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伊藤仁斎伊藤東涯伊藤蘭嵎米川操軒藤井懶斎中村てき斎貝原益軒宇都宮遯庵五井持軒五井蘭洲大高坂芝山


譯註先哲叢談 卷四

伊藤維■(木偏+貞:てい・ちょう:ねずみもち・親柱・基礎となるもの:大漢和15163)(ゐてい)、字は原佐(げんすけ)、仁齋と號し、又古義堂と稱す、私に古學と謚す、平安の人

仁齋幼(えう)にして頴異挺發〔卓出〕、群兒に異なり、其始めて句讀を習ふ時、意既に儒を以て一世に焜燿(こんやう)〔名を耀かす〕せんと欲す、稍や長ずるに及び、堅苦自ら勵む、而して家素と賈を業とす、親串(しんかん)〔親戚〕以て利に迂なりとし、皆之を阻んで〔止める〕曰く、學問は是れ彼の邦の事なり、此邦に在りては固より無用に屬す、假令ひ之を能くするも售り易からず、如かず醫術を修めて以て生産を致さんにはと、仁齋從はず、是時に當り家道〔家の生計〕日に衰謝す、阻む者愈止まずして、而して其志確乎(くわくこ)として變ぜず
年十九父に從ひ、琵琶湖を過ぐ、詩あり云く

此水一夜平湖ト作ル、俗説尤モ信ジ難シ、世傳■(言偏+巨:きょ・ご:豈に・何ぞ・苟も・止まる・至る:大漢和35370)(なん)ゾ亦迂ナル、百川流テ已マズ、萬谷滿テ相扶ク、天下滔々(*たる)者、應(*に)異教ニ趨ルヲ憐ムベシ(*此水一夜作平湖、俗説尤難信、世傳■亦迂、百川流不已、萬谷滿相扶、天下滔々者、應憐異教趨)(*起句の「此水」は不要か。又は古詩体か。)
又園城寺の絶頂に登る詩に云く
山行六七里、往テ到ル杳冥ノ中、船遠ク閑々トシテ去リ、天長ク漠々トシテ空シ、嶺ハ環ル村落ノ北、湖ハ際ス寺門ノ東、男子空ク死スル莫レ、請フ看ヨ神禹ノ功ヲ(*山行六七里、往到杳冥中、船遠閑々去、天長漠々空、嶺環村落北、湖際寺門東、男子莫空死、請看神禹功)
識者此を以て其志の存する所を知る
初め宋儒を奉じ、大極論、性善論、心學原論等を著す、年三十七八に及び、始めて己が見を出す、其説には早晩異同あり〔前後に相違あり〕、而して古學文集之を雜載す、是れ東涯の孝思にして、定見〔一定せる説〕に非ざるものと雖も、之を棄つるに忍びずと云ふ
大高阪清介適從録を著し、以て仁齋を駁(はく−ママ)す、弟子持來り、之を示して曰く、先生之が辯を作れと、仁齋笑ひて言はず、弟子曰く、人書を著して以て恣に己を議す、苟も辭塞がら〔窮して答ふる辭なきをいふ〕ずんば、豈に默して止むべけんや、先生にして答へずんば、則ち請ふ余代りて之を折(くじ)〔挫〕かんと、仁齋曰く、君子は爭ふ所なし、若し彼れ果して是、我果して非ならば、彼は我に於て益友なり、若し我果して是、彼果して非ならば、他日彼其學長進せば、當に自ら之を知るべし、小子宜く深く戒むべし、學をなすの要は惟虚心〔坦懷にて挾む所なき〕平氣、己が爲にするを以て先(さき)となす、何ぞ彼を毀(そし)り〔ソシリ〕我を立てゝ、徒に多口を増さんや
後徳大寺藤公學を好む、時に京師の諸名儒を集め、其れをして相討論〔議を鬪はす〕せしめ、以て其定説を聽く、時に仁齋年方に壯なり、亦召されて列に在り、諸儒皆初は怡聲(いせい)〔和聲〕氣を下(くだ)し、以て辯説す、而して各相容れざるに及び、怒嘴(どし)説を立て、喧嘩已まず、仁齋獨り坦夷(たんゐ)〔平然〕温厚、終始一の如し、竟に擧坐之に歸す
甞て夜郊外に行く、劫賊(ごふぞく)四五人路(ろ)に當りて立つ、各劍を按し(*ママ)て曰く、吾徒醉はざれば樂まず、今酒資なし、客若し腰纏(*原文ルビ「てうてん」は誤植。)を缺かば、則ち自ら衣嚢(いなう)を脱して之を供せよと、仁齋神色少しも動かず、曰く、今日適ま〔丁度〕嚢錢なし、弊■(糸偏+褞の旁:うん・おん:屑麻・古綿:大漢和27757)袍(へいをんはう)〔衣古したる綿衣〕脱して以て之を遣らんのみ、且つ問ふ、汝輩常に何を以て業となすか、曰く昏夜〔暗夜〕横行、掠奪(りやうだつ−ママ)以て自ら給す、是れ其業なり、仁齋曰く、若(しか)く爲す所を以て業となさば、吾何ぞ拒まんと、輙ち服を脱して、以て之に授け、將に去らんとす、是に於て賊仁齋を止(とゞ)めて曰く、吾儕(ともがら)草竊(さうせつ)〔竊盜〕衣食をなすもの數年、未だ曾て擧止客の如き者を見ず、抑(そ)も客は何爲(なにす)る者ぞ、曰く儒者なり、曰く儒者は何事をかなす、曰く人道を以て人に教ふるものなり、所謂人道とは親(しん)に孝に、弟(てい)に悌に一日もなかるべからざるもの是なり、人として道なきは禽獸のみと、其言未だ畢らず、賊皆頓首〔頭を地に着く〕涕泣して曰く、噫君と我と鈞〔均〕しく是れ人なり、而して事業の迥(*原文部首「向」に作る。)に異なること此の如し、吾甚だ恥づ、願くは君吾儕の罪を宥(ゆる)せよ、今より後灰を飮んで胃を洗ひ、謹んで教を門下に奉ぜんと、遂に皆改心し、自ら勵むと云ふ
甞て花街を過ぐ、娼家婢をして邀(むかひ)〔迎〕入らしむ、仁齋肯んぜず、婢曰く少憩して去るも、事に於て害なからん、郎君其れ辭する勿れと、直に袂を牽きて樓に上る、仁齋固より娼家なるを知らず、中心私に揣(はか)〔測〕る、是れ交を吾に内(い)〔納〕るゝにあらず、又譽(ほまれ)を郷黨朋友に要(もと)〔求〕むるにもあらず、蓋し財を輕んじ徳を敷き、施いて路人に及ふ(*ママ)ならんと、茶を啜り煙(えん)を喫し、厚く謝を致して去る、渠亦其状貌を見るに、殊に冶郎〔遊蕩兒〕に類せざるを見て、強ひて留めず、仁齋歸りて弟子に謂つて曰く、今日偶ま市を過ぐ、一家少女をして余を途に迎へ、延きて其樓に上らしむ、則ち綺■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)(きさう)繍簾、殆ど異觀をなし、畫幅琴箏の陳設趣を具ふ、而して婦女六七人、盛装備服す、知らず其内人〔妻〕なるか、將た其閨愛なるか、出でゝ余に接し頗る款洽(かんがう)〔ネンゴロ〕(*原文頭注「■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)」を使う。)なり、去るに臨んで其庖中〔料理場〕を■(目偏+嫺の旁:かん・けん:見る・覗く・窺う:大漢和23702)(うかゞ)〔窺〕へば、亦美酒嘉肴、宴席に備辨す、意(おも)はざりき今の世に善を樂み施(せ)を好むこと此の如きものあらんとは
大石良雄贄(し)を仁齋に取る、一日來りて其講書に侍す、而して時々睡りて聽かず、衆皆匿笑す〔カクシワラフ〕、退くの後詬罵〔ソシリノゝシル〕して曰く、懶惰彼が如きは學ばざるに若かずと、仁齋曰く、小子妄(みだり)に謗ること勿れ、予を以て彼を觀るに庸器〔平凡の人物〕にあらず、必ず能く大事に堪へんと
某貴紳一石を珍襲す〔大切にして幾重にも包む〕、大さ量(ます)の如く、五色を備ふ、一日仁齋を召して之を示す、仁齋視ること久しくして曰く、此石龍(りう)を生ず、人の愛重(あいちよう)すべきものにあらず、請ふ遠く之を郊外(*原文ルビ「かくぐわい」は誤植か。)に棄てよと、貴紳悦ばず、然も自ら安んぜず、遂に茅茨(はうし−ママ)を原野に結びて〔茅茨を結ぶは小舍掛をなす〕之を置く、居ること十餘年、果して雷雨驟(にわか)に至り、霹靂一聲、茅茨破壞し、龍あり石中より出で、空(くう)に騰(のぼ)つて去ると云ふ
人あり狐(きつね−ママ)の爲に魅せ〔身いれる〕らる、諸術辟(さ)ること能はず、適ま仁齋の徳能く妖を服すと聞き、之を招請す、仁齋至れば口未だ一言を吐かざるに、狐(こ−ママ)慴伏(しゆうふく−ママ)し〔懼服す〕、罪を謝して去る
仁齋が家素と赤貧にして、歳暮(せいぼ)に糯■(次+食:し:餅:大漢和44137)(じし)〔餅〕を買ふ能はず、亦曠然以て意となさず、妻(さい)■(足+忌:き・ひざまづく:跪く:大漢和37549)(ひざまづ)き〔■は跪にてヒザマツ(*ママ)ク〕進んで曰く、家道の育鞠(いくきく)は妾未だ甞て堪へずとなさず、而して獨り其忍びざるもの、孺子〔子供〕原藏未だ貧の何物たるを解せず、人の家に■(次+食:し:餅:大漢和44137)(し)あるを羨み、連(しき)りに求めて已まず、妾口之を呵すと雖も、膓(はらわた)爲に斷絶(だぜつ−ママ)すと、言訖り〔終る〕て涙下る、仁齋几に隱(よ)り〔ヨル〕て書を閲し、一言も之が答をなさず、直に其著(ちやく)する所の外套〔羽織〕を卸して以て妻に授く
仁齋荒川景元が金を贈るを謝するの詩あり(、)云く
討習研磨ス二十春、恩ハ父子ノ如ク最モ相親ム、金ヲ受ケテ(*原文送り仮名「受ケヲ」とするのは誤植。)謝セズ元傲ルニ非ズ、適マ君ガ情厚ク且ツ眞ナルカ(*ママ)爲ナリ(*討習研磨二十春、恩如父子最相親、受金不謝元非傲、適爲君情厚且眞)
東涯後に題して曰く、先人此詩を作る時、予未だ冠〔元服〕せず、尚其事を記す云々と、此に由りて之を觀れば、仁齋年五十七八、家猶寒〔貧〕なり、然るに是より先き肥後侯禄千石もて之を招くも辭するに母老いて、侍養人なきを以てす、世復た安くにか利禄の爲に其心を動かさゞる、此の人の如きもの有るを得んや
左右比屋〔近所隣〕力を戮(あは)せて義井(ぎせい)〔共同井戸〕を濬(さら)ふ、仁齋之を聞き、出でゝ共にせんと欲す、衆皆曰く、吾曹之を成さば足る、何ぞ先生を役(えき)することをせんと、仁齋曰く、敢て義の厚きを謝せざらんや、然りと雖も、余此井を汲む、既に衆と異ならず、今豈に獨り與からざるの理あらんやと、遂に■(糸偏+更:こう・きょう:つるべなわ:大漢和27489)(かう)を執りて其勞を分つ
仁齋實に一代の儒宗(じゆさう)〔儒學の宗師〕たり、天下の學者四面來りて之に歸す(*原文「ず」とあり。)、東涯が盍簪録(かうさんろく)に曰く、先人生徒を教授する四十餘年、諸州の人國として至らざるなし、唯飛騨、佐渡、壹岐三州の人門に及ばず、謁(*原文ルビ「さつ」は誤植。)を執るの士千を以て數ふと
邦俗立春前一夕、炒豆(さとう)〔煎豆〕を撒じ、高聲叫んで曰く、福は内鬼は外と、殆ど兒戯に類せずや、而して仁齋必ず禮服(れいふく)を著して之を家に行ふ、其の好んで崖異(がいい)〔角立ちたる反對〕をなさゞる此の如し
甞て門人數輩を率ゐて梵刹(ぼんせつ−ママ)〔寺〕に■(彳+尚:しょう:さまよう〈たちもとおる〉・徘徊する:大漢和10149)■(彳+羊:よう:さまよう・たちもとおる:大漢和10094)(しやうやう)〔散歩〕す、仁齋佛を見て即ち拜す、門人悦ばずして曰く、先生恒に力めて釋氏の非を辯ず、而して今其像を拜するものは何ぞや、仁齋曰く、釋誠に儒と異なり、然り而して其地を過ぎて其主に禮せずして可ならんやと
凡そ一家の説を唱へ、以て己れ始めて道を得たりとなすもの、其黨に非ざるより外、視て以て寇讐〔アタカタキ〕の如くす、仁齋が如きに至りては、其の之を信ぜざる者に於ても亦推さゞるを得ず、太宰春臺は自ら視ること甚だ高く、常に評隲(ひやうしつ)〔批評〕する所、其師徂徠と雖も、猶擇ぶ所あり、然るに其漫筆に曰く、伊仁齋は豪傑の士なり、所謂文王を待たずして作(おこ)る〔興る〕者なり、物先生も亦豪傑の士なり、然も伊氏に後れて出づ、其學は伊氏に本(もとづ)かずと雖も、伊氏を以て、嚆矢〔創始〕とせざるを得ず、又曰く、余甞て伊氏に見え、而して之と言ふ、其貌(かたち)を觀れば恭〔謙にして謹〕、其言を聽けば從なり、余故に以て君子となす、又曰く、仁齋に及ぶべからざるもの三あり、學師傅〔先生指導者〕に由らざる一なり、仕へざる二なり、子東涯ある三なり、物先生此に一あらずと、又祇南海は木門の高足〔高等の弟子〕、固より仁齋と趣を異にす、而して其高生(かうせい)を送る序に曰く、世に語孟字羲の書あるを聞き、索めて之を讀む、是に於て京師に伊藤君あるを知る、予固より茲に拘(かう)せられて〔拘束せられてなり〕一たび接見する能はずと雖も、苟も其書を觀れば、其人となりを知るべし、夫の至言要言(しけんえうげん−ママ)を觀るに、聖賢を左右にし、以て邪説を鞭■(竹冠+垂:すい:鞭:大漢和26158)(べんすい)し、奮然麾(き)を把〔執〕りて世の爲に先登(せんと)する者、昭々乎として筆端に見(あら)はる、人をして驚歎(けうたん)(*原文ルビ「けいたん」は誤植。)せしむ、猶景星卿雲(けいせいけいうん)の仰(あふ)ぐべく企つ〔ツマタテ及ぶ〕べからざるが如し、嗚呼是れ豈に今の人ならんや、抑も古の所謂超然獨立するものか


