日本の歴史認識(順次、リンクや引用などを追加して、更新していきます。) |
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プレスコードにおける「削除および発行禁止対象のカテゴリー」は次のとおり。 1.SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判 2.極東国際軍事裁判批判 3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判 4.検閲制度への言及 5.アメリカ合衆国への批判 6.ロシア(ソ連邦)への批判 7.英国への批判 8.朝鮮人への批判 9.中国への批判 10.その他の連合国への批判 11.連合国一般への批判(国を特定しなくとも) 12.満州における日本人取り扱いについての批判 13.連合国の戦前の政策に対する批判 14.第三次世界大戦への言及 15.冷戦に関する言及 16.戦争擁護の宣伝 17.神国日本の宣伝 18.軍国主義の宣伝 19.ナショナリズムの宣伝 20.大東亜共栄圏の宣伝 21.その他の宣伝 22.戦争犯罪人の正当化および擁護 23.占領軍兵士と日本女性との交渉 24.闇市の状況 25.占領軍軍隊に対する批判 26.飢餓の誇張 27.暴力と不穏の行動の煽動 28.虚偽の報道 29.GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及 30.解禁されていない報道の公表 |
極東国際軍事裁判(東京裁判)では、遡及して罪を問う法を新たに制定し、正当な弁護も退けて、勝者による一方的な断罪を行った。東京裁判のほか、南京(中華民国による)・マニラ・ニューデリー・ハバロフスク・瀋陽(1956年、中華人民共和国による)その他でも軍事裁判が行われているが、その多くが東京裁判以上にずさんな裁判であったとみられる。有罪判決を受けた者のなかには、多くの無実の者が含まれる。また、戦勝国(連合国)側の犯罪は、一切裁かれていない。 東京裁判でも裁かれた南京大虐殺は、もともとは、支那事変中に中国国民党(第2次国共合作時)がねつ造した宣伝工作であったことが判明している。これを東京裁判に持ち出したのであるが、その理由は、@日本が原爆を投下されてもしかたがないほど悪逆であったと主張するため(そのため数十万人の虐殺が必要であった。)、A中国やソ連などが行った多くの残虐行為(北伐中の蛮行、1927年に中国軍が行った南京事件、漢口事件、済南事件、中国の軍閥どうしの戦争、中国共産党や軍閥が行った粛清や処刑、間島暴動、万宝山事件、通州事件、黄河決壊事件、長沙大火、日本降伏後のソ連による侵攻、葛根廟事件、敦化事件、通化事件、長春包囲戦などなど。山のようにあるが、自虐史観では全く取り上げられない。)を日本のせいにするため、と推測される。 また、朝鮮を植民地にして朝鮮人を奴隷にしたとのわい曲(併合であって植民地ではないし、李氏朝鮮にあった奴卑の制度は日本が廃止した。)は、ルーズベルトによって言われ始め、GHQ政策に受け継がれたとみられている。 ![]() そのため、朝鮮人は戦後の日本において特殊な地位を与えられた。戦時中は、多くの朝鮮人が日本軍の勝利に拍手喝采し、日本軍に志願する者も少なくなかった。にもかかわらず、戦後は、「日本に侵略された植民地の民族」として扱われた。これは、日本人としては、全く受け入れ難い。朝鮮人は戦勝国には入れてもらえなかったが、いわゆる「第三国人」として日本人とは区別された。日本国内において、朝鮮籍という特殊な戸籍が与えられ、日本官憲の取り締まりを受けず(このために多くの犯罪が起こっている。)、朝鮮総連や民団といった組織をつくり、他国の在留外国人とは異なる特別な優遇を受けるようになった。今日までの変遷を経てもなお、多くの優遇制度が残っており、在日特権と呼ばれている。こうした歴史的背景から、韓国や在日の間では朝鮮人を日本人の上に置く風潮があり、これが朝鮮人のおかしな歴史認識を形作った理由のひとつかもしれない。こうした大きな流れを受けて、朝鮮人(特に韓国)は、日本が朝鮮を植民地支配し奴隷のように搾取し収奪したと言い(上に記したように誤りである。)、根拠のない従軍慰安婦問題を持ち出して、日本を貶めるている。従軍慰安婦問題や南京大虐殺問題については、朝日新聞などの大手マスコミや左翼知識人など、多くの左翼勢力がこれに加担し煽り続けた。これに対して、かつての自民党の政治家は、平身低頭して謝罪し、償いに代えて多額の経済協力をしてきた(日本の政治家へキックバックがあったのではないかともささやかれている。)。こうした日本の姿勢にもかかわらず、いまだに謝罪と賠償を求めており、いつまでも終息しないばかりかますます混迷を深めているように見える。その原因は、彼らの民族性を見誤り、日本人の場合と同じように対応した結果である、と言わざるをえない。今日(2013年)の安倍総理大臣は、こうした戦後体制を終わらせるべきだとして、「戦後レジュームからの脱却」を政治スローガンに掲げている。憲法改正の動きや、靖国神社参拝などは、こうした動きの一環である。これらの動きに、中国と韓国は猛反発しているし、アメリカも快く思っていないはずである。アメリカとしては、日本がいつまでも敗戦国のままでいてくれれば、日本の頭を押さえ続けていられるからである。 現在の日本が自虐史観一色に染まっている理由は、主に次の点にあります。 @戦後のアメリカによる占領統治期間(7年間)において、GHQによる言論統制と検閲が行われ、アメリカが聖人君子であるかのように日本人に信じ込まされた。 AGHQの意向に沿わないとされた BGHQによる公職追放が行われ、日本の保守的な指導者たちが一掃されたあとに、左翼的な思想を持つ人々(マルクス主義のシンパたち)が日本社会での重要な地位を占めるにいたった。GHQの方針を受け入れた彼らは、「戦前の日本軍国主義は悪であり、欧米の自由主義は善である」とする自虐史観を日本の世論として形成し、こうした意見をマスコミで広く報じるほか、子供や学生たちにも継続して教育し続けてきた。そして、これは、GHQの占領がとうの昔に終わっているにもかかわらず、今日においてもまだ続いている。 日本の歴史認識が自虐史観(=東京裁判史観・GHQ史観)によってわい曲されていることに気づいた少数の人々がこれまでいくら主張しても、現在の日本のマスコミ・学術機関・教育機関などは完全に自虐史観に支配されており、ほとんど無視されてきました。しかし、今日のインターネットの発達により、彼ら少数派の主張を知る機会が得られるようになってきたため、これらの意見を支持する人々の輪が少しづつ広がってきています。変革の時は、近いかもしれません。 当サイト管理人の考えるところでは、大東亜戦争の一番の目的は「アジアを欧米の植民地にさせない」という点にあったと考えます。だから、よく問題にされているような、侵略戦争だったのか自衛の戦争だったのかという点が一番重要な問題なのではなくて、アジアの開放のために役に立ったのかどうかを問題にすべきです。朝鮮半島での歴史を見れば、当初は金玉均らの独立党を支援して朝鮮における明治維新を断行しようとしたわけですが、これが失敗に終わり、しかも維新の志ある朝鮮人たちをむごたらしく扱うのを見た日本人は、朝鮮人の手による近代化は無理だと判断せざるをえませんでした。その結果、日本が直接朝鮮を支配下において近代化を実行することになりました。これが侵略であるかそうでないかという点が一番重要な問題なのではなくて、これによって朝鮮は欧米の植民地(特にロシア)にならずに近代化を実行できたが、この方法は良かったのか悪かったのかを問題にすべきです。もし、もっと良い方法があったというのなら、日本は批判を受けるべきかもしれません。ただし、今日のアジアが欧米の植民地となっておらず、しかも韓国と台湾が近代化した国(地域)として世界において比較的優位な立場を保持して欧米の国とも対等に渡り合っていることは、日本が行った多大の努力と大きな犠牲がなければ有り得なかったことです。支那大陸(中国)においても、近代化は遅々とした歩みであって、清朝が倒れて軍閥が割拠する状態では、いずれ欧米の植民地になったであろうことは間違いありません。 もう一つ、当サイト管理人が思うことは、現在の中国と北朝鮮が国際社会と調和せず、まるで100年前の帝国主義時代の王朝国家のように、おかしな行動を続けていることを見ると、両国の政治面での近代化がまだ達成できていないと言わざるをえません。経済についても、中国経済の近代化は、ケ小平の依頼を受けてた松下幸之助ら日本財界が協力があってはじめて一定の結果を得たのであって、戦前のシステムを放棄した北朝鮮の経済は、遅々として近代化が進んでいません。戦前の何人かの日本人(石原莞爾など)は、中国人は近代的な政治を行うことはできないのではないかと疑問を持っていましたが、歴史がこれを証明したのかもしれません。このように、アジアの近代化が一部で不完全なまま残されている今日の状況は、戦前に日本の取り組んでいた課題が、日本の敗戦によって途中で挫折したままになっている状態、と見ることもできるのではないだろうか。 第2次世界大戦に勝った連合国が戦後の世界秩序を構築したのであるが、一部の国(中国以外は戦前の欧米列強である)が特権(安保理常任理事国)を握り、いまだに平等にはなっていない。しかもその特権は、投票などによって他国から支持されたものではなく、戦争で勝った側の主力であったという完全に軍事的な理由からである。覇権を握ったアメリカとソ連は、かつての帝国主義のようなあからさまな領土侵略は放棄したものの、強大な武力を背景に関係国を味方に付けて影響力を行使している。心の底では、「強国が弱小国を支配することは妥当だ」と考えているのであり、植民地主義の名残のように見える。いまや中国もこの考え方に組しており、領土的野心さえ隠そうとしない。現在、強国と弱小国は、まったく不平等な状態にある。国連総会では一国一票の権利があるものの、安保理はこれを無視して行動することできる。つまり、議会を無視して武力で世界を動かしている訳である。現代の国際社会は、武力がものをいう「戦国時代」であると言っても、間違いではないであろう。いまの欧米列強が作り上げた今の世界秩序に代わって、いろいろな民族の国家が平等に共存する新たな世界秩序の実現が、求められているのではないだろうか。その時にはきっと、日本の活躍する場があるはずだと思う。 (当初 2012年10月。直近の更新 2013年9月22日) ![]() ■リンク・引用・著書など資料集■ ○未分類 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
『Office of Strategic Services(OSS)とは、第二次世界大戦中のアメリカ軍の特務機関で、諜報機関である。1941年7月に設立された情報調整局 Coordinator of Infomation(COI))の後身で、後の中央情報局(CIA)の前身。ウィリアム・ドノバン少将によって設立された。』 『OSSの定訳はなく、戦略諜報局、戦略情報局、戦時情報機関や特殊戦略部隊、戦略事務局、戦略任務局など多数ある。』 |
・三田村武夫 著「大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義」自由社 (自由選書)、1987年(復刻版) 重要 |
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このページのうち「騙し討ちの村山談話」の項を引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 『 騙し討ちの村山談話 この件については『諸君!』2005年7月号に西村眞悟氏が詳述している。氏は次のように書いた。 自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、決議案が上程されても否決されることが明白になった。すると6月9日の金曜日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。その隙を狙ったかのように、土井たか子衆院議長が金曜日の午後8時近くという遅い時間に本会議開会のベルを押したという。 結果として265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決。だが、参議院は採決を見送った。これでは折角の決議の権威もない。評価もされない。そこで首相らは次に総理大臣としての談話を出す道を選んだ。 95年8月15日、村山氏は学者や谷野作太郎内閣外政審議室長ら少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、古川貞二郎官房副長官が読み上げた。この間の経緯は、「閣議室は水を打ったように静まり返った」と報じられた。事前説明なしで突然出された談話に、閣僚は誰ひとり反論出来ていない。自民党にとって、このことこそが痛恨の一事だ。 首相は談話を出すに当たって記者会見に臨んだ。その席で、「談話で日本が過去に国策を誤ったとして謝罪したが、具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているのか」と問われ、村山首相は絶句した。 国会決議の卑劣な出自。自らの談話も具体的に説明出来ない空ろな首相。村山氏の政治家としての、否、それ以前に、人間としての資質は、知れば知るほど、興醒めである。 社会党時代、長きにわたって氏は自衛隊を憲法違反だと非難した。首相になった途端に合憲だと主張を変え、自衛隊員に国家防衛の崇高な任務に励めと訓話した。しかし、首相を辞して社民党に戻ったら、またもや自衛隊違憲論に戻ったのだ。国家の重要事に関して二転三転した節操なき人物の談話を後生大事にするほど、日本人は愚かではないであろう。 』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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・韓光煕 著「わが朝鮮総連の罪と罰」文藝春秋、2002年(文春文庫、2005年) ・高英煥(コ・ヨンファン)著「亡命高官の見た金正日」池田菊敏訳、徳間書店、1995年 ・高英煥(コ・ヨンファン)著「平壌25時 金王朝の内幕 元北朝鮮エリート外交官衝撃の告白」池田菊敏訳、徳間書店、1992年 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ・山下康雄(当時、名古屋大学で国際法を担当) ![]() ![]() ・1957年5月に「帰還者給付金などの支払い法」を制定 ![]() ![]() ![]() |
![]() ・会田雄次 著「アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界」中公新書、1962年(中公文庫、1973年) ![]() |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・A.M.ナイル 著「知られざるインド独立闘争 A・M・ナイル回想録」河合伸 訳、風濤社、2008年 ・樋口哲子 著、中島岳志 編「父ボース 追憶の中のアジアと日本」白水社、2012年 ・藤原岩市 著「F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記」バジリコ、2012年 |
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・ラルフ・タウンゼント著「暗黒大陸中国の真実」田中秀雄・先田賢紀智共訳、芙蓉書房出版、2007年 ・ラルフ・タウンゼント著「アメリカはアジアに介入するな!」田中秀雄・先田賢紀智共訳、芙蓉書房出版、2005年 ![]() |
(当サイト管理人の意見) ・戦争においては、双方に主義主張がある。それなのに日本は、ナチスドイツ等のファシズムと同一視されて、一方的に日本は悪だとされている。 ・日本にも主張すべき正義がある。それは「白人(欧米列強)の人種差別と植民地主義に基づいて行われた世界侵略に対して、日本が反攻したのだ」という主張であると思う。 ・どちらの正義が最終的に承認されるかは、未来の歴史家によって判定される。 |
・中村粲 著「大東亜戦争への道」展転社、1990年 ・林房雄著「大東亜戦争肯定論」夏目書房、2001年 ・田中隆吉 著「日本軍閥暗闘史」中公文庫、2005年 ・ハーバート フーバー 著、ジョージ・ナッシュ 編「裏切られた自由 上・下」渡辺惣樹 訳、草思社、2017年 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 『回顧録の中でチャーチルはこの時に勝利を確信したと主張している。「ついにアメリカがその死に至るまで戦争に突入したのだ。これで我々は戦争に勝った。イギリスと大英帝国は滅亡を免れたのだ。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本人にいたっては粉微塵に粉砕されるだろう」と書いている[675]。』 (脚注675)^ a b 山上(1960) p.191 =山上正太郎 『ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争』 誠文堂新光社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAP0JM。 |
・対英米蘭蒋戦争指導要綱![]() ![]() ![]() ![]() ![]() このサイトから一部引用。 『アメリカの情報機構の中心的役割を果たしている中央情報局(CIA)の萌芽は1942年初めに創設された情報統制局(COI)で,その後第2次大戦中に戦略業務部(OSS)と改称された。OSSは45年9月にいったん解散されたが,46年1月中央情報本部(CIG)として復活,47年9月にCIGに代えCIAが発足,』 |
○第二次大戦 名言集 ![]() ![]() ![]() 注:YouTubeでのV(改訂版)は、見つけることが出来ませんでした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 注:YouTubeでの]U(徴兵制って知ってる?編)は、見つけることが出来ませんでした。 ![]() ![]() ![]() 注:YouTubeでの]Y(原爆編)と]Z(艦長編)は、見つけることが出来ませんでした。 ○日本軍における朝鮮人将兵 ![]() |
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この動画の「動画解説」欄の説明のなかに、次の記述がある。引用文中の太字は、当サイト管理人による。 『 日本軍の捕虜収容所に収容された連合国軍の兵士達は、看守のほとんどが朝鮮人で非常に野蛮で残忍だったと書き記している。 「バターンの死の行進」では、その看守達のほとんどが朝鮮人で最も虐待的で、銃剣に血糊が付いていることが兵隊としての勲章だと思っていると記録されている。 タイとビルマを結ぶ鉄道建設の映画「クウェー川鉄橋」、(死の鉄道として知られている)では朝鮮人看守達が仕切っていた。 そこで働いていた連合国軍の兵士で日本軍の捕虜の1人の将校は、「朝鮮人は馬鹿で常に捕虜の取り扱いに関しては獣(ケダモノ)の様だった」と報告している。』 この文章の出典は、下の英語版ウィキペディアらしい。 ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○東京裁判について(極東国際軍事裁判) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○連合国の日本占領政策について ・田中英道 著「戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」 二段階革命理論と憲法」展転社、2011年 ○余命3年時事日記 → 余命三年時事日記 ブログ主の「かずくん」さんは、2013年12月9日にご逝去され、関係者の方が引き継いだようです。更に、2015年5月11日の記事から、3代目に引き継がれたようです。 歴史観だけでなく、多くの時事問題・軍事問題を含んでいます。 自衛隊や軍事関係などについても興味深い記事があり、それらについては ![]() 「余命3年時事日記」(So-netブログ)のサイトは、2015年8月6日に一部記事が削除され、同年8月10日にアクセスが遮断されたようです。そのため、同年8月12日に、新しいサイト「余命三年時事日記」(WordPress 日本語)が立ち上げられたようです。 ・余命プロジェクトチーム著「余命三年時事日記」青林堂、2015年 ・余命プロジェクトチーム著「余命三年時事日記ハンドブック」青林堂、2016年 ・余命プロジェクトチーム著「余命三年時事日記2」青林堂、2016年 |
この本の191〜193ページから引用します。 『B日本がどの程度リターンするかということ 前述の覚醒の程度にもよるが、選挙に直接、大きな影響を与える問題が発生している。韓国大統領李明博の天皇陛下侮辱発言だ(韓国大統領の言葉の直訳)。 日王は韓国民に心から土下座したいのなら来い、重罪人にふさわしく手足を縛って頭を踏んで地面に擦り付けて謝らせてやる。重罪人が土下座もしない、言葉で謝るだけならふざけた話だ。そんな馬鹿な話は通用しない。それなら入国は許さない。 (yamatotube2「足をしばって、ひざまづいて謝罪するなら」韓国大統領・天皇を侮辱 平成24〈2012〉年8月15日より) いろいろなサイトの直訳に差がないことと、こんなすさまじい過激な内容にもかかわらず遮断も訂正しようという動きもまったく出てこないことからこの発言はほぼ正しいと判断できる。また、動画を使用するテレビニュースが後半部分の音声を消しているようなケースも多い。韓国内で日常的に言っていることをそのまま発言したのだろうが、たとえ韓国内でいかなる事情があろうとも、これは完璧にNG。少なくとも、即、韓国に対するすべての2国間支援は打ち切りにすべきだろう。 通常なら過激発言は大喜びで各国語に訳して拡散する在米コリアンが今回まったくスルーしているのは、どれほどヤバイかわかっているからだろう。韓国与党も完全に李明博を切り捨てた。この件は大学のセレモニーで学生たちとの竹島問題質疑応答の際に発言したもの。さすがに韓国政府側も公表できなかったというだけのことはある。 この発言は、越えてはいけない線を越えたどころか、まさに日本に対する宣戦布告だ。 ちなみに日本のメディアでは直訳報道したところはひとつもなかった。相手の宣戦布告を「仲良くしましょうね」的雰囲気に訳すとは…… (以下略) 』 同じく199ページから引用します。 『 「たった60万人の在日韓国朝鮮人に支配された1億人の日本人奴隷!」 (韓国SBS 平成24〈2012〉年8月31日より) 李明博韓国大統領が、「北朝鮮の復興は心配ない、日本にやらせるのだ。私が日本にすべてのカネを出させる、我々はすでに日本を征服しているからだ。奴らのカネは我々が自由にできる、日本は何も知らない、フジテレビが証拠、日本人はよだれを垂らして見ている、私にまかせろ、日本にいるのは私の命令に忠実な高度に訓練された私の兵隊だ!」と、いわゆる日本征服宣言を行った。 そして決定的な韓国大統領李明博の天皇陛下侮辱発言だ。 この二つの問題発言、なんと日本メディアはまったく報道していないのだ。しかしネットではアップされ、一気に拡散してしまった。普通の日本人なら激怒するだろう。 』 |
このサイトのなかに、次の記述があります。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。(注:前後の文脈から推測すると、引用部分は 『 また日米安全保障会議の前段として米軍基地内で極秘で行われた2回の実務者会議においては日本の左翼化に危機感を持った米国から極東の安全保障について重大な提議がありました。ひとつは「韓国切り捨て」であり、もうひとつは「軍事力の強化」でした。 .....「韓国切り捨て」については盧武鉉の反米政策に嫌気を起こし、また暗号化の問題では韓国外交が親中であることがもろにばれてしまい米国も決断せざるを得なかったようですね。これ以降、戦時統制権返還や武器売却禁止等はこの流れとなりました。 .....日本の軍事力強化については、かなり突っ込んだ内容になっています。大陸間弾道弾と原潜以外はすべて容認ということで「日本の政治状況が許せば核の売却までok」という凄まじさで、日本側は唖然としたと聞いております。 』 (注: ![]() |
