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「虎の 牙」(長編)
LES DENTS DU TIGRE
初出:1914年にアメリカで書き下ろしの翻訳刊行、1920年8月〜10月「ル・ジュルナル」紙連載 1921年2分冊で単行本化
他の邦題:「見えざる怪魔」(第1部、黒部健彦訳)「呪の狼」(第2部、保篠龍緒訳)「フロランスの秘密」(第2部、池田宣政訳)

◎内容◎

 アメリカの大富豪コスモ=モーニントンが2億フランもの莫大な遺産を残して変死した。事件をかぎつけたベロ刑事も歯型のついたチョコレートを残して毒 殺されてしまう。モーニントンの遺言には遺産相続の権利のある人物の捜索を友人のドン・ルイス=ペレンナに頼むとしており、もし相続人が全員死亡 していた場合はペレンナがその遺産を相続すべしと定めていた。フランス外人部隊に所属し、モロッコの戦場で超人的な活躍をみせたドン・ルイスこそ、死んだ はず のアルセーヌ=ルパンその人であった。
 ドン・ルイスことルパンは元部下の刑事マズルーと共に事件の調査に乗り出すが、遺産相続の候補者であった技師フォービルは息子ともどもドン・ルイスの目 の前の密室 内で暗殺されてしまう。現場にあったリンゴにはチョコレートにあったものと同じ歯形が残されており、この「虎の牙」の歯型が決定的証拠となってフォービル の妻が逮捕される。しかし事件は複雑な様相を見せ始め、ドン・ルイスの秘書ルバッスールも不可解な行動をとる。謎が謎を呼ぶ うち、ルパン自身も敵の罠にはまって絶体絶命の窮地に追い込まれてしまう。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アーチボルト=ブライト
アメリカ大使館一等書記官。

☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。『813』以後、世間では死んだことになっている。

☆アルフレッド=ドドッ シュラマール
アランソンの住人。妻と共に自殺。

☆アンスニ
国家警察部の主任警部。

☆イポリート=フォービル
シュシェ通りに住む技師でモーニントンの遺産相続人の一人。何者かに殺されるとおびえ、実際に殺害される。

☆ウェベール
国家警察部副部長。ドン・ルイスの正体をすぐに見抜き、『813』の時の恨みを晴らそうと躍起になる。

☆「エコー・ド・フラン ス」紙の編集長
ドン・ルイス=ペレンナをルパンと名指しする記事を載せた責任をとり、ドン・ルイスと決闘するはめになる。

☆エドモン=フォービル
イポリート=フォービルの息子。亡くなった先妻の子供で病弱な16歳の少年。

☆オーギュスト
『813』でバラングレーの秘書をつとめていたルパンの部下。

☆ガストン=ソーブラン
コスモ=モーニントンの親類の一人。マリー=アンヌにプラトニックな愛情を捧げ、ユベール=ロチエの変名を使っている。

☆グロニャール
『水晶の栓』に登場したルパンの部下。

☆コスモ=モーニントン
アメリカの富豪。モロッコを訪れた際にドン・ルイス=ペレンナと知り合う。何者かに毒殺され、多額の遺産を残す。

☆シャロレ父子
『ルパンの冒険』で活躍したルパンの部下。

☆ジャン
片目のルパンの部下。

☆ジャン=ベルノック
心身に障害を負った男。

☆ジョゼフ
若いルパンの部下。

☆ダストリニャック伯爵
退役陸軍少佐。モロッコでの戦闘で活躍したドン・ルイス=ペレンナの上官。

☆ダバンヌ
有名な飛行士。

☆デマリオン
警視総監。『金三角』の事件でバラングレーの意向をうけ捜査をしていた。50歳。

☆デルサンジュ夫人
マリー=アンヌ=フォービルの友人。

☆トリスタン
赤毛のルパンの部下。

☆ドン=ルイス=ペレンナ
スペイン貴族。フランス外人部隊に所属してモロッコで活躍した。その正体はもちろんアルセーヌ=ルパン。

☆バラングレー
フランス共和国総理大臣。『813』『金三角』に次ぐ登場。

☆ピエール
大男のルパンの部下。

☆ビクトリーヌ=ドドッ シュラマール
アランソンの住人。夫と共に自殺。

☆ブーズビル兄弟
ルパンの部下。

☆フアン=カセレス
ペルー公使館員。ドン・ルイス=ペレンナの身分を証明する。

☆フィリップ=ダントラッ ク
「ブルボン家より高貴な血筋」とされるルパンの部下。

☆フロランス=ルバッスー ル
ドン・ルイス=ペレンナの秘書を務める美女。事件の中で謎めいた行動を見せる。

☆べロ
国家警察部刑事。重大な陰謀の証拠をつかんだが、そのために毒殺される。

☆マズルー
国家警察部の巡査部長。実は元ルパンの部下で「アレクサンドル」の変名を持つ。ルパンを親分と尊敬しつつ職務に忠実。

☆マリー=アンヌ=フォー ビル
フォービル技師の後妻。30代の若い女性で、フォービル技師の従妹(いとこ)でもある。

☆マルコ
『813』に登場したルパンの部下。

☆マロネスコ伯爵
ルーマニア貴族。その屋敷を秘書や召使ごとドン・ルイスに売却する。

☆ランジェルノー
アランソンの住人。フォービル技師の知人で手紙をやり取りしていたが、銃の暴発で事故死。

☆ル=バリュ
『水晶の栓』に登場したルパンの部下。

☆ルペルチュイ
公証人。コスモ=モーニントンの遺言を預かる。

☆ローティ
モロッコ方面のフランス軍司令官。


◎盗品一覧◎

◇コスモ=モーニントンの二億 フランの遺産
盗品というわけではないが、今回の事件で争奪の対象となり、ルパン自身も手に入れようと意識しているもの。


<ネタばれ雑談>

☆シリーズ最長(?)の大作の翻訳事情

 『虎の牙』はルパン・シリーズ中では『813』に次ぐ長さをほこる長編で、『813』が正続で2分 冊 されていると考えれば、一つのタイトルとしてはシリーズ最長の小説ということになる。
 この『虎の牙』、フランス本国でも第一部・第二部の2分冊で刊行される形がほとんどなのだが、日本では現在もっとも入手容易な訳本である創元推理文庫版(井上勇訳)は一冊にまとめており、約570ページという文庫 本としては異例のボリュームを誇る。
 他に入手しやすいものとしては南洋一郎のリライトによ るポプラ社版『虎の牙』があるが、これは児童向けに 原作の枝葉をそぎ落として一冊にまとめ、むしろシリーズでは短い方に属するほど大圧縮したものだ。それでもストーリーの展開はほとんど変化がなく要領よく まとまっているので、原典の方に無駄が多いと言うべきかもしれない。なお、南洋一郎は同じポプラ社から池田宣政名義でより高学年向けの「アルセーヌ・ルパン全集」を出し ており、こちらは『虎の牙』『フロランスの秘密』の 2分冊となっていた。

 2分冊ということでは大正以来の定番・保篠龍緒訳で は、第一部はそのまま『虎の牙』だが、第二部を『呪の狼』と題して訳すのが恒例になっていた。「虎」に対する 「狼」という位置づけのオリジナル訳題だが、さすがに『奇巌城』のようには定着しなかった。内容はほぼ全訳に近いのだが、ラスト部分がかなり省略されてい る。
 現時点で最新の翻訳は1982-1983年に出た偕成社版「アルセーヌ=ルパン全集」の矢野浩三郎訳のもので、上・下巻の2冊構成になっている。この下巻 の巻末にある矢野氏の解説で触れられているのだが、偕成社版は「全訳」であるはずの創元推理文庫版より第二部の後半で記述がより多くなっており、ラストに 決定的な違いが存在する。これはどういうことかというと、それぞれが底本とした原書の版本によって内容の異同が存在しているのだ。

