたらされます。幕府は上野の佐々木盛綱に越後・佐渡・信濃の御家人を率いて追討することを命じ、5月になると幕府軍による総攻撃が始まりますが、激戦となり幕府軍にもも被害が続出。特に資盛の叔母(長茂の妹)の坂額御前は男以上に百発百中の弓矢の腕前を誇り、次々に幕府兵を討ち取る活躍を見せました。しかしそんな坂額もついに両太ももを射られて捕縛され、鳥坂城も陥落。資盛は逐電して行方知れずとなり、城氏は滅亡しました。
 6月、坂額は鎌倉に連行され、勇猛な女武者に興味を覚えたのか頼家は彼女を見てみたくなったようで、坂額は頼家の前に引き立てられます。彼女のことを一目見ようと御家人が群れをなしましたが、坂額は堂々として少しもへつらうような様子がなかったとか。そうそうたる御家人が居並ぶ中でも遜色のない勇婦だったが、顔立ちは大変な美人だったと記されています。翌日、浅利義遠が頼家に対して、坂額の配所が決まっていないなら自分が預かりたいと申し出ました。頼家は「この女は無双の朝敵である。それをあえて望み受けるとはいかなる所存か」と問いただすと、義遠は「特別な所存があるわけではなく、いっしょになって壮力の男子を産み、公武の助けとしたいだけです」と答えたとのこと。頼家は「あの女は大変な美女だが、心の勇武を思えば誰が愛することができようか。にも関わらずの義遠の所存は到底常人の思うところではない」と義遠をしきりにからかいつつも、ついにその望むところを許し、義遠は坂額を伴って領地の甲斐国に下向したとあります。
 個人的に非常に面白いエピソードでぜひやってほしかったんですが、まぁやらねえだろうなとは思ってました。この時代の有名な女武者というとなんてったって義仲に仕えた巴御前ですが、実は『平家物語』などの物語類にしか登場せず、実在したかは微妙。一方で坂額御前はしっかりと史書の『吾妻鏡』に記されているので実在したと考えて間違いないでしょう。むしろ坂額から巴が作り出された可能性もあり、『源平盛衰記』のみにある巴が和田義盛の妻になったという話などは間違いなく坂額が浅利義遠の妻になった話から作られたと思われます。しかし『13人』ではなぜかそっちを採用しちゃって、しかもかなり引っ張ってるんで、キャラかぶりになる坂額はどうせ出てこねえだろとは思ってたんですよね。坂額は頼朝死後まで描かれないと出てこない人なんで、登場する機会は非常に限られます。巴なんて他の源平ものでいくらでも出せるんだから、そんなエピソードやるくらいなら坂額出せや、こら。



#11237 
バラージ 2022/08/02 09:22
硬派な社会派歴史映画

 『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』というイタリア映画をDVDで観ました。2012年の映画で日本公開は2013年です。
 1969年にミラノで起こった謎のフォンターナ広場爆破事件を扱った硬派な社会派映画で、その事件はこの映画で初めて知りました。1969年にミラノのフォンターナ広場に面した全国農業銀行が何者かによって爆破された事件とのことで、現在にいたるまで真犯人は不明。日本における国鉄三大事件とか帝銀事件みたいなもんですかね。マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督は10代の青年だった当時、この現場に居合わせて事件を目撃して以来いつか必ず映画にしたいと願い続けていたそうで、イタリアでも若い人ばかりでなく多くの一般国民に誤った認識で広まっていることに危機感を覚えたのも製作のきっかけの1つだそうです。
 日本版では、日本人のほとんどが知らない事件のためか、映画の最初に日本語で映画の始まりまでのくわしい状況説明が字幕で入れられてて、なかなか親切。捜査担当の警視と、容疑者として逮捕された非暴力派のアナキストを中心に、警察、左翼のアナキスト、右翼のファシスト、判事、ジャーナリスト、軍関係者、諜報部、政府などやたらたくさんの人物が登場する複雑なストーリーの群像劇で、事件の深い闇が描かれていきます。
 いやぁ、良かった。期待以上に面白かったです。久々にヨーロッパの硬派な社会派映画を観たなという感じ。米国映画によくあるようなエンタメ化があまりないジャーナリスティックな作品でそこが良い。あと欧米のこの手の映画って、ほとんどの登場人物がちゃんと実名で出てくるのがいいですね。日本映画だと訴えられた場合なんかに配慮してか、全員仮名とかになっちゃったりするんで威力が半減してしまいます。とにかく非常に面白い映画でした。


>世界サブカルチャー史
 NHK-BSで放送してる『世界サブカルチャー史』、90年代編と00年代編も終了。
 今回取り上げられた映画などのサブカルチャーは、90年代が『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)、『心の旅』(1991年)、『マルコムX』(1992年)、『許されざる者』(1992年)、『パトリオット・ゲーム』(1992年)、『ジュラシック・パーク』(1993年)、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994年)、『パルプ・フィクション』(1994年)、『リアリティ・バイツ』(1994年)、『ミッション:インポッシブル』(1996年)、1997年にアメリカでも「たまごっち」大ブーム、『トゥルーマンショー』(1998年)、『マトリックス』(1999年)、『M:I-2』(1999年)、『キャスト・アウェイ』(2000年)など。
 00年代が『ハンニバル』(2001年)、『ブラックホーク・ダウン』(2001年)、テレビドラマ『24(トゥウェンティーフォー)』(2001-2010年)、『ボーン・アイデンティティー』(2002年)、『ボーン・スプレマシー』(2004年)、『コラテラル』(2004年)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)、『ジャーヘッド』(2005年)、『ブロークバック・マウンテン』(2005年)、『ユナイテッド93』(2006年)、『ボーン・アルティメイタム』(2007年)、『ノーカントリー』(2007年)、『クローバーフィールド』(2008年)、『ウォッチメン』(2009年)など。
 んー、今回はなんかちょっといまいち。やはり現代に近くなってくると、「歴史」って感じが薄くなってきちゃいますね。90年代は僕にとっての映画黄金期(?)ですが、それだけに作品選択にやや違和感あり。観た映画も多いんですが、『心の旅』ってそんなにウケてたかな? 『リアリティ・バイツ』もジェネレーションXの映画としてサブカルチャー的には重要かもしれないけど、あんまり面白くなかったし評価も高くなかったような。『トゥルーマンショー』も期待したほどではなかった記憶。00年代となるとさらに印象が希薄で、21世紀に入ってからは個人的に米国映画をあまり観なくなっちゃったってのもあるけど、僕だけでなく日本では実写邦画が隆盛したこともあり邦画と洋画の興行収入が逆転したりしましたからね。
 来月は完結編の10年代とおまけのフランス映画60年代だそうですが、10年代じゃほんとついこないだだからなあ。振り返るのはまだ早そうな気が。むしろフランス60年代編のほうが面白そう。



#11236 
バラージ 2022/07/30 23:44
今週の鎌倉史 嫌われ景時の一生

 んー、なんだかなあ。やっぱり頼家暗君説で行くのか。『吾妻鏡』の曲筆をそのまんま描くのね。まあ、そうじゃないと北条氏の所業を正当化できないからなあ。北条氏が主人公のドラマなら、やっぱりそうなっちゃうよね。「原作は『吾妻鏡』」ってそういうことだったのか(笑)。

 今週のツッコミどころ。まず先週も書いたように13人が集まって合議した例は史料には見られません。そもそも中原親能は基本的に在京しており、鎌倉にいませんでした。頼朝の次女・三幡の乳母夫だったことは史実通りで、三幡危篤の知らせを聞いて急ぎ京から鎌倉に戻り、三幡の死によって出家しています。ただし親能は京で没しているので、おそらくまた京に戻ったものと思われます。なお大姫死後も頼朝は引き続き三幡の入内を謀っており、『尊卑分脈』によると三幡は鎌倉にいたまま女御の宣旨を受けたとされています。頼朝死後も頼家や政子ら北条氏によって入内政策は続行されてました。

 続いて頼家が安達景盛の愛妾を奪った事件について(『13人』では妻としていたが史実では妾)。『13人』ではやや脚色がなされており、『吾妻鏡』では景盛が命令で三河国に出陣してる間に、頼家は景盛のお気に入りの愛妾を奪い手元に置いたため、帰国した景盛が恨みに思っているという噂が流れた。それを聞いた頼家は景盛を討とうとするが、政子がそれを知り景盛邸を訪れた上で頼家に諌めの言伝てを送り、どうしても景盛を討つならまず私を討ってからにしろと言ったため頼家もあきらめた。政子の指示で景盛は頼家に叛意は持たないという起請文を差し出したというものです。『草燃える』ではこれに近い展開だったようで、また石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』や、竹宮惠子の『マンガ日本の古典 吾妻鏡』でもこの事件は描かれてました。平岩弓枝の小説『かまくら三国志』や、高橋直樹の短編『非命に斃る』でも印象的なエピソードの1つとして描かれてます。
 しかしこの事件については前記の通り頼家を貶めるための曲筆の可能性があります。北条時政がクーデターで頼家を廃立したことは『吾妻鏡』編纂時に権力者だった北条氏にとっては非常に都合が悪く、頼家を暗君・暴君だったように仕立て上げなければ正当化できなかったという指摘が現在では一般的。実際には頼家は父頼朝の政治方針を継承し、精力的に政務に取り組んでいたことが近年では明らかにされています。
 また、この事件の曲筆(というより捏造)は北条氏も去ることながら安達氏にとって必要だったと思われます。景盛の母・丹後内侍は比企尼の長女で、安達氏はもともとは比企派でしたが、景盛はいつの間にか北条派に鞍替えしたようで、北条氏が比企氏を滅ぼした小御所合戦(比企能員の乱)では北条方に立って母の実家を攻撃しています。丹後内侍の没年は不明ですが、すでに死去していたと推測され、景盛と比企氏の縁は弱まっていたとも考えられますが、『吾妻鏡』編纂時に北条氏の外戚として幕府の重臣だった安達氏にとっては、頼家や比企氏に対する裏切りを正当化するためにこのような逸話が必要だったと推測されています。
 なお景盛は後に幕府の重臣となり、娘の松下禅尼は北条泰時の嫡子時氏の妻となって、4代執権経時とその弟の5代執権時頼を産んでいます。景盛は出家して高野山に上りながら、外孫の時頼が執権になると打倒三浦氏の急先鋒として高野山を下り、三浦氏との和平を模索する若い時頼に対して弱腰の嫡子義景・嫡孫泰盛を怒鳴り散らし、謀略や挑発を用いて強引に三浦氏と開戦して滅ぼしています(宝治合戦)。出家して高野山で修行しても全然俗気捨てれてねえじゃんて話ですが(笑)、そんな黒い景盛だからこそ平気で頼家や比企氏を裏切れたのかも。大河ドラマ『北条時宗』の初回が宝治合戦でしたが話が複雑になるのを嫌ってか、初回しかほぼ出番がない景盛(翌年死去)は登場しませんでしたね。

 そしてメインの梶原景時の変。これまた大幅に脚色しつつも基本的には『吾妻鏡』に準拠したストーリーとなってました。しかしこの事件についても、『吾妻鏡』とそれ以前に京で記された『玉葉』や『愚管抄』とではかなり違った展開となっており、やはり『吾妻鏡』には曲筆が含まれている可能性があります。
 『吾妻鏡』によると事件の詳細は以下の通り。1199年10月25日に結城朝光(頼朝の烏帽子子。母は頼朝の乳母の寒河尼)が頼朝を追慕して「忠臣二君に仕えずという。頼朝様の御遺言に従って出家しなかったが、やはり出家すべきだった。今の世は薄氷を踏むかのようだ」と述べた。27日、北条時政の娘で阿野全成の妻である御所女房の阿波局(『13人』では実衣)が朝光に「梶原景時があなたの先日の発言は謀反心のある証拠だと頼家様に讒言し、あなたは討たれることになった」と告げ、驚いた朝光は朋友の三浦義村に相談した。義村は和田義盛・安達盛長ら他の御家人に呼びかけて一夜で御家人66名による景時糾弾の連判状が作成され、28日に義盛・義村によって大江広元に提出された。広元は「景時の讒訴は問題だが、頼朝様の股肱の臣を処罰して良いものか」と躊躇して連判状をしばらく留めていたが、11月10日に義盛に強く迫られて仕方なく頼家に披露。13日、頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は一切抗弁せず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向した。景時は12月9日にいったん鎌倉への帰還を許されたが、義盛・義村を中心に評議が重ねられた結果、18日に景時は鎌倉追放となり、義盛・義村が奉行となって鎌倉の邸は取り壊された。1200年1月20日、景時は一族とともにひそかに一宮を離れた。謀反を起こすために上洛したとみなされ、幕府は時政・広元・三善善信らが御所で評議して、義村・比企兵衛尉・糟屋有季・工藤行光らを追討軍として派遣。だが追討軍が追いつく前に、梶原一族は駿河国清見関で現地の武士たちと合戦となり討死・自害した。というのが事件の顛末となっています。
 一方、同時代史料である九条兼実の日記『玉葉』の1200年1月2日には、他の武士たちに嫉まれ恨まれた景時は、頼家の弟千幡(実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされて讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったと書いています。また27日には、26日に景時が逐電したという飛脚が関東より京へ到来したと書き記し、29日には、景時は上洛を企てたが駿河国高橋において上下向の武士と現地の武士らによって一族全て討たれたらしいとの話を記しています。なお兼実は自分を失脚させた政敵の源通親に近かった景時に批判的で、討伐は当然のことで悪行を重ねての滅亡は趙高に等しいとも書き記しています。
 藤原定家の日記『明月記』の1200年1月29日には、景時が頼家中将の勘当を蒙り逐電したため全国警戒すべきことが沙汰され、また院にも申し入れられたため世間はすこぶる物騒がしい。噂では景時は既に討たれたらしいがくわしいことはわからないと書いています。
 承久の乱の直前に書かれたとされる慈円の史論『愚管抄』には、自らを「一の郎党」と思っていた景時は頼家の乳母でもあったため、自分だけは特別だと考えて他の郎党を侮る態度をとった。そのため彼らに訴えられて、さらに討たれそうになったため、国を出て京へ上ろうとしたが途上で討たれ、「鎌倉の本体の武士」である梶原一族はみな滅亡したと記しており、その上で景時を死なせたことは頼家の失策であると評しています。
 『吾妻鏡』の記述で疑問に思うのは、66人の連判状に対して弁舌の徒とされる景時が全く反論せず、かといって非を認めたわけでもないというところ。にもかかわらず一月弱後には鎌倉への帰還を許されており、やや不可解な展開です。おそらく景時は実際には何らかの反論をしており、それが『玉葉』に記されている千幡擁立の陰謀だったんではないでしょうか。66人に北条氏の人物は含まれてないんですが、最初に朝光に景時の讒言を伝えた阿波局は千幡の乳母で、景時が討たれた駿河国の守護は時政であり、事件の裏で北条氏が暗躍していた可能性はかなり高いものと思われます。また後に時政は実際に頼家を廃し千幡を擁立するんですが、兼実が日記に書いた時点ではそのようなことはわからないわけで、にも関わらずそのような噂が流れてるということは、頼朝の死と頼家の政権継承から1年も経っていない極めて早い段階から時政はそのような陰謀をひそかに企てていたのだと思われます。『吾妻鏡』はその辺を忌避して隠蔽したんでしょう。なお歴史学者の山本みなみ氏は、承久の乱後に書かれた歴史物語『六代勝事記』に梶原景時という壮士が権を執り威を振るって傍若無人の気があったため比企能員以下数百人の違背によって景時の一族を滅ぼしたとあることや、追討軍の武将に能員の嫡男比企兵衛尉と娘婿の糟屋有季がいることなどから、景時と同じく頼家側近で『吾妻鏡』では連判状に名を連ねてるだけの能員もまた景時追い落としには積極的だったとの説を唱えています。
 個人的には、景時が簡単に失脚した理由の1つに姻戚関係の弱さもあったように思います。有力御家人たちは北条も比企も三浦も畠山も他の御家人たちとの婚姻による姻戚関係によって勢力を拡大・安定化しようとしてるんですが、梶原氏だけは有力者との姻戚関係がほとんどありません。頼朝の目付として御家人を監視する役目上、姻戚関係を広げられなかった可能性もありますが、それが孤立化を招いてしまった遠因でもあるように思われます。それでも景時に全く味方がいなかったわけでもなく、長沼宗政は朝光の次兄だったにも関わらず連判状への署名を拒否したそうですし、加藤景廉のように景時と親しかったことから所領を没収された御家人もいます。頼家に連判状を提出するのをためらった広元も職務上景時と立場が近く、通親と親しいところも共通してました。また翌年には平家方に付いたり頼朝と敵対したりしながら景時に救われた過去を持つ城長茂や藤原高衡(隆衡)らが幕府に対して挙兵しています。景時は66人の連判状で訴えられながら一月弱の謹慎で一時は鎌倉への帰還を許されており、これらのことから考えても訴えた側としてはそのまま景時が頼家に許されてしまったら逆襲にあう可能性が高く、義盛・義村らは必死だったことでしょう。彼らが評議によって強引に鎌倉追放へと持っていったのだと思われます。
 なお甲斐源氏の武田有義も景時と同心したとの疑いをかけられ、弟の石和(武田)信光の攻撃を受けて逐電。信光は景時が有義を将軍に擁立しようとしていたと報告してますが、これは怪しい。兄を失脚させて家督を独占しようという信光が景時失脚に便乗したんではないかと思われます。
 なお余談ですが、『13人』でも描かれてたように頼朝の死については意識不明の状態だったとする描写も多いんですが、『吾妻鏡』において朝光が頼朝の遺言に従って出家しなかったと言っていることから、頼朝は遺言を残せるような意識はある状態だったとも推測できます。もっと生前の健康状態に問題のない時点で遺言を言っていたという可能性も考えられなくもありませんが、可能性は低いでしょう。
 さらに余談ですが、『13人』では中村獅童演じる景時はやや寡黙な人物として描かれてたように感じました。実は僕も昔ちょっとだけ小説を書きかけた時に、景時をそういう人物に設定したことがあります。しかし弁舌の才がある人だったとされることを考えると、そこまで寡黙な人ではなかっただろうというのが現在の考え。むしろ法廷ドラマとかに出てくる弁護士みたいな感じだったかもしれません。もしくは論破王とか呼ばれてる2ちゃんねる創設者とか、誰の味方でもないとか言ってる社会学者みたいな人だったかもと考えると、諸史料が一致して多くの御家人から憎まれていたとされるのもちょっとだけわかるような気もす(以下自粛)。


>『アルキメデスの大戦』
 確か何年か前に菅田将暉主演で実写映画化されてましたね。観てないけど(笑)。原作がマンガなのも知りませんでした。

>元統一教会
 しかしまあ原理研究会もCARP(カープ)って名前変えてたとは知らんかったな。大学卒業しちゃうと関係ないですからね。てか僕の大学にも原理研究会ってあったっけ? いまいち記憶にありません。政治家と統一教会のつながりも続々ですが、この事件も数十年後に映画化されたりするんだろうか?



#11235 
ろんた 2022/07/28 20:16
ヤングマガジン

 え~~っ、なんかマンガの話ばかりしている気がしますが、今回もマンガの話(汗)。先日、久し振りにヤンマガを読んでいたら、歴史マンガがけっこう多い、と気がついたので「あらすじ」などからご紹介。

(1)「ツワモノガタリ」(細川忠孝)
 なぜか「あらすじ」が載ってないので、単行本の紹介から。「新選組の隊士が、今まで戦った中で"最強の相手"について語り合う!」という話らしい。最初は沖田総司が、芹沢鴨が強かった、って話をしたみたい。(んっ? 寝込みを襲ったんじゃなかったっけ?) ただ雑誌で読んだのは原田左之助vs.高杉晋作。

(2)「アルキメデスの大戦」(三田紀房)
 海軍省に入った数学の天才・櫂直は対米開戦を阻止するため戦艦「大和」建造を進めるが、火災事故により計画は中止。米国との交渉は打ち切られ、ついに開戦が決定してしまう! 現地時間12月6日の夜、ワシントンDCの在米日本大使館では、丹原たちが宣戦布告文を作成していた。本国から送られる膨大な量の文書をタイプライターで英訳し打電する作業は時間を要し、翌12月7日の午前1時、宣戦布告文が完成する前に、ハワイ沖230海里の空母から真珠湾に向かって「ゼロ戦」が飛び立った。

(3)「何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?」(井出圭亮+藤本ケンシ)
 謎のくまに導かれ、時を越える能力を手に入れた信長。「本能寺の変」の克服と、打倒光秀のため新軍勢の結成を決意! まずはトラウマ謙信の襲来を乗り越えなくてはならない信長は、巻物の力で選択肢とともに未来に飛ぶ方法を発見。今回の信長の方針は「強くなる」! だが、気がつくと武田勝頼、毛利輝元、雑賀孫一、伊達輝宗と連合軍を結成、米沢西部で謙信と対峙していた。なんと、織田家の勢力圏は尾張以外全て謙信に奪われていて、後北条氏も滅亡、謙信は天下統一目前。おいおい、本能寺どころじゃないよ! あと勝頼が大筒を四丁も背負っているのに笑う。長篠の教訓?(長篠の戦いはあった模様)

(4)「満州アヘンスクワット」(門馬司+鹿子)
 時は昭和12年。関東軍の兵士・日方勇は、戦地で右目の視力を失い農業義勇軍に編入される。だがその農場では阿片の原料であるケシが栽培されていた。病気の母を救うため阿片の製造に手を染めた勇は、植物学と化学の知識をもって他に類を見ないほど純度の高い「真阿片」を精製する。これに目をつけた中国最大の秘密結社「青幇」のボスの娘リーファ、四ヵ国語を操るモンゴル人の護衛バータル、瞬間記憶力を持つ日本人少女リン、ロシア人の"逃がし屋"キリル、闇医者クワンが加わって、吉林で販売ルートを確立。一同は大量の阿片を新車に積み込み、次の目標である巨大貿易港・大連に乗り込む。

(5)「ゾミア」(浅村壮平+石田点)
 1215年、モンゴルの侵攻に疲弊する金国。その首都・中都大興府に暮らす、語学の天才ネルグイと武の天才バートルは、元奴隷でありながら耶律楚材にその才能を見出される。だがモンゴルの間諜だった楚材は、モンゴル軍を引き込み中都大興府を陥落させる。その混乱の中、傷ついたネルグイは西夏へ向かう奴隷商人に拾われ、バートルは楚材にモンゴルへ連れ去られる。だがネルグイは己の才覚で運命を切り拓き、西夏とモンゴルの和睦、西遼の崩壊に立ち会う。「自由が欲しければ戦え」というバートルの言葉を胸に、ネルグイはチンギス・ハーンの暗殺を目指す。

「なんでこんな時代をマンガにした!」って感じで、注目は「ゾミア」でしょうか。考えたら『蒼き狼』(井上靖)と同時代なんだけど、方向性は正反対。「ゾミア」とは、「国家の概念から離れ山民(ミゾ)たちが集い暮らす共同体」のことで、参考文献の筆頭にあげられている『ゾミア―― 脱国家の世界史』(ジェームズ・C・スコット)によると、東南アジアの奥地に実在したらしい。(なんかアナーキズムっぽい) でも、7,000円もするので読んでません(汗)。モンゴル帝国の評価も残虐非道な征服者というところから大分変わってきて、ユーラシア各地をネットワーク化して中世を終わらせたとなってるみたいだけど、それと「ゾミア」を対峙させるってのも面白そう。っていうか、第一巻を買ってしまった。第二巻は八月発売とのこと。

 もう一本、「月刊ヤングマガジン」に載っていたのをご紹介。

(6)「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」(中丸洋介+あずま京太郎)
 これも「あらすじ」が無いので、単行本の紹介などから。どうやら本能寺の変が無かった世界の話。信長が天下統一して、軍団長たち(柴田、丹羽、羽柴、明智、滝川)は老中に収まっている。ところが信長が耄碌して(?)、最強武芸者を連れてきた者に天下を譲る、と言い出したからさあ大変。老中連に息子の信忠と信雄、徳川家康、前田利家、上杉景勝、伊達政宗、島津義久、毛利輝元、近衛前久、北条氏政、長宗我部元親といった大名、公家が武芸者を後援してトーナメント戦が始まった……ということらしい。出場者は小笠原長治、伊藤一刀斎、林崎甚助、宝蔵院胤舜、弥助、東郷重位、服部半蔵、佐々木小次郎、日野長光、上泉伊勢守、柳生宗矩、ウィリアム・アダムズ、冨田勢源、風魔小太郎、宮本武蔵、本多忠勝。武芸者じゃないだろう、というのが混じってるけど、まぁファンタジーということで(笑)。 印象としては、甲賀忍法帖+魔界転生+寛永御前試合?

