一
明治二年(1869)大阪に舎密局が創設されて以来、昭和二十五年(1950)三高がその歴史を閉じるまでの、八十年間にわたる資料は、現在京都大学教養部(現、京都大学総合人間学部)の架蔵に帰している。教養部ではこれを「舎密局・三高資料」と呼び、図書館内に一室を設けて保管し、一定の条件の下で学内外の研究者の利用を認めている。多くは事務上の書類であるが、その資料的価値について申し述べたい。
「舎密局・三高資料」は量的な豊富さに於いて、旧制高校関係資料の中でも出色のものであるが、質的に見ても重要な価値を持っている。それは舎密局−三高が、近代教育史上において占めてきたユニークな地位の反映なのである。
明治十九年、森有礼文相は諸学校令の一つとして、中学校令を出した。それによれば、中学校は尋常中学校と高等中学校とに区分され、前者は府県立であり、後者は文部省直轄で、全国に五校を限り設置した。即ち第一〜第五の高等中学校、いわゆるナンバースクールである。第三高等中学校もその一つで、当時大学分校と呼ばれていたのが改称されたのである。三高の歴史は直接にはここに始まるといってよい。
明治二十五、六年頃、三高(編者注;当時は未だ第三高等中学校)で創立記念日の論議が行われたとき、高等中学校令が発布された明治十九年四月二十九日を記念日とすべきだという意見も確かにあった。しかし結局三高はこれをとらず、大阪舎密局が新築落成式を挙行した明治二年五月一日を開校の日と定め、文部大臣に上申したのである。この意識は三高(ここでは前身諸校を含めていう)では早くからあったもので、明治二十二年、三高京都移転の際の折田彦市校長の演説にも
「本校ノ興ルヤ、明治元年基ヲ大阪舎密局ニ開キ、爾来校名組織幾変遷、終ニ明治十九年第三高等中学校トナリ」
と述べているのである。
三高は舎密局開局をもって創立とすることによって、他の第一〜五の諸高校と異なる立場に立ったことになり、その結果、舎密局以来の十余年は、正式に三高の前史に編入されるに至った。折田が「校名組織幾変遷」と指摘したように、それは舎密局にはじまり、洋学校、理学校、大坂開成所、第四(のち第三)大学区第一番中学、第三大学区開明学校、大坂外国語学校、大坂英語学校、大坂専門学校、大阪中学校、大学分校、そして第三高等中学校と、実に十余度に及ぶ頻繁な校名の変更、それに伴う学校の性格の微妙な
変化をもって特徴付けられている。このような複雑な前史は、諸学校の中でも三高だけが持つものなのである。
東京大学は江戸幕府の昌平坂学問所、医学所、開成所等を母体としているが、舎密局も本来は開成所内に設置される筈であった。明治五年、東京に第一大学区第一番中学校、大阪に第四(のち第三)大学区第一番中学校ができるまで、東京と大阪との歩みに差はなかった。これら大学区の第一番中学校の成業者は将来大学に入学することとなっており、それらの中学校は実質的には当時の最高学府だったのである。ところが翌六年、第一大学区第一番中学校が開成学校、第三大学区第一番中学校が開明学校と改称されたとき、その名称こそ類似していても、内容はかなり異なるものとなった。第一大学区開成学校、第一大学区医学校は、明治七年には東京開成学校、東京医学校と改称されたが、翌八年の東京開成学校の教則によれば、同校は法学校、化学校、工学校、技芸学校、鉱山学校を合わせた総合専門学校であり、明治十年、東京開成学校と東京医学校とが合併して、日本最初の近代的総合大学である東京大学が生まれたのである。これに対して大阪の開明学校は外国語学校となり、その結果、関西は総合大学の発足において、東京よりも二十年も遅れることになったのである。
京阪は東京と並ぶどころか、東京よりも古い文化の伝統を誇っている。この地に東大に次いで、どのような高等教育機関を設けるべきかについて、この間、政府の方針は動揺し続けた。これが頻繁な校名変更の原因なのである。 東京大学の創立に伴って東京大学予備門(後の一高)が早く分化、成立した東京と、大学の創設が当面のスケジュールには上がっていなかった諸地域との中間にあるという京阪固有の事情が、三高に複雑な前史をもたらしたのである。
