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2021年10月21日

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◆月日は百代の首相にして

 前回の史点をアップした直後、まるで狙いすましたかのように(笑)、菅義偉首相が来たる自民党総裁選に出馬しないことを明言、実質的な退陣表明を行った。その直前まで総裁選出馬に意欲的だとか、二階幹事長を辞めさせるとか、二転三転の発言が続いたが、結局は政権延命をあきらめた形。直前に自身の地元である神奈川県の横浜市長選で現職大臣を辞めてまで出馬した候補がボロ負けしたことも響いたと言われている。年内に衆議院選挙をやらなきゃいけない状況で、菅首相では戦えない、という声が党内に噴出していた、ということもあっただろう。
 
 菅さんの総裁選不出馬表明を受けての自民党総裁選。総選挙前に次期首相レースを演出して少しでも与党有利な形に持っていこうとするのはよくある手で、実際メディアの政治ネタは総裁選一色になって野党の影は薄くなった。もっとも総裁選の盛り上がりはそう大きくもなく、終わってみると白けたムードが流れていた気もする。

 総裁選でもっとも注目されたのは、やはり河野太郎氏だった。菅内閣では国民のワクチン接種を担当していたこともあって知名度は高く、またかねてから自民党総裁、総理大臣を目指すことを公言してきた若手である。さらにいえばこの人は自民党内に多数いる世襲議員の一人でもあり、父は自民党総裁になりながら総理になれなかった河野洋平、祖父は自民党史初期の有力政治家で早死にしたために総理になれなかった河野一郎と、なかなか個性の強い家系の三代目。余談だが河野一郎は最近の大河ドラマ「いだてん」でも登場、朝日新聞記者から政治家になる過程がチラッと描かれていたし、ひと昔前の映画「小説吉田学校」では梅宮辰夫が演じ、若山富三郎演じる三木武吉とのやりとりが、「おやっさん!」などと、ほとんど実録系ヤクザ映画になっちゃってて可笑しかったものだ。僕はどうも河野一郎というとこの映画の梅宮イメージが強く、「ああ、あの人の孫か」という印象を太郎さんには抱いてしまう(笑)。

 河野家にとっては三代にわたる総理総裁への悲願が、もしかして実現するかに見える場面もあった。「反安倍」「反主流派」の代表みたいにされてるけど国民への知名度・人気がそこそこにある石破茂氏のグループと連合、石破氏が出馬しない代わりに総裁選に勝った場合は…という取引もしたとみられる。石破さんといえば安倍晋三氏再選のときの総裁選で第一回投票ではトップだったが、二位・三位連合でひっくりかえされた過去もあり、この連合は選挙に強そうだと地方党員層に期待論が出ていた。ただ、安倍氏周辺を中心に自民党内では石破アレルギーも強く、かえって「河野警戒論」も盛り上がってしまったフシはあった。仮に第一回投票で河野さんが一位になってもまた二位以下連合でひっくりかえされるんじゃないかと。

 今回の自民党総裁選は、史上初めて二人、立候補者の半分が女性議員だったのが目を引いたと言えば引いた。うち一人はネトウヨの方々に大人気で「この中で“男”は一人しかいない!」などという冗談なのか本気なのか不明なつぶやきをツイッターで目撃した(笑)。
  だが結局、当初から本命視されていて、実際に勝利したのは岸田文雄氏。これまた三代続けて衆院議員という世襲政治家で、同じ広島県地盤の宮澤喜一元首相とも親戚関係にある(おばが宮澤喜一の弟と結婚し、その子が宮澤洋一参院議員)。所属派閥は俗に「お公家集団」と呼ばれる「宏池会」で、この宏池会は池田勇人に始まり、大平正芳鈴木善幸宮澤喜一ら首相を輩出した「保守本流」(保守といっても傾向としてはリベラル寄り)を自称する名門。野党時代の自民党総裁になった谷垣禎一もこの派閥だし、「加藤の乱」で失脚した加藤紘一もこの派閥のプリンス、総理総裁候補と言われていた。「加藤の乱」の際に岸田さんも加藤支持で駆け回ったりしていた。
 その「加藤の乱」でこの名門派閥は分裂、衰退の憂き目にもあったのだが、ここでついに、実に三十年近い年月を経ての総理総裁排出となった。岸田さんは突然の安倍退陣を受けた総裁選にも立候補して菅さんに敗れていたが、結局わずか一年後に総理の座を射止めることになったわけだ。