>史点
 安部晋三の死をめぐる一連の言論では、『安倍三代』の著者・青木理氏のものを興味深く感じました。安部晋三の祖父といえば、すぐに岸信介のことが出てくるけど、これは母方。父方の安倍寛という人は、村長として住民に慕われ衆議院議員となるが、翼賛選挙を批判して特高の監視下に置かれ、戦後間もなく病死。この父の姿を見ていた晋太郎は、戦争中には特攻隊に志願したりしていてもう少し終戦が遅かったら命がなかったらしい。この二人に比べると晋三のエピソードは奇妙なほど貧弱で、「岸信介にあやされていて"アンポハンターイ"と言ったら父・晋太郎にたしなめられた」「日米安保に批判的な教師に反発した(著書では論破したことになっているらしい)」ぐらいしかない。学生時代の友人に聞いても「悪い奴じゃない」ぐらいの印象しかなく、なんで政治家になったのか、さっぱり分からない。昭恵夫人に至っては、理想の政治家を演じている、と言っていたらしい。この人、何者でもなく何にも考えてなかったから長持ちしたんじゃないか、とか考えてしまった。



#11234 
バラージ 2022/07/23 22:35
源平鎌倉小説

 去年出版された北条義時が主人公の小説を3冊ほど読み、さらに90年代に出版された杉本苑子の『竹ノ御所鞠子』も読んで、それぞれの感想を書きましたが、僕はそれ以前にも源平合戦~鎌倉時代を舞台とした小説を何冊か読んでいます。それらの小説の感想も軽くさらさらっと書いておこうかな。といってもそんなに数を読んでるわけではなく、ほとんどが高橋直樹の小説だったりするんですよね。
 まず短編集『鎌倉擾乱』(文藝春秋、1996年)。高橋氏が初めて鎌倉時代を舞台とした作品で、鎌倉初期の源頼家が主人公の「非命に斃る」、中期の平頼綱が主人公の「異形の寵児」、末期の北条高時が主人公の「北条高時の最期」が収録されています。「異形の寵児」は本サイトの南北朝列伝の平頼綱の項にも掲載されてますね。「北条高時~」も以前南北朝小説について書いた時に紹介しました。頼家を主人公とした「非命に斃る」は、頼家が父頼朝の後を継いだところから修禅寺で暗殺されるまでを描いた短編で、すでにこの頃から高橋氏の人物造形力は素晴らしい。去年出版された『北条義時 我、鎌倉にて天運を待つ』(潮文庫)ともかぶる時代なので読み比べるのも一興です。残念ながら現在では絶版のようで、惜しいと思う出版人も多いのか、やはり去年出版されたアンソロジー短編集『小説集 北条義時』(作品社)、『鎌倉燃ゆ 歴史小説傑作選』(PHP文芸文庫)、『鎌倉殿争乱 珠玉の歴史小説』(光文社文庫)と3冊に「非命に斃る」が収録されています。ただ最新の歴史研究を取り入れる傾向がある高橋氏だけに、本作はやや古い作品なので現在の研究から見ると一昔前の歴史認識というところはあります。

 次に『霊鬼頼朝』(文藝春秋、2004年)。頼朝という巨人の影に人生を翻弄される人々を描いた連作短編集で、頼家最後の遺児・禅暁を守ろうとする頼朝の落胤・貞暁が主人公の「無明の将軍」、平家を滅ぼして京に凱旋した義経と彼にすり寄ることで平家を復興させようとする平時忠を描いた「平家の封印」、迫り来る頼朝の圧力の前で奥州藤原氏の生き残る道を必死に探る藤原泰衡とその兄弟国衡・忠衡らを描いた「奥羽の風塵」、三代将軍となった実朝が甥の公暁に暗殺されるまでの話「源太の産着」の4編が収録されています。時系列的には「平家の封印」「奥羽の風塵」「源太の産着」「無明の将軍」の順番で、頼朝は直接的にはあまり登場しません。ただ、それにも関わらず存在感は抜群で、頼朝という人間の底知れぬ巨大さと恐ろしさが非常に上手く描かれてます。また雑色(公家や武家の従者で雑役を務める卑賤の者)の清恒という忍びのようなスパイのような刺客のような人物が全ての短編に一貫して登場するんですが、この清恒の人物造形がまた素晴らしく、ほんと上手いなあと感心してしまいました。大河の善児みたいなもんですが、人物造形が比べ物にならないくらい深い。この清恒、てっきり架空の人物かと思ってたら、つい最近になって安達清恒(または清経、清常)という実在の人物だと知りました。実際に雑色という低い身分の人物だったそうですが、才覚があったため取り立てられたとのこと。ただし実際には忍びのようなことはしていないみたい(笑)。4編のうち、個人的には「無明の将軍」が最も面白く、逆に「源太の産着」はちょっといまいちに感じましたね。

 続いて長編小説『天皇の刺客』(文藝春秋、2006年、文庫題『曾我兄弟の密命 天皇の刺客』)。曾我兄弟の仇討ち事件を題材とした作品で、ちょっと前にも書いた通り事件についてはクーデター説を採っており、黒幕をまだ13歳だった後鳥羽天皇としています。そこについてはさすがに無理があるだろうと思いましたが、曾我兄弟をはじめとする登場人物たちの人物造形や、物語の運びは相変わらず素晴らしい。特に『霊鬼頼朝』同様に脇役として出てくる頼朝の描かれ方が抜群です。一方で『北条義時』を読んだ時も思いましたが、女性を描くのはあまり得意ではないのかなという気も。

 最後に中編小説『源氏の流儀 源義朝伝』(文春文庫、2012年)。明らかに大河ドラマ『平清盛』の便乗で出された本の1冊で、この頃から高橋氏は大河や朝ドラの便乗小説ばかり出すようになります。というか本を出しても売れなくて、そういうのしか出せなくなっちゃったのかなぁ? なんとも残念。本作も依頼で急いで書いたためかそれとも中編のためもあってなのか、上記作品に比べると高橋氏にしてはいまいちの出来でした。

 そして最後に平岩弓枝の『かまくら三国志』(上・下)(文藝春秋、1972年)。これは歴史小説ではなくて伝奇小説もしくは時代小説です。2代将軍頼家の時代が舞台で、主人公は頼朝の落胤。母は伊東祐親の娘……ってことで、祐親に殺されたあの息子が実は生きていたって話ですね。頼朝死後が舞台で、主人公が頼家や北条、比企、梶原などと絡みながら宗像水軍に身を投じたり、再び鎌倉に戻り頼家を救おうと奔走したりするというお話。物語は頼家の伊豆修禅寺まで。北条義時は当然ながら(?)ラスボス的悪者です(笑)。架空人物が主人公の伝奇小説だけあって先がどうなるかわからないところがあり、小説としては先がどうなるかある程度わかってしまう歴史小説よりもこういう伝奇小説のほうが面白いのは確かですね。


>史点
 安倍元首相殺害と旧統一教会については、すでに書いたんで省略。
 スリランカというと、90年代に政府軍とタミル・イーラム解放のトラという組織の内戦が長く続いてると知りました。あの頃はネパールでも王党派政府軍と毛沢東主義派(マオイスト)による内戦が続き、インドとパキスタンは核兵器を保有しながらカシミール地方をめぐって対立するなど、南アジアってかなり物騒なところなんだなあと知りましたね。しかし国家が破産って、メキシコやギリシアもそうだったけど、大変なことだよなあ。

>歴史ネタドラマ
 明日日曜の深夜から、『新・信長公記 クラスメイトは戦国武将』という連ドラがフジテレビで始まります。といっても歴史ドラマではなく、歴史ネタドラマとでもいうべき作品みたい。原作はマンガで、舞台は2122年という未来の話。科学者によって作り出された戦国武将のクローンたちが高校生となり、全員同じ高校に入学してその高校の総長の座を争う……という、まあ一種のヤンキーバトルものですな(笑)。史実どうこうってドラマじゃないだけに、肩肘張らずに気楽に見れそうではあります。



#11233 
バラージ 2022/07/19 00:02
鎌倉史追記

 書き忘れましたが、『13人』では三左衛門事件において通親を支持した人物を梶原景時としていましたが、実際には大江広元だったようです。広元にしても景時にしても、頼朝の上洛の際に京で通親の知遇を得たようで、通親とは親密だったようです。広元の嫡子・親広は通親の猶子となっています。



#11232 
バラージ 2022/07/18 22:39
今週の鎌倉史 不協和音

 ようやくタイトル通り「鎌倉殿の13人」に。ま、すぐ13人じゃなくなっちゃうんですが(笑)。年初の特別番組『鎌倉殿サミット』で出演者の6~7人の歴史学者全員が「13人の合議制はなかった」と一致して発言して、出演芸能人やアナウンサーを驚かせてましたが、近年の研究ではこの13人が合議した例は見られず、頼家はその後も政務に積極的に関わっていることから、訴人が頼家へ直訴することが禁止されただけで、頼家への取次役を13人に限定したに過ぎないとされています。言わば「頼家への取次役の13人」だったというのが定説になりつつあります。ちなみに13人のうち中原親能は大江広元の兄ですが、『13人』の劇中で触れられてましたっけ? それから足立遠元は安達盛長の年上の甥なんで、ドラマの遠元はちょっと若過ぎるかな。実際には60代だったはず。義時以外は全員50代以上なんで、基本みんな初老か爺さんなんですよね。最年長は三浦義澄で73歳。もう棺桶に体半分突っ込んでます。
 それから頼家の近習(側近)がなぜか6人登場してました。史実では5人なんですが、『吾妻鏡』は5人と書いてるにも関わらず、比企宗員、比企時員、小笠原長経、中野能成の4人しか名前が記されていません。残る1人は頼家の近習として『吾妻鏡』にもたびたび出てくる北条時連(時房)だろうと推定されており、結局時房が頼家を裏切った、もしくは最初から北条方の間諜だったことを隠蔽しようという『吾妻鏡』の曲筆と推定されています。というわけでドラマオリジナルの側近が北条泰時。泰時については、蹴鞠に異常なほど熱を上げる頼家に諫言したという『吾妻鏡』おなじみの泰時ヨイショ記事(&頼家暗君話)がありますが、そもそも事実とは信じ難く、またそれ以外に頼家側近としての活動も見られません。
 そして京の朝廷側は、ラスボス?後鳥羽“尾上松也”上皇が初登場し、源通親(土御門通親)もようやく再登場。史実では頼朝急死の噂を聞いた通親はあわてて頼朝の死を知らぬふりをしながら(喪に服すると任官ができないため)頼家を五位のまま中将に昇進する「五位中将」という摂関家並みの待遇で遇し、さらに朝廷は頼家に頼朝の後を継いで諸国守護を行うことを命じるなど、頼家への権力継承がスムーズに行われるよう配慮しています。朝廷にしてみれば、頼朝の死によって武士たちが、ひいては天下が大混乱に陥ることを何よりも恐れていたのでしょう。実は朝廷は通親にしても後鳥羽にしても実朝が暗殺されるまでは基本的に幕府に迎合しており、幕府の混乱を決して望んでいなかったと思われます。
 あと、マイナーな三左衛門事件もちょっとだけ描かれてましたね。これ、今一つよくわからない事件で、すでに死去していた頼朝の妹婿の公家・一条能保とその嫡子高能の遺臣や関係者が通親を襲撃しようとし、驚いた通親は恐れて院御所に立てこもり、幕府は通親を支持。一条家関係者が大量に捕らえられ処分を受けたという事件です。通親は頼朝に近い一条家にはある程度配慮してたはずで、恨みを受けるいわれはないはずなんですが、どうもよくわからない。『愚管抄』には後ろ盾の頼朝が死んだことで一条家が冷遇される危機感を抱いた家人が形勢を挽回するために通親襲撃を企てたと書いてますが、いまいち納得できない理由なんだよな。ところでドラマにはこの事件で一味として佐渡国へ配流となった文覚が久々に登場。しかしまあ、この文覚も当て書きも当て書きというか、文覚というよりいつもの市川猿之助の怪演そのものだよなあ。正直『半沢直樹』あたりからデフォルメが過ぎて芝居が口説くなってきたような……。『岸辺露伴は動かない』でも似たような感じだったし。


>まさかのまさか
 その後出てきた犯人についての報道を見ると、事件についてかなり冷静かつ論理的にして計画的で、強い怨みから統一教会のトップを狙ったがコロナ下で果たせず、金も尽きて死ぬしかないので、その前に統一教会シンパで影響力のある安倍晋三を狙った。その後政局がどうなろうが知ったこっちゃない、ということみたいですね。
 それにしてもまさか国葬とかほんとにやる気だったとは。戦後は吉田茂に次いで2度目らしいんですが、そもそも吉田茂が国葬にふさわしかったのかってのもあるけど、それ以上に安倍晋三を国葬って? 統一教会が、我々を支持してくれた安倍先生が国葬にされるのは国が我々統一教会を認めた証しだ!!とか信者に言いそう……。安倍氏が海外からも称賛されてるという報道もありますが、それって結局、最近の日本の首相はころころ変わるけど安倍氏は戦後最長というくらい長く続けてたんで海外の人もよく覚えてたってことなんじゃないかなあ? 我々日本人がイタリアの首相と言われてもベルルスコーニしか思いつかないみたいに。
 しかし勝共連合とか、またまた懐かしいワードが出てきますねえ。統一教会系の反共政治団体でこれも大学時代に知ったんですが、結局あの頃以前からの保守系政治家と統一教会の親密な関係って今まで何にも変わってなかったのね。やれやれ。そういえばトランプなんかもキリスト教原理主義右派と親密でしたね。

>ろんたさん
 浅見定雄氏の著書は『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫)の他に、『偽預言者に心せよ』(晩聲社)を立ち読みでところどころではありますが読みました。統一教会関連については多分そっちに載ってたと思いますが、僕が通ってた大学が浅見氏の所属する大学だったためか大学生協の書店には他にも統一教会批判本が多く並んでたように記憶してるのでそっちで知ったのかもしれません。確か有田芳生氏も当時から活動して本を出版してました。それにしても『日本人とユダヤ人』が今だに出版されてる一方で『にせユダヤ人と日本人』は絶版状態なんですよねえ。

>徹夜城さん
 Twitterに対するものなんですが(Twitterやってないので)、今回の事件は俗説に過ぎない頼朝暗殺よりも実際にあった実朝暗殺のほうに近いんですよね……。



#11231 
ろんた 2022/07/17 15:41
7・8事件?

 どんな人間だろうと傷つけば気の毒だし、命を失ったらもっと気の毒なのは間違いない。それが大前提の話なんだけど、この事件を巡っては空虚な言葉が飛び交っているように感じる。最たるものが「民主主義への挑戦」「選挙制度への冒涜」。この定型感というか条件反射感というか、何にも頭を使ってない感というか、酷いものだ。被疑者は拘束されたものの、取り調べもされていない段階でテロと決めつけている、いや決めつけているなら意志があるだけまだマシ。まるで自動的に発話しているかのようだ。「心肺停止状態」というのも「医師が判断していない"the body"」みたい。いや、夫人が病院に到着してから30分で死亡が報道されたから、そういう意味で使っていたんだろう。救急医が「そんな意味じゃない」と言ってたけど。そして笑ったのは「特定の宗教団体」。リーク情報だからこういう表現になったんだろうけど、報道機関だったら自分の責任で裏取って報道すべきでしょう。それにしても、祖父さんの韓国の軍事政権とのズブズブぶりとか考えると「祖父の因果が孫に報い……」ってことになったんだろうか。まあ、自身も色々胡散臭い連中との関係が噂されてたからなぁ。フジが必死になって関係を否定しているのも怪しい。

 SNSで弔意を示した海外の要人に「あいつは差別主義者だ」とからんだり、「海外からも評価されている!! アベ・ザ・グレート!」とかとち狂ってるのもいるけど、外交辞令って知らないのかね。ただCNNは「トランプと仲良しだった、ただ一人の西側首脳」とか言ってるらしい。あらためて思いました。トランプが議事堂に突入していたらどうなってたかな。

 ヤジの取り締まりを不法行為としたせいで警備が萎縮した、って記事も見たけど、「ヤジを取り締まるな」ってのと「背後から不審者が近づいても動くな」「警護対象者に発砲されてもボーっとしてろ」ってのは違うだろ。少しは頭を使って記事を書いたらどうかね。わたしにはむしろ、ヤジを警戒しすぎて前方にばかり注意がいってたようにも見えたけど。

 ついでにもう一つ。あの事件で投票行動を変えたのが13%ほどいたとのこと。差し引き25%になる。今度の動きによっては将来、本当に教科書に7・8事件ってのが載るかもしれない。

>徹夜城さん
 あの書評、評者の主張が強すぎて本の内容が全然入ってこないという珍品でして。引用した辺り(実は冒頭)は、「史実を使って煽動されると歴史学は何にもできない」と言いたいのではないかと思いますね。でも実際はそんなことないわけです。で、そういう煽動に使われるようなのが「大きな歴史」と解釈しているけど、じゃあ「小さな歴史」が何なのか、分からないのでありました。

>「ヨーロッパなどでは戦争が絶えないが日本は島国だから平和な歴史がずっと続いた」
 自分の「経験」を絶対視して都合のいい事実だけ収拾しているのかな、現代の日本で戦争経験のある人ってほとんどいないし。たかだか数十年の「経験」を日本史全体に拡張してしまっているんだけど、その馬鹿馬鹿しさに気づかない。おそらく、これをこじらせると「反動」(変化を拒否する)になるのかな。さらにこじらせると「昔はよかったなぁ」になる(笑)。そういえば以前、「女性の職業は最近できたものばかりだが、主婦の存在は永遠である」みたいなこと言っている人いました。神代の昔から「主婦」がいたと思ってる。日本では百年ぐらいの歴史しかないんだけど。「主婦と生活社」ができたのもそれぐらい。なぜなら、「主婦」は資本制生産様式と不即不離の関係にあるのだ。

>バラージさん
 浅見氏が存命とのこと。少々驚きでした。専攻が「旧約聖書学」「古代イスラエル宗教史」とのことで、失礼ながら『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社)しか読んでいませんけど。それにしても山本ベンダサン、いまだに『日本人とユダヤ人』が出ているの驚きです。しかも角川ソフィア文庫レーベルって、何の冗談なのか。『わたしの中の日本軍』も平積みになっているのを見たことあるし、「100分de名著」の特番で『空気の研究』が取り上げられたりしていた(朗読のパラグラフの冒頭と掉尾で矛盾があって笑っちゃったけど)。「特定の宗教団体」との関係も噂されていたけど、マジなのかな。



#11230 
ひで 2022/07/17 11:44
リチャード・バートンの「アレキサンダー大王」がやっていた

ここのところ、訳の分からない事が多すぎますね。
さて、今日から「鎌倉殿」後半戦スタート、これまでドラマとして楽しく視聴しておりますが、後半戦ははてさてどうなりますか。関係する時代の書籍も色々出ておりますし(細川重男先生がまさにドンピシャリな本を出しましたし他にも色々おもしろい本はあります)その辺りを自分で読んで、あの人物や出来事、展開を敢えてこういうじったかとか思いながら見るのも楽しいものです。

先週、BSプレミアムで表題作をやっていました。映画としては正直うーん、途中で飽きるというか何というか(何でも入れすぎなんだよなあと言うか)。あとは歴史考証とかそんなうるさくない時代とはいえなんとなく微妙な合戦シーンや甲冑。映画では父フィリポス王と息子アレクサンドロスの関係を結構描いていたなあという印象はあります。

とはいえ、全く興味を引かない映画だったかというとそういうわけではなく、フィリポスとアレクサンドロスの父子関係に焦点を当てるというのは、なんとなく21世紀のこの辺の研究動向でも見られることなので、そういう所から見るとなかなか興味深いです(ただ、後半集中が切れたこともあり、映画全体の印象がかなり散漫にはなっていますが)。フィリポス王とアレクサンドロスの親子関係にぐっと絞って映画にしたほうがおもしろくなったんじゃないかという感じの感想もみかけましたが、そう言いたくなるのもわかります。個人的にも、のんべんだらりと伝記映画をやられるよりは、敢えてテーマを絞り、内容も厳選して映画を撮ってくれればよかったなあと。

映画本編の内容とは関係ないのですが、謎の観音開きみたいなアレクサンドロスの兜(コリントス式の兜があんな風に展開するとは聞いたことないです、、、)は妙なインパクトがありました。でも、なんか変。

https://historia334.web.fc2.com/index.html


#11229 
バラージ 2022/07/12 22:10
踊れなかった者

 安倍元首相殺害事件、犯人についての取り調べの情報が少しずつ出てきてますね。もっと情報が出てこないとはっきりしたことは言えませんが、ここまでの情報から見るときわめて個人的な理由による犯行と見て間違いなさそうです。そういう意味では組織的というかグループによる犯行である五・一五事件、二・二六事件、血盟団事件なんかとは全く違うし、個人による犯行でも犯人のイデオロギー的・政治的理由で起こされた原敬首相殺害や浅沼稲次郎社会党委員長殺害とも異なる。なんというか見当違いの逆恨みからの犯行と言うのが適切なように思われ、そういう意味ではこれは暗殺でもましてやテロでもなく、ただの(?)“殺人事件”と言ったほうがいいように思われます。歴史上の事件であえて近い例を探すと、ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンに近いような……。ただチャップマンの場合は妄想からの犯行と言えますが、今回の犯人の場合は(安倍氏とはほとんど無関係ですが)被害の実態自体は確かにあるため完全な妄想系とも言い難い。
 論座の公式サイトに同様の印象を持った弁護士による記事が載ってまして、その中で米国映画『タクシー・ドライバー』との類似点が言及されています。そしてこの事件は「民主主義に対する挑戦」「言論封殺」などではなく、「社会に対する復讐」という側面があるのではないかと仮定して、秋葉原通り魔殺人事件のような無差別殺人に近い事件である可能性を指摘しており、本質的には犯人が社会からの疎外感を募らせ、その社会に対する復讐として今回の凶行に及んだのではないかという「仮定的な推考」をしています。僕もなんとなくですが、犯人には「世に対する怨み」とでも表現すべきものがあったんではないかと感じたんですよね。あくまで現時点での直感的な感想に過ぎないんですが。
 なお僕は『タクシー・ドライバー』を観てないんですが、レーガン大統領殺害未遂を起こしたジョン・ヒンクリーが同作に出演していたジョディ・フォスターに一目惚れして、彼女の気を引くために犯行を起こしたという話がありますね。ヒンクリーはチャップマン以上に完全な妄想系ですが、ビートルズの大ファンだったヒンクリーはチャップマンのレノン殺害に衝撃を受け、レノンの追悼集会に参加した後、チャップマンが使ったのと同じ銃を購入したなんて話も……。
 ちなみに僕が真っ先に連想した映画は日本映画『太陽を盗んだ男』でした。沢田研二演じる中学の理科教師が自宅でひそかに小型の原子爆弾を製造。それを武器に日本政府を脅迫し、プロ野球ナイター中継の延長放送やローリング・ストーンズの来日公演などの要求を突きつけていく……というストーリー。ただ、この映画の主人公はクールでシニカルで、犯行の理由も目的も最後まで描かれない、というかはっきりとした理由も目的もないように見えるところは、やはり今回の事件とは大いに違います。
 それにしても統一協会というと個人的にはなんとも懐かしい。僕が大学生活を送っていた時代には仙台では統一協会の活動が非常に盛んで、僕もよく勧誘されたもんです。統一協会は別組織に見せかけて、よく街頭や自宅訪問などでアンケートを取るふりをしながら、僕たちの集まりに来ませんか?と誘う手口を使ってたんですよね。イザヤ・ベンダサンこと山本七平の『日本人とユダヤ人』のでたらめぶりを批判した『にせユダヤ人と日本人』の著者の浅見定雄教授が、統一協会の問題にも積極的に取り組んでおられました。調べたら浅見氏は90歳でまだご存命とのことで、これもちょっとびっくり。
 それから新興宗教にのめり込んでいる母を持つ男性を主人公とした村上春樹の短編小説『神の子どもたちはみな踊る』もちょっと連想しましたね。もっとも小説の主人公のほうは凶行に及ぶことは全くないんですが、そのような母親を持つ息子の心情というものが丹念に描かれて印象に残っています。

 あ、それから話変わりますが、『遊戯王』の作者は解剖の結果、溺死だったようですね。サメに噛まれたのは死後だったようです。僕は『遊戯王』を全く読んだことないんですが、ともかくご冥福をお祈りします。

 暗い話ばっかりなのもなんなので、少しはおめでたい話題や能天気な話題も以下に。

>国枝慎吾選手、生涯ゴールデンスラム達成
 車いすテニス男子シングルスの国枝慎吾選手がウィンブルドンで優勝し、全豪・全仏・ウィンブルドン・全米、そしてパラリンピックで優勝する生涯ゴールデンスラムを達成しました。おめでとうございます。もともと全豪・全仏・ウィンブルドン・全米の四大大会を全て制することをグランドスラムと言い、それに加えてパラリンピック(オリンピック)の金メダルも獲得することをゴールデンスラムと言います。テニスは長くオリンピックに参加していなかったので、もともとはグランドスラムしかありませんでした。1年の四大大会を全て制覇することを年間グランドスラムと言いますが、あまりにも達成困難なため(100年以上の歴史でシングルスでは男女合わせて5人(うち1人は2度)しかいない)、選手生活通算で達成することを生涯グランドスラムと言い始めました(それでも達成者は少ない)。さらに1988年にテニスがオリンピックに復帰すると、その年のソウル五輪で女子シングルスのシュテフィ・グラフが金メダルを獲得した上に年間グランドスラムも達成。そこで年間ゴールデンスラムと呼ばれたのが始まりです。これが年間グランドスラムの今のところ最後で、よって年間ゴールデンスラムも達成者は彼女だけです。車いすテニスはもともとはウィンブルドンがなく、2016年に創設されたんですが国枝選手はなかなか優勝できませんでした。ついに達成ということで本当におめでとうございます。

>観てない歴史映像作品 タイムスリップ歴史映画編
 ようやく最後となりました。毎度こういう思いつきは最初のうちは調子いいんだけど、途中で息切れして中だるみしちゃうんだよな。タイムスリップものというのは基本的に娯楽作品でエンタメ優先なので、歴史どうこうの部分はあまり歴史にくわしくない観客や視聴者にもくどい説明がなくともわかるように有名な題材や人物のものが多いですね。

『バンデットQ』(原題:Time Bandits)……1981年のイギリス映画。テリー・ギリアム監督による奇想天外なタイムトラベル・ファンタジー・アドベンチャー。孤独な少年が創造主から宝の地図を奪った6人の小人に連れられて時空を超え、ナポレオン、ロビン・フッド、アガメムノン王、タイタニック号、人食い鬼、巨人などに出会った挙げ句、悪魔と対決することに……というストーリー。
『ビルとテッドの大冒険』(原題:Bill & Ted's Excellent Adventure)……1989年の米国映画。ブレイク前のキアヌ・リーヴスがアレックス・ウィンターとW主演して出世作となったおバカコメディ。歴史のテストで落第寸前の高校生2人組が、未来から現れた謎の男のタイムマシンで過去に旅し、ナポレオン、ビリー・ザ・キッド、フロイト、ソクラテス、ベートーベン、チンギス・ハーン、ジャンヌ・ダルク、リンカーンに会ったり現代に連れてきたりの大騒動といったお話。あまりの脱力っぷりが大ウケし、1991年に続編『ビルとテッドの地獄旅行』、さらに2020年には29年ぶりの続編『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』が作られました。なお続編には歴史要素はなし。
『クレオパトラ』……1970年の日本のアニメ映画。手塚治虫が原案・構成・監督(山本暎一と共同)の虫プロと日本ヘラルド製作による大人のためのアニメーション「アニメラマ」映画の第2作。人類が宇宙に進出した21世紀、異星人による地球への謎の「クレオパトラ計画」について探るため、地球人は3人の人間の精神だけを女王クレオパトラのいる紀元前50年のエジプトにタイムスリップさせる。実はブスだったクレオパトラは整形手術で美女に生まれ変わり、シーザーやアントニーを籠絡するが……というお話。良くも悪くも手塚らしい脱線気味の作品で、興行的には失敗したとのこと。
『キャプテン・スーパーマーケット』(原題:Army of Darkness)……1993年の米国映画。スーパーマーケットの店員を主人公としたサム・ライミ監督の悪ノリはちゃめちゃゾンビ映画『死霊のはらわた』シリーズの第3作。DVD邦題は『死霊のはらわたIII キャプテン・スーパーマーケット』。前作のラストで中世のアーサー王の時代に飛ばされてしまった主人公が、現代に戻るための「死者の書」の呪文を間違えたために死霊(ゾンビ)の群れが復活。主人公とアーサー王や騎士たちが死霊軍団と戦うことになるというストーリー。ラストは劇場公開版と、ディレクターズ・カット版の2種類あるとのこと。
『信長協奏曲(コンツェルト)』……2014年の日本のテレビアニメ、および同年の日本の実写テレビドラマとその完結編である2016年の映画化作品。原作は「ゲッサン」に連載されてる人気マンガで現在も連載中とのこと。ドラマはかの月9で(タイムスリップものとはいえ)初めて放送された時代劇で、好評だったのか完結編の劇場版まで作られてしまいました。現代の高校生が戦国時代にタイムスリップし、偶然出会った織田信長が主人公にそっくりだったことから、病弱な本物の信長から自分の代わりに信長になってくれと頼まれ、本物の信長は紆余曲折の末に明智光秀として主人公の側近に……といったストーリー。主演が小栗旬(高校生→信長と、本物の信長→光秀の2役)、帰蝶が柴咲コウ、池田恒興が向井理、秀吉が山田孝之、柴田勝家が高嶋政宏、家康が濱田岳、お市が水原希子などなど超豪華キャスト。本作の秀吉はかなりのワルのようです。
『本能寺ホテル』……2017年の日本映画。綾瀬はるか、堤真一ら『プリンセス トヨトミ』のメインキャスト&スタッフが再結集した作品ですが、『プリンセス~』『鹿男あをによし』『鴨川ホルモー』の万城目学原作作品ではなく、こちらはオリジナル作品。本能寺の変の前日にタイムスリップした現代女性が織田信長の命を救うべく奔走するというお話。こっちでは濱田岳が森蘭丸、高嶋政宏が明智光秀を演じてるので混乱しちゃいそう(笑)。
『ブレイブ 群青戦記』……2021年の日本映画。「週刊ヤングジャンプ」で連載されたマンガ『群青戦記』の実写映画化で、監督は本広克行。学校がまるごと桶狭間の戦い直前の戦国時代にタイムスリップしてしまったスポーツ名門校の生徒たちが、松平元康と手を組んで織田信長と戦うというストーリー。主演は新田真剣佑で、元康が三浦春馬、信長が松山ケンイチ。三浦の死後に公開された映画の1本です。
『イニョン王妃の男』……2012年の韓国のテレビドラマ。朝鮮王国第19代粛宗のの命を受けて南人派の動きを監視していた主人公が、イニョン王妃(仁顕王后)の暗殺計画を阻止するも刺客に命を狙われ、現代にタイム・スリップ。テレビドラマでイニョン王妃を演じる無名の新人女優と出会い、2人は恋に落ちる……というストーリー。韓国ドラマにしては全16話と短めの作品です。2015年には中国で舞台を前漢末期に変えた『皇后的男人(こうごうのおとこ) 紀元を越えた恋』としてリメイクされました。
『アウトランダー』(原題:Outlander)……2014年から現在まで続いている米英合作のテレビドラマ。現在、シーズン6までが配信中。1945年の第二次世界大戦で従軍看護婦だった主人公女性がスコットランド旅行中に1743年に転送され、ジャコバイトの乱に巻き込まれる。その後、様々な局面を経て、舞台は18世紀の独立戦争前のアメリカ大陸に移り、20世紀の主人公の娘やその恋人もその時代にさかのぼる……といった長大なストーリーのようです。
『幕末未来人』……1977年の日本のテレビドラマ。現代の高校生が幕末にタイムスリップする話で、秀作の多いNHKの「少年ドラマシリーズ」の1作。眉村卓の短編小説『名残の雪』が原案とのことですが、設定などにはかなりの変更が加えられているとのこと。
『幕末高校生』……2014年の日本映画。主演は玉木宏と石原さとみ。やはり眉村卓の『名残の雪』を原案とした作品で、現代からタイムスリップした女性教師と3人の生徒が勝海舟と出会い、変わってしまいそうな歴史を元に戻して現代に戻ろうとするお話。1994年にも同タイトルでドラマ化されてます(DVD化はされていない)が、そちらとはストーリーが違い、また上記の『~未来人』ともストーリーが異なるようです。シリアスな『~未来人』とは違ってコメディ調の映画とのこと。
『サムライせんせい』……2015年の日本のテレビドラマおよび2018年の日本映画。同名マンガの実写化で、現代にタイムスリップした武市半平太が学習塾の先生として現代文明に順応していこうとするコメディ作品。主演はドラマ版が錦戸亮、映画版が市原隼人。
『タイム・アフター・タイム』(原題:Time After Time)……1979年の米国映画。監督はニコラス・メイヤー。主演はマルコム・マクドウェル。小説『タイム・マシン』を発表する前にH・G・ウェルズが発明していた本物のタイムマシンで、切り裂きジャックが現代に逃亡。責任を感じたウェルズもジャックを追って現代へ……というストーリー。
『フィラデルフィア・エクスペリメント』(原題:The Philadelphia Experiement)……1984年の米国映画。主演はマイケル・パレ。当初は製作総指揮のジョン・カーペンターが監督もする予定だったとか。第二次大戦中の米海軍の秘密実験とされる都市伝説「フィラデルフィア計画」に着想を得た作品で、海軍が軍艦を敵のレーダーに感知されないようにする実験で駆逐艦エルドリッジが空間から消失。エルドリッジは再び姿を現すが、2人の水兵が行方不明に。2人は1984年にタイムスリップしていた……というストーリー。好評だったのか1993年には続編『フィラデルフィア・エクスペリメント2』(原題:Philadelphia Experiment 2)が作られましたが、スタッフ・キャストが一新されていて、あまりつながりはないみたい。そっちはナチス・ドイツが勝利した世界というパラレル・ワールドもネタになっているとのこと。『2』はビデオ&LD化のみでDVD化されていませんが、Amazonprimeで配信はされているようです。
『僕たちの戦争』……2006年の日本の単発テレビドラマ。主演は森山未來、共演は上野樹里。瓜二つの現代のフリーターと太平洋戦争時の特攻隊員がタイムスリップで入れ替わるというお話。
『恋する彼女、西へ。』……2008年の日本映画。主演は鶴田真由と池内博之。広島に出張してきた現代女性と、原爆投下1日前の広島からタイムスリップしてきた日本兵との恋を描いた作品。
『海辺の映画館 キネマの玉手箱』……2020年の日本映画。大林宣彦監督の遺作となった3時間の大作。閉館を迎えた尾道の海辺にある映画館で、最終日のオールナイト興行「日本の戦争映画大特集」を見ていた3人の若者がスクリーンの世界にタイムスリップ。戊辰戦争、日中戦争、沖縄戦、原爆投下前夜の広島を体験していく……というストーリー。
『X-MEN:フューチャー&パスト』(原題:X-Men: Days of Future Past)……2014年の米国映画。人気シリーズ『X-MEN』の7作目で、シリーズ第1作『X-MEN』の前日譚を描いた『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』の続編とのこと。ウルヴァリンが1973年にタイムトラベルする話で、ニクソン大統領なども登場するらしい。でも俺、『X-MEN』シリーズって1本も観てねーんだよな(笑)。
『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』……2007年の日本映画。ホイチョイ・プロダクションズの作品で、監督は馬場康夫。主演は阿部寛と広末涼子。巨額の負債を抱え破綻寸前に陥った日本経済を救うため、1990年にタイムスリップしてバブル崩壊を食い止めようするお話。でも、この映画からももう15年も経ってるんだよなあ(笑)。



