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藤煥圖、字は東壁、小字は仁右衞門、東野と號す、下野の人
東野本姓は瀧田氏、幼にして孤となり、江戸に來りて安藤氏に養はる、因りて其姓を冐す、又修めて藤となす、初め中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙に學び、幾くもなく更めて徂徠を師となす、憤激自ら奮ひ、才氣大に發す、是に於て儒を以て柳澤侯に仕へ、年二十九にして官を罷む、侯尚優待して粟を輸(いた)す〔送り與ふ〕と云ふ、徂徠の始めて古文辭を唱ふるや、世の學者舊聞に牽かれ〔拘はり〕、之を信ずる者罕(まれ)なり、東野は縣周南と早く諸子に先ちて之に歸す、而して東野最も肯綮〔緊要の處〕を得たり、徂徠が終に海内に木鐸たるは東野實に之を賛翼す
東野家屡空し〔金■(穀の禾を釆に作る:こく:「穀」の異体字:大漢和27067)の絶無となる〕、甞て書を徂徠に寄せて財を借る、徂徠誤解して其數を違ふ、其書を左に■(手偏+又4つ:てつ・たつ・せつ:拾い集める・抜き取る:大漢和12241)録(てつろく)す、曰く
向(さき)に書舗天中記を齎し至る、曰く九月邇(ちか)きに在り、主人黄白〔金銀〕に渇するの切なる、交金〔金を渡す〕節前にあらば、二圓三方〔圓は小判、方は南鐐角金〕にして易ふることを得ん、若し不能ならば三圓二方にて獲んと請ふ者先に在りと、不佞此物に渇すること久し、唯圓にして方なるもの、其渇すること、猶此の如し、先生其れ或は能く僕の爲に一朝の供を損じ〔酒食を減ずる意〕、其渇を免れしむるや否や、九月は吾能はず、其十月に至らば、必ず能く算帳を了せん、伏して方便を冀(ねが)ふ、千訴(き)萬祝、徂徠の答書に曰く
金を求むるを承(しやう)す、其言周の蝌斗(くわと)〔蝌斗文字の時代〕時の券契者の状の如し、子幸に天王家に生れず、天王ならば則ち必ず春秋(しゆんしう−ママ)に書せん、子が求貸をなす所のもの、蓋し呂にして足らず、■(口×四つ:しゅう・きゅう:かまびすしい・くどい:大漢和3989)(しふ)〔衆口なれど此處には其形を取る〕にして餘あり、品か品か、是亦易々たるのみ、書し訖(おは)〔終〕りて東方朔〔西漢の滑稽家〕舍人が爲す所の隱者を覺ふ(*ママ)、聊(いさゝ)か病牀(びやうじやう−ママ)の一玩に供するのみ、東野又書を送りて曰く
所謂二天三地なるもの、向に既に先生の諾を蒙る、唯先生其方なるものを品とす、僕又隨ひて之を圓にせんと欲す、未だ知らず、能く易々たるや否やを、九十の間廩米(りんまい)目に在り〔俸米の渡る期近しの意〕、伏して冀くは握中の玉をして他人に是れ歸することなからしめんことを、人をして或は僕を智嚢(ちなう)〔此書を讀んで智識を増すの形容〕と稱せしむるもの、實に此物に在り、即ち毳毛(もう\/−ママ)(*「ぜいもう」=むく毛)と雖も、然も亦■(人偏+尚:しょう・とう:たちまち止む・自失・儻し:大漢和774)(もし)くは先生六■(鬲+羽:かく・れき:羽・羽の茎:大漢和28776)(かく)間の物ならん、力新甫〔使者の名〕蠢(しゆん)として〔愚直の意〕信ずるに餘あり、若し付せらるゝを蒙らば、亦僕が親受に等し、徂徠又答書して曰く
嚮に所謂蝌斗時の券状なるもの、予甞て誤り謂(おも)ふ、方なるもの三なりと、足下は則ち之を篆にす、是れ予が月俸の餘を併せて、以て優游歳を卒(おは)る所のもの、何を以て能く足下の需(もとめ)に應(おう)ぜん、然りと雖も、足下は則ち曰く九十の交と、猶是れ外府〔自家の外にある倉庫〕の如し、且つや篆の蝌斗の時を距(さ)る、未だ遠からずとなす、吾過てり、吾過てり、謹んで團々たるもの三を以て、諸を左右に致す東野俊傑不羣、之に加ふるに刻苦淬勵(すいれい−ママ)(*さいれい)〔精を出すこと〕、天性に出づ、其鴻文巨藻既に藝苑に魁(くわい)〔サキガケ、其帥たるなり〕たり、惜しいかな、卒(つひ)に劬悴(くすい)〔衰弱〕を以て、洛血(かくけつ)の疾(やまひ)を致して歿す、年僅かに三十七、世の交はると交はらざるとを問はず、之を惜まざるなし、嗚呼少く之に年を假さ(*原文ルビ「ざ」は誤植。)ば、殆ど量るべからず
獨り悲む東壁四月十三日を以て死す、渠三世大淵獻(えんけん)を以て降り、亦終に之を以て陟(のぼ)〔登〕る、記す渠十年前齢長吉と同じく、殆ど將に心肝を嘔出して以て死せんとす、而して死せず、今遂に心肝を嘔出して死す、豈に白玉樓記〔故事にて天上の樓其成るに因りて文士を召す〕必ず其人を待つ歟、天圖書の府以て久しく虚くすべからざるか、悲しいかな、孀煢々(けい\/)乎として〔獨りにて頼りなき形容〕歸する所なし、渠が親戚孀の■(嚢の冠+石+木:たく:小袋:大漢和15533)(たく)〔財嚢〕を褫(うば)ひて之を裸(ら)にせんとす、余輩力(つと)めて之を爭ひ、迺ち免る、又其戚に塔婆せんと欲す、諸友人匍匐以て之を救ひ、迺ち金を■(糸偏+斗:とう・つ:告げる・黄色の糸:大漢和27267)(きう−ママ)〔集合〕(*糾の誤りか。)して石を買ひ、之が碑を建て、百歳の後儒者の墓なるを知らしむ、渠生平著す所、其稿を留めず、諸友人百方之を求め、謄録卷を成すもの僅に三、且つ其遠きに在るもの悉く集まるを俟ちて而後之を梓(し)〔出板印刷〕し、諸友人が爲る所の碑誌、及び哭詩祭文を彙(あつ)〔輯〕めて、以て其後に附せんとす、庶(ちか)くは以て渠を不朽にするに足らん、足下豈に渠が甲(かふ)を裹(つゝん)で以て送りし時の事を忘れんや、足下渠が詩若くは文を藏せば、則ち之を寫致(*原文ルビ「しよち」は誤植。)せよ、渠が既に散ずるの魂(こん)、庶くは亦來歸せんか、又香國禪師に與ふる書に曰く、
