§古い同窓会誌から--伊藤英三郎特集

特集1  同窓会報 9 思い出   伊藤 英三郎(1956)

伊藤さんは明治四十三年の卒業生だから、ずいぶん古い卒業生ということになる。でも、読んでみるとそれほど学校の内容や雰囲気が違っているとは思えない。それほどに三高の伝統や校風は、長く古い。先生方の講義内容も、維新後40年の当時、すでに高度な学識を背景に内容の高いものが、行われていたことが読みとれる。三高受験の前の兄さんの指導ぶりにも余裕が感じられて、今の教育ママには薬になろう。これから学ぶ京都の地を足でまず勉強させ、土地の魅力を感じさせたとも思える。折田校長のことも記されている。以下、三回に亘る寄稿に三高生活が鮮明に活写されている。何しろよく歩かれる。京都から大津までは歩くのが当たり前、思い立てば友人と金剛山、果ては熊野へ。世間でよくいわれる明治の人の長寿の秘訣はやはりこの歩行にあるのかもしれない。


昨年阪倉先生を迎えて上野精養軒で若葉の頃東京支部大会が催された。小生はどういうものか毎年青葉の頃になると、ふとしたことで阪倉先生の「源氏物語」講義を思い出す。隣室一部乙の部屋から甲高い講義が洩れてくる。桐の花の甘い香りにウットリと眠くなる頃、懐かしい若い年の思い出である。その頃一部甲でも先生から課題が出されて「葵の巻の全篇中に於ける意義に就いて」とかいうような研究を書かされたことがあった。

明治四十年四月郷里に近い姫路中学校を出て三高を志望した。当時家兄が二部乙農科にいた。その下宿にたどり着いた。平安神宮の裏に畑があり、そこに植木畑を持ってる植木屋の二階六畳の窓際に兄弟二人高い机を据え、椅子に掛けた。ランプを一つ宛置いた。ホヤを掃除してよく壊したものだ。水道はなく内井戸があった。平安神宮の裏庭も今のようなコンクリートの塀はなく、植え込みでところどころ山桜が清楚に咲いて“柳桜をこきまぜて”の風情があった。

家兄は「マア呑気にやって体を鍛えるんだ」という。それを真に受けて袴下駄履きで毎日のように東山、西山、北山、大津、伏見、宇治、叡山などを歩き回った。ある時は雲母坂下の渓流から四明嶽直下の急崖をまっすぐに這い上がって、下駄履きのこととて上がりもならず下りもならず、崖にへばりついたままで閉口したこともあった。
試験前二週間ぐらいになると、家兄は「サア勉強しろ」という。これには驚いた。山を歩いてればいいのかと思ってたのに(もっとも考えてみれば少し話がうますぎるが)それならそれともっと早く云ってくれればいいのにと家兄を恨んだものだった。

体格検査の日の印象としては番号で時間の見当を付けて行くと一人好もしそうな男が袴で立ってる。無論ホッて置けばよかったんだがツイ「どうしたんですか」と聞くと「僕の下駄が無くなったんです」という。検査が済んで出てくるとまだ壁際に立ってる。「それでどうするんですか」と言うと「最後まで待って残ったのを履いて帰ろうと思っております」と言う。豪い男だと思った。これがテニスの選手になり、正金銀行に入り、本店から東京支店に転勤を命ぜられたが、自分は本郷の下宿にいるのだからと言って転任旅費を辞退したり、外国勤務から嫁探しに帰国して見合い結婚を排除し、首尾よく理想のお嫁さまを電車の中で発見した。その後北九州辺炭礦会社の役員になっている男だ。

ともかくも入学できた。割合に成績はよかったようだ。当時経常学資金は月十円、そのうち、食費は寄宿舎は五円だが素人下宿は六円、家兄と二人で二十円家から送ってもらう。地方の家としては実に大金だったものでまことに済まないと思ってる。ある時郵便為替を取りに行くと二十円金貨一枚を渡された。後にも先にも小生流通市場で金貨を入手したのは海外は別として日本ではこの時だけだ。当時の旧二銭銅貨くらいのものだ。ひそかに掌に載せてみると確かに重い。爪でヒッかいてみると軟らかいようにも思える。爪先でつまんで別の爪で弾くとチーンと好い音がする。本物らしい。黄金色で実に良い色だ。ところが下宿では釣り銭がないとかいって受け取ってくれぬ。大の男が二人、二銭銅貨一枚くらいの金で一ヶ月を暮らすのかとナサケなくなったことがあった。

折田校長は通学の途次時折お目にかかったが、お話は承ったことはほとんど記憶しておらぬ。式の時など吃々として言葉少なに説いておられたように覚えてる。名校長だと云われていたが判らなかった。大きな声でものを云われたことも、笑われた顔も、怒られた顔も見たことはなかった。当時の大学総長菊池さんとか木下さんとかにも途上ときどき出会ったことがあったが、もちろんお話は承ったことはない。大学の先生には織田先生、末広先生に罷り出てときどきお話を伺った。その他先輩、坊さま、土地の顔役などを訪ねて歩いた。だんだんおもしろくなって、これは東京に行っても継続した。

当時の三高教授でもっとも小生の影響を受けたのは野々村直太郎先生だった。郷里の三治協会夏期講座で「宗教と倫理」の講演を聴いたのが始めで、三高では「倫理心理論理」を教わった。「狗供養」というある宗教雑誌に書かれたもの、後年の「宗教概論」「浄土教批判」等は耽読したものだ。小生日本銀行の諸処支店長歴任の度ごとに酒の肴になりそうなその地名物を差し上げると伊藤公愛蔵北条時頼書の写しとか護王神社猪の鋳物とかを送って下さったことがあり珍蔵している。

