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 後藤芝山  片山兼山  高芙蓉  宇井黙斎  平賀鳩渓

先哲叢談續編卷之十

                          信濃 東條耕 子藏著
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後藤芝山
名は世釣、字は守中、芝山と號す、通稱は彌兵衞、讚岐の人なり、高松侯に仕ふ、

芝山は高松の世臣なり、祖友房、父有貞皆清要の官に居り、嘉績あり、友貞(*友房、または有貞の誤りか。あるいは、父の名が友貞か。)、芝山の異質あるを見、之をして志を學業に專らにせしむ、其君穆公、亦其穎悟を聞きて、之に學資を賜ひ、其費用を優にし、命じて江戸に遊學せしむ、遂に林榴岡に從ひ、經藝を受く、時に元文戊午の夏、歳十八なり、
芝山は林公の家塾に寓し、後、昌平學に入り、讀書怠らず、疑似錯簡にして、辨識する能はざるものに遇ふ毎に、直に數語を出せば、一坐之が爲めに解頤す、故に未だ弱冠ならずして、才子の稱宿儒老輩の間に聞ゆ、
芝山は■(糸偏+眞:::大漢和27775)密遲重にして、人に接すること慈良なり、故に家範嚴ならずして肅に、教誨威ならずして莊なり、妻孥子姪、皆能く其諄篤の風習を馴致す、
芝山は意を文藻に留め、鍛錬雋潔、類に觸れ物に肖たり、時に新奇を出して、以て傍人を驚かす、平生の至重に似ず、韓使の僚屬に應接すること兩次、寛延戊辰・明和甲申是なり、世皆其文藻の富贍を知る、
明和中、其君に建議して、府學を置かむことを請ふ、藩規畫を設けて、大に庠舍を起し、生員數員を置く、名づけて講道館と曰ふ、科條・學政、皆芝山の草定する所なり、訓督の方、至らざる所なし、其藩政治化を裨益する、蓋し尠からず、
芝山は理學を以て身を起すと雖も、必ずしも世の道學先生のごとくならず、常に博洽を好み、傍ら百氏に通ず、晩年我土中葉以還の典詁名物を研究して、謂はゆる有職家の説に精し、各〃成書あり、其技に專門たる書、皆其意を用ふるの精核なるを稱す、
芝山は學源委あり、行終始あり、博くして能く約し、正にして迂ならず、警機神の如し、人の企て及ばざる所に出で、出づるに謙和を以てし、成すに忠愛を以てす、進止詳悉、應對遲重、是を以て面折廷爭せず、從容燕待の間、善く君を引き、道に當る、莊嚴勵色ならず、游談戲謔の中、輒ち人を誘ひて徳に入らしむ、謂はゆる眞儒の風ある者なり、
芝山は國學に寓すること十六年なり、三十三歳にして郷に歸り、講道館の督學兼侍讀と爲る、服事すること三十餘年、一日も務を廢せしことなし、謹恪と謂ふべし、天明二年壬寅四月三日、春秋六十二にして歿す、高松城西の萬日原に葬る、男師秀、字は元茂、孫師邵、字は伯雍、皆能く家學を傳ふと云ふ、
芝山著す所、音訓五經十五卷・左傳古奇字音釋一卷・元明史略三卷・和漢年鑑一卷・職原鈔考證十卷・有職小録四卷・桑韓唱和二卷・宮詞百首一卷・玉藻詩乘二卷・芝山集十五卷あり、
芝山は田安府の大塚孝綽〔字は子裕、慥齋と號す〕・一橋府の久保泰亨〔字は仲通、■(央/皿:::大漢和22981)齋と號す〕と、情誼至つて厚し、鴻鯉往來、間斷あるなし、二人皆其趣旨を同じうする者なり、孝綽芝山を哭するの詩に云く、

猗嗟淑人、彼の南國に生れ、夙に國學に遊び、能く其力を竭す、予一たび邂逅して、矜式する所有り、粹然たる其言、温然たる其色、今にして之を思へば、涙胸臆を沾す、滄海之濱、紫峰之側、葬先塋に從ひ、千秋以息す、子有り孫有り、天令徳を酬ゆ (*猗嗟淑人、生彼南國、夙遊國學、能竭其力、予一邂逅、有所矜式、粹然其言、温然其色、今而思之、涙沾胸臆、滄海之濱、紫峰之側、葬從先塋、千秋以息、有子有孫、天酬令徳)
向に柴碧海翁、此首を傳致して曰く、孝綽の此詩は、僅に六十四字なれども、殆ど芝山の人と爲りを盡す、先人栗山、芝山と同じく昌平學に寓し、此に年あり、先人能く其性素を知り、男元茂の爲めに、墓誌の文を製し、此哭詩を採りて銘に代へ、以て填む、敍事數百言、又此外に出でずと、


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片山兼山
名は世■(玉偏+番:::大漢和21247)、字は叔瑟、兼山と號す、通稱は東造、片山氏にして、自ら修めて山と爲す、上野の人なり、

兼山は家世〃上野平井邑の人にして、農桑を業とす、歳十七、江戸に遊び、鵜士寧(*鵜殿士寧)に從ひて學び、塾中に寄寓す、士寧の居宅は、本所の南割下溝に在り、兼山足閾を踰えざること三年、啻に學術に孜々たるのみならず、又射術を士寧に受け、其技大に進む、士寧の門下に、兩強子の稱あり、學業と射術とを、勉強するを謂へるなり、
士寧は服南郭(*服部南郭)の門人にして、最も時習の修辭に長じ、藝園に名あり、芙■(艸冠/渠:::大漢和31962)館中に於て、第一流の人と稱す、■(艸冠/言+爰:::大漢和32474)社の餘輩、皆之を尊崇す、士寧自ら處る太だ峻しく、才を恃みて簡傲、一時を雄視し、許可する所少し、獨り兼山を遇すること甚だ厚し、兼山亦之に信服し、修辭の説を研精す、然れども其好む所にあらず、志を經義に專らにし、日に萬言を誦し、精力人に絶す、士寧嘗て曰く、山生は修身僕々爾として、吾説を株守するの器識にあらずと、其言果して然り、
兼山は士寧の推敲に依りて、南郭の門に入り、肥後の秋玉山(*秋山玉山)と交驩す、玉山は南郭の高弟なり、玉山將に熊本に歸らんとし、兼山が學に專精すと雖も、貧にして生資に乏しきを愍恤し、士寧と相謀りて、之を熊本に携へ、庠黌時習館に寄寓せしむ、幾ばくもなく、生員に充てられ、十口糧を受く、居ること數年にして辭し去る、蓋し玉山歿して後、■(艸冠/言+爰:::大漢和32474)園赤羽の學を信ずる者なければなり、
熊本藪孤山の、山叔瑟(*片山兼山)に贈る序中に、言へることあり、云く、山君叔瑟は上毛の人なり、山氏は蓋し國史稱する所の兒玉氏に出づ、累世富強、國の望族なり、叔瑟少時自ら奮發して云く、我れ徒に一富翁となりて死せんやと、乃ち其族を棄て、去りて江戸に遊び、服子遷に從ひて學ぶ、學成りて用ふる所なし、既に我侯大に國政を修め、新に學舍を興すと聞く、乃ち興つて曰く、我れ聞く、肥後侯善く志士を養ふ、盍ぞ歸せざるやと、歸すれば則ち、俸金を賜ひ、衣食匱しからず、叔瑟乃ち晝夜力を其業に專らにするを得、孜々として輟まず、是に於て、文章の美、煥然として日に著れ月に顯る、居ること九年、未だ試みられず、叔瑟曰く、我れ其れ竟に用ひられざるか、徒居素餐は、志士の恥づる所なりと、遂に辭して去る、人其往く所を問ふ、則ち曰く、吾れ往かざる所なし、我れ將に攝にゆき、洛にゆかんとす、洛より以往は、我れ亦知らざる所なりと、夫れ叔瑟は素封望族の家に生れ、食飽かざるにあらず、衣煖かならざるにあらず、居安からざるにあらず、乃ち棄てゝ顧みず、數千里の表に周流■(之繞+屯:::大漢和38747)■(之繞+亶:::大漢和39175、53410)し、夷然として悔いざるものは、蓋し古の君子の志あるか非か、然れども人聞きて、其不遇にして益〃窮するを憫む、余則ち謂ふ、此れ天の叔瑟を窮し、適〃叔瑟を成す所以なり、夫れ冶人の爐は、炭を積むこと邱の如し、鼓するに■(士/冖/石/木:::大漢和15347)籥を以てすれば、火■(諂の旁+炎:::大漢和19395)々として隆なり、之に鉛錫を投ずれば、蕩乎として鎔け、玉石なれば、■(彡+|/石:::大漢和24056)乎として碎く、之に銅鐵を投ずるも、亦未だ銷鑠せずんばあらず、唯金や之を燬くに日夜を累ぬと雖も、其質益〃堅く、其色益〃■(火偏+華:::大漢和56061)き、錙銖も損することなし、故に金の金を攻むるは、適〃金を成す所以なり、君子の窮に處する、亦是のごときか、夫れ人の患難危窮の中に在りて、其操を失ひ、其分を改めて、以て希合せざる者、幾んど希なり、然りと雖も、榮辱窮達や、道徳仁義は己に在るなり、唯君子は己の求むべくして、天の求むべからざるを知るなり、故に衣の體に完からざるを患へず、徳の或は涼(うす)きを患ふるなり、食の腹に完からざるを患へず、氣の或は餒うるを患ふるなり、名の世に尊からざるを患へず、志の或は折るゝを患ふるなり、身の時に容れられざるを患へず、道の或は枉れるを患ふるなり、是故に君子の窮に居る、泰然として日に安く、章然として日に亨る、余將に叔瑟に於て、之を徴せんとすと、孤山の此序、詳に兼山不遇にして去る所以の状を言ふ、今是に因て、以て其失意を想ひ見るべし、
兼山は時習館を辭してより、洛攝に漫遊すること、此に二年なり、一も意に當る者なし、再び士寧が家に寓し、講習倦まず、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學に於て、其淵源を極め、修辭の業、通曉せざるなし、經義を講ずるに至りては、其考證の精、還りて士寧の上にあり、蓋し當時物氏の遺教を奉崇する者は、皆辨道辨名學則學庸解論語徴等の諸書を以て課業となし、研尋攻究、暫くも相措かず、嘗て士寧の紹介に因りて、宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水を見る、■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水は■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の弟子にして、經義を以て專務と爲す、辨道辨名考證學則考學庸解考注論語徴疏等を著して、師説を羽翼し、其旨を發揮し、力を極めて之が遺教を維持する者なり、殊に兼山の見る所を賞譽して、以て後進の領袖と爲す、後、其嗣子なきを以て、士寧と謀り、乞ひて義子と爲す、兼山此によりて、遂に出でて宇氏を冒すと云ふ、
兼山は■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水の義子となりて、儒員に蔭補す、■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水出雲侯に仕へて、侍讀と爲る、故に兼山をして藩の子弟に教授せしむ、居ること數年、業を講じて益〃勉め、見る所彌〃精しく、竟に疑難を徂徠の説に生ず、反覆熟考、一旦大に覺悟する所あり、將に其蘊蓄する所を辨明せんとす、嘗て之を■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水に問ふ、■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水一概に師説を確信し、得失を論ぜず、多方回護して、其言を然りとせず、兼山經史に考證し、誤謬を糾正し、是非を明晰す、■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水之が爲めに窮して爭ふこと能はず、兼山亦苟も從ふを欲せず、竟に歡心を失ひ、諧せざるに至る、斷然として去志あり、幾ばくもなく、謝絶して本姓に歸復す、時に麾下の兩番、遠山修理なる者の臣、村子敏嘗て學を兼山に受く、故に其君に勸め、兼山をして其邸舍の中に■(宀/眞:::大漢和7257)かしめ、爲めに■(食偏+氣:::大漢和44316)廩を饋る、遠山の邸は裏四番街に在り、是を安永元年と爲す、四十三歳なり、
兼山の遠山氏に寄寓してより、生徒漸く多し、既に修辭の業を厭棄し、專ら經義を以て教授す、其學古注疏を以て子弟を訓導すと雖も、取て之に拘泥せず、近時の謂はゆる折衷學なる者は、始めて此に起る、井金峨(*井上金峨)・豐島豐洲(*泉豊洲)・山本北山等、相繼ぎて唱和し、今に至りて益〃隆なり、蓋し博く漢宋諸家の書を究め、其長ずる所を採る、必ずしも門戸の見をなさず、衆説を折衷し、極めて穩當を致す、號して折衷學と曰ふ、氣運の之を然らしむと雖も、其實は兼山及び金峨、之が先鞭を爲す、江戸の學之が爲めに一變す、
兼山常に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學を排撃するを以て、己が任と爲し、辯駁謗■(此/言:::大漢和35344)、忌避する所なし、故に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の餘流、視ること仇讐の如く、指して以て姦儒と爲すに至る、兼山敢て之を校せず、吾は道義の爲に之を發する也、世間自ら當に具眼の人あるべしと、
兼山常に秦漢以上の書を讀む、精究極博、經義の餘力、傍ら子類に通ず、是を以て、一家の言を爲す、是より先き、我土未だ嘗て是に著眼する者あらず、今時の人、子類を講習する者、往々にして出づ、皆兼山の考援する所を以て依據と爲す、少しく異同ありと雖も、以てこれに加ふることなし、
兼山は古文互證廿四卷を草す、悉く魏晉以上の諸書に就きて、訓詁の異同を擧げ、彼此相照し、類を以て編次す、四聲韻字を以て之を考索すれば、以て引く所の字を得べし、其方甚だ便なり、是より先き、字書未だ曾て有らざる所なり、兼山歿して後三十年、文化中清の儀徴阮元經籍纂詁百卷・補遺百卷・八套六十四本、始めて舶來す、其創思する所の體裁、各〃地を隔てゝ、時に早晩ありと雖も暗に自ら符合す、偉と謂ふべし、
兼山は學記一篇を戴記中に表章し、學・庸・孝經に併せて、之を家塾の四書と謂ふ、其學を奉ずる者、今に至りて、此を以て誦讀の始めと爲す、其他易・書・詩・三禮・論・孟・孝經・千字文・文選、皆正文を附譯して刊行す、坊間呼びに山子點と曰ふ、今に至りて、盛に世に行はる、
兼山熊本に在ること六年、母氏の疾を聞きて、郷に歸省す、其將に發せんとする日に及びて、秋玉山(*秋山玉山)送別の詩あり、兼山留別に其韻を用ひて云く、

