「スターリニズムの犠牲」の規模
塩川伸明東大法学部教授
(注)、これは、塩川伸明著『終焉の中のソ連史』(朝日新聞社、朝日選書483)における、『Y、「スターリニズムの犠牲」の規模』(P.321〜P.407)の冒頭部分(P.321〜325)の抜粋である。
そこには、「犠牲」の規模に関する11の表があり、それぞれについて詳細な分析、検討がなされている。このホームページでは、その内下記の6表だけを引用した。ただ、表には、出典がすべて記されているが、ロシア語表記のものは省略した。私(宮地)のHPに転載することについては、塩川氏の了解を頂いてある。
塩川著書は、他に『社会主義とは何だったか』(勁草書房)、『ソ連とは何だったか』(同)、『現存した社会主義』(同)がある。
〔目次〕
1、はじめに
2、予備的考察
表1、コンクェストによる「スターリニズムの犠牲」の推計
表2、1930年代末の収容所人口に関するさまざまな見積もり
表4、メドヴェージェフによる「スターリニズムの犠牲」の推計
表5、収容所群島の住人の数
表6、ラーゲリおよびコロニーの収容者数(各年1月1日現在)
表8、治安機関によって反革命罪で裁かれた人の数
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
ニコラ・ヴェルト 『ソ連における弾圧体制の犠牲者』
ブレジンスキー 『大いなる失敗』犠牲者の数
加藤哲郎 『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』 加藤HP
ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問
はじめに
一九三〇年代の農業集団化、飢饉、そして大テロルの過程で一体どれほどの犠牲がでたのか。これはいまなお多くの旧ソ連の人々の胸に重くのしかかっている問いである。ことの性質上、この問いに正確な回答を与えることはほぼ不可能であり、近似的な回答を与えようとする試みでさえ、数多くの疑問と論争にさらされざるをえない。
欧米では、古くからスターリンの暴政の犠牲の規模をめぐってさまざまな議論がたたかわされてきており、近年に至るまでほぼやむことなく続いている。他方、旧ソ連では永らくこの問いを提出すること自体がタブーだったが、そのタブーが解除されたペレストロイカ以降は、これまでの遅れを取り戻そうとするかのように、欧米にまさるとも劣らない熱心さで探究が続いている。その探究の過程は現在なお継続中であり、今の時点で性急に結論を出すことはできない。旧ソ連の歴史家や統計学者が議論に加わることによって、一面では問題の所在がより明確になったが、他面ではかえって論争が激しくなる傾向もあり、意見の一致は容易には得られそうにない。ここでは、結論を急ぐことなく、これまでの論争をできる限り簡潔に整理してまとめておくこととしたい。なお、筆者が統計学・人口学の専門家でないため、議論の細部を十分正確には再現できないことをあらかじめお断わりしておく。
今一つ断わっておきたいのは、議論の時期的な枠である。最近の旧ソ連では、スターリン時代だけに注目を限定するのではなく、一九一七年の革命直後から続いていた赤色テロルと白色テロルの応酬にまでさかのぼって再検討すべきだという声も高まっている。これは、テロルをスターリン体制だけのものではなく、レーニン時代から大なり小なり連続するものとしてとらえるという点で、初期のスターリン批判の枠を大きく超えるものである。この問題をめぐってもさまざまな論争がかわされているが、本章の対象をそこまで広げることは、あまりにも議論を拡散することとなろう。
また、一九四〇〜五〇年代についても、三〇年代以上に推測が困難である。そこで、本章ではさしあたり一九三〇年代にしぼった論点整理を試み、それ以前および以後については、末尾の補説2で戦時・戦後について簡単に触れるほかは、ごく例外的にしか言及しないことにする。
