コミンフォルム批判・再考
石堂清倫
〔目次〕
3、高橋彦博教授の『手紙』説明と『コミンフォルム批判・再考』コメント
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『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党
『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
(注)、1、『コミンフォルム批判・再考』は、『早稲田1950年、史料と証言3号』(早稲田1950年・記録の会)、および、会のHPに掲載された石堂論文です。2、『手紙』は、2000年10月17日、『早稲田1950年、史料と証言』全6巻刊行記念の集まりで、発表されました。3、『高橋説明とコメント』は、石堂論文を私(宮地)のHPに転載することへの了解の返事手紙の一部です。これらのHP転載については、石堂清倫氏、および、吉田嘉清氏はじめ「記録の会」関係者、高橋氏の了承を得てあります。
「早稲田1950年・記録の会」は、1950年を中心とする早稲田大学学生運動史を記録する会です。この年、アメリカの占領に反対し、143名の逮捕者を出すという戦いをしました。当局による弾圧とそれへの闘争記録とともに、運動の核となった早稲田共産党細胞の活動、50年分裂時点の共産党武装闘争参加体験など、貴重な証言が多数あります。また、『早稲田1950年・記録の会』HPの「学生運動史年表」には、早稲田の運動だけでなく、50年前後の日本共産党党史の細部が明記されています。この「年表」は、安部徹郎編・吉田嘉清監修による、資料約400点を載せています。『「日本共産党の七十年」の公式年表』(3冊目)で、ほとんど削除・隠蔽されている、共産党武装闘争方針とその実践が書かれた、きわめて貴重な資料です。
石堂清倫
(注)、以下の小文は三一新書「日本共産党批判」(一九六四年三月)への解説「戦後の日本共産党の歴史にあらわれたいくつかの問題点について」の一節である。編集者の考慮により筆者名佐山健次郎となっているが私の執筆である。 一九九八年九月一日
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日共はソ共にたいして同志的討議を拒否する一つの理由として、いわゆる五一年綱領をソ連側が日本に押しつけ、これによって「内政干渉」をおこなったといっている。それなら受け入れをことわればいいのに、それをしないどころか、六全協で満場一致で可決しておきながら、あとになって文句をいうのはおかしい。
この五一年綱領とは「日本共産党の当面の要求」のことである。この綱領草案は外国から送付され、全党内でひろく討議された。だがこの討議の結果、多くの修正意見が提出されたが、どうでもよい字句の異同はべつとして、原則的にはいかなる修正もはねつけて、党員に不審の感をおこさせた。おそらく、外国のよほどえらい人が作っため、一字一句訂正をゆるさないという気持ちがあるのだといううがった解釈もつたわった。党の最高幹部に近い立場の人々がこれにたいして、草案の文章には、当時外国に亡命していた徳田球一、野坂参三両氏の文体の癖がかなりはっきり出ていることから、原案作成におそらく両氏が参加していることはまちがいないと言っていた事実もある。
ソ連共産党は、日共代表の要請により、スターリンが手を加えたのだが、ソ党中央委員会は関知しなかったとことわっている。このあたりは「個人崇拝」体制期だから、おそらくそうであっただろうと思う。
「当面の要求」は、民族解放民主革命を志向するものであって、その基礎になっている日本情勢の分析は、きわめて不正確であった。その理由として考えられるのは、これが「当面」の要求にかかわるだけで、原則上の問題は二の次であったということである。「当面性」というのは、アメリカ帝国主義の戦争計画の軍事基地となっている日本の人民に、反米闘争に決起することを求めるにとどまったからである。この目的に適合する「事実」をあつめてあるが、現実の科学的分析にもとづいて帰結をひきだす方法とは正反対な、一面的かつ観念的な作文である。
