ニュースな史点2021年11月12日
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◆今週の記事
◆平和賞は不吉?
さて、前回から今回までの間に日本では総選挙があり、与野党ともに常勝だった大物政治家が小選挙区で落選するというケースが目立ったが、その多くは比例復活を果たしてるわけで、情勢にそう大きな変化があったわけでもない。岸田内閣が史上最短内閣になることもなく(第一次に関してはそうなるけど)、10日の特別国会で第101代目の首班指名を受け、第二次岸田内閣へと進むことになった。
というわけで、そっちについて触れるのはそのくらいにして、本題はノーベル平和賞受賞者の不吉ジンクスについてだ。
ノーベル平和賞というやつ、それはそれで意義はあるとは思ってるんだけど、受賞者について議論が巻き起こるのは毎度のことだし、受賞者が後に「平和賞」の名に反するような行動をとる、あるいはかえって立場を悪くしてしまうという例も多い。今年はなんといってもミャンマーのクーデターによりアウンサン=スーチー氏がまたも逮捕・監禁状態に逆戻りしてしまった。ま、この人は政権掌握時にも少数民族問題をめぐって「平和賞を返上せよ」との声があがったりもしていたが…
そして現在話題になっているのは、一昨年の平和賞受賞者、エチオピアのアビィ=アハメド首相だ。現役の政治家が平和賞を受賞するのは、たいていは何か戦争や紛争を和平に持ち込んだ功績をたたえられたものだが、その手の受賞者もその後ロクなことになってないケースが多い。アビィ首相もただいま危機的状況にあり、せっぱつまって平和賞受賞者らしからぬ言動が話題になってしまっているのだ。
アビィ首相がノーベル平和賞を受賞した理由は、隣国エリトリアとの国境紛争を解決して友好関係を実現、そのほかスーダン、南スーダンなど近隣諸国の内戦の和平仲介に尽力したから、というものだ。しかし昨年からエチオピア国内では北部の少数民族の武装組織「ティグレ人民解放戦線」との紛争が勃発、平和賞受賞の翌年だというのにアビィ首相は彼らへの攻撃を実施、エリトリア軍の協力もあおいで攻勢をかけていた。それがいつの間にやら、ティグレ人民解放戦線とその同盟者らの方が攻勢に出て、首都アディスアベバへ進攻する勢いだという。なんだかつい最近のアフガニスタンのような。
焦ったアビィ首相は先日、首都の市民に対して「武器をとれる者はみな戦え」と呼びかけ、フェイスブックや演説で「敵を葬ってやる」「我々の血と骨で敵を墓穴に埋める」といった、いささか過激なアジテーションを飛ばした。「平和賞受賞者」のこの発言を、フェイスブック側(そういや「メタ」とか社名を変えてましたな)は好戦的扇動とみなして削除処分にしている。
さすがに国連でも事態を憂慮し、安保理で停戦を呼び掛ける声明が出たりもしているが、それでおさまるものかどうか。
なお、平和賞受賞者では2014年に当時史上最年少の17歳で受賞したパキスタンのマララさんがこのたび結婚したことが報じられた。平和賞受賞者にもめでたい例もある、ということで。とか書いていたら、南アフリカでアパルトヘイト撤廃を理由に平和賞を受賞したデクラーク元大統領が亡くなったというニュースも入ってきた。
◆韓国現代史を体現して
上の記事の話と通じるが、「歴史上の人物」という種類の人たちは、その評価が生前はおろか死後も延々と議論になる。一国のトップになった政治家ともなればなおさらで、去る10月26日に88歳で亡くなった韓国の元大統領・盧泰愚(ノ=テウ)氏は激動の韓国現代史を象徴する存在ということもあって、その国葬をめぐって議論が起きていた。
