社会思想史研究の60年

 

――1939〜99――

 

水田洋

 

 ()これは、「経済学史学会年報第38号」(2000.11.)の〔特集〕『私の経済学史研究−20世紀の学史研究をふりかえって』に掲載された、水田洋名古屋大学名誉教授論文です。このHPに全文を転載することについては、水田氏の了解を頂いてあります。健一MENUに戻る

 

 〔目次〕

   1.前史

   2.職業としての学問

   3.市民社会派あるいは近代主義者として

   〔英文〕 60 Years Studying the History of Social Thought

 

 1.前史

 

 ぼくの職業としての社会思想史研究は,太平洋戦争からの復員にはじまる(あえていえば,それは日本の学界での社会思想史研究のはじまりでもあった――理由は後述)から,それまでが前史ということになる。起点として1939をとったのは,ぼくがその年に東京商科大学予科から本科に進学したからであり,かつ社会思想史への関心が,ようやくかたまってきたからである。それは,いいかえれば,マルクスボーイが社会思想史に目ざめていく過程であって,この過程を説明することは,なぜマルクスとともにホッブスでありスミスであるのかという,しばしば受ける質問にこたえることにもなるだろう。

 

 天皇制・軍国主義・封建遺制など,日本社会の後進性について疑問と反感をもつようになったのは,中学2年ぐらいのころだった。国史の老先生が,皇紀は660年サバを読んだものであることを「おかしいね」とおだやかに平然とおしえてくれる中学校であった。そこの受験体制から逃走して,4年修了で予科にはいると,寮生活をふくめて,上級生による思想的洗礼があった。そういう4人の上級生のうち,戦死した志水健人と山代洋の名前だけはあげておきたい。「ディルタイ[の仕事]は世界観の財産目録」だといったのは,山代であった。2人は,とくにマルクス主義者というわけではなかったが,前述したぼくの不満を社会科学の方向にむけてくれたといっていいだろう。だから,ぼくのマルクス主義への接近は,はじめから近代主義的(日本社会の非近代性への反感)であったわけだが,同時に,予科時代のドイツ・ロマン主義への関心には,その近代自体への疑問がひそんでいた。

 

 いま「ひそんでいた」と書いたように,それがどこまで自覚されていたかは疑問であって,およそこのような成長過程の回顧にあたっては後知恵が働く危険をさけなければならないが,あえて図式化すれば,反封建としての近代思想が中心にありながら,それをのりこえる思想としてロマン主義とマルクス主義があったということになるだろう。短絡的にいえば,反封建としての近代的個人の確立をささえたのが,ドイツ・ロマン主義のイロニー概念であり,マルクスの『ユダヤ人問題』の人間解放であった。

 

 ところが,こうしてマルクス主義者になったつもりでも,日本の社会主義革命どころか,ブルジョア民主革命でさえ,展望はまったくひらけてこなかった。国際的にも,スターリン粛清やスペイン内戦のニュースははいっていたし,とくにジードの『ソヴェート旅行記』をふくむ諸発言があった(ここでは『旅行記』よりもそのまえに書かれた日記をあげておきたい)。

 

 国内的には,唯物論研究会,新協劇団,新築地劇団などの解散(1938−1940)が,状況の指標になるだろう。マルクス自身の思想についても,自然法思想の残渣にすぎないという批判がくりかえされていた。

 

 こうして初発からスケプティカル・マルクシストたらざるをえなかったマルクスボーイがえらんだ道は,思想史の研究によってマルクスの正統性を確認することであった。かんたんにいえば,マルクスの思想が自然法的であって何がわるい,ということである。近代(ブルジョワ)自然法思想が,旧制度をのりこえていくブルジョワジーの,いわば人類史の代表者としての,行動様式の正当化(現実と規範の一致)であったとすれば,つぎに人類史を代表すべきだとされたプロレタリアートが,それ自身の自然法思想をもつのも当然ではないか。この観点から,近代自然法思想の形成史をたどり,それをマルクス主義(というより社会主義)の形成史にかさねてみることによって,両者の歴史的正統性を確認しようというのである。

 

