道教と仙学 第2章

 

 

1、方仙道・黄老道と巫鬼道

 

 

 秦以前から前漢にかけての方仙道、後漢の時代の黄老道、そして漢代に民間で流行した巫鬼道は、道教の 先駆け的存在である。

 早く春秋戦国時代には、百家が乱立している中に神仙家という一派があった。《漢書・芸文志》には、 「神仙者は、性命の真を保つことによってその外を探し求める者であり、意を清めるだけで心を落ち着かせ、死生の域を同じにし、そして 胸中にはびくびくするものがない」と書かれている。戦国時代の騶衍は、本来は方士であるが、斉の国で陰陽家五行学説を提唱し、政治地 理の学に応用された。歴史家は彼の学派を陰陽家と称している。騶衍は周代の天文観象と律歴の学に精通し、「談天衍」とも呼ばれ、 105篇の書を著した。その学は、陰陽の変化の理や五行転運の機・天道玄遠を探求することが主であり、「大小九州」や「五徳終始」の 説を提唱した。《史記・孟子荀卿列伝》によると、「陰陽の移り変わり、そして不思議にうねる変化を深く観察する」のである。騶衍とそ の弟子は、斉・燕・趙などの国で活動して非常に尊敬され、さながら当世の活神仙のようだった。騶衍は月・星・雲など天に現れる現象を 予言することもできた。洞察にも優れていて、神仙の方術を習い究めて《重道延命方》を著し、燕斉の方士の開祖と成った。戦国の末期に は、陰陽家・方技家・術数家などは、長生不死を追及する神仙家と合流し、「方仙道」を形成した。方仙道の中で有名な方士には、宋毋 忌・正伯矯・充尚(《詞通》では元谷)・羨門高・安期生・石生・盧生・侯生・徐市(徐福)・韓終・聚谷諸人などがいる。方仙道の目 立った活動には、斉の威王・宣王・燕の昭王が人を派遣して海外に仙を求めたこと、呂不韋が食客を集めて書を著したこと、秦の始皇帝が 仙薬を捜し求めたこと、漢の武帝が封禅・祀太一を行ったこと、准南王の劉安が道を学んだことなどが挙げられる。方仙道は、神仙長生の 説や騶衍の方士の学を受け継ぎ、神仙説を伝播あるいは創造した。また、さまざまな神仙の方術を習い究め、神仙方術によって生計を立て る職業集団も形成し、すでになにがしかの宗教性を備えていた。

秦の始皇帝
(立間祥介監修《歴代皇帝人物事典》より)