本論に入る前にあらかじめ確認しておくべき点がいくつかある。まず、スターリンの暴政の犠牲の規模については古くから、特に欧米でさまざまな推測がなされてきたが、そこでは極端に異なる各種の数字が提出されており、ごく大まかな合意さえも見いだされない。したがって、この問題に関する「従来の定説」なるものは、たとえ西側研究者の説と限定しても、そもそも存在しないのである。詳しくは後に述べるが、いかにその幅が大きいかを印象的に示す意味で例示するならば、欧米研究者中で最も低い数字をあげるケナンが数万人とするのに対し、最大規模の数字をあげるロ−ズフィールドらは約二五〇〇万人としていて、実に三桁もの違いが存在している。さらに、わが国の木村浩氏に至っては六六〇〇万人という極端な数字をあげている。
このように大きな違いのある諸説を比較検討するに際して忘れてはならないのは、「スターリニズムの犠牲」という場合に、さまざまな異なった範囲の「犠牲」が念頭におかれていることがよくあるということである。定義が異なれば規模が異なるのは当然である。そして、ここでの定義の差異は非常に大きなものがありうる。まず、時期としていつをとるかであるが、スターリンの支配していた全時期(一九五三年まで)か、戦前だけをとるか、あるいはテロルの絶頂をなした一九三七〜三八年に限るか、それとももっと広げてレーニン時代の赤色テロルまで含めるか、といった多様な選択がありうる。
人的範囲に関していえば、処刑された者だけを数えるか、拘禁地や流刑地での死者を含むか、逮捕はされたが何とか生き延びた者はどうか、政治犯あるいは「国家犯罪」(反革命罪など)に問われた者に限るか、一般刑事犯も体制の全般的な苛酷さの産物とみなして「犠牲」のうちに数えるか、さらには刑事弾圧の犠牲者だけでなく、飢饉による餓死者、大戦前後の民族追放にあった者を含むか、農業集団化時に農村から追放された者はどうか、等々によって「犠牲」の範囲は大きく異なってくる。
また、逮捕者の処遇としては、監獄での拘禁後、死刑のほかに、収容所やコロニーでの強制労働、流刑などのさまざまな形態があり、ある統計――それが正確と称するものであれ憶測であれ、また網羅的と称するものであれ部分的なものであれ――が、このうちのどのカテゴリーに該当するものであるかを確定することも、しばしば困難である。さらに、ある統計が特定の時点における囚人数(いわばストック量)を表しているのか、それとも一定期間内に有罪とされた者の数(いわばフロー量)を表しているのかは明白に違う概念であるにもかかわらず、このような初歩的な差さえも明らかにさせずに諸種の数字をつきあわせている場合もある。
このようにさまざまな性格をもった種々の推計がある以上、それらの具体的数字が大きく違うのは当然であり、定義の異なる数字をそのままつきあわせることは全く無意味なのであるが、従来の議論はしばしばこの点に無頓着だった。以下で各種の議論を紹介するときは、できる限り、それぞれの論者がどのような範囲の「犠牲」を念頭においているのかをその都度明白にするように努めるが、論者によってはこの点を明確にしていない者も少なくない。
次に規模の見積もりの含意について触れておきたい。この点に関してまず確認しておかねばならないのは、仮に相対的に小さな数字をとるとしても、それでも莫大な犠牲であることに変わりはないということである。「相対的に小さな数字をとるのはスターリン弁護論だ」とする見解が一部にあるが(後述のローズフィールド、コンクェストら)、相対的に小さいとはいっても、確実に百万の桁にのぼる――前述のケナンの「数万」という数字は例外であり、真剣にとりあげるにたる数字として最も小さいのはハフの「テロルの犠牲者数十万」であるが、そのハフも、その他に飢饉による餓死者として数百万をあげているので、犠牲の総計としては百万の桁になる――人命の犠牲が「大したことない」といえるものであろうか。むしろ、スターリニズムの恐ろしさを強調するためには数字をインフレさせねばならないと考える者の方が、人命の尊さに関して鈍感になっているのではないかという反論も十分なりたつのである。