#11228 
徹夜城(次回史点を考えていたらとんでもないことになったと慌てる管理人) 2022/07/08 23:15
二・二六以来の事態

 総理経験者の暗殺、ということでは二・二六事件以来86年ぶりということになります。まぁしかし安倍さんも最長期在任総理というだけでなくこんな「記録」も残す最期を遂げてしまうとは。くしくも天下取り目前で病死した御父上と同じ年齢だったとは…
 次回「史点」でも書くんでしょうが、亡くなった直後は悪口は言いにくいもの、とはいえ、何やらえらく偉大な政治家みたいにみんなで口々に言い出すのもなんだか、と思ってるところではあります。
 一報直後から感じてましたが、犯人は政治的動機というより、妄想あるいは陰謀論的動機ではないのかな…いえね、最近例の「Q]な人たちとか、その他陰謀論的世界観の人たち
のウォッチをしてたもので、最初からどうもそれっぽい感触があったんです。


>ろんたさん
レスが遅れましたが、ご引用されていた文章、何度繰り返し読んでも意味がわからなくて困りました。この人、最初っから歴史学ウンヌンに敵意でも持ってたんじゃないかと。プーチンさんが歴史を利用していることを批判したいのか、あるいはそういう歴史があるから歴史学では阻止できないと言いたいのか。はたまた…
 僕も最近ある評論家のウクライナ侵攻をめぐる文章で、「ヨーロッパなどでは戦争が絶えないが日本は島国だから平和な歴史がずっと続いた」みたいな大意のものがあり、戦国時代とか他国へ侵略したといった歴史は頭からすっぽ抜けてるのかと呆れました。ただこういう言説、昔から結構広がってるんですよねぇ。



#11227 
バラージ 2022/07/08 22:48
驚きました

 まさかこんなことが起こるとは……。イギリスのジョンソン首相の辞任とか、『遊戯王』の作者がサメにかまれて亡くなったとか、伊藤詩織さんの「性被害」賠償確定とか、他にもいろいろあったニュースがみんな吹っ飛んでしまいましたね。詳細は今後明らかになっていくんでしょうが、愚劣な行為としか言いようがない。安倍晋三氏のご冥福をお祈りします。



#11226 
バラージ 2022/07/06 23:57
今週の鎌倉史 回帰線

 暑い……。
 今週の『13人』、ついにこの時代最大の大物にして一代の風雲児、源頼朝が他界というところで今年の大河の前半戦が終了。来週は選挙中継のため1週お休みとのこと。あれ? そういや一昨年だかその前だかに言ってた働き方改革のために夏に1ヶ月くらい休むって話はどうなったの? それとも休まないように、かなりの前倒しで撮影してるんだろうか?
 しかし今週もまたやたら大きな嘘っぱ……じゃなくてフィクションが。いくらなんでも頼朝の弟の阿野全成が後継者候補になるわけがないでしょう。普通はどの武士団でも当主が死んだらよほどの事情がない限り息子が後を継ぐのが当たり前。頼家はそれまで明らかに嫡子として扱われてきたんだし、年齢も18歳ならまず不足はありません。 全成は僧であって、仮に還俗したとしてもそれまで合戦に出陣したこともなく、主君として仰ぐなど御家人たちが到底同意しない、というよりそれ以前に擁立しようとはそもそも考えないはずです。
 なお頼朝の死因については『吾妻鏡』の当該年が欠落しており、はっきりとしたことはわかりません。ただし建暦2年(1212年)2月28日条によると、相模川橋の修復が問題になった時に、建久9年(1198年)に稲毛重成が橋を新造した際に頼朝が橋供養に出席したが、その帰途に落馬し、それから程なくして亡くなったと記されていることから、落馬説が有名です(ちなみにその記事によると、そのため相模川橋は縁起が悪いと修復に消極的な意見が大半を占めたが、頼朝の子である将軍実朝がそんなものは迷信だ、橋は交通の要衝で民のためにも修復すべきだと主張して、修復されることになったとのこと)。しかし京都側の記録である藤原定家の日記『明月記』、慈円の歴史哲学書『愚管抄』、鎌倉末期の歴史書『百練抄』などではいずれも病死とされており、近衛家実の日記『猪隈関白記』では飲水病(糖尿病)と記されているとのことで、おそらく病死なのは間違いないでしょう。『吾妻鏡』でも「落馬してから程なくして死んだ」としており、落馬が原因で死んだとはされていません。それらによると相模川橋供養は12月27日で、頼朝は翌建久10年(1199年)正月11日に出家して、13日に亡くなったとのこと。急死だったことは間違いなく、頼朝にしてみれば頼家への政権継承や三幡の入内と朝廷政策など、まだまだやるべきことは山積みだったはず。享年53歳とまだ若く、頼朝本人も死ぬなんて思ってはいなかったでしょうね。
 歴史にifは禁物だと言いますが、頼朝がもう少し長く生きていれば北条氏の政権簒奪もなく、幕府と朝廷の関係ももっと違ったものになっていたかもしれません。承久の乱は起こらなかったかもしれないし、逆に史実よりずっと早く頼朝や頼家と後鳥羽の対立で戦争が起こっていたかもしれない。ま、結局のところ先のことなんてどうなるかわかんないわけですが。

 さて、頼朝退場で1回休みということで、ここまでのドラマの感想を。といってもほぼ毎週書いてるわけですが(笑)、各論的なものではなく総論的なものを書いとこうかなと。
 まず気になるのが、史実方面から見ると全体的にざっくりとしたダイジェスト気味の展開になっちゃってること。毎週の感想でも書いてましたが、あれ? あの人出てこないんだ、あの出来事描かれないんだ、というのがやたら多い。ドラマ的にも出演者発表までされて大々的に出てきたわりには、たいした出番もないまま退場となっちゃった人(俳優)も結構います。三谷氏によると、放映時間に入りきらないため脚本にはあったのにカットされちゃったところも結構あるらしいんですが、それにしてもなあ。
 そもそも前半生がカットされてるとはいえ、頼朝の生涯を描くには半年じゃ短すぎるんだよな。頼朝の生涯を描くならやっぱり1年はないと。いや、もちろん頼朝はこのドラマの主人公じゃなくて、主人公は義時なんですが、だとしたら逆に頼朝が死ぬまでを引っ張りすぎてやしないか? 去年出版された義時主人公小説を3冊ほど読みましたが、いずれも4分の1からそれ以下で頼朝は死んでいます。義時が活躍し始めるのは基本的に頼朝の死後ですし、頼朝存命中にはそれほど多くの逸話もありません。ドラマでは史実で義時と関係なかった出来事にも無理やり義時を絡めてましたが、それでも義時の出番が少なく、誰が主人公なんだ状態の群像劇になっちゃってる。さすがにここからの後半戦は義時が中心になってくでしょうが、果たしてこのペース配分で良かったのか……。おそらくこれは結局三谷氏が『草燃える』のリメイクをやりたかったからこうなっちゃったんだとしか思えない。原作は『吾妻鏡』とうそぶいてた三谷氏ですが、むしろ原作は『草燃える』だったんじゃねーの?と。
 ま、とりあえず後半戦も観てみますかね。舞台自体は好きな時代だし、なによりドラマにかこつけて鎌倉史の話をいろいろ書きたいんで(笑)。

>追記その1 愛と平安の色男
 『13人』では源頼朝を女好きの男と設定しており、歴史本などでもたまにそのような記述をしてるものを見かけますが、僕はそもそもそういう風には考えていません。史書に残っている頼朝の妻妾は政子と亀の前、大進局の3人だけ。政子の嫉妬が激しかったからとはいえ、同時代人の中で特に多いわけではなく、むしろ少ないくらいです(頼朝の父義朝は少なくとも5人の妻妾がいた)。物語類にのみ出てくる伊東祐親の娘(八重)もいますが実在したかは微妙ですし、『吾妻鏡』に新田義重の娘を所望したが得られなかったという記事がありますが、事実かどうかは疑わしいということも以前書きました。他には大友能直、惟宗(島津)忠久、安達景盛に落胤説がありますが、到底事実ではなく問題外でしょう。頼朝の女性関係は当時としてはごく一般的なものだったと考えられます。

>追記その2 若奥様は腕まくり
 義時の最後の妻の伊賀の方(『13人』では「のえ」)も登場が決定しましたが、改めて考えると年齢の点でちょっと違和感が。普通どう考えても後の妻になるほど年齢が若いはずなんですが、演じてる女優は最後の伊賀の方役の菊地凛子さんが1番年上です。義時役の小栗旬よりも1つ上だもんなあ。義時が1163年生まれで、阿波局(『13人』では八重)の子の泰時誕生が1183年、姫の前(『13人』では比奈)の第一子朝時誕生が1193年、伊賀の方の第一子政村誕生が1205年ですから、実際には義時(や阿波局)と伊賀の方は親子ほどの年齢差があったはず。菊地さん、ガッキー、堀田真由ちゃんの順番だったらちょうど良かったのに。実は僕の想像する各妻妾のキャラクター的にもそっちのほうがしっくりくるんですよね(ま、あくまで僕の想像ですけど・笑)。



#11225 
ろんた 2022/07/03 10:59
「副作用を和らげる方法」?

 タイトルは古新聞で見つけた書評のこと(一ヶ月くらい前?)。筆者は與那覇潤(評論家)。『「小さな歴史」と「大きな歴史」のはざまで』(岡本充弘)に対するものです。
 で、気になったところを、いささか長いですが抜き書きします。

 歴史はもはや人類にとって、無益を通り越して有害なのかもしれない。
 ロシアのプーチン大統領が「非ナチ化」を掲げてウクライナを侵略したことは、世界を驚かせた。両国は地続きで、双方の民族が共に暮らす家庭も多い。現在に意識を集中するなら、国家間の摩擦はあっても一緒にいられたはずの相手が、「歴史の記憶」が呼び出されることで悪魔化されてゆく事態を、私たちはまざまざと見せつけられた。
 難しいのは独ソ戦の最中、ソ連からの独立を目指す一部のウクライナ民族主義者がナチスと提携したのは史実であることだ。つまり旧来の歴史学が得意とした「ファクトチェックで愛国史観のトンデモを論破する」やり方では、プーチンの「誤り」は批判できない。
 かくして役立たずだと知れ渡ったこの学問に、できることはまだあるのだろうか。

 簡単に言えば、プーチンの「誤り」を正すのに歴史学は無力、ということなんだろうけど(何言ってんの?)という感じ(笑)。プーチンの「誤り」を正すのに、歴史学までは必要ない、常識で十分。だって80年前に親ナチだから現政府がネオナチ、ってどう考えてもおかしいでしょう。前半は史実だが、後半は別途論証が必要な問題。大体、プーチンの主張が正しいのなら、日本もドイツもイタリアもスペインもファシストに牛耳られていることになってしまう。あと、「ファクトチェックで愛国史観のトンデモを論破する」やり方もできるんだけど。プーチンは、ロシアとウクライナは兄弟(当然、ロシアが兄なんだろう)みたいなこと言ってたけど、それって歴史の起源をキエフ・ルーシに求めているから。でもこの国の支配層がスウェーデン系ノルマン人だったり(孫子の代には同化するけど)、実は後のロシアってキエフ・ルーシとの繋がりが弱かったり(ノヴゴロドの雇われ軍事司令官アレクサンドル・ネフスキーの息子がリューリク朝の祖)。歴史学は役立たずじゃないぞ。


>ムハンマドとアーイシャ
 史点更新お疲れ様です。ムハンマドとアーイシャの結婚については日本でも以前、SNSにこのような書き込みがありました。

 普遍的人権思想からいって、9歳の女児とセックスしたムハンマドは許せない(大意)

 6~7世紀に生きたアラブ人を弾劾できる「普遍的人権思想」って何? わたしなどの知っている18世紀ヨーロッパ生まれのアレと違い、全人類史を貫徹する思想らしい(笑)。昔、人権思想家をからかって、呉智英が「人権真理教」などと呼んだことあるけど、現実に信者が出現したようです。
 で、この「セックス」ですが、わたしなどは「結婚」だと思ってたので、そんな文献があるのか、と気になって、フラフラと『ムハンマドのことば ハディース』(小杉泰編訳/岩波文庫)を買ってしまったのでした。ハディースはムハンマドやその関係者の言行録のこと(『論語』みたいなもの?)。でもこれ700ページ近くあるのに抄訳。膨大なハディースを編集して、一応信用できるとされているのが六書。そのうち最も権威が高いのが『真正書』と呼ばれる二書。『真正書』二書はなんと翻訳されていて、日本サウディアラビア協会と中公文庫からそれぞれ出ているとのこと(さすがに絶版らしい)。で、抄訳の該当箇所を見ると……

 ヒシャームは、その父[ウルフ]から、次のように伝えている──ハディージャは、預言者がマディーナへ移住する三年前に亡くなりました。それから二年またはそれくらいしてから、アーイシャと、彼女が六歳の時に婚姻契約を結びました。彼女が九歳の時に[実際の]結婚生活を始めました。

 アーイシャは、次のように伝えている──私たちがマディーナに[移住して]来た後のことです。私はブランコに乗って遊んでいました。私の髪は両耳までの長さでした。女性たちが来て、私を連れて行き、[婚礼の]準備をしてくれて、私を飾り付けて、それからアッラーの使徒のところに行きました。そして彼は私と一緒に暮らすようになりました。私は九歳でした。

……セックスしたとか書いてない。妻とはどんな体位で交わっても良いとか、セックスしたら射精しなくても礼拝の前に沐浴しろとか、ハディースの中にはセックスの話もあるんだけど。ただアラブ世界は<結婚=婚姻契約+性交>という考えらしいので(どんな社会でも同じ気もする)、ムハンマドをロリコン・ヒヒジジイに仕立てたい向きはその辺を利用して「セックス」「セックス」言っているみたい。イスラム思想研究者・飯山陽氏なども……

 イスラム諸国が児童婚を容認し、また実際に児童婚が多いのは、全てのイスラム教徒にとっての完全な模範とされる預言者ムハンマドが最愛の妻アーイシャと結婚したのは彼女が6歳もしくは7歳の時であり、9歳もしくは10歳の時に性交したとハディースに伝えられているからです。その時ムハンマドは53歳だったとされています。(『イスラム教再考』扶桑社新書)

と言ってるけど、なぜか婚姻契約が結婚になっている。さらに直後のパラグラフでは……

『コーラン』第65章4節も「まだ月経のない者」の待婚期間については3ヵ月間と定めており、イスラム法学者らはこれを、神は月経のない少女の結婚を認めているのだと解釈してきました。イスラム法上は人間は生まれてすぐにでも結婚できるとされ、性交も肉体的に成熟すれば可能であり、必ずしも初潮を迎えている必要はない、あるいは9歳ならば可能だなどと論じられています。

……と書かれている。なぜか婚姻契約と結婚、性交をごちゃごちゃにしているけど、婚姻契約は生まれてすぐにもできる、結婚は初潮を迎えてなくてもできる(または9歳)、でも性交は肉体的成熟を待ってからって、前近代での大人-子供、子供-子供の婚姻なら普通じゃないの? 現代でも同じ考えだと困るけど。あと、9歳の女児とセックスしたい、という真正ロリコン・ムスリム・ヒヒジジイは、15歳年上の熟女と結婚して看取ってからにしろ、と石打の刑に処せばいいと思います。


>『THE LEGEND & BUTTERFLY』
 LEGEND=信長、BUTTERFLY=帰蝶=濃姫ってことか。「2人の愛の物語」ってことは、輿入れから美濃攻略までやるんだろうけど、桶狭間もあるし(ここで終わると海老蔵版になってしまう?)、美濃攻略を面白可笑しくやろうとすると『太閤記』みたいにならないか、心配。しかし、今年50歳の男にやらせるかな、若き日の信長を。(<ちょっと意地悪)


>日本史サイエンス
 わたしが書き出したのは「広告」ですね。書評ページの直前に掲載されてました。で、<弐>を本屋で見かけたのでちょっと立ち読み。積んであった『ローマ人の物語』の最後の三巻分(文庫本で九分冊)を読み終えたら、その後の著作(文庫本)が揃っていて衝動買い。手元不如意だったのです(汗)。開いたら、バルチック艦隊の艦底にフジツボびっしりな話が出ていて、それって「科学を"武器"に切り込んだ」と言えるのか? と思ってしまった。だって、『坂の上の雲』に出てきた気がするもの。



#11224 
バラージ 2022/06/30 22:40
またまたサブカルチャー

 NHK-BSで放送してる『世界サブカルチャー史』、70年代編と80年代編が終了。
 今回、取り上げられた映画やテレビドラマや音楽といったサブカルチャーは、70年代が『奥さまは魔女』(1964-72年)、『イージー★ライダー』(1969年)、『ゴッドファーザー』(1972年)、『アメリカン・グラフィティ』(1973年)、『ゴッドファーザー PARTⅡ』(1974年)、『ジョーズ』(1975年)、『タクシードライバー』(1976年)、『チャーリーズ・エンジェル』(1976-81年)、『ロッキー』(1976年)、『スターウォーズ』(1977年)、『未知との遭遇』(1977年)、『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)、『ディア・ハンター』(1978年)、1978年6月にコンピューターゲーム「スペースインベーダー」リリース、『地獄の黙示録』(1979年)、『クレイマー、クレイマー』(1979年)など。
 そして80年代が、『ブルース・ブラザーズ』(1980年)、『普通の人々』(1980年)、『E.T.』(1982年)、『愛と青春の旅だち』(1982年)、『ランボー』(1982年)、『フラッシュ・ダンス』(1983年)、マイケル・ジャクソンの「スリラー」(1983年)、『ビバリーヒルズ・コップ』(1984年)、マドンナの「マテリアル・ガール」(1984年)、ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」(1984年)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)、『ランボー/怒りの脱出』(1985年)、『トップガン』(1986年)、『スタンド・バイ・ミー』(1986年)、『プラトーン』(1986年)、『摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に』(1987年)、『ウォール街』(1987年)、『タッカー』(1988年)、『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)など。
 70年代の終わり頃から80年代に入ると、個人的には一気にリアルタイムになってきて、なんとも懐かしい気持ちに。ただ、ブラット・パックやジョン・ヒューズ監督といった青春映画が一切無視されちゃったのは個人的にちょっと残念。


>史点
 僕は日本赤軍や連合赤軍に個人的な関係もなく、もちろんリアルタイムでもないんで、ベトナム戦争なんかといっしょで歴史上の出来事といった感じですね。重信房子については、子供の頃に銭湯で指名手配のポスターで見かけた人というのがおそらく第一印象で、逮捕された時にも、へぇーと驚いたものの、あくまでその程度の感想だったような。その少し後に出版された著作『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』が女性たちの間で静かなベストセラーになっていると『NEWS23』で特集されてたのは観た記憶があります。
 日本赤軍を題材とした映画にはドキュメンタリー映画を別にすると、元日本赤軍の足立正生監督が岡本公三を描いた『幽閉者 テロリスト』(2007年)という作品があるようです。またフランスのオリヴィエ・アサイヤス監督がテロリストのイリッチ・ラミレス・サンチェス(通称カルロス)の半生を描いた5時間30分の大作『カルロス』ではハーグ事件が描かれ、日本赤軍も登場するとのこと。連合赤軍を題材とした映画には、立松和平の小説を劇中劇の形で高橋伴明監督が映画化した『光の雨』があります。が、僕はいずれも未見。

>今週の鎌倉史その1 一方、その頃朝廷は
 今週の『13人』(先週だったか?)、なんで三浦義村が隠居宣言? そんな話聞いたことないんだけど、なんか基ネタがあるのか? それとも全くの創作? いったい何のために? どっちにしろ実際には隠居してないんで、ドラマでも多分しないんだろうけど、全くもってわけわからんなあ。それから比企尼は『吾妻鏡』に最後に出てくるのが1187年とのことなので、さすがにもう死んでいるのでは……。『吉見系図』では範頼の遺児(尼の曾孫にあたる)の助命を嘆願したとあるけど、それでも1193年だしそもそも作り話っぽい。あと、比奈(姫の前)が泰時に、あなたに母上と呼ばれたくありませんと冗談めかして言ってたけど、確かに義理とはいえ母子には見えないよなあ。堀田真由ちゃんが24歳なのに坂口健太郎は31歳なんだから(笑)。しかも堀田さん、かなりの童顔だしね。ちなみに姫の前は1198年に第二子の重時を産んでますが、これもスルーか。生年不明ですが竹殿という娘もどこかの時点で産んでます。それにしても巴、やたら出てくるなあ。やっぱり三谷、義仲びいきなんじゃねーの?

 さて本題。『13人』で、1196年に朝廷で九条兼実が失脚して源通親(土御門通親)が権力を握った建久七年の政変がすっ飛ばされちゃったというのは以前書きましたが、その後もあっという間に頼朝の死まで行ってしまったため、朝廷側の動きが全くスルーになってしまいました。まぁ、スケジュール的にしょうがないのかもしれないけど、ココリコ兼実や丹後局京香の出番もここまでということで、結局中途半端な存在に終わっちゃった感が強い。まだ1シーンしか出てない通親は、もうちょっと出番があるはずなのでさすがにまた出てくるだろうけど……。
 てなわけでこの頃の朝廷側の動きを軽~く解説。後白河法皇の死去で朝廷の権力を掌握した兼実でしたが、藤原道長の時代を理想とする彼の政治は現実を無視した復古主義的なもので、先例や身分秩序を優先して出世を抑えられた中下級公家からは不満が続出。後白河が最大の長講堂領を相続させた最愛の娘・宣陽門院覲子内親王の母・丹後局と宣陽門院執事別当の通親が新たに増やそうとした荘園も停止させ、兼実の政治に不満を抱く人々は丹後局と通親のもとに結集します。さらに娘の入内を目論む頼朝も1195年3月~6月の上洛時には真っ先に宣陽門院邸に入り、後鳥羽の後宮に強い影響力を持つ丹後局に多大な贈り物をする一方で、兼実とは疎遠な関係となり、長講堂領の荘園増加停止も兼実に撤回させています。こうして四面楚歌となった兼実は娘の中宮任子が後鳥羽の皇子を産むことに望みをかけますが、8月に産まれたのは皇女(昇子内親王)でした。一方、12月には通親の養女在子が皇子を出産。後の土御門天皇です。兼実はなおも再度の懐妊に望みをかけるも、翌年11月に突如中宮任子は内裏を退出させられ、兼実も上表もないまま関白を罷免されます。同母弟の慈円も天台座主を解任されました。通親の策謀と言われますが、兼実の過度な権勢や後鳥羽の母で院近臣家出身の七条院藤原殖子への無礼などが後鳥羽の怒りを招いた面もあったとされています。大姫入内を目論む頼朝もこれを黙認しており、兼実は以後表舞台に復帰することなく政治生命を絶たれました。結局、兼実は政治評論家としては優秀でも政治家としては優秀じゃなかったんでしょう。
 翌1197年に大姫が死去し、頼朝の入内政策は一時頓挫します。同年には妹婿の公家一条能保が、翌1198年にはその子高能が死去し、頼朝の対朝廷政策が停滞した時期に、後鳥羽は息子の土御門天皇に譲位して院政を開始し、通親は天皇の外戚となりました。頼朝はわずか4歳の土御門の即位には反対したとのことですが、朝廷からは後鳥羽の綸旨で強く申し入れてきたためやむを得ず了承したとのこと。これについては、これまでは朝廷の実権を握りたい通親の策謀に、頼朝がいいように利用されたとする見方が強く、頼朝の京都志向・公家志向の表れと否定的に評価されてきました。しかし近年では、通親は先祖以来徐々に下がっていた位階を上げ、大臣家の家格へと復帰するために外戚になろうとしただけで、頼朝に対抗して朝廷を主導しようという意思はなかった。政権基盤の弱い通親には日本唯一の軍事権門となった頼朝に対抗する術はなく、むしろ良好な関係を築く必要があったのであって、頼朝には相当配慮しているという見解が、元木泰雄『源頼朝』(中公新書)、川合康『源頼朝』(ミネルヴァ書房)によって出されています。それらによると兼実失脚後の通親が主導した朝廷は頼朝の子頼家の任官を摂関家並みの待遇として行っており、また大姫死後に継続された次女三幡の入内政策においても『尊卑分脈』によると三幡は鎌倉にいたまま女御宣旨を受けたとあって、通親が頼朝を優遇しているのは明らか。おそらく頼朝と三幡が存命であったなら、3度目の上洛で入内が実現し、通親もそれに全面的に協力していただろうとしています。
 僕も以前から通親が頼朝をだまして、自らが権力を握ったという説には疑問があったんですよね。そんなことして頼朝が軍事的圧力を掛けてきたらどうすんだ?と。後白河でさえ清盛と義仲によって2度も幽閉され、摂関家の近衛基通(兼実の長兄基実の子)や松殿基房(兼実の次兄)もその度に浮沈を繰り返してきたのを通親や丹後局も間近で見てきたはず。清盛・義仲以上の軍事力を有した頼朝に敵対するのはただの無謀でしかないと思うんですよね。なので上記の近年の説には非常に納得です。
 ちなみに院政を開始した後鳥羽は、後白河の寵姫として権勢を誇ってきた丹後局を煙たがったようで、彼女の権力は凋落していきます。宣陽門院の莫大な所領で経済的には裕福だったようですが、以後政治の表舞台からはやはり去ることになるのでした。

