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伊藤維■(木偏+貞:てい・ちょう:ねずみもち・親柱・基礎となるもの:大漢和15163)(ゐてい)、字は原佐(げんすけ)、仁齋と號し、又古義堂と稱す、私に古學と謚す、平安の人
仁齋幼(えう)にして頴異挺發〔卓出〕、群兒に異なり、其始めて句讀を習ふ時、意既に儒を以て一世に焜燿(こんやう)〔名を耀かす〕せんと欲す、稍や長ずるに及び、堅苦自ら勵む、而して家素と賈を業とす、親串(しんかん)〔親戚〕以て利に迂なりとし、皆之を阻んで〔止める〕曰く、學問は是れ彼の邦の事なり、此邦に在りては固より無用に屬す、假令ひ之を能くするも售り易からず、如かず醫術を修めて以て生産を致さんにはと、仁齋從はず、是時に當り家道〔家の生計〕日に衰謝す、阻む者愈止まずして、而して其志確乎(くわくこ)として變ぜず
年十九父に從ひ、琵琶湖を過ぐ、詩あり云く
此水一夜平湖ト作ル、俗説尤モ信ジ難シ、世傳■(言偏+巨:きょ・ご:豈に・何ぞ・苟も・止まる・至る:大漢和35370)(なん)ゾ亦迂ナル、百川流テ已マズ、萬谷滿テ相扶ク、天下滔々(*たる)者、應(*に)異教ニ趨ルヲ憐ムベシ(*此水一夜作平湖、俗説尤難信、世傳■亦迂、百川流不已、萬谷滿相扶、天下滔々者、應憐異教趨)(*起句の「此水」は不要か。又は古詩体か。)又園城寺の絶頂に登る詩に云く
山行六七里、往テ到ル杳冥ノ中、船遠ク閑々トシテ去リ、天長ク漠々トシテ空シ、嶺ハ環ル村落ノ北、湖ハ際ス寺門ノ東、男子空ク死スル莫レ、請フ看ヨ神禹ノ功ヲ(*山行六七里、往到杳冥中、船遠閑々去、天長漠々空、嶺環村落北、湖際寺門東、男子莫空死、請看神禹功)識者此を以て其志の存する所を知る
討習研磨ス二十春、恩ハ父子ノ如ク最モ相親ム、金ヲ受ケテ(*原文送り仮名「受ケヲ」とするのは誤植。)謝セズ元傲ルニ非ズ、適マ君ガ情厚ク且ツ眞ナルカ(*ママ)爲ナリ(*討習研磨二十春、恩如父子最相親、受金不謝元非傲、適爲君情厚且眞)東涯後に題して曰く、先人此詩を作る時、予未だ冠〔元服〕せず、尚其事を記す云々と、此に由りて之を觀れば、仁齋年五十七八、家猶寒〔貧〕なり、然るに是より先き肥後侯禄千石もて之を招くも辭するに母老いて、侍養人なきを以てす、世復た安くにか利禄の爲に其心を動かさゞる、此の人の如きもの有るを得んや
伊藤長胤、字は原藏、東涯(*原文「束涯」は誤植。)と號す、又慥々齋と號す、私に紹述と謚す、仁齋の長子平安の人
東涯は經術湛深(たんしん)〔奥フカシ〕、操行方正粹然たる〔純粹にして駁雜ならざる〕古の君子なり、甞て集會せる弟子に謂つて曰く、昨一匣(かう)を骨董肆(し)に買ひ、之を几側に置きて以て抄冊を藏(おさ)む、甚だ便となす、乃ち童子(だうし)をして之を取らしめ、前(まい−ママ)に陳して曰く、余工をして新に此器(き)の如きものを製せしめんとするもの年あり、意はざりき既に鬻ぐ者あらんとは、弟子之を視れば、接柄(せつへい)三絃〔ツギ棹の三味線〕を藏むる匣なり、是に於て相目して答へず、奥田三角進んで曰く、先生未だ知らざるか、此物は妓か(*ママ)三絃を藏むる匣なり、請ふ卻(しりぞ)けよ〔排斥〕、東涯色を正して曰く、小子妄言する勿れ、三絃は柄長し、奈何ぞ此短匣に藏まらんやと
甞て一小嚢の路に遺(をつ)るに値(あ)〔逢〕ふ、見て以て藥物となし、從者をして之を擧げしめ、嚢を解きて視れば、内に十餘金あり、東涯忽ち顰蹙(*原文ルビ「ひんじく」は誤植。)して〔顔をシガム(*ママ)〕曰く、此れ當に遺者〔落主〕を候(うかゞ)うて之を還すべし、即ち其地に立ちて以て待つこと良久し、日將に昏黒ならんとす、遲々として去り、歸りて之を閣上〔棚の上〕に置く、伊勢の巫祝至るに及び、付して以て大神宮に納むと云ふ
又甞て夜更けて歸る、途中誤りて防火水桶(すゐたう)に溲(さう)〔小便〕す、去ること里餘にして、始めて其貯水(*原文ルビ「ちよくすゐ」は誤植か。)なるを覺る、即ち還りて戸を叩き謝するもの再三、明旦又人を遣して之を洗滌せしむ
東涯徂徠と時を同くし、各東西に鳴る、而して徂徠毎に東涯を藏否して〔善惡を評す〕置かず、或は西より至る者に遇へば、即ち首(はじ)めに叩くに東涯の所業を以てす、東涯は此に異なり、菅麟嶼至るの日、徂徠が己に贈るの序を出して以て之を見(しめ)〔示〕す、麟嶼出づ〔坐を去る〕、東涯曰く物氏の文は譬へば鬼臉(きけん)〔鬼の面〕を蒙りて孩兒を恐喝するが如しと、奥田三角多年東涯に親炙すれども、其徂徠を品隲するを聞くは、唯此一言のみなりと云ふ
弟子甞て徂徠の天狗説を持し、來りて東涯に示す、北村可昌、松岡玄達坐に在り、同く觀て、極口之を刺譏(しき)〔惡口〕す、而して東涯暗として一言を容れず、二生曰く、此文啻に■(敖+耳:ごう:人の語を聞き入れない:大漢和29159)牙(がうが)〔艱澁にてムツカシキ〕語を成さゞるのみにあらず、説も亦不通と謂ふべし、先生以て如何となすと、東涯曰く、否、人各見あり、何ぞ必ずしも輕しく之を駁(はく−ママ)せん、况んや其天狗の状を形容するもの盡せり、今の筆を秉る〔執る〕者恐くは及ばずと、二生大に愧づ
東涯の時、俊傑輩出し、各旗幟を竪〔樹立〕てゝ以て自ら一方に振ふ、而して紹述文集二十卷、一言の之に及ぶものなし、識者以て難しとなす(、)東涯の名聲海内を動かす、四方の後學多く輻輳す〔アツマル〕、菅麟嶼既に徂徠の門に入り、又心東涯に嚮注(かうちう−ママ)す、遂に笈を負うて之に赴く、徂徠固より意となさず、春臺内甚だ平かならず、各送別の詩あり、徂徠の詩に云く