盧泰愚が韓国大統領になっていたのは、日本の元号でいえば昭和から平成に移行する時期、つまり三十年も前の話なので、その名前を知らない、あるいはすっかり忘れた、という人も多いだろう。この盧泰愚という人物、韓国現代史において最後の軍人出身大統領で、彼が大統領をつとめた時期に韓国は大きな大転換をしている。だから結構重要な「歴史人物」ではあったのだ。
盧泰愚がこの世に生を受けたのは1932年。当時の朝鮮半島は日本の植民地で、元号でいうと昭和7年。日本史では血盟団事件、五・一五事件、満州国建国と、日本がファシズム傾向を強めていく年として記憶される。
「泰愚(テウ)」という名前、直訳すると「大馬鹿」ってことになってしまうので以前から不思議に思っていたのだが、ウィキペディアで調べてみるとやはり由来の逸話があった。なんでもみごもっていた母親が「大蛇にまとわりつかれる」夢をみた。それを聞いた盧泰愚の祖父が「蛇は龍に通じる」ことと、村の名前「新龍洞」にも「龍」の字があったことから、これは将来大物になる吉兆だとして、生まれた赤ん坊にはじめ「泰龍(テヨン)」と名付けた。韓国語版ウィキペディア記事によると、当時は日本統治下であったため警戒を呼ばないようにわざわざ「愚」の字に変えた、とあるのだが、中国語版ウィキペディア記事にある「儒教の『中庸』の考え方に反する」と考え直してあえて「愚」に変えたという話の方がリアリティを感じる。即座に例が出てこないのだが、韓国では他にも「愚」の字を名前に使ってるのを見た覚えがあり、そう珍しくもないのかもしれない。
1950年、盧泰愚17歳の時に朝鮮戦争が勃発、このときに軍隊に入って以後軍人人生を歩む。同期にのちに大統領となる全斗煥(チョン=ドファン)がおり、盧泰愚はこの全斗煥と共に「一心会」という軍内グループを作り、このグループが中心となって1979年に「粛軍クーデター」を起こして政権を掌握する。このクーデターに反発した光州市の市民が蜂起すると、彼らは軍を動員してそれを鎮圧している(光州事件)。この辺の歴史を眺めていると、今の韓国はずいぶん変化したなと思わざるを得ないんだよな。そんなに昔の話じゃないんだが、知らない人も多い。僕が大学生やってたころだって、まだまだ韓国の大学生たちの民主化要求運動は盛んで、留学生の中にも運動家がいたりしたものだ。
全斗煥大統領による軍人政権で盧泰愚は腹心として活動、全斗煥の後継の地位を確実視されていたが、民主化要求の高まりを受けて実に久々の民主的大統領選挙を約束、金大中・金泳三(いずれものちに大統領になる)との三つ巴戦を制して当選、1988年に大統領に就任してソウル五輪を主導することで「韓国は変わった」と世界にアピールした。直後の冷戦終結を受けて、それまで冷戦構造のなかで国交を持っていなかったソ連・中国と国交を結び(ソ連はすぐ崩壊しちゃうけどね)、北朝鮮と一緒に国際連合への加盟も果たし、盧泰愚政権時に韓国が国際社会で地位を向上させたことは間違いない。
韓国の大統領はその多くが退任後にいろいろ追及されてひどい目にあう、というパターンがあるが、盧泰愚政権時に前任者の全斗煥に対する追及が始まり、盧泰愚自身も退任後に粛軍クーデターや光州事件の刑事責任を問われて、無期懲役判決を受けている(のち恩赦)。その後時代は流れに流れて国葬で弔われることにもなったのだが、やはり光州市など一部の自治体ではその扱いに反発、弔旗掲揚を拒否したと報じられている。
来年は韓国大統領選挙の年。有力候補の名前が取りざたされ、それをめぐってあれこれ暗闘明闘が始まっているが、そもそも選挙がない軍人政権時代があったことを思えばずいぶん変化したものだと盧泰愚氏の訃報に接して思うのだった。ホントに彼が「最後」になるならいいんだけどね。、
◆「ま」から「ん」へ
何の話かというと、「さま」づけで呼ばれていた人が「さん」づけに変わってしまったという話。僕はもともと皇室の人たちに対しては特殊な敬称を使わない主義なので、「さん」づけのままで変わらないのだが。