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このサイトのなかに、次の記述があります。 『 この関係の傍証をあげておきます。余命の過去ログで数度再掲している資料です。 .....「第一次安倍内閣の時代、2007年日米極秘交渉があった。 「我々は日本側が一切の記録を残さないことを前提に提案を行う。 米国は韓国に対し、過去、現在、将来の各種分析を行った結果、同盟国としては不適格との結論に達した。よって経済的にはスワップの延長停止をはじめとして積極的に関わる援助等は行わないことを決めた。 軍事に関しては、最先端軍事技術の供与停止をはじめとして軍事訓練等もそれを考慮して対応する。来る2012年米韓指揮権委譲後は速やかに在韓米軍の撤退をすすめ、統合司令部だけを残す予定である。 その後の北朝鮮侵攻のような事態については、朝鮮戦争勃発当時とは大きく周辺国の状況が変化しているので、韓国の国防力と非参戦を考慮すれば米国や日本が巻き込まれることはないと判断している。原則、米国は介入しない方針だ。 韓国との原子力協定改定を認めることはない。陰で核開発を進める国に核開発のお墨付きを与えるようなもので論外である。 米中ともに朝鮮半島非核化を望んでいる。このままの中途半端な米韓同盟は北朝鮮の核武装を進め、それはIAEA脱退による韓国の核武装と必然的に日本の核武装につながる。 米国が半島から手を引いて日本とともに第一列島線防衛に専念することは両国にとっても多くのメリットがあると考える。 半島は中国の影響を受け韓国は半属国となるであろうが、即、侵攻、占領のパターンは考えにくい。 韓国が国として存在するならば中国は北朝鮮と韓国に自国の安全保障上、絶対に核を持たせないであろうから半島は非核化されるであろう。 ついては事実上、敵となる韓国と直接向き合い対峙することとなる日本に対し、米国は以下の対応をとる。まず日米安保の密接強化。軍事共同訓練の強化。日本の防衛力強化への協力。また戦後の軍事産業にかかる制限や規制を原則解除、容認、黙認することとする。 米国は直接の脅威となりうる原潜と大陸間弾道弾は認めないがそれ以外は注文をつけない。日本の国内事情が許せば、中国に対する抑止力の範囲で核弾頭を売却してもよい。日本が軍備増強し、中国に対する核抑止力を持つことはアジアの平和、世界の平和につながると我々は確信している。日本はこの提案を踏まえて適切な対応をとられたく思う」 』 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() このページの中に、次の記述がある。 『.....動き出したね。これからラッシュになるだろう。今回の例では、民事だろうが刑事だろうが、団体で告訴、あるいは告発が提起された段階で支援に入るようだから適用される事例は多いだろう。とくに民事損害賠償訴訟は勝てば還ってくるからな。 しばき隊の野間がツイッター誹謗中傷裁判で敗訴しているが、類似の訴訟が頻発するだろう。カウンターデモなどやってられなくなる。今回の川崎デモだけでも訴訟のネタは山ほどある。今回「すみれの会」が稼働したことで「余命がいなくても大丈夫」がやっと実現した。ジャパニズム31も売れに売れている。余命の読者には心から感謝申し上げる。 』 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○日本のために(ブログ) ・井上太郎 著「日本のために」青林堂、2013年 ・井上太郎 著「諜報機関」青林堂、2014年 ・井上太郎 著「井上太郎最前線日記」青林堂、2016年 ![]() ![]() ![]() |
このサイトに、次ぎの記述がある。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 『少し違った角度から欧米の植民地政策に目を向けると、イギリスだけですが、公開された英国外務省の公文書によると、英政府は「Operation Legacy」の名のもとに、ケニア、ウガンダ、マレーシア、タンザニア、ジャマイカ、その他の植民地の当局者に対し、「英政府を辱める恐れがある」文書の破棄方法を指示しています。英国の公文書には、シンガポールにある英国王室海軍の焼却炉で周辺地域から集められた数多くの文書が処分されたこと、沿岸部からできる限り離れた海流の穏やかな深海に文書が沈められたことについての記載もありました。』 |
![]() =(機械翻訳)「記者 趙甲済 の世界 : Cho Gab-Je The Investigative Reporter's World 」 ≫ 「1980年代から言論界に浸透した反日-従北勢力」 |
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![]() =(機械翻訳)「1925年日帝時代、韓国の姿。公立普通学校の運動会。」 |
このなかに、前韓国空軍大佐チェ・サムヨン氏の発言として、次のような記述がある。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 「 キム・ジョンイルの父親キム・イルソンは、終戦前は、満洲で誕生しました。実名は、キム・ソンジュ。朝鮮語より中国語が流暢で、匪賊として活躍しました。1945年、朝鮮北部を占領したソ連によって、抗日の英雄 キム・イルソン将軍の伝説が作られていたのです。すなわち、偽のキム・イルソンです。本当のキム・イルソン将軍は、我々が少年時代、朝鮮北部で噂で聞いた人物ですが、当時33才の若造だったキム・ソンジュなはずがありません。本当のキム・イルソンは、日本の陸軍士官学校21期を卒業し、独立運動に転向したキム・グァンソだと言われています。 」 |
このサイトに、次の記述がある。 『 1941年当時、日本の空母10隻に対して、アメリカの太平洋艦隊は7隻であり、当面日本の優位が続くと見られていた。しかし、2年後にはアメリカは100隻もの空母を建造して、反攻に移れると計算していた。日本に2年分の石油備蓄を許したのは、戦争を決意させるには十分だが、最終的な勝利を得るのは不可能、という周到な計算の結果であった。』 |
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このサイトによると、アメリカが第二次世界大戦中に建造した空母は、125隻(うち50隻はカサブランカ級)。ちなみに日本は、19隻(うち1隻は未完成)。 |
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このサイトに、次の記述がある(孫引き)。 『最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎少将は、戦後、大東亜戦争の敗因について「日本海軍は人事で敗れた」と語っている。[1,p311] 』 |
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・重村智計 著「外交敗北 日朝首脳会談の真実」講談社、2006年 |
![]() ![]() ○人種思想の歴史について ![]() ○人種差別について(1945年より前のもの) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・駒形丸事件 〜1914年に起きたカナダでのインド移民排斥事件 |
![]() ![]() ○奴隷について ![]() ![]() ![]() ○欧米の植民地について ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○国際金融資本について ・猫組長・西原理恵子 著 「猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言」扶桑社、2018年 |
この本の183〜189ページから引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 『(前略) サンタロ・マネ、バイヤ・バン、マルコスの残した資金は「ヘリテージファンド」という名称で、各国の中央銀行やメガバンクが神経を尖らせてきた。 そのヘリテージファンドの管理者こそミセス・メリーなのである。ミセス・メリーを名乗る偽物は、世界中でなんと50人以上が確認されている。 (中略) トレンティーノはサンタロ・マネのファミリーネームである。サンタロ・マネは1945年、日本軍からフィリピンを奪還したマッカーサーの通訳兼秘書官であった。マルコスとバイヤ・バンも同じくマッカーサーに仕えた。 この3人が後にフィリピン屈指の資産家となり、そのうちの1人は遂に大統領にまで上り詰めることになる。 ヘリテージファンドが再び世界中の金融機関から注目されるようになったのは、ドゥテルテ大統領誕生が原因である。 '17年3月、香港HSBC銀行に5億ドルのBD(小切手)が持ち込まれた。その原資がヘリテージファンドであったことから、HSBCの担当者は証券の受け入れを拒否した。 「偽造ではないが本物でもない」 という意味不明な理由であった。 それに怒ったのがフィリピン中央銀行だ。BDはHSBCが発行したもので、フィリピン中央銀行の保証が付いていたのでなおさらだ。 フィリピン中央銀行は香港HSBCに厳重な抗議を行い、ドゥテルテ大統領の親書を送りつけた。 これで、HSBCは大騒ぎとなり、遂にサンタロ・マネ、バイヤ・バン、マルコスの口座があることを公式に認めたのである。 この一件は世界中のメガバンクに衝撃を与えた。ニューヨークのJPモルガンは、訴訟を回避するために先手を打って和解を申し入れきた。 ミセス・メリーの名が、再び国際金融の舞台へ踊り出た瞬間であった。ヘリテージファンドの歴史については次稿で触れてみたい。 (中略) ファンドヒストリー(資金の経歴証明書)だけで30枚以上ある。ファンドヒストリーは、1950年8月11日にフィリピン政府と米国政府、中国政府の3国間で締結されたローンアグリーメント(借款契約)から始まる。 これは、米国政府と中国政府がフィリピン中央銀行から、40億ドルを50年間借り入れるという契約である。40億ドルは現金ではなくGBC(ゴールドボンドサティフィケート)だ。 GBCは金の所有証明書であり、紙幣と同じ機能を持っている。現在のSKR(金保管証券)とは違う性質のものだが、どちらも金を証券化している点は同じだ。 ローンアグリーメントの償還期日は'05年8月11日だが、米中両国はフィリピン中央銀行にいまだに返還をしていない。 金価格の上昇と物価上昇に伴う金利の変動で、償還額が返済不可能なほどに膨張したからだ。 太平洋戦争終結後、ローンアグリーメントによってフィリピン中央銀行から金証券を借りたのは、米中だけではない。戦争によって疲弊しきった世界各国が、フィリピン中央銀行を頼った。 各国政府の中央銀行だけではない。民間の銀行もフィリピン中央銀行から、金証券によってカネを借りまくったのである。 日本銀行ももちろん、日本の民間銀行も借りている。今回、私が発行してもらった証券の原資には、9つの銀行の預金口座残高が使われていた。その中の1行が三菱UFJ銀行である。 この9銀行の9口座だけで9400億ドルの残高、日本円で100兆円を超えている。三菱東京UFJ銀行は、前身である東京銀行の借り入れを引き継いだものだ。 世界中の中央銀行、民間銀行がフィリピン中央銀行に借りた金証券の残高は、戦後70年を経て金価格の上昇と金利の複利計算で4500兆円に膨れ上がっている。 もちろん、各国払えるわけがない。だからと言って、借りたものは返すのが道理である。フィリピン政府も黙っているはずがない。 そこで登場するのが'10年9月20日付、国連と世界銀行による共同声明と債務確認書だ。このステートメントで、各国中央銀行がフィリピン中央銀行に有する債務残高を確定したのである。 共同声明のステートメントにはホワイトハウスの証明書が添付され、オバマ大統領(当時)のサインで締めくくられている。 文書番号ASBLP−HHTRS220194。米国立公文書記録管理局に保存されている公文書がそれだ。 私は暗い機内で何度も書類を読み返した。米中とのローンアグリーメントには、中国側が蒋介石、毛沢東、周恩来がサインしている。米国はアイゼンハワーだ。 そして、フィリピン側には、法律顧問としてフェルディナント・マルコスがサインしている。 私は頭の中で点と線が繋がっていくのを感じた。ヘリテージファンドは世界経済史の裏側なのだ。 夢中で読んでいるうちに、気がつけば着陸態勢に入っていた。 』 |
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○ディープ・ステートについて ![]() ![]() ![]() ![]() ○ヘブライの館2 ![]() ![]() ![]() |
このサイトによると、日本は1938年(昭和13年)12月6日の五相会議(近衛文麿首相・有田八郎外相・板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相)で、「人種平等の原則によりユダヤ人を拒否しない」と決定した。この時、陸軍大臣の板垣征四郎は、「日本は八紘一宇の精神である」と言った。![]() ![]() |
このサイトによると、ユダヤ人等(ロマ人・共産主義者など)の収容所においてシラミの媒介するチフスで大量のユダヤ人等が死亡している。DDTのなかったドイツではチクロンBという消毒薬を用いて消毒していたが、ガス室を使って大勢のユダヤ人等を一度に消毒することも行われていた。このことから、「ガス室大量殺人」を否定する主張があるという。ただしこれは、ユダヤ人殺害がなかったという主張ではない。 |
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このサイトによると、ノーマン・フィンケルシュタインは『ホロコースト産業』という本で、アメリカのユダヤ人エリートたちは「ホロコーストを商売にしている!」として痛烈に批判した。 ホロコースト産業が発生したのは1967年の第三次中東戦争の直後で、『イスラエルを滅ぼしてはならないという恐怖心』からではなく、むしろアメリカの戦略上の都合(アメリカとイスラエルの軍事同盟化を正当化するため)からであるとみる。 「ホロコースト産業がホロコースト犠牲者の数字を膨らませたがる理由は明白だ。生存するホロコースト生還者が多ければ多いほど、上限のあるドイツの和解金の分け前が大きくなるのである。」 アメリカの首都ワシントンに政府運営のホロコースト博物館があり、米国内に7つの大きなホロコースト博物館がある。年に一度のホロコースト記念日には50州それぞれの主催する記念式典が、多くは州議会の議事堂で行なわれる。ホロコースト組織協会(AHO)には、米国で100以上のホロコースト機関が名を連ねている。 ナチスによって迫害されたのは、ユダヤ人のほかにジプシー(ロマ民族)・共産主義者・障害者も多いのだが、彼らは全く無視されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
この本の61ページから引用します。川口マーン恵美さんの発言です。なお、引用文中の赤字は、当サイト管理人が施したものです。 『(前略)(注:この部分では、韓国と日本について語られています。) ポーランドの場合はかなり違います。実際ドイツ人に親や親戚を殺された人が大勢いますから、国民のあいだにはドイツに対する不信感や憎しみがあります。一方、じつはこれは封印されていることですが、戦後、ポーランド領となった地域に残されたドイツ人たちも、強制収容所に入れられて、拷問されたり、殺されたりと、それはひどいことをされたという事実があるのです。子供も女性も、ただドイツ人だという理由で虐待されて、殺された。看守にユダヤ人を持ってきたというのですからすさまじかった。 しかし、それについてドイツ人はいっさいなにも言わないし、ポーランドは、ドイツが知っていながら何も言わないことを知っている。これは怖い話です。だからこそ、ポーランド政府が「自分たちは犠牲者だ、賠償せよ」と、あからさまにいうことは絶対にありません。といっても、なにも要求しないわけではなく、国民の対独感情やドイツ人の罪の意識を上手に利用してドイツとの外交を進めています。そのあたりがすごいです。政治家の外交交渉で両国を比較すると文化の違いというより、外交能力の違いを感じます。 (後略) 』 |
![]() ○捕虜の取り扱い ![]() ・パウル・カレル、ギュンター・ベデカー 著 「捕虜 誰も書かなかった第二次大戦ドイツ人虜囚の末路」畔上司 訳、学研M文庫、2007年 ○日本(日本軍)悪玉史観に関する疑問 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○共産主義・社会主義 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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・モルデカイ・モーゼ 著「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」久保田政男 訳、日新報道、1979年 |
この本の表紙カバーに記されている著者紹介文。 『著者 モルデカイ・モーゼ( Mordecai Moses ) 1907年、ウクライナのオデッサ生まれ。 父親は哲学者で革命家、ロシア革命には指導的役割を果たした。レーニン没後、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。 父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリネックと親しかった。ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。独ソ不可侵条約が結ばれるや、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧にあることを看破し、ハルピンを経て上海に亡命。サッスーン財閥の顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画した。 戦後十数回来日、現在は日本研究を楽しみに余生を送っている。 』 この本の17〜18ページから引用します。 『 天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった 日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。 かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。 「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである」 ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。 ところがここで、驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。 (後略) 』 この本の143〜144ページから引用します。 『(前略) それでは第二期の反撃プログラムであるマルクス主義の成立過程について種明かししよう。 マルクス主義はマルクスが構築した論理であるからマルクス主義と呼ばれている、とこう解釈するのが当たり前と考えられているようである。しかし現実には、マルクスにかくかくしかじかの虚構論理の構築を依頼した注文主がいるのである。この注文主がマルクスに送った手紙、発注書ともいうべきものが第二次大戦前に世に出たのである。これは日本でも知られているようである。ただ、これがマルクス主義の源流であるとは全く理解されていないようである。次に紹介するのが、発注者のユダヤ人バリニッシュ・レヴィーのマルクスに宛てた手紙の一部である。 虚構仮説構築の依頼書 「メシアは団結せるユダヤそれ自身である。宇宙の支配は他人種の統一に、各個独立主義の城壁たる国境及び君主国の廃止と、ユダヤ人に対し随所に市民的権利を認むる世界共和国の建設によって保たれるであろう。全然同一種族でかつ全く同一の伝統的陶治(注:ママ。「統治」の誤植と思われる。)をうけているイスラエルの子孫、しかも特殊国家を形成していないイスラエルの子孫は、爾後地球の全表面に拡がりこの新しい人類社会の組織の裡に到るところ何等の抵抗なく指導要因となるであろう。殊に彼等の中のある学者の賢実なる指導を労働大衆に課するに至ったならば尚更のことである。世界共和国を建設したならば、国家の統治権は無産者の勝利によって何らの努力を要せずしてイスラエル人の手に移る。ここにおいて私有権は到るところ公共財産を管理するユダヤ人の支配によって廃止せらるるに至るべく、かくてメシアの時代の到来せる時、ユダヤ人は全世界の人民の財産をその鍵の下に掌握すべしというユダヤ伝統の約束は実現せらるるものと信ずる」 (後略) 』 この本の156〜157ページから引用します。 『 一九二〇年ニューヨークのロシア人の亡命団体である「ユニティ・オブ・ロシア」はソ連の支配者達の人名録を出版しているが、それによると当時のソ連政府の各委員会に占めるユダヤ人の数及びパーセンテージは次の如くである。 (総数)(ユダヤ人数) (%) 人民委員会 二三 一七 七七.二 軍事委員会 四三 三三 七六.七 外務委員会 一六 一三 八一.二 財務委員会 三〇 二四 八〇.〇 司法委員会 二一 二〇 九五.〇 教育委員会 五五 四二 七九.二 社会委員会 六 六 一〇〇 労働委員会 八 七 八七.五 赤十字委員会 八 八 一〇〇 地方委員会 二三 二一 九一.〇 新聞記者 四一 四一 一〇〇 次に英紙「モーニング・ポスト」の発表したソ連の高級委員の中のユダヤ人についての本名と偽名(ロシア名)のリストを示す。 レーニン(ウリヤーノフ)、メシュコフスキー(ゴールドバーグ)、トロツキー(ブロンシュタイン)、ステクロフ(ナハムケス)、マルトフ(ゼデルバウム)、ジノビエフ(アプヘルバウム)、ダーセフ(ドラプキン)、カーメネフ(ローゼンフェルト)、スハノフ(ギンメル)、ラジェヌキイ(クラッシュマン)、ボグダノフ(シルバースタイン)、ゴーレフ(ゴールゴマン)、ラデック(ゾーベルソン)、リトヴィノフ(フィンケルスタイン) 』 この本の209〜217ページから引用します。 『 ルーズベルトは純粋のユダヤ人である 何をさて置いてもハッキリしておかなければならないことは、彼がユダヤ人であるということである。ルーズベルトは、正真正銘のユダヤ人である。このようなユダヤ人を「諜者」agent といっている。マルクスも改宗後はこの諜者である。この諜者というのは、ユダヤ民族の遠大な計画のため表面上は改宗したことにし、したがってルーズベルトの常に口にする如くクリスチャンになるわけである。しかし本質的には、従前以上の強固なユダヤ教徒になるのを常とした。陸軍中野学校の卒業生が戸籍上死亡したことにして特殊な任務についたのと似ている。ルーズベルトの家系は後述する如くユダヤ系であった。このような名門のユダヤ家系の中から改宗者が出た場合は、諜者となる場合が多い。 ルーズベルトの家系 ルーズベルトの家系のルーツを調べてみると、祖先は十七世紀の末葉、オランダにいたユダヤ人 Claes Martenzan van Rosenvelt である。このローゼンフェルト家の先祖は異教徒審問中、スペインから亡命したユダヤ人の一群に属し、ローゼンカンポと称されていた。その後この一群のユダヤ家は欧州各地に分散している。彼等は、Rosenberg, Rosenbaum, Rosenbarium, Rosevelt, Rosenberg(注:ママ。Rosenberg は重複している。) 等と名のった。この中のヤコブス・ローズベルトがオランダに定住し、この一家のみが諜者となるため改宗したといわれる。この一家は一六四九年、オランダから当時ニューアムステルダムと呼ばれていたニューヨークへ移住している。一六八二年にクラエス・マルテンザン・ローズベルトはジャネツェ・サミュエルズと結婚している。戦後、布商を営んでいた。 また、一九三五年三月十四日の「ニューヨーク・タイムズ」紙上でデトロイト・ジュ―イッシュ・クロニクル紙に掲載されたルーズベルトの書翰を転載しているが、この書翰によると、「自分の先祖は多分ユダヤ家であろう」と記しているという。 ルーズベルトが全米のユダヤ系市民からモーゼの再来として信仰に近い尊敬を集めていたことは、よく知られている。 ルーズベルトは一九三三年大統領に当選するや否や、次に述べるごとく在米ユダヤ系市民から信じられないほどの喜びで迎えられ、また崇拝されているのである。実はよく考えてみると、これはなんとも奇妙な話なのである。何故なら、ルーズベルトは選挙公約でユダヤ系市民の利益になるようなことは何一つ公約していないのである。また、ルーズベルトが今後ユダヤ系市民にどのような政策を行なうかも全く予測などできないはずなのである。しかるに何故に、以下述べる如く祝わなければならないのだろうか。