バイトの帰りに喫茶店「水麗」に立ち寄って、その後に自室へと戻ってきた由羅は早速シャワーを浴び、汗に汚れた服を洗濯機に放り込んで新しいのを着る。
その際、頭も冷えたのか喫茶店でやらかした騒ぎを思い出す。 「――なんであたしあのくらいで切れたんだろう」 しばらく悩むが、あとで謝るということで始末をつけ、その後に夏休み中に出されたレポートの始末をつけるべく机に向かう。 そのまま作業を続け、電話のベルに意識を引き戻されたときにはすでに日が落ちていた。 電話を取るとその相手は萌で、心配した口調だった。 「あ、由羅ちゃん?今日のことだけど……」 「今になって思うと、あたしも無意味に頭に血が上っていたと思うよ」 照れくさそうに頭を書きながら電話に応対する由羅。 「だから……ね」 「あぁ、明日にでも瑞恵の奴には詫びでも入れておくか」 「今日じゃなくて?」 「お互いにもう少し頭を冷やしてからの方がいいと思ったからな」 由羅は自分と瑞恵の性格を考えて、すぐに謝るのは危険だと判断した。 「こういうのは早めの方がいいのにぃ」 「あたしの性格くらいは知ってるだろ?」 「……そうだね。なんなら明日仲介するけど」 「自分で電話をかけるからいいよ」 不意に時計を見ると、すでに8時を越えていたので食事のことを思い出す。 「……っと、夕飯はどうする?食いに来るか?」 「ごめぇん。今日はちょっと用事があって」 本当にすまなさそうな声の萌。 「そうか。最近つきあい悪いなぁ」 「わたしだって、忙しいときはあるもん」 「それもそうだな。それじゃあ次の機会にでも」 「うんっ♪」 食事を終えて、作業を再開し、それを終えた由羅はそそくさとベッドに潜り込んだが、昼間の疲れからかすぐに深い眠りへと入っていった。 ●
夜が明け、いつものように早起きをした由羅は早朝の人気の少ない街中をランニングする。 さわやかに晴れ渡ってはいるが、昼間の熱気もなく、澄んだ空気は走るのには快適なものだった。 しかし、走っている間、瑞恵にどのようにして謝ろうかと考えるだけで重い気分になり、足取りもまた少々重くなっていた。 そのような状況ながらしばらくは何事もなく走っていたが、とある街角でふいに周囲の空気が重くなったような妙な感じにとらわれて立ち止まった。 「……?」 しかし、周りを見回してもおかしくなったような物は何も見あたらない。 「……ったく、空気まで重く感じたら末期症状だな」 と、再び走り出そうとした由羅の耳に微かに悲鳴らしき物が聞こえた。 その音源についての事を考える前に、持ち前の正義感に押された由羅は声のした方向に駆けだしていた。 声が聞こえた方向には路地裏へと通じる道以外に何かがありそうな感じは見えず、由羅はその道へと走っていくと同時に臨戦態勢を整える。 一つ角を曲がったところ、ビルの間に挟まれて細い路地になった そこで由羅が見たのは何者かに襲われている女性だった。 襲っている方は、獣が二足歩行をしているような、どう見てもこの世界に存在しているようには思えない、むしろ架空の世界に存在していると言った方が相応しい異形の物――妖魔であり、一方襲われているショートカットの女性は傷だらけになっているものの、それは紛れもなく瑞恵だった。 妖魔はすでにぐったりとしている瑞恵の腕を持ち上げ、その身体を喰らおうと大きな口を開ける。 「っ!」 それを見た由羅は、反射的に肩から妖魔へと体当たりを見舞った。 不意をつかれた衝撃で妖魔は多少はじき飛ばされて、瑞恵の身体は手荒ながらも妖魔の手から解放され、重力に引かれるまま地面に崩れ落ちた。 妖魔よりも早く身体の自由を取り戻した由羅は素早く妖魔と瑞恵との間に入る。 「ゆ……由羅、何で……こんな所に?」 予想もしなかった由羅の出現に、身体の痛みも一瞬忘れてとまどう瑞恵。 