 この発想の根底には,マルクスのイデオロギー論があった。それはすべてのブルジョワ思想を階級的虚偽意識として批判し,それにプロレタリアートの階級的真理意識を対置するという二分法ではあったが,上昇期ブルショワ思想の相対的真理性をみとめていたのである。しかし,こうしてマルクス主義をうけいれると,マルクス主義自身も,歴史的に相対的な真理にすぎないのではないかという疑問がわく。マルクス主義の方法をマルクス主義自身に適用したらどうなるかという問題である。それが相対性を脱却するには,プロレタリアートが階級そのものを廃絶する最後の階級であることが必要なのだが,どうもその証拠はなさそうだというのが,そのころの正直な印象であった。

 

 そうすると,すべての思想の歴史的相対性,したがってそのなかの歴史的相対的な真理性で満足するしかないのではないか。もちろんそれは,すべてを許容する歴史的相対主義ではないが,思想の多様性そのものは,許容しなければならない。ところで,思想の相対性といったとき,そのなかにふたつの相対性がふくまれていることを見のがすわけにはいかない。それは,階級(ブルジョワとプロレタリア)の歴史的相対性と,思想はすべて個人のものだという近代の基本原理にもとづく個人的相対性の観念である。前者によってみれば,啓蒙思想(ブルジョワ自由主義)と社会主義思想(たとえばマルクス主義)の階級的で歴史的相対的な真理性はみとめられるが,後者によれば,思想の正統性を政治的にあらそうなどということは,思想の本質を否定することにほかならない。だから,さまざまなマルクス主義があって当然であり,階級意識と個人意識のあいだにギャップがあるのも当然であって,あとの論点は,ルカーチの『歴史と階級意識』を逆に読んだことになる(ただし,この本をもってはいたが,学生のドイツ語では歯がたたなかった)。

 

 以上のような問題意識から,マルクス主義の歴史的相対的な真理性を確認するためにとりくんだ,近代初期の思想史研究で,まずとりあげたのがルネサンスであり,そのために読んだのが,林達夫の「文芸復興」(岩波講座世界思潮),前半の邦訳がでたブルクハルト『伊太利文芸復興期の文化』(岩波文庫)とブルダッハ(Konrad BurdachReformation,Renaissance,Humanisums,1918)であった。マキャヴェルリも6巻本の邦訳選集を英訳やドイツ訳と対照しながら読むことができた。ブルクハルトの「Kunstwerkとしての国家」を邦訳が「芸術としての国家」と訳したのを読んで,「人工品」とすべきものの誤訳と感じ,羽仁五郎の『ミケランジェロ』や『マキャヴェリ君主論』を読んで,前者には感激したが,後者の単純な人民主義に辟易したおぼえがある。他方で,本科1,2年のゼミのテクストは,ホッブスの『リヴァイアサン』とスミスの『国富論』であり,スミスについては,『道徳感情論』がふたりの恩師(太田可夫,高島善哉)によって強調されたうえ,『法学講義』の下訳を依頼された。この下訳がおわってまもなく,ぼくの学生生活もおわり,太平洋戦争がはじまった月(1941年12月)に,3ヵ月くりあげ卒業ということになった。卒業論文は,『生成期国民国家の思想史的研究』で,全部を書きあげるには,なお1年が必要であった。その内容は,さらに展開されたかたちで,その後の著書・論文(とくに『近代人の形成』)となった。

 

 前史がながすぎたので,ここでうちきるが,影響をうけた思想家の名前だけでもあげておこう。日本では,林達夫,三木清,戸坂潤,高島善哉。当時流行した京都学派の哲学も,河合栄治郎の諸著作(いわゆる「学生生活」もの)も,ほとんど読まなかった。外国の思想家としては,ディルタイ,マクス・ヴェーバー,トレルチ,ボルケナウ。もちろんマルクス,エンゲルスがあるが,マルクスの著作のなかでは,前記『ユダヤ人問題』のほかに,『ドイツ・イデオロギー』と「経済学批判序説」を,エンゲルスの「われわれはただひとつの科学,歴史の科学を知るだけである」ということばとともに,あげておきたい。ただし,この時期に原文でよんだ外国書は,『リヴァイアサン』や『国富論』とその関連文献をのぞけば,前掲ブルダッハとヴェーバー(一部分)しかない。1942年12月から1946年5月までの,陸軍属および捕虜としての生活には,研究にかかわることはふたつしかない。ひとつはボルケナウの原書をジャカルタ法科大学の蔵書のなかに発見して,邦訳のない後半のタイプスクリプトをもちかえったこと,もうひとつは,日本からもってきた『リヴァイアサン』の翻訳を,スラウェシ島ウジュンパンダンの日本軍終戦連絡所ではじめたことである。