もし、ルーズベルトがユダヤ人でないとするならば……。 ルーズベルトが当選すると、彼の生みの母ゼームス・ルーズベルト夫人がジューイッシュメタルを贈られ、ニューヨークユダヤ協会の名誉会員に推薦され、その祝賀式典の式上で、ニューヨーク市長ラガーディア(ユダヤ人)は全ニューヨークユダヤ人の名において金牌を贈与したのである。これに対して母親は金一封を謝礼として贈っている。 さらに、シオン組合の前会長ルイス・リプスキーは同夫人はアメリカの躍々たる勇敢なる指導者を生んだとの讃辞を呈し、マイロン・ザルツバーガーは夫人は単に米国の母として偉大なるのみならず、世界の母として偉大となられることを希望すると述べている。 これに加うるに、メタルの鋳造がある。一九三三年三月四日に大々的に売り出されたこのメタルは表面にルーズベルトを演出し、裏面にダビデの星がきざまれているものである。 ルーズベルトの当選を待ちかねたように、せきを切ったごとくこのようなルーズベルト絶賛がユダヤ系市民から起こったのははたして偶然であろうか。 ルーズベルトを囲繞するブレーントラストがすべてユダヤ人でありその大部分が同時にマルクス主義者であったことは、日本でもよく知られていることである。 大部分はプライベートなブレーンであるが、見逃せないのは、国務、財務、労働の三つの重要な長官がルーズベルトのグループだったということである。国務長官のハルはユダヤ人ではないが、妻君がクーン・ロエブ商会のヤコブ・シフの親類の出身である。開戦後交換船で帰国した来栖大使が語ったように、ハルは圧力のため思うように政策がすすめられなかったのであった。野村大使ではとてもそんなハルの本音は聞き出せないだろうが、来栖大使の腕はさすがである。結局、ハルはがっちりルーズベルトに、いいかえればニューディーラーに組み入れられていたのであった。 つぎの財務長官モーゲンソーはユダヤ人である。戦後処理をめぐって対独強硬案を出した如く最もユダヤ的なユダヤ人であった。このモーゲンソーは、ルーズベルトの史上最大の赤字作りに最も貢献するわけである。 もう一人の労働長官はパーキンス女史である。彼女は、労働者に団結権を与え、階級闘争を激化させる要因をつくるのに貢献するのである。ロシア系ユダヤ人である。 これらの指導者がユダヤ人であるということは別章で述べた如くであり、共産主義を自己解放のための手段、道具として活用しようと考えるのは何ら不思議ではないはずである。なんの臆面もなく資本主義国アメリカで共産主義化政策を追求していたわけである。 これら三人のほかに、私的ブレーンが数多く存在したことは有名である。 ルーズベルトを囲繞するユダヤ人共産主義者群 ルーズベルトの取り巻き連の中で特に顕著なことは、俗流ラジカルといわれるユダヤ人マルクス主義者群である。 その代表格が、ウイーン生まれのフェリックス・フランクフルターである。彼は一八八二年ウイーンに生まれ、十二歳の時渡米しており、一九〇六年、ハーバード大学で法学士号をとり政界入りし、検事総長特別補佐、陸軍省法律顧問等を経て一九二〇年最高裁判事に任命されるまで、ハーバード大学教授であった。 一見、自由主義者の如き経歴であるが、実は彼は大学で盛んに革命思想を吹き込んでいたのである。特に、ユダヤ人学生を卒業後政府内の枢要な地位に推薦することに努力していた。 彼が最高裁判事に任命されるとルーズベルトの許へ多くの国民から抗議が寄せられたのであるが。ルーズベルトはそれらを握りつぶしたのである。当時、九名の最高裁判事の中の二人までをユダヤ人に占めさせたことは、重大な意義があったのである。 もう一人の最高裁判事ブランダイスも、ルーズベルトの私的アドバイザーである。彼は全世界シオン賢人会の会員であった。日本国憲法の事実上の草案作製者で現在ニューヨークで弁護士をしているケーディスは、これら二人のユダヤ系法曹人の弟子である。 バーナード・バルークについては説明の要もないほど有名であるが、兵器産業界の大立者であり、第一次大戦にアメリカが参戦したのもこのバルークの力が真に大きいのである。当時は、バルークの許可なしには工場一つ建てられなかったといわれる。第二次大戦中は、原爆の製造に尽力した。彼は米国のディズレイリ(英国のユダヤ人首相)と呼ばれており、アメリカのユダヤ人では最大の権力者といえよう。 第一次大戦中は、一九一七年、アメリカの参戦後間もなく軍需工業院総裁になり、全産業無制限的統括権を振るうことになった。軍需工場のすべてを掌握していたこのバルークは、A・A・ハウスマン銀行の共同経営者になり、一九〇〇年、同銀行と手を切って、ウォール街の株式取引所の有力な地位につき、一方では、自己資金で株式売買や株式市場の不正操縦により暴利を稼いでいた。ウイルソン時代には、真の大統領はこのバルークではないかといわれたものである。 バルークは第一次大戦の扇動につづいて、なんとかアメリカを対独戦へ引きずり込もうと狂奔したのであって、彼の場合、単にドイツのユダヤ人救出だけでなく、戦争による尨大な金権支配力を得ようとしていたのである。死の商人とは、彼のためにつくられた言葉かも。 第一次大戦後、上院の一委員会が大戦の前史的事態について調査し、バルークを喚問した際、彼は上院議員J・ハリスの質問に答えて次の如く公言してはばからなかった。 「最後の決定権は自分にあったので ― つまり陸軍と海軍とが所要の軍需品を供給されるか否かは自分次第 ― 鉄道が果して莫大な輸送に耐えうるか否か、連合国が所要の機関車を米国で手に入れることができるか、それとも、ロシアかフランスで製造させる以外に手がないか否か ―― それらはすべて自分次第で決まるのだ」。同時にまた、「大戦中、自分以上の権限をもった奴がいたかどうか聞くのは愚である」とも。 彼は一九三八年、南米からの帰途、ドイツはアメリカ侵略を目論んでいる、ドイツ軍のアメリカ侵略は近いとして、対独戦参加の伏線をしいていた。 レックス・ジー・ダッグウェルはコロンビア大学教授であり、マルクス主義経済学者として知られ、ソ連とも近い人物であった。 レーモンド・モーレーはコロンビア大学教授であり、ブレーントラストの表面的首魁である。 一九三三年五月二日、下院議員ハミルトン・フィッシュはルーズベルトのブレーントラスト群の中のレーモンド・モーレー、ガイ・ダグウェル、モルデカイ・エゼキル、ウイリアム・ブリットの相互連絡について発表している。 ダグウェルは、社会主義者スチュアート・チェーズと共産主義者ロバート・ダンと協力して「第二回十年計画下のソ連」を出版したことがあり、これら三人の学者は密接な関係を保っていたのである。ダグウェルの親友である社会主義者のスチュアート・チェーズは「ニュー・ディール」の著者であり、アメリカのソ連化を企図していたのであった。 ダグウェルは、かつて社会主義者の仲間として訓練されたことがあり、コロンビア大学経済学教授として、また社会党の機関誌「新共和」の寄稿家として活躍していたのである。 彼は共産主義化の方向へ進めることに全力をあげており、米国民もロシア人も両者間に性格の相違点は見出せず、したがって米国でもロシア同様の革命が可能であるという意見をもっていた。これすなわちユダヤ革命のことであり、共産主義云々というのは所詮建前論であり、カモフラージュにすぎない。 次の問題人物はレーモンドである。コロンビア大学に講座をもっており、常にルーズベルトの腰巾着であった。 農務長官顧問モルデカイ・エゼキルは、ダグウェルの影武者として農業問題についてはユダヤの計画の代表者であり、米国の農業計画はユダヤの利益のために進められていたのである。戦後日本で農地改革をしたラデジンスキーはポーランド系ユダヤ人であり、彼の弟子で、当時農務省にいたのであった。国務長官補佐となったウイリアム・ブリットについては別に述べるが、彼はまたレーモンド・モーレーの親友であり共産主義者リンカン・ステフェンズの親友でもあり、長らくソ連にありレーニン、チチェリン、リトヴィノフと交渉していた。 ブリットは一九三三年初代駐ソ大使になっているが、彼の腰巾着が共産党員のリンカン・ステフェンズである。彼は一九一七年のロシア革命の時代にはトロツキーと共にロシアに渡り革命のため画策するところあり、莫大な資金がアメリカ政府から出ていた。アメリカがソ連の助産婦ともいわれるゆえんである。 』 ![]() ![]() ![]() この本の230〜232ページから引用します。 『(前略) 日本への原爆投下は、一九四四年九月十八日、ルーズベルトの私邸でルーズベルトとチャーチルの間で決定されている。チャーチルが反対したかどうかはつまびらかでないが、とにかくルーズベルトが最終決断している。戦後しばしば日本への原爆投下について、これはソ連の進出に対する牽制であるといった理由付けが行われているが、これは全くのウソである。 原爆搭載機「エノーラ・ゲイ」は天皇を抹殺せよ その証拠を示そう。広島へ原爆を投下したB29の腹に書かれてあったあまり見なれぬ二語がある。Enola Gay がそれである。 この意味はほとんど日本では知られていないようである。それはイディッシュ語である。イディッシュ語とは中東欧のユダヤ人が使っていた言葉で、現在はニューヨークのユダヤ人の間で多少使われている程度であるが、第二次大戦前まで中東欧で非常によく使われていた言語で、ヘブライ語、ロシア語、ドイツ語の混血語といえよう。 さて EnolaGay の意味であるが、「天皇を屠れ」がそれである。ユダヤ勢力が君主制を国家破壊のため非常に重要な第一段階と考えていることは再三触れたが、日本の「天皇制」は第一次大戦でロシア、ドイツ、オーストリー・ハンガリーの三大王冠を射落した後残るのは日本の「天皇制」であったことも触れたが、いよいよ最後の目的を達しようとするわけである。 戦局の行方は問題ではなかった。君主制廃止への最後の攻撃である。ただし、これは天皇を直接宮城攻撃によって抹殺するという意味では勿論ないが、いずれにせよ、これがユダヤ勢力の筋書通り運ばれたという事実はこれで証明される。 さて、ルーズベルトは原爆投下を見ずして他界するのであるが、そのエピゴーネン達はGHQに乗り込んで「日本改革」を行なうことになる。 』 |
![]() ![]() ![]() ![]() ○コミンテルン ・三田村武夫 著「大東亜戦争とスターリンの謀略」自由選書、1987年 (注:原著は1950年「戦争と共産主義」。GHQによって発売禁止になったらしい。) ![]() ・ジェーン・デグラス 著・編「コミンテルン・ドキュメント T 1919-1922」荒畑寒村・大倉旭・救仁郷繁 訳、現代思潮社、1969年 ・ジェーン・デグラス 著・編「コミンテルン・ドキュメント U」荒畑寒村 訳、現代思潮社、1970年 ・ジェーン・デグラス 著・編「コミンテルン・ドキュメント V 1929-1943」対馬忠行・雪山慶正・石井桂 訳、現代思潮社、1972年 ![]() |
![]() ![]() ![]() 『当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測。対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関昭和研究会へ参加することとなる。以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けになる。』 |
・リヒアルト・ゾルゲ 著「リヒアルト・ゾルゲ獄中手記」岩波現代文庫、2003年![]() ・ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア 共著「ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動」中西輝政 監訳、山添博史・佐々木太郎・金自成 訳、PHP研究所、2010年 |
この本で指摘されているソ連のスパイたちのなかから、主な人物をピックアップしてみます。 ・ハリー・デクスター・ホワイト 〜 財務省のナンバー2 ![]() ・アルジャー・ヒス 〜 ![]() ・ジュリアス・ローゼンバーグ 〜 マンハッタン計画の中心的人物 ![]() |
![]() ・山口富永 著「告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派」国民新聞社、2010年 ○中国共産党の歴史 ・ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」土屋京子訳、講談社、2005年 ・石平著「なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか」ビジネス社、2012年 ![]() ![]() ![]() ![]() ・北海閑人 著「中国がひた隠す毛沢東の真実」寥建龍 訳、草思社、2005年 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・李志綏 著「毛沢東の私生活 上・下」アン・サーストン 協力、新庄哲夫 訳、文藝春秋、1994年 ○ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」(土屋京子訳、講談社、2005年) 〜一読をお勧めします。 この本を読むと、毛沢東と中国共産党が発足当初からすでに残虐な体質を持っていて、国共内戦時からすでに、共産党内の権力闘争にあけくれ、占領地域に過酷な恐怖政治を行い、多くの人々を拷問・処刑・殺害等し、その事実を隠蔽し歴史をねつ造している、ことが書かれている。 |
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p179 から引用。 『 その後、歴史は完全に改竄(かいざん)され、現在では、愛国的で抗日に熱心だったのは国民党よりも中国共産党のほうである、ということになっている。「統一戦線」や「一致対外」を提案したのも、国民党ではなく中国共産党であった、ということになっている。これらはすべて真実の歴史ではない。』 (注:柳条湖事件(満州事変)が勃発したとき、一致抗日を呼びかけたのは蒋介石で、共産党はこれに応じなかった、というのが真実であると書いている。) ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p237 (孫文夫人の宋慶齢についての注釈部分) から引用。宋慶齢はソ連のスパイだったと書いている。 『★宋慶齢は、蒋介石夫人宋美齢の姉である。宋慶齢の長い生涯を通じて、彼女がソ連のスパイであったという事実は秘されており、今日なおほとんど知られていない。しかし、一九三七年一月二六日に宋慶齢から在モスクワ中国共産党代表団長で宋慶齢のコントローラーだった王明(ワンミン)にあてた秘密書簡が、彼女の役割を疑う余地なく示している。書簡は次のような書き出しで始まっている。「王明同志へ。親愛なる同志、お伝えしなくてはならない事実があります。これによってわたくしの……中国における近い将来の活動が危険にさらされる可能性があるからです……ここにお知らせする事実について考慮いただき、どうすべきか助言をいただければ幸いです……」。書簡に記された内容のひとつは、コミンテルンのアメリカ人スパイ、アグネス・スメドレーに関する苦情だった。宋慶齢は、スメドレーが「外国人シンパを次々と家に連れてくるので、せっかく重要な目的に使われてきたこの家が使えなくなってしまいました……彼女を隔離するようにとのご指示を[中国共産党に]通知しておきました」と書いている。』 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p301 (張作霖暗殺についての注釈部分) から引用。張作霖暗殺はソ連の仕業だったと書いている。 『★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。』 ![]() ![]() ![]() ![]() この対談のなかで、プロホロフ氏は、「サルヌインだけではなく、他のソ連の工作員のエージェントも関東軍に入り込んでいました。これは事実です。」、「日本軍に属していたエージェントが、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます。」などと述べている。 ![]() ![]() ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p309 (賀龍(ホーロン)の率いる紅軍第二方面軍が、湖南・湖北の省境に根拠地を構えていたこと、についての注釈部分) から引用。この根拠地で行われた粛清について書かれている。 『★この根拠地においても、一九三二年から一九三四年にかけて残虐な粛清がおこなわれた。賀龍自身が、「この一回の粛清だけで、一万人以上が殺害された。現在[一九六一年]、この地には少数の女性同志が生き残っているが、これは、男性が先に殺害されたあと……[粛清者が]女性にとりかかる前に敵が来たからである……」「今日でも、この地域では……大きな穴から次々と人骨が掘り出されている」と回顧している。生存者たちの回想によると、多くの人間が「麻袋(マータイ)に入れられ、大きな石を縛りつけられて、洪(ホン)湖に投げ込まれた。漁師はこの湖で漁をしなくなった。あまりに多くの死体が浮いたからだ。湖の色も変わった」という。 』 ![]() ![]() |
○ドミトリー・プロホロフ ![]() ○主体思想 ![]() ・『月刊Hanada 2019年10月号』所収の篠原常一郎「スクープ! 文在寅に朝鮮労働党秘密党員疑惑」 ![]() ![]() ![]() ○スパイ工作・洗脳工作 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 日本(戦前) ![]() ![]() ![]() |
・アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ(ユダヤ系スペイン人)![]() ![]() ・三浦文夫(当時は、駐スペイン公使館の一等書記官) ![]() |
ソ連 ・ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア 著「ヴェノナ」中西輝政・山添博史・佐々木太郎・金自成 訳、PHP研究所、2010年 |
![]() ![]() ソロモン・アドラー ハロルド・ウェア ラフリン・カリー 冀朝鼎(きちょうてい) フランク・コー マイケル・ストレイト I・F・ストーン 陳翰笙(ちんかんしょう) ユージン・デニス フランツ・ノイマン アドルフ・バーリ ドリュー・ピアソン T・A・ビッソン フレデリック・バンダービルド・フィールド ルイス・ブデンツ メアリー・プライス 宮城与徳(みやぎよとく) ダンカン・リー ポール・ロブスン ウィリアム・ワイズバンド |
1941年 COI(情報調整局/ドノヴァン将軍)→ 1942年 OWI(戦時広報局:米国内および連合国向けのプロパガンダ)とOCIAA(米州諸国問題調整局:中南米を対象とした情報分析とプロパガンダ/ネルソン・ロックフェラー)に分割、1942年 OSS(戦略事務局:対外情報の収集と分析・秘密工作・特殊工作・敵国へのプロパガンダ/ドノヴァン将軍)→CIG(中央情報グループ)及びOPC(政策調整局)→1947年CIA (出典:ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア 著「ヴェノナ」275〜276ページ、およびWikipedia) |
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![]() ![]() ![]() ○竹内睦泰 ![]() ![]() ![]() |
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(参考) ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○田中英道 ・田中英道 著「戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」 二段階革命理論と憲法」展転社、2011年 ・田中英道 著「戦後日本を狂わせた反日的歴史認識を撃つ」展転社、2016年 ![]() ![]() |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・大林太郎? |
・パトリック・J・ブキャナン 著「病むアメリカ、滅びゆく西洋」宮崎哲弥 訳、成甲書房、2002年 ・ヘンリー・キッシンジャー 著「WORLD ORDER 国際秩序」伏見威蕃 訳、日本経済新聞出版社、2016年 |
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・ヒレア・ベロック 著「ユダヤ人」渡部昇一 監修、中山理 訳、祥伝社、2016年 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○福澤諭吉(1835-1901) ![]() ![]() ![]() ![]() ○石原莞爾(1889-1949) ![]() ![]() ![]() |
1940年(昭和15年)5月29日に行われた講演の内容がベースになっているらしい。1940年というのは、日中開戦(1937年)の後、ドイツのポーランド侵攻(1939年)の後、日米開戦(1941年)の前である。実にスケールの大きな論理展開で敬服するとともに、この論旨のほとんどが現在においても当てはまることに気づかされます。 石原莞爾は、歴史における文明の大きなうねりを達観した上で、最後に最終戦争が行われて「世界統一の指導原理の確立」と「全人類の永遠の平和」が実現すると予測している。その担い手はおそらく日本の主導する東亜であろうと記述しているのであるが、残念ながら日本は敗れ、アメリカが世界の覇者となった。しかし、いまだに「世界統一の指導原理の確立」と「全人類の永遠の平和」は実現していない。アメリカの自己中心的な正義観では、イスラム教徒や中国などを心腹させることができないようにみえます。 これからもう一度「最終戦争」が行われるのか、それとも軍事力によらずに、政治の力や世界経済の一体化などによって平和裏に「世界統一の指導原理」が確立されるのか、当サイト管理人には解りかねますが、キーワードは「道義」だろうと思います。世界中の人々が受け入れることのできる道義感(思想・哲学・倫理観)がなければ、「世界統一の指導原理」とはなれないでしょう。現在の日本の価値観は、この世界標準となるべき道義感に最も近いのではないかと当サイト管理人は考えています。ただし、日本が他者に押しつけてはいけません。良いと認められれば、おのずから真似られるでしょう。また、日本独自の要素(特に神道)をはずして、世界共通の価値観となる必要があると思います。まず世界中が完全に政教分離を行ったうえで宗教の自由を認め、汎神論(アニミズム)を基本原理としてこの多数の神々のなかにユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・ヒンズー教・日本神道の神々などを全て包み込んでしまう形にもっていくことがどうしても必要になるだろうと、当サイト管理人は考えています。 なお、この石原莞爾の文章のなかから、当サイト管理人の心に響いた記述を、いくつか書き出しておきます。 『明治維新後、民族国家を完成しようとして、他民族を軽視する傾向を強めたことは否定できません。台湾、朝鮮、満州、支那に於て遺憾ながら他民族の心をつかみ得なかった最大原因は、ここにあることを深く反省するのが事変処理、昭和維新、東亜連盟結成の基礎条件であります。』(第三章から) 『(前略)しかし断わって置かなければならないのは、こういう時代の大きな意義を一日でも早く達観し得る聡明な民族、聡明な国民が結局、世界の優者たるべき本質を持っているということです。その見地から私は、昭和維新の大目的を達成するために、この大きな時代の精神を一日も速やかに全日本国民と全東亜民族に了解させることが、私たちの最も大事な仕事であると確信するものであります。』(第六章から) 『明治維新は日本の維新であったが、昭和維新は正しく東亜の維新であり、昭和十三年十二月二十六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。』(第六問に対する回答から) |
![]() ・高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年。これは復刻版で、元本は錦文書院1954年。)から、いくつか引用します。 |
