6.古い同窓会誌から

同窓会報 1 三高終焉記(1951)

「はしがき」から

(抜粋)昭和25年1月24日、いよいよ三高最後の卒業生412名を送る日が来た。この日、校門を去る生徒、之れを送る教官職員、そしてこの最後の豫餞会に全国から馳せつけた千に垂んとする父兄同窓生を加え、心からなる「紅もゆる」「静かに来れ」が滂沱たる涙と共に唱和された。同窓会のご厚志と、三高にゆかりの鍵屋本店々主白波瀬四郎君(昭九・理甲)の犠牲的奉仕とにより、往時のそれとはくらぶべくもなかったとはいえ、なつかしい紅白の饅頭が卒業生の前途を祝福して卓前に供せられた。

「豫餞会告辭  校長 島 田 退 藏」から

(前略)君達は今校門を去る。そうして或いは東に或いは西に相別れておのおのその志す大学に進み、三年の間、この学校で学び得た教養の上に立って、それぞれの専門の学を究めようとしている。君達の前途は遼遠である。しかもその道は必ずしも坦々たる大道とのみとは限るまい。しかもどんな険難な道がゆくてを阻もうとも、君達はよくそれを克服して最後の栄冠をかち得るであろうことを私は信じて疑わない。(中略)
ただ君達にして、もしこれから先の人生行路に於いて何かの障礙にゆき当たるであろう時、疑惑の十字路にふみ迷うであろう時、その時は君達は静かに三高三年間の生活を思い出してくれ給え。三高八十年の伝統は、きっと君達のゆくべき道に力強い示唆を与えてくれるにちがいない。楽聖ベートーベンは、ある青年に
「あなたが苦しいことに出会ったら私のことを思いだしてください。そして私の音楽を聴いてください。そうしたら、あなたは力と慰めを見出すでしょう」
といったという。三高八十年の歴史は、また君達にそういうのである。
こうしたわれらの心の故里である三高も、君達の卒業の後まもなく無くなってしまうであろう。三高はなくなる。しかし、その精神までは滅びる筈はない。三高精神は永久に生きている。そうしてその精神を体得し得た最後の人は、実に君達であることを銘記してほしい。(後略)

INDEX HOME
grenz

同窓会報 67 三高資料と何礼之  上横手 雅敬(1988)

“三高略史”で簡単に三高の歴史を展望したが、上横手が簡にして要を得た記事を寄稿しているので、ここに収載しておこうと思う。この稿は筆者によれば1987年11月24日京都大学教養部で「舎密局・参考資料について」と題して筆者が行った講演に加筆したもので、多くの不備を残しているかも知れないと書かれている。明治の遷都で寂れかけた京都の町に活気を呼び起こすために、京都の先人たちは発電所の開設、市電の開設と先進的に取り組んだのであるが、その後の学問の街としての礎は、三高の京都移転によって置かれたのである。この論考では吉田神社と三高の切れない関係と吉田神社の略史まで考察されていて京都の人間としては興味深い。


明治二年(1869)大阪に舎密局が創設されて以来、昭和二十五年(1950)三高がその歴史を閉じるまでの、八十年間にわたる資料は、現在京都大学教養部(現、京都大学総合人間学部)の架蔵に帰している。教養部ではこれを「舎密局・三高資料」と呼び、図書館内に一室を設けて保管し、一定の条件の下で学内外の研究者の利用を認めている。多くは事務上の書類であるが、その資料的価値について申し述べたい。

「舎密局・三高資料」は量的な豊富さに於いて、旧制高校関係資料の中でも出色のものであるが、質的に見ても重要な価値を持っている。それは舎密局−三高が、近代教育史上において占めてきたユニークな地位の反映なのである。

明治十九年、森有礼文相は諸学校令の一つとして、中学校令を出した。それによれば、中学校は尋常中学校と高等中学校とに区分され、前者は府県立であり、後者は文部省直轄で、全国に五校を限り設置した。即ち第一〜第五の高等中学校、いわゆるナンバースクールである。第三高等中学校もその一つで、当時大学分校と呼ばれていたのが改称されたのである。三高の歴史は直接にはここに始まるといってよい。

明治二十五、六年頃、三高(編者注;当時は未だ第三高等中学校)で創立記念日の論議が行われたとき、高等中学校令が発布された明治十九年四月二十九日を記念日とすべきだという意見も確かにあった。しかし結局三高はこれをとらず、大阪舎密局が新築落成式を挙行した明治二年五月一日を開校の日と定め、文部大臣に上申したのである。この意識は三高(ここでは前身諸校を含めていう)では早くからあったもので、明治二十二年、三高京都移転の際の折田彦市校長の演説にも
「本校ノ興ルヤ、明治元年基ヲ大阪舎密局ニ開キ、爾来校名組織幾変遷、終ニ明治十九年第三高等中学校トナリ」
と述べているのである。