 

 

 2.職業としての学問

 

 復員して母校(東京産業大学となっていた)の特別研究生になって,最初の仕事は,ふたつの翻訳(『グラスゴウ大学講義』と『リヴァイアサン』)の仕上げであった。ふたつともたいへん好意的にむかえられたが,じつをいうと,後者は穴があったらはいりたくなるほどのできばえであった。しばらくして内田義彦と丸山真男の紹介で改訳を岩波文庫にいれることになり,もうひとりの恩師(西川正身)に英語をきたえられた。この経験がなかったら,その後大過なく翻訳をかさねることは,不可能だったにちがいない。

 

 この特別研究生時代(1946.9−1949.12)に,社会思想史を自分の研究領域とすることが,確定する。問題意識はまえとおなじである。こういえば,すぐ疑問が提起されるにちがいない。戦前には,いわばおち目のマルクス主義について,マルクスの正統性を確認しようとしたはずなのに,戦後のマルクス主義の復活再興の時代に,なぜわざわざ近代初期までさかのぼる必要があるのか。じじつ,特別研究生仲間でも,後輩の長谷川正安(憲法学者)や長洲一二(故人,神奈川県知事)などは,そういう意見だった。しかし,マルクス主義が近代思想の批判的継承者として成立したことを考えれば,近代をまともに経験しなかった国で,マルクス主義を継承発展させることができるだろうか。そこには思想内容の問題だけでなく,近代性の欠如によるコンフォルミスムという問題がある。スターリンと毛沢東の著作は,コンフォルミスムに乗った大衆マルクス主義の,校長先生の訓辞であった。最大の悲劇は,数百万の党員をほこったインドネシア共産党の崩壊である。したがって,マルクスによる近代思想の継承という問題は,戦後マルクス主義の高揚によってきえうせたわけではない。

 

 当時,近代の欠如という問題意識そのものは,もちろんぼくだけがかかえていたのではなく,巨大な影響力をもったその例として大塚史学があった。それはいまでは見るかげもなくなってしまったが,ぼくは,ブルジョワ思想のにない手としての中産的生産者という概念は,思想史分析のトウールとして,いぜんとして有効であると考えている。見るかげもなくなったのは,追随した歴史家(もちろん経済史家をふくむ)たちの思想性の欠如とコンフォルミスムのせいではないだろうか。しかし,こういったからといって,大塚史学を丸ごと承認したわけではなく,『近代人の形成』においても,田添京二が書評で指摘したように,「大塚史学への対抗が強く意識されて」いた(ただし,書評は「その超克がこのような方向で可能かどうか私は疑いを感ずる」と続く)。中産的生産者層という経済史の範疇を思想史に転用したのは,おそらくぼくの方が創案者自身よりもはやかったとおもうし,その源泉は,マンハイムの「自由に浮動する知識人」やボルケナウの「ブルジョワ・ジェントリ」にあった(やがてグラムシの知識人論にもつながる)。

 

 ヴェーバーの「プロテスタントの倫理」論文は,まえにのべたルネサンスヘの関心から宗教改革が視野にはいってきたときに,意識されていた(梶山訳は1938年)が,そのまえにエンゲルスの『空想から科学へ』のなかの数行とボルケナウの邦訳上巻の1章があった。こういう視角から大塚史学を見たとき,ふたつの大きな不満があった。ひとつは「史実によれば」といわれるものが,なまの史実のほりおこしではなくて,ダービーやアンウィンがほりおこして整理し報告した「机上の史実」にすぎなかったことであり,もうひとつは,宗教改革にくらべてルネサンスの評価が,いちじるしくひくかった(反動とさえよばれた)ことである。

 

 第1の点については,占領や為替管理によってなまの資料に接する道がとざされている以上,なまの資料といいうるものは,思想史の原資料しかないではないかと考え,すべての歴史(叙述)は思想史に帰着すると書いたのだが,このことは,抑制条件が解除されたのちも,かなりの程度あてはまるのではないだろうか。じつは,肝心の思想史においてさえ,それまでは原資料の研究はむしろ例外で,二次文献からの孫びきがふつうであった。

 

