13:00より、リレー座談会「SFの20世紀」の2つめ、「SFというジャンルの確立」へ。これは向かって右から司会の伊藤典夫、柴野拓美、野田昌宏というメンツ。ダイジマンがお会いするのを最も楽しみにしていた、矢野徹氏はとうとう欠席。「昨夜も電話したんですけどねえ〜」と柴野さん。スタッフの方にそれを聞いた瞬間、ダイジマン、「ええええ〜〜〜っ!?マジで!?」とがっくりと膝を折り、座り込んでしまいそうなほどの落ち込み。おそらく、あの会場内でもっとも矢野さんに会うのを楽しみにしていたのは彼でしょう。次の機会があることを切に望むアルよ。
伊藤「柴野さんは大正15年生まれで、これはアメージングが出たのと同じ年ですよね。僕は1942年生まれ。1957年に〈宇宙塵〉が始まり、僕は16歳でこれを読み始めた」
柴野「浜松からすごい厳密な批評が来てね、皆で「誰だろこれは」って言ってたんですよ(笑)」
伊藤「終戦当時、柴野さんと野田さんは何を?」
柴野「1945年、僕は18歳で、旧制高校2年生だった。8月6日の広島原爆の日、僕は金沢の理化学研究所で、20人ほどで助手の助手をやっていたんだ。で、最初原爆は「新型爆弾」って報道されてたのね。でもこれは原爆じゃないか、なんて話題になってたんだ。もしそうなら、こんなすごいものが敵に作れるなら、どうして降伏しないんだ?と思ってたのね。日本人は、まるで火星人相手に戦ってたんじゃないか!?と思ったね。で、それからマンハッタン計画が明らかになって、オッペンハイマーとか神様みたいな科学者がみんな敵側にいたことがわかってびっくりした。それから軍国少年は、一転してがらっとコスモポリタンになったんだ。この頃は、まだSFなんて知らなかったね。昭和14年の秋にウェルズの『宇宙戦争』改造社版を読んで、あの一冊が僕の人生を決めたんだ」
野田「僕は終戦当時12歳、小学6年生だった。父親が柴野さんみたいな研究者でね。あの頃は情報が少なくてね。やっぱり原爆には火星人が来たような衝撃を受けたよ。小学校時代は天文少年だった。1942年に火星大接近があってね、あれは昭和15,6年ごろだったと思う。それがもう、まるで火星がお皿のように大きく見えたんだよ!世界一の200インチの反射望遠鏡のついたパロマ天文台というのの建造が始まったところで戦争がはじまったのね。あれができたら、もう運河も火星人のことも全部わかっちゃう。もし、アメリカ人と火星人が手を組んで攻めて来たらどうしよう、なんて皆さんから見たらバカかと思われるような心配を、本気でしてたね(笑)。あの頃、ディックトレーシーの漫画とかがあってね、GIコミックスかな、これにすでに1945年に腕時計電話が登場してるんだな」
野田「SFに関しては、やっぱり柴野さんと同じ、『宇宙戦争』や『海底二万里』なんかが最初。やっぱりSFって言葉は知らなかったね。昭和29年に初めて知ったの。これは東京に出てきた1955年のこと。神田で見たペーパーバックの裏に、「SF」サイエンスフィクションって書いてあった。あの頃は、神田に10円や15円でアメリカ雑誌が山ほど積んであってさ、気の狂ったように買ってたね。山手線1周が20円の時代ね。メシさえ食わなければ、けっこう安かったね(笑)。〈宇宙塵〉に参加したのが創立1年後だったんだけど、その後突如神田から一切の雑誌がなくなったのね。いったい誰が!?と思ってたら、これが伊藤典夫だった。フジテレビの玄関に、むくむくした白いセーター着た少年がきてね(笑)。」
野田「あとは海野十三とか読んだね。『振動魔』とか、『俘囚』だっけ?女の子の腸とかがうんぬんかんぬん」
柴野「ありゃムチャクチャだけど(笑)」
