国際刑事裁判所設立条約の早期批准を
―拉致被害者の救済のために―
中野徹三
(注)、これらは、中野徹三札幌学院大学名誉教授の『新聞論考』2つと、『札幌唯物論』論文です。『新聞論考』は、(1)朝日新聞「私の視点」欄(2002年11月22日)、(2)北海道新聞「文化」欄(2002年10月3日)に載りました。(3)『札幌唯物論』論文は、『第47号』(2002年10月、札幌唯物論研究会刊)の「特集・朝鮮半島」に載りました。いずれも、北朝鮮拉致事件の被害者救済のために、国際刑事裁判所設立条約(いわゆるローマ条約)の署名と早期批准を呼びかける趣旨です。私(宮地)のHPに、それらの全文を転載することについては、中野氏の了解をいただいてあります。文中の「下線部」は、黒太字にしました。
〔目次〕
1、ICC条約 拉致解決に早期批准を 朝日新聞「私の視点」欄
2、国際刑事裁判所設立条約の早期批准を 北海道新聞「文化」欄
3、「ローマ条約」の早急な批准と「人道に対する罪」の法制化を 『札幌唯物論第47号』
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『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』 朝鮮労働党と北朝鮮系在日朝鮮人、日本共産党
藤井一行『国際刑事裁判所関係サイト』
1、ICC条約 拉致解決に早期批准を 朝日新聞「私の視点」欄
札幌学院大名誉教授(社会思想史) 中野徹三(なかの・てつぞう)
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による拉致問題の解決と予防に不可欠であるにもかかわらず、政治が放置してきたひとつの重要な問題について、私はアピールしたい。
それは、98年の外交会議(148カ国)で日本を含む圧倒的多数の賛成で採択され、76カ国が批准して今年7月に発効した国際刑事裁判所(ICC)設立条約いわゆるローマ条約をわが国がいまだに批准していない、という事実である。
同条約は、ジェノサイド(集団虐殺)の罪、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略の罪の4類型を「国際社会全体の関心の対象となっている最も重大な犯罪」と位置づけている。これらの犯罪についてICCは国境を越えて捜査し、犯罪の責任者、及び実行者個人を裁く権限を持つ。
このうち「人道に対する罪」は、ナチがユダヤ人などの民間人に加えた残虐行為を裁くために編み出された法概念である。ローマ条約によって初めて、国際間の包括的な取り決めで犯罪として明確かつ具体的に規定された。人権史上、画期的な意義を持つ。
ローマ条約はその具体的な行為として11の罪を列挙するが、そのひとつに「強制失踪(しっそう)」があり、次のように定義されている。
「国家もしくはある政治組織の許可、支援もしくは黙認によって、人の逮捕、拘禁または拉致(abduction)をすることであり、その後引き続き長期間にわたってこれらの人々から法の保護を取り去る意図をもって、こうした自由の剥奪(はくだつ)を認めることを拒むこと、あるいはこれらの人々の所在についての情報の提供を拒むこと」
これは、今回の拉致の態様に完全に適合する。条約によれば、こうした犯罪が加盟国で起きた場合、仮に容疑者のいる国が非加盟国でも、ICCにはその容疑者を訴追し、裁判にかける権限が与えられる。
条約は、ICCは条約発効後の犯罪についてだけ管轄権を持つ、としている。今回の事件は発効前の発生だから、その点で管轄外といえるかも知れない。だが強制失踪の定義の後半部分を見ても、「強制失踪罪」は現在も継続中であると、私は考える。「死亡」を伝えられた8人を含め、実際は数十人にのぼるといわれる拉致被害者の安全も、情報も、加害者側の事に委ねられたままなのである。
ICCとは仕組みは異なるが、国際人権規約に基づく国連の自由権規約委員会も、規約発効前の行為には権限は及ばないとしながらも、その後も人権侵害が続いている場合は審査対象に取り上げることができると一貫して確認している。
拉致事件の解決には、事実の解明、被害者全員の救出、そして正当な裁きが必要である。北朝鮮という交渉相手の性格からいって、かなりの期間を要することになるだろう。わが国は従来の2国間交渉にとどまることなく、早急にローマ条約を批准し、国際法と国際世論の力を活用できる態勢を整えるべきである。
日本政府は先ごろ、国連の人権委員会に拉致問題の調査を申請した。そのこと自体を否定するものではないが、この重大な人権侵害に本気で立ち向かうのであれば、併せてやるべきことがあると私は訴えたい。
2、国際刑事裁判所設立条約の早期批准を 北海道新聞「文化」欄
(なかの・てつぞう=札幌学院大名誉教授、社会思想史)
小泉訪朝で明らかになった、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国家機関による一連の日本人拉致事件は、日本国民の間に大きな衝撃と怒りを呼ぶとともに、新たな数々の不安と疑惑をひきおこしている。
この機会に私は、こうした問題の解明と防止の役割を果たすはずにもかかわらず、わが国の政治が放置してきたひとつの課題への早急な取り組みを、指摘したい。
