特集2 同窓会報 14 続思い出 伊藤 英三郎(1958)
伊藤さんが『思い出』を発表されてから2年、同窓からの同様の思い出の寄稿を期待しておられたが、あまり寄稿されないので再び筆を執られた。またまた長文なのだが、ここでは京都はじめ各地の描写を中心に、当時の三高生の生活振りや各地の昔の面影を摘記した。京都から河内の金剛山まで歩いて登るというとても今では考えられない紀行文もある。おそらく100kmはある。或いはまた、熊野までの徒歩旅行、まるで平安時代の熊野詣である。昔の人のよく歩くこと歩くこと! 道筋には当時今は絶滅した“日本狼”がまだ出ると土地の人たちは語っていたことも分かる。つい先頃話題になったハレー彗星のことも話に出てくる。米が地方によっては、貴重な食べ物で節約を計った様子も出てくる。
|
三高に入学したのは明治四十年九月、乃ち今にして思えば、よくも半世紀以上も生き延びて来たものなる哉と、我乍ら感心する次第である。当時のことを考えると、日露戦争は中学三年に始まり、四年に終わったから、まだ初々しい印象があると言えたものであったが、さらにまた、日清戦争といえども、小学校入学前年のことであったから、感銘もまだ深いものがあった。(中略)
それはさておき、小生の三高入学の時代は日露戦争後のブームあり、デプレッションあり、その変遷をかさねていたものであった。しかしながら、今から顧みれば、物価の唱え値は、まだ依然として低位に在り、米が物価や生活状況の基準を為し、通貨の購買力はすこぶる大なるものがあり、一般の生活もやはり質実簡素なものであった。その時、三年生に、後の朝日新聞天声人語永井瓢斎氏有り、氏は輜重輸卒として日露戦争に召集せられ、終戦後、三高に復帰せられたものであって、「自分はトクの昔に大学生になってる筈だ」とあって、自ら大学生を以て任じ、詰め襟校服にも大学の金ボタンをつけておられた。画がウマく、紀念祭に売り出される絵はがきも専ら氏のものせられたるものであった。英語の伊藤小三郎先生が、「絵はなかなかいいが、線が少し太すぎる」と評しておられたものであった。当時は永井氏の金ボタンとは違うが、我々は、高等学校にハイると当然、そのまま、大学にハイれるものと為して、実に朗らかであって、大学に入学試験があるなどと言うような馬鹿なことは考えたこともなく、さらに進んで、就職のことなども一向に考えたことがなかったものであった。思えば、何という実に結構な罰当たりの身分であったのであろうかと考えられる次第であったのであった。
当時、日本山岳会が発足して間もない頃であり、何ということなしに、当時の時世とでも云うか小生どももよく山に登ったものであった。(中略)
金剛山には先に書いたテニスの選手と土曜の午後から草鞋履きで京都の下宿を出発、奈良で日が暮れた。その時別に郡山の男が、秋田の男を自宅に誘っていくのと途中同行した。秋田の男はすこぶる美声で、秋田追分というものを教えてくれた。ちょうど、尺八などにあるような頗る非常に長い長い節回しのものであった。テニスの選手はあまり熱心ではなかったが、郡山の男と小生とは、実に根気よく一生懸命に習ったものだった。しかし、なかなかソウソウは簡単に覚えられぬ。(中略)
お互いの会話にしても、東北の男と、九州の男とは、当時まだラジオなどもない頃だから、名詞、動詞からアクセントや話の表現の形式等があまりにも違いすぎてたので、皆目判らぬことが多かった。コンナ時には、第三国語として、未熟な英語とか、ドイツ語等を交えてフツフツ話してる内に、ヤット半分くらいは見当がついて来ると云うようなこともあったのである。
そんな風な状況でもあり、さらにこれが民謡とでも相成ると、技能的のことにも相成るので、秋田追分なるものなどは、実にむづかしいものだと思った。(中略)追分の文句は「桃の村から柳の里へ嫁を乗せたる渡し舟」というのであったが、それがなかなかもって覚えられぬ。「柳の里へ」とまでも行くか行かぬかの内に奈良に着いてしまった。そこで追分けの先生たちと別れて、テニスの選手と二人で始めて一膳飯屋にハイって夕食を取った。(中略)当時、日本では奈良以外ではこれを経験したことはなかった。極めて急角度に固めて盛り上げた小茶碗の一杯飯、これがすなわち一膳飯の名の生ずる所以である。別に二厘か三厘かの煮豆の小皿あり、ずいぶんオイしかったものであった。