たとえば、「当面の要求」は、戦後の土地改革が「大部分の農民」に何物もあたえなかったと断言している。これはおどろくべき暴論である。農地改革が、農民の大部分を古い前近代的関係から解放し、戦後における農業生産力の急激な向上の前提となったことは、今日だれしも肯定しているものである。
「当面の要求」はまた戦後天皇制を戦前のそれとほとんど同視している。戦前の天皇制に一定の意味で「アブソリューティズム」をみとめることはできるが、戦後日本の支配者は明白に独占ブルジョワジーであり、いかなる意味でも古い意味のアブソリューティズムはない。これまた子供でも知っている初歩的な事実である。この事実に逆らって、天皇制→絶対主義→巨大土地所有という古くさい公式を唯一の拠点とするためには、戦後土地改革を無理にでもゼロとして、戦前の半封建的土地所有制を出発点にしなければならなかったのである。
これは方向としては一種の社会主義革命論である徳田草案(五〇年テーゼ草案)よりも後退している。戦前からの日本共産主義運動が、国内製の方針のときは、直接の社会主義革命を志向するのにたいして、コミンテルン製のテーゼは、つねに民主革命にひきもどした。三二年テーゼがそれである。このテーゼの作成には、多分にスターリンの意向がはたらいたらしいが、これと同じようなことが「当面の要求」にくりかえされたとしか言いようがない。
つぎにスターリンが、「当面の要求」にどのような性質の加筆をしたかを検出しなければならない。しかしこれはべつに困難ではない。「当面の要求」よりほぼ一年おくれて作成された西ドイツの「ドイツ民族統一の綱領」(三一書房「各国共産党新綱領集」所収)がそのパラレルである。この二つの綱領の基本的な考え方を特徴づける対比をしてみよう。西ドイツもまた日本と同じく、アメリカ帝国主義の新戦争のための基地とみなされ、多くの点で日本と類似する。しかし「要求」と「綱領」には事実の類似以上に、発想法の同一と思われる点がある。以下の対照表は同一人がたぶんスターリンであろうと思わせるものがある。西ドイツの共産主義者が毛沢東に加筆をねがうことは、まずありえないからである。
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日本共産党の当面の要求(一九五一・一一・二三)
一、アメリカの占領は、日本人を、どんなに苦しめているか?
戦争後、日本は、アメリカ帝国主義者の隷属のもとにおかれ、・・・
(アメリカ帝国主義者)は占領制度を利用して、日本国民を搾取し、わが国から利益を搾りとっている。
婦女子は売淫まで余儀なくされている。
アジアを支配するためには、アメリカ帝国主義者は幹部級軍人、発達した産業、および、兵士をつのるだけの十分な人口をもつ国を基地にする必要がある。アメリカ帝国主義者は、日本が、ちょうどそのような国であると考えている。
現在、日本の農民に土地が少ないのは、最良の土地が、寄生地主、その他、大きな土地を所有しているものによって占められているからである。
占領下にない日本は、他国との協力によって、その経済の興隆のために必要なすべてのものを、すなわち、その製品を売るための市場、工業のための原料、食料品、その他を獲得することができるのである。
二、吉田政府はアメリカ占領制度の精神的・政治的支柱である。
これ[吉田政府という衝立]がない場合には、日本の支配は、非常に困難になったであろう。もし、占領当局が、ツイタテのかげにかくれずに、直接、また、公然と行動したとするならば、重すぎる税金や、強制的な米の供出等々にかんする命令は、疑いもなく、日本国民を憤激させ、占領当局は、その命令をゆるめるか、あるいは取り消さざるをえなかったであろう。
日本を新戦争に引き入れることに関心をいだくのは、アメリカ占領者ばかりではない。
吉田政府をあやつる日本の反動勢力も、またしかりである。なぜならば、彼らは、戦争が、寄生地主、独占資本家、特権官僚を儲けさせるための最善の手段だと考えているからである。
したがって、吉田政府は、戦争の政府であり、日本を破滅させる政府である。
ドイツ民族再統一の網領(一九五二・二・三)
一、西ドイツの苦難
戦後、西ドイツは・・・米英仏の帝国主義者の奴隷状態におちこんだ。
西欧諸国は、占領制度を利用して、西ドイツから最大限の利潤をひきだそうとしている。
ドイツの婦人と少女は、占領者のいけにえとなっている。
