同窓会報 5 「三高的青春」 青山 光二(1954)
青山光二氏は2008年10月29日95歳で亡くなりました。第29回川端康成文学賞を2003年6月20日受賞された。これは同賞の史上最高齢受賞で、痴呆の妻を介護し、愛を再確認する日々を描いた「吾妹子(わぎもこ)哀し」(新潮2002年8月号)が対象となった。この賞は年間で最も優れた短編に贈られる。重里徹也氏によれば(2003年4月23日毎日新聞夕刊)「小説のイメージは鮮やかで、文章はみずみずしい。西銀座の酒場での出会いから、痴呆症をわずらった現在に至るまで、主人公(老作家)の妻への愛がつづられている。」と書かれている。しんぶん赤旗(2003年8月9日)所載の土曜インタビューによれば青山氏の座右の銘は『描くことによって見るという行為は完了する』だそうで、創作意欲は今なお衰えていない。ここに取り上げた「三高的青春」と直接の関係はないが、同氏の栄誉を祝して記しておく。なお,神陵文庫「紅萌抄」第11巻に青山さんの「私の三高体験」が収録されている、
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昭和五年のストライキは、神陵史上重要な事件であったと思う。やはり、あの事件をさかいに「三高の自由」というものが、内面的に変質したのに相違ない、と私は考えている。
私は入学したての一年生で、むやみに好奇心の強い少年だったから、ただ物見高い気持ちで、ストライキの仲間に加わり、寮に立てこもっていただけだ。が、要するに生徒の自治の限界と言う問題で、あのように大騒ぎする理由が私にはわからなかったが、大マジメで討論し、策をめぐらし声を涸らして自由擁護を絶叫する上級生たちの面貌には、三高的青春がある、というようなことを感じ、ストライキを休暇と考えて郷里へ引き上げてしまうよりは、団体行動の規律をまもるべきだ、と漠然と判断したような気がする。
結局、当然のことながら生徒側の敗北(!)おわりに十何名かの除名処分が発表されたとき、私はその人たちの将来を想って、何とも言えぬ暗い気持ちになったのを忘れられない。むろん首謀者以外の生徒全員にも謹慎何日とかの処分があったが、これこそ体のいい臨時の休日だった。
森外三郎校長は責任を負って辞任され、私のクラスの主任教授であった湯浅廉孫先生も退職されたが、それは、生徒側に味方して不穏の言動があったと言う理由からだったと聞いている。(中略)いまも私は湯浅教授の「青春」を追懐して、感動を禁じ得ない。また、一年生の中からただ一人、除名処分を受けた某君は、翌年、再び入学試験を受けて、新たに一年生として入学してきた。これもなかなかのえら物であるが、入学を許した三高もまた、さすがに三高である。
(中略)ストライキ以後の三高生をにわかにむしばみ始めたのは、一言にしていえば、思想への不信というようなものではなかったろうか。
それにしても、一ヶ月足らずのストライキ生活は、私にとって、何という愉しい追憶であろう!クラス名を表示した寮の二階の各室に陣取った生徒たちは、「醜奴ガン吉、屁でとばせ」などという即製の替え歌をがなったりして、なんとなく無聊をかこっていた。醜奴は生徒主事補の佐藤秀堂教授、ガン吉は生徒主事の平田元吉教授、この二人が盟休団の目の敵だったのである。
今でいうとピケラインと言うことになるが、三つの門を、全員交替で昼夜の別なく固めるのが、仕事と言えば最も重大な仕事だった。そのうち、東門は野球部が、西門はラグビー部が引き受ける、というような事になってラグビー部に属していた私は、西門の脇の、土を築いて高くなっている所へあがって、退屈な時間を過ごしたりした。
夜も、暑くて寝苦しい日などは、運動場の隅の草深い辺りへ、二、三人で寝転がって、星空を眺めながら、「静かに来たれ」を合唱したり、そのあげく、そこで夜明けまで一眠りすることもあった。四、五日も経つと、一日じゅう学校の中へ閉じこめられて(?)いるのがやりきれなくなって
、夜陰に乗じて街へ散歩に出かけるのがはやりだした。要領よくピケラインを内側から突破して抜け出すわけだが、どの門にも三年生のガンコなのが一人や二人頑張っていて、なかなか通してくれない。それを、ビールを一本、土産に持ってくるからとか何とか頼みこんで、無理矢理にまかり通るのだから、大変なストライキである。
寺町、京極、四条通りと、おきまりのコースを通ってコマドリ辺りでビールを飲んでから、円山公園の方へ足を向けるのだが、門限があるわけではなし、盟休団の一員であると思えば、なにやらアウトローな、真の自由の感覚があって、まことに良かった。