それは、「世界人権宣言」採択の五十周年に当たる一九九八年に、百四十八カ国の代表が参加した外交会議で、日本を含む賛成百二十、反対七、棄権二十一の圧倒的多数で採択された「国際刑事裁判所(ICC)設立条約」(いわゆる「ローマ条約」)を、わが国がいまだに批准はおろか、署名もしていない、という事実である。この会議の日本代表団の団長は、皇太子妃雅子さんの父、小和田恒国連大使(当時)で、同条約成立のため大変尽力された、といわれる(「ジュリスト」一一四六号)。
ローマ条約は「国際社会全体の関心の対象となっている最も重大な犯罪」として、ジェノサイド(集団虐殺)の罪、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略の罪の四つを挙げている。これらの犯罪については加盟国は、この条約によって設置されるICCが、各国の国家主権を超えて管轄権を行使することを受け入れ、協力することを義務づけられる。さらにICCは、国の元首であれ軍の指揮官であれ、その地位にかかわらずその犯罪責任者個人を被告として裁く権限を持ち、しかもこうした犯罪には時効をいっさい認めない。
とりわけ「人道に対する罪」(crimes against humanity)は、第一次大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判でナチがユダヤ人はじめ数百万の人々に加えた数々の残虐行為を裁く新しい法概念として登場した。半世紀を経てここに条約上初めて、罪として規定されたものであり、人権の歴史上、画期的な意義を持つもの、といってよい。
条約ではその具体的内容として「殺人」「奴隷化」「住民の追放または強制移転」「性的奴隷化」など十一の罪を列挙しているが、これらはふつうの意味での殺人などではなく、国家またはある集団が意図的に一般住民を標的として加えた「広範なまたは系統的な攻撃」の一環としての犯罪、を指している。そしてその一つに「強制失踪」があり、条約はその中身を次のように説明している。
「国家もしくはある政治組織の許可、支援もしくは黙認によって、人の逮捕、拘禁または拉致をすることであり、引き続き長期間にわたって法の保護を取り去る意図にもとづいて、こうした自由の剥奪(はくだつ)の事実を認めることを、あるいはこれらの人々の所在についての情報の提供を、拒むこと」
今回の事件は、不気味なほどぴったりと、これらの要件に適合しているではないか?
さらに重要な点は、この条約によれば、犯罪が発生した場所のある国(今回は日本)が条約の加盟国であれば、容疑者の属する国が非加盟国であったとしても、ICCはその国に対して国家主権を超えて訴追し、裁判にかけることができる(第一二条二項)。
なお条約は原則として条約発効後の犯罪についてのみ管轄権を持つ、としているが、今回のような事件は犯罪が現在なお継続中であり、しかも今生存している被害者の生命にすら今後新たな犯行が闇の中で加えられる危険が現存している以上、わが国が早急にローマ条約の加盟国となり、国際法の力を背景に毅然(きぜん)として相手と交渉することが、不可欠と考えられる。
ローマ条約は、六十カ国の批准という発行の要件をクリアし、七月一日、七十六カ国が批准を終えて発効した。署名国の総数も、百三十八に達している。
アジアにおいてもモンゴルが批准し、韓国、カンボジア、タイ、バングラデシュなどが署名している。にもかかわらず、わが国がいまだに批准の様子もないのは、外務省の怠慢か、それとも外国に軍隊を派遣していて、自国民がICCの訴追を受ける恐れがあるため、採決に際して中国などと共に反対したアメリカへの遠慮のためであろうか。
しかし、わが国が真に人権先進国となって東アジアの新しい国際秩序の構築に積極的な役割を果たすこと以外に、今回のいたましい犠牲に応える道はないのである。
3、「ローマ条約」の早急な批准と「人道に対する罪」の法制化を
―拉致被害者の救済のために― 『札幌唯物論第47号』
〔小目次〕
1、ニュルンベルクからローマへ―「人道に対する罪」とICCの成立まで
はじめに このテーマ(「人道に対する罪」)を取り上げた理由
本誌のこの号に執筆しようかと思い立ったのは、すでに9月に入った頃だったが、その時の私の意図は、「人間(本)性」とは何か、それはどう規定すべきかという、途方もなく大きい、ヒュームが「形而上学的論究」と呼びながらも、彼自身が『人間本性論』で挑戦した問題に、さしあたって荒削りの素描を試みてみたい、というところにあった。それは、『唯物論研究年話』の第6号に書いた私の「歴史観と歴史理論の再構築をめざして」の終わりに、「----私たちはいま、人間とは、人間性とはなにかと日々考えさせられる日常に生きている。」と記したこととかかわっている。その時、私の脳裏にあったのは、とりわけ20世紀末から新世紀の初頭にかけて起こった諸事件、ソ連邦と東欧「社会主義」諸国の崩壊、旧ユーゴスラビアの内戦とそこでのナチやスターリニズムを想起させるエスニック・クレンジングやルワンダでの大規模な異種族虐殺、そして昨年の悪夢に似た9・11同時多発テロ等だったが、恐らくこれらの報道に接した人は、それぞれの仕方で、私と同じ問いを自分に発したことと思う。
