目次一覧へ戻る。 | 戻る。 |
進む。 |
物茂卿(*原文「郷」は誤植。)、名は雙松、避くる所あり、字を以て行はる、荻生氏、小字は總右衞門、徂徠と號し、又■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園(けんえん)と號す、江戸の人、柳澤侯に仕ふ
徂徠の父方菴醫を以て大府に仕ふ、延寶中事に坐して上總に竄(ざん)〔追放配流〕せらる、時に徂徠年幼、父に從ひて倶に往く、譯文筌蹄の題言に曰く、予年十四にして南總に流落し、二十五赦に値〔逢〕うて東都に還る、中間十有三年、日に田夫野老と偶處す、尚何ぞ師友の有無を問はん、獨り先大夫〔父〕の篋中大學諺解一本あるに頼る、實に先大夫仲山府君の手澤なり、予之を獲て研究に力を用ふるの久しき、遂に講説に藉(よ)〔依〕らずして遍く羣書に通ずることを得たり、又都三近に與ふる書に曰く、初め不佞〔自稱代名詞〕茂卿幼にして書を海上に讀み、蜑戸■(鹵+差:さ・し:塩・塩気:大漢和47563)丁(たんとさてい)〔漁婦鹽汲〕と錯處〔雜居〕す、疑義ありと雖も、其れ孰(たれ)に從ひて問決せん、先生作る所の諸標註を得て之を讀むに■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)(およ)んで、乃ち曰く、吁是れ惠人(けいじん)なるかなと、此に由りて之を觀れば其上總に在るや、既に書籍に乏しく、又師友なしと、其警敏不羣〔拔群〕なる、幼より遠志あり、是を以て其江戸に還る比ひ、業大に成り、終に海内仰(あふ)ぎで(*ママ)此邦未曾有の人となすに至る
徂徠の胎に在るや、母月を彌(わた)り、歳首に遇ひ、松枝を以て門に挿むと夢み、寤(さ)めて徂徠を生む、故に雙松と名く、後避くる所あり〔高貴の名に同じきものありて之を諱む〕、字を以て行はる、徂徠の號之を詩の魯頌徂徠の松(しやう)に取る、一説に其少時雷を好む、故に自ら蘇雷と號す、而して上總に往來(ゆきき)の里あり、因りて改めて徂徠の字となすと、三河物茂卿と署するもの、其先(さき−ママ)三河荻生の人、物部(ものべ−ママ)守屋の後なればなり、本集に家の大連の檄に擬〔假托〕する文、及び守秀緯を送る序に、秀緯は余と同姓大連を系とす、故に其字を以て氏とすの言あり、雙松の字未だ何の諱(ゐ)む所あるかを審(つまびらか)にせず、或は曰く徳松君を避くと、或は曰く、徂徠の柳澤侯に仕ふるや、酒井侯と姻〔親戚〕たり、酒井侯の先雅樂助(うたのすけ)正親は雙松院と追號す、因りて其名を避くと
初め芝街に卜居す、時に一貧洗ふが如く、舌耕〔講釋〕殆ど衣食に給せず、増上寺の前に腐家(ふか)〔豆腐屋〕あり、徂徠が貧にして志あるを憐み、日に腐渣〔豆腐糟〕を饋(おく)る、後禄を食むに及び、月に米三斗を贈りて之に報ず、春臺が南郭に與ふる書に曰く、徂徠先生の未だ仕へざるや、甞て芝浦に教授せしは人の知る所なり、後柳澤氏の勃興して〔急に起る〕侯に封ぜらるゝに遇ひ、先生を召して書記を掌(つかさど)らしむ、先生是に於て始めて褐を侯の門に解く、然も其禄尚微なり、尋いで柳澤侯累(しき)〔連〕りに封を益し〔禄高の増加〕、先生も亦公の寵靈を以て累りに其秩を益し、五百石に至る、命世(めいせい)〔世に名ある〕の才を以て、侯家に勤勞ありと雖も、柳澤公の知遇(しぐう−ママ)にあらざるよりは、先生の窮達未だ知るべからず
初め朱子の説に服し、中年に及び■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園随筆を著し、尚宋儒を護す、後挺然(ていぜん−ママ)〔ヌキ出づる貌〕一家の見を立て、痛く性理を駁(はく−ママ)し、併せて仁齋を
攻む、又明の李于鱗に倣ひ、古文辭を修め、先儒の作る所、一切之を排して、侏■(人偏+離の偏:れい:〈=儷〉並ぶ・つき従う・連れ合う:大漢和1016)鴃舌(しりげきぜつ−ママ)〔夷狄の言〕(*「侏離」〈しゅり〉−解し難い外国語)を免れずとなす、其豪氣卓識、雄文宏詞、一世を籠蓋(らうがい)す〔コメオホフにて我物の如くす〕、梁田蛻巖の如き、亦徂徠の博學に服す、甞て山脇東洋に與ふる書に曰く、凡そ海内の司命(しゆめい−ママ)、古を信ずると否(しか)らざると、皆靡然(ひぜん−ママ)として目を注がざるなし、蓋し亦方技中の■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)老(けんらう)なるかなと
少時兵學を精習す、其仕途に就くや、亦兵學を以てし、必ずしも儒を以てせず、晩に復た專ら武を談ず、熊本の藪震菴と初めて見るや、徂徠首(はじ)めに曰く、陣法行伍〔軍隊の編制〕、是れ究めざるべからず、子は西海の人、必ず水軍に習はん、水軍は其れ何を以て策の上となすやと、遂に數刻戰法を談じ、他事に及ばずと云ふ、松宮觀山が學論に曰く、近日儒士の武を談ずるは物茂卿一人のみ、亦唯博覽の餘力、臆斷〔勝手に斷定す〕自負〔自慢〕す、不世出の豪傑の資を以てすと雖も、然も未だ明師に遇はず、牢(かた)〔堅〕く法制を執りて、軍略を問はず、孔子が謀を好むの言に乖く、其著す所孫子解及び鈴録、渉獵〔普く閲讀〕殆ど盡くと雖も、未だ事物釋然の功を見ず、遂に七書を以て空理となし、後世の戚南塘、鄭芝龍を崇んで備はれりとなす、區々たる〔微なること〕小技に拘はりて、未だ鎭國の規模を建て、戰勢の地形を畫し、所謂帷中に千里の勝〔張良の故事〕を决し、草廬に三分の謀〔孔明の故事〕を定むるの術を知らず、亦惜しからずやと
又一家の象棋(しやうき−ママ)を創造し、以て兵機を寓す〔寄す〕、廣象棋と名く、其子は百八十、局は則ち棋局を用ふ、而して陣列軍伍、攻撃守備一として備はらざるなく、工極まると謂ふべし、嗟羣儒に超えて大業を建つ、又何の餘力あつて此等の事に及ばんや、片山兼山廣象棋の譜に序して曰く、命世の人は鞅掌〔職務を勤むること〕拮据〔仕事に精を出すこと〕の際と雖も、胸中別に悠然たる閑日月あり、優に之をなすと、信なるかな
大岡忠相(越前守)曰く(、)聞く徂徠が博識洽聞知らざるなしと、試に問ひて以て其答を躓かしめんと、乃ち招ぎて問うて曰く、世に鼠婚の説あり、何の謂ぞやと、徂徠答へて曰く、事某年某人著す所の小説に出づ、乃ち著書載する所の鼠類の眷屬名姓、口に矢(つら)〔陳〕ねて縷々注ぐが如し、忠相始めて其彊記(*原文ルビ「きうき」は誤植。)に服す
弟子韓非子を會講し、論議百出す、徂徠座に在り、口を箝〔閉〕して言はず、春臺悦ばずして曰く、説の一ならざる、先生何ぞ折中せざるやと、徂徠氣を屏(しりぞ)けて〔平然として氣張らぬこと〕曰く、此書余甞て成説あり、將に明日を待ちて出示せんとすと、其夜始めて筆を下し、全篇之が説を作る