「あたしは走っている最中に悲鳴が聞こえたから来ただけだ。それより何故お前がここにいるっ」 呆然としてる瑞恵に、起きあがってくる妖魔を構えたままじっと見据えながら答える由羅。 「あたしは……知り合いとさっきまで飲んでいて、朝になって近道して帰る最中にこの気味の悪い化け物に……」 あまりのことに恐怖という感覚が麻痺してしまったのか、瑞恵は淡々とそれまでの状況を話した。 「朝までか……?――って、とりあえず、早く逃げろっ!しばらくはあたしが持ちこたえるからっ」 一瞬気がゆるんだ隙に妖魔は我を取り戻し、由羅に向かって鋭い爪を繰り出してきた。 とっさに身を引いた由羅だったが、左肩から二の腕の中程までに妖魔の爪痕が軽いとは言えないほどに刻み込まれた。 「えっ!?……う、腕……」 その傷自体は由羅の命を奪うにはほど遠いものであったが、突如左腕から力が消え、肩から垂れ下がるだけの存在と化してしまっていた。 それはただのショック症状だったが、そのことが把握できない今の由羅には動揺を起こさせるのに十分だった。 感覚だけは残っているので完全に機能を奪われた訳ではないのは認識できたが、腕の自由が利かなくなったことに対する精神的動揺とを含めて守りが甘くなってしまっていた。 その後妖魔は、まるで目の前の人間をも獲物とするかのように、防御の甘い左半身めがけて爪を振りかぶってくるが、それに対して由羅は避けつつ後退することしかできず、少しづつ増えていく傷に、いつしか表情にも焦りと恐怖の色が浮かぶ。その感情の裏には萌の時に自分の打撃が全くの無意味だったことも影を落としていたのかもしれない。 そして、頭部へも衝撃が加えられ、気が遠くなりかけたところに、踵に柔らかい物が当たる感触があった。 それが何かは容易に想像がついた――ついたからこそ、それ以上後ろに下がることも気を失うことも出来なかった。 覚悟を決めた由羅は意識を奮いたたせ、直後に繰り出された妖魔の腕を、右腕を叩きつけることで強引に軌道をずらして隙を作り、その流れに乗せて膝を妖魔の腹部へと叩き込む。 それは彼女の予想以上に効果を現し、妖魔は低いうめき声のような唸りを上げると数歩後退した。 その手応えに、以前の萌の時のように自分が無力では無いと知った由羅は、気力を取り戻して妖魔を押し戻す。 背水の陣の覚悟から次第に勢いを盛り返した由羅。 その表情からは焦りの色は消え、代わりに友人を守るという使命感をもった精悍な表情が浮かんでいた。 妖魔も相手の突然の攻撃に少々驚いたように見えたが、すぐに反撃をかける。 しかし、今度は攻撃を受けても、出来た隙に素早く突きや蹴りを叩き込んでくる由羅だった。 重力と慣性の法則に任せるだけだった左腕もいつしか自由を取り戻し、攻撃に防御にと機敏に動く。 その後応酬がしばらく続き、それを終わらせたのは由羅のローキックだった。 狙い違わず妖魔の膝に命中した蹴りは、妖魔の体勢を崩すには充分な威力で、半歩後退すると同時に左足を軸に素早く身体を回すと…… 「はぁっ!」 気合一閃、鋭い回し蹴りを妖魔の頭部に打ち込んだ。 体重と遠心力が充分に乗った蹴りは彼女自身の予想を上回る威力を見せ、鈍い音と共に妖魔の首が皮一枚を残す感じで折れた。 そして、周囲に緑の血しぶきをまき散らせつつ、そのまま倒れ込む。 「きゃっ」 と、その光景に軽い悲鳴を上げる由羅であったが、構えはそのままに倒れ込んだ妖魔を観察した。 すると、以前みたような風化が始まり、そこで由羅も構えを解いて、肩の力を抜く。 「はは……あたしでもどうにか……って、こうしてる場合じゃない!」 由羅が振り返ると、そこには先程とまったく変わらない姿勢で横たわったまま動かない瑞恵がいた。 