いずれにしても莫大な犠牲であることに変わりないということを確認した上での話であるが、規模をどのくらいに見積もるかによってスターリン時代のイメージがある程度まで変わってくることはありうる。たとえば、極度に大きな数字をとる場合には、あらゆる社会層が一貫して全く無差別に犠牲となり、誰もが日常的に恐怖におののいていたというイメージになりやすい。スターリン体制の民衆支配には、合意の要素など一切なく、恐怖と暴力のみによって支配が保たれていたということになるわけである。他方、相対的に小さな数字をとるならば、犠牲はそれぞれの時期ごとに特定の層に集中していた――農業集団化・飢饉時は農民、三〇年代末の大テロルは党・国家・軍の活動家とインテリ、戦時と大戦直後は種々の「罰せられた民族」等々――と考えることができ、逆に平の労働者の多くはテロルを免れ、彼らの間にはスターリン体制を支持する基盤もありえたということになるのである。もっとも、この両者の間には中間的な議論もありうるので、この対比は絶対的なものではないが、ともかく、このようなわけで犠牲の規模の推定はスターリン時代全体のイメージとかかわってくる面があるのである。
A.1937〜38年の大テロル
1937年1月までにすでに監獄・収容所にいた者 約500万
1937年1月〜38年12月の逮捕 約700万 計約1200万
うち,処刑された者
約100万
収容所で死んだ者
約200万 計約300万
1938年末の被拘禁者 約900万
うち,監獄に
約100万
収容所に
約800万
B.死亡者の総計
1936〜50年の間に収容所で死んだ者 約1200万
処刑 約100万
1936年以前集団化関係 約350万
1936年以前収容所に送られ、後に死んだ者 約350万 計約2000万
出典:RobertConquest,The Great Terror,London:Macmillan,1968,PP.532−33(コンクェスト『スターリンの恐怖政治』下,片山さとし訳,三一書房,1976年,268−69ペ−ジ)。
推定の出所 1937年 1938年 1939年 1940年
ダリン,ニコラエフスキー 500〜600万
960万 1000万
シュワルツ 1350万
ティマシェフ 200万 200万 200万
アフトルハノフ 1150万
ヤスニー 350万
アメリカ国務省 200〜2000万
ワイルズ 162万 222万
432万 800万
バーグソン,イーソン 350万
スヴャニェヴィチ 690万
コンクェスト 760万 900万
ソルジェニツィン、1) 1000〜1200万
ローズフィールド、2) 900万 1060万 1040万 1120万
1)1942〜45年の数値。
2)ローズフィールドについては4通りの数字があげられているが,そのうちの「拡大グラーグ・システム」をとった。
出典:Soviet Studies,vol・33,no.2(April 1981),PP.267−68 (S.G.Wheatcroft).
時期 |
事項 |
逮捕・流刑・強制 移住にあった者 |
うち死亡 |
1920年代末 |
党内反対派 |
数万 |
?(多くが一旦許されるが後処刑) |
1920年代末 〜30年代初め |
ブルジョア民族主義者、ブルジョア専門家、ネップマンなど |
数十万 |
?(スターリン後の釈放まで 生きのびたのは数万か) |
1929〜32年 |
富農撲滅 |
1000万 |
?(苛酷な条件下で生きのびた) |
1933年 |
飢饉 |
600万[600〜700万] |
|
1935年 |
キーロフ暗殺後の旧分子摘発 |
100万 |
? |
犠牲者小計 |
1700〜1800万 |
1000万 |
|
1937〜38年 |
大テロル |
500〜700万 |
死刑100万+獄死? |
1939〜40年 |
西ウクライナ、西白ロシア、バルト3国、ベッサラビア、ブゴヴィナなどの伴合 |
200万 |
? |
1941年 |
ドイツ人の追放 |
?[200万弱] |
? |
1942〜43年 |
カルムィク人、チェチェン人、イングーシ人、クリミア・タタールなどの追放 |
300万 |
100万以上 |
戦中〜1946年 |
ドイツ占領時の占領軍協力 |
500万 |
? |
1947〜53年 |
レニングラード事件、コスモポリタン狩り、その他 |
100万 |
? |
総計 |
?[4000万] |
? |
(注)、飢饉の死者を含む。大テロルのうち党員約100万、除名されていた元党員約100万、非党員300〜500万。〔〕内数字は別の出典。出典名は1988年出版のロシア語資料のため省略。
表5、収容所群島の住人の数
年 年初の人数 年平均の人数 その年の収容所での死亡
1930 179,000 190,000 n.d.