五十三驛難(*シ)ト言フ莫レ、處々ノ山川秋好看、明日先ツ(*ママ)函嶺ヨリ望マバ、糸ノ如キ大道長安ニ達セン(*五十三驛莫言難、處々山川秋好看、明日先從函嶺望、如糸大道達長安)
鞭ヲ揮ヒ意氣秋凉ニ■(立心偏+匚+夾:きょう・こころよい:快い・満足する:大漢和10949)(*かな)ふ、才子恩ヲ奉シ(*ママ)テ洛陽ニ遊ブ、但到レ西山紅葉好シ、錦衣相映ジテ早ク郷ニ歸レ(*揮鞭意氣■秋凉、才子奉恩遊洛陽、但到西山紅葉好、錦衣相映早歸郷)自ら扇頭(せんとう)に書して以て贈る、春臺の詩に云く
田郎妙齢遠遊ヲ好ム、一旦師ヲ尋テ西周ニ入ル、天邊月ハ落ツ函關ノ曉、雲際星ハ流ル渤海ノ秋、周道砥ノ如ク奔走ニ任ス、那ゾ識ラン古人骨已(*原文「己」は誤植。)ニ朽ルヲ、到ルノ日試ニ問ヘ柱下ノ官、往時ノ老■(耳偏+冉:たん:耳たぶが下がる、ここは人名:大漢和29039)(*■(耳偏+「冉」の本字〈縦棒の無い形〉:たん:耳たぶが下がる:大漢和29021)の俗字。)今在ルヤ否ヤヲ(*田郎妙齢好遠遊、一旦尋師西入周、天邊月落函關曉、雲際星流渤海秋、周道如砥任奔走、那識古人骨已朽、到日試問柱下官、往時老■今在否)麟嶼東涯に造り、出して之を示す、東涯一見し、且つ笑つて曰く、物先生の襟度〔度量〕廓如〔ヒロキ貌〕(*原文頭注「郭如」とする。)たる想見(さうけ−ママ)すべし、太宰子も亦慷慨にして氣節あり(*と)
客曰く、敢て問ふ東涯先生の人となりは何如、曰く温厚の長者(ちやうしや)なり、博識洽聞、徂徠に減ぜず、惜いかな、性謙讓に過ぎ、而して智施設〔實行實施〕に乏く、學衆美を包みて〔包括〕、而して才教誨に短なり、是を以て問ふあれば、則ち之に答ふ、答ふるも亦精詳ならず、問はざれば示さず、亦吝(おし)むあるにあらす(*ママ)、然も其父師の説に於ては、罅漏(からう)〔缺ける處〕を補苴(ほしよ)し〔繕ふ〕、幽渺(いうびやう)〔微にして明かならざる〕を張皇(ちやうくわう)し、筆削改竄〔刪正〕、大勳勞ありと謂ふべし、童子問、語孟字義の二書既に已に刊行す、古義抔樸(はうぼく)略(ほゞ)具して、成説未だ全からず、先生門人と校讐〔對照校正〕討論す、予亦末席に在るを忝くす、今を以て之を思へは(*ママ)、論語の一書、章々句々、修爲を説く者多し、故に仁齋の旨に符合す、抑も孟子の心性を論ずるに至りては、窒礙(しつげ)〔フサガリ障る〕通せ(*ママ)ざる者半(はん−ママ)に過ぐ、故に今刊行する所の孟子古義は其實東涯削■(金偏+據の旁:きょ・ご:鋸:大漢和40957)(さくきよ)の手に成るものなり、此に由りて之を言へば、東涯の學識は未だ必ずしも其家學に異説なくんばあらざるなり、而して孝子仁人、豈に夢寐(むみ−ママ)にも之を發するに忍びんや、是を以て知るべし、先生の篤志賢慮は、他人の敢て及ぶ所にあらざるを東涯が墓碣(ぼかつ−ママ)の銘は内大臣藤原常雅撰し、權中納言藤原俊將(としまさ)篆額〔篆字にて碑文の上に題す〕し、右中將藤原英朝(ひでとも)書せり、世以て榮となす、春臺が南郭に與ふる書に曰く
去年七月平安の伊藤原藏歿す、其弟及び門生碣(かつ−ママ)を其墓に立つ、華山内大臣之に銘し、八條中將書し、坊城中納言篆額す、間者(このごろ)〔此頃〕京師の客あり、其文を持し來りて純に示す、中に其弟才藏の言を述べて曰く、集序は亡兄の在日、既に見允(けんいん)を蒙ると、華山公の之を許せしを言ふなり、純喟然(きぜん)として歎し(*ママ)て曰く、昔者水戸の義公、其世子と與に、明人朱舜水の遺文を輯(あつ)め、而して自ら其名を卷端に題し、且つ冠する〔名の上に署するなり〕に門人の二字を以てす、當時以て奇事となす、今華山公の原藏に於ける、既に集に序するを許し、又墓銘を作る、其人其言皆相類す、奇と謂ふべし、夫れ義公は國家の宗室〔幕府の親藩たるを指す〕にして、華山公は皇朝の大臣なり、而して舜水原藏、皆一匹夫〔無位無官の平民〕なり、匹夫にして是尊寵を受く、何ぞ其(それ)榮なるや
伊藤長堅、字は才藏、蘭嵎と號す、仁齋の第五子、平安の人、紀伊侯に仕ふ
蘭嵎は博學能文、父兄に類す、而して擧止端重(たんちよう)〔嚴正〕なり、其の始めて君侯の前(まい−ママ)に講ずるや、書に對して講せ(*ママ)ず、滿坐掌(しやう)に汗して以爲(おもひら−ママ)く、此人寒素〔微賤〕に生長し、未だ大人に説くに慣れず、其巍々然たる〔氣高く堂々たる〕を視て然るなりと、中使促せども應(おほ−ママ)(*おう)ぜず、侯も亦之を訝(いぶか)る〔怪む〕、既にして蘭嵎徐(おもむろ)に曰く、公褥(しとね)〔坐蒲團〕に坐す、聖人の書を講ずべからずと、侯之を聞き遽(あわ)てゝ褥を去る、是に於て始めて講説す、音吐朗暢、辯論明備なり、坐者皆歎稱して曰く、眞の儒者なりと
仁齋五丈夫〔男子〕あり、長は原藏、次(つぎ)は重藏、次は正藏、次は平藏、次は才藏、人呼んで伊藤の五藏と稱す、皆家學を世々にするに足る、而して原藏才藏最も著稱あり、之を伊藤の首尾(しゆひ−ママ)藏〔長兄と末弟と最も振ふの意〕と云ふ、奥田三角が撰せる仁齋の妻瀬崎氏の墓碣(ぼかつ−ママ)に曰く、東涯先生は緒方氏の出〔腹に生まる〕、而して愛護親子(しんし)に踰ゆと、四子長英は福山に仕へ、長衡は高槻に、長准は久留米に、長堅は紀伊に仕へ、皆儒を以て顯はる
吾祖初年京師に在る時、蘭嵎と相友たり、是を以て祖の母貞順原氏の墓記、及び傷寒私斷の序、皆蘭嵎に屬(ぞく−ママ)して之を撰せしむ、又書を善くす、先友不破子讓數張(すちやう−ママ)〔數枚〕を藏す、余が家蘭嵎と舊〔舊誼〕あるを以て、甞て將に分贈(ぶんさう−ママ)せんとす、未だ果さずして回禄〔火災〕に遭ふ、又繪事(くわいじ)を能くす、奥田三角其墨蘭に跋して曰く、蘭嵎好んで墨蘭を作る、近頃道學先生〔經學者〕の言に因りて、此戯を斷つと
