「支那事変」に関する資料集(4)ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p325-329 から引用。エドガー・スノー著「中国の赤い星」など毛沢東のイメージ戦略について。 なお、引用文中の(注)は当サイト管理人による注釈であり、太字も当サイト管理人が重要と考える部分に施したものです。 |
毛沢東は息子たちのことに無関心だったが、対照的に蔣介石は息子に対して強迫的ともいえるほどの執着を見せた。一九三七年二月、スターリンが息子の帰国をなかなか認めないのに焦れて、蔣介石はまたひとつ中国共産党に譲歩をおこなったが、これは後々に重大な影響を及ぼすことになった。蔣介石は、共産党のスパイ邵力子(シャオリーツー)(一九二五年に蔣経国(注:蒋介石の息子。)をソ連へ連れていった人物)を、メディア対策を統括する国民党中央宣伝部長に任命したのである。邵力子の仕事は、メディアと世論の強い反共姿勢を方向転換させることだった。蔣介石はモスクワに対して破格の好意を示したわけである。 これを境に、ソ連に関する報道は広範かつ好意的なものになった。中国共産党の善良なイメージ作りも進んだ。その年(注:文脈からみて1937年。)の夏には、邵力子と毛沢東のあいだで毛沢東の自伝を出版するアイデアが練られた。自伝は毛沢東をもっぱら善人として描き、抗日戦争に関する毛沢東の発言集を付録につけて、抗日愛国者のイメージも強調していた。毛沢東は、「日本帝国主義と断固戦い抜こう……」と、熱烈な愛国者を気取った題詞を書いた。本は一一月一日に発売され、ベストセラーとなった。毛沢東の成功を決定的にした神話、すなわち共産党こそが抗日に最も熱心であったという神話が作られたのは、この時期だ。実際、この神話のおかげで、のちに毛沢東政権の中枢となる人材も含めて何万もの人々が共産党に入党したのであった。 『毛沢東自伝』の大部分を構成するのは、一九三六年夏に毛沢東がアメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーのインタビューに応じた際の内容である。毛沢東が自分の人生について広範に語ったのは、このときだけだった。スノーはまた、毛沢東および他の共産党員とのインタビューに圧倒的に依拠した内容の著書『中国の赤い星』を発表し、中国共産党の血塗られた過去を消してイメージ回復の基礎を作った。 毛沢東とスノーの出会いは偶然ではない。その年(注:文脈からみて1936年。)の春、毛沢東は上海の地下組織に対して自分の宣伝をしてくれる外国人ジャーナリストを探すよう依頼し、あわせて医者も一人みつけてほしいと頼んだ。慎重な吟味の結果、エドガー・スノーに白羽の矢が立った。スノーは、毛沢東が求める資質をすべて備えていた――アメリカ人であり、『サタデー・イブニング・ポスト』や『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』といった有名メディアに記事を書いており、共産党に好意的だった。スノーは七月にレバノン系アメリカ人医師ジョージ・ハテムを伴って革命根拠地に到着した。ハテムはコミンテルンからの最高機密文書を薬箱に隠して持ち込んだ。スノーは、根拠地に三ヵ月とどまった。ハテムのほうはその後死ぬまで共産党と行動を共にし、毛沢東の侍医の一人となり、中国共産党の外国諜報組織でも働いた。 毛沢東は、偶然のはいりこむ余地がないように、スノーの訪問に関して「安全、保密(秘密保持)、熱鬧(盛大)、髀d(丁重)」を旨とした詳細な指示を与えた。政治局は事前にスノーから提出させた質問に対する回答を念入りに調整した。毛沢東は、貴重な情報とまったくの虚構をないまぜにしてスノーに聞かせた。スノーはこれをそっくりそのまま呑み込んで、毛沢東と中国共産党指導部を「率直で、腹蔵なく、気取らず、潔い」と評した。毛沢東はAB(アンチ・ボルシェビキ)団の粛清など拷問や殺人の歴史を隠し、中国を横断した行軍に「長征」という巧妙な名前を付け、濾定(ルーティン)橋のような戦闘や英雄譚をでっちあげた。また、病気のときを除いて「長征六〇〇〇マイルの道のりの大部分を下士官兵たちと同じように自分の足で歩いた」と語った。モスクワとのつながりを完全に隠し、アメリカとの友好関係を望んでいる、とも語った。多くの人々が、これに完全にだまされた。 毛沢東はさらに用心のため、スノーがその後に書いたものをすべてチェックし、訂正や書き直しの筆を入れた。