過去の雑記 99年10月

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10月11日
田中香織ファンクラブの方々の嫉妬を一身に浴びつつも、小浜賞受賞SFファン、田中香織嬢@東洋大SF研を家に招いてしまう。って、DASACONで忘れていったSWボトルキャップを預かっていたので、取りに来てもらっただけですが。
それでも、彼女もいないおたく野郎の部屋にいたいけな少女が独りで行くのはいかがなものか、と思った方、安心して下さい。ちゃんと、東洋大OP小菅君と蔭山さんも来てました。

しょせん家に来てもらっても大した物はないわけで、90年頃のNOVA MONTHLYだの、でざーとむーん叢書のクイズブックだのといった、一部の人から見れば「つい最近」のファンジンを見せて場を持たせる。こういう状況でついウケをとるには何を見せるべきかで悩んだりしてしまうのは、心配性なのか虚栄心が強すぎるのか。まあ、なんとかそれなりに場は持ち、予想より旨い飲み屋で軽く飲んだ後、一部の蔵書を強引に貸しつけたりしているうちに11時になったので解散。楽しかったので、またなんかあったら遊んで下さい。

おまけ:田中さんファンのための田中香織嬢、今日の一言。

(入ろうとしていたコジャレたバーの店内を見て)
「テーブルが小さいじゃないですか。あれじゃ、料理が一杯載りませんよ。」
なるほど。

10月12日
デレク・A・スミジー著 柳下毅一郎訳『コリン・マッケンジー物語』(パンドラ)を読了。映画の方では、端折ってあったエピソードがいくつも盛り込まれており楽しめた。マッケンジーという人物の足跡をたどるには、映画よりも優れているようだ。もちろん、マッケンジーという才能を評価するためには、彼の映像そのものを見ることができる映画の方が優れているわけで、どちらが良いかということになれば、両方見るのが正解だろう。その場合、映画→書籍(→映画)という順が良いのではないかと思うが、これはまあ人それぞれか。
スタン・ザ・マンことスタン・ウィルソンとの関係など、映画では今一つわかりにくい部分が明らかになるので、コリン・マッケンジーという人物を理解する上ではぜひ手に取っておきたい1冊だ。いや、そのような必要性を離れても、夢を求め、それを掴みうる才能を持ちながら、運命に翻弄された孤高の天才の物語はきっと読者の胸を打つはずだ。

こうまで書くとリアリティが無いかな。映像の持つ暴力的な説得力が使用できない分、丹念に書き込まれた細部によりフォローされているので、映画以上にウソが楽しめると思う。かなりの良書です。

10月13日
東洋大掲示板にはコリンマッケンジーを見に行くと書いてしまったのだが、あまりに眠かったので諦めて帰ることにする。清廉潔白、真実一路が身上だというのに、結果的に嘘をついた形になったことは心苦しいが、しかたあるまい。眠いものは眠いのである。

10月14日
油断していたら途中まで終っていた「エクセル・サーガ」を終りだけ見る。……うーむ。まあ、来週もう一回は見てみよう。

ダン&ドゾワ編『不思議な猫たち』(扶桑社ミステリー)読了。前作に比べると技巧に走った作品が多いがそれはそれで楽しめた。集中では、なんといってもアヴラム・デイヴィッドスン「パスクァレ公の指環」がベスト。確かに読みづらいんだけど、それを補ってあまりある文体の魅力には脱帽ですね。シリーズ全体の翻訳希望。
ところで、各作品の作者紹介で、ムーアの項の"Bring the Jubilee"以外に未訳作品が無いってのは収録作家がよっぽどメジャーなのか、過去の紹介者の選択眼がよっぽど優れているのか。サージェントなんて芸歴長いんだから、『エイリアン・チャイルド』以外の代表作があっても良さそうなもんなのに。

10月15日
横浜対ヤクルト27回戦に横浜が勝利し、今年のペナントレースが終了した。
セントラルの覇者は中日ドラゴンズ。昨年の横浜が選手の能力と世論の勢いに支えられて優勝したのとは対照的に、今年の中日は戦略(走力、小技中心のチーム構成と徹底した投手陣整備)・作戦(4月で圧倒的優位に立ち、7月に再攻勢をかける2段階の攻勢)・戦術(昨年の横浜以上の継投策の徹底と、大量点よりは確実な得点を狙う勝負重視の打撃)を確立する事により優勝している。完全なまでの首脳陣の勝利である。年棒交渉でよほど致命的な失敗を犯さなければ、もうしばらくこの強さは維持されるだろう。中日黄金時代が到来してしまうかもしれない。
しかし、これは怖い。星野のパフォーマンスに眩惑されて気づかないが、星野の野球というのは基本的につまらないのだ。ランナーを確実に進塁させ、ノーヒットできっちり点を取り、継投で1点を守り切る。似たタイプの野村野球は、「意表を突いた作戦」という美点があるのでまだ許せるが、指揮官の勘よりも豊富な戦力を武器とする中日ではそれも望めない。まあ、中日だけがこの体制を守るのなら構わないのだが、中日黄金時代が到来した結果、他チームがこの戦略を真似するなどという事になったら目も当てられない。そんな事態を避けるためには、いらない大量点で相手の士気を崩壊させる権藤放任野球が来期中日の連覇を阻止するしかない。てなわけで、がんばれ横浜。
# ただただ豊富な戦力だけで相手をねじ伏せる長嶋米軍野球でもいいけど、他チームが真似出来ないんだよな。

アーウィン『アラビアン・ナイトメア』を読み終える。冒頭から(いや、表題から、かも)「メタ・フィクションだ!」と宣言するような作品だけあって、読んでいるとすぐに基層の物語がどれだかわからなくなる。この辺は、本家『アラビアン・ナイト』を完全に踏襲しているようだ。踏襲しているといえば、作中で語られる物語が必ずと言っていいほど入れ子構造なのも、本家そのまま。その構造をつい突き詰めてしまったりするあたりには、欧州の分析的理性を感じるが。
そんな構造だけに、ストーリーを取り出して楽しむには至難を極めるが、場面場面の幻想性は文句無い。現実と夢の、いや夢と夢との区別さえ曖昧になる複雑な物語構造とあいまって、大通りを魔術師が横行し、町角に貧者が屯し、裏筋を畸形がさまよう、ほの昏いカイロの描写を存分に楽しむことができる。秋の夜長にじっくりと読書を楽しむには最適の一冊。

10月16日
夕方から高田馬場芳林堂に出かけ、エフェローエフ『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』(国書刊行会)を購入。もちろん、<文学の冒険>コンプリート計画の1冊。これで残るはたった14作(15冊)だ、って結構多いな。

ユタ例会の参加者は、林、深上鴻一、藤元直樹、宮崎恵彦、雑破業、添野知生、高橋良平、堺三保、福井健太(到着順、敬称略)。主な話題は、新作アニメ評とDVDの話かな。フリーのライターになった途端、さまざまな仕事以来が舞い込みつつある深上さんには、豪華な同人CDドラマのCD-ROMを頂いてしまった。ありがとうございました。
あ、あと、ルノアールで、宮崎さんの背中越しに福井さんと野球の話をしていたのが今日の反省点。あんまり長く話し込んでいたので席を替わってもらったり、かなりご迷惑をおかけしたような気がする。どうも申し訳ありませんでした。> 宮崎さん

大体そんなところで充分という気もするが、以下の会話は、必ず記録しておくようにとの依頼があったので記しておく。
添野:「堺さんって、結婚を人生の墓場だとだけ思ってない?」
堺:「そんなことはありませんよ。結婚には憧れてます。
一同:(爆笑)
(しばらく間)
堺:(雑破さんに)「突っ込んでばかりいるけど、君はどうなんだ。(注:本来は関西弁)」
雑破:「いや、僕はポルノ書きとして清い体でいなきゃなりませんから。
僕からのコメントは特にない。

10月17日
ティム・オブライエン『カティアートを追跡して』の上巻を読み終える。脱走した兵士を追ってベトナムからパリに向かう部隊、というメインのストーリーラインはわりと好み。また、カットバックを多用する手法は、現代文学としてはありきたりだが、テーマと文体には良く合っている。気になるのは全体からそこはかとなく自己憐憫の匂いが感じられる点。どうも、あと一歩のところで甘さが残るという印象がある。『キャッチ=22』とは勝負になっていないような。

10月18日
ティム・オブライエン『カティアートを追跡して』(国書刊行会)を読了。作中で実際に何が起きたのかが(解釈の余地は残されているとはいえ、ほぼ)一意に決まってしまったのには驚いた。ベトナムの混乱を効果的に表し、幻想を紡ぎ上げる事に成功しているとは思うのだが、どうも毒が足りないと印象が強い。僕が、「ベトナム」という概念に共感できないのが根本的な問題なのかも。

10月19日
夕方から神戸へ。宇宙科学技術連合講演会に参加するためだ。新幹線に3時間以上も閉じ込められるというんだから、読書の絶好のチャンスなのだが、人と一緒に移動ではそうもいかない。やはり、友人はともかく、同僚だの上司だのとの移動ってのは気詰まりでいけませんね。まあ、なんとか機会を作って、トドロフ『幻想文学論序説』を読み始める。
序盤で提示される「幻想文学とは自然と超自然との間の「ためらい」である」という定義には感心。それですべてを覆い尽くせるかってのには疑問があるけど、簡潔にして要を得た定義という風格がある。確かに、超自然である事を受け入れてしまっては幻想文学っぽくなくなるよね。

10月20日
仕事でポートアイランド-三宮-新神戸間を往復する。電車だと移動時間10分にもならない距離なのに、山麓から海上都市へ変化してしまうというのは新鮮な驚き。海上から、港湾を通して眺める摩耶山の風景には一種独特のものがある。また、完全な人工島でありながら無数のマンションが立ち並ぶポートアイランドの光景もかなり不思議なものだった。そしてなんといっても、海岸線一帯に立ち並ぶ巨大な港湾設備の迫力。やはり、初めて行った街というのは楽しいね。

『幻想文学論序説』を読み進める。序盤の「幻想文学とは、現実と超自然の間でのためらいである」とする論立ては良かったのだが、その後の論旨はイマイチ……、と思っていたら、ここで言う幻想文学は19世紀のものだけなんですか。それなら、ほとんど読んだ事無いから論に共感できなくても仕方ないやね。ってわけで、割と気を抜いて読み続ける。超自然が超自然である物語が「驚異」ってのはまだしも、超自然が現実になる物語が「怪奇」ってネーミングはいまいち納得が行かないなあ。
とりあえず、「虚構は詩になってはならず、寓意に落ちてもいけない」という部分だけには僕の幻想文学の定義でも納得。「おーい でてこーい」を公害問題に対する警鐘なんて捉えちまったら、せっかくの作品の味が台無しだよね。

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