そのうち切り崩しがあったり、いろいろな事がありながらも、そのような籠城生活がかなり長い間続いたが、その間、所期の闘争に情熱を燃やし続けていたのは、指導者である数名の上級生だけで(その人たちは統制部の文書部を受け持って、なかなか忙しかった)、他の大部分の生徒は、私とおなじように、授業もなければ出席日数の心配もない、
降って湧いたような特別あつらえの「自由」を謳歌していたのである。
やがてある午後、正門のピケラインを破って、教授の一団が乗り込んできた。生徒たちは各室に引っ込んで鳴りを潜めていたが、廊下を教授たちの近づいて来るドタドタという靴音が聞こえてくると、万事休すという気配が、何となく流れた。私のクラスの室の扉をあけて、真っ先に顔を出したのは阪倉教授だった。護身用という感じにコウモリ傘を携えておられた。小田切教授の顔も見えた。続いて藤田元春教授の顔が覗くと、私はあわてて友人の背中にかくれた。果たして藤田教授の「青山はおらんか」というノンビリした声が聞こえた。「おりません。家へかえりました」と級友の一人が答えてくれている。「そうかおらんならええが、わしは責任があるからな」教授の一団が無事に通過すると、私はほっとした。(中略)
盟休団の幹部とのあいだに、どんな話合いがあったのか知らないが、運動場の一隅に生徒全員集合して、教授団の訓辞を拝聴することとなった。(中略)続いて、ほど近い基督教青年会館(?)で盟休団の解団式が行われたのは、栗原基教授の斡旋によるものだったと聞いている。そこで、指導部の生徒たちは、文字通り男泣きに泣いて、自由擁護ストライキのの敗北を痛嘆した。といって、これで三高の自由がなくなるとは、その場に居合わせた誰一人、思ってはいなかったろう。その故か、上級生たちの大仰な涙を、感傷的だと評する同級生もあったが、私は必ずしもそうは思わなかった。少なくともその涙は、それから一月ほど後の、対一高野球戦に負けたときの、応援団長の涙とは、異質の物であった。
三高的青春はその後も、形をかえて、三高生活のなかを流れていた。(昭・九、文甲卒)
(注)神陵史所載座談会「青春とストライキと」から
森(森 績) 昭和4年に、文部省の方針だと思うが、生徒主事が二人制になった。このとき新しく就任したのが佐藤秀堂主事で、この人は三高の先輩だが、「文句はいうな、オレについてこい」式の人で、ちょっと三高の自由とちぐはぐな感じのするタイプだった。そこに先ず問題があったように思う。
森 昭和4年の末か5年の1月だったか、最初に話の出た社研の読書会に、寮のある生徒が出席して、これが特高に追われて寮へ逃げ帰ったところを、夜半川端署の刑事に引っぱられるという事件が起こった。この事件によって、自由寮が目をつけられることになった。「諸悪の根元は寄宿舎だ」というわけだ。しかし、寮ではその種の読書会が開かれたことは一切なかったんだよ。佐藤主事による寮の取締り強化が打ち出されたのはそれからだ。
「寮に門限を設ける。学校が舎監を任命する」
門限の設定は、文部省もそこまではいっていないはずだ。明らかに学校側の過剰取締りだというのが僕らの感じだったな。
森門限など−−三高の自由寮が明治30年に誕生して以来、過去にこんな例はない。なぜ私たちの時代にこんな事をやるんだと、みんなが憤激した。寮といえば三高の自由の中心だ。その自由が弾圧されようとしているのに、これをむざむざ受け入れるのは恥辱だというきもちだったんだ。
そこで、まずわれわれは「寮の問題は全三高の問題だ。生徒代表会議の議を経て事を処するのなら問題はないが、これを無視するのは生徒盟約(大正15年成立)にも違反するものだ」と、学校側に方法論の是正方を交渉したが、聞き入れてもら得なかった。
ぼくたちは、森外三郎校長の主唱によってできた生徒盟約および生徒代表会議をあくまで信じていたから、そうなると、われわれの希望なり主張を、生徒代表会議に訴え、生徒大会を開いて、投票によって結論を出そう、という方向へ、当然傾いていったんだよ。
森私が生徒大会の議長を引き受けることになったのは偶然のことなんだ。
私の見通しとしては、大会を開いてもストの決議にまで至ることはあるまいと考えていたよ。というのは、前年昭和4年の4.16の除名処分のとき、左翼の連中が除名解除要求の生徒大会を開いて、ストを提案したが、反対多数で否決という前例があったからね。
しかしこの際は、左翼の思想問題でなく三高の自由が問われていたところが違う。
大会には、約700人が参加したが、投票の結果、500人がストに賛成した。
(中略)大会の決議はこうだった。
1. 自由寮の非自由化反対
2. 代表会議の完全なる自主化
3. 佐藤生徒主事の辞職要求
4. 保証教授制度の撤廃(後略) |