山内晋郷先生の漢文も変わっていた。やはりある宗教雑誌に先生の書かれた「無」というのを拝見したことがあった。乱杭歯の口を大きく開けて「ソーヤア」といわれる。「人間一日中寝間着一枚で暮らすようじゃイカン。カイゼル・ウイルヘルムは外国元首、内外使臣等に接見するため、その他文武公私の場合に臨席のために、一日に十二三回も服装を変える」といわれた。ある時試験成績の批評に赤ぎっぷ何枚、青ぎっぷ何枚と一々麗々と氏名を挙げられる。小生の名がないと思ってると、白ぎっぷは一枚だけだとして小生の名を挙げられた。その次の試験の後は、もうこんな面倒なことは言われなかった。誰かが今度は白ぎっぷはありませんかと尋ねた。先生は今度は無いと言われた。

小生はその頃から山登りを始めていた。付近の比叡、愛宕、伊吹、比良、大悲山などに登り田の上山で水晶を採った。大文字山から大津への山で梅鉢石を採った。その他、鷲峯、吉野、大峰、高野などに登った。桜、若葉、紅葉の季節には朴歯の下駄で歩き回った。下駄は二十里あまり歩くと駄目になった。
当時日常通学に小倉のズボンをタクシ上げ兵隊靴を履いて、一緒に歩いていた同じクラスの一人に、後年朝鮮行政官から外交官に転じスイッツル大使館詰めになり、ある年、秩父宮殿下ご病気見舞いにこれから粥を差し上げに行くなどと通信してくれていたが、不幸任地で亡くなった友達があったが、この男とその当時一週に一度叡山に登ることにすれば一年に五十回くらい登れるから、やろうじゃないかということになり、水曜日だかの午後に一時間だけしか授業が無く、これは吉村先生の「ヒューマン・インターコース」の時間だったが、これを休んで二人でコンデンスミルク一缶持ち弁慶の力水で存分飲んで帰って来ると、無断欠席で級友に迷惑を掛け、それっきり雄図挫折したことがあった。
こんなことをしていたので、おかげで足は達者になり、後年、日本アルプスその他の山々、アメリカでも日米為替が最高52ドルもした頃、ロッキー山中ロングスピ−ク、シアトル後方のレニア山、ニューイングランドのホワイトマウンテンズ、カナダ国境に近い氷河国立公園などにも登った。欧州ではモンブランやユングフラウなどへ乗り物で行けるところまで行っただけだったが。

厨川白村先生は恩賜の銀時計を机の上に出して講義せられ「ソウデサアー」とか言われるのが如何にも小生らには異様に聞こえた。後年住友銀行幹部になって不幸亡くなった男が主となって「文学十講」をやって貰い、後に出版せられた。小生は時折適訳だと賞められたことがあったが、そのほかにあまり印象は残らぬ。ご夫婦で当時まだ空き地の多かった岡崎の通りを夏の夕方散歩せられると云う噂があったが、小生は会ったことはなかった。その後漱石の小説登場人物中に居られるとかの噂があったが果たして如何乎。

成瀬無極先生はいかにも軽妙な綺麗な適訳をせられ若くユーモラスな方であった。

平田元吉先生は真面目な方であった。「ワーレン、ヘスチングス」をドイツ語のような読み方で講義せられた。後に朝鮮法務官になった男が「いつでもよく眠れるようにするには、どうすればいいですか」などと進行を阻止するために雑談を入れて聞くと、先生は「イツでも睡眠不足にしておくのです」といわれた。

伊藤小三郎先生の英語は実に良かったと思う。「ヘンリー、エスモンド」の講義で「ユー、ウアー、オール、ユア、アイズ」という「エスモンド」小児の時の形容があった。「マルデ目ばかりで鳥の子の様だった」といわれた。「ラテン語」も教わった。「アルス、ロンガ、ビタ、アレビス」とか「ソムヌス、プルクラ、イマゴ、モルチス、エスト」「スム、アグリコラ何とか」というぐらいしか覚えて居らぬ。

前川先生の「東洋史」中、欧州勢力の東漸ならびに米露相次いで到来などの項は 深刻に考えさせられた。また、同先生の「ポリチカル、エコノミー」中「ロシアも肥料に人糞を使う。ただし煉瓦のように干し固めて用いる」といわれた。

中村先生の「西洋史」は良い講義だった。ルネッサンス、科学、航海術の発達、宗教革命、フランス革命、ナポレオンの出現、イギリス、プロシャの勃興、特に印象深かったのは宗教画、マリア容貌の変遷などであった。また、同先生の「フランス語」講座で「ナポレオン」の発言を直された。

内田先生の「ビルゲル、クンデ」の時間に「時間中、便所に立つには、イッヒ、ハーベ、アイネ、ノートヴェンディッヒカイト。ビッテ、ラッセン、ジー、ミッヒ、ゲーエン、アウス とやればキット出してくれます」と聞かされて、ちょうど、一部丙の連中が休講で野球をやってたから、一ツやってみようと思い「イッヒ、ハーベ・・・・ 」とゴツゴツやりかけると、まだ「ビッテ・・・・」とも云わぬうちに霊験たちまちイヤチコ、「ブラッシュ先生」は皆まで云わせず「ヤー」といってくれたのでこれ幸いと外出したことがあった。

林先生の「落窪物語」、ドイツ語の橋本先生の「トルストイ」の小説も印象が深い。ヒンメル、トリューベンの訳が面白かった。

体操の先生方は毎学期はじめに皆百点にして置いて、欠席、下駄履き、代返、無帽、和服、遅刻などをそれぞれ減点して行かれると大抵の者は注意点になってしまったものだ、という噂を為す者もあったが果たして如何乎。

一年の時、固定席ボート六人漕ぎの三番運送役を漕がされて、幸い、勝った。あたりが白くなるまで漕いだ。脳貧血を起こしかけたのだろう。コックスが驚いて倒れてる顔に水をかけたので驚いて起き上がった。三年の時にも漕がされたが、今度はトップだったから、オールが短く実に軽く思われた。比良おろしを横に受けて漕ぐとトップが強すぎて艇が風上の方へ曲がるといって、責められたが、これはコックスとコーチと二人も後部に乗ってるから、後部が風下へ流されて艇が風上に向くように見えたに過ぎないと小生は思っている。三年の時は結局レースには出なかったが、比良おろしが霰を叩きつける中を漕いだのは今から思えば得難い修行だった。(後略)(明治43・一部甲卒)

