- 体制と制度行動
社会全体をひとつの行動主体として、システム的に捉えると、このシステムは一つの体制の
もとに、統括される機能によって動いています。これは、その体制が自由主義体制であれ、封
建体制であれ、また、社会主義体制のように、特質の異なるあらゆる社会集団は、自己の存続
のために、次の四つの機能を果たさなければ存続は不能になります。
つまり、
(1)社会存続のための物的財の生産と獲得(経済)
(2)望ましい価値実現のための活動(政治)
(3)下位体系間の葛藤の調整と連帯性の確立(社会統制)
(4)成員の社会化と動機づけ(教育・家庭)
などです。
社会全体は、それぞれの機能を分担していますから、機能的に関連ある活動を一括した制
度行動として捉えますと、社会全体の行動は、全体の制度という意味で体制行動と呼べる
ことになります。
経済の制度行動に例を取れば、財界・実業界の諸活動から、消費行動・管理活動・労組活
動・現場の作業に至るまで、その社会におけるありとあらゆる経済活動の全体をひっくる
めて、経済の制度行動ということになります。
制度を調べるには二つの方法があります。一つは、計量的なやり方です。制度全体の動
きは、つまり、無数の関係当事者達の無数の場面での、無数な意志決定の相互作用の結果
が累積されたものと考えるわけです。
こうしたやり方は、個々をとらえることはできないので、いくつかの重要要因と思われる
ものに、数式を当てはめます。シュミレーションを繰り返しながら、だんだん誤差を少な
くしていきます。そして、全体の動きを数学的に表す方法に移るやり方を用いてる方法で
す。
研究方法のもう一つのやり方は、役割行動の概念を使うやり方です。ようするに、A氏の
財界人としての発言、B氏の社長としての意志決定、C氏の管理者としての処置、D君の
NC技師としての作業も、みなそれぞれの地位に応じた役割行動をしているわけです。
その社会における役割活動のおおよそが制度行動ということになります。
こうして、特に決定的な地位にある人たちの役割行動を分析することで、実態を把握した
り、説明したり、あるいは予測するとか、さらに、その変容を働きかけることができるよ
うになります。
以上のような制度による経済活動は、それ自体は独立しているものではありません。経済
法や労働法を通して社会統制を受けます。また、そのような立法は政治組織を通じて行わ
れます。もちろん、生産活動はその社会の労働人口や教育水準にも規制され影響を受ける
ことになります。このようにして、社会の制度は、経済機構・人口動態・社会機構・政治
組織は相互に影響しあいながら、全体の制度行動の形づくりが進みます。
- 文化の変容問題
以上のような全体のすべての活動の積み重ねによって生み出されたものは、その社会の技術
体系や価値体系として、次世代に受け継がれると、社会に連続性が与えられます。
これらは一つの社会として、過去からの遺産を受け継ぎ、現在の活動を通して変化を加えま
す。そして、これを未来へ残します。この一連の事柄を、その社会の文化ということになりま
す。
このようにして、現在の人間の意志決定や諸活動は、過去からの影響や規制を受けるだけ
でなく、未来へ影響を及ぼすことになります。文化はこのようにゆっくり変容していくこ
とになります。
文化の変容について慶応大学の十時教授はつぎのように述べています。
「一つのシステムとしての文化は、つねにホメオスティックな状況に固執しようとする
か、あるいは、新たなホメオスティック状況に、移行しようとする本質的な機能を、果た
すものと仮定される。
さらに、その変容過程においては、システムの持続性・連続性を維持しようとする力は、
文化変化に対する一種の調整機能を果たすことになる。つまり、一つのシステムとしての
文化は、解体減少から全面的な崩壊に向かうことなく、その統合性を維持するための調整
作用を行っている、と、仮定されるのである」
- 日本の体制行動(T)
工業社会への始動
1853年、ペリーの率いるアメリカの黒船が浦賀に来航して以来、我が国の封建主義・幕
藩体制は、この環境変化に対応できず急激に解体、日本の社会は明治政府指導のもと資本主義
体制へと再編成、産業革命の道をとることになります。
当時の欧米列強は、産業革命の進展にともない、強大な軍事力をもって、原料の供給源
や製品市場としての後進国に対し、植民地政策を採っていました。
日本の近隣諸国の状況を知っていた当時の政権担当者にとっては、日本社会の主体性を維
持することが最大の課題です。そのため、社会内部の統合をはかりながら、列強に対抗で
きる軍備を、早急に持たなければなりませんでした。
その結果、富国強兵・殖産興業が国家としての基本方針として定め、統べての活動を、
その方向に統合する強力な国による統制が敷かれております。
明治政府の最初に行った重要な決定には、富国強兵策の推進として、莫大な財政資金の
調達と、それらの資金をもとにして工業化社会の官営による構築の創設事業がありまし
た。
政府が必要とする兵器・造船・機械・建築の他、民間産業振興のために、機械技術による
生産方式を確立するため、いろいろな諸技術の導入を試みたのです。
実行に移すには、莫大な資金の調達が必要です。それは、富農や豪商からのご用金(借
入金)や不換紙幣発行などの、財政政策によって工面されております。そして、それら
は、地租収入によって担保されました。
また、工業化社会への移行には、大量の労働人口を必要とします。その対策は、これま
での規制を改め、国内の交通移動・住居・貿易は自由に改めました。さらに、士農工商の
身分制を廃止、土地の永大売買禁止など、一連の継続した政策によって準備されておりま
す。
これらの諸改革は、さらに次々と派生的な影響を、社会の他の諸側面にも影響することに
なりました。しかし、諸改革の断行や外来事情の多くは、在来の伝統的な論理・価値観
を、根底から覆したものではありませんでした。
逆に、伝統的な道徳的倫理規範、例えば、忠と孝、恩と義理といった特定の価値観を、
一層精密なものにして、拡く普及することに役立つ結果となっております。
もちろん、その間、政治組織においては、リードする側と、リードされる側との間に、
特殊な関係の影響があったことはいうまでもありません。
明治の前期においては、リードする側の伝統的な価値指向への依存性と、リードされる側
との伝統的価値指向への固執性とが組み合わさって、それ以前の封建制度の状況下から引
き続いて、高度な連続性が作り上げられています。