伊藤長胤、字は原藏、東涯(*原文「束涯」は誤植。)と號す、又慥々齋と號す、私に紹述と謚す、仁齋の長子平安の人

東涯は經術湛深(たんしん)〔奥フカシ〕、操行方正粹然たる〔純粹にして駁雜ならざる〕古の君子なり、甞て集會せる弟子に謂つて曰く、昨一匣(かう)を骨董肆(し)に買ひ、之を几側に置きて以て抄冊を藏(おさ)む、甚だ便となす、乃ち童子(だうし)をして之を取らしめ、前(まい−ママ)に陳して曰く、余工をして新に此器(き)の如きものを製せしめんとするもの年あり、意はざりき既に鬻ぐ者あらんとは、弟子之を視れば、接柄(せつへい)三絃〔ツギ棹の三味線〕を藏むる匣なり、是に於て相目して答へず、奥田三角進んで曰く、先生未だ知らざるか、此物は妓か(*ママ)三絃を藏むる匣なり、請ふ卻(しりぞ)けよ〔排斥〕、東涯色を正して曰く、小子妄言する勿れ、三絃は柄長し、奈何ぞ此短匣に藏まらんやと
甞て一小嚢の路に遺(をつ)るに値(あ)〔逢〕ふ、見て以て藥物となし、從者をして之を擧げしめ、嚢を解きて視れば、内に十餘金あり、東涯忽ち顰蹙(*原文ルビ「ひんじく」は誤植。)して〔顔をシガム(*ママ)〕曰く、此れ當に遺者〔落主〕を候(うかゞ)うて之を還すべし、即ち其地に立ちて以て待つこと良久し、日將に昏黒ならんとす、遲々として去り、歸りて之を閣上〔棚の上〕に置く、伊勢の巫祝至るに及び、付して以て大神宮に納むと云ふ
又甞て夜更けて歸る、途中誤りて防火水桶(すゐたう)に溲(さう)〔小便〕す、去ること里餘にして、始めて其貯水(*原文ルビ「ちよくすゐ」は誤植か。)なるを覺る、即ち還りて戸を叩き謝するもの再三、明旦又人を遣して之を洗滌せしむ
東涯徂徠と時を同くし、各東西に鳴る、而して徂徠毎に東涯を藏否して〔善惡を評す〕置かず、或は西より至る者に遇へば、即ち首(はじ)めに叩くに東涯の所業を以てす、東涯は此に異なり、菅麟嶼至るの日、徂徠が己に贈るの序を出して以て之を見(しめ)〔示〕す、麟嶼出づ〔坐を去る〕、東涯曰く物氏の文は譬へば鬼臉(きけん)〔鬼の面〕を蒙りて孩兒を恐喝するが如しと、奥田三角多年東涯に親炙すれども、其徂徠を品隲するを聞くは、唯此一言のみなりと云ふ
弟子甞て徂徠の天狗説を持し、來りて東涯に示す、北村可昌、松岡玄達坐に在り、同く觀て、極口之を刺譏(しき)〔惡口〕す、而して東涯暗として一言を容れず、二生曰く、此文啻に■(敖+耳:ごう:人の語を聞き入れない:大漢和29159)牙(がうが)〔艱澁にてムツカシキ〕語を成さゞるのみにあらず、説も亦不通と謂ふべし、先生以て如何となすと、東涯曰く、否、人各見あり、何ぞ必ずしも輕しく之を駁(はく−ママ)せん、况んや其天狗の状を形容するもの盡せり、今の筆を秉る〔執る〕者恐くは及ばずと、二生大に愧づ
東涯の時、俊傑輩出し、各旗幟を竪〔樹立〕てゝ以て自ら一方に振ふ、而して紹述文集二十卷、一言の之に及ぶものなし、識者以て難しとなす(、)東涯の名聲海内を動かす、四方の後學多く輻輳す〔アツマル〕、菅麟嶼既に徂徠の門に入り、又心東涯に嚮注(かうちう−ママ)す、遂に笈を負うて之に赴く、徂徠固より意となさず、春臺内甚だ平かならず、各送別の詩あり、徂徠の詩に云く