秋篠宮家の長女・眞子さんが先月めでたく結婚、皇籍を離脱した。しかしご存じのようにそこまでに至るみちのりは決して順調ではなく、一度婚約内定発表がなされてから結婚相手の家庭の金銭問題がどうしたこうしたという問題が出てきて、三年以上延び延びになっていた。それだけでも異例だったが、昨年秋から父の秋篠宮文仁親王自身が憲法の「両性の合意」を口にして結婚を認める動きが加速、今年の9月からさらに一気に加速して結婚へと突き進んだ。あとから思うと、紀子妃の父で眞子さんの祖父である川島辰彦さんの余命が…ということで話を急いだのだろう。
それにしてもこの結婚に関して、呆れるほどのバッシング、眞子さん本人も言ってたが「誹謗中傷」のたぐいが一部週刊誌や保守系雑誌、そしてネット上(とくにYAHOOコメント欄など)にあふれにあふれた。本人がそれを批判し、PTSDにもなったと診断されてもそれらの動きはおさまるどころかかえって燃え上がってるようなありさま。世論調査を見る限りでは20〜30%の国民が結婚に反対しているといい、それを「強行突破」されたことによけいにカチンときているフシがある。残りの70%くらいはどうでもいい、というのが実態だろうが、なんかこの件では激しく攻撃を続ける連中が確かにいる。それもどっちかというと皇室尊崇を掲げる保守層にそれが目立つ。過激なのになると反対デモまで実行、提訴まで行う者までいた。小室さんの実家の敷地内に侵入して通報、逮捕された者もいたそうだし、下手すると直接的危害を企てるやつもいるんじゃないかと思えた。
なにをそこまで彼らはエキサイトしてるのか、といえば、煎じ詰めれば皇室の女性が自由に恋愛結婚、それもかなり駆け落ちに近い(といっても皇室内での反対はないよな)ということを実行したからだろう。お姫様とそのお相手が数々の苦難をのりこえ三年越しの愛を貫いた、なんてそれこそおとぎ話みたいでフィーバーしてもいいくらいだと思うのだが、こと日本の「天皇制」を守るなどと自負する連中はそういうことが大嫌いなのだ、ということが改めてよく分かった。そりゃ逃げ出したくもなるって。
今回はネット社会があるということも手伝ってバッシングが目立つのだが、実のところ皇室、とくにそこに属する女性へのバッシングは積み重なってきた歴史がある。美智子上皇后だって結婚時にフィーバーも起きたが同時に陰湿な攻撃も少なくなかったとされ、平成になってから週刊誌などで激しくバッシングされ失語症になったなんてこともある。雅子現皇后も何度となくバッシングされ、皇太子だった現天皇が「雅子の人格を否定する動き」とはっきり口にして騒ぎになったが、それに対してもほとんど離婚せよと言わんばかりの保守論客の「お諫め」なんてものが雑誌に載ったりしたものだ。
近年では秋篠宮家そのものへのバッシングが目につく。秋篠宮がタイにしばしば行くことについてあれこれ書かれたのはだいぶ前だが、子どもたちを明らかに学習院を避けて進学させていることや、眞子さん結婚の件も含めて叩く見出しが何度も雑誌に載り、悠仁さんの学校の机の上に刃物が置かれるという事件があったのも記憶に新しい。最近では女性週刊誌で悠仁さんの性格を問題視するような記事が載り、どこからか意図的に書かせている「情報発信源」があるんじゃないか、と感じさせる。
以下はあくまで僕の推測、というか陰謀論めいた話になるのだが、同様の推理は他の人も書いていた。なぜ小室夫妻、秋篠宮家に対して保守層が激しい攻撃を続けるのか、という疑問に対する推理である。やはり「旧皇族男系男子」の問題が絡んでいるのではないか、という。