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特集2  同窓会報 14 続思い出   伊藤 英三郎(1958)

伊藤さんが『思い出』を発表されてから2年、同窓からの同様の思い出の寄稿を期待しておられたが、あまり寄稿されないので再び筆を執られた。またまた長文なのだが、ここでは京都はじめ各地の描写を中心に、当時の三高生の生活振りや各地の昔の面影を摘記した。京都から河内の金剛山まで歩いて登るというとても今では考えられない紀行文もある。おそらく100kmはある。或いはまた、熊野までの徒歩旅行、まるで平安時代の熊野詣である。昔の人のよく歩くこと歩くこと! 道筋には当時今は絶滅した“日本狼”がまだ出ると土地の人たちは語っていたことも分かる。つい先頃話題になったハレー彗星のことも話に出てくる。米が地方によっては、貴重な食べ物で節約を計った様子も出てくる。


三高に入学したのは明治四十年九月、乃ち今にして思えば、よくも半世紀以上も生き延びて来たものなる哉と、我乍ら感心する次第である。当時のことを考えると、日露戦争は中学三年に始まり、四年に終わったから、まだ初々しい印象があると言えたものであったが、さらにまた、日清戦争といえども、小学校入学前年のことであったから、感銘もまだ深いものがあった。(中略)
それはさておき、小生の三高入学の時代は日露戦争後のブームあり、デプレッションあり、その変遷をかさねていたものであった。しかしながら、今から顧みれば、物価の唱え値は、まだ依然として低位に在り、米が物価や生活状況の基準を為し、通貨の購買力はすこぶる大なるものがあり、一般の生活もやはり質実簡素なものであった。その時、三年生に、後の朝日新聞天声人語永井瓢斎氏有り、氏は輜重輸卒として日露戦争に召集せられ、終戦後、三高に復帰せられたものであって、「自分はトクの昔に大学生になってる筈だ」とあって、自ら大学生を以て任じ、詰め襟校服にも大学の金ボタンをつけておられた。画がウマく、紀念祭に売り出される絵はがきも専ら氏のものせられたるものであった。英語の伊藤小三郎先生が、「絵はなかなかいいが、線が少し太すぎる」と評しておられたものであった。当時は永井氏の金ボタンとは違うが、我々は、高等学校にハイると当然、そのまま、大学にハイれるものと為して、実に朗らかであって、大学に入学試験があるなどと言うような馬鹿なことは考えたこともなく、さらに進んで、就職のことなども一向に考えたことがなかったものであった。思えば、何という実に結構な罰当たりの身分であったのであろうかと考えられる次第であったのであった。

当時、日本山岳会が発足して間もない頃であり、何ということなしに、当時の時世とでも云うか小生どももよく山に登ったものであった。(中略)
金剛山には先に書いたテニスの選手と土曜の午後から草鞋履きで京都の下宿を出発、奈良で日が暮れた。その時別に郡山の男が、秋田の男を自宅に誘っていくのと途中同行した。秋田の男はすこぶる美声で、秋田追分というものを教えてくれた。ちょうど、尺八などにあるような頗る非常に長い長い節回しのものであった。テニスの選手はあまり熱心ではなかったが、郡山の男と小生とは、実に根気よく一生懸命に習ったものだった。しかし、なかなかソウソウは簡単に覚えられぬ。(中略)
お互いの会話にしても、東北の男と、九州の男とは、当時まだラジオなどもない頃だから、名詞、動詞からアクセントや話の表現の形式等があまりにも違いすぎてたので、皆目判らぬことが多かった。コンナ時には、第三国語として、未熟な英語とか、ドイツ語等を交えてフツフツ話してる内に、ヤット半分くらいは見当がついて来ると云うようなこともあったのである。
そんな風な状況でもあり、さらにこれが民謡とでも相成ると、技能的のことにも相成るので、秋田追分なるものなどは、実にむづかしいものだと思った。(中略)追分の文句は「桃の村から柳の里へ嫁を乗せたる渡し舟」というのであったが、それがなかなかもって覚えられぬ。「柳の里へ」とまでも行くか行かぬかの内に奈良に着いてしまった。そこで追分けの先生たちと別れて、テニスの選手と二人で始めて一膳飯屋にハイって夕食を取った。(中略)当時、日本では奈良以外ではこれを経験したことはなかった。極めて急角度に固めて盛り上げた小茶碗の一杯飯、これがすなわち一膳飯の名の生ずる所以である。別に二厘か三厘かの煮豆の小皿あり、ずいぶんオイしかったものであった。
それから、その頃、すでに麦が熟して蛍が飛び、三四日位の月が、ナダラカな生駒山に落ちかかってる平和な北部大和平野に、夕餉の煙が低く薄く漂う香りに浸りながら風のない静かな夜を南下して行ったものだった。ところがそのうちに何ともかとも疲れが出てきて、もう歩くのが嫌になり、今夜は郡山の男の家に泊めてもらおうじゃないかと言うこととなり、郡山で探し回ったが判らぬ。致し方なくまたまた歩き出した。夜が更けてくると、その頃、農家で養蚕をしているウチが起きてるだけであって、我々ももう眠くてたまらない。
そこで高田駅に入って腰を下ろしてしまったら、もう歩けぬ。眠ろうとしたが、蚊が多くてかなわない。それに、夜半を過ぎるとさすがにシンシンとして寒くなってきた。やむを得ず風呂敷とか、新聞紙とか、有り丈のものを背中に入れてみたが、どうにも寒くて寝られぬ。致し方なくとうとうまたまた歩き出した。
村の中にはいると、サッパリ道が判らぬ。話し声の聞こえるウチに近寄っていって、大きな声で道を聞くと、相手も寝たままで、事細かく長々と道順を教えてくれるのであるが、聴くとハタから前の話が判らなくなってしまう。それでも、どうにかこうにか見当をつけて、辿り辿って日の出頃、御所につき、駅前宿屋で朝食、朝日を背に受けて、東側から金剛山に登った。その暑いこと、疲れ切って喉が乾く。水音が下から聞こえてくる。少し下がって探してみると、ズットズット下の方だ。(下の方の音声はずいぶん高いところまでヨク聞こえてくるということは、後年山登りでよく経験したものであった)とうとうアキラメてまたまた登っていく。それでも遂に頂上に辿り着き、神社に参拝して、城址等を探りながら富田林に下り、汽車で京都に帰った。