 現在創元推理文庫で読める訳文は、もともと東京創元社から刊行された「アルセーヌ・リュパン全集」(1959-1960)に収録されたものを原型として いる。このとき底本とされたのが当時アシェット社から出ていたバージョンだ。これは1932年以降に出た普及版を流用したもので、ルブランが最初に発表し たものよりも若干簡潔になっていて、とくにルパンがバラングレーにモーリタニアでの「建国神話」を語る回想部分が大幅にカットされたうえ最終章に回されて いる(このためルパンが自らの王国と引き換えに自由を得るという大 風呂敷な取引をしないことになる)。またルパンをこれで引退とするつもりがないことを表明するためか、彼の冒険が再び始まるかのようなラス トの記述がある。
 このバージョンを訳したものが「リュパン全集」の一冊として世に送り出されたのだが、その後1972年にこれを創元推理文庫入りさせるにあたってフラン スで1969年から新たに刊行された「リーブル・ド・ポッシュ」版の原書をとりよせたところ、モーリタニアの建国部分の記述が大幅に異なっていることが確 認された。そのため、この部分のみ「リーブル・ド・ポッシュ」版から訳して追加・修正がほどこされている。現在も推理文庫で読めるのがこの訳文だ。つまり 推理文庫版は本国フランスにもない全く日本オリジナルのバージョンということになり、「リュパンは地下で苦笑して許してくれるだろう」と訳者の井上 氏は巻末の「訳者ノート」で記している。ところで、1972年段階で98歳の「リュパン」は「故人」と断定しちゃっていいんでしょうか?(笑)

 偕成社版は最初から「リーブル・ド・ポッシュ」版を底本としており、これがルブランがフランスで最初に発表した、そのままのバージョンだ。このバージョ ンではモーリタニアでの建国部分はもちろんのこと、ルパンが犯人を飛行機で追跡していくくだりが創元版よりも若干詳しくなっている。また、ラストもルブラ ンの当初の意図通り(これについては後述)ルパンが 引退する結末となっている。つまりこれが正真正銘の「完全版」というわけなので、完全な『虎の牙』を読みたければ偕成社版しかありません、というのが現状 なのだ。

 さてシリーズ中では突出した大作といえる本作だが、人気も知名度も現在ではいま一つの感がある。密室殺人ものの新基軸ということで戦前はそこそこ評価が 高かったようだが、現在では傑作ミステリ特集などでもまず名前が挙がらない。あくまでルパンものの大長編としての存在価値が認められているような感じだ。 訳本のバリエーションが少ないことも一因かもしれない(それは 『813』も同様だが…)
 また内容面でみると、ボリュームがある割に『奇岩城』や『813』といった他の大作 に比 べると舞台設定のスケールが小さい。二億フランというとてつもない額の遺産をめぐる殺人事件の解明をテーマとしているが、ルパンは泥棒ではなくあくまで地 道な探偵役に徹しており、ワル度がかなり低くなっている上に、これまでに比べると超人的活躍をあまり見せてくれない。
 脇道と言える回想部分でとてつもなく超人的 な活躍をしていたことが明かされはするが、当時のヨーロッパ人の帝国主義・人種主義的価値観丸出しともいえるその冒険には、批判的な目を向ける人も多いは ず。事件全体を演出した真犯人が最後の最後まで登場せず、凶悪かつ狡知であるはずの犯人が拍子抜けするほどアッサリとやられてしまうのも読後感があまりよ くない一因だろう(実際僕も初読時、かなり釈然としなかった)。 犯人が心身に障害を持つ病人であるというのも敬遠されやすい要素だ。 また、ルパンがラストでヒロインとめでたくゴールインして、明らかに泥棒稼業から引退を決め込んでしまうことも釈然としない読者が多そ うだ。


当初は 「ルパン最後の冒険」だった!?