三高は舎密局開局をもって創立とすることによって、他の第一〜五の諸高校と異なる立場に立ったことになり、その結果、舎密局以来の十余年は、正式に三高の前史に編入されるに至った。折田が「校名組織幾変遷」と指摘したように、それは舎密局にはじまり、洋学校、理学校、大坂開成所、第四(のち第三)大学区第一番中学、第三大学区開明学校、大坂外国語学校、大坂英語学校、大坂専門学校、大阪中学校、大学分校、そして第三高等中学校と、実に十余度に及ぶ頻繁な校名の変更、それに伴う学校の性格の微妙な 変化をもって特徴付けられている。このような複雑な前史は、諸学校の中でも三高だけが持つものなのである。

東京大学は江戸幕府の昌平坂学問所、医学所、開成所等を母体としているが、舎密局も本来は開成所内に設置される筈であった。明治五年、東京に第一大学区第一番中学校、大阪に第四(のち第三)大学区第一番中学校ができるまで、東京と大阪との歩みに差はなかった。これら大学区の第一番中学校の成業者は将来大学に入学することとなっており、それらの中学校は実質的には当時の最高学府だったのである。ところが翌六年、第一大学区第一番中学校が開成学校、第三大学区第一番中学校が開明学校と改称されたとき、その名称こそ類似していても、内容はかなり異なるものとなった。第一大学区開成学校、第一大学区医学校は、明治七年には東京開成学校、東京医学校と改称されたが、翌八年の東京開成学校の教則によれば、同校は法学校、化学校、工学校、技芸学校、鉱山学校を合わせた総合専門学校であり、明治十年、東京開成学校と東京医学校とが合併して、日本最初の近代的総合大学である東京大学が生まれたのである。これに対して大阪の開明学校は外国語学校となり、その結果、関西は総合大学の発足において、東京よりも二十年も遅れることになったのである。
京阪は東京と並ぶどころか、東京よりも古い文化の伝統を誇っている。この地に東大に次いで、どのような高等教育機関を設けるべきかについて、この間、政府の方針は動揺し続けた。これが頻繁な校名変更の原因なのである。 東京大学の創立に伴って東京大学予備門(後の一高)が早く分化、成立した東京と、大学の創設が当面のスケジュールには上がっていなかった諸地域との中間にあるという京阪固有の事情が、三高に複雑な前史をもたらしたのである。

京大は明治三十年六月十八日、勅令第二百九号によって設立されたとし、この日を創立としている。創立の決め方が三高と違っており、従って舎密局以来の歴史は三高に継承され、京大の前史とはならなかった(編者注:東京大学は創立を東京開成学校と東京医学校とが合併した明治十年四月十二日としている)。しかし京大創立当初の『京都大学一覧には』「関西二一ノ大学ヲ設為セントスルノ議ハ、政府ノ夙ニ唱道セル所ニシテ、其経営ハ遠ク明治ノ初年、大阪ニ理学所ヲ置キタルニ胚胎シ」とあって、京大でも関西の大学の淵源を理学所(舎密局の後進)に求めているのである。
舎密局以前の歴史が三高に継承され、京大に継承されなかったのは、京大成立以前の明治二十六年に三高がすでに創立の問題に結論を出していたからでもあるが、重要なのは京大の成立の仕方である。東大に次ぐ第二の大学の創設については、三高を大学にするか、三高と別に作るかの二つの方法があった。結局は後者が選ばれたが、前者の方途も熱心に検討されていたのである。

関西に第二の大学を置こうとする動きは、明治十八年ごろから特に活発になっている。明治十八年に大阪中学校は「関西大学創立次第概見」を文部省に提出し、関西に総合大学の設置を求め、同年には大阪中学校は大学分校と改称され、本科として理・文を置き、別に予備科を置くことになった。しかし大学分校には実際には本科を置くに至らぬまま、第三高等中学校に移行した。
明治二十七年の高等学校令で、高等中学校は高等学校と改められたが、高等学校令の規定によれば、高等学校は「専門学科ヲ教授スル所」であり、「予科ヲ設クルコトヲ得」と規定されている。専門学科の教授こそが、当時の高等学校の中心的な目的であり、各高校には医学部と大学予科が置かれたのである。
その中でも三高はユニークな内容を持っていた。三高だけは医学部のみならず、法・工学部を置き、大学予科を置かず、むしろ大学への道を志向していた。(編者補:大学分校の)予科が廃止されることにより、予科の在校生が諸高校に転配されるという、いわゆる三高解散事件が起こったのもそのためである。

