「支那事変」に関する資料集(3)K・カール・カワカミ著「シナ大陸の真相 1931〜1938」(福井雄三 訳、展転社、2001年) p12-p22 から引用。石井菊次郎による序文と、著者による序文の部分です。なお、引用文中の(注)は当サイト管理人による注釈であり、太字も当サイト管理人が重要と考える部分に施したものです。 (注:原著は英語で、「Japan in China」の表題で1938年(昭和13年)3月にロンドンで出版された。著者のK・カール・カワカミは、 |
序文 枢密顧問官子爵 石井菊次郎
外交官としての経歴を歩みだしてまだほんの間もない頃、私は北京で血の洗礼を受けた。私は、男、女、子供を含めて全部で千人ばかりの外国人の一人であったが、当時中国で猖獗(注:猖獗(しょうけつ)=悪い物事がはびこり、勢いを増すこと。)を極めていた排外的狂信主義の生贄として、まさに虐殺されようとしていた。この武装した狂信者の集団は義和団(拳匪)という名で知られていた。彼らの目的は中国にいる全ての欧米人(彼らは日本人もその中に入るとみなしていたのだが)の根絶であった。そして彼らは、清朝政府自体の暗黙の奨励を受けていた。彼らの最初の標的は外国の外交団であり、公使館地区に包囲攻撃をかけてきたが、そこには北京及びその周辺地域の他の全ての外国人が避難してきていた。 一九〇〇年六月一一日から九週間にわたって、この包囲された地域に銃弾と砲弾が雨霰とばかりに浴びせかけられた。我々が死に直面していない時間は一分たりとて無かった。我々の中に正規軍の兵士は百名そこそこしかいなかった。残りは民間人で、彼らは利用できる限りの武器を手にとって戦いに加わったが、残念ながらそのような武器は殆ど見つからなかった。 私は勇敢な人々が私の目の前で次々に倒れていくのを見た。食糧は僅かしか無かった。弾薬は底をつき補充のあては無かった。外部の兵力が我々の救援にやってくるという知らせは無かった。状況があまりにも絶望的な様相を帯びてきたので、我々防御側の仲間の一人であるW・A・P・マーチン博士(彼はアメリカ人の学者であり宣教師であった)は、キリスト教列強諸国による中国分割を文明世界に促す熱烈な訴えの手紙を書いたが、従来彼は最も熱烈な中国の共鳴者であり、かつまた最も誠実な中国の友人であったのである。 だが神の摂理は、我々が全滅せぬことを願っておられた。包囲攻撃が始まってから一〇週目の初めに、多国籍軍(その九割は日本軍であった)が外壁を急襲して突破し、公使館地区に突入して我々を死の淵から救い出したのである。我々の一部が生き延びて救援軍を迎えることが出来たのは、奇跡以外の何物でもなかった。 外国人に対するこのような殺戮の発生した原因は何だったのか。それは中国人の主権を列強諸国が侵害したことだ、と中国人は答える。彼らは不平等条約を中国に押しつけ、関税自主権を奪ってしまった。彼らは租界という形で治外法権区域を設定した。彼らは無防備な沿海地域を砲撃し、何千という罪もない民衆の命を奪った。これらのありとあらゆる蛮行を一体どうやって止めることが出来たのか。それは外国人の鬼(中国人は欧米人と日本人をこう呼んだのである)を絶滅することによってのみ可能であった。義和団事変はまさにその結果であった。 事変が平定されたあとは、野となれ山となれであった。外国人の鬼は根絶されなかった。それどころか逆に、彼らは数が増え、さらに強大になった。そして彼らは以前よりもっと我が物顔に振る舞うようになった。ますますひどくなる外国勢力の侵害の大洪水の中で、中国国家という船は絶望的にもがき続けた。一口に言って、中国は崩壊寸前だったのである。中国自身の自立能力によってではなく、中国の領土を保全しようとする列強間の合意によってのみ、中国は分割されずに存続することを許されたのである。 中国史のこの恐ろしい悲劇的な一頁が教える教訓とは何なのか。簡単に言えばこういうことだ。つまり中国は外国人の邪悪な点だけを指摘して、自分自身の間違いは何一つ認めようとしなかったのである。中国は自分自身を世界に冠絶した国家であると考えて、あらゆる非難を列強諸国に向け、自分自身を何一つ責めようとしなかった。