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信濃 東條耕 子藏著
東溪は其先世〃攝津の人にして、嚴然たる望族なり、鎭守府將軍源満仲、始めて多田邑に居り、其曾孫明國、封を多田全邑に受け、遂に地を以て氏と爲す、明國、頼盛を生む、頼盛は攝津守に任ぜらる、頼盛、行綱を生み、行綱、基綱を生む、承久中勤王して、鎌倉の兵と抗戰し、宇治に敗績す、其子重綱、其子宗重、其子長重、其子重國、民間に在り、子孫自ら降りて庶人と爲り、數世多田邑に土著す、父悠怡業を商販に起し、始めて平安に徙る、辻氏を娶り、東溪を東坊の谷街に生む、故に長じて後、此を以て自號と爲す、
東溪初め舅桑原空洞が爲めに鞠養せられ、其嗣子と爲りて、桑原篤靜と稱す、筆札の技に巧にして、心を臨池に專らにすと雖も、素と其好む所にあらず、空洞は講經の暇、性筆札を好み、常に以て字を書して自ら娯み、傍ら生徒に教ふ、業一時に振ふ、學術之が爲めに■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)はれ、世稱して書師と爲す、東溪已むを得ず、此を以て教授す、能書の名、洛下に聞ゆ、
東溪少くして書を讀むを好む、三宅尚齋の門に入り、專ら山崎氏の説を修む、講習年あり、遂に濂洛關■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)諸家の書に通ず、尚齋門下の塾規嚴禁にして、出でて他姓を冒すを排斥す、故に義子と爲りて、人の後を嗣ぐ者、學に志あり、能く先後する所を知り、倫理を辨別すれば、興起特立して、本姓に歸服するを以て、學術操行の第一と爲す、東溪從遊の後、既に其他姓を冒すの道にあらざるを知る、然れども未だ脱去する能はず、幾ばくもなく、其縁由を告ぐ、空洞亦能く其志を爲さしめ、之を許す、遂に空洞に辭謝して、本姓に歸復するを得たり、
東溪平安に在りし時、林壑の深秀を愛し、別墅を泉谷に築き、時々此に寓す、額して心遠堂と曰ふ、蓋し之を陶靖節(*陶淵明)の詩句に取るなり、
東溪初め江戸に到り、芝口門外に僑居し、〔今の芝口新橋は、享保中廢して置かず、〕講説して徒に授く、後秋田侯の聘に應ず、侯延いて門客と爲し、禮待頗る厚し、侯是より先き、大に學舍を起して、造士館と曰ふ、學政一に山崎氏(*山崎闇斎)に從ふ、侯東溪が尚齋の門に出づるを以て、經を館に講じ、子弟を訓導せしむ、曳裾五年、後、室鳩巣と交驩し、持論立説、多く其初と異なれり、侯之を悦ばず、東溪又舊規に拘泥するを厭ふ、遂に病に託して辭し、其の禮待を謝す、蓋し當時山崎氏の學を奉ずる者、事々物々、師説を確守し、授受固執す、好みて門戸の見を持し、其謬を知ると雖も、多方回護して、其陋習を言ふを欲せず、寵樹比黨、拘泥殊に甚し、故に東溪を忌む者は、斷然として放(ほしいまゝ)に先修を駁し、好みて定説に違ふの言を以て沮裁し、之を屈抑せんと欲す、是に於て、意を侯に失ふに至る、〔按ずるに、秋田學黌は始め造士館と曰ふ、中に明道館と曰ふ、今は日智館と曰ふ、其學風屡〃變ず、初は山崎氏、中は物氏(*荻生徂徠)、今は山本北山なり、〕
東溪東遊の後、鳩巣と一貴紳の宴席に相見る、鳩巣深く其學術の精密を稱し、竟に屡〃盍簪す、鳩巣益〃其人と爲りを識り、以て後進の領袖と爲す、東溪亦其長者の風あるに信服し、遂に質を門下に執る、
東溪は性度寛裕、風神朗徹、程朱を崇奉し、師説を確信すと雖も、世の山崎の學を治むる者に似ず、嘗て曰く、僕向に以爲らく、山崎翁の學は、特に理一に專らにして、分殊に略する者なり、君臣の大義あるを知りて、湯武の放伐と、君臣の義を、竝び行はれて相悖らざるを知らず、經義に内外の分あるを知りて、修身以上、敬を爲して、以て内を直し、齊家此下を以て義と爲し、以て外に方るを知らざるなり、此れ其大なるもの、既に違馳せり、其他見る所、多く一理に執定して、分殊を知らず、神道に流るゝ所以なり、今謹みて程朱の説く所を思ふに、其理一なるものは、義理の一隅なり、本原一理の處に於て、見る所未だ徹せず、故に往々窒礙する所あり、其見る所を以て、之を一にす、是れ其分殊に略するものなり、理一に精なれば、分殊に■(鹿三つ:::大漢和47714)なるもの、固より理の致す所に暗し、今其説を確守する者、各其好む所に阿るは、豈に斯れ學の旨ならんや、因つて思ふ、先賢言を垂れ教を示すの精核、後學其意を發揮するの至難、愼まざるべからず、近時の人、横に異論を生じ、妄に先儒を毀るは、其明察認得を缺くの弊なりと、
東溪は、元文中、稻葉迂齋の薦を以て、館林侯武元〔從四位下侍從松平右近將監〕に筮仕す、禄百五十石を受け、侍讀と爲り、數〃封地に往來す、後、西城の下邸舍に移居す、時に侯列相と爲り、政務を宰輔し、大任に服し、煩劇に居ると雖も、學を好み士に下る、東溪其優遇に感じ、贊成翼戴すること、二十年一日のごとし、今に至るまで、一藩の典刑法制、皆其創定する所に出で、之を沿用すと云ふ、
東溪嘗て館林に在り、權に郡宰を攝すること三年、封邑大に治る、境内を循行し、利害を偵伺し、以て人の知る能はざる所を知り、人の斷ずる能はざる所を斷ず、壅滯を通じ、棄闕を補ふ、民大に喜ぶ、
東溪郡宰と爲るの日、治下の民、金五圓を亡ふ者あり、檢覈するに跡なし、唯二僕婦のみ在り、之を訊ふ、肯て承くる者なし、命じて伊勢大神宮の禳符の木箸一を持ちて去らしむ、告げて曰く、盜まざる者は、明夜木箸故の如し、盜む者は、明夜必ず長ずること三分と、既にして之を觀れば、一は故のごとく、顔色自若たり、一は三分を剪り去る、蓋し其長を慮るなり、一言遂に服す、
