1941年 日本軍が真珠湾を攻撃(大東亜戦争(太平洋戦争)へ、〜1945)このページは、まだ完成していません。 順次、追加・更新していく予定です。 日本海軍は、日本時間の1941年12月8日未明、現地ハワイ時間では12月7日に、ハワイオアフ島の真珠湾(Pearl Harbor)にあったアメリカ海軍の基地を攻撃し、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦となった。 なお、同日12月8日午前1時30分に、マレー作戦(英領マレーへの奇襲上陸)が開始されている。日本軍は南方作戦を開始した。 【大東亜戦争(太平洋戦争)と人種偏見について】 下のページに、関係する資料などを集めていきたいと思います。 大東亜戦争(太平洋戦争)と人種偏見について 【アメリカ側の状況】 概要 ・1933年3月4日、F・ルーズベルトが大統領に就任 |
(注:F・ルーズベルトは4回、大統領に就任している。@1933年3月4日〜、A1937年1月20日〜、B1941年1月20日〜、C1945年1月20日〜1945年4月12日(脳卒中で死去)。なお、現在の米国大統領は2期まで。) |
・1935年、アメリカが中立法を制定 |
アメリカ大統領が指定した戦争状態・内乱状態の国への、武器・軍需物質の輸出を禁止。(出典: 中立法 - Wikipedia ) |
・1937年7月7日、支那で廬溝橋事件(支那事変へ) ・1937年10月5日、F・ルーズベルト大統領の「隔離演説」 |
(注:2期目のF・ルーズベルト大統領が、1937年10月5日にシカゴで行った演説。国名は名指しされなかったが、日本・イタリア・ドイツを指すものと解釈された。(出典: 隔離演説 - Wikipedia ) この演説の一部を抜粋します。(出典: Miller Center ≫ Quarantine Speech (October 5, 1937) ) 『When an epidemic of physical disease starts to spread, the community approves and joins in a quarantine of the patients in order to protect the health of the community against the spread of the disease. 』 上記英文の機械翻訳です。( エキサイト 翻訳 による。) 『物理的な病気の流行病が広がり始める場合、コミュニティーはその病気の蔓延からコミュニティーの健康を保護するために患者の隔離に承認し参加します。』 ) |
・1939年7月26日、日米通商航海条約の廃棄を日本へ通告 ・1939年9月、欧州でポーランド侵攻(第二次世界大戦へ) ・1939年10月27日(上院)および11月早々(下院)、中立法の武器輸出禁止条項の撤廃を決議(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p303 ) ・1940年1月26日、日米通商航海条約が失効 ・1940年7月17日、F・ルーズベルト大統領の選挙演説 |
(注:大統領3選を目指すF・ルーズベルトは、1940年7月17日にシカゴで開かれた民主党全国大会での演説で、「われわれは外国の戦争に参加しない」と述べたが、これに続いて、「攻撃された場合を除き、われわれの陸、海、空軍をアメリカ大陸以外の外国の土地で戦うために送らない」とも述べているという。 古荘光一氏は、雑誌「WiLL 2014年1月号」のなかで、「これは、攻撃を受けたら軍隊を外国に送るという意味だ。以後、ルーズベルトは、日本がアメリカを攻撃するよう仕向けるため、挑発に全力を挙げるようになる。」と書いている。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収)p305 ) ) |
・1941年3月11日、武器貸与法(注)を制定 |
(注:武器貸与法について、 コトバンク ≫ 武器貸与法 とは では次のように説明している。 『これ(注:武器貸与法)により大統領は,アメリカの防衛と重大なかかわりがあると認めた場合,たとえ法的に中立の立場をとっていても,他国に武器や食糧を供与できる権限を与えられ,参戦を待たずして連合国に戦争協力する道が開かれた。当初,同法はイギリスにのみ適用され,その後同年6月中国,11月にはソ連にも適用され,さらにベルギー,ポーランド,ギリシアなど多くの連合国諸国に拡大された。』 ) |
・1941年8月、アメリカが石油の日本への輸出を全面禁止 ・1941年8月14日、英米が大西洋憲章を発表 ・1941年11月26日(注)、アメリカが日本にハル・ノートを提示 |
(注:アメリカ時間26日16時45分から18時45分、日本時間27日6時45分から8時45分。(出典: ハル・ノート - Wikipedia の「注釈1」)) |
・1941年12月7日、真珠湾攻撃(日本時間では12月8日未明) ○対日経済封鎖 ・1938年6月11日、ハル国務長官は、「南京大虐殺」の宣伝が効き始めて一部に対日輸出ボイコット論が出てくるのを受けて、民間企業に対し、航空機の武装装置、エンジン部品、アクセサリー、爆弾、魚雷、石油精製装置の対日輸出自粛を呼びかけた。(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収)p296 ) ・1938年10月、ハル国務長官は、要旨、次のような言いがかりをつけた。「アメリカの事業が支那で受けている扱いと日本の事業が合衆国で受けている扱いの差が大きくなりつつある。日本が支那におけるアメリカの事業に対する抑制をやめない限り、合衆国は日本の商業に差別的手段を課す」(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収)p297 ) ・1939年7月26日、日米通商航海条約の廃棄を日本へ通告 ・1939年12月、モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。 ・1940年1月26日、日米通商航海条約が失効 ・1940年6月、特殊工作機械等の対日輸出の許可制 ・1940年7月、国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限) ・1940年7月26日、鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立 ・1940年8月、石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制 ・1940年8月、航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸 ・1940年9月、屑鉄の全面禁輸 ・1940年12月、航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制 ・1941年6月、石油の輸出許可制 ・1941年7月、日本の在米資産凍結令 ・1941年8月、石油の対日全面禁輸 (出典: ABCD包囲網 - Wikipedia の「対日経済封鎖」の項(注:この内容は、岩間敏「戦争と石油(1)」(石油・天然ガスレビュー2006.1)(PDFファイル)を基にしているようです。)