五十三驛難(*シ)ト言フ莫レ、處々ノ山川秋好看、明日先ツ(*ママ)函嶺ヨリ望マバ、糸ノ如キ大道長安ニ達セン(*五十三驛莫言難、處々山川秋好看、明日先從函嶺望、如糸大道達長安)
鞭ヲ揮ヒ意氣秋凉ニ■(立心偏+匚+夾:きょう・こころよい:快い・満足する:大漢和10949)(*かな)ふ、才子恩ヲ奉シ(*ママ)テ洛陽ニ遊ブ、但到レ西山紅葉好シ、錦衣相映ジテ早ク郷ニ歸レ(*揮鞭意氣■秋凉、才子奉恩遊洛陽、但到西山紅葉好、錦衣相映早歸郷)
自ら扇頭(せんとう)に書して以て贈る、春臺の詩に云く
田郎妙齢遠遊ヲ好ム、一旦師ヲ尋テ西周ニ入ル、天邊月ハ落ツ函關ノ曉、雲際星ハ流ル渤海ノ秋、周道砥ノ如ク奔走ニ任ス、那ゾ識ラン古人骨已(*原文「己」は誤植。)ニ朽ルヲ、到ルノ日試ニ問ヘ柱下ノ官、往時ノ老■(耳偏+冉:たん:耳たぶが下がる、ここは人名:大漢和29039)(*■(耳偏+「冉」の本字〈縦棒の無い形〉:たん:耳たぶが下がる:大漢和29021)の俗字。)今在ルヤ否ヤヲ(*田郎妙齢好遠遊、一旦尋師西入周、天邊月落函關曉、雲際星流渤海秋、周道如砥任奔走、那識古人骨已朽、到日試問柱下官、往時老■今在否)
麟嶼東涯に造り、出して之を示す、東涯一見し、且つ笑つて曰く、物先生の襟度〔度量〕廓如〔ヒロキ貌〕(*原文頭注「郭如」とする。)たる想見(さうけ−ママ)すべし、太宰子も亦慷慨にして氣節あり(*と)
東涯音吐甚だ低し、且つ訥々〔ドモリ〕言ふ能はざるが如し、對門、箍桶(こたう)(*原文「箍」の手偏を「木」に作る。頭注では手偏に作る。)商〔桶のタガを修繕する者〕あり、其■(蔑の艸冠を竹冠にする:べつ:竹の皮・竹の名:大漢和26416)束(べつそく)〔タガをハメル〕の聲、東涯が講書を亂り、聽者毎に其分ち難きに苦む
或曰く、東涯の辯疑録は貝原益軒の大疑録に答へて之を作ると、此言然らず、辯疑録は一に仁齋の遺漏を拾ひ、以て家説(*原文ルビ「かせい」は誤植。)を主張するのみ、其題辭に曰く、先君子沈潛〔深く考慮すること〕の識を體し、獨得の見を奮ふ、一片の婆心和盤托出し、微言精義剖折(ばうせき−ママ)〔細説分解〕(*原文頭注「折」の旁を「斥」とする。)餘なしと雖も、而も初學晩進、問を煩(わづらは)す、因りて舊聞を叙し、參ずるに新得〔新に發見せるもの〕を以てし、筆(ひつ)して辯疑録四卷となし、以て答問の資となす
東涯餘力臨池〔書〕に巧(たくみ)なり、片紙隻字も人爭ひて之を求む、而して其經語を録(*原文ルビ「ろん」は誤植。)する、必ず楷字を以てす、是を以て間(まゝ)詩賦諸語の作、行草を以てするあれば、人疑ひて親筆にあらずとなす
東涯三男を生む、長次先ちて夭す、喪を送るに臨み、弟子數人柩前(きうぜん)に哭す、時に一僧來弔(らいてう)し、謂つて曰く、悲哀今日の如き時に當りて、諸君豈に吾無常輪廻(りんえ−ママ)の説〔世事常住なく萬物轉生すとの説〕を信ぜざるを得んやと、木村源進毅然として曰く、吾黨若し道を信ずること篤からずんば、今日の如きに至り、或は殆ど左道〔異端邪説〕の惑はす所とならんと、僧默然(もくぜん)たり
名物六帖の人品、人事、器財の三帖(てう−ママ)は皆奥田三角が校する所なり、而して器財は校正し、人品人事は魯魚を誤り〔字畫の類似を正さず彼此取違へること〕、引書を謬る、此れ器財は東涯の在時、其家の眞本に就きて之を校刻せるなり、二帖は東涯の歿後、三角其草寫の己の家に藏せるものを以て之を刻す、故に舛錯(くわいさく)〔錯誤〕甚だ多し、東涯の男東所甞て更に二帖を校正すと云ふ、然も其本未だ刻せざれば、人の之を知る者なし
東涯の門人高養浩といふ者、師に叛きて宋儒を奉じ、時學鍼炳を著す、其中(うち)に東涯の學行を記すること、頗る詳悉となす、乃ち左に撮録す
客曰く、敢て問ふ東涯先生の人となりは何如、曰く温厚の長者(ちやうしや)なり、博識洽聞、徂徠に減ぜず、惜いかな、性謙讓に過ぎ、而して智施設〔實行實施〕に乏く、學衆美を包みて〔包括〕、而して才教誨に短なり、是を以て問ふあれば、則ち之に答ふ、答ふるも亦精詳ならず、問はざれば示さず、亦吝(おし)むあるにあらす(*ママ)、然も其父師の説に於ては、罅漏(からう)〔缺ける處〕を補苴(ほしよ)し〔繕ふ〕、幽渺(いうびやう)〔微にして明かならざる〕を張皇(ちやうくわう)し、筆削改竄〔刪正〕、大勳勞ありと謂ふべし、童子問、語孟字義の二書既に已に刊行す、古義抔樸(はうぼく)略(ほゞ)具して、成説未だ全からず、先生門人と校讐〔對照校正〕討論す、予亦末席に在るを忝くす、今を以て之を思へは(*ママ)、論語の一書、章々句々、修爲を説く者多し、故に仁齋の旨に符合す、抑も孟子の心性を論ずるに至りては、窒礙(しつげ)〔フサガリ障る〕通せ(*ママ)ざる者半(はん−ママ)に過ぐ、故に今刊行する所の孟子古義は其實東涯削■(金偏+據の旁:きょ・ご:鋸:大漢和40957)(さくきよ)の手に成るものなり、此に由りて之を言へば、東涯の學識は未だ必ずしも其家學に異説なくんばあらざるなり、而して孝子仁人、豈に夢寐(むみ−ママ)にも之を發するに忍びんや、是を以て知るべし、先生の篤志賢慮は、他人の敢て及ぶ所にあらざるを
東涯が墓碣(ぼかつ−ママ)の銘は内大臣藤原常雅撰し、權中納言藤原俊將(としまさ)篆額〔篆字にて碑文の上に題す〕し、右中將藤原英朝(ひでとも)書せり、世以て榮となす、春臺が南郭に與ふる書に曰く
去年七月平安の伊藤原藏歿す、其弟及び門生碣(かつ−ママ)を其墓に立つ、華山内大臣之に銘し、八條中將書し、坊城中納言篆額す、間者(このごろ)〔此頃〕京師の客あり、其文を持し來りて純に示す、中に其弟才藏の言を述べて曰く、集序は亡兄の在日、既に見允(けんいん)を蒙ると、華山公の之を許せしを言ふなり、純喟然(きぜん)として歎し(*ママ)て曰く、昔者水戸の義公、其世子と與に、明人朱舜水の遺文を輯(あつ)め、而して自ら其名を卷端に題し、且つ冠する〔名の上に署するなり〕に門人の二字を以てす、當時以て奇事となす、今華山公の原藏に於ける、既に集に序するを許し、又墓銘を作る、其人其言皆相類す、奇と謂ふべし、夫れ義公は國家の宗室〔幕府の親藩たるを指す〕にして、華山公は皇朝の大臣なり、而して舜水原藏、皆一匹夫〔無位無官の平民〕なり、匹夫にして是尊寵を受く、何ぞ其(それ)榮なるや