舊社誰か知己なる、交を締ぶ爾汝深し、畫■(土偏+曼の頭/方:::大漢和5531)徒だ寄食し、獵較更に虚心なり、石を穿て玉に逢ふこと無く、沙を披るも金を見ず、前程風雨暗し、故人と尋んことを要す (*舊社誰知己、締交爾汝深、畫■徒寄食、獵較更虚心、穿石無逢玉、披沙不見金、前程風雨暗、要與故人尋)
既にして歸省す、母氏疾癒ゆ、再び熊本に到り、後、居ること三年にして辭し去る、〔按ずるに、玉山遺稿に、山叔瑟(*片山兼山)遊學して、書を藩の時習館に讀む、此に六年なり、今茲上毛に歸省せんとす、有司行路の費資を給す、因て此を賦して贈別す、 獨り毛州に向ひて去る、雲山萬里深し、烏川反哺を思ひ、緑野歸心を動す、楚豈に終に禮無んや、燕先已に金有り、高堂賢且つ健なり、知る爾が重て相尋ぬるを (*獨向毛州去、雲山萬里深、烏川思反哺、緑野動歸心、楚豈終無禮、燕先已有金、高堂賢且健、知爾重相尋) と、此時母氏七十餘歳、烏川・緑野は皆上毛の地名なり、〕
兼山は玉山に於て、極めて眷顧を荷ふの厚恤一ならず、特に學術の事のみならず、其依頼する所、勝げて言ふべからず、最後一家を成し、時に著聞し、世の爲めに推尊せらるゝに及び、書を作りて、其男紫洋〔名は遜、字は子順〕(*秋山紫洋)に謝す、書中言へることあり、僕近ごろ衣食漸く足りて、意を著作に專らにするを得、二三の生徒、資を出して、此編を刊刻する者あり、日ならずして成を告げ、三百部を刷印す、今上第を以て、之を足下に輸す、請ふ之を先考玉山先生の祠前に具へ、敢て僕の舊恩に負かざるの意を告げよ、僕の今日ある、皆先生の蔭庇なり、先生泉下に知るあらば、豈に莞爾たらざらんやと、蓋し是れ埀統前編、刻始めて成り、熊本に贈致し、紫洋をして之を祀告せしむるなり、
兼山、■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水を辭してより、其謝世に至るまで、僅に十二年、講業甚だ長からずと雖も、聲價喧著、一世を振揚す、其人豪邁卓宕、好みて先達を議す、故に忌む者極めて多し、然りと雖も、村上・笠間・安中・壬生・鳥羽・犬山の六侯、皆己を卑くして之を聘し、弟子の禮を執りて、經藝を相受く、後、禄を厚くして以て之を招致せんと欲す、兼山筮仕を肯ぜず、會〃人之を尾府に薦むる者あり、是時に當りて、尾侯宗室の尊を以て學を好み、繼述館を市谷邸内に置き、明倫堂を名古屋に建て、士子を教督す、又唐の魏徴群書治要を校刻するの事あり、斯書既に彼土に逸し、特に幸に我に存す、故に此擧あり、兼山是に於てか、始めて仕ふる意あり、紀平洲(*細井平洲)と同じく、將に褐を儒員に釋かんとす、平洲の郷貫は、其封境に係るを以て、既に徴引を蒙る、兼山は邸館に參謁し、命ぜられて校訂の任に預る、何ばくもなく、喘痰を病み、功未だ竣らずして沒す、歳五十三、時に天明二年壬寅三月廿九日なり、命じて賻銀錠十枚を賜ふ、門人相謀りて、芝三田中寺街の妙福寺に葬る、
兼山歳耳順ならずして歿すと雖も、門下に知名の士多し、陳煥章〔字は子文、穀山と號す、小田氏にして、越後の人なり〕・村■(奚+隹:::大漢和42124)時〔字は子敏、卜總と號す、村杉氏にして上總の人なり〕・萩原萬世〔字は休卿、大麓と號す、上野の人なり〕・小林珠〔字は子淵、龍山と號す、丹波の人なり〕・葛山壽〔字は子福、葵岡と號す、松下氏にして、烏石(*葛山烏石)の男なり、江戸の人なり〕・久保愛〔字は君節、筑水と號す、信濃の人なり〕・菅煕〔字は子煕、葛陵と號す、常陸の人なり〕等數人、師説を祖述して、終始變ぜず、號して山子學と曰ふ、今に至るまで、其遺教を維持する者少からず、是亦近世の門戸を爲す者の、希にある所なり、
兼山著編の書、周易類考四卷・尚書類考六卷・毛詩類考八卷・春秋左傳獨斷三卷・古文孝經標注一卷・附録・管見各一卷・古文孝經孔傳參疏三卷・論語一貫十卷・論語徴膏肓三卷・管見二卷・學庸解廢疾二卷・孟荀類考老莊類考各四卷・山子埀統前編三卷・後編三卷・五行古義聖學弟子問各二卷・仁字解聖字解樂■(夾+立刀:::大漢和2016)禮■(夾+立刀:::大漢和2016)古詩聯珠各一卷・西遊文章十二卷・■(奚+隹:::大漢和42124)肋集二卷・藍川稿四卷・又諸子一適十卷有り、未だ全く成らず、其他草を起すもの數十卷なり、歿して後、遺書四方に散亡す、今人高貨を惜まず、能く之を購求す、啻に帳秘のみならず、敢て人に示さず、太田錦城九經談中に、或人曰ふと稱する者多し、皆先師の説なり、久保筑水、嘗て余が爲に言ふ、それより數年を經て、朝川善庵の言亦然り、
南總の西瀕、高柳・葛間の二村は、兼山の徒、屡〃此に往來す、闔郷學に向ひ、兼山を尊信す、文化十四年丁丑八月、葛葵岡、兼山の手澤本、古文孝經一卷を以て、之を高柳に■(病垂/夾/土:::大漢和22395)め、碑を樹てゝ事を記す、是より先き私淑の徒、郷庠を此に起し、葵岡の門人を招延し、講説して子弟に授け、嗣續輟まず、其後兼山の四十年の忌辰に當りて之を痒舍に祀祭す、朝川善庵の祭文に云く、これ文政四年辛巳の春三月望、不肖三男朝川鼎、敢て昭に皇考兼山先生の靈に告ぐ、嗚呼吾皇孝、道統を既に絶えたるに續ぎ、學秉を將に衰へんとするに興す、經明に行修り、一世の觀と爲る、天若し年壽を賜はらば、道其れ庶幾からんか、是か非か、哲人其れ萎(や)めり、豈に獨り子孫無窮の思を遺すのみならんや、抑〃今後人をして仰止之れ依らしむ、鼎や生れて不才、此百罹に逢ふ、他氏に養はれて、親慈を知らず、謂はゆる黄■(奚+隹:::大漢和42124)卵を生み、烏■(奚+隹:::大漢和42124)之を伏す、但烏■(奚+隹:::大漢和42124)の子たるを知りて、黄■(奚+隹:::大漢和42124)の兒たるを知らず、才(わづか)に螺螽我れに類するの祝に逢ひて、猶禽獸の母を知るの譏を免る、風木を觀て徒に下り霜露を履みて空しく悲しむ、松楸神を棲ましめて、桑梓の敬を起し、詩書統を垂れて、堂構の基を開く、箕たり裘たり、及ばざるに及び、堂に入り室に入り、期なきに期す、長立無似、老大何をか爲さん、兄あり弟あり、膳羞事に逮ぶ能はず、田なく禄なく、祭祀時を以てすることを得ず、不孝の罪何を以て辭するを獲ん、獨り葵岡先生の在るあり、至徳堂を斯に寄せ、更に平澤の塚を築く、乃ち祝し乃ち尸し、固く遺教を守り、以て先師を明にす、北海の郷既に立ち、西河の民疑はず、況や且つ蘋藻倶に潔く、■(裁の旁/肉:::大漢和29457)羮咸な宜し、潔齋して以て誠あり、春秋是れ祠る、嗚呼神靈、此を舍てゝ、何くにかゆかん、今茲暮春の吉、鼎、血胤を以て、諸君に推され、遠く此土に來りて、其祭儀を修む、人の不肖と雖も、冀くは神の知る事あらむ、清■(酉+古:::大漢和39829、57915)庶羞、敢て孝私を虔む、伏して惟みるに、尚はくは饗けよ、(*と)〔按ずるに、享保以降、文學の盛なる、往古に過絶す、然りと雖も、各家漢・魏・六朝の書を讀むを務め、未だ宋・元に渉らず、故に寡陋笑ふべき者、往々にしてあり、諸家文集中、祭文皇祖皇考の字を載すること一ならず、皆唐人の爲す所に傚ふ、墓誌碑碣以て見るべし、錢大■(日偏+斤:::大漢和13817)云く、唐李■(皋の俗字体〈自+皐の脚〉+羽:こう・ごう:空高く飛ぶ:大漢和28810)、其大父の事状を述べ、題して皇祖實録と云ふ、當時以て怪となさず、若し之を後代に施さば、不大■(韋+是:::大漢和43177)を犯す、唐・宋の人の墓誌、其父を稱して皇考と云ふ、歐陽公隴丘阡表に亦其父を皇考と稱す、宋の徽宗始めて之を禁止す、南宋以後、遂に敢て用ふる者なし、好古の士、まさに時に隨ひて變通すべし、所謂禮は宜に從ふなり、我土近時の操觚家、稱謂の一事に至りては、汎濫殊に甚し、文詞見るべしと雖も、事實に當らざれば、以て後世に傳ふるに足らず、宜しく之を熟考すべし、〕
善庵、名は鼎、字は五鼎、朝川默翁の嗣なり、默翁業を兼山に受く、兼山歿して後、其妾默翁に歸し、善庵を生む、故に善庵は實に兼山遺腹の子なり、早に經義を以て、世に著聞す、余交誼を辱うすること二十年なり、其容貌能く兼山に相肖たりと、龜田鵬齋、嘗て余が爲めに言ふ、兼山手澤の諸書、善庵力を極めて捜索して、之を購求す、既に數種を弃藏す、善庵其男格、字は天壽をして、片山氏の嗣と爲し、祀を奉ぜしむ、格は經義文章、父祖に減ぜず、人稱して兼山の餘慶の及ぶ所と爲すと云ふ、


