ニュースな史点2021年12月6日
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◆後任の後を追うように
前回の「史点」で、韓国の盧泰愚(ノ=テウ)元大統領の訃報をとりあげたが、それから間もなく、彼の前任者であり「最後の軍人大統領」であった全斗煥(チョン=ドファン)元大統領も90歳で死去した。ますます韓国の現代史、民主化以前の暗い時代が過去のものとなっていくのを実感する。
なお、僕くらいの世代だと、全斗煥については「ぜんとかん」と日本語音読みにするほうが耳になじみがある。現在日韓間では互いの国の固有名詞(漢字表記可能)を相手国の発音で読む取り決めになっているが、彼が大統領をやってたころまではそれがなく、「ぜんとかん」と日本語読みで報道された最後の大統領だ。その点でも彼は「古い時代」を象徴しているように思える。
全斗煥が生まれたのは90年前の1931年3月。前回語った盧泰愚より一年早い生まれで、当時の朝鮮半島は日本統治下であるから「昭和6年」の生まれということにもなる。この年の9月には満州事変が起こり、軍部内でクーデター計画が発覚するなど、日本が不穏な空気に包まれ始めた時期だ。
朝鮮戦争が勃発した1950年に陸軍士官学校に入学、同期に盧泰愚も入学して共に軍人人生を歩むことになる。陸軍ではアメリカでレンジャー部隊の訓練を受け、特殊部隊や空挺部隊畑で頭角をあらわし、朴正熙(パク=チャンヒ)がクーデターで軍事政権を樹立するとこれを支持して腹心となり、1979年に朴正熙が暗殺されると暗殺事件の捜査を指揮、一時的に民主化の空気が広がったが「粛軍クーデター」を起こして政権を掌握し、金大中ら野党政治家たちを逮捕して民主化運動を徹底弾圧した。
1980年5月18日、軍事政権に反発して市民が決起した光州市に特殊部隊を派遣して鎮圧、今なお犠牲者数が判然としないほどの市民虐殺を行った(光州事件)。その後も民主活動家とみなされた人々を数万人も逮捕し、軍での訓練・労働を強制し多くの死者を出してもいる。冷戦時代、「西側」の最前線にあった国にこうした軍事政権がいくつかできて多くの人権侵害が起こったが、全斗煥時代の韓国もその典型例といえるだろう。
一方で1983年、全斗煥は訪問先のミャンマーのヤンゴン(当時の報道では「ビルマのラングーン」)で北朝鮮工作員による爆破テロで暗殺されかかるという目にもあっている(ラングーン事件)。このテロは全斗煥当人の暗殺を狙ったものだったが本人は助かり、同行していた閣僚らが死亡している。北朝鮮工作員といえば1987年の大韓航空機爆破事件も全斗煥政権時代のこと。なんとなく記憶しているのだが、いずれの事件でも基本的には北朝鮮の仕業と広く認識されたが、一部に全斗煥政権側の陰謀ではとうがった見方も存在していたような。それだけ全斗煥政権はひどく非民主的な政権で、民主化を求める学生たちのデモが激しく展開されていたのも記憶にある。
全斗煥は韓国の第11代・第12代大統領をつとめて1987年に盧泰愚に実質的禅譲をする形で退任するが、その盧泰愚政権時代に韓国の民主化がすすめられ、全斗煥も政権時代の親族も含めた不正蓄財などが追及されるようになり、財産を国家に返上して山寺に謹慎・隠遁生活をするようになった。韓国社会は朝鮮王朝時代に儒教が国教化されて仏教が弾圧された歴史があるが、反省の意を表明してこもるのは仏教寺院が使われるんだなあと当時興味深く思ったものだ。
それから30年以上、全斗煥は長い余生を送ったが、光州事件をはじめとする政権時代の弾圧事件への追及は後年になるほど強くなり、調べてみたら結局死ぬまでその裁判が続けられていた。高齢かつ健康上・警備上の理由から裁判への出廷は免除されているらしいのだが、昨年「粛軍クーデター40周年記念パーティー」なるものに(そんなもん「記念」するんだ)出席していたことが発覚して批判を呼んだりもしていたそうで。当人もカネ関係のことでは謝罪もしたし謹慎してもいるんだけど、光州事件など人権侵害の責任についてはとうとう死ぬまで謝罪はしなかった。
先日の盧泰愚がそうだったように韓国の大統領経験者は国葬(国家葬)にするのが習わしだが、さすがに全斗煥については国葬は行われず、現政権もその死を悼むコメントは出しつつも政権時の人権弾圧について謝罪がなかったことを「遺憾」としていた。