 一時台風の目になっていた河野さんは投票直前で失速、第一回投票でたった1票差とはいえ二位に甘んじ、決選投票では大差がついた。多くの派閥が岸田支持に流れ、総裁選のせいで自民党支持率がいくらか持ち直した安堵感もあったのか党員票も思ったより河野さんに流れなかった、ということみたい。まあ河野さんはまだ若いし今後もチャンスはありそうだが、石破さんはこれで目が亡くなってしまった様子。石破派からも見限り組が出てしまってるし。

 とりあえず岸田さんというのは、保守にもリベラルにもバランスがいいというか、悪く言うと毒にも薬にもならなそうな、やっぱり「お公家」な感じが、「かつぐのにちょうどいい」と思われた感はある。一応「新自由主義の見直し」とか「一億総中流の復活」といった、ここんとこ自公連立政権が進めてきたのとは違った方向性を打ち出そうとしているし、広島県に地盤をもち少年時代から被爆者の体験を毎年聞いていたという人だけに核廃絶アピールなど独自色も見せようとはしてるんだが、どこまで実現にこぎつけられるのか。
 ただこの岸田さん、ひとつ問題なのは国民への浸透度というか、インパクトがないんだよなぁ。外相までやってるのに総裁選のたびに「総理になってほしい政治家」リストでは安倍さんにすら遅れをとっていた。やはり「お公家さん」よろしくアクが弱いので、よくも悪くも印象に残らないキャラなのだ。ま、アクが強くて知名度も人気もある政治家って、僕なんかはかえって警戒しますけどね。

 10月4日に岸田氏は内閣総理大臣に指名、任命され、きりよく「第百代」の内閣総理大臣となった。百代といっても同じ総理大臣が何度か就任した場合も代数を重ねるので百人目の総理大臣というわけではなく、人数では64人目となる。
 また、10月4日に発足してたった10日で衆議院を解散、任期切れも迫っていたからではあるが、当初の予想よりも早く10月31日に総選挙投開票というあわただしい展開となった。急いでいるのはコロナがいったん終息傾向になってる今、第六波が来ないうちに、という狙いじゃないかと言われたりもしてるが。社会の授業で習うとおり、総選挙後には特別国会が開かれて改めて総理大臣指名が行われるため、その直前に内閣は総辞職しなければならない。特別国会の日程は未定だが、まぁ11月の初旬だろうから、第一次岸田内閣は30数日でいったん終わることが確定していて、これは日本憲政史上最短記録となる。敗戦直後の東久邇稔彦内閣の54日間をはるかに更新する記録になるが、総選挙の結果が大惨敗でなければ再登板するはず。なんにせよ、すでに記憶はともかく記録には残る内閣だ。



◆「天の火」の正体は!?

「旧約聖書にある、ソドムとゴモラを滅ぼした『天の火』だよ。ラーマヤーナでは『インドラの矢』と呼んでいるがね!」
 説明不要だろうが、「天空の城ラピュタ」の名悪役、ムスカ大佐のセリフである。超古代文明の遺物・ラピュタから地上に向けて光線が放たれ、まるで核兵器のように大爆発するシーンでの説明で、まるっきり架空の話にいくらかの「信憑性」をまとわせる効果がある。「インドラの矢」のほうは、オカルト考古学ネタの「超古代インド核戦争説」につながるところもあるな。

 「ソドムとゴモラ」は旧約聖書の最初の文献である「創世記」に出てくる二つの都市で、欲望にまみれ退廃しきった都市として描かれている。そのために神が天からファイヤー攻撃を下して二つとも一夜にして滅ぼしてしまったとされていて、その描写は現代人からすると確かに核攻撃を連想させるところはある。
 普通に考えれば、ソドムとゴモラのような話は神話・伝説のたぐいで史実とは考えにくい。だがあるいは科学的説明ができるんじゃないか、という研究は以前からあったそうで、ソドムとゴモラがあったと推定される死海周辺の遺跡から異様に純度の高い硫黄が採取されたと発表されたこともある(「創世記」では神は「硫黄と火」で滅ぼしたと書かれている)。やはり旧約聖書で有名なモーセの出エジプトの際に起こったとされる「紅海が裂けた」とされる現象も巨大地震や火山噴火による津波の前の「引き潮」ではないか、という科学的説明があるが(映画「エクソダス」がこの説で描いていた)、死海周辺で火山活動というのもピンとこない。

