50年分裂から六全協まで

 

吉田四郎氏に聞く

 

聞き手 丸山茂樹 勝部元 原全五 伊藤晃 小森春雄

 

 ()、これは、『運動史研究8』(運動史研究会編、三一書房、1981年)における、上記題名インタビューの全文(P.74〜99)です。このHPに全文を転載することについては、吉田氏の了解をいただいてあります。転載にあたっては、伊藤晃氏、増山太助氏にも連絡をとり、了解をいただきました。

 当時、主流派と国際派の比率実態は、専従70%対30%、党員90%対10%と言われています。現在の日本共産党・宮本党史は、当時のスターリン盲従・少数分派が、六全協後、党内指導権を逆転掌握するにつれて、宮本顕治の正当性をねつ造・歪曲する内容に変えられてきています。吉田氏は、主流派における志田派の中心幹部の一人でした。主流派側による、六全協までの日本共産党史として、このインタビュー内容は、貴重な証言となっています。これは、宮本党史と比べると、そこから抹殺・隠蔽された事実や六全協開催経過のデータを豊富に含んでいます。〔目次〕の番号は、私(宮地)が付けました。

 

 〔目次〕

    1敗戦直後の党活動

    2、全国オルグとして北海道へ

    3、非合法体制への移行の問題

 
    4、四全協と軍事方針

    5、主流派幹部の一連の自己批判

    6、軍事方針の決定から実践へ

    7、五全協の開催と非合法体制の完成

    8、世界大戦必至という情勢認識

    9、中核自衛隊の結成と方針への疑問

   10、徳田論文と火炎ビン闘争の終息

   11、二度にわたる総点検運動の意味    

   12、たった八字の宮本自己批判

   13、神山除名カンパニアの意味

   14、志田・宮本の連合と六全協準備

   15、六全協を組織したのは誰か

   16、志田除名をめぐって

       吉田四郎、聞き手一部の略歴

 

 (関連ファイル)               健一MENUに戻る

    『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24

 

 1、敗戦直後の党活動

 

 丸山 本日は、五〇年問題から六全協までのお話をお伺いしたいというのが、主なねらいですけれども、それに限らずお話を伺わせていただきたいと思います。最初に共産主義運動に入られた経過から。

 吉田 僕の親父が箕面で小さい牧場をやり、獣医で考古学をやっていまして、左翼のシンパに近い形で、戦争中も左翼関係者を採用していましたので、そういう関係者が来ていました。北野照雄さん(第一回大阪地方委員)の弟の三郎さんが居まして後から照雄さんも来ましたので両兄弟の推薦で入党しました。二十年の暮で正式の通知が来たのは一月か二月頃であったと思います。松本惣一郎さん(統制委員)が堺刑務所から出獄されて近所の姉さんの家で療養しておられたので、栄養補給の食糧その他の届けをしました。あの人にはいろいろ教えてもらったです。

 勝部 まだ学生?

 吉田 いえ。兵隊帰り、陸士です。箕面の「アカハタ」配布係をやらされました。読者は五部から十部でした。五月頃だったと思いますが、志賀さんが青年救国隊の結成を呼びかけまして、「ユーゴーその他の東欧諸国では、青年が祖国の復興に立上っている。日本の青年もやらねばならない」ということでした。松本惣一郎さんから、青年救国隊をやらない和と云われて大阪へ出ました。

 勝部 隠匿物資の摘発をやったの?

 吉田 いや。復興でんがな。死んだ吉村喜三郎さんが隊長でした。高須病院(後に党本部)の地下の暗い一室が事務所で隊員は吉村さんと二人でした。毎日「青年救国隊募集」のビラを梅田から難波、東や北や西の方へ貼って歩いて事務所で待っているわけやけど誰も来ませんわ。(笑) 吉村さんは僕にバトンタッチして党のオルグになってしまった。一番目に来たのがルソペンの様なオッさんで、林昇君(民青の元中央委員長)が二番目やった。府に交渉に行って、焼跡整理をやるから、日当と食糧出せという交渉ですわ。学生がどんどん来だして。まるで学生アルバイトのあっせんですわ。(笑)相当な数になって。それで今度は青年共産同盟の方をやれ、ということになりました。当時青共は吉村さんから彦坂君になっていたが、性格規定の討議でさっぱりでしたが、青年救国隊の方は五百人、千人と動員していたので、派手に見えたのでしょう。中身については、誰も知りませんから。一九四六年秋頃からです。戎谷春松さんは大阪地方委員で青年対策の責任者でした。西川彦義さんの志田排斥問題があり、徳球が大阪へ来て逆転してしまった桃谷大会(一九四七年八月)で地方委員候補になったのが、党機関に関係する初めです。大衆団体の幹部は、党幹部になれないことになったので、青共は大衆団体かそうでないかでもめたのを覚えています。

 

  例の組織活動指導部に入ったのはいつや。

 吉田 青共をやった時にもう入っていたと思う。最初は、馬淵薫、下司順吉、吉村喜三郎、河田、彦坂、今浦、山本徳二等の人が入っていたが、二・一スト後東京から成富、宮田、大阪から熊野、荒堀、土田、上坂君らが入って来たと思う。

  例の桃谷大会ね、西川とか渡辺とか北原とか、そんな連中が反対派の急先鋒やったんやけど、一番大きな理由は、組活が勝手なことをするということやった。とにかくあれはつぶし屋になっとったから。

 吉田 ああ、なるほどね。しかし、俺らから言うたら、あれがあったから若い連中が伸びたのも間違いなかった。西川さんのように組合を上からつくって、ボス交渉をやる。われわれは下から組織してやるから、それは困ったと思う。だけどその善悪については、一概には言えんと思う。

  だから、そこに認識の食い違いがあるわけや。

 吉田 そやそや、それはわれわれにも間違いはあったかも知れんが、ボス的に組合交渉ばかりしてやろうというのも、これも間違いの一つや。それは小ボスばかり育ってしまう。オレはそう思う。

 

 丸山 その後の活動はどうですか。

 吉田 一九四八年二月大阪市委員会が出来て市委員になり、組活部長になりました。オルグは市委員が分担していましたが私は主として職場は大交、日立造船、電産を担当していました。青共をやっていた関係で朝鮮青年同盟のメンバーと非常に親しかったので、朝鮮人運動の方に関係が深くなった。あの当時はわりに自由で、勝手にやっていれば、そのうちに担当になって、四八年の朝鮮人学校事件に関係しました。しかしこの前、社会主義理論センターでやっている朝鮮人問題研究会に出席してくれと云われて、びっくりしたのですが、中央の書記局と朝鮮人グループ中央指導部の通達で「世論では朝鮮人運動が党の指導で動いていると云われている。総選挙にマイナスであるので関係するな」と関西地方委員会の責任を追及する文書があるのです。朴慶植さんらには「そんな文書、謀略文書だと思う。見たことない」と話したのですが、研究会ではあの当時の朝鮮人運動に対する指導方針というのは、その文書が根拠になっているのです。もし本当にあの通達が出ていたとしたら、志田さんは責任者である私になぜ見せなかったのか、書記局のメンバーは誰であったのか調べて聞かしてほしい。

 勝部 中央で朝鮮人問題をやってたのは、誰だろう。金天海さんはまだおったかな。

 吉田 金天海さんは政治局員だった筈。

 丸山 朝鮮人の運動が、普通の日本人の反発を買うので、あれは党とは関係ないんだというかたちで通達を出していたということですね。

 吉田 徳球が事件後の第二回中央委員会で報告しているコッピーを小森君に東京から取り寄せてもらったので、研究会で皆に見てもらった。

 

 

 2、全国オルグとして北海道へ

 

 勝部 四九年にワーツと三十五人取ったろう。あのころは何していたんだい?

 吉田 あの頃は「再教育」で三多摩地区。再教育は小川真、成富健一郎の三名だった。二十三年(四八年)の十一月に行ったと思います。丁度、朝鮮人学校事件が問題になって、僕の場合は挑発者でないかという嫌疑がかかった。(笑) 関西地方委員会の方で荷物なんかを勝手に入って調べていた。

  そのころ志田も東京へ行っとったんか。

 吉田 いや行ってない。まだ関西や。

 丸山 四八年の暮れに東京へ行かれて、三多摩のほうに配属されたということですが、その時のポジションは?