米川一貞、字は幹叔、小字は儀兵衞、操軒と號す、平安の人
操軒の父賈に服す〔商業を營む〕、操軒が幼より書を嗜(*原文「たし」は一字を欠く。)み、區々〔小事に拘はる〕利を逐ふを欲せざるを見て、命じて三宅寄齋に就きて學ばしむ、寄齋期するに遠到〔大成〕を以てす、寄齋歿して山崎闇齋に謁して益を請ふ〔學業の教を受く〕、遂に性行篤學を以て世に名あり、而して禄仕を干(もと)〔求〕めず、甞て公侯より徴辟あるも、並に就かず、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋實記を撰して其行誼を詳にす
操軒一に程朱の説を奉じ、四子小近〔小學近思録〕書易等の外、泛(ひろ)く〔漫然汎く〕他書を觀るを欲せず、舊(も)と伊藤仁齋と善し、仁齋が古義を唱へて以て宋儒を非斥(ひせき)するに及び、乃ち書を修めて曰く、朱子は聖人の道を得たり、吾子異言を持して之を排す、養徳の學を語れば、薄徳(*原文ルビ「はんとく」は誤植。)となり、講學の事を語れば、學に益なし、是れ之を聖教の罪人と謂ふ、速に之を改めなば則ち止む、不〔否〕らずんば契分日久しと雖も、絶たざるを得ずと、其言切至、而して仁齋聽かず、遂に絶交の書を送る
操軒が友とする所は皆一時知名の士なり、藤井懶齋、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋、貝原益軒の如き、當世に君子を以て稱せらる、其友を取る、豈に端(たゞし)からざるを得んや、而して皆操軒と交睦し、歿するに及び、各悼惜(たうせき)〔イタミオシム〕以て其學徳を紀(き)す、而して益軒が録する所、最も其生平を想像するに足る、曰く先生の人となり、明敏にして志操あり、福を求めて囘(かへ)〔廻辟〕らず、其人に接するや、嚴にして和、其事を處するや、敬畏して〔物事にツゝシミオソル〕苟もせず、其言を出すや、辯にして序あり、聞く者厭はず、其學を爲(おさ)むるや、純正にして專ら經術を好む、平日心を程朱の書に用ひ、最も勒して〔差し控へること〕雜書を好まず、文仲子が所謂雜學せず、故に明かなる者、此人の謂か(*と)
藤井藏、字は季廉、懶齋と號し、又伊蒿子と號す、筑後の人
懶齋初め眞名部忠菴と稱し、醫術を以て久留米侯に官す、甞て一病者を療(れう)して起たず〔死す〕、自ら以爲く治を誤るの致す所なりと、是に於て慨然匕(さぢ)を投じて官を辭す、乃ち京に入り、專ら儒業を修む、晩に其先塋〔祖先の墳墓〕の所在に近きを以て、京西の鳴瀧村に退居し、超然世累(せいるい)〔世間の煩累〕を絶つ、其學は紫陽を宗とし、性理を高談す、從時隱君子の聲(せい)あり
懶齋本と豪氣老に及んで益慷慨なり、毎に曰く、余に一策あり、關東〔幕府〕若し吾を召さば則ち兼程〔急行〕して至り、即ち之を献せ(*ママ)ん、朝(てう−ママ)に陳し(*ママ)夕(せき−ママ)に死すとも、亦憾(*原文ルビ「くらみ」は誤植。)なしと、室鳩巣の遊佐某に與ふる書に曰く、藤井懶齋は直清〔鳩巣の名〕亦其人を聞く、此地に京師より來り仕ふる者あり、素と懶齋を識る、直清が爲に其人となりを語る、言あり徳ある一隱君子なりと、孟子玉を以て齊梁の君に説く、而して懶齋心之を慕ふ、其言條理あり、今具(つぶさ)に録する能はず、常に家に在り、慨然として〔奮起の貌〕曰く、東都〔幕府を指す〕若し命ありて隱士を召さば、行路に老死すと雖も、必ず往きて東都に至り、一に此義を以て陳せ(*ママ)ば亦足らん、一言の後、在京縉紳をして之を聞かしめば、爲に舌(ぜつ)を斷つと雖も亦悔ゆるなし、足下言議に絶つ所、而して彼が平生の志此に在り、想ふに足下之を聞かば必ず大に之を惡まんと、懶齋年八十餘、子あり、名は團平卓■(榮の冠+牛:らく:斑牛・すぐれた:大漢和20126)(たくらく)〔磊落不羈なること〕(*すぐれていること)にして兵を喜び、好んで天下の形勢を説く、其父操軒■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋と理學の友たり、而して團平深く父執に惡〔憎〕まる、然も意となさず、懶齋も亦禁ぜず
懶齋深く浮屠を疾(にく)み、閑際〔閑暇の時〕筆記多く緇侶を罵詈す、深草の元政の如き、孝を以て聞ゆるものなり、然も其著す所釋氏二十四孝に大安寺榮好を取るを以て、元政をば孝道を知らずとなす
懶齋著す所多し、本朝孝子傳、本朝諫諍録は志世教に裨益するに存す、孝子傳は倭文を合せて三版あり、盛なりと謂ふべし、大和爲善録、藏笥百首、徒然草摘義の如き、亦一片の婆心(ばんしん−ママ)、兒女に益なしとせず
懶齋甞て官舍に居る、人私に告げて曰く、此屋祟〔タゝリ〕多し、子居ること勿れ、人の此に住する者、災厄に遭はざる者なし、予復た子の他日患に罹るを見るに忍びず、懶齋以て意となさず、之に居ること二十年、終に恙なし、乃ち曰く、白居易〔白樂天〕凶宅の詩あり、云く「語ヲ寄ス家ト國ト、人凶ニシテ宅凶ニ非ズ(*寄語家與國、人凶宅非凶)」と(、)信なるかな
人或は懶齋に謂つて曰く、朱學を爲す者、多くは急迫〔短氣にて餘裕なきこと〕に失す、土佐の野中氏の如き是なりと、懶齋曰く、野中氏は朱子の書を讀んで、朱子の學を會せず、此れ其國を危(あやう)く(*原文送り仮名「う」は誤植。)する所以なり(*と)
鳩巣の懶齋に於ける、本と半面の識もなし〔一度も面會したることなき〕、而して其の之を推尊する、伊蒿先生徴君と稱す、懶齋甞て鳩巣が親(しん)を思ふの詩を和す、鳩巣古詩二首を作り、以て謝す、一は則ち懶齋を詠じ、一は則ち自ら叙し、且つ喜(き)を志(しる)〔記〕す、云く