彼らは、ソ同盟と人民民主主義諸国とドイツ民主共和国にたいする侵略計画を実現するのに、西ドイツの強大な工業と人間資源と軍隊幹部を役立てようと決意している。
西ドイツでは、いまでも土地と山林の半分は、大地主およびユンカーの所有である。
占領体制から解放され、他の諸国家と協力してはじめて、統一ドイツは、復興に必要なもの、工業のための原料や、時刻の商品の販売市場や・・・を有することができる。
二、ボン政権の役割と民族再統一政府樹立の必要
米英仏帝国主義者は、アデナウアー政府の背後にかくれずに、自己自身の名前と命令で・・・軍事費のための耐えられないほどの税金をかけ、弾圧法を実施するならば、その時彼らは、疑いもなく、西ドイツ全人民の憤激と全国的な抵抗をうけ、彼らの法令を撤廃しなければならなくなるであろう。
アデナウアー政府を支持している反動的で帝国主義的な諸勢力は、アメリカが準備している新しい戦争に西ドイツをひきこむことに利益を感じている。というのはこれら諸勢力は、戦争を利潤のあがる企業とみなしており、ドイツの帝国主義者がうしなった地位を新たな戦争冒険によって回復し、あらためて他国民を奴隷化する機会をにぎろうとのぞんでいるからである。だからアデナウアー政府は、戦争とドイツ破滅の政府である。
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スターリンはその一年前に、日本共産党批判をコミンフォルムの「恒久平和」紙をつうじて発表させている。この論文「日本の情勢について」は、これまでの日共の占領下平和革命論を非難した。論文は代表的理論家としての野坂氏を批判する形式をとっているが、アメリカ占領軍を解放軍と規定したかれらのなかで、国内階級闘争に干渉しないという幻想をいだいたのは野坂氏だけではない。
スターリンが、突然異例なやり方で、指導者野坂氏のアメ帝美化を責めたのは、いかなる根拠によるものか。コミンフォルムは日本共産党にとってなにも上級機関ではない。しかし、コミンテルン時代の関係はべつの形で存続しており、それと同じものが、党内の指導部と党員大衆のあいだに再生産されていた。このことが、コミンフォルム批判の接受における特異な現象をうみだすことになる。
党員大衆の批判接受は異常なものであり、ただちに半幹部的、また分派的な形をとった。このために、党指導部、とくに主流派は、批判にたいして妥協的な態度をとらざるをえなかった。若干の抵抗ののち、野坂氏の「自己批判」により、コミンフォルムの批判をうけいれたが、野坂氏は、日本を一種の従属国とし、基本戦略任務は民族独立であり、権力獲得闘争は平和的手段では不可能であるとしたが、この方針はその後宮本顕治氏によっても一貫してまもられている。
コミンフォルム批判と同時に、これを支持して北京人民日報も「日本人民解放の道」を発表した。そのなかでつぎのように言っている。
「いかなるブルジョア支配下にあっても、ましてや米帝国主義の支配下にある現在の日本では、国家権力獲得のための労働者の闘争は、はげしい革命闘争以外にはありえない。議会はたんにこの闘争における補足的手段、つまり敵を暴露する演壇として使うことができるだけである。」
この見解を支持する勢力は、時に消長はあっても日共内に生き続けており、現在ふたたび有力になっている。もっとも、この「激烈な革命方式」とは対米民族独立の武装闘争をさすと理解されるが、主張者が、実践的には議会万能論であることを妨げない。
「当面の要求」はこうして、コミンフォルム批判を接受した日共内の主流派と、スターリン的なもの、それと若干の差異をもつ中共的なものとが合流したものであって、スターリンの一方的な押しつけとするのは飛躍である。
「当面の要求」をさらに敷衍し、展開した五全協決定には「民族資本家」のカテゴリーが設定され、農村の封建制が確認され、民族解放民主革命の重要な動力は農民であるとされ、アメリカの完全な植民地日本における、アメリカ軍隊と国内武装勢力に対抗しうる、国民の有効な実力行動と組織の必要が説かれている。おそらくこの部分は押しつけと解することはできないであろう。