結果的にいえば、明治三十年、大学は三高とは別に設置され、京大は専門学術教育、三高は大学進学の予備教育、高等普通教育を担当することになり、両者の機能は分化し、舎密局以来の歴史は三高が受け継ぐことになった。しかし 京大が出来るまで三高は、関西の最高学府として、専門学術教育と高等普通教育とを未分化のままして来たのである。

先に述べたように「舎密局・三高資料」の重要性はその資料としての質の問題にある。京大が成立する明治三十年以前、とくに中学校令が公布される明治十九年以前において、三高が占めてきた地位は他の諸高校とも違って教育史上極めてユニークなものであり、それだけ研究する意義が高いのである。(編者注:原文でこの後にある舎密局についての上横手の注は「三高私説」“舎密局”の所に入れた)。


大阪にあった三高が明治二十二年(1889)京都に移転した意義は大きい。これは明治十九年の学校令で第三大学区の高等中学校が京都に設置されることになった結果である。移転が完了したのは明治二十二年八月であるが、三高の京都移転について忘れられないのは、知事北垣国道をはじめとする地元京都府の熱心な誘致運動である。

東京遷都によって沈滞におちいろうとした京都を救ったのは、槇村正直、北垣国道両知事らの進取的な府政指導と、府民の努力とであった。北垣知事は琵琶湖疎水工事によっても知られている。三高の京都移転に当たり、京都府は新築費十六万二千五百円の中、十万円を創立費として計上した。市民の関心も強く、京都新校の開業に当たり、三、四万人に及ぶ市民が校内を観覧したといわれ、三高の移転がいかに地元に歓迎されたかがわかる。三高、京大をはじめ、教授や学生と一般市民との親密感という、京都の美風もこのような条件の中で生まれたのである。
三高の移転によって、京都は関西における学術の中心となり、さらには世界的な学都とに発展する基礎を築くことができた。また三高が京都にあったことを前提として、八年後に第二の大学が京都に創められたのであり、さもなくば、それは大阪など他の都市に設けられた可能性が強い。そして三高・京大の自由の学風も京都という風土に培われ、育成されたものであり、種々の面から見て三高移転の文化史的意義は注目されなければならない。

  さて三高が京都に移ってきた当時の敷地は、現在の京大本部構内である。本部構内西南隅にある赤煉瓦二階建ての中央部より西側に続く平屋一棟は、移転当初の物理学実験場であり、学内最古の貴重な建造物である。

明治三十年に京大が作られると、三高は京大に敷地を提供し、新たにその南に京都府から土地を寄付されて移転した。こうして二本松校舎が生まれ、三高はその後半世紀にわたってその地に住みつくことになった。二本松移転当初からの建物として残っているのは、現在の教養部(編者注:総合人間学部)正門と門番所である。

京大本部のある吉田本町は新しい命名であるが、二本松の方は、 江戸時代以来の地名であり、ここに二本の松があったことに由来する。この二本松は紀念祭歌などにも歌われて親しまれたが、大正年間の落雷と、昭和九年の室戸台風で二本とも倒れてしまったことは周知の通りである。

