トラバンド

Music by IKO-IKO


 無事、横浜西口のキャバレーで筆、ではなく、やはり指おろしなのであろうか、とにかくハコ仕事デビューを果たした数日後、早くも次の仕事の依頼が来るのである。その日の楽屋で、ひょっとしたら仕事頼むかも知れないから、と電話番号を聞かれたアルト吹きからである。

 場所は関内駅西側のキャバレー。ギルバート=サリバンのオペレッタのタイトルにもなっている有名店の系列である(^^; なんでもここのハコのトラバンドをそのアルト吹きがバンマスとしてやっているそうであった。

 ここでバンドマン界の基本的法則について、確認しておく。水が高いところから低いところに流れるのとは逆に、バンドマンはギャラが低いところから高いところに流れるのだ。例えばハコのレギュラーでやっているバンドマンに、コンサートのバックの仕事が舞い込むとする。だいたいの場合、ハコ仕事よりもギャラは高い。となると、ハコ仕事の日割りのギャラとその単発仕事との差額の範囲でトラを入れれば、なにがしかは余計に稼ぐことが出来るのである。その単発仕事は、他の割の良いトラの場合ももちろんある。それによって、ギャラの高いハコ仕事への足がかりを得る場合もある。当然、冠婚葬祭や本人の病気(逮捕拘留などもあるだろう)などよんどころのない事情の場合もあるが、そんなのは、まあ希な話である。

 個人単位ばかりではなく、これはバンド単位でも行われる。それがトラバンドで、最近にわかに人気の出た車のことではありません。

 このトラの導入というのも、なかなか簡単には行かず、入れたトラが思いっ切り下手だったりすると、入れた本人の責任となる訳で、引責辞任させられたりもする。その上、技量はともかく、自分より少なくともギャラが安くないと、何のために入れるのか判らない。

 また、自分より巧くて、しかもギャラが安いというのが表沙汰になると、そのハコ仕事を獲られたりするのだ。なかなか厳しい世界なのである。

 とにかく、そのトラバンドの仕事が舞い込み、それから1年以上、そのバンドで仕事をしたのである。

 その関内のキャバレーは、長方形のビルの3階にあり、片側の短辺に1m弱のステージがあった。まるで国営放送ののど自慢で使われる中学校の体育館である。演台の代わりにバンドスタンド、パイプ椅子の代わりにソファーがあり、ステージとソファーの間にダンススペースがあるという、考えようによっては、いささかつまらない造りのハコであった。

 デビューを果たした横浜西口の方は、扇形で一見劇場風であり、何より嬉しいのは、楽屋とホステスさんの控え室が同じであったことである。

 こちらの楽屋は、ステージの裏が幅1間の楽屋になっており、同じ長さだけあるという、それこそ中学校の体育館の物置と同じであった。

 入りは18時40分。すぐにステージに上り40分のセット。それからコーラスバンドとチェンジして、セカンド、サードセットのショータイムの打合せ、30〜40分ずつのセットの間はその打合せ以外は自由時間である。4回目のセットはバンドのみで、それが終わると駅までダッシュして、京浜東北線の終電に飛び込むのだ。

 最初のセットの時は、まず客はいない。ステージから見て一番奥のブースにおねえさん方が陣取り、こちらを見ながらタバコを吹かしているところへ登場するのである。

 実はこの時が一番緊張したりする。客が入ってしまうと、まず音楽、特に伴奏の良し悪しなんてのは、どうでも良い訳であるが、この時は、ちゃんと聴き手がいるのだ。

 まずは手馴れた曲から、ウォーミングアップ。軽めのスイング系ですね。トラ・バンドなのでレパートリーはそれほどなく、最初のセットの前に一束渡される。

 何曲かやって、楽器も暖まった頃、もし運よくお客がいないと、ちょっとハードな曲をやることもある。あるいは、コンボでごりごりの4ビートをやる。正直なところ、「ジャズ」と胸を張って言えるのは、この時だけである。

 ある時、どこからかバンマスがブレッカー・ブラザースの譜面を手に入れてきて、これをやってみようということになった。けっこう難しい曲、しかも初見である。その日のメンバーも(とのトラバンドでは)最強だったせいか、我ながらなかなか良い演奏をしちゃったのだ。そうしたら、ちゃんと客席から、拍手が聞えたのだ。これは嬉しかったなあ。生涯に貰った拍手の中でも、最も嬉しかったものである。

 当然、うまく行く時ばかりではない。その時はバンマスがトシコ=タバキンの「Tunin' Up」の譜面を持ってきた。これ、実にカッコいい曲なのである。が、しかし、トシコ=タバキンは世界でもリハーサル量の最も多い楽団であり、あくまでもその楽団の「Tunin' Up」なのである。リハ無しのトラバンドの歯が立つような代物ではない。曲の体裁をなしていたのは、おそらく30小節ぐらいであったろう。ブーイングこそ飛ばなかったものの、生涯に受けた中でも、最も冷たい視線であった。

 だいたいファースト・セットが終わった時点で、客がちらほら入っていることが多い。

 コーラスバンドとワルツを弾きながら、チェンジをする。コーラスバンドというのは、早い話が「内山田洋とクールファイブ」のようなバンドである。揃いのスーツにポマード頭の5人編成というのがデフォルトであろう。

