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譯註先哲叢談 卷五

高玄岱、字は子新、字は斗■(肉月+贍の旁:たん:胆:大漢和29933)、小字は新右衞門、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)と號し、又■(矛+攵+女:ぶ・む・ぼう:従わない・星の名・州の名・美女:大漢和6461)山(りざん−ママ)と號す、肥前の人、大府に仕ふ
天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)の祖高壽覺は西土〔支那〕の人なり、父大誦は一覽と號し、長崎の譯者〔通譯を司る者〕たり、一覽姓高を改稱して深見となす、蓋し高氏は渤海より出づ、渤海の倭讀は深見なり、故に稱す、天■(三水+猗:い:さざなみ:大漢和 )が朝鮮の聘使李東郭に與ふる詩の序に、其歸化の顛末を陳す、乃ち左に録す
東都の高玄岱、字は子新、自ら天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)と號す、本と中華の族、祖渤海、高壽覺は福建彰郡の人、海(かい)に航して薩摩に寓し、後明に歸る、父大誦年十六、祖を跡(たづ)ねて〔踪跡を尋ぬ〕明に入り、祖氏の墟〔祖先の居りし家の趾〕を弔ひ、魯に遊び齊に轉じ、燕を踰へ趙に跨り、北は匈奴の域を經、南は東寧の隈に及ぶ、行く々々(*ママ)天下文物の盛なるを歎じ〔驚歎〕、名山大川の勝を歴覽す、殆ど十有餘年、一日母を慕ふの念歇(や)〔止〕まず、輙ち商舶に登り、直(たゞち)に長崎に到る、時に寛永六年、父の歳二十有七、僕は則ち長崎の産なり、幼より曼公戴先生に師事す、先生は浙の杭州西湖の人にして明の遺士なり、明亡び海に航して長崎に寓すること二十有餘年、僕の親炙するや久し、其語言音韻、期せずして頗る解す、今に至るまで皓首〔白髪〕尚南音〔南清地方の音〕を操(と)る、但愧づ性を執る迂魯〔迂濶庸愚〕、體質脆薄にして動もすれば疾(やまひ)に嬰(かか)〔罹〕る、少くして夙志ありと雖も、意を肆(ほしいまゝ)にして業を勤むること能はず、徒に犬馬の年を増すのみ、先生沒後、僕自ら度(はか)らず、妄(みだり)に浪を長風に破りて、一たび華域に詣(いた)らんとするもの數(しば\〃/)、而して國禁界(さかい)を越ゆるを許さず、乃ち退きて中原の輿地図〔全國圖〕を閲し、臥遊〔臥しながら遊ぶ〕を作すに傚ひ、以て聊か懷を慰む
天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)幼より瑰才あり、其長崎に居るや、僧獨立(戴曼公)に學び、傍ら醫術に通じ、乃ち醫を以て薩州に遊事し、幾くもなく去りて復た長崎に住し、學藝を以て事となす、久くして名聲遠邇(ゑんじ−ママ)〔違近〕(*頭注「違」は「遠」の誤植。)に馳せ、遂に室鳩巣、宅觀瀾と同じく大府の召(めし)に應(おほ−ママ)(*おう)じ、江戸に來りて儒員に列す、白石が宅集、鳩巣席間詩を贈りて曰く
三人同ク召レ(*ママ)テ蒿莱ヲ出ヅ、齒徳共ニ推ス當日ノ魁、一(ニ)良エ(*ママ)工國(ヲ)醫(ス)手ヲ變シテ、翻テ詞客ト成ル■(手偏+炎:えん・せん:舒べる・輝く:大漢和12270)天ノ才、羨ム君ガ簡ヲ授ケテ先達ト稱ス、笑フ我ガ年ヲ論シ(*ママ)テ後杯ヲ拒ム、嘉會ハ由來屡得難シ、樽前惜ム莫レ玉山ノ頽ルゝヲ、(*三人同召出蒿莱、齒徳共推當日魁、一變良工醫國手、翻成詞客■才、羨君授簡稱先達、笑我論年拒後杯、嘉會由來難屡得、樽前莫惜玉山頽、
又兼ねて書を能くす、其法獨立よりして之を得たり、當世林道榮と名を齊(ひとし)く〔同等〕す、白石曰く、榮死して子新天下に獨歩すと、南海が篆隸の歌に曰く、崎陽華(ニ)於ル只一葦、臨池之技皆精勤、先ニ林榮有リ後高岱(*崎陽於華只一葦、臨池之技皆精勤、先有林榮後高岱)と、春臺曰く、林道榮は長崎の舌人〔通譯〕たり、高玄岱と與に草書を善くするを以て名を知らる、然も林は高に及ばず、筆法に變化なき故なり、但林は諸體を兼ね、高は草字に非ざれば作る能はず、此れ則ち高が林に及ばざる處なり、人特(こと)に林を稱するもの此を以てのみ(、)徂徠豪邁の資を以て、一世を睥睨す〔ニラムなれど輕視するの意〕、獨り天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)に於て、甞て其書を得んと欲し、且之と締交を求む、香國禅師に與ふるの書見るべし、曰く嚮者(さきに)坐に在りて、崎人高玄岱の字を覩る、意其一二幅を得んと欲す、而して一時老和尚が金石の響を作すを貪り聽き、爲に奪はれて〔氣を取らる〕言を忘る、未だ其人已に還るや否やを審(つまびらか)にせず、儻〔若〕し未だならば則ち敢て一方便〔周旋〕を請ふ、且つ爲めに賤名〔徂徠自家の名〕を通じ、以て日後鳴謝に便せんことを要す、或は天涯の一相識を添ふ、亦遊道の益々廣まるなりと
鳩巣は當世の碩儒〔大學者〕なり、其文辭亦疎となさず、而して天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)を推奬〔推服稱揚〕し、其言を得て以て定論となす、三宅緝明に答ふる書に曰く、僕平生書を讀み、稍や得る所あり、著す所の文亦頗る多し、識者に就きて之を正さんと欲す、前日天(獣偏+猗: : :大漢和 )兄來訪(らいばう−ママ)す、言文辭の事に及ぶ、此人能く西土の音に通じ、號して文章家と稱す、乃ち僕が文章家と稱す、乃ち僕が文稿を出して之を示す、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)兄其中に就き、一兩篇西音を以て讀むこと一過して曰く、善し、但文辭緊(きん)に傷(やぶ)らる〔迫り過ぎて餘裕なきこと〕、一閑字〔ヒマナ字即ち緊切ならざる文字〕を缺くのみと、僕言下に〔口の下(、)即時〕敬服す
天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)は享保壬寅八月八日を以て沒す、享年七十四、墓(ぼ)は江戸東叡山中、護國院の後塋に在り、其父母及び師獨立の髪齒(はつし)も亦此地に■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)(うづ)む、各建石あり