1931 212,000 245,000 n.d.
1932 268,700 271,000 n.d.
1933 334,300 456,000 n.d.
1934 510,307 620,000 26,295
1935 725,483 794,000 28,328
1936 839,406 836,000 20,595
1937 820,881 994,000 25,376
1938 996,367
1,313,000 90,546
1939 1,317,195 1,340,000 50,502
1940 1,344,408 1,400,000 46,665
1941 1,500,524 1,560,000 100,997
1942 1,415,596 1,096,876 248,877
1943 983,974 731,885 166,967
1944 663,594 658,124 60,948
1945 715,506 697,258 43,848
1946 600,897 700,712 18,154
1947 808,839 1,048,127 35,668
出典:《 》、1989……(注)、ロシア語のため略
うち反革命罪による者
年 ラーゲリ 絶対数 % コロニー 合 計
1934 510,307 135,190 26・5 − 510,307
1935 725,483 118,256 16・3 240,259 965,742
1936 839,406 105,849 12・6 457,088 1,296,494
1937 820,881 104,826 12・8 375,488 1,196,369
1938 996,367 185,324 18・6 885,203 1,881,570
1939 1,317,195 454,432 34・5 355,243 1,672,438
1940 1,344,408 444,999 33・1 315,584 1,659,992
1941 1,500,524 420,293 28・7 429,205 1,929,729
1942 1,415,596 407,988 29・6 361,447 1,777,043
1943 983,974 345,397 35・6 500,208 1,484,182
1944 663, 594 268,861 40・7 516,225 1,179,819
1945 715, 505 289,351 41・2 745,171 1,460,677
1946 746,871 333,883 59・2 956,224 1,703,095
1947 808,839 427,653 54・3 912,704 1,721,543
1948 1,108,057 416,156 38・0 1,091,478 2,199,535
1949 1,216,361 420,696 34・9 1,140,324 2,356,685
1950 1,416,300 578,912* 22・7 1,145,051 2,561,351
1951 1,533,767 475,976 31・0 994,379 2,528,146
1952 1,711,202 480,766 28・1 793,312 2,504,514
1953 1,727,970 465,256 26・9 740,554 2,468,524
* ラーゲリとコロニーを合わせた数字。
出典:≪ ≫、1991……(注)、ロシア語のため略
年 |
裁かれた人 |
うち死刑 |
年 |
裁かれた人 |
うち死刑 |
1921 |
35,829 |
9,701 |
1938 |
554,258 |
328,618 |
1922 |
6,003 |
1,962 |
1939 |
63,889 |
2,552 |
1923 |
4,794 |
414 |
1940 |
71,806 |
1,649 |
1924 |
12,425 |
2,550 |
1941 |
75,411 |
8,011 |
1925 |
15,995 |
2,433 |
1942 |
124,406 |
23,278 |
1926 |
17,804 |
990 |
1943 |
78,441 |
3,579 |
1927 |
26,036 |
2,363 |
1944 |
75,109 |
3,029 |
1928 |
33,757 |
869 |
1945 |
123,248 |
4,252 |
1929 |
56,220 |
2,109 |
1946 |
123,294 |
2,896 |
1930 |
208,069 |
20,201 |
1947 |
78,810 |
1,105 |
1931 |
180,696 |
10,651 |
1948 |
73,269 |
―― |
1932 |
141,919 |
2,728 |
1949 |
75,125 |
8 |
1933 |
239,664 |
2,154 |
1950 |
60,641 |
475 |
1934 |
78,999 |
2,056 |
1951 |
54,775 |
1,609 |
1935 |
267,076 |
1,229 |
1952 |
28,800 |
1,612 |
1936 |
274,670 |
1,118 |
*1953 |
8,403 |
198 |
1937 |
790,665 |
353,074 |
合計 |
4,060,306 |
799,455 |
*1953年前半のみ。 出典:≪ ≫,1992……(注)、ロシア語のため略
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
ニコラ・ヴェルト 『ソ連における弾圧体制の犠牲者』
ブレジンスキー 『大いなる失敗』犠牲者の数
加藤哲郎 『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』 加藤HP
ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問