「エチケットの重要性」
「儀礼の力」
「人間関係の潤滑油」
毎日のコミュニティ社会における生活の中で、住民同士がお互いによそよそしくなっています。この現象は、もうすでに何年も前から大勢の人によって確かめられました。
この原因については、マスメディアの急速な発達によって、テレビから素早い報道や、変化に富んだ娯楽番組が放送される結果、仲間や、他人からの参考意見を必要としなくなったためだと考えられます。ところが、このよそよそしい現象は、家庭内の家族関係にも強い影響を与え、家族の関係に微妙な変化をもたらしております。
電波がメディアとして広く普及しない以前は、外部のニュース伝達者は、家族の生活の責任を持つ世帯主に限られております。
しかも情報の伝達者は、責任者以外のときでも、外の世界のいろいろな出来事を克明に伝え乍ら、家庭の生活の安全を守ってきました。けれども、現代では、世帯主の権威も、情報の貴重さも電波メディアの影に隠れ姿が薄れてしまい、この事実を反論するのは至難の技になっております。
確かに、家族も核家族化が進み、わが国においても、人々は、精神的にも独立して離ればなれになる傾向があります。
だからといって、そのよそよそしい人間関係の破綻説は、説得力のあるテレビの存在のみによるものでなく、摩擦の多い人間的にであったり、あるいは、性別的に、政治的に、経済的な力による相乗的な面が多いと考えられます。
そこで、生活展望を推し量ってみますと、これからの生活のリズムは、益々スピード化し、國の内外の危機を迎えるように、あるいは、危機の真ん中にまっ逆さまに落ちて行きつつあるようにさえ覚えます。
この様な状況は、人々個人々々がそれぞれ自身を内向的に変化させます。言葉を変えると、よそよそしい環境は、自分の利益にしか関心を持たせないように、人々が仕向けられている様な感じにさえ受け取られます。
従って、他人に対して旧式な儀礼さえ尽くす傾向も少なくなってきています。
「慣習的儀礼」とは、長い間至る処で聞かれたものです。それは、あまり親しくは知らなくても、人々が進んで取り交わす標準的な礼儀を意味するものです。
簡単にいえば、誰かに対して儀礼を示すとき、特に理由がなくても良いのです。単なるエチケットなのです。
この慣習的儀礼は、おそるべき力を自分に与えるものです。朝晩の挨拶はじめ、職場や、住まいの近所で見かける顔なじみなどにつくすエチケットとは、ときによって、自分自身を成功へのカタライザーにする次のような理由があります。
@ 儀礼に対して反応しない人はありません。
それを表に表さない人もおりますが、その人達も心では感じているのです。儀礼を示された人にとって、自分自身は更に具体的な人物となって、はっきり存在を認められ訳です。ですから、そこには有効的な雰囲気が生まれ、自分はその人達の注意を引きつけるだけでなく、好意を持つ人物表に入れることが出来ます。彼らの協力はいろいろな面で自分を助けてくれることになるのです。
A 自分は、自分で示した儀礼にも反応をします。
それでよいのです。見ず知らずの人に対する恐怖や、ときにはかなり良く知っている人にいだく不安も減少してきます。
また、人に対する敵意も大抵は減少します。そしてそのかわりに、強い共通の絆を感じるようになってきます。この絆は、自分自身に対して強い力を持っているものです。それによって、他人から隔離されていると云う感じがなくなり、人間同士の意味深い価値を理解するようになってきます。
これから、更に自己啓発を心がけるならば、次のことに自問を繰り返すことが必要です。
@ 最近会った人、すべての人にどの位大きい儀礼をつくしたか?
A どうして、もっと儀礼をつくすようにしなかったのか?
B 上役や同僚や、知らない人まで礼儀正しくすることを止めれば、何を失うことになるだろうか?
C 礼儀正しくすることによって、どんな効果を期待することが出来るだろうか?
上役やその他の人々に対して、礼儀正しく振る舞う方法については、述べる必要がありませんが、自分自身が公共の儀礼を利用するかしないかは、自分の考え次第になります。
エチケットを生活様式に絶対不可欠なものとすれば、他人から先に、自分に儀礼を示すのを待つことはしなくなるでしょう。それは、自分のほうから、儀礼を示すことによって得をするからです。何故、得をするのかと云えば、相手が、自分に好意を持ち、尊敬してくれる人が増え、自分自身が、自分を好ましく、一層好きに尊敬するようになるからです。
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