かりに、「当面の要求」が押しつけであったら、当然抵抗してよかったのに、意気地なく呑んでしまったのはどうしたことか。同意してしまって、十数年たってから押しつけを非難することはできないであろう。しかも、押しつけの基本線は、ソ連本国ではスターリン批判とともに克服されつつあるように見える。ところが今日、ソ連を攻撃する日共の主流は、逆にスターリン体制を積極的に擁護する中共の同盟者になっている。
このことは大きな矛盾である。さらに不思議なのはこの「新綱領」を全党員に押しつけたことである。五全協の「新綱領草案の討議を終結するに当たって」を読むと、党員から提出された修正意見は全部却下している。いやいやながら押しつけられたものであるなら、なぜこれを党員に押しつけ、軍事冒険にかりたてたのであろう。
いま一つ、押しつけを批判するときに忘れられないのは、「当面の要求」とともに五全協(日本共産党第五回全国協議会、一九五一年十月)が「軍事方針」を確定したことである。「要求」は「軍事方針」により具体化されたのであり、両者は事実上一体である。このもとに火炎瓶時代の極左冒険主義がひろまるのである。
この軍事方針は、ソ連とは直接の関係はなく、おそらく中国亡命中の日共幹部が、中国の典範類をもとにして執筆したものであろう。思想的には、一九四九年十一月に北京でひらかれたアジア大洋州労組代表者会議における劉少奇の発言につらなるものである。
劉少奇は「武装闘争は多くの植民地・半植民地の人民解放闘争の主要な闘争形態」であるとした(三一書房「劉少奇著作集」第二巻、二三二ページ)。日共はこれをそのままうけいれ、そのうえ中国の経験をまねて山岳遊撃根拠地の方式まで採用した。
この軍事方針を遂行するために軍事カードルが、一九五三年から多数中国で教育されたことからみても、このイニシアチヴはソ連にはなく、軍事方針による極左冒険主義をソ連だけの責任とすることは無理であろう。「新綱領」発表当時、多くの人が、これを中国製でないかとうたがったのは、その思想内容からして自然のことであった。強いて言えば「新綱領」はスターリン主義と毛沢東思想の合成であり、軍事方針による展開はまったく中国的のものというべきだろう。「新綱領」実践のため日共の編纂した「平和・民主・独立文献」第十集の半ばは毛沢東、劉少奇、朱徳のものでしめられ、その大部分が軍事方針の思想的基礎として編集されたことがあきらかである。
冒険主義によって日共が大衆から孤立し、ほとんど政治的影響をもたなくなったことから、ようやく一九五五年の「六全協」で自己批判がおこなわれた。このイニシアチヴは中国にあったと見られる。ところが六全協はどういうわけか「当面の要求」が完全に正しかったことを確認している。そのうえ党の根本的自己批判が、軍事方針の最終的責任者の追求にいたることをおそれ、全く不徹底なままで、過去にさかのぼる自己批判をやめさせた。このことは、六全協を境として再編成された新しい主流派が、中国的思考方法にもとづき、白山丸帰国者のような特異のカードルを各級機関に配置し、実質的に一種の党内中国派としてスタートしたことと合致する。
この基本前提のもとに第二〇回大会やモスクワ会議がうけいれられても、それは古い要素の自己保全的なポーズであったと見なさなければならない。
実際ソ連共産党第二〇回大会の中心テーゼは、党員の間に深刻な反応をおこしたが、党上級機関これにたいしてきわめて冷淡また懐疑的であった。党中央としては、これまでの慣例に反して、二〇回大会のテーゼにかんする研究会または学習会はながいあいだ見送ったのである。しばらく前の「スターリン論文」や「経済学教科書」のさかんな全国的カンパニアにくらべると隔世の感がある。
各国の党は大小を問わずすべて平等であり、独立している。外国の党の「文献」だからといって、とくに「学習」する必要はない――といって、第二〇回大会のテーゼのボイコットを説明することができるであろうか。
いしどう・きよとも
一九〇四年、石川県生まれ 一九二七年、東大文学部 戦前、日本共産党入党 満鉄調査部事件で検挙、懲罰応召 帰国後入党 六〇年離党 運動史研究会、グラムシ研究会主宰 九四歳、評論家
風信抄
