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「虎の 牙」(長編)
LES DENTS DU TIGRE

<ネタばれ雑談その2>

☆『虎の牙』パリ探索

 『虎の牙』でドン・ルイス=ペレンナことルパンが住居としているのはパ レ・ブルボン広場に面し、フォーブール・サン・ジェルマ ンの入口にある邸宅と書かれている。「パレ・ブルボン」すなわち「ブルボン宮殿」とはパリ中心部第7区・セーヌ左岸にある大きな建物で、ず ばり、フランスの国民議会議事堂である。その真ん前がパレ・ブルボン広場だからパリ市街地図での発見は実に容易。「フォーブール・サン・ジェルマン」とは 現在は残っていない地名だが、現在のパリ7区のブルボン宮殿東側一帯を指す地名で、かつては高級住宅街の代名詞であったようだ。その入口の国会議事堂前と きては、まさに一等地といっていい。
 ドン・ルイスの邸宅は18世紀に建てられた貴族の大豪邸で、ドン・ルイスが買い取るまではその貴族の子孫であるルーマニア人のマロネスコ伯爵が所有していた。広大な敷地に馬車も自動車もあり、 二つの離れもそれぞれ一軒の家ぐらいの規模がある。「正真正銘のスペイン貴族」を称するドン・ルイス(ついでにいえば「モーリタニア皇帝」でもあった)にはふさわ しい豪邸というわけだが、革命時代を生き延びた貴族の邸宅らしく、落ちてくる鉄のカーテンやら隠し扉や隠し通路があるという忍者屋敷(笑)みたいな家で、 本人は知らなかったこととはいえこの面でもルパンの家にふさわしい。

 さてgoogleマップでパリの空撮画像をあたっていくと、現在のパレ・ブルボン広場周辺は右図のようになっていた。パ レ・ブルボン広場は決して広くはない「小広場」であり、それに面した建物といっても一方は国民議会議事堂で、しかもフォーブール・サン・ジェルマンと呼ば れた地域は東側だから、ドン・ルイスの邸の位置はかなり限定されてくる。
 和田英次郎氏が著書『怪盗ルパンの時代』(1989年刊)でルパンの隠れ家探索を 披露されており、このパレ・ブルボン広場の隠れ家も現地調査されている。それによればパレ・ブルボン広場の「東斜めのハス向い」に『虎の牙』に詳細な描写にばっちり該当する 白い塀に囲まれた中庭つきの18世紀風の邸宅を発見した!とある。空中写真では確かに広場の南東方向の一角に中庭らしき緑が見える。ここがそれらしいのだ が、広場と「白い塀」でしきられているという記述にはピッタリはあたらないような…その後周辺が改造されたのかな?
 
 殺人事件の現場となり、謎の手紙の出現と大爆発までが起こるフォービル邸はシュシェ通り14番地の2。偕成社版と創元版が「シュシェ通り」と 表記し、保篠版と南洋一郎版が「スーシェ通り」と表記するこの通りは本文中にあるようにパリ南西部のパッシー方面、当時まだ残っていた城壁のすぐそばにあ る。「14番地」で検索をかけるとちゃんと場所も確認できた(下の 地図参照)
 ところでフランス語表記では「Boulevard Suchet」となるこの通りの名前、「シュシェ」「スーシェ」のどっちが発音的に正しいかは意見の分かれるところだが、通りの名前の由来 となっているナポレオン配下の将軍の名前はルイ=ガブリエル=スーシェ (1770-1826)と書くのが日本では一般的。ついでに言えばTVドラマ「名探偵ポワロ」でエルキュール=ポワロをあまりにもハマって演じたイギリスの俳優デビッド=スーシェもこれと同じ姓である。
 このフォービル邸についても和田英次郎氏が現地調査をしており、これまたほぼピッタリの家があるそうなのだ。ただし「現在は建てなおされていて<ルパンの時代>の面影が感じられません」と のこと。「しかし、考えてみれば、フォービル邸は『虎の牙』で“爆 破”されてしまったので、当時の邸はとうになくなり、新しく建てかえられた建物がそこに建っているのは至極当然のことであります」とも (笑)。作中に描写がある鉄柵はそのまま残っているそうだ。