渠平生其親戚の力を得ず、惟不佞に是れ倚る、故に其疾(やまひ)と死とに當りて、不佞の百事皆廢す、是れ久しく留めて師の書に報〔囘答〕ぜざる所以の故なり、蓋し昔者(むかし)師を草堂に享し、樂を張れば、東壁横吹(わうすい)以て之を倡(とな)ふ、詩を賦するか、東壁曼聲以て之を和す、而して師が賜ふ所の金■(匚+口〈偏〉:は:「■羅」=杯の類:大漢和3254)羅(はら)、亦東壁能く三酌以て之を賞す、今は則ち亡し、又下館侯に與ふる書に曰く
十二日不佞往(ゆき)視れば、則ち相顧みて曰く、歳大淵獻(たいゑんけん−ママ)に在り、吾東壁に歸るの期至るなり、世心世肝(せいしんせいかん)〔此世の心肝〕既に已に嘔盡(はきつく)すと、辭氣の壯(さかん)なること甚だし、渠蓋し不佞が爲る所字説中の語を記して爾(し)か云ふ、不佞謂(おも)ふ猶能く戯る、且(しばら)く死せずと、翌日訃〔死の報〕至る、悲しいかな、渠が貧窶は君侯の知る所、君侯の卵(らん)して翼する〔卵翼は保護の意〕は不佞諸人(しよにん)の知る所、然も其貧を免れて死する能はず、貧は固より士の常なり、復た何ぞ傷まん、渠が才の學(*才學か。)を以て、之に假すに年を以てせば、豈に不佞の能く及ぶ所ならんや、天之を貧し之を窶(る)し、又之が年を奪ふ、加ふるに後なき〔嗣なき〕を以てす、何ぞ夫れ毒なるや、不佞亦祝予の歎を免れんや東野歿後二十年、遺稿三卷刻始めて成る、春臺が序に初め本多侯(*本多忠統)將に資を捐て〔寄附〕之を刊せんとす、而して終に事を果たさゞるを陳す、此序春臺文集に載する所のもの、二百七十八字、多く皆侯を刺(そし)る〔毀詆即ち惡口〕なり、蓋し侯將に字印を布いて、一版を爲さんとす、徂徠が侯に呈するの書に曰く、承(しやう)す活字頗る成ると、東壁將に不朽ならんとす、且つ之(この)子鬚(ひげ)〔假名〕なし、豈に字に鬚あらしむべけんやと
山縣孝孺、字は次公、小字は少助、周南と號す、周防の人、國侯に仕ふ
周南の父長白、字は子成、長門に官し、職帥儒〔儒者の頭〕に居る、周南が家聲を墜さゞるを欲し、携へて江戸に至り、徂徠に托して業を受けしむ、時に周南年甫め十九、英特にして才氣を負ひ、已に家庭に學び、大義に通ず、徂徠に見(*原文ルビ「ま」は一字脱。)ゆるに及び、孜々として更に他念なく、學日に益進む、是時徂徠業未だ大に振はず、而して周南東野早く其門に登り、迭(たがひ)〔交互〕に羽翼をなす、是を以て徂徠が大家となるに及び、二子を待つもの〔待遇〕羣弟子〔他の衆門弟〕に異なりと云ふ
正徳辛卯、朝鮮の信使、途長州を歴て赤間關に舘(*原文ルビ「くつん」は誤植。)す、周南乃ち君命を奉じて、之に接對す、筆談唱酬、信使其雋才〔俊秀の才〕に驚く、雨伯陽甞て稱して海西無双(ぶさう−ママ)となす、徂徠の書に曰く、夫れ雨生は以て足下を輕重(けいぢゆう)するに足らず、然りと雖も海西なるもの筑以南を包して之を言ふなり、之を無双といふもの之と與に京(ひとし)〔齊〕くする者なきなり、盛なるかな言や、足下に非ずんば以て之に當るに足らず、吾始め以爲く、海内唯足下と東壁とのみと、今にして又雨生ありと
周南は南郭より少きこと四歳、文章及ばずと雖も、亦自ら不朽なるに足る、然るに■(陷の旁+欠:かん・たん:あきたらない:大漢和16111)然(かんぜん)〔滿足せざる貌〕自ら足れりとせず、病中尚書を南郭に寄せて曰く、今疾年を踰えて愈(い)えず、■(山+及:きゅう・ぎゅう:山が高いさま・危うい・不安・急・盛ん:大漢和7929)々乎(きう\/こ)として傾く者必ず覆へる〔倒〕、幾(ほとん)と(*ママ)起たず、余文辭に於て喩(さと)る所なき、老兄の熟知(*原文ルビ「じゆくし」は誤植。)する所、諸友門人梓して傳へんと欲すれども、拒んで允さず、數々請ひ數々拒むもの、今に數年所、余死せば彼必ず其意を行はん、其意を行ふには必ず諸を老兄に圖らん、請ふ足下を勞せん、我が爲に蕪〔雜草の如き字句〕を刈り■(艸冠+弗:ふつ・ほつ・ひ・はい・ひつ:草が繁って道をふさぐ:大漢和30831)(ふつ)〔邪魔にて佳ならざるもの〕を除(のそ−ママ)き、略(ほゞ)繩墨を存し、同社の詬(そしり)を貽(のこ)すなくば幸甚しと
徂徠の古人に於ける、■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃(ばいげき)〔攻撃〕詆訶〔誹謗〕、餘力を遺さず、其徒口■(肉月+勿+口:ふん・ぶん:ぴったり合う・吻合する:大漢和29498)(ふん)〔口吻−ママ〕を承襲し浸(や)や厚道(こうだう)を失ふ、獨り周南は温良馴雅〔典麗〕、其持論稍や平(たひらか)なり、吉齋漫録の後に書して曰く、向者(さきに)東都に在り、或は言者あり、仁齋先生の學を唱ふる、本と帳中の書あり、諸弟子輩與り見ることを得ず、曰く吉齋漫録、曰く甕記、曰く■(木偏+賣:とく:櫃:大漢和15821)〔ヒツにて入物〕記なりと、余甚だ信ぜず、既にして漫録を見ることを得たり、其言鑿々味(あぢはひ)あり、所謂理氣性命、宋學の誤謬(ごびやう−ママ)、擧(み)な既に發揮す、實に先づ我口の嗜(たしな)む所を得たる者なり、夫れ述べて作らずば君子の道なり、仁齋何ぞ玉を竊(ぬす)み■(木偏+賣:とく:櫃:大漢和15821)(とく)を還(かへ)すの陋あらんや、苟も是れ之を述ぶ、惡ぞ其書を一言援及(えんきう)せ〔出處を擧示す〕ずして、而して自ら古處する者あらんや、顧(おも)ふに其書既に成りて後適ま之を見るか、或は不幸にして終身見ざるものあらん、皆知るべからず、之を以て仁齋を刺(そし)るは誣(ふ)なり