伊藤「あれにSF性を感じたの?」
野田「火星人を書いていたので、親近感を持ったね。でも彼が連載を始めたっていうんで、すごく楽しみにしてたら、全然面白くないの!」
柴野「あれが面白くないとはけしからん!(笑)」
伊藤「彼のは猟奇探偵小説というか」
柴野「彼は日本SFのセンスを確立した男だと僕は思ってる。ウェルズもいい線いってるけど、なんとなく遊離してる。アメリカのスペースオペラとかすべて渾然一体になってるのね。アメージングの後、海野十三はものすごくそれらを研究してる。その感覚を日本に根付かせた人だよ。ただ文章は気に入らないけど」
野田「ヘタクソ!(笑)オヤジギャグだよな。原田三夫がアメージングをアメリカから取り寄せて、〈子供の科学〉の表紙で見事なパクリをやってるよね」
柴野「ロボットが動かなくなって、博士が体をパカっとあけて、そこの真空管を交換するのよ。するとまたぴょこっと動く。あのセンスがよかったなあ」
伊藤「僕は3歳くらいで終戦を迎えた。だから、SFといえば海野より手塚治虫ね」
柴野、の「そうか!!!」
伊藤「もう手塚以前の漫画、小説は僕にはないのね。海野は古めかしくて、「オレのじゃない」ってカンジ」
野田「オレたちゃほかに読むものなかったんだよ」
伊藤「僕は横井福次郎と手塚のみだね」
野田「柴野さんとこでやってた〈宇宙塵〉例会で、突如手塚が16ミリの映写機をこうかついできてさ、それが「鉄腕アトム」の初の自作フィルムだったんだ」
柴野「1960年の1月に例会がスタートしたんだけど、あそこに手塚氏がきたのにはびっくりしたね、大喜びしたよ。彼はそのスタートから何ヶ月かあとの会で、そのフィルムを持ってきたんだ。そしたら今日泊亜蘭が「待て待て、俺は漫画をみると必ずおしっこが出るんだ」ってトイレにかけこんだんだよね(笑)」
野田「SFアニメが電波に乗るとは考えられなかった頃だよ。でもそれに柴野さんの弟が一枚かんだんだ。虫プロに行って、30分番組を10分ずつやろうって話したんだ。ひとつは鉄腕アトムと、あとは少女漫画とかでね。でもそれがポシャって、半年して、フジテレビでバーッとやった!」
柴野「手塚はSF感覚そのものでしたね。海野は昭和24年に死んじゃったけど。いつだったか、昔野田さんの車でドライブしてて聞かれたんだけど、「今のSF作家の中で一番SF感覚あるひとは?」って聞かれて、僕はすぐ「手塚!」って答えたの。野田さんは変な顔してたけどね」
伊藤「手塚が「アトム大使」を始めたとき、あのジェネレーション・スターシップという感覚をどこから取り入れたのか?ということを聞きたかったんだよね。ハインラインの『宇宙の孤児』が日本に紹介されるはるか前だし。どうもアメコミから仕入れたわけじゃなさそうなんだよね」
柴野「手塚が書いた1951年の2,3年後に、僕は学校の会誌で、ジェネレーション・スターシップの話を書いてるんだ。まだ、この感覚がよくわかってもらえない時代でね」
野田「手塚に聞きたいことはたくさんあったなあ!」
柴野「思想の全般的な発酵というのはあると思う。誰が最初にこのアイデアを言い出したのか、とかって考えるのは難しいかも。たとえば4000年前、世界中でいっせいに文字が発生してる。形は違うけど。これって、一様に文明が進歩してるといえるのでは」
伊藤「サルが芋を洗う、みたいに?(笑)」
伊藤「この頃、〈宇宙塵〉に、だんだんいろんな人が集まってきてる」
野田「もうとっくに始まってたね。矢野徹、光瀬龍とか。柴野さんが結核で入院したときあったでしょ、あのとき星さんちで例会があったんだよ、で、柴野さんヒマだから、何時にテレパシーを送るから、なんて言ってたくせに、本人すっかり忘れててさ(笑)」