ところが江戸中期、正徳元年(1711)に大島武好が著した『山城名勝志』には、「社家の説に云ふ」として「当社(吉田神社のこと)はもと吉田山の西に坐す。文明中、神楽岡の麓に遷る。旧跡に今二株の松あり」(巻十三)と記している。すなわち吉田神社はもと吉田山の西、後の三高校地の位置にあったが、室町時代、文明年間に神楽岡麓の現在地に遷り、神社の旧跡には、今二株の松があるという社伝を記しており、二本松が正徳年間に存在したことを示している。二本松が字名になっている以上、松の由緒はさらに遡るであろう。名勝志より少し早く、貞享元年(1684)黒川道祐が著した『雍州府志』には、この二本松について「古、春日大神宮を勧請するの処」(巻九)と説明している。確かに吉田神社は平安時代に藤原氏が奈良の春日神社を勧請して創られたのであり、松の所在地は旧社地だったのである。
大正四年(1915)に刊行された『京都坊目誌』には、吉田神社の神楽岡遷座を応仁二年(1468)とする社伝を載せている。これだと文明年間とする名勝志の説よりもやや早くなる。吉田神社は応仁の乱の兵火で焼失し、復興が行われたが、文明十七年(1485)には「社頭今に造営なし。斎場に参るべし」(『親長卿記』四月二日条)とあり、延徳元年になってもなお「社頭は乱以来、未だ造り畢ふるに及ばず、神体は斎場所に御座するなり」(『宣胤卿記』正月八日条)という状態で、本殿の造営はかなり遅れたようである。従って吉田神社が山上に移ったのはやはり文明年間であり、応仁二年は罹災した年かとおもわれる。なお『坊目誌』に「往昔巨大なる二株の松樹ありし」とあるのを見ると、三高生が親しんだ松は、江戸時代からのものと別ということになるのであろうか。
これらの記録に見える斎場所は、文明十六年に吉田神社の祠官吉田兼倶が本社の東南、神楽岡の中腹に造った斎場所大元宮のことである。八百万神を祭る大元宮社殿を中心に、後方に内外宮、周囲に諸国の式内社三千余座を祀っている。兼倶は応仁の乱後の吉田神社の復興に努め、吉田(唯一)神道を唱道し、同社を日本最高の霊場にしようと試みるなど、神社の地位の向上を図った人物である。斎場所大元宮は節分には一般の参詣が許されていたが、最近は毎月一日にも開かれるようになったと聞いている。現在の本殿は桃山時代、慶長六年(1601)の建立であるが、吉田神道の理念を示した八角形の珍しい建築である。


舎密局の施設が極めて充実したものであり、そこでは実験を重視する高度の理化学教育が行われていたことは、科学史家の関心をひき、同局およびその教頭であったハラタマについては、研究も進められている。

しかし三高は専門学術教育とともに、高等普通教育を今一本の柱としており、三高の長い歴史からすれば、後者の方が結局は主流となったのである。その意味では三高の源流として、舎密局とならぶ洋学校に注目しなければならない。洋学校は舎密局よりわずか四ヶ月遅れ、九月十二日に大阪府下天満川崎の旧営繕司庁址で発足した。この洋学校と、舎密局改め理学所とが合併し、大坂開成所となり、以下前述の歴史を歩むことになったのである。

私が興味を抱いたのは、洋学校の開設に努め、その督務(校長)となった何礼之のことである。『稿本神陵史』に拠って、その経歴を略記すれば、次の通りである。
何は天保十一年(1840)長崎に生まれた。幼名を礼之助といい、礼之はヨシユキと読む。父は栄三郎で唐通事であった。弘化元年(1844)引退した父の跡を継ぎ、はじめは中国語を修行したが、のち時局を省みて英語を学んで熟達し、安政五カ国条約で安政六年(1859)長崎が開港されると、税関勤務を命ぜられた。文久元年(1861)ロシアの軍艦が対馬の芋崎浦を占領した際には、長崎奉行の命を受け、組頭に随行、折衝に当たった。
同三年、長崎奉行所の下で英語稽古所学頭に補せられ、幕臣、現地の役人の子弟、諸藩の学生らを教育したが、来たり学ぶもの多く、別に自邸までも私塾とする程であった。慶応元年(1865)奉行の後援で塾舎を新設したが、塾生は百数十名に及んだ。この年、奉行の求めにより英国海兵陸戦隊操典を翻訳した。=

慶応三年、幕府の命で江戸に赴き、開成所(東大の前身)教授職並となり、かたわら塾を開き、星亨(のち逓信相)らを教育した。王政復古とともに、明治元年(1868)七月上坂を命ぜられ、大坂にあった外国事務局(外国官)小松帯刀に従って重要外交事務の通訳に当たり、一等訳官に任ぜられた。同年十一月、大坂中之島の高松藩邸内に移り住んで塾を開き、濱尾新(のち帝大総長、文相)、奥山政敬(のち理学校管理担当、第四大学区第一番中学から大坂英語学校までの校長)らを教えた。塾は玉江橋の際にあったところから瓊江塾と名付けた。今のロイヤルホテルあたりにあったのだろうか。明治二年一月頃から関西大学設置を念願とし、寝食を忘れて奔走し、その結果九月、遂に政府は洋学校を大坂川崎旧営繕司庁址に仮設することとし、開校の運びとなり、十二月、何は洋学校督務を命ぜられるとともに、自ら講義をも担当した。この間、『経済便蒙』『西洋法制』らを翻訳出版している。明治四年十一月には特命全権大使岩倉具視の欧米差遣にあたり、一等書記官として随行を命ぜられ、本校との関係は絶えた。