だが、9月17日の小泉訪朝は、北朝鮮国家機関による日本人拉致をこの国の最高首脳が確認した、という新たな衝撃を私たちにもたらした。私はその時、2年前の春、フランスのステファン・クルトワほか10名のヨーロッパの学者たちが分担執筆して1997年に出版された『共産主義黒暑』を2回にわたって『労働運動研究』誌(365号と366号)上で紹介した際、クルトワの序章でフランスにおいては92年に「人道に対する罪」が刑法典に新たに加えられ、ナチ協力者に適用されているという事実を知り、それを伝えるとともに、「日本の刑法典にはまだ『人道に対する罪』はない」(365号、p.18)と記したことを想い出した。
クルトワは「この『人道に対する罪(crime contre l'humanite)』」を、共産主義のもとで犯されたある特定の犯罪の特徴づけのために用いることは許されないことではない(1)」として、この概念をヨーロッパからアジアに及ぶ「現実に存在した(する)社会主義」体制諸国での種々のスターリン主義的人民抑圧の分析に適用するのであるが、これについてはフランスやドイツの学界やジャーナリズム、さらに政界を含めて、大きな論議を呼んだ。
この時以来、私は「人道に対する罪」という新しい法概念とその成立・展開に強い関心を抱き、文献を探したが、今年の春、国際法に全く素人の私にもとても分かりやすく、しかも鋭い問題意識に貫かれた一冊の良書“Geoffery Robertson QC: Crimes against Humanity The Struggle for
Global Justice” Penguin Books、1999にめぐり合った。この本の著者であるジェフエリー・ロバートソンQC(イギリスの勅選弁護士、とのこと)は、アムネスティ・インタナショナルに属するイギリスの著名な人権活動家で、多くの国際的な人権裁判に弁護士として加わっているが、この本で彼は、18世紀の市民革命から20世紀末までの人権の歴史のなかに「人道に対する罪」(ここでは戦争犯罪やジェノサイドなどを含む広義のものとして用いられている)観念の生成とその意義をダイナミックに描出するとともに、その法制化を妨げてきた国民国家の「外からの介入」の拒否、国際政治上の妨害や妥協を、容赦なく批判し、暴いてみせる。
今回の拉致問題が明るみに出たのち、私は急いでこの本の読み残した部分を読み、この「人道に対する罪」が、4年前の1998年に148カ国の代表が参加した外交会議で採択された「国際刑事裁判所規程」のなかで、条約として史上はじめて規定されたことを知ったが、この規程、いわゆる「ローマ条約」の内容を『ジュリスト』1146号(この問題の特集号)その他で知るとともに、76カ国が批准して本年7月1日に発効したこの条約について日本はまだ批准はおろか、2000年12月末日までと期限を定められた条約への署名すらしていなかった、という事実がわかった(発効までに、すでに138カ国が署名している、というのに)わが国の拉致犠牲者―その総数は、70名にも及ぶ可能性があるという―を早期に救出できなかったわが国の政治家(保守・革新を問わず)と官僚の無能力は、日本をこうした人権後進国の状態に放置してきた日本政治の精神構造そのものに根ざしている。拉致問題は政治問題としてでなく、「人道問題」として、長く日朝赤十字間の「行方不明者」調査に委ねられた―被害者の生命と人権の問題が、政治の最大の問題であるはずにもかかわらず。
このことは、わが国政治においては、「人道」は政治と法よりも下位に位置づけられていることを端的に示している。そして、このことは反面で、わが国がこれまで戦争中および植民地統治下で多くの人々に加えた多大の「人道に対する罪」について、被害者諸国の国民の心を納得させうるような謝罪をまだ行なっていないこととも密接に結びついている。国境や民族、階級や体制のどんな差異をも超えた普遍的な人間の尊厳の確認、したがってその重大な侵害を、相手は誰であれ、人権の、法の侵害として厳正に追及すること―これはわが国ではまだかなり「普遍的に」欠如している。先のロバートソンはいう―(罪の)償いなしには権利はなく、同様に人間的悪の償いなしに、人権はない」(2)
ローマ条約を研究して私は、この条約の早急な批准と「人道に対する罪」のわが国の刑法典への導入、この条約批准にともなうー連の法体制の急速な整備、そしてそれと平行しての、国際人道法を活用し、国際世論を背景としての交渉が被害者の早急の救済にとっても、また20世紀のアジアの新しい国際秩序の構築にとっても基本的な意義を持つと考え、北海道新聞の文化欄に寄稿した(10月3日夕刊)。そのため、当初の論文のテーマは次回に譲り、ローマ条約と「人道に対する罪」の国際法制化が意味するものの基本について以下で考察したい。
そしてこれは、人間(性)とは何か、という問いについての、いくつかの重要なヒントをも含んでいるはずである。
1、ニュルンベルクからローマへ ―「人道に対する罪」とICCの成立まで
「人道に対する罪」は、第二次世界大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判において、ナチがユダヤ人はじめヨーロッパの数百万に及ぶ一般市民に加えた大規模な残虐行為を厳しく裁く新しい法概念として、成立した。
この裁判は、しばしば「勝者による裁判」として、また事後にこれまでなかった罪名がつくられ、それによって裁かれるという、