 ベロ刑事が事件の真相を記した手紙を入れた封筒は「カフェ・ドゥ・ポ ン・ヌフ」のもの。「ポン・ヌフ」は『赤い絹のス カーフ』にも登場したセーヌ川にシテ島をまたいでかかるあの橋のことで、調べたところその右岸側、ルーブル美術館の目と鼻の先に同名のカ フェが現在も実在するらしい(当時と同じものかは未確認)。 ベロ刑事はこの店の常連だったそうだし、ここに捜査に来たドン・ルイスがマズルー刑事に正体を明かしてビックリさせる名場面がその店先で演じられた記念す べきカフェ、ぜひ一度訪れてみたいものである。なお、南洋一郎版では「新橋カフェ」と訳されて いて(「ポン・ヌフ」とルビが打ってはある)、なん だか東京の高架線ガード下の、仕事帰りのサラリーマンが集まる飲み屋みたいなイメージがあったものだ(笑)。

 「ドン・ルイス=ペレンナはルパンだ!逮捕しろ!」と名指しする記事を掲載した責任をとって、エコー・ド・フランス紙編集長がドン・ルイスと決闘して重 傷を負わされる場所がそのフォービル邸からさして遠くないプランス公園。 『813』でもポール=セルニーヌ公爵がここで決闘をしており、当時「決闘の名所」だったのだろうか。それにしても「エコー・ド・フランス」といえばかつ てはルパンが出資する機関紙みたいな存在だったはずだが、その「死去」のあとはルパンとの縁は切れていたようである。

 「B・R・W 8」という謎の文字を見ただけでドン・ルイスは「リ シャール=ワラス通り(Boulevard Richard Wallace)8番地」と見当をつけ、実際にそこにユベール=ロチエことガ ストン=ソーブランの自宅を発見する。「リシャール=ワラス通り」はパリ郊外、ブーローニュの森の脇を抜け、セーヌ川を渡ってヌイイにいたる大通りで、8 番地で検索するとパリ方面からセーヌ川を渡ったすぐの場所であることがわかる。なお、創元推理文庫版ではソーブランの追跡場面で文中に出てくる通りと現在 の通りとの違いについて簡単に注釈を加えている。
 ところでドン・ルイスは「W」の文字について「英語の文字だ」と 言っている。実はフランス語では本来「W」の文字は使われず、使う場合も全て英語由来の外来語のみなのだ。実際に仏和辞書を開いてみれば、「W」が1ペー ジぐらいしかないことがわかる。そこからすぐにリシャール=ワラス、英語読みでリチャード=ウォレス(1810-1890)に思い当たるわけだ。 この人物については『ルパンの冒険』の雑談でも触れ たが、有名な収集家でフランスの美術品コレクションをイギリスに持ち帰り、没後にそのコレクションが博物館になったというほどの人。

 ドン・ルイスとマズルーがリシャール=ワラス通りへ向かおうと車を飛ばすが、仕掛けられていた細工により横転事故が起こり、運転手が死亡してしまう。こ の事故が起きたのがアルマ広場近くだ。パレ・ブルボン広 場から北進してセーヌ川を渡り、川沿いに走ってトロカデロ方面へ直進しようとしたときに起こったという描写になっている。

 殺人の容疑をかけられたマリー=アンヌ=フォービルが収容され、結局そこで自殺を遂げてしまうのがサン・ラザール刑務所。ルパンシリーズではラ・サンテ刑務所がおなじみだが(『虎の牙』でまたもやブチこまれた)、こちらもパリの有名な 刑務所だ。場所はパリ10区、東駅の近くで、過去にはあのサド侯爵 (1740-1814)が 収容されていたという歴史もある。
 調べたところ1896年以降、ここは女性用刑務所になっていたようだ。ルパンと同時代の有名人では、第一次世界大戦中にドイツのスパイに協力した容疑で 処刑された踊り子マタ=ハリ(1876-1917)が収 監されている。マタ=ハリとルパンが接触していたかも…?という楽しい推理がやはり和田英次郎氏の『怪盗ルパンの時代』で展開されているので、興味のある方はぜ ひ一読を。なお『虎の牙』英語版の段階ではまだ逮捕もされてなかったマタ=ハリだが、仏語版発表の段階では処刑後なので、どちらにしてもフォービル夫人と 「同居」したことはないことになる。



 第二部に入って、立場が危うくなったと思ったドン・ルイスが身を隠すのがリボリ街のアパート。『813』でもジュヌビエーブの監禁場所とし て出てくるこの通りは、パレ・ブルボン広場のドン・ルイス豪邸からセーヌ川をはさんだほぼ反対側になる。この通りとセーヌ川の間に有名なチュイルリー公園があり、ドン・ルイスが隠れ住むアパートのバルコ ニーからシャボン玉を飛ばし、それがチュイルリー公園へ風に乗って飛んでいくのを眺める描写がある。

