ソ連における弾圧体制の犠牲者

 

原題「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」

 

ニコラ・ヴェルト

月刊誌『リストワール(歴史)』200010月号

 

 (注)、これは、『労働運動研究No.376』(2001年2月号)に掲載された、同名論文(訳・要旨・福田玲三)の全文です。このHPに転載することについては、福田氏の了解を頂いてあります。

 

 〔目次〕

   1、政治的処刑の犠牲者 <別表>特別法廷における死刑宣告

   2、強制収容所の犠牲者

   3、流刑の犠牲者

   4、飢饉の犠牲者

 

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     ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−ソ連篇』

                第2章「プロレタリア独裁の武装せる腕」抜粋

     塩川伸明 『「スターリニズムの犠牲」の規模』 粛清データ

     ブレジンスキー 『大いなる失敗』 犠牲者の数

     加藤哲郎 『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』  加藤HP

     ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」 32種類の拷問

 

 一九九七年刊行された『共産主義黒書』に対抗して『共産主義の世紀』が発刊された。(本誌昨年12号参照)

 時を同じくして写真入り月刊誌『リストワール(歴史)』(二〇〇〇年一〇月号)が「共産主義の犯罪」を特集した。そこにニコラ・ヴェルト氏による本論文が掲載されている。同氏はステファン・クルトワ氏が書いた『共産主義黒書』の序文を批判しているだけに(本誌98年2月号参照)、今回の論文には一層の信頼性が感じられる。以下は要旨である。(訳・福田玲三)

 

――――――――――――――――――――――

 

 政治体制の被害者数をどう見積るか? 直接、間接の死者のどれが体制の責任になるか? 総数は可能なのか? それは意味があるのか?

 これらの問題は『共産主義黒書』が刊行された際に論じられた。同書の序文で犠牲者の総数を世界的規模で提出し、二〇世紀における共産主義の犠牲者は死者が一億としたステファン・クルトワに対してルイ・マルゴランと私は唯一の「象徴的数字」の妥当性について抗議した。

 

 それには幾つかの理由がある。一つには、現在の認識では近似値でさえ中国のような国で被害者数を出すのは無理である。例えば大躍進に基づく飢饉のような場合にどうするのか。他方で、弾圧事件の場合に、次の区分が想定される。法的な処刑の犠牲者、体制への抵抗を粉砕するための「平定作戦」過程のおける殺戮犠牲者、「敵階級」あるいは「懲罰民族」に属するというだけで指定を受けた犠牲者、流刑あるいは強制収容所における早死、所与の住民の食料備蓄の大部分あるいは全部に対する国の奪略的徴収に基づく飢饉の死者。

 したがって『共産主義黒書』における私の論文「国民と対立する国家。ソ連における暴力、弾圧、テロル」で私はソヴェト共産主義体制の犠牲者を総数では出さず、入手できた重要記録の許すかぎり正確で裏付けのある統計資料を分類して提出した。

 

 『共産主義黒書』が発刊された一九九七年以来、私の提起した評価を否定あるいは修正する重要情報は何も届いていない。この評価の基礎部分を私は一九九三年に月刊誌『リストワール(歴史)』に発表した。当然のことだが、以後に研究は進んだ。

 しかし、なお公開されていない記録もあり、犠牲者数の総括には慎重さが求められ、共産主義史研究の先駆者アニー・クリーゲルの貴重な言葉が想起される。「この点で残念ながら数字と統計が求められる。ただ一人の死者でも決定的な不幸を背負っているのに、さもしい計算を続けるのは苦痛である。」

 

 

 1、政治的処刑の犠牲者

 

 体制の直接的犠牲者の第一分類には、政治警察にかかわる、特に有名な刑法第五八条第一四段落で定められた「反革命」にかかわる事件で死刑を宣告され処刑された人が含まれる。政治警察関係では四〇六万人が有罪となり、うち八〇万人近くが死刑を宣告され処刑された。

 死刑宣告の八五%は一九三七〜三八年に行われた。すなわち「大粛清」を通じて六八万人以上が処刑され、それは政治局つまりスターリンによって、地方ごとに決められた「処刑割当」によって主として行われた。

 

 一九三七〜三八年の「大粛清」についての最近の研究は、なお広く流布している二つの見解を否認した。すなわち、人々から挙がった告発が弾圧の「行き過ぎ」を招いたとするもの(弾圧の「暴走」が非難されたとき、スターリン指導部が易々として流した見解)。そして共産主義者と党幹部が主な犠牲者であったというもの(フルシチョフが一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会で展開した見解)。