鳳凰溟漠ニ翔リ、時ニ鳴ク崑山ノ岑、鳴聲一ニ何ゾ悲キ、生平苦心多シ、願フ所ハ簫韶ノ奏、■(足偏+扁:へん・べん:よろめく・膝頭:大漢和37717)■(足偏+遷:せん:よろめく・ふらつく:大漢和37864)(*「へんせん」−めぐりいく・ひらひらと舞う・よろめく・跛行する)遺音ヲ託ス、世路日ニ艱險、下視スレバ古今■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遙か:大漢和39198)(*ナリ)、唐虞忽チ已ニ逝ク、岐山尋ヌベカラズ、文彩須(*ク)日ニ愛スベシ、羽儀世ノ欽スル所ナリ、誰カ復タ稻梁(*ノ)爲メニ、低首群禽ニ從ハン、飢餐ス緑竹ノ實、寒棲ス椅桐ノ陰、自ラ隱淪ヲ甘ンス(*ママ)ルコト久シ、寧ゾ辭セン霜露ノ深キヲ、清高此(*ノ)如キ有リ、虞羅安ゾ侵スベケン(*鳳凰翔溟漠、時鳴崑山岑、鳴聲一何悲、生平多苦心、所願簫韶奏、■■託遺音、世路日艱險、下視■古今、唐虞忽已逝、岐山不可尋、文彩須日愛、羽儀世所欽、誰復爲稻梁、低首從群禽、飢餐緑竹實、寒棲椅桐陰、自甘隱淪久、寧辭霜露深、清高有如此、虞羅安可侵)
杜若江渚ニ生ズ、■(方+ノ+一+奇:い:旗のなびくさま・盛んなさま:大漢和13685)■(方+ノ+一+尼:じ・に:旗のなびくさま・盛んなさま:大漢和13660)(*「いじ」−旗のなびくさま・雲のたなびくさま・盛んなさま、山の名)其涯ニ被ル、長風紫莖ヲ搖シ、洪波朱■(艸冠+豕+生:ずい・ずい・に・そう・しょう:草木の花〈の垂れるさま〉・安らか・和らぐ・垂れ飾り:大漢和31995)ヲ浸ス、風波迭ニ驅迫ス、恐クハ衆艸(*ノ)爲ニ欺レン、自ラ羞ツ(*ママ)國香無キヲ、復タ絶世ノ姿ニ非ス(*ママ)、苒々歳將(*ニ)晩レントス、孤芳徒ニ自ラ持ス、高人奇服ヲ好ム、佩芳固ト遺ス無シ、豈ニ料ランヤ側陋ノ質、謬リテ君子ノ知ヲ辱クセントハ、揄揚言亦至ル、微生宜キ所ニ非ズ、但恨ム僻遠ニ處シ、君ノ園池ニ植エ(*ママ)ザルヲ、願クハ早ク下陳ニ充チ、朝夕容儀ニ近カン(*杜若生江渚、■■被其涯、長風搖紫莖、洪波浸朱■、風波迭驅迫、恐爲衆艸欺、自羞無國香、非復絶世姿、苒々歳將晩、孤芳徒自持、高人好奇服、佩芳固無遺、豈料側陋質、謬辱君子知、揄揚言亦至、微生非所宜、但恨處僻遠、不植君園池、願早充下陳、朝夕近容儀)懶齋交はる所、皆篤學を以て稱せらるゝ者なり、川井正直は二十七歳、懶齋より長たり、懶齋爲に行状を作る、米川操軒は一歳の長たり、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は一歳少し、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋本朝孝子傳に序して曰く、伊蒿滕丈人(じやうじん)、愚〔謙遜せる自稱〕其知を受け、久しく兄事する〔推尊して兄とし事ふ〕所なり(*と)
驥足未(*ダ)千里ノ風ニ乘セズ、蝸廬首ヲ縮ム艸菜ノ雄、眼前ノ什物笑フト云フト雖モ、十萬ノ甲兵腹中ニ屯ス(*驥足未乘千里風、蝸廬縮首艸菜雄、眼前什物雖云笑、十萬甲兵屯腹中)鳩巣之に和して曰く
洛西ノ高士家風有リ、何事ゾ英材七雄ヲ慕フ、■(豸+丕:ひ:狸〈の子〉:大漢和36515)貅百萬一事無シ、些子ヲ將ツテ胸中ニ上スヲ休メヨ(*洛西高士有家風、何事英材慕七雄、■貅百萬無一事、休將些子上胸中)
中邨之欽、字(*原文「子」に作るのは誤植。)は敬甫、小字は仲二郎、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋(てきさい)と號す、平安の人
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋童子(たうし−ママ)たる時より、厚重(こうちよう)〔オトナシク輕佻ならざること〕にして嬉戯を好ます(*ママ)、七八歳にして句讀を郷師〔村里の先生〕に受け、督責を煩はさず、長ずるに及び、惟篤實を務め、浮靡(ふひ−ママ)〔ウキタル、實着ならざる〕を喜ばず、先世市中に住す、而して■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋其喧嘩を厭ひ、遷りて幽地に居り、日に門を杜(ふさ)ぎ、心を大業に潜め、學を論じ文を談ずるの外、敢て泛交(へんかう)〔漫りに交際すること〕をなさず
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は功名(こうめい)射利に於て、澹然〔アツサリ〕情なし、賈竪(こじゆ)〔商人〕の間に生長すと雖も、物價を知らず、其家世々素封たり、而して盈縮〔家財の消長〕問ふ所なし、甞て管長〔番頭〕の爲に贓墨せらる〔財を私せらる〕、親串以て官に鳴らさんと欲す、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋可かずして曰く、私財を以て人の性命を損ずるは、不慈焉より大なるはなし(*と)、是より家道日に湮(いん)〔衰廢〕すれども亦意となさず
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋學ぶ所通曉せざるなし、天文、地理、尺度、量衡の類皆能く之を究極す、而して尤も禮に邃(ふか)〔深〕し、其家に處して己を行ふ、吉凶及び日用の間、一に古道に軌す〔則る(、)即ち從ふなり〕、言動苟もせず、踐履〔行爲〕則るに足る、又音律を審(つまびらか)にし、其發明する所は、當世の達者と雖も欽服す