>今週の鎌倉史その2 ほんもの(の正室)は誰だ?!
 今週の『13人』では、頼家の妻妾の話題も登場。比企能員の娘の若狭局(『13人』では「せつ」)が頼家の長子の一幡を産む一方で、頼家はなぜか源氏一門の血を引く辻殿(『13人』では「つつじ」)に惚れて、彼女のほうを妻(正室)にしたいと言い出すという展開になってました。
 以前にもちょこっと書きましたが、確かに『吾妻鏡』では若狭局を頼家の妾、辻殿を頼家の室と記しているようです。にも関わらず若狭局の産んだ頼家の長子一幡は庶長子ではなく嫡子として扱われており、一方で辻殿の産んだ公暁は嫡子として扱われていません。これはなぜかについて、歴史学者によって様々な説が出されています。なお、若狭局が妾であることには小説家の永井路子も着目していたようで、小説でそれを生かした展開にしているようですが、辻殿が出てきたかは僕は未読なので不明。永井原作の大河『草燃える』には出てこなかったようです。
 歴史学者の話に戻ると、永井晋氏は辻殿が頼家死後に家族をまとめる後室の立場に立ったためではないかと推測しています。永井氏は、妻か妾かは夫との身分の釣り合いで決まるとしており、政子もまた身分的には頼朝の妾だったが、頼朝死後に後室となったため正室として扱われたとしています(『鎌倉源氏三代記』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)。『13人』の時代考証をつとめる坂井孝一氏は、辻殿は賀茂重長の娘で、賀茂氏(足助氏)は清和源氏の祖源経基の次男満政の子孫であり、また義家・為朝・義朝などの歴代河内源氏とも関係が深いため、比企氏出身の若狭局より家格が高いとして頼朝が辻殿を頼家の正室に選んだ。しかし頼朝の死後、頼家や比企能員が頼朝の遺志を覆して一幡を嫡子とし(公暁誕生は頼朝の死後)、若狭局を事実上の正室として扱ったという意見です(『源氏将軍断絶』PHP新書)。この坂井氏の説に対して、金澤正大氏は賀茂氏が比企氏より家格が高いというのは誤りで、重長の父の代から賀茂氏は無位無官となっており、重長は『尊卑分脈』に官位があると記されているが『吾妻鏡』ではやはり無位無官でそちらが正しいと思われる。比企氏は比企尼の夫、子(または夫の弟)の朝宗、甥で猶子の能員がいずれも官位を有しており、比企氏のほうが家格は上である。濃尾源氏の重長は1181年の平家反攻で討たれたとされ、頼朝とは直接的な関係もない。同じ河内源氏でも平賀氏や足利氏のほうがよほど頼朝と関係が深く、辻殿は若狭局同様に側室だとしており、その上で『吾妻鏡』が辻殿を「室」と記した理由は不明としています(ブログ「歴史と中国」)。佐伯智広氏は、辻殿を正室とすることには同意しつつ、若狭局の長子一幡が1198年の誕生時に頼朝によって頼家嫡子とされ、それによって若狭局も嫡子生母として辻殿と同等に遇されたとする説を唱えています。その上で頼朝死後に時政や政子ら北条氏が一幡と比企氏を滅ぼし、頼朝の遺志に背いたことを隠蔽するために『吾妻鏡』は一幡誕生を含む頼家→一幡の嫡流化の流れがあった1196~98年の記事を製作できなかったとしています(ネット論文「『吾妻鏡』空白の三年間」)。
 まさに議論百出といったところですが、僕個人の印象としては金澤氏の論に説得力を感じます。その上で、金澤氏が不明としている『吾妻鏡』が辻殿を「室」と記した理由については永井氏の説が正しいんじゃないかなぁ。辻殿は父重長が死んでいる上に有力な縁戚もなく、有力御家人でもない賀茂氏は頼家の外戚としては全く頼りになりません。そんな辻殿を頼家の正室にするメリットはないように思います。



#11223 
バラージ 2022/06/25 23:08
さらに今週の鎌倉史2連発

・鎌倉史その1 花嫁のパパ
 今週の『13人』で、大姫が公家の一条高能との縁談を断るエピソードと、後鳥羽天皇に入内する計画のエピソードが出てきました。前者は『吾妻鏡』、後者は『愚管抄』に記されてる話なんですが、丹後局が大姫や政子に冷たく当たったりしてたのは全くのフィクション。この時期の丹後局や源通親(土御門通親)は、政敵の九条兼実を追い落とすために頼朝のご機嫌取りに必死で、大姫を入内させたい頼朝のほうも2人に配慮しまくっており、両者は蜜月関係にあったと言えます。
 一方で『吾妻鏡』や『愚管抄』に記されている上記の話以外にも、兼実の日記『玉葉』に大姫の婚姻に関する話題が上がっています。それによると1184年8月という木曽義仲討死から7ヶ月後、義高の誅殺から4ヶ月後に、兼実は後白河法皇が摂政の近衛基通を頼朝の婿とする、つまり基通と大姫を婚姻させるつもりだという噂を聞いています。これについては頼朝の側から断ったようですが、その理由については頼朝が摂政を基通から兼実に変える意向だったからと推測されているようです。頼朝がそのような意向を持つのはもう少し後のような気がしますが、もともと平家との縁が深かったにも関わらず都落ちには同行せず、後白河の寵愛にすがって京に残留した基通のことを、頼朝が忌避したということはありそう。
 さらに頼朝が平家・義経・奥州藤原氏などを滅ぼして1190年に上洛し後白河や兼実と会見した翌年の1191年、兼実は頼朝が娘(大姫)を入内させようとしているとの噂を聞いています。すでに娘の任子を後鳥羽天皇の中宮とし、後白河没後は頼朝の後援で朝廷を主導できると考えていた兼実としては衝撃の噂だったことでしょう。兼実にとっては幸いなことに翌1192年に後白河が死去し、幼少の後鳥羽のもとで関白として兼実が実権を握ったためか、一時大姫の入内は沙汰止みとなったようです。
 その後、1194年8月に鎌倉に来た高能との婚姻話が持ち上がるわけですが、どうもこの話は政子が独断で進めたようで、大姫が「結婚するくらいなら深淵に身を投げる」と拒絶したため、それを聞いた高能のほうから政子に縁談はやめにしましょうと進言して、政子も断念したと『吾妻鏡』には記されています。しかし高能は頼朝の同母姉妹(一条能保の妻)の息子で大姫の従兄弟にあたるとはいえ、中流公家で天皇はもちろん摂関家と比べても遥かに下の身分です。2ヶ月後には頼朝は翌年の上洛の準備を始めており、すでに入内は規定路線だったはず。そのような時期に高能との婚姻が持ち上がるのは不自然な話で、むしろ全体的な流れから見ると1191年に入内の噂が流れた頃から頼朝の方針は大姫の入内で一貫していたと考えるのが自然です。もちろん頼朝にとっての京の出先機関だった能保の息子の高能もそれを承知だったはず。そう考えると高能との婚姻話は大姫の激越な拒否も含めて何やら創作めいていて、はたして事実なのか疑わしい気もするところ。もし事実だとすればまたも政子の暴走といったところで、大姫が断ってくれたことは頼朝にとっても高能にとってもむしろ幸いだったことでしょう。

・鎌倉史その2 ♪大人の階段の~ぼる~
 つい最近まで僕は知らなかったんですが、『吾妻鏡』には源頼家の元服記事がないそうで。そのため頼家がいつ元服したかについては様々な説が唱えられています。『13人』でもいつの間にか頼家は元服していましたが、よく見たら公式サイトの解説でも『吾妻鏡』に頼家の元服記事がないことが触れられてました。
 一般的には、『吾妻鏡』が1196年から1198年までの3年分が欠落しているのでその間のどこかの段階で元服したのだろうと推測されているようで、1197年に頼家は叙爵されて官位を得ているのでそれまでには元服しているのは確実です。しかしそれでは頼家は15歳(1197年なら16歳)まで元服しなかったことになり、当時としてはやや遅すぎます。1歳下の北条泰時は12歳時の1194年に元服したことが『吾妻鏡』に載ってますし、父の頼朝も13歳で元服しています。そこで木村茂光氏は1195年の頼朝再上洛時に頼家が父頼朝抜きの単独で参内し、幼名の一万で後鳥羽天皇に謁見したことに着目し、それが頼家の元服だったとの説を唱えているとのこと。しかし元服の際に行われる理髪・加冠・名字撰進がいずれも記されていないことから否定的見解が主流のようです。一方で『13人』の時代考証である坂井孝一氏は『源氏将軍断絶』(PHP新書)の中で、富士の巻狩りが行われた1193年末までには頼家の元服は行われたが、頼朝の後継者を得宗家の祖泰時であるかのごとく描く『吾妻鏡』の方針のために、泰時の元服を盛大に描く一方で頼家の元服は隠蔽されたとする説を唱えています。
 この坂井氏の説に対して興味深い観点から批判してる歴史学者とおぼしき人のブログを見つけました。それによると1195年の頼家の後鳥羽天皇への謁見は『吾妻鏡』が記す通り幼名の一万で行われた「童殿上」だったという説です。童殿上というと僕は90年代に今谷明氏の『室町の王権』で紹介されてる足利義満の息子義嗣の例で知ったんですが、なるほどなぁ、目から鱗というか確かに元服していない状態で参内して天皇に謁見したらそれは童殿上です。ブログには名前が記されていないため、どなたのブログかわからなかったんですが、コメント欄に佐伯智広氏が引用許可を求めるコメントをしており、佐伯氏の論文もネット上で見つけて読んでみたところ、やはり歴史学者の金澤正大氏のブログだとわかりました。佐伯氏も金澤氏の論を肯定し、さらに詳細に論述しています。
 ただ、この童殿上説、着眼点に関しては目から鱗だったんですが、童殿上だったという説そのものに関しては個人的には疑問があります。童殿上説の最大の弱点は、京都側の史料に頼家の参内が童殿上だったと触れているものがないことです。鳥羽院政期以降の童殿上はほぼ摂関家に限られているとのことで、だとすれば武家源氏の童殿上は未曾有のことであり、有職故実や前例にうるさい摂関家の九条兼実が日記『玉葉』に何も記していないのはきわめて不自然。兼実の同母弟慈円の『愚管抄』にも何も記されていません。これは逆説的に頼家の参内は童殿上ではなかったことを示しているものなのではないでしょうか。頼家の参内は童殿上ではなく、また元服式でもなく、ただの普通の参内だったからこそ特に何も記されていないと考えるのが自然です。坂井氏の説の通り、『吾妻鏡』は何らかの事情で頼家の元服を記せなかったため、辻褄合わせのために頼家の参内を幼名で行ったことにせざるを得なかったというのが正しいように思われます。
 ただし頼家が参内以前に元服していたとする説は坂井氏に賛成ですが、それが『吾妻鏡』に記されなかった理由については僕の考えは坂井氏と異なります。これはあくまで推測ですが、1194年に盛大に行われたと『吾妻鏡』に記されている北条泰時の元服が、実は頼家の元服をコピペしたものなんではないでしょうか。というのも前々から思ってたんですが、泰時の元服が当時の彼にはあまりにも不釣り合いなくらい盛大すぎると思うんですよね。参列者は当時の鎌倉御家人オールスターで、頼朝が加冠し(烏帽子親)、さらに名前の一字を与え(偏諱)、泰時は最初は頼時と名乗っていたとされています。泰時の母阿波局については、『吾妻鏡』に記されている通りに妻(正室)とする説と、出自や経歴一切不明なことからおそらくは相当身分が低く実際には妾(側室)だったのだろうとする説があり、坂井氏は前者の説を取ってますが、僕は後者を取ってます。後者だとすれば、前年の1193年に妻の姫の前の第一子朝時が生まれていることから、義時の嫡子は朝時であり、泰時は庶長子に転落していたと考えられます。父義時がいかに頼朝に寵愛されていたとはいえ、門葉(源氏一族)より一段身分の低い「家子」であり、その庶長子の元服で頼朝が烏帽子親となり、ましてや偏諱を与えるなんて考えにくいように思うんですよね。実際には泰時の元服はもう少しこじんまりとしたものだったはず。もしくはそもそも元服の記録が残っていなかったかもしれません。そのため得宗家の祖である泰時の元服を盛大に盛る必要があったんではないでしょうか。また頼時から泰時に改名したのは頼朝の死からさほど経ってない時期だったと推定されてますが、改名の理由は不明で歴史学者たちも何か頼朝の死に関係しているのではないか?という程度の曖昧な見解しかできていません。実際、頼朝の偏諱を改名してしまうのは考え方によっては不敬とも言え、解釈に困るところです。しかしそもそも最初から泰時だったと考えればこの疑問も氷解するはずです。
 ではなぜ頼家の元服から式次第を盗んでまで泰時の元服を飾る必要があったのか? 坂井氏は頼朝の後継者を得宗家の祖の泰時であるかのごとく描くためだったとしていますが、僕はそのような壮大な理由からではなく、もう少し卑小なレベルの理由からだろうと推測しています。それは上記の通り、もともとの嫡子だったと思われる名越家の祖の朝時に対する得宗家の祖の泰時の優越性を示さなければならなかったためなんではないでしょうか。名越家は後々まで得宗家に対立的で、宮騒動や二月騒動で得宗家に屈して以後は従順になったものの、それでも得宗家にとっては警戒すべき存在でした。そのためもあって『吾妻鏡』は得宗家の祖泰時こそが最初から嫡子であったように見せかける必要があったんだと思われます。なお朝時は1206年に元服していますが、その際の『吾妻鏡』の記述はきわめて簡素なもので加冠(烏帽子親)が誰かも記されていません。しかし御所で元服しており、朝時という名前から将軍実朝の偏諱を受けたことが推測され、烏帽子親もおそらくは実朝だったはず。『吾妻鏡』はそれを隠蔽する一方で、泰時の元服は頼家の元服の式次第を移し取り、さらに烏帽子親を頼朝にして偏諱も受けたことにしたのだと思われます。そのため頼家の元服を記せなくなったんでしょう。
 なお、実際に頼朝の偏諱を受けた可能性が高い人物として平賀朝雅がいます。朝雅の父義信は門葉筆頭として遇されており、『愚管抄』によると朝雅は頼朝の猶子となっています。また『吉見系図』には頼朝の偏諱を受けたと記されているとのこと。北酒出本『源氏系図』によると享年24歳とあるらしく、逆算すると1182年生まれとなって頼家と同年の生まれです。となると元服も頼家や泰時と近い時期に行われたはず(『吾妻鏡』には朝雅の元服は記されていない)。ひょっとしたら泰時の元服の式次第は頼家だけでなく朝雅の元服も引用されてたかもしれません。



#11222 
バラージ 2022/06/22 22:59
今週の鎌倉史 死刑台のメロディ

 『13人』、またなんかいろいろとすっ飛ばされてるなあ。大姫が死んだってことは1197年になってるんだろうけど、1196年に朝廷で九条兼実が失脚して源通親と丹後局が実権を握った建久七年の政変は省略か? 1193年に主人公義時が姫の前(『13人』の比奈)との間に儲けた次男朝時の誕生とか、1194年の長男泰時の元服も描かれなかったなあ。
 あと、あまりに善児無双が過ぎるような。なんかあまりにも多くの武将が善児に殺されてて、どうにも不自然なんですよね。善児どんだけ強いんだよ!っていう(笑)。それでいてわざわざ善児に殺させる必然性が物語的には感じられないんだよなあ。別に普通に誅殺されたりモブキャラに殺されてもいいというか、むしろそのほうがストーリー的に引っ掛かりが少ない気がします。また善児の内面が全然描かれないため何考えてんだかよくわかんないのも困りもので、鎌倉軍に捕まるともともと仕えてた伊東祐親をあっさり裏切ってスカウトされた梶原景時の命で殺しちゃうってのも、命惜しさなのか何なのか観てても全然わからない。あとねえ……殺陣や演出のせいもあるんだろうけど、善児が全然強そうに見えないんですよね。なんでこいつにみんな殺られちゃうの?って思っちゃうんだよな。演出やカット割りでもっといくらでも強そうに見せられると思うんだけど……。梶原善さん、顔はドニー・イェンに激似なんですけどねえ。

 さて、本論の頼朝による粛清の嵐の話。ドラマでは範頼が曽我兄弟との関係は一切ないと弁明してましたが、史実においてはドラマでは描かれてない関係性が実はありました。範頼が伊豆国へ流された3日後に、曽我兄弟の異父兄弟の原小次郎(『曽我物語』では京の小次郎)という人物が範頼に縁座して処刑されており、範頼は曽我兄弟と全く関係がないというわけではなかったようです(小次郎は範頼の家臣だったとする説もある)。また中世史学者の菱沼一憲氏は、仇討ち事件の際に常陸国久慈郡の御家人が頼朝を守らずに逃亡したことや、事件直後に起こった常陸国御家人の多気義幹の挙兵などが、常陸国内に影響力を持ち同国の御家人の調整者的な役割を果たしていた範頼の政治的責任問題として浮上し、その結果として頼朝が範頼に対して何らかの嫌疑を生じさせたのではないかと推測しているとのこと。とはいえ前回書いた通り、僕の考えとしては曽我兄弟の仇討ちの背後にクーデターなどの陰謀はなく、範頼は曽我兄弟の仇討ちには関係してなかったと思っています。ただ人生の晩年に差し掛かり、頼家への政権継承の晴れの場を汚された頼朝は、疑心暗鬼となって範頼に疑いの目を向けたことでしょう。なお範頼が修禅寺に幽閉されたという話もありますが、『吾妻鏡』には伊豆国に配流されたとあるだけで場所がどこかは不明。その後の消息は記されておらず、殺されたとする推測が有力ですが、伝承レベルではあるものの一応生存説もあるようです。また『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により範頼の子の範円(はんえん)と源昭(げんしょう)が助命されて出家し、範円の子孫が吉見氏として続いたとされてますが、史料の性格上どこまで信頼できるかは疑問ですね。
 それからドラマでは岡崎義実も陰謀の責任を取らされて出家してましたが、『吾妻鏡』では範頼配流と同じ8月に大庭景義と共に老齢を理由として出家しています。2人とも頼朝軍の長老格でかなりの爺さんだったことは確かですが、景義は2年後の1195年に疑いを掛けられて鎌倉を追われ3年を過ごしたと訴えて許されたとあり、義実も頼朝死後の1200年に政子に窮状を訴えて所領を与えられたとあって、2人ともなんらかの事件に関係して失脚したのではないかと推測されており、それが仇討ち事件(=クーデター)に関係したとする説につながっていきます。
 さらに11月には甲斐源氏の安田義資が永福寺薬師寺堂供養の際に参列した女房に恋文を届けたという理由で誅殺されています。永福寺は頼朝が奥州合戦で亡くなった武将の鎮魂のため建立した寺院であり、その供養の際に相応しくない義資の行動が口実にされたと推測されてるようですが、それにしても誅殺されるほどの罪ではありません。義資の父安田義定も連動して所領を没収され、さらに翌1194年に謀反の嫌疑で誅殺されています。義定は源平合戦中には必ずしも頼朝には属さず独立した勢力として独自の動きをしており、頼朝による甲斐源氏抑圧策の一環と推測されてますが、時期的に仇討ち事件との関係を疑われた余波の1つと見ることもできそう。
 しかし岡崎義実・大庭景義にしろ、安田義定・義資父子にしろ、仇討ちと関係があったかはともかくとしてクーデターなどは企んでおらず、やはり冤罪だったのだろうと思います。もし実際にクーデター計画があったのなら、これだけ執拗な追及を行った頼朝が真相に突き当たらなかったとは考えにくい。『吾妻鏡』での彼ら失脚した人々についての記述がきわめて散文的で1つの像として結び付いていないのは、結局どれだけ調べても犯人に行き当たらなかった、つまり犯人などいなかったことを示しているのではないでしょうか。猜疑心の塊となった頼朝による一連の粛清劇は、功成り名遂げた創業権力者晩年に特有の暗い一面を表しているように思います。


>キムタク信長&綾瀬濃姫映画
 木村拓哉が信長役で綾瀬はるかが濃姫役の『THE LEGEND & BUTTERFLY』なる東映映画が来年1月公開とのことで、おいおい大河なんかよりよっぽど豪華じゃねーかと思いつつも、「2人の愛の物語」だそうで東映だけにだいじょうぶか?とも思ったんですが、監督が大友啓史、脚本が古沢良太とかなりの本気印。古沢さん、来年の大河もやるってのにいつ書いてるんだろ?

>日本史サイエンス
 あれ? なんかその記事、立ち読みした時にチラッと見かけたような……。書評だったんですか。「秀吉はなぜ「無謀な戦争」を始めたのか」「検証! 秀吉軍と「亀甲船」が戦えば?」「バルチック艦隊を壊滅させた意外な生物」「「東郷ターン」「丁字戦法」は勝因ではない?」といった小見出しを見た記憶があるんですよね。パラパラッとめくったら見えただけで記事自体は読んでないんですが、検索して表紙を見たら「新説「科学的に正しい」日本史」と載ってますな。なんかいかにも怪しげな煽り文句だけどどうなんだろ?

>光彦クンはスミちゃん(浅見家のお手伝いさん?)と結婚するんだと思ってました(笑)。
 そうなんですよね(笑)。ドラマを長く観続けてると、あんだけ惚れっぽい光彦が同じ屋根の下で暮らしてる(通いなのかな?)若いお手伝いさんと何もないのが、なんだか不自然に思えちゃうんですよね。演じてる女優さんもわりと綺麗め可愛めの人が多いんで、ますますなんで?となっちゃいます。



#11221 
ろんた 2022/06/21 22:03
日本史サイエンス

 前回と同じ展開ですが気にしないことにします(汗)。

 横溝正史の記事が出ているというので「週刊現代」(2022/06/11-18)を買いました。記事はグラフページ(白黒)で、目新しいネタは見当たらない。角川春樹の「忘れられた作家・横溝正史を再発見したのは、オレだオレだオレだ!」という「証言」も載っていた。角川春樹って山っ気が強すぎて話が信用できないんだよなぁ(笑)。文庫への収録を頼みに行ったら死んだと思ってた本人が出てきた、というのも話としては面白いけど盛りすぎ。普通、アポを取った時に気がつくだろ。あと横溝は刊行された「選集」の売り上げが好調で再評価が進行中だったはず。そして同じグラフページ(白黒)で加藤嘉の記事が出ていて、こちらには驚愕の事実が……。山田五十鈴と結婚してたの!? 全然知らなかった。

 んで、パラパラと他の記事を眺めていると、書評コーナーでスゴい広告を見つけました。(こっちが本題)


日本史の"未解決事件"に科学を"武器"に切り込んだ!

・『魏志倭人伝』を科学で読み解く
・邪馬台国への「意外なルート」が見えた
・秀吉はなぜ「無謀な戦争」を始めたのか
・検証! 秀吉軍と「亀甲船」が戦えば?
・バルチック艦隊を壊滅させた意外な生物
・「東郷ターン」「丁字戦法」は勝因ではない? ほか

歴史×科学 累計9万部 衝撃作、再び!
日本史サイエンス<弐>
邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く
播田安弘 定価1100円(税込)

邪馬台国はどこに? 秀吉は亀甲船に敗れたのか?
日本海海戦でロシアに大勝できた真因は?
日本史の"通説"を"数字"の力で徹底検証!
"科学"の光が本当の史実を照らし出す。

シリーズ<1>絶賛発売中!
日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る
定価1100円(税込)

講談社BLUE BACKS


 著者は造船技術者のようですが、最後の一行にビックリ。BLUE BACKS! 確かに書影を見てもBLUE BACKS! どうしちゃったんだ、BLUE BACKS! いや、それともすんごくマトモな本なのか? なんだかモヤモヤします。


>「月刊ほんとうに怖い童話」
 この雑誌、おどろおどろな歴史物の特集を毎号やっているみたい。ちなみに7月号が「昭和タブー史 闇深い歴史の中に埋もれた狂気の事件の数々!」、最新8月号が「処刑と虐殺の歴史 血しぶきと死の香りが女たちを絶望に染め上げる!!」。バックナンバーのリストを見ていると気が滅入ってきます。

>徹夜城さん
「大仏開眼」ですね。あれ、実質「吉備真備伝」でしたから。道鏡が出て来ちゃうと<Dr.コトーvs.特命係長>で盛り上げて大団円、という筋書きが破綻しちゃう。あと、1300年間続けられてきた皇室下ネタの定番を石原さとみにやらせるなど、NHKが許しても世間が許さん(笑)。「妖僧」は衣笠貞之助監督、市川雷蔵主演ですが、脳内フィルモグラフィーには入ってませんでした。
 そういえば「天河伝説殺人事件」は見てますね。角川春樹が二匹目のドジョウを狙ったとか狙わないとか。OPの極太明朝体をはじめ、金田一ものを連想させる作りになっていたような記憶。

>バラージさん
 光彦クンはスミちゃん(浅見家のお手伝いさん?)と結婚するんだと思ってました(笑)。



#11220 
バラージ 2022/06/17 19:38
時代

 『13人』、いわゆる源平合戦のシーンは義経ものや平家ものでも描かれてるので、鎌倉ものでないと描かれない富士の巻狩りシーンには力を入れたのかもしれませんね。『100カメ』という番組は観ていませんが、そういえばなんとなくだけど今年の大河はロケ地でおなじみのえさし藤原の郷であまりロケをしていないような……。今年は時代的にはドンピシャのはずですが、状況的に地方ロケが難しいのか? CG使ってももちろんいいんだけど、もうちょい精度を上げてほしいよなあ。まぁ1956年の映画『曽我兄弟 富士の夜襲』でも、終盤での富士山が絵だと丸わかりのシーンがあったりしましたが(笑)。
 その『曽我兄弟 富士の夜襲』、ちょっと調べたらU-NEXTで配信がされているようです。源頼朝が主人公の1961年の映画『富士に立つ若武者』もU-NEXTで配信されているようで、大河便乗か? どちらもビデオ化のみでDVD化はされてないんですが、最近はそういうDVD化はされてなくて配信のみというパターンも多いようで、やっぱり配信の時代なんでしょうか。歴史映像名画座に掲載されている作品でDVD化されてない映画も、調べてみると『紅顔の密使』『紅顔の若武者・織田信長』『徳川家康』『江戸城大乱』『竜馬を斬った男』『人斬り』が各種動画サイトで配信されているようです。