悠仁さんが生まれる以前、現皇室は若い世代が女性ばかりで、「男系男子」で続いてきた皇位継承が危うくなっていた。当時の小泉純一郎政権は有識者会議で「女系天皇もありにする」という方針を打ち出させていたが、保守業界では猛反発、「神武天皇のY染色体」などというトンデモ説まで持ち出してあくまで男系による継承を主張して、敗戦直後に皇室を離脱した旧宮家の男系子孫を皇室復帰させよ、と声高に言い立てた。
この皇室離脱はGHQの指示でもあったということで、憲法も含めた「アメリカの押し付け」を否定したい向きにはその意味でも熱が入るところだが、このとき離脱した宮家というのはいずれも「伏見宮家」の流れを汲んでいる。この辺、当サイトの「南北朝列伝」の「貞成(さだふさ)親王」の項目など参考にしてほしいが、簡単に言えば南北朝時代のドタバタの経緯を受けてできたかなり特殊な宮家であり、男系でたどると600年も前に生きていたこの貞成親王が現皇室との共通祖先というくらい遠い遠い親戚だ。このことは小泉政権時の有識者会議の報告でも明記されていて、そんな遠い親戚の皇室復帰は無理、という考えが明示されていた。そしてあくまで推測なんだが、それは現在の皇室一家もそう考えているのではないかと。
そこであくまで「旧皇族の復帰」を実行するにはさらなる補強手段が必要になる。そこで浮かび上がってくるのが、「旧皇族の男子と現皇室の皇女の結婚」という形での皇族復帰というアイデアだ。歴史上の例を挙げれば、古墳時代の6世紀はじめに大和の大王家が断絶、越前にいた応神天皇の子孫とされる継体天皇が豪族たちの推戴を受けて即位、断絶した大王家の皇女を妃として正統性を「補強」したことがある。この継体天皇ってのが史上かなり異例なのは昔から意識されていて、先述の「南北朝のドタバタ」の中でも天皇即位の正統性主張に引き合いにされている。
継体天皇の例を意識してるのかはともかく、それを明言した例があるかは知らないがそれをにおわせる動きはちらつく。一時「女系天皇」に猛反対し愛子内親王が将来即位なんてトンデモナイと言ってたはずが、「愛子天皇」という言葉が保守系雑誌の見出しに出て驚いたこともある。世代からみて秋篠宮家の皇女二人も当然その計画の対象にされるが、あるいはそれを避けようと学習院入学を避けたのか、という見方もある。戦前のような華族制度はなくなったとはいえ、学習院やら宮内庁の一部やらにはそうした画策をしそうな、戦前脳内みたいな人たちが少なからずいるように感じる。そう考えると今度の件を含めた秋篠宮家への激しいバッシングの発信源がどこなのか、見当がついてくるというもの。そういう勢力でもいないと、それこそ戦前だったら不敬罪レベルのバッシングなどできないのではないかと。
小室夫妻たたきをしている人の大半は「なんとなく面白くない」レベルでやってると思うが、震源となるところにそうしたドロドロしたものがあるんじゃないかと僕は思っている。そんな推理が当たってるか外れてるかは別にして、今回の様子を見ていると今後も皇女たちの結婚は大苦労になりそうだし、そもそもこんなにうるさい連中に見張られているような家に「お妃」として嫁入りする人が出てくるのかどうか。旧皇族を復帰させようが側室制度もありえない現代では早晩断絶で、結局皇室尊崇とか言ってる連中が天皇制を滅ぼすことになるんじゃないかなぁ、と。
◆賢明な読者はお分かりと思うが…
この言い回しを読んでピンとくる人はどれだけいるものか。
先日亡くなった漫画家・白土三平は、得意とした忍者劇画のなかでしばしば作者自身による「解説文」をコマとコマの間に挿入することがあり、そこでしばしば「賢明な読者には…」「読者のみなさんにはお分かりでしょうが…」といった言い回しをよく使っていたのだ。そうした解説文による、もっともらしい「科学的忍術解説」の数々に子ども時代の僕はすっかりダマされていたのだが(笑)、今にして思えば「ありえねー」と思ってしまうような忍術ばかりだった(素早く位置を変え、残像を利用した「分身の術」!八つ身できなきゃ一人前じゃない!)。そういうことが分かってきたころに連載されていた「カムイ伝・第二部」で九官鳥を録音機に使ってしまう場面を大真面目にやってるのを読んで、「いやあ、変わらんなぁ」と感心したこともある。