■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)苑の徒、春臺獨り禮法を以て自ら任ず、且つ其賦性〔資性〕の嚴(けん−ママ)にして、辯論の勁なる〔ツヨキ〕、縦ひ疑(うたご)ふ所あるも、其徒敢て議せず、而して周南獨り能く之に忠告す、其書に曰く、日者(このごろ)子遷の所に於て、老兄が鎌倉紀行を見ることを得たり、記載該博、文辭豊縟(ほうじよく)〔富贍〕、當今の時麟の角(つの)〔第一等にして類なきの意〕なるかな、其中(ちう−ママ)疑ふべきものあり、皇某皇某者とは、是れ何の言ぞや、老兄は一代の名儒、社中の巨擘にして、世の矜式する〔標準とす〕所なり、言は則ち法となり、駟も舌に及ばず、弟甞て謂(おも)ふ、大東の宇宙に超ゆるもの三、開國以來一姓君となるは、載籍の記せざる所なり、周二分(ぶん)を有し〔天下の半を有し〕て人に服す、稱して至徳となす、今や天下を有して臣位(ゐ)を去らず、秦人(じん)封建を壞(やぶ)り、刑名〔刑律〕以て治む、堂々たる中國、今に三千年復た復する能はず、今の封建は周人(じん)よりも密なり、而して仁海隅に浹(あまね)く、漢以來聞かざる所、此三者實に宇宙に超ゆ、名教吾輩に存す、老兄の爲に之を言はざるを得ず、如何ん、如何ん
甞て林祭酒(さいし−ママ)〔大學頭〕を師とす、此事行状及び墓記に見えず、獨り金華が贈序(そうじよ−ママ)之を詳にす、曰く
長侯林子の學を慕ふ、而して公侯の貴、出入度あり、其家に朝夕し、躬(み)親(みづか)ら業を肆(なら)〔習〕ふこと能はず、將に次公をして弟子の列に就き、受けて之を傳へしめんとす、次公肯(かへ−ママ)んぜず、慨然歎じて曰く、物先生在り、其れ唯我を成す、奈何ぞ人の■(耒+憂:ゆう・う:種子を蒔いて土を被せる:大漢和28993)■(金偏+且:そ・しょ:鋤・鍬・耕す:大漢和40297)(じやうそ)〔耕具〕を借り、既にして大穣し〔稻作の豊〕、富天に在りと謂ひ、擲棄(てきき)顧みずして可ならんや、而も人各見る所あり、苟も其見る所にして爲さば、何ぞ其れ眷々故(こ)を憂ひて已まざらん、狐裘(こきう)にして羔袖(ようしう)〔狐裘羔袖は高價の衣に賤價の袖〕、瑕(か)にして害あらずとし、終薄する所を知るなく、首鼠以て壟斷の望(のぞみ)をなさんや、熱を執りて之を濯ひ、一朝にして豹變し、同盟を絶ち載書を焚(や)き、名を他の師に更(*原文ルビ「かへ」は衍字あり。)へ、青雲〔富貴〕自ら致さゞることなし、人或は特操なしと謂ひ、目(*原文ルビ「み」は誤植。)を側(そばだ)てゝ視、惡聲道路に載(み)〔滿〕つるも辭せざる所なり、若し其可とする所を可とせば、君命も聽かざる所なり、涅(*原文「土」を「工」に作る。俗字。)(でつ)すれども緇(し)せず、正を得斃(たほ−ママ)れて斯(こゝ)に已まん、或は其れ親を負うて逃れ、海濱に遵(したが)ひて處し、版築〔土方の賤役〕屠鈞(とちやう−ママ)、猶ほ奴婢自ら侮り、跪起子性の如く、百役(えき)是れ奉ぜざるなく、嗟來〔無禮の食〕にして飽き、夏畦(かけい)〔諂諛の故事〕以て安んじ、身を沒して爲すなき者に愈(まさ)らずや、則ち之を物先生に謀る、先生曰く、嗚呼君なきの國あらば可なり、而して父母の在るあり、區々の節、己を潔くして名に近かば、大義(だいぎ)を奈何せん、君子豈に匹夫(ひつふ−ママ)〔賤丈夫〕匹婦(ひつふ−ママ)の諒(まこと)を以て爲さんや、父母の在るあり、君なきの國あらば可なりと、次公愕然且つ懼れ且つ泣き、遂に君命を奉ずと云ふ紫芝園漫筆に曰く、古人の絶句、耳に入りて能く人をして誦をなさしむるものあり、宋延清■(亡+邑:ぼう・もう:地名〈北■山〉:大漢和39282)山、賀季眞回郷偶書の如き是なり、物先生君彝が凾嶺に遊ぶを送る詩に曰く
昨日晁郎藥ヲ採リテ還リ、井郎今日又山ニ遊ブ、山中ノ芝草知ヌ長短、玉笥流雲重攀スベシ(*昨日晁郎採藥還、井郎今日又遊山、山中芝草知長短、玉笥流雲可重攀)近日次公子和が參州に之くを送るに曰く
唱ルヲ休ヨ陽關三疊ノ詞、陽關三疊悲ニ勝エズ、君ヲ送ル多馬河邊ノ柳、折リテ南枝ヨリ北枝ニ至ル(*休唱陽關三疊詞、陽關三疊不勝悲、送君多馬河邊柳、折自南枝至北枝)亦皆誦をなし易し
平玄中、字は子和、小字は源右衞門、金華と號す、私に文莊と謚す、姓は平野、修めて平氏となす、陸奥の人、守山侯に仕ふ
金華は器宇雄偉、才鋒儕輩に出づ、徂徠に學び、修辭に閑(なら)〔熟〕ふ、家素と貧窶にして書を聚むること能はず、架上〔書棚〕惟左傳、禮記、莊子、通鑑の撮抄數卷あるのみ、其將に文を屬せんとするや、必ず先づ之を見るもの數遍、而後筆を下す
少くして曠達〔豪放(、)小節に拘はらぬこと〕一世を侮弄す〔馬鹿にすること〕、官に服し尚縦任(じゆうにん)拘はらず、侯の家甞て令を布きて曰く、佳節君に見(まみ)ゆる者、宜く新衣を用ふべし、垢衣を禁ずと、而して金華其妻の衣を着して出づ、吏尤(とが)めて曰く、前(さき)に布く所の令は要君を敬するに在るのみ、然るに子は男女衣裳を同くす(、)是れ何の禮ぞや、金華從容として〔悠然迫らざる貌〕曰く、薄禄の小臣、家貧にして新衣を給する能はず、而して令犯すべからず、幸に荊婦〔妻の謙稱〕一衣の稍や華なるあり、以て罪戻を免るゝことを得たりと、事侯に聞ゆ、即日禄數石を加賜せらる