伊藤長堅、字は才藏、蘭嵎と號す、仁齋の第五子、平安の人、紀伊侯に仕ふ

蘭嵎は博學能文、父兄に類す、而して擧止端重(たんちよう)〔嚴正〕なり、其の始めて君侯の前(まい−ママ)に講ずるや、書に對して講せ(*ママ)ず、滿坐掌(しやう)に汗して以爲(おもひら−ママ)く、此人寒素〔微賤〕に生長し、未だ大人に説くに慣れず、其巍々然たる〔氣高く堂々たる〕を視て然るなりと、中使促せども應(おほ−ママ)(*おう)ぜず、侯も亦之を訝(いぶか)る〔怪む〕、既にして蘭嵎徐(おもむろ)に曰く、公褥(しとね)〔坐蒲團〕に坐す、聖人の書を講ずべからずと、侯之を聞き遽(あわ)てゝ褥を去る、是に於て始めて講説す、音吐朗暢、辯論明備なり、坐者皆歎稱して曰く、眞の儒者なりと
仁齋五丈夫〔男子〕あり、長は原藏、次(つぎ)は重藏、次は正藏、次は平藏、次は才藏、人呼んで伊藤の五藏と稱す、皆家學を世々にするに足る、而して原藏才藏最も著稱あり、之を伊藤の首尾(しゆひ−ママ)藏〔長兄と末弟と最も振ふの意〕と云ふ、奥田三角が撰せる仁齋の妻瀬崎氏の墓碣(ぼかつ−ママ)に曰く、東涯先生は緒方氏の出〔腹に生まる〕、而して愛護親子(しんし)に踰ゆと、四子長英は福山に仕へ、長衡は高槻に、長准は久留米に、長堅は紀伊に仕へ、皆儒を以て顯はる
吾祖初年京師に在る時、蘭嵎と相友たり、是を以て祖の母貞順原氏の墓記、及び傷寒私斷の序、皆蘭嵎に屬(ぞく−ママ)して之を撰せしむ、又書を善くす、先友不破子讓數張(すちやう−ママ)〔數枚〕を藏す、余が家蘭嵎と舊〔舊誼〕あるを以て、甞て將に分贈(ぶんさう−ママ)せんとす、未だ果さずして回禄〔火災〕に遭ふ、又繪事(くわいじ)を能くす、奥田三角其墨蘭に跋して曰く、蘭嵎好んで墨蘭を作る、近頃道學先生〔經學者〕の言に因りて、此戯を斷つと


米川一貞、字は幹叔、小字は儀兵衞、操軒と號す、平安の人

操軒の父賈に服す〔商業を營む〕、操軒が幼より書を嗜(*原文「たし」は一字を欠く。)み、區々〔小事に拘はる〕利を逐ふを欲せざるを見て、命じて三宅寄齋に就きて學ばしむ、寄齋期するに遠到〔大成〕を以てす、寄齋歿して山崎闇齋に謁して益を請ふ〔學業の教を受く〕、遂に性行篤學を以て世に名あり、而して禄仕を干(もと)〔求〕めず、甞て公侯より徴辟あるも、並に就かず、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋實記を撰して其行誼を詳にす
操軒一に程朱の説を奉じ、四子小近〔小學近思録〕書易等の外、泛(ひろ)く〔漫然汎く〕他書を觀るを欲せず、舊(も)と伊藤仁齋と善し、仁齋が古義を唱へて以て宋儒を非斥(ひせき)するに及び、乃ち書を修めて曰く、朱子は聖人の道を得たり、吾子異言を持して之を排す、養徳の學を語れば、薄徳(*原文ルビ「はんとく」は誤植。)となり、講學の事を語れば、學に益なし、是れ之を聖教の罪人と謂ふ、速に之を改めなば則ち止む、不〔否〕らずんば契分日久しと雖も、絶たざるを得ずと、其言切至、而して仁齋聽かず、遂に絶交の書を送る
操軒が友とする所は皆一時知名の士なり、藤井懶齋、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋、貝原益軒の如き、當世に君子を以て稱せらる、其友を取る、豈に端(たゞし)からざるを得んや、而して皆操軒と交睦し、歿するに及び、各悼惜(たうせき)〔イタミオシム〕以て其學徳を紀(き)す、而して益軒が録する所、最も其生平を想像するに足る、曰く先生の人となり、明敏にして志操あり、福を求めて囘(かへ)〔廻辟〕らず、其人に接するや、嚴にして和、其事を處するや、敬畏して〔物事にツゝシミオソル〕苟もせず、其言を出すや、辯にして序あり、聞く者厭はず、其學を爲(おさ)むるや、純正にして專ら經術を好む、平日心を程朱の書に用ひ、最も勒して〔差し控へること〕雜書を好まず、文仲子が所謂雜學せず、故に明かなる者、此人の謂か(*と)


藤井藏、字は季廉、懶齋と號し、又伊蒿子と號す、筑後の人

懶齋初め眞名部忠菴と稱し、醫術を以て久留米侯に官す、甞て一病者を療(れう)して起たず〔死す〕、自ら以爲く治を誤るの致す所なりと、是に於て慨然匕(さぢ)を投じて官を辭す、乃ち京に入り、專ら儒業を修む、晩に其先塋〔祖先の墳墓〕の所在に近きを以て、京西の鳴瀧村に退居し、超然世累(せいるい)〔世間の煩累〕を絶つ、其學は紫陽を宗とし、性理を高談す、從時隱君子の聲(せい)あり
懶齋本と豪氣老に及んで益慷慨なり、毎に曰く、余に一策あり、關東〔幕府〕若し吾を召さば則ち兼程〔急行〕して至り、即ち之を献せ(*ママ)ん、朝(てう−ママ)に陳し(*ママ)夕(せき−ママ)に死すとも、亦憾(*原文ルビ「くらみ」は誤植。)なしと、室鳩巣の遊佐某に與ふる書に曰く、藤井懶齋は直清〔鳩巣の名〕亦其人を聞く、此地に京師より來り仕ふる者あり、素と懶齋を識る、直清が爲に其人となりを語る、言あり徳ある一隱君子なりと、孟子玉を以て齊梁の君に説く、而して懶齋心之を慕ふ、其言條理あり、今具(つぶさ)に録する能はず、常に家に在り、慨然として〔奮起の貌〕曰く、東都〔幕府を指す〕若し命ありて隱士を召さば、行路に老死すと雖も、必ず往きて東都に至り、一に此義を以て陳せ(*ママ)ば亦足らん、一言の後、在京縉紳をして之を聞かしめば、爲に舌(ぜつ)を斷つと雖も亦悔ゆるなし、足下言議に絶つ所、而して彼が平生の志此に在り、想ふに足下之を聞かば必ず大に之を惡まんと、懶齋年八十餘、子あり、名は團平卓■(榮の冠+牛:らく:斑牛・すぐれた:大漢和20126)(たくらく)〔磊落不羈なること〕(*すぐれていること)にして兵を喜び、好んで天下の形勢を説く、其父操軒■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋と理學の友たり、而して團平深く父執に惡〔憎〕まる、然も意となさず、懶齋も亦禁ぜず
懶齋深く浮屠を疾(にく)み、閑際〔閑暇の時〕筆記多く緇侶を罵詈す、深草の元政の如き、孝を以て聞ゆるものなり、然も其著す所釋氏二十四孝に大安寺榮好を取るを以て、元政をば孝道を知らずとなす
懶齋著す所多し、本朝孝子傳、本朝諫諍録は志世教に裨益するに存す、孝子傳は倭文を合せて三版あり、盛なりと謂ふべし、大和爲善録、藏笥百首、徒然草摘義の如き、亦一片の婆心(ばんしん−ママ)、兒女に益なしとせず
懶齋甞て官舍に居る、人私に告げて曰く、此屋祟〔タゝリ〕多し、子居ること勿れ、人の此に住する者、災厄に遭はざる者なし、予復た子の他日患に罹るを見るに忍びず、懶齋以て意となさず、之に居ること二十年、終に恙なし、乃ち曰く、白居易〔白樂天〕凶宅の詩あり、云く「語ヲ寄ス家ト國ト、人凶ニシテ宅凶ニ非ズ(*寄語家與國、人凶宅非凶)」と(、)信なるかな
人或は懶齋に謂つて曰く、朱學を爲す者、多くは急迫〔短氣にて餘裕なきこと〕に失す、土佐の野中氏の如き是なりと、懶齋曰く、野中氏は朱子の書を讀んで、朱子の學を會せず、此れ其國を危(あやう)く(*原文送り仮名「う」は誤植。)する所以なり(*と)
鳩巣の懶齋に於ける、本と半面の識もなし〔一度も面會したることなき〕、而して其の之を推尊する、伊蒿先生徴君と稱す、懶齋甞て鳩巣が親(しん)を思ふの詩を和す、鳩巣古詩二首を作り、以て謝す、一は則ち懶齋を詠じ、一は則ち自ら叙し、且つ喜(き)を志(しる)〔記〕す、云く