 フロランスが看護婦として働いていた病院はテルヌ街に あり、そこから尾行してサン・ラザール駅でルーアンへ向 かう列車に乗るくだりがある。実際にはフロランスはルーアンへは行かず、警視庁の総監室に現れるのだが。その後またテルヌ街へ行ってフロランスの逃亡劇と なり、フロランスがサン・ルイ島のホテルに身を隠してい たことが明らかになる。サン・ルイ島は警視庁や裁判所があるシテ島か らすぐ隣のセーヌ上流にある川中島だ。

 フロランスを追跡している最中に、いきなり「アルセーヌ=ルパン」として逮捕されてしまったドン・ルイスはまたもやラ・サンテ刑務所にブチこまれる(これが3度目)。しかしすぐにバラングレー首相に面会を要求 し、政治的取引により自由を得ることになる。
 刑務所を出たルパンが車に乗り込んでタクシーよろしく「ボーボー 広場」と運転手に告げると、「ビヌーズ街だ」と 刑事が言い、「おや、閣下の私邸のほうか」とルパン が返すやりとりがある。ボーボー広場は『813』でも出 てくるように、内務省の建物があり、ここが首相官邸も兼ねてバラングレーがここで執務を行っている。だがこの面会を極秘にしたいバラングレーはビヌーズ街にある私邸にルパンを呼び出したわけだ。本文中にも「トロカデロの近く」とあるように、ビヌーズ街はトロカデロ広 場から放射状に延びるいくつもの通りのうちあまり目立たない細い通りである。そこの小さな建物の一階が私邸だったというから、バラングレーの私生活はつつ ましいものであったようにも感じられる。


☆地を走れ、空を飛べ!

 『虎の牙』は第一部の後半、ドン・ルイスとマズルーがガストン=ソーブランとフロランスを追って、自動車で大追跡をするくだりがある。
 フォービルの手紙を宛先を探して、ドン・ルイスたちは自動車でフォル ミニ―村に向かう。フェルミニ―村はこの地方の県庁所在地ア ランソンの近くにあるとされ、アランソンはパリ西南に直線距離で170kmぐらいの位置にある。8時にパリを出て昼食時にはアランソンにつ いたとあるから平均時速50kmぐらいで飛ばしたものと推測される。今だと大したスピードと思わないかもしれないが、屋根のない無蓋車でもあり、マズルー が目を回してしまうのも無理はないのかもしれない。
 ところでフォルミニ―(Formigny)という 村だが、地図で調べた限りではアランソンの近くにそのような地名は発見できない(ブルターニュの方にみつかったりしたが)。あえて似た地名を 探すとアランソンの北方にダミニー(Damigny)と いうのが見つかる。過去にもルブランは実在地名をちょこっともじったものを使ってるからなぁ、と思いつつ英語版を確認してみると…なんと、英語版ではこの 村、「ダミニ(Damigni)」ともっと近い表記に なっていたのだ。ルブランもさすがにフランス国内ではモデルがあまりに特定できる地名を避け、地名をさらに変更したものと思われる。

 フェルミニー村でドン・ルイスと出くわしたフロランスたちは、アランソンの駅から列車に乗る。それを追ってドン・ルイスたちは車を飛ばし、ル・マンの駅で追いつこうとする。現在でもアランソンからパリへ鉄 道で行くには、いったん南方のル・マンまで行き、そこでパリ行きに乗り換える必要がある。車を飛ばせば列車に追いつく、という前例は『ふしぎな旅行者』で経験済みのルパンは飛ばしに飛ばすが、駅 への道を間違えてタッチの差で逃げられてしまい、今度は次のシャルトル駅 へと「竜巻そのもの」の速さで疾走するハメになる。 その途中でエンストを起こして結局追いつくことはできず、翌日は「隕 石のような」スピードでパリへと駆け駆け抜けている。時速について明記はないが、前例からすれば時速100kmぐらいで飛ばしてる可能性 大。
 なお、ル・マンは世界のモータースポーツの華、24時間耐久レースの開催地として有名だが、その第一回が開催されたのは1923年のこと。その4年前にルパンがこの地方を24時間耐久状 態で駆け抜けていることは何とも面白い偶然である。もしかしてそれがきっかけで大会が始まったのかな?(笑)
 なお、先ほどから何度も引用する『怪盗ルパンの時代』の著者・和田英次郎氏は大のカーマニアであるため、著書でもルパンと自動車の関係について実にマニ アックに考察をされている。なかでも1908年から1914年にかけて大活躍した実在の名ドライバー、アルベール=ギュイヨ(Albert Guyot)が実は変装した ルパンだった!という大胆推理は必読もの。いくつもの理由が挙げられているのだが、とくにルパンの偽名のひとつ「ギョーム=ベルラ」の「ベルラ (Berlat)」が「アルベール(Albert)」のアナグラムになっているという指摘にはビックリ!