一九三七年七月二六日(『中国の赤い星』が出版される前)、スノーは当時延安にいた妻のヘレンにあてて、「わたしに話したことを取り消したいという人たちに関するメモは、もうこれ以上送らないでほしい……この調子では、削除ばかりでチャイルド・ハロルドみたいになってしまいそうだ」という手紙を送っている。『中国の赤い星』の中でスノーはこうした背景には言及せず、逆に、毛沢東は「わたしに対して一度も検閲をおこなったことがない」と書いている。同書の中国語版はスノーのコメントをさらに膨らませて、スノーが毛沢東の言葉を「正直で真実である」と評したように書いている。 『中国の赤い星』は一九三七年から三八年にかけての冬に英語で出版され(注: エドガー・スノー - Wikipedia では、1937年の出版としている。)、西側世論を毛沢東に好意的に転換させるうえで大きな役割を果たした。中国共産党は中国語での出版を計画し、不偏不党の印象を与えるべく『西行漫記』というタイトルをつけた。『中国の赤い星』と『毛沢東自伝』に加えて、スノーの資料をもとにした本がもう一冊出版された。この本も、中立的に聞こえるよう『毛沢東印象記』というタイトルがつけられた。 『中国の赤い星』――および抜粋を編集した他の二冊――は、中国国内の急進的青年層に多大な影響を与えた。多くの若者がスノーの本を読んで共産党に入党した。その中には、チベット族から初めて共産党員になった若者たちもいた。まさに中国共産党ルネッサンスの始まりだった。毛沢東はのちに、この出版は「禹帝の治水にも劣らぬ功績があった」と言った。禹帝は、黄河の洪水を治めて中国文明の誕生をもたらしたとされる伝説の夏王朝の始祖である。 邵力子は、蔣介石のメディア対策責任者としてスノーに便宜を図り、毛沢東と共産党の評価を高めるうえで欠くべからざる役割を果たした。ほぼ一年後に蔣介石が邵力子を解任するころには、毛沢東と共産党のイメージはすっかり浄化されていた。 |
(当サイト管理人による注: この引用文を基にまとめると、次のとおり。 ・『毛沢東自伝』は1937年11月1日発売で、エドガー・スノー著『中国の赤い星』は1937年〜1938年にかけての冬に英語で出版(注: エドガー・スノー - Wikipedia では、1937年の出版としている。)、ほぼ同時期である。 ・『中国の赤い星』は、のちに『西行漫記』と題して中国語で出版された。 ・エドガー・スノーの資料をもとにしたもう一冊の本が、『毛沢東印象記』と題して出版された。 ・1937年2月に国民党中央宣伝部長に任命された邵力子は、毛沢東とのあいだで毛沢東の自伝を出版するアイデアを練り、蒋介石のメディア対策責任者としてスノーに便宜を図った。 ・エドガー・スノーが毛沢東とはじめて接触したのは、1936年春ころか。 ・ちなみに、西安事件は1936年12月12日、盧溝橋事件は1937年7月7日、第二次上海事変は1937年8月、南京陥落は1937年12月です。 ) |
エドガー・スノー - Wikipedia Edgar Snow。アメリカ人。親中国共産党・反帝国主義・反日だったようだ。 【SBF】上海ビジネスフォーラム 異業種交流会 ≫ 上海お役立ち情報 ≫ 上海歴史、発見! ≫ 第37回 全てはチョコレート・ショップから始まった Edgar Snow(中国名・埃徳加 斯諾)の生涯@ 第38回 同A 第39回 同B |
このサイトの@に、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『Edgar Snow は1928年夏に初めて上海に来た。ほんの腰掛けのつもりが、外灘に近い南京路にあった Sallivanのチョコレートショップ(巻末の注記参照)で、米国領事館に赴任してきた若い Helen Foster に会ったことで、そのまま上海に留まる決心をした。その後宋慶齢の援助を得て毛沢東が率いる紅軍の本拠地・延安に赴き、「中国の赤い星・Red Star Over China」 を表し、初めて赤軍の実体を世界に紹介した。こうして彼は、世界のジャーナリズムの寵児となり、その後の生涯は大きく変わったのだ。』 『(注:チョコレート・ショップ・沙利文珈琲館。:南京東路181号、米国人・Sullivanが作った菓子・コーヒー店。外国人が安心して牛乳を飲むことができる唯一の店として人気があり、宋慶齢もしばしば訪れた。エドガー・スノーと妻・ヘレンの出会いの場所として知られる。今は華東電業管理局の巨大なビルが建っている。)』 |
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p340-345 から引用。張治中など、中国国民党に潜り込んだ共産党のスパイについて。 なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