鳳凰溟漠ニ翔リ、時ニ鳴ク崑山ノ岑、鳴聲一ニ何ゾ悲キ、生平苦心多シ、願フ所ハ簫韶ノ奏、■(足偏+扁:へん・べん:よろめく・膝頭:大漢和37717)■(足偏+遷:せん:よろめく・ふらつく:大漢和37864)(*「へんせん」−めぐりいく・ひらひらと舞う・よろめく・跛行する)遺音ヲ託ス、世路日ニ艱險、下視スレバ古今■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遙か:大漢和39198)(*ナリ)、唐虞忽チ已ニ逝ク、岐山尋ヌベカラズ、文彩須(*ク)日ニ愛スベシ、羽儀世ノ欽スル所ナリ、誰カ復タ稻梁(*ノ)爲メニ、低首群禽ニ從ハン、飢餐ス緑竹ノ實、寒棲ス椅桐ノ陰、自ラ隱淪ヲ甘ンス(*ママ)ルコト久シ、寧ゾ辭セン霜露ノ深キヲ、清高此(*ノ)如キ有リ、虞羅安ゾ侵スベケン(*鳳凰翔溟漠、時鳴崑山岑、鳴聲一何悲、生平多苦心、所願簫韶奏、■■託遺音、世路日艱險、下視■古今、唐虞忽已逝、岐山不可尋、文彩須日愛、羽儀世所欽、誰復爲稻梁、低首從群禽、飢餐緑竹實、寒棲椅桐陰、自甘隱淪久、寧辭霜露深、清高有如此、虞羅安可侵)
杜若江渚ニ生ズ、■(方+ノ+一+奇:い:旗のなびくさま・盛んなさま:大漢和13685)■(方+ノ+一+尼:じ・に:旗のなびくさま・盛んなさま:大漢和13660)(*「いじ」−旗のなびくさま・雲のたなびくさま・盛んなさま、山の名)其涯ニ被ル、長風紫莖ヲ搖シ、洪波朱■(艸冠+豕+生:ずい・ずい・に・そう・しょう:草木の花〈の垂れるさま〉・安らか・和らぐ・垂れ飾り:大漢和31995)ヲ浸ス、風波迭ニ驅迫ス、恐クハ衆艸(*ノ)爲ニ欺レン、自ラ羞ツ(*ママ)國香無キヲ、復タ絶世ノ姿ニ非ス(*ママ)、苒々歳將(*ニ)晩レントス、孤芳徒ニ自ラ持ス、高人奇服ヲ好ム、佩芳固ト遺ス無シ、豈ニ料ランヤ側陋ノ質、謬リテ君子ノ知ヲ辱クセントハ、揄揚言亦至ル、微生宜キ所ニ非ズ、但恨ム僻遠ニ處シ、君ノ園池ニ植エ(*ママ)ザルヲ、願クハ早ク下陳ニ充チ、朝夕容儀ニ近カン(*杜若生江渚、■■被其涯、長風搖紫莖、洪波浸朱■、風波迭驅迫、恐爲衆艸欺、自羞無國香、非復絶世姿、苒々歳將晩、孤芳徒自持、高人好奇服、佩芳固無遺、豈料側陋質、謬辱君子知、揄揚言亦至、微生非所宜、但恨處僻遠、不植君園池、願早充下陳、朝夕近容儀)
懶齋交はる所、皆篤學を以て稱せらるゝ者なり、川井正直は二十七歳、懶齋より長たり、懶齋爲に行状を作る、米川操軒は一歳の長たり、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は一歳少し、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋本朝孝子傳に序して曰く、伊蒿滕丈人(じやうじん)、愚〔謙遜せる自稱〕其知を受け、久しく兄事する〔推尊して兄とし事ふ〕所なり(*と)
懶齋姓は藤井氏、然るに題署には滕字を單用す、此れ啻に井を去るのみならず、又藤字に於て艸を省く、此事懶齋の人となりに類せず、怪むべきのみ、諫諍録の自序に署して曰く、伊蒿子滕臧季廉と、跋あり、男之を撰す、曰く少男藤井理定と、殆ど姓を異にするものゝ如し
象水といふ者は懶齋の長子なり、兵を好む、詩あり、云く
驥足未(*ダ)千里ノ風ニ乘セズ、蝸廬首ヲ縮ム艸菜ノ雄、眼前ノ什物笑フト云フト雖モ、十萬ノ甲兵腹中ニ屯ス(*驥足未乘千里風、蝸廬縮首艸菜雄、眼前什物雖云笑、十萬甲兵屯腹中)
鳩巣之に和して曰く
洛西ノ高士家風有リ、何事ゾ英材七雄ヲ慕フ、■(豸+丕:ひ:狸〈の子〉:大漢和36515)貅百萬一事無シ、些子ヲ將ツテ胸中ニ上スヲ休メヨ(*洛西高士有家風、何事英材慕七雄、■貅百萬無一事、休將些子上胸中)


中邨之欽、字(*原文「子」に作るのは誤植。)は敬甫、小字は仲二郎、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋(てきさい)と號す、平安の人

■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋童子(たうし−ママ)たる時より、厚重(こうちよう)〔オトナシク輕佻ならざること〕にして嬉戯を好ます(*ママ)、七八歳にして句讀を郷師〔村里の先生〕に受け、督責を煩はさず、長ずるに及び、惟篤實を務め、浮靡(ふひ−ママ)〔ウキタル、實着ならざる〕を喜ばず、先世市中に住す、而して■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋其喧嘩を厭ひ、遷りて幽地に居り、日に門を杜(ふさ)ぎ、心を大業に潜め、學を論じ文を談ずるの外、敢て泛交(へんかう)〔漫りに交際すること〕をなさず
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は功名(こうめい)射利に於て、澹然〔アツサリ〕情なし、賈竪(こじゆ)〔商人〕の間に生長すと雖も、物價を知らず、其家世々素封たり、而して盈縮〔家財の消長〕問ふ所なし、甞て管長〔番頭〕の爲に贓墨せらる〔財を私せらる〕、親串以て官に鳴らさんと欲す、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋可かずして曰く、私財を以て人の性命を損ずるは、不慈焉より大なるはなし(*と)、是より家道日に湮(いん)〔衰廢〕すれども亦意となさず
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋學ぶ所通曉せざるなし、天文、地理、尺度、量衡の類皆能く之を究極す、而して尤も禮に邃(ふか)〔深〕し、其家に處して己を行ふ、吉凶及び日用の間、一に古道に軌す〔則る(、)即ち從ふなり〕、言動苟もせず、踐履〔行爲〕則るに足る、又音律を審(つまびらか)にし、其發明する所は、當世の達者と雖も欽服す
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋性理の學を奉じ、誠敬を以て本となす、深く時輩の異説に渉るを非とす、其人を教ふるには、小學近思録を以て之を開發す、惓々〔懇至の貌〕老に至るまで少しも怠らず、室鳩巣が和角某に與ふる書に曰く、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋一生程朱を崇信し、始終(ししう−ママ)變ぜず、近世の醇儒者と謂ふべし、老夫〔鳩巣自ら稱す〕敢て自ら先輩(せんはい−ママ)に比せずと雖も、其程朱を崇信するは、則ち多く遜(ゆづ)〔讓〕らず(*と)、又雨伯陽が橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に曰く、余少時明經(めいけい)を以て志となす、中村米川諸儒の如き、博學を以て名くべからず、然も其身を立つること、卓偉〔超絶群を拔く〕にして、自ら修むること謹嚴、亦以て篤行(とくかう)の郷(きやう)先生となすべし、今は則ち斯人なし(*と)
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は伊藤仁齋より少きこと二歳、頡頏〔對抗〕して名を齊(ひとし)くす、當世稱して曰く、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋兄たり難く、仁齋弟たり難しと
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は著書に饒(と)〔富〕む、其筆記詩集傳後の所記四十五部、凡そ三百十八卷、其上梓せるもの十六部、凡そ百七十四卷、而して歿後刊する所のもの甚だ多し、若し夫の後世の儒者は其述作する所、身自ら之を刻するに非ざれば、身後終に鼠蠧(そこ−ママ)〔鼠と書虫〕の口腹に充つ、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋に愧づること多し
姫鏡三十二卷は婦女の爲めに之を著す、則ち綴るに國字を以てす、其門を分つ〔部類を分つ〕略小學に傚ふ、而して之を敷衍し〔ヒロメ述ふ(*ママ)る〕、博く倭漢古今の賢媛を採録す、此邦の女戒にして、其の能く世教を裨(たす)くるは、蓋し此書に過ぐるはなし、鳩巣其義經の妾静を載せざるを以て、■(艸冠+封:ほう・ふ・ふう:蕪・真菰の根:大漢和31400)(はう)を采り〔詩經の句〕菲(ひ)を采り、下體(かたい)を以てすることなしといふを引きて、之を尤(とが)〔咎〕む、要は惟一烈女を遺〔漏〕すのみ、何ぞ此編に害あらん
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋行状一卷は、門人阿波の増益夫、遺言(ゐげん)を奉じて之を撰す、首に肖像及び■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋が自ら題する詩一首を載す、其詩に云く

利名ノ雙字胡爲(なんす)ル者ゾ、億萬ノ民生倶ニ策驅ス、耆耋(*きてつ)棄材世計ニ■(立心偏+夢:ぼう・もう・くらし:明らかでない・暗い・愚かな・心が乱れている:大漢和11372)(くら)シ、林曲ニ考槃シテ永ク言(ここ)ニ娯ム(*利名雙字胡爲者、億萬民生倶策驅、耆耋棄材■世計、考槃林曲永言娯)