 吉田 なんかあいまいなもんですわ。どこから派遣されているかわからんオルグで。

 勝部 再教育のあと?

 吉田 いや再教育のはずなのにオルグで、おかしな話ですわ。徳球が毎週教育するという話で、一回だけ行って後はサボった。四九年六月に中村丈夫君と二人で北海道へ全国オルグで行った。

 丸山 党の事実上の組織の責任者?

 吉田 全国オルグです。長谷川浩、紺野与次郎、西沢隆二、増田格之助さんらが行ったが、なかなかまとまらんので、徳球に呼ばれて、中村丈夫君と二人で派遣されたわけです。

 

 丸山 何年位おられましたか。

 吉田 それからずっと六全協まで。

 丸山 しょっちゅう東京に出てこられましたか。

 吉田 いや、半年に一回位ですね。四全協後は、ビューローメンバー四名が、二週間に一回交代で出て来ました。

 丸山 で、コミンフォルム批判が、ご承知のような党内のいろんな論議や確執を生み出すんですが、その前に、団体等規制令で組織を公開しろとか、それから占領軍の検閲制度もあり、平和革命とはいいながら「解放軍」規定があるとか、合法主義的議会主義では実際上やれんなあというような、一種の方向転換させねばならぬという認識というか、雰囲気というようなものは感じておられましたか。

 吉田 朝鮮人運動に関係してましたからね。府庁占領した時も米軍とぶつかったし。僕がスパイじゃないかということになったのは、その時に、主として青共のメンバーや若いメンバーが中心になって集まって、もう米軍とはやらなあかんということで、その会合を持っとったわけや。それが発覚したわけ。

 丸山 なるはど。党の指導のワク外で極左的なことをやっている、ということがスパイ嫌疑に……。

 吉田 そうそう。

 伊藤 そういう考え方というのは、かなり一般的に青年たちの間にあったと考えていいんですか。

 吉田 ああ、あったあった。もうあの朝鮮人学校事件を契機にして、ダーッとあったですわ。

 勝部 統制委員会にはかからなかったわけ? そのスパイ嫌疑というのは。

 吉田 それはなかったと思う。

 勝部 あのころは松本惣一郎は確か大阪の統制委員だったな。

 吉田 岩本巌さんです。それから枡井とめをさんが大阪の係です。再教育で中央へいく前に、伊藤律さんが来て、青共の中央の責任者という案を、徳球の案やいうて持って来ました。それは僕、断ったんだ、もうこれ以上、青共はこりごりや、党のほうをしたいからというて。

 

 勝部 あんたが北海道に派遣されたのは、志田重男の力があったの?

 吉田 それは全然関係ない。

 丸山 いろんな人間が北海道の組織づくりに派遣されたけれども、最終的には吉田さんに党の全国オルグとして組織づくりを任せたのは徳球さんだったというわけですか。

 吉田 そうそう、中村丈夫と二人にね。世俗的に云えば、志田派から僕、律派から丈さんと云うことになります。

 勝部 なるほど。中村氏は確か、農民運動やってたね。

 吉田 農民部です。農民部におって、三多摩地区に伊藤律の選挙で藤原春雄さんと二人で来てたわけ。

 丸山 北海道ではどこに……札幌ですか。

 吉田 ええ、札幌ですが、半分ぐらい炭鉱に入っていたかな。

  君が北海道の地方委員長になったのはいつや?

 吉田 コミンフォルムの批判の前後でした。全国オルグ制度が廃止されて、皆各々の機関につけという事になったわけです。僕の前が西館仁さんですわ。

 勝部 コミンフォルム批判直後の十八回、十九回の中央委員会には出ているわけやろ?

 吉田 むろん、それは出ていますよ。

 

 

 3、非合法体制への移行の問題

 

 丸山 さて、占領軍による共産党の追放は、五〇年六月ですけれども、その前から、今云われたように、占領権力なり、非合法的な警戒体制をつくらにゃいかんという態勢をとりつつあったということですね。

 吉田 うん。けど、正式にこれをとろうとしたのは第六回大会です。

 勝部 だからコミンフォルム批判への所感で、事実においてやっているという徳田のあれが出るんだ。

 吉田 そうそう。

 勝部 そうすると、潜ったのは、中央でパージになったあとでか? あんたはパージに引っかからなかった。だけど、潜ったわけだろう?

 吉田 そうそう。

 伊藤 吉田さんがはっきり非合法体制に入られたのは、五〇年の六月以降ですか?

 吉田 そうです。主として、事業財政のメンバーと、()党員、()組織と、アジト関係というのは、それと二重になっていました。

 勝部 あなたが、志田派といわれるようになったのは、いつごろから志田氏とのあれができたの?

 吉田 いやいや、それは私達が自分でいうことない。世間がいうからで、別にぴっちりした組織があったわけじゃないし。

 勝部 しかし、北海道へ行った時はもう、大体そうだろう? 徳田・志田派だよな。北海道の活動は。

 吉田 まだ、志田さんは東京に来てなかったし、あの時、彼はそう権限を持ってなかったな。どっちかいうたら、政治局の中でもあかん時期ちゅうかな。

 勝部 ああそうか。そうだったな。律の盛んなころだな。

 吉田 そうそう。一連の摘発闘争、それから朝鮮人事件、大阪の党活動が批判をうけて彼は非常に具合悪くなっていたんです。

 伊藤 朝鮮人学校事件なんかの時、吉田さんたちの活動を志田さんは支持されましたか。

 吉田 まあ彼はね、闘争には反対やなかった。しかし、彼自身も、ちょっとあいまいなとこがあったわけです。ところが、政治局会議に行って帰ってきて、そこでこの評価が決まったでしょ。それで、明るい顔して、志賀さんと二人で、帰ってきよった。

 

 

 4、四全協と軍事方針

 

 勝部 四全協の話を聞かせて下さい。

 丸山 そうですね。決議とか、文書類とは別に、どういう下準備があったか、どういう意義づけと、内面的な指導があって、四全協が準備され、会議がリードされたのか。活字になっていないその当時の重要な会議とか、連絡の際のポイントみたいなものがわからないんです。

 勝部 大づかみにいって、亀山幸三さんが書いている中央委員というのは本当かね。あんた、中央委員候補になっている

 吉田 これは違うと思います。たしかな記憶はないです。

 勝部 四全協でやるだろう? 軍事方針の決定を。

 吉田 そうそう。

 勝部 あれの最初は野坂だろう?

 吉田 どれですか。

 勝部 最初の「共産主義者と愛国者の新らしい任務―力には力をもってたたかえ!」を書いたのは?

 吉田 野坂です。四全協の軍事方針も野坂です。四全協後の軍事責任者は、紺野与次郎です。紺野も方針書には協力した筈です。

 

 勝部 四全協は、大体、十人ぐらいずつ、ばらんばらんにやったっていう話は聞いてるんだよね。

 吉田 そう。しかし、十人も集まってはいませんよ。五、六人位でした。

 伊藤 そのグループはいくつぐらいあったんでしょう。

 吉田 さあね。なんぼぐらいあったんやろね。六班だったと思います。

 伊藤 その会議に出席した方は、ほかのグループのことは知らないんですか?

 吉田 それは知らんでしょう。

 丸山 でも、ほかの班では、どんな討論が行われているというようなことは?

 吉田 それはききますよ。キャップがみな集まる会議で。指導部からのメモとで。

 伊藤 吉田さんはそのキャップではなかったんですか?

 吉田 そうです。四全協と五全協とはっきりしませんが、僕のグループには確か吉田資治さん、保坂浩明さん、紺野さんが居られたと思います。

 伊藤 キャップ会議の人数は?

 吉田 キャップ会議はせいぜい五、六人まで。最高指導部から交代で一人ずつ出席していた様に思います。

 勝部 どんな人だった? キャップは。

 吉田 さあ。もうそんないわれたら記憶ないわ。都合の悪い人もいたはるし、もう出来るだけ、四全協、五全協のこと忘れよう思うてるから。(笑) 思い出すだけでもいやや。まして六全協なんて、話聞かれてもいやになるわ。(笑)

 

 丸山 場所は東京の郊外ですか?