 まずアルトが、その晩の気分により「Tennessee Waltz」や「Tenderly」、あるいは「鈴懸の径」などを吹き始め、それに合わせて伴奏をつけ、一人一人入れ替わるのである。これの譜面はない。

 ステージから降りると、その日のショーの主役が待ちかまえている。ショーは毎日異なり、月ごとの予定表もあるのではあるが、そういうのをマメにチェックするようなバンドマンは皆無なので、楽譜を渡され、その人たちの風体によって、初めて今日は演歌なのかあ、とか、おおレビューなのかあ、と知るのである。

 私が経験したものは、演歌、ポップス、物まね、マジック、レビューダンス、ストリップなどである。

 各パートの譜面が配られ、鉛筆を持って集まる。譜面は演奏する順番に重ねられており、それぞれの曲のテンポ、あるいはカウント出しなどの打合せる。必要に応じて、譜面に鉛筆で書き込むのであるが、だいたいすでに書き込まれている。それをチェックして、「お願いします」でとりあえず解散である。それほど時間が残ってないとそのまま楽屋でくすぶるが、裏の喫茶店に行くこともある。

 セカンド・セットの時の入れ換えも、ワルツ・チェンジである。後は打合せにしたがって、演奏開始。

 一番楽なのは、言うまでもなく演歌である。素のまんまコードを弾いていればよい。演歌でピアノ・ソロなんてのも、イントロぐらいにしかないのである。

 それに対して、なかなか侮れないのが、ストリップを含むダンス系だ。曲と曲の繋ぎに気を使うし、派手めの曲も多く、裏から眺めていれば良いという訳には行かないし、踊り子さんの引っ込むタイミングを外せないので、一番良いところはだいたい譜面とバンマスのキュー出しとにらめっこである。

 マジックは、キューに合わせるだけが勝負で、それほど汗をかくような曲はない。

 いずれにせよ、ピアニストというのは重要な役回りが巡ってくることは少ない。しかし、たまにあるのがいわゆるCメロである。これはハ調で書かれたパートで、その昔はその名もCメロディー・サックスという楽器があったのだが、すでに絶滅しており、バンドマン歴の長いサックス吹きが変ロや変ホに即座に移調しながら吹いていることが多かった。そのような気のきいたサックス吹きがいない場合、ギターかフルートに振られることが多いのであるが、たまたまその人材に窮すると、ピアノにお鉢が回るのである。

 だいたいハコにあるピアノで、まともなものは皆無に等しい。調律なんかしてないだけなら、まだ良い方で、ひどいところになると、出ないキーが数個あったりする。その上、よく使うキーほど、音が出なくなるのである。つまりCメロの一番いいところの音が出なかったりするのだ。

 ただでさえ、管のために書かれたメロディーをピアノで歌うのは難しい上に、音が出ない、これは致命的である。

 要領がよくなると、その音の有無を事前にチェックし、ある場合はそのちょっと前から、オクターブで重ねるという布石を打っておく。そんな時、鉛筆が役に立つのだ。

 ピアノの話が出たついでに書くが、調律が狂っている場合、もっと悲惨なことになる可能性もある。コーラスバンドの持ち込んだキーボードとハコのピアノが合っていないケースだ。これは全部が全部、ハコのピアノの調律がなってないのに原因があるのである。ぴったり合うことはまずないし、最悪ではクォータートーンぐらいずれている。

 当然、ハコバンドはそのピアノに、コーラスバンドはそのキーボードに合わせるので、チェンジの時にその事実が露呈されるのだ。キーボードが電子楽器であれば、その微調整が効くのだが、運悪くフェンダーのローズだったりするとお手上げである。ワルツを短めに、素早く入れ替わるしかない。

 セカンドセットが終わって、ようやくメシにありつける。もちろん自腹である。中には演奏上不可欠な発酵糖分を補給しなきゃならないラッパ吹き(補給しないと、ヴィブラートがかかり過ぎる)、などもいるのであるが、私は発酵関係は仕事の時には飲まなかった。これは仕事中は飲まないなどという立派な考えからではなく、単に顔にすぐ出るという生理的な理由である。

 サードセットはだいたいにおいて演奏を楽しめる。1回目よりは2回目の方が気楽であるし、様子が判っているからだ。しかし、私に限らず案外大ぽかをやるのも、このセットである。

 ドラマーが調子に乗ってばんばか叩いてスティックを飛ばすとか、トロンボーン吹きがソロの途中でスライドを抜くとか、ピアニストが譜面一式を楽屋においてくるとか……

 その後の休憩は、金回りの良い時はしつこく喫茶店に行き、そうでない時は楽屋でばか話である。次の仕事の打合せなどもこの時であるが、ピックアップメンバーによる仕事や、誰かをクビにする時などは気を遣うのである。

 たとえクビになる時でも、はっきりそう言われることはないようである。単に次の仕事の話が来ないだけだ。もちろんレギュラーのハコであれば言われるのであろうが、その経験がないのでよく判らない。

 最後のセットは日によって異なる。ショータイムで頑張った時は軽めに流し、逆の時はばりばりやる、こともある。ごくたまーにリクエストもあったりする。それに全て応じられる訳ではないが、まず9割以上は大丈夫であった。

 最後の曲は先生のいるクラブと同じである。この時には、すでに帰りの用意をする。譜面を整理し、終わると同時に返却し、そのままダッシュで駅に向かう。京浜東北線の最終に乗るためである。


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