(注:高木清寿は、報知新聞記者の出身で、その後石原莞爾の側近となり、石原莞爾の構想する東亜連盟の活動などにも参加していたようです。) 高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p112-113 から引用。太字は当サイト管理人による。 『 軍閥を倒すに自ら軍閥を造らなかった尽忠の石原将軍は、もちろん二・二六事件には関係がなかった。しかるに岩淵辰雄氏の如きはいかにも将軍がこれに関係した軍閥の一人であり、「橋本欣五郎大佐、土肥原賢次大将(当時少将)等と帝国ホテルで、後継内閣を協議した」などと全く事実無根のデマを流布している。将軍も生前これに対して憤慨し、「岩淵が書いたもので事石原に関する限り全部嘘だ」といって居られた。私は岩淵氏の良心を疑うものである。また重光葵氏はその著「昭和の動乱」の中で、将軍が、事件鎮圧に向った将兵に、叛乱を煽動する演説をしたなどと嘘偽を報道している。 共に驚くべき人たちである。立野信之氏著「叛乱」にも同様の誤りを伝えている。さらにまた山口重次氏著の「悲劇の将軍石原莞爾」の中に、満州事変当時、関東軍に在って、参謀本部の橋本欣五郎大佐らの桜会をおどらしたとの記事は、全く事実無根、将軍を誤るもはなはだしいものである。 』 高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p116 から引用。 『 日華事変は、事変勃発当初に、「中国の抗戦意志がつよければ予測をゆるさぬ長期持久戦争となる。半年から一ヵ年後には戦線は中国全土におよび、数年後には日本は世界戦争をまき起してかならず日本の命とりになる。」と石原将軍がその見透しを予告した通りの持久戦争であった。 持久戦争は政治(政略)価値が第一義であり、戦略は第二義以下になる。それにもかかわらず、軍首脳部を占めていた軍閥が正しく軍事学を把握していなかったこと、および政治家が軍事学の知識に欠けていたために、軍閥に強引に武力第一主義で押し通され、政略が圧倒されてついに軍閥独裁政治にまで堕落して敗戦にいたった戦例である。 持久戦争には、戦争目的の確立と、攻勢の終末点をどこにおくか、この二つが大切な問題である。 しかしここで石原将軍がなにゆえに最後まで日華事変に反対し、また大平洋戦争にも反対阻止したのか、その言論行動を知ることは、将軍の戦争観を理解し、日本敗戦の根本原因を知るために、必要不可欠なことである。 』 高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p120 から引用。 『「ところがその後日本は、『満州は我々日本の生命線である。』とスローガンばかり叫んでいた。支那事変が始まるまでの六年間の、満州における日本の兵備増強は、遺憾ながらきわめて微々たるものであった。これに反してソ連は、極東兵備を黙々として、音無しの構えで、一つの宣伝もなくやったのだ。そしてその極東兵備充実に伴い漸次その態度を硬化して、昭和八年すでにスターリンは、 『ソ連は外国の寸土をも必要としないが、わが国土は断じて守る』 旨を強調し、昭和十年には極東における日本とソ連の戦争力はたいへんな差を生じていた。 その後の二年間でソ連はさらにひそかに猛烈な兵備を増強し、空軍・機械化部隊の大拡張、海軍の再建を行い、ウォロシロフ国防相が、 『一旦緩急あれば断じて敵国土内において、その攻略企図を粉砕すべし』 と豪語するに至ったのだ。 昭和十二年の夏には北満における彼我の兵備の差は、甚だしくなって、外国人の書いたものによると、その比が一対五、一対十といっている。これが世界の常識となっていた。 私は昭和十年八月参謀本部作戦課長を拝命して、日ソ兵備の主客地位を顚倒しているこの状態を知って実に驚いた。これが支那事変で蒋介石氏が徹底的抵抗を決心した最大原因であると私は睨んでいる。」(石原将軍談) 』(注:太字部分は引用元では傍点となっている。) 高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p182-183 から引用。 『(前略)ある時、中野正剛氏が私にこんな話をした。 「今日汽車の中で橋欣(橋本欣五郎大佐)に会ったよ。彼は淡泊な男だから実におもしろいことをいっていた。俺は彼に、 『君は陸軍大学の優等生で恩賜の軍刀を頂いた一人だと聞いているが、石原閣下も軍刀組だそうだね。私は陸軍の軍人をあまり知らないがみな同じように大将中将の肩章をつけてしまうと、どの人がどれだけ偉いんだか判らない。そこで素直にきくが同じ軍刀組でも、石原閣下と比較して君は一体どうなんだね。』とたずねて見た。彼は、 『君、冗談ではないぞ、石原閣下とこの俺を比較するなんて、それはお月様とすっぽんの差がある。第一いまの陸軍の中に石原閣下の足下に追いつける者なぞ一人もいない。板垣閣下(征四郎大将)だって誰にしたって、石原閣下の数十段下の人さ。同じ軍刀組だって一(ピン)から十(キリ)まである。石原という人は日本陸大はじめて以来の傑物なんだ。それと比較されては困るよ。』 といっていた。軍人というものは嫉妬心が強くてなかなか他人をほめないものだが、橋欣は石原閣下をほめていた。橋欣も淡泊でいい男だね。」 と語ったが、陸軍部内で将軍の価値を知る者にとっては、誰れしも将軍が現役を去ることを惜しまない者はなかった。(後略)』 |
・石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」(原書房、1988年)から、引用します。 |
石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」(原書房、1988年)に収められだ寧柱著「9 石原莞爾の人と思想」p227 から引用。(注:゙寧柱は、石原莞爾の支持者だったようです。) 『 東條と右翼の迫害がはじまった。内なる燻(くすぶ)りが表面化したのである。主に、石原への迫害であった。 東條の反感を買ったのは、マインカンプと戦陣訓である。ヒットラーの華々しい進撃を藉(か)りて、大陸進攻に国民を焚きつけている矢先、マインカンプに水をさすのは自分への反撃である。ましてや、戦陣訓の理非を論じられては別して、自分の命とりである。 かれは石原の去就をはかり、憲兵を放って動向をさぐった。いちいち言葉をチェックして揚足とりに熱中した。 右翼とりわけ極右は、石原をあしざまに罵倒した。平和主義・反戦論・非国民・アカ・反国体・果ては朝鮮独立で明治大帝に弓ひく国賊だ、と口の限りをつくして罵った。 』 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○中村 粲(なかむら あきら) ![]() ・中村粲 著「大東亜戦争への道」展転社、1990年 ・中村粲・松本健一・江藤淳・総山孝雄・上杉千年 ほか 著「大東亜戦争の総括」展転社、1995年 ・中村粲 著「教科書は間違っている―沖縄「集団自決」・シンガポール「虐殺」の真相」日本政策研究センター、2005年 ![]() ![]() 〜南京事件、ねつ造写真、731部隊、慰安婦問題、朝鮮人の面長(村長)が行った強制連行、NHKと朝日新聞の偏向報道など。 ○江藤淳 ・江藤淳 著「閉ざされた言語空間−占領軍の検閲と戦後日本」文春文庫、1994年 ・江藤淳 著「忘れたことと忘れさせられたこと」文春文庫、1996年 ・江藤淳 著「一九四九年憲法−その拘束」文春文庫、1995年 ![]() ○西尾幹二 ![]() ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封」徳間書店、2008年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封2」徳間書店、2008年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封3」徳間書店、2009年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代」徳間書店、2010年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日」徳間書店、2011年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜」徳間書店、2011年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封7 戦前の日本人が見抜いた中国の本質」徳間書店、2012年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封8 日米百年戦争」徳間書店、2013年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封9 アメリカからの「宣戦布告」」徳間書店、2014年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封10 地球侵略の主役イギリス」徳間書店、2014年 ・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」徳間書店、2015年 注:GHQ焚書図書開封のシリーズは、文庫版(徳間文庫カレッジ)が出ているようです。 ・西尾幹二・青木直人 著「第二次尖閣戦争」祥伝社新書、2012年 ・西尾幹二著「決定版 国民の歴史 上・下」文春文庫、2009年 〜「日本から見た世界史」を描くべきだとして、様々な切り口を提示している。 |
この本の「上巻付論」の章で、日本本来の規範・原理について考察し、次の記述がある。 「自他の区別を明確にして、自分の拠って立つ原理を世界に訴えかけるなどということは、日本人には夢にも考えられない。それでいて外来のものを終始意識しているということは、逆に言えば自己本来のものが先に存在しているということに気づいているためではないでしょうか。さりとて、それをはっきりはさせない。」(上巻p479-480)。 「規範がない、原理がないというこのことは、日本民族の場合、必ずしも弱点ではないのではないかということを私は言いたいのです。」(上巻p486)。 ( 当サイト管理人の意見: 西尾幹二氏は日本本来の規範・原理という点を強調しているのですが、それが何であるかを掴みかねているように私には見えます(注:失礼で、申し訳ない。)。当サイト管理人の意見は次のとおり。 日本民族の拠って立つところの根本は、古代(神代)から現代にまで続く民族の歴史と、日本民族全体が親戚であるかのような意識にあると思う。これは、「神道」「国体(天皇)」「古事記」「日本書紀」などに良く現れている。日本民族の自信と誇りがここにある。そのために命を捧げた英雄が、日本の歴史のなかに多くいる。そして、終戦時に日本政府が「国体護持」を最後まで要求し続けたことの、意味するところは実に重たい。 したがって、これは、全くもって「規範」や「原理」というようなものとは異なる。「規範」や「原理」ではないから、これを外国人に対して論理的に説明することは難しい。日本民族の誇りであるから、これを他民族に理解しろというのも難しい。そしてまた、原理主義的でないがゆえに、何でも良いものを取り入れることができる。何が良いかは自分で考えなさいというのが、原理主義的ではない神道の本質だと思う。 ) |
・西尾幹二著「日本人はアメリカを許していない」ワック(WAC)、2007年 〜「沈黙する歴史」(徳間書店、1998年)の改題・改訂版 |
この本のなかで、次の書籍なども紹介されている。 ・江藤淳著「閉された言語空間」文藝春秋 ・高橋史朗著「検証戦後教育」広池学園出版部 ・サミュエル・ハンチントン著「文明の衝突」 ・ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」 ・石坂洋次郎著「青い山脈」1947年に朝日新聞で連載された小説 ・アメリカ国務省が発表した文書「平和と戦争」1943年 〜注:GHQ史観の出発点か? ・日本の文部省著作「新しい憲法の話」1947年 ・日本の文部省著作教科書「民主主義」1948年 |
・西尾幹二著「日本人は何に躓いていたのか」青春出版社、2004年 〜当サイト管理人としては、賛同できる部分と賛同できない部分とがあるが、その独特の視点は今日において一層重要性を増していると思います。 ・西尾幹二著「歴史を裁く愚かさ」PHP研究所、1997年 ![]() ![]() ![]() |
上の2つの動画では、「米國の世界侵略」大東亞戦爭調査會編、毎日新聞社、1944年刊(注:GHQが真っ先に焚書した10冊のうちの1つと、西尾幹二氏は述べている。)について紹介している。 |
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日中共同歴史研究に対する批判の動画で、次の書籍をベースに紹介されています。 西尾幹二・福地惇・柏原竜一・福井雄三著「自ら歴史を貶める日本人」徳間ポケット(新書)、2012年刊。 支那事変(日中戦争)について興味深い話が多いのですが、特に、西安事件にイギリスが係わっていた可能性があるとの主張は初耳でした。 1936年に中国で起きた西安事件(張学良が蒋介石を拉致監禁した事件)については、ソ連の関与があったであろうと一般的にみられていますが、上の動画(15分15秒付近から)で西尾幹二氏はイギリスが関与した可能性のあることを指摘している。その趣旨は以下のとおり。 1936年から始まったスペイン内戦で、ソ連が人民戦線政府を支援し、独伊が右派の反乱軍を支援した。日本は日独防共協定を結んで反ソ親独の立場を取った。イギリスはまだ態度を明確にしていなかったが、その後の第二次世界大戦においてソ連と連携している。こうした状況のなかで、イギリスはアジアにおいて、背後から西安事件を画策したのかもしれない。中共軍の討伐をしていた張学良は、英米系ユダヤ工作によってコミンテルンと秘密協定を結んだのかもしれない。イギリスはこの危機に乗じて中国の金融経済力を独占しようとしたのだと思う。西安事件以降、蒋介石は反共から第二次国共合作へ方向転換し、イギリスとソ連は中国国民党政府を支援していく。イギリスとソ連が手を組むという第二次世界大戦の構図が、西安事件の怪しげな動きのなかにある。 ![]() |
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この動画のなかから、重要と思われるポイントをまとめてみました。なお、著書「GHQ焚書図書開封」(第一巻)の第一章も参考にしました。 ・General HeadQuarters , Supreme Commander for the Allied Powers GHQ(=総司令部) SCAP(=連合国軍最高司令官) the Confiscation of the Propaganda Publications (宣伝用刊行物没収) ・焚書の対象は、1928年(昭和3年)1月1日〜1945年(昭和20年)9月2日に出版されたもの(約22万点ある)。 ・22万1723点(対象期間中の出版数)→9288点(当初。日本側の協力?)→7769点の没収リスト(GHQが提示。1948年(昭和23年)6・7月ころ)→文部次官通達→県知事→没収官(現場の教師は含めない。当事者以外には秘密裏に没収する。) ・(注)この7769点のGHQ没収リストは、48回に渡って発出されたGHQ指令(覚書)の合計であるが、これには重複があり、これを除くと約7100点ほどであると、西尾幹二氏が後の動画で述べています。(どの回だったか調査中) ・日本の帝国図書館(現在の国立国会図書館)のリストを使って絞り込みか。 ・帝国図書館館長であったオカダさんの回想記「終戦直後図書館界大変動期の回顧」が発見された。これによると、出版物追放に関する調査のための小委員会が設けられ、その主なメンバーは、外務省の田中政治部次長、外務省の矢野事務官、内閣終戦連絡事務局の太田事務官らが担当で、専門委員として東京大学の尾高邦雄助教授、金子武蔵助教授、帝国図書館の岡田温(ならう)館長。小委員会の上にある本委員会は、委員長牧野英一の主宰で、首相官邸内会議室で開かれた。いずれも秘密会議だったらしい。 ・GHQ > 民間検閲部隊(CCD) > プレス・映像・放送課(PPB) > 調査課(RS)=没収図書指定リスト作成班(米軍属6人(うち将校2人)。日本人を常時9〜25人雇用。) ・没収行為は、1946年(昭和21年)からスタートし、いつまで続いたかは不明(講和条約のころか?)。 ・民間人一般家庭にあるもの、図書館にあるものは除外。 ・没収した図書→アメリカのワシントン文書センター→アメリカ議会図書館 ・検閲した文書→アメリカのメリーランド大学→プランゲ文庫→国立国会図書館(日本?)がマイクロフィルム化 |
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この動画の52分25秒付近から、「利によらず義によっている人を十人挙げてみよ」と言っている。 そこで、当サイト管理人が考えるところにより、現代における十人を挙げてみます。 安倍晋三・稲田朋美・明石康・山中伸弥・水島聡・西尾幹二・高山正之・田母神俊雄・水間政憲・青山繁晴 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・仲小路彰 著「太平洋侵略史 1〜6」国書刊行会、2010年(復刻版) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
この動画で紹介されている、フリップから引用します。 『 内田良平の「支那観」 一、平気でウソをつく。 二、平然と恩人を裏切る。 三、歴史事実を故意に改変する。 四、約束を守らない。 五、身内・仲間は大事にするが、「外部」は騙す。 六、敵を分断し、陰謀を常に仕掛ける。 七、自分本位に思考し、自己利益のみを追求する。 八、社会構成が「聖人主義」であり、平等思想を認めない。 九、その地位についたものは地位を利用し私服を肥やす。 』 |
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・長野 朗 著「支那三十年」大和書店、昭和17年 |
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・野田毅 著、溝口郁夫 編「南京「百人斬り競争」虚構の証明 野田毅獄中記と裁判記録全文公開」朱鳥社、2011年 ・溝口郁夫 著「秘録・ビルマ独立と日本人参謀 野田毅陣中日記」国書刊行会、2012年 |
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・関野通夫 著「日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦」自由社(自由社ブックレット)、2015年 |
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このブログに書かれている西尾幹二著「GHQ焚書図書開封」の一部抜粋から引用(孫引き)。 『(前略) 考えてみればGHQによる「検閲」や「焚書」も、何をせよの命令ではなく、なにをするなの禁止の最も徹底した形態であり、思想破壊の極限とでもいうべきものです。ことに「焚書」は何十年か先を見越した、時間とともに効果の出てくる時限爆弾の一つであります。おそらくそのせいでしょうが、皇室、国体、天皇、皇道、神道、日本精神といった文字が表題にある書物は、正確に数えてはいませんが、500点ほどはあり、虱つぶしに廃棄していたことに、占領軍による信仰破壊の先を見抜いた見取図があったように思えてなりません。おそらく日本以外の他の被占領軍に対するアングロサクソンの伝統的な統治手法が踏襲されたのかもしれません。日本がフィリピンや韓国のように簡単にキリスト教に改宗しなかったのは、2000年以上に及ぶ仏教や人道の歴史の深さによるのだと考えるべきです。 とりわけ戦意形成の17年間の歴史を日本人の前から消して目隠しをかぶせてしまう「焚書」は、魂の深部を壊す悲しい行為でした。しかしそれだけではなく、占領軍が新しい歴史を教え込む前提でもありました。アメリカ産の歴史の見方、すなわち満州事変より後に日本は悪魔の国になり、侵略国になったため、本当は戦争をしたくない平和の使徒アメリカがいやいやながらついに起ち上がって悪魔を打ち負かした、というばかばかしい「お伽噺」を日本国民の頭に覚え込まるのにはどうしても必要な手続きでした。 やがていつの間にかアメリカが民主主義を与えてくれて日本を再生させたという迷信に、一億国民が完全に支配されてしまうのです。 いいかえれば、昭和20年(1945年)より後にもひきつづき言葉と謀略による戦争、「戦後の戦争」が続いていたといってよいのです。GHQの民間検閲支隊(CCD)はそのための最前線の舞台であり、6人の調査課(RS)は白兵戦の尖兵の位置にあったといっていいでしょう。面白いことに昭和21年にはやくもGHQ側に不安が生じ、焚書の実行に不首尾の感情があったということは、日本人のなかに秘かな抵抗、占領軍に対する表立たない不服従の意識が働いていたことをも意味しないでしょうか。さりとて全体として日本人は目隠しされて服従することに少しずつ馴れていき、昭和23,24年の頃にはいつの間にかアメリカ万歳になっていくのです。GHQの戦略の勝利か、日本人のいい加減さの屈服か、このあたりは心の奥にある秘密と関わっているので、解明しようとしてもどうしても解明し尽くせない、いちばん分かりにくい、戦後史の謎に属する部分です。 日本の一般国民には広く不服従の感情があったことは、少年時代の私の記憶にもありますが、アメリカの占領政策に無抵抗で、いちばん脆かったのは、残念ながら指導階級ではなかったかと思います。ことに知識人、学者や言論人といった知的指導階級の弱さは恥ずかしいばかりです。その意味で東京大学文学部をはじめ、牧野栄一のような戦前から一流と目された法律学者の公職追放などへの対米協力は改めて検討され、処断されるべきでしょう。金子武蔵、尾高邦雄が個人として何をしたかは証拠不十分ですが、昭和21年〜22年当時の東京大学文学部には「集団としての罪」があります。 考えてみると彼らは国民に対する裏切り者ではありませんか。ナチス・ドイツに占領されたフランスのヴィシ―政権の協力者が戦後フランス国民から処断されたと同じ罪を犯し、同じ運命を辿るべき人々のはずなのです。 それがどういうわけか、日本ではそういう問題意識が生まれぬままに今日に至りました。敗戦国だからでしょうか。フランスも実は戦勝国とはとうてい言えない国家なのです。それはともかく、一国の歴史の抹殺、国民の正当な愛国心の破壊、文明の殲滅という点でナチス・ドイツとアメリカ占領軍がやったことの間には、非文明的行為という一点に関する限り、ほとんどへだたりはありません。 それに「文部次官通達」によると、都道府県知事に指名された地域のインテリ、教育に関係のある<現場教師以外>の知識人によって没収行為が行われたわけですから、各都道府県庁の資料室の倉庫の奥に昭和23年当時の「宣伝用刊行物没収官」の氏名リストが残っているケースも少なくないでしょう。彼らは何食わぬ顔で各地域の名士になってその後地位を得て活躍していたに違いありません。「宣伝用刊行物没収官」は誰であったかを今突きとめ、その使命を例え時期外れであったにせよ公表すべきです。この種の問題には時効はないのです。日本国民はそういう自責的なケリをきちんとつけないからいつまで経っても主体性ある国民として起ち上がれないのです。 』 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2013年(平成25年)4月4日に、日本外国特派員協会で行われた講演。西尾幹二さんが、従軍慰安婦問題に真正面から反撃しています。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
西尾幹二氏と花田紀凱氏の対談。慰安婦問題、ドイツ軍の慰安所、戦争と性など。日本以外の国の方が、数段にすさまじいが、完全に隠蔽されているようです。 なお、下のページで、この対談の後半の内容をまとめてみました。 ![]() |
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・西尾幹二著「GHQ焚書図書開封9 アメリカからの「宣戦布告」」徳間書店、2014年 ・ジェフリー・レコード 著「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」渡辺惣樹 訳、草思社、2013年 ・山内進著「文明は暴力を超えられるか」筑摩書房、2012年 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○伊藤貫 ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ・America's Strategy in World Politics: the United States and the Balance of Power, (Harcourt, Brace, 1942). ・The Geography of the Peace, (Harcourt, Brace, 1944). ・ニコラス・スパイクマン著「平和の地政学」奥山真司 訳、芙蓉書房出版, 2008年 |