、 および 日米通商航海条約 - Wikipedia の「日米通商航海条約廃棄通告」の項。 ) ○支那(蒋介石)への支援 ・1938年春、F・ルーズベルトは、財務長官のモーゲンソーに命じ、蒋介石政権に2500万ドルを支援する交渉をまとめさせた。(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収)p296 ) ○アメリカの「外交問題評議会」 古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p296-307 から要点を抜粋します。 ・「外交問題評議会」は、アメリカの民間シンクタンクで、1921年8月に設立された。 ・設立者は、カーネギー、ローズ、J・P・モルガン、ロックフェラーなどの財閥関係者、ハーバード大学などの学者、弁護士、ジャーナリストら。 ・1939年9月、ノーマン・H・デービス(「外交問題評議会」の会長。銀行家。F・ルーズベルトの友人。)と、コーデル・ハル国務長官(F・ルーズベルトの友人。)とが相談し、「外交問題評議会」とルーズベルト政権が直接繋がった。 ・「外交問題評議会」は分野別の研究グループ数組を発足させることになり、その調査と討論の結論は、国務省とF・ルーズベルト宛の勧告として、一般には非公開だった。 ・「外交問題評議会」は早速、「戦争と平和研究プロジェクト」を立ち上げ(1940年夏ころ)、曲折ののち、アメリカの国益と戦争目的について帝国主義丸出しの指針を打ち出し、アメリカは世界の覇者を目指すべきだと唱える。 ・全体を統括するための委員会を立ち上げ。委員は9人で、この内5人は5つの研究グループ(「経済と財政」「政治」「軍備」「領土」「平和の狙い」)で長を務めた。 ・1940年から1945年まで、各研究グループに平均10〜15人が所属。全体としてほぼ100人。経済学者、歴史学者、政府の政策立案者(役人)、軍の指導者、企業の弁護士、新聞記者、銀行家、産業人ら。 ・この間、アメリカ政府側から少なくとも5つの省、14の庁、局、事務所が、時に応じて「戦争と平和研究プロジェクト」と関係した。 ・6年間に、合計362回の会合が開かれ、合計682通の勧告書を国務省と大統領に提供した。 ・「戦争と平和研究プロジェクト」は、ブロック経済が広がっている世界において、世界を次の地域に分けて検討を行った。 西半球(南北アメリカ大陸) 大英帝国 ヨーロッパ大陸 太平洋地域 その結果、ドイツの支配する「ヨーロッパ大陸」のブロックが、「西半球」のブロックよりも充足度が高く、これに対抗するためには他のブロックとの統合が必要で、「アメリカの国益としての自給自足は、イギリスを助け、極東の市場と天然資源を確保することによって実現できる」との結論(当初の結論)を出した。 ・「経済と財政」研究グループは、「総合的結論」と題する覚書をまとめた。そのなかには、アメリカの「完全な再軍備計画の急速な実現」とか、「この脅威(注:日本)はできるなら平和裏に、あるいは力によって解消しなければならないだろう」、といった内容も含まれる。 ・1940年11月に入ると、研究グループは、焦点を日本に絞った。これは、日本の北部仏印進駐(1940年9月)、日独伊三国同盟締結(1940年9月27日)、のあとの時期である。 ・1940年12月14日(注:出典元の後段では、12月24日との記述がある。)、「戦争と平和研究プロジェクト」は、5つの研究グループの代表と政府の代表を招集した。討論で得られた結論は、ただちにルーズベルトに伝わったと思われる。文書としては、1941年1月15日に「アメリカの極東政策」の題名でまとまった。 ・「外交問題評議会」は3つの方針を提案した。 @日本の部隊を釘付けにするため、支那に可能な限りの援助、とくに戦争資材を与える。 A東南アジアの防衛は、海軍と空軍の派遣と、イギリス・オランダとの協定締結により強化すべき。 B日本への戦争資材の供給を削除して、日本を弱めるべき。 ・その後、「外交問題評議会」は、「大領域」(注:西半球ブロック+イギリス+極東の市場・資源)を拡張し、拡大「大領域」(注:大領域+イギリスの植民地・属領+蘭印+支那+日本)を提唱した。ドイツの「ヨーロッパ大陸ブロック」と北アフリカ・近東・ソ連との統合を阻止し、日本を東南アジアへ拡張させない。そして、この拡大「大領域」は、戦争と防衛および「戦後の新しい世界秩序(注:アメリカの覇権であろう。)」の経済的基盤を提供できるとした。この勧告は、1941年7月24日に出た。この内容は、第二次世界大戦を戦うアメリカの秘密理念となった。また、この方針のために、アメリカは、1943年1月のカサブランカ会談で、ドイツと日本の無条件降伏を要求し、戦争を長引かせることになった。 ○アメリカの戦争準備 古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p296-307 から要点を抜粋します。 ・1937年7月7日、支那で廬溝橋事件(支那事変へ) ・1937年10月5日、F・ルーズベルト大統領の「隔離演説」 ・1939年7月26日、日米通商航海条約の廃棄を日本へ通告 ・1939年9月、欧州でポーランド侵攻(第二次世界大戦へ) ・1939年9月21日、F・ルーズベルト大統領が、初めて議会で演説し、中立法の武器輸出禁止条項の撤廃を訴える。 ・1939年10月27日(上院)および11月早々(下院)、中立法の武器輸出禁止条項の撤廃を決議 ・1940年1月26日、日米通商航海条約が失効 ・1940年5月10日、欧州でドイツがベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルグ)へ侵攻(これに引続いてフランスへ侵攻) ・1940年5月10日、イギリスでチャーチルが首相就任(挙国一致内閣) ・1940年5月16日、F・ルーズベルト大統領が、議会の上下合同会議に出席 |
この会議で、F・ルーズベルト大統領は、11億8200万ドルの支出権限を大統領に与えるよう要請した。 その予算の使途は、次のとおり。 @陸軍の拡大と結集のため、あらゆる種類の基本的装備を購入。 A陸海軍の装備を最新型のものと入れ替える。 B国防のために陸軍と海軍が必要とするもの全てを生産する設備力を増やす。 C陸海軍の既存と新規の契約を24時間体制でスピードアップする。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p304 ) |