「お、おい、しっかりし……」 瑞恵のもとに駆け寄り、彼女を抱き起こそうとした由羅は彼女に触った時点で動きを止めた。 この場合止めたと言うより、呆然として止まったと言った方がいいだろう。 由羅が彼女の顔に触れたとき、その皮膚から温もりが消えていた。 このことが意味することは子供にも分かることであったが、彼女の意識はその事実をなかなか受け入れようとはしなかった。 そして、次の瞬間、由羅は駆け出していた。だが、この場から逃げ出そうというのではなく、一縷の望みに賭けようとしていたのだった。 由羅は近くにあった公衆電話にたどり着くと、手持ちの十円玉を入れて、里美の電話番号をたたき込んでいた。 妖魔について知っている里美だったら、こんな時の対処法を何か知っているかもしれないと思いながら……。 呼び出し音が8回ほど繰り返し鳴った後で、ようやく里美が出てきた。 「ふぁい、白雪で……」 いかにも眠そうな声の里美が全てを言い出す前に由羅は堰を切ったように一方的に話し始める。 「里美さん、訳はあとで話しますから、すぐにこっちにきてください」 そういって、由羅は現在地を簡単に話したが、その口調は普段の由羅からは想像もつかないほど弱気で、焦っていた。 「由羅ちゃん、落ち着いて。とにかく、すぐにそこに行くから」 そこで電話は切れ、その間由羅は返り血をタオルで拭き取り、自らの腕の止血処置を行いながら、瑞恵のそばにいた方がいいのではないかという不安な気持ちが渦巻く状況でじっと里美が来るのを待っていた。 里美がその場へ車に乗ってやってきたのはそれから約五分後のことだった。 「由羅ちゃん、どうしたの?それにその傷は……」 車から出てきた里美はまさに起きてそのまま来たという感じで、ゴムでまとめてもいない髪は櫛も通っていなくぼさぼさで、寝癖がついたままだった。服装の方も、適当なTシャツを羽織ってきたという感じであった。 「こっちに来てください!」 それだけ言うと、由羅は里美の腕を掴み、強引に引っ張りながら先程の路地裏に向かって駆け出していた。 「ちょ、ちょっと待ってよ」 由羅に強引に引っ張られるまま、路地裏に入ってみると、そこには一人の傷だらけの女性がぐったりとして横たわっていた。 「ゆ……由羅ちゃん……その人は?」 訪ねる里美だったが、由羅はそれが耳に入っていないようで、里美に必死に訴え続けた。 「こいつ妖魔に襲われて、体が冷たくなっているんです。里美さんどうにかなりませんか!?」 「この人知り合いなの?」 瑞恵のそばによって、彼女の状況を確認しながら里美は由羅に先程言ったことをもう一度繰り返した。 「ええ、あたしの友達で、瑞恵って言うんです」 由羅が淡々と言うのを聞き、瑞恵がどのような状況であるかを確認した里美は、ふと、その近くに倒れているもう一つのもの──それは由羅が屠った妖魔の死体だった──に気がついた。 「由羅ちゃん、これ、あなたが倒したの?」 「そんなことより、瑞恵の方はどうなんですか?」 由羅に促されてもう一度瑞恵の傷の様子を確認した里美は静かに由羅に告げた。 「――ここは私に任せて、あなたは先に帰りなさい」 「で、でも……」 「いいから、帰りなさいっ!」 帰るのを渋る由羅だったが、それを予想していたかのように、里美が普段の彼女からは想像もできないほど厳しく、そして鋭い声で由羅に命令した。 その口調に思わず萎縮してしまった由羅は渋々従うしかなかった。 「わかりました……」 後ろめたそうに帰ろうとする由羅だったが、そんな彼女に向かって里美が再び声をかけてきた。 その声は先程の険しい雰囲気はなく、むしろやさしい口調だった。 「由羅、安心して。できる限りのことは私がやってあげるから、あなたはなにも心配しなくていいのよ」 由羅の気がそれたほんの僅かな時間に里美という存在は春菜という人格が支配するところとなっていた。 