現代史への一証言

 

―川口孝夫著『流されて蜀の国へ』を紹介する―

 

札幌学院大学名誉教授 中野徹三

()これは、『労働運動研究』(no.356、357 1999.6、7)に掲載された中野論文です。このHPに全文を載せることについては、中野氏の了解をいただいてあります。

〔目次〕

  1、白鳥事件党員の犯行を裏付け 元共産党軍事部門幹部が証言

  2、「大躍進」から「文革」までを体験

  3、誰の罪か?―「追放」の責任問題をめぐって

  4、歴史の暗部は放置されるか?

 

    (添付資料)川口孝夫著『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋

 

(関連ファイル)             健一MENUに戻る

    『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

       『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』「地下軍事組織“Y”」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

 

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 「北海道新聞」の九八年一〇月二九日号朝刊は、一面トップに次の見出しが付いた記事を掲載して、読者、とりわけ年配の読者たちに強いショックを与えた。

 白鳥事件党員の犯行を裏付け 元共産党軍事部門幹部が証言

 この記事によると、一九五二年一月に札幌で現職警部が殺害された「白鳥事件」の後に、当時日本共産党北海道委員会の軍事部門幹部だった川口孝夫(かわぐち・よしお)氏が五六年三月密出国して中国に渡り、一八年間の亡命生活を送って七三年一二月に帰国したが、この川口氏が九八年一〇月二八日(本の奥付では一〇月二五日)、「流されて蜀の国へJと題する回顧録を自費出版した。

 この著書のなかで川口氏は、自らの関与は否定しつつも、事件直後に複数の「関係者」から事実と経過を知ることができたこと、そしてその内容は、同事件の首謀者とされ、殺人罪で懲役二〇年の実刑判決を受けた同党札幌委員会委員長(当時)、故・村上国治氏(後に小林姓)らによる白鳥警部殺害の共同謀議などを裏付けた一部脱党党員の検事調書での供述内容と、「基本的に一致している」(1)と記している。川口氏は、当時の日本共産党札幌委員会の「軍事委員会」の中心メンバーのひとりであり、こうした立場にあって、しかも事件―逮捕により脱党した党員ではない人物が、こんにちこのように発言したことの意味するものは、大きい。

 白鳥事件とは、一九五二年一月二一日夜、当時札幌市警警備課長だった白鳥一雄警部が、自転車で帰宅途中の路上で、やはり自転車に乗っていた男に背後から拳銃で射殺された事件である。

 五一年秋から五二年にかけての時期は、日本共産党が朝鮮戦争期の半非合法体制下で五一年一〇月開かれた第五回全国協議会(五全協)においていわゆる「五一年綱領」を採択し、武力革命路線=軍事方針を立ててその実施に移った時期であって、北海道でも五一年の一二月には赤ランプで列車を止めて石炭を奪取しようとした「赤ランプ事件」がおこり、年末には札幌市役所に「自由労働者」の一団が「餅代よこせ」の要求で坐り込むなどの事件が相次いだ。札幌市警はこれらの事件に厳しい弾圧をもって臨み、多数の日共党員を逮捕したが、これに対して高田市長、白鳥警部、塩谷検事等に数百通の「脅迫ハガキ」が送られ、さらに五二年の新年早々には「新年にあたり警察官諸君に宣言する」という題のビラが主要警察官の役所や家庭に送られた。後者の「対警宣言」には、「白鳥其の他の敵、新しい敵を一人一人葬り去ることを宣言する」という字句が、記されていた。

 こうした事実の報道が連続するなかでおこつた白鳥警部射殺事件は、全道と札幌全市に大きな衝撃を与えた。しかも事件の翌朝、「見よ天誅遂に下る!」という見出しのビラが北大正面前を含む札幌市内の数カ所で撒かれ、そのなかでは「自由の凶敵白鳥市警課長の醜い末路こそ全ファシスト官憲共の落ゆく運命である」という見出しで、「市民弾圧の総責任者」白鳥警部の殺害を公然と正当化し、「自由を守る闘い」への市民の決起が呼びかけられていたが、この天誅ビラの末尾には、「日本共産党札幌委員会」の署名が、大きく印刷されていた。

 事件のこうした様相は、のちに日本共産党自身が「極左冒険主義」と規定した戦術が集中的に実施された一九五一年〜五二年の諸事件には、多かれ少かれ共通している。しかし、白鳥事件にかかわるこれら一連の経過は、予告―実行―実行宣言という、確信犯による政治的テロルの常道を連想させる点において、一見類似した他の諸事件から本事件を、明確に区別するもの、といってよい。一例として「天誅ビラ」(その製作と配布が一部共産党員以外の何者かによってなされたとは、誰も主張していない)ほど率直公然と警部殺害を正当化した文書は、他のどの事件にも類例を見ないもの、といいうる。

 当然ながら官憲側は、事件の背後に日共の党組織、一群の党員とシンパが存在すると想定して、全力を挙げてその追及に取りかった。

 この追及は、主としていわゆる「ニコヨン」(自由労働者)と、北海道大学の学生の党組織、札幌市委員会とそのもとのいくつかの経営細胞と居住細胞に集中したが、一部は高校生の民青グループにも及んだ。

 その結果は、悲惨であった。私はまだ正確には確認できないが、直接間接に事件に関係ありとみなされたおよそ五〇数名の党員あるいはシンパサイザーが逮捕され、逮捕を免れた者のうち、一〇名が中国に亡命した。