当時の我々は、大学生とは、経済上は大分距離があって、それも致し方なしとあきらめていたものであった。当時1ヶ月食料は、寄宿舎で5円、素人下宿で6円、普通経常学資金月10円の時代に、毎月200円も使うという工科大学生(注;工学部学生)があった。酒造家の息とかで、専ら驚異驚嘆の的であった。ボートに行っても、石山では、大学生は柳家、我々は三日月、それも、皆、下宿の握り飯弁当持参だ。中には忘れてきたものあり、これが、三日月で中食を取る。飯櫃は皆でたちまち平らげてしまう。我々はよほどキバッタところで、鯉コク一杯三銭か五銭也かを取る位なものだ。そして一日中、岩窟造りの風呂に入ったり、出たりしている。
ある時、田島博士が大津で夕方、大学生十数人を連れて豪遊しておられたという話があり、その内に、誰かが探検すると、馬肉、酒は馬の小便のようなもので、もちろん、現在の二級酒のような器用なものの無い時代だから、多分他の上級料理屋の燗冷まし酒でも蒐集してきたものなんだろうか、うんと食って、うんと飲んで、頭割りにして、@アット(編者注:at, 単価)、十六銭五厘也。「大学の先生方でも、そうそうは、大したものではないワイ」等と余計なことをいう手合いもあったが、コンナ手合いは、「ハキダメにでも、タマには、鶴も下りる」という理論を知らない手合いなのであろう。

こんな連中である時、鞍馬を通って丹波との国境、大悲山に行ったことがあった。伝に曰く、清盛がここから清水に観世音を勧請したとかで、寺も神社もあった。蛍飛ぶ綺麗な流れで手足を洗い、神社のいろり端で夕食をいただいた。七八人居たのだが箸は十一本しかない。山菜あり、結構なご馳走であった。夜九時頃、そろそろ寝かかろうとしてると、神主が帰ってきて非常な勢いで、
  「とうとうやりましたな」
と言う。
「何をやったんですか」
と聞くと、
「ハレー彗星と地球とが衝突したに違いない」
と言う。驚いて
「何かそんなことがありましたか」
と言うと、
「昨夜十時頃、ドスーンと大変な音がしたから、あれは確かに衝突したに違いない」
と言う。
当時はハレー彗星と衝突する可能性が多分にありとせられ、いったん衝突する曉においては地球の壊滅は必定也、今はこれまで、この世の限りに歓楽を尽くすベシと為して、全財産を飲んでしまったが、一向に地球は無くならぬというような風景がニューヨークあたりにもあった由。
当時、毎夕方、西の空に巨大な蒼白い光芒が、実に実に気味悪く太く長く長く、静かに天に中していたのを想起する。正に目を戴いてみる乱を思うの形也という奴であって、これが大昔のことならば、是れ天下大動乱の凶兆也と為して恐れられ、必ずや天下の人心を極度に惑乱せしめたであろう底の物騒な代物であったのである。


ある年の学年試験が終わったとき、二部甲工科の男と二人で梅雨の中を、日本でも雨量の多いとせらるる南紀方面へ、ご苦労様にも草鞋脚絆に傘を差して、雑嚢をさげて、泊を重ねて吉野でホトトギスや郭公を聞き、大峰山の行場を越えて、維新の十津川郷士挙兵のあった風屋に夜遅く辿り着き、日露戦争の時、旅順で戦死せられた山田少将の伯父様という方の家に泊めてもらったが、我々が上げてもらってから米を搗きだし、その間に干し芋を蒸かしたのが山盛りにして出されたが、我々は食前にそんなものをたくさんに食べては不作法だと思って少ししか食べず、米飯が出てから之を本式に相当分量食べたが、これははじめの芋を以て貴重なる米をセイブする儀礼なるを逆にやってしまった訳なる由。
それから、吊り橋や、籠の渡しや、激流に危険な渡し舟があったり、中食には豆腐を一丁ずつだけ(当時の一丁は大きく、なかなか食べきれなかった)煮てもらったりなどして、岩ツツジ盛りの瀞八丁をたずね、塩谷判官が病を養ったと伝えられる湯の峰温泉を経、請川から川舟で新宮に下った。まだプロペラ船のない頃、途中、日が暮れかかり、一人旅の僧が乗せてくれと川岸に座り込んで拝むようにして頼んでたが、流れが速くて如何とも致し方無く、流れすぎたこともあった。那智の瀧、熊野神社参拝、勝浦乗船、神戸で別れた。
二部甲の男は、それまでに途中、十津川で満月が出てから三里の山越えをして風屋に着いたときにはあまりにも疲れていた。この三里の山越えをば、そこに泊めてもらえるような家が無いものだから、やむを得ず強行したものであった。実はその前の晩に泊めてもらった家で、二部の男は疲れて早く寝てしまったが、小生は夜更けまでも、道順を詳しく教わっていた。ところがこの三里の山越えは高野山の次郎といわれる玉置山の中であって、夜は狼が出ると聞かされた。まさかと思ったが、ともかくも昼間の内に越してしまえばいいと思って、この話は、二部の男には話さなかった。ところが疲れてるものだから、道が意外にはかどらず、山越えの手前で日が暮れてしまった。ちょうど、満月が上がってきた。道が明るくなっていい気持ちだというので、二部の男は頗る愉快になり、荷を軽くするためにもう水筒の水もいらないだろうとて、流してしまった。しかるに、三里の峠の夜道はなかなか長く、その内に、二部の男は喉を乾かせてしまったが、峠のこととて水がない。彼はグッタリと倒れてしまって動けない。ヤット歩き出しても足が進まない。狼のことなど知らぬから腰を下ろしてしまったらなかなか歩けぬ。小生は気が気でなく、雑嚢を持ってやり、上着を剥いで持ってやったりなどして、それでも、とうとう夜遅く風屋に着いたことは着いたが、その時、小生が宿を頼み歩いて、水を貰ってきてやったら、彼はその間に筧の水をタラフク飲んで倒れてたが、そのまた、筧の水が、上段の田の水だったのには驚いた。そのためか、夏休み中、郷里の萩で下痢を続けていた由。