 そして去る9月20日、科学雑誌「サイエンティフィック・リポーツ」にアメリカのトリニティ・サウスウェスト大学などの研究チームによる死海周辺の都市遺跡の調査結果が掲載された。2005年から調査していたそうなのだが、これがまたなかなかにセンセーショナルだ。
 彼らが調査したのは死海の北東部にある「トール・エル・ハマム」と呼ばれる古代都市遺跡など。これらの遺跡で彼らは、熱風で瞬時に結晶化した陶器の欠片とか、泡立つほどに溶けた泥れんが、さらには2000度以上の高温でガス化した鉱物、高温の爆風で損傷したようにみえる人骨など、それこそ核兵器でも落とされたんじゃないかと思えるような遺物をあれこれ発見したという。だがもちろん彼らはこれが古代核戦争の証拠だとか、「やっぱりラピュタは本当にあったんだ!」とか言い出してるわけではない。

 研究チームは、これが「巨大隕石が上空で爆発したため」と驚きの説を提唱している。これだけの被害をもたらせるものは科学的に考えてそれしかない、というわけだ。恐竜絶滅の原因となった巨大隕石ほどではないが、ある程度の大きさの隕石が落下して来たらこういうことになる可能性はありそう。近い時代の例では1908年にシベリアで起こった「ツングースカ爆発」が隕石落下と見られていて、同規模のものが都市直上で起こったら、実際核爆発並みの被害が出る可能性はある。
 映画「アルマゲドン」公開時、地球上のごく一部である大都会にあんなに隕石が直撃してたまるか、というツッコミがあったけど、連発でなければたまたま都市を直撃する可能性はあるんじゃないかと。

 研究チームによると、この隕石落下は紀元前1650年ごろのことといい、遺跡調査でもそれまで三千年も栄えたこの地域が、そのころを境に数百年にわたりここに人が住んだ形跡が途絶えているといい、突然の災厄により都市文明が消滅した、そしてその記憶が「ソドムとゴモラ」の伝説となったのだ…、というのが研究チームの説明。確かにありえない話ではないし、面白いとは思うのだけど、まだまだ眉にツバして聴いてしまう話でもある。
 旧約聖書のなかの「奇跡」を科学的に…ということでは、モーセの後継者であるヨシュアが戦闘中に「太陽を止めた」というのがあり、それって地球の自転が止まったってことかい、と思ったりもしていたら、ちょっと検索かけたらこれについては「実は日食だった」と説明してる学者もいるんだそうな。



◆世界人類みな移民

 近ごろ世界のあちこちで移民だ難民だという話題が何かと聞かれるが、そもそも全人類みんなアフリカから出てきて世界中に散らばった人たちの子孫であるわけで(アフリカの中だって結構移住したはず)、人類みな移民、移って来たのが早いか遅いかの違いだけだ。
 「移民国家」と言われるアメリカ合衆国。トランプ前大統領が移民規制をウンヌンやってきたころ、先住民が「じゃあお前も出てけ」とつっこむ風刺画像が出回って笑ってしまったものだが、アメリカ先住民のご先祖だってどこかよそからやって来た「移民」である。
 問題はその時期だ。北米大陸に最初に住み着いた人類は、通説ではユーラシア大陸からベーリング海峡を越えてやってきた人々で、その時期はおよそ1万6000年前くらいかとされている。ひと昔前までは1万3000年クラスの話だったが、北米南米各地でそれより古い遺跡が発見されてだんだん時代がさかのぼってきていたのだ。

 そして先日、それを一気にさかのぼらせてしまう発見があったと発表された。アメリカ内陸部のニューメキシコ州の湖のほとりで、2万3000〜2万1000年前の人の足跡が見つかったというのだ。足跡はその数や大きさから10代の子どもたちのものと考えられ、湖の岸辺の泥の上を歩いた足跡が、その後に堆積物がつもって今日まで残されたものだとのこと。その子たちは泥遊びをしていたというわけでもなさそうで(たぶんそれなら乱れた足跡になるんだろう)、先住民の狩猟文化との関りや、マンモスなどを狩った際にその解体の手伝いに駆り出されたとか、いろいろ説が出てるようで。
 で、どうして2万年以上前のものと分かるかというと、足跡の上に堆積した地層から採取した植物の種子で放射性炭素年代測定を行った結果だそうだ。あまりに古いので、論文の査読で水につかったサンプルだと年代測定を誤りやすいとの指摘もあったらしいが、いくらか幅はあるが2万年を超えることは間違いないと研究チームは説明している。

