どのようなグループにも、メンバーの態度や風紀に関する不文律のようなものがあります。
これらは、グループ活動の中から最低これだけは必要とする作法や、習慣が自然に生まれてくるのです。
しかし、グループが発展につれて、各メンバーの目標に対する熱意が薄れがちになりますと、明確な規律を設けて行動の責任をはっきりと定めることが避けられなくなってきます。
ここに守らなければならない掟の問題が生まれることになります。
掟とは、目的の達成を容易にするため、個人やグループの行為を指図して程度を超えないように、調整するものです。
グループ活動の中には、形式にとらわれた融通の利かないしゃくし定規のような解釈とか、メンバー感の感情的な摩擦や対立、能率の低下、不注意や時間の浪費、その他さまざまな要素が生じます。グループ目標の達成を阻害するものが多く生まれます。そのため、どうしても掟ともいう戒律が必要になってくるのです。
個人の自由は、常に、グループの欲求と、各人に満足を与える結果の達成と、二つの関連において考えなければならない問題です。
自分のことをまず第一に考えるような行動は、差し控えなければなりません。
問題は、どの様にして、またなぜ、差し控えるべきであるか、という参加メンバーの自覚になります。グループの一員であるということは、もちろん拘束的なものですが、同時に、全員が目標を価値あるものと感じているならば、各自に、自己の達成感をもたらします。
リーダーの務めは、目標に意味を与え、個人が払う犠牲を正しく評価するところにあります。ですから、リーダーか、あるいは、メンバーがこれに失敗した場合、つまり、そこに戒律が登場するのです。
では、リーダーは、どの様にして戒律を必要とするときを推し量り、その適用を、どの様にして対処したらよいかといった点についての考え方です。
真のリーダーとは、メンバーの積極的な意志を喚起するものです。
つまり、戒律は、メンバー各人にとっても、全体としてのグループにとっても、自らの戒律となるように導かなければならないのです。
具体的にいえば、グループ全員で規律を定め、その違反者の処罰に全員が参与することが必要なのであって、今日では、多くがこの方向に向かっています。
しかし、実際に、グループの自己戒律が、効果を生むのは、リーダーが戒律の進行を巧みに導く場合に限られています。
リーダーは、採用された規律が、全ての場合を十分に考慮したものであると同時に、厳しすぎないように、注意しなければなりません。慎重に検討されて生まれたものであり、偏見や、報復心などに、左右されていないことを、確かめる必要もあります。
戒律によらなければならない場合、それは違反者も、グループも、リーダーも、全員が、修得の価値ある体験を、身につける二度とないチャンスでもあるのです。
ただ単に、違反者を”こらしめ””思い知らせる”ためだけに作られるのであれば、その、真の意義は、はき違えられています。
戒律とは、本来、なぜ、従属者の積極性がたるみ、あるいは、リーダーの責任遂行の、どこに欠陥があるのか、正しく反省する機会でなければならないのです。
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