そういった批判の声を意識してなのだろう、全斗煥の奥さんが夫に代わって謝罪表明を行っていた。その姿は痛々しくもあり…当人はあの世に逃亡しちゃったもんな。
◆言葉の源流をたずねて
我々日本人の多くは、自分たちの話す言語、つまり日本語が世界の中でも珍しい、他言語の人からみるとえらく難しい言語であると思っている。外国人が流暢に日本語を話すといたく感心する、というシチュエーションも相変わらず各方面で見受けられる。で、そうした現象は実は韓国でもあるそうで、やはり彼らも自分たちの言葉は世界でも特殊な方と思ってるらしいのだ。
ちょっと習ってみると分かるが、実際日本語と韓国語は文法的には非常によく似ていて、お互いにとっつきやすい。言葉の語順もおんなじだし、助詞の使い方もほぼ同じ(とくに「が」の使い方が瓜二つ)。言葉の末尾が断定なら「だ」、疑問文なら「か」、呼びかけなら「よ」で終わるのもそっくり。ただ中国由来の漢語以外は共通する言葉がなく、その点では系統的に近い言葉とは言い難い(ゲルマン系言語、ラテン系言語のようにはいかない)。それでも文法がホントによく似ているので、近い言葉には違いないのだろう。
文法的に日本語に似た言語を探してゆくと、満州語、モンゴル語といった北方民族の言語がある。またもともとは中央・北アジアの遊牧民であったトルコ系の民族の言語も似たところがある。これらをひっくるめて「トランスユーラシア言語」というのだそうだ。これら言語の起源と拡散については研究者の間であれやこれやと議論が続いているのだそうだが、先日ドイツのマックス・プランク研究所ほかの人類学・遺伝学・考古学の国際研究チームが、そのうちの日本語のルーツについて画期的新説を発表した、との記事が毎日新聞に載っていた。
どういう新説なのかといえば、日本語のもとになった言語(つまりその後の日本語そのものというわけではない)は約9000年前の現・中国東北部、かつての満州国の首都であった瀋陽のあたりで生まれた、とするものだ。そういう仮説自体は僕も聞いたことがある気がするし、日本語・韓国語・満州語の類似からも予想できる話だが、今度の研究では言語学および人骨のDNA解析など多様な角度からより精度の高い分析ができたのだとか。
この研究で特に面白いのが、農業関係の言語を比較検証してルーツをたどっていくという手法がとられたこと。具体的にどういう言葉を追いかけたのかは論文の方を読んでないのでわからないが、そうした追跡調査の末、中国東北部に住んでアワやキビを育てていた農耕民が日本語ルーツの人々だと判断されたという。9000年前にその地に住んでいて数千年かけて周辺各地に移住、拡散してゆき、およそ3000年前にその流れをくむ人々が緒応戦半島から日本の北九州に渡った、このとき彼らは稲作麦作と共に日本にやってきた、つまりは「弥生人」であった、というシナリオだ。まぁこの辺もおおむねそうだろうとすでに言われていたものだ。この弥生人が先住の縄文人を追いやるか乗っかるかして彼らの言葉が「日本語」となってゆく。縄文人の言葉はその後アイヌ語につながっていく…とこれまたすでに言われていたシナリオがこの発表でもなされている。
一方、沖縄については、宮古島の遺跡で見つかった人骨の分析などから、11世紀ごろに九州方面から農耕と共に移住してきた人々が持ち込んだ言葉が「琉球語」となり、それまでの言語と入れ替わる形になったと推定されている。沖縄人とアイヌは縄文人の血を濃く受けついでいる、という話も聞いたことがあるが、まぁ少なくとも言語については、琉球語はずいぶん違うように見えてやはり日本語から派生しているのは明らか。11世紀は沖縄本島各地に豪族たちが割拠、「グスク」と呼ばれる居城を作りだした時代だが、その背景に本土方面からの人の移住があったから、ということになるんだろうか。
この研究って、単に日本語のルーツだけでなく朝鮮語や満州語その他の「トランスユーラシア語」全般の問題を扱っているのだろうか。毎日の記事では「日本語のルーツ」に話をまとめているため、その辺が判然としなかった。それは論文を読んでみればいいのだろうけど。
最近耳にした話では、実態がよく分からない古代の「高句麗」の言葉について、数の数え方や地名などの分析から、実は古代日本語に似ていたんじゃないかとの説があるという。今回の件ではまずそのことを連想したものだ。高句麗だってその領域は現在の中国東北部に広がっていて、その後継国家といわれる渤海のことも含めて中国と韓国の間で歴史問題になっていたりもするんだが、「日本語のルーツの地は満州」なんて、戦前だったら日本の満州統治の「歴史的根拠」に利用されたかもしれんなぁ。