・F・ルーズベルト大統領が、閣僚を入れ替え |
新たに、ヘンリー・スティムソンを戦争省長官に、フランク・ノックスを海軍省長官に抜擢した。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p304 ) |
・1940年6月22日、国家防衛税法を議会が採択 |
これによる国税増収額は、年間9億9430万ドルを見込んでいた。 また、この法律により、国家借り入れ限度額を、450億ドルから490億ドルに引き上げた。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p304 ) |
・1940年7月2日、国家防衛法が成立 |
アメリカ軍増強のための法律。 古荘光一氏は、概ね次のように記述している。 ヒトラーの動きをチャンスと見た支那の手先、プライス委員会が動いて、この法案に「アメリカの国家資源の確保の必要に基づいて輸出抑制を実施する」ための条項を加えるよう裏工作を開始した。この条項は、主として日本向けの武器、機械、部品、石油、鉄屑などの輸出停止を狙ったものだ。この条項は、法案に盛り込まれて成立した。 法律成立の翌日の7月3日に、援助を求めるためアメリカ入りしていた蒋介石の義弟、宗子文がホワイトハウスに訪ねてきた。ルーズベルトは得意になって、法律の内容を語って聞かせたに違いない。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p304 ) |
・1940年7月17日、F・ルーズベルト大統領の選挙演説 ・アメリカ海軍の再編 |
それまで、アメリカ海軍は、太平洋を中心に編成され、おおむねカリフォルニア南部の港を基地にしていた。 これを、ハワイに進出させようとした。その下準備として、太平洋で演習を済ませた艦隊をハワイの真珠湾に留まらせた。 この動きとは別に、1940年7月20日、議会が、海軍を大西洋と太平洋に二分配置する法案を可決した。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p304 ) |
・1940年9月3日、イギリスへの援助 |
「センチュリー・グループ」と名乗る団体(その正体は「外交問題評議会」の別働隊)は、イギリスに対する援助として、第一次世界大戦で使われた中古の駆逐艦を与えるよう、ルーズベルト大統領に勧告した。 ルーズベルト大統領はチャーチル首相と掛け合って、9月3日に次のような決定がなされた。 @イギリスは、ニューファウンドランドと、バミューダとにある軍事基地を、アメリカに引き渡す。 Aイギリスのカリブ海とギアナの基地を、アメリカの中古駆逐艦50隻と交換する。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p305 ) (参考: Destroyers for Bases Agreement - Wikipedia (駆逐艦と基地の交換協定) ) |
・1940年9月16日、法律 |
・21歳から35歳までの男子を選別徴兵する。 ・沿岸警備隊にアメリカ各国の沿岸を防備するよう命じる権限を大統領に与える。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p305 ) |
・1940年9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐を開始 ・1940年9月26日、アメリカは日本に向けて屑鉄の全面禁輸を声明 ・1940年9月27日、日独伊三国同盟の締結 ・1940年10月7日、アーサー・マッカラムが、8項目からなる日本を挑発する計画書を、上司を通じてルーズベルトに提出した。 |
・ロバート・B・スティネット氏が、彼の著書「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」(日本語訳は文藝春秋、2001年)で暴露したマッカラムの挑発計画書である。 ・アーサー・マッカラムは、当時、海軍情報部に勤める少佐だった。 ・マッカラムは、もし日本をしてアメリカに対して戦争行為をとるように挑発して、日米が戦争に突入すれば、三国同盟が発動されて、ドイツとイタリアは日本側に立つはずだから、アメリカがドイツに戦いを挑む名分ができる、とした。 (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p306 ) |
・1941年1月10日、ルーズベルトの腹心ハリー・ホプキンスが、イギルス首相チャーチルと会談 |
・のちにチャーチルが書いた「大同盟」によると、ルーズベルトはホプキンスの口を借りて、次のように言わせた。 「戦争介入の名分は、ヒトラーを打倒、破壊および抹殺することに限るべきであって、その他の意図とか忠誠心とか、または国家目標といったものは、いっさい取り除かねばならない」 ・これは、国民に知らせていない参戦意志を、まず外国の元首に伝えたことになる。 ・また、ルーズベルトは、「国家目標を取り除く」として、自分の野心を隠したことになる。実際は、イギリスがドイツと戦ってアジアの兵力配備が手薄になっている間に、太平洋を「大領域」の一部として取り込み、行く行くは世界の覇者としての地位をイギリスから奪い取るつもりだったのに・・・ (出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p306-307 ) |
・1941年1月15日、「外交問題評議会」の「戦争と平和研究プロジェクト」が、「アメリカの極東政策」の提案を文書にまとめる。 ・1941年3月11日、武器貸与法を制定 ・1941年8月、アメリカが石油の日本への輸出を全面禁止 ・1941年8月14日、英米が大西洋憲章を発表 ・1941年11月26日、アメリカが日本にハル・ノートを提示 ・1941年12月7日、真珠湾攻撃(日本時間では12月8日未明) 【アメリカの中立国義務違反】 アメリカの中国に対する軍事・物資・資金などの援助や、日本への経済封鎖は、戦時国際法の中立国義務違反だと、当サイト管理人は考えます。真珠湾攻撃の前から、すでにアメリカは、自ら敵対国の立場に立ったと考えます。 戦時国際法 - Wikipedia の「中立国の義務」の項によると、「中立国は戦争に参加してはならず、また交戦当事国のいずれにも援助を行ってはならず、平等に接しなければならない義務を負う。」としたうえで、中立国の義務について「回避の義務」「防止の義務」「黙認の義務」の3種の分類を示しており、「回避の義務」について「中立国は直接、間接を問わず交戦当事国に援助を行わない義務を負う。」と記述されている。 また、 不戦条約 - Wikipedia(=パリ不戦条約)の「概要」の項のなかに、次の記述がある。