徂徠の書を看る、暮(ぼ)に向へば出でて簷際(えんさい)〔ノキの端〕に就き、簷際も亦字を辨ずべからざれば、入りて齋中の燈火に對す、故に旦より深夜に及ぶまで、手に卷を釋くの時なし、其平生(へいせい−ママ)分陰〔一分時間〕を惜むもの、率ね此類なり(、)南郭某歳元日、徂徠を訪ふ、徂徠方に几に隱(よ)りて孫子を閲(けみ)す、面垢(あかつ)きて洗はず、髪(はつ)亂れて梳(くしけづ)らず、新年を知らざるものゝ如し、乃ち呶々(どゞ)兵を談じて置かず、南郭竟に新禧〔新年の喜〕を祝するを得ず
甞て東壁を過ぐ〔過は訪〕、時に東壁妓を携へ來りて■(女偏+喋の旁:せつ:汚す・狎れる・侮る・乱れる:大漢和6524)狎(てふかふ)す〔戲る〕、徂徠の入るに會ひ、倉皇〔アハテル〕爲す所を知らず、遂に詭(いつは)りて〔詭は虚言〕曰く、家妹(かまい)幼にして某侯に宦す、近者(ちかごろ)暇を賜ひ、歸りて家に居ると、徂徠既に之を覺る、明日使を遣して鮮魚を致し、以て才子の佳人に配するを賀す
滕元啓能く書を寫すを以て、之を塾中に置き書を寫さしむ、甞て徂徠の侍婢と私(し)す〔私通〕、徂徠之を覺りて問はず、元啓其覺らるゝを知り、遂に出亡す、久しくして徂徠市(し)を過ぎ、元啓の行々(ゆく\/)印肉を賣るを見、從者をして將い來らしむ、元啓奔(わし)りて店後に匿(かく)〔隱〕る、追うて之を索め、復た塾中に置き、之を待つこと故(もと)の如し
書商小林新兵衞徂徠に謂つて曰く、小子家號なし、願くは命ぜよ(*と)、徂徠笑つて曰く、書賈の吾門に出入するもの五人、而して爾が鬻ぐ所價(あたひ)最も高し、猶嵩山の五嶽に於けるが如し、宜く嵩山房と名くべし(*と)
僧鳳潭謁を通じ〔面會を請ふ〕て曰く、質さんと欲するものあり、請ふ一見せん、徂徠即ち延接す、鳳潭曰く、衲(なう)甞て伊藤仁齋を見る、仁齋言ふ佛の道たる空のみと、五釋の教は深遠、空の一字得て盡くす所にあらず、仁齋の妄誕(ばうたん)豈に甚しからずや、先生以て如何(いか−ママ)となすと、徂徠節(せつ)を撃ちて曰く、凡そ仁齋の言、一々妄(ばう)ならざるものなし、然も獨り其佛教を指して空となすは妄ならずと謂ふべし、鳳潭憮然として曰く、縁なき衆生〔佛語、佛縁なき者は救ふべからず〕は度し難しと、即ち袂(たもと)を揮ひて〔怒れる態度〕出づ、此説原田温夫が東岳筆疇に出づ、澁井子幸が讀書會意に載するは是に異なり、知らず其相見る日を異にして然るか、又録して以て雅■(口偏+據の旁:きゃく・がく:大いに笑う声・顎・舌:大漢和4403)(がきよ)〔風雅の笑草〕に資す、鳳潭徂徠に造(いた)る、諸弟子以爲く魂魄を悸(き)する〔驚駭にてビツクリする〕ものあらんと、屏後(へいご)〔屏風の背後〕に立ちて窺ふ、徂徠茶酒を設けて相歡(くわん)し、終日忤(さか)ふ〔意を異にして爭ふ〕なし、將に出でんとす、謂つて曰く、今人名物を知らず、文字に純繆(じゆんびやう)あるを致す、是れ意を目前に用ひざる故なり、徂徠之を然りとし、廣く當時の文字を斥(せき)し、且つ笑ひ且つ語る、竟に同く南軒の下に立ち、手を擧げて一樹を指す、徂徠未だ答へず、鳳潭微笑して去る、徂徠屏後の人を顧(*原文ルビ「かへ」は誤植。)みて曰く、彼の胡〔夷教を奉す(*ママ)る者〕人を魅すと
徂徠毎に自ら言ふ、熊澤の智、伊藤の行(おこなひ−ママ)、之に加ふるに我學を以てせば、即ち東海始めて聖人を出ださんと
或徂徠に問うて曰く、先生講學の外、何をか好むと、曰く他の嗜玩なし、唯炒豆(さとう)を噛んで宇宙間の人物を詆毀(ていき)する〔イリマメ即ち煎豆を食ひながら天下の人物を罵る〕のみ(*と)
徂徠著す所の書、字傍に訓譯を施さず、僧大典が萍過録に載す、朝鮮の成龍淵曰く、貴邦の書冊は皆行傍に譯音〔和訓の假名〕あり、此れ只一國に行ふべく、萬國通行の法にあらずと、惟茂卿の文集に譯音なし、此一事茂卿が豪傑の士たるを知るべし、近世の鴻匠徂徠に如くはなし、後の學者激昂奮勵するも竟に及ぶ能はず、然も其瑜瑕(ゆか)得失は則ち免れず、是を以て宇士新が論語考、石川■(石+燐の旁:りん:雲母、ここは人名:大漢和24481)(りん)洲(*麟洲か。)が辯道解蔽、五井蘭洲が非物、中井竹山が非徴、服蘇門が燃犀録等、殆ど徂徠の膏肓(*原文ルビ「がうかう」は誤植。)に中(あた)る〔膏と肓との間に入るにて肓は盲にあらず〕、吾祖の詰物も亦其道を説くこと甚だ誤るを辯ず、此數人は徂徠の益友と謂ふも可なり、他の書を作るは、巧詆以て勝(かち)を求むる者、擧げて數ふべからず、要するに徒に口業を滋(ま)〔繁〕すのみ、徂徠を病ましむるに足らず
徂徠病中喟然として歎じて曰く、吾下世〔死去〕の後、遺文必ず行はれんとす、然も海内實に我を知るなし、吾を知る者は唯東涯あるのみ(*と)
徂徠の歿せしは享保戊申正月十九日となす、是日天大に雪ふる、終(おはり)に臨んで人に謂つて曰く、海内第一流の人物茂卿將に命を隕さんとす、天爲めに此世界をして銀ならしむと
徂徠浮腫(ふしやう−ママ)〔ウキハレ〕を病んで終る、紫芝園漫筆に曰く、徂徠先生甚だ生を重んず、飮食居處より以て出入動止、賓客應接(おほせつ−ママ)の事に至るまで、苟も以て生を傷(きづつ)くべきものは斷じて爲さず、然も其病死せる所以は思慮度に過ぐる〔頭脳を使ひ過ぐること〕を以てなり、盖し先生功名(こうめい)に志あり、少より著述を以て事となす、年六十を過ぎ、舊疾數々發して猶清心静養する能はず、遂に篤疾〔重病〕を致して死す、謝在抗云く、思慮の人を害するは酒色より甚しと、誠に然り、竹山が非徴に曰く、余甞て之を聞く(、)徂徠の疾(や)むや、日々侍者に宣言して曰く、宇宙俊人(しゆんじん)の死必ず靈怪〔不思議〕あり、今當に紫雲の舍を覆ふものあるべし、爾等出でゝ之を觀よと、病革まるに及び、轉輾〔コロゲル〕して紫雲を呼號し口に絶たず、家人及び高足弟子深く之を恥ぢ、絶えて外人を通ぜず、故に一時或は謬傳(びやうでん−ママ)して以て良死にあらず〔變死を指す〕となすと云ふ、此れ竹山が妄語を傳聞せるなり、徂徠關東に起りて、海内を風靡す〔風の如くナビカス〕、西人〔關西の人〕動(やゝ)もすれば莠言(しうげん)〔惡語〕を造りて以て之を非駁す、要皆■(女偏+冒:ぼう・ねたむ:嫉む:大漢和6527)妬(ばうと)〔ネダ(*ママ)ミ〕の心に出づ
芝三田の長松寺に徂徠の墓在り、猗蘭侯其碑文を撰し、葛烏石之を書す、工始めて竣(おは)り、遠近爭ひ傳へ、來りて之を模搨(もたふ)〔石摺〕する者、日々甚だ衆(おほ)し、近時東藍田春臺の撰せる誌を併せ、更に刊木(*原文ルビ「かんぼ」は一字欠。)して一册子となし、以て之を鬻ぐ、長松寺は壽命山と號す、徂徠を葬りてより後、一に徂徠山と號す
雨森東、字は伯陽、小字は東五郎、芳洲と號す、平安の人、或は曰く、伊勢の人、對馬侯に仕ふ