明治五年には岩倉大使に従って米国にあり、幕末の安政条約の改定、馬関戦争の償金免除の会談にあたって、英和両文の対照翻訳に従事し、傍らモンテスキューの書物を解釈し、のちに『萬法精理』を出版する基礎を作った。同年、大使に先発してロンドンに渡り、イギリス・スコットランドの都市を巡視した。明治六年、岩倉大使に先んじ、副使木戸孝允と共に帰国、その後は駅逓寮出仕、図書局長、内務省大書記官、元老院議官、高等法院予備裁判官等を経て、明治二十四年、貴族院議員に勅選され、大正八年(1919)、七十九歳で東京で没した
『稿本神陵史』の記述には若干腑に落ちない点もあり、他の書物との食い違いもある。たとえば『稿本神陵史』によれば生年月日は天保十一年七月十二日、『明治維新人名辞典』は同年九月、没年に至っては、前者は大正八年、七十九歳、後者は大正十二年三月二日、八十四歳と大きな相違がある。読み方も『稿本神陵史』のヨシユキに対し、『明治維新人名辞典』はレイシ、『留学と遣欧米使節団』(週刊朝日百科日本の歴史』96)はノリユキである。姓の「何」を「ガ」と読んだのは確からしい。このようにいくつかの問題を残しているものの、『稿本神陵史』の記述は綿密を極め、今日これを超える詳細な何礼之伝は見当たらず、研究上の価値も高い。

何はほとんど研究されていない、埋もれた人物ではあるものの、一介の通事から国家枢要の外交問題に携わる一方、後進の教育にも深い関心を持ち、最後は官界で活躍したこの先覚的知識人の生涯には興味をそそられるものがある。

ところで私が注意を引かれたのは、次のように何には訳著が多いことである。

(1)『政治略原』
明治四年正月刊。原著はアメリカの政治学者ヨングの『フォルスト・ブック・オブ・シゥヰル・ゴウルンメント』(1868年刊)。政治学の入門書。序に「瓊江何礼、浪華天神橋南の僑居に書す」とあり、当時の何の住所もわかる。

(2)『世渡の杖』(『経済便蒙』)
明治五年正月刊。原著はアメリカで出版されたF.WaylandのPolitical economy。当時よく読まれた書物で翻訳も多い。門人の藤井宣が序文に「其辞俚俗にして読み易く、其意平淡にして解し易し」と記している経済学の入門書である。何の外遊後に出版され、『経済便蒙』は礼之の弟、『世渡の杖』は藤井が命名した書名で、啓蒙書を意図してのことである。
この両著は瓊江塾で教科書として用いたものの翻訳らしいが、
(3)『(英国)賦税要覧』(イギリス パキストル著。明治四年刊)
や、
(4)『米国律例(通法撮要)』(明治四年刊)
もある。いずれも内容は見ていない。『世渡の杖』の奥付にある(5)『富国財政録』 (6)『西洋耳食録』も同じ頃に刊行されており、何の訳書かと思うが、まったく内容は不明。『稿本神陵史』に見える(7)『西洋法制』もどういう書物か分からない。
以上が概ね入門書、啓蒙書であるのに対し、

(8)『萬法精理』
を刊行した意義は大きい。前述の岩倉遣欧使節団は五十人ものメンバーで、さらに六十人近い留学生を同伴したが、岩倉大使に次いで、副使が木戸ら四名、それに次ぐ一等書記官が四名で、何礼之のほか福地源一郎(旧幕臣、のち立憲帝政党党首。演劇改良運動にも尽力)らがいた。何はワシントンで木戸とともにアメリカの法律学者サミュール・ティロルと会い、西洋法制について質問したところ、モンテスキューの『法の精神』を読むように勧められた。明治七年に箕作麟祥が同書の英語版から一部を抄訳し、『明六雑誌』四、五号に「人民ノ自由ト土地ノ気候相互ニ相関スルノ論」を掲載している。何も英訳The spirit of lawsの一七六八年版を入手、これを翻訳した。和綴の十三冊本が出され、後一八七三年版によって洋綴二冊本が出されたようである。私が見たのは後者であるが、明治九年正月刊、木戸孝允の序文が付されている。別に鈴木唯一がフランス語から訳出した『律例精義』が出版されていたので、協議の上、何は第二十篇まで、鈴木はそれ以後第三十一篇までを分担したと序文に記している。しかし何が一旦ほぼ全訳を終えたのに対し、鈴木の翻訳は最初の三章だけだったとも云われ、そうだとすれば序文の分担の記述と矛盾する。鈴木が共訳者として明記されていないことと合わせて、刊行事情には不審が残る。巻頭に詳細な「孟徳斯鳩小伝」を加え、訳者の注を付すなど、周到な学術的翻訳で、この書物の最初の完訳者としての何の業績は、研究史に残るものである。奥書によって、当時の何の住所が赤坂区青山権田原町三十三番地であることも知られる。