京大は明治三十年六月十八日、勅令第二百九号によって設立されたとし、この日を創立としている。創立の決め方が三高と違っており、従って舎密局以来の歴史は三高に継承され、京大の前史とはならなかった(編者注:東京大学は創立を東京開成学校と東京医学校とが合併した明治十年四月十二日としている)。しかし京大創立当初の『京都大学一覧には』「関西二一ノ大学ヲ設為セントスルノ議ハ、政府ノ夙ニ唱道セル所ニシテ、其経営ハ遠ク明治ノ初年、大阪ニ理学所ヲ置キタルニ胚胎シ」とあって、京大でも関西の大学の淵源を理学所(舎密局の後進)に求めているのである。
舎密局以前の歴史が三高に継承され、京大に継承されなかったのは、京大成立以前の明治二十六年に三高がすでに創立の問題に結論を出していたからでもあるが、重要なのは京大の成立の仕方である。東大に次ぐ第二の大学の創設については、三高を大学にするか、三高と別に作るかの二つの方法があった。結局は後者が選ばれたが、前者の方途も熱心に検討されていたのである。
関西に第二の大学を置こうとする動きは、明治十八年ごろから特に活発になっている。明治十八年に大阪中学校は「関西大学創立次第概見」を文部省に提出し、関西に総合大学の設置を求め、同年には大阪中学校は大学分校と改称され、本科として理・文を置き、別に予備科を置くことになった。しかし大学分校には実際には本科を置くに至らぬまま、第三高等中学校に移行した。
明治二十七年の高等学校令で、高等中学校は高等学校と改められたが、高等学校令の規定によれば、高等学校は「専門学科ヲ教授スル所」であり、「予科ヲ設クルコトヲ得」と規定されている。専門学科の教授こそが、当時の高等学校の中心的な目的であり、各高校には医学部と大学予科が置かれたのである。
その中でも三高はユニークな内容を持っていた。三高だけは医学部のみならず、法・工学部を置き、大学予科を置かず、むしろ大学への道を志向していた。(編者補:大学分校の)予科が廃止されることにより、予科の在校生が諸高校に転配されるという、いわゆる三高解散事件が起こったのもそのためである。
結果的にいえば、明治三十年、大学は三高とは別に設置され、京大は専門学術教育、三高は大学進学の予備教育、高等普通教育を担当することになり、両者の機能は分化し、舎密局以来の歴史は三高が受け継ぐことになった。しかし 京大が出来るまで三高は、関西の最高学府として、専門学術教育と高等普通教育とを未分化のままして来たのである。
先に述べたように「舎密局・三高資料」の重要性はその資料としての質の問題にある。京大が成立する明治三十年以前、とくに中学校令が公布される明治十九年以前において、三高が占めてきた地位は他の諸高校とも違って教育史上極めてユニークなものであり、それだけ研究する意義が高いのである。(編者注:原文でこの後にある舎密局についての上横手の注は「三高私説」“舎密局”の所に入れた)。
二
大阪にあった三高が明治二十二年(1889)京都に移転した意義は大きい。これは明治十九年の学校令で第三大学区の高等中学校が京都に設置されることになった結果である。移転が完了したのは明治二十二年八月であるが、三高の京都移転について忘れられないのは、知事北垣国道をはじめとする地元京都府の熱心な誘致運動である。
東京遷都によって沈滞におちいろうとした京都を救ったのは、槇村正直、北垣国道両知事らの進取的な府政指導と、府民の努力とであった。北垣知事は琵琶湖疎水工事によっても知られている。三高の京都移転に当たり、京都府は新築費十六万二千五百円の中、十万円を創立費として計上した。市民の関心も強く、京都新校の開業に当たり、三、四万人に及ぶ市民が校内を観覧したといわれ、三高の移転がいかに地元に歓迎されたかがわかる。三高、京大をはじめ、教授や学生と一般市民との親密感という、京都の美風もこのような条件の中で生まれたのである。
三高の移転によって、京都は関西における学術の中心となり、さらには世界的な学都とに発展する基礎を築くことができた。また三高が京都にあったことを前提として、八年後に第二の大学が京都に創められたのであり、さもなくば、それは大阪など他の都市に設けられた可能性が強い。そして三高・京大の自由の学風も京都という風土に培われ、育成されたものであり、種々の面から見て三高移転の文化史的意義は注目されなければならない。