芳洲十七八、江戸に來りて木下順庵に從學す、才藻卓絶なり、順庵稱して後進の領袖となす、遂に其薦(すゝめ)に因り、對馬に筮仕(ぜいし)〔仕官〕し、文教を掌(つかさど)り、恒に韓人に接對(*原文ルビ「せいた」は誤植。)し、名聲海の内外に馳す
芳洲象胥(しやうしよ)〔通辯すること〕の言に通じ、其毎に韓人と説話するに、譯者を假らず、韓人甞て戲に謂つて曰く、君善く諸邦の音を操(と)る、而して殊に日本語に熟すと
年八十一始めて倭歌を學ばんとす、而して意(い)に謂(おも)ふ、詩は時ありて之を作る、稱すべきものなしと雖も、平仄(へいそく)〔平字仄字にて詩を作るに用ふ〕を謬らざることを得(う)、國風〔和歌〕に至りては、一も其法を解せず、先づ古歌を熟讀するに若くはなし、今より古今集を讀むこと一千遍、而後自ら賦するもの一萬首ならば、其れ或は少しく通ずる所あらんと、乃ち二年を經て千遍畢り、又三年にして萬首就(な)る
梁蛻巖が杜楊諧文集の序に曰く、物茂卿和歌を譏りて曰く、三十一字は侏■(人偏+離の偏:れい:〈=儷〉並ぶ・つき従う・連れ合う:大漢和1016)(しり−ママ)の言道(い)ふに足らず〔擧げて言ふだけの價値なし〕と、蓋し東人〔日本人〕にして其腹(ふく)を華〔支那〕にするもの、固より一家言のみ、雨(*原文「兩」字は誤植。)伯陽甞て予に語りて曰く、「玉露凋傷ス楓樹ノ林(*玉露凋傷楓樹林)」〔唐人の名吟〕は美は則ち美なり、我猿大夫が紅葉鹿鳴〔紅葉蹈み分け鳴く鹿の和歌〕、人をして感じ易からしむるの愈(まさ)るに若かずと、伯陽は華音を善くし、綜博にして藻材(さうさい)あり、其品茂卿の下(もと)に出でず、而して其言此の如し、知言者と謂ふべし(*と)
世の儒者今の職名を以て俚俗〔鄙俗〕となし、文に之を記するに及び、名號を換易し濫稱實を亂る、後世に垂るゝ所以にあらず、近時有識の士に至り、直に今の官職を書す、而して百年前芳洲既に鞭を着く、橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に對馬州文學原任用人〔用人は職名〕雨森東、と自署するにて見るべし
芳洲が白石を識るもの三十年、而して交分協(かな)はず〔相和せざること〕、常に白石は其心術測るべからずと謂ふ、甞て一事を面折(めんせつ)す、白石曰く、子が言の如きを以てすれば、子は余を疑ふ、所謂白頭尚新なる〔老年まで交はること初對面の如し〕ものなりと、又其橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に、惺窩羅山より其師順庵及び社友の一時に名ある者に至るまで、盡く擧げて以て其才行を品藻〔品評〕す、而して獨り白石に及ばず、木門には俊逸其人に乏しからず、祇南海は才氣當世を蓋ふ〔大にしてオヒカブセル〕、而して鐘秀集(*「鐘」は「鍾」か。)に記して曰く、予は諸友に於て其敬畏する所、伯陽氏に如くはなしと
芳洲は學術文章、徂徠と軌途〔道〕を殊にす、而して交誼厚く、毎に書詩相通ず、橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に曰く、物茂卿は余が故人〔舊友〕なり、博覽文章、海内比なし、第(た)〔唯〕だ大綱上に於て差あり、心實に慊焉(けんえん)たり〔アキタラヌ〕、徂徠も亦屡芳洲を稱す、江若水に與ふる書に曰く、雨(*原文「兩」字を使う。)芳洲果して來る、劇談三日、偉丈夫(ゐじやうぶ)〔奇男子といふが如し〕なり、其子顯允(けんいん)予を拜して師となす、門下に留まるもの三月、行々(ゆく\/)將に西に歸らんとす、亦偉丈夫の子なり、必ず家聲を墜さゞる者なり、余皆序を作りて之を送る、芳洲更に丈夫の子二人あり、皆幼にして詩を善くす、渠啻に偉丈夫なるのみならず、亦福人(ふくじん)と謂ふべし、又屈景山に答ふる書に曰く、洛に伊原藏あり、海西(かいせい)に雨伯陽あり、關以東には室師禮あり(*と)
甞て子顯允をして徂徠を師とし、其塾に居らしむ、未だ幾くならず、塾を出でゝ歸らしめて曰く、徂徠は實に一代の豪傑にして常儒〔尋常の儒者〕を以て之を視るべからず、然りと雖も、其人を教ふる、徳行(とくかう)を先にせず、是を以て家塾序を失ふ、以て少年を託すべきものにあらずと
三輪希賢、字は善藏、執齋と號し、又躬耕廬と號す、平安の人
執齋の先(さき)、舊(も)と大和三輪神社の司祝に係る、父を澤村自三と云ふ、醫を業とし、京師に住す、執齋六歳にして怙を失ふ〔恃む所を失ふ〕、賈人大村某なるもの、同じく司祝より出で自三と相親善なるを以て、執齋を育す、漸く長ずる比ひ、出でゝ眞野氏を冒す、年十九にして佐藤直方の門に及び、始めて他姓を承くるは古に非ざる〔古道に反す〕を曉り、即ち本姓三輪に復し、以て其祖を祭る、是に於て深く直方を徳とす〔恩に感ず〕、直方の病革まるを聞くや、疾く往いて之を訪ふ、命既に絶して及ばず、即ち倭歌八首を賦して之を哭し、其三輪に復するを得たるを陳謝す
忘れずよ三輪のしるしの過ぎしよを又直方をして王氏の學に歸せざらしむるを以て恨となす
したふも君がをしへならずや
さりともと心にこめしひとすじ(*ママ)を後餘姚(よよう)〔王陽明〕の良知〔良知良能とて陽明の教義宗旨〕の學に悟るあり、士大夫の間に講説す、甞て直方の薦(*原文ルビ「すゝ」は一字脱。)に因り、厩橋侯に官す、遂に致仕して去る、初め朱學を以て進み、今其説を用ひず、侯の求むる所と異なるを以てなり、或は云く、侯祐天を信ず故に去ると、是に於て京に歸り、尋いで大阪に之き、又江戸に來り、數年の間居止恒ならず、梁蛻巖が井甃菴に復する書に曰く、寛量小濱侯に告ぐる文一首を示さる、讀玩(とくぐわん−ママ)再三、以て徳業の實を觀るに足る、大抵■(糸偏+丸:がん・かん:白の練絹・結ぶ:大漢和27247)袴(ぐわんこ)〔富貴の子弟を形容する套語〕(*貴族の子弟の袴から。軽蔑の意を含む。)の子弟、膏粱(かうりやう)〔脂のある肉、味饒き穀〕に飽き絲肉(しにく)に酖(ふけ)り、未だ曾て學問せず、其(*原文ルビ「そ」は一字脱。)吏を馭し民に臨むに及び、務を知らず、甚しきは人を毒し國を蠧(と)す〔虫喰の如く害す〕、公の如き火中の蓮と謂はざるべけんや、然りと雖も、輪氏微(なか)りせば道を聞くを得ず、姚江の學其陶鑄する〔人を造る〕所、果して誣ゐず、方今江左(かうさ)の儒人、詞藻を以て名ある南郭金華諸才子の如き、姑く之を措き、四方に振鐸〔鼓吹〕し、大に聖學を倡ふるは、斯人を舍てゝ其れ誰ぞや、昔文仲子道を河汾に講じ、王魏房杜の曹(ともがら)、材(さい)を達し徳を成す、安ぞ他日東都の賢士大夫が體を明(あきらか)にし用に適する寛量公と相弟昆〔兄弟〕たる者、輪門に出でざるを知らんや、吾儕當に眼(まなこ)を拭うて俟つべし云々