甞て徂徠と同じく墨多河に泛(うか)ぶ、問うて曰く、吉原の娼家は知らず東か西かと、徂徠東方を指示して曰く、江上に長堤あり、日本堤と名く、所謂吉原の妓樓其堤下に在り、金華笑つて曰く、先生の妄言(ばうげん)惟(こゝ)に文字の上のみならず、地理に於ても亦能く妄言す
金華一妾一僕あり、妾の名は月小夜(つきさよ)、僕の名は染之助、又猫を愛する甚しとなす、其蓄(やしな)ふ所、蕃息〔繁殖〕して十八頭に至る
紫芝園漫筆に載す、一日余子和と語天文(てんぶん−ママ)に及ぶ、子和曰く、吾星を知らず、唯北斗と明星(めいせい−ママ)とを知るのみ、余曰く北斗眞に子之を識るか、其所謂明星なるもの、果して是れ太白なるか、是れ歳星(さいせい)を以て、明星となすなからんや、子和笑つて曰く、吾眞の明星を識らずと
金華の書を春臺に與ふる、毎に自ら老と稱す、春臺以て非禮となし、數書を贈りて之を責む、而して金華改めず、春臺の書に曰く
足下純に書牘を與ふる毎に、自ら愚老と稱す、老は尊稱なり、故に先生長者(ちやうしや)を呼んで老と曰ふは禮なり、若し自ら稱して老と曰ふは齒〔齢〕を以て人に高ぶる倨傲〔高慢〕の辭なり、故に門人小子に與へて言ふには、或は時に之を以て自ら稱するのみ、其朋友に於ては、己が年彼より長ずと雖も、然も尚自ら稱して弟と曰ふは禮なり、先賢の行ふ所見るべし、純不才と雖も、未だ質(ち)を足下に委せず〔質を委すは弟子となること〕、且つ犬馬の年、亦足下の先に在り、足下の純と言ふ、宜く自ら稱して老と曰ふべからず、純に於て尚可なり、若し他人に與ふる此の如くならば、必ず將に足下は禮を知らずと謂はん、純竊に足下の爲に恥づ南郭が送序に曰く、甞て相與に東山に登り、遠望數十里、邑屋臺■(木偏+射:しゃ:うてな〈屋舎〉・廟・殿・道場:大漢和15272)(ゆうをくだいしや)相屬す、而して子和之に臨み、飄然として心既に一世(せい)を蔑視す〔輕んずるなり〕、乃ち顧みて余に謂つて曰く、寥々〔名の聞ゆる人物少しとなり〕聞ゆるなきかな、我をして頓に自愛の念を生ぜしむと、其大言自ら稱する、率ね此類なり
又曰く、抑も足下は純を以て、無稽の言〔根據なき妄言〕を出して、以て足下を欺くとなすか、請ふ復た之を言はん、禮に恒言には老と稱せず、鄭康成以て敬を廣むとなす、夫れ老と稱せざるを以て敬を廣むとなす、老と稱するを不敬となす知るべし、古者(いにしへ)大夫七十にして事を致す〔退隱〕、若し謝を得ずんば、則ち必ず之に几杖(きじやう)を賜ひ、行役(かうえき)婦人を以てし、四方に適(ゆ)〔行〕くには安車に乘り、自ら稱して老夫と曰ふ、然らば則ち古時大夫年未だ七十ならざれば、且つ猶老と稱するを得ず、況んや其下なるものをや、今足下未だ始衰〔四十〕に及ばず、而して自ら老と曰ふ、豈に太だ早からずや、純が見る所此の如し、是を以て前書(せんしよ−ママ)あり、足下若し然らずとなさば、則ち盍ぞ答書以て辯ぜざる、純不敏〔不才と同じく謙辭〕と雖も、將に拜して教を受けんとす、今足下然らず、特に謝一聲を致すのみ、則ち其悦ばざるや明けし、純其罪を知らず、故に茲に復た請ふ、足下若し我は仲尼の徒〔孔子の弟子〕に非ず、何ぞ禮法を以て爲んと曰はゞ、純が知る所に非ず
鳴鳳卿、一の名は信遍、字は歸徳、又字は子陽、成島氏、成と鳴とは倭讀同じ、故に假修して鳴氏となす、道筑と稱し、錦江と號す、又芙蓉山人と號す、陸奥の人、大府に仕ふ
錦江本姓は平井氏、陸奥の白河に生る、幼にして江戸に來り、十七歳にして成島道雪といふ者の嗣(つぎ)となる、性學を好み、徂徠の説を悦び、乃ち其徒と周旋〔交際往來の謂〕す、一時著稱あり、成島氏大府に仕へて坊主〔殿中の使令に供する者〕たり、錦江其職を襲ふ、元文二年同朋の班に晋(すゝ)む、其人となりに至りては、即ち南郭の贈序(そうじよ−ママ)あり、以て其概(ぐわい)を想ふに足る、曰く
歸徳は朔北の産、人となり弘毅、節概を尚ぶ、而して又■(人偏+周:てき・ちゃく・ちょう:拘束されない:大漢和778)儻(てきたう)〔不覊にして磊落〕恢廓(くわいかく)〔豁(*原文頭注「谿」は誤植。)達にして胸の廣きこと〕の士と親善なり、侠少年〔任侠の少年男氣ある者〕の邑屠に居る者と雖も、苟も義氣あり、若くは才能ある者ならば、必ず撫して之を愛し、用ひて以て其力を盡くさしむ、躬亦專ら公に奉ずるを以て志を立つ、人の善言を聞き、若くは奇策ある者を見れば、身を傾けて之を引薦し、唯後れんことを恐る、以て國家の用に供せんことを冀(ねが)ふなり、前後此に由りて良吏(*原文ルビ「りやうう」は誤植。)となり績を効(いた)〔致〕せるあり、歸徳恒に言ふ、世の學を好む、談玄餘ありと雖も、何ぞ我縣官の務(つとめ)に益あらんや、尚(ひさ)〔久〕しいかな古聖人の治、今豈に猶以て行ふべからざるものとなさんやと、誠に其言に味(あぢはひ)あり、奇策良吏の才ある者之を聞き、時に試みて施し行ひ、頗る効ありと云ふ、是れ歸徳の餘事なり、歸徳既に自ら勤力を竭(つ)くす〔精勵なること〕を以て達〔立身〕す、亦盛世の明識する所なりと雖も、其忠誠公に奉ずるにあらずんば、何を以て茲に至らんや、則ち士は以て弘毅ならずんばあるべからざるものか錦江享保の間に方り、禮記明律を侍講し、寵遇日に厚く、十三經、二十一史を賜ふ、其餘恩賜の書甚だ多し、自ら芙蓉樓の記を作りて曰く、辛亥の冬、余一小樓を江上に架(が−ママ)し、之に顔(ぐわん)して〔題すること〕芙蓉と曰ひ、以て藏書の所となす、芙蓉の名何(いづれ)にか取る、諸を芙蓉軒に當るに取るなり、芙蓉は相距(さ)る三百餘里、而して坐して三峰の雪を■(手偏+邑:ゆう:組む〈=揖〉・取る・抑える・推重する〈すすめる〉:大漢和12105)(いふ)する〔揖にて拱して對禮す〕もの(、)其高く且つ秀づればなり、樓何に由りて起る、蓋し家に賜書千餘卷あり、帷房側■(三水+福の旁:ひょく・ひき:浴室・湯殿:大漢和17853)〔穢氣ある處〕の地に辱められんこと(*原文「こと」は連綿体を使う。)を恐る、此れ樓の起る所以なり(、)錦江又倭歌を善くす、冷泉公より傳ふ、其集の名を「みよの波」と云ふ、三代波(は)の意なり、蓋し冷泉家三代の點定〔刪正〕を歴たるが故に名くと云ふ