彼は初めて中国全土を統一したが、晩年には不老不死を信じ、仙薬を探し求め た。

 《漢書・郊祀志》の記載によると、谷永は皇帝に次のように述べている。「秦の始皇帝は初めて天下を統 一すると、神仙の道を願い、海外に仙薬を求めて徐福・韓終に多くの童男女を同行させ派遣しました」、「漢が興ると、新垣平や斉の人少 翁・公孫卿、欒大などが、みな仙人・黄冶・祭祠・事鬼・使物・入海・求神・採薬によって寵幸され、恩賞は千金をかさねました」、「元 鼎・元封年間には、燕・斉の方士が目をいからし腕ぶしをつかんで、神仙・祭祀・招福の術を持っていると言う者が万をもって数えるほど いました」。このことから当時の方士の数が非常に多かったことがわかる。秦・漢の時代の有名な仙人安期生は、大変奇怪な人物である。 彼は河上丈人に学び、東海岸で薬を売っていたが、当時の人は彼を千歳公と呼んでいた。秦の始皇帝は天下を統一したあと、「黄帝封禅不 死」や「渤海に蓬莱・方丈・瀛洲の三神山がある」といった方仙道の伝説を聞き、封泰山と禅梁父を遂行し、東遊して海上に神仙を求め た。また一説によると、彼は方士の安期生とも会って三日三晩語り合った。安期生は始皇帝から金玉の類を賜ったが、すべて置いて去り、 「数十年後、蓬莱山に私を探しに来てください」と言い残した。秦の始皇帝は海上に蓬莱山を探すために人を派遣したが、たどり着くこと なく嵐に遭って引き返してきた。三神山を見たという人があると船を出させたが、三神山を見ることはできなかった。人が見たという神山 は、実は蜃気楼である。方士の説明によれば、海上の三神山には仙人が住み、その上には雲霧が巡り、金銀で造られた宮殿や建物があり、 不死の薬がある。秦の始皇帝は、海上の瀛洲の仙山に薬を探すため、徐福に数千人の童男童女を同行させて派遣した。一説によると、彼ら は東隣りの日本に流れ着いて帰らなかったといわれ、日本の和歌山県や青森県には徐福が漂着したという伝説が残っている。秦の始皇帝は 何度も東の沿海を巡幸したが、薬を得ることを願いながら、結局は途中で病死した。漢の武帝もまた方仙道を信じ、斉の方士の少翁を文成 将軍に封じ、欒大を五利将軍に封じて衛長公主をめとらせた。方士の李少君は祠竈によって老いを退けることができ、漢の武帝に拝謁して 丹砂・黄金を錬成することを進言した。また、「私は海上に出掛けて行って、安期生に会い、瓜ほどの大きさの棗を食べたことがありま す」(《神仙伝》)と言上した。公孫卿は漢の武帝に黄帝が鼎を鋳造したこと、泰山で封禅を行ったこと、龍に乗って天に昇ったことなど の伝説を語り、また、「黄帝は戦いながら仙道を学んでいました」と言って、武帝の征伐の意向を迎合した。漢の武帝は色欲から肉体が動 くということを聞くと、やってみようと気をはやらせながら、「私は誠に黄帝と同様なものを得たので、私は妻が服を脱いだら相手にする だけにしよう」と言っている。漢代の元封の時には、封禅大典を挙行されたが、これは方仙道の宗教活動である。

 秦・漢の時代の方仙道の活動をまとめてみよう。その活動の一つ目は、長生不死の神仙説を伝播し創造し たことである。当時の中国の神話は西方の崑崙山と東方の三神山の二つの系統に大別できる。方仙道は、これらの古代神話を仙話に作り替 えたのである。西方の崑崙山の西王母と東方の黄帝をどちらも神仙として奉じ、方仙道の方士の安期生・羨門高・泰山老父などや武帝の寵 臣の東方朔も仙人として尊んだ。また、方士は修練によって仙人になる道を開拓したが、これは魏・晋の神仙道教の仙人可学論のはしりで ある。二つ目は、方士たちが伝道・授徒・結社・著書といった宗教的な活動を開始したことである。例えば、斉の少翁と欒大はもともと師 が同じであり、東莱黄錘(今の山東省黄県)の史寛舒は李少君から方を受けた。また、安期生・黄石公・蓋公は黄老の術を伝えた。これは 方仙道の中に師から弟子へ伝承していく道統があり相互に推挙したり連絡していたことを説明している。そのほか、このときには墨派の侠 士も方士と合流し、冶金製造に精通した墨派の百工の士が丹砂を精製して黄白に変化させる術を伝えた。また、墨派の結社の伝統や厳格な 宗教組織の規律も方仙道に持ち込まれ、その鬼神思想と神仙信仰が融合した。公孫卿が武帝に献じた「黄帝の宝鼎神策」であるという《礼 書》は、道書のはしりである。《漢書・芸文志》に記載されている《封禅方説》十八篇も武帝の時の方士が封禅のために著した道書であ る。淮南王の劉安が書を著すようになると、彼の周囲の方士たちも神仙黄白の事を道書として著していった。三つ目は、方士たちが古代か ら受け継いだ神仙方術をさらに発展させたことである。方仙道の神仙方術は、ほとんどが古代の原始宗教の巫術に由来するもので、種類が 非常に多い。神仙の学は戦国時代に起こった。燕斉一帯の方士は、主に服食仙薬・煉制丹砂を行っていたが、これらは安期生・羨門高から 伝えられたものである。秦晋一帯の方士は、房中御女の術を伝え、彭祖・容成公を崇拝していた。南方の荊楚・呉越・巴蜀一帯の方士は、 行気・導引・吐納・瞑想の術を伝え、王子喬・赤松子から伝わったものがもとになっていた。屈原は、《楚辞・遠遊》篇で道家の行気の方 を叙述しているが、これは王喬・赤松の仙学である。その後、北方の服餌派の中に起こった服気の方は、次第に行気派と合流し、内丹仙学 の先駆けとなった。戦国初期の《行気玉器銘》という文物は、この派の方士の作品である。《史記・封禅書》には、漢代の方仙道の方士が 武帝に示した奇方異術が記載されている。李少君の「却老方」は、丹砂を黄金に変え、棗を食して仙人に成る術であり、後世の道教の外丹 黄白・避穀服餌派の先駆けである。李少翁の「鬼神方」は、神を招き鬼を致し、まじないで悪いことを避けることができた。これは後世の 道教の符籙派のはしりである。謬忌の「太一方」は、方仙道の最高神太一を祭る方で、これは漢の武帝が宗教の力を借りて君主の権威を神 聖化するのに好都合だった。漢の武帝は謬忌の太一方に従って長安の東南の郊外に太一壇を建て、甘泉に泰畤を立て、自らも郊外に太一を 祭り、3年に1度祭ることを定めた。漢代の武帝の封禅大典と祀太一の活動は一時センセイションを巻き起こし、方仙道の発展はピークに 達した。