「遡及処罰禁止」の大原則を破った悪例として批判もされたが、歴史は、事態に決定的に遅れていたものが法であったことを確証した。自国と占領地域を憶面もない徹底したテロ体制のもとに置いたナチス国家と戦う連合国の戦争は、人間と人間性をナチの蛮行から守り、救出する戦争としての性格を帯び、またそのようなものとして次第に自覚されるに至る。
ロバートソンによれば、こうした自覚を呼び覚ました最初のパイオニアが、大戦開始直後の1939年10月に『タイムズ』に寄稿して、それまでの国際連盟はあまりに保守的だったと批判し、「こんにちの唯一の健全な選択肢は、全世界にわたって人類の基本権を宣言することである」と訴えたH・G・ウェルズだった。彼のアピールをまとめたペンギン社の“H.G.Wells on the Right of Man”の出版は、ウェルズの友人だったフランクリン大統領にも強い印象を与え、彼の1941年の「4つの自由」(言論と信仰の自由、欠乏と恐怖からの自由)の宣言に影響を及ぼした、といわれる。
だが、「人道に対する罪」の観念が成熟するためには、ナチの支配下で行なわれたホローコストを頂点とする途方もない犯罪行為が明るみに出されることが必要だった。ニュルンベルク裁判の設置、構成、管轄その他の一般規則を定めた国際軍事裁判所憲章は、1945年8月8日、英米仏ソ4カ国で調印されたロンドン協定の1部であるが、その第6条C項は史上はじめて、「人道に対する罪」を次のように、当裁判所の管轄下にある犯罪として規定した。
「人道に対する罪。すなわち、戦前もしくは戦時中にすべての民間人に対して行なわれた殺人、絶滅、奴隷化、追放及びその他の非人道的行為、または犯行地の国内法に違反すると否とを問わず、本裁判所の管轄権に属する犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行なわれた政治的、人種的ないし宗教的理由にもとづく迫害行為。
上記の犯罪のいずれかをなすために、通常の計画もしくは陰謀の策定ないし実行に加わった指導者、組織者、扇動者ならびに実行者は、こうした計画の実行に際し何者かによってなされたすべての行為に対して、有責である。」(強調は引用者)(3)
こうしてニュルンベルク裁判は、種々の問題を後に残しながらも、人権の歴史に新しい諸局面を切り開くものとなった。
(1)戦前または戦時中に民間人に対して行なわれた大規模な非人道的行為を「人道に対する罪」として、それまでの戦争犯罪から区別された重大犯罪として定義し、現実の裁判の基準として適用したこと。この犯罪については、それが侵害した「人道」の普遍性に対応して、犯行地の国内法に拘束されることなく、普遍的に国際法にもとづいて処罰されるべきものとしたこと。
(2)史上はじめて、国家主権を超えた国際法廷を開設し、「平和に対する罪(Crimes against Peace)」とともに「人道に対する罪」を、その実行者のみにならず、それを計画し命令したナチ指導者はじめそれに責任ある個々人の冒した犯罪として裁いたこと。
これらの諸点は、のちに検討する「国際刑事裁判所」の理念の重要な先駆となっており、さらには1948年の「世界人権宣言」採択に直接連なるものとなった。
だが、「世界人権宣言」は、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利」を、世界の自由、正義及び平等の基礎をなすものとして、はじめて明文によって宣言したものだったが、そこでは個々の権利とその侵害の禁止については、第5条「非人道的な処遇又は刑罰の禁止」など具体的に規定されていたけれども、「人道に対する罪」という規定はない。またこの宣言は、宣言を起草した人権委員会の議長エレナー・ルーズヴェルト(故フランクリン・ルーズヴェルト大統領の夫人)が採択時の国連総会で述べたように、「人類のマグナ・カルタ」であって、条約でも国際協定でもなく、また「法または法的義務の表明であると主張するものでもない」とされた。
そして「世界人権宣言」採択の前後から始まり、共産主義体制の崩壊で終わった冷戦の時代(1948〜1989年)は、両陣営が普遍的な人権の観念を否認せず、種々の条約を次から次へと署名したけれども、人権についての国際法は、ほとんど機能しない凍結状態に置かれた。ロバートソンはこの時期を皮肉って、「人権に対するリップ・サービスの時代」と呼んでいる。そしてこの間、実質的な進歩が見られたのは西ヨーロッパ地域に限られ、「ヨーロッパ人権規約」(1950年)と一連の議定書がこの間に採択されたが、ここでは個人が国家と並んで条約の違反についてヨーロッパ人権委員会に請願できる等、のちの国際人権規約でも生かされる超国家的な人権救済システムを持ち、獲得される人権の内容も「性生活の自由」にもとづいて同性愛の禁止を違法とするなど、いっそう具体化され拡張された(4)。