東溪曰く、我邦語録の書あるは、山鹿素行を以て、之が始めと爲す、近時若林強齋の歿するや、友人山本復齋、其平生筆記する所を編次し、遺書と曰はず、概して語録と曰ふ、蓋し其言行の散逸に就くを慮るなり、然りと雖も、語録の字は、原と釋氏に出で、儒家の效ふべき所以にあらざるなり、朱子語録、既に之を排斥する者あり、曰く、宜しく遺書或は遺事と云ふべし、豈に浮屠氏の爲す所に效はんやと、是に由つて之を觀れば、書名の一事と雖も、志を道義に留むる者は、苟も爲すべからず(*と)、
東溪は元禄十五年壬午五月晦日を以て生れ、明和元年甲申八月廿六日歿す、享歳六十三、谷中の里玉林寺に葬る、配埜野氏五子を生む、長は維長、季は維厚、女は武井生に適ぐ、餘は皆夭す、著す所、世本正誤一卷・心遠堂雜録十二卷・東溪筆記八卷・文集十卷あり、
鳳湫は久野氏、本と藤姓より出づ、故に文詩に於ては、艸を去りて滕と爲す、嘗て細井廣澤に見え、談我土の氏族に及ぶ、廣澤又藤姓より出づるを以て、自ら修めて滕と爲し、既に之を行ふ、是より先き、安藤東野、物徂徠と相謀り、文詞の上に於ては、一切滕に爲し、安藤となす者なし、鳳湫又時習に沿ふなり、
鳳湫の父圓法、出でて小谷氏を冒す、和歌を以て名あり、鳳湫十二歳の時、父に從ひて、水府肅公に其邸館に謁見す、公試に詩を作らしむ、立どころに賦して曰く、
筆は擬す鍾王の跡、詩は摸(*「莫/手」)す李杜の風、懷を暢ぶ臺閣の裏、何を以て君公に謝せん(*筆擬鍾王跡、詩摸(*「莫/手」)李杜風、暢懷臺閣裏、何以謝君公)公之を嗟賞し、目するに奇童を以てす、親しく書籍數種を賜ひて、之を稱譽し、圓法に命ずるに、師を擇びて之を教ふるを以てす、遂に林榴岡の門に入る、
武夷は家世〃相の鎌倉の人なり、少壯より武技を好む、撃劒を長沼四郎左衞門に學び、其秘奧を極む、蓋し撃劒の術、其原始は得て詳にすべからず、蓋し天文以降、戰國の世に起る、技撃の餘流のみ、技撃は兵中の最下と雖も、猶三軍の用を爲す、撃劒は乃ち一人の敵たり、其技愈〃卑し、然れども彼刺客の徒、能く此を以て、報讐の意を行ひ、人生を一拳の下に殪す、其機益〃精しく其術益〃熟し、變幻逸宕、端睨すべからず、後世に至るに逮び、人門戸を立て、各〃相授受す、明良の士、其少技たるを知ると雖も、苟も刀を佩ぶる者は、習演せざるを得ず、上、侯伯大人より、下、衆庶細丁に及ぶまで、盡く意を此に留むるもの、滿天下皆是なり、武夷將に此を以て身を起さんとす、八町溝に僑居し、士類に教授し、諸侯の邸第に出入す、歳廿五に及び、未だ書を讀み、道を講ずるを知らず、自ら劒客を以て居り、世の豪侠冶遊と伍を爲す、
武夷歳廿六、初て物徂徠に謁し、孫子を講ずるを聽く、初て將帥の任は、全く節制調練と規律森嚴とに在るを知る、又荀子を講ずるを聽く、荀卿兵を趙の孝成王の前に論じ、技撃を以て兵の最下なるものと爲す、是によりて、慨然として自ら學に從事せざるを悔い、節を折りて書を讀み、遂に束脩を徂徠に行ひ、之が弟子と爲る、
武夷徂徠に從事し、學術既に成る、專ら文藝を攻むと雖も、傍ら尚撃劒を以て子弟に教授す、嘗て謂ふ、我東方の人、其長ずる所は武技にして、文藝は遠く此に及ばず、故に開國の大祖、神文と曰はずして、神武と曰ふ、然れば吾輩武人ならざるべからず(*と)、常に武威雄壯にして、人を摧服せんと欲す、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、呼んで武威生と曰ふ、最後朱子文集を讀み、武夷九曲の詩を知る、故に武威を改めて武夷となす、原と傍人の呼ぶ所に從ひて、自ら以て號と爲す、
武夷弱冠の後、長沼翁に從ひ、佐藤直方に厩橋侯の讌席に逢ふ、直方は闇齋の高弟なるを以て、舊と崇重せらる、其人豪邁抗簡、世人を傲視す、翁に謂つて曰く、夫れ劒は小技なり、項籍猶之を學ぶを恥づ、況んや項籍たらざる者をやと、其言倨驕、意之を輕蔑するに在り、武夷側に坐して之を聞き、竊に其不遜を慍ると雖も、未だ項籍の何人たるを知らず、遂に之と對話する能はず、是に於て、憤然として學に向ふの意あり、
武夷は講經の暇、韜略に旁通す、常に子弟に謂つて曰く、武技を治めんと欲せば、宜しく先づ文治より始むべし、後、盤根錯節、利器始めて神なりと、
武夷晩年李王の歌詩を厭薄し、好んで白香山(*白居易)・蘇東坡の二集を誦す、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、皆之を非駁す、怡然として曰く、公等未だ其美腴を嘗めず、何ぞ味の辛甘を論ぜんや、若し將に眞味を知らんとせば、但之を愛玩せよ、之を久しうして後、必ず心醉ひ神飫くあり、自ら其妙を驪・黄の表に得ん、吾今超然として言を問難の間に忘れ、將に舊習聲律の弊を一洗せんとすと、蓋し海内滔々として李王を奉崇する時に於て、自ら摸(*「莫/手」)擬■(食偏+丁:::大漢和44024)■(食偏+豆:::大漢和44179)、萬口一轍の眞詩にあらざるを識る、洵に具眼と謂ふべし、是によりて之を觀れば、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、其非を知る者なしと謂ふべからず、近人■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社を排撃する者、動もすれば輙ち、一人も其非を省る者なしと謂ふ、嗚呼寃なるかな、