思へども人のわざには限りあり
力を添へよあめつちの神
すぐなるを守ると聞けば何事も此二首甞て自書して、信濃飯田の人某に與ふ、偶ま狐の爲に憑(よ)ら〔ツク〕るゝものあり、三年去らず、某乃ち此歌を誦したれば、狐即ち去る、此狐後又江戸本所石原の商家の女に憑り、自ら甚だ錦江の歌を畏ると陳す
神にまかする身こそ安けれ
岡白駒、字は千里、小字は太仲、龍洲と號す、播磨の人、蓮池侯に仕ふ
龍洲少時播磨より攝津に徙り、醫を以て業となす、京に徙るに及び(、)業を改めて儒となり、晩年蓮池侯の徴(ちやう)〔召〕に應(おう)じ、文教を掌(つかさど)る、其志經を治むる〔經書を研究す〕に在り、頗る文章を善くす、又小説俗解に通じ、名聲一時に藉甚(せきじん)たり、蛻巖が答書に曰く、足下は關西の古學、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)苑を待たずして興る者、時賢に比すれば、臭味〔流風〕自ら別なり、問(*原文ルビ「こ」は誤植。)はずして其肯て苟も交はらざるを知ると、又赤松國鸞が劉文翼に與ふる書に曰く、平安の文學に於ける、其由來尚(ひさ)し、然も今を以て之を觀れば、東都の盛(さかん)に及ばざること遠き甚し、乃ち名下果して虚士なし〔名ある地には有力の士ありの意〕と稱するに足るもの、唯岡千里一人のみ、其他は彭々(ばう\/)■(人偏+鹿+烈火:ひょう:行く:大漢和1257)々(*原文ルビ「ろく\/」は誤り。)(*行くさま・禽獣や人の多いさま・盛ん)、要するに亦春秋に義戰なし
龍洲甞て書商を過ぎ、新鐫(しんしゆん)の春臺が増註孔子家語を見、即ち以爲く我更に註を作つて以て之を壓倒せんと、乃ち商に謂つて曰く、徳夫其學固(も)と淺し、今此註を見るに、果して舛謬(ぐわいびやう−ママ)〔錯誤〕多し、吾甞て註解をなし、將に世の爲に梓を■(金偏+浸の旁:しん・せん:刻む・彫る:大漢和40474)(しん)(*■木=印刷)せんとすと、既に歸りて始めて筆を秉〔執〕り、補註を作る
南郭が校刻する所の蒙求、當時盛に世に行はる、龍洲箋註を作り、以て南郭を壓せんとす、其例言に南郭の校本を詆(そし)りて曰く、舊本は誤謬(ごびやう−ママ)多し、近歳の刻本改正と稱す、而して十纔(わづか)に一二のみ、又曰く、蒙求纂する〔アツムル〕所、正史の外に出づるものあり、謝承が後漢書、王隱が晉書の如き、其事多く世説劉義慶が註に見ゆ、新刻(しんこくほん−ママ)(*一字脱あるか。)は世説の註に據り、舊本の文を刪落す〔ケヅル〕、殊に知らず世説は風旨を片言隻語に取る、故に引證する所も亦其要を■(手偏+又4つ:てつ・たつ・せつ:拾い集める・抜き取る:大漢和12241)(ひら−ママ)ひ〔拾取〕、其事を簡省(かんせい)す、蒙求は則ち事實の詳なるを主となし、李良が所謂註下敷演する〔ノベヒロゲル〕もの即ち是のみ、豈に刪落す可けんや、今舊本に仍(よ)りて之を補ひ、以て其舊に復す、又曰く、新刻本の考例に曰く、文献通考藝文の部に蒙求三卷を載す、文献通考を按ずるに、藝文の部なし、經藝考小學の部に蒙求を載す、是れ目未だ其書を睹ずして、杜撰引證するなり、其考ふる所亦知る可きのみと
龍洲著書甚だ多し、詩經毛傳補義は詩を治むるもの以て便となす、近時繩温卿之を稱して曰く、龍洲が著述中に就き最も善となすと、孟子解は男子龍孟子を駁(ばく)するの言を録して序となす、又其解中■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃餘力を遺さず〔全力を盡して餘なきの意〕、此れ解にして刺を兼ぬる者なり、左傳、荀子、史記、世説四部の鐫(しん−ママ)。(*ママ)謬妄(びやうばう−ママ)臆説多し、世乃ち白駒が四孤石栗と謂ふ、四の音は失(し)、■(角+雋:けい:くじり・解釈・ウミガメ:大漢和35184)は此に孤石栗(くじり)と譯す、俗に過失を謂つて失孤石栗(しくじり)となす
龍洲性褊急(へんきう)〔偏屈にして短氣〕にして、其使令を受くる者、毎に堪へざらんとす、獨り門人加島宗叔なるもの、能く龍洲の意を得たり、龍洲亦能く己を折りて〔意を抂け(*ママ)てなり〕宗叔が言を用ふ、是を以て家人動もすれば宗叔に詣(いた)りて請ふ
吾祖の過庭記談に曰く、僧其道を修め、又詩文若くは書畫諸技藝を爲す、之を書して禪餘の暇某々の事をなすと曰ふ、是れ禪寂澄心(ぜんしくちやうしん−ママ)即ち禪なり、其禪の外經論を究むるを以て餘となす、故に禪餘の暇は禪と餘との二者の暇なり(、)京師の一先生釋大潮が西溟餘稿に序して曰く、禪の餘暇、深く此文を嗜(たし−ママ)むと、此れ禪餘の餘を以て餘暇となすなり、一■(口偏+據の旁:きゃく・がく:大いに笑う声・顎・舌:大漢和4403)〔笑〕を發すべしと、所謂一先生とは龍洲を謂ふなり
熙朝文苑に龍洲の蘭皐君が寄せらるゝに酬ゆる詩二首を載す、此外絶えて其詩を睹ず、因りて茲に表出す、曰く