それから風雨の中を伊吹に登って、薬草保護のためとかで、入山料を取られてびっくりしたり、また、東山を越えて、大谷の走り井の水とか、かねよの鰻屋などの裏の方を牛尾山に抜けて、石山に出、瀬田川に沿って宇治まで下る道は、途中、岩間寺、立木観音などもあったと思うが、さらに、黄檗山や平等院にでるのは誠にいいコースであったが、川沿いの間の道は極めて細く険しく当時は通る人も稀であった。
これを教えてやったら、後年、朝鮮で開業した三部医科の男が独りで出かけたのだったが、大分道のりがあるのを測定を誤って、途中、日が暮れ、崖から足を滑らせて危うく流れに落ち込むところを、やっと木の根にかじりつき得たが、暗闇の中を無闇に這いあがらんとして、また、滑り落ちたりすると、それこそ危ないと思って急斜面の断崖で足を洗わんばかりの箇所に細い木の根に、一晩中、一生懸命掴まりながら、夜の明けるのを待っておったというような話もあった。


また、当時の追憶としては、梅は、柳生から入った月ヶ瀬の渓流、山科の辺りから南の方に広がった大梅林、桜は、大極殿枝垂れ彼岸桜御室の五重の塔と三葉山ツツジの間の八重桜、嵯峨や嵐山の竹藪や青葉の間に混ざった山桜、嵐山の流れに沿った葉桜などがなかなかよかった。また、奈良公園の大きな杉に絡まる藤の花なども思い出が深い。尚また、五月半ばの頃、東山を縦横に通じている小径で、若葉青葉、ツツジの間、燦々たる日光をエンジョイして、少し汗ばみながら、半日を歩き回るのも誠に楽しいものであった。長岡天神の池と霧島ツツジ、同じく石山寺の霧島。紅葉では大原の三千院、粟生の光明寺、坂本の日吉神社、高尾栂尾槇尾、江州の永源寺、ならびに、石山寺の舞台前の紅葉などは懐かしい。清滝の清流と栗飯も印象が深い。初冬の頃、愛宕山裏渓谷で、正月の南天を育ててる部落の斜面なども清らかであった。また能勢の妙見付近から展望した保津川の狭い渓谷方面は、亀岡辺へかけて、延々として長蛇のごとく、冬季の濃霧が、ジッと、ふん詰まって凝結して動かない。その頑なにまでも見えるたたずまいは、あたかも、そのかみ、去就にノイローゼとなって、思い悩んでいた光秀が、愛宕山の連歌会でハッと気がついて自分でヒヤリとしてみたり、粽を笹の葉ごと喰ってしまって慌ててみたりしていた最後の何日かの期間を経過してしまった後に於ける光秀の大軍が、たちまち、老いの坂から本能寺への命令一下で将に怒濤の勢いを以て動きだそうとする寸前の気配でもあるかのように思われて、その白く凝り固まって動かない一連の濃霧は、一般義理の社会とは、くっきりと離れた別世界を画して、内向してひたすらその内部に閉じこもっており、何か知らんが内に深く蔵して爆発力でも抱いてるやの何ものかがあるかにも窺えるものがあったのであった。

当時の我々は、既記のごとく、高等学校にさえ入っておれば、必ず大学に入れるものと為して、極めてのんきに構えていたものであって、実に朗らかなものであったので、正に天下でも取ったような気持ちで、ただ、もう、誰に憚らずオオラカに天下国家を論じていたものであった。夜遅く書物を読んでると、月明らかにして星稀に、何とかが南に飛んだりして、風静かなる時、朗々と詩吟をしていく男がある。
さらにまた、美声を以て辻占売りが町を流して歩く。当年の都の夜はノドカであった。今でも覚えてる文句の一節は、曰く「通う雁がね浜千鳥、何とかの恋の辻占−−−−−−」というのであった。


左様な次第であって、ただもう、うかうかと三年を過ごしてしまったような訳であった。ところが、卒業間際になって急に大学に入学試験があるということになって、たちまちにして天下を震駭せしめたものであった。今まで、法科の奴は法科の奴はと羨ましがられた奴が、たちまちにして大恐慌、正に青菜に塩、皆がこうしては居れぬということになって、英法科は英語の試験だろうというので、卒業試験が済むとスグ六、七人で、英語の本を持って、叡山の宿坊に上がった。当時はまだなかなか厳重で、肉類はもとより、卵なども食べられなかったものであった。夏のこととて、朝四時半頃から、小僧さんが正直に朝飯だといって起こしに来てくれる。無論そうだろう、それまでに毎日のお勤めは済ませてしまってるのだろうから。ところが眠いから誰も起きるものは無い。それでも30分おきぐらいに、根気よく起こしに来る。とうとう九時頃に起こされてしまう。その時、皆のものが、勉強の片手間の「リクリエイション」として、三ヶ年間各地方持ち寄りの民謡を、南は沖縄から北は北海道のものまでもこれを蒐集整理して置こうじゃないかということになった。これらは三年間歩いて逢坂山または小関越えをして大津へボートに通った帰りに、舟賃十銭を出して疎水の小舟の、トンネル内にカンテラに照らされながら教え込まれたものであった。