柴野「このあたりの話は、全部『塵も積もれば』という本に書いてあるんで、興味のある方はディーラーズで買ってください。僕は自分の小説が売れる前からスランプで、仲間が欲しくなって、56年に「日本空飛ぶ円盤研究会」に入って、ここで星さんとかにお会いして、〈宇宙塵〉を作り始めたんだ。昭和28年に矢野さんがアメリカに船で渡ってね。で、日本に帰ってきてから紹介をスタートした。で、1954年12月に〈星雲〉を発行したんだけど、1号で消えた。矢野さんは発起人に入ってるハズだよ。1956か57年ごろ、矢野さんに会いにいったんだ。で、「SF同人誌を書こう!」と」
野田「あの頃、毎号柴野さんの小説載ってたでしょ」
柴野「毎号じゃないよ(笑)」
野田「高橋良平さん!ここにいませんか!(と会場に呼びかける)元々社の全集って、誰があれだけの今の目で見ても一流の作品を選んだか知ってる?」
高橋(会場から)「どうも米軍の肝いりだった可能性が出てきました。アメリカ文化センターの前の大使館にあった、文化交換局で調べたんだけど、お金の援助もあったかも。昭和30年まで100万とか?そこまで出してないかもだけど。うまくしたら署名が残ってるかもしれないけど、もう人は死んじゃってるかも」
野田「米軍か!そりゃオモシロそうだな!」
伊藤「で、54年〈星雲〉、55年室町書房、56年元々社、とだんだん出てきて、好事家が集まってくる。それが〈宇宙塵〉という形にまとまりだした。あの頃、福島正実の〈SFマガジン〉vs〈宇宙塵〉という雰囲気だったね。微妙な対立があった」
野田「柴野さんの方では、「読者は俺たちだ!」という意識があった。でも福島正実は、「SF界を構築するのは俺たちだ!」みたいなのがあったね」
柴野「要するに、邪魔だったんでしょうねえ。ぼくはSFマガジン創刊のとき、ひとこと挨拶に行ったけど、つくづくコワイ人だったなあ」
野田「僕は就職するとき、早川書房かフジテレビかで悩んでたら、柴野さんが「SFはやめろ」って言ったんだよね。「まだ食っていけるジャンルじゃない」って」
柴野「そうしてよかったでしょ(笑)。伊藤さんも、お父さんと一緒に挨拶にきてさ、お父さんが「SFでやっていきたいと言うのですが、どうでしょう」って聞いて、ぼくが「仕事は厳しいが、趣味ならいいでしょう」って言ったの。SFマガジンの2代目編集長の森さんも、あそこが編集長を募集してるときに「推薦してください」ってきて、「おやめなさい」っていったら、「SFと心中するならそれでもいい」っていって、そこまで言うならって推薦したんですよ。今思うと人の足ばかりひっぱってたのかな(笑)」
野田「あの当時、文庫なんて新潮、岩波、角川のみで、しかも固いのばかりだった。で、早川が出したいっていったとき、みんなでやめろやめろって言ったんだけど、「やってみろ」の先代の一言でスタートしたんだよね」
柴野「ま、あれはその前に創元が成功してたからね」
伊藤「銀背が格調高すぎたんですよね」
野田「僕が訳したスターウルフが売れてウレシかったねえ!毎日重版の電話があったもんね。ま、全部売れたわけじゃなくて、売れる売れないはあったけど。で、文庫がこんなに売れるなら新書はつぶしてしまえって」
伊藤「始めの頃は、SF作家はみんな〈宇宙塵〉で育ったんだよね」
柴野「福島さんは最初は新人を育てようとしなかったのね。どちらかと言うと、既成の作家をSFに引き込もうとしてた。で、早川コンテストが始まった。でも福島さんは原稿に徹底的に手を入れるから、豊田有恒や平井和正と大ゲンカしてね。あれはキャンベルのマネだったのかなあ。実はキャンベルに日本の作家を売り込みにいったけど、鼻も引っ掛けられなかったりね」