武夷嘗て山井崑崙〔名は鼎、字は君彝、江戸の人にして、西條の儒員なり、〕と同じく、下野の足利學に學び、七經を校勘して還る、七經とは詩・書・易・春秋・禮記・論語・孝經を言ふなり、蓋し我土傳ふる所の舊本を以て、同異を標擧し、明版注疏の誤脱を刊正するものなり、其書御覽を經、銀錠十枚を賞賜せらる、後又經筵を講官物北溪〔名は觀、字は叔達、玄覽子と號す、徂徠の弟なり、〕に命じて、其遺漏を補葺せしめ、益すに孟子を以てす、總べて二百六卷、三十六本、題して七經孟子考文補遺と曰ふ、蓋し徂徠の建言する所に依る、官之を刻して天下に布く、享保十七年壬子正月、長崎の尹をして、之を彼土に傳致せしむ、彼清仁宗、嘉慶二年、之を飜刻し、稱して以て盛擧と爲す、其原は皆崑崙・武夷の手鈔する所に出づ、眞に不朽の業と謂ふべし、
武夷又梁の皇侃の論語義疏十卷を校定して世に刊行す、按ずるに馬端臨の文獻通考は、梁の皇侃の論語義疏十卷を擧目し、晁公武の言を引きて云く、皇朝の刑■(日/丙:::大漢和13836)、正義を撰び、皇疏に因ると、詳に其辨論に及ばず、唐末宋初、既に舊く散逸して、我土之を存し、復た世に顯はるゝは、武夷の功なり、寶暦の初、彼土に傳送す、高宗の乾隆三十八年、詞臣をして四庫全書總目提要・四庫簡明目録の二書を編纂せしめ、之を著録し、稱揚して此文に功ありと言ふ、〔按ずるに、我土の人、多く是等の言を知らず、武夷の此校刊は、たゞ論語に功あるのみならず、以て光を海外に發するに足る、近時儀徴・阮元極めて其功を稱す、其言其著す所の論語註疏校勘記、及び■(研/手:::大漢和12324)經室全集等に見ゆ、好古の人、知らざるべからず、〕
清人古歙の鮑廷博、酷だ鉛槧を嗜む、群書を校訂して、知不足齋叢書全函三十集を刊行す、其第一集に、太宰春臺が校刻する所の古文孝經孔氏傳を收め、七集に武夷が校刻する所の論語義疏を收む、敢て一字を増損せず、夫れ孔傳の僞りは、辨論を待たず、其他彼に佚し此に存し、取りて收集に入るもの、猶亦少からず、義疏は首に服南郭(*服部南郭)の序を載せ、眉に根本八郎右衞門(*根本武夷)校正、寛延三年庚午六月の十六字を題し、以て我土原刻の舊樣を存す、
明和元年甲申十二月二日歿す、歳六十六、相の久良岐邑の弘明寺に葬る、著す所、相中八雄傳・鎌倉風雅集・東遊筆記・劒技小録・板東八平氏傳・武藏七黨傳・武夷山人遺稿等あり、
松江は其先世〃紀伊の人にして、父大量、矢田侯初て封を受くる時に當り、屡〃輔弼の勳あり、之に仕ふること數年、三子を生む、伯有適嗣を襲ふ、叔有道早逝す、季は乃ち松江、別に出仕して世子の侍臣と爲る、享保中、有適内を喪ひ、幾ばくもなく、事に坐して去る、松江是によりて同じく去る、母氏猶在り、伯兄二姪と己と、供に五人、一朝禄を失ひ、窮迫殊に甚し、計、朝夕を支へ、之を全うするなし、或人之に勸むるに、醫を爲すを以てす、松江曰く、我れ方技に於て、嫌ふべきにあらず、人命至重なり、唯學ばざるを奈何せん、已むなくんば儒かと、遂に赤坂傳馬街に僑居し、教授を業と爲す、
松江少きより書を讀み、略〃能く大義に通ず、嘗て服南郭(*服部南郭)の門に入り、修辭の説を治む、餘熊耳・石筑波(*石島筑波)・宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水(*宇佐美■水)等と友とし善し、赤羽社中の諸子、皆詞藝に鋭意し、一人志を實踐に留むる者なし、松江特に操行確質を以て著はる、
松江は稟性至行、母に孝に、兄に友なり、常に謂へらく、經史を講習し、文藝に從事するは、固より嚮注する所、束帛戔々、信に微薄と雖も、猶以て數口を供給するに足るべし、伯兄二姪をして、四方に餬口して、これを家に養はしむるに忍びずと、是時に當りて、母既に耄し、兄亦善く病む、倦遊家居し、仕に志なく、内に拮据す、松江租を外に蓄へ、輔事相推し、煦■(口偏+需:::大漢和4455)相持し、以て流離せざるを得たり、之に加ふるに、歳登らざるに遭ひ、穀價騰躍し、貧窶言ふべからず、然れども衣を易へて出で、日を併せて食ふ、未だ嘗て此を以て憂と爲さず、甚だ母氏の歡心を得たり、
松江少くして武技を演習し、射御槍劒、究窮せざるなし、尤も拳法を善くす、嘗て盜の其家に入るあり、松江之を捕へて、路上に投抛す、盜疾く走りて去り、三日を經て死す、人其武技を知る者なし、亦自ら之を言はず、故に家人子弟と雖も、概して以爲らく、其善くする所は獨り文學のみと、平生緘默謙虚を以て、所長を韜藏し、これを言談の間に見はさず、
松江は謙遜敦厚、人を臧否せず、其子弟と雖も、未だ嘗て喜慍の色を見ず、然れども一の不義あれば、舊交熟知も、暫くも假借せず、必ず之を面折す、或は交際の間に於て、爲す所不恭なる者あれば、意絶して見ず、嘗て一人自ら知りて之を悔ゆるあり、服南郭に頼りて、其罪を謝す、可かず、南郭強ひて之を要す、講解再三、遂に其意を回す能はず、
寛延元年、巖村侯松江の名を聞き、禮を厚くして之を聘す、遇するに公養の禄を以てす、遊事年あり、常に經義を以て、其世子に教誨す、後、遂に臣と爲り、三十口糧を受く、師保の任に居り、班火器隊長に比す、累遷して藩の參政に至る、
寶暦中、郡上侯頼錦〔金森兵部少輔、〕罪ありて國除かる、官巖村侯をして其城邑を收めしむ、故事に凡そ城邑を收むるに、近鄰の諸侯皆盡く警あり、此任に當る者、尤も之を艱澀とす、侯能く松江の斡旋の器材あるを識り、衆に擇んで之を擧ぐ、節を假して、將帥總督を攝行せしむ、騎士十人・歩卒三百人を率ゐて、巖村を啓發し、衆士に誓言す、號令齊整、一の失錯なく、公事を勾當す、遂に振旅して還る、侯大に其勞を賞す、