言はでわかれし名殘りかなしも
故園萬里ノ東、茫々トシテ望ミ窮リ無シ、紅ハ添フ梅花ノ雨、白ハ知ル柳絮ノ風、陽炎草野ニ盈チ、落日山中ニ入ル、痩馬春色ヲ追ヒ、黄昏歸路空シ(*故園萬里東、茫々望無窮、紅添梅花雨、白知柳絮風、陽炎盈草野、落日入山中、痩馬追春色、黄昏歸路空)三疇の吟に云く
禄ヲ辭シテ偶マ成ル詩一章、閑(*ヲ)偸ミ適ヲ取リ風光ヲ閲ス、淵明徑裡ニ孤松老イ、茂叔■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)前ニ萬草長ズ、市ニ非ズ山ニ非ズ人寂寞、晴ント欲シ雨ント欲シ客彷徨ス、家ヲ移シテ自ラ愛ス三疇ノ内、躑躅紅ヲ含ンテ(*ママ)夕陽ニ向フ(*辭禄偶成詩一章、偸閑取適閲風光、淵明徑裡孤松老、茂叔■前萬草長、非市非山人寂寞、欲晴欲雨客彷徨、移家自愛三疇内、躑躅含紅向夕陽)水仙に題して云く
夜ハ寂シ蘂珠宮殿ノ内、黄冠緑袖獨リ蕭然タリ、金盤高ク捧ケ(*ママ)テ朝露ヲ承ク、自ラ是レ地行花裏ノ仙(*夜寂蘂珠宮殿内、黄冠緑袖獨蕭然、金盤高捧承朝露、自是地行花裏仙)執齋尤も事體に諳達(*原文ルビ「あんた」は一字脱。)し、其言優游〔餘裕ありて迫らぬこと〕餘味あり、能く聽者をして心醉せしむ、甞て近江の小川村に抵(いた)〔至〕り、土民を集めて學を講ず、四坐皆感泣して之に服し、翕然(きふぜん)相謂つて藤樹先生の再生となす
たらちねにかへすこのみをおく(*原文「き」とする)つきの
しばしとぞ見る杉の二もと
契りおくたま(*原文「み」とする)のありかをこゝと見よ後五年寛保甲子正月二十五日平安に卒す、享年七十六
からは何處の土となるとも
梁田邦美、本と名は邦彦、字は景鸞、小字は才右衞門、蛻巖と號す、武蔵の人、赤石侯に仕ふ
蛻巖生れて頴悟〔明敏にてサトキ〕、幼にして人見鶴山に學ぶ、漸く長じて才識(*原文ルビ「さいし」は一字脱。)高遠、尤も詩に工(たくみ)なり、才既に絶倫、而して鑽研(せんけん−ママ)〔勵んで研究す〕老に至りて止まず、年二十六、鶴山に介して白石を見る、白石妄りに人を容れず、獨り蛻巖の才を異とし、之と交はり、■(目偏+屯:しゅん:鈍い目・目が眩む・居眠り:大漢和23158)々(じん\〃/−ママ)として中底(ちうてい)を見(あら)はす、江邨北海曰く、蛻巖の集を讀むに、譬へば崑崙の邱(きう)に登れば、歩々(ほゞ)是れ玉〔玉の多き形容〕、栴檀の林に入れば、枝々(しゝ)是れ香なるが如し、詩是に至りて遺論なかるべし、而して猶未だ善を盡くさゞるものあるは何ぞや、蛻巖才を用ふる太だ過ぐるのみ、張茂先陸士衡に謂つて曰く、人常に才の少きを恨む、而して子更に其多きを患(うれ)ふ(*と)、余蛻翁に於て復た云ふ(*と)
蛻巖既に伊洛の學をなし、又此邦の神道(しんだう−ママ)を信じ、又博く釋典を讀み、恒に言つて云く、宣聖の學、東方の道、乾毒〔印度の教にて佛教〕の教、鼎足相悖らずと(、)少時專ら兵を説き、其古の勇將戰士(*原文ルビ「ぎし」は誤植。)を評するや、論議慷慨にして烈丈夫の風あり、言或は周瑜が赤壁、謝玄が■(三水+肥:ひ:川の名:大漢和17649)水(*〈=肥水〉東晋の謝玄が前秦の苻堅を破った古戦場。)、織田信長が桶狭間、上杉謙信が川中島の事に及べば、則ち腕(わん)を扼し劍を按し(*ママ)、躍如として色飛ぶ、當世名けて覇儒〔覇者の道を行ふ儒者〕と云ふ、年四十八、赤石侯に仕ふ、是より先き世と齟齬し、游仕(ゆし−ママ)遂げず、家唯壁立(へきりつ)するのみ〔かべばかり長物なし〕、其雪を詠ずる詩の序に云く、余頻年窮甚し、書■(竹冠+鹿:ろく:竹で編んだ篋:大漢和26458)の中(うち)四子を除く外、詩韻一册、徐文長集半部ありと、又甞て書を買ふ能はざるの詩を作る、「惠車■(業+邑:ぎょう:地名:大漢和39684)架〔書籍積聚の故事〕天地ニ滿ツ、誰カ信ゼン空拳猶圍ヲ突クト(*惠車■架滿天地、誰信空拳猶突圍)」の句あり
甞て小集に詩を賦す、一人あり、石見國は「硯ノ如シ」を以て對を求む、苦思すれども皆得ず、蛻巖朗吟して曰く、竹生島は笙に似たりと、四座驚歎(けいたん−ママ)す
蛻巖詩豪を以て一時を壓す、而して意見屡改まり、格調〔詩の調と格〕數(しば\/)變ず、皆以て人を驚すに足る、自ら言ふ初め宋を學び、歐蘇の傍(かたはら)放翁、齋齊、中年唐を學び、李杜を祖稱〔祖述〕し、縁飾するに錢劉諸家を以てす、又退きて明を學び、王李の銀鹿たるを甘んず、幾くもなく袁中郎となり徐文長となり、而して遂に初盛唐を以て表準となし、■(合+廾:えん・おおう:掩う・奥深い:大漢和9610)州濟南を門戸となす、鳴歸徳に復する書に云く、一旦大夢(たいむ)覺め宿酲(しくてい)〔前夜來の餘醉〕解け、乃ち斷然開元を以て關となし、七子を引となし、陽春白雪奏する毎に彌(いよ\/)高く、斗文紫氣望む毎に彌昌(さかん)なり、季子の裘弊(きうへい)猶改むべく、呂虔が鈍刀尚磨すべし、寧ろ王李の爲めに履を取つて敢て辭せず、遂に血を雨(ふ)らすの鷙爪(しつさう−ママ)〔猛鳥〕をして、化して椹(かん)を食ふの柔啄〔温和なる鳥〕たらしむと
祇園瑜、又の名は正卿、字は伯玉、一字は斌(*ひん)、小字は與一郎、南海と號す、又鐵冠道人と號し、又觀雷亭と號す、紀伊の人本藩に仕ふ
南海業を木順庵に受く、幼より才調無雙なり、尤も詩を能くす、年甫め十四、白石、南山、霞沼、篁洲と芳洲の寓居に集まり、即席「邊馬歸思有リ(*邊馬有歸思)」を賦して云く
遠ク將軍ヲ逐フテ雪山ヲ度ル、九秋大漢剱華ノ間、胡塵四ニ起リ風塞ニ悲ム、羌(*原文「ム」を付けた俗字を使う。)笛一聲月關ヲ照ス、却テ恨ム曾テ伯樂ノ顧ニ逢フヲ、長傷ム未(*ダ)得(*ズ)旄頭ノ間、沙場幾歳カ毛骨ヲ摧ク、何ノ日カ華山ニ戰ヲ休メ還ラン(*遠逐將軍度雪山、九秋大漢剱華間、胡塵四起風悲塞、羌笛一聲月照關、却恨曾逢伯樂顧、長傷未得旄頭間、沙場幾歳摧毛骨、何日華山休戰還)座に在る者皆舌を咋む、白石曰く、此詩は雄渾悲壯、以て後來斯文に任ず〔文柄を司るをいふ〕(*原文頭注「柄」字を手偏にする。)べきを卜するに足ると、又十五にして「鳶飛ビ魚躍ル活溌々地(*鳶飛魚躍活溌々地)」の對に「光風霽月常ニ惺々法」を以てす、芳洲稱して的對(てきたい)〔適當の對句〕となす
紫微遙裔彩雲迎フ、衆緯森々白玉京、月九重ニ傍ヒテ瑤闕冷カニ、風五色ヲ飄シテ羽衣輕シ、錦機夜静ニ星梭響ク、環佩秋深ク天歩鳴ル、應(*ニ)是レ均天夢中ニ到ルベシ、勞セズ遠ク問フ漢ノ君平(*紫微遙裔彩雲迎、衆緯森々白玉京、月傍九重瑤闕冷、風飄五色羽衣輕、錦機夜静星梭響、環佩秋深天歩鳴、應是均天夢中到、不勞遠問漢君平)此詩は集中に録せず、余甞て人の之を誦するを聞く