柴野「ああ、ここに矢野さんがいてくれたらなあああ!(溜息)」
野田「海外にアッカーマンというすごいSFコレクターがいて、〈宇宙塵〉20年のとき、日本に呼んだんだよね。矢野さんはハインラインとのつきあいもあったからなあ」
柴野「日本のSF挿絵は、海外のどこに出しても褒められますね。今回武部本一郎の原画展やってるけど、あのバロウズの火星シリーズのとかね」
野田「早川の銀背のペルシダーの版権でモメたとき、武部の原画の一枚で許してもらったんだ。そういや、あの頃、伊藤典夫主演で映画作ったよね、「怪獣カメラ」!なんてのがあったの、皆さん知らないでしょ?」
柴野「アマチュア映画としては最高だったね(笑)」
野田「1962年の秋に、フジテレビの倉庫からあるフィルムを見つけて、かってに持ち出して港区の児童館で上映とかしたよね。よくあんなアブナイことしたなあ(笑)。音はないから、俺がしゃべって。野田弁士よ」
柴野「1960〜64年の4年間、〈宇宙塵〉の毎月の例会ってのがあった。これがとにかくそうそうたる顔ぶれでね!日曜日、午後1時から終電まで、あれこれ話ししてたなあ」
野田「あれは柴野さんの奥さんには申し訳なかった!せっかくの日曜に、亭主の悪友がぞろぞろおしかけてきてね」
柴野「これは本気にしないように(照れ笑い)」
野田「奥さんを看護婦代わりに、こういうイベントにこさせてたら、いまや奥さんまでSFファン活動にすっかりハマっちゃった(笑)。いや、女の人って、案外こういうのってあると思うな。日本は生真面目なのかな、アメリカなんて、もっとSF読まない人も気軽に参加してるよ〜」
野田「あの例会での星さんのギャグがすごくてね!危険なことをわざと言ってた。でも本当は、心のあったかな誠実な人だったんだよ」
伊藤「あのギャグ、具体的に覚えてる?俺は笑ったことしか覚えてない」
野田「三浦半島人の話とか。いろいろあったよね。とにかく、皆がボケてしまう前に、この会場の誰かが星さんの記録を集めてくれえ!」
伊藤「…というわけで、日本SFのジャンルが確立したと」(会場大爆笑)「今後の皆さんの予定は?」
柴野「やっとSFのジャンルが確立したと思ったら、もう浸透と拡散が始まったみたいだと思ってる。僕は今73歳で、もうすぐ74歳になる。そろそろ引退しようかと思ってたけど、でも日本でワールドコンをやるって話があって、7年後ですか?それまでがんばらないと。あと東京創元社から、レンズマンをもいちど訳せと言われて、やっと一冊目が終ったところ。今2冊目です。あと、〈宇宙塵〉が3,4年後に200号になるんで」
野田「俺はテレビ7:SF3の割合で生きてきて、早くSFにカネつぎこんで余生を送りたい、と思ってるけどなかなか。今年11月くらいに、河出書房新社から、『図説SF』というのが出るんだけど、これが3冊「ロボット」「宇宙船」「エイリアンワールド」と出ます」
伊藤「僕はやっと90年代の作家を訳せるところまできた。と思ったら2000年代になっちゃったけど」
どうしてこう昔の話って面白いんだろう?彼らの青春だから?始まりの、熱い鼓動が聞こえるような楽しいお話でした。柴野さんは性格の優しさがにじみ出る、ほんわりとしたあったかい喋り方(この方の中にあの〈宇宙塵〉を長年続けるという驚嘆すべき情熱があるとは!見た目や話し方からは想像もつかない)。野田さんは対照的にマシンガンのような方(笑)。でもひとを引きつけるのが非常にうまい、話上手な方でした。そこをうまく伊藤さんが手綱をひいて導いていた、いい対談でした。