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高芙蓉
(*大島芙蓉)
名は孟彪、字は孺皮、芙蓉と號す、通稱は大島逸記、甲斐の人にして、宍戸侯に仕ふ、

芙蓉は其先世〃新田氏の族なり、大炊助義重(*新田義重)の第三子、里見三郎義俊、其子伊賀守義成(*里見義成)、幕府頼朝に從ひて、佐命の功あり、其第三子藏人義綱(*里見義綱)、上野の大島莊に食邑す、遂に地を以て氏と爲す、是を大島の始祖と爲す、其子修理亮時繼(*大島時繼)、其子六郎盛義(*大島盛義)、其子太郎義員(*大島義員)、其子兵庫頭義政(*大島義政)、建武の武者所と爲る、其子左衞門大尉義高(*大島義高)、其子讚岐守義之(*大島義之)、鎌倉管領上杉憲實が爲めに攻陷せられ、子孫關東の諸州に播遷す、祖父六郎某に至りて、始めて水府に仕ふ、後、事に坐して禄を奪はれ、去りて甲斐の高梨郡名取邑に居る、父尤軒(*大島尤軒)始めて醫と爲り、徳本翁の言に私淑して、郷邑に名あり、芙蓉方技を治むるを欲せず、京師に遊學し、廣く時流に交る、學常師なく、專ら漢魏傳注を以て、經義を講習す、竟に此を以て顯はる、
芙蓉少壯より、故有りて屡〃姓名を變ず、文詞に於ては、高梨郡に生るゝを以て、修めて高氏と爲す、其晩暮に至り、本姓に歸復し、僅に二年にして逝く、故に其舊姓を知る者なし、概して高芙蓉と謂ふ、
芙蓉説文に刻意し、六書に傍通し、尤も音韻に精し、又篆刻の嗜癖あり、鐵筆の技を以て一時に喧噪す、其經術文章の、末技の爲めに掩はれて、人と爲りを知らざる者極めて衆し、
芙蓉資性穎敏、衆藝に博綜す、韜鈴・射御は尤も長ずる所たり、又坊城菅公に從ひて、朝儀典詁の説を習ふ、謂はゆる故實有職の奧底に通達す、此亦儒家の及ばざる所なり、
慶元以降、衆藝漸く開け、文筆の業、前古に過絶す、特に印章・篆刻の一事に至りては、未だ其極に至らず、榊原篁洲池永道雲細井廣澤ありと雖も、僅に明人の一斑を窺ふのみ、芙蓉出づるに及び、古今印章の制度を商■(手偏+確の旁:かく:打つ・叩く・占める・量る:大漢和12451)す、遂に秦・漢の淵源に遡りて、流派を探汲し、復た餘蘊なし、我土印章の一技、始めて大に備る、皆川淇園柴栗山(*柴野栗山)、稱して以て印聖と爲す、
芙蓉は性雅好に耽り、書畫を愛玩す、魏・晉以降の碑版金石、宋・元諸家名人の眞蹟、博捜宏索、重價を厭はず、以て之を購求す、家之が爲めに常に貧し、
芙蓉は博聞強識、與に比する者なし、一時好事の士、盡く之に慕附す、又書畫の鑒定に長じ、一見立どころに眞僞を辨ず、今時賞鑒を以て家を成す者、其遺論を傳へ、稱して我土宋・元以降の古書畫を鑑識するの濫觴と爲す、
芙蓉好みて書畫を爲す、其筆を下す時に當り、意匠經營、形跡に在らずして、運筆に在り、細大疎密、亦たゞ意の適する所なり、是を以て、時ありて書すれば、或は畫の用筆に似たり、畫けば或は書の倚毫に似たり、或は童兒の塗■(亞+鳥:::大漢和47022)、醉漢の溌墨の如き者あるに至る、人の毀譽する所は、恬として意に介せず、常に柳淇園〔名は公美、字は里恭、玉桂翁と號す、甲斐の人なり〕(*柳沢淇園)・池大雅〔名は無名、字は貸成、九霞山樵と號す、京師の人なり〕と友とし善し、二人皆書畫を善くし、其持論立説、芙蓉と同じ、門を此に專らにする者、今に至りて、遺訣を奉崇せざるなし、
芙蓉は富士山に登ること、前後三次、幽を探り勝を窮めて、自ら山嶽の眞景を寫し、百芙蓉圖と曰ふ、是より先き、未だ此擧をなす者あらず、後人富士を畫く者、多く皆之に據る、此より後、別に中嶽畫史と號す、
明和辛卯三月望、芙蓉の誕辰なるを以て子弟宴を其家に開き、五十の壽を賀す、時流盡く集まる、浪華の葛子琴、詩二首を寄せて云く、