(太字は当サイト管理人による。) 『 加瀬英明によれば、1928年12月7日、ケロッグ国務長官はアメリカ上院議会の不戦条約批准の是非をめぐる討議において、経済封鎖は戦争行為そのものだと断言したことを挙げて、日米戦争については、日本ではなくアメリカが侵略戦争の罪で裁かれるべきだったとしている[4]。 』 『 [脚注4] 加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書 』 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第60回 第60回:黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇 【英米による通貨支援(蒋介石支援)】 谷口智彦 著「通貨燃ゆ」(日経ビジネス人文庫、2010年)によると、次のとおり。 中国は比類のない銀保有国で銀本位制を取っていたが、中国政府(蒋介石政権)は1935年11月3日に銀廃貨の幣制改革を行った。銀を中国政府に集中させるとともに、金や銀との裏打ちを持たないペーパーマネーとし、以後中国通貨は米ドルと英ポンドに対する一定交換比率を参照する管理フロート制となった。この改革にあたっては、英国政府が中国へ送り込んだサー・フレデリック・リース=ロスが、財政顧問となっていた。(出典:谷口智彦 著「通貨燃ゆ」(日経ビジネス人文庫、2010年) p134〜139 ) 1940年前後に、日本は「杉工作」なる工作を行っていた。中国の法弊(中華民国蒋介石政権が発行した不換紙幣)の偽造を大量に行って、中国に大インフレを誘発させるという工作で、日本陸軍登戸研究所長の篠田大佐の下で、第三課長の山本主計少佐が中心となって、内閣印刷局、凸版印刷株式会社、それに巴川製紙所の協力を得て、中国の法弊を大量に偽造し、「坂田機関」(日本陸軍の坂田誠盛が担当する工作機関)が散布工作を行った。アメリカなど外国からの援蒋物資を買い占め、日本が不足するガソリンを買い付けるなどした。(出典:谷口智彦 著「通貨燃ゆ」(日経ビジネス人文庫、2010年) p126〜130、および、 法幣 - Wikipedia 。 参考: 登戸研究所 - Wikipedia ) 【日米開戦前のアメリカ義勇軍(蒋介石支援)】 飛虎(フライング・タイガース) フライング・タイガース - Wikipedia |
このサイトから要点をまとめると、以下のとおり。 蒋介石政権の軍事顧問となっていたアメリカ人のクレア・L・シェンノート(アメリカの陸軍航空隊大尉だった)は、戦闘機100機・パイロット100名・地上要員200名から成るアメリカ義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を計画し、アメリカ側の了承も得た。資金融資は、ワシントン中国援助オフィス(ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げた)を経て行われ、国民党軍がこの資金を使って部隊を編成する。 1940年の夏に、シェンノートは米国に帰国してパイロットを募集。メンバーは民間人として5〜6週間かけて英国植民地のビルマに入り、現地で中華民国軍に入隊。ラングーン(現在のヤンゴン)の北にあるキェダウ航空基地を本拠地とした。残りのメンバーも1941年11月に、到着した戦闘機「カーチス P-40C型」の組み立てを始めた。1942年7月3日に解散命令が出て、解散した。 クレア・リー・シェンノート - Wikipedia 宋子文 - Wikipedia 宋美齢 - Wikipedia |
鳥飼行博研究室(東海大学) ≫ アジア太平洋戦争・第二次大戦リンク集 ≫ アメリカ義勇部隊 Flying Tigers フライング・タイガーズ アメリカの日本本土爆撃計画 YouTube ≫ 日米開戦のウラ 1/2 同2/2 YouTube ≫ 【加瀬英明氏インタビュー】 大東亜戦争の意義<前編>【ザ・ファクト】 |
この動画(4分09秒付近から)の加瀬英明氏の発言によると、以下のとおり。 アメリカのルーズベルト政権は、すでに中国の蒋介石政権に軍事援助を与えていたが、日米開戦の5か月前に、アメリカの義勇軍が中国から日本本土を爆撃する秘密作戦に許可した。 その内容は、アメリカが数百機の爆撃機を蒋介石軍に与え、アメリカ軍のパイロットなどが蒋介石軍の義勇兵となり、中国軍の爆撃機に偽装して、東京・横浜・大阪・京都・神戸を爆撃するという計画である。 しかし、この作戦は、イギリスがアメリカに爆撃機の支援を要請したため、これらの爆撃機はイギリスに廻されたため、実際にはこの日本爆撃計画は実行されなかった。 |
・西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p279-280 から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略)(注:この部分の標題は「目をみはらせる三つの新事実」となっており、前段部分では、@アメリカ黒人層のなかには日本を支持する声もあったこと、Aヒットラーは黄色人種である日本の勝利を手放しで喜んでいたわけではないこと、について記述している。) 三番目の事実は、一九四一年(昭和十六年)七月二十三日の日付とともに、フランクリン・ローズヴェルト大統領が承諾の署名をしたある軍事行動の計画書が最近見つかり、公表された一件である(『産経新聞』平成十一年七月十五日)。 一九四一年九月、真珠湾攻撃に先立つ三カ月前に、アメリカ軍はもちろんいまだ開戦していない段階で、米軍爆撃機とパイロットを投入して、日本本土爆撃を計画していたことを示す公文書である。具体的には、三百五十機のカーチス戦闘機、百五十機のロッキード・ハドソン爆撃機を使用するとし、全体を三段階に分け、日本本土爆撃を含む第二段階は、二百機の戦闘機と百機の爆撃機によって九月に実施するとした。大阪、神戸、京都、東京、横浜の爆撃には、軽くて木造住宅の多い日本民家に効果のある焼夷弾を使用すべきであるとの報告書も計画案には添付されていた。 この日本爆撃案は、当時欧州戦線でイギリスがアメリカ爆撃機を大量に必要としていたために予定どおり実施できずにいるうち、日本側が真珠湾攻撃に踏み切ったものである。この事実は当時のアメリカが、中国大陸の軍事状勢にはっきりと踏み込んでいたことを証明するものであり、卑劣な奇襲であったとされる真珠湾攻撃に対し、アメリカ側でも宣戦布告なき先制攻撃を計画し、かつ実施寸前までいっていたことを物語るものである。歴史観を覆す驚異的な公文書の発見というべきだろう。 (後略)(注:以降の部分では、「フライング・タイガース」に触れている。) |