十八山東ノ妙、聲名世共ニ聞ク、巵言甜キコト蜜ノ若シ、藻思涌クコト雲ノ若シ、人ハ稱ス斗南一、馬ハ空シ冀北ノ羣、百篇日ヲ終ラズ、行ク看ン斯文ニ任ズルヲ(*十八山東妙、聲名世共聞、巵言甜若蜜、藻思涌如雲、人稱斗南一、馬空冀北羣、百篇不終日、行看任斯文)亭を觀雷と名け、自ら之が記を作る、其意新に語壯に、以て其非常の資を想ふに足る、孰か謂ふ南海の才獨り詩に於てすと、記に曰く
予が湘雲居の丙方一亭、遠望すれば寸碧を得、螺黛(らたい)〔螺のやうな眉ずみ〕煙鬟(えんかん)〔煙の如き結髪〕雲際に依稀たる者〔ボンヤリ見ゆるもの〕は藤白なり、藤白の山、西海磯(かいき)に枕(のぞ)み、東大嶺に連なる、■(之繞+ノ+一+也:い・た:蛇行する・連なる:大漢和38785)■(之繞+麗:り・つらなる:連なる:大漢和39260)(いれい−ママ)(*「いり」=次々に〈斜めに〉連なる意。)數百里、夏月雷雨の過ぐる、大率(おおむ)ね此方よりす、其暑氣■(土偏+決の旁:かい・えつ:「塊」の俗字:大漢和4948)欝(けつうつ)烈火金を鑠(とらか−ママ)す、殷たる其の聲、杳として東隅に起る、景申に及び、狂飆(きやうひやう)(*原文「飆」の偏旁を反対にした別体字を使う。)沙を捲き、崩雲(ぼううん−ママ)■(黒+多:えい・い:黒い・黒檀:大漢和48091)〔黒色〕の如し、暴雨河を飜へす、雜ゆるに冰(*原文「水」を「氷」に作る。)雹(ひゃう\/)を以てす、乖龍恍惚反戰し、金蛇(きんだ)萬道〔金色の電光萬條〕、掣電(せいぜん−ママ)壁を劃(かぎ)る、俄にして霹靂山を破り、瞬息(しんそく−ママ)千里、香車(かうしや)轆々(ろく\/)、南海に走る、是に於て軒(けん)を開き柱(ちゆう)に倚り、以て觀望す、遠者(とほきもの)八九里、近者は二三里、我膽氣(たんき)之が爲に皷舞せらる、飛興揚々、天外に飄騰す〔ヒルガヘリノボル〕、其壯(さかん)なるや、戰(*原文ルビ「たゝかへ」は誤植。)を■(三水+豕、豕に点を付す:とく・たく:滴る・潰す・撃つ・磨く:大漢和17609)鹿(たくろく)の野(や)に觀(み)、潮(うしほ)を浙江の津(しん)に望み、洞庭に樂を張り、雲夢に獵(ろう)を校すと雖も、何ぞ能く過ぎん、宇宙の第一奇觀と謂ふべし、須臾(すうゆ−ママ)〔シバラク〕(*原文「臾」を「曳」に誤る。頭注では「臾」とする。)雨歇み雲散じ、長霓(ちやうげい)海に飮み、京蟾(きやうせん)〔月〕天に在り、爽籟〔心よき風〕■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)(びん)を吹き、慮を洗ひ魂を濯ふも、亦雷の賜なり、因つて之を榜して觀雷と曰ふ、客過覽して訝る者あり、曰く吁異なるかな、子の亭に名くるや、吾聞く雷は天の怒りなり、故に之を聞く者、怖れて避けざるなし、聖人猶且つ之が爲に容(かたち)を變ず、今子反(かへ)りて以て奇觀となす、乃ち人情に異なるなからんやと、予笑ひて答へて曰く、其戒愼するもの、豈に啻に雷のみならんや、其既に疾風迅雨(しつぷじゆんう−ママ)〔孔子が容を改むる故事〕亦必ず變ずと謂ふ、風雨豈に是れ天の怒ならんや、夫れ雷は天地間の一物、夫の日月星辰風雲雨雪と與に、同じく是れ造化〔自然的作用〕の使令、日月なり、星辰なり、風雲なり、雨雪なり、未だ疑怪する者あるを聞かず、獨り雷に至りては則ち疑ひて以て異物〔怪物〕となし、怪んで以て之を怖る、何ぞ其れ惑へるや、後世に至り、腐譚〔舊き話を事とすること〕の士、千言萬語、理を以て雷を説く、亦是れ癡人〔痴人〕夢を語るのみ、吾古人の文辭を觀るに、觀日の壇あり、觀星の臺あり、玩觀と謂ふものあり、望雲と謂ふものあり、賞雪と謂ふものあり、雷豈に獨り觀るべからざらんや、抑も亦月雲は愛すべし、故に以て玩望す、雷や徒に怖るべきのみと謂はん歟、天下に怖るべきもの亦甚た(*ママ)多し、外は則ち功名(こうめい)利禄、内は則ち智術忿爭、傍ら酒色佚遊〔放蕩〕、鰐海(がくかい)の舟船羊膓〔嶮阻〕の車馬、一たび其常を失へば、禍(わざはひ)踵(くびす)を旋らさず〔忽ち來る意〕、其疾きこと、震雷に過ぐ、予乃ち其禍を必然に顧みざるか、反りて震雷を萬一に怖る、亦た誤らずやと、客答へずして去る、書して以て記となすと云ふ南海の時に當り、白石、南郭の輩、詩名世に噪(さわ−ママ)ぐ、一時の秀才多く其下風に立つ、南海は碌々〔何の能もなくゴロ\/して居る貌〕人に後るゝを欲せず、則ち敢て此輩に黨せず、甞て詩盜を録するの判文を戯作す、一儒生毎に詩を作り、必ず古人を剽竊す、故を以て死して罪を冥司〔地獄の判官〕に得たる事を記す、此れ寓言〔事に託していふ言〕以て時の名流を彈ぜるなり
並河亮、字は簡亮、天民と私謚す、平安の人
天民初年仁齋に從ひて學ぶ、後仁齋が仁義禮智は天地自ら有る物、性の固有する所に非ずとの説を以て、告子の舊■(穴冠+果:か:穴:大漢和25556)(きうぐわ)〔舊套と云ふが如し〕となし、更に己の見を立つ、其説天民遺言に見ゆ、大略以爲く、四端〔孟子の説より出づ〕の心は則ち仁義禮智、仁義禮智は則ち四端、四端の外別に仁義あるにあらず、其生と與に生ずるより之を言へば、則ち之を性と謂ふ、其情實僞なきより之を謂へば、則ち之を情と謂ふ、其思を以て職となすより之を言へば則ち之を心と謂ふ、其實は一なり、學者必ず其孰(いづれ)か心(しん)たり、孰か性たり情たるを指さんと欲す、何ぞ思はざるの甚しきや、誠所が疑語孟字義序に曰く、吾竊に之を叔父信齋に聞く、一日信齋天民と與に、仁齋の書齋を訪ひ、談性理に及ぶ、天民質すに其所見の心性情三名惟一(ゆいいつ−ママ)(*唯一か。)の説を以てす、問答數回、仁齋默然(もくぜん)稍や久しくして歎(だん−ママ)じて曰く、豪傑の士待つ所なくして興起するものにあらざれば、此に與る能はず、吾子は誠に間出〔希有〕の才なり、吾當に字義を改むべきき(*衍字)のみと、誠所名は永、字は崇永、小字は五一、天民の兄、甞て五畿内志を著し、世に名あり
天民性剛決にして才を負ふ、其學は尚書、論語、孟子に本き、經濟(けいざい)を以て志となす、毎に所謂訟を聽く吾猶人の如し、必ずや訟なからしめん、若し我を用ふる者あらば、吾夫れ東周〔西遷前にして周の盛時〕を爲さんか、苟も我を用ふる者あらば、朞月(きげつ)〔一週にて十二ヶ月〕にして可なり、三年成すことあらん〔訟を聽く以下論語中の語〕の數語を稱して曰く、此れ聖人才徳の本領なりと、奮然己が任となす、其尚書を説くに曰く、蔡氏の集傳、七分を解し得たり、王耕野が著す所、讀書(とくしよ−ママ)管見は發明する所多し、王魯齋が書疑錯簡(さくかん)を考定し、文理稍や順妥(じゆんだ)〔整ひて穩當となる〕(*原文頭注「順安」は誤植。)を覺ふ(*ママ)、唯其意を斟酌し、以て之を家國に施すの方に於ては、予竊に諸君に讓らざるのみと、甞て上疏し〔封書を上る〕、蝦夷地方を以て、内屬となさんとす、而して年僅に四十、志果さずして歿す、識者之を惜む