 そもそもこの『虎の牙』、書かれた事情がかなり特殊だ。現在読める訳本のいずれも第一次世界大戦終結後の物語となっていて『金三角』『三十棺桶島』が過去の大戦中の話として言及されているが、実 際にはルブランは第一次世界大戦の勃発直前に『虎の牙』をいったん書きあげてしまっている。それも「ジュ・セ・トゥ」や「ル・ジュルナル」といったフラン スの新聞・雑誌での連載ではなく、いきなりの書き下ろし。しかもアメリカの映画会社パラマウントから「ルパン映画の原作を書いて」と頼まれての執筆で、 1914年に英 訳版が本国フランスにさきがけアメリカで刊行されるという異例の形で世に送り出されたのだ。もっともすぐに第一次世界大戦が勃発したため肝心の映画「虎の 牙」のほうは製作が遅れに遅れ、結局大戦が終わった後の1919年になって公開されている。
 母国フランスに先駆けてアメリカでルパンの新作が出てしまったとは驚きだが、ルブランは他にもこうした例がいくつかあり、とくにこだわりはなかったよう だ。だがやはりフランスのルパンファンたちは非常に悔しがったようで、当時フランスを訪れた日本の探偵小説作家・甲賀三郎(1893-1945)がその様子を報告しているとのこと(ポプラ社「シリーズ怪盗ルパン」の『虎の牙』巻末の浜田知明氏の解説によ る)。なお、この甲賀三郎は自分が探偵小説作家になった経緯をつづったエッセイ「ドイルを宗とす」の中で、保篠龍緒訳『虎の牙』の影響を強く 受けたことを示唆している。

 恐らくは映画の公開に合わせて、あるいは公開後にフランス語版を刊行するという手はず(契約があったのかもしれない)になっていたものと思われ、 『虎の牙』フランス語版の発表は1920年まで遅れることになってしまった。この間にルブランは『金三角』『三十棺桶島』を発表しているため、 『虎の牙』はそれより後の第一次大戦終結後の物語に変更、ツジツマを合わせるため一部に加筆・修正が行われている。『金三角』でルパンがデマリオンに「警 視総監になる」と“予言”できたり、『金三角』で大統領だったバラングレーが総理大臣に戻っているのもこれが原因だ(『金三角』の雑談参照)
 ルブランが最初に書いた「原型」である英訳版「The Teeth of The Tiger」もさらっとチェックしてみたのだが、偕成社版訳本との差異はほとんどなく、『金三角』『三十棺桶 島』と第一次世界大戦に関する話がいっさい無く年代にズレ があること、そして第一部の 章立てがちょっと異なるぐらいの違いしか確認できない(作中年代の ズレについては後述)

 アメリカの映画会社からのオリジナル新作執筆の依頼は、それだけルパンが世界で人気を博していたことの表れなのだが、生みの親ルブランとしてはこれ を機にルパンシリーズを終わりにしようとしていたフシがある。『813』で死にそこねたルパンを復活させるストーリーではあるのだが、結局ラスト でルパンはドン・ルイス=ペレンナとして結婚・引退・楽隠居してしまい、これが「ルパン最後の冒険」となってしまうのだ。
 『虎の牙』執筆後のルブランはハリウッド映画のノヴェライズである『赤 い輪』とか、本来はルパンと無関係だった戦争ミステリ『オ ルヌカン城の謎』など、ルパンもの以外の推理・冒険小説の執筆にとりかかっている。また発表は戦後になるが、『三つの目』『驚天動地』といったSFミステリ小説にも挑んで おり、明らかに『虎の牙』以降のルブランは「ルパン」から離れる傾向がみられる。『虎の牙』でルパン物語には決着をつけた、とルブラン自身が考えていた可 能 性は高いのだ。
 結局戦後もルパン・シリーズは書き継がれるのだが、年代が大戦前の時代にさかのぼっているものがほとんどになった。1933年に発表された『特捜班ビクトール』以降が『虎の牙』より後の年代の物語にな り、その前年に出た『虎の牙』普及版のラストはルパンが引退をやめて再び冒険に乗り出したかのように変更された。日本では創元推理文庫版がこのラストに なっているが、偕成社版とどちらが「正しい」のかは各自が判断していただきたい。