このような態度の中に、日本のそれとは異なる中国の特異な国民性を探る糸口が見つかるであろう。 日本の対外関係を修正しようとして私がささやかな役割を果たしたこの数十年間を振り返り、日本が開国して間もない頃に外国の侵入勢力とぶつかった経緯は、現在の中国のそれと全く同じであることを私は認めざるを得ない。我が日本の無防備な海岸は外国の戦艦に砲撃された。不平等条約が日本に押しつけられた。治外法権の恥辱の烙印が我々に押された。我々は関税自主権を失った。我々が管轄している国土の中に、外国の租界が作られた。一般的に、外国人たちは我々に対して殿様顔に振る舞っていたのである。 このような状況を打開するために、我々は如何なる方法をとったか。答えはただ一言、つまり自己検証である。我々は自分自身の欠点を認めた。我々は決して排外運動を煽り立てたりしなかった。中国の義和団事変に相当するようなものは、日本では何一つ起きなかった。外国人を大量虐殺するような試みはただの一度も企てられなかった。 その反対に我々は西洋文明の優越性を率直に全面的に認めた。喩えて言えば、我々は欧米という師匠の下で一つの国民として学校へ通い、平和の技術さらには戦争の技術さえをも学んだのである。中でも特筆すべきは、我々は新しい学校制度を発足させた。若者の心に排外的な敵意を植えつけるのではなく、彼らを戒めて欧米の輝かしい歴史を学ばせた。高等教育機関が設立された。法律は成文化され、司法制度は再編成された。全くの自己規律によって、我々は誘惑的な外国のアヘン商人の侵入を撃退した。国の隅々まで平和と秩序が行き渡り、外国人の生命と権利は完全に守られた。こうなってから初めて我々は列強諸国に向かって要求した。我々の成長ぶりを認識せよ、我々が対等な関係で文明諸国の仲間入りするのを認めよ、と。そして彼らはそれを認めたのである。 外国勢力の侵害を処理するにあたっての、日本と中国のやり方の鮮やかな対比は、「旅人の外套と北風」の古い寓話を思い起こさせる。北風が旅人の背中から外套を吹き飛ばそうとして烈しく吹きつければ、旅人はより一層必死になって外套にしがみつく。太陽が前から暖かい光で照らせば、旅人は自発的に外套を脱ぐ。中国は北風のやり方を選び、日本は太陽のやり方を選んだ。前者にとってその報いは、内部混乱と外国列強との断続的な抗争の期間がいたずらに長引いただけであった。後者にとっては、国内発展及びその結果、列強国家として国際的に認められたということが、その報酬であった。 義和団事変以降、中国がめざましい発展をとげたことについては何人も否定できない。しかしながら中国の過去三七年間(注:義和団事変からこの本(原著)の出版までの期間を指しているものと思われる。)の歴史を見ていると、中国の特異な排外主義は形を変えて現れ続け、その結果周辺諸国とりわけ日本との友好関係を損なうに至ってしまった、という見解は正しいように思える。その特殊な排外主義は、中国が自分自身の国内に導入した共産主義の影響によって強められてきた。何故ならばその影響の背後にあるコミンテルンは、その思想と行動において明らか排外的だからである。 新秩序及びその中国との関連についてのいくつかの言葉の意味は、第一次世界大戦の激動で取り乱した世界にとって徐々に明らかになったと我々は考える。この新秩序は、中国は外国人に対する原始的な憎悪を克服した近代国家であり、国際的な義務を進んで守りかつ遂行できるということを前提としていた。だがしかし、中国は近代国家ではなくていまだに中世的な国家であることが明らかになった。西洋教育を受けた中国の外交官たちは、九ヶ国条約を日本が侵犯している、と言って声高に非難する。だが彼ら自身の政府は、条約義務の尊厳を守ったためしが殆ど無いのだ。 新世界の秩序は、大国であると小国であるとを問わず全ての国々が、この条約が要求する義務を遂行できるようになって初めて維持されるのだ。まず第一に九ヶ国条約は、法律上正当な権利を守るために列強が武力手段に訴えるのを差し控えるよう要求している。第二にそれは、父親が自発的に鞭を捨てたのにつけこむ腕白坊主のような真似をしないよう、小国に命じている。