前々回でみなもと太郎、前回でさいとう・たかをと、「史点」は連続して漫画家・劇画家の訃報をとりあげてきたが、今回も白土三平について追悼記事を書くことになった。実はさいとう・たかをの訃報に触れた時、「まさか次は白土…?」と嫌な予感がし、結局的中してしまった。そりゃまぁ年齢的にも近い人だったし、いずれも日本漫画史上の重要人物ということでそんな予感がしてしまったのだけど。白土さんが亡くなった直後に、まさにすぐあとを追うように弟で作画担当だった岡本鉄二さんも亡くなるという、驚きのオマケつきだった。
白土三平、本名・岡本登は1932年(昭和7)の生まれ(くしくも上記事の盧泰愚元大統領と人生がほぼ重なる)。父は岡本唐貴といい、労働運動を描くプロレタリア画家だった。昭和初期という時代の日本はファシズム傾向が強くなってくるころだが、一方でソ連成立の影響を受けた左翼運動も活発で、岡本唐貴もその渦中にあって積極的に活動、特高警察にマークされ、たびたび逮捕されて激しい拷問にあってもいた。
そんな時期に岡本のもとに学びに来た画家志望の青年がいて、労働運動のポスターを描いたり左翼活動家の連絡係をやったりしていたが、やがて映画業界へと飛び込んでいった。その名を黒澤明というから、歴史の人と人とのつながりというのは面白い。
岡本唐貴は特高刑事の激しい拷問を受け、死にはしなかったが傷がもとで脊椎カリエスを患うほどだった(友人の小林多喜二は拷問で殺されている)。こうした立場のため岡本一家は東京から大阪など各地を転々として暮らし、太平洋戦争後期は長野県に疎開していた。それも岡本唐貴が戦況報道などを見て「あと一年半くらいで終わる」と見定めたからだという。この長野県の豊かな自然の中で暮らしたこと、と同時に体の悪い父に代わって一家の生計を支えたことや左翼運動家の子という立場から周囲から迫害を受けたことなどといった少年時代の体験が後の白土三平を作り上げたものらしい。本人は語っているのか確認してないが、疎開先の上田周辺はかつての真田氏の拠点であり、戦前大人気だった立川文庫の「真田十勇士」の部隊の地であったことも後年の忍者劇画を生む原因となったんじゃないだろうか。
戦後、東京に戻った岡本一家だったが、登少年は経済的事情で学校を中退、弟の鉄二と共に絵を学んで紙芝居業界へと入ってゆく。それと同時に左翼運動にも参加し、1952年5月1日の皇居前での衝突事件「血のメーデー」の現場にも立ち合い、「いつかこの光景を作品で描こう」と思ったとのこと。日本共産党への入党も考えたが、父・唐貴に相談したところ「政治家として国を変革することと芸術の変革は別」という言い回しでやんわりと思いとどまらされたという。
1955年から紙芝居仲間と葛飾区金町で共同生活をするようになり、ここに瀬川拓男・松谷みよ子夫妻がいた。僕はだいぶ以前に松谷さんの講演を聞いたことがあり、その中でチラッと白土三平が仲間にいたこと、体操のときに「いち、に、の三ちゃん」と呼びかけられていたことが「三平」のペンネームの由来だ、という話をしていた。ちなみに「白土」の方は戦中に学校に軍事教練に来ていた凛々しい青年軍人の名前に由来するとのこと。
しかし紙芝居人気も下火となり、白土三平は貸本漫画の世界へとシフトしてゆく。同様の流れだった人に水木しげるがいて、水木しげるは自伝漫画の中で白土三平との初対面の場面を印象的に描いている。とある駅のホームで待ち合わせをしたのだが、いつまでたっても白土があらわれない。ただ近くのベンチに乞食としか思えないむさくるしい男が寝ていた。「まさかこいつが」と声をかけてみたらそうだった、という(笑)。もっともその時点での白土はすでに貸本漫画で売れていて、この出会いの直後に当時まだ物珍しかったスパゲティをレストランでごちそうしてくれたという。