 ルブランがそこまで意図していたとは思えないが、『虎の牙』が第一次世界大戦勃発前の段階で書き終えられていたことは、アルセーヌ=ルパンの物語がもと もと大戦前のベル・エポック(古き良き時代)でこそ成立 するものであったことを象徴しているようにも感じる。成り行きで大戦中の物語である『金三角』『三 十棺桶島』が書かれ、『虎の牙』は戦後の設定に変えられたが、大戦前の、多少のキナ臭さはありながらも平和を謳歌した時代、ヨーロッパ近代文明の絶頂期と も言える時代の終わりと共 に、ルパン・シリーズも一応の幕を下ろしていたのだ。もしかするとルブラン自身無意識のうちにその空気を感じ取っていたのかもしれない。
 『虎の牙』のラストで、引退したルパンはこう語る。

 「…みんなは彼のみごとな早業をおもしろがっていたが、その一方では、彼の勇 気、大胆不敵さ、冒険の精神、危険をかえりみない沈着さ、洞察力、ユーモア、おどろくべきエネルギーなどといった、一時代にかがやきでた美質に、熱狂した のだ。わが民族の活気がもっとも高揚した時代、自動車と飛行機の英雄の時代、世界大戦前の時代だった(矢野浩三郎訳、偕成社版『虎の牙(下)』p296)

 もちろん世界大戦前に世に出た英語版には最後の「世界大戦前の時代」の 部分はない。このセリフは「怪盗ルパン」とはフランス民族がもっとも高揚した時代の産物であったという趣旨のことをルパンその人が語るものだが、戦後に出 た完全版で「世界大戦前の時代」とつけくわえられたことで、大戦により「ルパンの時代」がすでに過去のものとなってしまったことをも語らせることになった のだ。


☆映画原作小説として

 映画の原作となることを想定して書かれた『虎の牙』だが、映画の方は前述のように大戦後の1919年になってようやく完成・公開された。調べてみた限り では残念ながら映画そのものは現存していないようだ。だがそのスタッフ・配役・あらすじはネット上でも紹介されているので、その概要はつかむことができ る。

 それらの情報をまとめると…まず映画ではアメリカが舞台になっており、怪盗ルパンは死んだと思われているがアメリカのバーモントで静かに暮らしている、 という設定だ。ただし名前はドン・ルイスではなくポール=セルニーヌ公 爵。アナグラムを使っている偽名であることは共通だが、映画ではスペイン貴族にする必然性がなかったということだろう。原作のコスモ=モーニントンと フォービルはいっしょくたにされてセルニーヌの友人ヘンリー=フォーブ スとなっており、このフォーブスが「自分が何者かに殺される」とおびえ、セルニーヌとマズルー(ニューヨーク市警の刑事となっているが元ルパンの部下であるのは同じ)が 警護していたにも関わらず殺されてしまう。そしてフォーブスの妻マリーに 疑いがかかり…という展開は原作と同じだ。
 原作のウェベールにあたる役どころはゴードン=サヴェージな るフランスの探偵(刑事?)で、セルニーヌの正体がルパンであることを暴いて一度は彼を捕らえるらしい。それを逃れたルパンはマリーの無実を証明してみ せ、フォーブスの遺産をねらってすべての計画を進めた真犯人が医師ヴァー ネイであることをつきとめる。もちろんフロランスも登場しているがフローレンス=チャンドラーという名前になっており、ヴァーネイの ために利用されてフォーブスの秘書として住み込んでいたという設定。この冒険でフローレンスの危機を救い、その愛を勝ち得たルパンはラストでフローレンス と結婚しめでたし、めでたし…で終わっていたようだ。上映時間は不明だが、2時間を超すことはまずなかっただろう。

