1937年 アメリカのライフ誌に反日のねつ造写真記事アメリカの写真雑誌『LIFE』の1937年10月4日号(出典:東中野修道・小林進・福永慎次郎著「南京事件 「証拠写真」を検証する」p79-80)に、第二次上海事変の際に日本軍が爆撃した後の上海南駅(上海南停車場)での写真として、赤ん坊がひとりぼっちで線路の上で泣いているように見える写真が掲載された。 Google ブックス ≫ LIFE 1937年10月4日 102ページ THE CAMERA OVERSEAS:136,000,000 PEOPLE SEE THIS PICTURE OF SHANGHAI'S SOUTH STATION この写真を見た読者は、たぶん次のように思ったであろう。 「この赤ん坊の父も母も兄弟も死んでしまってひとりぼっちで残されてしまった。周囲には赤ん坊を助ける人がいないか、もしくは周囲の人はこの赤ん坊を見捨てて放置しているに違いない。」 しかし、実際はそうではなかった。 この写真がどこまでねつ造だったのかを正確に指摘することは難しいと思われますが、少なくとも次の4点は言えると当サイト管理人は考えます。 @赤ん坊はひとりぼっちではなかった。 A赤ん坊は見捨てられていたわけではなかった。 B赤ん坊は実はプラットホームに座っているのであるが、線路の上に座っているかのように見えるよう編集している。 C撮影者は中立的な立場の人ではなく、中国側に近い人物であったが、そのことは読者に知らされなかった。現在は、撮影したのが王小亭であることがわかっている。王小亭は、当時、中国国民党の反日プロパガンダ工作の影響下にあったか、もしくは後にそうなる人物であった。ということは、彼と彼の関係者らが、読者が実際とは異なる印象を持つように撮影し編集した可能性を否定できないであろう。 この写真は、多くのアメリカ人とヨーロッパ人などの、反日感情を高めた。 また、この写真は『LIFE』の1938年1月3日号で「読者の選ぶ1937年ニュース物語ベスト10」に選ばれた。(出典:東中野修道・小林進・福永慎次郎著「南京事件 「証拠写真」を検証する」p79-80) 中国国民党中央宣伝部は、反日プロパガンダを組織敵に行っていたことが明らかになっています(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」) 東中野修道・小林進・福永慎次郎著 『南京事件 「証拠写真」を検証する』p235-236 から引用します。なお、この文中の「中央宣伝部」とは、中国国民党中央宣伝部です。 |
(前略) 検証の過程でさらに驚いたこともあった。以下は極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「撮影課工作概況」における秘密報告である。
極秘文書は宣伝部が「取材協力」した外国人特派員の名前を秘密報告している。そのなかには世界で初めて「南京大虐殺物語」を報じた『シカゴ・デイリーニューズ』のアーチボルト・スティール特派員の名前や、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン特派員の名前も散見される。備考欄を見ると、彼らのために「抗戦用写真を記事作成用に選定」などと記されている。本書にもたびたび出てくる写真雑誌『ライフ』の名も極秘文書に出てくる。 抗戦用写真が外国人記者の名義で全世界の新聞雑誌に出るよう、国民党宣伝部は必死の努力をつづけていたのである。日本に反対するアメリカの中国支援こそ国民党の死活問題と見ていたからである。そのため、「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、騙すこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい」(『歴史の探究』七六頁)という政策が、「中国政府唯一の戦争戦略」(the only war strategy of the Chinese government)になっていた(七六頁)、と回想するのは、後年の著名なジャーナリスト、セオドア・ホワイトである。大学を出たばかりの彼は白修徳という名で国民党宣伝部の「顧問」となっていた。 このように国民党政府の国策がさまざまな抗戦用写真を生み出した。その走りは、上海南停車場の線路で泣き叫ぶ子供の写真(本書七八頁)である。そこで、最近ようやく判明したこの写真の撮影者についても付記しておきたい。国民党宣伝部副部長董顕光の明かすところによれば、中央通信社撮影部の有名なプロカメラマン王小亭であった。「中国唯一の大通信社」である中央通信社の蕭同茲社長と董顕光が「合作」したものこそ、中央通信社内に新設された撮影部であり、そこの専属カメラマンとなったのが王小亭であった。 第二章でも述べたが「H・S・ワン撮影」として『ライフ』一九三七年十月四日号に出たこの写真は、アメリカの世論を親中反日へと急転回させたと言われている。『ライフ』一九三八年一月三日号の「読者の選ぶ一九三七年の写真ベストテン」(一三頁)では二位に選ばれている。その写真説明は「中国の戦争」であった。董顕光はこれを「傑作」と評している。 しかし、このような抗戦用写真の宣伝工作こそナチス宣伝省顔負けの、ウソを「必要不可欠」とする戦争プロパガンダではなかったのだろうか。日本も世界も、国民党宣伝部のプロパガンダ写真に惑わされ、七十年前の戦争プロパガンダに今にいたるも完敗しているのである。 |