 「史実」なるものについては,ふたつの経験がある。第一は,ドッブの『資本主義発展の研究』(1946)をめぐって,ヒルトン,ドッブ,スウイージー,高橋幸八郎による論争があった。もちろん高橋は大塚史学を代表して産業資本の系譜を主張したのだが,ぼくは洋書輸入が再開されたときに,最初にこの本を買い,書評を書いたものとして,ウルム周辺の農村工業を商業資本(フッガー)が都市ギルドに対抗して育成したという,ドッブの指摘に興味をもった。つまり,大塚史学の系譜学への疑問である。第二の例は,高橋幸八郎がフランス革命の国有地処分について,かれ自身が引用している統計と矛盾した大塚史学流の説明をしていたことで,これについては高橋が「インチキでして」とみとめた。

 

 ルネサンスの評価については,宗教改革とルネサンスの啓蒙思想による統一(宗教改革が神としてしか予感できなかったあたらしい秩序が,ルネサンスによる神の解体をつうじて,近代社会の萌芽に転換される)として,『社会思想史概論』に書いたので,くりかえさない。このテーマは,名古屋大学経済学部における社会思想史の講義のなかで,学生がしばしば,いちばんおもしろかったといったものである(さすがに内田義彦は『近代社会観の解明』の書評で,この点に注目していた)。

 

 ルネサンスや宗教革命に言及したことからわかるように,この社会思想史の意図された枠ぐみは,常識を逸脱していたし,これによってマルクスの想源と歴史的正統性を確認しようとするとき,マルクス理解でも常識をやぶらなければならなかった。その常識とは,たとえば,思想史における基底体制還元主義あるいは唯物史観主義,社会科学における経済学と生産力視点の優位,経済学史におけるマルクスの『剰余価値の諸理論』の支配である。さいごの点は,この未完の手稿を『剰余価値学説史』とよんだことにも表現されていた。

 

 基底体制還元主義批判としては,つぎのように考えていた。思想家の階級帰属は,かれの思想によってきまるのであって,出身階級によってではない。知識人の階級移行は,マルクス,エンゲルス,レーニンによって例証されているし,出身階級を前提しないで思想自体の分析から,帰属階級の性格を規定するという方法を,ボルケナウがとっていた。この方法の継承について,それは方法のさかだちだという批判(阪東宏?)と,それでもなお基底体制還元主義だという批判(福田歓一)があった。

 

 社会思想史というものが,それまでになかったわけではない。しかしそういう少数の先例の大部分は,社会主義思想史あるいは社会運動史であった。また学問の諸部門は,それぞれの学史とともに思想史をもっていたので,その例にならえば経済学史とならんで経済思想史があるように,社会思想史は社会学史とならぶことになるが,社会学という学問の不幸な性格によってそうなることができない。不幸なというのは,かつて哲学がある意味でもっていた社会諸科学の総合という役割を,社会学は放棄してしまったからである。

 

 そのような限界のなかで先例をもとめるとすれば,河合栄治郎の『社会思想史研究』(1923),大河内一男の『独逸社会政策思想史』(1936),新島繁(野上厳)の『社会運動思想史』(唯物論全書,1937)と『岩波講座・哲学』のなかの『社会史的思想史』(1933)であった。以上のうち,最初のものは,農商務省の官僚が大学にもどって,2年たらずのあいだに書きあげたというのだから,問題にならず,2番目はドイツ社会政策学会関係の原資料を駆使した(最近異論が出ているが)好著で,影響をうけたとはいえ,なんといっても対象がかぎられていた。3番目は,文学や宗教などもふくめた広範な視野をもつ野心的な小著であったが,未完であり,原資料もきわめてとぼしかった。問題はさいごにあげたもので,とくに古代をあつかった三木清の論文は,対象の性格にもたすけられて,専門分化にわずらわされない思想すなわち哲学における歴史的発展と論理的展開の一致をみごとに描きだしていた。中世をあつかった林達夫の論文は,中世思想への序論としてはおもしろかったが,未完であるだけでなく,二次文献の紹介にすぎなかった(このさいごの点についての林への不満は,そのごしだいにつよくなる)。近代の部分(羽仁五郎〔清水幾太郎,興水実?〕)はまったくつまらなかった。現代思想についての本多謙三論文は,ドイツに限定しながら文学などを視野にいれていた。

 

 こう書いてさて気がつくのは,これらのことはすべて前史時代の経験だということである。大河内の著書は学生の研究団体であった一橋学会の,社会政策研究会のテクストであり,本多謙三の論文については,おもしろかったということをゼミの指導教官であった高島善哉に話したところ,「ああ,あれはクラインベルクですよ」といわれ,やはり二次文献の紹介かと,ちょっとがっかりしたおぼえがある。