 ずいぶん違う話になってる気もするが、事件の核心部分はかなり原型をとどめているみたい。ネット上でみつかるあらすじだけでは判然としないが、おそらく 「密室殺人」のトリックの核心部分もそのままになっているのではなかろうか。
 映画の方は原作以上に「かつての怪盗」であるルパンが正義のために戦う内容になっているように思える。あくまで推測なのだが、これは原作依頼の段階で決 まっていたことではなかっただろうか。人気者のルパンとはいえ、さすがに犯罪者そのものを映画の主役にすることは避けたいという映画会社の意向があったよ うにも思える。だったらルパンを主役にするなよ、との声もあろうが、本国フランスでも映画やTVドラマのルパンが「犯罪者」の性格をかなりマイルドにされ ている例は多いし、1990年代にフランスとカナダで製作されたTVアニメ「Les Exploits d’Arsène Lupin(英題「Night Hood」)」でもルパンは一応泥棒とはされているが犯罪は一切せず常に正義の味方として活動していた。つ いでに いえばあの「ルパン三世」だってお国によっては「探偵」という設定に無理やり変えて吹き替えられているとのことである。
 
 泥棒からは足を洗ったルパンが大活躍、という設定は、やはりハリウッドで製作され1938年に公開された映画「アルセーヌ・ルパンの帰還(Arsene Lupin Returns)」で も使われている。こちらはむしろ『特捜班ビクトール』を 意識した映画だったらしいのだが、映画版「虎の牙」と同じように「主役を犯罪者にしない」的な発想があったのかもしれない。
 ついでの話をするなら、これとソックリな話になっているのがアルフ レッ ド=ヒッチコック監督の映画「泥棒成金」(1955 年公開)。 これ、舞台も南フランスで、泥棒稼業から足を洗って悠々自適に暮らしている元怪盗(ケイリー=グラント)が、自分とそっくりな手口の盗難事件の 捜査に乗り出すというストーリーなのだ。フランスのフランソワ=トリュ フォー監督がヒッチコック全作品について本人にインタビューした「映画術」という物凄い一冊があるのだが、このなかでトリュフォーは「泥棒 成金」について「アルセーヌ=ルパンみたい」と口に していたりする。「ヒッチコックが撮ったルパン映画」として楽しんでみるのも一興かと(笑)。

 話を「虎の牙」に戻すと、この小説のルパンが「ルパンっぽくない」原因が、この映画原作という事情があったためと僕は推測している。だからルパンはあく まで探偵役に徹させた上で の密室殺人の謎解き物語になったのではないかと思う。また派手な爆発シーンにむけてのサスペンスとか、飛行機での追跡シーンといった映像的に面白そうな場 面がいくつか含まれていることは、ルブランが映画向けを強く意識して書いていたことを推測させる。もっとも完成した映画にこれらのシーンがあるのか確認で きないのだけど。

 ところで日本映画にも『虎の牙』という作品があ る。昭和26年(1951)の松竹映画、瑞穂春海監督作 品。主演は当時を代表する美男俳優・上原謙。上原演じる 主人公の名前は有阪隆太郎といい、その実体は「怪盗ルパ ン」の異名をとる泥棒である。映画の冒頭、「今夜、人が殺される」と警視庁に電話をかけた馬場刑事が毒殺死体で発見される。馬場刑事は4億円もの大遺産の 相続人に関する調査をしており、その相続人・堀川市太郎もまた「自分は虎の牙に殺される」と警察に訴えていた。警察および有阪は堀川邸に厳重な警備をしく が、密室の中で堀川は殺されてしまう。堀川の妻・マリ子が犯人と疑われて捕らえられ…という、まさにそのまんま日本化した翻案作品だ。フロランスにあたる ヒロイン・園原富美子は津島恵子が演じている。
 よく見れば保篠龍緒の名もクレジットされており、「監修」のような立場だったようだ。ネットで紹介されている「あらすじ」によれば密室殺人の件だけに話 は絞られており、事件の真相が明らかになったところで有阪がいずこかへ立ち去っておしまい、だったらしい。なんでも松竹はシリーズ化も意図していたという のだが、結局この1作で終わっている。
 なお、東宝映画にも『国際秘密警察 虎の牙』(1964)と いう作品があり、こちらはルパンとは全く無関係の、三橋達也主 演の和製007映画だった。

「その2」へ続く

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