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋性理の學を奉じ、誠敬を以て本となす、深く時輩の異説に渉るを非とす、其人を教ふるには、小學近思録を以て之を開發す、惓々〔懇至の貌〕老に至るまで少しも怠らず、室鳩巣が和角某に與ふる書に曰く、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋一生程朱を崇信し、始終(ししう−ママ)變ぜず、近世の醇儒者と謂ふべし、老夫〔鳩巣自ら稱す〕敢て自ら先輩(せんはい−ママ)に比せずと雖も、其程朱を崇信するは、則ち多く遜(ゆづ)〔讓〕らず(*と)、又雨伯陽が橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に曰く、余少時明經(めいけい)を以て志となす、中村米川諸儒の如き、博學を以て名くべからず、然も其身を立つること、卓偉〔超絶群を拔く〕にして、自ら修むること謹嚴、亦以て篤行(とくかう)の郷(きやう)先生となすべし、今は則ち斯人なし(*と)
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は伊藤仁齋より少きこと二歳、頡頏〔對抗〕して名を齊(ひとし)くす、當世稱して曰く、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋兄たり難く、仁齋弟たり難しと
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋は著書に饒(と)〔富〕む、其筆記詩集傳後の所記四十五部、凡そ三百十八卷、其上梓せるもの十六部、凡そ百七十四卷、而して歿後刊する所のもの甚だ多し、若し夫の後世の儒者は其述作する所、身自ら之を刻するに非ざれば、身後終に鼠蠧(そこ−ママ)〔鼠と書虫〕の口腹に充つ、■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋に愧づること多し
姫鏡三十二卷は婦女の爲めに之を著す、則ち綴るに國字を以てす、其門を分つ〔部類を分つ〕略小學に傚ふ、而して之を敷衍し〔ヒロメ述ふ(*ママ)る〕、博く倭漢古今の賢媛を採録す、此邦の女戒にして、其の能く世教を裨(たす)くるは、蓋し此書に過ぐるはなし、鳩巣其義經の妾静を載せざるを以て、■(艸冠+封:ほう・ふ・ふう:蕪・真菰の根:大漢和31400)(はう)を采り〔詩經の句〕菲(ひ)を采り、下體(かたい)を以てすることなしといふを引きて、之を尤(とが)〔咎〕む、要は惟一烈女を遺〔漏〕すのみ、何ぞ此編に害あらん
■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋行状一卷は、門人阿波の増益夫、遺言(ゐげん)を奉じて之を撰す、首に肖像及び■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋が自ら題する詩一首を載す、其詩に云く
利名ノ雙字胡爲(なんす)ル者ゾ、億萬ノ民生倶ニ策驅ス、耆耋(*きてつ)棄材世計ニ■(立心偏+夢:ぼう・もう・くらし:明らかでない・暗い・愚かな・心が乱れている:大漢和11372)(くら)シ、林曲ニ考槃シテ永ク言(ここ)ニ娯ム(*利名雙字胡爲者、億萬民生倶策驅、耆耋棄材■世計、考槃林曲永言娯)
貝原篤信、字は子誠、小字は久兵衞、益軒と號し、又損軒と號す、筑前の人、國侯に仕ふ
益軒は寛永庚午十一月十四日を以て、福岡城中の官舍に生る、父利貞は寛齋と號し、軒岐家(けんぎか)〔醫家〕の言に通ず、益軒は幼より警敏殊質あり、九歳兄存齋に就きて書を讀み、多く暗誦をなす、中年に及び京に入りて講學す、此時都下の名彦〔名ある人物〕胥(みな)〔皆〕心を頃(かたむ)けて之に下る、遂に博學篤行を以て、名海内に重し、益軒學に常師〔定まれる先生〕なく、或は以て松永昌三の門人となすものは誤れり、太宰徳夫は儒林に於て許可少し、其益軒に於ける、甞て稱説して曰く、博學洽聞海内比なしと
初め其學主とする所なく、陸象山、王陽明の説に於て皆取る所あり、後學蔀通辯を讀むに及び、朱學に歸依す、然りと雖も、晩年大疑録二卷を著し、大極本と無極、陰陽は道に非ず、陰陽する所以のもの道なり、性に本然(ほんねん−ママ)氣質あり、理生死なく、氣生死あり、及び體用一源、顯微間なく、主一無適、沖漠無朕(ちうばくむちん)等〔主一無適等は宋儒性理學の本領〕の説を以て、聖經(せいけい)と徑庭〔差異〕ありとなす、而して人となり謙恭純篤なり、其言に曰く、吾幸に朱子の後の生れて、其書を窺ふことを得たるは、無窮の幸(かう)と謂ふべし、又罔極(むきよく)〔無限〕の恩なりと、故に吾が之を敬すること神明の如く、之を信ずること、耆龜の如しと、之を世の學未だ達せずして、輙ち人の短を拾ひ〔短所弱點を捜すこと〕、以て口實となす者に視れば、霄壤(せうじやう)(*原文「宵」とするのは誤植か。)も啻ならず
益軒好んで書を著す、而して救世の心實に苦(ねんごろ)〔懇に同じ〕なり、其著す所百有餘種、多く書するに國字を以てす、語極めて懇切なり、田夫(でんふ)、紅女〔工女(*ママ)〕、童兒、隷卒皆之を便とす、近時刊行する所の泛々たる者と迥(はるか)(*原文「之繞+向」に作る。)に類せず、又善く修養し、老に及び、猶矍鑠として〔身體の壯健〕衰へず、其屬綴(ぞくてつ)する〔ツゞルにて著作なり〕所のもの少なからず、六十にして和漢名數増補を作り、六十七にして大和廻を作り、七十四にして筑前續風土記、及び點例を作り、七十五にして諸菜譜を作り、七十九にして大和本草を作り、八十一にして樂訓を作り、八十四にして養生訓を作る、愼思録に載す、魏志に曰く、胡昭怡々(いゝ)として〔樂む貌〕愛せざるなし、僕隸〔召使など賤しき者〕(*原文頭注「隷」字を使う。)と雖も、必ず禮を加ふ、年八十にして書籍に倦まざるもの、胡徴君に於て之を見ると、篤信謂(おも)ふ、胡昭が愛敬の徳量は及ぶべからず、以て法となすべし、八十書を讀んで倦まざるが如き、吾耄耋(もうてつ)〔老境〕と雖も、亦日夕手卷(くわん)を釋てず、是れ企及すべしとなすと、是れ自ら其實を紀するなり