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![]() ・村田良平 著「村田良平回想録 下巻」ミネルヴァ書房、2008年 |
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この動画(2分00秒付近から)の水間政憲氏の発言によると、松井石根は孫文とも交流があり、蒋介石が日本へ留学した際には下宿の保証人になったという。 |
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この動画(2/3)の7分12秒付近から、慰安婦問題と日本から韓国への経済支援との関係について。 この動画(2/3)の11分35秒付近から、終戦直後の日本での米軍による多くの強姦事件とGHQによる隠蔽工作について。 この動画(2/3)の19分45秒付近から、水間政憲氏の発言によると、昭和28年の国会議事において、@日本の独立(昭和27年4月28日)以降昭和27年12月までの8か月間で、日本での米軍による強姦事件は 1878件で、Aまた、米軍の司令官(仙台など)が知事に命じて売春パスポート(日本の厚生省は禁止)を発行させていたことが問題視されている。 |
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この動画に、日本占領軍のアメリカ兵による日本人強姦事件などについて、水間政憲 氏の発言がある。 |
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この動画(1時間00分29秒付近から)の水間政憲氏の発言によると、GHQによって公職追放された人数は約21万人(うち20万人はG項)で、公職追放されると3親等に及ぶので事前に自主退職した者もおり、これを含めると100万人以上(資料本の著者は200万人くらいとみているらしい)が排除された。 また、動画のなかで紹介している本は、高桑幸吉 著「マッカーサーの新聞検閲 掲載禁止・削除になった新聞記事」(読売新聞社、1984年)だと思われる。 ![]() このサイトによると、G項は「その他の軍国主義者・極端な国家主義者」で、さらに、次のような記述もある。 「(前略)G項は定義が不明瞭であり、誰でも追放しようと思えばできる。 三月一日の発表により、この点の明確化がなされた。 それによると、一九三七年から一九四五年八月の期間に政府の政策決定に関与した全閣僚を含むトップレベルのすべての官職が、 特に平和主義的であったと逆証されない限り、該当するとした。」(五百旗頭 真 著「占領期 首相たちの新日本」(読売新聞社、1997年)p188) |
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この動画(4の10分45秒付近から)の水間政憲氏の発言によると、リンドバーグの著書で、南洋諸島での米軍の日本兵に対する残虐行為について、「将軍が是認されていた」と書いているが、水間政憲氏の調査によると、この将軍はマッカーサーであるという。 また、この動画(5の01分07秒付近から)の水間政憲氏の発言によると、日本の特高警察が(確か)6004人がクビ(公職追放。1945年10月4日。)にされたが、それまでの間、特高警察は米軍の素行調査をしていた。米軍による強姦・輪姦事件を含むこの資料を水間政憲氏が手に入れた。その資料は、国会図書館(マイクロフィルムなので実名入り)と国立公文書館(ペーパーで黒塗り)とにあるという。また、この資料を調べているときに、ゴトウさん(注:SAPIOの記事によると下の本。)が1000人の被害女性から聞き取り調査した内容を1冊の本にまとめたものがあることを見つけて手に入れた。この本の内容の一部について、水間政憲氏が次のように紹介している(5の03分32秒付近から)。 『 武蔵野の11歳の小学生の女の子2人(注:「SAPIO」の記事では3人?)の、多摩川というか所沢の方で、強姦されて、何が起きたか分からない、気絶して、それで最後は顔を蹴られてただとかね、あとはね、大森の中村病院といって、今は道路とビルになっちゃってるんですけど、そこにはねトラック4台(注:「SAPIO」の記事ではトラック3台。1946年4月の事件。)で、米軍兵が200から300人くらい押し込んで、それで、妊婦だとか、看護婦さんから、まかない婦さんから、そういうのを全部で100人近くみんな強姦されてる。それで一番ひどいのは、生まれて2歳の子供(注:「SAPIO」の記事では、生まれて2日の子供。)、床にたたきつけられてられて殺されてる。 』 こうした内容を「SAPIO」に書いたが、取材に来たのはAP通信だけで、AP通信の記者は本の著者(ゴトウさん?)が入院していたが存命だったので本人に取材し、その結果を東京発で発信してくれた。それ以外の日本のメディアも保守言論人も一切触れないという。 (当サイト管理人による注: この「SAPIO」は、2007年4月11日号のようです。下のサイトで、水間政憲氏が、著作記事などを公開しているようです。 ![]() このサイトにある、「SAPIO 2007年4月11日号」の「秘史発掘! 封印されていた占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件」ファイル」と題する水間政憲氏の記事によると、上の動画で述べている1冊は「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)で、調査期間は1945年8月30日〜10月4日までのようです。 また、ここでいうゴトウさんの本は、SAPIOのこの記事によると、五島勉 著「黒い春 <米軍・パンパン・女たちの戦後>」1953年です。なお、当サイト管理人がネットで調べたところ、倒語社から1985年に出ているようですので、こちらは復刻版でしょうか?) ) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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(この動画の当サイト管理人的なまとめ) <初めて金になることを知った> ・1982年、教科書で「侵略」を「進出」に書き換えたとの誤報記事。 →翌年(1983年)から韓国へ約1,500億円(韓国の国家予算の破綻を救った)。 →中国にはお金を出していない。代わりに、日本政府の保証で、コウザン製鉄所(上海郊外に新日鉄が作った)のデフォルトを救い、新日鉄が助かった。 <南京問題> ・1982年秋、洞富雄(早稲田大学)著「南京大虐殺 決定版」 ・1984年、南京大屠殺記念館が開館 ・1984年、南京大虐殺のキャンペーン(「朝日ジャーナル」から始まった) →毎年、ODAがじゃんじゃん行くようになった。 <靖国問題> ・1984年?1月4or5日、朝日新聞が、中曽根首相の靖国神社公式参拝、を報道。 ・1985年8月15日の中曽根首相の靖国参拝に、文句を言う。 →(靖国問題・毎年ネタ) <慰安婦問題> ・1988年、ソウルオリンピック(このころ韓国経済の危機) ・1988年?、慰安婦問題が始まる 大分県に住む在日朝鮮人が、「朝日ジャーナル」に「慰安婦に謝罪せよ。」の広告(たて1本・15回)を出した。 →「朝日ジャーナル」に飛び火 → 「朝日新聞」の社会面に飛び火 ・1991年1月、吉見教授が慰安婦問題の決定的証拠発見したとの記事(実は悪い業者を取り締まれとの命令書) |
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この動画(3分12秒付近から)の水間政憲氏の発言によると、次のとおり。 日中国交正常化の1年前(注:1971年に当たる。)、(朝日新聞の)広岡(知男)社長が本多勝一に「中国の旅」の連載をやらせた。ここで「百人斬り」とか戦後初めて南京の問題が出た。朝日新聞が1980年代に南京大虐殺のキャンペーンを始めたきっかけになったのが、本多勝一「南京への道」(朝日ジャーナル・1984年4月13日〜)。この時の編集長が筑紫哲也で、筑紫哲也と本多勝一は朝日新聞の同期入社。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・水間政憲著「ひと目でわかる 「アジア解放」時代の日本精神」PHP研究所、2013年 |
水間政憲 著「ひと目でわかる 「アジア解放」時代の日本精神」(PHP研究所、2013年)p18 から引用。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人によるものです。 『 一九四一年十一月二十七日、米国は、それまでの日米交渉を一方的に潰す挑発的な「ハル・ノート」を、日本に突きつけてきました。その「ハル・ノート」を評し、当時のグルー駐日米国大使は回顧録で、「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と書き残しています。 米国は、「ハル・ノート」を出した翌日、ハワイ以外のフィリピンやグアム島などの前哨基地に対して「ディフェンス・コントロール・T」の指令を発令していました。同指令は「戦争状態に突入した。後は現場指揮官の判断に委ねる」との戦争指令だったのです。』 |
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○高橋史朗 ・高橋史朗 著「検証戦後教育 日本人も知らなかった戦後50年の原点」広池学園出版部、2001年 ・高橋史朗 著「日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと」致知出版社、2014年 ・高橋史朗 著「「日本を解体する」戦争プロパガンダの現在 WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の源流を探る」宝島社、2016年 ![]() ![]() ![]() ○遠藤 誉 ・遠藤 誉 著「卡子(チャーズ) 出口なき大地」読売新聞社、1984年 ・遠藤 誉 著「卡子(チャーズ) 中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女 上・下」文春文庫、1990年 ・遠藤 誉 著「中国動漫新人類」日経BP社、2008年 ・遠藤 誉 著「ネット大国中国 言論をめぐる攻防」岩波新書、2011年 ・遠藤 誉 著「チャイナ・ギャップ 噛み合わない日中の歯車」朝日新聞出版、2013年 ・遠藤 誉 著「完全解読「中国外交戦略」の狙い」WAC BUNKO、2013年 ・遠藤 誉 著「中国人が選んだワースト中国人番付」小学館新書、2014年 ・遠藤 誉 著「毛沢東 日本軍と共謀した男」新潮新書、2015年 |
この本の20ページに、次の記述がある。 『 江沢民の父親は日本が指揮する汪兆銘傀儡政権の宣伝部副部長であった。その出自がばれそうになったので、江沢民は愛国主義教育を反日教育の方に傾けていき、自分がいかに反日であるかを中国人民に見せようとした。江沢民は日中戦争時代、中共とはいかなる関係も持っていなかったので、毛沢東の深い策謀など知る由もない。だから中国で最も罪深いとされる漢奸(売国奴)でないことをアピールしようとした。それが現在の中国の若者たちの反日感情を煽り、胡錦濤前政権同様、習近平政権もまた「親日政府」「売国政府」と人民に罵倒されないために、対日強硬策を演じている。 』 |
・遠藤誉 著「習近平が狙う「米一極から多極化へ」 」ビジネス社、2023年![]() |
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・遠藤誉 著「習近平が狙う「米一極から多極化へ」 」ビジネス社、2023年![]() |
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・ジョージ・トランブル・ラッド著、「1907 IN KOREA WITH MARQUIS ITO(伊藤侯爵と共に朝鮮にて) 」桜の花出版編集部 編、発行 桜の花出版、発売 星雲社、2015年 ・アーサー・J・ブラウン著、「朝鮮はなぜ独立できなかったのか 1919年 朝鮮人を愛した米宣教師の記録 」桜の花出版編集部 編、発行 桜の花出版、発売 星雲社、2016年 |
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![]() ![]() ○ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著「So Far from the Bamboo Grove」 ![]() |
このサイトによると、この本は、日系米国人作家のヨーコ・カワシマ・ワトキンズが、1986年にアメリカで出版した自伝的小説で、彼女は1945年の終戦時に11歳で朝鮮にいた。朝鮮人による日本人に対する迫害・性的暴行についても記述がある。2005年に韓国でも『요코 이야기(ヨーコ物語、ヨーコの話)』として訳出された(後に発売中止)。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ・「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ監訳・監修、都竹 恵子 訳、ハート出版、2013年 ![]() ![]() ○小林千登勢 著「お星様のレール」 ・小林千登勢 著「お星様のレール」金の星社、1982年 |
この本の86ページから引用します。(注:1945年11月の平壌のようです。) 『 おじいちゃんたちは、留置場にいるとき、きいたそうです。 「なぜ、こんなひどい目にあわせるのか?」 すると、朝鮮人は答えたそうです。 「日本の警察は、朝鮮人に対して、もっともっとひどいことをした」 おじいちゃんたちは、またききました。 「でもわたしたちは、悪いことはなにもしていない」 すると相手も、また答えました。 「いや、あなたたちは、朝鮮人の土地や財産をうばうようにして裕福なくらしをしてきた」 おじいちゃんは、そんなふうにして、けっきょく二か月間留置場にはいっていました。そのあと、今日になって、とつぜん、 「あなたは年よりだし何の役にもたたない。帰ってもよい」 と、いわれたのだそうです。 』 |
・小林千登勢 著「お星様のレール」フォア文庫(金の星社)、1984年 ・小林千登勢 原作「アニメ版 お星様のレール」金の星社、1993年 〜原著に対して変更と創作の手が加えられています。 |
この本の後書きに、『この本は、長編アニメーション映画「お星様のレール」をもとにつくられました。』との記述があり、脚本は、『浦畑達彦/堀 有三』と記されている。![]() 〜どうやら、このブログ(現在リンク切れ)で、アニメ版をさらに悪意のある改造・改変をしてアップしていたようです。 ![]() ![]() ![]() |
○小堀桂一郎 ・小堀桂一郎 編「東京裁判 日本の弁明」講談社学術文庫、1995年 ・小堀桂一郎 編「東京裁判 幻の弁護側資料: 却下された日本の弁明」ちくま学芸文庫、2011年 ・東京裁判資料刊行会(代表小堀桂一郎) 編「東京裁判却下未提出弁護側資料(全8巻)」国書刊行会、1995年 ・小堀桂一郎・中西輝政 著「歴史の書き換えが始まった!〜コミンテルンと昭和史の真相」明成社(日本の息吹ブックレット)、2007年 ・小堀桂一郎 著「歴史修正主義からの挑戰 日本人は「日本」を取り戻せるのか?」海竜社、2014年 ・小堀桂一郎 著「日本人の「自由」の歴史 「大宝律令」から「明六雑誌」まで 」文藝春秋、2010年 ![]() ![]() ![]() ○渡部昇一 ・渡部昇一 著「本当のことがわかる昭和史」PHP研究所、2015年 ![]() ![]() |
この動画(15分26秒付近から)の渡部昇一氏の発言によると、1985年(昭和60年)11月8日ころの国会答弁で、土井たか子議員の「侵略戦争をどう考えるか。」旨の質問に対して、外務省の小和田氏(注:小和田恆(ひさし)氏と思われる。1985年には外務省条約局長だったと思われる。皇太子妃雅子様の父。出典:![]() また、この動画(7分39秒付近から)の渡部昇一氏の発言によると、南京虐殺を広めたホンダなにがし(注:本多勝一と思われる。)は、渡部昇一氏の友人の調査によれば在日であると言っている。 |
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〜興味深い話が多い。主な話題は次のとおり。 靖国神社(1分50秒〜 および 26分07秒〜.)とバチカン(5分48秒〜) ユダヤ人救済(11分31秒〜) 慰安婦(16分33秒〜) 暗号解読(28分58秒〜) 陸軍と海軍(31分35秒〜) コミンテルン・中国・韓国(39分22秒〜) 自然塾(44分18秒〜) など 『正論』2005年1月号 「私が見た従軍慰安婦の正体」小野田ェカ ![]() ![]() ![]() ・山田清吉 著『武漢兵站』図書出版社、1978年 ![]() |
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この動画(32分48秒付近から)の日下公人氏の発言によると、第一次世界大戦後に国際連盟の事務局次長になった新渡戸稲造らは、ドイツから日本に割譲されたトラック・パラオ・サイパンに委任統治の制度を作って導入し、文明開化したら独立させることにしたという。 |
ダイヤモンド・オンライン(Diamond Online)の『新聞・週刊誌「三面記事」を読み解く 降旗学』【第33回】2013年5月31日「風俗と慰安婦とアメリカ兵の問題 橋下発言と、その報道に思うこと」 降旗 学 [ノンフィクションライター] (6ページ目) このサイトのなかに、次のような記述がある。なお、太字は、当サイト管理人によるものです。 『(前略) 週刊新潮で『変見自在』というコラムを連載中の高山正之さんが、興味深い資料を紐解いていた。このコラムは、週刊新潮を読むときの楽しみのひとつと言ってもいいくらいに痛快なのだ。 ずっと以前、高山さんには私が集めた資料をお貸ししたこともあるのだが、この方は、それはそれは入念に資料を漁る方で、ジャーナリズム系のコラムを書かせたら、この高山正之、毎日新聞の牧太郎、櫻井よしこのお三方が日本のトップ3だろうと思っている。私なんかと違い、実に説得力のあるコラムをお書きになるのだ、この人たちは。他にもジャーナリズム系のコラムを書かれている方、ごめんなさい。 高山さんのコラムによると、日本の敗戦後、厚木にアメリカの部隊が入ったその日の夜、アメリカ兵による最初の強姦事件が起きたとあり、その十日後にも中野のアパートに押し入った米兵が制止する男性ら数人を殴り倒し、押し入れに隠れた女性を襲った等々の記録を当時の新聞から引き出している。 事件は全国的に広まり、一日で四六件もの強姦事件が起きたような驚くべき事実を挙げ、また、当時の調達庁が調べたところでは、一九五一年にサンフランシスコ講和条約が結ばれるまでの六年間で、実に二五三六人の日本人男性が、妻や娘を守ろうとしてアメリカ兵に殺害されたとある。 信じられるかい、二五〇〇人以上だぞ。止めようとした男性が二五〇〇人以上も殺害されているのなら、被害に遭った女性はどれだけいると思うのだ。 私は、決して、古い話だからの一言で片づけることはできないと思う。アメリカ兵による性犯罪は、いまもなお起きているのだ。従軍慰安婦制度そのものに目を向け、慰安婦の苦痛を推し量る裁量も大切だが、アメリカ兵の被害に遭った女性、そしてアメリカ兵に殺された男性の無念にも目を向ける必要はあるはずだ。 (後略) 』 |
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![]() ![]() ![]() ・高山正之著「厚木の凱旋将軍「マッカーサーは失禁していた」」(「歴史通(2014年9月号)」所収) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○渡辺惣樹 ![]() ![]() ![]() ○田母神俊雄 ![]() |
日本人のための正しい歴史認識について、大変よくまとまっており非常にわかりやすいです。![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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〜 加瀬英明氏(10分07秒付近から)、田母神俊雄氏(19分20秒付近から)、杉原誠四郎氏(31分14秒付近から)、藤岡信勝氏(34分32秒付近から)の発言が特に興味深い。 |
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![]() ![]() このサイトによると、田母神俊雄氏は、2008年10月31日に航空幕僚長を解任、同年11月3日付で航空自衛隊を退職。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ○菅沼光弘 ![]() ![]() ![]() ![]() |
この動画(20分08秒付近から)で、アメリカ流の日にちの選び方を批判して、次の点を指摘をしています。 ・ニクソンショック(ドルと金の交換停止の方。1971年8月15日)の8月15日は、日本の終戦記念日、連合国の対日戦勝記念日(VJデー(Victory over Japan Day))である。 ・東京大空襲(最も激しかったのが1945年(昭和20年)3月10日)のあった3月10日は、日本の陸軍記念日であった。 ・日本国憲法を公布(1946年(昭和21年)11月3日)した11月3日は、明治天皇の誕生日で、当時は明治節の祝祭日であった。しかも、当初は、日本国憲法公布は2月22日(ジョージ・ワシントンの誕生日)が考えられていたという。 ・GHQがA級戦犯を起訴(1946年(昭和21年)4月29日)した4月29日は、昭和天皇の誕生日である。 ・GHQがA級戦犯を処刑(死刑の執行。1948年(昭和23年)12月23日。)した12月23日は、今上天皇(平成の天皇。当時は皇太子。)の誕生日である。 |
![]() アメリカ政府の企業に対する経済制裁などについて。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○瀧澤一郎 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
この動画(2分15秒付近から)の瀧澤一郎氏の発言によると、第二次世界大戦ではドイツが先にソ連を攻撃したのであるが、実は、ソ連のドイツ攻撃計画をドイツの諜報機関が嗅ぎ付けて、ドイツが逆に先手を打ってソ連を攻めた、という説があるらしい。 |
○藤井厳喜 ・藤井厳喜 著「太平洋戦争の大嘘」ダイレクト出版、2017年 ・藤井厳喜、稲村公望、茂木弘道 著「日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず」勉誠出版、2016年 ・藤井厳喜 著「アングラマネー」幻冬舎新書、2013年 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