郡上の役既に畢る、侯松江を信任すること益〃厚し、松江新參を以て衆士の先に居り、侯の知遇に感じ、極めて懇誠を致す、裨益する所多し、毎に入りてはこれを内に告げ、出でてはこれを外に順ふ、號令制條の布告あるに及び、人其約を納むる所、■(片+戸+甫:ゆう:櫺子窓:大漢和19890)よりするを知らず、封境の政事、皆其手に決す、陰に其恩庇に頼る者、頗る衆し、
松江は明和元年甲申六月十日を以て歿す、歳五十一、城西赤坂の專福寺に葬る、姪元綏嗣となり、禄を襲ぐ、著す所、王制分封田畝考・喪服圖解各一卷・官制稱號通考四卷・世語類備八卷・世説私考二卷・絶句解考證三卷・松江詩集四卷・文集六卷あり、
蘇門は其先伊賀の人なり、祖道智始めて京師に移居す、父和久、織造を以て業と爲し、機匠數人を畜ふ、蘇門躬の多病なるを以て、家資を族人に讓り、其業に服せず、讀書これ耽る、族人勸むるに、儒生となるを以てし、其費を資給す、歳廿五にして、觀自在堂を上長者千本東入街に卜築し、生徒に教授す、其學漢魏傳注を主とし、專ら博洽を務む、兼ねて佛乘に渉り、上、四庫の群籍より、下、我土兩部の衆説に■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)ぶまで、瀏覽せざるなし、躬衡門に在りと雖も、博通の聲は朝野に達す、貴紳從學する者衆し、
蘇門は壯歳、物徂徠の復古の説を追慕し、講習私淑す、後始めて其非を知り、物氏を攻撃するを以て、己が任と爲す、論辨明晰、餘力を遺さず、常に其説を奉崇する者を指笑して、以て無眼の人と爲す、特に宇明霞(*宇野明霞)始めて之を排詆し、五井蘭州繼ぎて之を非駁するを以て、吾心を得たりと爲す、嘗て謂ふ、今時の人は未だ此二家の識見に及ぶ能はず、乃ち物氏をして獨り美を海内に擅にせしむる、此に五十年なり、何ぞ其■(阜偏+貴:::大漢和41894)々たると、此言誇大に似たりと雖も、天下滔々として其學流に淪胥するの中に於て、其溺るゝを援けんと欲し、口を極めて之を謗刺す、敢て見る所なしと謂ふべからず、
蘇門常に東坡(*蘇東坡)の文を愛し、其識見に信服す、故に持論とする所、多く此に出づ、嘗て云ふ、彼國簒弑の賊、歴代相望む、孰れか南巣・牧野を援きて、以て口實と爲さざる、湯既に自ら徳に慚づ、亦奚ぞ分疏を容れん、善いかな、東坡曰く、武王は聖人にあらずと、嗚呼蘇の筆を曲げざること、董孤復た出づと謂ふべし、千歳の後、猶凛々として生氣あるを覺ゆ、是故に後世亂賊の臣、猶諱みて湯武を稱す、これに次ぎて、王莽攝を周公に比し、曹丕祚を舜禹に擬す、王敦の闕を犯すは、太甲の不君を以てし、太宗の東宮を殺すは、管蔡の不軌を以てす、これに加ふるに、王安石は新法を周禮の泉府に假り、蔡京は侈靡を豐亨豫大に托す、僉な聖經に據つて、以て附會して事を濟さゞるなし、故に人は聖人の道を得ざれば立たず、不善人も聖人の道を得ざれば行はれず、夫れ天下の善人少くして不善人多きは、聖人の天下に利するや少くして、天下に害あるや多し、
蘇門年三十八、自ら■(髟/几:::大漢和)して緇衣を服し、佛乘を研窮す、又老莊を講じ、志を道釋に專らにす、然りと雖も、經史を以て生徒に授くる、猶故の如し、自ら號して三教主人と曰ふ、
蘇門四十歳に至り、自ら齢の半百に至るべからざるを識り、自ら蘇門山人傳・無名子解二篇を著し、意を此に寓す、其人名を好まずと曰ふと雖も、不朽を身後に謀るの慮なり、後、門人永田觀鵞、〔名は忠原、字は俊平、藜祈道人と號す、〕正隸に傳を書し、世に上梓す、〔蘇門山人傳に云く、山人は其姓名・郷里を忘る、嘗て晉の孫登の人と爲りを慕ひ、自ら蘇門山人と號す、家貧にして妻子なく童僕なし、常に自ら井臼を操る、蔬食菜羹と雖も、大牢を享くるが如し、一棉衣三十年、弊るれば則ち之を緝し、緝に勝へざれば則ち累々下垂す、室僅に方丈、内宅の貯なし、貯ふる所は、唯書籍の外、一几・一筆・一研のみ、疑塵席に滿つるも湛如たり、性嗜好少く、獨り書を讀むを好む、飽飯の後、北窗の下に偃臥す、架上の卷帙、手に信せて亂抽し、且つ讀み且つ鈔す、時に著す所あり、亦たゞ性靈を發舒して以て自ら娯むに在り、始め其巧拙を贊毀するに意なし、既に藁に就き、隨つて輒ち之を棄つ、或は朋友・門生これに造れば、欣然として相對し、清談靡々、日を竟へて倦まず、嘗て謂ふ、天の我を遇する厚しと謂ふべし、夫れ天我に約するに窮を以てし、能く嗜欲に澹ならしむ、我を佚するに疾を以てし、肯て世故に間ならしむ、我を縦つに識を以てし、眼をして宇宙に空しうせしむ、我を恣にするに膽を以てし、放言自快せしむ、是亦足れり、優游自在、聊か以て歳を卒る、唯天我を驕らすに才を以てせざる、是れ恨むべきのみ、然れども亦此に因つて、人の役たるを免れしむ、其意固に厚し、又何ぞ恨まん、其喜此の如し、贊に曰く、昔は陶淵明自ら五柳先生の傳を著す、世以て實録と爲す、今山人の傳に於ける亦然り、然りと雖も、この傳は誠に山人の實にして、山人の實は未だ此に盡きず、山人の學の如き、三教に精通し、百子に博渉し、旁ら天文・暦數・方技・小技に及び、兼綜せざるなし、今一の是に及ぶことなし、何ぞや、將に謙なからんとするなり、然れども山人は狂者自ら居る、素と情を匿して、以て長厚を沽る者にあらざるなり、則ち尤も解すべからず、嗚呼噫々我れ之を知る、山人自ら云はずや、眼宇宙を空しうすと云ふのみ、則ち三教聖人と雖も、亦其中に在り、況や其他の小家數、又■(言偏+巨:きょ・ご:豈に・何ぞ・苟も・止まる・至る:大漢和35370)ぞ言ふに足らん、然れば則ちこの傳、山人の實を盡すと謂ふも可なり(*と」)、無名子の解に云く、無名子は無名子を以て自ら命ず、投刺修牘より以て、詞藻論著に至るまで、悉く署するに無名子を以てし、復た其姓名を著さず、或は之を難じて曰く、子の自らこれに命ずる所以は、其名を逃るゝが爲めに似たり、矯激太だ過ぎ人情に近からざるなり、夫れ萬世師法とすべき者は、三教の聖人にあらざるか、三教の聖人は、皆其言立てり、其名傳はれり、則ち必ずしも名を避けざる者に似たり、今吾子乃ち此の如し、將に勝げて之を上げんとするか、則ち多く其量を知らざるを見る(*と)、無名子曰く、是れ王■(合/廾:::大漢和9610)州の言なり、曰く、莊生(*荘子)死生を齊しうして、物我を平せんと欲するに至る、一切有爲の迹を擧げて、之を空しうす、乃ち亦孜々たり、務めて一家の言を成さむと欲す、其言を爲すを度るに、工ならざれば止まず、故に夫れ古の立言と稱する、未だ名の爲めに使はれざる者あらず、是れたゞ莊生を知らざるのみならず、抑〃亦自ら相牴牾すと言ふ、何となれば、夫れ謂はゆる死生を齊しうし、物我を平せんと欲す、一切有爲の迹を擧げて、之を空しうする者は、有智の人にあらざるよりは能はず、今無智の人を以て、有智の人の説を創むること、萬此理無し、■(合/廾:::大漢和9610)州固より眼中翳あり、故に是矛楯の論を持して、自ら覺らざるのみ、張季鷹言はずや、我をして身後の名あらしむるも、即時一杯の酒に如かずと、季鷹猶此の如し、況や莊生をや、然れば則ち其南華經(*荘子)ある所以の者は何ぞや、意ふに、當時發憤の爲す所なるか、爾らざれば、亦唯此に藉りて、以て逍遙の具と爲すに過ぎざるのみ、豈に世の名を■(口偏+敢:::大漢和4299)するの徒、紙上の言に齷齪して、これを不朽に期する者の比ならずや、嗚呼名の道縁を障るや深し、故に迦文は以て五欲の一と爲す、老子謂ふ、名と身と孰れか親しき(*と)、其警戒を垂るゝや切なり、唯孔子乃ち名を以て教と爲す、謂はゆる君子世を沒して、名と稱はざるを疾むが如き是なり、然れども此れ特に勸誘の語のみ、夫れ上士は名利倶に忘れ、中士以下は名に趨らずんば利に趨る、名は善に近く、利は不善に近し、孔子名を以て教と爲し、驅つて善にゆかしむる者は、蓋し中人以下の爲めに設くるなり、唯顔子(*顔淵)之を知る、故に曰く、夫子は循々然として、善く人を誘ふと、以て見るべきのみ、嗟呼滔々たる者、天下皆■(合/廾:::大漢和9610)州の徒なるかな、動もすれば輒ち曰く、不朽不朽と、■(澹の旁:::大漢和35458)々たる小言、これを金石に鏤め、之を堅固と謂ふ、壑舟夜遷るを知らず、能く不朽を保たんや、學博大と雖も、才富贍と雖も、終に是れ中人以下の資たるを免れず、悲しいかな(*と)、今按ずるに、此二篇又文鈔中に載す、少しく異同あり、併せ見るべし、〕
蘇門嘗て云く、堯舜を神述し、文武を憲章すと、子思、孔子を贊すること、此の如きのみ、孟子は堯舜に賢ること遠し、乃ち孟軻の卓見、衆に超越する所以なり、而も大抵古を榮とし、今を虐とす、是れ世の常情のみ、たゞ眼中翳なき者は、乃ち能く套を跳ね格を破る、然して後、始めて與に道を語るべきのみ、是に由りて之を言へば、陽明(*王陽明)の良知は、孟子より徹す、達摩(*達磨)の指心は、釋迦より■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)なり、郭象の清言は、莊周より玄なり、魏武(*曹操)の兵法は、孫子より神なり、游藝の天文は、羲和より審に、蘇軾の文は、韓柳(*韓愈、柳宗元)より妙なり、施耐庵の敍事(*水滸伝等)は、司馬遷より高く、呉友可の醫論は、張仲景より長ず、其餘まさに類に觸れて之を演ずべしと、其著す所の放言、此の如き類、極めて多し、蓋し其學術の醇疵、未だ以て之を言ふに足らず、時習の陋見を■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃し、能く獨得する所を抒ぶ、人の餘唾に依らず、頗る其人縦横の學を爲す者に似たり、
蘇門歳十四の時、一貴紳の宴席に陪す、廳頭、林道榮の書する所の學孔晞顔の四大字の横扁あり、賓主共に未だ四字の出づる所を知らず、貴紳之を問ふ、諸老之を知らず、蘇門席末に在り、聲に應じて曰く、學孔は孟子に見え、晞顔は揚子法言に見ゆと、滿坐の人、之が爲めに驚歎す、
蘇門初め徂徠の學を喜ぶ、故に門人永田觀鵞、李王絶句解備考を著すの時、之が爲めに序を作り、慫慂して之を梓に授けしむ、後、其非を悟りて、舊習の人を誤るを悔介し、斷然として其見る所を抒べて云く、夫れ李王は明世の一文人のみ、固より古道に■(立心偏+夢の頭/目:::大漢和53340)く、洙泗に背馳し、剿竊摸擬、復古の説を鼓す、殆んど扮戲の子弟のごとし、當時輕俊の士、之が爲めに煽動せられ、苟も具眼ある者、歸有光・徐渭のごとき、既に其籠絡を受けず、嘉隆以降、百孔千痍、人益〃厭薄すること、啻に燕石鼠璞のみならず、實に文苑の一厄なり、徂徠之を知らず、其遺訓を崇奉するは、愚の又愚なる者なり、余其書を見る毎に、人をして嘔■(口偏+歳:::大漢和4372)の堪へざらしむと、蓋し其排詆の言、多く誣妄に渉る、徂徠の徒たる者、之を仇視せざるを得ず、間〃其才識の卓絶を知る者ありと雖も、皆門戸の見を爲し、相惡むこと已に甚し、故に書を贈りて難詰する者、前後數人、敢て之を校せず、傲然として曰く、天下自ら公論あり、以て辨ずるに足らずと、〔按ずるに、燃犀録等の諸書、物氏を攻撃するを以て專務と爲す、其一言隻句と雖も、之を排詆せざるはなし、皆悉く其膏肓に中る、物氏に左袒する者と雖も、之と辯難して、其攻撃を斥非するを得ず、實に物氏の益友と謂ふべし、たゞ惜むらくは、其攻撃する所、往々枉を矯げ正を過ぎ、吹求の言を免れず、中井竹山が非物編・森東郭が非辨名等、皆蘇門を待つて後に作るなり、〕蘇門年不惑を踰え、舊痾彌〃留り、褊急益〃甚し、遂に明和六年己丑九月十六日を以て歿す、生の享保九年四月六日を距る、春秋四十六、洛□(*原文1字欠)善福寺に葬る、其簀を易ふるに及び、門人永田觀鵞に遺命して、著述草稿、曁び儲藏する所の書卷畫軸の類を附託す、又平生愛玩する所の、明人陳眉公十集全部を以て、殉葬すと云ふ、