第一九章 戦争拡大の陰に共産党スパイ 一九三七〜三八年★毛沢東四三〜四四歳 一九三七年七月七日、北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。日本軍は七月末には華北の二大都市、北京と天津を占領した。蔣介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んではいなかった。 この時点で、日本には華北以遠に戦場を広げる考えはなかった。にもかかわらず、それから数週間のうちに、一〇〇〇キロ南方の上海で全面戦争が勃発した。蔣介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった。日本は一九三二年の休戦合意に従って、上海周辺には海軍陸戦隊をわずか三〇〇〇人配置していただけだった。八月中旬までの日本の方針は、「進駐は華北のみとする」というものであり、「上海出兵には及ばない」と明確に付け足すことまでしていた。『ニューヨーク・タイムズ』の特派員で消息通のH・アーベンドは、のちにこう回想している。 一般には……日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。八月一三日の時点でさえ、日本は……この地域に非常に少ない兵力しか配置しておらず……一八日、一九日には長江のほとりまで追いつめられて河に転落しかねない状況だった。 アーベンドは、「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」の存在に気づいた。確かに、こうした計画が存在したという点について、アーベンドの読みは当たっていた。アーベンドが読みきれなかったのは、計画の首謀者が蔣介石(アーベンドはそう思っていた)ではなく、ほぼまちがいなくスターリンだった、という点である。 七月、日本がまたたく間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにもおよぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期にわたって冬眠させておいた共産党スパイを目ざめさせ、上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の中心部に引きずり込む――すなわちソ連から遠ざける――手を打ったものと思われる。 「冬眠」から目ざめたスパイは張治中(チャンチーチョン)という名の将軍で、京滬(けいこ)警備(南京上海防衛隊)司令官だった。張治中は、一九二五年当時、黄埔(ホワンプー)軍官学校で教官をしていた。黄埔軍官学校は、広州の近くにソ連が資金と人材を提供して設立した士官学校だ。学校設立当初から、モスクワは国民党軍の高い地位にスパイを送り込もうという確固たる意図を持っていた。張治中は回想録の中で、「一九二五年夏、わたしは共産党に心から共鳴し……『紅色教官』『紅色団長』と呼ばれていた……わたしは中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。周恩来は張治中に対し、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。こうして、一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取りあうようになっていた。 盧溝橋事件の発生当時、京滬警備司令官という要職にあった張治中は、日本に対する「先制攻撃」に踏み切るよう蔣介石に進言した。それも、事件があった華北地域においてではなく、一〇〇〇キロ南の上海における先制攻撃を進言した。上海には日本の海軍陸戦隊が少数駐屯しているだけで、この段階では何ら軍事行動にかかわっていなかった。張治中はこの進言をくりかえしたが、蔣介石は耳を貸さなかった。上海は中国にとって産業と金融の中心であり、国際的な大都市でもあったので、蔣介石はここを戦場にしたくなかったのである。しかも、上海は蔣介石政権の首都南京に非常に近い。蔣介石は、日本に攻撃の口実を与えないために、わざわざ上海から部隊や大砲を遠ざけたほどだった。 七月末、日本軍が北京と天津を占領した直後、張治中は蔣介石に重ねて電報を打ち、開戦に「先手を取る」よう強く主張した。張治中が執拗に主張をくりかえし、日本軍が上海攻撃の明白な動きを見せた場合にしか攻撃しないと言うので、蔣介石はその条件付きで承諾を与え、「攻撃開始については命令を待つように」と釘をさした。 