【経済封鎖と日本の自衛戦争の主張】 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、日本が「侵略戦争」を行ったとして裁かれていますが、日本側の主張は「自衛戦争」です。(注:「侵略戦争」「自衛戦争」という語は、法律用語としての意味合いも持っています。) マッカーサーは、1951年5月に米国議会の上院軍事外交合同委員会の聴聞会(非公開)において、日本の開戦は経済封鎖に対する安全保障上の問題だった旨の発言をしています。(出典:高橋史朗著「検証 戦後教育」p83-86) 日本側の主張について、高橋史朗著「検証 戦後教育」(広池学園出版部、1995年)p86-87 から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人によるものです。 |
(前略)(注:この部分では、マッカーサーが米国議会で行った発言について触れている。) この問題(注:経済封鎖と自衛戦争の主張を指すと思われる。)に関する日本側資料が、前述した『東京裁判却下・未提出弁護側資料』(注:国書刊行会、1995年。)第四巻に収められている。その一つは、外務省通商局長をしていた水野伊太郎の宣誓供述書である。同供述書は、日本の輸出にとって一大困難の原因となった「各国が設定した国際貿易上の障壁」や「経済圧迫緩和のための日本の努力」の実情を、資料を添えて克明に立証している。 もう一つは、吉田茂内閣の大蔵大臣に就任した石橋湛山の「日本の工業化、侵略戦準備に非ず」と題する宣誓供述書である。同供述書は、まず「日本における人口過剰及び食糧不足の実情」を説明した上で、この困難を打開する方法として次の四つの政策を採ったとしている。 @国内の耕地を拡張し、またその単位当たり収穫を増加して、食糧の供給を計る。A朝鮮及び台湾の農業開発とその生産品、なかんずく米の輸入を奨励。B海外への移民。C国内の工業化と外国貿易の奨励。 そして、日本の工業化、貿易の増進、日本商品に対する外国の圧迫について説明し、次のように結んでいる。 「事態は三国同盟の締結後急速に悪化し、一九四一年米国が日本の資産を凍結するに至って、日本はもはや策の施す余地なき窮境に陥った。それは日本の最重要産業の一つたる生糸の市場を失うことであり、また同じく日本の最重要産業の一つたる綿業の原料を失うことである。いわんや米国の対日資産凍結断行は直ちに英国及び蘭印の呼応する所となり、続いてカナダ・豪州・ニュージーランド・マライ・ビルマ・インド・南ア連邦等が、いずれも日本の資産凍結を行い、かつ日本との通商条約を破棄するに至った。日本はここにほとんど完全に経済封鎖を蒙ったのである。日本の産業と国民生活とは、その根底から脅かされた。これが当時の実況であった。しかし日本の産業界はなお、日米関係の好転を信じていた」 |
【ハル・ノート】 日米交渉において、1941年11月26日(米国時間)(注:アメリカ時間では、11月26日16時45分〜18時45分。日本時間では、11月27日6時45分〜8時45分。)にアメリカ側から日本側に提示された文書で、日本側は最後通牒と受け止めた。 文書のタイトルは「Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)」であるが、アメリカ側の交渉当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前をとって「ハル・ノート」と呼ばれている。 また、水間政憲 著「ひと目でわかる 「アジア解放」時代の日本精神」(PHP研究所、2013年)p18 に、次のような記述があります。引用文中の太字は、当サイト管理人によるものです。 |
一九四一年十一月二十七日、米国は、それまでの日米交渉を一方的に潰す挑発的な「ハル・ノート」を、日本に突きつけてきました。その「ハル・ノート」を評し、当時のグルー駐日米国大使は回顧録で、「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と書き残しています。 米国は、「ハル・ノート」を出した翌日、ハワイ以外のフィリピンやグアム島などの前哨基地に対して「ディフェンス・コントロール・T」の指令を発令していました。同指令は「戦争状態に突入した。後は現場指揮官の判断に委ねる」との戦争指令だったのです。 |
ハル・ノート - Wikipedia ハル・ノート - Wikisource 芋太郎の広場 ≫ 資料室 ≫ 対訳 ハル・ノート 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO ≫ ぶん蔵歳時記 ≫ 歳時記〜秋 ≫ 「ハル・ノート」(11月26日) 1941年 アメリカが日本にハル・ノートを提示(リンクのみ) 【日本側の最後通牒】 深田祐介著「大東亜会議の真実」(PHP新書、2004年)p44-45 に、次の記述がある。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 |
日本の最後通牒が遅れ、ハワイ攻撃が奇襲となり、国際法違反として、戦後非難を浴びることになるのだが、時の外相東郷茂徳と外務省側には、一九一二年(明治四十五年)一月、オランダのハーグで催された国際条約の会議において、ポーター米国代表が「開戦通告の規程は、自衛戦争の場合は、適用されない」と宣言した事実が念頭にあった。そしてハル・ノートを米国側の最後通告と見做していた東郷及び外務省側としては、これは自衛戦争の開始以外の何物でもなかった(同右『運命の夜明け』 )。(注:同右『運命の夜明け』は、森史朗著『運命の夜明け』を指す。) 事実手交が遅れたとされる日本側の最後通牒はきわめて簡単なもので、要するに「日米交渉の打ち切り」の通告であって、宣戦布告や最後通牒の匂いさえうかがえず、議論の対象にさえなり得ない代物なのだ。こんな文書の手交をめぐって、いまだに果てしなく議論が反復されているのはまことにナンセンスとしかいいようがない。 従って真の宣戦布告は宣戦の詔勅を待たねばならなかったのだ。 |
(参考資料) 開戦に関する条約 - Wikipedia 中立 - Wikipedia 戦時国際法 - Wikipedia の「中立国の義務」の項 このサイトの「中立国の義務」の項によると、 「中立国は戦争に参加してはならず、また交戦当事国のいずれにも援助を行ってはならず、平等に接しなければならない義務を負う。」としたうえで、中立国の義務について「回避の義務」「防止の義務」「黙認の義務」の3種の分類を示しており、「回避の義務」については次の記述がある。 回避の義務〜『 中立国は直接、間接を問わず交戦当事国に援助を行わない義務を負う。 』 不戦条約 - Wikipedia (パリ不戦条約) このサイトの「概要」の項のなかに、次の記述がある。 『加瀬英明によれば、1928年12月7日、ケロッグ国務長官はアメリカ上院議会の不戦条約批准の是非をめぐる討議において、経済封鎖は戦争行為そのものだと断言したことを挙げて、日米戦争については、日本ではなくアメリカが侵略戦争の罪で裁かれるべきだったとしている[4]。』 『 [脚注4] 加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書 』 自衛戦争 - Wikipedia 自衛権 - Wikipedia 侵略 - Wikipedia 侵略戦争 - Wikipedia 侵略の定義に関する決議 - Wikipedia (国連総会決議3314(1974年12月14日採択)) 国際刑事裁判所ローマ規程 - Wikipedia (1998年7月17日にローマ会議で採択) 平和に対する罪 - Wikipedia 人道に対する罪 - Wikipedia ジェノサイド - Wikipedia |