(9)『民法論綱』

原著はJ.Bentham, Principle of civil code.ベンサムの原稿をデュモンが編纂し、一八〇二年『民法刑法の理論』をフランス語で刊行した。同著は三部作であるが、明治九年に何が『民法論綱』、十年から十二年にかけて林薫が『刑法論綱』、十一年に島田三郎が『立法論綱』をそれぞれ英訳から重訳し、この大著の完訳が行われた。永井義雄氏は緒言に見える何のベンサム論を「今日読んでも少しも古びていない」とし、その翻訳についても、内容を把握した格調の高い訳文と賞賛している。(『人類の知的遺産』44(講談社))

(10)『法律類鑑』(明治十年刊、原著者はマケンジー)

他に(11)『CDE新聞紙』(『上海出版CDE新聞和解』)彭城大次郎らと共に八名で翻訳したものが、愛知県西尾市の岩瀬文庫に所蔵されている。おそらくは若年、長崎時代の仕事で、上海で出されたイギリスの新聞を翻訳したものであろう。未刊と思われる。

以上見たように、何の活躍は優れた語学力によるものであった。その英語は長崎において訓練されたものであるが、とくに長崎開港後のアメリカ人との接触が大きかったようである。その中にはフルベッキも含まれているが、彼はのち長崎時代の門下生大隈重信らの推挙で東京に出て、大学南校頭取となり、また政府顧問として教育・法律制度の諮問に応じている。岩倉遣外使節の派遣もフルベッキの進言によるものであるから、何がそのメンバーに加えられるについても、彼の推薦があったのかもしれない。(編者注:フルベッキの名前は折田校長との出会い 武間享次にもみられ、折田校長渡米時の推薦者であることが分かる。フルベッキは「この紹介状を携えている方たちは私の英語学校の若い友人達です。」と書いている)

何はその英語の能力を発揮し、多くの訳書を著した。かれ自身の著述は、まったく見られない。その翻訳も初期は入門書、啓蒙書であったが、後には古典的名著に及んだ。それは日本の知識人の西洋理解の進展度に応じたものだともいえよう。彼の関心は次第に法学に集約されていった。それは近代法体系を整備しようとする時期における官僚としての関心からくるものであろうが、モンテスキュー、ベンサムの最初の勝れた紹介者として、学問的にも高い評価が与えられて然るべきであろう。明治十年を最後として、著書がまったく見られなくなるのも不思議である。

(付記) 略

(昭25文乙)

INDEX HOME
grenz
 

同窓会報 21 三高時代の思い出  田中秀央 (1962)

田中秀央先生はギリシャ語、ラテン語の権威で、研究社の英和大辞典のはじめに英語について書いておられたが、現在市販されている新英和大辞典にも相変わらず載せられているかどうかは知らない。明治39年に三高を卒業されているのだから、文中にもあるように折田先生時代の在校生である。漱石の作品にもある東大のケーベル先生のことも出てくる。偶然なことに私は先生の最晩年、専門はまったく違うのだが、同僚として京都女子大に勤務して思い出も深い。先生は入学式や卒業式の日にはフロックコートを着け、胸には略綬を付けておられた。化合物名でよく出てくる7を意味するheptaと第七の月を意味するSeptemberに関連して伺ったら、hepta と septaはどちらも同じ語源の言葉で共に“七”の意だと教えてもらったことがある。こだわりのない、飄々としたありのままの率直な方だった。以下の回顧に見えるように、先生は謹厳な生活を三高時代も送っておられ、世に言う三高生の様子とは異なっている。旅順陥落の時の反応など明治期の三高生らしい"時代"を感じると共に、終始いかにも先生らしいなあと懐かしい。三高はいろいろな生き方を包含していたし、先生はまた晩年まで「自由」人であった。