東涯曰く、簡亮は誠に才あり、然も以て六尺の孤を託す〔成語にて君長の死後其孤兒を託すること〕べからず、他日天民之を聞きて曰く、東涯實に吾を知る、吾之を人より奪ふも、未だ自ら知るべからず、人の爲に奪はるゝに至りては決して之なし、東涯は之に反すと
天民其獨得する所〔他人の説に依らず自ら發明したるもの〕を倡へて一時に振ふ、仁齋歿して其徒半は(*ママ)東涯に從ひ、半ば天民に從ふと云ふ
倭學に通じ、善く倭文を屬(ぞく−ママ)〔作〕す、甞て片劃記(かたそぎのき)を作る、多田南嶺取りて己が説となし、秋齋閑語に載す、伴蒿蹊が畸人傳に天民の事跡並に片劃記を録し、以て南嶺が剽竊を發〔摘發〕す、痛快と謂ふべし
一日門人相集まり謂つて曰く、先生若し志を得ば、吾儕をして何事を管せしめんとすと、座に一人あり曰く、余が不才は先生の固より知る所なり、但倉廩〔米藏〕を守らば、則ち一掬の米と雖も、敢て私(わたくし)せずと、天民曰く、爾が如き者をして奈何ぞ倉廩を守らしめん、其人色を作(おこ)して曰く、先生余を以て廉〔潔白〕ならずとなすか、天民笑つて曰く、否、物を竊むの才ある者は、人の爲に竊まれず、爾能く人の爲に竊まれざらんやと
仁齋儒にして醫たるを以て是ならずとす、其説儒醫の辯に見ゆ、天民は之に異なり、曰く、此邦儒の恒禄〔定まりたる俸禄〕なき者、宜く岐黄〔醫術〕を兼ぬべし、偏(*原文ルビ「ひと」は一字脱。)に儒を以て居れば、則ち産支へ難し、終に或は其志を固くする能はずと、是に因り門人往々儒にして醫を兼ぬるものありと云ふ
太宰純、字は徳夫、小字は彌右衞門、春臺と號し、又紫芝園と號す、信濃の人
春臺は平手政秀の後なりと云ふ、父言辰(こととき)より太宰氏を冐す、小(*ママ)時江戸に來り、某二侯に筮仕す、皆志を得ずして去る、時に年三十六、是より後復た官せず、初め中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙(いけん−ママ)(*■謙〈きけん〉は謙遜し、譲る意。)に從ひ、性理學を修む、既にして徂徠が一家言を成すと聞き、其學を棄てゝ學ぶ、遂に治經を以て名一時に冠〔最上の物、隨ひて第一等〕たり
春臺人となり嚴毅端方(たんはう)、巖村侯の世子延きて師となす、其始めて至るや、世子〔諸侯の嗣子〕送迎せず、春臺■(弗+色:ふつ・ぼつ・ほつ:むっとする・怒る:大漢和30606)然(ふつぜん)として〔怒る貌〕曰く、至賤の處士烏(なん)ぞ敢て貴人に傲岸〔驕慢〕せん、然りと雖も、説く所は聖人の道なり、苟も道を奉ずる者は、王侯と雖も禮せさ(*ママ)るを得ず、而して其待つ所薄きこと甚し、是れ余を禮せざるにあらず、即ち道を奉ぜざるなり、道を奉ぜざる者は、余復た見ることを欲せずと、是時に當り、侯閣老たり、用捨窮達〔官途に立身すると貧賤に居ると〕、皆其手に出づ、而して其言一も忌憚(きだん−ママ)する〔イミハゞカル〕所なし、是に於て其臣相議して曰く、無禮は渠自ら道ふなり、世固より儒師多し、請ふ更に他人を招がんと、世子之を聞きて曰く、寡人過てり、教を師に受く何の挾(さしはさ)むことか之あらんやと、乃ち禮を厚くして之に事ふ、春臺後に六經略説を著し、之を世子に進むといふ(世子は巖村侯の第四子、林述齋の生父なり)
春臺善く笛を吹く、此時に當り、東叡法王音律を好む、春臺が音に妙なるを聞き、甞て使をして之を召さしむ、春臺辭して曰く、余は儒生なり、若し儒を以て召さるれば則ち駕を待たず、其私嗜する末技〔ツマラヌワザ〕を以て、王門の伶人となるは余欲せざるなりと、是より終に復た笛を吹かず
某侯乾海參〔ナマコの干物キンコ〕を餽(おく)る、之を調烹(ちやうばう)すれば、肉破れ味變ず、春臺怒ること甚し、即ち人をして之を却(しりぞ)けしめて曰く、余固より鄙賤なる論なし、而して君が交を許す所以のもの、其學ぶ所を信ずればなり、既に之を信ぜば、豈に禮なかるべけんや、然るに餽るに腐物を以てす、是れ禮の廢するなり、夫れ道なるもの禮を以て主となす、而して既に之を廢す、何の學か之れ爲(おさ)めん、今より後君の門に造るを願はずと、侯曰く是れ寡人卒爾〔草々粗漏〕の致す所なりと、自ら書を裁し、更に一篋の海參を餽りて之を謝す
侍中〔側用人〕某經濟録を以て進呈せんと欲す、書商小林氏をして正本を春臺に求めしむ、春臺辭するに稿を作ること愼まず、且つ衰邁〔年老衰弱〕にして膳寫〔淨書〕する能はざるを以てす、而して私に小林氏に謂つて曰く、中官〔内部の役人〕に託して以て言を達するは、君子が爲さゞる所なり、若し命閣老より出でなば進めざるを得ずと
春臺古文孝經、孔安國傳を校刻し、沼田侯に由りて之を大府に上る、孔傳は彼の國に亡ぶること久し、而して春臺が梓する所、傳へて彼に入る、乾隆四十一年(我安永五年)鮑以文翻刻して知不足齋叢書中に入る、呉騫が序に曰く、宋史日本傳に謂ふ、其國太宰府人をして方物を貢せしむ、或は其牒を収得すと、今此書を序刻せる太宰純は未だ如何なる人なるかを詳にせず、日本多く職を世々にす、太宰純は其苗裔〔遠胤即ち遠孫〕か、或は官を以て氏となすものか、惜いかな、十萬里の波濤盡し難く、問ひ易からざるのみと
■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)苑の徒南郭の宅に集まる、春臺獨り後れて至る、足過ちて板美中の剱を■(足偏+搨の旁:とう:「踏」の本字:大漢和37750)(ふ)〔蹈〕む、義當に頂禮〔頭に戴く〕以て過を謝すべし、然るに徑(*原文ルビ「たゝ」は誤植。)に上頭に坐し、一言以て過を謝せず、美中性簡傲、恒に春臺が乖僻〔意地惡きこと〕動もすれば苛禮〔禮儀の細密過嚴〕を以て己を律するに苦む、是に於て故(ことさ)らに春臺を目し、自ら其剱を執り、己が頭に加へて之を拜す、春臺意色殊に惡(あし−ママ)し
赤穗の黨吉良氏を刺すや、春臺口を極めて之を醜詆〔惡口〕し、併せて鳩巣が義人録を作るを駁(はく−ママ)して曰く、室氏にして義を知らざること此の如し、世の■(立心偏+貴:かい:心が乱れる・愚か・昏い:大漢和11211)々(くわい\/)たる〔理に暗きこと〕者、何ぞ論ずるに足らんやと、近時柴栗山、赤松國鸞が四十六士論評を叙し、春臺を謂つて、貪者(たんしや)は人を盜かと疑ひ、淫者は人を姦と疑ふ者となす、己れ好んで人を攻む、人の己を攻めざるを欲するも得んや(*と)
菅麟嶼幼にして才氣煥發す、年十三、擢んでられて大府の儒官に列す、一時稱して奇童子(きだうし−ママ)となす、然るに卒(つひ)に苗(ない−ママ)にして秀でず〔苗のまゝ生成せざること〕、春臺規■(石偏+乏:へん・いしばり:石鍼〈を打つ〉・戒める:大漢和24110)(きへん)〔針を刺す如く戒めること〕少しも借さず、其忠誠激切なること、他人及ばず、今其書を左に撮録す