 

 この時よりはるかに少ないが一万人以上処刑された年が三回ある。それは強制集団化と「富農追放」の行われた一九三〇年と三一年、および戦時下で弾圧が強化された四二年である。一九三〇〜三一年に処刑された約三万人の大部分は「第一級」富農であり、「第二級」と「第三級」は流刑にされ財産は没収された。けれども当該期間(一九二一〜五三年の三三年間中の二七年間)の大部分の年では年平均処刑者数は数千人を超えなかった。

 

 別表のなかで一九四〇年に二万五七〇〇人のポーランド人士官、官吏、警察その他「階級の敵」が内務人民委員ベリアの四〇年三月五日付け極秘命令で処刑されたことが明らかに脱落している。「脱落」の理由は、その事件の一つが「カチン事件」(ポーランド士官約四五〇〇人が殺された場所)の名で知られるこの全事件が非常に反応を招きやすいため、「特別の扱い」がされたためではないか。

 大粛清中、地方の行き過ぎが惨事を広げたとの説があるが、地方の要請に基づいて多くは政治局が認可している。

 

 大粛清中最も多くの人命を奪った第〇〇四四七号作戦を例にとると、政治局つまりスターリンがこの作戦のために当初定めた「割当」が今では分かっている。一九三七年七月三〇日に、四ヶ月間に「第一級」七万二九五〇人の処刑を定めている。「第二級」の一八万六五〇〇人は一〇年のキャンプが宣告される予定となっている。

 

 一九三七年八月二八日から一二月一五日までに、「地方当局の要請に基づき」、政治局は何回かの追加を認め、追加の合計、第一級二万二五〇〇人、第二級一万六八〇〇人となっている。一九三八年一月三一日、政治局は内務人民委員部の新たな提案「元富農、犯罪者、反ソ活動分子の弾圧についての追加数」を認めた。それは五万七二〇〇人で、うち第一級は四万八〇〇〇人である。新たな割当が決まる度に、地方指導部は数字の割増と作戦期間の延長を求め、一九三八年二月一日から八月二九日までに、政治局は一連の「追加割当」として九万人を認めた。

 

 しかし、「認められなかった追加」もある。トルクメン共和国では第〇〇四四七号作戦で処刑の割当は五〇〇人とされたが、「政治局に認められた追加」で三二二五人になり、政治警察の調査では実際には四〇三七人以上になっている。

 したがって、一九二一〜五三年の犠牲者は今日算出できるのは約八〇万人であるが、実際には約一〇〇万人であろう。

 

 

<別表> 特別法廷における死刑宣告

有罪者総数

うち死刑

有罪者総数

うち死刑

1921

35,829

9,701

1938

554,258

328,618

1922

6,003

1,962

1939

63,889

2,552

1923

4,794

414

1940

71,806

1,649

1924

12,425

2,550

1941

75,411

8,011

1925

15,995

2,433

1942

124,406

23,278

1926

17,804

990

1943

78,441

3,579

1927

26,036

2,363

1944

75,109

3,029

1928

33,757

869

1945

123,248

4,252

1929

56,220

2,109

1946

123,294

2,896

1930

208,069

20,201

1947

78,810

1,105

1931

180,696

10,651

1948

73,269

――

1932

141,919

2,728

1949

75,125

8

1933

239,664

2,154

1950

60,641

475

1934

78,999

2,056

1951

54,775

1,609

1935

267,076

1,229

1952

28,800

1,612

1936

274,670

1,118

1953

8,403

198

1937

790,665

353,074

4,060,306

799,473

 

 

 2、強制収容所の犠牲者

 

 ソヴェト弾圧体制犠牲者の第二分類は労働キャンプでの死者である。

 強制収容所に入れられた人の数はこの数十年来多くの文献の対象になり、歴史家の間の激しい議論にさらされた。九〇年代の初めにロシアと西欧の研究者グループは多数の記録資料を入手した。一九五〇〜八〇年の間の元抑留者や研究者による演繹的見積りは、ソルジェニーツィンの『収容所列島』のような「古典」によって広く流布されているが、、実際より大幅に過大であったようだ。一九六八年に英国の歴史家であり戦時通信員だったアレキサンダー・ヴェルスが五〇年代の初めの強制収容所抑留者数を一〇〇〇〜一二〇〇万人、さらには一五〇〇万人と挙げた数字は、一八歳から六〇歳までの成人男子総数が当時三五〇〇万人をわずかに超えていたことを考えれば疑わしい。