堤 堯「魔都・上海の街で考えたこと㉑(注:21)」(「WiLL 2014年1月号」所収) p314-315 に、次の記述がある。なお、引用文中の小見出し以外の太字と(注)は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略)ために通告が開戦のあとになったが、これをもって日本を「騙し討ち」呼ばわりする資格は英米にはない。なにしろ前述したように(注:雑誌「WiLL」の以前の号と思われる。)、アメリカ人の記者によれば「アメリカは対メキシコ戦をはじめ六回も奇襲をやっているし、イギリスにいたっては三十回も奇襲をやっている」のだから。むしろアメリカ国民を「騙し討ち」にしたのは、これまで見てきたとおり、FDR(注:フランクリン・D・ルーズベルト)その人に他ならない。 (中略) 話を戻す。FDRは国民向けの演説で、いかにも闇夜に鉄砲、背中から撃たれたかのごとくに演説してアメリカ国民の怒りを掻き立てたが、その実は驚天動地の奇襲だったはずもない。スティムソンはのちの陸軍査問委員会で、「自分は驚かなかった」と証言した。それもそのはず、いかにして日本に先に撃たせるかを議論していたのだから。 真相を知れば驚倒する 右の会議に出席していたノックス海軍長官は、のちに書いている。「午後一時」の通告情報は、十一時前にワシントンの全ての上層部に届けられており、これが奇襲の時刻を意味することは誰しも予期していたと。ノックスは攻撃直後にハワイを視察し、FDRへの報告書に、 「日本の攻撃には驚かなかったが、ワシントンの上層部では常識となっていた奇襲の可能性について、ハワイを守るキンメルやショートが、何も知らされていなかった」 と驚愕の思いをこめて報告している(ビアード『ルーズベルトの責任』)。(注:チャールズ・A・ビーアド著「ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか 上・下」(藤原書店、2012年)であろう。) ノックスはハワイで、彼がキンメルへ向けて発した警告が届いていなかったと知ったとき、瞬時に悟ったに違いない。それがマーシャルによって握り潰されたこと、何のためにマーシャルがハワイへの通信を決済(注:ママ。決裁?)する権限を持たされたか、その決裁権を与えたFDRの意図……いまにして当初からハワイを犠牲に供する意図だったことを、翻然と悟ったに違いない。 キンメルがマーシャルからの「曖昧な警告」を手にしたとき、すでに南雲機動部隊の攻撃は終わりかけていた。思わずキンメルは「God Damn, Son of a Bitch!(こん畜生!)」と叫び、警告書をテーブルに叩きつけたに違いない。目の前に広がるのは真珠湾の惨状だ。 (後略) |
この本の4ページに次のような記述がある。引用文中の「この日」は真珠湾攻撃の日を指す。 『ハワイに配備されていた二隻の空母はこの日は二隻ともウェーク島とミッドウェー島とに飛行機を輸送するのに忙しかった。そのため付近海域の対潜哨戒に従事すべき母艦搭載機がほとんどいなかったので、いつもは、潜水艦からの攻撃を避けて、三分の一しかいない戦艦部隊が、この日にはずっと数多くパール・ハーバー軍港内に停泊していた。』 |
零戦 YouTube ≫ 世界が語る零戦─「侵略の世界史」を転換させた零戦の真実 YouTube ≫ 零戦、日本の大空に再び=爆音響かせ天高く舞う雄姿−海自鹿屋基地 2016年 大東亜戦争(太平洋戦争) 大東亜戦争 - Wikipedia 太平洋戦争 - Wikipedia 太平洋戦争の年表 - Wikipedia YouTube ≫ 【遠くの声を探して】大東亜戦争、日本を取り戻すために忘れてはならない事[桜H25/12/11] 真珠湾攻撃陰謀説、ルーズベルト批判 および ベェノナ文書 真珠湾攻撃陰謀説 - Wikipedia ・ハーバート・フーバー著「裏切られた自由 上・下」ジョージ・H・ナッシュ 編、渡辺惣樹 訳、草思社、2017年 ・ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」妹尾作太郎 監訳、荒井稔・丸田知美 共訳、文藝春秋、2001年 ・ジェフリー・レコード著「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか 「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦」渡辺惣樹 訳、草思社、2013年 ・ハミルトン・フィッシュ著「ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言」渡辺惣樹 訳、草思社、2014年(草思社文庫 2017年) ・加瀬英明・藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道 著「日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず」勉誠出版、2016年 |
この本の39〜40ページから引用します。 「茂木 (中略)オレンジプランをある時期はかなり力を入れて作っていた。ところがある時、日本と戦争をやるなんてばかばかしい、ということでほとんど眠っちゃう。眠ってるのを起こしたのがフランクリン・ルーズベルトなんですよ。オレンジプランを詳細なプランにして、そのとおりの作戦で大戦を戦ってるんです。そういう時代にあっても、アメリカの海軍ではオレンジプランにあまり賛成しない幹部が多かった。アメリカ海軍艦隊司令長官で太平洋艦隊司令長官も兼ねていたリチャードソン海軍大将は、一九四〇年、日本と戦争すべきじゃないからオレンジプランは廃止すべきだと主張した。そしたらルーズベルトは直ちに彼を解任し、少将に降格するんです。F・ルーズベルトが断固として日本と戦争しようとしていた証拠です。」 この本の64ページから引用します。 「茂木 (中略)この本の資料に出てくるんですが、アメリカは戦争の最中、ソ連に航空機一万四七〇〇機を支援するんです。これは零戦の全生産量に匹敵します。それから戦車七〇〇〇両、装甲車六三〇〇両、トラック三七万五千台、ジープ五万二千台。銃砲や弾薬など何百万発という単位です。」 この本の102ページから引用します。 「【第九の誤ち】一九四一年九月近衛和平提案を拒絶したこと 「ルーズベルトが近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否したこと。この和平の提案が受け入れられることを、日本に駐在するアメリカの大使もイギリスの大使も積極的に働きかけたし、又祈る様な気持で見守っていた。近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。しかも、満州の返還ですら、議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう」[抄訳] 」 |