◆半世紀かかって無罪証明
マルコムXといえば、1960年代の公民権運動時代の黒人運動家の一人で、キング牧師と並んでよく知られている…と書きながらも、僕がこの人の名前を覚えたのはスパイク=リー監督、デンゼル=ワシントン主演の映画「マルコムX」(1992年公開)が公開された時のことだ。白状するがそれまでは全然知らない存在だった。キング牧師の方は知っていたけど…
キング牧師はキリスト教の聖職者であり、平和的・融和的な黒人解放運動を展開してノーベル平和賞を受賞したが、マルコムXは彼と何かと対比される苛烈な人生を送った。マルコムの父親もキリスト教の牧師だったが白人至上主義者によって殺害され(電車にひかれた自殺とされるが殺害の疑いが濃い)、母親も精神を病んだため一家離散、若いころのマルコムはギャングまがいのチンピラになって犯罪にも手を染めた。そのために逮捕され刑務所送りとなったが、この刑務所内で黒人のイスラム団体「ネーション・オブ・イスラム」と出会い、入信する。もともとは「マルコム・リトル」という名前だったが、こうした黒人の姓は奴隷主の白人の姓をそのまま引き継いだものが多く、「ネーション・オブ・イスラム」では本来の姓は分からないということで「X」を名乗る習慣があった。ここに「マルコムX」が誕生したわけだ。
出所後、ネーション・オブ・イスラムの運動家となったマルコムXは、その弁舌力・指導力を発揮して指導者に成長する。そのスタイルは白人全体を激しく攻撃する戦闘的なもので、白人と融和的な姿勢を見せるキングをマルコムは当初強く批判していた。
だがネーション・オブ・イスラムの教祖の問題行動を知って失望したマルコムは教団と対立、独自の運動を進めるようになる。イスラム教徒としてメッカ巡礼を行い、その体験から白人黒人といった単純な対立構図からの脱却に成功し、帰国後はキング牧師とも連携をはかるなど運動家として新たな歩みを進み始めたのだが、その直後の1965年2月21日、ニューヨークの演説会場でネーション・オブ・イスラムの信者らに狙撃され、39歳の若さでこの世を去ってしまった。とまぁ、キングに比べてあまりに劇的ではるかに映画向きではあるのだった。実際、映画の公開当時、彼について事前知識ゼロの僕でも非常に面白い映画だと感心したものだ。
マルコムXは、「ルーツ」の原作者であるアレックス=ヘイリーに書き取らせる形で詳細な自伝を残している。本人が自分の暗殺を語っているわけはもちろんないが(モーセが「出エジプト記」で自分の死を書いてる、ってネタもありますが)、自分が暗殺されるかも、という予感は語っている。喧嘩別れしたネーション・オブ・イスラムから命を狙われるのはもちろんだが、警察・FBIやCIAといった官憲組織も自分を狙っている可能性も示唆していた。実際に暗殺された直後からその疑惑はささやかれていて、例の映画でもそれを強くにおわせる
マルコムXの死から半世紀以上が過ぎた昨年から今年にかけ、にわかにいろいろ動きが出てきていた。
昨年死去した、当時ニューヨーク市警の警官だった人物の手記が今年の2月に公表され、その中にマルコムX暗殺にニューヨーク市警の関与があったかのような記述があって話題を呼んだ。この元警官はマルコムXのグループに潜入捜査を行い、マルコムの警護をしていた2人の側近を犯罪に誘導して逮捕させたと告白していたのだ。当人はそれがマルコムX暗殺につながるとは思ってなかったようだが、結果的にマルコムの警護が手薄になったわけで、微妙ではあるが市警が暗殺の「お膳立て」をしていた可能性が初めて資料で示されたわけで、マルコムXの遺族が暗殺事件の再捜査を求める動きにもつながっている。
またマルコムX暗殺の実行犯として逮捕され服役した人物のうち、二人について全くの無実であったことが、つい先日、11月17日に確定した。正確に言えば彼らを起訴した検察当局が二人の有罪破棄を裁判所に求めると発表したのだが、こんなことが半世紀以上も経ってから確定するとは…
マルコムX暗殺の実行犯として逮捕されたのは、トーマス=ヘーガン、ムハンマド=アジズ、カリル=イスラムの三人、いずれも「ネーション・オブ・イスラム」のメンバーだった。三人とも終身刑の判決を受けたが殺人容疑を認めたのはヘーガンのみで、あとの二人は無実を主張していた。容疑を認めているヘーガンも残り二人については無関係と証言したが裁判でも受け入れてもらえなかったそうだ。