 

 最近のデータでは、最も多かった五〇年代初めで二五〇万人である。このうち「反革命活動」で有罪とされた人は約四分の一、後は軽犯罪への不釣り合いな刑で抑留されているものが大部分だ。例えば「社会的所有」の窃盗に関する法律では、コルホーズの畑で小麦の穂を幾つかとっただけで、五年から一〇年のキャンプに回すことができる。

 強制収容所での死亡者数について現在入手できる資料によれば、一九三一〜五三年に五年以上受刑者が送られた大総合強制収容所の八五〇万人中八八万一〇〇〇人が死亡している。比較的軽罪の受刑者が送られた労働開拓地の六五〇万人中では、資料がそろわないため、四〇〜五〇万人が死亡したと見られる。こうして強制収容所における死亡者総計は一五〇万人足らずである。

 

 キャンプにおける死亡率は時代によって著しく異なる(別図参照)。最も恐ろしいのは一九三三年で、死亡率は二〇%に上っている。これは大飢饉と大強制収容所の混乱に基づくもので、管理の不行き届きで収容者の五分の一が飢えと疫病で死亡した。一九三八年には九%が死亡したが、これは「大粛清」の犠牲者が送られキャンプが過密になったためである。一九四二年には二〇・七%、四三年には二〇・三%に達したが、これは収容者が補給のないキャンプに放置されたためだ。この二年で四〇万人が死亡しているこの時期、一〇〇万人以上の囚人が釈放され赤軍に投じられて初戦の軍事的損失を補った。

 

強制収容所の死亡者()

 以上の不揃いの死亡率は強制収容所囚人に対する体制の態度を明確に反映している。すなわち無関心、犯罪的怠慢、成行きまかせ、破廉恥である。

 

 

 3、流刑の犠牲者

 

 第三分類の犠牲者は流刑の死者である。一九三〇〜五三年に約六〇〇万人が単なる行政措置によって、単身あるいは家族とともに、シベリア、カザフスタン、北極圏、極東、ウラルの荒々しい地方に強制移送された。

 スターリン時代の最初の大量移送は一九三〇年二月に、農村における「非富農化」で始まった。二年間に一八〇万人以上の「富農」が列車によって運ばれ、大抵はタイガに放置された。受入れ担当の地方当局は、多くの場合に過大な業務が割当てられた。この「移送‖放置」の過程でどれほどの人が死亡したか?

 

 その算出は困難である。ある人々は三〜四ヶ月にわたる移送の過程で逃亡に成功した。しかし二〇〜三〇万人、その多くは家族の伴った子供たちが一九三〇〜三一年に死亡した。一九三二年には移送者中死者約九万人(死亡率六・八%)を政治警察が算出した。一九三三年は死者一五万一〇〇〇人以上(死亡率一三・三%)である。一九三〇年代の死亡者数は六〇〜七〇万人である。

 一九三五〜三六年からは民族ごとの大規模な強制移送が始まった.初年は国境地帯に住む少数グループで、レニングラード地区のフィンランド人、ウクライナ西部国境地区のポーランド人、ドイツ人、ウラジオストック地方の朝鮮人である。

 一九四〇年代は領土拡張と戦争と西方(バルト諸国、西ウクライナ、モルダビア)が占領、あるいは再占領された時期である。約三二〇万人が強制移送され、その殆どは階級所属ではなく人種に基づいており、これは「非富農化」の時に行われたものと異なっている。

 

 今日、移送された人の数は分かっていても、死亡者数を正確に出すのは困難である。家畜用貨車による数千キロの移送過程における死亡、カザフスタン、シベリア、極北、中央アジアにおける不安定な「定住」の最初の数年における死亡などの詳細は把握し難い。

 現在のところ提出できる見積りは、一九三〇〜五三年の強制移送者全体における超過死亡率に当るものは約一五〇万人である。

 

 

 4、飢饉の犠牲者

 

 これは犠牲者のかけ離れて多い分類である。ソ連におきた三つの飢饉の死亡者、これらはヨーロッパの最後の大飢饉であるが、一九二一〜二二年に死者五〇〇万人、一九三二〜三三年に死者六〇〇万人、一九四六〜四七年に死者五〇万人である。これらの悲劇的事件に体制が重大な責任を負っていることは動かし難い。一九三二〜三三年と一九四六〜四七年の飢饉については、完全に不問にふされているが、政府の責任は決定的である。

 