車ヲ驅リテ東路ニ向フ、東路遠ク且ツ長シ、悲風何ソ(*ママ)蕭々タル、颯トシテ(*「シテ」は略字を使う。)我衣裳ヲ吹イ(*ママ)、轡ヲ攬リテ正ニ徘徊ス、衣(*ヲ)披キテ高岡ニ登ル、中原佳人有リ、意思凡常ナラズ、琴(*ヲ)鳴シテ(*「シテ」は略字を使う。)白雪飛ヒ(*ママ)、笙ヲ吹キテ青雲翔ル、大雅久シク聞カズ、逸響初メテ飄揚ス、此會再ビ遇ヒ難シ、離別天ノ一方、遊子佳人ヲ懷フ、何ヲ以テ我傷ヲ慰メン、恨々トシテ(*「シテ」は略字を使う。)長ク歎息ス、車輪中膓ヲ轉ス(*ママ)、願クハ雙羽翼ヲ得テ、高ク飛ヒ(*ママ)テ君ノ傍ニ在ラン。(*ママ)(*驅車向東路、東路遠且長、悲風何蕭々、颯吹我衣裳、攬轡正徘徊、披衣登高岡、中原有佳人、意思不凡常、鳴琴白雪飛、吹笙青雲翔、大雅久不聞、逸響初飄揚、此會難再遇、離別天一方、遊子懷佳人、何以慰我傷、恨々長歎息、車輪轉中膓、願得雙羽翼、高飛在君傍。)
扁舟曾テ興ヲ兼ス、五■(火偏+韋:い・き:盛んに、明らかなさま・赤い・光る:大漢和19189)秦城ヲ照ス、沈醉シテ(*「シテ」は略字を使う。)黄金盡キ、狂歌シテ(*「シテ」は略字を使う。)白雪清シ、文章落魄ヲ憐ム、詞賦豪英ヲ論ズ、海内誰カ畏友ゾ、中原名ヲ數ルニ堪タリ(*扁舟曾兼興、五■照秦城、沈醉黄金盡、狂歌白雪清、文章憐落魄、詞賦論豪英、海内誰畏友、中原堪數名)日本詩史の龍洲に於ける、頗る之を貶駁(へんはく−ママ)す、然も亦其豪爽にして人の籬下に立た〔人に依頼して其蔭に立つ〕ざるを表(へう)す、具論〔備はれる論〕となすに似たり、乃ち左に記す、曰く
千里初め攝の西宮に在り、醫を以て業となす、一旦刀圭〔醫術の器具〕を投じて京師に來り、專ら儒を以て行(おこなは)る、是時京師既に傳奇〔稗史〕(*原文頭注「僧奇」は誤植。)小説を悦ぶ者あり、千里兼ねて其説を唱ふ、都下群然之を傳ふ、其名一時に噪ぐ、千里是に於て復た詩を作らず、人或は詩を乞へば、則ち辭するに不能を以てす、是に於て人々謂ふ千里は文にして詩ならずと、其實は非なり、余千里が播攝に在る時の作を覽るに、亦自ら當に行るべし、爾(しか)く云ふ所以のもの説あるなり、千里は名に急にして〔名を求むること急なり〕、又人に勝つことを好む、是時東都に服子遷あり、赤石に梁景鸞あり、南紀に祇伯玉あり、詩名海内に聞ゆ、千里自ら量るに此數子と並(ならび)馳せ難し、而して世方(まさ)に復古(ふくこ)の業を勤む、左國史漢〔左傳國語史記漢書〕人々之を誦す、其訓詁に託するも亦不朽なるに足る〔註釋する丈けにても名聲を後世に傳ふるに足るとなり〕と、故に詩を廢して專意諸■(角+雋:けい:くじり・解釈・ウミガメ:大漢和35184)(しゆん)を作り、以て其名を網羅す、既にして後人の文士を以て、己を觀んことを恐る、則ち詩書論孟を傳註し、以て其名を崇(たか)うす(、)然も已に名に急にして、又人に勝つことを好む、故に其論説する所引證精しからず、且つ臆見〔私見獨斷〕を以て疑義を勇斷し、或は他人の説を勦襲(さうしう)〔剽竊〕し、以て其著作となす、快を一時に取ると雖も、識者の指摘を免れ難し、余千里が爲めに深く之を惜むと云ふ
餘承裕、字は綽子、大内氏、小字は忠太夫、熊耳と號す、陸奥の人、唐津侯に仕ふ
熊耳陸奥の三春熊耳村に生る、兒たる時より學を嗜(たし−ママ)み、年十七、笈を負うて江戸に來り、秋子師に就きて業を問ふ〔學ぶ〕、乃ち子師を介して徂徠に謁す、既にして京に到り、東涯に見(まみ)え、遂に長崎に赴き留まつて講業す、是時始めて李蒼溟集を見て大に喜び、即ち自ら全部を謄寫し、日に以て讀誦す、居る十年、去りて復た江戸に來り、淺草に教授す、是に於て名聲藉甚(せきじん)、業を問ふ者日に其門に踵(いた)〔至〕る、何くもなく召されて唐津侯の文學〔御儒者〕となる
熊耳の俗事に於ける、一切姓大内を稱し、文に臨むに及び、則ち餘を稱す、自ら言ふ、其先(さき)百濟明帝の太子餘琳より出づ、故に餘を以て本姓となす、竹雨齋といふ者あり、亦餘姓なり、榊原玄輔其墓に記して曰く、按ずるに馬韓國、餘璋王の太子琳聖、海(かい)に航して歸化す、推古天皇周防多々良(たゝら)に館せしむ、琳聖七世の孫正恒と曰ふ、姓多々良を賜ひ、大内と號す、其後子孫大内を以て氏(し)とす、餘璋王の事東涯が秉燭談(*原文ルビ「ざん」は誤植。)に載す、其説に曰く、日本紀に所謂餘豊璋は、唐書に扶餘豊と曰ふ、此れ璋は其祖武王の名、扶餘は百濟の氏(し)なり、今世以て百濟餘璋王となすものは誤れり、知らず餘姓を稱する者、未だ之を攷(かんが)〔考〕ふるに及ばざるか、將(は)た或は修めて餘となすかを
熊耳は徂徠の學を慕ひ、最も巧に古文辭を修む、時人以て當今の于鱗となす、南郭屡稱して曰く、熊耳の文章に於ける、滄溟に刻意す〔骨を折る〕、故に殆ど之に肖(に)たり、方今筆を秉りて李に擬する者甚だ衆し、而して皆及ぶ能はざるなり(*と)
熊耳の南郭に於ける、贄(し)を執らずと雖も、毎に其誨督〔教授と督課〕を承け、文章は尤も南郭の刪潤(さんじゆん−ママ)〔斧正〕を得て長進す、故に其集中南郭に於ては、必ず之を推尊し、先生を以て之を稱す
藤原明遠、字は深藏、中村氏、蘭林と號し、又盈進齋と號す、江戸の人、大府に仕ふ