しかし、八月九日、張治中は蔣介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本の海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蔣介石を攻めたてた。蔣介石はこれを却下し、一三日朝、張治中に対して、「一時の衝動に駆られて」戦争の口火を切ってはならない、いま一度あらゆる局面を「検討」したうえで計画を提出するように、と命じた。翌日、張治中は、「本軍は本日午後五時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次のとおり……」と、蔣介石に迫った。一四日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃をおこなった。張治中は総攻撃を命じた。しかし、蔣介石は「今夜は攻撃をおこなってはならない。命令を待て」と、張を制した。 待てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蔣介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と、虚偽の記者発表をおこなった。反日感情が高まり、蔣介石は追いつめられた。翌八月一六日、蔣介石はようやく「翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう」と命令を出した。 一日戦闘をおこなったところで、蔣介石は一八日に攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。八月二二日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった。 日本軍との戦いはおびただしい数の犠牲をもたらした。上海では中国軍一八〇個師団のうち七三個師団――しかも精鋭部隊――四〇万人以上が投入され、大部分が殲滅された。中国が自力で育てた空軍(北部戦線には一機たりとも派遣しなかったほど蔣介石が大切にしていた空軍)のほぼ全部、そして軍艦の大部分が、この戦いで失われた。蔣介石が一九三〇年代初めから営営として築いてきた国民党軍の戦闘能力は、大幅に弱体化した。日本側も約四万の犠牲を出したが、中国側に比べれば損害ははるかに小さかった。 蔣介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蔣介石の戦争続行を支援する動きに出た。八月二一日、スターリンは南京政府と不可侵条約を結び、蔣介石に武器を提供しはじめた。中国はライフル以外の武器を自国で製造することができなかった。スターリンはソ連からの武器購入代金として蔣介石に二億五〇〇〇万米ドルを融通し、航空機一〇〇〇機のほか戦車や大砲を売却し、加えて相当規模のソ連空軍を派遣した ★。モスクワは三〇〇人前後の軍事顧問団を中国に派遣した。当初の顧問団長は中国語を話すヴァシーリー・チュイコフ大将、のちにスターリングラードの英雄となった人物だった。このあと四年にわたって、ソ連は中国にとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国であった。 ★一九三七年一二月から一九三九年末までのあいだに、二〇〇〇人以上のソ連軍パイロットが中国で戦闘任務につき、日本の航空機約一〇〇〇機を撃墜し、日本占領下の台湾に対する爆撃までおこなった。 モスクワは戦局の展開に小躍りして喜んだ、と、ソ連外相マクシム・リトヴィノフはフランスのレオン・ブリュム副首相に認(したた)めている。ブリュム副首相によれば、「[リトヴィノフ外相は]自分個人もソ連も日本が中国を攻撃したことをこの上なく喜ばしく思っていると語り、ソ連は中国と日本の戦争ができるだけ長く続くことを望んでいる……[と付け加えた]」という。 たった一人の冬眠スパイを使ってソ連に対する日本の脅威をかわしたのだから ★、これは、おらくスターリンにとって大成功の作戦だったと言えるだろう。張治中と接触したソ連大使館付き武官レーピンとソ連大使ボゴモロフは、直後に本国に召還され処刑された。 ★張治中は史上最も重要な働きをしたスパイと呼んでも過言ではないだろう。ほかのスパイは大半が情報を流しただけだが、張治中は事実上たった一人で歴史の方向を変えた可能性が大きい。 蔣介石は上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを抱いて、九月に司令官の職を解任した。