私は明治三十六年三月に愛媛県立宇和島中学校を卒業して、幸いにその年(友人の谷川瑛君の話では、一部甲類の最年少者として)天下の三高に入学した。現在七十五歳の稍々長い私の生活において、最も嬉しかったことは、この天下の三高に入学できたということであった。当時を思い浮かべると、あの若かりし頃の白線三本の帽子が目の前にでてくる。その帽子は虫に喰われてなくなったが、徽章は大切に保存している。

三高に学んで特によかったと思うことはない。すべてが等しくよかったのだから、その中には京都の自然ももちろん入るのである。私は親の恩で、秩序ある自由のうちに青年となり、世の移り変わりには殆ど無感覚であったので、三高に入学しても、その象徴といわれる「自由」ということを、在学中殊更に意識したことはなかった。私は、二年生、三年生時代を浄土寺元真如堂にある尼寺念仏堂で過ごしたが、自然の好きな私は、毎土曜日には、独りで鹿ヶ谷から大文字山に登り、銀閣寺の北側に降りて来るのであった。また、毎月一度は白川口より比叡山に登って、坂本に降りるのを楽しみとしていた。何も「山には自由あり」と人のいう自由を自覚し、それを求めてではなかったろうが、何かしら、好きな美しい山を、独りで思うがままに、或いは歩み或いは休みながら、尊徳先生の「音もなく常に天地は、書かざる経を繰り返しつつ」を自分なりに体験し得て、人生行路の指針を見いだしたことは、三高に入学ができたことより生じた大きな賜物であって、今でも三高の精神に感謝している。

三ヶ年の三高生活中、特に印象深かった先生には、入学当初に面接して下さった古武士折田彦市校長がある。先生とは在学中ただ一回だけやっているかねというお言葉を受けただけだが、先生のお姿を校内でお見かけすると、いつも三高へ入ってよかったと思うた。また二年生三年生の時に、ドイツ語を教えて下さった榊亮三郎先生がある。先生のご専攻は梵語学であるので、明治三十九〜四十一年にかけて、京都帝国大学に文科大学が開設されるや三高で西洋史を講じておられた坂口昂先生と共に、大学の方へ籍を移された。当時の三高には雌伏して雲を待つ立派な学者がたくさんおられた。これらの立派な学者の三高教授としての晩年に親しく教えを受けた我々は幸いなりしかなである。榊先生のドイツ語の御授業は頗る厳格であった。おかげでドイツ語の力が正確に進歩した。あの特長あるアーバー(aber;編者注:しかしながらの意)の発音は、今でも耳底に残っている。我々は三年生一部丙類として、先生からAndersenのBilderbuch ohne Bilderを教科書としてドイツ語を教わっていたが、先生のご説明は決してお上手でもなく、ましてや面白いとは言えなかったが、何となく我々を引きつける力があった。事私事にわたって申し訳ないが、この授業の或る時、私は私特有の病気−−−甘いものを食べ過ぎると、天より罰せられて、三十分ほど眼がかすんだようになり、活字が鮮明に見えない状態−−−が起こった。それで仕方なく観念して、頭を支え眼を閉じていたところ、忽ち教壇の上から「田中は居眠りしている」との雷声が聞こえた。驚いて立って事実を申し上げたところ、ただ「そうか」との一声で、お互いに後は快晴、この人間的な温かい先生のお蔭で、私は大正九年の秋から京都帝国大学へ迎えられ、自分に与えられた天職に、東京帝国大学文科大学を卒業したときに、恩師ケーベル先生から給うたFestina lente(ゆっくり急げ)を信条として精進し、今日まで楽しく己の道を一筋に牛歩することが出来たのである。

また、英語の主任教授に伊藤小三郎先生があった。先生は、英文を読む場合でも、訳する際にもめったに自分の方で読んだり訳したりして下さらなかった。のみならず、或る生徒が誤読や誤訳をしても、先生の方から一々訂正して下さらず、誰か或る生徒が、その誤りと考えられる点について質問すると、詳しく親切に教えて下さるという風であった。このように先生の授業は或る意味では大学式教授であったので、下調べせぬ生徒は大して力がつかなかったようである。私も時々質問する一人であったが、私は「差し支えないですか」という時に方言的に「かんまんですか」と、いつも言ったらしい。そのため、本来せっかち性の私は遂に友人たちから「かんまん」という綽名をいただいた。

その他、西洋史の坂口昂先生、漢文の山内晋卿先生、ドイツ語の内田新也先生などは特異の存在であった。

先生のことを書いたついでに三高三年間の生活中の多くの友人達の中から、若干名を挙げると、瓢斎の号で、名天声人語子であった永井栄蔵君、英語の天才乾哲蔵君、柔道部の主将渓内式恵君、ボート部の主将野草省三君、「紅もゆる」の作者澤村専太郎君(以上故人)日本新聞学会長小野秀雄君、故山にあって晴耕雨読の歌人木村満三君や神戸在住の谷川瑛君などがある。