年三十九にして近思録備考を著し、明年小學備考を著し、並に世に版布(はんふ−ママ)す、後學之に因りて進む者多しと云ふ、人見鶴山云く、本邦の先儒編著固より多し、而して經傳註解を■(衣の間に臼:ほう:集まる・取る・多い:大漢和34299)輯(ほうしう−ママ)〔アツメアツム〕する(*聽いたものを集めて編集する。)もの、益軒先生の此二編を以て始(はじめ)となす(*と)
益軒時に詩を作ると雖も、素と倭歌を好み、詩を好まず、毎に詩を謂つて無用の閑言語〔無駄なことば〕となす、愼思録に曰く、和歌なるものは我國俗の宜き所、而して詞意通曉し易し、古人は歌詠極めて精絶なり、古昔は婦女と雖も、亦之を能くする者多し、唐詩は本邦風土の宜き所にあらず、其詞韻は國俗の言語に異なり、中華に模傚(もかう)し難し、故に古昔の名家と雖も、其所作(しよさく)は拙劣にして倭歌に及ばざること遠し、我邦は只和歌を以て其志を言ひ、其情を述ぶべし、拙詩を作りて■(言偏+令:れい・りょう:売る・衒う:大漢和35354)〔テラフ〕癡符(れいちふ)(*馬鹿を衒い売る札、拙い文章を名文らしく世に吹聴して、恥を晒す喩え、恥知らず。)の誚(そしり)〔譏〕を招ぐを要せず(*と)、又曰く白樂天謂(いは)く詩を作る者は心を勞し、虚く聲氣を役す、連朝接夕〔朝々夜々といふが如し〕自ら其苦を知らず、魔に非ずして何ぞやと、愚謂(おも)ふ、此れ詩を以て魔となすなり、其言や宜(よろ)し、然り而して白樂天其言此の如くにして爲す所、詩魔の惱ます所たるを免れざるもの何ぞや
益軒年八十五にして歿す、歿するに臨み、詩二首倭歌一首を賦す、詩に云く
平生ノ心曲誰有リテ知ラン、常ニ天威ヲ畏レテ欺クコト(*原文送り仮名に「┐」形の略字を使う。)勿ラント欲ス、存順沒寧克タス(*ママ)ト雖モ、朝ニ聞キ夕ニ死ス豈ニ悲マザランヤ、幼ニシテ斯道ヲ求メテ孤懷ニ在リ、徳業成ル無ク夙志乖ク、八十五年曷(ナニ)事ヲ爲ス、讀書獨樂是レ生涯(*平生心曲有誰知、常畏天威欲勿欺、存順沒寧雖不克、朝聞夕死豈不悲、幼求斯道在孤懷、徳業無成夙志乖、八十五年爲曷事、讀書獨樂是生涯)倭歌に曰く、
越し方は一夜ばかりの心地して甞て東に居り、將に西に歸らんとす、路を海上に取る、同船數人名姓相知らず、雜然相向ひ、喋々相語る、中(うち)に一少年あり、亢顔(かうがん)〔威張る〕經を談ず、傍に人なきが如し、益軒暗〔默〕として言なく、能なき者の如し、既にして船岸(がん)に達し、各姓(*原文「性」は誤植。)名郷里を告ぐるに及び、少年始めて益軒なるを知り、■(而+心:じく〈ぢく〉・にく:恥じる:大漢和10587)然(ちくぜん−ママ)〔恥つ(*ママ)る貌〕自ら容れず、遂に其名を陳べず、鼠竄(そざん)して〔鼠の如く逃れ隱る〕去る
八十じあまりの夢を見しかな
宇都宮三近、字は由的、頑拙と號し、又遯菴と號す、周防の人、巖國の吉川氏に仕ふ
遯菴は幼時京師に遊學す、明暦丁酉年二十四、主命を受けて郷に歸る、途中詩及び倭歌あり、編して巖邑紀行と名け、世に印行す、其京に居るや、松永尺五の門に學ぶ、乃ち紀行難波の吟に
昨日二月上丁ノ日、老師尺五講堂ノ前、各蘋■(艸冠+繁:はん・ぼん:白よもぎ・蕗・浮草の名:大漢和32512)ヲ羞シ(*ママ)テ書卷ヲ評ス、至聖ヲ祭リテ大賢ニ配ス、我公程ノ爲メニ此會ニ背ク、幾カ師友ヲ思ヒテ意悁々タリ(*昨日二月上丁日、老師尺五講堂前、各羞蘋■評書卷、祭至聖而配大賢、我爲公程背此會、幾思師友意悁々)の句あり
五井守任、字は加助、持軒と號す、大阪の人
持軒は其先大和の五井戸に家(いへ)す、因つて五井を氏とす、世の井戸と稱する者、同じく此に出で、一族なりと云ふ、持軒は素と醫者なり、甞て方劑〔藥の配合〕を誤りて人を不起に致す、慨然轍を改めて〔道を更ふる〕儒となる、學篤く行修まり、綽〔ユツタリ〕として古の風あり、本多侯禮を厚くして之を辟(め)し、以て講説を聞き、大に其誠實を喜ぶ、一時の名彦伊藤仁齋、東涯、中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋、貝原益軒、恥軒、三輪執齋等、咸〔皆〕文字を以て交驩(かうかん)〔交の款洽なること〕(*原文頭注「款」字の左旁を「疑」の左旁に作る。)をなす、初めは宋儒を宗〔主〕とし、晩に所見ありて拘守(かうしゆ)せず、其性を論ずるが如き、專ら氣質を以て性となすと云ふ