もしも小国が、この新しい平和機構に隣国が拘束されているのを知りながら、その機構のよって立つ基本原理を平気で茶化したりするならば、その茶化された隣国に常に温和で寛容な態度を保つよう期待するのは果たして妥当であろうか。この問いかけにはきちんと答える必要がある。 この本の中で著者は、現在の日中間の不幸な戦争に直接あるいは間接に関連のある、そしてインドから日本までの広大なアジア地域での、今のところはまだあまり知られていない共産主義の脅威面を明らかにしてくれる重要な事実を提示している。彼は過去半世紀の日本の外交史を調べ、膨大な量の資料を分析し整理し、複雑な諸問題を簡潔で明快な鳥瞰図にして読者に提示している。実際それは、門外漢でさえも一目見ただけで理解できるものである。その意味において、この本は有用な目的にかなうであろうと私は思う。この本は、極東の諸問題について書かれた一群の本の中で、いつまでも重要な地位を保ち続けるであろう。 自序 世間で悪評を買っている動機のために戦うことの中には、常に冒険と興奮とさらには楽しみさえもが存在するものである。現在の日本は最も評判の悪い国である。日本を非難し責めることは、殆どの国で流行の楽しみとなっている。これこそがまさに、著者が日本を援護し、日本のために戦う決心を固めた理由である。 これは論争を呼び起こす本である。この本は、かつて世論の批判にさらされた最も論争を呼ぶ問題のいくつかを論じている。だがその中で述べられている事柄は、単なる机上の空論ではなく、むしろ具体的な事柄である。それらは、著者が反駁の余地がないと考えている事実に基づいている。 この本の原稿を書き終えた後の一九三七年一二月一二日、日本の名誉を永遠に汚した衝撃的な事件が、南京と蕪湖の間の揚子江で起こった。もちろんこれは、日本の戦闘機と沿岸砲備隊によるイギリスとアメリカの砲艦と商船への不幸な襲撃事件のことを指している。この暴力行為は故意のものだったのか、あるいは単なる誤りだったのか? どんな説明をしようと、この事件は日本国家の名誉をかつてない程に危ういものにしてしまった。唯一の慰めは、日本がその非道ぶりを十分に認識して悔悟のしるしを見せていることである。 この事件は日本を危険な方向へ、即ち中国の仕組んだ罠の方向へ押しやった。私がこの本の多くの箇所、とりわけ八章と九章で示そうと試みたように、中国の抱いていた計画は、国際的干渉を招くことによって日本を打ち負かし、卑しめることであった。 何年もの間、中国は貪欲な国際的干渉を生じさせるべく、根気強く巧みに力を注いだ。一九三七年七月北支で戦闘が発生した時、南京政府の干渉歓迎派は上海地域でも戦いが起こるよう慎重に挑発した。この上海は、日本が戦いを起こす希望も意図も持っていなかった地域である。ここには列強諸国の利害が集中している巨大な国際都市があった。この地域の激しい戦闘の中に日本を追いやってしまえば、間違いなく日本は国際的なゴタゴタの網の目の中に取り込まれてしまうだろう。これが中国の考えであった。そして上海の外国領事も含めて有能な外国の観察者達もまた、明らかにこのように認識していたのである。 極めて当然のことながら、日本の軍事行動は絶えず妨げられた。というのは、国際租界区及びフランス特権区域の周辺に、中国軍があたかも彼らの保護者であり警備隊であるかの如くに、意図的にはりついていたからである。この状況を公平に観察している我々にとっては、この地域における外国の関心及び兵力が中国に過度に肩入れしているようには見えない。だが数の上では中国のわずか十分の一であり、流血と銃火の苦しいこの三ヶ月を過ごしてきた日本人にとって、外国の態度と行動は中立とはほど遠いものに思えたに違いない。日本に対して不正がなされているという日本人の積もり積もった感情が、日本人をかつて無いほど不名誉なものにしたあの衝撃的な事件にはけ口を見いだした、と考えるのは間違いであろうか。公平な心を持った者であれば、中国軍が塹壕で固めている地域に隣接する租界区を守っている外国軍の日本人に対する態度は、嫌がらせとまでは言えないにしても厳しすぎるものであったことを認めざるを得ないだろう。