反面、この時期には植民地体制の崩壊と結びついた内戦や民族間・種族間等の紛争が各地域に生じ、アジアではカンボジアのポル・ポト派による大量殺害、チリのピノチェト軍事政権による種々の残虐行為、航空交通の発達に便乗したハイジャック事件の激発、ソ連や東欧諸国内での反体制派ないし体制批判者に対する広汎な人権抑圧等々が次第に表面化したが、1987年を画期とする冷戦の終結とソ連・東欧の体制崩壊とは、旧ソ連内部と旧ユーゴスラヴィア内部の民族紛争を激発させる。とりわけ旧ユーゴ解体後、ボスニアやコソボに集中的に現われた「民族浄化」や集団レイプ、アフリカのルワンダ内戦での大規模殺人等は、大きな衝撃を世界に与え、1993年に「旧ユーゴ国際刑事裁判所」(ICTY)、94年には「ルワンダ国際刑事裁判所」(ICTR)が国連安保理の決議にもとづいて設置された。両者ともに「人道に対する罪」を、ニュルンベルク以来はじめて国連の管轄権に導入した点が注目される。そしてICTYは本年5月にはかっての独裁者ミロシェヴィチ前ユーゴ大統領を拘束してハーグの法廷で起訴し、現在公判が進行している。
ところで、「世界人権宣言」採択の前年に設置された国連国際法委員会は、先のニュルンベルク裁判で用いられた諸原則をもとに1950年、「人類の平和と安全に対する犯罪の法典案」を総会に提出したが、このなかでは平和に対する罪、戦争犯罪と並んで、「人道に対する罪」が国際法上の犯罪として規定されていた。その内容は、先のニュルンベルク憲章第6条C項「すべての民間人に対して----」以下と同一であるが、冒頭の部分は、「以下の行為もしくは迫害が、平和に対する罪又は戦争犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行なわれたとき」となっている(5)。
だが、この法案は、遂に成立しなかった。
そして国連国際法委員会は90年代に入って、上述のICTY、ICTRの設置に刺激を受けて94年に国際刑事裁判所(ICC)規定案を総会に提出し、それをふまえてICC準備委員会がICC草案を作成し、ようやく98年のローマでの外交会議で採択を見たのである。この年は「世界人権宣言」採択のちょうど50周年に当たっていた。
2、ローマ条約と「人道に対する罪」の内容と新しい特徴
「国際刑事裁判所(ICC)規程」(いわゆる「ローマ条約」)は、148カ国の代表が集まってローマで開催された外交会議で98年の7月17日、わが国を含む賛成120、反対7、棄権21の圧倒的多数で採択された。
この会議の日本代表団の団長は、皇太子妃雅子さんの実父小和田恒国連特命全権大使(当時)で、氏は対立する各国代表団の見解を「正直な仲介者」の立場でまとめ、必要な修正を提案して本条約の採択のために大変尽力された、といわれる(ローマ会議については『ジュリスト』1146号での氏と芝原学習院大教授との対談を参照されたい。この号は、ローマ条約の特集号である)。また、この会議にはオブザーバーとしてNGOが多数参加し、条約成立のために大きな影響を及ぼした。
ローマ条約は前文で「国際社会全体の関心の対象となっている最も重大な犯罪は処罰されないで放置されるべきではない」とし、ICCが管轄する犯罪として、第5条でa)ジェノサイドの罪、b)人道に対する罪、c)戦争犯罪、d)侵略の罪の4つを挙げている。そして、条約を批准した締結国は、上記の犯罪が生じた場合にはICCが各国の主権を超えて管轄権を行使することを受け入れ、ICCに協力する義務を負う。ニュルンベルク裁判では勝者の軍事力によって管轄権が一方的に行使されたが、今回は諸国間の自主的な協力をつうじて設立された恒久的な国際機関が、その権限を明文化された法にもとづいて行使するのである。
さらにICCには、「国もしくは政府の長」であれ軍の司令官であれ、地位や資格にもとづくどんな区別もなく、その犯罪の責任者個人を訴追し、裁く権限が与えられる。ニュルンベルク原則は、ここにも発展して貫かれている。また、ICCの管轄に属する犯罪は、第29条により「いかなる消滅時効または出訴期限にも服さない」。
ICCがその対象犯罪に対して科することのできる刑罰としては死刑でなく、30年以下の禁固刑または最高刑としての終身拘禁刑が規定されている(第77条)が、全体としてICC自身が人権無視を犯しているなどの非難を排除できるよう、被告の人権を保障するための慎重な配慮が随所に見られる。ともあれこの条約の成立により、この4つのカテゴりーの犯罪のどれかを犯したものは、かりに国の元首であっても、その国の国内法で処罰されない場合には、ICCの訴追により国境を超えて拘引され、裁判にかけられ刑罰を科せられることが、正常の事態となる。ロバートソンの言葉を借りれば、こうして「舞台は第3の歴史的時代に(リップ・サービスの時代から一引用者)、強制の時代に移った。」(6)
さらに注目すべき点は、平時においては(事実上)条約加盟国の主権が絶対であり、相互の同意にもとづいてのみ超国家的権力が受容されるにとどまるこれまでの国際法の常識を破る、重要な一歩がローマ条約においてなされた点であろう。この条約によれば、犯罪が発生した場所のある国(今回の拉致事件では日本)が条約の加盟国であれば、被害者の属する国(今回の事件では北朝鮮)が加盟国でなかった場合でも、ICCは後者に対して管轄権を行使し、被疑者の引渡しを強制できる。