 被逮捕者のなかから、複数者(追平著書によれば朝鮮人一名を含む三名、そのひとりは高校生)が自殺または変死を遂げ、他に少なくともひとり(北大生)は、精神異常を来して入院した。

 被逮捕者のおよそ三人に二人は、結局はなんらかの形での自分の事件への関与を認めて自白し、一部は(追平氏を含めて)検事側の証人になった。追平氏の著書は、(一九五九年の時点で)被逮捕者のうち、党から離脱した者の数と、離脱しなかった者の数を、三六対一九としている。(3)

 中国に亡命した一〇名のうち、七名は日中国交回復後帰国したが、白鳥殺害の実行犯とされた佐藤博容疑者と、宍戸均中核自衛隊長の二名が数年前に中国で客死したことは確実であり、当時北大生でいまなお中国にただ一人残留している鶴田倫也氏は一昨年の六月七日、北京での時事通信記者とのインタビューに応じてこの点を認めた上、さらに「―もし、このままであれば、事実はやみからやみに葬り去られる。何も話さないのか」と問われ、「それはいつか明らかにしますよ。今はその時期ではない。」と答えている。(4) なお、首謀者と目されて五二年一〇月逮捕された村上国治氏は、一貫して無罪を主張してたたかっていたが、六三年一〇月、最高裁で懲役二〇年の刑が確定し、七七年に刑期満了で出獄した。氏はその後も再審を請求し続けたが、五年前の九四年一一月、埼玉県の自宅で焼死するという、悲劇的な最後を遂げている。

 事件はこのようになお多くの謎を秘めながら、今に到るまで多数のひとびとの運命を暗く蔽っているのである。

 川口氏夫妻は、先に挙げた一〇名の「亡命者たち」のふたりである。しかし夫妻の「亡命」とは、実は六全協による統一の八カ月後(一九五六年三月)の日本共産党による、中国への擬装された強制追放にほかならなかった。本書は、この経過と、一七年間の中国滞在期の夫妻の体験を記したものであり、「大躍進・人民公社」期から文革期までの中国の実情の一部を亡命者から見たひとつの史的記録になっているとともに、終章「私と白鳥事件」において、氏の「蜀の国」(四川省)への「追放」の真因となった白鳥事件と氏とのかかわりについて、簡単ながら重要な証言を行なっている。

 私は、本年三月末をもって漸く大学の仕事から解放されたので、今後はSTASI(旧東独保安警察)の研究をまとめるかたわら、私の大学時代の友人多数が犠牲となった白鳥事件について、その政治的背景を含めて、全面的に解明したいと考えており、目下その準備を進めている。そしてそれは、スターリン主義の究明を生涯的課題とした私の人間的義務でもあると自認している。本稿は、川口氏の今回の著作の紹介と、その若干の検討を通じての、その準備作業の一つである。

 

  「大躍進」から「文革」までを体験

 川口氏によれば、氏は当時の日本共産党統制委員梶田茂穂氏から五六年三月(亡命ではなく)「仕事をするために中国に行ってもらう。北京で党の責任者に会って仕事を決めてもらい、仕事が終われば日本に帰ってもらうことになる」(5)、といわれてその言葉を信じ、五六年三月に「第一勝漁丸」で焼津港から夫人同伴で非合法に中国に渡航した(いわゆる「人民艦隊事件」の一部。なお夫婦で密航したのは、川口夫妻だけらしい)。

 中国に着いた川口氏は、中連部(中国共産党中央対外連絡部)が管理する北京市内の「招待所」に収容されたが、そこでは間もなく、氏に対する日本共産党の査問が始まった。査問は袴田里美氏の部下の羅明氏(日共党員の中国人)によって二カ月半行なわれたが、その一つは「白鳥事件」関係で、「同事件に対する私の関与の程度を追及された。もう一つは私と志田派との関係である。」(6)

 同年六月、川口氏は北京郊外の「人民大学分校」に送られたが、これは「ソ共、中共、日共の三者が協力して作った日本革命のための幹部養成学校」であり、多数の日本人がいたが、その中には抗日戦争で八路軍に協力した人、満鉄等にいた戦前の左翼、解放後中国に残っていた人々と共に、一九五〇年後に日共から送られてきた人々も含まれていた、と氏は述べている。

 ところで私は、この川口氏の本を石室清倫氏に送ったのち、氏のお宅で感想をうかがった(以下の各所で紹介する石堂氏の発言は、すべて氏の承認を頂いたものであることをここで附記しておく)が、氏はこうした「日本革命幹部養成学校」の代表的なものが「天津日本人学校」であって、そこには土橋一吉、犬丸義一、工藤晃などの諸氏もおり、またここには満鉄に勤務し周恩来の信頼が厚かった横川次郎氏も教師として活動していた、といわれる。それで私は川口氏に、この北京郊外の「人民大学分校」と「天津日本人学校」との関係について質問したところ、川口氏は「天津日本人学校」については耳にしたことはないが、土橋をはじめ上記の人々は、間違いなく「人民大学分校」にいた、と答えられた。日本共産党史を研究するためには、戦前の「コミンテルン日本支部」はもとよりのこと、戦後においても、ソ連共産党ならびに中国共産党との間の複雑な組織的・思想的諸関係の全面的解明なしには前進できない。

 さて、川口氏がこの学校に着くと、すぐに校長の連貫氏から「情勢に基本的な変化がないと、日本には帰れない」と宣告された。氏が「情勢の基本的変化」の内容について問うと、それは「(日本で)革命に勝利するような情勢の変化」だ、という。こういうことを、袴田氏はじめ北京在住の日共指導部は、川口自身にはまったく会うことなく、中国側に言わせたのであり、氏は「党の策謀にはめられたという怒りで一杯であった。」(7)

 この学校では、哲学、中国革命史、社会発展史などが教えられたが、生活は贅沢そのものだった、らしい。この学校は別の意味の「情勢の変化」により五七年夏に廃校になり、ここにいた日本人の大部分は、いったん中国全土に分散したのち、翌五八年の七月に引き揚げ船の「白山丸」に乗船して帰国した(先の工藤晃氏等も)。しかし、川口氏夫妻を含むいわゆる「白鳥事件関係者」は中国に残される。

 この際、これらの人々の中国「残留」について、日共と中共の間で何らかの協定が結ばれていたことは、確実である(そしてこの時の日本共産党とは、もちろん六全協後の統一した党である)。だがその内容は、当事者の川口氏にもまったく明らかにされなかった。

 五七年の夏、川口夫妻は人民大学分校にいた二〇〇人余の日本人と共に、重慶に移動した。書名の『流されて蜀の国へ』の旅である。七日間の汽車の旅ののち、重慶に着き、その郊外の歇台子にある「中共中央第七中級党校」に送られる。

 本書の第二章「重慶市歇台子で」と第三章「大躍進の渦中で」には、新中国成立後の最初の重大な転換期である反右派闘争・大躍進運動に「亡命」日本人として参加した著者自身の体験記として、興味深い。五八年には、学校が成都に移転して「省党校」となり、川口夫妻は以後この地で氏名も中国風に変え、中国人幹部と給料や宿舎など生活を同じくして、中国の国家幹部の一員として一一年の歳月を送るのである。数年で共産主義に到達するという毛沢東の幻想から生まれた「人民公社」運動、密植と深耕、土高炉、公共食堂等をめぐる悲喜劇の数々が、ここに紹介されている。

 数例を紹介するならば、五八年秋の農村の大躍進運動では、男たちの大部分が「土高炉」の原料と燃料としての鉄鉱石と石炭採掘のため山に入ってしまい、人民公社の主な労働力はお母さんや子供、老人ばかりとなり、公社の指導部はお母さんたちに「夜も一カ所に集まって泊まり込み、家に帰ってはならない」という決定まで行なった(お母さんたちの訴えを受けた川口氏が独断で「明朝六時半まで集まること」に変えて喜ばれたという)。こうした人手不足のもとでの「突撃」の刈り入れで大量の落ちこぼれが生じ、それに無料の公共食堂の浪費が重なって翌五九年には食料不足が発生し、さらに自留地も禁止されたため農村で野菜が不足して公共食堂では真っ赤な唐辛子だけになったこと、また何百人分もの食事をつくるためと、土高炉の石炭不足のためまわりの木や竹林も切って燃やされたこと、等々。なお川口氏は、「この時の中国の山林と植林の大破壊は新中国誕生以来最大のもの」であり、これらは根底には「共産風」による所有権の完全な無視が招いた結果であると述べている点は、改めて留意さるべきであろう。マルクスの「共産主義社会」においては、「人間と人間との相克の真の解消」は、同時に「人間と自然との相克の真の解消」だったはずであるのに(『経済学・哲学草稿」)。

 この不幸な運動は、同時に上意下達の官僚主義の極限化と不可分だった。この本によれば、五八年秋の農村の大躍進運動では、深耕の目標は二尺から三尺、収穫高の目標は「畝産千斤」から二千斤、最後は一万斤という馬鹿げたものだったが、実際に耕していた深さはせいぜい五寸あまりであり、小麦の収穫量も一畝(ムー、約六・七アール)当たり二〇〇斤から三〇〇斤(一五〇キロ)が最高だった。「真面目な幹部が事実に基づいた計画目標を出すと『右翼日和見主義』として批判の対象となり、上下左右から責められて数字を上げさせられる。最後まで実際にあった正しい意見と目標にこだわると、今度は上の指導に従わないとクビにされる始末である」(9)。川口氏は、県委員会のある書記が「深耕六尺」(約二メートル)の目標を掲げ、囚人を一、〇〇〇人連れてきて自分の「試験田」を作って模範を示そうとした例などを挙げている。著者は、大躍進政策による食料不足の結果、餓死者は多数(一、五〇〇万人とも二、〇〇〇万人ともいわれる)出た、と記しているが、BR・ミッチエルの『国際歴史統計』を見ると、中国の総人口は六〇年と六一年の二年だけ、前年より滅少している(二年合計で一、三四八万人)(10)。こうした事態は、文革期にも見当たらない。

 第五章「彭県での日々」は、文革のプレリュードとしての「社会主義教育運動」(「四清運動」)に参加した体験の叙述であるが、すべての困難の背景に「階級敵」を見る極左路線が他方ではどんな悲劇を招いたかを、いくつかの実例に即して生々しく描いている。毛の「階級闘争至上主義」は、六五年一月の「二三力条」では「党内の資本主義を歩む実権派は四清運動の打撃の主要対象である」として、ついに党中央の幹部を第一の階級敵として規定するに至り、文革期の「奪権闘争」に道を開く。

 第六章「『文化大革命』と帰国の望み」で著者は、六六年に日共の宮本代表団と毛沢東との会談が決裂したのち、著者を含む成都にいた日共党員が全員日共の立場に反対することになり、北京に赴いて日共の代表である砂間一良氏と論争した様子を記している。その後、文革が進展するにつれて、文革の局外に置かれていた中国在住の外国人たちの間に文革への参加を要求する運動がおこり、六六年一二月末に中国外交部主催の大会が開かれ、この席に外交部長陳毅から、「外国人も参加できる、という毛沢東の指示が伝えられた」(11)、という。日本人でこの大会に参加したのは、、川口氏を含む三人だった。以後、川口氏らも文革に参加してゆく訳であるが、そのなかで日共に造反した北京の日共左派は、六七年一月二七日に声明を出して日共に決別し、日共はこれら造反組の除名を『赤旗』に発表した。著者は、同年の八月四日、北京の日共代表の砂間一良、『赤旗』特派員の紺野純一両氏が日本へ引き揚げる際、日本人の「左派」が組織し、中国各大学の紅衛兵も参加して北京空港でおこった両氏への「批判大会」の様子をも、参加者のひとりとして描いているが、それは氏によれば「全く批判などといえる代物ではなく、単なる暴力的迫害でしかなかった」(12)。川口氏によれば、氏自身も何とも情けない批判大会だと思いながら、口に出さなかった。

 その後、川口氏自身が打倒され批判される側にまわってしまい、それを機に文革そのものに疑問を抱くようになった、という。氏はこの点について、一般的に中国で養われている各国共産党員は根無し草同然であり、そのために教条主義の観念論に陥りやすかったのだ、と自省をこめてこの時期を回顧している(13) 

 川口氏の著書の第六章から第八章までは、かの「文化大革命」期を生きた氏夫妻の体験が語られており、興味深い種々のエピソードも登場するが、本稿では紙面の都合上、その紹介は省略し、読者の皆さんの本書の直接のご参照をお願いして、氏夫妻の出国と帰国をめぐる諸問題を、日本共産党の政治責任との関連で改めて考察し、最後に「白鳥事件」(ならびにそれに関連する諸事件)とその解明が日本の社会主義運動の今後のありかたにとって持つ意味について私の所見を述べたい。

 だが、第六章以降(一九六七〜七三年)の氏の叙述から受ける感想について一言するならば、そこにあるのは、「大躍進・人民公社」期の挫折とそのすさまじい犠牲によって上からつくられた熱狂から冷めた中国民衆が、政治・文化・情報の党独占のもとにありながら、危機にさらされた権力と権威を守るために再度発動された上からの「革命」「文化大革命」の嵐を、自然災厄のように耐えながら、中国人らしい現実主義で受け流し、凌ぎ、時には楽しんでもゆく大地のようなしたたかさ、であり、そしてまたこうした民衆に接触しながら、スターリンや毛沢東、日共綱領路線のドグマから次第に自分を解放していった氏の思想の営み、である。

 このような現実主義の背後に、毛沢東は自分の絶対的権威をおびやかす「実権派」の影を見た。頼りになるものは、無垢の若い世代だった。長く毛の主治医を務めた李志綏は、文革が始まった一九六六年、八年前の大躍進の年に毛が語った次の言葉を思い出した。

 「若い無教育の世代は昔から新しい思想を生み、新しい学派をつくり、新しい宗教を編み出した。……孔子が思想の新しい学派を打ちだし、弟子を集めたのは二十三歳のときだった。キリストはどんな教育を受けたというのかね?ところが、キリストの創設した宗教は今日まで生き続けているじゃないか。シャカムニは十九歳で仏教なるものを編みだしたんだぞ。孫文もまた学の人ではなかった。革命を始めたとき、高校の教育しかうけてなかった。……偉大な学者ってのは常に、若くて学校教育を受けてない世代によってひっくりかえされてきた。若かろうと知識が豊富でなかろうと、問題じゃなかった。大切なのは真理をつかんで勇敢に前進することなんだ」(14

 毛沢東と紅衛兵。だが後者にとって、真理とは毛沢東の一言一句以外ではなく、彼らは毛の語録だけをつかんで突進し、やがて捨て去られた。そして白鳥事件の若い犠牲者たちも、彼等と似た道をたどるのである。

  誰の罪か? −「追放」の責任問題をめぐって

 川口夫妻は、一九七二年の田中訪中(九月)と日中国交回復のほぼ一年後、本書でいう「日共(左派)」(いわゆる「山口派」)から委託を受け、夫妻の戸籍謄本を携えて日本からやって来た日中友好協会(いわゆる「正統派」)の事務局長三好一氏と北京で会い、日本大使館で帰国手続きをすませ、七三年十二月十三日船で若松港に着いた。三六歳で出国してから、十七年ぶりの帰国であった。

 川口氏は、第九章「日本への旅立ち」の末尾で、次のように記している。「私にとって帰国とは単なる『里帰り』というようなものではなく、人為的な桎梏からの解放を意味していた。私は一九五〇年から非合法の地下活動に入り、自らの意志ですべての生活を党活動に従属させていた。このことについては今も全く後悔はしていない。しかし、中国に十七年間もおかれたことについては私の意思ではなく、党のペテンによって半ば強制されたものであり、さらに、私たちを日本革命の成功まで、つまりは一生帰国させないという日中両党の間で交わされた取り決めの結果である。これは「党組織を守るJことをすべてに優先させ、党員個人に全く不合理な犠牲を強いる以外の何物でもない。

 私は十七年にわたり革命の名において抑圧されてきた個人の権利と自由が回復されたことを喜ぶと同時に、『党の利益、革命の利益』を理由に不必要な亡命と、束縛された人生を強制されたことについては、何とも言えぬ悔しさと怒りが込み上げてくるのを禁じ得ない。」(15)(傍点引用者)

 氏はまた、帰国が実現できた二つの条件として、「六六年の宮本顕治氏と毛沢東とのけんか別れによって、事件関係者に関する日中両国間の取り決めが効力を失い、ここに私たちの帰国の可能性が生れたこと」(16)七二年の田中訪中と日中国交回復によって合法的に帰国できる条件が生れたことを挙げている。

 それでは、白鳥事件関係者を帰国させない、という日中両共産党間の「取り決め」は実在したか? もちろん、そうした取り決めは当時の両党のごく少数の関係者しか関わっていないに違いないが、このような重大事件の関係者の非合法的渡航とその受け入れについては、事前にも両党間でそれなりに立ちいった「取り決め」があったと考えるほうが自然であろう。だがそれは本人の意思はともあれ、「党の利益のために」是非亡命させたい当人には、伏せられるか、別の受け入れられやすい「理由」にすりかえられる。日本革命が成功するまで帰国できない、などといえば、当人が拒否する「危険」が必至だから―事件に関係がないと確信している人物はとりわけ―である。

 国際派の幹部だった亀山幸三氏の回想には、このあたりの事情を推測させる次のようなエピソードがある。六全協の少し前、志田重男氏は椎野悦郎氏に中国に行くようすすめ、椎野氏はその気になっていたが、中国から日本に帰っていた西沢隆二氏が、「君が向こうへゆけば袴田の下で教育を受けることになるからそのつもりで!」といわれ、直前になってきっぱり中止した、といわれる。

 「そこで、志田は椎野の代わりに自分の直系である吉田四郎(北海道ビューロー責任者、志田直系の中央からの派遣幹部)をやろうとしたらしい。これもずっとのちに吉田本人から…聞いたものである。吉田も、静岡県焼津港へ船が入っているので何月何日にそこへゆけと指示されていたが、その日の直前にパッと逃げたそうである。吉田も何か暗い予感がしたそうである。……この椎野、吉田、小松への軍事責任転嫁の陰謀は空恐ろしいものを感じる。」(17

 だがこうした状況を知る地位にいなかった川口氏は、「仕事をするために北京に行ってもらう。北京で党の責任者に会って仕事を決めてもらい、仕事が終われば日本に帰ってもらうことになる。また仕事で行くので奥さんも一緒に行ってもらう」という梶田茂穂氏の言葉(五六年三月)をそのまま信じ、「第一勝漁丸」で焼津港から中国に密航した。ところが日共代表として北京にいた袴田里見氏は川口氏に一度も姿を見せず、氏はやがて北京郊外の「人民大学分校」(日本革命のための幹部養成学校・五二年に日中両党間の協議により設立されたもの、と推定される)(18)に送られたが、そこで中国人の校長連貫氏から「情勢に基本的な変化がないと、日本には帰れない」と宣告されたのであった。

 川口氏から直接お聞きした内容を含めて、終章「私と『白鳥事件』」に述ベられている氏の「日本追放」までの経過を、簡単に整理してみよう。

 川口氏は一九二一年、北海道上川郡上士別村に農家の四男として生まれ、小学校高等科を卒業後、農業に従事していたが、戦時中一時横須賀海兵団に入団、復員後は再び農業に従事しながら、農民運動に参加するなかで村上国治氏を知り、彼が推薦者となって四七年か四八年に共産党に入党する。五一年一一月、札幌に出て、北海道委員会の軍事部門(責任者は輪田一造氏)の一員として活動中に、白鳥事件がおこったが、氏自身はこの事件に無関係であり、後に「関係者」から事実を聞いた、という。ただ氏が事件に全く関係していないことは、氏がこの書で強調されているように、検事調書のなかには 「私の本名はもちろんのこと、私のペンネームも載っていない」(19)ことからも明らかであり、また事件とその周辺に関するどんな容疑の対象にもならなかった事実が、雄弁にそれを証明している。しかし、事件後、どういう「関係者」から、どんな内容の事実を聞いたのかについては、氏は現在のところ、明らかにはしていない。

 白鳥事件の半年後の五二年七月から五三年八月まで、川口氏は道十勝地区委員長を勤めたが、その後五三年八月に東京に転出し、東京都委員会の非公然ビューローの一員として活動する。一九五五年一月、日共中央は分裂していた両派の幹部が共同して六全協の準備を始め、東京都委員会も四月からすべての組織を公然化したが、川口氏だけは「白鳥事件」に関係があるということで非公然で残され、軍事部門を解散し、蓄積されていた武器を廃棄する「残務処理」 に当たることになった。

 六全協(五五年七月)後、氏は東京都委員会から党中央の統制委員会の管轄に移ったが、そのうちに党中央から連絡に来ていた酒井定吉氏から、「誰にも言ってはならない」と口止めされたうえで、氏が近く中国に行くことになる、といわれる。

 十一月には統制委員の梶田茂穂氏から呼出しがあり、そこでは北海道委員会の村上由氏が北大生高安知彦氏などの検事調書等、膨大な白鳥事件に関する資料を持参しており、これを三日問で全て読み、内容の真偽を確かめてほしい、といわれた。

 「読み終わったあと、高安君らの供述内容は、私が「関係者」から聞いていた事実と基本的に一致していることを伝え、さらに、この検事調書の中に『事件関係者』として記載され検察に追及されている者を党は守るように、付言しておいた。」(20)。

 その後梶田氏は、中国行きは多少延期になる、と言ってきたが、川口氏が自分が事件と関係がない以上、中国に亡命する必要など全くない、と反論したところ、ついに「中国に行かなくてよい。そのかわり党組織から離れてくれ。そうすれば君が逮捕されても党組織には関係がないから」という話が出され、氏はそれを受諾した。それで、中国行きの話が完全に消えたと思っていたところ、離党についてまだ結論を出していなかった五六年三月に、梶田氏が再び中国行きの話を持ち出してきたが、その内容は仕事をするために北京に行ってもらい、終われば帰ってもらう、という以前とは全く別のものであり、氏がそれを信じてすぐ中国に密航したことと、その後中国で起こったこととは、先に見たとおりである。

 以上の経過からすでに明らかなように、当時の日本共産党中央は、川口氏による検事調書等の検討結果に基づいて事件の真相を知り、関係者の亡命(これは恐らく一九五四〜五五年、六全協以前と考えられる)に続いて、事件の司法的追及から「党組織を守る」ために、事件に詳しい川口氏を偽りの理由でだまして中国に送り込んだものであり、もとより普遍人間的基準から許され得ないのみならず、いまだに著しく時代遅れの党規約にも違反するもの、である。

 日本共産党は、川口氏の批判に答えて、この間の経過を(中国党との「取り決め」を含めて―両党間の関係が「正常化」した今、このことができないはずは本来ない)明らかにし、誠意をもって川口氏に謝罪すべきであろう。

 ところが日本共産党広報部は、川口氏の著書についても「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない」(21)という、伊藤律氏の場合と同じ卑劣な逃げ口上でみずからの政治責任を放棄し続けようとしている。だが、以上の経過が示すように、川口氏を偽りの口上で中国に追放したのは、六全協で党が統一を回復したのち(五六年三月)の出来事である。しかも川口氏は、日共から派遣されて中国に来ていた党委員の大多数が帰国した五八年後も、四川に「山流し」にされたままにされ、これ以降、中共を経由しなければ日共に連絡が取れなくなってしまった。

 なおこの点に関連して、川口氏の本書について石堂清倫氏と清瀬市の氏のお宅でお話した際、石堂氏は、この遠方に追放するという手法は中国共産党の手法で、自分も追放されかかったことがある、と次のようなご自身の体験を語って下さったこともここでお伝えしたい。氏によれば、終戦後大連市にいた当時、氏が所属していた在華共産主義者同盟の指導部から、「中共の希望だから満州の奥地に行ってくれ」といわれたことがあった。当時の大連では中国のコミュニスト内部で新四軍系と八路軍系の対立があり、先の組織の指導部は、三対一で延安組(八路軍系)が強く、自分を排除しようとしたらしいが、自分は帰国できなくなる危険を感じてそれを拒否した。折よく大連病院に入院したが、ソ連人の軍医が『資本論』の方法について自分に質問してきたので、ヘーゲルの『精神現象学』の方法を適用して説明した本に即して説明すると、それを読み終えるまで入院を継続して認めてくれ、お蔭で助かった、ということである。石堂氏は、伊藤律の場合も、日共は中国に置いて「殺してくれ」、と頼んだと思う、返さないという約束で。中国は流刑地だった、と語られた。この解明と解決がなされない限り、二〇世紀における東アジア史の暗黒の一面は、次の世紀まで永久に続くのである。

  歴史の暗部の放置は許されるか?

 根源的にいえば、放置できる歴史の暗部(または歴史の空白)などは、存在できない。まぜならそれは、それぞれの立場の歴史の系統性を破るからであり、暗部は種々の「党派的」立場の色彩により塗りつぶされ、埋め合わされる。問題は、その埋め合わせかたが、歴史の深い真実と、どういう関係にあるか?という点にあり、その色彩の多様性と移ろいの速さは、ロシア革命以後のロシア現代史(「ソ連」自体の消滅)や、維新以後の日本現代史をめぐる状況が、もっとヴィヴィツドにそれを描いてくれる。

 しかし、私たちはこうした転変する歴史像の単なる観客、評論家でありえない。イデオロギー化された歴史像とその価値観は、時にはその舞台に立つ人間の全人格から生命までを左右する。

 白鳥事件をめぐる状況は、そのもっとも悲劇的な典型のひとつ、といえよう。

 白鳥事件をおこした「関係者」が、当時の在札共産党員とシンパサイザーの一部以外であったとする「えん罪」説をまともに信じている者は、もうほとんどいないであろうし、事件後間もなく出された「原田情報」が跡形もなく消えた後、誰が?に対する他の有力な提説も、この四〇数年にわたって、まったく見られない。

 私が知る限り、事件に関心を寄せ、村上被告を守る運動に好意と協力を示した共産党員やシンパサイザーの皆さんの多くは、心底の一部でこう自問自答していたはずである―真相はどうあれ、獄中と法廷であれほど英雄的にたたかっている村上被告を守り、また村上被告とともに、疑いをかけられている「党を守る」こと、ここに私たちの闘いの意義があるのだ、と。

 この場合、真相の一部または全部を知り(人によってはそのために疑問や不信を持ち)、逮捕されて硬軟取りまぜての追及をうけた「関係者」たちの大多数は、突きつけられた真相の前に、「没落」した。

 だが、「党のために!」といういわゆる「階級的良心」の立場に立つ限り、没落したひとびとは一転して卑劣な階級的裏切り者であり、同時に真実を裏切った嘘つき、背徳者として指弾される。あるいは、直接に指弾されなくとも、自分自身、生涯この「人格的破産」の意識を背負わされて生きる運命に置かれる。したがって、この「階級的立場」は、別の終身的な人間破壊を生み、今もそれを永続させているのである。

 こうした「裏切り者」史観は、多くの場合、同時に真理破壊的でもある。例えば検事側証人となった高安知彦氏は彼の公判の最中に無実の罪(無届け集会での警官に対する公務執行妨害罪という)で私たちの友人が裁判にかけられていることを私を通じて知った時、その際、警官の「公務執行」を妨害したのは自分である、と私に告げ、その友人を守るために、自分の公判では自分を追及する立場にあった杉之原舜一弁護士の、弁護側証人として立つことを引受け、その結果、友人は無罪判決となった。

 「関係者」の中国亡命もやはり「党のため」であって、彼等の安全のためではなかった。中心とされた三名のうち、二名は中国で客死し、一名(鶴田倫也被告)は、帰国の望みもなく、中国に残されている。国交回復後帰国した比較的軽い「関係者」たちも、日中両党の対立の中で除名され、見捨てられた。こうした例の最悪の事例は、伊藤律氏のケースである。畑敏雄氏がいうように、「律を故なくスパイと断罪し、中国共産党に身柄を引き渡して拘禁させた日本共産党こそが最大の加害者である」(22)。ところがそのうちに、伊藤律氏を中国側に拘禁させた最大の責任者である野坂参三が、途方もない密告者・スパイ(恐らくは何重かの)であることが、判明した。だが、奇怪なことに、かっての最高指導者野坂除名直後の第二〇回党大会において、野坂問題は誰の口からも、ただ一言も語られない! それは肌寒くなる精神の風景である。

 歴史がタブーであるところでは、政治からモラルが追放される。川口氏の書物が教えるものは、この単純で厳粛な真理である。歴史の暗部の放置を私たちは断じて許してはならない。(終)

 

(1)川口孝夫「流されて蜀の国へ」[自費出版、二五〇ページ。以下、川口著と略。同書を入手するためには、札幌市中央区北二条西三丁目、アテネ書房〔電話〇一一(二二一)六五三四()・FAX〇一一(二二一)六五三三〕に申し込むとよい]。

(2)北大法文学部政治学科を卒業して党札幌委員会ビューロー員となり、白鳥事件後離党してのち逮捕され、転向して検事側証人となった追平雍喜氏の著書「白鳥事件」(日本週報社)によれば、川口氏は事件当時札幌委員会「軍事委員長」だったとされている(同書、一七一ページ)が、川口氏は氏の著書刊行直後の「北海道新聞」とのインタビューでは、「私は『軍事委員長』ではなかったが、軍事の実務を担当していました。」と述べている。また追平氏著での佐藤直道証言では、札幌委員会の軍事委員長は村上国治氏であり、川口氏は道委員会の軍事委員長とされている(一〇七〜一〇九ページ)が、川口氏の著書では、自分が五一年一一月から五二年七月までの期間、党北海道地方委員会ビューローのもとで軍事部門の仕事についており、この期間の道ビューローの軍事部門の責任者は輪田一造氏であって、私はその指導のもとで仕事をしていた、と記している(同書、二四七ページ)。

(3)追平著書、二〇五−二〇六ページ。

(4)『北海道新聞」一九九七年六月八日号第一面。

(5)川口著、二五一ページ。

(6)同書、六ページ。

(7)同書、八ページ。

(8)同書、五〇ページ。

(9)同書、五一ページ。

(10)B.R.Mitchell:International Historical Statistics,Africa,Asia & Oceania1750-1993,3rd Edition pp58-62

(11)川口著、一四三ページ。

(12)同書、一七一ページ。

(13)同書、一四九ページ。

14)「毛沢東の私生活」上(文春文庫、三八六ページ)。

15)川口孝夫『流されて蜀の国へ』(自費出版)。同書を入手する方法を再度紹介するならば、札幌市中央区北二条西三丁目、アテネ書房駅前支店〔電話〇一一(二二一)六五三四、FAXは最後の数字が六五三三〕に申し込むとよい。

16)同書、二四二ページ

17)亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』、現代評論社、二二四ページ。

18)『伊藤律回想録』、文芸春秋社、二六ページ、他。なおこの幹部養成校には、最初は日本人校長(初代校長は高倉テル氏)と中国人の校長〔初代は中連部副部長の李初梨氏が兼任。伊藤律氏によれば中連部は野坂・宮本路線に近く、徳田・伊藤路線に反対で、伊藤律氏に対する中国での監禁―逮捕の発端となった野坂の抜き打ち的査問(五二年一二月二四日)の際にも、李初梨氏はただ一人の中国人幹部として出席した〕の二校長制だったらしい。しかし、川口氏が「入学」した時には、「人民大学分校」という名称となり、校長は中国人一人になっていた。

19)川口書、二四九ページ。

20)同書、二四九〜二五〇ページ。

21)北海道新聞九八年一〇月二九日朝刊、第一面。

22)『三号罪犯と呼ばれて』第七号、伊藤律の名誉回復を求める会、四ページ。

 

 