また、三高医科のランニングの選手がボートを漕ぎに行くのに、その男一人だけで大津まで時折走って行くとかという話を聞いて恐れを為したものであった。また、小関越えは近いが、道は細く険しく岩がゴツゴツ出ていて歩きにくかったが、三井寺下に出ると、石清水で冷やした濃い牛乳があり、綺麗な娘がいると云うことで皆が二合も三合も牛乳を飲んでネバッテいたものだったが、三ヶ年間、誰も見たものはなかったようだったと、云うような笑い話もあった。(これは多分先輩がボート奨励のための創作だったのかとも思われた。)ところが皆がこの民謡大結集に取りかからんとしかけた途端に、例の後年スイスで客死した男が『財布がない。この宿坊がどうも怪しい』といいだしたので、たちまち皆が総立ちになり、部屋中を皆で探したが無い。遂に念のため、大津から不動寺を通った登山道を探すこととなり、雨の中、小生が一緒に傘を借りて歩いた。ところが、さすがは天下の霊場だ。昨夕、途中で崖から落ちる水を飲んだ箇所に、九十七銭五厘だったか在中の財布が、水底に鎮座ましましていたので、皆がほっとしてケリ。しかしお蔭で、地方民謡集の結成はお流れとなり、爾来、その機を逸して、あったら五十年、未着手、未完成のままと相成ってしまった次第であるのである。入学試験の方は、幸いなことに、その年は無いことと相成り、誠に喝采を叫んだ次第であった。(後略)

(明治43・一部甲卒)

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特集3  同窓会報 15 続々思い出   伊藤 英三郎(1959)

伊藤さんの『思い出』、『続思い出』を読むと三高のことだけでなく、当時の京都や関西の風物のことも窺われて面白い。この『続々思い出』には『思い出』『続思い出』と重複する記述も多々見られるのでその部分はカットした。『賄征伐の歌』が賄征伐とは内容的に関係がないと言われていることは知っていたが、では本当の賄征伐はどういうものだったのか、この記事にはこの疑問に多少答えてくれる興味深い記事もある。


(前略)
我々入校の時、三年生に村上氏あり。氏は、三高に入学前、すでに琵琶湖の全国大会で、トップとして大いに名声を挙げられ、注視の的であったとかに聞き及んでいたが、合宿所の早暁、後年の運輸大臣は、寒いのに、素肌、ドテラ一枚で現れて、すばらしい馬力で漕いで見せて皆を驚嘆せしめられたものであった。フンドシが無く、無一物、マル見えだ。「コラッ、どこを見てるオールの先をよく見るんだ」と、どなっておられた。万能であって、バウサイド、ストロークサイド、三番、四番、正調、その他何でもこなされた。鉄道省に入っても、敢然、車両の間をくぐり抜けて走り回り、車両連結などの初歩鍛錬にも馬力を示された由。

教授方の追憶は、先に書いたが、尚、大野先生の「時文」は、従来の漢文以上に、うんと念を入れて勉強しておけばよかったのにと、今にして悔いられる。(中略)
大井先生は幾分年輩の方であって、少し難聴のご様子であったが、ドイツ語は一種の風格があり、いい方であった。下駄履きで、足音を忍ばせて廊下を歩いて、首尾よく教室に入り込んだ途端に、大井先生に見つかって、ヒドク叱られた連中があった。当時の連中は、皆、無邪気なもので、ただもう、首をすくめて恐縮するばかり、反抗するというような手合いはいなかった。

教頭、林先生は、美しい白髪無髯の方で、「白頭」と、アダ名せられ、笑われたことも、怒られたことも見たことなく、あれでもモノをいわれることがあるのだろうかと、不思議に思えるくらいに話しも聞いたことも無かったが、確乎不抜、謹厳そのもの、がっしりしたお体で、古武士の風格が窺われた。ある時、例の後年スイッツルで客死した外交官が、図書館の傍らで当時流行していた黒マントにくるまって、ひなたぼっこをしながら、タバコを吸っていたが、ちょうど、午食後の休みの時刻で、辺りにだれも見ていないところで、おもしろ半分に、枯れ芝に火を点けてみた。しばらくはよかったんだが、刈り込まれたことのない高麗芝は、格別日当たりのいい建物のフチに沿って、盛り上がり繁って枯れていたので、急に火勢が揚がり、たちまちにして突風が起こって、えらい勢いで燃え広がりだした。外交官は、大いに面食らって、マントで叩こうとしたら、急に一人の男が、疾風のごとくに飛んできてえらい勢いで活動して、たちまちにして消してしまった。これが「白頭」だった。外交官はただもうチジミ上がってると、ジロリと見たまま、「白頭」は行ってしまわれた由。外交官は、正に、ため息つきながら感激していた。

林森太郎先生には、落窪物語のほかに、有職故実も習った。阪倉先生の源氏物語といい、その他の諸先生の東西両洋の古典、歴史、思想、法制等、よくもあれだけ広く纏められて、しかも、あれだけ伸び伸びと、三年間を過ごさせて貰った組織、機構、施設に、我々は唯ただありがたく、感激に絶えないが、これからの日本人は、もはや二度とこんないい目に会うことは出来まい。(中略)林森太郎先生は「ハ、ソウデアリマスル」とすこぶる非常に丁寧にいわれるので、皆が面食らった。華族女学校の教授をしておられたので、かくのごとく、丁寧な言葉を使われるのだろうという手合いもあったが、如何乎。