さて三高が京都に移ってきた当時の敷地は、現在の京大本部構内である。本部構内西南隅にある赤煉瓦二階建ての中央部より西側に続く平屋一棟は、移転当初の物理学実験場であり、学内最古の貴重な建造物である。
明治三十年に京大が作られると、三高は京大に敷地を提供し、新たにその南に京都府から土地を寄付されて移転した。こうして二本松校舎が生まれ、三高はその後半世紀にわたってその地に住みつくことになった。二本松移転当初からの建物として残っているのは、現在の教養部(編者注:総合人間学部)正門と門番所である。
京大本部のある吉田本町は新しい命名であるが、二本松の方は、 江戸時代以来の地名であり、ここに二本の松があったことに由来する。この二本松は紀念祭歌などにも歌われて親しまれたが、大正年間の落雷と、昭和九年の室戸台風で二本とも倒れてしまったことは周知の通りである。
ところが江戸中期、正徳元年(1711)に大島武好が著した『山城名勝志』には、「社家の説に云ふ」として「当社(吉田神社のこと)はもと吉田山の西に坐す。文明中、神楽岡の麓に遷る。旧跡に今二株の松あり」(巻十三)と記している。すなわち吉田神社はもと吉田山の西、後の三高校地の位置にあったが、室町時代、文明年間に神楽岡麓の現在地に遷り、神社の旧跡には、今二株の松があるという社伝を記しており、二本松が正徳年間に存在したことを示している。二本松が字名になっている以上、松の由緒はさらに遡るであろう。名勝志より少し早く、貞享元年(1684)黒川道祐が著した『雍州府志』には、この二本松について「古、春日大神宮を勧請するの処」(巻九)と説明している。確かに吉田神社は平安時代に藤原氏が奈良の春日神社を勧請して創られたのであり、松の所在地は旧社地だったのである。
大正四年(1915)に刊行された『京都坊目誌』には、吉田神社の神楽岡遷座を応仁二年(1468)とする社伝を載せている。これだと文明年間とする名勝志の説よりもやや早くなる。吉田神社は応仁の乱の兵火で焼失し、復興が行われたが、文明十七年(1485)には「社頭今に造営なし。斎場に参るべし」(『親長卿記』四月二日条)とあり、延徳元年になってもなお「社頭は乱以来、未だ造り畢ふるに及ばず、神体は斎場所に御座するなり」(『宣胤卿記』正月八日条)という状態で、本殿の造営はかなり遅れたようである。従って吉田神社が山上に移ったのはやはり文明年間であり、応仁二年は罹災した年かとおもわれる。なお『坊目誌』に「往昔巨大なる二株の松樹ありし」とあるのを見ると、三高生が親しんだ松は、江戸時代からのものと別ということになるのであろうか。
これらの記録に見える斎場所は、文明十六年に吉田神社の祠官吉田兼倶が本社の東南、神楽岡の中腹に造った斎場所大元宮のことである。八百万神を祭る大元宮社殿を中心に、後方に内外宮、周囲に諸国の式内社三千余座を祀っている。兼倶は応仁の乱後の吉田神社の復興に努め、吉田(唯一)神道を唱道し、同社を日本最高の霊場にしようと試みるなど、神社の地位の向上を図った人物である。斎場所大元宮は節分には一般の参詣が許されていたが、最近は毎月一日にも開かれるようになったと聞いている。現在の本殿は桃山時代、慶長六年(1601)の建立であるが、吉田神道の理念を示した八角形の珍しい建築である。
三
舎密局の施設が極めて充実したものであり、そこでは実験を重視する高度の理化学教育が行われていたことは、科学史家の関心をひき、同局およびその教頭であったハラタマについては、研究も進められている。
しかし三高は専門学術教育とともに、高等普通教育を今一本の柱としており、三高の長い歴史からすれば、後者の方が結局は主流となったのである。その意味では三高の源流として、舎密局とならぶ洋学校に注目しなければならない。洋学校は舎密局よりわずか四ヶ月遅れ、九月十二日に大阪府下天満川崎の旧営繕司庁址で発足した。この洋学校と、舎密局改め理学所とが合併し、大坂開成所となり、以下前述の歴史を歩むことになったのである。
私が興味を抱いたのは、洋学校の開設に努め、その督務(校長)となった何礼之のことである。『稿本神陵史』に拠って、その経歴を略記すれば、次の通りである。
何は天保十一年(1840)長崎に生まれた。幼名を礼之助といい、礼之はヨシユキと読む。父は栄三郎で唐通事であった。弘化元年(1844)引退した父の跡を継ぎ、はじめは中国語を修行したが、のち時局を省みて英語を学んで熟達し、安政五カ国条約で安政六年(1859)長崎が開港されると、税関勤務を命ぜられた。文久元年(1861)ロシアの軍艦が対馬の芋崎浦を占領した際には、長崎奉行の命を受け、組頭に随行、折衝に当たった。