貝原篤信、字は子誠、小字は久兵衞、益軒と號し、又損軒と號す、筑前の人、國侯に仕ふ

益軒は寛永庚午十一月十四日を以て、福岡城中の官舍に生る、父利貞は寛齋と號し、軒岐家(けんぎか)〔醫家〕の言に通ず、益軒は幼より警敏殊質あり、九歳兄存齋に就きて書を讀み、多く暗誦をなす、中年に及び京に入りて講學す、此時都下の名彦〔名ある人物〕胥(みな)〔皆〕心を頃(かたむ)けて之に下る、遂に博學篤行を以て、名海内に重し、益軒學に常師〔定まれる先生〕なく、或は以て松永昌三の門人となすものは誤れり、太宰徳夫は儒林に於て許可少し、其益軒に於ける、甞て稱説して曰く、博學洽聞海内比なしと
初め其學主とする所なく、陸象山、王陽明の説に於て皆取る所あり、後學蔀通辯を讀むに及び、朱學に歸依す、然りと雖も、晩年大疑録二卷を著し、大極本と無極、陰陽は道に非ず、陰陽する所以のもの道なり、性に本然(ほんねん−ママ)氣質あり、理生死なく、氣生死あり、及び體用一源、顯微間なく、主一無適、沖漠無朕(ちうばくむちん)等〔主一無適等は宋儒性理學の本領〕の説を以て、聖經(せいけい)と徑庭〔差異〕ありとなす、而して人となり謙恭純篤なり、其言に曰く、吾幸に朱子の後の生れて、其書を窺ふことを得たるは、無窮の幸(かう)と謂ふべし、又罔極(むきよく)〔無限〕の恩なりと、故に吾が之を敬すること神明の如く、之を信ずること、耆龜の如しと、之を世の學未だ達せずして、輙ち人の短を拾ひ〔短所弱點を捜すこと〕、以て口實となす者に視れば、霄壤(せうじやう)(*原文「宵」とするのは誤植か。)も啻ならず
益軒好んで書を著す、而して救世の心實に苦(ねんごろ)〔懇に同じ〕なり、其著す所百有餘種、多く書するに國字を以てす、語極めて懇切なり、田夫(でんふ)、紅女〔工女(*ママ)〕、童兒、隷卒皆之を便とす、近時刊行する所の泛々たる者と迥(はるか)(*原文「之繞+向」に作る。)に類せず、又善く修養し、老に及び、猶矍鑠として〔身體の壯健〕衰へず、其屬綴(ぞくてつ)する〔ツゞルにて著作なり〕所のもの少なからず、六十にして和漢名數増補を作り、六十七にして大和廻を作り、七十四にして筑前續風土記、及び點例を作り、七十五にして諸菜譜を作り、七十九にして大和本草を作り、八十一にして樂訓を作り、八十四にして養生訓を作る、愼思録に載す、魏志に曰く、胡昭怡々(いゝ)として〔樂む貌〕愛せざるなし、僕隸〔召使など賤しき者〕(*原文頭注「隷」字を使う。)と雖も、必ず禮を加ふ、年八十にして書籍に倦まざるもの、胡徴君に於て之を見ると、篤信謂(おも)ふ、胡昭が愛敬の徳量は及ぶべからず、以て法となすべし、八十書を讀んで倦まざるが如き、吾耄耋(もうてつ)〔老境〕と雖も、亦日夕手卷(くわん)を釋てず、是れ企及すべしとなすと、是れ自ら其實を紀するなり
年三十九にして近思録備考を著し、明年小學備考を著し、並に世に版布(はんふ−ママ)す、後學之に因りて進む者多しと云ふ、人見鶴山云く、本邦の先儒編著固より多し、而して經傳註解を■(衣の間に臼:ほう:集まる・取る・多い:大漢和34299)輯(ほうしう−ママ)〔アツメアツム〕する(*聽いたものを集めて編集する。)もの、益軒先生の此二編を以て始(はじめ)となす(*と)
益軒時に詩を作ると雖も、素と倭歌を好み、詩を好まず、毎に詩を謂つて無用の閑言語〔無駄なことば〕となす、愼思録に曰く、和歌なるものは我國俗の宜き所、而して詞意通曉し易し、古人は歌詠極めて精絶なり、古昔は婦女と雖も、亦之を能くする者多し、唐詩は本邦風土の宜き所にあらず、其詞韻は國俗の言語に異なり、中華に模傚(もかう)し難し、故に古昔の名家と雖も、其所作(しよさく)は拙劣にして倭歌に及ばざること遠し、我邦は只和歌を以て其志を言ひ、其情を述ぶべし、拙詩を作りて■(言偏+令:れい・りょう:売る・衒う:大漢和35354)〔テラフ〕癡符(れいちふ)(*馬鹿を衒い売る札、拙い文章を名文らしく世に吹聴して、恥を晒す喩え、恥知らず。)の誚(そしり)〔譏〕を招ぐを要せず(*と)、又曰く白樂天謂(いは)く詩を作る者は心を勞し、虚く聲氣を役す、連朝接夕〔朝々夜々といふが如し〕自ら其苦を知らず、魔に非ずして何ぞやと、愚謂(おも)ふ、此れ詩を以て魔となすなり、其言や宜(よろ)し、然り而して白樂天其言此の如くにして爲す所、詩魔の惱ます所たるを免れざるもの何ぞや
益軒年八十五にして歿す、歿するに臨み、詩二首倭歌一首を賦す、詩に云く

平生ノ心曲誰有リテ知ラン、常ニ天威ヲ畏レテ欺クコト(*原文送り仮名に「┐」形の略字を使う。)勿ラント欲ス、存順沒寧克タス(*ママ)ト雖モ、朝ニ聞キ夕ニ死ス豈ニ悲マザランヤ、幼ニシテ斯道ヲ求メテ孤懷ニ在リ、徳業成ル無ク夙志乖ク、八十五年曷(ナニ)事ヲ爲ス、讀書獨樂是レ生涯(*平生心曲有誰知、常畏天威欲勿欺、存順沒寧雖不克、朝聞夕死豈不悲、幼求斯道在孤懷、徳業無成夙志乖、八十五年爲曷事、讀書獨樂是生涯)
倭歌に曰く、
越し方は一夜ばかりの心地して
八十じあまりの夢を見しかな
甞て東に居り、將に西に歸らんとす、路を海上に取る、同船數人名姓相知らず、雜然相向ひ、喋々相語る、中(うち)に一少年あり、亢顔(かうがん)〔威張る〕經を談ず、傍に人なきが如し、益軒暗〔默〕として言なく、能なき者の如し、既にして船岸(がん)に達し、各姓(*原文「性」は誤植。)名郷里を告ぐるに及び、少年始めて益軒なるを知り、■(而+心:じく〈ぢく〉・にく:恥じる:大漢和10587)然(ちくぜん−ママ)〔恥つ(*ママ)る貌〕自ら容れず、遂に其名を陳べず、鼠竄(そざん)して〔鼠の如く逃れ隱る〕去る
愼思録時輩の學を駁(はく−ママ)して曰く、遊蕩氾濫〔取留めなきこと〕、偏僻駁雜(へんへきはくざつ−ママ)なりと、或は云く、書を讀み文を學ぶの事常に多く、徳を愼み行(おこなひ)を力(つと)むるの功常に少しと、或は云く、己が説を立てんと欲し、而して人の小疵を責め、動(やゝ)もすれば刻薄〔冷酷〕に傷(やぶ)る、其説は是なるものありと雖も、其心は則ち非なり、浮躁淺露〔淺はかにて愼重を缺く〕、君子の氣象にあらず、其文字(もんじ)間(まゝ)採るべきものありと雖も、其人は猥陋〔醜汚卑陋〕賤むべしと、是れ蓋し徂徠の黨を指すなり、又大學は聖人の言にあらずとなす者を斥けて、近世の俗儒となす、是れ仁齋を指すなり、此他學術論及び異學誹朱子辯、皆當世の宋儒を排して更に門戸を立つるを諷刺す〔間接婉曲にソシル〕(*原文頭注「■(立心偏+宛:えん・わん:嘆く・意気が衰える:大漢和10771)曲」とするのは誤植。)
存齋樂軒、皆益軒の兄(けい)、而して學を好み著作あり、存齋丈夫の子二あり、曰く可久、曰く重春、重春益軒の後を承く、樂軒の子を好古と曰ひ、恥軒と號す、益軒養ひて子となす、博雅益軒に類すと云ふ、惜いかな先ちて歿す
益軒の妻(さい)江崎氏、初の字は得生、東軒と號し、才徳並び全く、經を治め史に通ず、文墨に嫺(なら)ひ、工(たくみ)に隷書を作る、又國風〔和歌〕を詠ず、常に益軒に從ひ、勝地を遊歴す、益軒の多く遊記を著すもの、實に内助〔妻の助〕ありと云ふ、東涯貝原翁及び妻某氏の字帖(じてう)に題して曰く、前時海の西に二巨儒あり、曰く省菴先生、曰く損軒先生、先人の省菴子に於けるや、未だ面を識らずと雖も、簡牘〔手紙〕往來し、毎に相推重す、損軒子に於ては、甞て一縉紳の家に相會す、而して道契せず〔道合はず〕、牛山香月子は筑の産なり、兩豊の間に官し、時々都に上りて先人を過訪(くわばう−ママ)す、故に平素三老の間に周旋す、而して損軒子は特に其の親依する所なり、近者(ちかごろ)又京に遊び、余に一軸(ぢゆく−ママ)を示す、則ち損軒子と其内子某氏との遺墨なり、予をして其尾に跋せしむ、嗚呼損軒子の書、端好〔正しきこと〕度あり、老いて衰へず、某氏は孟光〔古の賢婦〕の賢(げん−ママ)を躬(み)にして、衞氏の筆を兼ぬ、皆予が夙(つと)に聞く所、而して之に加ふるに牛山子が賢を尚び徳を懷ふの誠(せい)を以てす、曷ぞ其託に負(そむ)〔背〕くべけんやと


宇都宮三近、字は由的、頑拙と號し、又遯菴と號す、周防の人、巖國の吉川氏に仕ふ

遯菴は幼時京師に遊學す、明暦丁酉年二十四、主命を受けて郷に歸る、途中詩及び倭歌あり、編して巖邑紀行と名け、世に印行す、其京に居るや、松永尺五の門に學ぶ、乃ち紀行難波の吟に