 

 こうしてあえて前史にさかのぼったのは,社会思想史という主題をどう考えていたのかが,模索のなかにおぼろげながら示されているからである。それを整理するとつぎのようになるだろう。第1に,社会思想とは何かといえば,人間は社会のなかでしか生きていけないのだから,かれが生きかたについて考えることはすべて,精度や自覚度や表現形態のちがいはあっても,社会思想なのである。それは社会観といってもいいかもしれないし,ボルケナウのように世界像とよぶこともできるだろう。三木清が古代ギリシアについて描いたように,かつては哲学がそうであったし,近代哲学でいえば,ディルタイの生の哲学がそれにちかいだろう。ただし,知的分業の進行につれて,ディルタイの時代には,哲学はすでにそういう機能を失っていた。

 

 そこで第2に,専門化した知的諸分野の背後に全体的な社会像をさぐろうとすれば,それぞれの分野にとじこもっているわけにはいかない。たとえば,文学や宗教も視野にいれなければならないし,むしろ,この領域のほうが諸科学よりも直接に,社会観を表現しているといえるかもしれない(ヴェーバーの『プロテスタントの倫理』をみよ)。ただし,諸科学のなかでは,人間の生存つまり生活資料の調達と分配に直接にかかわる経済学(あるいは経済思想)の重要性は否定できない。

 

 第3に,こういう研究にとって,諸科学の最先端の理論とその論理的展開を追うことは,かならずしも必要ではなく,その背後あるいは基底にあるさまざまな原資料のほうが重要になる。あるいは,これまで最先端の定説とされていたものからの原典理解を,もういちど原点に帰って読みなおすことにもなるだろう。こういうことは,歴史学の世界では資料批判として常識なのだが,理論の展開を追う「学史」では,しばしば無視されてきた。第3の特徴は,原典主義とよんでいいかもしれない。

 

 

 3.市民社会派あるいは近代主義者として

 

 そもそものはじまりは,日本社会の非近代性と,その批判者としてのマルクス主義の有効性と魅力であった。この有効性も魅力も,マルクスが近代をつきぬけたことにあったのだが,はいらなければつきぬけられないのは当然であるから,マルクスはまず近代の思想家として,ホッブスやスミスの継承者として,とらえられる。マルクスの正統性を確認するということは,このような意味で近代思想の正統をついでいるかどうかの確認であった。いまではいろいろ疑問もあるが,出発点あるいは作業仮説としては,これでよかったのだとおもう。

 

 そこで,近代初頭からながれにそってマルクスまで,さらにマルクスをこえて,辿ってくることになるのだが,そのばあい,おおくのマルクス主義者がしたように,マルクスヘ直線でつなぐことはしなかった。これまでのべてきたことからもわかるように,それではなにも歴史をさかのぼる必要がないのである。そうしないことによって,近代思想史のなかでマルクスにながれこみながら,マルクスあるいはマルクス主義者たちが,気づかなかったものが見えてくると,マルクスの姿も別の角度から照明をあびることになる。この多角的照明という方法は,マルクス以外の思想家についても有効であった。内田義彦の複眼的思考という態度は,これと部分的にかさなりあうが,内田には思想家へのアプローチという発想がまったくない。内田は,見たこともないような文献がぼくの論文にはならんでいると書いたことがあるが,それはできるだけ広い文脈で思想家をとらえようとしているからで,伝記と研究史への関心も,おなじ根から出てくる。伝記が思想史でないことは,いうまでもないとしても,思想家をつつむ思想のネットワークを知るには便利である。たとえば,コンスタンやバーダーのスコットランド留学というようなことがあげられる。

 

 多角的照明を一枚岩的解釈の否定と考えれば,研究史上いくつもの例がある(ふたつだけあげれば,アダム・スミス問題とマルクスにおける初期と後期)が,それはおおくのばあい,統一的思想家像を拒否して,像を分解する結果になっていた。しかし,それを多面的な思想家像として,再構成することは可能である。

 