この点についてローマ会議の日本代表だった小和田氏は、「------この条約は従来の国際法の基本原則という点からみて、ある意味で革命的な新しい要素を含んでいるということができるのではないかと私は考えます。------つまり条約非当事国の国民がこの条約に規定するような犯罪を犯した時には、裁判所規程に従って、この非当事国国民たる被疑者に対して当該国の同意なしに裁判所の管轄権が及び得るという仕組みになっているのです。」(7)と述べている。この点は条約草案の討議の際に大きな問題になったところで、自国の軍隊を海外に展開させているアメリカは、自国のでも同盟国のでもない司法の手で刑事責任を追及されるということに危惧の念を抱き、ICC管轄権の行使の前提として被疑者の国の同意を必要とする、という修正案を提出したが、これは圧倒的多数で否決され、アメリカは結局、中国、リビアなどとともに採択で反対にまわった(だが再び敗れた)のだった。これについては、加盟国になれば以後7年間はICCの管轄権を受け入れなくてもよいという経過措置が第124条で規定されたが、それは戦争犯罪についてのみであり、「人道に対する罪」には適用されないことにも、注意したい。
さて、この条約ではじめて一般的な国際法上の犯罪となった“Crimes against Humanity”の具体的内容を示した第7条では、a)殺人、b)殲滅、c)奴隷化、d)住民の追放または強制移住、g)強姦、性的奴隷化、強制売春、強制妊娠またはその他同等の重大な性的暴力等、11の罪を列挙しているが、これらはふつうの意味での殺人等々ではなく、国家またはある集団により意図的に「いずれかの一般市民に向けられた広範なまたは系統的な攻撃の一環として」なされた犯罪、を指している(典型的にはボスニア・セルビア人によるボスニア・モスレムに対する「民族浄化」から生じた大量殺人、住民の追放、集団レイプ等)。
こうした規定が登場せねばならなかった事情が、現代世界でのますます複雑化し、多様化し重層化する国家間、国家とある集団の間、集団相互間の抗争、それを扇動する特定のイデオロギーや狂信、その被害を拡大する現代のテクノロジーの発達にあることも、また明らかであろう。「人道に対する罪」と「戦争犯罪」の間の区別も、その境界は単純には引けない。あの「同時多発テロ」をブッシュはすぐ戦争だと断定したが、第一義的には「人道に対する罪」ではなかったか? また、今後、生物テロやサイバーテロ、核テロなどが生じた場合、ICCが果たして対処できるのか等々、21世紀の人権は、途方もない課題に直面している。人権保障の前進は、人権への新しい脅威の不断の増大に対しての、まだ遥かに遅れた対応にとどまっている。さらにこの視点から現代史を見るならば、クルトワらが指摘する通り、ロシア革命以後のソ連はじめ「現実社会主義」諸国での数々の民衆弾圧(革命後の反対派や農民、寺院等への弾圧、富農や少数民族の追放、大粛清と「収容所列島」等)の事実は、一部はナチにも匹敵する「人道に対する罪」を構成している、と断ぜざるをえない。そしてこのような状況は、これまでの歴史観の根底からの見直しを、私たちひとりひとりに迫っているのである。
3、「人道に対する罪」としての拉致とその対策をめぐって
ローマ条約第7条の「人道に対する罪」のなかに、i)強制失踪(enforced disappearance of persons)の項目があり、その中味は次のように説明されている。
「国家もしくはある政治組織の許可、支援もしくは黙認によって、人の逮捕、拘禁または拉致(abduction)をすることであり、引き続き長期間にわたって法の保護を取り去る意図にもとづいて、こうした自由の剥奪の事実を認めることを、あるいはこれらの人々の所在についての情報の提供を、拒むこと」
この定義は、まさに不気味なほどぴったりと、今回の一連の拉致事件に適合している。
いきなり襲われて袋につめられ、船に載せられてどことも知れず運ばれてゆく――この恐怖は被害者以外には真に想像を絶するものであり、さらにその後も不安と怒り、家族と郷土への切ない慕情と絶望を抱いて憎むべき国のなかに生き続けなければならない苦しみの深さは、私たちをただ絶句させるのみである。またこれに対応して、突如愛する娘や息子が消え去った家族の人々の、同じく際限のない悲しみと不安が続く。
拉致はもちろん、今回の事件が初めてではなく、その系統的かつ大規模な実行は独裁国家の国家テロの主要な一手段であった。
ロバートソンは、特にこの拉致という犯罪をとりあげて、次のように強調している。
「これらの(人道に対する)罪のなかで、現代の実例中もっとも凶悪でもっとも人の心を刺すものは、『失踪』を引き起こすことである――すなわち、ある破壊的な意図を抱いていると疑われた人が拉致され、拘禁され、最終的に殺害されるまでの若干の間、拷問にかけられる。まったく不法であるが、にもかかわらずすべてはあらかたは政府の同意を受けている秘密警察または軍事作戦司令部の手中にある------こうした仕組みは、そういう犯罪については何も知らないので責任がないと主張できる無法な政権にとって便利である。犠牲者にとり、彼らの社会にとって、警察や軍事勢力による失踪は、想像できるもっとも完全な人権の棄却に相当する。」(8)
彼によれば、「失踪」は1960年代以降の中南米の軍事政権(グァテマラ、チリ、アルゼンチン等)によって大規模にかつ野蛮に実施された。チリのピノチェト政権下では、1万人以上に及ぶ「被疑者たち」は、電極をつけた金属板片を体に押しつけられるなどの拷問を受けたのち、その大部分は軍の飛行機から突き落とされるなどの方法で永久に「失踪」させられた。98年、大統領退任以後親しかったサッチャー元首相に会いにイギリスを訪れた最高責任者ピノチェトはこの地で逮捕され、ロンドン中央警察裁判所はスペインの身柄引渡しを命じたが、顛倒により脳に加えられた打撃のため裁判に耐えられないという医師の診断を得て、釈放され(2000年3月)チリに帰った。