平生暫くも筆を休めず、其起稿する所數十百卷、就中燃犀録・同續録・同別録各二卷・同餘録・同遺録各三卷・落草放言・續放言・赤■(身偏+果:::大漢和38099)■(身偏+果:::大漢和38099)各一卷・碧巖方語解・蘇門文鈔各二卷・前戲録・後戲録各一卷・嘯臺餘響・同遺響各二卷、皆世に行はる、
水昌の父、名は煥、字は季發、美濃巖村の人にして、邑里に教授す、水昌幼にして背せらる、歳十七、良師友を洛攝に求め、遂に伊勢の桑名に到り、南宮大湫に謁す、此に從事すること十七年、大湫、親炙の久しきを以て、乃ち之を塾中に長たらしむ、性詞藻を好み、吟詠これ耽る、善詩の聲、一時に著聞す、
水昌は信濃の石作駒石と同じく、大湫の家に寓す、筆硯に從事し、情交尤も密なり、亦之と其甲子を同じくす、同社の人、呼んで美虎信駒と云ふ、
水昌少きより記性人に絶す、嘗て尾府に遊び、松平君山〔名は秀雲、字は子龍、尾府の圖書府監事なり、〕が老杜(*杜甫)の飮中八仙歌を講説するを聞きて云ふ、知章(*賀知章)が馬に乘るは、船に乘るに似たり、眼花地に落ちて、水底に眠る、其水底に眠るを解するもの、辯説多端にして、疑似に渉り、復た明解するなし(*と)、水昌、晉書に王祥醉ひて肩輿に憑り、頭擧らずして歸る、其親戚之に戲れて曰く、子が眼花井底に在り、身水中に在り、睡るも亦睡らざるやの語を擧げて、之(*君山)に質問す、亦新唐書の賀知章の傳を暗誦して、以て其沈醉の情状を言ふ、君山之が爲めに舌を吐く、時に歳十五なり、
大湫桑名に僑居し、業を講じ徒に授く、明和戊子、東のかた江戸に遊び、日本橋南呉昌街に居る、此に居ること四年、萱葉街に卜築す、水昌前後之に從ひて、塾中に在りと雖も、京師・大阪・名古屋・桑名の諸地に遊ぶこと數次、一就一去、居趾を定めず、安永元年壬辰の春、大湫之が爲めに、居宅を深川の松井街に買ひて、水昌をして之に移り居らしむ、教授を業と爲す、又將に以て其氏女を擇みて、之に妻はさんとす、幾ばくもなく、其居火に罹り、復た大湫の家に寄寓す、
水昌飮を好み斗を盡し、磊落不羈、儀容を收めず、常に窮に處ると雖も、未だ嘗て世の榮辱得失を以て、其志を紊さず、朝暮あるなく、飮酒たゞ好む、後之が爲めに疾を得、起つべからざるに至る、
水昌病中の雜詠十六首、瑕瑜互に存すと雖も、以て其人の志操を知るに足る、故に石作駒石曰く、首々以て一部の紀事に充つべしと、其詩に云く、
仲春中の五日、正に是れ痾を抱て歸る、只開花の色を見て、落花の飛ぶを見ず (*仲春中五日、正是抱痾歸、只見開花色、不見落花飛)
曉小舟を棹て歸り、高臥して甕■(片+戸+甫:ゆう:櫺子窓:大漢和19890)を掩ふ、吾が病痕を知んと欲せば、正に是れ當■(土偏+盧:::大漢和5586)の酒 (*曉棹小舟歸、高臥掩甕■、欲知吾病痕、正是當■酒)
病牀眠成らず、午後寒と熱と、藥餌自ら相將ふ、人の蹇劣を尋る無し (*病牀眠不成、午後寒與熱、藥餌自相將、無人尋蹇劣)
柴門朝寂寂、忽ち喚ふ賣花の人、夭桃の色を買得て、瓶に挿て秦を避るを學ぶ (*柴門朝寂々、忽喚賣花人、買得夭桃色、挿瓶學避秦)
寺有り家の前後、魚の近鄰に覓る無し、自ら知る過去の世、應に是れ野僧の身なるべし (*有寺家前後、無魚覓近鄰、自知過去世、應是野僧身)
三春の好に辜負して、坐て惜む三春の去るを、春風花を吹落し、飛て枕を欹つ處に入る (*辜負三春好、坐惜三春去、春風吹落花、飛入欹枕處)
蓬頭長く櫛らず、垢面浴するに時無し、鏡を照して驚き相ひ問ふ、知らず君は是れ誰ぞ (*蓬頭長不櫛、垢面浴無時、照鏡驚相問、不知君是誰)
微躯病て且つ貧し、家に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・助ける〈=擔〉:大漢和1195)石の蓄へ無し、只賣殘の衣を典して、還て調飢の腹を滿す (*微躯病且貧、家無■石蓄、只典賣殘衣、還滿調飢腹)
酒有れども飮む能はず、花有れども看るを得ず、間窗の下に偃臥して、春色の闌を何する無し (*有酒不能飮、有花不得看、偃臥間窗下、無何春色闌)
皮裏陽秋に在り、桃花血色に奇なり、何ぞ吹毛の刃を得て、此造化の兒を刺ん (*皮裏陽秋在、桃花血色奇、何得吹毛刃、刺此造化兒)
管絃郭の東西、櫻花樓の咫尺、獨り多病の人と爲り、紅塵の陌を過らず (*管絃郭東西、櫻花樓咫尺、獨爲多病人、不過紅塵陌)
神仙吾れ願はず、生死吾れ愁へず、只愁ふ病苦多く、此の身自由ならざるを (*神仙吾不願、生死吾不愁、只愁多病苦、此身不自由)
吾今父母無し、誰か其れ病を之れ憂ん、自ら憂へ且つ自ら慰す、身は是れ風流を病む (*吾今無父母、誰其病之憂、自憂且自慰、身是病風流)
杖藜小艇に乘り、疾を力て春華を問ふ、花開と鳥弄と、未だ詩魔を伏するを得ず (*杖藜乘小艇、力疾問春華、花開與鳥弄、未得伏詩魔)
蝸廬寂として未だ寐ず、枕上孤燈に對す、忽ち聽く南無の唄、正に知る食を乞ふ僧 (*蝸廬寂未寐、枕上對孤燈、忽聽南無唄、正知乞食僧)