蘭林初め玄春と稱し、父玄悦を承けて醫官となる、能く其業を修め、著す所醫方綱記三卷あり、博學にして窺はざる所なし、延享四年正月十九日醫を改めて儒員に擢(ぬきんで)らる、時に年五十一、葢し國初〔徳川幕府の初〕以降醫よりして職を轉ぜるは、蘭林一人なりと云ふ、鳴歸徳が芙蓉集に蘭林が儒官たるを賀するの序あり曰く、滕先生、疇(さき)の官は方技〔醫術〕にして、死を起し、骨に肉す、聲東方に振ふ、最も經術文章を喜ぶ、一旦匙を釋てゝ歎じて曰く、士君子の世を濟(すく)ふ、奚ぞ翅(だゞ−ママ)〔啻〕に草根樹皮(じひ−ママ)〔藥劑〕のみならんや、嗚呼軒岐は■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遙か:大漢和39198)(ばく)たり〔太古にて不明〕、扁倉は古し、肘後(ちうご)の載籍、叔世(しゆくせ)滋(ます\/)博く、汎乎として要寡し、若し乃ち大人を合同し、及び物を知るの明、安くに適くとして今の世に施さんや、生命も亦大なり、一たび失ひて肱(ひぢ)を折らば〔療治を誤る〕、駟も亦及ばず、已(や)んなん、已んなん、是に於てか復た醫藥に從事せず、藥籠を網にし、上言して儒官たらんと請ふ、報ぜられず、居る數年、入りて侍醫を以て經筵の事を行ふ〔講釋す〕、特恩なりと雖も、其志にあらず、丁卯春正月、定めて侍講に降爵〔官位の下ること〕し、束髪衣冠、禮に從事す、是に於てか先生の喜知るべし
蘭林の書を讀む、力を極めて撮抄〔抄録にて拔書〕す、其著す所多くは抄を積んで編をなす者なり、而して皆統記體裁あり、學山録の如き、尤も常儒の及ぶ所にあらず、識者稱して唐土の人に愧ぢずとなす
蘭林は鳩巣の門に出で、博學精密、世以て寒水青藍〔水より出でゝ水より寒く藍より出でゝ藍より青し〕となす、蘭林は宋學を奉ずる者なりと雖も、鳩巣の宋説に於けるが如きに非らざるは疑を容れず、寛延元年韓使來聘す、蘭林之と筆語し、朱子を議する者甚だ多し、彼れ足下の論、伊藤氏の爲めに誤らるゝなからん乎、伊藤氏の貴邦に於ける、豪傑の士と謂ふべし、而して聖學の工夫に於て大に謬戻(びやうれい−ママ)あり、足下果して之を知るかと謂ふに至る、其朱子を議する略に曰く
朱子の諸經傳註、亦最も精密を究め、復た餘蘊(よをん−ママ)〔餘る所の蘊蓄〕なしと雖も、然も或は言古訓に違(ちが)ひ、義古意を失ふもの、未だ必ずしも無しとせず(、)大抵性命道徳の間に於て、諸を高遠に失ふ〔解釋高過ぎ遠過ぐるとの意〕(*原文頭注「高違」は誤植。)者あり、是を以て僕朱子の解に於て、亦間然なき能はず、又曰く、僕竊に謂ふ、凡そ古書を讀む、須く其時の言辭に通ずべし、蓋し三代の書は三代の言辭氣象あり、漢魏の書は漢魏の言辭氣象あり、苟も其然る所以を知らずんば、説き得て當ると雖も、或は其言意に畔(そむ)〔反〕くものあり、今姑く歴史を以て之を言へば、兩漢史の言ふ所は、六國史と同じからず、六國史の言ふ所、亦唐宋史と同じからず、蓋し言辭の道は時と升降(しやうかう)〔上下〕す、其一ならざるものある、亦自然の勢(いきほひ)なり、但宋儒毎々近言を以て古言を解し、今意(こんい)を以て古意を解す、是を以て古意に非ざるもの或はあり、今明徳の一事を以て之を言はんに、朱子の大學に於ける、心の虚靈不昧〔渾沌たる状態〕を以て之を説く、其意精妙ならざるに非ず、然りと雖も諸を古書に證するに、此例なきに似たり、夫れ明徳の一語、尚書、易、左傳等、毎々之を言ふ、而して皆聖人の道徳、光輝發越〔光のかゞやくこと〕以て物に施す〔人に對するにて外部の作用なりとの意〕者となし、未だ甞て心の妙用を以て之を説かず、豈に大學の一書のみ、惟(ひと)り別に此意あらんやと、更に宋儒の説體論、讀朱註論、中庸論を作り、以て韓使に詰問す、其他學山録、講習餘筆等、往々宋儒に信ずべからざるものあるを載す蘭林は一意學に酖(ふけ)り、胸中更に世務なし、書を讀まざる者に對すれば、則ち唯寒暄〔時候の挨拶〕を叙するのみ、絶えて他話なし、故を以て世謂つて癡呆〔愚物〕となす
漢魏叢書、玉海、杜氏通典、明文翼運、呉臨川集、名山藏詳節、唐文粹、皇朝類苑、自警編、餘冬序録、呂氏春秋、後山叢談、東國史略、石林燕語、周禮訓雋、讀書管見、經籍會通、六經奥論、千百年眼、江關筆談、南島志、蝦夷志、唐雅、唐律疏議、古今餘材抄、湖亭渉筆、異稱日本傳、周易翼傳、易翼傳、周易集解、皇王大記、事纂、羅豫章集、學齋■(人偏+占:てん・せん:見る・窺う・物のさま・久しく立つ・占める:大漢和510)畢、鼠璞、大極圖述、唐國史補、大學衍議、閑■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)雜録、寓意録、群籍綜言、老學庵筆記、孫可之文録、李習之文集、曲■(三水+有:い:川の名:大漢和17398)舊聞、創業起居註、書疑、考工記解、禹貢論蘭林の墓は谷中の玉林寺に在り、小石碑なり、正面■(金偏+雋:せん:のみ・刻む・穿つ・彫る:大漢和40924)題(しゆんだい−ママ)して藤原明遠之墓と曰ひ、左側は寶暦十一年辛巳九月三日と曰ふ、其勒する所僅に此れのみ、此れ蓋し蘭林の遺意なり、蘭林墓石は其姓名生卒〔生死の年月〕を記するを以て足れりとし、言行を誌(しる)〔記〕すが如き、謂つて浮華の事となす、其説學山録、講習餘筆に見ゆ
宇鼎、字は士新、小字は三平、明霞軒と號す、本姓は宇野、裁して宇氏となす、平安の人
士新の父安治は角倉與市に屬して運漕を司る、士新少きより榮利を屐脱(げきだつ)し〔富貴利達の念を脱却す〕、意を載籍に潜め、始め章句を向井滄洲に受く、後師承する所なく、弟士朗と共に發憤自ら奮ひ、遂に海内の文柄〔文學の權柄〕を持す、其著す所論語考最も力ありとなす
士新固より時輩と伍をなさず、其學精究以て世を曠(むなし)くせ〔冠絶と云ふが如く其倫を絶つ〕んとす、是に於て門を杜(ふさ)ぎ軌を掃ひ、切瑳甚だ勤む、釋大典が書燈の記に曰く、太田見良嘗て宇先生に謂つて曰く、此頃歳歉(けん)〔歳歉は不作〕にして米貴(たつと)し、吾君等と與に尤も病む所なり(*と)、先生曰く、吁(あゝ)一掬の米、以て日を併せて餓え(*ママ)ざるべし、抑も何の病む所ぞ、但米貴ければ物之に從ふ、乃ち油をして貴(たか)からしむ、是れ吾が獨り病む所なりと、先生の志知るべし