国家テロとしての拉致は、ソ連の秘密警察の、またその指導のもとにつくられた東欧やアジアの「社会主義」諸国の政治警察の常套手段でもあった。旧東独の「国家保安部」(いわゆるシュタージ))が、西に亡命した体制批判者や自分たちの同僚等をどのようにして東に拉致したかについて、やはりこの犯罪の被害者であり、またシュタージについてのもっともすぐれた研究者でもあるK・W・フリッケは、彼の著書のなかで詳細に描いている(9)が、以下はその総括的部分からの引用である。
「冷戦下の分割されたドイツにおいては、人間略奪行為(Menschenraubaktionen)は長期間にわたって、政治的迫害の特殊な手段だった。東独建国後シュタージによって行なわれた拉致(Verschleppungen)の数の推定は数百から千近くの間を動いているが、多分永久に未解明なままにとどまるであろう。----[拉致の方法に三つの種類があるとしたうえで]犠牲者は、しばしば彼自身のヒューマンな人助けの思いや、家族の絆を利用されて、悪賢い詐欺により東ベルリンまたは東独に招き寄せられ、そこで拘禁される。あるいは疑いを知らない犠牲者は、密かに飲み物や菓子、タバコに混ぜられまたは注射で体内に注入された麻酔性物質により意志力を失うか失神状態にされ、救われようもない状態で西から東へ誘拐される。第三の変種としての暴力的行為の場合は、残忍な暴力で反抗不能あるいは意識喪失の状態にされ、拉致される」(10)。西ベルリンに亡命していた彼自身も55年、シュタージのスパイにアルカロイド入りのワインを飲まされて意識を失い、東ベルリンに運ばれて最高裁の秘密裁判で4年の懲役刑を受けるが、その直後東独にいた彼の母も息子の共犯者として裁判にかけられ、2年間の拘禁刑を受けた。東欧ではこうした例が無数に明らかになりつつある(シュタージの犯罪のほぼ全容については、近著で明らかにする予定である)が、北朝鮮の党・国家機関による日本人拉致事件も、20世紀「社会主義」諸国に広範に出現したこのような人権蹂躙の一環であった(しかし、他の諸国のように反体制派や亡命者に対してではなく、政治的には全く無色の市民を拉致して自国の政治目的の手段に「育成」しようとした点は、その独自「主体的」な特徴といえよう)。
さて、以上の考察からも明らかなように、ローマ条約を早急に批准し、あわせて、「人道に対する罪」を法典化することは、こういう犯罪を未来にわたって防止するために不可欠であるばかりでなく、現在の拉致問題の解明と解決にとっても重要な意義を持つ。そして日本の国際法学者も、最近になってようやく、拉致がローマ条約でいう「人道に対する罪」に当たるといい始めた。『朝日新聞』10月4日号19面の横田洋三氏の発言がそれであるが、しかし氏は、「ICCのC規程が発効する前に起きた件については訴追することはできません」と述べ、国連人権委に調査を依頼することをすすめるにとどまっている。国際法学者としておかしな点のひとつは、氏はここで、日本がローマ条約を批准していないという事実について一言の批判も発していないところにある。たしかに条約の第11条1項は、「本裁判所は本規程の発効後に行なわれた犯罪に関してのみ管轄権を有する」と述べているが、被害者の家族だけでなく、国民の恐らくほとんどすべての人の良識は次のように主張するであろう。すなわち拉致のような犯罪は、先に見た条約第5条での定義自身が語っているように(後半の「引き続き長期にわたって----」の箇所を参照)、現在なお継続中であり、しかも北朝鮮当局が認めた11名以外にもなお数十人の人々が同じ運命のもとに置かれていると思われる、かなり確実な可能性が存在している。
そして、これらの人々は、死亡が伝えられた人々を含めて、北朝鮮の国家権力の闇の中で、ピノチェトの獄中の人々のように、密かに消されるという新たな犯罪の犠牲になる危険にも直面しているのである。したがって、日本は早急にローマ条約の締結国となり、先に見た第12条2項を活用して、この問題をICCに提訴すべきである。
かりにICCが第11条を理由に管轄権の保有を否定したとしても、拉致という犯罪の性格上、これらの現実の疑惑を解明するためのなんらかの対処は不可避のはずであり、わが国は二国間交渉だけでなく、国際法と国際世論を活用して、被害者とその家族の納得のゆく解決をめざす必要があろう。また事柄の本性と相手の性質上、真の解決には相当の期間を要することは必至であるから、この間にICCの解釈を変更させる道もありえよう。現に、ヨーロッパ人権規約では、条約は発効した時点の後に起きた事件のみを取り扱うことが原則となっているが、しかし、人権委員会は、1958年のDe Becker判決以来、発効した日より前の時期の事件についても、それ以降も継続して条約侵害をもたらしている場合には、その事件に関する申し立てを受理している、といわれる(スュードル、前掲書、p.72)、