佐藤直方、小字は五郎左衞門、備後の人なり
直方年二十一、永田養菴を介して山崎闇齋に謁す、闇齋の弟子を教ふる極めて嚴なり、直方之に事へて惰(おこた)〔怠〕らず、遂に能く其旨を得たり、闇齋の晩年神道(しんだう−ママ)を唱ふるに及び、疑なき能はず、是を以て竟に弟子の籍を削らる〔破門〕、直方又敬義内外考論を作る、曰く、易文に言ふ、敬義内外は此れ乃ち心と身とを以て之を敬義と言ふ、先生以為く身を内となし、家國天下を外(ほか)となすと、予之を辯じて止まず、是に由りて遂に罪を先生に獲、師の門に出入せざるもの幾ど二年なりと、此に由りて之を觀れば、其闇齋に絶たるゝもの、惟神道を奉ぜざるが故のみにあらず
直方字號なし、或謂つて曰く、山崎闇齋は子〔對手を呼ぶ代名詞〕の師なり、淺見絅斎、三宅尚齋は子の友なり、而して皆號を以て稱せらる、子獨り尊稱すべきものなし、知らず何の説〔理由の説くべきもの〕あるやを、直方曰く、予は邦俗に從ふのみ、此邦古より字號なし、何ぞ必ずしも邦俗に背くことを之れ爲さん、假令ひ余が西の邦〔支那〕(*同一の頭注二あり。衍文。)に之くも、亦名は直方、通稱は五郎左衞門を以て居らんとすと、故に弟子と雖も直に稱して直方先生と曰ふ、稻葉默齋が墨水一滴に曰く、斯文源流〔書名〕に剛齋を以て、直方先生の號となすは誤れり、弟子野田徳勝剛齋と號すと
甞て曰く、博覽彊記、能文、善書は宋の蘇東坡に若くはなし、然も道を得たる者より之を視れば、東坡固より論ずるに足らず、故に學者たらんもの其識見東坡を以て俗儒となすにあらざるよりは、則ち聖賢の地位に至ること能はず、今多く識り、及び詩賦文章皆之を善くせんと欲する者は、世を沒するまで〔死ぬまで〕眞儒〔眞正の儒者〕たる能はず
故赤穗侯の遺臣吉良氏を殺す〔誅す戮すなどゝ違ひ罪なきを斃したる場合に用ふ(春秋の法)〕、明日跡部光海來りて謂つて曰く、先生未だ聞かざるか、昨夜赤穗の大石等四十七士復讐〔復讐は父母の仇を報ずるを云ふ〕するを、直方曰く、言誤れり、遺臣の吉良に於ける、何ぞ之を讐(あだ)とし視るの理あらんや、遂に柳宗元が駁(はく−ママ)復讐議に本き、論じて上を凌ぐ〔犯す〕者となす
初年父に承けて結城侯に官し、俸禄五十口〔一口は一日俸米五合〕を受く、元禄癸酉乞うて休致し、後厩橋侯延きて師となし、年に百金を餽(おく)る、乃ち其邸に處(お)るもの二十餘年、然も道合はざるを以て之を辭し、神田紺屋街に卜居(ぼくきよ)す、時に年六十九
享保己亥八月十四日、唐津侯に進講す、疾暴(にわか−ママ)に起り、肩輿〔駕籠〕を以て舁(か)き歸る、侯乃ち人參二兩を賜ひ、稻葉迂齋をして護視せしむ、翌日遂に起たず、享年七十、門人三輪執齋病を聞きて至れば、則ち已に簀を易ふ〔故事にして學者の死に用ふ〕、乃ち倭歌を作りて之を哭す
江戸麻布琉璃光寺は其永眠の處なり、一片(へん−ママ)の小碑、正面に勒〔刻〕して一貫了道居士(こし−ママ)と曰ふ、左は佐藤五郎左衞門直方と云ひ、右は享保四己亥八月十五日歿(ぼつす)と云ふ
三宅尚齋が默識録に曰く、直方先生は氣稟(ひん)〔稟は受くるの意義なればヒン、申告の場合にはリン〕宏濶〔廣きこと〕潁悟なり、故に其學苦まずして至れり、中年學勤めず、進まず、屬■(糸偏+廣:こう:綿・綿入れ・繭:大漢和28033)(ぞくかう)〔死〕の前(ぜん)十四五年、好學の篤き手に卷を釋(す)てず、人と語るに小近四子に非ざれば未だ曾て口に載せず、才の穎辭の敏、終日人と學を談ず、譬喩百端、殆ど人をして踊躍(いうやく−ママ)自得せしむ、實に東方一人のみ、憾む所のもの、其學は小學、四子、近思の間に止まり、近思録致知篇に載する所の先賢の語に■(肉月+怱:そう・す:病む:大漢和29724)(*口偏、ないしは「吻」か。)合(ふんがう)〔キツシリ合ふ〕せざるもの多し、而して其見識の徹〔透ふる(*ママ)〕、未だ能く精微に入るや否やを知らず、其道を談ずる、所謂壁(へき)を隔てゝ聞くべきものに庶幾(ちか)し、其天命本然(ほんねん−ママ)の妙を發明するもの、今は世に存せず
直方の門人瞽者〔盲目者〕大神澤一といふものあり、筑前の人なり、才行修美、一時聲稱あり、稻葉迂齋之が傳及び祭文(さいもん)を作る、迂齋も亦業を直方に受け、高足〔優等の弟子〕たり、其藏蘊録には多く直方の語を録す

淺見安正、初の名は順良、小字は重次郎、絅齋と號し、又望楠樓と號す、近江の人
絅齋少くして山(*原文「小」とあるは誤植。)崎闇齋に學ぶ、砥行(しかう)〔勵行〕植節〔節操〕、社中其右に出づるものなし、後闇齋が敬義内外の説に從はず、又神道を喜ばず、是を以て遂に容れられず、闇齋の歿後其師に叛くを悔い、香を■(火偏+主:しゅ:灯心・灯火・焚く:大漢和18965)(ちゆう−ママ)して〔祭るなり〕罪を謝すと云ふ、蓋し闇齋の神道を唱ふる、一時及門〔門に入りて學ぶ〕の弟子皆之に靡く、而して堅く舊説を守りて少しも變動せざるものは絅齋及び直方、尚齋の數子に過ぎざるのみ
初年彊學咯血(かくけつ)〔血を吐く〕を患(うれ)ふ、闇齋猶督課して少しも貸さず、槇元眞なる者、爲に闇齋に謂つて曰く、之子(このこ)〔此子、之を此の義に遣ふは此熟字あるのみ〕(*原文読み仮名に「の」を補う。)疾(やまひ)日に篤し、請ふ姑く業を廢し、以て保嗇せしめんと、闇齋可かず、幾くもなく疾間あり〔少し好くなる〕、闇齋曰く、死生は命なり、奈何ぞ之をして其志を折(くぢ)かしめんやと
絅齋人となり慷慨にして、毎に新に質(ち)を列侯に委(ゐ)する〔質を委すは仕官すること〕を以て、潔(いさぎよし)となさず、故に貧甚しと雖も、敢て禄仕せず、門人三宅觀瀾出でゝ水府に仕ふ、以爲く其志道を行ふにあらずと、即ち書を贈りて之と絶つ、其請(*「靖」の誤植。)献遺言を著す、寓意〔勤王の意を寄せたるなり〕ありと云ふ
絅齋兼ねて武事を好み、常に馬に騎り剱を撃つ、其帶ぶる所の剱鐔(たん)〔鍔(、)ツバ〕には、觀瀾が篆ずる所、赤心報國の四字を■(金偏+雋:せん:のみ・刻む・穿つ・彫る:大漢和40924)(しゆん−ママ)す
絅斎は佐藤直方より少きこと二歳、初め友義甚だ親し、然るに嘗て直方が親(しん)の喪未だ除かざるに出仕せるを面折(めんせき−ママ)(*めんせつ)す〔面あたり直言して其非を指す〕、是を以て遂に絶交す、默識録に曰く、絅齋先生と直方先生とは、初め其交兄弟の如く、後相通ぜず、然り而して羲亦言ふべきもの〔理由の説くほどの事〕なし、乃ち是れ氣質の一癖にして、學問の大疵(たいし)なり、甚だ惜むべし、直方先生後來舊交を思ひ、將に通問せんとするの意あれど、絅斎先生終に執りて肯んぜず
絅齋承應元年八月十三日を以て生れ、正徳元年十月朔を以て卒す、享年六十、絅齋には男子なし、兄道哲の子某を以て嗣となす、門人若林新七能く其學を傳ふ

森尚謙、字は利渉、小字は龜之助、儼塾と號し、又不染居士と號す、攝津の人、水府に仕ふ
儼塾少きより學を好む、始め福住道祐に事へ、繼いで松永昌易に從ふ、二子咸之を異とす〔奇才となす〕、父某醫を以て永井侯に仕へ、攝津高槻に居る、其沒する比(ころほ)ひ、儼塾年二十六、父の遺言(ゐげん)を以て高槻を去りて京師江戸に遊學す、越えて七八年、業大に進む、是時に當り、水戸義公廣く海内文學の士を辟致して、國史を編修す、儼塾召(めし)を被りて之に赴き、局に入りて其事に與かる
儼塾藝能多く、醫術、兵法、撃剱皆其要を得たり、釋典(しやくてん)〔佛書〕に至りては尤も之を研究し、嘗て護法資治論十卷を著す、謂ふ儒と佛と並存して相悖らずと、其友安澹泊痛く之を斥け、數々切規〔懇に諫む〕して曰く、速(すみやか)に之を火(や)き禍(わざはひ)を■(貝偏+台:い・たい:贈る・遺す:大漢和36719)(のこ)す勿れと、儼塾從はず、然も淡泊との心交、終始變ぜず、卒するに及び、淡泊墓に記して云く、余と交(まじはり)最も熟し、毎に相箴規(かんき−ママ)す〔忠告して相戒む〕、而して今は亡し、夫の世の囂々たる者、毀譽は愛憎に出で、藏否〔善とし惡とすること〕は權衡〔輕重の平準〕(*原文「權衝」は誤植。)を失ふ、果して孰が得、孰が失なるや、君が若きもの、今多く得べからず、人の能くし難き所を兼ぬるものに非ずやと