>観てない歴史映像作品 第二次世界大戦・アジア太平洋戦線編
 ようやくここまで来ました。終わりまでもう少し。

『パール・ハーバー』(原題:Pearl Harbor)……2001年の米国映画。監督はマイケル・ベイ。主演はベン・アフレック、ジョシュ・ハートネット、ケイト・ベッキンセール。タイトルはパール・ハーバーですが、負け戦で終わっては盛り上がらないということか真珠湾攻撃は中盤で、ドーリットル空襲でやり返すまでが舞台らしい。戦争映画というより、戦争を背景とした三角関係ラブロマンス映画とのこと。
『マレー死の行進 アリスのような町』(原題:A Town Like Alice The Rape of Malaya)……1956年のイギリス映画。英領マレーに侵攻してきた日本軍の捕虜となり、炎天下で長路行進をさせられるイギリス人女性たちを描いたドラマ映画で、オーストラリアの小説『アリスのような町』が原作とのことですが、フィリピンのバターン半島などとは違ってそのような史実はなかったそうです。そのためかカンヌ映画祭への出品が、日本政府の抗議で中止されたとのこと。
『静かなり暁の戦場』……1959年の日本映画。監督は小森白。主演は天知茂。英領マレーに侵攻した日本軍中尉とインド人捕虜の友情を軸に、インド国民軍結成までを描いた新東宝映画で、原作は国塚一乗という人の『印度洋にかかる虹』。どっかで聞いたことのある名前だなと思ったら『プライド 運命の瞬間』の監修をしてるそうで。新東宝らしく日本が東南アジアを植民地から解放したというテイストを含みつつ、日本軍の横暴さもそれなりに描くなどある程度バランスは取られてるとのこと。インド人役を演じてるのはプロの俳優ではない日本在住のインド人らしく、それでもインド人役が足りなかったのか日本人俳優も混じってるそうです(笑)。
『アドナン中尉』……2000年のマレーシア映画。日本では映画祭上映のみで劇場公開やソフト化はされていません。シンガポール攻防戦のパシ・パンジャンの戦いで日本軍と戦ったマレー人連隊のシンガポール人将校アドナン・サイディを主人公とした作品らしい。
『フィリピン陥落 バターン半島1942』(原題:Women of Valor)……1986年の米国映画。主演はスーザン・サランドン。米軍の従軍看護婦を主人公として、前半はバターン死の行進、後半は捕虜収容所を舞台とした作品とのこと。
『パレンバン奇襲作戦』……1963年の日本映画。主演は丹波哲郎。ソフト化はされていませんが動画配信はされています。オランダ領インドネシアのスマトラ島パレンバンへの空挺作戦を題材とした、戦争映画というよりコマンド・アクションに近い映画のようです。
『メナムの残照』……1988年と2013年他のタイ映画。原作はタイで1960年代に出版されて大ベストセラーとなった国民的小説で、以後現在に至るまで4度の映画化と6度のテレビドラマ化がされているそうです。タイに駐留している紳士的な日本軍人とタイ人女性のラブロマンスを描いたメロドラマで、連合軍によるバンコク空襲も描かれてるとのこと。日本ではタイの国民的女優チンタラー・スカパットが主演した2度目の映画化である1988年版が映画祭で上映された後に販売ビデオのみでビデオスルーされましたが、レンタルやDVD化はされていません。4度目の映画化である2013年版も映画祭で上映されましたが、やはりDVD化はされていません。
『ミッドウェイ』(原題:Midway)……2019年の米国映画。監督はローランド・エメリッヒ。出演はエド・スクレイン、ウッディ・ハレルソン、デニス・クエイド、豊川悦司、浅野忠信、國村隼など。真珠湾攻撃からミッドウェー海戦までを描いたスペクタクル映画です。
『太平洋戦争 謎の戦艦陸奥』……1960年の日本映画。監督は小森白。主演は天知茂。戦艦陸奥が謎の爆発で沈没した事件をフィクション満載、というよりほとんど想像で描いた新東宝映画。荒唐無稽なスパイ団犯行説を取っているようです。
『春婦伝』……1965年の日本映画。タイトルを『春婦傳』とするものもあり。監督は鈴木清順。主演は川地民夫と野川由美子。1947年に出版されるもGHQに発禁処分とされた田村泰次郎の同名小説の、1950年の『暁の脱走』に次ぐ2度目の映画化。原作は中国華北戦線を舞台に朝鮮人慰安婦を題材とした話なんですが、『暁~』はGHQの検閲でヒロインが日本人の従軍看護婦に変更されたとのこと。本作では慰安婦に戻されたものの、日本人の慰安婦になっており、脇役として朝鮮人慰安婦が登場するようです。ビデオ化はされましたが、DVDは「鈴木清順監督 自選DVD-BOX 弐 惚れた女優と気心知れた大正生まれたち」への収録のみでバラ売りはされていません。動画配信はされています。
『日の果て』……1954年の日本映画。監督は山本薩夫。主演は鶴田浩二、岡田英次など。敗色濃くなった1944年のフィリピン戦線を舞台とした、脱走兵と現地女性、脱走兵を連れ戻すよう命令された同僚らの群像劇。
『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』……1950年の日本映画。戦没学徒兵の手記を集めた『はるかなる山河に 東大戦歿学生の手記』とその続編『きけわだつみのこえ 日本戦歿学生の手記』をヒントに製作された作品で、戦後初の戦争映画とのこと。インパール作戦を舞台としています。1995年の『きけ、わだつみの声 Last Friends』はリメイクではなく、ストーリーが全くの別物。
『戦場にかける橋2 クワイ河からの生還』(原題:Return from the River Kwai)……1989年のイギリス映画。ビデオ&LD化はされましたがDVD化はされていません。邦題ばかりか原題も『戦場にかける橋』の続編のように見せかけてますが、実際は全く無関係の作品らしく、そのため前作の権利元から訴えられて米国での上映は行われなかったとのこと。実話をヒントにした作品ではあるらしく、クワイ河鉄橋爆破後の1944年(映画では1945年)に日本国内の労働力不足解消のためタイ・ビルマ国境の捕虜収容所から日本へ捕虜たちを送り込もうとした史実を基にしてるようです。
『ビルマの竪琴』……1956年と1985年の日本映画。監督は市川崑。大戦末期から日本敗戦直後のビルマを舞台に、日本兵の霊を慰めるため僧侶となってビルマに残る兵士を主人公とした同名小説の映画化ですが、原作者はビルマに行ったことがなく、全て想像で書いたとのこと。1956年版は現地ロケの許可がなかなか下りず、公開に間に合わせるためにまず第一部を作り、その後第二部を作ったんですが、市川監督にとっての完成版は総集編で、現存してるのも総集編のみとのこと。1985年版は市川監督によるセルフリメイクで、主演は中井貴一。
『雲ながるる果てに』……1953年の日本映画。監督は家城巳代治。主演は鶴田浩二。海軍飛行専修予備学生の遺稿集『雲ながるる果てに 戦歿飛行予備学生の手記』を基にして神風特別攻撃隊を描いた作品。
『月光の夏』……1993年の日本映画。監督は神山征二郎。実話を基にした同名小説の映画化で、大戦末期における神風特別攻撃隊員を描いた作品。
『海軍特別年少兵』……1972年の日本映画。監督は今井正。主演は地井武男。硫黄島の戦いで若くして、というより幼くして犠牲となった海軍特別年少兵を描いた作品。
『東京大空襲』……2008年の日本の単発テレビドラマ。主演は堀北真希。東京大空襲を描いた作品で、二夜連続のスペシャルドラマです。これは放送時にちょっと観たような。かなり力を入れた作品だったようで、空襲シーンはなかなか迫力ものの映像だったような記憶があります。
『太平洋戦争と姫ゆり部隊』……1962年の日本映画。監督は小森白。新東宝を追い出された大蔵貢が立ち上げた大蔵映画で製作した70㎜フィルムの大作ですが、ノリはいつもの新東宝といった感じみたい。ひめゆり学徒隊も出てくるもののあくまで一要素といった感じで、沖縄戦全体を描いているらしい。他の沖縄戦日本映画ではあまり描かれない米軍側の描写も多いようで、従軍記者アーニー・パイルの戦死も描かれてるとのこと。上映時間は193分だったようですが、DVDは150分版のようです。
『ハクソー・リッジ』(原題:Hacksaw Ridge)……2016年の米国映画。監督はメル・ギブソン。沖縄戦で75人の人命を救った米軍衛生兵デズモンド・ドスの実話の映画化。ハクソー・リッジとは浦添市の前田高地の米軍側の呼称。
『TOMORROW 明日』……1988年の日本映画。監督は黒木和雄。出演は桃井かおり、南果歩、仙道敦子など。長崎への原爆投下の1日前から当日の朝までの24時間の市井の人々の日常風景を、原爆が投下されるその瞬間まで描いた作品。
『樺太1945年夏 氷雪の門』……1974年の日本映画。ソ連軍が侵攻する大戦末期の樺太(サハリン)で通信連絡を取り続けた9人の真岡郵便局電話交換手の若い女性たちが最終的に集団自決した真岡郵便電信局事件を描いた作品。全国公開直前に急遽公開が中止され(ソ連による圧力とも言われる)、その後は一部地域で短縮版での限定公開となったとのこと。オリジナル全長版の153分版から、2010年に119分版のデジタルリマスター版DVDが製作され、初の全国公開となったそうです。

>最近録画で観た歴史関連映画
『ワールド・トレード・センター』
 2006年の米国映画。9.11テロで崩壊したワールド・トレード・センター・ビルで生き埋めになった2人の警官が救出されるまでを描いたオリバー・ストーン監督作です。題材が21世紀に入ってからの事件だし、製作年が事件からそれほど経ってない時期なので、歴史ものと言っていいのかはかなり微妙なんですが、まあ間違いなく歴史的事件を扱っているので書いちゃおう。実際に救出された2人の警官らに取材したノンフィクションに近い作品らしく、テロの描写は最小限に止めテロ側には踏み込んでいないため、雰囲気としては災害映画に近いですね。生き埋めになった2人のシーンが結構長く、ほとんど代わり映えのしない絵面で退屈させない手腕はさすがだし映画としてはなかなか面白いんですが、日本人としては戦争映画でこういうのはたくさん観てるんですよねぇ。そういう意味では珍しくない映画なんですが、米国人にとっては本土が敵に攻撃されたほとんど初の体験だったんだなぁというのを改めて感じました。あと、ああいう状況での米国人の反応が日本人と全然違うのも改めて興味深かったです。

>浅見光彦シリーズ
 家族がああいう2時間サスペンスドラマが好きでよく観てたので、僕も付き合いでちょこちょこ観てました。あと、ヒロイン役が好きな女優の時には僕も積極的に観てましたね。僕の好きな女優さんがヒロインになることが数回~10回に1回ぐらいはありまして。浅見光彦は寅さんといっしょで、毎回ヒロインに恋しては最後に必ず失恋するんですよね(笑)。



#11219 
徹夜城(最近は五か国の歴史ドラマを見るので手一杯な管理人) 2022/06/15 16:01
ロケはやっぱり大変だ

 昨日、NHKの夜にやってた「100カメ」って番組で、「鎌倉殿の13人」の富士の巻き狩りシーンの大規模ロケ舞台裏を放送してました。こういうメイキングものは好きでよく見るんですが、こうして番組になっちゃってるところをみるとドラマ制作陣はこの場面を大規模ロケで撮ろうと早くから決めてあった様子です。合戦シーンはそれほど大規模ではないのに、本筋にそれほど重要かな?と思えるこのシーンに力を入れたのはなぜなんだろ。

 どんな映像作品でも苦労はつきものですが、ロケはやはり天気が鬼門。富士山がバックに見える晴れの日がベストだったようですが事前にそれは無理っぽいとわかり富士山はCG合成で入れようと言うことに。予備日含めて三日間とって臨んだロケは初日に大雪に見舞われるアクシデントで撮影中止に。衣装もスタンバイ終えたばかりのエキストラさんたちは直後に撤収となって…結局予備日の三日目に必要シーン全部撮ってなんとかクリアするんですが、強風が吹きつけて大変な現場だったようです。

 こういうこともあるからロケって映像はリアリティが出るんだけど実行は大変なんでしょうねぇ。最近NHKではスタジオ撮影でロケみたいに見せる(背景に実景映像を映して撮影する)方式を開発してすでにいろいろ使ってるようです。
 「太平記」は当時演出の方が書いてましたが「なるべくロケ撮影しよう」という方針があったようで、京都・鎌倉の市街オープンセットとか、赤坂・千早に見立てた採石場などなどいろいろ頑張ったロケシーンがありました。ただ武具とか馬の都合なのか、あまり多くない人数を大軍に見せてしまうというやりくりは随所にみられ、後半は戦闘シーンは使いまわしばかりになってました。


>犬王
 話には聞いてたんですがもう公開してましたか。興味はあるんだけど見に行けなそうだなぁ。「南北朝列伝」でも扱いましたが、南北朝から室町にかけての猿楽・能楽の芸能界史もなかなか面白い人物がそろってるのですよね。

>ろんたさん
 それはまた、面白そうなものを。僕もエカテリーナ二世と孝謙天皇ぐらいしかよく知らんですね。孝謙天皇といえば石原さとみが演じたことがありましたけど、あれでは道鏡関係はやんなかったですね。大昔の大映の映画「妖僧」で扱われたけど、あれは案外ストイックな話になってました。
 なお、浅見光彦シリーズは僕は「天河伝説殺人事件」の映画(市川崑監督)だけしか見てないです。確か僕が見た映画で、話のラストでエンドマークが出て即終了(つまりエンドロールなし)の最後の映画だったはず。



#11218 
バラージ 2022/06/14 21:20
今週の鎌倉史 なんだかよくわからない曽我兄弟の仇討ち

 『13人』、今週もツッコミどころ満載。やれやれ。
 まず前回も書いた義時の妻の姫の前(『13人』では比奈)ですが、史実ではすでに前年の1192年に結婚してるんで、翌1193年の富士の巻狩りの時には実際の義時は新婚さんです。もちろん頼朝の夜這いどうこうは全くのフィクション。というかどの武士も娘や妻妾は伴っていなかったでしょう。政子も来てないんだし。白拍子(遊女)はいっぱい呼んだみたいですけどね。そもそもこの時の頼朝は、頼家のお披露目のことで頭がいっぱいのはずで、そんなことをしてる場合ではありませんでした。また、この年に姫の前は義時の次男で嫡子だったと思われる朝時を産んでいる(月日は不明)ので、大急ぎで仕込まないとドラマは史実に間に合いません(笑)。

 それから頼家が弓が弱くて下手くそという設定になってましたが、役者が大人なんでわかりにくいんだけど、史実の頼家はこの時まだ12歳なんですよねえ。史実での頼家は弓の名手の愛甲季隆の補佐で初めて鹿を射止めてますが、実は今の寺田心くんより年下だったりします(笑)。富士の巻狩りの大きな目的の1つには、頼家を頼朝の後を継ぐ次の鎌倉殿としてアピールするデモンストレーションとしての役割があり、頼家が初の獲物を得ることは最初から予定されていたことだったと思われます。
 それはそれとして、頼家が父頼朝同様に武勇に優れた人物だったことは『愚管抄』や『六代勝事記』に記されており、あそこまで弓が弱かったとは考えにくい。逆に弓が得意みたいに描かれてた北条泰時は、特にそのような武勇に優れていたという記録は残っていません。泰時ヨイショが著しい『吾妻鑑』でも、苦手だったという記述こそないものの、得意だったとも書かれてないんですよね。というか頼家の1歳下の11歳だった泰時は、そもそも富士の巻狩りに参加していません。なお、これは技術的問題からでしょうが、ドラマでは歩射(徒歩で射る)でしたが実際の巻狩りは騎射(馬に騎乗して射る)で行われてました。まぁ、役者さんにそこまでさせるのは難しいでしょうからね。
 ただ、巻狩りシーンのロケ自体は、これまでのショボい合戦シーンが嘘のように壮大でなかなか良かったですねえ。ちょっと絵面が数年前に時代劇専門チャンネルで放送されてた昔の映画『曽我兄弟 富士の夜襲』を意識したんじゃないかとも思っちゃったけど。

 そして本論の曽我兄弟の仇討ち。とはいえ現代ビジネスの呉座勇一氏の連載や、渡邊大門氏の「深読み「鎌倉殿の13人」」でもくわしく触れられてるので、そちらを参照してください(笑)。ただ、呉座氏が『13人』での「岡崎義実と曾我兄弟が謀反を計画し、時政を利用し、比企能員がこの陰謀に便乗した」という展開に、「証拠はないが、あり得る1つのシナリオ」と評しているのは大いに疑問。この部分はむしろツッコミどころで、頼朝・頼家との関係性で厚遇されてる能員が、頼朝暗殺の陰謀を看過したり、ましてや便乗するなどあり得ないし、そもそもそれ以前の問題として曽我兄弟ら頼朝暗殺を企む側が能員に加担を呼び掛けに行くこと自体が極めて荒唐無稽です。それだったら北条時政黒幕説のほうがまだ可能性が高いでしょう。今回の呉座氏のコラムは自身の著書『頼朝と義時』(講談社現代新書)のほぼコピペですが、『13人』放送に合わせて加筆された部分もあって、前記部分もそれに当たります。呉座氏はこれまでの連載でも、自分の不祥事で『13人』の時代考証を降板した負い目があるためか、なるべくドラマを批判しないように細心の注意を払っていることが感じられます。時代考証の坂井孝一氏による明らかに無茶な「八重=阿波局」説についてもどうも言及を避けているっぽい。渡邊氏の「深読み「鎌倉殿の13人」」でははっきりと、「史実としては無理筋」と指摘しています。まあ、不祥事がなければ呉座氏も今頃は時代考証の一員として参加しており、そうなれば連載もしてないだろうしドラマ内容への批判もますますできなかったでしょうしね。
 なお曽我兄弟の仇討ちについては、永井路子の史論エッセイ『つわものの賦』でも黒幕説が唱えられており、それを原作の1つとした大河『草燃える』でも当然ながら黒幕説を採用したうえで、ドラマオリジナル人物の伊東祐之がその黒幕になってました。また、高橋直樹の小説『天皇の刺客』(文庫題『曾我兄弟の密命 天皇の刺客』文春文庫)では黒幕をまだ子供の後鳥羽天皇としています。さすがに無茶な設定だとは思いましたが、高橋氏の筆力もあって小説としてはなかなか面白かった。まあ、ドラマや小説では、昔ながらの仇討ものとして描くのでなければ、黒幕のいる陰謀説にしないと物語として面白くしづらいってこともあるかもしれません。
 では本当に黒幕はいたのか? 陰謀はあったのか?ということになると、今となっては不明、よくわからないと言わざるを得ない。坂井孝一氏の最初の一般向け著書『曽我物語の史実と虚構』(吉川弘文館)でも永井氏同様の黒幕説でしたが、近年の著書では黒幕がいたかもしれないし、いなかったかもしれないという線に後退?しています。僕個人の意見としては、やはり陰謀などなく、曾我兄弟の暴走に便乗して自らの私怨を晴らそうという御家人たちが複数いたことがこれだけの大規模な騒乱になってしまったという、誰もが意図せざるものだったのではないか?と考えています。しかし、老境に入り、頼家への家督継承を考え疑心暗鬼の虜となった頼朝は、現代の歴史学者や作家や歴史ファン同様にこれだけの事件の裏に陰謀がないわけがないと考えて、粛清の嵐が吹き荒れることになったのではないか? 足利尊氏による観応の擾乱、豊臣秀吉による関白秀次の切腹、徳川家康による大坂の陣などと同様の、創業権力者の晩年によく起こる権力の安定継承をめぐる冤罪事件という暗い側面の一類型なんではないかなあというのが僕の個人的推測です。


>『犬王』追記
 登場した実在人物にはもう1人、光明天皇がちょろっとだけ出てきてましたね。エンドロールを見たら名前があったんで、あ、そういや誰か北朝の天皇が出てきてたな。あれ、光明天皇だったのか、と思ったんですが、よくよく考えたら義満とじゃ時代が合わないなあ。同じ場面に義満が出てたんだけど(台詞なし)、あれ義満じゃなく尊氏か義詮だったのかな?



#11217 
ろんた 2022/06/13 21:10
思わぬところに歴史マンガ

 ここんところ、積んであったアンソニー・ホロヴィッツを読んでいるのですが、先日、家に置き忘れてコンビニで厚いマンガの本を買いました。『浅見光彦 疑惑の死SP』(原作:内田康夫/作画:あさみさとる,夏木美香,樹生ナト/ぶんか社)。このシリーズ、「あ、浅見刑事局長の弟さん……!?」ってんで子役人根性の警察官が掌を返す、というのが苦手で原作もドラマも見てなかったりするのでした。(あっ、水谷豊のは見たな) それじゃあなぜ買ったかといえば、厚くて読みでがあったから。なんせ、464Pですから。内容は、戦中、戦後の因縁が現代に甦って……、というのが三本。さすがにドラマとか無限定に「現代」を舞台にするのは苦しいかな。関係者がみんな100歳近くになっちゃうし(笑)。執筆時の「現代」(90年代?)にあわせるしかないんじゃなかろうか。

 しかし本題はこちらではなく、巻末にある出版物のPRページ。ぶんか社なんで(?)レディースコミックっぽい月刊誌が並んでるんですが、そのうちの一つ(「月刊ほんとうに怖い童話 6月号」)になんともおどろおどろしい特集が組まれてました。

「性と血に飢えた魔性の女帝たち すべての権力を手に入れた美しく残酷な女の生涯!」

取り上げられているのは四人。

[ハトシェプスト](白井幸子) 凛々しい男装の女王のただひとつの恋の過ち!
[エカテリーナ2世](まつざきあけみ) 運命の相手を求めクーデターで国を奪った女!
[孝謙天皇](天ヶ江ルチカ) 愛を求め男に貢ぎ続けた女帝が知った真実の愛!
[ジンガ女王](佐々木彩乃) 男を犯し殺し喰らう狂気の女王!

 さすがにエカテリーナ2世と孝謙天皇は知っているのですが(「真実の愛」って道鏡とのことかな?)、ハトシェプストとジンガ女王は「誰、それ?」状態。

 調べてみると、ハトシェプストは古代エジプト第18王朝の女王。トトメス一世の嫡出の王女。トトメス二世の正妃。トトメス三世の正妃ネフェルラーの母。なんだかややこしいのは、当時は嫡出の兄弟姉妹を娶せ王位を継承させていたから。もちろん、都合良く男女を産み分けられるわけはないので、嫡出の相手がいなければ庶出から選ぶことになる。現にトトメス二世と三世は庶出(正妃の異腹の兄弟)。トトメス二世が早世すると幼い三世の摂政として権力を握り、その後、一世により後継者として指名されていた、と主張して即位、22年間(B.C.1490-68?)、トトメス三世の共治王となる。センムトら有能な側近に支えられ、外征より交易を重視しエジプトの国力を強めたが、ネフェルラーの死後、トトメス三世の影響力が強くなり、やがて単独統治が始まる……とのこと。(ネタ本=『世界の歴史(1) 人類の起源と古代オリエント』(中央公論社))

 わからないのがジンガ女王。wikiによるとコンゴの女王ンジンガ・ムバンデ(1583-1663)で、奴隷貿易を狙うポルトガルを向こうに回してコンゴ王国(現在のコンゴ共和国・コンゴ民主共和国・北アンゴラ・ガボン)の独立を守ったらしい。だけどなぜか広告のカットは色が白い。ネタ本(『世界の歴史(24) アフリカの民族と社会』(中央公論社))には記載無し。もっともこの本、人類の誕生から列強によるアフリカ分割までを1冊で扱っているので仕方ないか(汗)。コンゴ王国の話は載っているけど。さらに「ジンガ女王」で検索すると、もっと詳しい話が色々出て来る。曰く……

・賢く美しく武芸にも秀で父王キルアンジに溺愛された(ポルトガル語を習得していたらしい)
・何をやらせてもンジンガに劣る兄ムバンディは、即位すると彼女を虐待、子は殺され局部に焼けた鉄棒を突っ込まれた(二度と子をなさせないため)
・折衝を任されていたポルトガルに接近、ムバンディとその子を毒殺して権力を掌握
・即位するとポルトガルを排除、周辺諸国をまとめ上げたり、オランダを利用したり、巧みな戦術と外交で対抗。女王が亡くなるまでコンゴは独立を保った
・アンゴラでは「道端の草であろうと、生きとし生けるすべてのものが、偉大な女王のことを覚えている」と崇敬されている
・600人の村人を巨大な石臼で挽き殺し、肉を食べ血を飲んだ
・柔らかな子供の肉を好み、2日で130人食べた
・投獄された男たちに恩赦を賭けて殺し合いをさせ、生き残った一人は女王が殺した
・夜伽は男をいたぶることに終始し、相手は翌朝には殺してしまう
・女装させた美形の男たち(コンキュバイン=性の奴隷)50-60人を後宮に囲っていた。女官らと同居させ、間違いがあると殺した

 後半の話は盛りすぎて眉に唾つけなくては読めそうもありません(笑)。食人嗜好はともかく、600人食べたとか、130人食べたとか、ギャル曽根かよ(いや、ギャル曽根は人は食べないけど)。あと、好色な逸話は女性権力者アルアルですかね。

 こちら、残念ながらもう本屋にありません。バックナンバー取り寄せないと読めないですね。それから「月刊まんがグリム童話」には『金瓶梅』(竹崎真実)が連載されている模様。春梅が嫁に行っているんで、もう西門慶は死んじゃってるみたい。調べると、単行本が50巻出ていて、なんか読みたくなってしまった(笑)。



#11216 
バラージ 2022/06/11 22:57
室町アニメを観てきました

 『13人』、またも新たな出演者発表ということで、義時3人目の妻・伊賀の方(『13人』では「のえ」)が菊地凛子さんと発表されましたね。やっぱり出るか。ひょっとして出ないんじゃないかと気を揉みましたが、そりゃそうだよな。出るよな。主人公の奥さんなんだから(笑)。あと気になったのが、2代将軍頼家の正室が辻殿(『13人』では「つつじ」)で、若狭局(『13人』では「せつ」)が側室という設定。そういや時代考証の坂井孝一氏はそういう説を唱えてたっけ。確かに『吾妻鏡』では若狭局を頼家の妾、辻殿を頼家の室としてるんですが、僕はこの説にはちょっと同意できないんですよね。それについてはその辺りの話になったらまたということで。

 さて、先日『犬王』というアニメ映画を観てきました。
 南北朝~室町時代の実在の猿楽師・犬王(後の道阿弥)と架空人物の琵琶法師・友魚(ともな)という2人の少年を主人公とした作品で、偶然出会った2人がパフォーマーとミュージシャンとしてセッションを繰り返し、大衆を熱狂の渦に巻き込んでいく姿を描いたロック・ミュージック映画です。原作は古川日出男の『平家物語 犬王の巻』という小説らしいんですがそっちは未読。
 室町時代が舞台の作品は珍しいし、予告編を観たら面白そうだったんで観に行ってみたんですが、いい意味で史実にとらわれない作品でした。犬王を異形の姿(いわゆる現代で言う奇形)で生まれた人間として、彼が友魚と共に斬新な舞と音楽で平家の怨霊を成仏させるたびに体の一部が普通の人間に戻っていくという設定になっています。彼らの舞と音楽は完全に現代のロック・ミュージックとパフォーマンス・アートで、音楽映画としても楽しめるし、アニメ特有のファンタジックな表現も卓越してました。『もののけ姫』もファンタジー要素の強いアニメ映画だったし、室町とファンタジーって相性がいいんかなあ。平安もファンタジーと相性がいいし、京という地に何かそういう要素があるのかもしれませんね。鎌倉や江戸を舞台としたファンタジーってあんまりないし。
 登場する実在の人物としては、犬王の他に足利義満、藤若(後の世阿弥)、覚一(覚一本『平家物語』をまとめた琵琶法師)、日野業子といったあたりですが、義満を除けば出番はそれほど多くありません。まぁ、時代劇とか伝奇映画といった作品でして、史実どうこうという作品ではなく、それゆえに自由に物語を創作できる強みを十二分に生かした作品でしたね。
 ただ、主人公はどっちかっていうと犬王ではなく友魚のほうで、『平家物語』語りが大きなウェイトを占める物語でした。ラストもかなり切ないものだったんですが、なかなか面白かったですね。非常にすぐれたアニメでした。


>鎌倉史追記 平安の無責任男
 『13人』、後白河法皇もついに退場。後白河というと平家・義仲・頼朝・義経と、権力を握った武士に別の武士をぶつけて争わせる陰謀家というイメージが古くからありましたが、近年の研究ではそういうイメージは否定されつつあります。むしろこの人の場合は、定見のない場当たり的な対応を繰り返すいい加減な人というのが実際に近い。そもそも弟の近衛天皇が若くして死んだ後、後継候補に挙がった際に、父の鳥羽法皇から「この人、甚だ王の器にあらず」と難色を示され、乳母夫の信西からも「和漢の間、比類少きの暗主」と言われるなど評判は散々で、今様に異様にのめり込んだことからもうかがえるように、悪い意味で芸術家肌の国王だったようです。息子の二条天皇と対立して失脚したり、清盛と義仲によって2度も幽閉されたり、義経に脅されて頼朝追討院宣を出しちゃったり、そのため頼朝に激怒され「日本一の大天狗」と罵られたりと、いろいろ失敗の多い治世でしたが、それでも未曽有の戦乱の世を生き残れたのには、いろいろと理由はあるでしょうが、やはり幸運だったと言っていいんではないかと。
 大河では『義経』などでは戯画的なまでに旧来の陰謀家タイプとして描かれてたようですが、『平清盛』ではまた新たな後白河像が描かれてたように思います。『13人』では出番の少なさという制約はあるものの、また旧来の陰謀家タイプに少し戻ったような中途半端な描かれ方だったかな。



#11215 
バラージ 2022/06/07 23:46
今週の鎌倉ツッコミ 史実でのストーカー義時と、デストロイヤー政子の2人目の被害者

 今週の『13人』もツッコミどころだらけだったなあ。まず良かったところとしては、頼朝の征夷大将軍就任が近年の通説に沿った描写になってたとこ。まぁ、これは推測とか見解とかではなく、はっきりとわかった事実ですからね(#10696参照)。ダイジェスト的にちゃっちゃか進んでいるため、さらっとした描写にはなってましたが。それから珍しかったのは頼朝が九条兼実に敬語で、兼実は頼朝にタメ口という描かれ方。あんまり見かけない描写ですが、兼実は藤原道長の時代を理想とする名門摂関藤原氏としての自負が強い人なんであり得なくもないことかも。