「っと、その前に、あなたのその傷、ちょっと治しておいた方がいいわね」 「あたしの傷なんかを治すぐらいなら、瑞恵を助けてやってくれ」 「でも……そのままにしてたらダメよ」 言い返そうとする春菜だったが、由羅の懇願するような表情に言葉を飲み込んだ。 「分かっている。じゃあ瑞恵を頼む」 その場から立ち去る由羅を見ながら、春菜は瑞恵の体のすぐ脇に座り込んだ。 簡単に傷の具合を確認すると、治癒の呪文を唱え、その治癒状況に一瞬渋い顔をした春奈は里美の車まで戻り、中においてあった携帯電話を短縮ダイアルでかけた。 「……朝早くすみません。春菜ですけど……」 電話が終わった後、春菜は現場へと戻った。 ●
自分の部屋に戻った由羅は、ひとまず妖魔に傷つけられた腕の消毒をして、包帯を巻く。 そこでようやく自分の左腕の自由が回復していることに気がつき、軽く動かして自分の制御下に戻っているのを確認すると、そのままベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。 なにもする気が起きず、そのまま時間だけが無為に過ぎ去っていく。 だが、その静寂を破ったのは一本の電話によってだった。 その呼び出し音にはじかれるように跳ね起きた由羅は電話に飛びいた。 受話器を取ると、予想通りその相手は里美だった。 「もしもし、由羅ちゃん?」 「はい。今朝はすみませんでした……で瑞恵は?」 不安そうに訪ねる由羅だったが、それに答える里美の声もまた弱々しいものだった。 「そのことだけど……」 里美はそれ以上なにも言えなかったが、その沈黙だけで由羅は全てを了解した。 「そうですか。わざわざ電話してくれてありがとうございました」 「ごめんね、力が足りずに……。それで瑞恵ちゃんだけど、彼女はあたし達の組織で死因をごまかして、事故死したようにすると思うわ」 「すみません、お手数かけました」 それだけ言って電話を切ると、自分の心の中に空虚なものを感じていた。そして、何も言わずに自分の顔を殴りつけた。それは、瑞恵を助けることができなかった自分自身に対する怒りだった。 「ちくしょう……謝る前に死んじまって……」 口げんかをした後、すぐに謝れなかった自分をもう一発殴ると、再び枕に顔を埋めて泣いた。 ●
そのまま泣き疲れて寝ていたのか、再び電話のベルが鳴らされて顔を上に上げたとき、あたりはすでに真っ暗で、時計の針も夜中になっていたのを告げていた。 精神的に打撃を受けた上に起き抜けで無気力状態になったていた由羅は受話器を取る気力も失せていたが、あまりに何度もなるのでしょうがなく受話器を取る。 すると、その直後受話器から甲高い声が鳴り響いた。 「由羅ちゃん、早く来てっ」 声の主は由羅にとって聞き間違うこともないような、聞き慣れた萌の声だった。しかし、その声には明らかな焦りとおそれの色がにじみ出ていた。 「ど、どうしたんだ」 少しでも状況をつかもうとする由羅だったが、萌はそれすらももどかしいように無視する。 「早く来てっ!場所は―――」 指定された場所はそう遠くはない場所だったので、そのまま部屋を飛び出して駆け出す。 萌から呼び出された付近に行くが、そこはただ暗いだけで何も見えなかった。 と、不意に視界の隅に光が瞬き、何か言い様のない嫌な予感を感じた由羅はそこへと向かってみる。 近づくに従って、そこでは二人の人物が戦っているように見えた――が、その光景に由羅は激しい違和感を覚える。 距離感覚が間違っていないのならば、片方の身長はもう一方の倍はあろうかというもので、小さい方は実際に小さいのだが、それでも小学校高学年くらいはありそうだった。 