この記事の全文を引用します。タイトル以外の文中の太字と赤字は、当サイト管理人が施したものです。 『 【世界を感動させた日本】朝鮮に注ぎ込んだ血税「63兆円」 数々の援助で身を捧げた先人たち 2014.03.02 ★(5) 韓国の「反日」は、とどまることを知らない暴走を続けている。それは韓国人が歴史を直視せず、反日妄想に現実逃避しているからである。この連載の最終回に、朝鮮を救った感動的な日本人の話を紹介しよう。 まず、35年間の日本による朝鮮半島統治(1910〜45年)とは何だったのかを、如実に示す数字を見ておこう。 この間、朝鮮の人口は1300万人から2500万人にほぼ倍増した。コメの収穫量は1000万石から2000万石になり、平均寿命は25歳(10年)から45歳(44年)に伸びた。工業生産指数は100(13年)から550(38年)に大躍進し、公立小学校は約100校から約5000校に増え、ハングルを普及させた。鉄道はゼロから出発し、何と総延長6000キロを敷設したのだ。 日本政府は累計約21億円を朝鮮に注ぎ込んだが、これは現在の貨幣価値で63兆円にのぼる。第3次日韓協約が締結された07年からの38年間で計算すると、1日45億円の血税を朝鮮に援助したことになるのだ。 朝鮮の発展に身をささげた日本人も数多い。 重松●(=高の右に昇)修(しげまつ・まさなお、1891〜1975年)は農民を貧困から救うべく、私財を投じて朝鮮の農村振興を計り、「聖者」とまで呼ばれた人物である。彼はまず養鶏により卵を売り、その金を貯蓄して牛を買うという、自助努力の仕組みを農村に根付かせた。彼は三一暴動で被弾して右足が不自由になったが、終戦までの31年間、貧しい朝鮮農民の救済に無私の活動を続けた。 朝鮮農民の救済に尽力した農学者に、津田仙(つだ・せん、1837〜1908年)がいる。津田塾大学の創立者、津田梅子の父親である。農学者の高橋昇(たかはし・のぼる、1892〜1946年)は、朝鮮農業の近代的実態調査を行い、農業発展の基礎を造った。石塚俊(いしづか・たかし、1888〜没年不詳)は朝鮮米穀倉庫会社社長として、品種や農法の改良、潅漑(かんがい)施設の改善などを通じて、農業生産の飛躍的向上に貢献した。 日韓併合前の朝鮮は禿山ばかりであり、総督府はひたすらに半島の緑化に努めた。 1918〜42年、日本は何と6億622万4000本の植林を行っている。この植林事業に一生をささげたのが浅川巧(あさかわ・たくみ、1891〜1931年)である。彼はまた白磁などの朝鮮の美術工芸の研究者であり、日本への紹介者でもあった。 朝鮮戦争で大量の孤児が発生したが、韓国孤児を133人も育てた偉大な日本女性がいた。望月カズ(もちづき・かず、1927〜83年)がその人である。彼女自身も孤児だったが、反日機運の強い中であくまで日本女性としての生き方を貫いた。 朝鮮に幾つもの巨大水力発電所を建設して近代工業化に大貢献したのが、日本窒素肥料社長だった野口遵(のぐち・したがう、1873〜1944年)である。野口は出力70万キロワットという当時、世界第2位の水豊ダムを1940年に完成させた。北朝鮮は今でもこのダムを使っている。 「感謝しろ」というつもりはない。ただ、韓国や北朝鮮の人々は、こうした歴史的事実を直視すべきではないのか。 =おわり ■藤井厳喜(ふじい・げんき) 国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。テレビやラジオで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「米中新冷戦、どうする日本」(PHP研究所)、「アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門」(幻冬舎新書) 』 |
・遠藤誉 著「毛沢東 日本軍と共謀した男」新潮新書、2015年 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○馬渕睦夫 ・馬渕睦夫 著「世界を操る支配者の正体」講談社、2014年 |
この本の147ページから引用します。 『 シリアの内戦はどう考えても民主化勢力と独裁政権との戦いではありません。比較的まともな世俗政権のアサド大統領を倒すという武力闘争にほかなりません。にもかかわらず、我が国のメディアを含め欧米のメディアは、なぜ判で押したように反政府勢力を民主化勢力と報じているのでしょうか。 私たちは、このような洗脳にはっきりと気づく必要があります。この洗脳が効果を上げている背景には、東西冷戦時代の古い思考に染まってしまって、そこからいまだに脱出できない私たちの心理が存在しているように思えます。 』 この本の166ページから引用します。 『 マネーを支配する者とはマネーの発給権を握っている中央銀行であり、中央銀行の株主です。FRBの株主はいまだに公開されていませんが、さまざまな研究の結果ロスチャイルドやゴールドマンサックス、JPモルガンなど国際銀行家であることが明らかになっています。そうしますと、グローバリズムとは、国際銀行家たちが支配する世界市場を創造しようとする地球規模の運動であるということができるのです。 』 この本の166ページから引用します。 『(前略) このように考えていきますと、なぜロックフェラーたちアメリカの国際銀行家がアメリカの外交政策を支配しているかが理解されるのです。『ロックフェラー回顧録』の中で、アメリカの外交政策を決めているのはロックフェラーとその仲間が主宰する民間シンクタンクの「 Council on Foreign Relations 」(外交問題評議会、CFR)であるとロックフェラーは明言しています。この点は、国際政治の専門家の間では広く知られている事実ですが、なかなか広言されません。歴代のアメリカ大統領や主要閣僚はまず例外なくCFRのメンバーから選ばれ、彼らはCFRの政策提言に従った政策を実行しています。現在の国際情勢に関するアメリカの政策を巡り、オバマ大統領の指導力低下といった話がよく出ていますが、必ずしもオバマ大統領の責任ではありません。私たちはアメリカの外交政策を指導しているCFRの意向を正確に読み取って、対応する必要があります。 』 (当サイト管理人による注:ここでいう「ロックフェラー回顧録」は、デイヴィッド・ロックフェラー著「ロックフェラー回顧録」(楡井浩一訳、新潮社、2007年)を指しています。) |
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![]() ・ズビグネフ・ブレジンスキー 著「孤独な帝国アメリカ」堀内一郎 訳、朝日新聞社、2005年 ![]() ![]() ![]() ・エドワード・バーネイズ 著「プロパガンダ」中田安彦 訳、成甲書房、2010年 |
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・2019年9月19日に欧州議会によって採択された「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」決議 重要![]() ・ウィリアム・ブリット(当時 米国の駐仏大使) ![]() ![]() ・アルバート.C.ウェデマイヤー著「第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー回想録 上・下」妹尾作太男 訳、講談社学術文庫、1997年 |
○宮崎正弘 ![]() ![]() ![]() ○佐藤優 ・佐藤優 著「日本国家の神髄 焚書『国体の本義』を読み解く」扶桑社新書、2014年 ○長谷川三千子 ・長谷川三千子 著「神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午」中央公論新社、2013年 ![]() ![]() ![]() ○佐々木良昭 ![]() ○伊藤哲夫 ![]() |
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![]() ![]() ![]() ![]() ○井尻千男 ![]() ![]() ○西村幸祐 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
・大川周明 著「回教概論」(1942年、慶應書房)。中公文庫 1991年、ちくま学芸文庫 2008年![]() |
倉山満著「嘘だらけの日米近現代史」(扶桑社新書、2012年)p92 から引用。日米戦争(太平洋戦争)のアメリカの勝因について。 『 アメリカの勝因は四つあげられます。第一は圧倒的に優位な生産力、第二は戦時体制の構築による国家意思の統一、第三は敵を強いと認めたうえで合理的に戦訓を抽出する能力、そして第四は情け無用の国際法違反です。通商破壊で民間船舶だろうがなんだろうが沈め、無差別都市空爆で民間人を平気で殺傷しました。間違いなく戦争に負けていたら責任者は全員処刑です。特に原爆は非人道兵器の使用ですから二重の意味で国際法違反です。』 (当サイト管理人の意見:当サイト管理人は、これと併せて、@アメリカによる日本側無線の暗合解読、A日本の政治的意思決定の不統一性、も指摘しておく必要があると現在(2013年3月)考えています。) 倉山満著「嘘だらけの日米近現代史」(扶桑社新書、2012年)p103 から引用。GHQのケージス大佐について。 『 そして、「日本国憲法の父」ことケージス大佐は、鳥尾子爵夫人と不倫旅行で混浴しているところを写真に撮られ、半強制的に帰国させられます。ケージスの陰湿な人妻漁りは当時から語り草ですが、マッカーサーの路線変更でお役ご免となった末の自業自得の結末だったと言えるでしょう。もちろん、「ケージス不倫旅行捕り物帳」は、マッカーサーが容認しなければできません。』 倉山満著「嘘だらけの日米近現代史」(扶桑社新書、2012年)p104 から引用。マッカーサーのGHQ政策について。 『 日本占領政策を採点するために派遣されたCIAのアレン・ダレス(のちの長官)はマッカーサーに告げます。「お前は日本を共産主義者に売り渡したいのか」と。』 倉山満著「嘘だらけの日米近現代史」(扶桑社新書、2012年)p109-110 から引用。朝鮮戦争での毛沢東の戦争目的について。 『 ここで中国側の事情を見てみましょう。毛沢東には三つの戦争目的がありました。 第一は、国内で権力確立のために反対派を粛清することです。 毛沢東は一九四五年から四年間、内戦を戦っていました。そして蒋介石を大陸から追い出し、中華人民共和国を建国します。これは中国風にいえば王朝交代であり、毛沢東は初代皇帝です。中華帝国では、新王朝の新皇帝が真っ先にやることは功臣の粛清です。なぜならば、建国の功臣こそ自分の地位を脅かす可能性が最も高いと考えるからです。 毛沢東の兄貴分のスターリンは、日本の敗戦後の北朝鮮に子飼い官僚のような金日成を据えました。その後の金一族が北朝鮮で独裁体制を敷きつつ、ソ連に忠誠を誓う国となったのはご存じの通りです。スターリンは満州にも高崗という人物を連れてきて同じことをさせようとします。そもそもスターリンは、毛沢東を自分の子飼いとして文字通り「飼って」おきながら、蒋介石とも同盟を結び、どっちが勝ってもいいように双方に保険をかけるような人物です。中国本土を支配する毛沢東に対し、高崗を育成して牽制しようとしたのです。 毛沢東からすれば、おもしろいはずがありません。そこへ朝鮮動乱です。毛沢東は自ら戦争介入を申し出て、軍閥化しはじめていた高崗の軍隊にまともな武器も持たせず最前線に突っ込ませたのです。もちろん、最新兵器は後方の毛沢東直轄部隊が持ち、前方の高崗軍を脅しながら突撃命令を出しました。これを督戦と言います。こうして中国軍は地雷原に自爆突撃を繰り返すことになるのですが、毛沢東はそもそも敵対軍閥の兵士を死なせることが目的なので、人命など問題ではありません。むしろ死亡率が高まるほど好都合というわけです。この毛沢東の目論みは見事に成功しました。 』 これに続いて、倉山満氏は、第二の目的は「海洋勢力を鴨緑江に寄せ付けないこと」、第三の目的は「スターリンに満州の支配権を認めさせること」であったと、述べています。 |
・佐藤和男 監修「世界がさばく東京裁判」終戦五十周年国民委員会、1996年 ・佐藤和男 監修「世界がさばく東京裁判」(改訂版)明成社、2008年 ・リー・エドワーズ 著「現代アメリカ保守主義運動小史」渡邉稔 訳、明成社、2008年 |
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・ジェイソン・モーガン 著「アメリカはなぜ日本を見下すのか? 間違いだらけの「対日歴史観」を正す」ワニブックスPLUS新書、2016年 |
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・リー・エドワーズ 著「現代アメリカ保守主義運動小史」渡邉稔 訳、明成社、2008年 |
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・陳香梅 = アンナ・シェーンノート![]() ![]() |
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○武田邦彦 ![]() ![]() |
この動画(4時間53分47秒付近から)で、武田邦彦氏は、東京裁判は裁判ではないとした上で、東京リンチ事件と呼んでいる。 |
鳴霞・千代田情報研究会 著「あなたのすぐ隣にいる中国のスパイ」(飛鳥新社、2013年)p119-126 から引用。中国共産党のスパイについて。 『中共スパイの原点は周恩来 中共スパイの元祖は、元首相の周恩来とされている。それは一九三〇年代に、自清という党員を貿易会社の社長に偽装させ、夫婦でアメリカに派遣、アメリカの商工界・貿易業界・軍需業界・政界など各方面と交流させ情報収集させたことに由来する。 一九二一年七月の共産党結党以来、スパイ工作による情報収集、謀略はお家芸ともいえるものであった。当時、中国大陸を手中に収めつつあった蔣介石の国民党政府と内戦に突入すると、大勢の特務員を国民党に潜入させた。一説によると、蔣介石の側近には一六人の中共の有名スパイがいたとされている。その何人かを紹介しておこう。 @李克農 国民党に潜入した初期の大物スパイで、毛沢東は、彼を『大特務』と絶賛し、一九五五年に軍歴ゼロのままで建国功労者として大将の位を授け、軍事情報部門の総責任者とした。一九六二年二月九日に北京で病死している。 A熊向暉 精華大学時代の一九三六年に共産党秘密党員となる。同時に中華民族解放先鋒隊清華分隊責任者に就任している。一九三七年一二月に周恩来の指示で、国民党の高級将官、胡宗南が司令官を務める第八戦区に入隊、胡に従って後に第一戦区に移り情報収集。一九三九年三月には国民党中央陸軍軍官学校第七分校を卒業している。一九四七年まで胡宗南の侍従副官として機密工作秘書となる。当時、毛沢東は熊の送ってくる国民党の情報を高く評価し、「彼ひとりで数個師団より役立つ」と称賛したという。 国民党将軍となった胡は、お気に入りの熊をアメリカに留学させ、自らの片腕にしようとしたが、その後、正体が判明。熊は国民党を脱走。胡将軍は「裏切り者」と激怒した。一九四九年一一月、熊は周恩来に招請され北京中南海勤政殿に出向くと、そこにやはり国民党高級官僚として潜入していた張治中などがいた。彼らが親しげに「これは熊老弟か、あなたも蜂起したのか」と冗談を言うと、傍らにいた周恩来が「熊弟は蜂起ではなく帰隊したのだ」と笑い、熊を潜入させた経緯を話した。すると国民党で国防部参謀次長をしていた劉斐は、「だから胡宗南はいつも戦争で敗けていたのか」と大笑いしたという。 周恩来はその後、熊を外交工作員にして、喬冠華と一緒に中共政権代表として国連総会に出席させている。また外交部新聞司副司長なども歴任させている。 このエピソードに登場する張治中とは、日中戦争勃発時の南京・上海の国民党軍司令官。蔣介石の命令を無視して上海の日本軍を一方的に攻撃、日中戦争の端緒を開いただけでなく、日本軍を泥沼の全面戦争に引きずり込み、ソ連とも通じた大物スパイである。 B汪錦元 中国人の父と日本人の母を持つハーフ。一九二九年に上海で母と暮らしていた頃、母に連れられて来日。日本共産党員の西里龍夫などの影響を受け、一九三六年に中国共産党に入党。一九三八年初めに中共の命令で、蔣介石と決別した汪精衛(汪兆銘)の上海政府(親日本政府)の秘書処に潜入した。日本語の達者な汪錦元は、汪精衛の随行秘書兼日本語通訳となり、一九四〇〜四二年の間に二回日本を訪問。汪精衛の情報だけでなく日本の国家情報も収集して周恩来から絶賛された。 一九四二年八月に、西里龍夫らが起こした治安維持法違反事件に巻き込まれて日本警察に逮捕されたが、一九四五年五月に釈放。中国共産党新四軍淮南根拠地に戻った。 一九四五年九月には、中共の命令で国民党組織内部に長期潜入し、一時期は中共との連絡も途絶えたが、中共の上海占領後には保衛部所属の「東方経済研究所」代表となっている。しかし、いわゆる反ブルジョワジー運動である「三反・五反」運動の余波で一九五五年に逮捕され北京刑務所に服役。一九八二年八月に名誉回復した。一九九二年三月に病死。ちなみに「三反・五反」運動とは、「反汚職」「反賄賂」「反脱税」などを掲げ、民衆の支持を得ようとした運動。文化大革命の小型版といえるものだが、内部告発、隣人告発が奨励される苛酷なもので、約二〇万人が自殺したという。虚構で固めた中共政権は、常にこうしたプロパガンダによる弾圧が必要なのかもしれない。 C郭汝瑰 毛沢東の腹心であった大物スパイ。孫文が創設した黄埔軍官学校を卒業し、共産党の秘密党員となって日本に留学。帰国後、対日戦争のために国民党に潜入した。 一九三七年は四二旅団長として日本との戦争に参戦。蔣介石から絶大な信頼を得、国民党内の軍人エリートとして台頭した。 郭汝瑰は中共初期スパイメンバーの董必武にリクルートされたことになっているが、実際には最初から共産党員だった。中共のスパイでありながら、日本の敗戦後も依然として蔣介石の信任は厚く、国共内戦中には作戦指揮の国防部作戦庁長に昇進、定期的に蔣介石の官邸に出入りし、国民党のすべての作戦計画を把握。毛沢東に報告していた。 また国民党軍が敗北し被害を受けるよう偽情報を流して、蔣介石が作戦判断を間違うように誘導もした。郭汝瑰の工作によって国民党軍は敗走を続け、ついに蔣介石は台湾へ追い出される結果となった。毛沢東は当時、「我が胸中には百万の雄兵がいる」と語っていたが、その百万兵の中の半分は郭がもたらす国民党の作戦情報だったのである。 ところが、大きな功績をあげた郭汝瑰は、中共政権樹立後、要職に重用されることなく四川省交通庁長に追いやられた。後には前述の「三反・五反」運動の余波で、「国民党のスパイ」とされ追放される。一九七八年になってようやく名誉回復されたが、彼はすでに七一歳になっていた。中共のスパイの運命もまた苛酷なのである。 いずれにせよ国民党は、共産党に軍事力や戦闘によって敗北したのでなく、「内部の敵」中共の潜入スパイによる情報戦に敗北したのである。 そもそも、蔣介石の運命のみならず、日本および中国共産党の命運も大きく変えた一九三六年の西安事件を画策した黒幕も、周恩来である。 西安事件とは中国東北地方(奉天軍閥)の支配者で国民党に帰順していた張学良(日本軍に爆殺されたとされる張作霖の息子)が、蔣介石を自らの支配地・西安に招待し、突然拉致監禁した事件である。 蔣介石は張学良を一の子分のように信頼していたが、実は張はソ連のスターリンとも毛沢東とも通じていた。そして、この拉致監禁の当初の目的は、蔣介石の暗殺であった。なにしろ当時の中共は、蔣介石軍によって黄土高原の延安に追い詰められ、一時は八万人いた軍隊も一万人を割る状態で、崩壊寸前だったのだ。 しかしスターリンの目論見は違っていた。「最初の敵は日本軍である。蔣介石はまだまだ生かしておいて利用すべきである」と国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦うこと)を提案。かくて事件解決の斡旋者として登場するのが周恩来である。周恩来は蔣介石解放の条件として、国共内戦の停止と挙国一致による抗日を要求。蔣介石はこれを呑み、翌一九三七年の上海における日本軍との全面戦争へとつながっていくのである。 もっとも毛沢東は、国共合作が成立した後、こう言ったという。 「適当に銃を撃って、さっさと逃げて、国民党軍と日本軍を戦わせておけばよい。日本軍が勝っても、彼らは点(都市)と線(鉄道・幹線道路)しか支配できない。背地の農村地帯を我々が支配すればよい。それに日本軍は他国の軍隊だ。いずれ国に帰っていく」 国共合作は見せかけで、この時国民党軍の大陸での敗北も決定したといえなくもない。 毛沢東は『毛語録』ばかりが有名だが、ユン・チアンの『マオ』によれば、共産党に入党する三年も前の二四歳の時に、こんなことを書いている。 「『殺すなかれ』『盗むなかれ』『中傷するなかれ』といった戒めが、良心に由来するものとは考えない。これらは自衛を求める利害の観念から生じたものにすぎない」「(すべての配慮は)断固として外的な道徳律や、いわゆる責任感に基づくものであってはならない」 目的のためには良心や道徳、責任感など、日本人の好きな徳目はすべて否定し、謀略や奸計も辞さない、というのが毛沢東、ひいては中国共産党の行動原理であり、その巨魁毛沢東の最高の随伴者で、中共の謀略スパイ工作の元祖が、周恩来だったのである。 日本では、政治家にも知識人にも周恩来ファンが多いが、筆者としてはなんとお人好しの人たちだろうと思うしかない。 』 鳴霞・千代田情報研究会 著「あなたのすぐ隣にいる中国のスパイ」(飛鳥新社、2013年)p126-143 から引用。南京大虐殺論争について。 『南京大虐殺が一九七九年までの中国歴史教科書に一切掲載されていない不思議 蔣介石が中共の謀略に嵌ったように、現代の日本がまんまと嵌められたのが、「南京大虐殺」である。 筆者は二四歳まで主に中国遼寧省瀋陽で過ごしたが、小学校や中学校で日本軍による「南京大虐殺」などということを学んだことがない。実際、一九五八年版の『中学歴史教師手冊』の中の「中外歴史大事年表」の一九三七年には「日本軍侵占上海、国民政府遷都重慶」と簡単に記されているだけだ。 もう少し時代の下った一九七五年『新編 中国史』では、「一九三七年に国民党政府は(対日本軍戦で)南京防御に失敗し重慶に首都を移した」とされている。注目すべきは、一九五八年版の『教師手冊』の中に「蔣介石は大量の共産党と革命群衆を屠殺した」という記述があることである。さらに一九四九年、国共内戦に勝利した毛沢東は南京郊外の雨花台(百人斬り競争をしたとされる日本軍将校が処刑された場所)に「雨花台烈士陵園」を建設し、自ら筆を執り「死難烈士万歳」と書いた。その文字が、「国民党政府雨花台屠殺了三十万共産党烈士」と記された記念碑に刻み込まれている。 いずれにしろ、一九七九年までの歴史教科書にも新聞雑誌にも、日本軍による「南京大虐殺」という話は存在しなかった。ところが、一九七九年の「全日制中学歴史教科書」に突然、日本軍による「南京大虐殺三〇万人」という話が登場する。 一体なぜなのか。一九七九年という時期は重要である。その前年の七八年に日中は「平和友好条約」を正式に締結し国交正常化、この年は大平首相(当時)が訪中し、巨額の経済援助(ODA)を約束した。つまり、中共はODA獲得のためのレバレッジとして「南京大虐殺」が有効だと判断し、情報操作を開始、世論誘導を始めたのである。 そもそも、南京大虐殺とは何なのか。支那事変といわれる日中戦争の最中に、当時の中華民国の首都であった南京攻防において、日本軍が引き起こしたとされる大量虐殺である。 一九三七年一二月、日本軍は支那事変を終結させるため南京へ侵攻。同一三日に南京を占領。それから約六週間の間に市民や捕虜三〇万人を虐殺したと中国共産党は主張する。南京大虐殺紀念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数字が犠牲者数として掲げられており、中国の子供たちは、毎年そこへ行かされて反日教育を受けるのだ。 「南京大虐殺」は、日本でも共産党や社会党、親中である朝日新聞、日教組などを中心に広められ、教科書にまで掲載されるようになったのは、ご存じのことと思う。 筆者は「南京大虐殺」については、八二年に日本に来てから詳しく知った。学生時代、一切教えられなかったからだ。興味を持って、様々な書物を読み、最終的に大規模虐殺どころか、小規模の虐殺さえ、実際にはなかったのではないか、という結論に達した。さらに前述した雨花台に建立された毛沢東の「共産党烈士」記念碑の三〇万と、日本軍が虐殺したとされる犠牲者の数の一致に気づき、中共の巧妙なすりかえ工作にも気づいた。 もちろん、戦争であるから、日本軍が品行方正で一切の戦争犯罪的行為がなかったということはないだろう。窃盗や強姦事件などもあったろう。しかし、それはごく少数で、終戦直後、満州に侵入したソ連兵や、中国人が日本人の戦後残留者に対して行ったものなどに比べればはるかに小さいものであったと考えられる。むしろ南京での日本軍は、非常に人道的な組織行動を取っているのである。南京戦の最中、市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に避難していた。安全区は、南京に住む欧米人の発案による日本軍の承認を得て設けられたものであり、日本軍はそこを一切攻撃せず、安全区の民間人らは誰一人死んでいない。そもそも、戦争中に安全区のような場所を作ること自体が、過去の戦争ではなかったし、その後の国共内戦でも同様だった。 ただ、日本軍の南京占領が始まると、そのような日本軍の措置を逆手に取り、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込んだ。そうした中国兵の中には、武器を隠し持ってゲリラ活動を行う者や、安全区内で強姦や略奪、殺人などを行い、それを日本兵の仕業に見せかける者もいた。 こうした民間人になりすまして戦う中国兵を便衣兵と呼び、日本軍が摘発し、場合によっては銃殺したのは当然のことである。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、直ちに銃殺されても致し方ないとされている。 