アジズさんとイスラムさんの二人は1980年代に仮釈放され、ヘーガン受刑者も2010年に仮釈放されている。先に釈放されたアジズ・イスラム両氏は無実を主張し続けたが、2009年にイスラムさんは74際で死去している。アジズさんは今年ですでに83歳、ヘーガン元受刑者は80歳だ。
昨年2月になってアジズ・イスラム両氏の無実と、別の真犯人の存在を示唆するドキュメンタリーが公表され、これをきっかけに検察・弁護士双方で再調査が開始された。その調査の過程でアジズさんのアリバイが証明されたほか、当時のFBIが別の容疑者(すでに死去)の存在を知りながらその情報を隠匿していた事実も判明した。すでに亡くなったイスラムさんも生前「警察はイスラム教徒であれば誰でもよかったのだ」と発言していて、実にいい加減な捜査と、その後の裁判が進められたことが分かってくる。アジズさんも自らの冤罪について「芯まで腐ったプロセスの結果。それは下内でもあまりに身近だ」とコメントしていた。
つい先日、NHKの「逆転人生」という番組で、僕の住む地域の近くで起こった「布川事件」で強盗殺人藩として逮捕され、仮釈放後に冤罪を立証し、再審により事件から40年以上かかって無罪を勝ち取った桜井昌司さんが出演していた。この人については僕は以前ドキュメンタリー映画も見たし、本人の講演も聞いたことがあったのだが、この事件でも警察の「ワルなら誰でも」と決めつける強引な捜査、精神的拷問による自白、都合の悪い証拠・証言の隠蔽や工作といった例があり、それがアメリカの警察でもやっぱりあるんだな、と今回の報道にまず思ったものだ。
◆トップをねらえ!
ドイツの首相がこの12月にようやく交代する。当コーナー恒例の「贋作サミット」に延々と登場していただいたメルケル首相がついに今年で退任することは今年の贋作サミットでも触れておいたが、その後任が11月にようやく確定した。どいつが首相になるかといえば、オラフ=ショルツ(63)という人物。現在メルケル内閣で財務相をつとめているが、属する政党はメルケルさんの「キリスト教民主同盟」ではなく、「ドイツ社会民主党」である。つまりこれまではこの両党で連立政権を組んでいたわけだが、9月の総選挙で社会民主党がキリスト教民主同盟を僅差で超えて第1党となり、その後「緑の党」「自由民主党」との連立が決まってショルツ氏が次期首相に就任することが決まった。
かつての枢軸国仲間(笑)である日本とイタリアが政権がコロコロと短期で交代するのに対し、ドイツは妙に首相在任期間が長い例が多い。西ドイツの初代首相アデナウアーは14年(1949-1963)、東西ドイツ統一時のコールが16年(1982-1998)、そおして東ドイツ出身者にして初の女性首相となったメルケルが16年(2005-2021)といった具合。短い例もないわけではないが、日本人の感覚からすると「よくそんなに長いこと担いで飽きないもんだな」と思ってしまうほどである。
次期首相ショルツさんは調べてみると17際くらいで社会民主党に入党したという党内で長いキャリアをもつ人で、一部に「男メルケル」のあだ名もあるとか(笑)。戦後ドイツ史上3党連立政権という形は初めてらしく、これがまた長く続くのか、それとも短い例になるのか。
そのドイツの北隣のスウェーデンでは11月30日に同国初の女性首相が誕生したのだが、その過程でちょっとドタバタがあった。
新首相となったのはマグダレナ=アンデション(54)という方。所属政党は社会民主労働党で、中学1年の時にその青年組織に加入したというからこちらも政治的キャリアは長い。経済学を専攻して社会民主労働党党首の政治顧問などを務めて2014年の総選挙で議員に初当選、いきなり財務相に任命され、2021年には同党党首、そのまま初の女性首相になってしまうという、はた目にはトントン拍子の出世である。
11月24日にアンデションさんは国会議員による投票で次期首相に選出された。初の女性首相ということで大きなニュースとして世界に報じられ、僕もその記事を目にして史点ネタかな、などと思っていた。ところが半日も経たないうちに「辞任」の報道が出てビックリした。もしかしてこれって世界史上最短記録だったりしないか?と。