純足下が學に於けるを觀るに、王公大人學を以て戲となし、以て日を消する者の如きなきを得んや、足下は布衣(ふい)に非ずと雖も、然も儒生なり、不幸早く神童を以て聞ゆ、幸に國恩を蒙り、廩粟を賜ひ、文學に列す、朝請を奉ずる少しと雖も、以て務むる所を知らずんばあるべからず、古人童穉〔小兒〕にして日に六藝古文數千言を誦する者あり、純が足下を識りてより以來茲に數年、未だ足下が誦する所あるを聞かず、今日を以て前年に較ぶるに、亦未だ其進む所あるを見ず、而して進む所のものは吹笛(すいてき)のみ、近來聲價〔名望〕頗る減ずる、豈に徒に然らんや、程正叔言あり、曰く、人に三不幸あり、少年にして高科〔登用試驗の優等〕に登るも一不幸なりと、足下夫れ之を思へ、又曰く、吾子冬は則ち霜雪を怖れ、夏は則ち雷を畏る、一歳の内雷と霜雪とを避くれば、其畏なきもの幾ど希なり、古語に所謂首(かうべ)を畏れ尾を畏る、身其餘り幾(いくばく)ぞと、吾子之に近し、純聞く西域に雷なき國あり、南方に八蠶(さん)の地〔蠶の八たび生ずる國(、)暖地なり〕ありと、吾子彼に生れずして此に生る、何ぞ造物の吾子に利あらざるや、吾子の患(かん)稟受の薄(うすき)〔生來虚弱〕に由ると雖も、亦豈に奉養太だ厚く、安佚〔逸居して何もせざること〕度に過ぐるを以て、自ら其疾(やまひ)を崇(たかむ)る〔増す〕に非ずや、吾子少しと雖も、幸に一たび之を思へよ春臺の徂徠に於ける、其歩趨〔其趣なり向ふ所なり〕に隨はざるもの徃々之あり、特に文章の一事のみならず、今其言を左に録す、紫芝園漫筆に曰く
徠翁は海量〔度量の海の如く廣きこと〕能く容るゝを以て自ら許し、人亦此を以て之を稱す、余謂(おもひら−ママ)く徠翁固(まこと)に能く容る、然も能く學者を容れて、常人を容るゝ能はず、能く文才の士を容れて、禮法の士を容るゝ能はず、能く其人を容れて其言を容るゝ能はず、是れ未だ能く容るとなさず、又曰く、徂徠先生見識卓絶、道を知ること甚だ明、周南が以て鄒魯〔孟子と孔子、其生地を云ふ〕以後是人なしとなすもの、過論にあらず、唯其行其知る所に及ばず、殆ど所謂行の掩はざるもの歟、蓋し先生の志進取〔功名を取るに急なり〕に在り、故に其人を取るに才を以てし、徳行を以てせず、二三の門生亦其説を習聞し、徳行を屑(いさぎよ)しとせず、唯文學是れ稱す、是を以て徂徠の門■(足偏+斥:たく・せき:弛む・しまりがない:大漢和37430)弛(たくち−ママ)の士〔怠りて嚴格ならざる士〕多く、其才を成すに及び、特に文人に過ぎざるのみ、其教然るなり、外人既に之を以て先生を譏る、純も亦甞て竊に先生に不滿なり、此れ先生が純を鷄肋〔無用なれども捨て難きの謂〕視する所以なり、書に云く、之を知るの難きにあらず、之を行ふ惟れ難しと、先生有り、又曰く、徂徠先生は平日小子輩に教へず、是を以て其門長幼の序〔年齢に從ひ順序を定め其間の秩序を立つること〕なしと、又曰く、徂徠先生謂ふ、仁齋は奇を好むと、余より之を觀れば、徂徠の奇を好むは仁齋より甚し、古人の所謂尤(とが)めて傚ふ〔成語、咎めながら眞似する〕もの歟、夫子有り、又徂徠は風流を以て自ら許し、人も亦之を與ふ、予謂(おもひら−ママ)く徂徠に風流ならざるもの三あり、善く飮んで酒(*原文「洒」とする。)を惡む一なり、夜坐(やざ)を好まざる二なり、乘舟を喜ばざる三なり、又南郭に與ふるの書、徂徠が宇士朗に贈れる序を諷刺して曰く、此序は通篇人と爭ふ、君子の道にあらず、序に稱す、洛人は恒禄なし、儒生の其間に寄する、亦生をなし難し、舌耕〔經義の講釋〕肆を開き〔講席を設く〕、百千群を成し、日給するに遑あらず、性を語り天を語る、率ね宋籍に非ざれば不可なり、故に聰儁〔俊敏〕仁齋の如きも、猶其習ふ所に率(したが)ふ、洛の陋なる所以は是のみと、此れ大に然らず、夫れ洛儒信に生をなし難し、東儒果して皆寒〔貧〕ならざるか、且つ士の田禄なき者、農工商賈をなす能はず、則ち其技を鬻ぎて以て衣食に給す、固より其宜(よろしき)なり、古人には僕賃〔人の從僕となり又は傭役をなす〕力作(りよくさく)〔勞働〕する者あり、當時識者以て賤しとなさず、今書生にして升斗(しやうと)の禄なくば、則ち舌耕筆耕〔賣文賣字〕、唯其爲す所、何の不可か之あらん、先生何ぞ獨り之を惡むか、又曰く、純の愚竊に以爲く、先生の功其大なるもの唯二辯のみ、故に二辯は傳へざるべからず、他の諸文の如き其土苴(どしよ)〔糞草〕のみ、之を傳ふる固より可、之を緩くするも亦可、即ち傳へざるも亦可なり、足下若し二辯を校せんか、純不敏と雖も、將に參閲せんとす、純の願なり、今足下遺文を輯むるを以て、子和と純とに委(ゐ)す、子和は則ち可なり、純は則ち不可なり、何となれば■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の門親く顧命〔遺命〕を受けたる者、足下一人なり、他は與からず、若し命を聞かずして、命を奉ずる者に代らば、何を以て先師を敬すとなさん、不可なる所以なり、子和は則ち可なりと謂ふ所以は、先生の悦ぶ所なればなり、純雅(も)〔素〕と先生に知られず、特に二三兄弟の後に從ひて其餘論を聞くのみ、然りと雖も、純敢て先生に畔(そむ)〔叛〕かず、敬(つゝし)んで教を奉じ、以て今に到る、今先生の亡せるを以て、之を欺(*原文ルビ「あざ」は一字脱。)くを欲せず、是を以て敢て足下に謝す、決して諭〔申込を謙言するなり、來示〕を受けず、子遷勉めよや、旄丘(ばうきう)の葛(かつ)〔詩經の典故〕、其節を誕するあり、惟(たゞ)足下良く圖れよ春臺處士を以て終る、然も其志に非ず、蓋し善價(ぜんか)〔高價の買手〕を待ちて竟に沽れざるなり、平田公信に報ずる書に曰く
純甞て人と言ふ、曰く、必ず予をして仕へしめば、則ち二百石以上にして而後可なり、足下と言ふも亦然り、今書中是言を以て、自負太だ過ぐとなす、嗚呼足下亦未だ之を深察せず、詳に之を言はん、夫れ二百石は士の常禄なり、二百石なる能はざれば、則ち出でゝ以て士の事を行ふに足らす(*ママ)、入りては以て祭祀を守り、父母を養ひ、妻子を蓄(やしな)ふ〔養育〕に足らずんば、是れ何を以て士となさんや、所謂二百石以上にして而後可なるもの、士たるの常(じやう)を語るなり、何ぞ重しとなすに足らんや、所謂重禄なるもの、萬に千を取り〔一萬石の諸侯にして一千石の臣たること〕、千に百を取る、之を重禄と謂ふ、純何ぞ敢て之を望まん、曩時(なうじ)木順庵の加賀に仕へ、藤宗恕の越前に仕ふる、皆五百石を以てす、二子誠に先覺〔先輩〕なり、然も余を以て之を觀れば、未だ其畏るべきを見ず、若し夫れ野順清の桑名に仕へ、大高生の松山に仕ふる、皆樸■(木偏+敕:大漢和に無し。)(*■(木偏+漱の旁:そく:柴・いばら:大漢和15435)か。)(ぼくちよく−ママ)〔素朴にして美ならざること〕の材(さい)を以て四百石を食む、是れ何の幸ぞや、其他諸侯國に在りて二百石以上を食む者、抑も何ぞ限らん、之を要するに儒名あつて其實なき者比々皆是なり、然も榮達彼が如きもの、他なし時に遇ふなり、故に純亦未だ二百石を以て富めりとなさず春臺疾(や)む、原芸澤脈を診して曰く、先生遺言(ゐげん)なくば止む、有らば則ち之を言へ、他日疾病言意の如くならざらんと、春臺喜んで曰く、子が才誠に世醫(せいい)の起たざるを視て猶諛(へつ)らふ〔諛は阿にてヘツラフ〕が如きにあらず(*と)、即ち囑するに後事を以てす、觀海行状を作り、南郭墓記を撰す、皆其遺言なり