時代劇、忍者もの漫画で頭角を著してきた白土三平が絵のタッチも一気に変身して世を騒がせるようになったのが、1959年から1962年まで、全17巻という貸本漫画としては異例の大作として発表された『忍者武芸帳・影丸伝』だ。戦国時代を舞台に影丸という謎の忍者を主人公に、実在架空の多くのキャラクターが入り乱れる大長編で、農民たちの各種一揆による武士階級との闘争が当時としてはすさまじい残酷描写と共に描かれ、しかもいわゆるマルクス史観、古代より連綿と続く階級闘争の歴史が下敷きになっていて、当時学生運動で盛り上がる大学生たちが愛読、「大学生が漫画を読むなんて!」と騒がれたりしたのである。その一方で体から電気を発するやつとか、えら呼吸で水中にずっといれるやつとか、一応「科学的」な説明をつけてはいる忍者たちの話が単純に面白い、という面もあった。「影丸」というと横山光輝の「伊賀の影丸」も有名だが、あちらはエスパーと変わらない。まぁ、白土忍者もそれに近くはあるんだけど、一応説明はつけてるので(笑)。
この「忍者武芸帳」、アニメ化の企画も一時あったらしいがさすがに頓挫。この時期松竹ヌーベルバーグの旗手として次々注目作を発表していた大島渚監督が漫画原画を撮影して編集、そこに俳優たちの声をつけるという前代未聞の表現方法で映画化している。「歴史映像名画座」で紹介しているが、原作以上に「階級闘争」な話に見えるのは、時代のせいでもあるのだろう。
「忍者武芸帳」は白土の代表作として何かと論じられるが、『忍法秘話』シリーズの短編にも傑作が多く、僕はこの人、基本的には短編の名手ととらえている(もちろん短編の名手はたいてい長編もうまいが)。のちに白土のプロダクションの名前の由来となる『赤目』という短編なんて、自然界の食物連鎖を利用した復讐譚という、「科学的社会主義」な白土ならではの傑作エンタメだと思う。
一世を風靡した白土三平はライフワークとなる『カムイ伝』を構想、その発表の場として1964年に雑誌「ガロ」を自らも出資して創刊する(雑誌の名前も白土短編に出てきた忍者の名前である)。月刊誌に毎号100ページ連載という異例のスタイルで発表された「カムイ伝」は、江戸時代初期の架空の藩を舞台に、非人から忍者となり、さらに抜け忍としてさすらうことになる主人公・カムイ、下人から本百姓となり農民一揆の指導者となってゆく正助、家老の息子だが上意討ちで一族を滅ぼされた剣の達人・草加竜之進の三人を主軸として、江戸時代の身分社会のほぼ全ての階層のキャラクターが入り乱れる、まさに「大河コミック」としかいいようのない超大作だ。これに匹敵するような漫画作品は今もって現れていないと思う。ただ難を言えば構想がデカすぎ、第一部でも後半はカムイがほとんど出て来なくなって正助の農民一揆ばなしが中心になるなど、作者ももてあましてる観があるんだよな。終盤の展開も「カムイ伝」を支えた全共闘世代の行く末と重なるところがある。
この「カムイ伝」に刺激され、手塚治虫は自ら「COM」を創刊、ライフワーク『火の鳥』を発表することになったと言われている。永井豪もかなり影響されたといわれ、代表作「デビルマン」終盤に明らかに白土作品的なカットがあるほか、「カムイ伝」みたいなのを描きたいということで『バイオレンスジャック』を描いたという話を何かで読んだことがある。また昨年亡くなった矢口高雄は一度は漫画家の夢を捨てて銀行員になっていたが、偶然「カムイ伝」を読んで衝撃を受け、「ガロ」に投稿して漫画家デビューすることになる(「釣キチ三平」の名前の由来は言うまでもない)。