 第二部クライマックスの大追跡。もう自動車では間に合わないとみたドン・ルイスは、パリ南郊外のイッシー・レ・ムルノーへ赴き、そこからなんと飛行機を出動させてい る。ルパン自身も飛行機は初体験だと明記してあり、さすがに操縦は有名な飛行士ダバンヌに任せている。
 フロランスを連れた犯人はタクシーでパリからベルサイユ街道を南西へ、大西洋岸のナント方面へ車で走り去っていた。その先のサン・ナゼールから国外逃亡をはかるものと考えたドン・ルイスはこ れを道路沿いに飛行機で追う。時速120kmというスピードでベルサイ ユマントノンシャルトルノジャン・ル・ロトルーラ・フェルテ・ベルナール、ル・マン、アンジェールと飛び続け、そしてレ・ポン・ド・ドリーブ(地図では発見できなかった。架空の地名?)で計算通りに追い つくが、なんとこれは犯人のトリック。犯人は車だけ走らせてル・マンで別方向へ向かっていたのだ。ドン・ルイスは犯人が生まれ育ったアランソン近くのフォ ルミニーに向かうとさとり、今度は時速150kmでサブレシレ・ル・ギョームを経て、アランソンまで飛ばしに飛ばす。自動車 の時点でスピード狂のルパン君、飛行機になるとさらに過激だ(笑)。もちろんそれだけ必死な状況なわけだけど。

 ライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功したのが1903年のこと。それから世界各国で軍事目的も視野に飛行機開発 レースが過熱し、スピードや運動性、飛行時間などあらゆる面で飛行機は急速に発達していった。第一次世界大戦で戦闘機が活躍したのもよく知られている。ル パン・シリーズでは『金三角』でパトリス=べルバルが飛行機で偵察中に重傷を負ったことが書かれている。
 『虎の牙』は完成版では第一次世界大戦後の話になってしまったので飛行機での追跡という描写の新鮮さがやや薄れている気も するが、ルブランがこの物語を最初に書いたのは1914年以前のことで、その時点ではまさに「最新の科学技術」を使ったアイデアだったことに注意された い。よく読めば本文中に「彼が外人部隊やサハラ砂漠で戦っていたあ いだに、フランスは空を征服していたのだった」という、大戦後としてはややおかしい記述が残っている。

 飛行機の歴史を調べてみると1913年にフランスの最新鋭飛行機「ド ベルドゥサン・レーサー(Deperdussin Racer)」が人類初の時速200キロ超えを実現しており、ルブランはこれに刺激され て『虎の牙』の飛行機シーンを執筆した可能性が高い。左図がその現物の写真で、ネットで探してみるとちゃんと空を飛んでいる動画も発見できた。
 『虎の牙』本文には飛行機の形状についての記述がないが、速度優先なのでおそらくはこんな形のものではなかったか。ポプラ社版と偕成社版いずれの挿絵 も、当時の主流だった 複葉機ではなく単葉機タイプの飛行機に描かれている。ポプラ社版にいたっては南洋一郎が原文にない「単葉機」の形状をちゃんと説明している。
 なお、原作でルパンが飛行機に乗るのはこの場面のみだが、ジョルジュ =デクリエール主演のTVドラマ版の「黒い帽子の怪 人」(「バール・イ・ヴァ荘」が原作)の 回では、ルパン自身が飛行機を巧みに操縦するシーンがみどころとなっていた。


☆事件の年代設定は?

 『オルヌカン城の謎』が1914〜15年。『金三角』が1915年の4月〜5月。『三十棺桶島』が1917年。アルセーヌ=ルパンの「第一次世 界大戦シリーズ」3作の年代はそれぞれ作中に明記があり確定している。もともとルパンは登場しない話だった『オルヌカン城の謎』を除いた2作では、ルパ ンは「スペイン貴族ドン・ルイス=ペレンナ」を名乗 り、登場人物も共通するなど『虎の牙』と密接にかかわっている。ところが前述のように『虎の牙』はいったん大戦前に書きあげられてから、大戦後に戦後の物 語として修正を加えたうえで出版された経緯があるため、年代確定に若干の問題がある。

 『虎の牙』本文中の年代の明記は、密室内で次々と現れるフォービルの手紙に書かれている。最初の手紙には<パリ、1919年1月4日>と 書かれており、これを見たルパンが「すると、この手紙は三か月半前 のものだな」と言うので、『虎の牙』は1919年4 月から5月にかけての事件ということになる。だとすればルパン45歳の冒険というわけだ。
 ところが物語の二日目の朝に「この4月1日の木曜日」と ルパンが言うセ リフがある。万年暦で確認してみると該当するのは1920年で、 1年のズレが生じてしまう。困ったことに1919年の4月1日は火曜日なのだ!