平安客と爲り幾か諸に居る、白首青袍易を學ぶの初、久く工夫を費す常侍が句、新に聲價を増す右軍の書、芙蓉池上微禄を甘んじ、■(艸冠/函:::大漢和31193)■(艸冠/陷の旁:::大漢和31270)峯陰舊廬を懷ふ、帝裏の山川知命の日、寧ろ土に非ざるを將て歸歟を歎ぜんや (*平安爲客幾居諸、白首青袍學易初、久費工夫常侍句、新増聲價右軍書、芙蓉池上甘微禄、■■峯陰懷舊廬、帝裏山川知命日、寧將非土歎歸歟)
宅を遷す桃花の第幾坊、春秋正に郷に養ふに及ぶ、四方志有り弧矢を懸く、二頃田無く印章を佩ぶ、篆刻雕蟲技と爲す大に、書婬類蠧生を寄ること長し、何ぞ論ぜん七七年來の事、滿眼の煙花夢一場 (*遷宅桃花第幾坊、春秋正及養于郷、四方有志懸弧矢、二頃無田佩印章、篆刻雕蟲爲技大、書婬類蠧寄生長、何論七七年來事、滿眼煙花夢一場)
芙蓉此時衣棚より桃花坊に移る、故に其實を記すなり、
永根冰齋印人傳に云く、芙蓉は舊と近藤齋宮と稱す、平安の衣棚下立賣下街に僑居す、始めは專ら講説を爲して、諸貴紳に教授し、中は臨池・丹青の技を爲し、終は篆刻を爲し、此を以て藝苑に著る、近時の印章の始め、眞に遠く、海外の諸名家に恥ぢずと、
天明癸卯の冬、宍戸侯其人と爲りを聞き、聘を厚くして之を招く、侯は水府の支封なり、芙蓉祖父の由る所を以て、禄俸の多少を擇ばず、之に應じ、褐を儒員に解く、十五口糧を賜ふ、翌年甲辰三月、妻子を挈へて江戸に到り、俄に傷寒を病みて、目白臺の邸舍に歿す、歳六十三、僅に侯第に入ること四十餘日、時に四月四日なり、小石川無量院に葬る、侯深く之を憫み、遺恩特に優にして、命じて襄事を爲す、先配羅井氏先だちて歿す、再び奧田氏を娶り、一男一女を生む、皆幼にして■(食偏+氣:::大漢和44316)廩を賜ひ、厚く之を撫育す、
著述に篆原一卷・漢篆千字文四卷・古今公私印記一卷・采眞印譜二卷・古今印選三卷・印章例考六卷・■(手偏+君:::大漢和12125)印叢三卷・游襄日記六卷・芙蓉編三卷・中嶽稿四卷あり、
羅井氏、名は來禽、字は檎檎、平安の人なり、性繪事を好み、能く花鳥を寫す、筆意清潤、頗る韻致あり、婉媚を以て工と爲さず、亦閨閤中の希なる所なり、又詩を善くす、亡友山本緑陰〔名は謹、字は公行、北山(*山本北山)の子なり〕弃藏する所の、來禽の著色江山隱居圖、絹本横幅、茅屋山に依り、山麓江流る、一老翁屋中の欄角に背坐し、一童江の側に在り、上に行書五律を題して云く、
風塵城市遠く、虚室白生來す、月を引て牀瑟を横へ、人を避て門苔に鎖す、■(門構/月::〈=間〉:大漢和77620)邨都て絶勝、肥遯定て宏才、笑ふに堪へたり馳名の者、危驅囘し易からず (*風塵城市遠、虚室白生來、引月牀横瑟、避人門鎖苔、■(門構/月::〈=間〉:大漢和77620)邨都絶勝、肥遯定宏才、堪笑馳名者、危驅不易囘)
款に云く、平安の井來禽畫并に題すと、畫詩共に清絶、以て其雅致の高きを見るに足る、


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宇井默齋
名は弘篤、字は信卿、默齋と號す、通稱は小一郎、肥前の人にして、唐津侯に仕ふ、

默齋の父包抄は、彌太夫と稱し、世〃唐津に仕ふ、唐津は今の古河侯の先封なり、柴田氏を娶り、四男三女を生む、默齋は其長子なり、享保十年乙巳四月十二日、唐津に生ると云ふ、
默齋は蚤歳父蔭を以て茶童に補せられ、時に兼山と稱す、常に侯の左右に給仕す、侯甚だ之を愛す、後、侯長崎にゆき、將に之をして駕に從はしめんとす、默齋辭するに足疾を以てす、侯戲れて云く、汝學問に志す、詩を作りて辭すれば、之を許さんと、乃ち立どころに賦して曰く、

彼此深淺を隔て、高卑自ら古今、恨くは山水の癖無き、辜負す舊知音 (*彼此隔深淺、高卑自古今、恨無山水癖、辜負舊知音)
默齋歳十九、事を言ふを以て、侯の怒に遭ふ、曰く、汝の言は則ち當れり、其人にあらずして、猥に之を建言すと、遂に放逐せられ、去りて京師に到る、舅氏柴田剛四郎に因りて、久米訂齋に從ひ、理學を研究すること三年にして、業に倦怠し、懶墮自ら恣にし、冶遊度なし、三絃を弄し、院曲を唱ふ、遂に戲場に入り、時樣の名優倡、瀬川富十郎の弟子と爲り、舞技を演習し、晝夜志を盡す、富十郎曰く、汝、我に從ひて、天下第一流の旦(をんながた)とならんと欲するも、扮戲多端、恐らくは時已に過ぎ、奧に至ること能はじ、再び志を立てゝ、儒者と爲り、名を文苑に揚ぐるに若かずと、一日盡く人を避け、竊に學資を贈り、以て其志を成さしめんと欲す、默齋固辭して受けず、富十郎曰く、餘あるを餘し、足らざるを補ふ、余跡を李園に混ずるも、粗〃世の榮辱を知る、以て辭すべからずと、強ひて之に附す、默齋翻然として發憤し、復た學業に志す、故に洛に居るを恥ぢ、東、江戸に到る、〔物の情僞を鏡し、事の本末を揆り、福の始、禍の終、敗の終、成の始、人を知るの難、古今同じ、夫の富十郎は、天下に名ありと雖も、一俳優のみ、後進を奨成する此の如し、余嘗て之を思ふ、眞に其人を知る者は、極めて稀なり、備前侯光政(*池田光政)の熊澤蕃山に於ける、会津侯正之(*保科正之)の山崎闇齋に於ける、河村瑞軒(*河村瑞賢)の新井白石に於ける、豆腐店源七物徂徠に於ける、宇明霞の僧大典に於ける、掛川の孀婦の加茂眞淵(*賀茂真淵)に於ける、江戸の令大岡忠相青木昆陽に於ける、相良侯意次(*田沼意次)の平賀鳩溪(*平賀源内)に於ける、富商三井某本居宣長に於ける、村士玉水服部栗齋に於ける、皆盡く之を少壯微賤、志を得ざる日に於て知れり、其大なるものは器宇爲すべきあるを知りて、之を優遇し以て異日の用を待ち、之をして其抱負する所を展べしむ、中は毀譽校せず、長短論ぜず、我の見る所を以て、之を傾顧し、之を稗助し、以て其業を贊成す、小は輸瀉款誠、其窮を賑濟し、我の有る所を盡し、其人を翼贊し、志を著作に專らならしめ、以て不朽の業を成すに至る、富十郎、情僞を鏡し、本末を揆るの知、洵に以て■(音+欠:きん・こん:〈=欣〉喜ぶ・慕う:大漢和16139)賞すべし、嗚呼今の肉食書を讀む者、一俳優の識に及ばず、あゝ、〕時に歳廿五なり、
默齋始めて江戸に到り、服南郭(*服部南郭)の門に入り、芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社に寓し、專ら李王の業を修む、後、社友の爲す所、多く蕪雜に渉るを知り、嘗て南郭と疑似を辨論す、南郭一に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の遺訓を奉じ、敢て異論なし、默齋云く、今の程朱を奉ずる者は瑣義末説、必ず少しも違ふを欲せず、又物氏を崇する者は、片言隻辭、盡く背くなからんと欲す、之を要するに皆是れ偏倚比黨、虚心公平を得ざるの故のみと、理學に歸服し、稻葉迂齋野田剛齋多田東陵唐崎廣陵等と、講習して輟まず、遂に能く門戸を爲す、
默齋大に理學を唱へ、其得る所を以て、子弟に教授し、聲價■(宀/浸:::大漢和59493)〃起る、舊君唐津侯、是より先き、封を古河に移す、其學術を聞き、召して儒官と爲し、二十口糧を賜ふ、時に歳四十、明和元年甲申五月なり、
默齋の妻野田氏、其兄罪ありて刑に處せらる、默齋之が爲めに連坐し、古河に幽囚せられ、此に三年なり、己丑九月、赦に遇ひて拘を免る、此より意を仕途に絶ち、教授を業と爲す、再び京師にゆき、上長者街に占居す、
默齋舊と清室に在りて、諸書に專精せず、只だ易本義詩書集傳を取り、潛反沈復、此三書を熟讀すること數十囘、又三書末疏の異同を校正し、大全の誤脱多きを辨晰す、我土理學を奉崇する者の、未だ嘗て及ばざる所なり、
天明元年辛丑十一月廿二日、病みて歿す、歳五十七、子なし、門人相謀りて、東山高臺寺に禮葬す、著す所、讀思録八卷・■(口偏+占:::大漢和3446)■(口偏+畢:::大漢和4139)小録二卷・警戒録一卷・默齋筆記四卷あり、


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平賀鳩溪
名は國倫、字は士彝、鳩溪と號す、又天竺老人・松籟子・風來散人(*風来山人)・森羅萬象翁・無根叟の諸號あり、通稱は源内、讚岐の人なり、