昨日二月上丁ノ日、老師尺五講堂ノ前、各蘋■(艸冠+繁:はん・ぼん:白よもぎ・蕗・浮草の名:大漢和32512)ヲ羞シ(*ママ)テ書卷ヲ評ス、至聖ヲ祭リテ大賢ニ配ス、我公程ノ爲メニ此會ニ背ク、幾カ師友ヲ思ヒテ意悁々タリ(*昨日二月上丁日、老師尺五講堂前、各羞蘋■評書卷、祭至聖而配大賢、我爲公程背此會、幾思師友意悁々)
の句あり
甞て日本古今人物史を著す、而して中川清秀の傳、書事の忌諱(きき−ママ)に觸るゝ〔忌み嫌ふ所を犯す〕ものあり、此を以て罪を大府に獲たり、乃ち巖國に於て禁錮せらる、數年赦に遭ふ〔釋放せらる〕、是に於て又京に入り、一に教授を以て任となす、久しくして名益重し、其赦に遭ふは延寶乙卯六月二十四日となす、是日山鹿素行も亦倶に赦さる
遯菴博學にして著書多し、四子及び諸書に於て標註を著し、以て初學に便す、時に標註由的と號し、又或は蝨(*原文ルビ「ちゆう」は誤植。)(*しつ)先生と稱す、蓋し其標註は皆蠅頭(やうとう)の細字、猶蝨(むし)の衣(い)に著くが如し、故に云ふ
物徂徠少くして上總に在る時、遯菴の標註を得て之を讀む、後縣長伯に介して書を贈り、諸標註を稱して惠海内(かいない−ママ)に及ぶとなす、而して此書未だ致さず〔届けず〕、遯菴木(ぼく)に就く〔死す〕、周南が父に代りて徂徠に復する書に曰く、都由的に與ふるの書を以て託せらる、嗟呼的や今年春を以て下世(かせ−ママ)す〔死す〕、乃ち孝孺と議し、之を巖邑(いはむら)に致し、的が子文甫をして墓に祭告(さいごく−ママ)し、以て先生の志を成さしむ、由的は吾が甞て兄事する所なり、學術褒然質行尚ぶべし、彼れ其身に當りて、先生と一たび相識らず、今則ち墓に及ぶ、悲しいかな(*と)
男三的字は文甫、圭齋と號す、京師に卒す、伊藤東涯墓に記(き)して曰く、惟ふに昔遯菴先生松永氏の門に學び、經を講じ徒に授く、久しく輦下〔天子の在ます處〕に在りて人の師尊する所たり、君夙に家庭の訓を承け、兼ねて先師に從ひて遊ぶ、天資樂易〔怡和〕、善く人と交る、家世々吉川家に防州巖國に臣事す、郷人の學に嚮ふは君力ありと


五井守任、字は加助、持軒と號す、大阪の人

持軒は其先大和の五井戸に家(いへ)す、因つて五井を氏とす、世の井戸と稱する者、同じく此に出で、一族なりと云ふ、持軒は素と醫者なり、甞て方劑〔藥の配合〕を誤りて人を不起に致す、慨然轍を改めて〔道を更ふる〕儒となる、學篤く行修まり、綽〔ユツタリ〕として古の風あり、本多侯禮を厚くして之を辟(め)し、以て講説を聞き、大に其誠實を喜ぶ、一時の名彦伊藤仁齋、東涯、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋、貝原益軒、恥軒、三輪執齋等、咸〔皆〕文字を以て交驩(かうかん)〔交の款洽なること〕(*原文頭注「款」字の左旁を「疑」の左旁に作る。)をなす、初めは宋儒を宗〔主〕とし、晩に所見ありて拘守(かうしゆ)せず、其性を論ずるが如き、專ら氣質を以て性となすと云ふ
持軒成童〔十五〕京に入り、居ること十餘年にして大阪に歸りて教授す、此地方に學の興る、持軒を以て首となす、南郭が蘭洲に復する書に曰く、在昔尊翁先生道を浪華に唱へ、海内景仰〔欽慕〕するもの久し、又下河邊長流に學び、國風を善くす、東涯墓碑を撰し、盛に其學術行義を稱して曰く、壯時家道饒阜(ぜうふ)〔富裕〕、親眷の爲に掩はれて〔財を隱さる〕問(*原文ルビ「とは」は一字過多。)はず、晩に及び、遂に窘迫(くんはく)を致す、乃ち曰く、若し人の相恤(めぐ)むなくんば則ち死せんのみと、淡泊(たんはく−ママ)自ら守りて晏如たり〔安んじて憂へざること〕、簡牘の往來、常に敗紙を撰ひ(*ママ)て其空白を用ふ、天物を暴殄(ばうてん)する〔無益に費す〕を以て戒(いましめ)となす、天資坦率、邊幅(へんふく−ママ)を修めず〔儀容を飾らざること〕、辭説を飾らず、平生(へいせい−ママ)曾て人の惡を言はず、或は人と語り、言或は當らざるも、亦之を斥けず、但曰く某が解せざる所なりと、閭閻〔市井村里〕鄙俚の言、解せざる所多し、苟も學を問ふに及べば、誨誘懇至、解せざれば已まず、甞て人に謂つて曰く、某(ぼう)〔自稱の名詞〕胸中未だ曾て一惡念を蓄へず、又曰く、人は惡をなす能はざるものなりと、一書生あり、遽に曰く、吾輩は然る能はずと、先生色を正して曰く、意はざりき、君の人となり乃ち爾らんとは、惡若し作すべくば試に之を爲せよと、家に日本紀學を傳ふ、之を治むること尤も精く、迂怪不經〔不經は正しからざること〕の説を雜へず、又和歌を嗜(たし−ママ)む、彫鏤(ちようろう)〔潤飾〕を務めず、敏にして理あり、梁田蛻巖其傳に記して曰く、先生常に謂ふ、人能く四書に通ずるを得ば、以て宇宙の第一理を識るべし、乃ち行ひて躬(み)にせば、則ち天下の能事畢る〔善事は仕舞なりとの意〕と、故を以て書を説くに、學庸語孟を循環し、未だ甞て他に及ばず、此方〔我邦〕坊間の諸賈、其業を命じて某屋(ぼうや)と曰ふ、所謂茶屋酒屋の類の如し、攝人(せつじん)〔攝津の人〕戯に先生を目して四書屋の加助と謂ふと云ふ
年八十、三輪執斎倭歌を作つて之を賀す

身にそへてたかくぞ仰ぐ學び得し
こゝろののりも盡きぬよわい(*ママ)も
此れ其徳と壽と疆(かぎ)〔限〕りなく、人の之を仰ぐこと日の如きを陳するなり、碑に曰く享保六年辛丑閏七月十八日家に終る、享年八十一、傳に曰く、享保中享年八十、大阪の僑居〔寄留處〕に卒すと


五井純禎、字は子祥、小字は藤九郎、蘭洲と號し、又洲菴と號す、持軒の男、大阪の人

蘭洲家學を繼ぎ、世に重名〔高き名聲〕あり、享保中、中井甃菴郷校を大阪尼崎坊に設く、三宅石菴講席を主(つかさど)り、蘭洲助教たり、何くもなく江戸に來り、遂に召されて津輕侯に仕ふ、獻替〔可を進め否を廢するにて言を盡して輔佐すること〕裨益多しと云ふ、然るに言或は行はれざるあるを以て、病を移して去らんと請ふ、有司惜んで爲に通ぜず、數々乞ひて終に允さる、即ち大阪に歸休し、復た其郷校に教授し、以て其身を終る、津輕を辭するの後、遠邇(ゑんじ)爭ひ召せども應(おほ−ママ)(*おう)ぜず
蘭洲博學にして著述に富む、瑣語、質疑篇、非物篇、既に刻して世に行はる、其の他は人梓(し)〔彫刻出版〕せんことを勸むれども謙讓にして許さず、又兼ねて國學を攻(おさ)〔修〕む、世に源語梯三卷あり、人益を得ること少なからず、其附言に曰く、此書は何人の著す所なるを詳にせず、人或は之を市に購得すと、此れ狡猾利を貪る者、蘭洲の源語詁を盜み、其題署〔標題と名〕を改刻せるなりと云ふ、河井立牧が桂山集に蘭洲が春曙百花に傚(*原文ルビ「たら」は誤植。)へる倭歌を載す、此に由りて之を觀れば、又好んで國風を詠ず、蘭洲の文多く世に傳はらず、余甞て其烈婦溺死の記を見るに、叙事曲悉〔詳細〕人をして悲痛せしむ、實に是れ婦女の鑑戒にして、蕪沒すべからざるものなり、因りて此に掲ぐ、曰く