 吉田 いや、郊外だけと違います。どこか知らんですわ。アジト係の人が、きょうはここへ泊まれ、会合はここやと云う。学者風の上品な人達が北海道の世話をしてくれはった。

 勝部 そうするとその頃は、律と志田さんが最高責任者で。

 吉田 志田さんが責任者で、律さん、椎野さんと三人で。長谷川浩さん、紺野さんも、後から入ったと思います。

 丸山 四全協、五全協の中では、主流派の中で目立ったギクシャクした対立関係みたいなものは、感じられなかったですか? 国際派ではなく主流派の中で。

 吉田 四全協の時はなかったんと違うかな。みんな国際派に対する結束ちゅうことで。(笑)

 勝部 技術的なことも相当決めたんじゃないのかい? ここで。トラック部隊とか、人民艦隊とか。

 吉田 そんなんはやりません。

 勝部 その各々の部署で握っていた。

 吉田 そうそう。ただ、北海導は要するに連絡が切れるから。切れたらソ連の党と連絡をとってやってくれという位で、その準備をしてくれと。

 

 

 5、主流派幹部の一連の自己批判

 

 勝部 例の一連の自己批判書が出てくるのいつだったかな。

 小森 四全協から五全協の間ですわ。

 勝部 あの評価で非常に問題が起こってきたんだ。

 小森 あの評価をめぐって宮本と春日(庄)は別れたんだ。

 丸山 五一年の二月、三月、四月あたりに森浩一郎からはじまって椎野までの自己批判が相次ぐんですね。四全協のあとで、これが主流派のなかの外国に行っている幹部と国内の幹部の、討論なり矛盾と関係しているんじゃないかという憶測があるんですが。

 吉田 そうそう、向こうから言ってきた。

 勝部 大体そうだろう。内山春雄は紺野といわれているな。それから森浩一郎が伊藤律と。

 丸山 森浩一郎は伊藤律なのか徳田なのか?

 

 勝部 そうか、徳田自己批判書というのはわからないんだな。

 吉田 徳田という自己批判書は出てません。

 丸山 すると、森浩一郎は伊藤律。

  藤井冠次の最近出た本がありますけど、徳球の自己批判というのはないみたいなんですよね。七回大会の中央委員会で、西沢隆二と野坂が出てきておってだいぶもめました。徳田の自己批判はどうしたんだ。あったのかなかったのかって聞いたら、「それはありました」とはっきり言うとったけどね。

 勝部 ふうん。そんならその原形みたいなのがあって、それにのっとって一連のものが出たんだろう。椎野、志賀、森、内山ってのは。

 吉田 徳田自己批判書は、モスクワ、北京の国際関係に出されて、日本では椎野自己批判書の形式で出たと聞いています。徳田名で出すことに中共も反対したそうです。現在の国際共産主義運動では考えられないことですが。

 丸山 「練馬事件」が起こって、非合法機関紙の全国アドレスが警察につかまれて、検挙が続出するというのが一九五一年の二月で、そのあと……。

 吉田 そうですよね、それで伊藤律が批判されて来たのね。あれで被害が大きかったからね。みんないかれてしもうたもの。最高指導部では責任追及はなかったと聞いています。

 

 丸山 それでビューロー組織に指導を集中する。そして伊藤律氏の機関紙部関係が批判されて非常に孤立する。それで三月、四月にかけて自己批判が相次いで出されて、国際派の方は共産党を名乗って選挙で立候補し、泥試合が演じられるのが五一年四月の地方選挙ですか。反対派のほう、国際派のほうは、党の統一方針をめぐって、今こそ統一すべきであるというのと、アナザー・パーティをつくってもやるべきであるというのが対立抗争して、いわば、春日庄次郎、山田六左衛門の関西派と宮本顕治の関東派というのがなかなか一致できない状態。この時、八月ですか、コミンフォルムが四全協の分派に対する反対闘争を支持する声明を出して、東京で第二十回中央委員会が五一年八月に開かれているんですね。ですから、四全協では一応武力によらなければ革命はできないんだ、非合法態勢だということの確認があり、そして五全協で、「新綱領」の決定がある。具体的な軍事方針が出てくるのは五全協のあとですか。

 吉田 いや違うよ、四全協です。

 

 

 6、軍事方針の決定から実践へ

 

 伊藤 四全協で一応、軍事方針が決まりますね。ただし、実際に専門的な機関を設けて実践に移すのは五全協のあたりですね。

 吉田 そうそう。国際関係からもやかましく言ってきて。

 伊藤 その間、実践されなかったのはどういうわけなんでしょう。

 吉田 それは紺野さんが責任者だったからです。執行力がないのです。

 伊藤 じゃ、その間、何か意図があって、延ばしたというんじゃないんですか。

 吉田 いや、しかしその時には、例えば北海道でも山の調査をしたりね、そういう事をしとったです。野坂、紺野方針は中共丸うつしですから。

 

 勝部 中核自衛隊というのが出来たのはそのあと?

 吉田 五全協のあとです。あれは椎野さんが書いて軍事委員長になるんだ。

 勝部 志田氏じゃないわけか。

 吉田 最初、紺野さんが書いたが否決されて椎野さんが書いた。椎野原案では「準備せねばならない」を志田さんが「行動せねばならない」と書きかえたと聞いています。五全協で初めて軍事委員会というのが党の組織と並列した組織になる。それで混乱する訳です。ビューローの責任者が知らん事があったり。細胞の中から軍事委員会へ行くメンバーがだんだん抜かれていく訳です。

 勝部 そうすると、志田氏は両方を統括していた訳?

 吉田 そうそう、両方を。しかし、あの時はもう椎野のオッさんの発言が相当強うなりましたからね。彼は臨中議長で男を上げてでんな。人望はものすごう上って、まああれ、ええとこもあるし。(笑) わりにバッバッもの言うし、自分の間違いは間違いや言うし。五全協の時に序列を決めたんですわ。最高幹部が逮捕された時の責任者の順番を決めとかんといかんいうて。徳田、野坂、志田、椎野それから春日正一さんやったと思う。

 

 勝部 だから伊藤律は国内では序列も下がるし、また徳田が呼んだ時、喜んで行ったというわけやね、たぶん。

 吉田 それであとから聞いたけども、連絡に来た岡田文吉さんが「律は日本に置いておいたら危ない、つかまったら吐きよるから」と言って来たと。(笑) 伝えてくる人の個人のニュアンスというのがものすごう入ってきているから。(笑) それで僕らあとから聞くとなんか律さんが北京に行ってえらい羽振りきかせているらしいいうのを聞いて、あっけにとられた。

 

 丸山 今のお話で、四全協が五一年の二月で、五全協が十月で、その八カ月問、なぜ、決まった方針が具体化されなかったんだろうという疑問は担当者の具体化能力が問題だったというようなことですね。

 吉田 ということと、それから五全協で、軍事委員会というのをちょうど赤軍みたいな組織にしよったわけです。

 伊藤 それははっきりモデルとして中国の解放軍なり何なりを考えたんでしょうか。

 吉田 それも一つの参考でしょうな。赤軍の例やらそういうものを参考にしたんと違いますか。軍事問題については、いろいろの理解があったと思います。僕らの場合は、要するに第三次世界大戦に発展する、これは必至である、と。ですから日本は抵抗運動をせんといかん、それの軍事組織や、というふうに理解していた。それから決議文を見たら、革命の何やと書いてある。革命て、そんなものおよそ誰でも実感としてわからんかったでしょう。(笑) あくまでも抵抗運動という風に僕らは考えていたんです。

 勝部 中国側もそうやないかい?