黒谷の苔むした墓地に丈の高い松が何本も何本も聳えている中に、山崎闇斎先生の墓によく詣でたものであった。五月半ばの日差しが木々の間から洩れて苔の香りが漂っている頃が最もよかったと思う。ある初夏の夕、独りで墓地を歩き、薄暗くなって帰りかけた時に、一見、三十くらいかと思われる非常な美人に出会ったが、その落ち着いた物腰で、ジーッと見つめられたときには、思わずゾーッとして、何故かしらん、急いで行き過ぎてしまったことがあった。
陽春、ツツジの頃、東山の山径を五月半ばの日光を浴びて、木の葉隠れに老鶯を聞きながら歩くのは、誠に泰平の御世のありがたさ、誠にいい気持ちのものだった。
東山将軍塚、稚児ヶ淵、下賀茂糺すの森、蝉の小川(当時、薩摩琵琶が流行って『世はカリコモと乱れつつ・・・・蝉の小川に霧立ちて・・・・』と、例の外交官がよくやっていた。極めて初心のものが稽古する曲らしい)、それから、上賀茂の深泥池、二葉橋たもとの焼き餅も印象が深い。後年、大阪在住の時、御陵参拝に歩いて、北野天満宮で、この焼き餅二葉餅支店を見た(訳者注:現在も北野天神東門の前の通り北側に焼き餅を売る店がある。この二葉餅支店の流れを汲んでいるのかも知れない)。繁盛していた様子だったが、今はどうなったか。
嵐山は青い樹々の中の山桜の花もいいが、あまりに混雑しすぎる。むしろ、若葉の頃がいいと思った。(中略)当時の嵯峨野、釈迦堂、祇王寺の辺りは、五月雨の頃、高下駄で番傘をさして、頗る不風流な姿だったが、シトシトと降る雨の音、サクサクとなる下駄の音、実にいいと思った。自動車などを見かけない時代のいい思い出である。萩の花や、紅葉の頃も静かでよかった。今はそうは行かないだろうが。

関西で、生け垣の見事なのは色々あるが、なかんづく、カナメ、伊吹等は実に見事だと思った。関東では、新芽の色合い、ならびに、枝振りの育ち具合が、関西ほどでもないかと思われたが、如何乎。特にカナメの新芽の燃えるように紅なのは、実に柔らかく、平和で、品がいいと思われた。吉田山の付近、お参りした数々の御陵の生け垣のカナメは、実に見事であった。今は、ツイそのそばまでも人家が建て込んで、町の中になってしまったようで、間近まで行かないと、その所在さえ判らなくなってしまったようであるが。

吉田の字近衛に下宿していた時、下宿の前はまだ畑であった。筵掛けで、キウリや茄子の速成をやっていたが、当時、素人下宿は既記の通り、食費月額六円也であるから、もちろん、御馳走はない。吸い物は世界有数透明なる田沢湖の水のごとく、極度に澄んだコンソメであって、筍は竹になってから食べさせる取り決めでもあるかのごとくに固く、ナマブシと号する木目の入った木片のごとき枯れ魚を、竹に木を接いだようにして食べさせる。松茸などは、今年は、もう時期が済んでしまって、遺憾ながら食べはぐれてしまったのかと思って、とっくの昔に忘れてしまった頃になってから、笠が充分に開きすぎてしまって、もう、これ以上には拡大することが出来ぬとでもいうがごとくに、裂け目のあるくらいに迄も膨張したものを、時季はずれに見つけだして、安く買ってきて食べさせる。しかしながら、誠に以て、気は心である。京都におればこそ筍や松茸は食べさせてくれたのであるからありがたい。


寄宿舎へは、時折、食事だけに行ったことがある。当時は、どこの学校にも、賄征伐と称する行動がしばしば勃起したようであったが、同クラスのある男が、賄征伐単独行動の意味ではなかったのだろうが、或いは他に何かテストでもしていたのか、ある時朝食に味噌汁をつぎつぎお代わりを強行して、遂に、十六杯に到達して停止した。この時、賄もさる者、一杯ついでは水を一杯差し、汁の身の豆腐などは遂には、単なる水に漂える数個のカケラと化した。賄は数多く度重なる歴戦に豊富なる経験を重ねているので、かくのごとき、散発的の行動態型には、びくともせない。この男は第一時間目は出席していたが、途中で気分が悪くなり、早退してしまった。
寄宿舎でも、景気のよい手合いもあるもので、時折、特に玉子の目玉を注文する向きもある。稀には、二個玉という奇特な注文が出ることがあると、賄方は、格別格段に大声を張り上げて「二個玉−ッ」と叫んで、以て満堂の君子を激励したものであった。当時の栄養食餌は、我々は、玉子を以て最と為すと心得てこれを確信していたものであって、後年、アメリカでロッキー・マウンテン・ナショナル・パーク中のエステス・パークにロッジしたとき、十数マイル離れたところにある14,400フィートの標高ありと称するロングス・ピークに、ティピカルな氷河の痕を探り、これに登った時、日本での山登りのクセで生玉子を注文して二、三個呑んで出かけたところが「日本人がロー・エッグス(生玉子)を食した」といって、皆が目を丸くしていたのは、正に野蛮人扱いせられたものであって、とんだ所で、列国環視の中、国威を上下したことになってしまった次第であった。

当時吉田で夕方、下宿の食事を済ませた後、まだ何だか物足りないように思う。これは今でいうと、ビタミン何とか、カロリとか、何とかが足りないせいだろうか。すなわち、近所のミルクホールで、新聞を見ながら牛乳にバターを入れ、トーストにバターかジャムかを塗って食べたものであった。それから、当時、外出にはいつも袴を着け制帽をかぶっていたが、下駄履きで、友達と連れだって丸太町から寺町に出て、京極を一通り歩き、引き返して三条突き当たりの焼き芋を銘々に何銭ずつか買う(当時は古新聞紙百匁一銭、焼き芋一匁一銭位のこともあった。時折、入浴前に、今まで貯めて置いた古新聞紙を焼き芋屋に預けておいて、風呂帰りに焼き芋を貰って帰ったものであった)、いい匂いである。フトコロに入れて吉田に帰り着くまでに、我慢しきれず食べてしまう。
初夏、京極金魚亭で、氷ぜんざい、薄茶入り氷、葡萄酒入りと号する氷、生玉子入り氷、その他、種々の銘柄あり。風鈴などを釣り、むろん、扇風機などはなかったが、シノブを釣り、巌を据えた池に、真鯉、緋鯉、金魚などを泳がせ、噴水や瀧などを造ったりなどして、なかなか涼しそうな構えであった。滅多には立ち寄らないが、たまにはブッかき氷に砂糖水を掛けたものぐらいを食べたかと思う。当時は、無論、アイスクリームやシャーベットなどは食べたことはなく、こんなもののあることも知らなかった。金魚亭というところは、誠に涼しそうな、いいところだと思っていた。夏期は、関東に比せば関西の方が蒸し暑いせいか、当時、いわゆる氷水のタグイは関西に多く発達し、関西人は好んでこれを多量に喫したもののようであった。