嚢底錢の多少、瓢中食の有無、病を抱て猶勞苦す、深川の一腐儒 (*嚢底錢多少、瓢中食有無、抱病猶勞苦、深川一腐儒)水昌は安永元年壬辰八月廿二日を以て、大湫の家に歿す、年三十三、終に臨み、詩を賦し、大湫に永訣す、其詩に云く、
茫々たる泉路復た誰にか憑らん、未だ恩を酬ゆるに及ばず涙冰の若し、秋風一片南■(片+聰の旁:::大漢和19883)の下、吹き入る牀頭半夜の燈 (*茫々泉路復誰憑、未及酬恩涙若冰、秋風一片南■下、吹入牀頭半夜燈)蓋し此年の春、居を松井街に移す、幾ばくもなく病に罹り、夏火災に遭ふ、其奇窘言ふべからず、大湫之が爲めに、棺斂を具へ、東叡山下の泉龍寺に禮葬す、又碣文を製して、之を石に刻む、當時其師弟の間、懇誠の厚き、以て欽賞すべし、
恕齋は岡龍洲の長子なり、龍洲、本姓は河野、故ありて岡氏を冒すこと數世なりしが、恕齋を生むに及び、之をして本姓に歸復せしめ、以て河野氏を稱す、
恕齋は初め鶴皐と號し、中ごろ南濱漁人と更む、儒者たるに意なく、意を臨池の技に精しうす、未だ成童に至らざるに、筆札の美、老成の者のごとし、
恕齋は幼より頴悟にして、經史を誦讀す、十歳にして詩を作り、神童の稱あり、龍洲蓮池侯に遊事す、其耆宿たるを以て、優遇して召さず、其家に禄食せしむ、たゞ毎に侯述職して、國に就くの次、大坂の旅館に引見し、疑事を咨詢し、時務を參決す、侯恕齋の學を好むを聞き、併せ召して、試みるに詩賦を以てす、命に應じて立どころに成る、侯大に悦びて、厚く之を賞賜し、益〃之をして意を學業に專らにせしむ、
恕齋僅に弱冠に及び、其學大に進む、該覽せざるなし、尤も文章に長じ、筆を下せば、頃刻にして數百千言、布置結構、自ら法度あり、屹然として都下に名あり、時に龍洲經義を以て一世を風靡す、學徒の輦轂の下に遊ぶ者、趨謁せざる者なし、又退きて恕齋を見、爽然として自失し、爭ひて皆交を締ぶ、故に文章の聲、海内に延譽す、
恕齋、性沈深にして智略多し、蚤に大志を負ふ、嘗て賈大傅(*賈誼)・陸宣公の人と爲りを慕ひ、謂つて曰く、君子の學を爲すや、苟も之を事業に措く能はざれば、全徳にあらずと、寶暦中、蓮池公意を政事に鋭うし、封土の冗費、民に便ならざるものを檢覈す、恕齋弊を救ふの五策を獻ず、一に曰く、恩威を示し、士氣を振ふ、二に曰く、賞罰を公にし、衆庶を懷く、三に曰く、舊習を矯め、吝儉を別つ、四に曰く、請謁を禁じ、侵永を警む、五に曰く、廉恥を勵まし、情實を覈すと、侯益〃喜びて、衣服を賞賜す、
恕齋の建議する所、盡く以て弊を救ふに足る、侯深く其才の用ふべきを知り、遂に擢でて浪華の邸監と爲し、別に禄百石を受く、親ら金礪を爲すの語を書して之を賜ふ、是に於て父子別居し、眷遇殊に厚し、人皆これを艷榮す、
浪華の地は、海運輻輳して、富商大賈多し、故に諸侯皆邸を此に置き、以て糶糴貨財を辨じ、假借濟賃を給するの諸事を爲す、而して監司其人を難んず、昔より此職に居る者、膽略ある者にあらざれば、任に勝うる能はず、蓋し昇平既に久しく、諸侯の用度■(宀/浸:::大漢和59493)〃廣し、給を商賈に取らざるを得ず、商賈其愆■(戈/心:::大漢和?)(*■(立心偏+淺の旁:::大漢和10761)か。)を恐れ、有司の爲す所を視、進退を緩急し、巧に向背を作す、動もすれば輒ち、期に便ならざるを致す、恕齋邸監と爲り、約を信じ、情を誠にし、職に■(艸冠/三水+位:::大漢和31565)みて勤敏、事に遇へば即ち斷ず、邸政清肅、殆んど延滯なし、商賈皆恕齋の處置法あるを視、其期限を定め、貸貰融通す、故に國頻に大喪旱■(三水+珍の旁:::大漢和17246)災■(生/目:::大漢和23228)ありと雖も、調度虧くること無し、皆其功なり、
蓮池の該部、穀九百斛を浪華に運漕せしが到らず、舟師來り報じて曰く、海上颶に遭ひ、船破れ穀沒す、僅に身を以て免る、人幸に恙なしと、因つて沿海司の勘牌を出し、以て詐欺せざるを示す、證左明白、人皆これを信ず、恕齋獨り其支辭を疑ひ、之を拘して推訊すること六晝夜、果して其情實を得たり、蓋し舟師相謀り、言を船破れ穀沒するに託して、沿海の官吏を欺き、其勘牌を乞ひて、竊に之を奸賣し、以て之を利するのみ、既に黠詐を洞視して、乃ち急に之を追捕す、■(貝偏+藏:::大漢和36990)賊倶に獲たり、人稱して以て神明と爲す、
恕齋は吏務に精通し、循吏の風あり、六たび蓮池にゆき、再び江戸にゆく、東西奔歩、皆國事の爲めなり、其邸監たること十有餘年、侯其功勞を喜びて、將に大に之を用ひんとす、未だ果さずして歿す、時人甚だ惜めり、
恕齋は忠誠強直、知りて言はざるなし、嘗て侯樊籠の玩ありと聞き、以爲らく、侯伯の爲す所、慾に從ひ理に悖り、道に乖くの行、游戲弄好の事一ならず、而も樊禽の樂、尤も徳に悖ると爲す、何となれば、和諧自然の音を樂まずして、號哭悲哀の聲を悦び、之を用ひて興を助け、此を用ひて酒を侑む、其忍亦已に甚しからずや、昔家臣其■(豕偏+假の旁:::大漢和36435)子に忍びず、孟孫孤を託す、忍びざるの心、豈に人獸を以て異ならんや、則ち以て號哭悲哀の心を樂み、群黎に臨めば、其能く忍びざるの政あらんや、其れ玩好の事は至微なり至細なり、微に縁つて大を致し、細より以て巨を致す、履霜の漸、實に以て懼るべし(*と)、乃ち樊禽の賦を作り以て諷す、其辭に云く、夫れ何ぞ小禽の衆多なる、羽毛を分ちて、以て各〃儀あり、蒼莽を育して逍遙し、園池を擇みて追隨す、秋實の垂累を啄み、春葩の萎■(艸冠/豕+生:::大漢和56328)を弄ぶ、飮みて滿腹に過ぎず、安寧一枝に踰ゆ、茂陰に交柯して、平林■(之繞+施の旁:::大漢和38785)■(之繞+麗:::大漢和39260)たり、和煕の良辰に屬し、烟景の已に美なるを