・渡辺惣樹 著「誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」草思社、2017年 |
この本の172〜174ページによると、フランクリン・ルーズベルトは1943年半ばから急速に体調が悪化していたことが、彼の愛人の一人とされているマーガレット・サックリーの残した日記(1995年公開)で明らかになっているという。そして、スティーヴン・ロマゾウとエリック・フェットマンは、ルーズベツトの左眉上の皮膚癌(悪性黒色腫)が脳に転移したと推測している。いずれも、出典は、スティーヴン・ロマゾウ、エリック・フェットマン共著「ルーズベルトの死の秘密」草思社、2015年。 |
・アラン・アームストロング著「「幻」の日本爆撃計画 「真珠湾」に隠された真実」塩谷紘 訳、日本経済新聞出版社、2008年 YouTube ≫ アメリカ人も知らない太平洋戦争の事実 【日本人よ目覚めよう】 channelAJER ≫ 『米中新冷戦、どうする日本(2)A』【藤井厳喜】AJER 〜この動画は無料ですが会員登録が必要です。 この動画では、フランクリン・ルーズベルトの反日親中外交に対する、当時のアメリカ人による批判が紹介されています。 YouTube ≫ 【恥ずべき最後通牒ハル・ノート】への批判ハミルトン・フィッシュ YouTube ≫ 【恥ずべき行いの日】声明 ハミルトン・フィッシュ 株式日記と経済展望 ≫ 『ルーズベルトの開戦責任』 本書はアメリカにとって「不都合な真実」が書かれており、いまだにフィッシュは「修正主義」のレッテルを貼られている始末だ。(2014年9月21日付) 株式日記と経済展望 ≫ 「ルーベルトの開戦責任」 ハル・ノートを「最後通牒」だと考えていたことは明らかである。(2014年10月15日付) News U.S. 中国・韓国・在日崩壊ニュース ≫ 【拡散】日米開戦のきっかけは【 真珠湾攻撃ではない 】ことが発覚!!! とんでもない歴史の史実が明らかに!!!(2014年12月8日付) |
YouTube ≫ [EN/日本語] America's Sneak Attacks to Japan - だまし討ちをしたのはアメリカ! 必見 〜上手にまとまっていると思います。 YouTube ≫ 1945 Life Magazine: Franklin Roosevelt (FDR) Knew Japan Would Attack Pearl Harbor (英語) |
Michael Yon JP ≫ PEARL HARBOR ATTACK HEARINGS(2016年7月1日付) (日本語訳)パールハーバーについての聴聞会資料 |
ibiblio(The Public's Library and Digital Archive 公共の図書館とデジタルアーカイブ) ≫ PEARL HARBOR ATTACK HEARINGS Part 19 (英語・PDFファイル) |
このサイトによると、1941年9月6日の御前会議のあと、永野修身(当時、軍令部総長)は統帥部を代表する形で「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」と語った[3]。 [脚注3] 亀井宏「人物抄伝 太平洋の群像2 永野修身」『奇襲ハワイ作戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ1)』学習研究社、1994年、ISBN 4-0560-0367-X。 |
・林千勝 氏の論 |
アメリカ側の状況 YouTube ≫ 日米開戦70年記念講演 加瀬英明1なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか 同2 YouTube ≫ 日米開戦70周年記念講演会 茂木弘道「戦争を起こしたのはアメリカ」 防衛省防衛研究所 ≫ イベント ≫ 戦争史研究国際フォーラム ≫ 平成20年度戦争史研究国際フォーラム報告書 ≫ 「オレンジ計画」から真珠湾まで(マーク・A・ストーラー) (PDFファイル) 生涯学習 神田雑学大学 ≫ 講義録一覧 2013年〜2015年 ≫ アメリカのオレンジ計画(講師:鈴木荘一) YouTube ≫ 【Angelest】FDR's Truth 1 ルーズベルトの真実 1 【大東亜戦争】【天翼ch】 同2 ・チャールズ・A・リンドバーグ 著『リンドバーグ 第二次大戦日記(下)』新庄哲夫 訳、新潮社、1974年 |
この本の330〜331ページから引用します。1941年5月1日付の記述。 『 五月一日 木曜日 参戦の圧力は高く、しかも日一日と高まりつつある。民衆は参戦に反対だが、行政府はそれに反して「勝手気ままに振る舞い」、参戦への姿勢を固めた気配が感じられる。この国におけるユダヤ勢力の大半は参戦を支持しており、しかも彼らはわが国の新聞やラジオの大部分と、映画の大半を支配下に置いているのだ。また例の知識人≠ニかイギリスびいき≠ニか、また自由自在に活動するイギリスの工作員、国際的な金融勢力、その他大勢が控えているのである。 』 この本の395ページから引用します。1942年2月16日付の記述のなかから抜粋。 『 議事堂内の委員室でハリー・バード上院議員と昼食。将来に対する彼の見通しは暗い。私と同じくローズヴェルト大統領に信頼を寄せておらぬ。徴兵適齢期の息子が三人おり、二人は既に軍務に服している。バードは、真珠湾攻撃の直後ウォルシュ上院議員がローズヴェルト大統領と面談した際の模様を話してくれた。ウォルシュ上院議員は日本軍の真珠湾攻撃を耳にするや、すぐさまスターク提督のもとを訪れ、被害状況を問い質した。ウォルシュ上院議員は海軍委員会の委員長だったので、スターク提督は正確に詳細を伝えた。ウォルシュは直ちに海軍委員会を招集したが、バードはじめ数名の同僚委員がウォルシュに大統領を訪問し、「真相を国民に公表するように要求すべきだ」と忠告したらしい。 ウォルシュ委員長は真相の公表に関しては同意したものの、かかる要求を以て大統領に談じ込むのを最初はためらった。しかし、さらに強い要請が出されたので、委員長もそれに応ずることに同意した。