それから、その頃、すでに麦が熟して蛍が飛び、三四日位の月が、ナダラカな生駒山に落ちかかってる平和な北部大和平野に、夕餉の煙が低く薄く漂う香りに浸りながら風のない静かな夜を南下して行ったものだった。ところがそのうちに何ともかとも疲れが出てきて、もう歩くのが嫌になり、今夜は郡山の男の家に泊めてもらおうじゃないかと言うこととなり、郡山で探し回ったが判らぬ。致し方なくまたまた歩き出した。夜が更けてくると、その頃、農家で養蚕をしているウチが起きてるだけであって、我々ももう眠くてたまらない。
そこで高田駅に入って腰を下ろしてしまったら、もう歩けぬ。眠ろうとしたが、蚊が多くてかなわない。それに、夜半を過ぎるとさすがにシンシンとして寒くなってきた。やむを得ず風呂敷とか、新聞紙とか、有り丈のものを背中に入れてみたが、どうにも寒くて寝られぬ。致し方なくとうとうまたまた歩き出した。
村の中にはいると、サッパリ道が判らぬ。話し声の聞こえるウチに近寄っていって、大きな声で道を聞くと、相手も寝たままで、事細かく長々と道順を教えてくれるのであるが、聴くとハタから前の話が判らなくなってしまう。それでも、どうにかこうにか見当をつけて、辿り辿って日の出頃、御所につき、駅前宿屋で朝食、朝日を背に受けて、東側から金剛山に登った。その暑いこと、疲れ切って喉が乾く。水音が下から聞こえてくる。少し下がって探してみると、ズットズット下の方だ。(下の方の音声はずいぶん高いところまでヨク聞こえてくるということは、後年山登りでよく経験したものであった)とうとうアキラメてまたまた登っていく。それでも遂に頂上に辿り着き、神社に参拝して、城址等を探りながら富田林に下り、汽車で京都に帰った。
当時の我々は、大学生とは、経済上は大分距離があって、それも致し方なしとあきらめていたものであった。当時1ヶ月食料は、寄宿舎で5円、素人下宿で6円、普通経常学資金月10円の時代に、毎月200円も使うという工科大学生(注;工学部学生)があった。酒造家の息とかで、専ら驚異驚嘆の的であった。ボートに行っても、石山では、大学生は柳家、我々は三日月、それも、皆、下宿の握り飯弁当持参だ。中には忘れてきたものあり、これが、三日月で中食を取る。飯櫃は皆でたちまち平らげてしまう。我々はよほどキバッタところで、鯉コク一杯三銭か五銭也かを取る位なものだ。そして一日中、岩窟造りの風呂に入ったり、出たりしている。
ある時、田島博士が大津で夕方、大学生十数人を連れて豪遊しておられたという話があり、その内に、誰かが探検すると、馬肉、酒は馬の小便のようなもので、もちろん、現在の二級酒のような器用なものの無い時代だから、多分他の上級料理屋の燗冷まし酒でも蒐集してきたものなんだろうか、うんと食って、うんと飲んで、頭割りにして、@アット(編者注:at, 単価)、十六銭五厘也。「大学の先生方でも、そうそうは、大したものではないワイ」等と余計なことをいう手合いもあったが、コンナ手合いは、「ハキダメにでも、タマには、鶴も下りる」という理論を知らない手合いなのであろう。
こんな連中である時、鞍馬を通って丹波との国境、大悲山に行ったことがあった。伝に曰く、清盛がここから清水に観世音を勧請したとかで、寺も神社もあった。蛍飛ぶ綺麗な流れで手足を洗い、神社のいろり端で夕食をいただいた。七八人居たのだが箸は十一本しかない。山菜あり、結構なご馳走であった。夜九時頃、そろそろ寝かかろうとしてると、神主が帰ってきて非常な勢いで、
「とうとうやりましたな」
と言う。
「何をやったんですか」
と聞くと、
「ハレー彗星と地球とが衝突したに違いない」
と言う。驚いて
「何かそんなことがありましたか」
と言うと、
「昨夜十時頃、ドスーンと大変な音がしたから、あれは確かに衝突したに違いない」
と言う。
当時はハレー彗星と衝突する可能性が多分にありとせられ、いったん衝突する曉においては地球の壊滅は必定也、今はこれまで、この世の限りに歓楽を尽くすベシと為して、全財産を飲んでしまったが、一向に地球は無くならぬというような風景がニューヨークあたりにもあった由。
当時、毎夕方、西の空に巨大な蒼白い光芒が、実に実に気味悪く太く長く長く、静かに天に中していたのを想起する。正に目を戴いてみる乱を思うの形也という奴であって、これが大昔のことならば、是れ天下大動乱の凶兆也と為して恐れられ、必ずや天下の人心を極度に惑乱せしめたであろう底の物騒な代物であったのである。