樂む、■(廱の旁:::大漢和42123)々たるその音、柳條を織りて、以て遷移し、■(口偏+皆:::大漢和3910)々たるその鳴、芳樹に搶(つ)いて決起す、爰に群し爰に友し、すなはち飛び、すなはち止まり、樂の洽きところに稟和す、豈に絲竹の擬すべきのみならむや、乃ち雀羅を設け、■(网/且:::大漢和28245)罘を陳ね、之を駭かし之を掩ふ、之を繋ぎ之を俘にし、之を籠にし之を絡す、收めて之を拘し、雕籠を飾りて、以て之を居らしむ、彩絲を■(糸偏+巣:::大漢和1171)して、以て之を紆にす、侶を絶つて、以て何ぞ慘なる、離群何ぞ孤なる、誠に生意の存せざる、豈に香餌の便のみならん、頭頸を延べて、以て悲號し、羽翼を歛めて哀呼す、目■(目偏+俊の旁:::大漢和23346)々として其れ疑懼す、容瞿々として其れ懷戚す、樊籠豈に煥ならざらむや、桎梏何ぞ益あらん、纏條豈に絢ならざらむや、束縛甚だ厄なり、羽を振ふに地無く、身を運ぶに、安くにか適かむ、莊生(*荘子)を歩啄に思ひ、林公の■(金偏+殺:::大漢和57253)■(鬲+羽:かく・れき:羽の茎:大漢和28776)を悲む、嗟呼稟體の各〃殊なりと雖も、豈に中情曾て換へん、滿坐の樂まざる、一人の嘆を發する、何ぞ世主の甚だ忍びて、唯樊籠是れ玩ぶ、孰れか和諧の能く應ずる、實に窮■(戚/心:::大漢和11158)して、以て叫屈す、乃ち號呼の悽婉を樂みて、悲哀の憤鬱を娯む、仁心安くにか在る、至理何ぞ拂(もど)る、これ聖王の世に御す、實に一視以て恤を同じうす、澤蠕動に及び、恩微物に逮ぶ、胡ぞ此強忍の行なる、豈に狡童の狂に異ならんや、物を禍して樂を作す、以て哭して康を助く、徳を損する、實に危亡よりも甚しきあり、義を愆(あやま)つ、豈に得喪に關する無からんや、■(卵+段:::大漢和16681)卵毀らず、鳳鳥來翔す、■(此/肉:::大漢和29379)骨未だ掩はず、賢者遠く藏る、惡の崩るゝや、巨、繊を以て致し、善の成るや、大、小を以て至る、己を修め身を省みるは、實に矜細に在り、心を存して自ら飾るは、たゞ其れ義に合ふ、大を小に慮れば、その徳累さず、始めを終に省みれば、その功何ぞ墜ちん、是れ乃ち大保旅■(敖/犬:::大漢和20646)の至訓、獸臣司原の篤志なりと、侯見て以て大に悦び、自ら之を懲芥し、立どころに命じ、樊籠を破りて、放ち去らしむ、
恕齋は家庭に學び、專ら漢魏の訓点を主として、經義を講説すと雖も、最後識見自ら改め、志を洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の學に留め、性理を研窮す、故に龍洲(*岡龍洲)の遺書、多く刊布を欲せず、其家説と雖も、正誤を補ふ者は、之を言ふを諱まず、獨得の見、別に一格の經義を構ふ、然れども自ら藝圃に優遊し、身を逢掖に終るを欲せず、嘗て謂ふ、吾をして文墨に從事せしむ、則ち寸忠顯さず、經濟の用を展ぶること無しと、
恕齋客を招き友を會す、張設至つて厚く、割烹極めて巧なり、蓋し夫妻躬自ら調理し、婢僕を勞せず、酒を温め茶を煎るの侯のごとき、亦自ら一家の法あり、之を試みるに一ならず、能く得る所あり、其父龍洲復た此の如し、
恕齋客を好み、對酌して詩を賦するを樂と爲す、一日衆に謂つて曰く、時序晴雨の詞、已に陳腐を覺ゆ、請ふ分けて國史を詠ぜむと、皆曰く、善しと、恕齋は源三位頼政を得、〔其詩に曰く、
韜畧文才一世の雄、名家何ぞ辱ん將門の風、妖を射て■(門構/昌:::大漢和41367)闔天を補ふの手、義を昌す桑楡日を廻すの功、皎節長く寒し菟道の水、遺踪空く鎖す梵王の宮、猶思ふ血戰當年の恨、千點の飛螢緑叢に入る
(*韜畧文才一世雄、名家何辱將門風、射妖■闔補天手、昌義桑楡廻日功、皎節長寒菟道水、遺踪空鎖梵王宮、猶思血戰當年恨、千點飛螢入緑叢)
〕
葛子琴は左典厩義朝、〔
一生の成敗保平の年、忠孝誰か言ふ兩全を■(匚+口:::大漢和3254)と、山隰那ぞ教ん橋梓の異、釜■(旡2つ/鬲:::大漢和45695)終に豆箕の煎らるゝ有り、文公の■(骨+并:::大漢和45181)脅便ち害に逢ふ、智伯の頭顱孰か憐を乞ふ、遮莫あれ功名兇姦に係る、千秋の瓜■(瓜+失:::大漢和56069、21380)自ら綿連たり
(*一生成敗保平年、忠孝誰言■兩全、山隰那教橋梓異、釜■終有豆箕煎、文公■脅便逢害、智伯頭顱孰乞憐、遮莫功名係兇姦、千秋瓜■自綿連)
〕
田子明は内府重盛、〔
長裾殿に昇りて主恩深く、平氏の芝蘭は舊と羽林、椿府規を納れ偏に杖に泣く、育山福を薦て遠く金を投ぐ、蛇を捕へ朝に下る還城の舞、藥を却て官に終ふ報國の心、都輦一び梁木の壞に從ひ、管絃還た鼓■(鼓/卑:::大漢和48361)の音と作る
(*長裾昇殿主恩深、平氏芝蘭舊羽林、椿府納規偏泣杖、育山薦福遠投金、捕蛇朝下還城舞、却藥官終報國心、都輦一從梁木壞、管絃還作鼓■音)
、〕
一座嗟賞す、爾後會する毎に、此を以て課と爲す、體七律に限り、積みて數十百首に至る、安永の末、社友曾之唯、■(衣の間に臼:::大漢和53061)輯して册と爲し、題して野史詠と曰ひ、之を刊行す、
安永八年己亥二月九日、■(病垂/祭:::大漢和22458)を疾みて歿す、歳三十七、浪華の光明寺に葬る、著す所、洪範孔傳辨正一卷・國語韋注補正二卷・韓非子解三卷・格物餘録十卷・儒臣傳・功臣傳各二卷・享箒集六卷あり、
先哲叢談續編卷之九終
多田東渓 久野鳳湫 根本武夷 福島松江 服部蘇門 首藤水昌 河野恕斎 |
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