今年はメドヴェージェフについでゾルゲ研究のロシアの諸君に会い、一週間ほど前にカリフォルニアからきた中野重治研究者のミリアム・シルババーグ女史と会食し、立ち枯れの老人にとって思いがけない「国際年」になりました。メドヴェージェフと三十分ほど話し合いしましたがいっペんに仲好しになり、そのとき頼まれた「ロシアにおける資本主義?」三一七頁の翻訳にこれからとりかかるところです。辞書にでていない「新語」らしいものがありそうで、あなたに教わることが多いようで、よろしく願います。
一九九八年十一月二二日
石堂清倫
藤川亨様
吉田嘉清様 藤川亨様 2000年年7月4日
早稲田一九五○年別冊資料篇、ありがたくいただきました。編集と出版にいろいろご苦労があったことと思います。
コミンフォルム批判期にアメリカの諜報組織が日共政治局以下各級に敷設してある「通報者」報告をアメリカで解禁になった分を、多分そのごく一部分かと思いますが見ることができました。
それによると、ソ連政権は五○年当時アメリカの軍事占領下にある各地の共産主義組織に一斉に武装蜂起を指示したことは明かです。日本では、それに応じたのでは組織が壊滅するので、野坂路線をとっていたところ、例のコミンフォルム批判にぶつかり、混迷したことがわかります。そこで一応指示に服した形で(応じなければ資金援助が打切になる!)形だけの武斗をはじめました。しかし、その主力は在日朝鮮人、学生、一部居住細胞だけを動員し、党の主力部分の工場細胞は温存する方針をとったことがわかります。
日本の党に与えた綱領的文書も、西ドイツの組織に与えた文書も、まったく同一であったことは「五○年」にも掲載していただいたのですが、こうしてみると、スターリニズムとそれを盲信した日共にたいする根本批判はまだまだ不十分であったと思われます。この作業はあなたがたの世代の任務として残ることになりますので、期待してやみません。
以下、藤川覚氏について。
津田さんの手紙にもう少し解説があればよかった気がします。岩波茂雄氏は津田問題担当を藤川覚氏に特命しました。津田問題がおこる二年前から日評の河合栄治郎事件があり、それについても岩波さんは藤川氏に依頼していました。私は一九三八年夏に大連に去りましたが、河合事件の証人で東京へ召喚されましたが、そのときも公判には藤川覚氏が傍聴にきていました。
一九三七年内務省図書課が出版統制のため出版懇話会を設けました。主要出版社社長がその会員です。しかし毎月の例会には社長の代理者が出席することになっており、岩波は藤川覚氏となっています。それは小冊子に印刷されています。
つぎに雑誌「みすず」6月号(471号)にのった藤田省三君の絶筆のうちに、丸山真男に関連し、丸山が時事通信社の長谷川才次社長にあてた手紙の全文が引用してあります。同社の出版局次長である藤川覚がレッドパージと称して不当に解雇されたことにたいする抗議文です。ここでしか今は知ることができないようですからごらんになって下さい。
『コミンフォルム批判・再考』コメント
「石堂メッセージ」(2000年7月4日付け)については、少し説明が必要でしょう。なぜ、石堂さんが故・藤川覚氏について述べているかというと、故・藤川覚氏は、『史料と証言』編集部の藤川亨氏のご父君であり、その関係で、『史料と証言』の第6号(別冊・資料篇)に故・藤川覚氏所有の「津田左右吉書簡」の一部分が掲載されたからです。また、なぜ、早稲田の学生運動史に津田左右吉氏が登場するかといえば、戦後の早稲田の運動の起点部分に、当時の学生たちと総長候補に挙げられた津田左右吉氏との間における天皇制に関する若干のやりとりがあったからです。
なお、「コミンフォルム批判」について一言。野坂参三は延安からの帰路、スターリンに会って、延安仕込みの平和革命路線について承認を得ている経過があり、それが戦後共産党による「野坂路線」採用の背景になっていると私は理解しています。石堂さんが言われるような武装蜂起回避と組織温存の知恵が50年当時の日本共産党にあったとは、私には思えません。
今後の山村工作隊や中核自衛隊の分析が、このような論点を解明する作業の意義をもつことになるでしょう。
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(関連ファイル)
『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党
『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー