占領下の共産党軍事委員長
著書『まっ直ぐ』中の「地下軍事組織“Y”」
大窪敏三
(注)、これは、大窪敏三著『まっ直ぐ』(南風社、1999年、聞き手・長男大窪一志)中から、第3章「占領下の共産党軍事委員長」第4節「地下軍事組織“Y”」(P.201〜221)を全文転載したものです。第3章には「働く者どもの梁山泊、徳田球一とその一党、ゼネストとレッドパージ」など、占領下の情勢と共産党活動が生き生きとした語り口で書かれています。これほどリアルに語られた共産党軍事委員長の証言は、他にありません。私(宮地)のHPに第4節全文を転載することについては、大窪一志さんの了解をいただいてあります。
日本共産党の「武装闘争」路線は、スターリン・毛沢東の「朝鮮戦争加担」指令により、1951年2月23日、日本共産党「四全協」が決定しました。「軍事方針」「武装闘争」の具体的実践は、1951年10月16日「五全協」から始まり、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定成立日で、ぴたりと終了しました。「武装闘争」期間は、1年9カ月間でした。その具体的データについては、(関連ファイル)に載せました。第4節の内容は、大窪敏三さんが、文末でのべているように、『1951年末までにおける東京軍事委員会の初期軍事方針の現場での実情』に関する貴重な証言です。“統一回復”日本共産党による火炎ビン事件、警察署襲撃事件などの後期における軍事方針実践は、その後の1952年から朝鮮戦争休戦協定成立日までの期間でした。
〔目次〕
1、第4節「地下軍事組織“Y”」 (全文、P.201〜221)
2、聞き手によるあとがき (抜粋、P.315〜317)
3、大窪敏三略歴
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党
『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治
『宮本顕治の「五全協」前、“スターリンへの屈服”』 「武装闘争」責任論の盲点
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』 日本共産党の“侵略”戦争加担「武装闘争」
「ソ連から108億円以上の資金援助」と“侵略”戦争加担「武装闘争」資金
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
川口孝夫『私と白鳥事件』 中野徹三『白鳥事件』の添付
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜23
1、第4節「地下軍事組織“Y”」 (全文、P.201〜221)
昭和二五(一九五〇)年一月六日、ヨーロッパ共産党・労働者党情報局(略称・コミンフォルム)が「日本の情勢について」っていう論文を発表した。
俺たちが「コミン批判」と呼んでたこの論文は、「アメリカ占領下でも社会主義への平和的発展は可能である」とする野坂参三の理論はまちがいである、と名指しで「野坂占領下平和革命論」を批判していた。コミンフォルムっていうのは、戦前のコミンテルン(国際共産党)がなくなったあとで、事実上の国際共産主義運動の指導機関の役割を果たしていた組織だから、まあ、最高権威筋による批判ってわけだな。
これで、日本共産党中央がまっぷたつに分裂しちまった。
中央のトップは、政治局だよ。その政治局が、コミン批判を突っぱねた「政治局所感」てぇ声明を発表した徳球・野坂・伊藤律・志田重男・長谷川浩・紺野与次郎の多数派(所感派と呼ばれた)と、コミン批判を支持する宮本顕治・志賀義雄の少数派(国際派と呼ばれた)に分かれちまったんだな。金天海は、政治局員だったが、朝連解散で地下に潜っちまっていたから、こんときの政治局会議には出席していなかったそうだ。
それで、主流派と反対派の間ですったもんだしているうちに、六月六日、GHQ(連合軍総司令部)が共産党中央委員全員を公職追放。続いて、機関紙『アカハタ』を発行禁止にしちまった。
このとき、徳球たち主流派は、一斉に姿をくらまして、地下活動に入っちまったんだ。これを俺たちゃあ、「潜(もぐ)る」といっていた。やつらが潜ったと思ったら、すぐに朝鮮戦争の勃発だよ。
実は、こうやって幹部が潜るまえから、半分地下活動組織のような非公然組織がつくられはじめていたんだよ。
たぶん、四月に一九中総(第一九回中央委員総会)で新しい綱領草案、いわゆる「五〇年テーゼ草案」が討論されたころだと思うんだが、東京都委員会の組織が二重にされはじめた。「表」と「裏」にね。
そのころ都委員長は鈴木勝三という国労出身の労働者だったんだが、これとは別に読売争議の指導者だった増山太助が中心になって「裏」の指導部がつくられはじめたように覚えているね。
この五〇年テーゼ草案じゃあ、日本の体制は「トロイカ」だなんていわれてたな。アメリカ帝国主義が御者(ぎょしゃ)で、天皇と大地主と大資本家が三頭の馬になって、日本っていう馬車を引っ張っているというんだよ。三頭立ての馬車、つまりトロイカってぇわけだよ。俺は、これを理論的に批判することなんかはできなかったが、なんだか実際に合わねえ変なたとえだと思ったね。
それから「串刺し」論なんていうのもあったな。俺たちはアメ帝(アメリカ帝国主義)を刺さなくちゃならねえんだが、そのためにも、アメ帝の前に立っている吉田内閣を刺す。吉田内閣に槍をズンと深くぶち込みゃあ、その背後にいるアメ帝まで串刺しにできるっていうんだな。これもおかしな理屈だと思ったがね。
こういった「トロイカ」「串刺し」なんてぇ論は、どっちも、反帝国主義闘争を第一にする国際派の批判に対抗するために持ち出されたものみたいだったが、なんだか言い訳じみていて、俺はなじめなかったね。
そういう問題はともかくとして、いわゆる六・六追放で徳球たち八幹部が潜って、椎野悦郎が議長になった臨中(臨時中央指導部)が組織されたころには、もう公然組織と非公然組織を二重にする手はずは、少なくとも東京ではすっかり整っていたんだ。主要なとこでは、みんなそうだったんじゃねえのかな。
そして、俺は、何月だったか忘れたが、三多摩地区委員長から引き抜かれて、非公然の東京都委員会のメンバーになった。俺も、ついに潜ったわけだ。そのころは、その非公然の委員会を「地下ビューロー」あるいは単に「ビューロー」と呼んでいたな。その一員になった。
そうして、増山太助がキャップ、俺がサブキャップになって、地下ビューローを整備していったんだ。まえにいった、俺が増山とコンビを組んだってぇのは、こんときのことだよ。
それで、昭和二六(一九五一)年になって、二月に四全協(第四回全国協議会)が開かれて、その決定の中で「軍事方針」が初めて提起されたわけだよ。
そこでは、「敵の軍事基地の拠点の麻痺・粉砕」「軍事基地、軍需生産、輸送における多種多様な抵抗闘争」「意識的な中核自衛隊の結集」「自衛闘争の中からつくりだされる遊撃隊」「警察予備隊に対する工作」「警察に対する工作」といったようなことが、軍事方針として提起されていた。
そして、一〇月には、これを綱領的に基礎づける「五一年綱領」ってやつが採択された。
四全協の直後に、地下ビューロー、つまり非公然の東京都委員会てわけだが、そのビューローに、軍事方針に対応して軍事委員会ってぇのが組織されることになった。そして、俺が、その責任者、東京都委員会軍事委員長になったんだ。
軍事委員会や軍事行動は、暗号名でYといっていた。なんの意味だかわかんねえ。地下活動というのは、暗号名が好きでね。YとかVとかさ。「栄養分析表」とか「料理献立表」とかさ。「本店」とか「支店」とか「出張所」とかいうのは、偽装として、まあ、わかるけどね。労対(労働組合対策部)を「あやめ」、農対(農民対策部)を「さつき」なんていったりした。のちには、「こいのぼり」とか「たがね」とか「おろち」とか、わけのわからねえ暗号名がはびこったようだね。
こういうのは、実は、当時の地下活動の水準じゃあ、ほとんど不必要だったんだけどね。やっぱり、特に若いやつらにゃあ、こういうことが、なんか非合法のロマンみたいなもんを感じさせるんだろうね。
ともかく、俺は東京のYなるもんの責任者になったわけだ。こうして、俺は、悪名高い日共軍事方針、党内でものちに極左冒険主義路線と糾弾された軍事闘争の尖兵(せんぺい)なっていったわけだよ。
軍事闘争は、昭和二七(一九五二)年一月から激化して、白鳥事件(札幌の白鳥一雄警部射殺事件)、青梅事件(東京・青梅線の貨車暴走事件)、小河内(おごうち)村山村工作隊事件(東京小河内村の山村工作隊一斉検挙)と続いて、大都市各地で大小無数の武装衝突事件が起こった。
特に大きかったのが、東京のメーデー事件(二人射殺、一二三〇人検挙)、東京新宿駅前・板橋岩之坂交番所などでの火炎瓶騒擾(そうじょう)事件(三人射殺、一〇二人検挙)、大阪の吹田事件(六〇人検挙)、名古屋の大須事件(一二一人検挙)といった街頭衝突で、デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて武装警官と渡り合った。
こういった事件の中には、菅生(すがお)事件(大分県の派出所爆破事件)のように警察の謀略だったものもあるが、共産党の指導で若い労働者・学生・在日朝鮮人が武装闘争に走ったのは確かだよ。
これは、権力の共産党・労働運動弾圧に対する反抗ではあったものの、一般の国民の感情から浮き上がっていたことは確かで、「共産党は怖い」てんで、軍事方針の前と後では、共産党の総選挙の得票は半分に減った。代議士も三六人いたのがたった一人になっちまった。
この軍事方針についちゃあ、いろんなことがいわれているよな。だけど、俺の知るかぎり、実態とかけはなれた議論が多いね。一方で、暴力革命をめざす武装蜂起であるかのように非常に誇大にいわれていたり、その一方で、「革命ごっこ」にすぎないと漫画みてえな情けねえもののようにいわれていたりしているわけだよ。だけど、実態は、そのどちらでもねえ。
だから、当事者自身は、どんなことを考えて、どんなことをやっていたのか、嘘偽りのないところを話しておくことにするよ。
そのまえに、ひとつ断っておかなくちゃならねえのは、そのころの共産党のいっていることが二重、三重になっていたことだよ。大衆向けの言葉と、一般党員向けの言葉と、表の党組織の言葉と、裏の党組織の言葉と、それぞれが違っていたんだな。
俺は、当時は批判できなかったけれど、いま思うと、こういうこと自体が、革命運動としてはよくなかったと思うよ。そりやあ、いい方を変えたり、秘密を持ったりするのはしょうがねえよ。だけど、ほんとうのところは、真っ正直にいうべきだったと思うんだよね。
それが、さっきいった労働組合運動に対する「赤色労働組合主義」っていう問題につながっている。自分たちのほんとうの心をあかさないで、労働組合や大衆を引きまわしていこうっていう根性だよ。
だって、少なくとも、主流派の幹部が、あんときの日本で暴力革命ができるし、やらなきゃならねえ、と思っていたなんてこたぁ、ねえのさ。俺が身近で見ていたかぎりでは、そうは思っちゃいなかったね。
それよりまえ、昭和二四(一九四九)年には、「九月革命説」なんてことが党内でもいわれていたけれど、あれだって、大衆向け、一般党員向けのアジだよ。そりや、「九月までに民自党政府を打倒する」なんて徳球もいってたよ。だけど、ありゃあ、アジだよ、単なる。革命幻想にひたったなんていうんじゃねえんだよ。
四全協以降にしきりに「暴力革命」を叫んでいたことにしたって、ありゃあ、熱くなってる共産党周辺の大衆や一般党員、あるいは八方ふさがりでどうしたらいいかわかんなくなってる連中に対する言葉だよ。俺は、そう思ったし、いまもそう思ってるよ。軍事方針っていうのは、差し迫っている暴力革命のため、なんてもんじゃねえよ。軍事方針のほんとうの意味には、二つあったと思うんだな。
一つは、当時半非合法化されていた共産党と共産党傘下の労働運動の抵抗自衛だよ。
全面的な弾圧がはじまっていたわけだからな。共産党自体が、半分非合法化されちゃった。そうしたら、合法的な抵抗だけでなく、非合法的な実力による抵抗自衛を組織しなくちゃならないのはあたりめえだろ。それだけのことだよ。武装蜂起の準備とか、そういうことじゃねえわけだよ。
実力行動っていうのは、デモやストライキのときだって必要なんだよ。ましてや、半非合法化されちゃったら、法に頼るんじゃなくて、実力に頼る度合いが高まるのはあたりまえだ。
だけど、それと武装蜂起の準備なんていうのは、まったく次元が違うんだよ。半非合法のもとでは、法に頼らない実力防衛が必要だ。それは明らかなことだし、俺たちがやってたのは、そういうことだったんだよ。法に縛られない運動の防衛の手段をとる。それだけのことだよ。
だから、俺たち初期の軍事委員会がやってたのは、まず警察と警察予備隊に対する工作だった。
警察予備隊ってぇのは、いまの自衛隊の前身で、昭和二五(一九五〇)年に、再軍備の先駆けとして創設された傭兵隊だよ。これは、食いつめ者の寄せ集めみたいなとこもあったから、かなり工作が可能だった。
一般に募集がされてたわけだから、俺たちは、もちろん党員を潜入させたよ。そうして、そのへんを手がかりにしながら、警察と警察予備隊の下部に工作して、やつらの動きをつかみ、影響力を浸透させる工作をやっていたんだ。
これは、抵抗自衛に不可欠な工作だし、特殊な部署が秘密裡にやらなくちゃならねえ性格のもんだからな。これが軍事委員会の大きな任務の一つだった。こいつは執拗(しつよう)にやったよ。
それにね、これはいってみれば「失業対策」みたいなことでもあったんだよ。レッドパージで共産党の活動家が大量に放り出されちゃった。こいつらをいろんなところに配置したわけだけど、なかで、優秀なオルグで非公然活動に向いている連中を、対権力の工作にふりむけたわけだ。
そうやってつくられた非公然工作隊は、最初は暗号名マルKっていってね、丸に警察のKだよ。警察のオルグをした。それは、軍事方針が出てくるまえからだし、軍事委員会が組織されるまえだよ。これを裏組織が運営していた。東京の各地区の軍事委員なんていうのは、初期は全部マルKが横滑りしたものだよ。
終戦後は、警察にもかなり工作の余地があったんだ。昭和二一(一九四六)年には、東京の立川の警察署長が、共産党に入るからってんで辞表を提出して、それが認められないで懲戒処分になったっていうんで、共産党が問題にしたことがあったくれえだからな。警察にも、けっこう共産党のシンパ(同調者)がいたし、少数だけど党員もいたんだよ。これは、潜り込ませたんじゃなくて、外からオルグしたんだ。
共産党は「民主警察をつくる」っていうような警察政策をつくってね、そのビラを官舎やなんかに密かに撒(ま)くんだ。そうすると、なんらかの反応がある。そこで、よさそうな警察官を個別オルグするんだよ。そうして、内部の不満とか、問題とかを聞いて、それを使って、さらに宣伝やオルグをする。そうやって、だんだんと支持者をつくっていって、党組織をつくる。
もちろん秘密党員だよ。そこを核にして、情報を収集し、仲間を増やしていく。そんなことを辛抱強くやったよ。
それから、山村工作隊っていうのが、軍事方針が出たことによって山村根拠地をつくるために結成されたようにいわれてるが、少なくとも東京にかぎっていえば、そんなことはねえよ。そのまえからあったんだ。
まえにもいったように、農村に農民委員会をつくろうというのが方針だったわけだけど、これはなかなか進まない。それで、レッドパージ組の労働者党員やなんかを、農民を組織化するために送り込んだんだよ。それが最初だよ。
だから、山村根拠地になりそうなところだけじゃなくて、例えば、横浜の街からそんなに離れていないようなところにも、工作隊の拠点があったりしたんだ。そういうとこがいっぱいあったよ。のちに、こういうとこは、軍事に関係なく拠点になったりした。これは、軍事方針とは、もともとまったく関係がねえわけだよ。
だいたい、俺たちは、山村根拠地をつくって武装闘争をやるなんてことは、不可能だと思っていたんだよ。俺なんかは、中国共産党軍のゲリラ戦を知ってるんだからね。あれとおんなじようなことを日本でやろうとしたってダメだってことは、はっきりわかってたからね。
だから、野坂参三がペンネームで非公然の雑誌に山村根拠地論・遊撃隊論を書いたとき、俺は全面的に批判したんだ。それは、はっきりと批判したよ。中央は、この野坂論文に基づいて、東京では奥多摩に山村根拠地をつくれ、そこに武装遊撃隊を組織しろっていってきたんだからね。
野坂のやつ、延安(中国共産党軍の根拠地)にいたのに、なんで、こんなことがわからねえんだろうって首いひねったよ。なに考えてやがるんだってね。冗談じゃねえ。そんなもん、ひとたまりもねえよ。
俺たちは、鉄道輸送の状況と自動車道路の状況、警官隊や予備隊、米軍の動員力の実態、そういったデータを、独自の調査活動を通して、また国鉄や運輸や基地の労働者の協力も得て、調べ上げていたんだ。俺は、そういうデータをもとにして、あいつらがつぶしにかかってきたら何日保(も)つか、具体的に指摘してやったよ。「せいぜい、三日です」ってね。
こっちゃぁ、軍隊の経験があるからね。それに基づきながら、数字や地図を細かく示して、非常にリアルに具体的に指摘してやったよ。中央のやつら、ぐうの音も出なかったよ。
だから、俺が軍事委員長の間は、東京では山村根拠地建設なんて方針はまったくとらなかった。
その代わりに俺がやったのは、なんらかの軍事工作を都市でやった人間が潜って逃げられるルートを農山村につくることだった。
そのためには、まず農民の支持者の獲得だ。かくまってくれ、逃がしてくれ、情報をくれる農民を、当面は点と線でいいから組織しておくことだよ。山村工作隊を軍事方針との関係で使ったのは、俺がやっている時期では、もっぱらこの点だけだよ。
これは、相当にやったよ。後年になってから読んだ公安警察の資料でも、この時期の三多摩の農民工作については、非常に注目していて、警戒を呼びかけているね。
その一環として、特殊なもんとしては、山窩(さんか)工作ってぇのをやったな。
山窩っていうのはね、定住しねえで漂泊して歩く山民だよ。中世の傀儡師(くぐつし)の子孫だとか、それよりもっとまえの先住民の末裔(まつえい)だとか、いろんな説があるそうだが、よくわからねえらしいね。竹とか藤蔓(ふじつる)とかで箕(み)とか笊(ざる)みてえな細工物をつくって、ときおり村人と交易する。三角寛(みすみかん)ていう作家の小説で有名だった。いまでもいるのかねえ……。もういねえのかもしれねえな。
だけど、そのころは、日本中の山岳地帯にいたんだ。そいつらの一部が、西多摩のいちばん山奥にも来ていたんだよ。西多摩郡と山梨県、埼玉県が接する都県境、雲取・三峰のあたりだよ。この連中は、静岡県のほうから秩父のほうまで股にかけて、山中を自在に行き来しているっていう。そして、こいつらは、親分・子分みてえな組織をつくっていて、反社会的で反体制的なところがあるっていう。
よしっ、こいつらと接触をとって、工作しようじゃねえかと思ったわけだ。
西多摩のほうの地蔵様の縁日やなんかに山を下りて来るっていうんで、そういった機会をつかまえては接触をはじめた。
やったのは山村工作隊の連中だよ。確か、昭和二五(一九五〇)年七月からの第二次レッドパージでやられた玉電(東急玉川線)の労働者三人を特殊任務として派遣したんじゃなかったかと思うな。
なかなか難しかった。平地の人間に心を許そうとしなかったし、縁日やなんかで物を売るとサッといなくなっちゃうんでね。追跡しようとしたやつがいたが、とってもできゃしねえ。山ん中に入ると、ものすごい速さでアッというまに姿を消しちゃったそうだ。
でも、苦心を重ねてやつらの中に入り込んだ。工作員が直接接触しようとしてもダメなんで、地元の共産党支持者を通じて、少しずつ接触を深めていったわけだよ。
訴えたのは、政策やなんかじゃない。主に義侠心に訴えたんだ。俺たちは、虐げられた者たちのために闘っているんだ、金持ちや権力者と闘っている、アメリカの占領軍とも闘っている、それでいま弾圧されているんだ、助けてくれってわけだよ。
ところがね、こういう連中は、入り込むまでは大変だが、いったん入り込んだら、すごいんだよ。よし、おまえたちのやろうとしていることはわかった、助けてやる、となったら、強いんだ。いざというときは、俺たちんとこへ来い、絶対にどこまでも逃がしてやる、安心しろっていうんだな。だから、けっこうすげえルートができたんだよ。
あと、このルートはどうなっちゃったのか、わかんねえんだが、これは使えるルートだったね。
どうだい、なかなかおもしれえことやってただろ。
俺たちのやっていた軍事方針がらみの山村工作っていったら、だいたいそういうもんだったよ。
「中核自衛隊」という武装行動隊を組織する方針が出ていたけど、東京では、俺は、まだその段階ではないと、もっぱら情報活動や工作に人を割いていた。中核自衛隊が東京にできるのは、昭和二七(一九五二)年になってからだよ。「遊撃隊」なんて、冗談じゃあねえ、問題にもしなかったよ。
軍事方針のほんとうの意味には、二つあったっていったが、一つは、いまいった権力の弾圧に対する抵抗自衛ね。そして、もう一つは、朝鮮戦争に出動する米軍の後方撹乱(かくらん)だよ。
日本は、朝鮮戦争の重要な出撃基地、兵站(へいたん)基地、補給基地になってた。そこで、こいつを妨害して、できるだけ米軍に打撃をあたえる。それが半非合法化された日本の共産党の任務だと、俺たちゃあ思ってた。
俺は、俺たち軍事委員会が組織する破壊活動を含む純粋の軍事行動っていったら、これしかねえと思っていたよ。
このためにやったことは、まずは基地労働者の組織化だよ。もちろん、一般的な形での基地労働運動の組織化や政治工作は別にやっていたわけだが、それとは別に、軍事行動に関係した高度の組織化を俺たち軍事委員会はやらなきゃならねえ。そう考えた。「軍事行動に関係した」「高度の」っていうのは、一つは簡単にいって諜報活動だよ。米軍基地の内情、作戦動向、装備状況、そういった情報を収集するわけだ。さらには、サボタージュの組織だよ。基地の仕事をやりながら、仕事を遅らせたり、混乱させたり、場合によっては施設や装備を破壊したりしながら、作戦を妨害していくわけだよ。
例えば、横田基地では、滑走路の労働者の中にかなり浸透していた。実は、あそこにゃあ、相当の秘密の党組織があったんだよ。だけど、もちろん、必要な段階に行くまでは、積極的な破壊活動なんかは、やらねえさ。だけど、当時でも、やればかなりのことができる力量は蓄えていたね。
俺たちは、情報収集はずいぶんやった。だけど、サボタージュの組織まではまだいかなかったね。なにしろ占領下だし、戦争中だからね。周到に準備してかからないと、非常に危険だからな。だけど、それをめざしたことは確かなんだよ。
情報収集や米軍工作は、基地労働者を通じてだけじゃなくて、軍事委員会独自にもやったよ。各種の資料を収集したり、英語ができるやつを使って、基地に床屋かなんかにして潜り込ませて、米兵と仲良くなって、それとなく情報を探ったりね。将校の住宅に女性党員を女中(いまでいうお手伝いさん)として潜り込ませたりもしたな。
それから、例えば、立川基地、横田基地の周辺で、美人の女性党員を配置して、米兵相手のバーを開く計画も立てた。それで、米兵に酒え飲ましながら、情報を探ったり、ちょっとした工作なんかもしようってんだよ。そのうちの一つには、小松勝子(のちの共産党東京都議会議員)っていう、戦争中から兄貴たちの仲間だった女の党員をママにすることになってた。これは、立地が難しくてね。いろいろ準備をしたんだが、結局、俺が在任中には実現しなかった。
だいたいね、俺の時期の軍事委員会は、中央を含めて、日本共産党の軍事行動は、朝鮮戦争の後方撹乱だって意識していたと思うよ。少なくとも、俺はそうだったし、俺の心安いやつらは、だいたいそうだったね。
だいいち、俺は、コミン批判の意味自体が、そこにあったんじゃねえか、と思うんだな。
あのころは、朝鮮戦争をおっぱじめたのはアメ帝だっていわれていて、俺たちも、そう信じ込んでいたけど、実際は、金日成がスターリンと相談のうえではじめた戦争だっていうじゃねえか。そうであれば、なおさらだよ。日本の党を過激化させて、アメリカ占領軍に対する武装闘争を行わせる。それは、国際共産主義運動の指導部の中で朝鮮戦争開戦のまえから準備されていたことにちげえねえ。
だからね、当時、破壊工作を含む純粋の軍事行動でいちばん働いたのは、在日朝鮮人だよ。在日朝鮮人の左翼は、朝連が解散させられたあと、祖防(祖国防衛委員会・祖国防衛隊)っていう組織をつくって、俺たち軍事委員会と協力して、破壊活動やなんかもやったよ。危険な任務は、あいつらが率先して引き受けてやってくれた。だって、やつらにとっちゃ、これは、祖国を守るための戦争なんだからね。
挙銃や刀なんかの武器や爆発物の収集、忍者の使うマキビシみてえなパンク針とかの簡易な武器の製作、そういったもんの貯蔵・管理、そんなことも在日朝鮮人が中心になってやっていたよ。
当時は、軍事方針に関係した秘密出版物がいろいろと出ていた。のちに有名になったのが『球根栽培法』で、こいつは一九七〇年代に出回った『腹腹(はらはら)時計』なんて爆弾教本の元祖にもなったそうだね。そういうわけで『球根栽培法』は武器製作の手引き書のことのようにいわれているけど、それはほんの一部なんだよ。一般に軍事方針関係のいろいろな非合法文書が『球根栽培法』という名前で偽装されて出されていたんだ。
初めのうちは、表紙にナスやキュウリの絵が描いてあってね、なんだ、おかしいじゃねえか、球根じゃねえじゃねえか、と思っていたら、あとんなってからタマネギやなんかの絵に変わったね。その一冊が武器製作の手引き書だったわけだけど、武器のつくり方を書いた『球根栽培法』だけがやけに出まわっていたのは確かだな。
だけどね、あれは大して役に立つもんじゃなかったんだ。時限爆弾とかラムネ弾とかキューリー爆弾とかのつくり方が書いてあったが、俺たち軍隊にいた者から見ると、こんなことでつくれるのかよ、使えるのかよ、て感じだった。実際、つくられたのは火炎瓶とパンク針くらい、実際に使われたのは火炎瓶だけじゃねえのかな。
パンク針だって、あの本のやり方じゃできなくて、別のつくり方をしたんだし、火炎瓶くれえは、あんな本がなくたってつくれるからな。役に立たない本だったね。
どこでつくられた本かはわからねえ。ともかく、どっからともなく下りてきたんだ。軍事委員会は、秘密組織だから、上とも下とも細い線でつながっているだけで、上が何やってるのかなんてわからねえし、わかる必要もねえ。だから、中央の軍事委員会の何かの機関がつくったんだろうな、と思っただけだよ。ともかく、あれはあんまり役に立たねえ本だったね。
武器は、つくるより調達したほうが早かったしね。それに、まだ、武器を使う破壊活動にいく段階じゃあなかった。俺たちのころには、結局、東京では、情報活動や組織活動が中心で、積極的な破壊活動はやっていないよ。
ただね、いつのことだったか、よく思い出せねえんだが、横田基地で米軍の爆撃機が爆発を起こしたことがあったんだよ。
俺は、そんとき、西多摩のほうで非公然の会議をやっていた。そうしたら、腹に応えるようなズッドォーンという爆発音がしたんだよ。おっ、これは、相当の爆発だぞっと思った。
立川駅まで帰ってきたら、街が騒然としてるんだよ。聞いてみると、横田基地の滑走路で、爆弾を積んだ爆撃機が大爆発を起こしたっていうんだ。
俺は、だれかが指令もなしに、先走ってやったのかと思ったよ。急いで、情報を集めた。そしたら、Yの仕業じゃなかったよ。爆撃機が爆弾を積みすぎていて、離陸できないで、滑走路の壁に衝突して、爆弾もろとも大爆発を起こしたんだということがわかったわけだよ。
ところが、「表」の党組織が、こいつをとらえて、「民衆の反戦抵抗活動によって、うんぬんかんぬん」ってえ宣伝をやった。チェッ、バカが……と思ったけど、それで大いに志気が上がっているようだから、そのままにしておいたよ。
米軍のほうは、原因が過積載だってことがはっきりしてるから、共産党の仕業だなんてデッチあげるこたぁ、しなかったよ。それなのに、共産党のほうが、やりもしねえことをあたかも自分たちがやったかのように宣伝するんだから、情けねえやね。
そんときは、それほど思わなかったけど、いま考えてみると、こういうやり方は、ほんとにいけないねえ。やりもしねえことをやった、やったなんて宣伝するっていうのはさぁ……。
「トラック部隊」や「人民艦隊」なんていう秘密活動ものちにずいぶん問題になった。
「トラック部隊」っていうのは、共産党が企業を設立したり乗っ取ったりして、その企業の資金を党資金に横流ししていた、その担当部隊のことだよ。秘密資金獲得部隊だな。特に昭和三一(一九五六)年に暴露された繊維研究所事業部事件なんていうのは、はっきりした取り込み詐欺だよ。社会的には弁護の余地がない。
「人民艦隊」っていうのは、漁船や小型貨物船を使って、朝鮮や中国との間の密航ルートを運営してたやつだな。こっちはトラック部隊と違って、半非合法下ではやむをえない非公然活動だった。
だけど、これは、どっちも、軍事委員会とは関係がないんだ。俺たちはかかわってない。
裏と表に党組織が二重にされていったとき、財政部も二重になってな。その裏の財政部、「特殊財政部」ともいったが、その裏組織がやっていたのがトラック部隊だよ。人民艦隊のほうは、これとも別で、確か中央で岡田文吉(当時の中央委員)が責任者で、主に朝連(在日本朝鮮人連盟)、のちには祖防と協力してやっていた。当時、朝連・祖防は終戦直後からたくさんの密航ルートを持っていたからな。
だから、どっちも、俺たちには、実情はよくわからねえんだよ。
ただ、ここで当時の密航事情について、俺が知りえた範囲でしゃべっておこう。
戦後初期から、南朝鮮の活動家と在日朝鮮人の活動家は、玄界灘を渡って頻繁に往来していた。もちろん密航だよ。密航に使われた船は、大部分が一〇トン以下の小型発動機船でね。だいたいがいわゆる機帆船、帆がついてる発動機船だったようだね。小型船だから、発見されにくいし、またどこにでも接岸できる利点があったわけだ。
南朝鮮密航ルートはたくさんあったようで、朝鮮側の拠点は釜山、馬山、統営、麗水、鎮海、済州島といったところで、そういうところから北九州あるいは山陰方面に直行するもの、対馬・壱岐に寄港してからそっちの方面に向かうもの、九州南岸を迂回して豊後水道を経て瀬戸内海に入るもの、九州南岸から四国の太平洋岸に上陸するもの、それから紀伊水道に入り和歌山・徳島・神戸・大阪方面に上陸するもの、そういうふうにいくつもルートがあったっていう話だ。日本から出航する場合は、この逆を行くわけだよ。
北朝鮮密航ルートは、これに比べると当時はあんまりなかった。北と往来する場合にも南経由の場合がほとんどだったようだね。だけど、もちろん、北ルートだってあったさ。このルートでは、朝鮮側の拠点は元山で、日本側の上陸・出航地点は新潟・石川・富山・秋田・函館などの北陸・北海道方面といったとこだね。このルートは、のちのちまで、北朝鮮工作員の密入国なんかに使われたんだろうね。
これとは別に国際航路コースもあって、三池・下関・呉・神戸・四日市・名古屋・横浜といった港が利用されて、だいたい上海経由で中国に密航した。その後、人民艦隊は、特に中国との間の密航ルートを新たに開拓したはずだが、それについては、俺はよく知らねえ。
ともかく、人民艦隊は、軍事委員会といくらか間接的に関係はあったが、別組織だったよ。
どういうとこに潜っていたかっていうのかい? そうだな、俺の場合は、有名な俳優や映画監督の家、それから大学教授の家なんていうのが多かったな。それも、共産党だなんて官憲にわかっている人間じゃなくてね、まさかというような人のとこだよ。名前はいえねえが、アッと驚くような人もいたよ。朝鮮人部落なんていうのも、かなり安全な潜伏場所だったようだが、俺は使ったことがない。
それから、俺が使って安全だったのは、前進座だね。前進座っていうのは、河原崎長十郎や中村翫右衛門といった歌舞伎役者が新しい大衆演劇をつくるっていうんで、戦前に結成した歌舞伎劇団でね、昭和二四(一九四九)年に、長十郎を先頭に七〇人からの劇団員が、共産党に集団入党した。
当時、東京の吉祥寺に研究所兼住宅をつくっていてね、劇団員と家族がそこで集団生活をしていたんだ。俺は、そこの河原崎国太郎っていう女形(おやま)の役者の家に、だいぶ長いことかくまってもらっていたんだ。
前進座の敷地は広くってね、畑をつくったりニワトリを飼ったりして、半分自給自足生活みたいなことをしてたな。のちに俳優として活躍した松山英太郎、松山省二の兄弟がまだ小さいころでね。「お客さんに産みたての卵をもらってきてあげなさい」なんていわれて、卵を持ってきてくれたりしたよ。
国太郎は、海軍にいたから、話もよく合った。あそこは、安心できる隠れ場所だったね。
そのころ、映画監督の今井正が前進座の役者を使って、独立プロで『どっこい生きている』っていう映画を撮っていてね。いろいろ意見を訊かれたよ。俺が、「いや、労働者はそんなふうな考え方はしねえもんだよ、そんな勇ましいことをいうのは不自然だよ」とかいうと、そうかってんで、脚本を直したりしていた。そんなこともいまとなっては懐かしいね。
だいたい、こんなところが、昭和二六(一九五一)年末までの東京の軍事委員会の活動の実態だよ。
あとんなると、軍事委員会も軍事行動もずいぶん違うもんになっていっちまったみてえだけど、初期の東京の軍事委員会にかぎっていうと、だいたい、こういうもんだったんだよ。
昭和二八(一九五三)年夏ころからの、俺たちが考えていたのとはまるで違う「軍事闘争」がこの当時の共産党の実情のようにいわれているから、あえて、初期の軍事方針の現場での実情を少し詳しくしやべってみたよ。
2、聞き手によるあとがき (抜粋、P.315〜317)
本書は、大窪敏三がその前半生を語った談話を聞き書きしたものである。聞き書きしたのは、敏三の長男・一志である。
彼は「ただの人」である。私が知っている父の関係者の多くも、同様に「ただの人」である。格別偉くもないし、とりわけた業績を残してきたわけでもない。だが、その生き様を現代の日本社会の中に置いてみると、その「ただの人」が急にただ者ではない光を帯びてくるように思える。
それは、もちろん時代の落差がなせる業でもあろう。でも、それだけではない。戦争と革命の世紀を、その戦争と革命の埒外から傍観していたのでもなく、上の安全圏から「指導」していたのでもなく、まさにその現場において、それに身をさらしながら、肉体的にかかわって生きてきた「ただの人」にこそ、この世紀の歴史の智恵は宿るのではなかろうか。
戦争や革命といった非日常的な天下の一大事に、「ただの人」である個人が肉体的にかかわって、天下にとってはまことに小さいが、自分にとってはかけがえのない一回かぎりの人生を投げ出して生きる、その個人の緊迫した状況の中にこそ、「あ、ここだな」「あ、これだな」という生き方をつかむ瞬間が現出するのではないか。
そして、それこそが歴史を生きる智恵なのではないだろうか。そしてまた、倫理というものは、そういう中で貫かれ、また培われるものではなかろうか。
そのときの倫理とは、水平方向に横に広がっていくものではなく、垂直方向に上を仰いでいくものだったように思う。人間関係の中で自分の居所を確かなものにしていこうとするものではなく、いわば「天の声」を聴こうとするものであったのではないか。
私は、一時は、父の生きる構えはコミュニストとしての確信から発するものだろうと錯覚していた。だが、そうではなかった。行動原理の根幹をなしているのは、コミュニズムの原則ではなく、「天の声」に素直に応ずるモラルではなかったか。
いま、この社会は、喪失した倫理をとりもどせないまま、声にならない悲鳴を上げてもがいている。そして、個人はしっかりした生きる構え、ファイティング・ポーズがとれないでいる。
そんな中で、個人が垂直方向を仰いで行動原理を求めていく姿勢を再興しなければいけないのではないか。その垂直の彼方にあるものが「神」であるか、「天」であるか、「宇宙の理」であるかは、いまさしあたりは問わない。ともかく、そういう姿勢を再興したいという思いで、父の話を聴いた。
ちょっと気負ったあとがきになってしまった。
当の「ただの人」である父には、そんな気負いは微塵もない。ときにハッハッハッと笑い、ときにしんみりとしながら、関東者らしく闊達に、しかし恬淡と、体験を語り続けるだけだった。
インタビューに当たっては、これがある種の歴史の証言であることにも、できるだけ意を用いようと考えた。とりわけ、大正・昭和初期の東京の庶民世界、帝国海軍の下士官・兵の世界、終戦直後の労働運動高揚期の労働者世界、日本共産党軍事方針下の戦闘員の世界、それらの実態を父の体験に即して明らかにしようとした。
その中で、いささかなりとも、これまでとは違った照明を歴史的事実に当てられたのではないかと思っている。特に、例えば、戦後初期の労働運動の現場指導部に工場委員会運動の発想があったこと、生産管理闘争の中での熟練労働者のイニシアティヴ、一九五〇年代共産党軍事闘争初期の方針が後期とは違ってそれなりにリアルなものであったこと、刑務所内部での共産党細胞の活動などがそれである。
インタビューに当たっては、まず聞き手が、作成した年表に沿って、一定の時期ごとに区分して、時代背景、歴史的事実などを語り、その時期にどういう体験をし、どういうことを考えたかを語ってもらった。また、聞き手が以前に聞き知っていた父の体験や見解について、さらには、伯父である大窪満をはじめとする関係者から聞いていた話などについて、補足的に質問し、確認してもらった。
平成十一(一九九九)年三月 大窪一志
1915年東京生まれ。裕福な幼少時代を過ごしたのち、関東大震災で一家没落。事実上小学校中退という極貧生活の中で、家族を養うために帝拳のプロボクサーに。1936年召集され、海軍陸戦隊員として、約10年間大陸を転戦。「本土決戦」下では、横須賀鎮守府の「闇の王様」と呼ばれる。
戦後、日本共産党に入党、米軍占領下で労働運動に参加、軍事方針下の共産党東京都委員会軍事委員長として非合法活動を行い、軍事スパイ容疑で逮捕・投獄。出所後、「医療に貧富の差があってはならない」との信念から日本初の医療生協を創設。一生を通じ「義を見てせざるは勇なきなり」を実践した硬骨漢。
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(関連ファイル)
『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党
『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治
『宮本顕治の「五全協」前、“スターリンへの屈服”』 「武装闘争」責任論の盲点
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』 日本共産党の“侵略”戦争加担「武装闘争」
「ソ連から108億円以上の資金援助」と“侵略”戦争加担「武装闘争」資金
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
川口孝夫『私と白鳥事件』 中野徹三『白鳥事件』の添付
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24