鳩溪の父を定右衞門と曰ふ、高松の藩士、笠井内記なる者の臣なり、笠井氏は世禄二千石、其食邑高松の封内、鳩多仁村に在り、享保丙午歳を以て此に生る、故に長じて鳩溪と號す、幼にして源吉と稱す、十歳の時、眞田宇右衞門なる者の爲めに、器愛せられ、常に之に倚頼す、後、眞田氏、懇に笠井氏に請ひて、鳩溪を以て、己の家隸と爲す、十七歳、眞田氏推敲益〃厚く、之を侯に薦む、侯擢でて藥圃の小吏〔謂はゆる藥圃方の下役なり〕と爲す、父定右衞門と同じく、侯士に升る、十九歳、江戸に祇役して、茶湯の給使〔所謂茶坊主〕と爲る、時に休慧と稱す、幾ばくもなく暇を請ひ、告期して京師に遊學す、又大阪にゆき、復た江戸に到り、諸州に漫遊す、寶暦の初、昌平學に寓すること四年、侯其勤學の怠らざるを嘉し、五口糧を賜ひ、以て學業の資と爲す、侯に上言して、本草の學を研究せんと請ひ、亦關左の諸州に遊歴す、上毛の諸名山・水戸・潮來・仙臺・會津・南部・津輕・松前の諸鎭、處として至らざるはなし、又甲斐・信濃・飛騨・越後・佐渡等の諸州に往來す、三十二歳、又江戸に到り、湯島天神の祠前に僑居し、教授を業と爲す、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學に私淑し、兼ねて醫事を爲し、傍ら本草に及ぶ、時に寶暦七年丁丑春二月なり、
鳩溪始めて江戸に到る、時に服南郭(*服部南郭)に從ひて修辭を學び、石筑波(*石島筑波)と友とし善し、何ばくもなく、二家木に就く、此よりして後、再び質を人の門牆に執らず、田村藍水に頼りて、本草物産の言を學ぶ、是より先き、嘗て阿部將翁に謁し、將に業を門に受けんとす、僅に一年を過ぎず、將翁亦木に就く、故に藍水に從ひて遊ぶ、藍水は將翁の高足の弟子なり、
鳩溪、詩を講説するに、毛傳鄭箋を用ひ、輪環して輟まず、終れば則ち復た始む、其物類に於ける、詳審精到、古今を錯綜す、是れ和漢夷蕃物産の學を研究する所以にして、實は言を詩意比賦興を解得するに託して、本草の學、有用第一の急たるを誇示し、以て其辨を馳鶩するのみ、聞く者皆喜び、倦きて欠伸するなく、■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)情賞豫す、
鳩溪毎に曰く、近世の學者、漢唐の傳疏と、宋元の註解とを論ぜず、務めて異を標するを要し、先儒の成説を非駁し、多廢を以て功と爲す、廢すべからずして用ふる者も、悉く其廢中に入るもの、十の七八なり、是れ皆未だ彼土の人、注疏大全等を講習するの意を通曉せざるなり、夫れ覆考温習して、經旨を研尋し、百計己を置き、古人に從はんと欲して得ず、得ずして後、通ぜんことを求め、用ふべからずして廢する者も、悉く其用中に入るもの、十の三四なり、是れ皆愼まざるべからずと、是言實に然り、當時物氏の學を奉崇する者、此弊を免れず、能く此意を知りて後、以て經義を談ずべし、
鳩溪常に厭ふ、諸侯藩邸の士大夫と稱する者は、目書を識らず、身禮に嫻はず、唯弩を■(弓偏+廣:::大漢和9881)(は)り槍を擺(ふる)ひ、馬を馳せ劒を試みるの武技を知るのみ、否れば、錢穀を料り、租税を督し、飽煖を謀り、■(奚+隹:::大漢和42124)豚を察するの末事にあらざるはなしと、故に思を仕途に絶ち、自ら沈淪に甘んず、特に自■(火偏+玄:::大漢和18948)奔競して、容を人に取る者を惡む、來見する者ありと雖も、一切謝絶して之と交らず、
鳩溪は宇内を傲視し、一世を愚弄し、動もすれば輒ち大言を爲す、後、自ら人の己を容れざるを識り、意を婚官に絶ち、放逸自ら娯む、井金峨(*井上金峨)に與ふる書中に言へることあり、當世の人、無頼尤も甚し、志もし合ふことあれば、粉骨刎剄の言あり、一たび忤けば、反つて石を下し甲を衷するの讐となる、列國の外嬖、權を專らにし、祖法を棄壞するが如き、若しくは賄貨遺弊、左道を■(走繞+咨:::大漢和37245)■(走繞+且:::大漢和37095)するにあらざれば、其門に出入するを得ず、況や介僻自重、情理に昧く、黜陟擧措、多く顛倒する所の者をや、眞に悲むべし、故に尾を泥中に曳く、此より善なるはなし、僕の意亦此に在り、足下豈に知らざらんやと、
佐渡の國は、北洋の中に在り、慶長中、大久保石州、始めて此に監司たりしより、四垠開闢し、民間庶富、往古に加陪す、其地金・銀・銅・鐵・鉛・錫等を産す、土人山を鑿ち、礦を採るを以て業と爲す、故に衆庶多く稼穡に疎なり、耒耜の國を利するの業を欲せず、尤も産殖に拙なり、百有餘年、沿ひて以て常と爲す、享保中、監司に令して、州民をして力を耕耨に專らにせしめ、土を開き田を墾き、桑を樹ゑ蠶を養はしむ、是より先き、土俗愚惷にして、綿を樹に取り、油を菜より取るを知らず、二物皆用を他州に仰ぐ、寶暦中、鳩溪監司に從ひて此に至り、始めて之を教喩す、能く其宜しき所に即いて、棉を種ゑ、菜を藝ゑ、衣服を給し、膏油を足す、又漆を製し、蝋を作り、茶を採り、酒を造る等の數件を以てす、其餘民用を利し、世費を拯ふ所以のもの、盡さゞる所なし、土俗今に至りて、其遺惠を蒙る、
鳩溪は相良侯の臣、三浦莊司なる者と舊知なり、莊司侯に告ぐるに、鳩溪の人と爲りを以てす、侯召し見て大に喜ぶ、鳩溪告げて曰く、僕の工夫餘りあり、ただ乏しき所は貨財のみ、當世の人、豈にたゞ文藝のみならんや、凡百の諸務、其最も第一なるは、之を■(糸偏+予:::大漢和27276)散して、時情を聚收するにあらざれば、抱負も展びず、思理も出でず、昔は韓昌黎襄陽に謂つて曰く、閣下一朝の享を廢するに過ぎずして足ると、眞に亦然り(*と)、侯其言を偉とす、既にして置酒し、談話■(日/咎:き:日影:大漢和14005)を移す、侯立つて奧に入り、躬ら糖菓一箱を持ち、之を賜ひて曰く、家に歸りて之を嘗めよと、鳩溪之を謝して辭し去る、鳩溪の家、諸方の贈饋、山海の奇珍を論ぜず、苞苴極めて多し、故に之を屑しとせず、置いて架上に儲ふ、殆んど半月許り、偶〃之を披啓すれば、糖菓の底に、小判金百兩を駢藏す、鳩溪獨り手を拍ちて曰く、豈に意はんや、初見の時、一言以て百金を獲んとはと、侯の己を知るに感服す、此時侯二萬石、侍中通政たり、其屡〃加封し、新に相良に城くに及びて、前後優遺、殫く記すべからず、重資を惜まず、眷注裨助して、其費す所を給す、是に於てか、鳩溪其工夫する所を果す、千考萬察して、諸事を歴試し、遂に能く其抱負する所を展布するを獲たり、
近世本草の學を以て專門と爲す者、各藥品を以て眞僞を鑒別す、號して藥品會と曰ふ、今に至りて息まず、寶暦七年、田村藍水、時流を湯島に會集す、是を江戸此會の始めと爲す、八年、再び神田に會す、十年、松田長元市谷に會す、十二年、鳩溪再び湯島に會す、會する毎に、會主の自ら具ふるものを主品と爲し、諸友の携ふる所のものを客品と爲す、鳥獸・草木・魚介・昆蟲・金玉・土石を擇ばず、主品は百を爲すを限と爲す、客品は其輻湊する所に從ひ、員數を定めず、鳩溪遍く海内同志の者に告げ、凡そ三十餘州、其集る所の品物千三百餘種、夏夷類殊、皆盡く具し至りて、其中に擇ぶ、佳惡を明辨して、詳に形状を圖す、我邦未だ曾てあらざる所の擧なり、編録既に成り、題して物類品隲と曰ふ、此學に從事する者、之を■(去/廾:::大漢和9605)藏せざるはなし、
鳩溪嘗て■(广/叟:そう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)辭を作り、傍人をして之を知らしむ、塾に寓する者、陽に言はず、米鹽薪炊・金錢物貨の員數、此を以て毎に之を行ふ、旦は一を脱す、〔一なり、〕王は十を脱す、〔二なり、〕全は个を脱す、〔三なり、〕羅は下を脱す、〔四なり、〕伍は人を脱す、〔五なり、〕交は人を脱す、〔六なり、〕切は刀を脱す、〔七なり、〕兮は■(巧の旁:::大漢和3)を脱す、〔八なり、〕鳩は鳥を脱す、〔九なり、〕干は上を脱す、〔十なり、〕戲弄に屬すと雖も、巧思と謂ふべし、此事北川眞顔(*鹿都部真顔)の狂歌堂隨筆に載せ、以て鳩溪の毎に用ふる所と爲す、森島中良桂林漫録に云く、江都の一大刹に、數字の■(广+叟:そう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)辭あり、曰く、大人なく、〔一、〕天人無く、〔二、〕王中なく、〔三、〕罪非なく、〔四、〕吾口なく、〔五、〕交人なく、〔六、〕切刀なく、〔七、〕分刀なく、〔八、〕丸ヽなく、〔九、〕千人なし、〔十、〕(*什?)、按ずるに、中良は鳩溪の門人にして、從遊年あり、未だ嘗て鳩溪に及ばず、認めて以て一大刹のある所と爲す、抑〃避くる所あるか、眞顔亦鳩溪に親炙し、能く其遺事を知る、必ず受くる所ありしならむ、二家の記する所、大同小異、姑く録して以て知者を待つ、