持軒成童〔十五〕京に入り、居ること十餘年にして大阪に歸りて教授す、此地方に學の興る、持軒を以て首となす、南郭が蘭洲に復する書に曰く、在昔尊翁先生道を浪華に唱へ、海内景仰〔欽慕〕するもの久し、又下河邊長流に學び、國風を善くす、東涯墓碑を撰し、盛に其學術行義を稱して曰く、壯時家道饒阜(ぜうふ)〔富裕〕、親眷の爲に掩はれて〔財を隱さる〕問(*原文ルビ「とは」は一字過多。)はず、晩に及び、遂に窘迫(くんはく)を致す、乃ち曰く、若し人の相恤(めぐ)むなくんば則ち死せんのみと、淡泊(たんはく−ママ)自ら守りて晏如たり〔安んじて憂へざること〕、簡牘の往來、常に敗紙を撰ひ(*ママ)て其空白を用ふ、天物を暴殄(ばうてん)する〔無益に費す〕を以て戒(いましめ)となす、天資坦率、邊幅(へんふく−ママ)を修めず〔儀容を飾らざること〕、辭説を飾らず、平生(へいせい−ママ)曾て人の惡を言はず、或は人と語り、言或は當らざるも、亦之を斥けず、但曰く某が解せざる所なりと、閭閻〔市井村里〕鄙俚の言、解せざる所多し、苟も學を問ふに及べば、誨誘懇至、解せざれば已まず、甞て人に謂つて曰く、某(ぼう)〔自稱の名詞〕胸中未だ曾て一惡念を蓄へず、又曰く、人は惡をなす能はざるものなりと、一書生あり、遽に曰く、吾輩は然る能はずと、先生色を正して曰く、意はざりき、君の人となり乃ち爾らんとは、惡若し作すべくば試に之を爲せよと、家に日本紀學を傳ふ、之を治むること尤も精く、迂怪不經〔不經は正しからざること〕の説を雜へず、又和歌を嗜(たし−ママ)む、彫鏤(ちようろう)〔潤飾〕を務めず、敏にして理あり、梁田蛻巖其傳に記して曰く、先生常に謂ふ、人能く四書に通ずるを得ば、以て宇宙の第一理を識るべし、乃ち行ひて躬(み)にせば、則ち天下の能事畢る〔善事は仕舞なりとの意〕と、故を以て書を説くに、學庸語孟を循環し、未だ甞て他に及ばず、此方〔我邦〕坊間の諸賈、其業を命じて某屋(ぼうや)と曰ふ、所謂茶屋酒屋の類の如し、攝人(せつじん)〔攝津の人〕戯に先生を目して四書屋の加助と謂ふと云ふ
年八十、三輪執斎倭歌を作つて之を賀す
身にそへてたかくぞ仰ぐ學び得し此れ其徳と壽と疆(かぎ)〔限〕りなく、人の之を仰ぐこと日の如きを陳するなり、碑に曰く享保六年辛丑閏七月十八日家に終る、享年八十一、傳に曰く、享保中享年八十、大阪の僑居〔寄留處〕に卒すと
こゝろののりも盡きぬよわい(*ママ)も
五井純禎、字は子祥、小字は藤九郎、蘭洲と號し、又洲菴と號す、持軒の男、大阪の人
蘭洲家學を繼ぎ、世に重名〔高き名聲〕あり、享保中、中井甃菴郷校を大阪尼崎坊に設く、三宅石菴講席を主(つかさど)り、蘭洲助教たり、何くもなく江戸に來り、遂に召されて津輕侯に仕ふ、獻替〔可を進め否を廢するにて言を盡して輔佐すること〕裨益多しと云ふ、然るに言或は行はれざるあるを以て、病を移して去らんと請ふ、有司惜んで爲に通ぜず、數々乞ひて終に允さる、即ち大阪に歸休し、復た其郷校に教授し、以て其身を終る、津輕を辭するの後、遠邇(ゑんじ)爭ひ召せども應(おほ−ママ)(*おう)ぜず
蘭洲博學にして著述に富む、瑣語、質疑篇、非物篇、既に刻して世に行はる、其の他は人梓(し)〔彫刻出版〕せんことを勸むれども謙讓にして許さず、又兼ねて國學を攻(おさ)〔修〕む、世に源語梯三卷あり、人益を得ること少なからず、其附言に曰く、此書は何人の著す所なるを詳にせず、人或は之を市に購得すと、此れ狡猾利を貪る者、蘭洲の源語詁を盜み、其題署〔標題と名〕を改刻せるなりと云ふ、河井立牧が桂山集に蘭洲が春曙百花に傚(*原文ルビ「たら」は誤植。)へる倭歌を載す、此に由りて之を觀れば、又好んで國風を詠ず、蘭洲の文多く世に傳はらず、余甞て其烈婦溺死の記を見るに、叙事曲悉〔詳細〕人をして悲痛せしむ、實に是れ婦女の鑑戒にして、蕪沒すべからざるものなり、因りて此に掲ぐ、曰く
烈婦(れつふ−ママ)栗女(りつじよ)は甲斐國田中村の農夫の女なり、幼にして孤〔父母なき〕、村長某の家に依る、村長其人となりを愛し、資装〔嫁入りの支度〕を與へて同村安兵衞といふ者に嫁す、未だ幾くならず安兵衞惡疾に染(そ)み、臥して牀蓐に在り、栗之に事へ、身井臼(せいきう)を執り〔水を汲み米を搗く〕、毫も厭ふ心なし、晝は則ち夫に代りて田を耕し、夜は還りて之を扶助す、其暇には紡績以て薪柴に供す、舅六右衞門七十歳を過ぐ、毎に野外に出遊す、必ず湯茶(たうちや)を持し、往いて之を省(せい)す〔父母(*原文頭注「毋」は誤植。)を看護すること〕、遠く出で晩に歸れば、必ず里門に迎ふ、一村の人相聚まりて歎賞せざるはなし、此の如きもの茲に年あり、嗚呼婦人の夫に於ける、仰望(*原文ルビ「けうばう」は清音に記す。)して身を終る所以なり、夫は疾みて事を事とせず、舅(きう)は耄して〔老いてぼける〕家衰ふ、豈に身を託するに堪へんや、矧(いは)〔况〕んや惡疾は人情の憎む所なるをや、且つ子なくして年尚少し、之を捨てゝ改め嫁せざる者、天下能く幾人かある、栗女は孝且つ義なるかな、嗟天道知る無く、洪水(かうすゐ)横流して夫妻魚服に葬らる、享保十三年戊申十二月官其節を嘉(よみ)し、黄金を賜ひ、以て其事を旌(あらは)す〔世に表彰す〕、初め七月八日、大風暴雨、川流沸騰し、堤を壞(やぶ)り陸に襄(のぼ)る〔上ること〕、田中村其下流に在り、夜中人相呼んで曰く、水將に至らんとす、之を避くべきなりと、是時に當り、夫の疾病(しつへい)四肢爛潰(らんかい)す〔タゞレクツ(*ママ)ル〕(*原文頭注「漬」は誤植。)、乃ち起つべからざるを知り、栗に謂つて曰く、我水に死せん、汝疾く避けよ、汝我を醜とせず、湯藥の煩、扶助の勤、心に銘して忘れず、今親(しん)老い汝年尚少し、幸に生を全くして家を滅すこと勿れ、是れ望む所なり、我此惡疾に窘(くるし)む、餘喘〔餘命〕惜む所なし、命旦夕(*原文「外」は誤植。)に在り、水に死せば則ち幸なり、汝は則ち避けよと、栗泣いて曰く、相親む數年、難に臨んで之を委(すつ)る〔捨つる〕は不祥なり、語未だ畢らず、門外洶々(きやう\/)且つ泣き且つ號(さけ)〔叫〕んで曰く、水聲近し、後るゝ者は死せんと、栗乃ち舅を扶けて門外に出で、人に託して曰く、乞ふ此翁の命を救へよと、舅曰く汝夫と與に來れ、然らずんば我獨り生きずと、栗曰く敬諾(けいだく−ママ)、大人歩遲し、請ふ先づ行け、妾良人と之に及ばんと、乃ち舅の副衣及び田地の典券〔地券状〕を以て、油紙之を裹(つゝ)み、以て其人に託して之れを遣り、而後室に入りて夫の側に侍し、天に誓ひて夫と死を同くす、水至りて遂に溺れて死す、民屋も亦蕩(たう)ず〔流れ失ふ〕、夫妻の尸(しかばね)所在を知らず、水退き民其業を復し、栗女の志を聞き、各錢物を出し、以て其冥福を瑞蓮佛寺に修む、甲斐國の邑宰〔代官〕小宮某、其状を具して之を台聽(たいちやう)に達す〔將軍に具申す〕、且つ曰く、舅六右衞門幸に免る、然も去年登(みの)らず、安兵衞田(でん)を以て金に質(ち)し、以て租に充(あ)つ、伏して望む、國恩黄金を賜ひ、以て優賞せられんことを(*と)、則ち遺老頼(よ)るあり、死者瞑〔閉目〕すべし、且つ以て民の志を勵まさんと、是に於て黄金若干を賜ひ、以て舅を養はしむ、邑宰賜金を以て其田地を復し、以て安兵衞の後を繼か(*ママ)しめ、且つ爲めに烈婦の碑を立て、之を一儒生に謀り、國字〔假名〕を以て其事を紀(き)す、嗚呼匹婦の微〔賤〕、上は君の心を動かし、下は傳へて以て美談となす、其名は石と與に朽ちず、天道知るなしと謂ふべけんや中井竹山が非徴に曰く、蘭洲先生甞て言へり、徂徠の仁齋を駁するや、曰く、仁齋の宋儒に於ける、一に佛氏の所謂宿冤〔前世に於ける冤枉〕あるものゝ如しと、曾て知らず己の宿冤たる更に甚しきものあるを、蘭洲は朱學を家庭に承け、力(つと)めて徂徠を斥けて、宋儒を護〔辯護〕す、然も固執(こしつ)〔株守謬着〕せず、故に其自得する所、往々朱に反して説を立つるは、瑣語、質疑篇に見ゆ
天斯文ヲ相ケ、實ニ先生ヲ降ス、夫ノ異言ヲ(*原文送り仮名「テ」は誤植。)襄シ、績ヲ往聖ニ承ク、委有リ源有(*リ)、通儒ノ全才、詞ヲ蒼■(石偏+民:びん:美しい玉:大漢和24103)ニ琢シ、千載ニ休風ス(*天相斯文、實降先生、襄夫異言、承績往聖、有委有源、通儒全才、琢詞蒼■、休風千載)
大高阪季明、字は清介、芝山と號し、又黄軒と號す、土佐の人
芝山家世々土佐に臣たり、父宣重仕を致して歸田し〔野に歸る〕、後關東に至る、芝山幼より書を讀み、年十八の比ひ、土佐を出でて京に入り、江戸に來り、苦學自ら勉む、弱冠にして巖城侯に官す、居ること若干年、去りて又稻葉侯に遊事す、晩に禄の用に足らざるを以て休致を請ふ、允されず、尋いて(*ママ)〔間もなく〕災に罹り〔火事に遭ふ〕、侯より重賜あり、是に於て止足軒の記を作り、敢て復た休を乞はず
芝山は谷一齋の門に出で、宏才博覽、最も性理を究む、又善く詩を賦し文を屬(ぞく−ママ)す〔作る〕、當世碩儒(せきじ−ママ)と稱す、而して意氣豪宕〔ツヨク疎大なること〕、自ら視る甚だ高く、毎に好んで時輩〔當時の同業者〕を排斥す、其適從録二卷、撞(だう)巣窟、撃蛇笏(げきだしやく)等の目を擧げて、縦(ほしいまゝ)に仁齋を毀罵(きば)す、又向林二老に謝する書に曰く、陳元贇は洛に在り、曩(さき)に相會せり、朱舜水は此に在りて面晤す、潜(ひそか)に厥(その)言行を察するに、疑ふらくは端誠純粹ならず、猥俚(わいり)〔卑俗〕の態多く、彦士(げんし)の姿に乏し、詞賦も亦未だ英懿(えいゐ)ならざるに似たり、故に就きて正すを欲せずと、又鵜眞昌に答ふる書に曰く、
深艸の元政陳元贇は交(まじはり)を吾子に執ること、斯に年あり、僕洛に在り、晤語〔面會談話〕二三會に過ぎず、僕當時年小氣鋭、人に下り(*「下るを」か。)肯んぜず、唯視る、元贇は人となり、卑猥瑣碎〔小事に拘泥する貌〕、風雅の致〔趣〕なし、元政は人となり、暗弱固滯、實見の明なし、或は賤或は廢、日に同志と譏笑(きせふ)するのみ、又其詞葩(しは)〔文藻詞采〕の取るべきを觀るなし、故に屡往來せず、亦惜からずや、甞て聞く朱之瑜老人は往年世を謝す〔死〕と、心越禪師は恙なきや否や、定めて知る、吾子此二老者と毎に清譚(せいだん)〔清談〕するを、僕甞て彼の二老者に逢ふ、前後兩三席に至るも、徒に花鳥を談じ風月を話するのみ、殊に一言の學問上に及ぶなし、但心越に於て、則ち一絶を唱和するのみ云々、近來偶ま木老儒に逢ふ、一の癡訥(ちとつ)〔愚にし(*て)辯才なきこと〕人のみ、未だ曾て風采を看ず、曩に荒景元に遇ひ、詩數章(すしやう−ママ)を贈答(さうたう−ママ)す、學力未だ幼にして敏なる名の如くならず明の林珍、何倩、顧長卿來りて長崎に在り、芝山毎に詩文を致して是正〔斧正〕を請ふ、彼れ各口を極めて褒賞し、韓柳歐蘇も過ぐるなしとなすに至る、是に於て芝山自ら以て然りとなす、江邨北海曰く、林何顧三人は孟浪〔ムヤミなること〕諛言〔阿る語即ち追從〕、固より論ずるに足らず、而して季明之を信じ、自ら夸り、遂に精細の工夫を缺く、余酷だ季明が慷慨氣節あるを愛す、因りて深く三人の爲に誤らるゝを惜むと、過論にあらず
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( ) 原文の読み | 〔 〕 原文の注釈 | |
(* ) 私の補注 | ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字 | |
(*ママ)/−ママ 原文の儘 | 〈 〉 その他の括弧書き | |
[ ] 参照書()との異同 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10) ・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25) ・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。 |