しかし、蔣介石は張治中を公には暴露しなかった。一九四九年に国民党政府が台湾へ逃れたあと、張治中ともう一人の大物スパイ邵力子(シャオリーツー)は、ともに共産党政権下にとどまった。 日本と中国の全面戦争は、毛沢東にただちに利益をもたらした。それまで、蔣介石は、共産党軍に独立指揮権を認めよという共産党の要求を考慮することさえ拒否してきたが、ついにこれを認めたのである。こうして、共産党軍は蔣介石の指揮下に編入されたものの、毛沢東は自軍の指揮権を維持することになった。蔣介石は中国軍の最高司令官でありながら、共産党軍を直接動かすことはできず、命令は毛沢東に対する「要求」の形で出さなくてはならなかった。加えて、いまや中国共産党は事実上合法政党となった。刑務所に収監されていた共産党員は釈放され、共産党は主要都市に事務所を開き、国民党支配地域でも党機関紙を発行できるようになった。 しかも、これは毛沢東が抗日戦争から得た利益のほんの一端だった。抗日戦争はこのあと八年間続き、二〇〇〇万の中国人が犠牲になった。その結果、蔣介石政権の力は著しく弱まり、一方の毛沢東は共産党軍を一三〇万に大増強した。抗日戦争が始まった時点では、蔣介石と毛沢東の兵力は六〇対一だった。戦争が終わった時点では、それが三対一になっていた。 (以下略) |
【参考ページ】 1931年 柳条湖事件(満州事変へ) 「満州事変」に関する資料集(1) 「満州事変」に関する資料集(2) 「満州事変」に関する資料集(3) 1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。) 1937年 廬溝橋事件(支那事変へ) 「支那事変」に関する資料集(1) 「支那事変」に関する資料集(2) 「支那事変」に関する資料集(3) 「支那事変」に関する資料集(4) 〜このページ 参考文献 「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著、土屋京子訳、講談社、2005年 コトバンク ≫ チャイルド・ハロルドの遍歴 とは ジョージ・ゴードン・バイロン - Wikipedia |
このサイトに、次の記述がある。(注)と太字は、当サイト管理人による。 『(前略)この年(注:1812年)旅行の成果である『チャイルド・ハロルドの巡礼』1・2巻(Childe Harold's Pilgrimage, 1812年)を出版、生の倦怠と憧憬を盛った詩風と異国情緒が時代の好尚に投じ、大評判になった。』 |
エドガー・スノー - Wikipedia Edgar Snow。アメリカ人。親中国共産党・反帝国主義・反日だったようだ。 MY小論 ≫ 「中国の赤い星」の嘘(2006年5月24日付) 電脳日本の歴史研究会 ≫ 『南京大虐殺はウソだ!』 ≫ 参考史料 ≫ 南京事件・関連史料 ≫ 虚報の真犯人はエドガー・スノーだ 私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由 鈴木明(作家) 「正論」平成11(1999)年7月号より転載 【SBF】上海ビジネスフォーラム 異業種交流会 ≫ 上海お役立ち情報 ≫ 上海歴史、発見! ≫ 第37回 全てはチョコレート・ショップから始まった Edgar Snow(中国名・埃徳加 斯諾)の生涯@ 第38回 同A 第39回 同B |
このサイトの@に、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『Edgar Snow は1928年夏に初めて上海に来た。ほんの腰掛けのつもりが、外灘に近い南京路にあった Sallivanのチョコレートショップ(巻末の注記参照)で、米国領事館に赴任してきた若い Helen Foster に会ったことで、そのまま上海に留まる決心をした。その後宋慶齢の援助を得て毛沢東が率いる紅軍の本拠地・延安に赴き、「中国の赤い星・Red Star Over China」 を表し、初めて赤軍の実体を世界に紹介した。こうして彼は、世界のジャーナリズムの寵児となり、その後の生涯は大きく変わったのだ。』 『(注:チョコレート・ショップ・沙利文珈琲館。:南京東路181号、米国人・Sullivanが作った菓子・コーヒー店。外国人が安心して牛乳を飲むことができる唯一の店として人気があり、宋慶齢もしばしば訪れた。エドガー・スノーと妻・ヘレンの出会いの場所として知られる。今は華東電業管理局の巨大なビルが建っている。)』 |
外灘 - Wikipedia更新 2013/8/21 |