漢の武帝
(立間祥介監修《歴代皇帝人物事典》より)

一般的に、彼は儒教を国教としたと考えられる が、 史料にはわずかに「五経博士をおく」と記されるだけであり、この説は疑問視される。
彼は泰山で封禅を行い、長安の郊外に太一を祭った。また在位中に巫蠱の乱が起った。



淮南王・劉安(左の人物)
(《神仙伝》より)

史料によれば、彼は文才に優れ武帝にも尊重 され た が、後に謀反を企てて失敗し、自殺した。神仙伝によれば、彼は八公(八人の仙人?)とともに白日昇天したと 伝えられる。彼は食客・方士を集め《淮南子》を編纂した。


 漢の元帝以後、官僚の中の儒臣が方仙道を排斥し、成帝・哀帝の時には甘泉の泰畤を長安に移し、なおかつ方仙道を「左道」・「奸人」 の術であるとして排斥した。谷永は皇帝に、「世の中には仙人がいて、不死の薬を服し、遠く起こり軽く挙がり……丹砂をとかしふきわけ て黄金と化し、陥氷丸をもって堅い氷をとかし、身中に五色を存して死なず、腹中に五倉神を存して飢えないとする方術を説く者ども、こ れらはことごとく姦人で衆を惑わせ、邪道をさしはさみ、詐欺を抱いて世主をも欺きくらますやからであります」(《漢書・郊祀志》)と 述べている。その後、方仙道は次第に衰退していった。方仙道はなんとか盛り返そうと、まず当時の社会危機を利用して讖緯を捏造し、そ れを今文経学に混入した。それは儒家の宗教化、五経の神学化、儒生の方士化を促した。また、太平盛世という理想を宣伝し、「再受命 説」を提唱して漢王朝の延命を願い、仙道を復興しようとした。斉の甘忠可は《天宮歴》・《包元太平経》十二巻を著し、「漢家は天地の 大いなる終わりにあっているが、さらに天から命を受けるに当たり、天帝は真人を使わし赤精子の下で我にこの道を教えた」(《漢書・李 尋伝》)と主張した。彼の死後、その弟子の夏賀良・丁広世・郭昌などが鼓吹を続け、ついに漢の哀帝に自分が「再び命を受けた」、「建 平二年を太初元将元年(紀元前5年)と改め、陳聖劉太平皇帝と名乗る」と宣言させた。甘忠可の著した《包元太平経》は、漢末の早期道 教の典籍《太平経》の初本である。《太平経》は方仙道および黄老道に伝えられていった。