鳩溪不惑の後、才名世に高きを以て、侯伯貴人より、文學方技の士に至るまで、苟も本草に志ある者は、交を容れ、面を識るを欲せざるなし、列相館林侯武元、其器宇に服し、深く之を優待す、嘗て方技と本草とを兼ぬるを以て、褐を醫員に釋かむことを勸む、是より先き、阿部將翁田村藍水、皆本草學を以て、草莽より起り、大府に奉仕す、俸二百苞を賜ふ、故事に、醫員に列する者は、慶長より後、薙髪して頭を■(髟/几:::大漢和45359)するを以て式と爲す、鳩溪■(髟/几:::大漢和45359)するを欲せず、且つ仕籍に入り、藝術を以て進む者は、其初め受くる所、此數に過ぐるなし、偉器の士ありと雖も、加増あるにあらざれば、超えて其上に至る能はず、姑く之に從ひ、亦必ず能く處置する所あらむとて、鄭重に之を喩す、鳩溪常に謂ふ、大丈夫、禄千石を食まざれば、敢て仕ふべからずと、故に王侯藩鎭、賓師を以て之を禮待すと雖も、其給秩する所、五百石に踰えざれば、辭謝して應ぜず、今衣食を給贍せんと欲し、心を柔げて屈縮し、禄仕を求むるに孜々■(石偏+乞:::大漢和24043)々たるは、豈に欲する所ならんやと、侯猶之を眷顧し、又告げて曰く、褐を釋きて仕に上る、其勢侯國と異なり、累遷拔擧、微俸より起りて、千石・萬石に至るは、素と其任に存す、我れ力を盡すことあらむ、請ふ之を推考せよと、慫慂已まず、鳩溪敢て其恩旨を謝せず、才氣を自負し、傲然として人に謂つて曰く、二百苞は家常の茶飯、僅々たる小鳥の餌のみと、後、話本一卷を著し、暗に侯の人を知らざるを諷刺す、以謂らく、巨魚は涓流に游ばず、大鳥は小木に巣くはずと、
鳩溪は算計に長ず、其創思する所、近時世の謂はゆる盲金の如き是なり、瞽瞎癈疾の人、勢已むを得ず、間〃此を爲す者あり、四十年來、都下貨殖を好む者、比々として皆是なり、啻に癈疾の人、貨殖を好む者のみならず、今は乃ち肉食の家、利を貪りて■(厭/食:::大漢和44453)かず、又此擧を爲す、之を盲金と謂ふは、眼、人の休■(戚/心:::大漢和11158)と家の貧富とを見る能はず、利息漁奪し、産積これ欲すればなり、其法、金十兩を以て、人に借假し、券を納れ、證を取り、預め還期を建つ、凡そ三閲月を以て一期と爲す、出すに廿一二日を以てし、謂はゆる初の一月は、僅に一旬に過ぎず、納むるに十八九日を以てし、謂はゆる終の一月は二旬に足らず、中の一月は特に全し、稱して三閲月と曰ふと雖も、實に是れ六十日なり、月毎に金二分を以て息子と爲す、三閲月、既に査收する所は、一兩一分なり、期に至りて購はざれば、劵を改めて支銷し、復た其數を輸す、此の如き、一年定めて六期と爲す、計會の外、期毎に二分を以て賄資と爲す、之を謝金と謂ふ、是によりて、一年の殖す所、反つて原金に踰ゆ、其貨する所の十兩を■(宀/眞:::大漢和7257)いて、以て十二兩を獲べし、豈に巧ならずや、
鳩溪常に人の書齋に入るを容さず、舊交知友を論ずるなく、弟子の塾中に寓する者と雖も、許可を受けざれば、輕く入る能はず、寄宿の徒世人に下らず、數年の久しきに至るも、遂に机案の堆き所、架棚の儲くる所のものを窺ひ知るべからず、毎月朔望の兩日、自ら之を灑掃す、他の日は、塵滿ち埃積るも、知らざる者のごとし、古今の典籍、和漢を論ぜず、書卷畫軸、散亂して其中に委積す、弃藏の富、數十百笥、自著の草稿、等身啻ならず、豈に文章の海内を驚かす莫からんや(*豈莫文章驚海内)の七字を以て、其部類を分ちて之を盛る、左右前後、累層重複、將に捜索する所あらんとするも、認むべからざるに似たり、鳩溪此に坐して、鉛槧に從事す、或は書を借らんと欲する者あれば、自ら入りて其請ふ所を以て、特に出して之を附す、短簡小册と雖も、暗夜燭なく、獨り之を■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)索して、卷帙を錯らず、其強記密察此の如し、
鳩溪妻妾を置かず、家に婦人なし、興に乘ずれば出遊し、妓を買ひ樓に宿し、巨貲を惜まず、時ありて、之が爲めに窮すれば、其得る所の資財、忽に入り忽に出で、儲ふる所、一月の淹留するなし、
鳩溪は有用の才識を負ふと雖も、未だ曾て有爲の君主に遇はず、功を世に致すを得ず、頽然として自ら放逸し、酒を使ひ色に耽り、禮法粉飾の士を惡み、狂簡疎率の人を愛し、客を招ぎて豪飮し、費盡きて乃ち罷む、其家常に能く下物の芳■(食偏+羞:::大漢和44362)を儲け、割烹肆に讓らず、故に寄宿の子弟、各〃庖丁の技を善くし、鹽梅の妙、調和せざるなし、
我土諸州釀家の多き、盡く知るべからず、獨り攝の池田・伊丹を以て、之が最上と爲す、關西の人は、甘くして醇濃なるを好み、關東は苦くして■(酉偏+胥:::大漢和39935)淡なるを嗜む、蓋し地氣の然らしむるなり、鳩溪は南洲に生ると雖も、其人少壯より東に在ること已に久しく、性辛辣清芳の酒を好む、自ら制法を試み、遠く伊丹の釀戸に命じて、新に一味の良■(酉偏+慍の旁:::大漢和39974)を造らしむ、嘗て一駄〔俗に十樽を以て呼んで一駄となす〕を以て、相良侯に呈す、侯時に閣老となり、權朝野に振ふ、侯の標識、七星を用ふ、鳩溪、外套の包藁に、墨汁にて之を畫く、當世の人、鳩溪の創思する所なるを知らず、認めて侯の命ずる所と爲す、七星の標識、海内に傳喧して、尚今に存す、此制法を釀出して息まず、鳩溪は一室の中に、草木の花實根核・禽獸の羽毛蹄觜・鱗介蟲■(豹の偏に右払を付す:::大漢和75620)の屬、玉石沙礦の類、架上に排し、壁間に掛く、奇品異種、骨董肆を見るがごとし、其人極めて強記、答に應ずること、流るゝが如し、又嗜好多端にして、器財・衣服・凡百の家具、時樣の女妝花鈿、兒輩の玩弄、雜戲の諸物に至るまで、儲蓄せざるなし、好事の名、遠邇に傳喧し、朝野を傾動す、故に新奇を好む者、從つて此に附和す、轎丁輓夫と雖も、盡く姓名を知る、
鳩溪屡〃藥を上野・信濃の諸名山に採り、始めて石蠶・石綿の此に産するを識る、是より先き、中川淳庵〔名は煥、字は文卿、江戸の人にして、小濱の醫員なり、〕、武の秩父山中に於て、石麻を得たり、土人呼んで伊悉■(穴冠/瓜:::大漢和56090)答(いしわた)と名づけ、認めて石綿の種類と爲し、以て火浣布を製せんと欲す、其造法を思ひ、考援多端、群籍を捜索して、遂に知る能はず、一日談之に及ぶ、鳩溪業已に志を此に留むること數年、罩思精慮して、始めて能く成就す、然れども其織整する所、繊緻なる能はず、故に尚衆説を博綜し、西洋の諸蕃横文の書に及び、益〃其製を究めて、遂に能く之を成就するを得たり、蓋し其創意は、物産を講究するの緒餘より出で、機軸裁制の巧、運用■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)密の技、我土實に未だ曾て有らざる所の工夫にして、時目を■(火偏+玄:::大漢和18948)耀して、世人に虚誇するの事にあらず、夫れ火浣布の名は、相傳ふること既に舊し、傳へ言ふ、此布垢汗すれば、之を烈火に投じて之を燒く、垢盡き汗滅し、燦然として潔白、恰も灰汁を以て之を浣濯するが如しと、聞く者、猶以て架空構虚の談と爲して信ぜず、而も鳩溪獨り造れり、初て意の如きを得て、隔火敷(かうしき)片を織成す、大いさ銅錢の如し、遂に大府の電矚を經て、命じて之を崎■(奧/山:::大漢和8542)に傳致し、舶來の清商をして之を視しむ、南京の船主、汪繩武等、皆盡く感服し、呈状して云く、火浣布隔火を觀るを賜ふを蒙る、■(人偏+爾:::大漢和1244)等倶に既に公同領觀す、但し此物古より徒に名を傳へ、遂に未だ睹ざる所なり、今貴國此名人の博綜廣識、秘製精奇なるあり、實に希有と爲す、筆盡く述べ難し、■(人偏+爾:::大漢和1244)等幸に崎■(奧/山:::大漢和8542)に在り、叨に異遇を得て、此珍を見、公同賞嘆す、又唐山に在るの人に、天壤の間、現に此物あるを通知せんと欲す、然れどもたゞ空言は實據なきがごとく、諒に信を取り難し、今數枚を給領して帶回し、郷土博物の人をして、一同に賞鑒せしめんと欲す、敢て請ふ此を爲せよ、具單謹覆すと、官其請を允し、鳩溪をして再び之を製造せしめ、以て其懇索する所に應ず、