安積覺、字は子先、小字は覺兵衞、老圃と號し、又澹泊齋と號し、又老牛居士と號す、常陸の人、水府に仕ふ

澹泊の祖正信、小字は覺兵衞、元和乙卯、大阪の役小笠原秀政に屬して戰功あり、後質(ち)を水府に委(ゐ)す、父繼ぎて其禄を食み、澹泊亦之を襲ふ、舜水の答書に曰く、令祖〔貴祖と云ふが如し〕功を往日に立て、而して子孫其禄を食む、見るべし善をなして福を蒙ることを、令祖功を他邦に立て、而して公之が爲に其孫を禄す、未だ疇勳〔前功〕の此に至るを見ず、汝宜く之を勉むべし(*と)
澹泊本と角兵衞と稱し、俊才にして學を好む、義公以爲(おもひら)く其器乃祖(のうそ−ママ)に減ぜずと、乃ち命じて覺兵衞を襲稱せしむ、既にして禄屡増し、職番頭〔士隊の長〕に至る、初め十三、始めて江戸に來り、舜水を師とす、居る三歳、痘を病んで郷に歸る、故に親く句讀を受くるもの、僅に孝經、小學、論語のみ、長ずるに及び博學、能文、而して史學最も長を擅(ほしいまゝ)〔專〕にす、乃ち彰考館〔水戸の修史局〕に入り、日本史編修の總裁に任ず、全編二百四十六卷、稿は享保庚子を以て脱す、前後與かる者無慮數十百人、而して澹泊の功多きに居る、澹泊は老に至りて氣力衰へず、其烈祖成績二十卷を撰するや、時に年七十二なりと云ふ
澹泊伊洛の學〔朱子學〕を主とす、然も守株(しゆちゆ−ママ)〔株を守りて兎を待つの故事〕膠柱(かうちゆう)〔琴の柱に膠するにて變通を知らぬこと〕せず、徂徠金華輩と數々(しば\/)書を通じて交をなす、徂徠に答ふる書に曰く、幼にして朱文恭に師事す、徒に其名ありて其實なき、亦前書に陳ずる所の如し、文恭は務めて古學をなし、甚だ宋儒を尊信せず、議論往々合はざるものあり、載せて文集に在り、徴〔擧證の意〕すべし、當時童蒙にして其所謂古學は何等の事たるかを知る能はず、今に至りて憾(うらみ)となす、宋儒を尊信するは僕が中年以後一己の見識のみ云々、今夏偶ま隨筆中程朱の書を援引するを見、躍然自ら喜ぶ、見る所の果して妄(ばう)ならざるを、清誨を承(うく)るに及び、始めて知る、足下が中年既に程朱の陋を覺り、六經復た(*原文「復だ」は誤植。)註解を須ひざるを、人の智愚は天淵〔懸隔の甚しき〕此の如し、今頭(かうべ)を改め面を換へ、舊習を革去せんと欲するも、齒髪日に益頽落し〔年老い衰弱す〕、志氣も亦衰耗す、我眉■(門構+良:ろう・とう・りょう:高い門・広大・空堀:大漢和41330)苑(らうえん)、望むべくして即くべからず、之を一浩歎〔大なる歎息〕に付するのみ(*と)、南郭の書に就きて之を考ふれば、甞て將に南郭を水府に薦めんとす、又其通鑑に於ける、■(三水+束:そう・しゅう・そく・しょく:すすぐ・川の名:大漢和17539)水(そくすゐ)〔司馬温公〕の舊本を喜び、文公の綱目を喜ばず、湖亭渉筆に序して曰く、綱目の書法發明は議論剴切〔緊切〕なりと雖も、頗る苛酷に傷(やぶ)るものあり、設し其人をして面(まのあ)たり之を聞かしめば、必ず辭あらん、豈に心服せんや(*と)
幼時舜水に學び、能く華音〔支那音〕を得たり、湖亭渉筆に曰く、今犬馬の齒(よはい)〔自家の年齢を謙遜して云ふ〕將に頽(たい)〔頽老〕せんとす、而して學業成らず、其存する所のもの、稍や華音を辯ずるの一事、其課程嚴峻にして晨讀夕誦したるに由り、今に至るまで忘れざるのみ、雨伯陽が橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に載す、水戸の淺香覺兵衞、紀州の高瀬喜朴二人、倶に唐音(たうおん)に通ず、覺は則ち能く讀んで唐話〔支那(*原文頭注「支邦」は誤植。)人との會話〕を解せず、喜は則ち能く談じて書を讀む能はず、正に孟子が所謂爲さゞるなり、能はざるものにあらず、蓋し心を用ふると否との別なり(橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に安積を淺香に作るは非なり)
澹泊名四方に振ひ、其書を修め〔書簡を以てなり〕益を請ふ者、枚擧すべからず、而して謙虚自ら卑(ひく)くし、其親く提誨〔訓導〕を受くる者に於ても、敢て弟子を以て之を視ず、意に謂(おもひら)く、吾安ぞ能く人の師たるに足らんやと、其結構する〔作る〕所の文詩、必ず稿を衆人に示して、以て正を請ひ、一字の議すべきものあれば、輙ち改撰す、是を以て人皆益敬服す
澹泊甚だ菊を愛し、園中多く之を栽(う)ゆ、甞て百種子を守山侯に上り、侯も亦佳品十餘種を賜ふ、田子愛に與ふる書に云く、亡師朱文恭菊を義公に乞ふの帖あり、載せて遺文外集に在り、覺百事文恭を學ぶ能はず、而して唯此事稍や餘風を存す、亦羞〔愧〕づべきの甚しきものならずや、又鳩巣が七十を賀する序に曰く、吾百事不能にして、而して唯菊を養ふことを知る、培植三十年、頗る其要領を得たり、乃ち菊を以て鳩巣に譬ひ、以て一篇を成す、鳩巣も亦其菓花塢(くわくわう−ママ)の詩の自註に曰く、主人菊癖あり、凡そ諸家の奇品、旁捜〔遍く探る〕並収して之を栽培せざるなし、種藝最も精く、品第〔品評〕最も嚴なり、秋時に至る毎に五色燦爛(さんらん)〔華麗にして光あり〕(*原文「爛燦」は誤植。)、以て人の目を奪ふ、而して安積氏の菊國中に聞ゆと云ふ、鳩巣老圃七覽の詠詩あり、七覽は碧於亭、紅藥欄、播藤岡(はんどうかう)、凉月樹、採蓮歩、黄花塢(くわうくわう)、老蒼園を謂ふ、又老圃行を作りて曰く

漢家ノ宗室禮數祟シ、文武最モ西山公ヲ推ス、著書還テ笑フ淮南ノ陋ヲ、大雅卓爾トシテ河間ニ同ジ、千金購求ム天下ノ籍ヲ、始テ史局ヲ開テ英雄ヲ籠ス、忽チ舘舍ヲ捐ツ二十載、當時宿儒安積翁、家學親ク承ク舜水ノ傳ヲ、餘姚ノ一派日東ニ流ル、惟フ昔シ國史草創ノ年、見ル君ガ盛壯先ツ(*ママ)鞭ヲ着スルヲ、人ハ道フ小心高允ニ似タリ、邦慶ス良史馬遷ヲ得タルヲ、材三長ヲ擅ニシ局(*ヲ)總ルニ堪フ、文百錬ヲ經テ大編ヲ成ス、直筆隱ス無ク鬼應(*ニ)哭スベシ、闕文疑ヲ存ス世傳フベシ、嘉績何翅タ(*ダ)三載考ナラン、華閥既ニ群士ノ先ニ擢ラル、梁園簡ヲ授(*ク)馬卿重シ、楚臺醴ヲ設ク穆生ノ賢、年徂キ事謝シ今已ム、優恩告ヲ賜フ舊學士、家居自託ス老圃ノ名、花ヲ蒔キ園ニ灌グ梅香ノ里、七境趣ヲ分チテ迭ニ品題シ、三徑荒ニ就キ自ラ鋤理ス、謝■(月偏+兆:ちょう:三十日の月、ここは人名:大漢和14358)宅前唯青山、杜甫舍邊皆白水、百年消憂琴書ヲ樂ミ、平生ノ宿好圖史ヲ翫フ(*ブ)、借問ス從容白玉堂、何ゾ如ン穩ニ鳥皮几ニ眠ルニ、晩節此(*ノ)如キ人難ス(*ズ)ル所、古來儒官幾ク相似タル、我ハ醉テ高ク歌フ老圃ノ行、誰カ知ラン曲々素履ヲ欽スルヲ、相思何相見ルノ期無ラン、伊人宛トシテ水中ノ沚ニ在リ(*漢家宗室禮數祟、文武最推西山公、著書還笑淮南陋、大雅卓爾河間同、千金購求天下籍、始開史局籠英雄、忽捐舘舍二十載、當時宿儒安積翁、家學親承舜水傳、餘姚一派流日東、惟昔國史草創年、見君盛壯先着鞭、人道小心似高允、邦慶良史得馬遷、材擅三長堪總局、文經百錬成大編、直筆無隱鬼應哭、闕文存疑世可傳、嘉績何翅三載考、華閥既擢群士先、梁園授簡馬卿重、楚臺設醴穆生賢、年徂事謝今已矣、優恩賜告舊學士、家居自託老圃名、蒔花灌園梅香里、七境分趣迭品題、三徑就荒自鋤理、謝■宅前唯青山、杜甫舍邊皆白水、百年消憂樂琴書、平生宿好翫圖史、借問從容白玉堂、何如穩眠鳥皮几、晩節如此人所難、古來儒官幾相似、我醉高歌老圃行、誰知曲々欽素履、相思何無相見期、伊人宛在水中沚)
義公の世に當り、史館人を得ること最も盛なり、公薨(*原文ルビ「がう」は誤植。)ずるに及び、一時の名彦相尋いで凋喪(ちようさう)〔死亡〕し、澹泊獨り存して世の爲に瞻仰(せんがう)〔仰ぎ見る〕せらる、徂徠の書に曰く、先侯業(すで)に已に世に即き、一時鄒枚(すうまい)の輩(はい)、寥落殆と(*ママ)盡く、而して足下獨り朱先生高第の弟子を以て、■(山+歸:き:山の高いさま・広大堅固・独立自尊:大漢和8622)然(きぜん)〔高き貌〕以て存す、靈光の如きありと、初め澹泊夢に「野水月縦横」の句を得たり、義公分ちて韻となし、近臣と同じく賦す、公月の字を探り得て「雲収マリ月明ニ衆星希ナリ、仰キ(*ママ)見ル文苑一輪ノ月(*雲収月明衆星希、仰見文苑一輪月)」の句あり、此れ即ち澹泊の前程を言ふなり、是に至りて果して然り〔衆星希なる中に一輪の月ある如く長く生存したるを言ふ〕


源君美、字は在中、新井氏、小字は勘解由、初の名は■(玉偏+與:よ:「與」に通用:大漢和21297)、白石と號し、又錦屏山人と號す、江戸の人、大府に仕へ、從五位の下に叙し、筑後守に任ず