目を凝らしてその人物が誰かを確認した由羅は愕然となる。 小さい方は紛れもなく萌で、大きい方――妖魔と渡り合っていた。 萌の小さな手からは時折炎や電撃が飛び出し、妖魔へと吸い込まれる。 直感的に魔法だと由羅が考えたそれは妖魔へと確実にヒットし、徐々に弱まってきているようだったが、それでもじわじわと萌に向かって近づいていった。 「由羅ちゃん、わたし一人では支えきれないから、どうにかして!!」 魔法を次々に放ちつつ、悲鳴を上げる萌。 「も、萌!何やってるんだ。早く逃げろ!!」 萌を助けに行こうとする由羅だったが、足がまるで石のようになって、一歩も動かすことができなかった。 「くっ……どうしちまったんだ……あたしの足は……」 しかし由羅は、それが自分の足がすくんでいるという事にすでに気がついていた。 妖魔が恐い、死にたくないという感情が、萌を助けに行かなければという意志を押さえつけて、由羅の足を動かなくさせていたからだった。 だからこそ、その事実を自分自身では否定したかった。 「何で助けにきてくれないのよう……由羅ちゃん……」 萌が半べそをかきながら……しかし、相手にはしっかりと攻撃を続けながら由羅に訴えた。 「助けに行きたいのは山々なんだが、足が思うように動かないんだよ!」 「なら……わたし一人で頑張るもんっ!行っけぇ!」 萌が大きく手を横に薙ぐと、薄い炎の刃が出現して妖魔へと突進する。 瞬間、妖魔が跳ねた。炎の刃は空しく虚空を裂いて霧散する。 「そ、そんな……」 絶望的な声が萌の口から漏れるが、それ以上の言葉が出ることはなかった。 一気に間合いを詰めて着地した妖魔は、過去と同じように再び萌の喉元を締め、声が出ないようにしたからだった。 彼女の身体を持ち上げると、皮膚を引き裂いたり、腕の骨をへし折り始める。 それは一気に死ぬようなひどい傷ではなく、じわりじわりと小さな傷を付けて、痛みで気を狂わせてから殺すような陰湿なやり方だった。 その後に、喉への締め付けをゆるめてくる。 「いやああぁぁーーー!!」 「萌、何で魔法を使わないんだ!」 「っくっ……だめ……痛みで集中が……」 声を解放された萌だったが、その口から漏れるのは痛みへの悲鳴や絶叫のみだった。 それを聞いて、満足そうな妖魔。 致命傷にはほど遠いものの、体中に無数の傷をつけられ続けた萌は、痛みで訳の分からないことをしばらくわめき続けたが、不意にまともな言葉が聞こえた。 「ゆ……由羅ちゃ……」 しかし、そこから先が紡がれることはなかった。 不意に人形の首が取れるように萌の可愛らしい顔が傾いで、地に落ちた。 首からは血飛沫が迸り、そしてゆっくりと主を失った身体が地に伏せた。 「も……」 何が起こったか理解できないといったような呆然とした表情の由羅の前で、妖魔は屍と化した萌の小さな体をバラバラにしはじめた。 胴体を無造作に掴んで引っ張ると、鈍い音と共に細いウェストの所からちぎれ、地面には不自然なほどに赤い肉片と細長いものが真っ赤な液体と共にぼたぼたと落下していった。 妖魔は、萌の肉体だったものを、ガリゴリと骨を砕く不気味な音を立てながら貪り始めた。 腕を胴体から引きちぎると、そのままスティックでも食べるがごとく肉も骨も一緒くたに食する。 足の方は、太股の肉をまるでもも肉の様に食べた後に、血を舐め取られてやけに白く見える大腿骨をかみ砕いて飲み込んだ。 それを見ていた由羅は激しい嘔吐感を覚えたが、そこから目をそらすことはできなかった。 両足を喰い終わった後、妖魔はおもむろに、口の周りから血を滴らせながら由羅の方を見て、にやっとした不気味な笑みを見せた。 「い、いやああああぁ!!」 妖魔と目があった由羅は恐怖で足ががたつき、体中の筋肉がこわばり、悲鳴を上げることしかできなかった。 