 そして今回の本論のツッコミどころですが、まず義時の妻となる姫の前(ドラマでは比奈)。予想はしてたけどやっぱり史実ガン無視だなぁ。まぁ、八重(=阿波局)の流れからそうなるというか、そうせざるを得ないだろうとは思ってましたけどね。紆余曲折あって来週には結ばれるだろうからツッコミももう1週持ち越すべきなのかもしれないけど、来週は来週でこれまたツッコミどころ満載になってる曽我兄弟の仇討ち事件が待ってるんで多少のネタバレは恐れずにツッコミを書いちゃおう。どうせ史実通りにはならないだろうし、これを書かないともう1つのツッコミも入れられないし。
 『13人』では、比企能員夫妻が比企氏の影響力を強めるために一族の比奈(姫の前)を頼朝のそばに送り込むも、なんだかんだで義時の妻へと回されるという展開でしたが、これは全くのフィクション。史実では頼朝の御所に勤める「権威無双の女房」で「容顔甚だ美麗」だった姫の前に義時のほうがベタ惚れし、なんと1年以上にも渡って恋文を送り続けたものの姫の前は全くなびかず、あまりのことに見かねた頼朝が義時に「絶対離縁しない」という起請文を書かせて結婚にこぎ着けたとのこと。ちょっと物語っぽいエピソードですが、北条得宗家贔屓の曲筆が目立つ『吾妻鏡』にわざわざ記されてる話なので、大枠では事実なんでしょう。比企氏は後に北条氏と対立して滅ぼされるとはいえ、姫の前は義時との間に朝時と重時を産んでおり、朝時の子孫名越家は得宗家と対立的だったものの、重時(『北条時宗』では平幹二朗が演じてた)の子孫の極楽寺家や赤橋家は得宗家に従順で、かつ得宗家に次ぐ高い家格を誇っていたので、義時と姫の前の婚姻エピソードも隠蔽されたりはしなかったんでしょうね。
 しかしドラマでは最愛の妻を失ったばかりでうちひしがれてる義時がこんな真似をしたらほとんどサイコパスなので(笑)、史実とは変えざるを得なかったんでしょう。阿波局をほとんどオリジナルの人物として大幅に膨らましちゃったから、こんなことになっちゃったんだよな。ちなみに『草燃える』でも最初は義時を拒否ってた野萩(姫の前)が頼朝に言い寄られ、政子の嫉妬を恐れて義時との結婚を承諾するという、やはり史実とは異なる展開になってるらしい。そういえば『13人』での八重はひょっとしたら生き残るかもという僕の予想は見事にはずれ、ドラマチックな死を遂げてましたね。ヒロインとしてガッキーに比べると堀田真由ちゃんはちょっと貫禄不足とか書いちゃって、どうもすいません。個人的には堀田さんのほうが好みです。テレビドラマ『チア☆ダン』で初めて見た時から注目してました。
 さて、史実での姫の前ですが、なぜ義時の求愛を1年以上も無視し続けたのか、その理由は『吾妻鏡』にも触れられておらず、全くの不明です。そこでちょっと推測してみると、頼朝が義時に「絶対離縁しない」という起請文を書かせたというところにヒントがあるような気がします。よくよく考えてみれば当たり前のことをわざわざ起請文に書かせたのは、おそらく義時には離縁の前科があったからなんではないかと思うんです。姫の前はそのような義時に不信感や不快感を感じており、結婚してもひょっとしたらいつかは自分も離縁されるかもしれないという心配もあったんではないでしょうか。そう考えれば話の筋がよくわかるように思うんですよね。つまり義時は妾だった阿波局をなんらかの理由で離縁したのではないか?というのが僕の個人的推測です。
 ちなみに頼朝が義時と姫の前の仲を取り持ったのは、義兄として一肌脱いだというだけではなく、自らの後を継ぐ頼家の後ろ楯となる比企氏と北条氏を結びつけようとの意図があったためとも推測されています。『13人』でも『草燃える』でも北条氏が主役のため比企氏の出番は少なめなんですが、実際には北条氏より比企氏のほうが頼朝に重用されており、頼家の最初の乳付け役に選ばれたのは比企尼の次女(河越尼。河越重頼の妻)で、他に乳母とされたのも比企尼の三女(平賀義信の妻)、比企能員の妻、梶原景時の妻といったあたり。安達盛長と比企尼の長女(丹後内侍)の娘が範頼の妻、重頼と河越尼の娘が義経の妻(郷御前)、義信と三女の息子の平賀朝雅は頼朝の猶子(相続権のない養子みたいなもの。親子分の契りとでも言いますか)となっており、朝雅はさらに時政と牧の方の娘を娶っています。姫の前は比企朝宗の娘なんですが、朝宗の系譜ははっきりせず、比企掃部允と比企尼の息子とも、掃部允の弟とも言われているようで、ともかく朝雅と時政・牧の方夫妻の娘の婚姻ともども、比企氏と北条氏を結びつけることを期待して頼朝は婚姻させたのだと推測されています。
 しかし僕はそれだけでなく、頼朝の個人的な思いが影響してるんではないかというのが個人的な推測でして、それが第2のツッコミへとつながっていくのです。

 その第2のツッコミですが、頼朝の2人目の妾の大進局と、頼朝と彼女の息子の貞暁が結局出てきませんでした。ずっと前からしつこく言ってきたんですが、やっぱ出てこねーのかよ。『草燃える』でもナレーションで触れられた程度だったらしいし……(ブツブツ)。
 大進局は常陸入道念西(藤原時長)という御家人の娘で、やはり頼朝の御所に勤める女房だった女性です。密かに頼朝の寵愛を受けて懐妊するも、政子がそれに気づき、危害を加えられることを恐れた頼朝は御家人の長門景遠宅に彼女を移して、大進局は1186年に景遠宅で息子を出産。政子の怒りが甚だしかったため、出産の儀式はすべて省略されたとのこと。やがて景遠が母子を保護していることが発覚し、政子の怒りを買ったため景遠は母子を連れて深沢の辺りに隠棲しなければならなくなったそうです。この年、政子は2人目の娘・三幡を産んでおり(そういやこの子も『13人』にまだ出てきてないな)、三幡の出産時期は不明なものの政子の妊娠期間に頼朝が大進局に手を付けた可能性も考えられますね。
 1191年になっても政子の怒りが収まらなかったため、頼朝は京に近い伊勢国の所領を大進局に与えて上洛させることとし、翌1192年に頼朝は上洛の前提として息子の乳母父を小野成綱、一品房昌寛、藤原重弘らに依頼するも、いずれも政子の怒りを恐れて辞退。結局、景遠の息子の長門景国が乳母父に任ぜられ、息子は仁和寺の隆暁の弟子として出家するために上洛。出発の前日の夜、頼朝は密かに邸を訪れて息子に太刀を与えています。政子が実朝を産む3ヶ月前のことでした。
 息子は出家後に能寛、次いで貞暁と名乗り高野山で修行して高僧となり、晩年には政子も貞暁に帰依して源氏一族の菩提を弔わせるために援助・出資を行なったとのことで、貞暁は父頼朝や異母弟実朝の供養に努めました。1231年、貞暁は母の大進局に先立って高野山で46歳で死去し、出家して禅尼となり摂津国で老後を送っていた大進局が深く嘆いた事が『明月記』に記されているそうです。
 母子に政子が激怒したにも関わらず、頼朝が貞暁と大進局を鎌倉に住まわ続けたのは、頼家にもしものことがあった場合に貞暁を後継者にするためだったんでしょう。しかし政子が(実朝を)妊娠したことで、(出産するまで男子とはわからなかったものの)男子が産まれることを願いつつ、母子を匿い続けることを断念したのだと思われます。もし産まれたのがまた女子で、頼家にもしものことがあった場合には京から呼び戻せばよいという考えがあったんでしょう。で、ここからが第1のツッコミと絡む個人的推測ですが、『吾妻鏡』によると1192年の5月に貞暁と大進局が上洛しており、9月に義時が頼朝の斡旋で姫の前と結婚しています。頼朝は自分が息子や愛妾と無念の別れをしなければならなかったことから、義弟の義時には思いを遂げさせてやろうという仏心を起こしたんじゃないかというのが僕の考え。10月には政子が実朝ともども産所から幕府に帰ってきており、その前に義時を結婚させてやったことにも頼朝の意図を感じますね。
 それにしてもドラマとしては、年代的に大進局と貞暁を出すなら主人公側が鎌倉幕府の作品しかないんだよな。平家は滅亡した後だし、義経は逃亡潜伏中、奥州藤原氏にとってもあまり関係のない出来事ですからね。『草燃える』には出てこなかったんで、次に頼朝が主人公になったらと思ってたのに。亀の前は年代的に登場時期が早く、『新・平家物語』や『義経』にも出てきたみたいなんだから、頼朝の妾を出すなら大進局と貞暁のほうを出してくれよ! とはいえ江口亀の前みたいな脚色をされちゃったら、それはそれでムカつくんだけれども。



#11214 
バラージ 2022/06/04 17:31
先月の鎌倉史 義経御謀反!

 なにやらマンガ日本の古典シリーズの『吾妻鏡』が大河効果で売れてるというニュースがちょっと前に出てましたね。竹宮惠子さんのこのマンガは面白いんで、売れてることはうれしい話。

 それにしても菅田将暉の義経、最初は『火の鳥 乱世編』にもろに影響を受けた「ワル経」だったのに、結局終盤は一周回って「良し経」になっちゃってたなあ。現代ビジネスの呉座氏の連載でも、頼朝と義経の決裂についてはくわしくは触れられなかったんで、こちらに私見も交えてくわしく書いちゃいましょうかね。ちなみにネットでは渡邊大門氏も「深読み「鎌倉殿の13人」」ってのを連載してます。ただ渡邊氏も呉座氏も中世史家とはいえ専門は室町~安土桃山で、源平合戦~鎌倉が専門分野ではないんだよな。専門分野にしてる人たちによるネットでの解説みたいなのは今のところ見当たりませんね。
 頼朝と義経の決裂については、梶原景時の讒言だとか頼朝が追い詰めたとか後白河法皇の策謀だとか源行家や平時忠が唆したとか、義経は悪くないと擁護するための弁護論が古くからいろいろ唱えられてきましたが、近年では義経自身が能動的に挙兵したとする説が有力です。
 梶原景時の讒言とされるものについては、景時個人の考えというより東国御家人の総意を代表したものと考えられ、畿内・西国の武士たちを率いた義経が電撃的に平家を滅ぼしてしまったため、範頼に従っていた東国御家人たちはわざわざ西国まで遠征しながら戦功をあげる機会を失ったことに不満が鬱積していたと考えられています。
 また5月に捕虜となった平宗盛らを連れて鎌倉に下った義経が、鎌倉に入ることを許されず酒匂に止められ、そこで有名な腰越状を書いたというエピソードですが、現在では腰越状はその文体や内容から偽文書であることが確実と見られています。また『愚管抄』では義経は鎌倉の館に赴いたとあり、延慶本『平家物語』でも義経は鎌倉で頼朝と対面した(が頼朝の態度が素っ気なかったため当惑した)とあることから、鎌倉に入ることが許されなかったという『吾妻鏡』の記述は疑わしいとされているようです。しかも翌6月に帰京する義経は、宗盛の他に鎌倉に抑留されていた弟の重衡も連行していっており、この時点で頼朝と義経が決裂していないのは明らか。
 義経が明確に謀反の意志を示したのは10月のこと。『玉葉』によると、11日に義経は後白河に、行家が頼朝に反乱を起こしたが止められなかったと報告。後白河はなお行家の挙兵を止めるよう指示するも、13日に義経がやはり止められなかったとした上で自分も行家の挙兵に同調したと述べ、理由として頼朝による伊予国の国務妨害・賜った平家没官領の没収・刺客が送られたとの確実な噂を挙げています。後白河は仰天し、それでもとにかく行家を止めろと命令するも、16日に義経がやはり止められず自らも挙兵するとした上で頼朝追討の宣旨を求め、宣旨が与えられないなら九州に下るとして、天皇・法皇・公家連中も同行させることを言外に匂わせます。恐慌状態に陥った後白河ら朝廷では翌17日に上級公家たちに在宅諮問をした上で、18日に頼朝追討宣旨を発給。諮問を受けた公家のうち『玉葉』の著者である九条兼実は罪のない頼朝に追討の宣旨を発するのは道理が合わないと反対するものの、後白河の意を受けた高階泰経の説得に押しきられました。
 ただ、義経が謀反の意志を明らかにしたのは10月というだけで、謀反の意志自体はもう少し前から固めていたでしょう。『吾妻鏡』には9月2日の段階で、5月20日に能登国へ流罪の判決が出ていた平時忠が、娘が義経の妾となったため未だに刑が執行されていないこと、義経が行家と組んで鎌倉に反逆しようとしているとの噂があることから、義経への不信が記されています。時忠は結局9月23日に能登国に赴きますが、同様に周防国へ流罪とされていた嫡男時実はついに刑が執行されず、義経の都落ちにも同行しており、この時点で義経が時忠・行家らと同盟していた可能性は高いと思われます。
 なお、頼朝に刺客として送り込まれたとされる土佐房昌俊ですが、登場するのは『吾妻鏡』『平家物語』だけで同時代史料には名前が見られません。同時代史料の『玉葉』によると、土佐房が義経を襲撃したとされる10月17日に義経を襲撃したのは、頼朝追討宣旨を求めたことを使い走りから聞いた頼朝家臣の武蔵国の児玉党としており、土佐房も鎌倉から派遣されたのではなく畿内周辺にいた人物で頼朝の意志とは関係ないとする説もあるようです。



#11213 
バラージ 2022/06/01 00:37
今週の鎌倉史 秀衡凡将論

 今週の『13人』、奥州合戦(奥州戦役)がものの見事にすっ飛ばされちゃったなあ。まあ、予想はしてたけど。奥州合戦はそれなりに大規模な戦役だったはずなんですが、大河ドラマでは、というより映画やテレビドラマではきちんと描かれたことがありません。総集編で観た『草燃える』や『炎立つ』でもさらっとしか描かれてなかったし、そもそも『草燃える』には奥州藤原氏が出てこなかったもんな。
 珍しかったのは、国衡・泰衡の弟の藤原頼衡という、よほどこの時代にくわしい人でも「あんた誰?」となる超マイナー人物が出てきたこと。この頼衡、秀衡の六男(末子)で、すぐ上の五男通衡ともども系図集『尊卑分脈』にしか登場しない人物です。他の作品で義経に味方しようとして殺されちゃうのは、だいたい三男忠衡の役回りなんですが、忠衡は実は義経より後に殺されてるんですよね(義経は4月、忠衡は6月)。義経ものなんかではそれをあえて前倒しして忠衡を先に殺させてるんですが(『義経記』では忠衡が先に殺されているようなので、その影響もあるのかも)、『13人』では史実に忠実にということなのか、そっちのほうが面白いでしょ?というノリなのか、義経より前(2月)に殺されたとされている頼衡を出してきたんでしょう。頼衡が殺された理由については『尊卑分脈』には記述がないんですが、忠衡同様に義経に味方したんで殺されたんだろうとの推測があるようです(ただし明確な根拠はない)。
 しかしこの頼衡、名前が出てくるのは『尊卑分脈』だけで、同時代史料はもちろん、『愚管抄』や『吾妻鏡』といった比較的信頼性の高い史料にも出てこないため、実在したかについてはかなりの疑問があります(五男通衡も同様)。『尊卑分脈』では頼衡の通称を「錦戸太郎」としてるんですが、これは長兄国衡の通称(西木戸太郎)のはず。六男なのに太郎というのも妙です。そこで思い出したんですが、南北朝から室町初期に成立した物語『義経記』では、国衡に相当する人物の名前を「錦戸太郎頼衡」としてるんですよね。『義経記』では秀衡の息子たち(泰衡の兄弟たち)の名前が甚だ適当で、史実と全然合ってなかったりします。『尊卑分脈』もまた南北朝から室町初期に成立しており、どちらがどちらに影響を与えたかはわかりませんが、おそらくは『義経記』、もしくはその原型となる説話類の記述が『尊卑分脈』に流入したんではないでしょうか。系図類にはこのような一面もあり、全面的に依拠するのは危険でもあります。
 それはそれとしても、この頼衡が出てきたから、わーい珍しい人が出てきたーと僕が喜ぶかといえば、もちろんそんなことはなく(笑)、むしろなんでこんなやつが?といったところ。むしろ出してほしいのは四男の高衡(隆衡)なんだよな。こちらは『吾妻鏡』ばかりか同時代史料の『玉葉』にも名前が出てくるれっきとした実在人物。死んだ兄3人と異なり、頼朝に降伏し、梶原景時に預けられて、その後大きな事件に絡むんですが、これまた今まで映像作品に出てきたことがありません。まあ、今回もどうせ出てこねーだろ。この高衡(隆衡)についても、その時になったらまた触れることにしましょうか。

 さて、ここからがようやく本題。一般的に源平合戦時代の奥州藤原氏については、最盛期を築き、義経を保護した三代秀衡は名将・知将だが、義経を殺し、奥州藤原氏を滅ぼしてしまった四代泰衡は無能な凡将・愚将とされることが多い。しかし冷静かつ客観的な視点で見た場合、秀衡の取った行動や方針ははたして本当にすぐれたものだったのか疑問なところがあります。
 これはずっと昔から思ってたんですが、なぜ秀衡は頼朝が奥羽以外の全国を平定するまで何の行動も起こさなかったのか? 非常に疑問を感じるんですよね。もっと早く、平家や木曽義仲が勢力を保ってるうちに動くべきだろうと。天下を争うつもりならその争いに割って入るべきだし、そのつもりがないならいずれかの勢力に協力してよしみを通じるべき。どの勢力にも与せず中立を保ったという言い方をされることも多いんですが、むしろ曖昧な態度に終始し手をこまねいて事態を傍観していたという見方もできます。
 この秀衡の行動を見ていて思い浮かぶのは、『三国志』の劉表。袁紹と曹操が天下分け目の決戦をしている最中に、ただ事態を傍観して、勝ち残った曹操に結局滅ぼされてしまった劉表は、愚将とは言えないまでも『三国志』を代表する凡将でしょう。家臣に「曹操と袁紹が対峙している今、天下を狙うなら両者の疲弊に乗じて挙兵すべきだし、そうでなければどちらかに服属すべき。十万の兵を擁しながら応援も和睦もせず、このままの状態を続けるなら彼らの怨みを買い、中立は守り通せません」と進言を受けたものの、優柔不断な劉表は決断できず、結局家臣の言う通りになってしまいました。正確には曹操が南征の軍を起こすのと前後して劉表は病死し、後を継いだ劉琮が曹操に降伏したわけですが、そういうところまで秀衡と劉表はそっくりです。
 もちろん秀衡が動かなかったことには、彼の優柔不断以外の理由も考えられます。頼朝が後白河ら朝廷の上洛要請に対して、秀衡の脅威を理由としてしばしば断っているように、秀衡の側も頼朝が鎌倉を動かない以上、迂闊には動けなかったという可能性はあるでしょう。秀衡には大規模な合戦の経験がなく、頼朝軍相手に戦って勝てるのか自信がなかったとも考えられます。その場合、「動かなかった」ではなく「動けなかった」ということになる。そうであればそれはやむを得ざる結果であって、やはりそれをもって秀衡を名将・知将とすることは難しい。
 平家滅亡・義経都落ち後の頼朝と秀衡の交渉を見ても、秀衡はしたたかに粘り強く交渉し、譲歩しなかったとする見方もありますが、公平に見れば全体的に秀衡が押され気味なのは明らかです。それも当然で、両者の国力・兵力は圧倒的に頼朝のほうが大きくなっており、どう考えても秀衡のほうが不利な立場であることは否定できない。秀衡死後の奥州合戦にしても、両者の兵力差を考えれば、秀衡が生きていようが、義経が生きていようが結果はたいして変わらなかったと思われます。
 『吾妻鏡』には、秀衡は死に際して泰衡らに義経を大将軍とするように遺言したとあり、『玉葉』には秀衡が自分の死後、妻を国衡に娶らせ、泰衡と疑似父子関係としたとの噂が記されてます。後者についてはあくまで噂で、にわかには信じがたいんですが、事実だとすれば泰衡は奥州藤原氏当主でありながら義経を主君、国衡を義父としたわけで、かなり錯綜とした人間関係はむしろ混乱をもたらした可能性もあります。
 以上の状況を引き継いだ中では、泰衡はそれなりにがんばったほうなんではないでしょうか。義経の引き渡しも1年以上に渡って拒み続けましたし、合戦に持ち込んでも勝てない可能性が高い以上、奥州藤原氏存続のためにベストは尽くしたと評価できるんじゃないかと思われます。もちろん泰衡を名将・知将と評価するつもりはないけれど、彼なりにやれることはやったと評価してもいいんじゃないかなあ。



#11212 
バラージ 2022/05/28 21:53
今週の鎌倉史 よくわからない静御前

 義経の愛妾として有名な静御前ですが、案外確かなことはよくわからない人物だったりします。それは彼女のことが記されている史料の性格によるところが大きく、実は静について記されている史料って、ほとんど『吾妻鏡』だけなんですよね。貴族たちの日記のような同時代史料はもちろん、承久の乱直前に書かれたとされる慈円の『愚管抄』にも名は見えず、『平家物語』への登場も思いの外ごくわずかに過ぎません。室町期に成立したとされる『義経記』にはたくさん出てきますが、これは史料としては全然役に立ちませんし。
 てなわけで『吾妻鏡』というほとんど唯一の史料からしか静の実像はうかがい知れないんですが、『吾妻鏡』における静のエピソードそのものに物語的な脚色や、北条得宗家顕彰・擁護のための曲筆が加えられていることも考えられ、それがますます彼女の実像をわかりにくくしています。また脚色が加わっていなかったとしても、静と義経の関係については静自身の証言に頼る以外なく、客観的な裏付けに欠けている。静がなんらかの嘘をついていたとしても誰もわからないわけですし、嘘はついてなくとも彼女の主観から来る思い込みや事実誤認などがある可能性もあり、どこまでが信用できるのかはかなり慎重に判断すべきところがあるように思います。
 なお、『13人』では静は自分が静であることを最初否定していましたが、史実では京で鎌倉方に訊問された時点で、というよりそれ以前に大和国の吉野山に落ち延びてきたところを僧兵たちに訊問された時点で自らの素性を話しちゃってるんで、あの描写は全くのフィクション。また少し後に義経の母の常盤御前と異父妹(常盤と一条長成の娘)も京で捕らえられ訊問を受けてますが、鎌倉には送られなかったようです。訊問だけならわざわざ鎌倉に送らなくとも京で十分だったはずで、静が鎌倉に送られたのは義経の子を妊娠してることが明らかだったからでしょう。



#11211 
バラージ 2022/05/26 23:05
ウィンブルドン迷走中

 現在、テニスの全仏オープンが開催中ですが、1ヶ月後に始まるウィンブルドン選手権にゴタゴタが発生。主催者のAELTC(オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ)とLTA(イギリステニス協会)がロシアとベラルーシの選手の排除を発表し、ジョコビッチやナダル、マレー(現役テニス界の歴史的レジェンド中のレジェンド・ビッグ4の中の3人)をはじめとする多くの選手たちがこれを非難する事態となっています。
 テニス界では基本的にあまり国籍は関係なく、個人として戦う個人戦の傾向が強い競技。それでもロシアとベラルーシで開催される大会はすべて中止され、国別対抗戦(男子のデビスカップ、女子のフェドカップ)へのロシアとベラルーシの出場も禁止、個人戦においても国籍なしの個人としての出場に限られています。しかし今回の決定は出場そのものを禁止するというもので、さすがに批判が多い。これを受けて、ATP(男子プロテニス協会)・WTA(女子テニス協会)・ITF(国際テニス連盟)は公平性を保つため、今年のウィンブルドンではすべての選手に、勝ち上がりに応じて与えられるランキングポイントを付与しないとの決定を下しました。大まかに言って選手たちは賞金と、ランキングを決定するポイントを得るために各大会に出場しており、大坂なおみは「ポイントが得られないならエキシビションのようなもの。モチベーションが上がらない」と欠場も考慮していると発言しており、他にも欠場する選手が多数出てくる可能性があります。はてさてどうなることやら。

>『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』
 NHK-BSで放送中ですが、1ヶ月から1ヶ月半の間隔で2回連続放送みたいで、次回の70年代編と80年代編は来月放送です。映画から見る社会風俗の移り変わりが非常に面白い。こういうの大好き。
 取り上げられた映画(&テレビドラマ)は、戦後~50年代編が、『赤い河』(1948年)、『アイ・ラブ・ルーシー』(1951-57年)、『真昼の決闘』(1952年)、『宇宙戦争』(1953年)、『紳士は金髪がお好き』(1953年)、『百万長者と結婚する方法』(1953年)、『ローマの休日』(1953年)、『裏窓』(1954年)、『パパは何でも知っている』(1949-54年)、『暴力教室』(1955年)、『七年目の浮気』(1955年)、『理由なき反抗』(1955年)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年)、『うちのママは世界一』(1958-66年)、『お熱いのがお好き』(1959年)。
 60年代編が、『サイコ』(1960年)、『アラモ』(1960年)、『ウエスト・サイド物語』(1961年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『アラバマ物語』(1962年)、『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964年)、『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)、『俺たちに明日はない』(1967年)、『卒業』(1967年)、『猿の惑星』(1968年)、『真夜中のカーボーイ』(1969年)。
 あくまでサブカルチャーから米国社会の変遷を追うのが主眼なんで、映画史的に重要な作品でも取り上げられてない映画もあります。

