細い聴診器をのばし、意味もなく患者の心拍音を聴く。
心臓はドクンと小さく鳴り、俺の耳をちくりと刺激した。


窓から流れ込む緩やかな風がゆらゆらと紅色のカーテンを揺らし、
色のない無声映画のような診察風景を
よりいっそう別世界のことのように感じさせている。


西日の差し込む診察室で、消毒液のにおいを肺いっぱいに
吸い込みながら、濁った瞳の看護婦たちがかりかりかりと
文字の羅列をカルテに書き続けている。


ここ数日の俺は、何か不思議などろりとした時間の中を
漂っているような気がしていた。
毎日、同じ時間が同じ映像で繰り返されているような…
そんな奇妙な錯覚を覚えている。


繰り返される、なんの代わり映えもしないくだらない毎日。


やがていつの頃からか俺は、この退屈な世界から
音と色彩が失われてしまっていることに気付く。


それでも俺は、その事にはさしたる関心もないまま、
抑えた冒険心を心の中に抱いて、いつものように
患者の診察に没頭するのだった。


俺は黙々と聴診器を走らせ、蒼い顔をした患者に、
ひとつの病名を告げた。いつも診る馴染みのあるあの病名だ。
そして俺は、ねっとりとした夢の中へ落ちてゆく。


病名はKOT。
俺が創った、俺だけの病名。


カルテの上に細いボールペンでかかれた俺の病名は…そう、
哀れにもこれから消滅する運命にあるその病気は、
現実にヨーロッパで流行しているKOTという病気の
完全なミニチュアだった。
汚れたポリゴン、ひしめくごみ溜めのような町並み、
そして主体性のない詰まらない奴等によってデザインされた
ゲーム構成も、何もかもがこの世界と同じだった。


世界の崩壊は、いつも唐突にやってくる。


俺はカルテの上に小さな丸印を書き込む。その丸印は…
KOTを消滅させ、絶滅させるクリムゾンの引き金だった。
突然、なんの前触れもなく敵が現れる。
クリムゾンは火を吹き、敵は踊り狂い、断末魔の叫びが響き渡る。
白い服を着た人々が、脈絡もなく街の中に現れる。
今この瞬間、プレイヤーは何が起こってるのかもわからないまま、
ゲームオーバーを迎えるのだ。


俺の診察は続く。


だが難易度調整なんかありはしない。あるはずがない。
ゲームそのものが、ゲームという概念そのものが、
壊れてなくなってしまうのだから。
指が折れるまで、目に焼き付くほどプレイし続けても、
アッシムの館からは絶対に進めない。


そして俺は機械的な動きで、一つ一つカルテに印をつけていく。
クリムゾンが命中した敵は…凄惨な最期を遂げて消滅していく。
徐々に自分たちの常識が通用しなくなっていくさなか、人々は他人を巻き込み、
我先にとOPムービーを見て地面を笑い転げまわった。


俺はわざとアッシムの館だけをムササビで埋め尽くした。
やがてそこには、他人を巻き込みながらも、デスの魅力に取り付かれた
哀れで醜いプレイヤーたちが集まってくるのだった。
奴等は、腐りかけた口から苦しみの言葉をはきながらうつろな目で口々に哀願する。
「おねがいだ、先に進ませてくれ」
「こんなにムササビがいる理由が分からない」


そして俺は、もったいぶるようにゆっくりと引き金を引き、
ムササビの悲鳴を聴きながら無慈悲にも最後のライフを失うのだった。


その瞬間、俺は幾千幾万もの人々の絶叫を耳にしたような気がする。
体内にどくどくと熱い血液が流れ、それは激しく全身を駆け巡った。


言い知れぬ興奮が俺を何かに駆り立てる。
はっと夢から覚めた俺が聴診器を握った手をゆっくり広げると、
手のひらは自分でも驚くほどにじっとりと汗ばんでいた。


日ごと鮮明に浮かんでくる自分自身の妄想に、
俺は身の毛のよだつような戦慄を覚えていた。


だがそんな心の裏側にかすかに脈うつ快感が潜んでいることも否めなかった。


診察中、KOTの妄想に酔いながら麻薬のような悦楽を得ている俺と、
そんな自分におびえる俺。
日ごと鮮やかさと臨場感を増す妄想と、色彩と音を失っていく現実。
熱く脈うつKOTと、乾いた戦場のような理性。


もしかすると、俺は、つまらない現実を離れ、
徐々にKOTの世界に足を踏み入れようとしているのだろうか…。


そんな事を考えながら、何気なく視線を宙に漂わせていたときのことだった。


「デスデスデスデス…」
そう言う乾いた笑い声が待合室中に広がった。



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