死後硬直もまだ起こしていない人間の生肉は妖魔にとって美味なのか、引き続きうまそうに萌の体を貪っていた。 最後に、デザートのように残していた萌の頭部を拾い上げると、無造作に頭の骨を割り、そこにぎっしりと詰まっている脳をすする。 それを見つめる由羅はすでに恐怖に支配され、ただの怯える少女と化しつつあった。 突然、頭部を半分割られて脳が露出し、左目も潰されて真っ赤に染まった萌の顔が動き、残った右目で由羅を見つめ、目があったところで怨念がこもったような声を無いはずの喉から絞り出す。 「どうしてもっと早く来てくれなかったの――助けてくれなかったの――」 由羅自身が後悔して心を痛めていることを見透かすように響くその言葉。それでも自分の弱さを出したくない一心で、嘔吐一歩手前であるのを押さえつつ声を絞り出す由羅。 「そ……それは――」 だが、由羅の答えが萌の耳にはいることはなかった。 彼女の頭部はトマトのごとく握りつぶされ、妖魔の口の中に運ばれる。 残った骨も口の中に放りこみ、頭蓋を最後に食事を終えた妖魔は由羅の方に向き直ると、次の獲物として認識したのかゆっくりと近づく。 妖魔がいたところには少しの肉片と大量の血だまり、そしてちぎれちぎれになった衣服があるだけで、それが神島萌という名の少女がこの場に存在していたということを示す全てであった。 由羅はいつでも妖魔から逃げ出すことはできたのだが、まるで蛇ににらまれた蛙のように身動き一つできないでいた。 そして、萌の体をばらされ、跡形もなく食べられる一部始終を見せつけられた由羅の精神は発狂の一歩手前まで痛めつけられていた。 由羅と妖魔との目があった時、妖魔は再びニタリと残忍な笑みを見せ、そのままTシャツごと肌を引き裂く。 その時、由羅の中で何かの糸がプツリと切れ、声にならない悲鳴を上げた。 ●
次の瞬間、自分の部屋の天井が由羅の視界に入っていた。 「ゆ……夢だった……の?」 荒い息をしつつ、額にはびっしり汗が浮いていた。 起きたばかりの夢と現実の区別が付かなかった由羅は、しばらく呆然としていた。 「そ、そうだよな、萌が魔法なんか使うはずがないからな……んっ」 心の平衡が幾分戻ってきた由羅は、その当惑した気持ちを切り替えるために、一回のびをした。 「それに、瑞恵の奴が死ぬわけもないし」 それから、ゆっくりと上体を起こして、左手ではべっとりと寝汗にまみれたTシャツの胸元をぱたぱたさせて乾かし、由羅はさっきまで見ていた夢を思い出していた。 「……しかし、いやにリアルな夢だったな……でも、萌があの時夢のようになった可能性も……」 惨殺シーンを思い出してぶるっと震える。 と、不意に夢の中と同じ骨をかみ砕き、肉を咀嚼する不気味な音が再び由羅の耳に飛び込んできた。 一瞬にして身体の筋肉が硬直し、ゆっくりとその音の元を見てみると……その音の源はテレビで、映画としてホラー番組が放映されているだけだった。 慌てて即座にテレビを消す。 そして、今度は妖魔の姿に怯えて何もできなかった自分が脳裏によぎった。 「あたしが妖魔に怯えてるって?冗談じゃない。あたしは妖魔とだって対等にやりあってみせるさ!……そう、瑞恵の時の夢みたいに……」 宣言するように呟いて立ち上がるが、タイミングを同じくして左の二の腕が痛みが走る。 そこに巻かれている包帯を見て、瑞恵のことが事実と言うことを嫌でも認識させることになった。 「瑞恵の……現実だったのか……」 避けようのない現実に力無くへたり込む由羅。 そんなとき、ドアホンが鳴った。 応対するのももどかしくてしばらくは無視を決め込んでいたが、何度も鳴り続けたために足取りも重く玄関へと向かう。 扉を開けると、そこには荷物も持った里美がいた。 TO BE CONTINUED |