同三年、長崎奉行所の下で英語稽古所学頭に補せられ、幕臣、現地の役人の子弟、諸藩の学生らを教育したが、来たり学ぶもの多く、別に自邸までも私塾とする程であった。慶応元年(1865)奉行の後援で塾舎を新設したが、塾生は百数十名に及んだ。この年、奉行の求めにより英国海兵陸戦隊操典を翻訳した。=
慶応三年、幕府の命で江戸に赴き、開成所(東大の前身)教授職並となり、かたわら塾を開き、星亨(のち逓信相)らを教育した。王政復古とともに、明治元年(1868)七月上坂を命ぜられ、大坂にあった外国事務局(外国官)小松帯刀に従って重要外交事務の通訳に当たり、一等訳官に任ぜられた。同年十一月、大坂中之島の高松藩邸内に移り住んで塾を開き、濱尾新(のち帝大総長、文相)、奥山政敬(のち理学校管理担当、第四大学区第一番中学から大坂英語学校までの校長)らを教えた。塾は玉江橋の際にあったところから瓊江塾と名付けた。今のロイヤルホテルあたりにあったのだろうか。明治二年一月頃から関西大学設置を念願とし、寝食を忘れて奔走し、その結果九月、遂に政府は洋学校を大坂川崎旧営繕司庁址に仮設することとし、開校の運びとなり、十二月、何は洋学校督務を命ぜられるとともに、自ら講義をも担当した。この間、『経済便蒙』『西洋法制』らを翻訳出版している。明治四年十一月には特命全権大使岩倉具視の欧米差遣にあたり、一等書記官として随行を命ぜられ、本校との関係は絶えた。
明治五年には岩倉大使に従って米国にあり、幕末の安政条約の改定、馬関戦争の償金免除の会談にあたって、英和両文の対照翻訳に従事し、傍らモンテスキューの書物を解釈し、のちに『萬法精理』を出版する基礎を作った。同年、大使に先発してロンドンに渡り、イギリス・スコットランドの都市を巡視した。明治六年、岩倉大使に先んじ、副使木戸孝允と共に帰国、その後は駅逓寮出仕、図書局長、内務省大書記官、元老院議官、高等法院予備裁判官等を経て、明治二十四年、貴族院議員に勅選され、大正八年(1919)、七十九歳で東京で没した
『稿本神陵史』の記述には若干腑に落ちない点もあり、他の書物との食い違いもある。たとえば『稿本神陵史』によれば生年月日は天保十一年七月十二日、『明治維新人名辞典』は同年九月、没年に至っては、前者は大正八年、七十九歳、後者は大正十二年三月二日、八十四歳と大きな相違がある。読み方も『稿本神陵史』のヨシユキに対し、『明治維新人名辞典』はレイシ、『留学と遣欧米使節団』(週刊朝日百科日本の歴史』96)はノリユキである。姓の「何」を「ガ」と読んだのは確からしい。このようにいくつかの問題を残しているものの、『稿本神陵史』の記述は綿密を極め、今日これを超える詳細な何礼之伝は見当たらず、研究上の価値も高い。
何はほとんど研究されていない、埋もれた人物ではあるものの、一介の通事から国家枢要の外交問題に携わる一方、後進の教育にも深い関心を持ち、最後は官界で活躍したこの先覚的知識人の生涯には興味をそそられるものがある。
ところで私が注意を引かれたのは、次のように何には訳著が多いことである。
(1)『政治略原』
明治四年正月刊。原著はアメリカの政治学者ヨングの『フォルスト・ブック・オブ・シゥヰル・ゴウルンメント』(1868年刊)。政治学の入門書。序に「瓊江何礼、浪華天神橋南の僑居に書す」とあり、当時の何の住所もわかる。
(2)『世渡の杖』(『経済便蒙』)
明治五年正月刊。原著はアメリカで出版されたF.WaylandのPolitical economy。当時よく読まれた書物で翻訳も多い。門人の藤井宣が序文に「其辞俚俗にして読み易く、其意平淡にして解し易し」と記している経済学の入門書である。何の外遊後に出版され、『経済便蒙』は礼之の弟、『世渡の杖』は藤井が命名した書名で、啓蒙書を意図してのことである。
この両著は瓊江塾で教科書として用いたものの翻訳らしいが、
(3)『(英国)賦税要覧』(イギリス パキストル著。明治四年刊)
や、
(4)『米国律例(通法撮要)』(明治四年刊)
もある。いずれも内容は見ていない。『世渡の杖』の奥付にある(5)『富国財政録』