 二つの漢の間、新の莽の時代には、讖緯術数の学が盛んになり、神仙思想の発展もピークに達した。讖は 占験の隠語で、緯は経学に対する術数の解釈である。方士たちは術数によって五経をこじつけ、儒生にも呼びかけて讖緯の図書はすべて孔 子の著作であると偽った。後漢の時には、儒生は何かあると必ず易によって吉凶を占い巡り合わせを推し量った。皇帝でさえ天象を信じ、 災異を講じ、図讖を学び、社会全体が神秘的な宗教の雰囲気に包まれた。新の莽の時代に黄老の学と神仙養生の術は融合して一つになっ た。後漢の時には、黄老の学は次第に宗教化し、方仙道でも黄老が主流となり、方仙道はやがて黄老道へ変化していった。《後漢書・楚王 英伝》には、漢の明帝の時には楚の王英がすでに黄老道を信奉し、「黄老の微言を読み」、「潔斎三月、神と誓いを為した」ことが記され ている。桓帝の時には、黄老道はさらに発展し、皇宮の中にも黄帝や老子を祭る祠が建ち、延喜八年(165年)だけでも桓帝は3回も使 者を苦県に行かせて老子を祭り、辺韶も《老子銘》を書いた。黄老道は社会に広く伝播し、朝廷公認の宗教信仰ともなり、早期道教の生ま れる条件をととのえた。

 方仙道と黄老道はどちらも太一を最高神とし、長生成仙を追求する宗教信仰であるが、異なる点も多い。 方仙道は、燕斉文化に源を発し、騶衍の方士の学が理論的な基盤だった。当時、北方の秦は力が十分にある大国であり、斉は文化が発達 し、秦と斉の君主はどちらも黄帝の末裔であると自称していた。斉の宣王の時の《陳侯因?敦》という青銅器の銘文には、「皇帝の血統を 取り上げて考えていくと、高祖は黄帝である。その最近の子孫は桓公や文公であり、諸侯が天子に見え、いっしょに徳をつくした」と記さ れている。だから、騶衍などの斉の学者はみんな黄帝を理想として述べている。方仙道は、その黄帝を開祖として崇拝し、黄帝昇仙の伝説 を帝王に説き、各種の仙術を習い究めることが主要な内容だった。一方、黄老道は、老子の神格化に力を注ぎ、老子の学を宗教化・方術化 して理論的な基盤とし、太上老君を教主とした。その普遍的な「道」を信仰した特徴は、道教のひな型とも言える。

 黄帝と老子は、道家の開祖である。早くには、斉の稷下[春秋時代の斉の都]の学派の中で黄帝の学と老 子の学が黄老の学として結び付いた。漢のはじめには、黄老の学は統治者の用いる政術だった。馬王堆三号漢墓から出土した《黄帝四経》 は当時の黄学の内容を示している。漢の武帝は黄老を退けて儒術を尊んだが、黄老学は医学・養生学と融合して次第に黄老養性の術に変 わっていった。《史記・日者列伝》には司馬季が主に長安で卜を行ったことが記載され、「《易経》に通じ、黄帝・老子を術とし、広く聞 き遠くを見る」と書かれている。漢の成帝の時には、蜀郡の厳遵(本来の姓は荘、字は君平)も「専ら《大易》に精通し、《老》・《荘》 にふけり、常に市に於いて卜筮をし、蓍や亀を借りて教えた」(《華陽国志》巻十)。厳君平が著した《老子指帰》は、老子の道を修練に よる心理体験に転化していて、内丹仙学の先駆け的な存在になっている。黄老の学と方仙道が合流するにしたがって黄老道が起こり、《老 子》を方術化・宗教化した著作が日増しに増えた。漢の章帝は建初七年(紀元82年)に東平憲王の劉蒼から「秘書・列仙図・道術秘方」 (《後漢書・光武十王列伝》)を賜っている。このことから、黄老道の中に仙人図像や秘方が伝わっていたことがわかる。章帝の時には王 阜が《老子聖母碑》を著し、桓帝の時には辺音召が《老子銘》を著した。このことから、老子を神聖化して黄老道の教主としていたことが わかる。《老子河上公注》などの道書が世に出たことから、《老子》という書物が次第に黄老道の経典に成っていったことがわかる。後漢 の時には干吉(または于吉)が方士の間に伝承されていた《包元太平経》を《太平青領書》に再編成した。その弟子の宮嵩・襄楷はこれを 順帝・桓帝に献上したが採用されなかった。しかし《太平経》の思想は搾取されていた民衆の願望に通じるものがあり、迅速に社会に伝 わっていった。注目すべき点は、墨家の主張する労働・互助・兼愛・交利・尚同といった社会思想が《太平経》に暗に含まれていたこと で、これが救災・済貧・勤善・互助のスローガンによって道教結社が組織されていく基盤となった。もともと中国の民衆には団体を組織し ようという意識は乏しく、国家の官僚機構から遊離した宗教組織を形成することは容易ではなかった。しかし、墨派には手工業者が主と なって結社を結成する伝統があった。墨派は本来は原始宗教の組織であり、厳格な規律や天志・明鬼の信仰があった。墨派は漢のはじめに は消えてしまうが、方仙道やその変形である黄老道に溶け込み、早期の民衆道教結社が組織されていく基礎を造った。