 2万年前、これまでより一気に数千年もさかのぼってしまう発見に、研究者たちも混乱、困惑しているようだ。最近ではDNA解析により人類の分散過程が分かるようになってきていて、それによるとアメリカ先住民とアジア人の分岐はおよそ1万6000年前とされ、北米大陸に人が渡って来たと考えられてきた年代とおおむね一致していたのだ。だからアジアから陸続きになっていたベーリング海峡を通ってアメリカへ…という流れが信じられてきたのだが、2万年前という話が本当だとすると、この泥んこに足跡を残した子どもたちの先祖はどこからやってきたのか?

 これまでにも一つの仮説として、ベーリング海峡以外のルートでにんげんがアメリカ大陸に来ていたかもしれない、という話はあった。他のルートとなると大西洋か太平洋を渡ってきた、ということになり、それが可能なのか疑問もあるが、太平洋ルートで南米大陸には来ていたかも、という説はあるにはあった。北アメリカ大陸の場合だとどうなるか分からないが…

 この話題を報じたBBCの記事を読んでいて面白かったのは、この泥んこに足跡を残した人々が実際に2万年以上前に北米に来ていたとして、彼らはあとからベーリング海峡を渡ってやってきた「入植者」たちに取って代わられたのかもしれない、という遺伝学者の意見だった。はっきり言っちゃえば滅ぼされてしまったのかもしれない。アメリカ先住民のご先祖もさらなる先住民を追い立て、滅ぼしていたのかも…


 「移民」が続々ときていたのは我らが日本だって同じこと。縄文人、弥生人といった言葉が普通に使われているように両者は体格や文化がかなり異なる集団で、先に縄文人が日本列島に長く住み着いていたところへ大陸から弥生人が稲作文化とともに移民してきて、両者が次第にまじりあっていった、というのが、おおむね通説とされる流れで、古墳時代にはさらに「渡来人」と呼ばれる人々が移民し加わってくる。
 現在上皇となってる前天皇が、朝鮮半島に関して「ゆかり」発言をしていたように、桓武天皇の母親は百済王族の子孫とされていて、この母親が亡くなった時に桓武天皇はそのはるか先祖である高句麗の建国者・朱蒙(ドラマ化もされた「チュモン」。伝承では百済王族もその子孫である)を祭らせたりしていたし、天皇家にしたって奈良時代くらいまで渡来系の血筋が入ってきているのだ。

 やはりそんな流れで、古墳時代に「日本人」がひとまず完成した、という研究成果を金沢大学の研究チームが発表している。彼らは金沢市内で発見された古墳時代の人骨三体分を手がかりに、縄文人、弥生人そして現代日本人と遺伝的な比較を行った。
 その結果、弥生人には北東アジアの住民と共通する特徴があり、それが縄文人と混血していることが確認できた。そして古墳時代の人には弥生人には見られない東アジア人に共通する特徴があり、さらには遺伝的特徴は現代日本人とほぼ一致したという。つまり、古墳時代に東アジアから渡ってきた人々が加わったことで現代につながる「日本人」がほぼ完成した、という話になるわけだ。
 もちろん金沢市内で見つかったたった三体のサンプルなので、それを日本人全体に広げて言い切っていいのかという疑問はあり、さらなるサンプルによる検証は必要だろう。だがすでに言われていた流れを裏付ける話ではあり、特に意外性もない。やっぱりそうなんだなぁ、と。



◆用件を聞こうか…

 前回、8月に亡くなった漫画家みなもと太郎氏への追悼文のようなものを書いた。その後、連載していた「コミック乱」にも追悼特集が載り、その中にさいとう・たかを氏とみなもと氏の対談記事が含まれていた。数年前に行われた対談で、漫画家であるだけでなく漫画史研究者でもある、みなもと氏が「劇画」の第一人者であり実質最後の生き残りであったさいとう氏に裏話をあれこれ聞き出すなかなか貴重な内容となっていた。それを興味深く読んでいたら、直後に今度はさいとう氏の訃報が流れてきてビックリしてしまった。月並みだが、日本の漫画・コミック史上、一つの時代の終わりを感じさせるものがあった。