>観てない歴史映像作品 第二次世界大戦・欧州戦線編②
 後編は東部戦線編。

『戦場のピアニスト』……2002年のフランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画。監督はロマン・ポランスキー。主演はエイドリアン・ブロディ。ドイツ軍侵攻によるナチス・ドイツ占領下のポーランドで生き延びたユダヤ系ポーランド人ピアニストのウワディスワフ・シュピルマンの自伝の映画化。
『ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦』……1989年のフィンランド映画。1939年から40年のフィンランドとソ連の冬戦争(第一次ソ・フィン戦争)を描いた作品で、日本では135分の短縮版がDVDスルーされた後、197分のオリジナルバージョンがデジタルリマスター化され劇場公開、Blu-ray&DVD化されました。
『アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場』……2017年のフィンランド映画。1941年からの継続戦争(第二次ソ・フィン戦争)を描いた1954年の小説『無名戦士』の数度目の映像化とのこと。過去の映画化作品には『地獄の最前線』(1955年。日本では劇場公開のみ)、『若き兵士たち 栄光なき戦場』(1985年。日本ではビデオ化のみ)などがあるようです。
『ブレスト要塞大攻防戦』……2010年のロシア・ベラルーシ合作映画。ドイツ軍によるソ連への奇襲侵攻バルバロッサ作戦序盤におけるソ連ブレスト要塞での攻防戦を描いた作品。
『レニングラード攻防戦』……1974年のソ連映画。レニングラードを包囲攻撃するドイツ軍とソ連軍の900日に渡る戦いを描いた、ソ連お得意の物量作戦長編戦争映画。5時間50分にも及ぶ全4部からなる作品で、日本では第1部と第2部を1本にまとめて『レニングラード攻防戦』の邦題で公開しましたが、さすがにこの手の映画も飽きられたのか第3部と第4部はやはりまとめられて『レニングラード攻防戦 II 攻防900日』の邦題でビデオスルーになったようです。
『レニングラード 900日の大包囲戦』(原題:Leningrad)……2009年のイギリス・ロシア合作映画。主演はミラ・ソルヴィーノ。空襲で負傷したために、包囲されたレニングラードに取り残されたイギリス人女性記者を主人公とした作品。その他のレニングラード攻防戦を題材としたDVD化されている映画には、『レニングラード大攻防1941』(1985年、ソ連)、『脱走特急』(2019年、ロシア)、『セイビング・レニングラード 奇跡の脱出作戦』(2019年、ロシア)などがあります。
『モスクワ大攻防戦』……1985年のソ連・東ドイツ合作映画。バルバロッサ作戦開始からモスクワ攻防戦までを描いた、これまた5時間50分に及ぶ2部作の物量作戦長編戦争映画で、邦題はまたまた「攻防戦」(笑)。さすがにこういうのはもういいだろってことか日本ではビデオスルー(サブタイトル「第1部・侵略」「第2部・台風」)になったようです。その他のモスクワ攻防戦を題材としたDVD化されている映画には、『パトリオット・ウォー ナチス戦車部隊に挑んだ28人』(2016年、ロシア)、『1941 モスクワ攻防戦80年目の真実』(2020年、ロシア)など。
『ロシアン・スナイパー』……2015年のロシア・ウクライナ合作映画。第二次世界大戦中に309人のナチス・ドイツ兵を射殺したソ連の女性狙撃兵リュドミラ・パブリチェンコを主人公とした作品。
『ロシアン・ソルジャー 戦場に消えた18歳の少女兵士』……2021年のロシア映画。第二次世界大戦初期にドイツ軍と戦ったソ連のパルチザン女性のゾーヤ・コスモデミヤンスカヤを主人公とした作品。
『壮烈第六軍!最後の戦線』……1959年の西ドイツ映画。スターリングラードに突入したドイツ軍がソ連軍に敗れ降伏するまでをドイツ軍将校の視点から描いた作品。
『スターリングラード』……1993年のドイツ・米国合作映画。東西統一後のドイツで初めて作られたスターリングラード攻防戦を題材とした映画で、戦場の悲惨さをこれでもかと描いてるらしい。その他のスターリングラード攻防戦を題材としたDVD化されている映画には、『スターリングラード 史上最大の市街戦』(2014年、ロシア映画)、『スターリングラード大進撃 ヒトラーの蒼き野望』(2015年、ロシア)など。
『炎628』……1985年のソ連映画。1943年のソ連ベラルーシのハティニ村でドイツ軍が村民を虐殺したハティニ虐殺事件を題材とした小説の映画化。
『僕の村は戦場だった』……1962年のソ連映画。監督はアンドレイ・タルコフスキー。ドイツ軍の侵攻で両親を失った12才の少年が、憎しみに燃えてソ連軍の偵察兵として志願し、かたくななまでに戦場に赴いて、敵軍潜入の末に命を落とすまでをみずみずしい映像で描いたタルコフスキーの初監督作。
『戦火のナージャ』『遥かなる勝利へ』……2010年と2011年のロシア映画。第二次大戦下のソ連の戦場における3人の男女の愛憎劇と父娘愛を描いた大河ドラマで、監督・主演はニキータ・ミハルコフ。同監督が1936年のスターリン大粛清時代を描いた1994年の映画『太陽に灼かれて』の続編2部作なんですが、前作の7年後が舞台なのに実際には16年も経っているため、劇中でも娘役を演じていたミハルコフの娘ナージャ・ミハルコワが辻褄が合わないほどに成長してしまいました(笑)。
『ネレトバの戦い』……1969年のユーゴスラビア・西ドイツ・イタリア合作映画。ユーゴスラビアがチトー大統領直々の命令で国家的規模で製作した作品で、ユーゴパルチザンが独・伊・クロアチア独立国ウスタシャ・セルビア王党派チェトニク連合軍を打ち破った1943年のネレトバの戦いを描いています。ユル・ブリンナー、オーソン・ウェルズ、フランコ・ネロ、セルゲイ・ボンダルチュク、クルト・ユルゲンスなど国際的超豪華キャスト。
『地下水道』……1956年のポーランド映画。監督はアンジェイ・ワイダ。1944年のワルシャワ蜂起に失敗し、地下水道に逃げ込んだレジスタンスたちを描いた作品で、ワイダの「抵抗三部作」の2作目。その他のワルシャワ蜂起を題材としたDVD化されている映画には、『リベリオン ワルシャワ大攻防戦』(2014年、ポーランド)など。
『続・ヨーロッパの解放』……1977年のソ連映画。『ヨーロッパの解放』の続編的な、これまた5時間20分に渡る物量作戦長編戦争映画です。やはり日本では劇場公開されず、ビデオ&LD化はされましたがDVD化もされていません。「第1部・ワルシャワ大攻防戦」「第2部・カルパチア大突破作戦」という2部作で、前作では描かれなかった1944~45年の東欧での反攻戦を描いているとのこと。

>観てない歴史映像作品の追記
・ロシア史
『AK-47 最強の銃 誕生の秘密』……2020年のロシア映画。第二次大戦中にミハイル・カラシニコフが、歴史上最も大量に製造されたアサルトライフル「AK-47」を開発するまでを描いた伝記映画。原題はまんま『カラシニコフ』で、そっちのほうが有名な気もするんだけど、なぜかこんな邦題に。まあ邦題も悪くはないんだけどね。

・ポーランド史
『世代』……1954年のポーランド映画。監督はアンジェイ・ワイダ。第二次大戦中、ドイツ軍占領下のポーランドでのレジスタンス活動を描いたワイダの「抵抗三部作」の第1作(3作目は『灰とダイヤモンド』)。



#11210 
バラージ 2022/05/23 02:00
今週の鎌倉史 源義経をめぐるマイナーな人々

 今週の『13人』で気に食わなかったこと(いやまあ基本的には毎週気に食わないんだが)。
・大進局が出てこない。だから(後の)貞暁も出てこない。
・藤原泰衡が凡庸で、役者もマイナーな知らん人。
・義経の妻(河越重頼の娘。郷御前)が憎まれ役。

 義経の妻、結局静御前の引き立て役かよ。いや役者的には演技力が必要とされる見せ所のある役だったんだろうけど、歴史上の人物的にはなあ。今までの大河でもろくな描かれ方がされてないような気が(#10651、#10654、#10867参照)。
 『源義経』では平泉で義経と最期を共にするのは平時忠の娘のほうで、河越重頼の娘は頼朝に送り込まれたのに義経に拒否られて鎌倉に送り返されちゃう役どころ。『吾妻鏡』では平泉で義経と死んだ妻についての素性が記されていないため、それを平時忠の娘とする余地もあることはあるんですよね。確か一昔前の歴史本にもそんな記述がしてある本もあったような。ただ、直前に政略結婚したばかりの平時忠の娘を平泉まで連れていくとは思えないし、それだと河越重頼・重房父子が義経逃亡中に粛清されたことの説明もつかないため、やはり義経と最期を共にしたのは河越重頼の娘だろうとするのが現在では一般的。
 『草燃える』でも出てきたことは出てきたみたいですが記憶になし。そもそも義経の死が直接的には描かれてないんですよね。『炎立つ』では固有名詞のない「義経の妻」という役名で登場。義経北行説をとってる作品ですが、妻はその前に死んじゃうみたい。『義経』は『源義経』から資料提供を受けた作品のためか、頼朝と義経が手切れとなるとやっぱり鎌倉に送り返されてしまいます。平時忠の娘も登場せず、義経は平泉に奥さんも子供も連れていってませんでした。というか『草燃える』『炎立つ』『義経』の義経の妻がはたして河越重頼の娘なのかどうかも実ははっきりとはわからないんだよな。まあ多分そうだろうってだけでして。
 結局、一番マシな描かれ方してたのは新大型時代劇『武蔵坊弁慶』かな。なぜか手裏剣みたいなのを投げて奥州藤原軍の追手と戦ったりしておりました(笑)。最後もちゃんと義経と自害するし、郷御前ファンはこれを観るべきかもですね。でもこれも河越重頼の娘なのかどうかはっきりとはわからないんだよなあ。

 なぜわからないかというと、そもそも河越重頼が出てきた大河が『源義経』だけだから。重頼は頼朝にとっても義経にとってもかなり重要な人物のはずなんですが、『草燃える』にも『義経』にも『13人』にもなぜか出てこないんだよな。その妻(比企掃部允と比企尼の次女)のほうは『草燃える』だけに出てきたようですが、『義経』と『13人』にはどっちも出てこない。さらに嫡子の河越重房(郷御前の兄弟)にいたっては登場作品なし。なんでだよ。重頼・重房は義経らの義仲討伐戦や一ノ谷の戦いにも従軍してるんですけどねえ。重頼・重房は前記の通り義経逃亡中に粛清されてしまうんですが、郷御前が義経と共に逃亡したためだろうと推測されています。しかしそれだけで父子そろって誅殺されてしまうというのはいくらなんでも厳しすぎる。『吾妻鏡』には書かれていませんが、おそらく義経に通謀したという嫌疑がかけられたか、実際に逃亡中の義経と通謀したんではないでしょうか。なお、『源義経』『草燃える』の総集編は観たんですが、それぞれ重頼・妻(比企尼の次女)が出ていたかはわからず。

 ついでに義経関係者についてまとめて。平時忠の娘は『源義経』の他に『新・平家物語』に登場してますが、『新・平家』は平家滅亡と大原御幸で終わってるようなんで義経とは関係ないでしょう。時忠自身は有名人のため『源義経』『新・平家物語』『草燃える』『義経』『平清盛』とたくさん出ています。『平清盛』での時忠は題材的に当然ながら義経と接点はありませんでしたが、『新・平家』『草燃える』『義経』では何か絡んでたかな? どれも総集編は観たんだけど、やはりもう覚えていません。義経都落ちに同行して捕えられた嫡子の平時実はやはり『源義経』『新・平家物語』のみに登場したようですが、当然ながら出てたかどうか記憶にありません。
 もう1人、義経とはあまり関係ないけど、ちょっと面白い人物として時忠の次男に平時家という人がいます。やっぱり登場作品はないんですが、平清盛による治承3年(1179年)の政変の際に日頃折り合いの悪かった時忠の後妻の藤原領子に讒言され、上総国に流罪にされてしまいなす。ところがそこで上総広常の娘婿となり、頼朝の挙兵に広常が参戦すると、広常の推薦で頼朝に仕えることになって、そのまま頼朝に重用され、広常粛清や平家滅亡後も1193年に死ぬまで天寿を全うしたそうです。人生何が幸いするかわからないもんですね。

 それから義経の異父弟の一条能成。義経の母の常盤と再婚した一条長成の嫡子です。やはり義経の都落ちに同行して捕えられており、異父兄の義経とは相当親しかったと思われます。しかし登場したのは『源義経』と『武蔵坊弁慶』だけ。どっちも総集編にはほとんど(もしくは全く)出ていなかったと思います。また一条長成と常盤には娘もいましたが、この義経の異父妹も登場作品はありません。義経の娘婿とされる源有綱(伊豆有綱)は妹婿とする説もあるようで、この異父妹を妻としたのではないかという説もあり。大河では『新・平家物語』にのみ登場しているようですが、出てたかどうか記憶になし。

 大進局と藤原泰衡や奥州藤原氏についてはまたの機会に。



#11209 
バラージ 2022/05/21 22:19
またまた

 僕の書き込みばかり続いちゃって申し訳ない。今年の大河は好きな時代だけにいろいろと書き込みたくて、その他の話題も書き込むとどうしても投稿が多くなってしまいます。観てない歴史映像作品の話も終わりまでもう一息。

>観てない歴史映像作品 第二次世界大戦・欧州戦線編①
 第二次大戦の戦争映画は、当然ながら第一次大戦よりもさらに多いですね。というわけで今回はさらに厳選した西部戦線編。

『戦艦シュペー号の最後』(原題:The Battle of The River Plate)……1956年のイギリス映画。開戦当初から通商破壊戦に従事し、1939年のラプラタ沖海戦で損傷を受けて自沈したドイツの装甲艦(ポケット戦艦)アドミラル・グラフ・シュペーを描いた作品。
『U47出撃せよ』……1958年の西ドイツ・オーストリア合作映画。1939年にスカパ・フローでイギリス戦艦ロイヤル・オークを撃沈したUボートU47とその艦長ギュンター・プリーンが、1941年に消息を絶つまでを描いた作品。反戦・反ナチ的な脚色がされているとのこと。
『エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略』……2015年のデンマーク映画。1940年のヴェーザー演習作戦のうち、わずか6時間で終わったというドイツ軍のデンマーク侵攻を描いた作品。この手のマイナー戦争映画の常でやたら大仰な邦題が付いてますが、自転車部隊隊員たちの攻防戦を描いているとのことで、かなり地味な映画みたい。
『戦場の小さな天使たち』(原題:Hope and Glory)……1987年のイギリス映画。監督はジョン・ブアマン。ロンドン空襲下のイギリスを舞台に、無邪気にたくましく生きていく子供たちの姿を描いたブアマン監督の自伝的作品とのこと。
『ビスマルク号を撃沈せよ!』(原題:Sink the Bismarck!)……1960年の米国映画。イギリス海軍が1941年にドイツ最大の戦艦ビスマルクと交戦し、戦艦フッドを沈められるなどの損害を受けながら、追撃戦の末に最終的に撃沈するまでを描いた作品。
『撃墜王 アフリカの星』……1957年の西ドイツ映画。北アフリカ戦線で“アフリカの星”と呼ばれたドイツ軍の撃墜王ハンス・ヨアヒム・マルセイユの半生を描いた反戦メロドラマ映画。
『コレリ大尉のマンドリン』(原題:Captain Corelli's Mandolin)……2001年の米国映画。独伊軍に侵攻されたギリシアのケファロニア島を舞台に、マンドリンを愛するイタリア軍の陽気なコレリ大尉と医師を目指す島の娘の恋を、1943年に降伏したイタリア兵がドイツ軍により虐殺された事件を絡めて描いたドラマ映画。出演はニコラス・ケイジ、ペネロペ・クルス、ジョン・ハート、クリスチャン・ベールなど。
『メンフィス・ベル』(原題:Memphis Bell)……1990年の米国映画。1943年、ドイツ爆撃を任務としてイギリスに駐留していた米軍の爆撃機B-17“メンフィス・ベル”の10人の若き乗組員を描いた作品。出演はマシュー・モディン、エリック・ストルツなど。
『無防備都市』……1945年のイタリア映画。監督はロベルト・ロッセリーニ。大戦終結直後に作られた作品で、大戦末期のローマを舞台に、無条件降伏した同盟国イタリアを軍事占領したナチス・ドイツに対するレジスタンスの抵抗を描き、ネオレアリズモの原点にして代表作となった作品。1946年の第1回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。
『戦火のかなた』……1946年のイタリア映画。監督はロベルト・ロッセリーニ。素人俳優を起用したネオレアリズモ作品で、1943年7月の連合軍のシチリア島上陸から、1944年冬のイタリア解放までを舞台とした6つのエピソードからなるオムニバス映画。
『アンツィオ大作戦』(原題:Anzio!)……1968年の米国・イタリア・フランス・スペイン合作映画。1944年の連合軍によるイタリア半島アンツィオへの上陸作戦からローマ解放までを舞台に、戦場特派員の従軍記者を主人公とした、やや小振りな戦争映画とのこと。
『セントアンナの奇跡』(原題:Miracle at St. Anna)……2008年の米国・イタリア合作映画。監督はスパイク・リー。1944年のイタリア戦線を舞台に、トスカーナ地方に送られた米軍黒人部隊“バッファロー・ソルジャー”の史実をヒントとした小説を映画化した作品とのこと。
『ドレスデン、運命の日』……2006年のドイツのTVムービー。日本では劇場公開されました。大戦末期の1945年2月に行われたドレスデン爆撃の悲劇を描いた作品で、ナチズムに対する反省から加害者としての視点の作品が多かったドイツでは珍しく、加害・被害を超えた戦争の悲劇を描いた作品とのこと。
『レマゲン鉄橋』(原題:The Bridge at Remagen)……1968年の米国映画。1945年3月に行われた、ライン川を渡河するためのレマゲン橋をめぐる米軍とドイツ軍の戦いを描いた戦争アクション。
『橋』……1959年の西ドイツ映画。大戦末期、中部ドイツのある町で徴兵され、町外れの橋を守るよう命令された7人の少年兵たちの実話を基にした作品。
『ザ・ラストUボート』……1993年の日本・ドイツ・米国・オーストリア合作の単発ドラマ。NHKが国際共同制作した作品で、正月ドラマスペシャルとして放送されたとか。DVD邦題は『ラストUボート』。大戦末期にUボートU234が原爆の原料やジェット機設計図などの極秘資材と2人の日本人将校を載せ、日本へと向かった史実を題材とした作品。日本からは小林薫などが出演しています。



#11208 
バラージ 2022/05/20 21:58
史点など

 今週の現代ビジネスの呉座氏の連載コラムを読んだら、内容的には屋島・壇ノ浦という先週の部分だけ。頼朝と義経の決裂を描いた今週の『13人』については次回にまとめて書くのかな? 壇ノ浦までで追記すると、前回書いた伊勢・伊賀平氏の乱についてくらいしかないんですよね。というわけで今週の鎌倉史はまあいいか。義経関係は来週か再来週にまとめて書いちゃおう。

>史点その1 ウクライナとアフガニスタン
 「もっとも過激な反ユダヤ主義者はたいていユダヤ人」というのはさすがに無茶苦茶な言い分ですが、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督のドイツ映画『ハンナ・アーレント』でも描かれてたように、ユダヤ人ゲットーの評議会指導者のようなホロコーストに協力したユダヤ人はいた模様です。どこにでもいるいわゆる“漢奸”みたいなやつですが、映画の中でもイスラエルに住むユダヤ人からそれには触れないでくれと懇願され、アーレントが事実は曲げられないと突っぱねるシーンもありました。確かホロコーストを描いたアンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画『コルチャック先生』でも、そのようなユダヤ人ゲットーの指導者が描かれてた記憶があります。
 フィンランドとスウェーデンのNATO加盟にトルコが反対してるという話。この2国がNATOに加盟するとすればまさに歴史的な大転換なわけですが、さらにはスイスにもそういう話が出てきてまさにそれ以上の歴史的大転換。思えば僕が中高生だった東西冷戦時代のNATOからいつの間にやら大幅に拡大し、あの頃はワルシャワ条約機構(懐かしー)だった東欧諸国も軒並み加盟国になってしまいました。しかしこれだけ大所帯になると利害調整が大変になるのも当然のことで、昨今国連の機能不全がよく言われますが、NATOも機能不全に陥りかねない。実際エルドアン大統領のこれまでの言動からいってそう簡単に2国の加盟を承認するとも思えず、交渉は難航しそうな気がします。バイデン大統領は「状況を楽観視している」などといささか呑気なことを言ってましたが、正直バイデンを見てるとかなりの外交音痴としか思えない。もともと大統領が共和党だろうと民主党だろうと、米国という国自体がいささか外交音痴なところがあるように思うんですが、アフガニスタン撤退の無様な結末を見ても特にバイデンは外交・外政が不得意なように思えちゃうんですよね。
 外交だけでなく全体的にもバイデンは危惧した通りパッとしない大統領で、支持率も当然ながら低迷中(ついでに言うとイギリスのジョンソン首相もフランスのマクロン大統領も西側の大国の指導者はみんな支持率低迷中なんだよな。ジョンソンはコロナ下の失態もあったし、マクロンなんて極右のルペンに大統領選挙で僅差に迫られちゃってたし。唯一支持率の高かったドイツのメルケル首相は退任しちゃいましたしねえ)。結局バイデン自身が支持されたというより、トランプ以外の誰かという一点で支持された人なので、そういう人はたとえ仮に支持率という数字があったとしても、本当の意味での強固な支持は得られない。そんな中でTwitter社を買収したイーロン・マスクがトランプのアカウントの凍結を解除するとか言い出し、トランプがますます勢いづく可能性が出てきました(ご本人は自分で作ったTwitterのパクりSNSを使うから戻らないと言ってますが)。トランプが大統領の座を去った時に僕は「トランプがいなくなってもトランプ的なものは残る」と書いたような気がしますが、これはトランプ氏の復権も決して夢物語ではなくなってきたような気がします。
 そしてロシア・ウクライナ戦争(正式名称が今だにわからないので仮にこう呼ぶ)も、このままではひょっとしたらアフガニスタン紛争(ソ連が侵攻したやつ)やベトナム戦争みたいに10年以上に渡って長期化する可能性さえ出てきたような。最終的にはウクライナが勝つだろうとは思いますが……。ウクライナのアゾフ連隊については、実際にネオナチでロシアの侵攻の是非は別として単純なロシアのプロパガンダと捉えるべきではないとか、いやかつては確かにネオナチだったが現在ではそのような傾向は無くなっているとか、いろいろ言われてるようですが、どちらにしろもう少しくわしく分析する必要はあるんじゃないかと。ネオナチとする立場からは、かつてソ連の侵攻に対抗してアフガニスタンのムジャヒディンを支援したらソ連が撤退して政権を獲得したのはタリバンだったということの二の舞になりかねないとの警鐘が唱えられていて、一聴には値する問題提起ではあるだろうという気がします。逆にネオナチでないならないで、それを詳細な分析で明らかにしておくに越したことはありませんし。

>史点その2 北アイルランド
 IRAというのも何やら懐かしい名称となりましたね。90年代には『クライング・ゲーム』とか『デビル』とか『ナッシング・パーソナル』といった北アイルランド紛争を題材とした映画が数多く公開されてました(『マイケル・コリンズ』も90年代だったな)。そんな中、3年ほど前に久しぶりにIRA(厳密には日本公開版ではIRAではないんですが)を題材とした映画を観まして、それがジャッキー・チェンとピアーズ・ブロスナンが主演した英中合作映画『ザ・フォーリナー 復讐者』。感想は映画板#1759に書いたんですが、その時に書き漏らしたことをこちらで。
 映画はロンドンを舞台に、IRAの爆破テロで娘を失った中国移民でなおかつベトナム戦争では米軍特殊部隊員だった男、元IRAの北アイルランド副首相、テロに走ったIRA過激派分子たちの三つ巴の戦いを描いてるんですが、そのIRAが中国&日本公開版ではUDIという架空の組織に変えられていて、それがファンの間でちょっと話題になってたんですよね。なんで国際版と変えたんだ。中国当局の検閲か?と。ただ僕なんかは、あれ? 北アイルランド紛争ってもうとっくに和平が成立してたんじゃなかったっけ? そういやIRAのテロのニュースも最近は全然見ないしなぁと思って調べてみたら、やっぱりその通りでした。なんでIRAの絡んだ話かというと原作小説が出版されたのが1992年だったからで、映画はその原作にわりと忠実に映画化したようですが、舞台は出版当時ではなく映画製作当時にそのまま移してきたようで(劇中でも特に年代の描写はなく、明らかに「現在」が舞台になっている)、それでこんな“ズレ”が起こっちゃったみたい。なのでむしろ架空の組織にしちゃった中国&日本公開版のほうが現実に即してるとも言えるんですが、それにしてもイギリスやアイルランドで公開された時に問題になったりしなかったんだろうか? それともどうせジャッキーやブロスナンの娯楽映画なんだから堅いこと言わなくてもいいだろとお目こぼしをもらったのかな?

>史点その3 フィリピン
 これまた懐かしいですねえ。アキノ(妻)大統領による政変と、マルコス前大統領とイメルダ夫人の亡命は僕も当時ニュースで観てました。その前のアキノ(夫)議員の暗殺はリアルタイムではなく後になってから知った記憶ですが。その2人の息子たちが大統領になっちゃうんだから、もう歴史も一回りといったところか。前任者のドゥテルテもずいぶん無茶な人だったけど、果たしてどうなることやら。あれ? そういえばパッキャオも大統領選挙に出るとか言ってなかったっけ?と思ったら、全然得票を取れなかったようで。一時はかなり話題になってて、ボクシングチャンピオン大統領か?みたいな感じだったのに、やっぱり国民もボクシングと政治は別と冷めた感じだったのかな?


>観てない歴史映像作品 アメリカ合衆国史編の追記
『ロング・ウォーク・ホーム』(原題:The Long Walk Home)……1990年の米国映画。ビデオ&LD化はされましたがDVD化はされていません。1955年にアラバマ州で黒人女性ローザ・パークスがバスの白人専用席に座った事から逮捕されたモンゴメリー・バス・ボイコット事件を背景とした作品。主演はウーピー・ゴールドバーグとシシー・スペイセク。

>名画座訂正情報
『ヨーロッパの解放』……正確には全5部作で、日本では第1部と第2部、第4部と第5部をそれぞれ1本にまとめて公開したようです。



#11207 
バラージ 2022/05/14 19:43
映画などから見る米国史

 NHK-BSで放送中の『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』という番組を観てるんですが、これがなかなか面白い。第二次大戦後の1940年代後半&50年代から10年ごとの、米国の映画やテレビドラマ・流行や社会風俗などのサブカルチャーを通して米国社会の変遷を描き出していくドキュメンタリー番組です。米国からの買い付け番組なのかな? 全8回放送の予定とのこと。


>鎌倉史追記 平家分裂
 今週の『13人』で平家が滅亡しましたが、やはりお話が義時の死まで行かなきゃならないためか源平合戦はダイジェスト気味。平家の登場人物もほんのわずかで、カットされちゃった人も多い。そんなわけで鎌倉と関係がありながら『13人』には登場しなかった平家の人物について書いちゃおうかな。

 まずは平頼盛。清盛の異母弟で、忠盛の妻(正室)池禅尼の息子です。大河『平清盛』でも描かれてましたが、清盛との関係は終生微妙なものでした。清盛死後、義仲が北陸から上洛してくると、宗盛は「弓矢の道は捨てた」と渋る頼盛を他の一族とともに迎撃に向かわせたものの、その後バタバタと都落ちが決定。宗盛は頼盛への連絡を忘れ、前線に取り残される形となった頼盛は宗盛を問いただすも要領を得ない返事しか得られず、後白河を頼って京に残留し、平家一門から離脱します。後白河の異母妹の八条院(鳥羽法皇と美福門院の娘。両親から莫大な荘園を相続し、わずかな荘園しか相続できなかった後白河も配慮せざるを得ない存在だった)と関係の深かった頼盛は、後白河の指示でその庇護下に入り、義仲入京後も京に滞在しますが、義仲と後白河の対立が激化すると身の危険を感じ、鎌倉の頼朝のもとへ脱出します。頼盛はおそらく母の池禅尼が平治の乱後に頼朝を救った関係から、頼朝と後白河の連絡係を務めていたようで、頼朝の妹婿の公家一条能保(この人も『13人』に出てきてないなあ)もそれと前後して鎌倉に脱出しています。頼盛や能保は頼朝に京の情勢をつぶさに伝え、頼朝の側近として活動したようですが、やがて義仲が頼朝の派遣した範頼・義経に討たれ、平家も一ノ谷で大敗して再上洛の可能性がなくなると、頼盛は帰京。官職に復帰するも、平家が壇ノ浦で滅亡すると出家し、以後は目立った活動もないまま1986年にひっそりと世を去ったようです。
 頼盛は『草燃える』にも登場しなかったようですが、なぜか『義経』ではかなり登場し、彼の一門離脱も結構描かれていたようです。『義経』は原作が『宮尾本 平家物語』なので、平家側の描写がやたら多かったようですね。『平清盛』では清盛が主人公なので、わずかに描かれた頼盛の一門離脱もいささか美化されてたような。
 頼盛の子息たちのうち、庶長子の保盛、庶次子の為盛、三男で嫡男の光盛はいずれも武士というよりは公卿となり、光盛と為盛は鎌倉三代将軍実朝の右大臣就任拝賀式に出席して彼の暗殺を目撃することになります。五男保業の子孫は鎌倉幕府の御家人となり池氏を称したとのこと。