ある年の学年試験が終わったとき、二部甲工科の男と二人で梅雨の中を、日本でも雨量の多いとせらるる南紀方面へ、ご苦労様にも草鞋脚絆に傘を差して、雑嚢をさげて、泊を重ねて吉野でホトトギスや郭公を聞き、大峰山の行場を越えて、維新の十津川郷士挙兵のあった風屋に夜遅く辿り着き、日露戦争の時、旅順で戦死せられた山田少将の伯父様という方の家に泊めてもらったが、我々が上げてもらってから米を搗きだし、その間に干し芋を蒸かしたのが山盛りにして出されたが、我々は食前にそんなものをたくさんに食べては不作法だと思って少ししか食べず、米飯が出てから之を本式に相当分量食べたが、これははじめの芋を以て貴重なる米をセイブする儀礼なるを逆にやってしまった訳なる由。
それから、吊り橋や、籠の渡しや、激流に危険な渡し舟があったり、中食には豆腐を一丁ずつだけ(当時の一丁は大きく、なかなか食べきれなかった)煮てもらったりなどして、岩ツツジ盛りの瀞八丁をたずね、塩谷判官が病を養ったと伝えられる湯の峰温泉を経、請川から川舟で新宮に下った。まだプロペラ船のない頃、途中、日が暮れかかり、一人旅の僧が乗せてくれと川岸に座り込んで拝むようにして頼んでたが、流れが速くて如何とも致し方無く、流れすぎたこともあった。那智の瀧、熊野神社参拝、勝浦乗船、神戸で別れた。
二部甲の男は、それまでに途中、十津川で満月が出てから三里の山越えをして風屋に着いたときにはあまりにも疲れていた。この三里の山越えをば、そこに泊めてもらえるような家が無いものだから、やむを得ず強行したものであった。実はその前の晩に泊めてもらった家で、二部の男は疲れて早く寝てしまったが、小生は夜更けまでも、道順を詳しく教わっていた。ところがこの三里の山越えは高野山の次郎といわれる玉置山の中であって、夜は狼が出ると聞かされた。まさかと思ったが、ともかくも昼間の内に越してしまえばいいと思って、この話は、二部の男には話さなかった。ところが疲れてるものだから、道が意外にはかどらず、山越えの手前で日が暮れてしまった。ちょうど、満月が上がってきた。道が明るくなっていい気持ちだというので、二部の男は頗る愉快になり、荷を軽くするためにもう水筒の水もいらないだろうとて、流してしまった。しかるに、三里の峠の夜道はなかなか長く、その内に、二部の男は喉を乾かせてしまったが、峠のこととて水がない。彼はグッタリと倒れてしまって動けない。ヤット歩き出しても足が進まない。狼のことなど知らぬから腰を下ろしてしまったらなかなか歩けぬ。小生は気が気でなく、雑嚢を持ってやり、上着を剥いで持ってやったりなどして、それでも、とうとう夜遅く風屋に着いたことは着いたが、その時、小生が宿を頼み歩いて、水を貰ってきてやったら、彼はその間に筧の水をタラフク飲んで倒れてたが、そのまた、筧の水が、上段の田の水だったのには驚いた。そのためか、夏休み中、郷里の萩で下痢を続けていた由。
それから風雨の中を伊吹に登って、薬草保護のためとかで、入山料を取られてびっくりしたり、また、東山を越えて、大谷の走り井の水とか、かねよの鰻屋などの裏の方を牛尾山に抜けて、石山に出、瀬田川に沿って宇治まで下る道は、途中、岩間寺、立木観音などもあったと思うが、さらに、黄檗山や平等院にでるのは誠にいいコースであったが、川沿いの間の道は極めて細く険しく当時は通る人も稀であった。
これを教えてやったら、後年、朝鮮で開業した三部医科の男が独りで出かけたのだったが、大分道のりがあるのを測定を誤って、途中、日が暮れ、崖から足を滑らせて危うく流れに落ち込むところを、やっと木の根にかじりつき得たが、暗闇の中を無闇に這いあがらんとして、また、滑り落ちたりすると、それこそ危ないと思って急斜面の断崖で足を洗わんばかりの箇所に細い木の根に、一晩中、一生懸命掴まりながら、夜の明けるのを待っておったというような話もあった。
また、当時の追憶としては、梅は、柳生から入った月ヶ瀬の渓流、山科の辺りから南の方に広がった大梅林、桜は、大極殿枝垂れ彼岸桜、御室の五重の塔と三葉山ツツジの間の八重桜、嵯峨や嵐山の竹藪や青葉の間に混ざった山桜、嵐山の流れに沿った葉桜などがなかなかよかった。また、奈良公園の大きな杉に絡まる藤の花なども思い出が深い。尚また、五月半ばの頃、東山を縦横に通じている小径で、若葉青葉、ツツジの間、燦々たる日光をエンジョイして、少し汗ばみながら、半日を歩き回るのも誠に楽しいものであった。長岡天神の池と霧島ツツジ、同じく石山寺の霧島。紅葉では大原の三千院、粟生の光明寺、坂本の日吉神社、高尾栂尾槇尾、江州の永源寺、ならびに、石山寺の舞台前の紅葉などは懐かしい。