 吉田 それはそうです。

 勝部 中国も朝鮮戦争の中で、世界戦争に展開した場合に、絶対にレジスタンスをやれと。だから、コミンフォルムの批判の趣旨と九・三アピールはちょっと違うんだね。コミンフォルムのは占領下という事が重点だけれども、九・三アピールのほうは武力的な抵抗というのが重点だ。

 丸山 「内外評論」という雑誌の六号に「なぜ武力革命が問題にならなかったか」という論文が四全協の前に出されているんですけども、これは誰が書いたかなんていうようなこと、ご存じないですか。

 吉田 文章を見たら判りますが。

 

 

 7、五全協の開催と非合法体制の完成

 

 丸山 それではいよいよ五一年綱領を決めた五全協なんですけれども、五全協はどういう様子だったんでしょう。やっぱり同じような形式ですか。

 吉田 ええ、同じ様な形式でね。ただ、五全協の時はわりに落ちついていましたよ。もうね。まあ、まがりなりにも非合法の体制を作ったし。四全協の時というのは、まだ作る最中で、地方では大変やったですよ。

 丸山 それに、八月から十月にかけてというのは、反対派グループも臨中の下に一応結集していますからね。

 吉田 そうそう。志賀さんが帰って来はったんはいつごろですか。

 丸山 五全協の前です。

 小森 志賀さんは一番早く国際派から離れた。九・三論評が出た直後やった。

 勝部 うん、出た直後だったな、それですぐ潜ってたわ。

 吉田 そうそう。

 勝部 しかし何してたんだろうな。

 吉田 向こうへ行くちゅう事と違いますか。とにかく大幹部一人でも持ったら大変でんね。

 勝部 そうだな、顔も売れてるしな。

 吉田 それはもう非合法体制になったら、少数精鋭主義でいかんとたまりまへんわ。

 丸山 防衛の金も人も。

 吉田 それはもう大変やわ。そやから理論的な人は出来るだけ海外へ行ってもろてじっくり研究してもらう。そして実際仕事が出来る人間が残ってしないと、実際、膨大になってしまう。

 

 勝部 その頃は中国から党の連中も来ていたでしょう。

 吉田 四全協後、志田さんが「中国の党から来て非合法体制に感心していた」といっていました。今から思えば、来たのか、云って来たのか。

 丸山 軍事指導の?

 吉田 いや、軍事指導じゃなしに、来たとしても党の連絡で来ていたのでしょう。

 勝部 大体係は張香山じゃないかな。

 吉田 実際の指導はやっぱり、毛沢東、劉少奇、周恩来でしょう。労働運動なんかは、陳雲なんかがね。僕は、金子健太さんらが行って、あちらで会合しおった議事録は見たが、その時は陳雲が出ていたと思う。だけど陳雲でなかったかも知れません。

 

 丸山 それで十月に五全協が開かれて、いよいよ中央ビューローと中央軍事委員会、そして中央軍事委員会の下に各地方の軍事委員会、それから各地区の軍事委員会という風に出来ていきますね。その時の様子というと、おかしいんですけれども、どういうメンバーをどういう地域に配置して、レジスタンスが出来るようにしていこうという、いわば戦略、戦術、部隊配置といったようなことが、かなり緻密に計画的になされたんだろうと思うんですが、そういう軍事委員会の組織化の道順の中で、吉田さんの知っておられることはどんなことですか。

 吉田 戦略的なことは紺野氏がやっている時のほうが知っとったね、わりに。椎野のオッさんになってから非常に技術的になった。北海道の軍事委員長が東京へ行って打合せをしてきて、ビューロー会議で報告を受ける。

 勝部 地域別に二重構造にしていったということか。

 吉田 そうそう。

 

 勝部 あんたはもう政治のほうか。

 吉田 そうそう。

 勝部 軍事のほうは全然関係なかった?

 吉田 いや、全然関係ないことないですよ。やっぱり人選直接指示もだしたり。

 勝部 両方つかんでいたわけ?

 吉田 相談ですわな。そこはもうお互いの力のバランスと違いますか。二人が同じ力であれば並列してしまうし、どっちかが力があれば……。それはもうそんなもんでしょう。なんぼ決めてみたって。だから地区委員長によっては軍事委員会の方へ重点をグーと移してしまっている地区委員長もおれば、そっちを二流、三流の連中にさせて政治のほうを握っている委員長もおる。それは委員長によって、実際問題違いますでしょう。兼任した委員長もいるし。

 伊藤 吉田さんはどちらを取られました? 軍事委員会のほうに重きを置かれましたか。

 吉田 いや、僕は政治のほうをやってましたからね。

 

 

 8、世界大戦必至という情勢認識

 

 丸山 私の様に文献で勉強している若い人間にとっては、大戦必至という判断で軍事組織を作っていく時期に、産別が影響力が殆んどなくなり、大衆運動としては後退しているわけで、当時、真剣勝負していた方々は情勢をどういう風に認識されていたか。その辺がどうも腑に落ちないんですけれども。

 吉田 コミンフォルムの批判以後、大衆運動に取組みだすのは五全協と六全協の中間位からと違います? それまでは何しろ初めての非合法の体制だから……。戦前の人は経験あるか知らんけど、戦後の僕らにとっては、初めてのこっちゃしね。それから日本の場合情報は主として在日米軍のほうから取っていたから、それはもう必至という判断ですわ。だから、なにしろその準備という事だったんと違いますか。分派闘争と抵抗運動の準備と非合法体制をつくり上げんとえらい事になるということ。

 

 勝部 それには中国が一番コミッ卜している訳ね。

 吉田 そうそう。

 勝部 だから、あとで一九六九年に謝っているわけね、毛沢東が。

 

 丸山 非合法組織でアジトをつくる、専従を養う。お金もかかり大変だったと思うんですけれども、その辺でのご苦労は?

 吉田 それは財政はもう頭の半分です。

 丸山 特殊財政部任せという事じゃなくて自分でいろんなコネを……。

 吉田 そうです。特に北海道の場合は僕にね。要するに、関西やら関東やらは中央から援助してもらったんだけど、北海道はなしですわ。独立してやっていくという事でね。

 丸山 あの頃の拠点というと、炭鉱と学生ですか。

 吉田 北海道の場合、炭鉱です。炭鉱さえ組織を作ってしまえば、それは安全地帯です。向こうが汽車で来たらようわかるし。(笑)炭鉱に拠点を作ろうということで、僕の努力も殆んど炭鉱に集中しとったですわ。そういう点では内地の党よりもすぐ労働運動に取り組んだし。

 丸山 足があった。

 吉田 それから主流派と国際派の分裂も、北海道の国際派の除名は十名以下でしたから。

 

 

 9、中核自衛隊の結成と方針への疑問

 

 丸山 五二年に入りまして、二十一回中央委員会が開かれて、軍事委員会の末端に中核自衛隊をつくれという事になった。これは、文献上の知識なんですけど、それは五一年の延長で、より具体的な組織をつくったという事ですか。それとも、一定の方針転換みたいなのが……。

 吉田 いや、僕らは五全協後、軍事方針を実行してみて、これはあかんということ、すぐ気付いたんです。それで非常に反対意見言う様になってきました。一番忠実にやったから結果も早かった。だから中央の軍事委員会から村上弘君が「北海道は軍事方針を実行していない」と点検に来た。

 伊藤 今、副委員長やっている村上弘ですか。

 吉田 そう。あれが来て、それで僕言ったわけです。中央の軍事委員会の云う通りやったら、組織はムチャクチャになってしまう。労働運動もなにもムチャクチャになってしまうという意見を言った。彼は出獄すぐで余りよく判らない様だった。続いて今度は今浦君が―彼も中央の軍事委員会のメンバーだったが―やってきた。彼は「すまんけどオヤジには北海道は中核自衛隊をどんどん組織してまっせーと云うとくからそうしておいてくれ。たのむわ」と云うから「判った、判った」と。(笑) 軍事行動と云っても、何しろチャチなもんで、小樽の在日米軍が皆向うへ行って、アメリカから後続部隊を補給してきよる訳や。それを止めてくれという事を祖防の方から言ってきた。それで車のタイヤをパンクさせるため、忍者が使うマキビシという金具をばらまいたりしたけど、全然パンクせえへん。(笑) 戦時中の陸軍中尉やったという人が中央の軍事委員会におって、その人等の経験でやっとったが、向うのタイヤは進んどったわけですわ。国内でそういう事をしている時に中国では、二千人ほど集めて訓練していた訳です。

 

 伊藤 その送り出しはきちんと選んで送ったわけですか。

 吉田 そうそう。

 伊藤 それは有能な人を選んで送ったんですか。それともこっちに置いては危ない様な人を。

 吉田 いいや、そんな事ないですよ。やっぱり若手の有能な人を送っている。主たるメンバーは向こうに居ったメンバーで、こちらからは大体オルグの経験ある幹部やね。要員を送っていたわけね。

 丸山 中核自衛隊のメンバーというのは、志願なり任命されて、定期的に軍事訓練をやっていた訳で、専従はあまりいなかったんですか。

 吉田 そうそう。仕事を持ってね、または学生です。各地区委員会に一人ぐらいと違いますか、専従は。

 勝部 志願よりもやっぱり選抜でしょう? 大体。

 吉田 それは選抜ですわ。

 勝部 テクと称する女がレポをもってきて、秘密の所へこっそり行って、二重、三重に警戒して、そこにいずこからともなしに上の人が現れる。

 丸山 すると革命をやっているという気分で。

 勝部 東大生など彼女と水盃をして出てくるという様な話を聞いた。

 