 実はこれ、ルブランの「うっかり」である。大 戦勃発前にアメリカで刊行された英語版の段階でこの部分は「四月一日の木曜日」となっていて、フォービルの手紙の日付は「19−−年1月4日」と年を伏せ た形にされていたのだ。万年暦で調べてみると1915年の 4月1日が木曜日で、ルブランは当初はそのつもりで書いていたわけだ。『813』同様に執筆時点より「近未来」を舞台にしていたことになる。
 最初に出た英語版と完成形の仏語版では間に第一次世界大戦をはさんでいるため、いくつか年代関連の記述に変更がほどこされている。例えば仏語版では最初 の方でデマリオンが「ルパンが死んだのはどのくらい前だったかな」と 秘書に質問すると、「世界大戦の二年前(=1912年)です」と いう返事が返ってくるが、ここは英語版では「総監が就任する二年前で す」となっている。またルッセル姉妹からコスモ=モーニントンにいたる歴史を語るところで仏語版で「1870年の戦争の何年か前」とある部分は英語版では「50年以上前の1860年」、モーニントン夫妻が渡米した年は仏 語版では「1875」だが英語版では「1870」、モーニントン氏の死は仏語版では「1883」で英語版は「1875」、モーニントン夫人の死が仏語版では「1905」で英語版が「1900」…と、きっちり5年ずつずらしてあるのだ。ルブランは 入念に年代をずらしたつもりだったのだが、ついうっかりルパンのセリフ中の日付と曜日の修正を見落としてしまったということのようだ。

 完全版(仏語版)ではコスモ=モーニントンがエジプトからアルジェリア、モロッコに旅し、ここでドン・ルイスやダストリニャック伯爵と知り合ってから、 1914年にアメリカを世界大戦の連合国側に加える運動をするべく帰国したことになっている。ここも初出の英語版にはない部分で、モロッコから「昨年」に パ リに来たことになっている。英語版の「昨年」は1914年ということになるから、アメリカにいったん帰国したという話自体が戦後に付け足されているわけ だ。

 ドン・ルイスは世界大戦勃発後の1914年11月にス ペインの宮廷の要請でパリに赴き、フランスのためにさまざまな工作をして、そのあとモロッコに戻ってベルベル人の捕虜となり、そこから「モーリタニア帝 国」建国の冒険が始まっている。もちろんこの「1914年11月」の明記も戦後に出た完全版(仏語版)で追加された部分で、もともとの英語版では第一次世 界大戦前に「モーリタニア帝国」が建国されたことになっていた。
 モーリタニア帝国のフランスへの引き渡しの部分で、モーリタニアとモロッコとの国境地域で「フランス軍司令官ローティ将軍」と秘密会談が行われたことに なっている。この「ローティ(Lauty)」が、当時実 際にモロッコ総督をつとめていた軍人・ユベール=リオテ(Louis Hubert Gonzalve Lyautey,1854-1934)の名前をもじったものであるのは明らかだ(偕成社版の矢野氏の解説に詳しい。創元版では疑問もなく本人ということで注 釈をつけている)。リオテは1912年から 1925年までモロッコ総督をつとめており、第一次世界大戦中の1917年にほんの三か月だけフランス本国に戻った以外は一貫してモロッコ支配にあたって いた。だからうまいぐあいに英語版でも仏語版でも彼(とおぼしき 人)が出てくることに何の問題もないのだった。

 ドン・ルイスがサン・マルクの村に引退して、インタビューを受けている結末部分の年代についても英語版と仏語版で違いがある。仏語版、つまり現在日本で 読める訳本ではモーリタニアの引き渡しをして帰国、その直後にフロランスとの結婚が語られているが、英語版では結婚の話題の直前に「He has now been back for over two years.(彼が戻ってから今や2年が経っている)」という一文が入っている。この一文以降、インタビューに応じているラストまでが「現 在」のルパンの模様を記述しているので、「現在」はドン・ルイスの帰国から2年後ということになる。英語版は1915年の事件という想定で書かれているか らこの「現在」は1917年か1918年ということになりそうだが、第一次世界大戦後に出た仏語版ではこの「2年」の時間経過自体が削除され、1920年 ごろ、つまり『虎の牙』の新聞連載が行われたころというなっているようだ。

「その3」へ続く

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