当時、クラス会などは荒神橋西詰の雪月で、七十銭位でやった。東大に入学してからも、牛肉のすき焼きは、湯島切り通しの江知勝は七十五銭位だった。鐵門外の大国は一円位だったので敬遠したものだった。(中略)雪月の近くの医学専門学校(注:現在の府立医大)の生徒たちは俗に医専の生徒といって、詰め襟金ボタンで頭髪を分けていた。彼等は雪月などへは行かないようだった。医科大学生(注:現在の京大医学部)となると、さらに上等で、祇園とか、先斗町とかの辺りへ行ったもののようであった。


当時、大津へボートを漕ぎに行くのには、ただまっすぐに歩いて行くのであって、汽車で行くなどとは考えたこともなかった。(中略)第一、汽車賃が掛かる。だから、ただもう、スタコラ弁当持ち下駄履きで歩いて行く。蹴上を経て、三里の道を逢坂山か小関越えかを歩いて三井寺下の艇庫に行く。よくも大して苦にもしないで、三年間歩いたものだ。それからボートで石山まで三里以上はあるかもしれない。よくも漕いだものだと思う。石山三日月下の川岸に、ボートがたくさん繋がれる。三日月の岩窟造りの丁字風呂、石山寺の霧島ツツジ、舞台から見る細かい葉の若楓、この楓の秋の紅葉、瀬田川を隔てて金波銀波を漂わせながら田ノ上山の上、東天に昇る満月なども印象が深い。お堂の後ろ、皆が閑に委せて、丹念に読み拾っている内に、「コンナ嬉しいことはない、おくによ、おくに、これおくに」というのを見つけだしたものがあり、石山に行くたび、行くたびに皆で面白がって、わざわざ、飽きもしないで、よく見に行ったものだった。謹厳なるボートの先輩「大国さん」と「おくに」というのが、そのコントラストが唯もう何ということ無しに、皆の気に入ってしまって、皆が妙に訳なく愉快で面白く、わざわざ、大国さんの前へ出かけていって、皆が大声で歌うように、繰り返し繰り返し囃し立てる。真面目な大国さんは、一切、コンナ野次馬などは取り合われなければいいのに、ひたすら、大真面目に、ただただ当惑しておられたものであった。

また、三年生の秋であったと思うが、七八人で郊外で出来るだけ安く呑んで食ってこようではないかと言うことになって、それには自力更生、自給自足に限るとして、材料、鍋、釜類を提げていくこととなり、松茸栗飯がいいというものあり、秋も深くなって松茸の笠も大きく開いて安くなった頃、なるべく大きい安い松茸を買い、米、酒、豚肉、栗、野菜、調味料などを用意した。ところが、酒をあまり呑まない連中で汁粉を主張する男もあり、同級の京都の男に頼んで、餅、餡、鍋、釜なども、結局は全部オンブして準備整え揃えて貰って物々しく出発した。京都の男は、地元、近所の顔見知りの人達が見るので、キマリが悪いと云ってたが、とうとう上賀茂まで来た。枯れ木を集めて、馬場の草原の上で、やるつもりでいたら、茶店の婆様が筵を持って出てきて、
「これを敷きなさい」
という。
「ソンナものを敷くと、茶代を取るのだろう」
と断ると
「この馬場は私たちが一ヶ年間の料金を払ってお宮から許しを得ているのだから、ここで座り込んで飲食すると誰でも茶代を払って貰うことになっている」
と言う。
実はこれから煮炊きをするのは、内心、閉口していたところだったので、すっかり婆様に頼み込んでしまった。その内に、皆、上機嫌で元気よくやりだした。タラフク呑んで食って、一応、綺麗に平らげて片付けてしまって、ノビていたところが、婆サンが、またまた、今度は汁粉を一鍋持ってきた。皆、腹一杯、満腹、ゴロゴロ倒れてしまっていたところだから、これには皆が参ってしまって、正直なところ、唯モウ、顔ばかりを見合わせていたら、そのうちに一人元気なのがいた。これは例のスイッツルの外交官だ。「それでは、一つ、腹こなしをしてこようか」といって、シャツ、半ズボン、裸足になり、遙か向こうの方で、小学生徒が運動会をやってる辺りへ向けて、なかなかいい調子を見せて、威勢良くランニングを始めて、えらい勢いでスタートしてすばらしい速力で、精一杯スマートなスタイルで走っていってしまった。
暫くして引き返して来ていたが、途中でしゃがみ込んでしまって動かない。皆が、どうしたんだろうといってる内に、やがてのこと、ボソボソと歩いて戻ってきた。あまりに急激に走り出したものだから、胃の腑の中味が転倒してしまったのか、折角の御馳走をすっかり戻してしまったと言う。しかしながら、心配することはない。それが、またまもなく、皆が汁粉に取りかかると、外交官もまたまた、先憂後楽、衆庶と行動ならびに楽しみを共にして、やはり相当な手腕を展示して進撃を開始していった。「古代ローマ貴族のエチケットはこれだよ」(注:貴族たちは食べたものをわざと戻して、また、食を楽しんだという)といってる。当時、我々は皆、これ位な腕前は、四六時中いつでも常備していたものであったのである。(後略)(明治43・一部甲卒)

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