白石の父正濟は常陸の人、年少くして江戸に來り、出でゝ土屋侯に仕ふ、母は坂井氏、明暦丁酉二月十日を以て白石を生む、白石生れて岐嶷〔高き貌にて卓然たること〕聰慧(さうけい)〔明敏〕、三歳字を寫し、六歳書を誦す、既に長じて器資宏偉、才經綸を負ふ、其學は洽聞多識、和漢古今の典故〔故事舊格〕に通曉す、述作する所の書、世其有用を稱す、善く國字を以て事を記す、是を以て日用の簡牘と雖も、皆以て傳ふるに足る、又善く詩を賦す、江邨北海稱して所謂錦心繍膓、咳唾珠をなし〔吐く唾も珠となるにて詞藻に富む形容〕、囈語韻に諧ふものとなす
七歳の比ひ父母拉して戯劇(きげき)を觀る、一々記認して之を胸臆〔臆はムネ〕に置く、歸りて之を語るに其次序一も違ふ所なし、父之を異として曰く、此兒常(じやう)に非ず、他日才當に文事に於て發すべし、新井氏夫れ興らん乎(*と、)初年父に從ひて久留利(*ママ)(土屋侯)に官す、二十一父と與に仕を辭す、是に於て貧甚し、人或は之に勸め、醫を業とし、若くは字を教へて給を取らしむ、白石從はず、一に經史に刻意〔苦辛研究〕す、時に河村瑞軒殷富〔財多きこと〕にして多く書を藏す、乃ち就きて借覽す、瑞軒心に白石の神姿(しんし)、他日貴顯なるべきを知り、其女に配し〔夫とする〕、納れて以て婿となさんと欲す、白石肯んぜず
白石對馬の西山健甫と舊友たり、年十六作る所の詩一萬首を録して、韓客に之が評をなさんことを求む、客請ひて接見し、遂に序を作りて之を褒揚(ほやう−ママ)す、後木下順庵の門に入るも、健甫之が介〔仲立〕をなす、元禄戊辰健甫歿す、歿するに臨み、白石に謂つて曰く、不朽〔文章〕を以て先生(錦里)に乞ひ、書は則ち君を煩はさんと、是を以て順庵墓記を作る、錦里文集に載す、而して今其墓石を見るに、三面に一字なく、惟正面に揩字もて西山順泰墓の五字を題するのみ、所謂墓記は之を壙(かう)〔葬穴〕中に埋(うづ)めたるならん
久留利を辭するの後、又堀田侯に遊事す、居る十年、志を得ずして去る、時に窶(る)〔貧〕甚し、篋中〔箱の内〕止(た)だ青錢(せいせん)〔銅錢〕三百、米三斗あるのみ、曰く此れ未だ■(之繞+端の旁:せん・ぜん:しばしば・速やかに:大漢和38988)(すみやか)〔速〕に凍餓せずと、意氣少も撓まず、順菴以て諸を加賀に薦めんと欲す、岡島仲通(名は達、石梁と號す)は加賀の産亦順庵の門弟なり、之を聞きて戚然白石に語りて曰く、予笈を負ふ(*ママ)て遠遊茲(こゝ)に若干年、比ろ家書を得たり、老母日に衰頽し、閭に倚り〔閭門に倚るにて母が子を待つ故事〕て予が歸るを待つ、一念到る毎に百感心に攅(あつ)〔聚〕まる、若し幸に吾先生の先容〔推薦〕に頼(よ)り、本藩に褐を釋くことを得ば、願足れりと、白石順庵に告ぐるに此言を以てして曰く、予が仕を求むる、何れの國か之れ擇ばん、請ふ予を舍(おき)て彼を薦めよと、順庵歎じて曰く、世衰へ道微に、日に漓薄(りはく)〔人情薄きこと〕に入る、子が如きは絶無にして僅有なる者なりと、乃ち岡島を加賀に推(すい)す、後二年元禄癸酉白石を甲斐府に擧ぐ、時に年三十七
白石仕へて六年(文廟〔六代將軍〕尚潜邸〔大統を繼ぐ前に王侯たること〕に在り)災に遭ふ、爲に五十金を賜ふ、白石謂(おも)ふ都下屡々火あり、今此賜を以て屋宇〔家〕を治むるも、亦必ず當に一朝洪恩を灰(くわい)にすべし、豈に別に用ふる所あらざるべけんやと、乃ち賜金を以て函人(かんじん)〔製甲職工〕(*原文頭注には「凾人」とあり。)に命じて甲冑一領を製す、其意一旦緩急あらば、■(手偏+環の旁:かん・けん・せん:つらぬく〈甲冑をまとう〉・つける・つなぐ:大漢和12813)(くわん)して以て節に殉(したが)はん〔義を取り難に死すること〕と欲するなり、居る五年果して復た災に遭ひ、家什蕩盡す、獨り其甲冑を以て身に隨へ、恙なきを得たり、鳩巣文集に源君美鎧記あるは是なり
正徳辛卯韓使來聘す、白石建議し、使者を饗するに申樂〔能〕を止め、雅楽を奏する等、多く舊例を革む、或は使者と禮法を廷論し〔殿中に爭論す〕、使者遂に摧折せらる、祇南海が白石の六十を賀する七言古詩に云く