 吉田 そこへ中核自衛隊と祖防が一体になっていったでしよう。向こうは実際に本国でやっているから激しいですよ。ついつい乗せられるわね。

 丸山 軍需工場でなんとかストライキやサボタージュをやってほしいとか。

 吉田 必死ですわ。

 丸山 朝鮮に日本の軍需物資が送られていくのを見ている訳ですから。

 吉田 そうそう。

 

 勝部 その頃、僕が中国の雑誌から「インド共産党の政策声明」というのを訳さしたんや。インドは両方やっていた訳だ。ゼネスト方式と農民パルチザン方式を。両方ダメだったんで、インド独自の方式でいこうという事になったが、その間内部でモメて統一の為の文書があるんだよ。それが政策声明だ。それを中国の「世界知識」という雑誌で偶然見つけて、これはおもしろいという事を、片山さとしさんにメーデーの会場で会って話したら彼は飛んできて、ガリ版で刷ったのがあるんだ。〔岡田元三訳編『インド解放とインド共産党』五月書房所収〕それを五月書房が上との連絡口だったんで訳を聞いてきて、二十部よこせというので渡したんだ。どうも椎野氏はそれを読んでいるんじゃないかと思う。

 吉田 それは回ってきてたですわ。

 勝部 見た?

 吉田 ええ、見たですね。フィリピンのフク団のやつとインドの資料とね。

 小森 そやから、アジア大洋州会議で、劉少奇が云うた事、全部失敗したんや。日本からフィリピンからインドネシアもインドも、ビルマもみな。

 

 吉田 あれが発端ですよ。あれを岡田文吉さんが中国から持ってきて、僕が会った時に報告を持って張切っておられた。四全協の時というのは、大体それやったと思います。

 丸山 あれは劉少奇独自じゃなくて、やっぱりスターリンの示唆に基づくんじゃないかと推測しているんですけど。

 勝部 わからないけど、僕はあれはスターリンじゃないと思う。

 吉田 スターリンじゃないでしょう。

 勝部 やはり劉少奇独自の考えやないかねえ。中国が考えたんだろうね。

 吉田 あの当時というのは、中国共産党はものすごく自信を持っとった。ソ連なんかなんやっていう。

 勝部 インドの共産党はゼネスト方式の時日本と同じことをやったわけよ。毛沢東を、誹謗するというと変だけど、われわれは、マルクス、レーニン、スターリン以外に珍奇なる源を発見しないと、毛沢東を批判するわけよ。ところが日共批判とつづいて一月二七日のコミンフォルム機関紙のインド共産党批判が出る。(植民地および従属諸国における民族解放運動の力強い前進) それで今度はインド共産党の内部の毛派がワーツとやって指導部を握って、そして同志毛沢東および中国共産党に陳謝するという事になった。此の農村パルチザン方式がうまくゆかぬところで五一年六月八日にさきの政策声明が出たのだ。

 吉田 やっぱしあの時でも中国の党と、ソ連の党というのは全然違った。ソ連の党の関係者から連絡が来ましたが。

 

 

 10、徳田論文と火炎ビン闘争の終息

 

 丸山 火炎ビン闘争の大規模な大衆行動が五二年の夏以後、やられなくなるんですけれども、それは吉田さんが「これじゃあかへんで」と言っていたようなのが、中央で会議でも開かれて一応の結論が出て、いわゆる、火炎ビン闘争の終息という風になるのですか。

 吉田 やっぱしやってみて、軍事は政治に従わんといかんという事が、非常に強調され出しました。

 勝部 徳球の論文が出たよね。例の三十周年論文とそれから一・一社説というのが出て、その辺でピシャッと火炎ビンがやんだものね。

 丸山 徳田氏の「日本共産党創立三〇周年に際して」というのは五二年七月四日の党の創立記念日に出ていますね。

 小森 一・一社説は五四年、五五年。六全協が出る年と前の年。徳球さんの記念論文では、わが党の同志は大衆運動に際して、ストとデモばっかりを激発する方法をもてあそんでいる―それは誤りで、いろんな多様な運動形態があるんだということで、今度は議会闘争をまた重視せよという。

 丸山 ただ、一・一論文のほうは五四年と五五年ですね。今、小森さんが言われたとおり。徳田論文は五二年の七月ですから、その間、一定の期間がある。

 小森 だから、吹田事件、枚方事件、関西でいえば吹田、枚方事件が起こったのは五二年の六月やったかな。その直後や、徳球さんの論文が出たのは。

 吉田 徳球の論文が出た時、われわれの仲間で半分げっそりしました。徳球が「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・スターリンの理論に従わねばならない」といったのを書いたでしょう。オヤジも所感出した時の元気は、あらへんなあ、やっぱり向こうへ行ったら、あかんなあと言うとった訳や。(笑)

 

 丸山 五五年の一・一論文は六全協を……。

 小森 それは極左冒険主義の自己批判に向けて出ているんだ。

 吉田 その辺から志田さんと椎野さんの間がうまくいかなくなったのと違いますか。その頃からね。

 丸山 それで、火炎ビンは五二年の夏以後行われないわけですけれども、軍事方針は、引き続いて地域闘争とか、山村の中に入って、山村の農民や土木労働者なんかを組織しろという風な、ちょっと方針転換をして、地元大衆を組織しろという風になっていくようですね。

 吉田 本当はあの時にもっと大胆な転換をすべきだったのです。それなのに、軍事方針を一応決めたりしている。

 丸山 引っ込みがつかないから。

 勝部 五四年の一・一は誰が書いたのかな。

 吉田 それは志田重男でしょう。椎野さんかも知れんが文章を読めば判りますが。その頃は北京からの連絡が入っていますから。北京でもいろいろの動きが活発に始まった時期だから。

 

 

 11、二度にわたる総点検運動の意味

 

 勝部 その前の年に律がやられているんだな。総点検運動というのは律の時代のあとだから……。

 丸山 五三年の夏です。

 勝部 それから五四年にかけて二次があるね、確か。

 吉田 五二年の総括運動というのは杉本文雄の問題が出てきた時でしょう。

 勝部 杉本文雄の問題って何だい?

 吉田 くわしくは知りません。彼がアジト、技術関係から政治書記の様な事までして、そこでいろいろの問題があったんと違いますか。僕はそれは詳しく知らんけど。その辺は岩本巌氏がよく知ってるでしょう。

 丸山 で、さっき話の出ました志田派と伊藤派の争いが、五三年から激化していくという風に一応考えられていて、夏以後、第一次総点検運動と。

 勝部 それは除名されたあとだね、律が。

 丸山 九月に除名されますが、その前です、総点検運動が始まるのは。

 

 勝部 ああ、そうか。第二次がそのあとであるんだね。

 丸山 総点検運動というのは、要するに運動がいろいろ困難なのは、内部に不純分子やスパイがいるからだということで、それを清掃してすっきりした党を作ろうというのが、一応表向きの理由なんですけれども、何か裏みたいなものがあるんでしょうか。

 吉田 総点検運動のことを、此の頃やかましく言って居られるけど、もう僕にとってはあんまり記憶にないわけです。

 丸山 第一次は五三年六月以降です。東京あたりでは、各細胞、各地区に必ず不純分子がいる筈だというので、一人一人、自分の生活と活動を報告して、人間的に不純な所だとか、動揺的な所を報告して自己批判を出せ、という様な事が相当行われたり、査問も行われてる様ですけれど、吉田さんの記憶は殆んどないですか。

 吉田 殆んどないです、それについては。

 丸山 北海道の場合は主流派全一支配で、すっきりしていたと……。

 吉田 そうそう。

 

 小森 五一年に講和会議があったやろ。それで安保とMSA協定が結ばれて、初代大使にマーフィーが来る。形式上、一応日本が半独立国家になった。その後火炎ビン闘争や極左戦術やったところが思わしく成果が上がらん。大体、朝鮮戦争が五三年に休戦に向かうわけです。その前後にスターリンが死ぬ。スターリンの死後、ベリヤ問題が起ってきて、日本の労働運動や党が伸びないのは、内部における不純分子であると。それと、北海道はともかく、関西や東京では国際派が相当対立しているから、それらの火炎ビン闘争にパーッと参加した者で、極めて批判的な意見をもった者が内部に残っているから、そこらを一挙両得で、伊藤律成敗も含めて、いわば旧志田派と岩本巌を中心にした様な組織強化をやろうとしたと思う。

 勝部 律の除名に関係した事で、その前にあんたの所へ北京の動きか何か来た?

