「何度踊っても納得のいかない『瀕死の白鳥』。
いつも「瀕死の白鳥」を踊るたびに思うことは『難しい』。だから常に勉強し稽古して踊ってきました。
」と、
長年「瀕死の白鳥」を踊り続けてきた渡邉順子。(JUNバレエ塾HP:
[手紙]より)
「
また「観たいと」観客が思った瞬間、踊っている本人もまた踊りたいと思うのです。
これが観客と舞台に立っているバレリーナの共同作業なのです。
一人で踊っているのですが必ずそこには観客がいることを
忘れてはならないのです。
」
渡邊順子は、常に、こう自分に言い聞かせて舞台に上がります。(JUNバレエ塾HP:
[私がバレエから学んだこと]より)
1991年に初めて踊って以来、渡邉順子の「瀕死の白鳥」の舞台は、2008年で20回を数えます。
以下は「死に至る白鳥」の舞を、とことん追求し続ける、渡邊順子の進化の軌跡です。
2010年6月 神奈川県立音楽堂 | 直前の舞台稽古はトゥシューズを履けず、ぶっつけ本番のトゥシューズという、最悪の体調。「本番はどんな踊りを踊ったのかまったく覚えていない。最後のレべランスで拍手の音が聞こえ無事に踊り終わったと感じた」というほど、朦朧とした限界の状態での舞台。
でも「来年もまた『瀕死の白鳥』を踊って欲しい、『瀕死の名人になりなさい』」と言う言葉を批評家から引き出した最高の「瀕死の白鳥」でした。
|
2008年10月 テアトルフォンテ | 「コンテの呼吸法を使い、白鳥の生から死にいたる瞬間を表現したいと思います。」。渡邉順子はトップバッター。数十の演目の先陣の責任は重い。プレッシャーと戦いながら踊り抜いた彼女。しなやかに波打つ腕、まろやかなカーブの甲、優雅なアラベスク・・・。そして折れんばかりに「くの字」に反らせた背中。思わず生唾を飲み込みました。「自分でも満足できる舞台」と彼女。
|
2008年4月 神奈川県民ホール | 開演前「古傷の足を痛めましたが、今までにない心地良さの中で踊れると思います。今回の渡邉順子の瀕死は、感謝の気持で踊りを表現できると思います。」と言っていた彼女。
終演直後、私のすぐ後ろの席から、「素敵だわ!!!」という、溜め息のような女性の声。私は自分のことのように嬉しくなりました。
|
2007年8月 故郷・宮城県民会館 | 「6月末からバレエに集中できなかった」、仙台に向かう新幹線からくれた不安に満ちたメール。故郷の先輩や友人の前での踊り。2005年6月の悪夢が頭をよぎったのでしょう・・・。渡邉順子は頑張りました。ラスト、息も絶え絶えでしばらく立ち上がれませんでした。わき上がる拍手にハッと我に返った彼女。汗まみれの背中、大きく波打つ胸・・・。笑顔が戻って・・・、思わず胸にジーンと来ました。
|
2007年4月 神奈川県民ホール | 何時になく緊張気味の彼女。「『瀕死の白鳥』は、最初から最後まで自分だけが頼り。大きく深呼吸して踊ります。」 と舞台に飛び出していきました。踊り終わって「今回の『瀕死の白鳥』で初めて歓喜の死を味わいことができました。」と。
大きく波打つ胸、汗にまみれた背中・・・、心臓の鼓動が聞こえるよう・・・。胸がジーンと熱くなりました。
|
2007年2月 目黒パーシモンホール | 開演前「目黒のレベルは高い。観客の眼は厳しい。頑張って頑張って・・・、最後には観客が応援したくなる『瀕死』を踊ります。」と言っていた彼女。
力尽きた瀕死の白鳥が、最後の力を振り絞ってもう一度立ち上がり、もがき苦しみ、再び倒れ込んでしまう・・・。「『刺激ある舞台』でした。また目黒で踊りたいと思います!!!。」と彼女。背中には汗が光り、息を切らせての迫真の演技でした。
|
2006年10月 よこすか芸術劇場 | 「一皮むけて、天界に近づき今までとは違う光りがキラキラ輝いてきた「瀕死」だったと思います。」と渡邉順子。
細やかなブーレと繊細な指先の動きに伴った、ふんわりと全身から自然に滲み出たような、ふくよかで健康的な「お色気」を醸し出していました。
|
2005年7月 関内ホール | 前回は不本意な舞台。復活を賭けた渡邉順子の挑戦でした。脚の痛みを堪えて、順子は頑張りました。踊り終わった時の彼女の言葉、「主人の感想は『お前は脚が痛いほうが上手く踊れるんじゃない!!』でした」。ご主人も褒めた大成功の「瀕死」、見事な復活でした。
|
2005年6月 八王子いちょうホール | 渡邉順子11回目の「瀕死」。彼女にとっては初めて味わった屈辱感。試練の「瀕死」だったようです。本当に本番が終わった日は落ち込んでいました。「アラベスクもアチチードも決めれなくて、見るからに下手な踊りです。
この「瀕死」は私にとって貴重な体験になりました。これからも「瀕死」を踊りぬく覚悟で、修行に励みます。」と渡邉順子は再起を誓いました。
|
2004年11月 よこすか芸術劇場 | 表面的でない奥深い美しさ。渡邉順子10回目の「瀕死」のステージです。「ここに辿りつくまでの道のりは長かった。10回目の「瀕死」を踊り終わってからの私はやっと卵の殻を破れたと言う気分になりました。
やっと自分の道が開けた思いがします。」と渡邉順子。彼女の集大成とも言える「瀕死」です。
|
2004年9月 関内ホール | 「観客が『悔いのない人生を生きたい』と思えるような舞を踊りたい。そのためにはどうすればいいのか。日々・・・考え・悩みました。」と渡邉順子。関内ホール、怪我を克服してのステージ。感動でした。
|
2002年8月 グリーンホール相模大野 | 渡邉順子の『新鮮な瀕死』。「足で『瀕死の白鳥』を表現してみたいと思います。足に注目して下さい。今回の瀕死は」。 挑戦し、成長するダンサーは美しい。
|
2001年12月 鎌倉芸術館小ホール | 「流れる様に踊ると言うのではなく、ポーズを決める。流れの中に、止まる一瞬をつくり出す」。渡邉順子が精魂込めて踊った「瀕死」。胸が熱くなりました。白鳥が立とう立とうとしながらついに息絶えてしまう、この表現がなんとも言えません。
|
2000年4月 鎌倉芸術館大ホール | 「『瀕死の白鳥』を踊った事は何か大きな運命だった様に思うのです」。突如巡ってきた「瀕死の白鳥」を踊るチャンス。 渡邉順子の「瀕死の白鳥」の始まりでした。
|
1991年12月 仙台市イズミティ21 | 谷桃子の指導を受けた、故S.メッセレル女史振付の「瀕死の白鳥」。「『お前は生徒じゃない。プロとして生きていくんでしょ』と叱咤され、無我夢中でした」と渡邉順子。
プロへの夢に胸を膨らませた、1羽の若い白鳥の羽ばたきでした。
|