 次に清盛の嫡男重盛の息子たち、いわゆる小松殿一門。重盛の子息は、維盛・資盛・清経・有盛・師盛・忠房・宗実と結構たくさんいるんですが、このうち比較的有名なのが長子の維盛と次子の資盛で、ドラマや映画に出てくるのはほぼこの2人だけ。あとは三男の清経が大河『平清盛』に出てたらしい。まぁ平家は一族が多いんで全員出してたらごちゃごちゃしちゃいますしね。
 重盛は嫡男ながら身分の低い前室の子で有力な外戚を持たず、その一方で政治的には後白河に近かったため、父清盛と後白河が対立するようになると苦しい立場に立たされるようになります。さらに妻の兄の藤原成親が鹿ヶ谷の変で失脚、殺害されるとますます立場を悪くしました。そんなこともあってか重盛が死ぬと、清盛の継室時子の嫡男宗盛が棟梁とされ、重盛の遺児たちは傍流に転落します。なお維盛・資盛・清経はそれぞれ母が違い、誰が嫡子だったかはっきりしません。維盛は総大将として出陣した富士川の戦いで戦わずして撤退し、清盛に激怒されています。
 さらに清盛が世を去り宗盛が後を継ぐと、重盛遺児とその家臣たち─いわゆる小松殿一門は宗盛ら政権中枢にとって潜在的に危険な存在とみなされたようで最前線に赴かされ、特に維盛はやはり総大将として出陣した北陸で義仲軍に倶利伽羅峠、篠原と連敗し軍勢は壊滅。ついに平家は都落ちするんですが、このあたりから小松殿一門は平家一門から脱落していきます。資盛は頼盛同様に後白河と連絡を取って京に残ろうとしたようですが、連絡が付かなかったかもしくは後白河の拒絶に会い、残留を断念して仕方なく都落ちに同行します。『平家物語』では維盛も京に残す妻子との別れを惜しんで合流に遅れたため宗盛・知盛らの疑いを呼んだという記述があるとのことで、小松殿一門は資盛を後白河への連絡役として京への残留を諮ったのかもしれません。
 都落ちした平家は一旦九州を目指しますが、現地勢力に背かれ、前途を悲観した清経が入水自殺。結局、一門は四国の屋島に落ち着くんですが、その頃に資盛は院近臣の平知康に帰京したいという書簡を送っているとのこと。その後、平家は勢力を盛り返して旧都福原まで進出し範頼・義経らの軍勢と対戦するも、資盛・有盛・師盛は三草山の戦いで敗れ、資盛・有盛は屋島へ敗走。一ノ谷へ逃れた師盛は一ノ谷の戦いで討死しています。また維盛はその前後に一門から離脱しており、その後は高野山で出家して那智勝浦で入水自殺したとも、京に上って後白河に助命を乞い頼朝の要請で鎌倉へ下向する途上病死したとも言われています。忠房もこの時に維盛同様に離脱し、鎌倉で斬られたとも囚人として御家人に預けられたとも言います。残った資盛・有盛は壇ノ浦の戦いで入水。末弟の宗実は都落ちには加わらず、平家滅亡後に鎌倉へ送られる途上で断食死したとも、助命が認められたともあり、やはりはっきりしません。維盛の子の六代はやはり平家滅亡後に鎌倉方に捕らえられ、文覚上人の嘆願で助命されています。『平家物語』では後に文覚が流罪になった際に連座して処刑されたとされてますが、これには疑問が呈されているようです。
 小松殿一門に近い伊勢・伊賀の家人たちも多くが都落ちには従わず、同地に残留して義仲との和睦を模索したり、頼朝の派遣した範頼・義経軍に合流して義仲討伐に協力したりと独自の行動をしています。しかし一ノ谷の戦い後に頼朝の御家人の大内惟義が伊賀国に守護として送り込まれると、旧平家家人の平田家継・平信兼・伊藤忠清が挙兵。伊勢国・伊賀国にまたがる大規模な反乱で、激戦の末に鎮圧され家継・信兼は討たれたものの、忠清は逃亡して潜伏し、義経の西国出兵が中止される事態になりました。結局、忠清は平家滅亡後に捕らえられて斬られています。また家継の弟の平貞能は資盛と行動を共にし、都落ちに反対するも京への残留失敗、九州現地勢力の離反を経て、一門から離脱し九州に残留。平家滅亡後に旧知の宇都宮朝綱を頼って頼朝に降伏。許されて助命されています。



#11206 
バラージ 2022/05/11 21:01
初めての貴族大河

 再来年の大河ドラマが吉高由里子さん主演で紫式部が主人公の『光る君へ』に決まりましたね。
 紫式部主人公大河って実は昔から一部の平安ファンというか王朝文化ファンの間で根強くささやかれてたんで、ああ、なるほどこれが来ましたかという感じ。個人的には、1年持つのか?とか、作家の生涯なんて描くよりその作家の作品を実写化したほうがよっぽど面白いんじゃないのか?なんてことを思わなくもないんですが、それでも藤原道長よりは面白そうだし需要もありそう。紫式部と道長の恋愛を描くってのは、名画座掲載の映画『千年の恋 ひかる源氏物語』や未掲載の『源氏物語 千年の謎』なんかといっしょ。そして実は貴族(公家)層が主人公の大河ドラマは初めてですな。


>沖縄とウルトラと
 こないだNHK-BSで放送していたドラマ『ふたりのウルトラマン』を観ました。ウルトラシリーズの脚本家で沖縄出身の金城哲夫と上原正三の若き日と、金城の若すぎる死までを描いた作品で、ドラマ部分に2人を知る人々のインタビューや実際の脚本作品の映像がはさまれるという形式のドラマです。主演は満島真之介と佐久本宝。監督は沖縄在住で映画『ナビィの恋』などの監督の中江裕司。
 いやぁ面白かった。同じような題材のドラマに昔、『ウルトラマンをつくった男たち』『私が愛したウルトラセブン』がありましたが、それらはウルトラシリーズに的を絞っていたのに対して、今回のは金城の半生を描き、後半は沖縄に帰ってからの金城を描いています。『シン・ウルトラマン』公開に合わせた作品かと思ったんですが、沖縄返還50年記念の作品でもあったんですね。金城と上原の他に、円谷一、実相寺昭夫、満田[禾斉]、飯島敏宏、高野宏一、中野稔といった綺羅星のごとき巨匠たちの青春ストーリーであると同時に、1960~70年代の沖縄をめぐる時代史ドラマでもあり、インタビューパートなども合わせて胸に迫るものがありました(特に金城の奥さんと妹さん)。金城が円谷英二と約束してた『かぐや姫』の脚本はついに書かれることはなかったようですが、市川崑の『竹取物語』につながるものだったのかな。とても良いドラマだったので地上波でも再放送してほしいですね。

>追悼
 今度はまさか上島の竜ちゃんが……。一昨年に映画板のほうに書いた三浦春馬さん、芦名星さん、竹内結子さんの時もかなりショックでしたが、今回も相当にショック。少し前には渡辺裕之さんもでしたし……。ご冥福をお祈りします。



#11205 
バラージ 2022/05/09 00:13
鎌倉史閑話休題 舞台人の映像作品

 今週の『13人』は、屋島の戦い(はほんのちょっとだけでしたが)、壇ノ浦の戦いを経て、頼朝・義経兄弟の決裂まで。今回も史実的なツッコミどころはありますが、現代ビジネスの呉座氏の連載コラムで次回分もまとめて再来週に触れるだろうから、それまでお預け(さすがに毎週書くのは疲れてきた)。
 純粋にドラマ的な部分で言うと、範頼軍の九州での合戦が描かれたのが珍しい。主人公の義時がそっちに従軍してたからでしょうが、他の映像作品では描かれたことほとんどないからなあ。あと、義経と景時の関係性がこれまた他の作品では描かれたことのない珍しいパターンです(史実的に正しいかは別として)。
 合戦シーンについては前々から思ってたけど正直ショボい(壇ノ浦だけはなかなかでしたが)。予算やソーシャルディスタンスの問題もあるかもしれませんが、そもそも『真田丸』終盤の時も思ったんだけど三谷幸喜は合戦シーンを描くのはあんまり得意じゃないんじゃないかなあ。観ていて舞台(演劇)人が映像作品を手がけたとき特有の問題を感じちゃったんですよね。映画なりテレビドラマなりの映像作品は画面の外にも画面内から地続きの空間が広がっているように感じさせなければならないと思うんですが、舞台(演劇)というのは限定空間の芸術ですから、舞台人の作った映像作品は画面内に閉鎖された広がりのない空間に見えることがあるんですよね。結果なんというか映像作品としては、こじんまりとした不自然な作り物くさい閉鎖空間に見えてしまうことがあります。これは三谷氏だけではなく他の映画などを手がけた舞台人、例えば鴻上尚史監督の映画なんかを観た時にも感じたことですし、なんだか舞台っぽい映画だなぁと思って観終わった後に監督や脚本家を調べたらやっぱり舞台人だったということもあったりします。僕はそういう舞台人特有の映像表現が苦手なので、三谷作品も正直受け付けにくいところがあるんですよねえ。大河ドラマは脚本だけで演出は別人ですが、やっぱりそういうのが多少は影響を与えてるんじゃないかと。


>巴の最後
 他のドラマの巴御前というと、何年か前にDVDで観た新大型時代劇『武蔵坊弁慶』総集編での巴の最後が印象に残ってますね。確か義仲といっしょに討死すると言って聞かない巴が何らかの理由で気を失い、弁慶が保護(義仲が弁慶に託したんだっけ?)。目覚めた時には義仲は討死しており、後を追おうとする巴を弁慶が説き伏せ、最後は憑き物が落ちたようになった巴が旅装束で木曽に帰るのを弁慶が見送るとかだったような。

>『草燃える』完全版
 画質もさることながら欠落があるのが大きいんでしょうね。後から完全な状態のものが出てきても、じゃあもう1回新たな完全版DVDを出し直しますとはいかないでしょうし。むしろ配信だったら差し替えも容易なんじゃないかな。そう考えるとやっぱりこれからは配信の時代なんですかねえ。

>毛沢東が出てくる映画
 名画座掲載の『孫文』を劇場公開時に観た時、終盤に毛沢東と蒋介石が出てきてびっくりしましたね。他のお客さんからもどよめきのような笑いのようなものが起こってました。当時はまだ歴史上の人物というより、近い時代の人といった感じでしたし。近年では2009年の中華人民共和国建国60周年記念映画『建国大業』とか、2011年の中国共産党成立90周年記念映画『赤い星の生まれ』(原題:建党偉業)なんていう国策映画?みたいのに毛沢東が出てきてるようです(いずれも日本では映画祭上映のみで劇場未公開・未ソフト化)。前者ではタン・グオチャン(唐国強)、後者ではリウ・イエ(劉燁)が毛沢東を演じてるとのこと。

>義時後小説
 大河関連というか便乗というかで改版が出版された杉本苑子の小説『竹ノ御所鞠子』(中公文庫)を読了。初版は1994年の小説です。タイトルになってる竹ノ御所鞠子(竹御所)は、鎌倉2代将軍・源頼家の娘で、4代将軍・藤原(九条)頼経の妻(正室)となった人物。竹御所が主人公なら義時の死後まで描かれるだろうという珍しさから買ってみました。
 うーん、読んでみたらタイトルに偽りありというか、主人公は竹ノ御所鞠子ではなくその母親(作中での名前は刈藻)ですね。娘を思うその母親の視点で物語が展開していきます。肝心の鞠子は終始影が薄く、感情がわかりにくい、おとなし過ぎる少女でどうも魅力薄。むしろ敵役というか悪役まわりで出てくる妙という架空の少女のほうが魅力的で印象に残ります。物語は頼家暗殺から8年後に始まり、和田合戦・唐船建造・実朝暗殺(本書では北条・三浦共謀説でした)・承久の乱・伊賀氏の変を経て、その間に鞠子の兄弟の栄実・公暁・禅暁も死に、やがて鞠子が頼経の妻となって、男子を死産の末に死ぬまでが描かれてます。竹御所の母親については諸説あるようですが、本作では『尊卑分脈』にある木曽義仲の娘という説を取っており、また鞠子が頼経に嫁ぐ以前に家人の若侍と結婚し1女を儲けていたという設定になっています。全体的に母娘があまりにも幕府からほっとかれてるのはちょっと違和感。頼朝の嫡流で鎌倉に住んでるんだから、もうちょっと幕府の保護下にあったはずだと思うんですけどね。
 小説としては前半はなかなか面白いんだけど、後半はやや尻すぼみ。特に目当てだった執権泰時の代になってからがあんまり面白くありません。全体的にはまあまあってところですかね。

>DVDで観た歴史映画
『マリー・アントワネット』
 名画座にも掲載されてる2007年公開の映画ですが、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』で久しぶりにキルスティン・ダンストを見て、なんだかんだで観逃してるキルスティン主演映画が観たくなり、DVDで何本か観た中の1本。全編英語の作品ですが、同じ欧米人なので中国人や日本人が英語をしゃべってるのに比べれば違和感はそれほど感じませんでした。描かれてるのは基本的にほとんどがマリー・アントワネットの宮廷生活で、とにかくキルスティンを魅力的に撮るといった感じ。キルスティン目当てで観たんで僕は別にそれでいいんですが、終盤まで革命の前兆すらありません。もちろん史実もいろいろと絡めてはいるようですが、あくまでさらっとした感じで、なんとなく雰囲気が20年代ジャズエイジ(『華麗なるギャツビー』)とか80年代バブルっぽくも感じましたね。処刑までは描かれないんでやや尻切れとんぼな感じですが、それでもまあまあ面白かったです。



#11204 
徹夜城(今年は大型連休なにそれな管理人) 2022/05/05 09:39
ラブロフに告ぐ

 ロシア外相のトンデモ歴史発言については上のタイトルで史点で書くことをすぐに決めたんですが、他のネタが集まるまでアップできないというのが歯がゆい(笑)。ま、爆弾の投下よりは史点ネタの投下のほうがなんぼかましだと。

 史点でも書くと思うんですが、なんだかんだでヒトラーってのも「悪人代表」のアイコンとして延々と使われ続けますね。
 連想え書きますが、前回「史点」でも触れた藤子不二雄Aさんの「劇画・毛沢東伝」、Aさんの自伝エッセイを読み返したらやはり発表時はいろいろ抗議されたりしたらしんですね。ご本人としては別に毛沢東の思想に共鳴してるとか尊敬してるということではなく、例えばナポレオンの英雄伝説のようなものとして描いた、と書いてるんですね。まぁ内容的にも中華人民共和国成立までの話だし、そこまでの毛沢東ってのは確かに一代の英雄伝として描けることは間違いない。その後の文革だのなんだのの実態は執筆当時は日本ではほぼ知られてなかったわけですし。のち90年代に刊行されたバージョンを僕は持ってるんですが、そこでは簡単ではありますが末尾に天安門事件(1989)が触れられ「革命いまだならず!」との孫文の言葉でしめくくられる追加があります。
 藤子Aさんが大変な映画マニアであったことはよく知られていますが、自分で作れるとしたら?との質問にやはり毛沢東を題材にしたいと、答えていたこともありました。
 執筆年代をちゃんと確認していませんが、横山光輝にも「長征」という作品があり、当初は架空人物を主役にすえていたのが読者の反響がよくなかったのか途中から毛沢東ら共産党幹部が登場する実録漫画っぽいものに変わってました。まぁ、その時期は流行でもあったんでしょう。


>水師提督さん
 「草燃える」って全話そろってたんだっけ、と思ってWikipediaみたら、一応視聴者提供のビデオで全話アーカイブはされてて、時代劇専門チャンネルで放送もしたんですね。一部の保存状態がよくないために完全版ソフト化はなされていないとのことで。
 欠落は仕方ないとして画質についてはある程度改善作業ができると思うので、「鎌倉殿」便乗で完全版ソフト出す、ってことにはならないかなぁ。


>巴御前
 バラージさんの少し前の書き込みへの反応ですが、過去の源平もの作品でも巴のその後の扱いはいろいろのようですね。源平もので義仲が出てくればまず確実に登場するキャラではあります。
 僕が覚えているのはTBSの正月時代劇「源義経」(東山紀之版)での巴で…確か琵琶湖だったかにどんどん歩いて行って自殺しちゃってたような。



#11203 
バラージ 2022/05/04 22:08
誰しも考えることは……

 ロシアのラブロフ外相が「ヒトラーはユダヤ系だった」と発言したとかで問題になってるというニュースを見て、『アドルフに告ぐ』かよ!と思っちゃったんですが、Twitterなんかを見るとやっぱり同じ連想をした人が多いみたい。ある年代の日本人にとって「ヒトラー=ユダヤ人説」というとやっぱり『アドルフに告ぐ』なんだよなあ。確か手塚治虫も何かの記事で「ヒトラー=ユダヤ人説」を知って、それをヒントに『アドルフに告ぐ』を描いたはずですが、中にはそれを知らず偶然の一致とか、ジョークなのか本気なのかラブロフ外相もどっかで『アドルフに告ぐ』を読んだのか?なんて書いてる人もいましたね(笑)。
 それにしても、僕はひそかに『アドルフに告ぐ』を海外との合作で国際キャストで映画化してくんないかなぁなんて思ったりもしてたんですが、イスラエルの反応なんかを見てるとやっぱり難しいのかもしれませんねえ。ハリウッドもユダヤ系の力が強いですし。

>水師提督さん
 やっぱり藤内光澄の母はそういう出方でしたか。出てくる時期はともかくとして、登場の仕方はたぶんそんな感じなんだろうなと予想はしてたんですよね。政子が光澄の母に偶然出会って己の罪深さに恐れおののくみたいな。
 阿波局(泰時の母。『13人』では八重と同一人物)については、史実では義時とは死別なのか離縁したのかさえ不明ですが、『13人』では果たしてどうなるんでしょうね? ドラマチックな死を遂げるのか? それとも離縁してその後も物語に影響を与えていくのか? というのも2人目の妻・姫の前(『13人』では比奈)役の堀田真由ちゃんは個人的には好きな女優さんなんですが、芸能人としての格から言うと芸歴の差もあって新垣結衣さんよりもやや存在感不足のような気もするんですよね。物語のヒロイン的には『真田丸』の長澤まさみさんみたいに最後までガッキーで行くんじゃないかという気もするんですよ。いまだ未発表の3人目の妻・伊賀の方を演じるのは誰になるのか(出るんだろうな?)共々気になるところです。
 しかしそれ以上に個人的に気になってるのは、やはりいまだ発表のない頼朝の愛妾・大進局が誰になるのか? というより出てくるのか?ということ。大進局が頼朝の息子・貞暁を産んだのは1186年ですから、次々回ぐらいには出番になっちゃうんですが、いまだ発表がありません。亀の前役の江口のりこさんはわりと早い段階で発表されてたはず。実はYouTubeでかなり大胆な推理をしてる方がいて目からウロコというか、確かに時系列的にはちょうど合ってるんだよなあ。

>鎌倉史追記 甲斐坂東〈バンドウ〉(くだらねー)
 今週の『13人』では、甲斐源氏の武田信義・一条忠頼父子の粛清が描かれてました。近年の研究では甲斐源氏は頼朝の配下ではなく頼朝や義仲同様の独立した勢力ということが判明しており、富士川の戦いは頼朝ではなく甲斐源氏が中心戦力だったと思われ、義仲が城助職を破った横田河原の戦いにも義仲方として参戦しています。さらに信義の叔父(または弟)で遠江国を支配する安田義定は義仲の北陸道進撃に合わせて東海道を上り共に上洛し、義仲が後白河法皇を法住寺の戦いで打ち破り幽閉すると、義仲を見限り範頼・義経らと共に義仲を討っており、忠頼もまた義仲討伐戦に参加してたことは以前書きました。義定は続く一ノ谷の戦いにも鎌倉方として参戦しています。
 ちなみに史実では信義・忠頼父子は義高逃亡事件とは関係がなく、なぜ忠頼が粛清されたのかは今一つ判然としないんですが、おそらくは頼朝になびいたとはいえ事実上の半独立勢力で上総広常同様に危険な存在だったためと推測されています。甲斐源氏内部でも武田一族と安田一族の関係は微妙で、また信義の弟の加賀美遠光や庶子の武田(石和)信光は頼朝に近侍しており、以前書いた新田氏同様に一族内部の不和・不一致を頼朝は見抜いていて、それを利用したと見られます。
 ちなみにこれら甲斐源氏のうち、武田信義は『平清盛』に、安田義定は『義経』に、武田信光は『草燃える』に、それぞれ登場してるとのこと。

 それから今週は工藤祐経が久しぶりに再登場しましたが、最後に藤内光澄を処刑した後、なぜか鎌倉を去ることになっちゃってました。史実ではそんなことないんですが、なんでまた? これも何かの伏線なのか? 史実の祐経は頼朝の寵臣の1人で、『吾妻鏡』での初見は1184年。一ノ谷の戦いで捕虜となり鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌ったと記されています。祐経は重衡の兄重盛の家人だった頃に、重衡をよく見ていたため同情を寄せていたとのこと。一条忠頼暗殺も最初は祐経がするはずでしたが顔色を変えて果たせず、とっさに天野遠景が変わって忠頼を殺したそうです。以上のエピソードからもわかるように、武勇のほうはあまり得意ではなく、もっぱら京風の雅に通じた文化のほうを得意とした人物のようで、また重衡の例でもわかるようにアクの強い鎌倉御家人たちの中では意外に“いいやつ”だったりもします。



#11202 
水師提督 2022/05/03 21:24
藤内光澄の母

バラージさんに乗っかりまして。
『草燃える』は、時代劇専門チャンネルで全話放映したことがあり、たしかに藤内光澄の母という老婆は出てきました。

実際に登場したのは、義高誅殺のくだりからだいぶ経って、富士の巻狩りの前後、大姫役も池上季実子になっていました。
政子と大姫がお忍びで夜祭り(?)の見学をしていた折に、死んだ息子を思い出して、嘆き悲しんでいる老婆を目にして、事情を聞いてみると、なんと藤内光澄の母親であり、声をかけてきた相手が政子本人とは気付かず、光澄処刑を命じた政子への憎悪を吐露する、という流れでした。
その後、大姫も政子に非難がましい言葉を投げかけるというオマケもつきます。


政子が自身の「業」を思い知らされるシーン、そして大姫が壮絶な狂死を遂げる伏線の一つといった扱いでした。
『十三人』では、どちらかというと、義時が冥府魔道を進んでいく入口として使った感じですね。おそらく、八重との死別がトドメを刺すのでしょうが、今週もちょっと出てきた曾我兄弟の絡むのでしょうか、、、?



#11201 
バラージ 2022/05/02 22:42
今週の鎌倉史 北条政子という女

 先週の『13人』の宇治川の戦い、一ノ谷の戦いについてはまたも呉座氏の連載におまかせ。
 今週の『13人』は、頼朝のもとで人質となっていた義仲の息子源義高(木曽義高、清水冠者義高)の誅殺と大姫哀歌という女性に特に人気のあるエピソードですが、またもやたら脚色しまくってたなあ。実際には、北条義時も工藤祐経も阿野全成も阿波局(実衣)も仁田忠常も安達盛長も三浦義村も武田信義・一条忠頼父子もこの事件には関係ありません。
 史実における、この事件の顛末は以下のようなものでした。『吾妻鏡』によると義仲が1183年1月に討ち取られた3ヶ月後の4月21日、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、義高を密かに逃がそうとする。明け方に義高を女房姿にさせ侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ヒヅメに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させると同時に、義高と共に信濃国から来ていた同年齢の側近の海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打たせた。その間、殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたらしい。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、御家人の堀親家らに軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じる。義高は26日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党の藤内光澄に討たれた。この事は内密にされていたが結局大姫の耳に入り、大姫は悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどだったとのこと。6月27日、政子は大姫が病床に伏し日を追って憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫ったため、藤内光澄は梟首された。

 しかし、これらの逸話を記した『吾妻鏡』の記述には文飾が施されていると思われ、どこまでが事実でどこからが虚構なのかの判別は付け難いとの指摘もあり、実際あまりにも物語的に不自然な部分が散見されます。
 まず当時5~6歳に過ぎない大姫が上記のような計画や行動を取れるとは思えない。そのため『13人』ばかりでなく、この事件を描いた作品のほとんどでは、政子など他の大人たちが上記のような義高逃亡を計画し実行したことにしています。しかし『吾妻鏡』にはそのような記述はなく、あくまで『吾妻鏡』に忠実にするとわずか5~6歳の大姫が逃亡作戦を考え出し実行したことになってしまいます。また計画に加担した海野幸氏と、幸氏同様に義高付きとして信濃国から下っていた望月重隆は、罪に問われるどころか2人とも頼朝の御家人に加えられ、弓の名手として後々まで重用されています。義高逃亡に無関係だった重隆はともかく、幸氏がそのような厚遇を受けるのは不自然な話で、実際には幸氏も義高逃亡には関係がなく、むしろ2人ともかなり早い段階で頼朝に籠絡され、義仲・義高から離れて頼朝に内通してたんじゃないでしょうか。全体的に物語的な脚色が施されてることは明白で、この義高逃亡事件のエピソードは全面的には信用できかねるというのが正直なところ。そもそも5~6歳の子供が上記の事件の経緯をその年齢で明確に理解できたかも怪しいところで、その後の大姫の精神的もしくは肉体的不調から逆算して創作された逸話という可能性すらあります。
 なお、義高の名前は文献によって異なっており、『吾妻鏡』では「義高」ですが、延慶本『平家物語』や『尊卑分脈』では「義基」、長門本『平家物語』では「義隆(または義守)」、覚一本『平家物語』では「義重」、『源平盛衰記』では「清水冠者」とのみ記され名前は記されておらず、『曽我物語』では「義衡」となっているそうです。これだけ名前がバラバラなのは、上記諸本が作られた頃にはすでに名前がわからなくなっていたということでしょう。享年12歳ですから、おそらく元服したのは人質として送られる直前で、族滅したこともあって名前もわからなくなっていたのではないかと思われます。そんなことからも義高についてのエピソードがどこまで事実に基づいているのか判断しがたいところがあるんですよね。

 それにしても義仲の討死から義高誅殺の決断まで3ヶ月も経っており、よく頼朝はそこまで我慢したなあとむしろ不思議に感じます。義高は人質なんだから、義仲が頼朝に敵対した時点で何らかの処置が取られて当たり前のこと。公家の吉田経房の日記『吉記』によると、寿永2年(1183年)11月4日の段階で、「義仲の子冠者が逐電したという噂があるが事実ではない」との記述があり、これが義仲の子息に言及してる唯一の一次史料だそうです。この時期は義仲が後白河法皇と合戦に及んだ法住寺合戦の直前で、頼朝が使者として朝廷に派遣した義経が伊勢国・近江国に到着し、頼朝への「十月宣旨」に反発した義仲と後白河の対立が激化していた時期でした。そんな状況だったから義仲の息子が逐電したという噂も流れたんでしょう。そもそも義高を人質として頼朝のもとに送りながら、早い段階から頼朝を出し抜こうとして敵対したのは義仲で、要するに義仲は嫡子の義高を見捨てたわけです。それなのに頼朝ばかりが悪者にされるのは筋が通りません。なぜか『13人』に限らず、義仲が義高を見捨てたという指摘がなされてる作品は(歴史研究も含めて)少ないんですよねえ。

 それにしても上記のエピソードで僕が1番不憫に思うのは大姫でも義高でもなく、命令通りのことを実行しただけなのに処刑されちゃった藤内光澄。『13人』では複雑になるのを嫌ってか御家人にされてましたが、史実では上記の通り堀親家の郎党で、頼朝から見れば陪臣(家臣の家臣)です。いくら政子の怒りに抗えなかったからとはいえ、そのような低い身分だったからこそ殺されることになってしまったんでしょう。いくらなんでも御家人をそんな理由で処刑したら、頼朝の権威は失墜してしまいます。『13人』では義高を殺したら御家人たちの頼朝への不信感がますます高まるなどとしてましたが、自力救済の世界である当時の武士の世界では、あの状況で義高が殺されるのは当たり前の話で、それで頼朝への不信感が増すなんてことはあり得ない。むしろ頼朝への不信感が増すとしたら光澄の処刑のほうのはずです。少なくとも主人の親家にすればはらわたの煮えくり返る思いだったはずで、頼朝というよりも政子に対して強い怒りや恨みが残ったはず。ちなみに『草燃える』には藤内光澄は出てこなかったようですが、光澄の母が「老婆」という役名で出てきたらしい。いったいどんな出方だったのか気になる。

 ともかく光澄が処刑されたのは政子のせいであるのは明らかで、『13人』では亀の前事件に続き、「そこまで言ってない」つもりだったことになってましたが、史実ではどちらもはっきりと「そこまで言ってる」んですよね。おそらく娘可愛さのあまり半狂乱のヒステリー状態だったと思われ、頼朝にも手が付けられなかったんでしょう。政子という人は諸エピソードを見ても直情径行、激情家で、自分の感情を自分で抑えられない質の人だったと思われます。先日、たまたまWikipediaの「ヴィクトリア女王」の項を読んだ時に、ヴィクトリアの性格について「直情径行、我がまま、短気で、理屈は通らない人物だった」と書いてあって、これ、政子そのままじゃん、と思ってしまいました。その項によると、「アルバート(ヴィクトリアの夫)は「ヴィクトリアは短気で激昂しやすい。私の言う事を聞かずにいきなり怒りだして、私が彼女に信頼を強要している、私が野心を抱いている、と非難しまくって私を閉口させる。そういう時私は黙って引き下がるか(私にとっては母親にしかられて冷遇に甘んじる小学生のような心境だが)、あるいは多少乱暴な手段に出る(ただし修羅場になるのでやりたくない)しかない。」と語っている。ヴィクトリア自身も自らが「矯正不可能」なほど「意見されると感情が激高しやすい性格」であることを語ったことがある」「ヴィクトリアから寵愛を受け続けたディズレーリは「女王陛下とうまく付き合うコツは、決して拒まず、決して反対せず、(受け入れ難い女王の要求に対しては)時々物忘れをすることだ」と語っている」ともあって、僕の考える政子像そのまま。ヴィクトリアは政子の生まれ変わりなのか?(笑)



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