(添付資料) 川口孝夫著『流されて蜀の国へ』

の「終章・私と白鳥事件」抜粋

 (注)、これは、川口氏著書終章の一部(P.252〜255)の全文です。中野氏論文の添付ではなく、私・宮地の判断に基づくHPへの抜粋添付です。このHPに載せることについては、川口氏の了解をいただいてあります。

著書申込方法 川口孝夫著『流されて蜀の国へ』自費出版、262ページ。札幌市中央区北二条西三丁目、アテネ書房〔電話0112216534()・FAX011(221)6533〕。1998年11月第2刷発行。

中国でも翻訳され、《蜀国漂流記》と改題されて、張建国・段小丁翻訳で「四川人民出版社」から出版。新華書店を通じて全国に供給されています。


 私は梶田氏の、「北京で党の責任者に会って仕事を決めてもらう」という言葉を信じて中国にやって来た。ところが来てみると、日共中央の代表として北京に駐在していた袴田里見氏は一度も会いに来ることなく、もちろん党の「仕事」の話など一言も出ず、西も東もわからない街の「招待所」に軟禁され、あげくの果てに査問と吊るし上げである。その上、私は査問の結果を知らされずにそのまま幹部学校に送られた。

 さらに「人民大学分校(日共の幹部養成学校)」に来ると、今度は当時の校長の連貫氏に呼ばれ、彼から「革命が成功するような変化がない限り、日本へは帰れない」との宣告を受けることになる。その後、四川に流されることになるのだが、その時も袴田氏でも羅明氏でもなく、学校の中共の責任者から「四川は外国人が来ないため、秘密を守りやすい。君には四川に行ってもらい、向こうで長期に滞在してもらう」と宣告されているのである。このような人の一生を左右するような重大な決定は、当然、中央を代表する袴田氏の口からされるべきものであろう。それすら中共中央に言わせ、袴田氏も羅明氏も私の前には顔も見せなかったのである。結局、北京では袴田氏と一度も会うことなく四川に流されることになる。

 これらの事実から、私の中国行きは「亡命」というより、むしろ「追放」と表現した方が事態を正確に表している。つまり、党は私をペテンにかけて四川に「山流し」にしたのである。これ以降、日共との直接の連絡は途絶え、中共を経由しなければ日共とは連絡が取れなくなってしまった。

 袴田氏は日共中央の代表として、私たちの処遇を中共中央に「委託」した。「委託」の正当な理由など最初からあるはずもない。あるとすれば、「党組織を守る」という彼ら流の大義名分のもと、六全協後の路線転換を進めるうえで、「極左路線」の生き証人である「事件関係者」の私たちを日本から追放し一生日本の土を踏まさせまい、という意図しかなかったのだ。

 しかし幸か不幸か、文革がはじまると同時に、日中両党の共同コミュニケの一方的破棄で明らかになった毛沢東と宮本顕治氏の決定的な対立は、この「委託」の効果を無意味なものにした。つまり、このことによって私たちは「委託」の桎梏から解放され、十七年ぶりに帰国できる条件が整ったのである。

 繰り返すが、私は「白鳥事件」とは何の関係もない。このことは梶田茂穂氏も村上由氏も認めていたことであり、さらに帰国後の私に対する日本官憲の対応が何よりそれを証明している(警察の事情聴取を受けたが、出入国管理令違反についてのみであった)。にもかかわらず、日共中央が私を理由もなく十七年間も異国に放置していたというこの事実は、いかなる理由があろうとも正当化できるものではない。

 宮本氏は北京機関や「自由放送」など、六全協前の日中両党の関係を追及されると、党が分裂していた時期のことであり、徳田派のやったことで我々には関係がない、と言って逃げている。しかし、少なくとも私の追放については、関係がない、とは言わせない。私が中国に渡った一九五六年三月という時期は、党が統一して既に一年が経ち、志田重男氏も中央からいなくなっており、明らかに党中央の実権は宮本氏に握られていた。つまり当時、党内で私をペテンにかけ中国へ追放することのできた人間は、志田氏でも誰でもない宮本顕治氏以外にいないのである。

 最後に、党史を論ずる観点について私の考えを述べておきたい。

 日本共産党は、五〇年の分裂から五五年の六全協までの問、「所感派」と「国際派」 の両派に分裂していたが、私はどちらが正当でどちらが異端であるとか、一方の派の「存在すら否定するとかいうような立場には反対する。この両派は、共に日本共産党そのものだったのであり、両派のその間の活動の全ては、党の歴史の一部として記録されなければならないと考えている。

 従って、現在の日共と宮本氏が分裂時の一方の派の活動を否定し、あたかも彼らと関係がないように振る舞うことは、党史の歪曲以外の何物でもないと考える。党は誤りを犯したときも、正しい活動で成果の上げたときも、等しく党の歴史として自らのものにし、客観的な事実を分析し、その中から経験と教訓を汲み取るべきである。特に誤りを犯したときは、その原因を路線の面からのみではなく、思想の面まで掘り下げて総括しなければならない。こうしてこそはじめて人民の信頼を得ることができるのであり、党も発展することができるのである。

 宮本氏のように、彼の都合で歴史的事実をねじ曲げたり、まして切り捨てたり覆い隠したりすることは党と人民に対する許しがたい犯罪である。歴史は必ずそのような歪曲を正し、真実の姿を白日の下に明らかにするであろう。私のこの回顧録が、宮本氏らによって歪曲された党史の是正に少しでも役立つことができれば幸いである。

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(関連ファイル)

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    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

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