(6)『西洋耳食録』も同じ頃に刊行されており、何の訳書かと思うが、まったく内容は不明。『稿本神陵史』に見える(7)『西洋法制』もどういう書物か分からない。
以上が概ね入門書、啓蒙書であるのに対し、
(8)『萬法精理』
を刊行した意義は大きい。前述の岩倉遣欧使節団は五十人ものメンバーで、さらに六十人近い留学生を同伴したが、岩倉大使に次いで、副使が木戸ら四名、それに次ぐ一等書記官が四名で、何礼之のほか福地源一郎(旧幕臣、のち立憲帝政党党首。演劇改良運動にも尽力)らがいた。何はワシントンで木戸とともにアメリカの法律学者サミュール・ティロルと会い、西洋法制について質問したところ、モンテスキューの『法の精神』を読むように勧められた。明治七年に箕作麟祥が同書の英語版から一部を抄訳し、『明六雑誌』四、五号に「人民ノ自由ト土地ノ気候相互ニ相関スルノ論」を掲載している。何も英訳The spirit of lawsの一七六八年版を入手、これを翻訳した。和綴の十三冊本が出され、後一八七三年版によって洋綴二冊本が出されたようである。私が見たのは後者であるが、明治九年正月刊、木戸孝允の序文が付されている。別に鈴木唯一がフランス語から訳出した『律例精義』が出版されていたので、協議の上、何は第二十篇まで、鈴木はそれ以後第三十一篇までを分担したと序文に記している。しかし何が一旦ほぼ全訳を終えたのに対し、鈴木の翻訳は最初の三章だけだったとも云われ、そうだとすれば序文の分担の記述と矛盾する。鈴木が共訳者として明記されていないことと合わせて、刊行事情には不審が残る。巻頭に詳細な「孟徳斯鳩小伝」を加え、訳者の注を付すなど、周到な学術的翻訳で、この書物の最初の完訳者としての何の業績は、研究史に残るものである。奥書によって、当時の何の住所が赤坂区青山権田原町三十三番地であることも知られる。
(9)『民法論綱』
原著はJ.Bentham, Principle of civil code.ベンサムの原稿をデュモンが編纂し、一八〇二年『民法刑法の理論』をフランス語で刊行した。同著は三部作であるが、明治九年に何が『民法論綱』、十年から十二年にかけて林薫が『刑法論綱』、十一年に島田三郎が『立法論綱』をそれぞれ英訳から重訳し、この大著の完訳が行われた。永井義雄氏は緒言に見える何のベンサム論を「今日読んでも少しも古びていない」とし、その翻訳についても、内容を把握した格調の高い訳文と賞賛している。(『人類の知的遺産』44(講談社))
(10)『法律類鑑』(明治十年刊、原著者はマケンジー)
他に(11)『CDE新聞紙』(『上海出版CDE新聞和解』)を彭城大次郎らと共に八名で翻訳したものが、愛知県西尾市の岩瀬文庫に所蔵されている。おそらくは若年、長崎時代の仕事で、上海で出されたイギリスの新聞を翻訳したものであろう。未刊と思われる。
以上見たように、何の活躍は優れた語学力によるものであった。その英語は長崎において訓練されたものであるが、とくに長崎開港後のアメリカ人との接触が大きかったようである。その中にはフルベッキも含まれているが、彼はのち長崎時代の門下生大隈重信らの推挙で東京に出て、大学南校頭取となり、また政府顧問として教育・法律制度の諮問に応じている。岩倉遣外使節の派遣もフルベッキの進言によるものであるから、何がそのメンバーに加えられるについても、彼の推薦があったのかもしれない。(編者注:フルベッキの名前は折田校長との出会い 武間享次にもみられ、折田校長渡米時の推薦者であることが分かる。フルベッキは「この紹介状を携えている方たちは私の英語学校の若い友人達です。」と書いている)
何はその英語の能力を発揮し、多くの訳書を著した。かれ自身の著述は、まったく見られない。その翻訳も初期は入門書、啓蒙書であったが、後には古典的名著に及んだ。それは日本の知識人の西洋理解の進展度に応じたものだともいえよう。彼の関心は次第に法学に集約されていった。それは近代法体系を整備しようとする時期における官僚としての関心からくるものであろうが、モンテスキュー、ベンサムの最初の勝れた紹介者として、学問的にも高い評価が与えられて然るべきであろう。明治十年を最後として、著書がまったく見られなくなるのも不思議である。
(付記) 略
(昭25文乙)