事情は少々ややこしい。アンデションさんが首相に選出されたが、議長による正式任命(国王による任命ではないんだな)は11月26日の予定だったので24日の時点ではまだ首相に就任していたわけではなかった。その日、議会で予算案の採決が行われたのだが、与党側の案が否決され、右派を含む野党側の予算案が採決されてしまった。これに連立政権を組む「緑の党」が難色を示し、政権離脱を表明。するとアンデションさん、首相になる前にその座を辞退すると言い出したのだ。キレちゃったのか、と思ったら、どうもスウェーデンでは連立政権からいずれかの政党が離脱すると首相も辞任するというのが慣例なのだそうで、正式就任前ながらそれに従って「辞退」表明をしたわけだ。
もっともあくまで慣例に従っただけで、結局は自分が首相になるというハラだったんじゃないかと。この直後に議長とアンデションさんの間で社会民主労働党単独政権にする話がまとまり、11月29日に国会で首相の選出しなおしが行われて結局最多得票のアンデションさんが再選出の運びとなった。スウェーデンの首相選出は賛成過半数をとる必要はなく、反対が過半数でなければOKというルールで、棄権も多く出たことから結局同じ結果となった。まぁ他にやる人もいないだろうし、その意味ではドタバタしたけど出来レースだったのでは。
スウェーデンで初の女性首相が誕生した同日、カリブ海の島国バルバドスがイギリス女王を形式的君主とする英連邦王国から離脱、大統領を元首とする共和制へ移行している。記念式典にはチャールズ英皇太子が出席、王室への最後の表敬が行われて、王旗も降ろされた。
バルバドスは面積約400平方キロ、人口約30万人という小さなサンゴ礁の国だ。1627年という結構早い段階でイギリス植民地となり、近代に自治領となった歴史があって、1966年11月30日に自治領から独立国となるも英連邦および英連邦王国には残っていた。それから半世紀が過ぎて、とうとう完全に独立して共和国になったわけだ。11月30日という独立記念日にそれが実行されたのもこれが真の独立、という意味づけがあるのだろう。
もっとも初代大統領になるのは女王の代理人である総督だった人で、もともと形式的な地位ではあるが状態はまるで変化していない。イギリス女王を君主としなくなっただけで英連邦にはそのままとどまるというし、新しい国家の憲法制定もあとまわしだ。
さて中国のトップといえば、国家主席であり中国共産党総書記である習近平氏。その権力集中ぶりは、あの中国にしてまれにみる状態になっていて、2016年の共産党第6回中央委員会全体会議(6中全)で党の「核心」であると表現されたが、これは毛沢東・ケ小平・江沢民にのみ贈られた呼称だ。そしてそれから5年後の先月に開かれた「6中全」において、40年ぶりとなる「歴史決議」が採択され、習近平氏は共産党の歴史上重要な指導者に位置づけられた。これは毛沢東、ケ小平に次ぐ三人目である(江沢民は外れるんだな)。
毛沢東は建国の父、ケ小平は改革開放政策により中国の経済発展を実現したということで「歴史的指導者」であることに異論はないんだが、習近平氏に関しては実のところ僕もピンと来ない。ただとにかく権力の集中ぶりだけは「歴史的」になってはいる。
習近平時代になってからは中国の世界における存在感は明らかに増したが、ありがたがられるより脅威論の方が先行してきた感がある。最近の香港への強硬な姿勢にみえるように政治的自由度は低下、報道や表現の自由への介入、管理強化も目立ち、近ごろでは家庭道徳レベルのことまで政府が統制する勢いだ。その状況に中国国内メディアの一部で「これは文革か」と批判する論評も出たというし、不満をもつ人たちがいないわけではないのだろう。いまどきスターリンや毛沢東みたいな個人崇拝状態に持っていけるとも思えないが…
中国の共産党総書記・国家主席は5年任期を二回、最長十年までとするのが不文律だったが、その歯止めは実質外されていて、来年の党大会で習近平体制は初の三期目に突入、下手するとその先も…なんて観測まである。正直なところ、この人がなんでここまで権力を集中できてるのか、また周囲ががっちりとそれを支えているのかがよく分からない。
つい先ごろ、中国共産党幹部、前副首相と女子テニス選手の性的関係が暴露され、直後に当人が一時行方不明になるという騒動があって世界的に注目を浴びている。どうも真相はウヤムヤにされる感じだが、現在の中国共産党のあり方にチクリと蜂の一刺しがあったかな、というのが僕の感想だ。
2021/12/6の記事
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