ウォルシュが大統領との会見模様を伝えたところによれば、彼が真珠湾の真相を公表するようにと持ちだすやローズヴェルトは血相を変えて激怒したという。大統領はウォルシュに情報の出所を強く求めた。上院海軍委員長として海軍省に赴き、直接スターク提督から聞いたと答えると、スタークはそのような情報を誰にも漏らすべきではなかった(よしんば相手が上院の海軍委員長であっても)とローズヴェルトは言ってのけた。それから、ウォルシュの話によれば、ローズヴェルトはこうも言ったそうだ。「一体全体、われわれはなぜ撃沈されたと認めなくっちゃならんのかね? 数フィート下の水中で休んでいるだけなんだ。今に浮上させてやる!」(日本軍に沈没させられた戦艦のこと)。 下院議員や上院議員の間では、真珠湾で七隻の戦艦が撃沈もしくは大破したと一般的に受け取られている。三隻が撃沈、四隻が大破と説をなす者もいる。別の話によれば四隻が撃沈、三隻が大破したともいう。被害を受けた艦艇の総計は二十七隻から三十四隻までの各人各説がある。』 |
この動画によると、マッカーサーはA級戦犯7人を昭和天皇の誕生日(4月29日)に起訴し、今上天皇(平成天皇)の誕生日(12月23日)に処刑した。マッカーサーは、「日本国民はどんな顔をして天長節を祝うのか見てみたい」と副官シーボルド(ウィリアム・シーボルドGHQ外交局長)に話したという。 |
YouTube ≫ 反日の在日朝鮮人を生んだのはGHQだった (高山正之 氏の発言) 花うさぎの「世界は腹黒い」2 ≫ 「白人は人間ではない」高山正之の世界史観 2012年の黙示録 ≫ Bookstand6号室 ≫ 雑誌閲覧室 ≫ 残忍な人たち 〜 なぜ原爆を落としたか 週刊新潮2005年8月11・18日号●変見自在 高山正之(帝京大教授) YouTube ≫ 1/3【討論!】あらためて大東亜戦争を考える[桜H25/11/30] 2/3 同 3/3 同 YouTube ≫ 1/3【討論!】あらためて大東亜戦争を考えるPart2[桜H25/12/7] 2/3 同 3/3 同 YouTube ≫ 【祝!安倍首相 靖国参拝】韓国・中国の「日本悪玉論」は大ウソ!日本は植民地解放のヒーローだ!【ザ・ファクト#005】 YouTube ≫ 【加瀬英明氏インタビュー】 大東亜戦争の意義<前編>【ザ・ファクト】 YouTube ≫ 【加瀬英明氏インタビュー】 大東亜戦争の意義<後編>【ザ・ファクト】 ねずさんの ひとりごと ≫ ヘンリー・S・ストークス氏の講演 YouTube ≫ 1/3【討論!】さようなら韓国、さようなら戦後体制[桜H26/6/14] 2/3同 3/3同 必見(特に、菅沼光弘氏の発言) その他の図書(注:当サイト管理人は、これらの本を、まだ読んでいません。単なる備忘録で、必ずしもお勧めしている訳ではありません。) ・加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス共著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書、2012年 ・ヘンリー・S・ストークス著『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』祥伝社新書、2013年 ・産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 著『ルーズベルト秘録 上・下』産経新聞ニュースサービス、2000年 ・チャールズ・A・ビーアド著『ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか 上・下』開米潤・阿部直哉・丸茂恭子 訳、藤原書店、2012年 ・ジェイムズ・ラスブリッジャー、エリック・ネイブ共著『真珠湾の裏切り チャーチルはいかにしてルーズヴェルトを第二次世界大戦に誘い込んだか』大蔵雄之助 訳、文藝春秋、1991年 ・ロベルタ・ウールステッター著『パールハーバー トップは情報洪水の中でいかに決断すべきか』岩島久夫・岩島斐子 訳、読売新聞社、1987年 ・ハミルトン・フィッシュ著『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹 訳、草思社、2014年 【参考ページ】 |
参考文献 ハル・ノート - Wikipedia 真珠湾攻撃 - Wikipedia 南方作戦 - Wikipedia フライング・タイガース - Wikipedia YouTube ≫ 【加瀬英明氏インタビュー】 大東亜戦争の意義<前編>【ザ・ファクト】 「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」ロバート・B・スティネット著、妹尾作太郎 監訳、荒井稔・丸田知美 共訳、文藝春秋、2001年 「大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して」深田祐介著、PHP新書、2004年 「決定版 国民の歴史 下」西尾幹二著、文春文庫、2009年 「検証 戦後教育」高橋史朗著、広池学園出版部、1995年 「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v古荘光一著(「WiLL 2014年1月号」所収) 「魔都・上海の街で考えたこと㉑(注:21)」堤 堯 著(「WiLL 2014年1月号」所収) 「ひと目でわかる 「アジア解放」時代の日本精神」水間政憲 著、PHP研究所、2013年 「通貨燃ゆ」谷口智彦著、日経ビジネス人文庫、2010年 法幣 - Wikipedia 登戸研究所 - Wikipedia 第二次世界大戦の会談・会議 - Wikipedia 歴代アメリカ合衆国大統領の一覧 - Wikipedia フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia 隔離演説 - Wikipedia Miller Center ≫ Quarantine Speech (October 5, 1937) 日米通商航海条約 - Wikipedia コトバンク ≫ 武器貸与法 とは レンドリース法 - Wikipedia 武器貸与法 コトバンク ≫ 大西洋憲章 とは 大西洋憲章 - Wikipedia ABCD包囲網 - Wikipedia の「対日経済封鎖」の項 中立法 - Wikipedia アメリカで1935年に制定 第二次世界大戦 - Wikipedia 挙国一致内閣 - Wikipedia ウィンストン・チャーチル - Wikipedia Destroyers for Bases Agreement - Wikipedia 駆逐艦と基地の交換協定 日独伊三国同盟 - Wikipedia 日米交渉 - Wikipedia 更新 2022/12/9 |