戦争は殺し合いである。だから一般人を巻き込まないために、兵士は正規の軍服を身に着けることが義務づけられている。こうした不法戦闘員は数千名に上ったという。 また、日本軍は、一方で市民や捕虜に対し食糧支援などの人道的活動も行っている。その結果、日本軍占領下で餓死した市民は一人もいなかった。日本軍の支援に感激して、のち汪兆銘が上海に樹立した親日政府の兵士になった中国人捕虜たちも多くいた。 では、なぜ日本軍による「南京大虐殺」なる虚構が語られるようになったのか。 そもそも、南京においては悲劇的な虐殺事件が過去に何度かあった。南京は華東に位置し、古代より揚子江沿いの要衝地帯。長く首都だったこともあり、政治的な象徴でもあった。当然、南京をめぐる攻防戦は少なくなかった。古くは西暦三二二〜四年の王敦(おうとん)の乱(五胡十六国時代)などもあるし、西暦五五二年には王僧弁の南京大屠殺(南北朝時代)という記録も残っている。近年で最も大きな虐殺が行われたのは「太平天国の乱」だ。 「南京の北東の門の前に、爆薬二十トンを爆発させた。爆発の煙が消えたとき、その軍隊は市内になだれ込み、飢えた住民に襲いかかった。王宮と他の宮殿は、火を放たれた」(K・S・カロル著『毛沢東の中国』) ここに登場する軍隊は、清朝末期の漢族軍人・曽国藩が率いる湘軍だ。 「続く三日間に、十万人以上の人々が殺されたが、投降した反徒はひとりもいなかった。われわれはポンペイを思わせる人影のない街路を前進したが、焼死者の悪臭にたえられなかった」「五十万の人口のうち、生き残ったのは、五百人に過ぎなかった」(前掲書) これが一八六四年に起きた「南京大虐殺」、要するに「太平天国の乱」の結末である。そしてこれは、中国人の軍閥が中国人を虐殺したものである。 五〇万という数字は、著書カロルの水増しで、現在では、犠牲者は「二〇万人」というのが定説になっている。しかし、外国人から見て、見渡す限りの虐殺の跡は、その国の人々の残虐性を物語った数字ではなかったか。また曽国藩の幕僚であった趙烈文は、著書『能静居士日記』の中で、「虐殺は一ヵ月間続き、財宝を運び出す車列は延々三ヵ月続いた」と記している。加害者側の告白であることが重要だ。 さて、二〇万人の犠牲者数と三ヵ月という期間。どこかで聞いた覚えがあると思う歴史通の読者も多いと思う。そう、二〇万人とは市ヶ谷における東京裁判で、蔣介石の中華民国側が「日本軍による南京大虐殺」の犠牲者として突如持ち出した数字であり、三ヵ月とは、日本軍の占領により、南京が混乱に陥っていたとする期間である。こうした数字の剽窃やすりかえは、中国人は実に巧妙である。 さて、日本軍の南京攻略(一九三七年一二月)の前に、二つの南京事件というものがある。まずそれを説明しておこう。 第一次南京事件は、一九一三年八月、袁世凱(当時の中華民国大総統)の腹心・張勲が南京を奪取した際、日系商店や在留日本人を襲い、日本人十数人が虐殺された事件で、日本国内に対中強硬路線が高まる原因となった。 第二次南京事件は蔣介石が引き起こしたものである。 「(父は)眼鏡を奪い取られ、目が見えないまま二階から飛び降りたそうです。腹と足を刺され、父は重傷を負いました。(略)その時に着いていた血だらけの背広をわが家では大事にとっておりました」(門田隆将著『この命、義に捧ぐ』) 日本陸軍・根本博中将(当時は少佐で南京領事館付の駐在武官)の長女が語る、九死に一生を得た第二次南京事件の生々しい記憶だ。一九二七(昭和二)年三月二四日、南京の日本領事館に勤務していた根本少佐は、そこで南京事件に遭遇。乱入した中国人集団に素手で立ち向かったが、銃剣で刺され、深い傷を負った。襲撃した中国人集団は、蔣介石率いる国民革命軍の正規兵だった。北伐の途上にあった国民党軍は、その日の朝早く、南京に入城。当初は平穏であったが、程なく城内は騒擾状態に陥った。 国民党軍の一部兵士と「民間人」が日米英などの在外公館や居留地を襲撃、暴行・略奪を繰り返したからだ。事件当時、南京に居住していた日本人は、約五〇〇人。彼らは軒並み襲撃を受けた。日本領事館に侵入した中国人集団は日本公館員を襲い、金品を強奪するだけではなく、領事夫人を陵辱するといったショッキングな事件まで引き起こしている。 この、蒋介石軍による南京襲撃は、外交上の大事件だった。在外公館を宣戦布告もなく襲撃するなどというのは国際法上許される行為ではないし、まして虐殺、陵辱、強奪といった犯罪行為が平然と行われたのである。 当初、英米は揚子江に軍艦を出動させ、南京城内を砲撃し、数千の犠牲者と多数の家屋を破壊するという強硬手段を取った。ところが、その後の日本や英米による蔣介石追求は甘かった。当時、日本の大陸における権益拡大により、欧米国内においても反日機運が高まっていたことと、背後にロシア革命後のコミンテルン(国際共産主義組織)が動いていたこともあって、日米英が協力して事件処理にあたるという体制が取れなかったのだ。結局、各国が個別に交渉し、国民党側が賠償の責任を取る、というあいまいな形で解決している。実際、事件当時にソ連が国民党に送り込んだ政治顧問ボロディンは、コミンテルンの工作員だったし、南京に入城した第六軍・第二軍の政治部主任も共産分子だった。 そして、コミンテルンと中国共産党の狙いは、蔣介石軍兵士を暴走させ、蔣介石を世界から孤立させることにあった。したがって、日米英のある意味軟弱な追及は、中国共産党およびコミンテルンの謀略をこの時点で挫折させたと言えなくもない。この第二次南京事件を日本の親ソ、親中メディアや媚中学者が、一切無視し続けた理由もここにある。 もちろん、中国共産党も、敵対していたはずの蔣介石軍の南京における蛮行を政権樹立後も声高に非難するようなことはなかった。何しろ、自らが背後で糸を引いていたのだから、当然といえば当然だ。そして、日中平和友好条約が締結されるやいなや、過去の南京における惨劇を一緒くたにして、日本軍の蛮行として宣伝し始めたのだ。 ただ、中共は、この南京大虐殺を喧伝するにあたり、日本の世論に対する周到な準備もしていた。代表的なものが朝日新聞で一九七一年八月から連載が始まった、本多勝一記者の『中国の旅』である。これは中共が用意した証言者にインタビューしたもので、日本軍の南京侵攻における暴虐が、証言の裏を取ることなく羅列された、ジャーナリズムとして噴飯もののレポートである。 しかし、その記述を使った日教組が子供たちに自虐史観を教えることによって、南京大虐殺は瞬く間に広まっていった。またNHKは、七九年の後半、人民解放軍の全面協力を得て、「シルクロード」の撮影に入っている。このテレビ番組は、ウイグルに対する非人道的な侵略や、タクラマカン砂漠での核実験を糊塗し、ウイグルを中国領として自明のものとした、ある意味中共の宣伝番組だったのだ。 つまり、日本を代表する二大マスコミが、日本の世論操作のため、中共の下僕のごとき内容を報道したのである。このマスコミと中共の情報操作の関係は、後の章で詳述する。 では、逆に南京大虐殺について、中共はどのようなことを発表していないのか。 まず言えるのは、日本軍の南京攻略後、南京に人々が戻ってきているという事実である。実際に虐殺が行われていれば、命からがらやっと逃げた人々がその場所に「戻ってくる」などということは考えられない。 日本軍の南京への攻撃開始の約一週間前、南京の警察庁長官・王固磐は記者会見において「ここ南京には今なお二〇万人が住んでいる」と発表。南京安全区国際委員会(安全区を管轄する委員会)も「南京市内の人口は二〇万人」と発表し、南京陥落から一ヵ月後の一月一四日には、人口が「二五万人」に増えたと公表している。 人々が戻ってきたということは、平和が回復し、商店なども店を開け、それだけの働き口もあったということだ。また食料や水(南京では水道水および井戸水などは飲めない)などの生活物資も確保されていた。 占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、一人ひとり面接審査を行っている。その際、一〇歳以下の子供と六〇歳以上の老人は戦闘能力がないと判断され、無条件で審査から除外された。そして、民間人と認められた人々には「良民証」というものを発行している。その発行数は一六万人分を超えていた。このような事実も、中共から一切情報が流されていないもののひとつである。 また、南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、一〇〇名を超える新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入っている。その中には日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちも参加し、占領の状況を克明に報告している。既に仮想敵国であった日本軍が、国際法に違反する虐殺を行っていれば、彼らは大々的に報道したはずであるが、その中の誰一人として、「三〇万人の大虐殺」を報じていない。ただし、アメリカの一部の新聞に虐殺を想起させるような記事が出たのも事実。しかし、それらは、現地にいなかった記者が伝聞で書いたもので、なおかつ蔣介石政府の中央宣伝部に協力する記者によるもの(つまりスパイであったことが今日判明している)で、現地報道の大勢とはならなかった。 イギリスの英字新聞では日本軍が南京において中国人に食糧や水を配給し、中国人が喜ぶ姿が報道されている。他にも日本兵が、丸腰で南京の市民から買い物をしている姿や南京の中国人と歓談している姿などが、写真で報道されている。また中国人負傷兵を手当てする日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、破壊された街を、銃の代わりにつるはしなどを持って復興作業に従事する日本兵たちの姿も紹介されている。 一方の戦争当事者である国民党総統・蔣介石も、南京を脱出し武漢に臨時政府を置いてから終戦に至るまで、中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行い、また同様回数の外国人記者との会見も行っているが、ただの一度も、「南京で大虐殺があった」などと言っていない。南京は彼が生まれ育った街であり、これは非常に不自然なことだ。 ただし、前述した通り、彼の隷下の中央宣伝部が、外国人記者に日本軍の仕業とする偽写真や捏造写真(現在南京大虐殺紀念館に展示されているものの大半はこれである)を流し、国際的同情を引こうと画策したのは事実。しかし、それとても日本軍の組織的戦争犯罪を追及したものでなく、戦争につきものの敵を中傷する宣伝、プロパガンダであった。 もう少し、南京占領時の状況を見てみよう。当時の日本軍の司令官・松井石根大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じている。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」という感謝状を松井大将に手渡している。 ジョン・ラーベについては、その日記と称するものが、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』のネタ本になっているので、少し触れておく。ラーベはドイツ・シーメンス社の武器商人で、国民党政府に武器を売り込むのが仕事であった。当時、ドイツは国民党政府を支援していたため、ラーベはヒットラーに、日本の悪口をせっせと報告していた。ところが一九三六年の日独防共協定が日独伊三国同盟に進展しようとしていた矢先に、ラーベは日本への否定的な報告書を持って帰国、ヒットラーの怒りを買い失脚。ラーベの日記は、その恨みつらみが元となっており、決して公正な態度で書かれたものではない。またアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』も一時ベストセラーになったものの、あまりに歴史的誤りが多く批判が集中、本人はその後自殺している。 本題に戻ろう。前述したように、南京に住む欧米人らは「南京安全区国際委員会」というものを作っており、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、日本軍に提出。その取り締まりと治安の維持を求めている。それによると、日本兵によると思われる犯罪が四二五件報告されているが、大部分は伝聞にすぎず、そのうち殺人事件は四九件。その四九件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか二件で、いずれも国際法上合法と判断される内容のものでしかなかった。特にそのうちの一件は、民間人の服装で反乱を起こそうとした中国軍を取り締まったものである。 この「軍服を着ていない中国兵」は数多く目撃されている。例えば『南京戦史』という証言集の中で、橋本以行(もちつら)氏が、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちをこう語っている。「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない。彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられた」。同誌にはそのときの写真も掲載されているが、これが「大虐殺の証拠写真」として「南京大虐殺紀念館」に展示されているのだ。 南京の城壁内で、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」を目撃している。一九三七年一二月二二日の同紙に「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」と書いている。南京のジェームズ・エスピー米副領事も、「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服が街路の至るところに散乱しているのを目撃した」と報告している。 では、虐殺のようなことはまったくなかったのか。 南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうであったという。 『1937 南京の真実』には、日本兵の目撃談として「(通りかかった)この町には、かつて蔣介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」とある。 また梶村止(いたる)少尉は一九三八(昭和一三)年一月一五日の彼の日記に、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動中、近くの村人が中国兵に襲われ、救助を求めてきたというエピソードを紹介している。梶村少尉は一行三〇余名が現場に急行したときは、村を襲撃したとされる中国兵たちは逃走したあとであった。「自国の兵隊の悪事を敵軍に報告、討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一事にて判断できる」。なお、この中国人の村人たちは、駆けつけてくれた梶村小隊に感謝し、彼らになけなしの食料を提供し、名残を惜しんだとの記述も残っている。 前出のティルマン・ダーディン記者は、ニューヨーク・タイムズ紙で、南京攻防戦を控えた中国軍を「焼き払いの狂宴」と題して次のように記した。「一二月七日以降、南京へ向けて一五マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われた。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。……この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に二〇〇〇万ドルから三〇〇〇万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヵ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」。つまり中国兵は逃亡する際、日本軍に物資や食料が渡るのを恐れ、中国人の村や町を焼き払ったのだ。 本多勝一・『中国の旅』には、日本軍が行ったとされる「三光作戦」というものが出てくる。三光とは中国語では「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす」という意味だが、そもそも日本語にはそうした意味はなく、これは蒋介石軍が最も得意とした戦略である。『敵の顔』の著者サム・キーンは「敵は自我の否定的側面から構成される」という。すなわち、「貪欲さと残酷さ、加虐性など自己の否定的側面は敵の資質としてのみ認識し」、そうすることで「不安と罪悪感を縮小する」というのだ。アメリカ副領事ジェームズ・エスピーが行った前記報告にも、「中国兵自身、略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」とある。 まさに、外国人の目から見ても、当時の日本人の記録を見ても、略奪や殺人を犯していたのは中国兵のほうであり、日本軍ではないのである。 それにしても、人口二〇万人の都市で三〇万人を虐殺するなど神様でも不可能だ。この幼児でもわかる疑問を、『文藝春秋』の二〇〇五年八月号で櫻井よしこ氏が中国の知識人二人にぶつけたことがある。この時、中国側の一人、黒龍江省社会科学院研究員で近代史のエキスパートだという歩平氏は「歴史の事実は孤立して存在するのではなく、被害者の感情に関係する」「南京の三〇万という数字は単に一人一人の犠牲者を足していったものではなく、被害者の気持ちを考慮したもの」であると開き直った。中国から帰化した筆者が言うのもいささか気が引けるが、これが絶対謝らない中国人のメンタリティである。 大きな嘘ほど「バレない、見破られない」とよく言うが、「南京大虐殺」という大嘘は、日本から巨額のODAを引き出し続けるだけでなく、日本におけるナショナリズムの高揚を抑え、日本国民の防衛意識を萎縮させ、民間企業などにおける商取引においても、戦争責任の話を枕に振ると、交渉が中国側に有利に働くという実利までも生んでいる。さらにこれが村山談話や河野談話につながり、日本の内政に干渉するテコにもなっている。 ところで、筆者が生まれた瀋陽から約三三〇キロ北方に長春という都市がある。満州国の首都だった新京である。この都市は国共内戦中の一九四八年、林彪率いる共産党軍によって半年間包囲され、水も食糧も補給されない冷酷な戦略により、市民六五万人の餓死者を出したと言われる。戦争における犠牲という面では、ドイツが行ったレニングラード包囲戦と同様の悲惨さである。にもかかわらず中共政府は、これを「無血解放」と呼び、実態調査も研究もせず、歴史の闇に葬ってしまっている。それが中共のやり方なのである。 』 鳴霞・千代田情報研究会 著「あなたのすぐ隣にいる中国のスパイ」(飛鳥新社、2013年)p258-259 から引用。現代の中国における、軍内部の衝突について。 『 もともと、軍、武装警察、警察(公安)の仲は悪い。それぞれが権力を基盤とした裏ビジネスをしており、その利権をめぐってしばしば衝突が起きるからだ。軍内部でも衝突が起きるのだから始末が悪い。例えば蘭州軍区と、その管轄下の甘粛省軍区は利益配分をめぐって銃撃戦を展開、一二人が死亡、九〇人が負傷した。遵義駐屯軍と貴州軍区も、二六〇万元で購入したビルをめぐって銃撃戦を繰り広げ、五二人が死亡、九〇人が負傷。阿南の空軍格納基地では、当直の二人の軍人が、商売の利益配分でトラブル、互いに発砲して火災を引き起こし、航空機八一機が爆発、九〇人が焼死した。これらはほんの一例であるが、中国の公式メディアでは一切正確に報道されない。 』 |
○ヘンリー・S・ストークス ・加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス 著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」祥伝社新書、2012年 ・ヘンリー・S・ストークス 著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」祥伝社新書、2013年 ・ヘンリー・S・ストークス、植田剛彦 著「目覚めよ!日本 連合国戦勝史観の呪縛からの脱却」藤田裕行 編・訳、日新報道、2015年 ・ヘンリー・S・ストークス 著「外国特派員協会重鎮が反日中韓の詐偽を暴いた」藤田裕行 訳、悟空出版、2015年 ・ヘンリー・S・ストークス 著「英国人ジャーナリストが見た現代日本史の真実」藤田裕行 訳、アイバス出版、2016年 ・ヘンリー・S・ストークス 著「戦争犯罪国はアメリカだった! 英国人ジャーナリストが明かす東京裁判70年の虚妄」藤田裕行 訳、ハート出版、2016年 ・ヘンリー・S・ストークス 著「大東亜戦争は日本が勝った」藤田裕行 訳、ハート出版、2017年 ・ヘンリー・S・ストークス ・植田剛彦 著「日本が果たした人類史に輝く大革命 「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ」自由社、2017年 ・ヘンリー・S・ストークス 著「欧米の侵略を日本だけが撃破した」藤田裕行 訳、悟空出版、2017年 ![]() ![]() |
・デール・スミス著「司法殺人?」 〜デール・スミス氏はオーストラリア人高裁判事で、東京裁判を30年間研究して出した本らしい。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ○ジェームズ・B・ウッド ・ジェームズ・B・ウッド著「「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか」茂木弘道 訳、ワック、2009年 ![]() ![]() ○マイケル・ヨン ・マイケル・ヨン 著「決定版 慰安婦の真実」扶桑社、2018年 ![]() ![]() |
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この記事の全文を引用します。 『Hongは日本兵だった。日本兵の制服を着ていたので彼の戦争犯罪の責めは日本が負った。ひっきりなしに繰り返される韓国発のお話では,彼らは皆日本人の犠牲者と言うことになっているのは愚かだし不誠実だ。当時,数十万人の韓国人が日本兵として軍務についた。 同僚のメモ: Hong, Ki Song,別名 キッシズ トヨヤマ。「軍属」の非戦闘員。 タイ国・ビルマでの鉄道建設における最も嫌われた衛兵。 戦争捕虜をゴルフクラブで殴りつけることで悪名高い。 Hong/ トヨヤマは志願してその役割を果たしていた。 シンガポールの英国軍裁判所で死刑を宣告される。 死刑判決は後に終身刑に減刑された。 この顔写真は東京の巣鴨刑務所で米兵によって撮られたものだ 物語は本「クワイ河にかける橋」で触れられていた。 日本軍の被害者だったとアメリカ人とオーストラリア人に言っている韓国人は日本にさらなる補償を求めている … 彼らはどこにでもいる第三国の契約者のように,権力のある地位に就いたとき,だれも見ていないと過大な暴力を相手に「補償」してしまうのにもかかわらず。 』 |
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・Allan Clifton(アラン・クリフトン)著「Time of the Fallen Blossoms(桜の散るとき)」 |
(当サイト管理人の感想:この放送内容をみると、ずいぶんとレベルの低い感じがします。製作したのはアメリカではなくて中国なのではないかと感じます。日本がラジオ放送で中国軍の仕業だと嘘の宣伝をしたという話も、これは中国側のやり口であり、それを裏返して日本がやったと言っているようにみえます。(参照:![]() |
![]() ![]() ○福冨健一 ![]() 東條英機、A級戦犯、東條英機の家族などについて。 ○東條由布子(東條英機の孫) ![]() ![]() |
この動画(8分25秒付近から)で、東條由布子さんは、真珠湾攻撃について次のように語っている。 日本は暗号解読によりアメリカが昭和16年11月26日にハルノートを提示することが分かり、その内容があまりにひどいことから、ハルノートが提示される前日の11月25日に、日本の連合艦隊は単冠湾(ひとかっぷわん・択捉島)を出航し真珠湾攻撃へ出発した。アメリカは日本の外交文書・海軍文書の暗号を解読し、連合艦隊が出航したわずか1時間後には 単冠湾からハワイ真珠湾までの航路にあたる領海・領空を真空地帯に指定するという電報を全軍に打っているが、ただしハワイを守っているキンメル大将とショート中将には打電しなかった。そのため他の軍は動いていなかったが、キンメル大将とショート中将は様子がおかしいと艦隊を出したところ、(アメリカの)軍部はあわてて戻れと命じた。真珠湾では大事な船や新しい船は港を出ていて、古い船しかなかった。連合艦隊の航路はアメリカが逐次に把握していたことがアメリカの軍人(ロバート・B・スティネット)が1989年に出版した「真珠湾の真実」にすべて記載されている。 (当サイト管理人による注:日本語版は、ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」(文藝春秋、2001年)であるが、当サイト管理人の理解では、これはまだ説であって事実として確定したものではないと認識している。 参考: ![]() |