 多くのメディアで流れたさいとう・たかを氏の訃報、いずれもその肩書を「劇画家」と記していた。僕が見た限り「漫画家」としたものはなく、さすがにさいとう氏ともなると扱う方もわかっているんだな、と思った。ちょっと前に、「最近は出版社の人でも『劇画』という言葉を知らない」という話を耳にしていたので、この点どうなるか注目していたのだ。
 出版社ですら知らない世代が出てきている「劇画」という言葉。僕の記憶するところでは遅くとも1990年代までは割と使われていた気がする。ただしコミック専門誌に載るものではなく、一般のサラリーマン向け週刊誌に掲載されるものに「劇画」という肩書がつけられていた。何をもって「劇画」と呼ぶのかはその時点でも曖昧で、デフォルメ度の高いギャグテイストなものまで「劇画」扱いされていた覚えがある。恐らくだが、「漫画」「マンガ」と呼ぶと子供向けなイメージを抱いてしまう読者層に配慮して「劇画」扱いしていたんじゃないかと。

 本来「劇画」というのは、「漫画」に対抗して大人向け内容の、絵もリアルタッチ(今から見るとデフォルメ度高めだけど)で迫力があるものを指していた。貸本漫画で創作活動をしていたグループが手塚治虫に代表される「漫画」と一線を画すものとして自分たちの作品をそう呼んだもので、命名者はそのグループの一人、辰巳ヨシヒロであったとされる。
 さいとう・たかをもそのグループにいたわけだけど、この人も出発点は手塚漫画だった。多くの漫画少年たちに衝撃を与えたことで有名な「新宝島」をさいとう氏も読み、それまで映画業界へ進みたいと思っていたが「紙の上で映画ができる!」と感激、以後漫画描きへの道を突き進んだとご自身で語っている。なお、さいとう氏の実家は理髪店で、漫画家デビューした際には地元の新聞で「理髪店の少年が夢かなえる」と大きな記事にされてもいるそうだ。のちに「ゴルゴ13」が「理髪店によく置かれているコミック」として理髪店業界から表彰されるという不思議な縁もあった。

 出発点こそ手塚治虫だったが、さいとう氏は早い段階から大人向け傾向があったようで、トキワ荘グループの登竜門となった「漫画少年」に投稿したら、「悪い例」として掲載されてしまったとか(笑)。どうもこの時の審査員は手塚治虫だったようで、それがきっかけかは分からないが、さいとう氏は「手塚的でないもの」を目指し、そのまま「劇画」運動の中心的存在となってゆく。やがて手塚もその勢いを無視できない…というか、この人、台頭してきたづ業者には誰であろうと激しく意識し嫉妬するので、わざわざさいとう氏が活動していた大阪の出版社まで訪ねてきたこともあったという。
 藤子不二雄Aの自伝漫画「まんが道」に登場する架空人物、「激河大介」はさいとう・たかをがモデルだとよく言われ、さいとう氏自身もそう思っていて、死の直前に公開されたインタビューでも「あれは自分がモデルだが、まんが道のようにトキワ荘に行ったりはしてない」と笑っていた。ただ、トキワ荘の入り口に立ってにらみつけるようにしていたので、藤子不二雄の二人が声をかけてみると、「君らとは違うからな」とライバル心を露わにして立ち去ったとの逸話もどっかで聴いたことがある。「激河大介」はさいとう氏個人というより、当時「漫画」とは別の道をゆく集団があったことを象徴するキャラととるべきだろう(まぁ構想倒れになってるけど)