清滝の清流と栗飯も印象が深い。初冬の頃、愛宕山裏渓谷で、正月の南天を育ててる部落の斜面なども清らかであった。また能勢の妙見付近から展望した保津川の狭い渓谷方面は、亀岡辺へかけて、延々として長蛇のごとく、冬季の濃霧が、ジッと、ふん詰まって凝結して動かない。その頑なにまでも見えるたたずまいは、あたかも、そのかみ、去就にノイローゼとなって、思い悩んでいた光秀が、愛宕山の連歌会でハッと気がついて自分でヒヤリとしてみたり、粽を笹の葉ごと喰ってしまって慌ててみたりしていた最後の何日かの期間を経過してしまった後に於ける光秀の大軍が、たちまち、老いの坂から本能寺への命令一下で将に怒濤の勢いを以て動きだそうとする寸前の気配でもあるかのように思われて、その白く凝り固まって動かない一連の濃霧は、一般義理の社会とは、くっきりと離れた別世界を画して、内向してひたすらその内部に閉じこもっており、何か知らんが内に深く蔵して爆発力でも抱いてるやの何ものかがあるかにも窺えるものがあったのであった。
当時の我々は、既記のごとく、高等学校にさえ入っておれば、必ず大学に入れるものと為して、極めてのんきに構えていたものであって、実に朗らかなものであったので、正に天下でも取ったような気持ちで、ただ、もう、誰に憚らずオオラカに天下国家を論じていたものであった。夜遅く書物を読んでると、月明らかにして星稀に、何とかが南に飛んだりして、風静かなる時、朗々と詩吟をしていく男がある。
さらにまた、美声を以て辻占売りが町を流して歩く。当年の都の夜はノドカであった。今でも覚えてる文句の一節は、曰く「通う雁がね浜千鳥、何とかの恋の辻占−−−−−−」というのであった。
左様な次第であって、ただもう、うかうかと三年を過ごしてしまったような訳であった。ところが、卒業間際になって急に大学に入学試験があるということになって、たちまちにして天下を震駭せしめたものであった。今まで、法科の奴は法科の奴はと羨ましがられた奴が、たちまちにして大恐慌、正に青菜に塩、皆がこうしては居れぬということになって、英法科は英語の試験だろうというので、卒業試験が済むとスグ六、七人で、英語の本を持って、叡山の宿坊に上がった。当時はまだなかなか厳重で、肉類はもとより、卵なども食べられなかったものであった。夏のこととて、朝四時半頃から、小僧さんが正直に朝飯だといって起こしに来てくれる。無論そうだろう、それまでに毎日のお勤めは済ませてしまってるのだろうから。ところが眠いから誰も起きるものは無い。それでも30分おきぐらいに、根気よく起こしに来る。とうとう九時頃に起こされてしまう。その時、皆のものが、勉強の片手間の「リクリエイション」として、三ヶ年間各地方持ち寄りの民謡を、南は沖縄から北は北海道のものまでもこれを蒐集整理して置こうじゃないかということになった。これらは三年間歩いて逢坂山または小関越えをして大津へボートに通った帰りに、舟賃十銭を出して疎水の小舟の、トンネル内にカンテラに照らされながら教え込まれたものであった。
また、三高医科のランニングの選手がボートを漕ぎに行くのに、その男一人だけで大津まで時折走って行くとかという話を聞いて恐れを為したものであった。また、小関越えは近いが、道は細く険しく岩がゴツゴツ出ていて歩きにくかったが、三井寺下に出ると、石清水で冷やした濃い牛乳があり、綺麗な娘がいると云うことで皆が二合も三合も牛乳を飲んでネバッテいたものだったが、三ヶ年間、誰も見たものはなかったようだったと、云うような笑い話もあった。(これは多分先輩がボート奨励のための創作だったのかとも思われた。)ところが皆がこの民謡大結集に取りかからんとしかけた途端に、例の後年スイスで客死した男が『財布がない。この宿坊がどうも怪しい』といいだしたので、たちまち皆が総立ちになり、部屋中を皆で探したが無い。遂に念のため、大津から不動寺を通った登山道を探すこととなり、雨の中、小生が一緒に傘を借りて歩いた。ところが、さすがは天下の霊場だ。昨夕、途中で崖から落ちる水を飲んだ箇所に、九十七銭五厘だったか在中の財布が、水底に鎮座ましましていたので、皆がほっとしてケリ。しかしお蔭で、地方民謡集の結成はお流れとなり、爾来、その機を逸して、あったら五十年、未着手、未完成のままと相成ってしまった次第であるのである。入学試験の方は、幸いなことに、その年は無いことと相成り、誠に喝采を叫んだ次第であった。(後略)(明治43・一部甲卒) |