服元喬、字は子遷、小字は小右衞門、南郭と號し、又芙■(艸冠+渠:きょ・ご:「芙■」で蓮の古名:大漢和31962)館と號す、姓は服部、修めて服氏となす、平安の人
南郭は齢十四にして江戸に來り、十六起ちて柳澤侯に仕ふ、侯三十四にして致仕し、乃ち帷(い)を下(くだ)し〔教授の成語〕て徒に授く、其學之を徂徠に得たり、才氣俊拔、遂に詩文を以て一世に山斗たり、其柳大夫に答ふる書中、略(ほゞ)官を罷(や)むる〔解きヤムル〕所以を陳ず、曰く
昔甞て先侯〔先代の君〕の世、薄技〔小技〕を大藩に奉じ、弄臣の末に侍することを得たり、竊に惟ふ當時先侯の恩、山高く海深く、乃ち喬を責むるに其不能(*原文ルビ「ふたのう」は誤植。)を以てせず、以爲く文史の小は、小人の習ふ所、片長使ふべしと、是を以て啻に罪戻を免るゝのみならず、苟も乏(とぼしき)を承けて〔遜辭(、)人が足らんのでと云ふ意味〕顧問に備はることを獲たり、亦唯臣を知るは君に若くはなし、乃ち先侯愚を憫むの餘(よ)、甞て竊に喬に命じて曰く、予は女(なんぢ)〔汝〕を疵瑕〔キヅ物〕とせず、後の人將に多きを女(なんぢ)に求めんとす、我千秋の後〔死後〕は女其れ行かんか、如かず女をして名を成さしめんには、他日或は四方(*原文ルビ「は」は一字脱。)に適(ゆ)く、我女を知らずと謂ふこと勿れと、喬感泣骨(*原文ルビ「ほし」は誤植。)に刻し、私心自ら誓ふ、幾くもなく先侯世に即く、大藩亦貸恩〔恩を加へらる(*ママ)こと〕多し、尋いで乃ち■(玉偏+決の旁:けつ・けち:帯玉・ゆがけ:大漢和20869)(けつ)を賜ひ〔暇を賜ふの故事〕(*玉の環が無いように、絶縁を暗示する。)、首領(しりやう−ママ)を全くして草野に放たるゝことを得たり南郭人となり風流温藉〔柔和〕(*原文頭注「薀藉」とする。)、藝苑の士雅慕せざる者なし、其來りて束脩を薦むる者甚だ衆(おほ)し、大抵歳に金百五十餘兩を得たり、凡そ儒を以て生理〔生計〕をなし、其饒裕此の如きものは鮮(すくな)し、嘗て莊子を講ず、聽徒寔(まこと)に夥しく、門外市をなす、是時に當り京師の松岡玄達本草(ほんさう−ママ)を講ず、其盛なる南郭に匹(ひつ)す〔對敵す〕と云ふ
五十年前上京ヲ出ツ(*ママ)、今遊猶客中ノ情ヲ作ス、別長クシテ何處ニカ桑梓ヲ尋ネン、祚薄クシテ家ノ弟兄ヲ問フ無シ、山川ヲ認メ得テ夢寐カト疑フ、想來レバ多少自ラ分明、共ニ知ル人寰ノ裏ニ流轉シタルヲ、愧ツ(*ママ)劉郎ノ赤城ニ返ルニ似タルヲ(*五十年前出上京、今遊猶作客中情、別長何處尋桑梓、祚薄無家問弟兄、認得山川疑夢寐、想來多少自分明、共知流轉人寰裏、愧似劉郎返赤城)南郭頗る國風に通ず、嘗て神戸侯浮洲の別業〔別莊〕に遊び、倭歌を賦して興を遣る、歌に曰く
静かなる池の心を水鳥の南郭の父名は元矩(もとのり)、北村季吟に事へて、國風を善くす、故に其遺を承くと云ふ
浮洲の波をたつとしもなし
服元雄、字は仲英、小字は多門、南郭の義子、攝津の人
仲英の父某西宮の祝人なり、甞て主祠の貪汚(たんを)を訴へ、反りて其爪翼(さうよく)〔部下の加擔せる者〕の爲に構誣(かうふ)〔無實の罪を作りて陷るゝこと〕せられ、竟に放逐せられ、流落を以て死す、死に臨んで顧みて仲英に謂つて曰く、吾冤に逢ひて、自ら雪(そゝ)ぐこと能はず、兒時を待ちて状を申(の)べ、鬼(き)〔魂魄〕をして父母の邦に歸ることを得せしめよと、仲英痛心骨を刺し、乃ち江戸に至り、天に■(龠+頁:やく:呼ぶ:大漢和48894)(さけ)〔叫〕びて三たび之を官に鳴らし〔申告〕、事始めて辯ずるを得(う)、遂に父をして祀を西宮の祠中に享けしむるに至る
仲英は南郭が指授を得て、儒雅〔俗流の反對にて高尚なる儒者〕の士となる、已に門を開きて人に教ふ、未だ幾くならず、南郭が丈夫の子皆亡し、季女あり仲英就きて贅(ぜい)〔入壻〕す、仲英の本姓は中西、是に於て服氏を冐す、其子孫今に至るまで世々南郭の故宅に住し、家聲を墜さず、是れ古今希に覯〔見〕る所なり
仲英最も詩を善くす、而して南郭と頗る途を異にす、餘熊耳蹈海集に跋して之を論ず、其略に曰く、蓋し仲英は述作に於て、別に自ら機軸(きぢゆく−ママ)を出(いだ)し、以て一家をなさんと欲す、甞て曰く、苟も我に得るあらば、家風と雖も、必ずしも守らざる所なり、我不肖と雖も、豈に歩趨〔趣向〕自ら施す能はず、徒に人に從ひて周旋し、此(これ)を以て家聲を墜さずとなすに至らんやと、其志以て觀るべし、蓋し仲英は郭翁に館〔寄留〕するに當り、或は以て後となるを難ずるものあり、故に言(*原文ルビ「いへ」は誤植。)及べるなり、余甞て其房を過ぎ、几上に於て端明集あるを見る、亦其文に於ける、漢を必とせず〔必とすは是非夫れに限る〕、詩に於ける唐を必とせず、衆美を集めて以て大を成さんとするものなるを知る、而して退きて其爲(つく)〔作〕る所を觀るに、文漢を必とせずして甞て漢ならずんばあらず、詩唐を必とせずして甞て唐ならずんばあらず、而して二者之を宋に雜(まじ)ゆ、然ども未だ甞て宋に墮ちず〔宋式に流れざるをいふ〕、則ち必ずしも守らざる所と雖も、竟に未だ家風を以てせざるを得ずと
目次一覧へ戻る。 | 戻る。 |
進む。 |
( ) 原文の読み | 〔 〕 原文の注釈 | |
(* ) 私の補注 | ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字 | |
(*ママ)/−ママ 原文の儘 | 〈 〉 その他の括弧書き | |
[ ] 参照書()との異同 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10) ・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25) ・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。 |