その日本人は、敵(中国軍)を撃退しようとする試みの中で、外国人を出来る限り傷つけないようにしようと必死の努力を払ってきたのである。 揚子江事件は、ここで論じられている根本的な状況を少しも変えなかった。この本は、アジア大陸、とりわけ中国における日本の行動の背後にある動機及び日本が達成しようと努めている目的を描写しようと試みている。ここに面積の小さな一つの国がある。他のどの国も及ばないほど人口が密集していて、天然資源が不足しており、食うや食わずの生活をしている。最上の機会は移民達を待ち受けているような地域へ余剰人口を流出させることだが、それは欧米列強間の協定で禁じられている。産業と外国貿易を発展させることによって、自国の増大する人口を養って行こうと必死で頑張っているが、にもかかわらず排他的な関税と外国割り当ての障壁に直面している。その輸出品は中国の市場から閉め出されており、なおかつ、もしも需要と供給の自然の法則が働けば歓迎されるであろう他の国へ参入することも妨げられている。赤色帝国主義に直面しており、それは帝政時代のツァーリの軍国主義と同様に、もしも日本がその浸透に対する防波堤として立ちはだからなければ、もうすでに外モンゴルと中国トルキスタン部を呑み込んでしまったように、間違いなく中国を呑みこんでしまうだろう。 これが日本という国なのである。日本が直面している問題、まず最初は一九三一年の満州事変を、そして今では北支事変を論ずる際に列強諸国及び日本の双方によってジュネーブ会議等に提出された法律的な論争を超越してしまっている。 状況のなさしめるわざによって、日本は十字軍の役割を担った。共産主義の中国及び満蒙への侵入に対して、日本は正義の戦いを戦っているのである。日本は中国の混乱と腐敗に対して、中国の日本嫌いの思想と国策に対して、中国の一世紀に及ぶ「遠くの敵を近くの敵にけしかける」政策(それはいつも日中友好の道を塞いできたのだが)に対して正義の戦いを戦っているのである。そして日本は、極東アジアの諸国民の究極の友好関係のために戦っているのである。日本は成功するであろうか?それとも日本は自ら背負い込んでしまった重荷の下で潰されてしまうであろうか? 現在の戦闘の直接の原因は単純極まりない。日本は殴られたから殴り返しただけのことだ。日本は右の頬を打たれた後で左の頬を差し出すことは出来なかった。そして一度パンチの応酬が交わされた以上、日本は戦いに勝つ以外に道は残されていなかった。さらにまた日本は、中国の背後にぼんやり浮かび上がっている赤色帝国主義の幽霊を見てとっていた。日本はその平和を維持したいというあらゆる望みにもかかわらず、断固としてすみやかに敵を打ち倒さなければならなかった。 実際日本は一九三七年の夏には中国との衝突を避けたいと願う十分な理由があった。日本の眼差しは不安に満ちながら、東シベリアに釘付けになっていた。そこでは共産ロシアが強大に兵力を集結させていたのである。林及び広田内閣に先立って近衛内閣は、南京政府と再接近するための基盤を見いだそうと必死で努力していた。更に一層重要なことに、中国の平和と安定を互いに願う中で進められた、日英協力のための吉田大使(注:吉田茂と思われる。)と英国高官とのロンドンでの対談はかなり進展していて、最終的な合意は全くの時間の問題であると思われたほどだったのである。この計画は日本の軍部に支持された。しかし平和を守るためには、双方の合意が必要である。中国は日本が差し出した手を握ることを拒んでしまった。 最後に、この本で引用されているソビエトの秘密文書について一言触れておこう。それらは一九二七年四月、北京のソビエト大使館附武官の事務所から中国当局によって押収された膨大な文書の中にあったものである。著者の知る限りでは、それらは欧米諸国ではまだ紹介されておらず、この本の中で初めて登場する。読者にとってこれらの文書は、驚くべき、そしてかつセンセーショナルでさえある暴露となるであろう。だがしかしその真実性は疑うべくもない。もっともソビエト政府は(いつものことであるが)それらの文書の責任を否定するかも知れないけれど。ロシア語の現物から英文への翻訳は、中国当局によって任命された特別調査団によってなされた。 一九三八年三月 ロンドンにて K・カール・カワカミ