![]() ○小名木善行(ねずさん) ![]() ![]() ![]() 堀喜身子 松岡寛 吉田亀治 青葉園 青葉慈蔵尊 ![]() 調寛雅(しらべ かんが)著「天皇さまが泣いてござった」 ![]() ![]() |
この遺書のなかから抜粋。 『実は東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。』 『今次戦争の指導者たる米英側の指導者は、大きな失敗を犯した。 第一は、日本といふ赤化の防壁を破壊し去ったことである。 第二は、満州を赤化の根拠地たらしめた。 第三は、朝鮮を二分して東亜紛糾の因たらしめた。』 『日本は米国の指導に基づき、武力を全面的に抛棄(ほうき)した。これは賢明であったと思う。 しかし、世界全国家が、全面的に武装を排除するならばよい。 然(しか)らざれば、盗人がばっこする形となる。泥棒がまだいるのに警察をやめるやうなものである。 』 |
この動画の「動画解説」欄の説明のなかに、次の記述がある。引用文中の太字は、当サイト管理人による。 『 日本軍の捕虜収容所に収容された連合国軍の兵士達は、看守のほとんどが朝鮮人で非常に野蛮で残忍だったと書き記している。 「バターンの死の行進」では、その看守達のほとんどが朝鮮人で最も虐待的で、銃剣に血糊が付いていることが兵隊としての勲章だと思っていると記録されている。 タイとビルマを結ぶ鉄道建設の映画「クウェー川鉄橋」、(死の鉄道として知られている)では朝鮮人看守達が仕切っていた。 そこで働いていた連合国軍の兵士で日本軍の捕虜の1人の将校は、「朝鮮人は馬鹿で常に捕虜の取り扱いに関しては獣(ケダモノ)の様だった」と報告している。』 この文章の出典は、下の英語版ウィキペディアらしい。 ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ○KAZUYA ![]() |
・スイス政府編『民間防衛』原書房編集部 訳、原書房、1995年(新装版第9刷) 当サイト管理人も、読んでみました。「突き詰めて考えるとこうなるか」というのが、私の感想です。さすが、スイス。 この本の288〜289ページから引用します。スイスが占領された場合のシミュレーションですが、非常に示唆に富んでいます。 『 占領軍の洗脳工作 今や占領軍はわが国の全土を手に入れた。 彼らは絶対にわが国から出ていかないかのように行動している。 あるときは残忍なまでに厳しく住民を痛めつけ、あるときは反抗する住民を手なずけようとして、約束や誓いを乱発する。 言うまでもなく、彼らに協力する者が、どこでもわが国の行政の主要ポストを占めていて、すべてのわれわれの制度を改革してしまおうと占領軍に協力している。 裏切者にまかせられた宣伝省は、あらゆる手段を用いて、われわれに対し、われわれが間違っていたことを呑み込ませようと試みる。 彼らは、レジスタンスが犯罪行為であり、これはわが国が強くなるのを遅らせるだけのものだということを証明しようとする。 占領国の国語の学習がすべての学校で強制される。 歴史の教科書の改作の作業も進められる。 “新体制”のとる最初の処置は、青少年を確保することであり、彼らに新しい教義を吹き込むことである。 教科書は、勝利を得たイデオロギーに適応するようにつくられる。 多くの国家機関は、あらゆる方法で青少年が新体制に参加するようそそのかすことに努める。 彼らを、家庭や、教会や、民族的伝統から、できるだけ早く引き離す必要があるのだ。彼ら青少年を新体制にとって役に立つようにするために、また、彼らが新しい時代に熱狂するようにするために、彼らを洗脳する必要があるのだ。 そのため、新聞やラジオ、テレビなどが、直ちに宣伝の道具として用いられる。個人的な抵抗の気持は、新国家の画一的に統一された力にぶつかって、くじかれてしまう。占領軍に協調しない本や新聞には用紙が配給されない。 これに反して、底意のある出版物が大量に波のように国内にあふれ、敵のイデオロギーは、ラジオを通じて、また、テレビの画面から、一日中流れ出ていく。それは、あるいは公園の樹木に仕かけられたスピーカーから、あるいは町を歩く人に映像の形で訴えられ吹き込まれる。 だれでも公式発表以外の情報は聞けないように、聞いてはならないようになる。 教会は閉鎖されないが、そこに通う人たちは監視される。こういう人たちは容疑者扱いなのだ。学校では、あらゆる宗教教育が禁止され、精神的な価値を示唆することは一切御法度になる。 』 |
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![]() このサイトに、『昭和天皇は、「出光 佐三、逝く」として、「国のためひとよつらぬき尽したる きみまた去りぬさびしと思ふ」と詠まれました。』との記述がある。 |
・鬼塚英昭 著 「田中角栄こそが対中売国者である」成甲書房、2016年 |
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提岩里事件、朝日新聞、慰安婦問題などについて。 ・長谷川熙 著『崩壊 朝日新聞』ワック、2015年 |
○佐波優子 ![]() ![]() 欧米の植民地の状況と、日本の統治した朝鮮・台湾の状況について。旧日本兵の遺骨収集について。 ![]() 埼玉県さいたま市にある青葉慈蔵尊と、終戦後の満洲での悲劇について。 ![]() ![]() ![]() ○竹田恒泰 ![]() ○西川京子 ![]() ○稲田朋美 ・稲田朋美著「百人斬り裁判から南京へ」文春新書、2007年 ・稲田朋美著「私は日本を守りたい」PHP研究所、2010年 ![]() ![]() ![]() ○西田昌司 ![]() ![]() ○西村眞悟 ![]() |
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○三宅博 ![]() ![]() ○山田賢司 ![]() ○新唐人テレビ ![]() ○終戦後の状況 ![]() ○靖国神社の参拝について ![]() ![]() ○戦後賠償について 日本とドイツの対応は、ずいぶん異なっているようです。 (当サイト管理人による注: 日本は、中華民国・フィリピン・インドネシア・ベトナムなどに賠償・借款を支払っており、韓国には経済協力形式で支払っている。北朝鮮とは未解決。また、サンフランシスコ条約で連合国側(45か国)が賠償請求権を放棄し、この代償として日本は海外で保有していた在外資産をすべて放棄した。) (当サイト管理人の意見: ドイツは、主に、人種差別に基づく「ホロコースト」について謝罪し賠償している。ならば、欧米列強が、白人による人種差別に基づいて行った「有色人種に対する蛮行・残虐行為」についても、謝罪し賠償されるべきであろう。) ![]() ![]() ![]() ![]() |
上のサイトに、日本とアメリカの戦後処理について次の記述がある。 『●アメリカに対する戦後処理 アメリカは請求権を放棄したことになっているが実は違うのです。 ・在米日本資産の全てを没収 5千万ドル ・ 日本の占領に要する経費の全額 ?億ドル、いまに至るも2004年の在日米軍のページによれば、米軍駐留経費69億ドルのうちの49%を日本政府が負担している。 ・ガリオア資金(日本に小麦、脱脂粉乳などを食料援助)、エロア資金(ペニシリンなどの医療援助)などは全て利子つきで返還を要求され、総額は5億8千万ドル(戦後処理支出の最高額) 』 |
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このサイトに、次の記述がある。 「 対日援助額は、1946年度から1951年度までの累計で16億ドル弱であり、占領地域経済復興資金 (EROA, Economic Rehabilitation in Occupied Area) と合わせて18億ドルである。 西ドイツは、1953年に33.178%の返済率のもとで資金返済に関してアメリカと協定を調印した。日本は、アメリカとの断続的な交渉の上で、1962年に西ドイツの返済率にならって約5億ドルの返済協定を調印した。」 |
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この記事によると、韓国政府の経済企画院が「請求権資金白書」を過去に発行しているらしい。この「請求権資金白書」は、1965年の日韓国交正常化の際に日本から韓国に提供された5億ドルが、韓国でどのように使われたかを詳細に記録した韓国政府の公式文書である、と書いている。 |
![]() この記事のなかに、次の記述がある。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人によるものです。 『 戦後、ドイツは東西に分断され、平和条約を締結できなかったため、「国家間賠償」は延期、事実上放棄された。敗戦国ドイツに支払い切れない懲罰的な賠償を課し、ナチスの台頭を招いた第一次大戦の反省からだ。 1990年に東西ドイツが統一された際の2プラス4条約もドイツへの賠償請求権を認めていないというのがドイツ政府の立場だ。 「ドイツはギリシャの中央銀行から奪った金塊や虐殺に対し賠償する、東西ドイツが一つになったら支払いますと約束してきました。東西が統一したら今度は金融システムが1つになるまで5年待って下さいと言いました。しかし何も起きませんでした」 キミアさんは語気を強めた。金塊は今では10兆6000億円相当の価値があると報じられている。 95 年、ディストモ村の虐殺被害者遺族250人超が生命・財産の損害賠償を求めてギリシャ裁判所に提訴した。「ドイツ人の弁護士10人が支援してくれました」とミキアさんは振り返る。 第1審リバディア裁判所は2年後、「戦争犯罪は国家の主権的行為ではない」として、主権国家は他の国家の裁判権に属さないという「主権免除」を否定。加害国に対する戦争被害者個人の直接請求権を認める歴史的な判決を言い渡した。 』 『 ドイツのギリシャ占領は「ドイツ人はギリシャ人の靴ひもまで奪っている」(ムッソリーニ)と言われるほど過酷を極め、飢餓で20万〜30万人が死亡した。ギリシャ人の悲惨な記憶が今のユーロ問題にも複雑な影を落とす。 』 |
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・パウル・カレル、ギュンター・ベデカー 著 「捕虜 誰も書かなかった第二次大戦ドイツ人虜囚の末路」畔上司 訳、学研M文庫、2007年![]() ![]() ○日本の歴史教育について ![]() ![]() ![]() ![]() |
この記事の中には、次の記述もある。 『清水書院の日本史Bも、現行版は「日本軍の関与のもと…集団自決に追い込まれた人々もいた」としていた表現を「日本軍によって…」と変えた上、「日本兵による命令によっても集団自決をとげた」との記述も加えた。』 『清水書院の日本史Aは、「日本軍に連行され、『軍』慰安婦にされる者もいた」と記述。現行版の「慰安婦として連行される者もいた」との表現から強めたが、これも検定意見は付かなかった。』 |
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この記事の全文を引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人によるものです。 『 戦後、台湾の陸軍で「上将」(大将)の位についた日本人がいる。日本陸軍の元少将、富田直亮(なおすけ)(1899〜1979年)だ。その没後35年に合わせて初の法要が先日、台北郊外の寺院で営まれた。陸上自衛隊出身で富田の元秘書、台北在住の阿尾博政氏(83)らが、「埋もれかけた日台の絆を語り伝えたい」と準備したのだ。 富田を台湾に招いたのは国共内戦で中国大陸を失った蒋介石。49年から20年間、日本軍元将校83人をひそかに軍事顧問とし、台湾軍将校を再教育。軍の動員体制などを整えた。 赤(共産)軍に対抗する意味で団長の富田の現地名は「白鴻亮」とされ、顧問団は「白団」と呼ばれた。存在は87年の戒厳令解除後になって明るみに出た。 「軍事面での貢献が強調されがちだが、多数の工場を開設して退役軍人の力を台湾の経済建設につなげたのも、白団の功績だった」と阿尾氏は証言する。 法要には富田の次男で米ニューヨーク在住の重亮(しげあき)氏(77)ら団員の遺族や在留邦人ら約40人が集い、阿尾氏を会長に白団顕彰会も設立された。 日本統治時代とは対照的に、戦後のこうした交流は台北の軍事博物館などでも一切触れられていない。僧侶の読経の中、日台の関係の深さ、複雑さを思った。(吉村剛史) 』 |
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この記事の全文を引用します。 『 2015.6.18 07:00 【日韓国交正常化50年】 日本供与の5億ドル使途は? 浦項製鉄所建設へ23% 重工業発展に寄与 日本の資金5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)は何に使われたのか。 資金は1966〜75年に10次にわたり供与された。韓国メディアによると、5億ドルは65年当時の韓国国家予算の55%に当たる。 使用実績を産業別にみると、鉱工業が55.6%と最大。国土開発などの社会間接資本が18%、農林水産業が13.2%となっている。 具体的には、浦項(ポハン)総合製鉄所建設(73年に第1期工事完了)に約1億1950万ドル(資金全体の23.9%)が投入され、軽工業から重化学工業への転換に寄与。アジア最大の貯水量を誇った昭陽江(ソヤンガン)ダム建設(春川(チュンチョン)市、73年完工)に約2160万ドル(4.4%)、ソウルと釜山を結ぶ大動脈、京釜(キョンブ)高速道路建設(70年開通)に約690万ドル(1.4%)が注ぎ込まれた。 しかし、朝鮮日報は「(62年から10年間の)借款の7割は米欧からで、日本は2割にすぎない」と日本の貢献を過小評価する。 韓国の経済企画院が76年に発刊した「請求権資金白書」では、日本の資金に関し「60年代初頭から始まった経済開発5カ年計画を遂行するのに効果的に使用されたのは事実だ」と指摘している。(藤本欣也) 』 |
![]() ○朝鮮について ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・ヘンドリック・ハメル著「朝鮮幽囚記」生田滋訳、東洋文庫(平凡社)、1969年 ・シャルル・ダレ「朝鮮事情」金容権訳、東洋文庫(平凡社)、1979年 ・イザベラ・バード「朝鮮紀行」時岡敬子訳、講談社学術文庫、1998年 ![]() ![]() ![]() |
・室谷克美著「日韓がタブーにする半島の歴史」新潮新書、2010年![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○古代の朝鮮半島について ![]() ○百済との関係について ![]() |
このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図 武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)] 純陀太子 在日1世(日本に人質に) 斯我君 在日2世 法師君 在日3世 雄蘇利紀君 在日4世 和史宇奈羅 在日5世(和氏に改名して日本に帰化) 和史粟勝 在日6世 和史浄足 在日7世 和史武助 在日8世 和史乙継 在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る) 高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)] ・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。 彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。 逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。 ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。 また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。 さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。 そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。 』 |
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○バングラデシュについて ![]() ○著書など ・呉善花 著「韓国併合への道」文春新書、2000年(注:2012年に、「韓国併合への道 完全版」が出ています。) ・角田房子 著「閔妃暗殺」新潮社、1988年(注:1993年に文庫版(新潮文庫)が出ています。) ・アレン・アイルランド 著「THE NEW KOREA―朝鮮が劇的に豊かになった時代」桜の花出版編集部 編、桜の花出版、2013年 ・ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー 共著「「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945」塩谷紘 訳、草思社、2013年 ・K・カール・カワカミ 著「シナ大陸の真相 1931〜1938」福井雄三 訳、展転社、2001年 |
(注:原著は英語で、「Japan in China」の表題で1938年(昭和13年)3月にロンドンで出版された。著者のK・カール・カワカミは、 |
・高木清寿 著「東亜の父 石原莞爾」たまいらぼ、1985年(復刻版) ・角田順 編「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―」原書房、1967年 ・田中正明 著「「南京事件」の総括」小学館文庫、2007年(文庫版) ・東中野修道 著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」草思者、2006年 ・東中野修道・小林進・福永慎次郎 著「南京事件 「証拠写真」を検証する」草思社、2005年 ・ハーバート フーバー 著、ジョージ・ナッシュ 編「裏切られた自由 上・下」渡辺惣樹 訳、草思社、2017年 ・ロバート・B・スティネット 著「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」妹尾作太郎監訳、荒井稔・丸田知美共訳、文藝春秋、2001年 |
この本自体も非常に興味深いのですが、巻末にある中西輝政(京都大学教授)の「解説」が更に興味深い。 また、次のような文献批判もありますので参照のこと。 ![]() |
・ハミルトン・フィッシュ 著「ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言」渡辺惣樹 訳、草思社、2014年 ・ジェフリー・レコード 著「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」渡辺惣樹 訳、草思社、2013年 ・アラン・アームストロング 著「「幻」の日本爆撃計画」 塩谷紘 訳、日本経済新聞出版社、2008年 ・渡辺惣樹 著「日米衝突の根源 1858−1908」草思社、2011年 ・チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ著「リンドバーグ第二次大戦日記 上・下」新庄哲夫 訳、新潮社、1974年 ・会田雄次 著「アーロン収容所」中公文庫、1973年 ・ジョン・ダワー著「人種偏見 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流」斎藤元一 訳、TBSブリタニカ、1987年 (改題 「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」平凡社ライブラリー、2001年) ・ジョン・ダワー 著「敗北を抱きしめて 上・下 増補版 第二次大戦後の日本人」三浦陽一・高杉忠明・田代泰子 訳、岩波書店、2004年 ・カレイ・マックウィリアムス 著「日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944」渡辺惣樹 訳、草思社、2012年 ・金子俊夫 著「樺太1945年夏」講談社、1972年 ・長勢了治 著「シベリア抑留全史」原書房、2013年 ・田中正明 著「パール判事の日本無罪論」小学館文庫、2001年 ・江藤淳 著「閉された言語空間」文春文庫、1994年 ・甲斐弦(かいゆずる) 著「GHQ検閲官」葦書房、1995年 ・ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ 著「竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記」ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ監訳・監修、都竹恵子訳、ハート出版、2013年 ・ユン・チアン、ジョン・ハリデイ 共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」土屋京子訳、講談社、2005年 ・鳴霞・千代田情報研究会 著「あなたのすぐ隣にいる中国のスパイ」飛鳥新社、2013年 ・黄文雄 著「「食人文化」で読み解く中国人の正体」ヒカルランド、2013年 ・室谷克美 著「日韓がタブーにする半島の歴史」新潮新書、2010年 ・馬渕睦夫 著「世界を操る支配者の正体」講談社、2014年 ・池間哲郎著「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」育鵬社、2013年 (シリーズ日本人の誇り)桜の花出版 ・楊素秋 著「日本人はとても素敵だった 忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景(シリーズ日本人の誇り1)」桜の花出版、2003年 ・蔡敏三 著「帰らざる日本人 台湾人として世界史から見ても日本の台湾統治は政策として上々だったと思います(シリーズ日本人の誇り2)」桜の花出版、2004年 ・柯徳三 著「母国は日本、祖国は台湾 或る日本語族台湾人の告白(シリーズ日本人の誇り3)」桜の花出版、2006年 ・楊應吟 著「素晴らしかった日本の先生とその教育(シリーズ日本人の誇り4)」桜の花出版、2006年 ・桜の花出版編集部 編「少年の日の覚悟 かつて日本人だった台湾少年たちの回想録(シリーズ日本人の誇り5)」桜の花出版、2010年 ・桜の花出版編集部 編「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実 大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。(シリーズ日本人の誇り6)」桜の花出版、2006年 ・桜の花出版編集部 編「フィリピン少年が見たカミカゼ 幼い心に刻まれた優しい日本人たち(シリーズ日本人の誇り7)」桜の花出版、2006年 ・桜の花出版編集部 編「アジアが今あるのは日本のお陰です スリランカの人々が語る歴史に於ける日本の役割(シリーズ日本人の誇り8)」桜の花出版、2009年 ・原田要 著(証言者:西川清 氏)「零戦(ゼロファイター)老兵の回想 南京・真珠湾から終戦まで戦い抜いた最後の生き証人(シリーズ日本人の誇り9)」桜の花出版、2011年 ・桜の花出版編集部 著(証言者:西川清 氏)「朝鮮総督府官吏 最後の証言(シリーズ日本人の誇り10)」発行:桜の花出版、発売:星雲社、2014年 ・アーノルド・J・トインビー著「歴史の研究 1・2・3 《サマヴェル縮刷版》」長谷川松治 訳、社会思想社、1975年 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 更新 2024/10/20 |
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