 吉田 それはなかったです。いやあ、律のスパイうんぬんはそれは違いますよ。かつて弱かったというだけです。僕だってわからんすわ。転向した者も、中央委員追放後に、定期的にのこのこ米軍に出頭していた中央委員もスパイですわ。僕の場合、四全協か、五全協か、どっちか忘れたが、班として律氏らを指導部からはずせという意見を上げとったからね。そんなのあたりまえや。オレ先に云うとったやないかてなもんで。(笑) ただ、非合法体制に入ると、ああいういろいろな噂のある人ちゅうのは、いったら悪いけど、下部に非常に不安を与えますよ。

 

 

 12、たった八字の宮本自己批判

 

 勝部 ちょっと戻るけど、どうしても判らないのは、一番最初に志賀氏が復帰したでしょう。コミンフォルム文書が五一年八月かに出て、半分ぐらい復帰するでしょう。しかし、最後は宮顕も復帰している筈なんだ。復帰には必ず自己批判書を書いている。その宮顕の自己批判書っていうのが判らないんだ。見た事ある?

 吉田 これは、北海道に後藤鉄治というのがおったんですわ。やっぱり京都出身で、北海道へオルグに来とったんです。それがずっと中央のテク関係におったんです。だから、志田重男としょっちゅう接触があったんですね。彼が帰ってきて言ってたのは、「宮顕の自己批判というのは八字や。それだけや」という事を志田重男が言うとったと話していました。「新綱領を承認する」この八字やて。(笑)

 

 丸山 増山太助さんは宮顕の自己批判書を読んだと言ってますが。文章としてある程度のものを書いたのは、六全協で総括をする時にみんな事実を書けという、その時のものでしょうね。

 吉田 それは全員が出したやつと違いますか。

 丸山 ええ、全員、知ってることをみんな書けと。さっき話が出ました五五年の一・一論文、そして六全協という風に向かうんですけれども、いわゆる臨中といいますか、合法部隊の指導部と裏の指導部の関係で、今迄、流布されていたのは、全部裏が最高の権力を握っていて、表はいわばショーウインドウだという話なんですけれども、吉田さんもやはりそういう風にご覧になっていますか。

 吉田 椎野さんが議長をやっているまでは六・四ぐらいだったですよ。裏六、臨中四と。それからあとは、ほんまにそんなものなしと云うてええ位やったですよ。

 勝部 椎野の次は誰やった。

 丸山 ええ、小松雄一郎さんですね、次が田中松次郎、そして春日正一と。

 吉田 春日正一になってから或る程度、臨中がまた発言権を持ち出してきたんです。

 勝部 やっぱり人間の能力と関係あるなあ。

 

 丸山 五三年の暮れに全国組織防衛会議というのが開かれて、第一次総点検運動の総括と第二次総点検運動の開始を決めた。その時に小松氏が失脚して監視状態に置かれた、と叙述しているものがあります。

 吉田 結局、戦前の非合法の運動をやってきた人らは、スパイとか何とかいうものに、神経過敏になったんですね。ものすごう、異常なほど神経過敏ですな。という事は、戦前の活動の自己批判が全然なしに党の再建がされたのが、やっぱり大きいのと違いますか。

 丸山 全くそう思いますね。

 勝部 そうね。結党の過程がそうだからね。

 丸山 何か問題があると、内部のだれそれという風に、すぐ眠が向くという。

 吉田 そして、転向、非転向でしょ、すぐ。その発想がだめですよね。

 丸山 だから、大衆運動の発展のリズムの中で問題を解決するよりも、あいつの転向、あいつの裏切りという風に、すぐ眼が行くような傾向がありますね。

 吉田 特に非転向でいわゆる組織能力のない人間ね、そういう人達がその事を非常に強調したな。

 

 

 13、神山除名カンパニアの意味

 

 勝部 神山の除名カンパニアというのは、どの辺がイニシアとったんだ? あれは五四年に除名されてるだろう。

 丸山 六全協の前ですね。神山派の方々にいわせると、いよいよ方針転換がはっきりした。その時に神山がいたのでは、大衆運動も出来るし、理論も知っているし、勢力というか、一派も持っている。ここで神山を叩いておかないと新しい体制づくりに邪魔になる、というので、派閥的な思惑で非常に計画的に六全協の前の年に神山派を一掃したというんです。

  いやそれは違うよ。つまり神山いうのはいろんな所で放言したり、そしていろんな組織を別に作りよるわけだ。(笑) そういう癖があるんですわ、あの男は。その点は西川彦義も一緒やけどね。何とか同盟ちゅうのをすぐ作りよったわけだ。(笑) 特に神山の場合は派閥の親分、子分という関係がものすごく強烈でしてね。

 

 勝部 そうすると、やっぱりその時のあれは志田氏かな。志田対神山という線か。

 吉田 いや、志田重男や椎野悦朗は神山氏に対してはそんな感情を持ってないです。だから、むしろ国際派のグループの中の問題と違いますか、神山氏が国際共産党関係に、意見書を出したりしたので。

 勝部 しかし、主要論文を書いたのは紺野といわれているね。神山批判を小笠原鉄平という名で出している。

 吉田 小笠原鉄平というのは椎野さんです。

 勝部 ははア。それじゃ椎野氏がイニシアをとったんだね。

 吉田 志田・椎野氏の合意でしょう、国外指導部から云って来て。国際派の中でも神山茂夫というのは孤立してたんと違いますか。

 勝部 孤立いうより別箇の組織だ。

 丸山 国際派じゃなかったんです。

 

 吉田 それから、国際派に対する問題については、宮顕の意見というのが非常に決定的やったし、それで選別してたと思います。

 勝部 そうすると、宮顕なんかの合意が基になっているのかな。

  だから東京の国際派の関係は、志賀さんは圏外にあって、宮顕、亀山。亀山はどっちかいうたら宮顕派みたいなんで、春日なんかにもアレしている。それで、結局神山いうことになった。

 

 

 14、志田・宮本の連合と六全協準備

 

 丸山 五四年になって、五五年の夏の六全協までの前兆といいますか、いよいよ方針の大転換が準備されてるぞ、或はそういう様な事を考えなきゃいかん、という様な事は、吉田さんはいつごろ、どの辺で感じられましたか。

 吉田 いやもう恥かしい話やけど、殆んど具体的に知らんかったです。小山弘健さんの本を見たら、僕と志田、椎野、岩本らの会合持ったと書いてある。(笑) 椎野さんなんかは信州に隔離されていたし。まあ、善意に解釈すれば、志田重男が私にそういう話をするという事は党の統一を乱す事やから、そういう事はしなかった、という風に僕は解釈したいわけです。ですから、本人は非常にまじめにそういう事を考えていたんじゃないか。ところがこの間死んだ、中部ビューローの責任者だった木南さんに聞いたら、木南さんは半年も前から、志田さんから聞いて、国際派との接触をしていたそうです。水野君もよく知っていたよと彼は云っていた。

 

 丸山 それは五五年でしょう? 六全協の年ですか。宮本顕治の「私の五十年史」という本で彼はこう云っているんです。

 「五五年のある日、顔を知った者の使いが来て、志田重男と会いたいと告げた。彼は、党の分裂以後、地下活動に入り、徳田に一番近い人と思われていた人物であった。その日、自動車を度々乗り換えて、郊外の大きな家に行った。志田の他に西沢隆二らがいた。『徳田は北京で死んだ。極左冒険主義は誤りだった。伊藤律はこれこれの経過で不純分子である事が判明した』。彼らはこう言って六全協の計画を提案した。」 此の様に、宮本氏の本では五五年のある日になっているんですが、僕はもっと早いんじゃないかと思います。ですから今、吉田さんがおっしゃった、志田と宮本が会って相談しているというのがいつの時点なのか。これが非常に重要だと思っているんですが、もし、宮本がかなり前から、志田氏と連絡をとっているとすれば、自分と志田が党のヘゲモニーを振る下準備を、相当計画的にやっていたと思われる訳です。

 吉田 それはもうはっきりしているでしょう。それについてはね。それは志田重男は宮顕以外は相手にしないと。

 丸山 それがいつごろからなのかという事なんです。五四年の夏から六全協の準備は始まっているわけですね。

 吉田 それから、僕が椎野さんと北京へ行くという事があったわけです。

 勝部 何時頃、それは?