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日本再生研究会SC 海外在住の日本人からの発言 ≫ カール・カワカミの 『支那大陸の真相』、その(1) 同 その(2) |
このサイトの「その(1)の後半部分」に、次の記述がある。孫引です。K・カール・カワカミ著「シナ大陸の真相:1931-1938」(福井雄三訳、展転社、2001年)からの要約のようです。 『中国の条約侵犯:1923−1927年の間に活躍したソ連の工作員からの助言によって、国民党の考えは、前にもまして非友好的になった。以下のスローガンが用いられた。「打倒外国帝国主義」「打倒外国軍国主義」「打倒不平等条約」「打倒大英帝国」「打倒日本」。幣原は中国人の発想を全く理解できなかった。中国人は、幣原外交の宥和政策を日本の弱さのあかしと捕らえ、平気で条約を破棄したり、外交通告を無視した。満州事変に至るまでに中国が侵害した日中協定のリストは、少なくとも17に及ぶ。 1.1915年の条約の南満州で日本人に与えた土地を借りる権利の遵守を拒否 2.1911年に定められた日本人の経営する石炭鉱山の石炭の輸出税を勝手に四倍に引き上げ 3.1905年の北京条約議定書に違反して、南満州鉄道に平行した鉄道の建設 4.1909年の間島に関する鉄道延長の協定の発効を拒否 5.満州の中国の鉄道で輸送される日本商品への差別。これは「九ヵ国条約」違反 6.1915年の条約を無視して、大連港の返還を要求 7.1905年の協定を無視して、日本の警備隊の鉄道沿線からの撤退を要求 8.1909年の協定を無視して、南満州鉄道沿線の日中共同鉱山事業に関する詳細規定の交渉を拒否 9.1907年の大連港に関する協定に違反して、タバコへの差別的な高輸入税の適用 10.1905年の北京条約に違反して、鉄道建設に必要な土地の南満州鉄道への売却拒否 11.1915年の協定に違反して、南満州の鉄道区域外に日本人が出ることを不可能にする秘密命令の発布 12.1909年の間島協定に違反して、朝鮮人を迫害 13.1896年の中露協定に違反して、南満州鉄道沿線区域内で、不法な税金の取立て 14.満州国と南満州鉄道の協定に違反して、タオナン・アンガンチー鉄道に日本人の採用を拒否 15.日本人が資金を出し、中国人が経営している鉄道で日本人のスタッフが協定で決められた監督権を行使することを拒否 16.撫順産出の石炭から南満州鉄道が頁岩油を製造することに抗議 17.日系資本の鉄道の売上金の着服。この売上金が平行しいて走る鉄道の建設に使用 これらによって日本人は満州地域での業務遂行に多大の不便を感じていた。その結果が、1931年9月の満州事変であった。 』 |
【参考ページ】 1931年 柳条湖事件(満州事変へ) 「満州事変」に関する資料集(1) 「満州事変」に関する資料集(2) 「満州事変」に関する資料集(3) 1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。) 1937年 廬溝橋事件(支那事変へ) 「支那事変」に関する資料集(1) 「支那事変」に関する資料集(2) 「支那事変」に関する資料集(3) 〜このページ 「支那事変」に関する資料集(4) 【LINK】 日本再生研究会SC 海外在住の日本人からの発言 ≫ カール・カワカミの 『支那大陸の真相』、その(1) 同 その(2) 参考文献 「シナ大陸の真相 1931〜1938」K・カール・カワカミ著、福井雄三 訳、展転社、2001年(注:原著は英語で、「Japan in China」の表題で1938年(昭和13年)3月にロンドンで出版された。著者のK・カール・カワカミは、 展転社 ≫ 「シナ大陸の真相」書評 |
このサイトに、「この本は一九三八年三月、ロンドンで英文出版された日系アメリカ人・K・K・カワカミの『Japan in China』の本邦初訳である。」と書いてある。(注:太字は当サイト管理人による。) |
コトバンク ≫ 猖獗 とは更新 2013/5/8 |