平凡単純な生徒であった私には、裏話的なものは全くない。ただ私の三高生活において、多少とも同級生のお役に立ったことがあったとすれば、先生に休講の交渉をする際に、時々級長のお供をして目的地に行き、無言のお供で我々の目的を達したことである。

寮生活には多少のおもいでがある。田舎の中学で祖母や親戚の許から通学して、寮生活の経験のまったくない私は、明治三十六年九月に天下の三高の寄宿舎に入り、北寮第六室を六人の友人と共に勉強室とし、其の二階の広い室を十二人(?)の友人と一緒に寝室にすることになった。私は夜九時には、独り寝室へ行くのであったが、他の方々は、午後十一時頃まで己が自恣、室に入ってきた。そのため、音には殊に敏感な私は、毎晩十一時ごろまではまったく眠れなかった。然し最初のうちは多くの友人と生活を共にし、心地よいラッパの音で食堂に行って、皆と一緒に食事をすることが珍しく、楽しいために、毎晩寝られないということの苦はうち消されていた。然し日を経るにつれて、この珍しさが薄らいで来ると共に、寝られないことが苦になってきた。たしか、その年の十二月のことであったと思うが、やむなく退寮せんと決心して、そのことを願い出た。校医の鈴木宗泰先生は、診察されて、トラホームでもなく、脚気でもなくどこもわるいところはないとのこと。それで舎監の林和太郎先生は、寮の規則に照らして、退寮を許可して下さらない。日を経るにつれて私には寮生活が益々苦しくなってきた。そこで親族の医師の手紙をたずさえて、再び林先生を訪ねて、「でも寝られないので、苦しいのです」と、熱心に御願いした。人を見る目のある林先生はついに許して下さった。

我々の三高時代(明治三十六〜三十九)、私は父母から毎月十五円の送金を受け,室代二円、食費六円(?)、雑費三円ほどで生活し、幸い、酒にも煙草にも縁が無いので、多少は本が買えた。四条や京極の方には全く足が向かず、私の行くのは、吉田山や法然院が主であった。その頃の法然院はほんとによかった。木魚の音と読経の声とは絶えることなく度々訪ねる私の心を洗ってくれた。私は今でも法然院が最も好きだ。絶えることの無かった木魚の音、読経の声は、悲しくも失われているが。

紀念祭については、殆ど思い出はないが、日露戦争の最中、明治三十八年一月旅順要塞陥落の快報来るや、我ら三高生は意気軒昂比叡山に登り、将門岩のところに、祝賀の記念碑(木製)を建て、声を限りに帝国万歳を三唱した。その後、約二十年を経て、再び第二の故郷京都の人となったとき、そこを訪ねたが、碑は跡形もなくなっていた。

神戸在住の外人との野球試合や一高との野球試合には、必ず観戦して青春の血を湧かし、声をからした。置塩や松田などという名と顔とが今でも眼前に現れる。

三高と一高とは、嘗てはよく比較され、我々は「自由」を、彼は「自治」を、旗標にしていたのであるが、私が京都帝国大学に奉職しているうちに気付いたことは、(或いは私の思い違いかもしれないが)、この旗標は、事三高に関する限り、次のような点でも現れていたようである。例えば、京都帝国大学文科大学や文学部で、誰か新しい教師を求める際、一高出身の教授や助教授達はあらかじめ会合して話し合うように思われたが(ある一高出身の教授にこのことを質したところ、彼氏は否定された)、三高出身者は、私の知る限り、聞く限り、そのようなことは全くなく、教授会で各自自由にぽつりぽつりと投票していたようである。これも「自由」の精神の発露であろうか。三高といい、一高というような一種党派的な狭い考え方は、よいことではないが、大正時代頃までは、そのようなことも、あながち悪いとのみ考えられていなかったようである。

三高は京都大学に吸収せられたので、同窓者の数は年と共に減少して行くことであろう。また、由緒ある自由の鐘の音は永遠に消えたなれど、我ら同窓者は、この世にある限り、我らの旗標「自由」のために、「秩序ある自由」のために各自の最善を尽くして、衆生の恩、祖国の恩に報いたいものである。

 
Festina lente

昭和三十六年十一月十五日

京都市北白川にて

(明治三十九年一部文卒)

 

INDEX HOME
grenz