 ただ「劇画」を志すグループの中でも、さいとう氏は孤高というか、浮いた存在ではあったみたい。漫画にせよ劇画にせよ、「芸術家」として個人創作を重視する作家たちがほとんどの中で、さいとう氏は早い段階から「企業的」な集団創作態勢を模索していたからだ。本人いわく「絵を描く才能と話を作る才能は別物。ならそれぞれに優れた人で分担した方がいい」ということで、もともと「紙の上で映画をやる」と言っていたように、話を作るシナリオライター、それをコマに分け演出する構成担当、作画スタッフ(人物、背景、銃器など分業)と手分けして作業し一つの作品を作り上げるようになる。さいとおう氏の作品ではいつも末尾に大勢のスタッフの名前が映画のエンドロールのように並べられているのを見た人も多いはず。
 漫画界では結構早い段階からアシスタントを使うなど集団体制はとられていたんだけど、あくまで「お手伝い」扱いでそうした人を表に出すことはなかった。さいとう氏がそういう集団制作、企業的運営を目指したところ、劇画仲間からも邪道扱いされたという。批評する側も作家論などで扱いにくいところもあったが、さいとう氏はそういう制作体制の方がいい作品になる、という信念を貫き、またその態勢のおかげで長期連載作品でも休載がほとんどない、という驚異的記録ができたわけだ。また、さいとう氏はこういうジャンルの作家には珍しく自ら出版社を設立して経営手腕も発揮していた。

 さいとう・たかを作品といえばやはり「ゴルゴ13」を誰もが真っ先にい挙げる。実に半世紀にわたり執筆された「劇画」の代表作で、どんな依頼もこなしてしまう凄腕の殺し屋デューク東郷こゴルゴ13を主人公に、東西冷戦まっさかりの時代から冷戦終結、各地の紛争やグローバル化といったリアルタイムの世界情勢を背景にした連作ドラマは、いつの時代のものを読んでもやっぱり面白い。手塚治虫の代表作「ブラック・ジャック」だってこれの影響下にあるのは明らかだ。
 ゴルゴの特徴として、殺しの依頼については政治的立場をいっさい問わない、というのがある。まぁ一応読者の反感を買いそうな仕事はあまり引き受けないようにはなっているんだけど…ともあれ、ゴルゴの信条の一つに何か特定の思想に「正義」を感じて寄りかかる、ということは決してない。

 こんなゴルゴのキャラクターについて、作者のさいとう氏は、自身の少年時代に世間の価値観がガラリと変わり、つい先日までの正義が悪に変わってしまうのを目の当たりにしたから、という趣旨を語っている。それはもちろん、日本が戦争に敗北したあの時のことだ。
 さいとう氏は、古典「太平記」を劇画化したとき、あとがきに「自分は戦前の皇国史観教育を受けた最後の世代」と書いていた。敗戦時には小学校低学年で、玉音放送もピンとこなかったが、学校の壁に大書されていた「米英撃滅」だのといったスローガンが突然消されたのを見て初めて敗戦を実感し涙が出たという。このとき子どもだった人に多いのだが、周囲の大人たちが敗戦を機にコロッと切り替わったのを目にして、大人への不信感や正義なるものへの疑念を抱いて少々ひねくれた見方をするようにもなっていたようで、テストの答案を白紙で出したり、1たす1がどうして2になるのか納得できなかったという逸話がある。みなもと太郎氏によるとエジソンアインシュタインも同様だったのだそうな。
 で、テストを白紙で提出するのを習慣にしていたら、ある先生から「君がテストを白紙で出すのは構わないが、これは君の責任においてやったことを示すために名前だけは書きなさい」と言われ、これには納得したのだという。その先生の名前が「東郷」で、ゴルゴの名前の由来になっている。

 「ゴルゴ13」は連載開始時は10回かそこらで終わらせるつもりで、最終回のネームはさいとう氏の脳内にしっかりとあったという。「最終回の原稿はすでに書かれていて金庫に保管されている」という都市伝説もあるんだが、さすがに事実ではないようで、ゴルゴは延々と連載を続けた。外見のモデルである高倉健が亡くなってもゴルゴはもはや年齢を超越した形で現役を続け、結局さいとう氏死後もスタッフにより連載が続けられることになった。そういや高倉健と共に実写でゴルゴを演じた千葉真一さんもつい先日亡くなってるなぁ。

 以前NHKの番組でさいとうプロを取材、その中でゴルゴの顔だけはさいとう・たかを本人が描いているのが映っていた。どうしてもゴルゴの表情(無表情?)だけは、さいとう氏でないと描けないという話だった。と、すると今後のゴルゴの顔つきはちょっと変わってしまったりするんだろうか?


2021/10/21の記事

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