 非近代に対して近代,そして近代の典型としての市民社会といえば,たちまち反論がおこる。ひとつは,近代の先から,もうひとつは近代の横からといっていいだろう。前者は,しばらくまえには社会主義からであったが,最近は文字どおりポスト・モダンとよばれるものからである。後者は,西ヨーロッパ単線進歩史観への複線史観からの批判であり,それは進歩というより多文化の横ならび,つまり文化人類学のヴァリエーションである。ポスト・モダンと称する考えかたが,歴史のながれを無視した断片主義だという批判は,すでにいくつか出ているから,くりかえしはさけるが,とくに日本については,近代もまともに経過していないのに何がポスト・モダンかという疑問をもっている。最近の例をひとつあげると,いわゆる開発経済学の著書のなかに,スミスやマルクスの経済発展理論が,歴史的文脈を一切無視して利用されていた。しかも,こうしてつくりあげられた西ヨーロッパ型の理論を,アジア,アフリカの途上国に適用しようというのだから,そこでも歴史的文脈は無用されることになる(たとえばアマチア・セン)。

 

 他方,西ヨーロッパ単線史観といっても,事実上はギリシア,ローマのつぎにイギリス,フランス,ドイツがくるだけなのだから,イベリア,地中海,スカンディナヴィアなどが当然考慮されるべきだが,複線史観というのはさらにその外側にあるスラヴ,イスラム,および近代の特徴である植民地支配のもとにおかれた,いわゆる少数諸民族をふくめた考えかたである。ところが,複線のうちのそれぞれの線が,独立に発展しているわけではなく,すべてが西ヨーロッパ路線に,抵抗しながらではあれ,まきこまれているのだから,それからきりはなすことはできないし,さらに分析の理論的道具自体が,西ヨーロッパの産物なのである。フェミニズムが,これまでの思想は全部男性支配の産物だと批判したところで,それらがいわばジェンダー・ニュートラルなものとしてくみかえられないかぎり,抽象的対立にとどまるし,くみかえの作業の前提として批判対象の認識と理論的道具の構築が必要である。この困難を回避する便法としてポスト・モダンのフラグメンタリズムが援用されるのだが,それでもとにかく作業はそのかぎりでは,西ヨーロッパ文化の枠内でおこなわれる。しかし,上にのべたような異文化間,たとえば西ヨーロッパ合理主義とイスラム原理主義ということになれば,共通のことば,論理がないのだから,交流はもとより,批判も有効にはなりたたない。イスラムのなかでも都市イスラムとは,西ヨーロッパ合理主義との対話がなりたつといわれるが,それは後者がつくりだした近代都市が必然的にもつ合理主義が,前者の都市生活に参透しているためにほかならない。

 

 すなわち,われわれは近代をのりこえるにせよ,それから逃げるにせよ,近代から出発しなければならないのであり,近代をぎりぎりまで追いつめてこそ次の道を語ることができるのである。それがマルクスの方法でもあった。近代思想の中心にあるのは,近代的個人であり,その疎外形態としての分業,知識人,代議制権力である。

 

 

 〔英文〕

60 Years Studying the History of Social Thought

 

Hiroshi MIZUTA

 

I was born in the middle-class area in Tokyo in 1919 and educated there until the Pacificwar broke out in December 1941, when our university course was curtailed by three months and students were driven into the military service, from which I had a narrow escape owing to aphysical condition. Higher education during that period was fairly liberal. In my case, the seminar text-books were by Hobbes, Locke, and Smith. As a radical liberal student I could not help resisting the semi-feudal and militarist structure of Japanese society and the policy to strengthen it. The heyday of Japanese Marxism, when it was said that all the clever students would become Marxists, seemed to have disappeared under the fierce suppression. However,at the same time it seemed to me that the Marxist criticism of Japanese society was the most convincing one. I started studying the main streams of social thought of the modern ages to locate Marx in them. Reading Marx in the light shed by the modern thinkers of the West, and reading those modern thinkers in the light shed by Marx, I have been developing fresh pictures of them al1.

 

I started translating Hobbes' Leviathan when I was taken a prisoner of war in 1945-6. It took more than forty years to complete. My first book was a history of social thought from Machiavelli to Hobbes. I translated Smith's Lectures on Jusrisprudence, Theory of Moral Sentiments,and The Wealth of Nations before concentrating myself on the study of Adam Smith and the Scottish Enlightenment. My catalogue of Adam Smith's Library on which I started working when I was a British Council Scholar in 1954-6 will be published shortly.

 

Although I was an initial member of the Society for the History of Economic Thought, I felt it necessary to establish a new society for the history of social thought distinct especially from the history of economic doctrine. The society was established in l976.

 

以上

 (水田洋論文・インタビュー 掲載ファイル)      健一MENUに戻る

    『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

    『住民運動は民主主義の実践』インタビュー