このほかにも「ガロ」からは水木しげる、つげ義春、池上遼一などなどなど、多くの有名漫画家が世に送り出され(「異色」な人が多いが)、漫画史上に重要な位置を占める雑誌となった。また「カムイ伝」は白土自身が細かく下絵と構成を指示したうえで、のちに「子連れ狼」など多くの傑作を生む小島剛夕がペン入れをしていて、この点でも漫画史上注目しなくてはいけない。小島の降板後は岡本鉄二らが引き継ぎ、のちに「カムイ伝・第二部」で作画担当として明記されるようになる。
「カムイ伝」を発表しつつ、プロダクションの経営上の理由もあって少年向けに『カムイ外伝』『サスケ』も発表、いずれもアニメ化されたため知名度も結構ある。同様に少年誌に発表された『ワタリ』も東映で特撮実写映画になり、そのままテレビシリーズ化を見込まれていたが、映画を見た白土が原作の階級闘争史観がないといった改変に激怒、テレビシリーズの方は横山光輝原作の「仮面の忍者赤影」になったというのは割と有名な話。
ところで僕個人の話になるが、僕が最初に読んだ一般漫画が、実は「サスケ」第一巻である。確か月1冊ペースくらいで親に買ってもらい、終盤の展開には(知ってる人はわかるだろうけど)当時かなりショックを受けたものだ。いま思い返しても何もそこまでせんでも、と思う終盤展開で、少年向け作品にも関わらずこんなことやっちゃうって、やっぱり60年安保の「敗北」も影響してるんだろうか。
以後も白土作品を何かと読んでいた僕は、高校生の時に「カムイ伝」の第一部を読破した。タイミングというのは恐ろしいものでその直後に『カムイ伝・第二部』が17年もの空白期をおいて連載開始されたのである。白土三平自身は「カムイ伝は三部構成」と繰り返し公言していて、当時本人のインタビューで「いま考えているのはカムイ伝の完結だけ」とまで語っていたほどで、僕も当時第一部のキャラが次々再登場するのをワクワクしながら読んでいたものだ。しかし残念ながらこの第二部、途中から明らかに迷走をはじめ、やがて連載自体が途絶してしまった。のちに「カムイ伝全集」として外伝ともども新装版で刊行された際に第二部は一応の区切りはつけられたが、構想倒れというより放り出し状態になった観は否めなかった。
その後も「第三部を構想中」と言われ続けていたが、その動きもまるでなく、僕も含めてファンはあらかたあきらめていたと思う。漫画家のライフワーク未完の法則みたいなのがるんだよな。2009年に「カムイ外伝」実写映画化の際に久々に「外伝」の読み切り短編が白土三平・岡本鉄二の名で雑誌掲載されたが、結局これが二人の最後の創作活動だった。白土三平は早い時期から富津で漁師生活をしていて、次第に漫画の方は…などという噂も聞いたが、マネージャーをしていた下の弟さんが先に亡くなったことも創作がとまった一因かも、と聞いたこともある。
まあ、ほかの大長編作品を描いてる漫画家さんにも思うことだが、「もしも」の時に備えて結末の構想ぐらい書き残しておいてほしいものだ。
僕はプロではないが一応漫画描きのハシクレのつもりではあって、そのきっかけも明らかに白土三平にあった。以前とある新人賞もいただいたことがあるのだが(時代劇で、やはり白土作品の影響はあった)、その時の審査員に白土三平がいて、作品評もいただいたことがあって、僕個人には(直接会ってはいないが)とても縁の深い漫画家だった。最近は作品も発表してなかったし、全共闘時代の過去の作家、という感じにとらえられがちなんだけど、こうして追悼文めいたものを描きながら、未読の方にはぜひ白土作品を読んで、その魅力に触れていただきたいと切に思う。
2021/11/12の記事
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