烈婦(れつふ−ママ)栗女(りつじよ)は甲斐國田中村の農夫の女なり、幼にして孤〔父母なき〕、村長某の家に依る、村長其人となりを愛し、資装〔嫁入りの支度〕を與へて同村安兵衞といふ者に嫁す、未だ幾くならず安兵衞惡疾に染(そ)み、臥して牀蓐に在り、栗之に事へ、身井臼(せいきう)を執り〔水を汲み米を搗く〕、毫も厭ふ心なし、晝は則ち夫に代りて田を耕し、夜は還りて之を扶助す、其暇には紡績以て薪柴に供す、舅六右衞門七十歳を過ぐ、毎に野外に出遊す、必ず湯茶(たうちや)を持し、往いて之を省(せい)す〔父母(*原文頭注「毋」は誤植。)を看護すること〕、遠く出で晩に歸れば、必ず里門に迎ふ、一村の人相聚まりて歎賞せざるはなし、此の如きもの茲に年あり、嗚呼婦人の夫に於ける、仰望(*原文ルビ「けうばう」は清音に記す。)して身を終る所以なり、夫は疾みて事を事とせず、舅(きう)は耄して〔老いてぼける〕家衰ふ、豈に身を託するに堪へんや、矧(いは)〔况〕んや惡疾は人情の憎む所なるをや、且つ子なくして年尚少し、之を捨てゝ改め嫁せざる者、天下能く幾人かある、栗女は孝且つ義なるかな、嗟天道知る無く、洪水(かうすゐ)横流して夫妻魚服に葬らる、享保十三年戊申十二月官其節を嘉(よみ)し、黄金を賜ひ、以て其事を旌(あらは)す〔世に表彰す〕、初め七月八日、大風暴雨、川流沸騰し、堤を壞(やぶ)り陸に襄(のぼ)る〔上ること〕、田中村其下流に在り、夜中人相呼んで曰く、水將に至らんとす、之を避くべきなりと、是時に當り、夫の疾病(しつへい)四肢爛潰(らんかい)す〔タゞレクツ(*ママ)ル〕(*原文頭注「漬」は誤植。)、乃ち起つべからざるを知り、栗に謂つて曰く、我水に死せん、汝疾く避けよ、汝我を醜とせず、湯藥の煩、扶助の勤、心に銘して忘れず、今親(しん)老い汝年尚少し、幸に生を全くして家を滅すこと勿れ、是れ望む所なり、我此惡疾に窘(くるし)む、餘喘〔餘命〕惜む所なし、命旦夕(*原文「外」は誤植。)に在り、水に死せば則ち幸なり、汝は則ち避けよと、栗泣いて曰く、相親む數年、難に臨んで之を委(すつ)る〔捨つる〕は不祥なり、語未だ畢らず、門外洶々(きやう\/)且つ泣き且つ號(さけ)〔叫〕んで曰く、水聲近し、後るゝ者は死せんと、栗乃ち舅を扶けて門外に出で、人に託して曰く、乞ふ此翁の命を救へよと、舅曰く汝夫と與に來れ、然らずんば我獨り生きずと、栗曰く敬諾(けいだく−ママ)、大人歩遲し、請ふ先づ行け、妾良人と之に及ばんと、乃ち舅の副衣及び田地の典券〔地券状〕を以て、油紙之を裹(つゝ)み、以て其人に託して之れを遣り、而後室に入りて夫の側に侍し、天に誓ひて夫と死を同くす、水至りて遂に溺れて死す、民屋も亦蕩(たう)ず〔流れ失ふ〕、夫妻の尸(しかばね)所在を知らず、水退き民其業を復し、栗女の志を聞き、各錢物を出し、以て其冥福を瑞蓮佛寺に修む、甲斐國の邑宰〔代官〕小宮某、其状を具して之を台聽(たいちやう)に達す〔將軍に具申す〕、且つ曰く、舅六右衞門幸に免る、然も去年登(みの)らず、安兵衞田(でん)を以て金に質(ち)し、以て租に充(あ)つ、伏して望む、國恩黄金を賜ひ、以て優賞せられんことを(*と)、則ち遺老頼(よ)るあり、死者瞑〔閉目〕すべし、且つ以て民の志を勵まさんと、是に於て黄金若干を賜ひ、以て舅を養はしむ、邑宰賜金を以て其田地を復し、以て安兵衞の後を繼か(*ママ)しめ、且つ爲めに烈婦の碑を立て、之を一儒生に謀り、國字〔假名〕を以て其事を紀(き)す、嗚呼匹婦の微〔賤〕、上は君の心を動かし、下は傳へて以て美談となす、其名は石と與に朽ちず、天道知るなしと謂ふべけんや
中井竹山が非徴に曰く、蘭洲先生甞て言へり、徂徠の仁齋を駁するや、曰く、仁齋の宋儒に於ける、一に佛氏の所謂宿冤〔前世に於ける冤枉〕あるものゝ如しと、曾て知らず己の宿冤たる更に甚しきものあるを、蘭洲は朱學を家庭に承け、力(つと)めて徂徠を斥けて、宋儒を護〔辯護〕す、然も固執(こしつ)〔株守謬着〕せず、故に其自得する所、往々朱に反して説を立つるは、瑣語、質疑篇に見ゆ
蘭洲は中井甃菴と交誼厚し、甃菴が墓碣(ぼかつ−ママ)は蘭洲之を紀す、而して甃菴の子竹山蘭洲の墓に銘す、竹山の弟履軒書並に篆額す、銘に曰く、
天斯文ヲ相ケ、實ニ先生ヲ降ス、夫ノ異言ヲ(*原文送り仮名「テ」は誤植。)襄シ、績ヲ往聖ニ承ク、委有リ源有(*リ)、通儒ノ全才、詞ヲ蒼■(石偏+民:びん:美しい玉:大漢和24103)ニ琢シ、千載ニ休風ス(*天相斯文、實降先生、襄夫異言、承績往聖、有委有源、通儒全才、琢詞蒼■、休風千載)


大高阪季明、字は清介、芝山と號し、又黄軒と號す、土佐の人

芝山家世々土佐に臣たり、父宣重仕を致して歸田し〔野に歸る〕、後關東に至る、芝山幼より書を讀み、年十八の比ひ、土佐を出でて京に入り、江戸に來り、苦學自ら勉む、弱冠にして巖城侯に官す、居ること若干年、去りて又稻葉侯に遊事す、晩に禄の用に足らざるを以て休致を請ふ、允されず、尋いて(*ママ)〔間もなく〕災に罹り〔火事に遭ふ〕、侯より重賜あり、是に於て止足軒の記を作り、敢て復た休を乞はず
芝山は谷一齋の門に出で、宏才博覽、最も性理を究む、又善く詩を賦し文を屬(ぞく−ママ)す〔作る〕、當世碩儒(せきじ−ママ)と稱す、而して意氣豪宕〔ツヨク疎大なること〕、自ら視る甚だ高く、毎に好んで時輩〔當時の同業者〕を排斥す、其適從録二卷、撞(だう)巣窟、撃蛇笏(げきだしやく)等の目を擧げて、縦(ほしいまゝ)に仁齋を毀罵(きば)す、又向林二老に謝する書に曰く、陳元贇は洛に在り、曩(さき)に相會せり、朱舜水は此に在りて面晤す、潜(ひそか)に厥(その)言行を察するに、疑ふらくは端誠純粹ならず、猥俚(わいり)〔卑俗〕の態多く、彦士(げんし)の姿に乏し、詞賦も亦未だ英懿(えいゐ)ならざるに似たり、故に就きて正すを欲せずと、又鵜眞昌に答ふる書に曰く、

深艸の元政陳元贇は交(まじはり)を吾子に執ること、斯に年あり、僕洛に在り、晤語〔面會談話〕二三會に過ぎず、僕當時年小氣鋭、人に下り(*「下るを」か。)肯んぜず、唯視る、元贇は人となり、卑猥瑣碎〔小事に拘泥する貌〕、風雅の致〔趣〕なし、元政は人となり、暗弱固滯、實見の明なし、或は賤或は廢、日に同志と譏笑(きせふ)するのみ、又其詞葩(しは)〔文藻詞采〕の取るべきを觀るなし、故に屡往來せず、亦惜からずや、甞て聞く朱之瑜老人は往年世を謝す〔死〕と、心越禪師は恙なきや否や、定めて知る、吾子此二老者と毎に清譚(せいだん)〔清談〕するを、僕甞て彼の二老者に逢ふ、前後兩三席に至るも、徒に花鳥を談じ風月を話するのみ、殊に一言の學問上に及ぶなし、但心越に於て、則ち一絶を唱和するのみ云々、近來偶ま木老儒に逢ふ、一の癡訥(ちとつ)〔愚にし(*て)辯才なきこと〕人のみ、未だ曾て風采を看ず、曩に荒景元に遇ひ、詩數章(すしやう−ママ)を贈答(さうたう−ママ)す、學力未だ幼にして敏なる名の如くならず
明の林珍、何倩、顧長卿來りて長崎に在り、芝山毎に詩文を致して是正〔斧正〕を請ふ、彼れ各口を極めて褒賞し、韓柳歐蘇も過ぐるなしとなすに至る、是に於て芝山自ら以て然りとなす、江邨北海曰く、林何顧三人は孟浪〔ムヤミなること〕諛言〔阿る語即ち追從〕、固より論ずるに足らず、而して季明之を信じ、自ら夸り、遂に精細の工夫を缺く、余酷だ季明が慷慨氣節あるを愛す、因りて深く三人の爲に誤らるゝを惜むと、過論にあらず
芝山は山崎闇齋の傳を作り、大に貶辭〔抑損の言〕を寓す、且つ論を附して闇齋を王荊公に比す、佐藤直方が討論筆記に曰く、頃年一文人一書を著して梓行〔刊行〕す、其中(うち)に闇齋先生の傳あり、其立言命意本と先生を誹謗するを以て主となす、固より直筆信ずべきものにあらず、而して言論抑揚の間楊に褒し陰に貶し、輕慢〔輕薄にして人を侮る〕不遜、殊に聖書を讀む者の氣象にあらず、紀事の其實を失ふに至りては、則ち初より先生の先生たる所以を述べずして、而して徒に傳聞無稽〔根據なきこと〕の言をなす、先生の出處履歴の故あるを論ぜずして、妄(みだり)に庸夫昏耄(こんもう)の説を載す、嗟呼鄙(いやし)むべきかな、彼れ先生に於て、何の怨嫉あつて、而して詆毀〔ソシル〕此に至るや、今又一々其是非を辨ずるに暇あらず、明者試に其書を取りて一觀せば、則ち彼が人となりの實を見て、而して其言の以て證となすに足らざるを知らんと


伊藤仁斎伊藤東涯伊藤蘭嵎米川操軒藤井懶斎中村てき斎貝原益軒宇都宮遯庵五井持軒五井蘭洲大高坂芝山

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( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き
[ ] 参照書()との異同
 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10)
・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。
 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25)
・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。