ロバートソンは、ローマ条約の意義を高く評価しながらも、第11条と第24条が「不遡及」の原則をこれらの犯罪に通用してメンギツやアミン、キュー・サムフアンやピノチェトを救ったことを強く非難して、「このような刑罰免除は、法に対する外交の、人権に対する国家主権の勝利である」(11)、と述べ、また国家主権の前に無力をさらしてきた国連の現状を念頭に「国連とのつきあいをやめるならば人権はもっと健全な未来を持てるかも知れないラジカルな可能性が生まれる」(12)という、大胆な思想を展開している。そして、これは常に保守的で現状に追随するばかりのわが国の政治家や官僚、法学者たちへの痛烈な警告でもある。なおこれに関連して先の小和田恒氏が、国際法に対する日本の姿勢をもう一度考えてみる必要があるとして、次のように述べている点は、国際法の分野を超えて大変示唆的であると思われる。
「一つは、日本の国際法の受容の歴史の経験から来ていることだと思うのですが、国際法というものがアプリオリに存在する既存の枠組みとして存在しているという考え方です。そしてそれに日本自身がどう適合していくかという問題意識が、日本の開国以来の近代化のプロセスの中の基本的な考え方として存在してきたという点です。----実際はそうではなく、国際法というものは本来、国際社会の構成員である各国が参加して作ってきたものなのです。自分が創造のプロセスの一部であるという考え方を我々も持っていかなければならないのではないか、というのが私の考えです。----」(13)(強調点引用者)。――皇太子妃の父上のこの思想は、私たちの多くのそれよりも遥かに進歩的ではないか? だが小和田氏がその採択に努力されたローマ条約は、最初に述べたようにすでに76カ国が批准して本年7月1日に発効したというのに、日本はまだ批准していないし、138カ国が署名を終えたにもかかわらず、日本はその署名国にもならなかった。
人権先進地帯のヨーロッパでは、ロシアを除いて東欧を含むほとんどの諸国が批准を終え、フランスでは99年、条約批准のための憲法改正を行なった。
フランスの国際法学者F・スュードルは、『ヨーロッパ人権条約』日本語版への序文で「唯一、アジア地域のみが、地域内の人権を促進し保護するためのいかなる条約も制度的メカニズムも備えていないという特異性を示しています」(14)という、耳の痛い言葉を記しているが、このアジア地域においても、モンゴルはすでに批准し、韓国、カンボジア、タイ、タジキスタン、バングラデシュ、フィリピンも期限内に署名を終えている。わが国が人権後進国のままで、どうして朝鮮半島を含む東アジアを共に人権の花開く自由な国際共同体に変えることが出来ようか。これはまた、北朝鮮との国交正常化を通じて、植民地支配の時期にこの地の人々に与えた苦難と損害について正当な内容で謝罪し、補償することを当然の前提としている。だがこの事実をもって、わが国が拉致問題の追及を帳消しにしたり、あいまいにすることは、北朝鮮のひとびとにとっても本来許さるべきことではない。なぜなら、拉致被害者も今の北朝鮮の民衆も、共に「人道に対する罪」を負う北の支配者層の犠牲者だから、である。この問題の解決の道は、北朝鮮の民衆の人種問題解決の道と、根底において連なっていかねばならない。
注
(1)ここでは私が用いたドイツ語版から引いている。Das Schwarzbuch des Kommunisumus Unterdrueckung、 Verbrechen und Terror、 Piper、Muechen /Zuerich、1998 s.23. なお、昨年11月、本書の第1部の邦訳『共産主義黒書』<ソ連篇>、恵雅堂、が出ており、本年10月には第2、3部が出る予定。
(2)Crimes
against Humanity、Penguin books(以下CaHと略)、1999、p.203
(3)CaH、p.203
(4)スュードル『ヨーロッパ人権条約』、有信堂、等、参照。
(5)エドワード・ローソン編『人権百科事典』赤石書店、2002年、p.273.
(6)CaH、xvi.
(7)『ジュリスト』1146号、p.28.
(8)CaH、p.245.
(9)その一部については、
『労働運動研究』321・322号の私の論文参照。
(10)K.W.
Fricke: Die Staatssicherheit、Verlag Wisssenscahft und
Politik、1984、SS.124-125.
(11)CaH、p.365.
(12)ibid.p.447
(13)『ジュリスト』1146号、p.28
(14)スュードル、前掲書、p.1-2.
(なかの てつぞう 札幌学院大学名誉教授・社会思想史)
『社会主義像の転回』 憲法制定議会解散論理
『歴史観と歴史理論の再構築をめざして』 「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか
『マルクス、エンゲルスの未来社会論』 コミンテルン創立期戦略展望と基礎理論上の諸問題
『理論的破産はもう蔽いえない』 日本共産党のジレンマと責任
『現代史への一証言』 「流されて蜀の国へ」(終章・私と白鳥事件)を紹介する
『いわゆる「自由主義史観」が提起するもの』 コミンテルン「32年テーゼ」批判を含む
『遠くから来て、さらに遠くへ』 石堂清倫氏の追悼論文
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』 朝鮮労働党と北朝鮮系在日朝鮮人、日本共産党
藤井一行『国際刑事裁判所関係サイト』