 吉田 何時だったかな。それは椎野さんに聞いてみたらわかるかも知らん。

 勝部 五四年だろうな。

 

 吉田 北海道で準備してね。で岩本巌さんの使いのものが来て、おかしな事聞きよるなあと思うていたんや、僕は。そんな、前から中央へ報告している話、なんで改めて聞きにきよるのかと思うてました。そしたら、急に北海道を離れろというし、それで僕、行ったわけです。そしたらある所に入って、で、夜、椎野さんが来て、君と二人で北京へ行くからという事で、オレは詳しく知らんので、あんた報告してやと。北京の連中が軍事問題で、いろいろと直接聞きたいと言うとるのやと、こういう話だった。そんで、なんか小さい船で行くんで、ヒゲ伸ばして行けいうて。で、「軍事問題でオレが責任とる、てどういうことや。僕がなんで責任とるのや」と椎野に言うたんやけど(笑)、それで僕がおかしいなと感じたのは、僕がちょっと外へ出ようとしたら、隣の部屋に一人いて、それが護衛してくれてると思うとったんや。そいつの態度がバッと変わって、勝手なことしてもろてはかなわん、とこういうこと言いよったんで、これはおかしいと思うた。

 勝部 ああそうか。全責任を押しっけようとしたんやな。

 吉田 そうでんがな。それはもうはっきりしてんのや。それで僕、志田重男に、そやったら一ぺん会いたいと言って、新宿で会ったんです。そこに西沢隆二も居った。西沢隆二なんて、青共の運動の時に一緒やったから、よう知ってまんがな。それなのに話もしまへんねん、ぷーんとして。それから、大村英之助が来よった。彼は普通の話で、ヨオ久し振りやなあちゅうことだった。それで志田重男と僕会うて、「なんで北京へ行くねん」と聞いた。そしたら「君が今後中共との連絡の責任者や」言うけど、どうも、その言い方が、なッ。(笑)どうもくさいなあと思うて、オレは絶対行けへんでって言った。ほんで一遍帰ってそこへ行って、パッパッパッと出てしもうたってん。そしたらそいつが来て、もう船が出てしもたとか言ってえらい怒っとった。(笑) それで椎野のオッサンが来て、「行かんでもええようになった」っちゅうわけや。恐らく、行かんでもええようになったというのは、志田重男に僕が言うたんで彼もそこで頑張りおったんかどうか知りまへんで。何かの変化があった。

 

 勝部 その時に北京には、徳田は死んだし西沢は帰って来ているし、だれのことや。

 吉田 いや、袴田さんがおるから。

 丸山 彼はモスクワ会議が終った後、北京機関のいわば監督みたいな立場でしたね。

 吉田 その同じ船で、小松豊吉君(産別金属)が行きました。それが一緒に行く事になっていて、彼だけ、連れていかれよった。(笑) ほんであっちへ行ったら、袴田さんが偉そうにしていて罪人扱いやったらしい。えらいひどかった言うていた。

 丸山 それがいつ頃の事か。もう少し何か記憶にないですか。

 吉田 僕が北海道から東京に呼び出される前後に、椎野のオッサンも外されて信州へ行っとったらしいわ。そんで東京へ呼び出されて来たらその話やったと。

 

 勝部 そういう絵をかいた一番大元はだれやろう。

 吉田 それはこっちが聞きたい位だ。

 丸山 モスクワの会議に参加したのは、野坂、紺野、それから袴田が書いてますね。

 吉田 袴田、西沢、河田賢治、宮本太郎、それに例の安斉庫治もちがいますか。

 丸山 ああ安斉。

 勝部 その辺だな。その中ではイニシアとれるのって誰だろう。

 吉田 それは、西沢、袴田でしょう。

 丸山 で、袴田が北京在留の日本人の再教育というか、監督役みたいなものになって、もう一方は先に日本へ帰ってきて下準備をする。

 吉田 そこへ椎野のオッさんとオレが行く事になってたんや。

 丸山 それで、今までの誤りの責任をとらされると。

 吉田 いや、責任をとらされるかどうか、それは判りまへんで。

 

 伊藤 それは中国の側からの発意というよりも、国内にそういうプログラムを組んだ人がいるわけでしょうね。

 吉田 それは宮顕も志田重男も、ある意味ではみんなの合意やと思う。だれかの責任にせんと。

 勝部 そうだろうな。その辺で話をつけて犠牲の小羊をつくって。

 吉田 僕の場合は、志田重男が僕を送っておけばあっちの党の関係も……。

 丸山 パイプ役に。

 吉田 という気もあったかも知れないですよ。それは各々の意図が違うたんと違う? (笑) 伊藤律を送った時と一緒で、各々、思惑とニュアンスが違うのや。第一、僕が行った時に志田重男さんは何ともいえん顔してたからね。彼も相当やましいとこがあった事は間違いない。(笑)

 小森 だから、六全協直前に事前に相談かけなかったんやと思うな。オレの手元からアイツ離れよった。オレの言うこと一辺に受けよらん様になったからと、中枢から外しよったんだ。

 

 丸山 そして五五年の一・一論文というのは、極左冒険主義を自己批判し、いわば、合法への転換を明らかに示した。ある意味では、六全協の決議の下準備であるわけなんですが、あの「アカハタ」論文以後、五五年の一月以後は、吉田さんはずっと東京ですか。

 吉田 いやいや、北海道ですよ。

 丸山 その年も?

 吉田 それはずっとそういうことです。

 丸山 そうすると、小山弘健氏などが書いている歴史の本では、志田、椎野、吉田、岩本、水野(進)らが、五五年の一月以後、公然化への準備で指導部を形成して奔走したと、こうなっているんですが、これはどういう……。

 吉田 それは全然ウソや。この時、椎野のオッさんはもう信州へ飛ばされておったはずや。(笑) なんでこんなこと書くのかわからんわ、オレ。少なくとも本を出す限り、よっぽど根拠をはっきりして出さんとね。

 

 

 15、六全協を組織したのは誰か

 

 丸山 そうしますと六全協の連絡は、どういうかたちでお聞きになりました?

 吉田 正式な通知で、代議員を北海道から五名出してくれという話だった。

 丸山 議案書は事前に?

 吉田 そこらは記憶にないなあ。北海道からは四、五名出席したと思います。

 丸山 あれは百人ぐらいの大きな会議ですね。

 吉田 党本部、なんやしらん、もうあっけにとられてしまって、何の話やさっぱりわからん。(笑)

 勝部 六全協に国際派でだれか出たの?

 吉田 志賀さんが来てましたよ。

 勝部 あれはちょっと別や。宮顕派の中で出たというのは、あんまり聞かんなあ。内藤知周はもちろん出てないでしょう。

 吉田 原田長司氏が出ていたと思う。

  あれね、いわゆる統一委員会ということにして、センターといってね。

 

 吉田 人選はどないしてやったのかね。

  いやいや、あれは六回大会の中央委員というのがあって、これは中央委員だといって威張っとった。それはセンターいうとった。そのほかに、統一委員会ちゅうのをあとでつくりよった。その統一委員会ちゅうのが、原長やとかそれから何人かおるんですよ。その連中はそこへ行ったはずです。

 丸山 三月十五日の「アカハタ」で、春日正一、志賀義雄、宮本顕治、米原昶を中央指導部員として発表しているわけです。ですから、三月には宮本が指導部に入って、いわば裏方じゃなくて正式に入っているわけですね。

  ただ、そういう話は本当の上だけの話で、ごく限られた、いうたらボス会議で決まっちゃったんだよ。

 吉田 そうでしょう。そう思うわ、オレも。

 丸山 そうですね。そうでなかったら、中央委員の吉田さんが、会議の時に少なくとも……。

 吉田 椎野さんも、ごく前に知ったと言うとった。その時北京からの手紙を見せられたと。

 丸山 そうするとやっぱり、志田と宮本とモスクワ会議に参加した連中とで、極秘裡に準備したと。

 吉田 そうそう。

 

 勝部 西沢隆二は出てないの?