韓之使者玉帛ヲ執ル、血面禮ヲ爭ヒ頑トシテ石ノ如シ、公西階ヲ歴(*シ)衣ヲ樞ケテ(*原文送り仮名「ケヲ」は誤植。)昇リ、軒々霞ノ如ク擧屋額ス、腰ニ帶フ(*ママ)紫陽太守ノ印、眼ハ紫電ノ如ク髯ハ戟ノ如シ、剱ヲ按シ(*ママ)テ叱々殿柱奮ヒ、使者膽竦シテ其魄ヲ喪フ、撃剱歌成リテ血霧ヲ吹ク、機鋒觸ルル處皆辟易ス、禮成リ樂奏シテ賓主歡ヒ(*ママ)、王家ノ寶典日ト赫ク(*韓之使者執玉帛、血面爭禮頑如石、公歴西階樞衣昇、軒々如霞擧屋額、腰帶紫陽太守印、眼如紫電髯如戟、按剱叱々殿柱震、使者膽竦喪其魄、撃剱歌成血吹霧、機鋒觸處皆辟易、禮成樂奏賓主歡、王家寶典與日赫)
南海自ら註して曰く、韓客公に謂つて曰く、甞て聞く貴國には撃剱の技に長ずる者多しと、今幸に一たび觀ることを得べきやと、公曰く、之を觀んとするも遽に辨じ難し〔急に準備出來ずとなり〕、吾今客の爲に其概略を説かんと、席上撃剱歌一篇を作りて以て示すと
佐久間洞巖に與ふる書に由りて之を觀れば、白石の號は深意あるにあらず、少年にして古人姜白石、黄白石、沈白石等の號を視て、以て雅稱となし、一時詩稿に題し、遂に以て別號となす、然れば之を磨して而して■(石+燐の旁:りん:雲母、ここは人名:大漢和24481)(りん)〔ヘルこと〕せず、涅(でつ−ママ)して而して緇(し)せず〔經語にて染むるも黒くならずの意〕、或は陸奥の地名に取ると言ふもの皆非なり
入貢の琉球人白石詩草を得て歸り、遂に之を清に致す、清の翰林鄭任鑰自ら寫して之が序を作る、此本復た琉球を經て日本に至り、終に白石の手に落つ、白石之を珍藏(ちんさう−ママ)す、而して序中白石を指して新堪(しんかん)となす、此れ勘堪音相近し、蓋し新井勘解由(かげゆ)を誤傳し、略して之を稱すと云ふ
白石は詩才亦天縦(てんじゆう−ママ)〔天より許されたる〕(*原文頭注錯字あり。)となす、其精工當世に敵なし、一時の遊戯に出づと雖も、其敏警を見るに足るものあり、甞て某家を過ぐ、主人容奇(ゆき)の二字を書して詩を索む、白石輙ち筆を援きて立(たちどこ)ろに就(な)す、其詩に云く
曾テ瓊鉾ヲ下シテ初テ雪ヲ試ム、紛々タル五節舞容閑ナリ、一痕ノ明月茅停(ちぬ)ノ里、幾片ノ落花滋賀ノ山、剱ヲ提ゲ膳臣虎跡ヲ尋ネ、簾ヲ捲テ清氏龍顔ニ對ス、盆梅剪リ盡シテ能ク客ヲ留メ、濟ヒ得タリ險冬無限ノ艱ヲ(*曾下瓊鉾初試雪、紛々五節舞容閑、一痕明月茅停里、幾片落花滋賀山、提剱膳臣尋虎跡、捲簾清氏對龍顔、盆梅剪盡能留客、濟得險冬無限艱)
蓋し容奇は雪字の國譯なり、故に此作皆故事を此邦に采〔取〕る
白石經世〔世を治む〕を以て任となす、故に詩工妙なりと雖も、以て人に教ふるを欲せず、門人と稱する者至りて寡(すくな)し、田鶴樓獨り詩を以て弟子と稱す、白石之と交態終始渝(*原文ルビ「かわ」は誤植。)〔變〕はらず、佐久間洞巖に與ふる書中に云く、吾故人は田鶴樓に如くはなし、中秋の月三十一年、必ず偕に之を賞す、今年も亦二子を携(*原文「携」の旁を「雋」に作る。)へて來る、詩あり云く、滿堂ノ明月中秋ノ色、歸路ノ清風十里ノ程(*滿堂明月中秋色、歸路清風十里程)(*と)
甞て鶴樓に謂つて曰く、南郭先生名譽甚だ噪(さはが)し〔嘖々高きこと〕、余が往いて一見を欲するもの年あり、然るに一旦簡任せられて内班〔幕閣の内部〕に居れば、則ち私(ひそか)に處士の許に造るを得ず、彼も亦既に名家なれば引致すべからず、故を以て今に至りて果さず、豈に遺恨ならずや(*と)、鶴樓曰く、是れ何の難(がた−ママ)きことか之あらんや、予請ふ爲に紹介して明日先生に見えしめんと、乃ち南郭を訪ひ、語るに此言を以てす、南郭大に喜び、即ち鶴樓と共に來る、白石倒屐(たうげき)迎(むかひ)入れ〔急ぎ迎ふる形容〕、遂に交を定む
白石自ら肖像に題する詩に云く
蒼顔ハ鐵ノ如ク■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)(*鬢か。)ハ銀ノ如シ、紫白稜々電人ヲ射ル、五尺ノ小身渾テ是レ膽、明時何ゾ用ヒン麒麟ニ畫クヲ(*蒼顔如鐵■如銀、紫白稜々電射人、五尺小身渾是膽、明時何用畫麒麟)
初め堀田侯に仕ふる時、僚友に小瀧某といふ者あり、毎に白石に謂つて曰く、余少時兵法を由井正雪に受く、余子の面容を觀るに、正に正雪と絶(はなは)だ相類すと
少くして大志あり、常に自ら誦して曰く、大丈夫生れて封侯〔侯伯〕を得ずんば、死して當に閻羅〔閻魔〕となるべしと、祇南海哭詩を作りて曰く、「生テ聖世(*ニ)逢ヘバ應(*ニ)恨無(*カルベ)シ、死シテ閻羅ト作ラバ爲ス有ルニ足ル(*生逢聖世應無恨、死作閻羅足有爲)」と(、)蓋し其平生の言を記すと云ふ
高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)白石が像の賛三首を作る
誰カ道フ是レ白石、■(石+燐の旁:りん:雲母、ここは人名:大漢和24481)(りん)々磨スベカラズ、誰カ道フ是レ白石ニ非ズト、磊々轉ズベカラズ、眉間ノ火字耳上ノ一毫、兩目光ヲ流シ、■(石偏+懺の旁:せん・さん・しん:後の語注を参照。:大漢和24592)■(石偏+潭の旁:たん・てん:後の語注を参照。:大漢和24484)(*「せんたん」−いなびかり・電光)一機應變縦横、然ラズバ韓客殿上爭、渠ヲシテ從容手ヲ斂メテ頭ヲ柱ニ碎ケザラシムルヲ得ンヤ(、)而(*シテ)乃チ其人ノ言ニ曰ク、日出ノ邦源大官、骨清ク氣豪ニ身桓々、胸中ノ壯畧龍虎秘シ、筆下ノ文章星斗蟠ル、謂フベシ國家ノ爪牙、萬里折衝ノ臣ナリト(*誰道是白石、■々不可磨、誰道是非白石、磊々不可轉、眉間火字耳上一毫、兩目流光、■■一機應變縦横、不然韓客殿上爭、得使渠從容斂手不碎頭柱乎(、)而乃其人之言曰、日出之邦源大官、骨清氣豪身桓々、胸中壯畧龍虎秘、筆下文章星斗蟠、可謂國家之爪牙、萬里折衝臣矣)
腰下秋水端ニ上ヨリ賜フ、身上水干攝■(竹冠+碌:大漢和に無し。)(*「摂■(竹冠+録:ろく・りょく:書籠〈書篋か〉・書物・竹に書いたもの・未来記・預言書・道家の秘文:大漢和26734)」で摂関、及びその家柄の意。)ノ贈ル所、皋比ノ上(*ニ)踞リ、日月ノ表ニ傲睨ス、口津々腹便々タリ、天下ノ樞機其間ニ參ス、誠ヲ推シテ物ニ及ヒ(*ビ)萬人ヲ拯濟ス、丹青ヲ神化シテ儀表ヲ渾成ス、將ニ百世ヲ歴(*テ)眞宰儼然奪フベカラザル者カ(*腰下秋水端從上賜、身上水干攝■所贈、踞乎皋比之上、傲睨日月之表、口津々腹便々、天下樞機參乎其間、推誠及物拯濟萬人、神化丹青渾成儀表、將歴百世而眞宰儼然不可奪者歟)
白石兄弟(けいてい)なし、唯姉妹皆早く歿す、而して集中信夫郡に到り、家兄に奉ずる詩あり、此れ白石未だ生れず、父某氏の子を養ひて子となす、後相馬侯に仕ふ、所謂家兄なるもの是なり
鳩巣文集に白石の墓記並に銘を載す、其志行履歴畧〔概〕見るべし、而して淺草報恩寺に白石の墓あり、石僅に尺餘、正面に新井源公之墓と題し、左側に惟「筑後守從五位下諱君美、年六十九、享保十年五月十九日卒」の二十四字を記するのみ
古今著書に富む、白石の如きはなし、未だ脱稿せざるものを併せて、凡そ一百六十餘種、今尚其家に存すと云ふ


室直清、字は師禮、小字は信助、鳩巣と號し、又滄浪と號す、備中の人、大府に仕ふ

鳩巣幼より文籍(ぶんせき)を嗜み、倦んで〔退屈していやになる〕息(やす)むを知らず、年甫(はじ)め十五、出でゝ加賀侯に仕ふ、一日侯命じて大學を講ぜしむるに、義理明辯なり、侯以て異器〔奇才〕となし、京師に入りて業を木下順菴に受けしむ、是より學日に益精しく、文日に益進む、木門素と俊傑〔卓絶せる人材〕多し、而して皆鳩巣の爲に席を讓る〔其下に就く〕と云ふ、正徳辛卯大府の儒員に擧げられ、遂に信任を得たり、其著す所亦少なからず、而して六經演義大意、五倫五常名義、皆旨を奉じて之を撰す
其先は備中英賀郡の人なり、故に其郷貫〔郷里の屬籍〕を擧ぐれば常に英賀と稱す、又其加賀に居る時、甞て廢屋を買ひて之に住す、因りて扁する〔扁額を掲ぐること〕に鳩巣を以てす、遂に以て別號となす、記あり文集に見ゆ
羽黒成實、字は養潜、近江の人なり、彦根に官し、後致仕して加賀に徙る、此人闇齋に學び儒行〔學者たる操行〕あり、鳩巣甞て之に師事す、其答書に曰く、清幼より學を好み、略古人の遺意を得たるものあり、見聞する所の士大夫亦頗る多し、然も義理に於ては、必ず高明〔先方を敬稱す〕の許可を得て、以て自ら信ず、文辭に於ては、則ち必ず木翁の品題を經て以て自ら足れりとす、私心自ら謂(於も)ふ、二公は天下の知己なりと、故に平生今世二公あるを以て樂となすのみ、亦遊佐木齋に答ふる書に曰く、羽翁(うおう)と一たび京師に邂逅〔會見〕し、其趣向造詣〔學殖の到達點〕を見るに、曲學淺識の徒にあらず、既にして翁弊邑に寓處し、相倶に優游其議論を上下すること今に十年、常に虚を以て往き實を得て歸る、日(き−ママ)に聞かざる所を聞きて、我の惑を解き、我の疑を辯じ、我の善を誘(いざな)ひ、我の惡を戒む、視て法を取る所あり、畏れて爲さゞる所あり、我をして放辟邪侈〔我まゝ不正の行爲〕に陷るを免れしむるもの、翁の力多しとなす、豈に古人の所謂斯人微〔無〕せば、誰と與にか歸(*原文ルビ「り」は誤植。)せんといふもの歟、又祭文を作りて曰く、始め吾公を京師に見る、尋いで又北陸に來辱す、爾來議論を上下し〔鬪なり〕、往復切磋〔研究〕、忠告善導、一に道義を以て相期す、而して不肖弱質、公に頼りて勉強以て學に進むもの、茲に十有七年云々、嗚呼公乎、遂に吾を棄てゝ死するか、今より以徃惑あらば、誰か之が爲に辯ぜん、而して過あらば誰か之が爲に規〔匡正〕せん、之を瞽にして相(しやう)〔瞽の手引〕なしと謂ふ、悵々乎として其れ何(いづく)にか之かん
鳩巣は■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)苑の徒と互に相輕ず、金華一日來りて鳩巣を見、其得意の文一篇を出して之に示し、且つ刪正(さんせい)〔添削〕を求む、鳩巣一過〔一讀〕して善と稱す、金華彊ひて正を乞ふ、乃ち二十字を削り、更に五字を益す、金華喜ばずして去る、翌日に至り、之を南郭に質すに、南郭決する能はず、又諸を徂徠に質す、徂徠は鳩巣が竄改〔筆刪〕せし所を視て曰く、此の如くにして而後文を成すと、是に於て其徒始めて鳩巣を重ず
赤穗遺臣の一大擧(たいきよ−ママ)、鳩巣獨り之を稱贊し、紀して義人録と云ふ、又鈴木貞齋に答ふる書に曰く、赤穗義士の事、儒者の論に異同あるもの、亦其學工夫〔講究すること〕を缺き、自家惻隱の心〔他を憐み痛む心〕を認めざるに由る、誠に來書論ずる所の如し、敬服すと、今に至り、世皆義士を以て之を目するもの、蓋し鳩巣より始まる
鳩巣朱學を墨守〔固執〕し、深く當世の好んで異議を立つる者を惡む、鈴木貞齋に答ふる書に曰く(、)僕嚮に以爲く、山崎氏の學、一理に專(もつぱら)にして分殊に略なり、君臣の大義あるを知りて、湯武の放伐〔君を征伐し放逐すること〕と、君臣の義と並び行はれて相悖らざる〔悖は背戻〕を知らず、敬義に内外の分あるを知りて、修身以上を以て敬となし、以て内を直くし、齊家〔整家〕以下を以て義となし、以て外(ほか)を方にするを知らず、是れ其大なるものなり、其他見る所多く一理を執定して分殊を察せず、神道に流(*原文「な」は誤植。)る所以なりと、然も今にして之を思ふに、其理一なるものは義理の一隅〔片スミにて全局ならざること〕を守るなり、本源一理の處に於て、見る所未だ徹せず、故に往々窒礙(ちつげ)する〔障りて通ぜざるの意〕所あり、而して其所見を以て之を一にせんと欲す、是れ其分殊に略なるもの、理一に暗きが故なり(*と)、又高木氏の僞學論に題して曰く、古より邪説の道を害する多し、然も其誕妄(たんばう)〔虚妄〕■(鹿3つ:そ・ぞ:離れる・遠ざかる・粗い:大漢和47716)惡(そあく)〔粗惡〕にして忌憚(きだん−ママ)する所なきもの、未だ今世の甚(*原文ルビ「はなは」は一字脱。)しきが如きはあらず、或は古學と稱するものあり、曰く大學は孔氏の遺書にあらずと、又曰く吾能く伊洛の淵源〔本源〕を塞ぐと、或は文學に矜(ほこ)〔誇〕る者あり、曰く道は天に出でず、又曰く、道は事物當然の理にあらずと、其他淫辭浮言、勝げて數ふべからず、若し此等の説をして數十年の前(まい−ママ)に出でしめば、庸人〔凡人〕孺子〔兒童〕と雖も、亦其妄(ばう)を知りて之を非笑せん、今や然らず、世の師儒と稱する者より、皆之が爲に動かされ、其説を崇(たつと)びて之を信ぜざるはなし、況んや後學晩進者に於てをや、宜べなるかな其靡然(ひぜん−ママ)〔ナビク貌〕趨(わし)り〔奔走〕て之に歸することや、吾是に於て知る世道(せいだう)の日に下り、人心の日に僞るを、亦悲むべし、中村氏五經筆記の序に曰く、奈何んぞ近世邪誕の説競起り、漢唐を凌駕し〔乘越して其上に出づる〕、程朱を詆毀し〔ソシル〕、一己の私見を以て、天下の耳目(*原文ルビ「じも」は一字脱。)を誣ゐんと欲す、有識の士をして之が爲に憤■(立心偏+宛:えん・わん:嘆く・意気が衰える:大漢和10771)(ふんえん)し、寢と食とを廢せしむるに至る、勝げて歎す(*ママ)べけんや、又遊佐木齋に答ふる書に云く、若し王者(わうしや−ママ)〔王道を行ふ君〕起るあらば、必ず海内の籍を聚め、悉く其叢雜無用の書を取りて之を火(くわ)にし、然後天下の學者に詔(みことのり)し、專ら體察踐行〔實地に就きて躬行すること〕を務め、空言を事とせず、虚文を抑へ、浮華を剥(は)ぎ人心を正し、邪説を距(ふ)〔距は拒に通ず〕がん、是の如きこと數年ならば、則ち天下靡然として正に歸せん
鳩巣葬地を江戸大塚筑波山後に賜はる、是れ寺地にあらず、是より後官儒多くは葬地を此に賜はる、鳩巣の墓四面の一小碑あり、前面唯「鳩巣先生之墓」の七字を題するのみ


三宅重固、小字は儀左衞門、後丹治と更め、尚齋と號す、播磨の人

尚齋の父重直人の後となり、平出氏を冐す、尚齋幼時其姓に從ひ、剃髪して醫術を學ぶ、父之を命ずるなり、年十六にして父を喪ふ、十九にして闇齋の門に入り、專ら儒學〔儒者の道〕を収む、是に於て髪を種(う)え(*ママ)、始めて三宅に復姓す、後江戸に來り、經席〔經書の講義〕を開き、人の師となる、遂に阿部侯の辟に應(おほ−ママ)(*おう)ず、元禄中大君〔將軍〕侯の邸に臨み、尚齋に命じて論語を講ぜしむ、乃ち衣服の賜あり
尚齋の闇齋に學ぶもの三年、闇齋世に即(つ)ぐ〔即世は死亡〕、乃ち佐藤直方、淺見絅齋の二子に折衷す〔二者の長所を採る〕、二子友誼を以て之を待つ、互に相切■(靡+立刀:び:削る:大漢和2281)(せつひ−ママ)し〔互に勵みて業を磨く〕、遂に共に山崎門三傑の聲(せい)を得たりと云ふ
尚齋官に就きて忠直、務めて其誠を盡す、居る十年言の行はれざるを以て、疾を移して致仕を乞ふ、允されず、猶數乞ひて止まず、是を以て罪を獲、寛永丁亥忍(おし)に幽囚せらる、友人三輪執齋、細井廣澤等之を憫み、爲に宥(ゆう)を請ふも得る能はず、越えて三年、赦に會ふて放〔釋〕たる、是に於て去りて京師に之き、儒を以て業となす、晩に私に大小學校に傚ひ、培根達支(ばいこんたつし)の兩堂を勘解坊(かげゆぼう)(*原文「由」字を欠く。)に建つ、尚齋氣象豪爽〔磊落小事に拘はらず〕、其囹圄〔牢獄〕に在るや、危難窘迫(きんはく)の際、之に處して裕如たり、乃ち謂ふ古人刑せられて尚能く書を著す、吾寧(なん)ぞ無爲にして斃(たふ)るゝを待たんやと、然も筆墨得べからず、因りて臂(ひぢ)を刺して狼■(嚔の旁:ち・し:躓く・倒れる:大漢和22006)録(らうちろく)三卷を血書す、其中(うち)の祭祀來格説一卷は門人山宮仲淵上梓す、近時吾友山田思叔再び之を校刻す
尚齋の獄に在るや、侯人を遣して之を察せしむ、尚齋即ち詩を作りて之に示して曰く、

富貴壽夭心ヲ二ニセズ、但面前ニ向テ誠心ヲ養フ、四十餘年何事ヲ學ブ、笑テ獄中ニ坐ス鐵石ノ心(*富貴壽夭不二心、但向面前養誠心、四十餘年學何事、笑坐獄中鐵石心)
尚齋削籍せらるゝ〔藩籍を除かる〕の後、書を京師に講ず、縉紳〔公卿〕列侯の從游する者甚だ多し、土佐侯請ひて師となす、乃ち招がれて江戸に來り、居る僅に半朞(はんき)〔半年〕其大夫山内矩重(のりしげ)(*原文「短重」とあり。誤植か。)卒す、此人は尚齋の知己なり、是に於て辭して京師に歸る、晩年復た江戸に來る、時に舊君阿部侯延きて之を見、往事〔過去の事〕(*原文頭注には「徃事」と書く。)を言ひて、其忠直を歎ず
尚齋は直方と交義最も善し、而して議論未だ必ずしも同じからず、毎に曰く、直方が四十六士論は人をして其至誠惻怛(そくだつ)〔同情の意〕の心を消滅せしむと
尚齋固く朱説を守り、深く己(*原文「已」は誤植。)に異なる者を疾(にく)む、而して三宅石菴、三輪執齋、玉木葦齋と相友たり、唯其舊交絶つに忍びずと云ふ、石菴は陸象山を信じ、執齋は王陽明を喜び、葦齋は神道を奉ず、石菴執齋其が爲に論刺〔駁撃〕(*原文頭注「論判」と書く。)せられて、尚且つ毎に尚齋を稱して、温厚の長者となす
一嫗あり野狐の爲に斃(たふ)さる、其邑正〔庄屋村長〕幸助といふ者、尚齋が姪なり、尚齋之を責めて曰く、若何ぞ爲に闔郷(かうきやう)の狐を驅りて盡く之を殺さゞると、是に於て幸助弓弩羅絡〔網繩の類〕を備へ、詰朝將に壯丁を率ゐて遍く叢窟を探らんとす、而して夜半窓に呼ぶを聞く、曰く惡狐既に河上に斃ると、即ち人を遣して之を見せしむれば、果して死狐あり、蓋し衆狐之を■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃(ばいげぎ−ママ)〔打撲〕し、以て其冤を免れたるなり、尚齋屠者をして其皮を剥がしめ、常に其上に坐し、時々之を鞭(むちう)ちて曰く、毛獣奈何ぞ萬物の靈を害するやと
尚齋歿後、門人久米訂齋、多田東溪、石田塞軒等、相議して曰く、先師〔亡くなりたる先生〕不幸にして後なし、吾輩偉業を守り、生徒に授くると雖も、世々今日の如きを保つ〔維持〕能はず、師の神主(しんしゆ)〔儒禮の位牌〕及び狼■(嚔の旁:ち・し:躓く・倒れる:大漢和22006)録(らうちろく)は、若かず之を■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)(うづ)〔葬〕めて他日人の爲めに汚(け)かさるゝなきにはと、留守退藏亦其座に列し、獨り以て是となさず、然も衆議遂に决す、乃ち新黒谷光明寺尚齋の墓側に■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)(うづ)む、明日寺僧來り報じて曰く、昨夜盜あり墓を發(あば)く、衲(なう)〔僧の自稱〕適ま見て之を尤(とが)むれば、則ち劍を拔きて恐喝す、衲辟易し〔怖れ避く〕、彼れ遂に意を恣にして〔思ふ通りに遣る〕去る、知らず墓中に何の財貨ありて此厄を致すやを、訂齋額を蹙(ちゞ)めて曰く(、)吁此れ必ず留守退藏の所爲ならんと、即ち往きて之を視れば、則ち果して神主狼■(嚔の旁:ち・し:躓く・倒れる:大漢和22006)録(らうちろく)を失ふ
尚齋田代氏を娶り、一男三女を擧ぐ、男重徳英敏にして學を好む、年三十先(さきだ)ちて卒(そつ)す、女其一は門人訂齋に適〔嫁〕す、訂齋も亦經藝を以て名あり


三宅正名、字は實父、石菴と號し、又萬年と號す、平安の人

石菴少くして學に耽(ふけ)り、家道を視ず、是に由りて産遂に蕩盡す、乃ち家什〔家財道具〕を斥賣(せきばい)〔賣却〕して以て舊債を償(つくな−ママ)ふ、餘す所僅に數金のみ、弟(てい)觀瀾に謂つて曰く、今貧極まると雖も、短褐蔬食せば、以て數年を支ふべしと、鑚堅(せんけん−ママ)〔堅きをキルにて力學のこと〕の志愈厚く、環堵(くわんと)〔壁立と同じく何物もなき貧屋〕の室、几に對して講習し、共に寝食を忘るゝに至る、何もなく窮亦極まる、是に於て兄弟相携へて江戸に來り、教授して給を取る、居る數年、石菴獨り京師に歸り、尋いて(*ママ)大阪に至る、時に名聲翹然〔揚る貌〕として起り、弟子雲集す、中井甃菴等、相謀り之を官に請ひ、庠校(しやうこう)〔学校〕を建て、懷徳堂と名く、衆皆石菴を推して之に主たらしむ、固辭すれども可かず、遂に祭酒〔校長〕の事を領す、後中井氏之を嗣ぎ、今に至りて衰へず
石菴書に工にして頗る顔法〔顔眞卿の法〕を得たり、隻字〔一字〕も人爭ひて之を求む、而して資質朴素、其書する所未だ曾て■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)印(くわんいん)せず〔落款せずにて書に印を捺さゞること〕(*原文頭注「款印」を記す。また、「捺さるゝ」とあるが、誤植。)、又和歌及び俳諧に通ぜり
香川大沖曰く、世石菴を呼んで鵺(ぬい−ママ)學問と爲す、此れ其首は朱子、尾は陽明、而して聲は仁齋に似たるを謂ふなり


三宅緝明、字は用晦、小字は九十郎、觀瀾と號す、石菴の弟、平安の人、大府に仕ふ

觀瀾始め淺見絅齋を師とし、後木下順菴に從ふ、甞て楠氏の墓を拜するの文を作る、鵜飼金平采りて水戸義公に上る、公見て歎稱し、召して國史編修總裁となす、正徳壬辰年三十八、白石の薦(すゝめ)に因りて大府の登用に逢ふ、梁蛻巖が祭文(さいぶん)に曰く、文章典雅、賁(かざ)る〔飾る〕に藻采黼黻(ほふつ)〔織物の模様、轉じて華麗の形容〕(*原文頭注「識物」とするのは誤植。)を以てす、楠子の碑陰に書するは、少時の作に出づと雖も、既に以て養ふ所の深粹にして、志氣精采の欝勃〔茂〕を見るに足れり、宜なるかな早く水府に譽(ほまれ)ありて、史筆の冕鉞(べんえつ)を司ることや、館僚安積栗山の二子、材識(さいしき)ありて博物なり、且つ尚退舍し〔歩を讓るといふが如し〕、英華(えいくわ)をして擅(ほしいまゝ)に發せしむと
正徳辛卯韓使來聘す、儒者其館中に就きて、唱酬〔詩を作り(*ママ)たり和したりすること〕をなす者甚だ多し、七家唱和集蓋し之が最たり、而して多く詩を以てし、文を以てせず、其間文あるも亦皆平々たるのみ、詩は高玄岱が三百九十韻、室鳩巣が二百二十韻、祇南海が百五十韻の如き、大作才料ありと雖も、要は無益の長語のみ、何ぞ必ずしも自ら誇張する〔自慢してホコル〕に足らんや、獨り觀瀾群を出で、專ら經義を論議し、古今を商■(木偏+確の旁:かく:丸木橋・専売する・取引する:大漢和15283)(しやうかく)す〔上下して論議すること〕、此に撮録して其辯博力あるを見(しめ)さん、嚴書記を送る序に曰く

明に至り薜文清丘文莊あり、其精神輝光、以て一字を皷振(こしん)し百世を潤化する能はずと雖も、然も識の卓、守の約、信の厚、由の正、一に皆淵源する所あり、夫の■(人偏+占:てん・せん:見る・窺う・物のさま・久しく立つ・占める:大漢和510)■(口偏+占:しょう・ちょう・てん:なめる・ささやく・しゃべる・小さい:大漢和3446)(せんひつ−ママ)〔音讀〕訓詁〔字義の解釋〕の末を事とし、簡■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)(*捷)(かんしやう)虚誕の域に淪〔沈〕るものと■(人偏+牟:ぼう・む・ひとしい:等しい:大漢和597)(ひと)しから〔均等〕ず、蓋し萬にして一を得云々、明人甞て貴境の文を論ずるものあり、其意倨然〔傲然〕中華を以て自ら處(お)り、隨ひて其學をなす所を訂(たゞ)すに及びては、則ち釋を尚(たつと)び老を雜〔交〕い(*ママ)、刻意琢句、沾々(てん\/)〔嬉しがる形容〕喜びて才子を以て標榜を相爲し、復た古聖賢の大法要道屬して外に在るを知らず、此れ華にして夷に變ずと謂ふも可なり、而して擧世■(人偏+長:ちょう・そう:狂う・迷う:大漢和742)々(ちやう\/)〔迷ふ貌〕、唯名之れ殉(とな)ひ、景仰(けいきやう)慕傚(ぼかう)(*原文ルビ「ばかう」は誤植。)〔シタイ眞似る〕して置かず、父兄子弟亦皆是を以て督して之に趨(わし)る、今にして孔孟程朱再び起らば、復た將に其言の流弊此に至るを悔ゐ(*ママ)且つ怨む、之れ遑あらざらんとす、宜なるかな能く其意を知り其全を體する〔我身に引付けて守る〕者、絶えて無くして僅に有ることや
嚴が復書に曰く、
明興り程篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)、陳白沙、王陽明の諸人(しよにん)ありと雖も、間々駁雜の病(へい)あり、亦偏係(へんけい)〔カタヨル〕の失多し、而して文清の學は純實無僞、博洽(はくかふ)多聞の如きに至りては、肯て此を以て巨擘となして可ならんか、所謂丘濬(*きゅうしゅん)なるもの學をなす詭異〔正道に反す〕、論を立つる謬戻(びやうれい−ママ)〔アヤマリモトル〕、岳飛を以て未だ必ずしも恢復せず〔中原を回復せざるの意〕となし、秦檜を稱して宋の忠臣となす、意見此の如し、其他知るべし、此れ辯ぜざるを得ず(中略)明人云々の説、誠に一哂(せい−ママ)(*しん)〔一笑〕に滿たず、我國は殷大師が教を設けしより後、國俗一變し、士趨〔士の趨向〕正に歸し、我聖朝開剏の後より尤も大なるものあり、文物彬々〔盛なる貌〕として洪猷〔宏謨〕を賁飾し、三尺の童子(だうし)と雖も、皆王を貴び覇を賎み、儒を崇び佛を斥くるを知る、釋を尚び老を雜い(*ママ)、大道を知らずと云ふもの、豈に乖戻〔背反すること〕の甚しきものにあらずや
觀瀾の復書に云く
來簡に云く、文清は巨擘となす可(か)ならん乎、と(、)此段前後の語脈〔文辭の脈絡〕領會を得難し、其れ薜氏を以て尚ぶべしとなすか、則ち正に鄙意と合す、以て尚ぶに足らずとなすか、則ち趣く所大に異なり、宜く措きて論ずることなかるべし、丘文莊が岳飛を以て未だ必ずしも恢復せずとなすは、是れ時勢に於て各見る所あり、始より道義心術〔心事〕の累をなさず、況んや金兵の強、宋に比すれば十倍し、勝敗の跡未だ猝(にわか)〔遽〕に書生紙上の語を以て斷じ易からざるに於てをや、其秦檜を以て宋の忠臣となすは、則ち此老高奇を好み、衆論を矯むる〔曲を直す〕の弊然るのみ、然も夷夏(ゐか)〔夷狄と中華〕を辯じ、内外を正すは、其終身精力を用ふる所、正に此に在り、一部の宋史正綱昭然〔明々〕見るべし、豈に冠を裂き〔衣冠の禮を棄てゝは金人に臣事す〕冕を毀ち、金虜に臣と稱するを以て、是となす者ならんや、特(こと)に其造詣の深淺、識趣〔識見趨向〕の高卑、固より文清に及ばざるあり、而して由の正と信の厚とは、蓋し亦宋明(しゆみん−ママ)一代の得易き所にあらず、且つ夫れ學脈を訂(たゞ)して先輩を論ずるは、自ら當に體あるべし、乃ち高徳偉績、王守仁の如きも、苟も門路に於て、乖馳〔背馳〕する所あれば、則ち之を棄てゝ顧みざるべし、而して文莊の學の正の如き、豈に卒然〔遽に輕々しく〕其小疵を摘(つま)み、其大醇〔純粹〕を遺(わす)るべけんや、而して衍義の補、學的の編、亦豈に以て詭異謬戻として論ずべけんや、云々、前文云ふ所、明人貴國の文を論ずるもの、王世貞を指す、語其集に見ゆ、而して所謂釋を尚び老を雜ゆ、亦以て王世貞を批す、來簡未だ鄙意〔我意の謙遜〕を悉(つく)さゞるに似たり、請ふ更(*原文ルビ「さち」は誤植。)に審にせよ
南聖重(韓人)觀瀾が示す所の韻に和して曰く
水ヲ觀レバ必(*ズ)瀾ヲ觀ル、君應(*ニ)是ニ取ルベシ、徒ニ汪々ノ波ニ非ズ、更ニ洋々ノ美ヲ歎ズ(*觀水必觀瀾、君應取於是、非徒汪々波、更歎洋々美)
觀瀾年壽を得ず、著書あるも亦多く世に布〔弘〕かず、是を以て今に至るも名寥々聞ゆること少し、然も其學術文章、當世有名の士と並稱せらる、物徂徠が竹春庵に與ふるの書、藪震庵の文を稱して曰く、宋人の文に習ふ、其結撰〔作成〕する所を視るに、東涯觀瀾の上に出でず(*と)、又雨芳洲が橘窓茶話に曰く、觀瀾、鳩巣、東涯、徂徠は如何、曰く此數人は盛名雷轟(らいくわう−ママ)す〔大に鳴る〕、何ぞ曹丘生を待たんやと、又蛻巖が文柄(ぶんへい)を桂彩巖に贈るに曰く、物徂徠老いたり、弩縞(どかう)に入る能はず〔弩の末弱はりて魯縞(薄布)を貫かずとなり〕、天又滕煥圖を奪ふ、左右の手を失(*原文ルビ「すしな」は誤植。)ふが如し、室鳩巣は醇乎たる古先生のみ、澹泊〔慾淺き〕自ら守りて鬪心なし、宅觀瀾は幟(はた)を駿臺に竪(た)て、堂々正々の威、殆ど牛門〔徂徠が牛込に居るより云ふ〕をして關を塞ぎて敢て東馬に飮(みずか)はざらしむ〔飮馬は故事にて出でざるの意〕、不幸にして星隕つ〔死す〕、勝げて歎ずべけんや(*と)


佐藤廣義、小字は勘平、周軒と號す、晩に塵也と號す、江戸の人、巖村侯に仕ふ

周軒家世々武を以て顯はる、高祖佐藤信清、小字は新九郎、織田右府に仕へて戰功あり、周軒に至りて始めて文を好み、後藤松軒に學ぶ、少小より其志節を堅くし、甞て■(萌+立刀:大漢和に無し。)■(糸偏+侯:こう・く:つか・姓:大漢和27684)(くわいこう)〔故事、粗末なる剱にて書生の支度〕京に遊ぶ、便道伏見を過ぎ、伯母(はくぼ)を省みる、伯母は田光氏の母なり、家頗る富む、周軒が至るを喜び、且つ篤志に感じ、金百兩を出して之に贈りて曰く、若此を以て學資となせよと、周軒辭して受けず、伯母曰く、勿れ〔辭すること勿れの略〕、我子放蕩にして寢(や)〔稍〕や將に産を傾けんとす、其濫費して以て燕樂(えんらく)〔酒宴〕に供せんよりは、寧ろ若に與へて以て善をなすの用に充つるに如かずと、周軒益辭して曰く、一家の主人業(すで)に已に此の如し、安ぞ別に儲(*原文ルビ「たく」は一字脱。)ふる所あり、以て不虞に備へざるを得んや、余は一介の書生のみ、貲(し)〔資〕なきは素と分のみ〔當然の事〕、但(たゞ)大母の惠は其賜(たまもの)を拜するや多しと、遂に一金も受けずして去る
柳澤侯新に侯に封(ほう)ぜられ〔新に大名となる〕、廣く名士を招ぐ、乃ち秩三百石を以て周軒を聘す、周軒應(おほ−ママ)(*おう)ぜず、盖し其仕苟もせざるものあるを以てなり、何(いくばく)もなく松軒の薦(すい−ママ)に因り、小室侯に褐を釋く、俸二十口を支給せらるゝのみ、小室は即ち今の巖村侯の舊封なり
周軒人となり嚴毅〔剛正〕廉直〔潔白にして貪らざること〕(*原文頭注「貧」は誤植。)、初め儒を以て仕へ、後世子に傅〔御守役〕たり、世子の動作擧止〔進退〕、悉く規するに正道を以てす、世子甞て齋南(さいなん)に就きて一■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)(いつそう)を鑿(うが)たん〔開〕と欲す、周軒肯んせ(*ママ)ずして曰く、是れ易事(いじ)のみ、然り而して世子たる者、凡百當に父侯の與ふる所を愼守すべし、別に嗜好あるべからず、今年少なれば安を問ひ〔機嫌を尋ぬる〕膳を視るは論なく、方に且つ學を講じ武を演ずるに、旦夕之れ暇あらず、而して心を無益に馳す、或は遂に土木園地(*池か。)の好(このみ)を啓く〔好を啓くは心を生ずるなり〕なからんや、故に事易しと雖も、臣敢て命を奉ぜず、世子悚然(しようぜん)として〔恐れ愼む貌〕曰く、卿が言是なり、請ふ之を守らんと
周軒六輻輪(ふくりん)を以て標識〔紋〕となす、世子少時夜邸内を微行し、遙に六輻輪の提燈(ていとう)の來るを望めば、輙ち曰く、合怕老(がふはくらう)〔恐ろしき翁〕來る、盍ぞ避去らざると、疾走して舘(くわん)に入る
世子の立つ一年、左右少年を聚めて、嬉戯度なし〔無規律なること〕、屡諫むれども聽かれず、遂に職を辭せんと乞ふ、老臣之を白す、侯瞿然として〔驚き自覺す〕曰く、吾過てり、吾過てり、吾頑童に昵(むつ)みて〔親近〕耆徳(きとく)〔年老いて徳ある人〕を遠(とほざ)く、此れ彼が辭せんと欲する所以なり、吾將に過を改めんとす、卿等盍ぞ我が爲に之を言はざる、既にして侯懲艾(*原文ルビ「らやうかい」は誤植。)し、徳を修め勵精治を圖る、乃ち大に周軒を用ひ、擢んでて老職に陞(のぼ)し、禄を増して三百餘石に至る、是時巖村の政(まつりごと)、嚴に紀綱(きがう−ママ)を立て、淳(あつ)〔厚〕(*原文頭注「渟」は誤植。)く信義を守り、小大の事、必ず衆と議す、智者獨り專にするを得ず、愚者も過を寡くすることを得たり、是を以て吏姦慝〔惡事をすること〕なく、民盜賊なし、風俗淳樸(*原文ルビ「じゆんばく」は誤植。)、上下和輯(わしう)し〔中(*ママ)善きこと〕、侯(*原文「候」は誤植。)晉(すゝ)んで閣老に拜せられ、一時に輿稱あるは實に周軒與りて力ありと云ふ
侯の妾冢子(てうし)〔長子にて嗣子〕を擧ぐ、妾を賀する者皆其侯家に母たるの重きを以てす、獨り周軒内に入り、毅然〔嚴然〕として色を正して曰く、爾今より後、子あるを恃んで驕肆(けうし)なる勿れ、侯家の禍福茲(こゝ)に在り、爾の禍福も亦茲に在りと、坐に在る者悚然容を改む
周軒濂洛の學を奉じ、篤く其師説を信ず、故に頗る闇齋の徒と趣を異にす、甞て家禮に原本し、本邦の祭儀を創(はじ)む、侯家今尚之を遵用す〔遵守して襲用す〕と云ふ
周軒力學實用を主とし、虚文に■(矛+攵+馬:ぶ・む:馳せる・勉める:大漢和44845)(は)〔馳〕せず、是を以て人其儒たるを知らず、然も其著す所四書小學參考各若干卷あり、皆家に藏す、周軒が家今に至るまで數世、食禄相襲ふ、曾孫坦字は大道、一齋と號す、別に一家を成(*原文ルビ「か」は誤植。)す、今碩儒〔大儒〕を以て推さる、蓋し皆周軒が積善の餘なり


高天い佐藤直方浅見絅斎森儼塾安積澹泊新井白石室鳩巣三宅尚斎三宅石庵三宅観瀾佐藤周軒

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凡例
( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き
[ ] 参照書()との異同
 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10)
・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。
 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25)
・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。