 漢代の社会では、中原地区で方仙道と黄老道が広く伝播したほか、民間や辺境の地区で巫鬼道が活動して いた。巫鬼道はもともとは古代の原始宗教の残存であるが、民間で行われていた俗神信仰・家族祭祀・療病禳災・送葬求雨などの活動と密 接に結び付き、根強く活動していた。漢代に国が開かれると巫の風潮も盛んになり、その後も絶えることなく盛んに伝わった。中国のどの 地方にも巫術の活動によって生計をたてる多くの巫覡[呪術師]がいたが、彼らは王公大臣の家族や帝王の宮室にも出入りしていた。《漢 書・郊祀志》には漢代の帝王が巫を信じていたという記載があるし、武帝の時には巫蠱[巫術によって人を呪うこと]が大きな事件に発展 した。当時の巫の多くは若く美しい少女で、きれいな服を着て歌い舞ながら巫術を行った。巫は民間で福を祈り災いを払うために神を降ろ しただけでなく、貴族が先祖を祭るときにも常に術を施した。北周の道安の《二教論》は「三張の鬼法」十一事を指摘して非難し、「左道 余気、墓門解除」、「黄神越章を造り、殺鬼を操る」、「或いは鬼帯符を恐れる」と述べている。これは、張魯の教えの中に残存していた 巫鬼道の宗教儀式を指弾しているのである。当時、死んだ人を埋葬するには、巫覡に死者の罪業を払ってもらうことが多く、加えて「黄神 越章」の印を押して鬼を駆り邪を鎮めた。北京の天安門前の歴史博物館には漢の墓から出土した「黄神越章」印が保存されている。そのほ かの文献にも当時の鎮墓文や符籙が記載されている。これらは巫鬼道が社会で活動していた証拠である。巴蜀などの少数民族の地域では、 巫鬼を信奉する習俗があった。そうした地域では、巫覡は神を装い鬼を弄ぶ巫術によって布教し、財物を集め、巫鬼道はさらに流行してい た。このために、のちに早期道教が民間に根を下ろして伝播していくには、民間の巫の風俗と融合しなければならなかった。

 東漢の順帝以前は道教が生まれる準備段階である。この段階では、神仙思想が社会の各階層に充満し、仙 道を修行する人は日増しに増加し、金丹・仙薬・黄白・房中・行気・導引・胎息・内視・存神・辟穀・禁咒・符籙・変化・占験・風角・星 算・遁甲・孤虚・日者・相術・望気などの方技術数が完備した。そして、方仙道・黄老道・巫鬼道といった道教の先駆となる形態が出現 し、道教の生まれる準備が出来上がった。

 

 

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