 吉田 いやいや、出てない。もうこっちに帰っていた。もうだいぶ前に。僕があの時にもうおったもの。

 勝部 という事はどういうことやろう。西沢隆二が北京で一番羽振りきかせていたんだろうからね。

 吉田 それは羽振りきかせていたらしいですね。西沢隆二氏が死ぬ少し前、大阪へ訪ねてくれた時、彼は「日本へ帰ってここまで言うのは始めてだ」と前置きして、北京での事、モスクワへ行った時の様子、伊藤律問題を話してくれた。その時、非転向者は自分一人だ。自分がやらないとと云う責任感でやった、と。その時、戦後、自分は志田と宮顕をガッチり組ませないと日本の党はダメだと思って来た。志田を東京へ呼んだのも自分が徳球に云ってやった。六全協の時も自分が志田と宮顕を組ましたと。

 勝部 ところが帰ってきて、肝心の志田、宮本の話し合いの裏方じゃないわけだろう?

 吉田 それはそうでしょう。北京帰りに主導権取られたらかなわんからね。

 

 丸山 六全協の前の六月頃ですか、軍事組織=Yの解散というのは正式に連絡を受けましたか。例えば武器なんかは全部処分しろとか。

 吉田 それは来ていたですね。どんどん、そういう非合法関係の文書は……。

 丸山 もう焼却処分しろとか、武器処分。

 吉田 それは来てました。

 

 勝部 六全協の事務長みたいなやつはだれかな。

 吉田 それは岡正芳でしょう。杉本文雄のあとが岡やから。

 丸山 宮本とのパイプ役をやった。

 吉田 そうだと思います。

 勝部 岡と西沢富夫はずっと調査部のはうに行っていたんだ。二人はコンビやった。

 丸山 それが宮本に付くような形で……。

 勝部 うん、仲をとりもって。

 丸山 志田と宮本の間をとりもって、副官の役割を果たしていたと。

 吉田 なんで僕が外されたんか判らへんけど。(笑) やっぱし志田重男の勢力が衰えておったんと違うかと思う。僕を志田重男が敬遠するという事は考えられへん。だけど、六全協の精神から云って僕とあまり近いという事は具合悪いか、何か勢力的にあかんようになってきたのか、どっちかやと思う。

 

  李徳全問題というのがあったでしょう。あれは六全協の手前だったわな。あの時に大阪扇町公園で大集会やって三万人集まったんやな。あれが大衆化への転換だという事で全精力を注いだんだと思うんだけど。

 小森 五四年の十月、十一月や。あれもビューローにおった連中が全部浮上してくる一つのきっかけになったと言うてるな。

 吉田 その時にはもう志田重男と宮顕の間ちゅうのは……。

 小森 出来てるはずや。だから、宮本と会うたんは、五五年のある日やなくて、五四年の夏から秋にかけて、密使が来た時にドッキングしたと思うのや。意識的にずらしているんだ。

 吉田 そう思うよ。

 丸山 だからこそ、五五年の一・一論文が出て自分が合法指導部の中に入る。

 吉田 別所が宮顕の秘書をしてたな。

 小森 それは半分、監視役を含めてな。

 吉田 土田君から聞いたが、別所が「宮顕がだんだん自信をもってくるのがよくわかった。駅で待ってても足をとんとん踏みながら口笛吹き出したんやて。」(笑) そやから別所が連絡とってたんと違うか。

 

 

 16、志田除名をめぐって

 

 勝部 あんたが除名になったのはいつだい?

 小森 北海道で……。

 吉田 いや、こっちでやがな。志田さんより僕らのはうが早い。

 小森 志田の除名は一年半ぐらいかかった。志田が任務を放棄して逃亡してやな、それが全国的に話題になって、一応、宮本はかばっていたんや。

 丸山 逃亡後も「志田君」と言ってますね。

 小森 君づけしてたんや。西川にしろ、亀山幸三にしろ、春日(庄)にしろ、反対派がちょっとでも蠢動したら、ただちに除名する宮本が、志田に対してだけは一年間、抱えてたんや。だから、その前年吉田さんはやられてるわ。志田派での全国的除名のはしりやから、あんたは。

 

 吉田 統制委員会から二人来て「鉄の戦線」いうのを出しているという調査なんやが、「そんなもの、オレは見た事ないわ」いうて、ちょっと見せてや言うたら見せよった。僕は思うけども、やっぱし出してたんは志田さんと違う?

 小森 それは志田さんの文体や。

 吉田 まあしかし、わからんのは、オレこっちへ帰ってきたやろう。一番先、統制委員会から来たんは岩本巌さんともう一人。「お前ら党をなめたらあかんぞ」と巌さんが云うんや。

 小森 北海道から箕面へ戻る時に、機関通して転籍手続きとってきてへんいう事が理由になったんと違うか

 吉田 それはそうや。しかし、オレはここにおるやないか言うたんや。なにも隠れているわけやない、オレはここにおるって。それで、六全協でもみな地元へ帰れいうてたやないか。だからオレは帰ってきたんじゃ言うて。

  それは任務放棄という事にはならんかった?

 吉田 いや、「鉄の戦線」を出しているいうこっちゃ、それが除名理由だったと思う。その後にもう一回統制委員会から来た。で最後に、山田六左衛門と馬瀬坂ともう一人、三人で来た。それでオレが、「なんや、こんなもん、六全協でみな決めておきながら一方的に排除するてどういうことや」云うた。そしたら六さんが「顔洗うて出直してこいという事か?」と。「そうやて。こっちも一党員や、オレの意見、何も発表させへんで一方的な事ばっかりどんどんどんどん……。だれかがオレのこと言うたら、そのままお前ら発表して、オレの意見ちゅうのを全然載せへんやないか。一方的にキャンペーンしていって、どんどん、どんどんしてしまうやないか」。そしたら六さんが「それが気に入らんのなら党におって『アカハタ』や『前衛』に発表したらええことや」と云うから、「ほんなら、六さん、『アカハタ』や『前衛』にオレの論文発表させるという保証するか?」と言ったわけや。「それはちょっと保証しかねる」「それやったら何にもならへんやないか」と。三人帰ったあと、六さん一人だけちょっと帰って来て、まああそこが六さんのええとこで好きなとこやけど、「実は君を除名することに決まったんや。大阪では除名するわけにいかんので、どこかほかへ行ってくれ」って。(笑)

 

 勝部 最後に何か感想を。

 吉田 党を除名された人達が、今になって、自分はあのときああいった、こういったと云っているが、あまり立派なことでないと思う。―自分もふくめて。学者や評論家なら別として、政治家としては、ましてや革命家としては、自分の意見が、なぜ実行出来なかったのか、なぜ党内多数の支持をえられなかったのかをまず反省してほしい。六全協後、七回大会、八回大会で大量の人が党から出たけれども、何故本当の党が出来なかったのか、みんな考えないと負け犬の遠ぼえに過ぎないと思う。当時のことを研究しておられることは、非常に貴重なことと思いますが、出来るだけ関係者は複数の人に聞いてはしい。僕らは正直いって、四全協、五全協、六全協は思いだしたくない位だ。しかし整理はせねばならないと思っています。と云うのは、欠陥はあっても半分位であれ非合法の経験もした。軍事問題もとっくんだ。この経験を整理しておかないと、再び弾圧が来たとき、この経験が生かされないことになる。特に失敗の経験は二度とくりかえしたくないと思います。

 

 

 吉田四郎、聞き手一部の略歴 現在経歴は1981年の出版時点

 

 吉田四郎 一九二六年大阪府生れ。陸軍予科士官学校より復員後共産党に加わり、大阪地方委員候補などを経て、北海道地方委員会議長として、半非合法下の党活動を指導。六全協後党を除名。現在会社経営。

 

 丸山茂樹 一九三七年愛知県生れ。中央大学中退。六〇年安保闘争、六一年新島ミサイル試射場反対闘争に参加。以後民間企業に勤務、市民運動に参加。

 

 勝部元 一九一七年京都生れ。九州大学卒。満州重工業調査部、日本製鉄監理部に勤務、四三年横浜事件で逮捕。戦後世界経済研究所、愛知大学を経て、現在桃山学院大学社会学部教授。

 

 伊藤晃 一九四一年北海道生れ。東京教育大学卒業後、社会運動史研究に従事。現在千葉工業大学講師。

 

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 (関連ファイル)

    『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24