鳩溪自ら火浣布の銘を作りて云く、火浣の布は、古より名あり、彼れ妄に造説し、臆度意量、木皮斯れ調す、南荒に鼠毛あり、或は果して理を誣ふ、傳者の妄と謂ふ、■(三水+幸:::大漢和17578)溟たる造物、寧ぞ推窮すべけんや、陽中に陰あり、陰中に陽あり、火に入りて化せず、柔能く剛を制す、昔彼西戎、今我東方、素縷を織成し、周すに銀縷を以てす、一片の隔火、百■(火偏+主:しゅ:灯心・灯火・たく:大漢和18965)香を襯す、書堂の清供、繍房の風情、大日本明和甲申秋八月、讚岐の平賀國倫創製し、併せて銘す(*と)、〔按ずるに、明の高濂遵生八牋に云く、隔火は銀錢雲母片・玉片・砂片、倶に可なり、火浣布錢大の如きものを以て、周圍を銀■(金偏+襄:::大漢和41053)して隔火に作るは、猶得るに難し、范泓典籍便覽に云く、火浣布は甚だ得難し、嘗て錢大の如きものあり、周圍を銀■(金偏+襄:::大漢和41053)し、留めて火上に置き、香を燒くと、張萱疑耀に云く、逸周書に火浣布の贊あり、火之を澣す、布火に入りて滅せず、布は則ち火色、垢は則ち布色、火より出して、之を振へば、皓然として雪かと疑はる、是れ白色なり、山海經に云く、布は火山の國に出づ、火中に白■(獵の旁:::大漢和8702、71969)毛あり、布を作るべし、弊すれば火を以て之を燒く、新の如し、十洲記と同じ、此れ即ち周書の稱する所、雪と疑ふ者なり(*と)、陳耀文天中に云く、炎山あり、其山に木あり、取りて以て薪となす、之を燒いて燼せず、其皮を取りて之を績ぎ、火浣布となす、布に二種あり、今海外諸國の人、嶺南に市する者、往々之あり、余嘗て乃灰色の者を見る、其木皮たり■(獵の旁:::大漢和8702、71969)毛たるを訪ふに及ばず、今回■(糸偏+乞:::大漢和27246)の野馬川に木あり、鎖々といふ、之を燒くに燼せず、亦灰とならず、婦人根を取りて帽となす、火に入れて焚けず、豈に亦炎山木の類ならんや、余京師に數莖合して一となるを見る、■(獵の旁:::大漢和8702、71969)毛に疑して又類せず、大較木皮中の績ぐべきものに似たり、其色瑩白、火を以て之を燃す、并に沃ぐに膏を以てす、火中透紅、以て必燼となす、取出すに及んで、雪白故の如し、毫末と雖も損せず、始めて信ず、逸周書の贊する所、妄にあらざるなりと、右三書の云ふ所のものは、鳩溪の採りて銘を作る所以なり、余偶〃得る所に從ひて、詳に其依據する所を知る、故に之に併せ及ぶと云ふ、〕
火浣布の名は、始めて逸周書列子孔叢子山海經に見ゆ、後、范曄陳壽房喬沈約等の諸史、及び張華博物志葛洪抱朴子王嘉拾遺記陶潛捜神後記任■(日偏+方:::大漢和13796)述異記・僧道世法苑珠琳等の諸書、其記載する所、一にして足らず、宋・元以降に至りては、論説逾〃多し、特に沈作■(吉二つ:::大漢和3908)寓簡周密齋東野語袁棟書隱叢説張匡業西域行程記李時珍本草綱目、能く詳に之を明辨す、向に鳩溪の製造する所の、火浣布の寸片を北川眞顔(*鹿都部真顔)に得、眞顔之を鳩溪に得たるは、固より疑を容れず、其物絲縷毛茸、色微黄白、質木綿の如し、織理■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)密、汗すに油膩を以てし、穢すに■(女偏+后:::大漢和6215)墨を以てするも、之を烈火に投ずれば、汗穢悉く去り、淨潔浣澣するに似たり、然る後之を脱出するに、些も損壞せず、其機杼の巧、猶天衣を縫ふがごとし、諸家の言ふ所と符節を合するがごとし、まさに天壤の間、物として有らざるなきを知るべきのみ、而して耳目未だ接せず、已量を確執し、斷じて以て必無と爲すべからざるなり、嗚呼山中の人は、魚の大木の如きあるを信ぜず、海上の人は、木の大魚の如きあるを信ぜず、漢武は弦膠を信ぜず、魏文は火布を信ぜず、視る所少なる者は、疑惑する所多しと、信なるかな、〔按ずるに、天地の間、萬物の衆、詭怪常にあらず、變化窮りなし、何の所か有らざらむ、區々たる一己の見を以て、其有無を斷ぜんと欲する者は、狹陋殊に甚し、近時三十年來、泰西の説盛に行はれ、五大洲中、これを掌に指すがごとく、益〃造化の盡くるなきを識る、余常に博を貴び雜を厭はず、此の如きの事に及ぶ、一先生あり、其多端に渉るを難詰す、余曰く、爾雅十龜、其一を火龜と曰ふ、郭璞の注に云ふ、猶火鼠のごときなりと、物異氣を含む者あり、常理を以て推すべからず、今逢掖と稱する者は、皆文名あれども、博く書を讀まず、故に之を知らず(*と)、〕
近時越後の人K田玄鶴石綿論を著して云く、石綿は織りて布と爲す、之を猛火烈焔の中に投ずれば、通紅火と色を同じうす、時を移して之を出すに、冷復た初の如し、垢穢咸な去り、潔淨澣ぐに似たり、故に之を火浣布と謂ふ、寶暦中、平賀鳩溪始めてこれを製す、之を新調・諸藻・日南・蕭邱・羽山等の、火鼠を取りて織る所のものに比すれば、其名を同じくして其品を異にす、誠に我土の一大奇産なりと、又云く、火浣の布は、一名にして四種あり、火禽布は一なり、火獸布は二なり、火木布は三なり、火石布は四なり、鳩溪自ら謂へらく、西戎の産する所の火浣布は、織るに火鼠の毛を以てすと、殊に妄談と爲す、按ずるに、南海の火浣布は皆火鼠・火木の布なり、周公謹の謂はゆる、石巖に絲あり、織つて布と爲すべきものは、火石布の類なり、嘗て之を蘭説に聞く、度留故蘭度國(*トルコか。)に、火石布出づと云ふ、鳩溪亦周皇・魏文の徒なり、己れ已に見る所を以て、自信に果すこと、此の如し、夫れ天地の廣き、品物の衆き、冰海・火山、既に已に之あり、西域の火鼠・東海の冰蠶のごとき、何の疑か之れ容れんと、〔按ずるに、諸家の謂はゆる石綿・石皮・石麻・石絨・石綺の類は、皆石脈の中に産する物なり、昇平餘化の及ぶ所、天非常の人を出す、此を採りて其奇技を逞しうす、誰か賞せざらんや、夫れ火鼠・火木等の諸物、強ひて其説を作り、巧に虚妄を飾る、請ふ一言以て之を蔽はん、水に温泉あり、火に冷炎なし、霄壤中窮極すべからずと雖も、火中に勤殖寓すべき理なし、無底の辯論、識者を待たずして之を知る、前野蘭化の火浣布説、及び大槻磐水の補譯する所の削墨兒増廣書、詳に其製造法を載す、博物に意ある者、讀まざるべからず、之を要するに、唐山の人は多く傳聞を記して、其實を窮めず、泰西の人の記する所は、盡く實檢に出づ、固より烏有亡是の談にあらず、此等の事のごとき、小技に渉ると雖も、意を造作に精しうし、情を器用に專らにする者は、西説によりて深く工夫を求め、參考斟酌して之を造製す、豈に啻に火浣布のみならむや、世用に裨益する、亦極めて少からず、余毎に嘆ず、漢籍を讀む者は、未だ泰西諸國の究理徴實、人に益あるを識らず、蘭書を讀む者は、徒に名物・度數・器械・功効の世に切なるを知りて、未だ我孔孟の道、彝倫の至當、之を世務に施し、之を人事に措き、時と盈虚消長するを覺らず、世の儒者各一偏を主とし、彼此を折衷し、其所長を取ること能はず、今の蘭を學ぶ者は、本根を棄てゝ枝葉を採り、新舊を參覈して、其所短を捨つる能はず、此を以て彼を廢し、其癖好する所を免れず、概ね謂ふ、漢籍は多く虚妄、以て學ぶに足らずと、豈に愚謬ならずや、
鳩溪は機警俊爽にして、温厚の氣に乏しく、性尤も捐急、箴忍すること能はず、平生深く人の書齋に入るを厭ふ、將に他にゆかんとすれば、必ず塾長に命じて、子弟の猥に入るを許さず、故に家に在らざる時に當りて、必ず入るべきの事ありと雖も、各〃相戒めて敢てせず、其嚴知るべし、嘗て某氏の子あり、花柳の癖を以て、父の爲めに放逐せられ、暫く來りて塾に寓す、其子自ら謂ふ、鳩溪は父と舊知にして、一朝一夕の交にあらず、契もと他に異なりと、其在らざるを傾伺して、竊に書齋に入る、奇卷珍册、展視するに遑あらず、先づ机上の起草する所を採りて、之を閲すれば、建議して伊豆・相模二州の濱海島嶼を開拓するの策略なり、其中に人類を小笠原島に植するには、自ら之が首酋とならんと請ふの言あり、其區畫甚だ偉、論説明晰、皆紙上の空言にあらず、之を讀みて未だ畢らず、鳩溪忽ち外より歸り、大に怒りて、塾徒の相制せざるを呵責す、又其子を忿喝し、毆るに木刀を以てす、人ありて救解せしも、苦楚痛を成し、以て面を傷るに至る、又子弟其憤怒に觸れて、鞭策を■(言偏+焦:::大漢和35976)受すること一ならず、自ら苛刻此に至るを覺えず、之が爲めに謗■(言偏+由:::大漢和35332)を世に得たり、然れども恬として意とせず、
安永八年己亥五月五日、寄宿の門人、東天紅なる者、誤りて人を切害す、連坐して清室に幽逮せらる、冬十月某の日、瘡を憂へて、此處に歿す、時に歳五十七なり、蓋し罪状未だ決せず、其弟子尸を請ひて、淺草橋場の總泉寺に葬る、友人杉田■(壹+鳥:::大漢和47315)齋、之が爲めに墓銘を作りて云く、非常の人あり、非常の事を好む、あゝ非常の人、遂に非常に死すと、蓋し其の實を記すなり、