 最初の飢饉(一九二一〜二二年)には二重の状況がある。第一に、前例のない人口の変化であり、一九一四年八月から一九二二年夏まで、一五〇〇万人が第一次世界大戦、一九一七年革命、四年間の内戦にまきこまれ、個人的、集団的にかつてない大量虐殺、チフスとコレラの洗礼を受けた。

 

 第二に、生れたばかりの体制と広範な農民層の対立である。ボリシェヴィキ指導部は「陰気で」「アジア的な」農村大衆に深い憎しみを感じた。彼らは近代化と社会主義に心底から非協力であると思われた。農民の要求する交換の自由を拒否し、暴力による徴発を行い、ボリシェヴィキは農村と対立関係を作った。

 一九二〇年には白軍が敗退した。農民は旧体制に帰る以外の展望をもたない白軍を支持しなかったが、今度はボリシェヴィキも耐えられぬ重荷になった。一九二一〜二二年に、戦争で荒廃した土地のわずかな収穫物に対して農産物の徴発は一九一八年の水準の三倍に達した。

 そこに干ばつが到来する。それは一九二一年ボルガ盆地の場合がそうだ。わずかな蓄えは、当時政府報告に使われた用語によれば、「徴発の乱行」によって、系統的に横奪され、飢饉は爆発的に広がった。

 

 一九三二〜三三年の飢饉で体制の責任は明確だ。一九二九年末に、権力をもつスターリン・グループは農村における強制的集団化を開始した。「社会主義建設」のスローガンはネップで行われていた市場の仕組みを破壊し、形ばかりの価格で、コルホーズ(集団農場)とソホーズ(国営農場)の農産物を取り上げ、国の工業化を賄うことを国に許すことを目的にする。

 一九二〇年代に農民は市場価格で、収穫物の一五%を売却していた。一九三〇年から国の徴発は農産物の二七%に達する。一九三三年にそれは三三%になり、ウクライナと北コーカサスの小麦大生産地では収穫物の五〇%近くに達する。

 飢えた農民の大量流出が都市に向うのを防ぐため、鉄道の切符販売が停止され、スターリンによれば「ソヴェト権力に生死の戦いをいどむ」農民の離村を阻むため軍の一部が展開される。

 

 一九三二〜三三年の飢饉にいたる過程でスターリン指導部は、一九三二年夏の初めに何度もその危機と飢饉の現実を警告されており、その責任は明白であり決定的である。

 飢饉のピークは三三年一月から七月までだったが、三二年夏と三三年夏、ソヴェト政府は一七〇万トンの穀物を輸出し、起こるかもしれない戦争用のストックとして国の備蓄は三〇〇万トンを超えていた。これは数百万人を飢餓から救うに不足しない量である。

 

 最後の大飢饉は一九四六〜四七年であり、これも政府によって否定され、いまなお否認されている。これは一九二一〜二二年の飢饉の状況を思わせるいくつかの特徴をもつと同時に本質的には三二〜三三年の要因も兼ねている。戦後におけるこの飢饉は、一九四一〜四五年の二六〇〇万人の死者という人口減少を締めくくるものであり、戦争中における経済基盤の大規模な破壊の後に、慢性的栄養不良と疫病を背景に発生している。

 一九四六年の収穫は破局的で四五年を二〇%、三二年を四〇%下回る。しかし当局は国家への強制的引き渡し部分の引下げを拒否し、一方でスターリンは都市における配給の終わりを発表した。政府は新戦争にそなえた穀物備蓄に手をつけるのを拒否し、これは約一千万トンに達していた。こうして四六〜四七年に五〇万人以上が餓死し、それは主としてクールスク、ヴォロネジ、タンボフ、モルダヴィア地方で発生している。

 

 二〇世紀にヨーロッパの一国で一一五〇万人が餓死している。この恐ろしい後退は何なのか。近代化と進歩の担い手を標榜したソヴェトの経験の特殊性と性質について歴史家である私は問いかけられる。一世代約三〇年の間に三〇〇万人がキャンプあるいは強制移送によって早死にしている。一〇〇万人が茶番の裁判あるいは単なる「行政措置」で殺されている。

 以上がソヴェト弾圧体制の最盛期における犠牲者の暫定的な総括である。

 

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 (関連ファイル)

     ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−ソ連篇』

                第2章「プロレタリア独裁の武装せる腕」抜粋

     塩川伸明 『「スターリニズムの犠牲」の規模』 粛清データ

     ブレジンスキー 『大いなる失敗』 犠牲者の数

     加藤哲郎 『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』  加藤HP

     ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」 32種類の拷問