鳩溪著す所の諸書、世に刊布するもの、物類品隲淨貞五百介圖火浣布考火浣布略説是なり、品隲・略説の二書、坊間に孤行す、故に之を知る者あり、他の二書に至りては、剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)既に成り、僅に數部を摺りて、其版火災に罹る、流傳甚だ稀なり、向に北川眞顔(*鹿都部真顔)、自ら鈔して余に贈致する所のもの、火浣布考、尾の載する所左の如し、曰く、平賀鳩溪先生著述書目、江戸の書肆藻雅堂舟木嘉助發行、明和八年辛卯十月と、 物類品隲六卷 〔白す、遍く海内に告げ、其土産する所の物品を以て一室に相會す、參伍錯綜、佳惡を辨究す、鳥獸・草木を擇ばず、特に我邦の産物のみならず、唐山・朝鮮・山丹・西洋諸國に及ぶ、敢て一物も苟もせず、明に眞僞を辨じ、詳に形状を畫く、記すに携ふる所の名氏を以てし、他日の考援に資す、品隲の名、實に虚設ならず、格物究理、其差はざるに庶幾し、〕・ 淨貞五百介圖三卷 〔淨貞の字は佛經に出で、我本草學に關係せず、然りと雖も大界の中、水族の多き、肉盡きて骨遺り、森漫浩瀚、清淨堅貞なるは介殻に若くはなし、今目撃する所の海産物品、諸州に遊歴して得る所、詳に各地の名稱、及び物産家の正名を記し、其形状を圖す、〕・ 神農本草經圖四卷 〔藥品の諸圖、工を擇みて生を寫し、形似眞に逼る、冀くは一覽認め得れば、辯説を費さず、先輩の考のごときは、群言を折中し、要を撮み繁を削り、務めて簡易に從ひ、其原く所を示す、本草を讀む者、講ぜざるべからず、〕・ 神農本草倭名考二卷 〔我邦物産學、中世講究せざる、既に久し、今源順倭名類鈔(*倭名類聚抄)・丹波康頼和名本草、及び萬葉古今等の諸集に據り、參ふるに近世諸家の説を以てし、其當否を辨じ、稻若水(*稲生若水)・貝原益軒松岡恕庵の誤を補正す、〕・ 本草比肩十二卷 〔李氏(*李時珍)綱目(*本草綱目)、衆説繁蕪、泛く歸宿するなし、今本經三百六十五種を除き、外に千金外臺(*外臺秘要)以下の諸方載する所の物を取りて考究辨論し、諸家の長ずる所を探り、專ら本經の旨を主とし、三件を分品し、以て醫家の用に便ず、其刀圭を執るに於て、必ずしも小補なしと謂ふべからず、〕・ 食物本草一卷 〔食物の臭味、日用知らざれば、■(立心偏+夢:::大漢和11372)憧と謂ふべし、今亦經意に本づきて、三品を分別す、氣味・能毒・忌畏・反佐、悉く記して遺すなし、先修の書、既に論説に及ぶものは、一事を載せず、〕・ 火浣布考一卷 〔火浣布の名、正史に後漢書に出づ、浣は澣と同じ、魏・晉より後、諸書に散見す、皆西蕃貢する所を以て眞と爲す、其言荒誕、以て信ずべからず、今巖石中胎産する所の蠶綿を獲、創意之を製す、汚垢を浣去するに、之を烈火に投ずれば、潔白浣くがごとし、既に製して之を試み、苟も臺覽を經て、恭しく賞賜を蒙り、命じて之を海外に播告す、亦詳に其製造の方を記し、以て物品を考究し、造化の妙を知るの一助と爲す、〕・ 火浣布略説一卷 〔此書は火浣布考の要旨數條を採り、記すに國字を以てし、詳に源旨を述ぶ、清人請ひ索めて、桂馬衣尺寸を織成して状を呈す、及び崎陽の譯司和解の諸文等、悉く之を記載す、又拙著の火浣布銘を記し、以て同志の士に示す、〕・ 四季名物正名四卷 〔三都四季の物品、中世以降、名義を誤認して辨知せざること、此に五六百年なり、物産を講習するの餘暇、和漢の諸書を考援して、其名を辨正す、初學の士、以て遼豕の譏笑を免るべし、〕・ 日本物産譜二十四卷 〔穀一卷・菜五卷・草二卷・木二卷・石一卷・禽一卷・獸一卷・魚三卷・介三卷・蟲二卷・附録二卷、諸譜毎品に圖あり、名稱一に我邦の雅言に從ひ、附するに方言を以てし、漢蕃二名に及ぶ、其海外の種は、生活乾■(肉月+昔:::大漢和29614)を論ぜず、各條下に類附し、以て參考に備ふ、物産に從事するもの、裨益なからざるべからざるなり、〕 各書の下、細書する所の解題は、皆自ら擧げて以て其要を示すものなり、鳩溪の著述、散逸既に多し、幸に此目に頼つて、以て其梗■(既/木:::大漢和15363、58223)を知るに足る、其院劇・話本のごときは、英遵近世名家著述目録、既に之を載す、故に此に贅せず、
鳩溪は超倫の才、拔群の識、衆藝を博綜し、一世の人を愚弄す、出處顧みず、行藏省みず、徒に山師の名を取る、〔按ずるに、山師の名稱は明暦・萬治の間に起る、是より先き、又河師の名あり、角倉與市(*角倉素庵・吉田素庵)、慶長中、父與七(*角倉了以)と與に、命を奉じて諸河を疏■(三水+龠:::大漢和18709)し、水利を通漕す、時人稱して河師と爲す、平東海(*篠崎東海)の知命筆録に云く、小心大膽、擧措節あり、機に投じて差はず、雄謀壯策ある者は、人呼んで山師と曰ふ、海外の人、權謀術數を以て、縦横と爲すがごとし、吾土山師の稱は、河村瑞軒(*河村瑞賢)が甲信の諸山に伐木する時に起る、明暦丁酉正月、東都大火あり、瑞軒火の起るを見、先づ延燒數里に及ぶを識り、直に家財を賣却して金二十兩を得、單身疾く走りて甲府に至り、富商と議して、僅に十金を出し、巨萬の材木を新府・郡内・木曾等の諸山に買ひ得たり、既にして諸人都下の延燒を聞き、木價騰貴す、僅に十旬を出でずして利を獲る算をなし、其家暴かに富み、貲を致すこと萬金、時人呼んで大山師と曰ふ、嗚呼才識中庸に及ばず、其時を察し勢を測る、殆んど龜卜の如し、今人徒に山師の名を負ひて、未だ眞の山師たること能はず、誠に笑ふべし、書を讀み道を講ずるの輩、還つて僞山師に及ばず、衣食に奔走し、僅に凍餒を免るゝのみ、噫吁(*と)、〕其抱負する所、世用となること能はず、言を小家の珍説に託して時事を諷刺し、意を話本・劇曲に寓して世態を譏■(此+言:し:謗る:大漢和35344)す、放誕自恣、端睨すべからず、然れども無用中必ず有用を存す、頗る衆技百工の徒の爲めに蟻慕せらるゝこと、今に六七十年、世未だ嘗て其才識を歎ぜずんばあらず、眞に一奇士と謂ふべし、
鳩溪の編著する所、話本・傳奇・演劇・雜曲六十餘種、陸續開雕して都鄙に傳播す、今坊間に行ふ所の風來山人六部集の如き、鳩溪歿して後、其徒之を彙集して再び之を刻し、其一周忌辰の爲めにす、是を安永九年庚子と爲す、之に繼ぎて、其徒編次する所、牡丹堂雜記翻草盲目のごとき話本、之を讀むに、宛も實あるに似たり、辭致極めて巧なり、
屋代輪池(*屋代弘賢)、余が爲めに云く、鳩溪の事歴、天明年間、早く既に蹤跡を詳にすべからざるものは、時情傾慕して其人を惜めばなり、僕之を見ずと雖も、亡友吉篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)(*吉田篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470))・大田南畝、鳩溪と舊交あり、故に其人と爲りを知れり、蓋し其人甚だ才敏、偉器を負ふと雖も、明哲身を保つの計を知らず、常に奇異を好み、時目を驚駭す、其爲す所、誇大驕傲にして、時勢を識らず、若し之をして用路に當らしめば、殊に昇平を粉飾するに過ぎず、然らば則ち其竟に世に遇はざるは、其人の天幸のみ、たゞ鄙事に多能なり、工商を論ぜず、爲す所を以て告げ、其益を得むことを謂はゞ、意匠心裁し、一言にして決定す、教示する所に從へば、果して能く驗あり、蓋し此を以て聲名を鶩馳するを得たりと、
瀧澤曲亭(*滝沢馬琴)一書を贈る、鳩溪の實に清室に死せざるを載せて曰く、鳩溪は喜怒節あらず、忿に乘じ勢に激し、誤りて豪商の子を毆傷し、以て救ふべからざるに至る、之が爲めに幽逮せらる、一權貴素と才器を愛し、將に之を救解せんとし、竊に其地を爲す、東都の令堅く法を執りて可かず、權貴回護百方之を告ぐ、都令勢ひ已むべからず、衆と相議するも、能く其理解を得るなし、屬吏鳩溪と善き者、私かに其實を告ぐ、鳩溪掌を拍ちて曰く、善いかな、公等意を典刑に用ふること、人を殺す者は死するは、古今の常法なり、縷口を待たず、若し命を助けんと欲せば、法律に違ふ、審治戮に就けば、天下惜しむべき人を喪ふ、兩端を相持し、其處置を得るに若かずと、都令其言を傳へ聞きて、之を權貴に告ぐ、鳩溪に懇請して其裁畫を聽す、曰く、此に一策あり、僕自ら一貼の麻藥を製して、之を呑めば、立どころに死せんのみ、然れば未だ罪状を決定するに及ばず、清室に病死すと聲言し、尸を檢するの後、之を家に傳致せば、門人等必ず葬埋せむのみ、然らば上は法に違はず、中は救を垂るゝ惠恩に適し、下は愬者の忿意を散ず、僕數日の死、猶中山の醇醪、善く人を醉はすがごとし、豈に良策にあらずやと、都令再び告ぐ、遂に其言に從ふ、鳩溪一封の書を門人に贈り、藥品を家に取りて、之を自製し、藥を服して死す、然れども固く其事を秘し、之をして知らしめず、鳩溪自ら苟も免るゝを恥ぢ、跡を遠州に晦まし、口を方技に餬す、文化の初、之を見る者あり、歳八十有餘、故に鳩溪罪ありて獄中に死すと云ふは、實に是にあらずと、
奈須柳村、余が爲めに云く、鳩溪は、門人劒客東天紅なる者、夢寐ひ傍人を刺すの事を爲すに連坐し、未だ審決に至らず、傳馬街の囚所に病死す、歳未だ耳順ならず、門人尸を請ふ、獄吏之を許す、■(木偏+親:しん・かん:柩・梧桐:大漢和15851)を荷ひて歸る、家に至りて之を視れば、尸其體にあらず、大に驚駭し、再び之を請ふ、獄吏斷然として曰く、罪の輕重を論ぜず、法律は天下の公なり、既に其死を檢し、始末を按覈す、固より尸を易ふべきの理なしと、以て之を肯ぜず、門人勢ひ已むを得ず、之を橋場の總泉寺に葬る、當時僕僅に七八歳、能く其事を聞き、憶記すること四十年なり、是れ其不死の説、世に存する所以なりと、是言信ずべきに似たり、余之を柳村に聞くは文政の末に在り、柳村歳五十七八許なり、

先哲叢談續編卷之十


 後藤芝山  片山兼山  高芙蓉  宇井黙斎  平賀鳩渓

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