士新刻勵書を讀む、足戸閾を踰えざること〔戸閾は敷居(、)即ち外出せざること〕十有餘年、時人之が爲に語りて曰く、都下見ざるもの三あり、宇野三平が市(し)に至るを見ず、香川太仲が病を治(ぢ)するを見ず、谷左中が文を作るを見ずと
士新李王を奉じて古文辭を善くす、然も徂徠南郭の輩が作る所と其趣を異にす、初め大潮禪師が指授を得たり、其田文瑟に復する書に曰く、僕始めて文を學ぶ、嘗て潮公に就きて正す、今に於て之を思ふに其刪潤(さんじゆん−ママ)皆當れり、世儒が體を辯ぜず、格を論ぜず、金を點じて〔化してと云ふが如し〕鐵となし、夏(か)〔華〕を變じて夷となすが若きものにあらず、大潮も亦甞て士新の文を稱して元美の髓〔骨の中に在るもの(、)精神と同じ〕を得たりとなす、夫れ大潮は文既に海内に名あり、而して近時又大典能文を以て一時に聞ゆ、此二釋は緇林〔僧侶の仲間〕に泰斗たるに論なく、之を操觚者流に求むるも亦得易からず、而して一は士新に傳へ、一は士新に受く
姓氏解二卷、古今を綜理し、和漢を考覈(かうかく)す、姓氏の一事に於て、幾ど餘薀(よをん−ママ)なし。而して其卷首に作者の姓名を題署せざるもの、是れ士新が深意にして、盖し古の國字を以て書するものに傚ふなり、然るに近時京師の人松本愼と云ふ者、近江宇鼎士新著の七字を以て舊版の卷首(くわんくわ−ママ)に■(手偏+巉の旁:ざん・さん:刺す・鋭い・扶ける・混ぜる・繕う:大漢和12991)入(*原文ルビ「さんいふ」は誤植。)し、且つ之が序を作り、其複姓を修めて單姓となすの是に非ざる論を附す、大に士新の意を失ふ
人の後となり、其姓を承く、士新以て非となす、一日江村某至る、此人他姓を冒す、問うて曰く、大人は先生の實父なるや否やと、士新毅然として曰く、吾家の父は始(*原文ルビ「はじ」は誤植。)より虚實あらずと
士新上杉謙信の傳を撰す、偶然なりと雖も、其立志創業之に髣髴たるもの〔似たること〕あり、夫れ謙信は戰國(せんこく−ママ)の際に生れ、少きより内を御せず〔女を近けず〕、天資驍勇にして、兵勢大に奮ふ、將に以て保平以降の亂を撥して更に覇業を立てんとす、而して年四十九、功成らずして卒す、然も世皆其力必ずしも信長秀吉に減ぜざるを知る、士新■(革偏+建:けん:弓袋・矢筒:大漢和42934)■(嚢の冠+夂〈すい〉繞+人+口+木:こう・ゆみぶくろ:弓矢・鎧をしまう袋:大漢和15818)(けんがう)〔干戈を袋に藏む〕(*偃武)の世に生れ、また曾て妻妾を置かず、志厚く氣邁(すぐ)れ、強學人に越ゆ、將に以て漢魏以來の諸説を統べ、別に一家を立てんとす、而して年四十八、志酬いず〔平素の志成らず〕して歿す、然も世皆其學必ずしも仁齋徂徠に讓らざるを知る
士新の徂徠に於ける、論語考を著して、痛く其謬誤(びやうご−ママ)を糾(たゞ)し、或は是の如きは果して孔子の罪人なり、先王の罪人なり、天下の罪人なりと謂ふに至る、辯を作りて春秋の説を撃ち、名公四序評を作りて文章を彈ず、春臺が斥非に曰く、三平自ら其才氣を負ひ、別に意見を立て以て徂徠に勝たんことを求む、其果して能く徂徠に勝つは知らず、余恐る、三平の徂徠に勝つは適ま其自ら卑下(ひか)する所以なるをと、士新の徂徠を駁する此の如し、然も其實徂徠に心醉す〔敬服して愛慕す〕、是を以て其歿するや、祭文哭詩を作りて之を褒揚(ほやう)す、杉以成既に以て過稱となす、士新書を與へて曰く、僕の物子を稱する、未だ敢て其實に過ぎず、庸何(なに)ぞ〔庸は何と同義〕病まん、物子が自負する所は經術なり、其文固より未だ濟南に及ばず、余亦之に過ぎたりと謂はず、然も經術文章相兼ぬるは彼亦未だ及ばざる所あり、不佞が稱する所、何の過か之あらん、又芥彦章に與ふる書に曰く、夫れ物夫子は實に東方開闢〔國の開け初め〕の一人、其華夏〔中國〕に在る、亦其比を難(かた)んず、而して陪臣〔諸侯に仕へ朝廷の臣にあらず〕を以て散職に居る、何ぞ其華夏を論ぜん、即ち國中に在るも兒童に君實〔司馬温公の字〕たらず、走卒に司馬たらず、又未だ學者に泰斗たらず、晩に稍や仰(あふ)がる、然も矮人の觀場未だ實を知る者あらず、是れ夫の富士の僻と、其不幸たる豈に余が病の比ならんや、然も是れ何ぞ論ずるに足らんや、其發憤する所、藻(さう)を■(手偏+離の偏:ち・り:舒べる・ひらく:大漢和12587)(ひら)〔發〕きて天庭に■(手偏+炎:えん・せん:舒べる:大漢和12270)(の)〔舒〕べ、傅施(ふし)するや測るべからずと、又玄海上人に答ふる書に云く、謂ふ洛の諸山叡岳〔比叡山〕最も秀づ〔卓出〕、僕兄弟之れに比す、他人は則ち諸山なりと、又謂ふ僕兄弟富士と稱すと雖も、唯叡岳庶幾すべし、而して未だ絶頂に至らず、僕の志す所固より近小ならず(、)而して今の得る所、之を諸山に譬ふるに、尚其足〔麓〕に在り、曾て未だ半(はん)に到らず、何ぞ絶頂を論ぜん、而して叡亦願ふ所にあらず、富士の如き、物先生に非ざれば、能く當るなし、吾輩物先生の故を以て常に之を稱するのみ、固より敢て期せざる所、而して亦願ふ所に非ずと
南郭が了願師に答ふる書に曰く、二宇は固より得難きの才なりと、熊耳が小野孟鉉を送る序に曰く、古學父子〔仁齋東涯〕は國家右文の化に應じ、踵(くびす)を繼ぎて〔引繼き(*ママ)ての意〕起る、宇氏兄弟は大業(だいげふ−ママ)復古の運に乘じ、雁行して漸(すゝ)〔進〕み、一時を風靡(ふうひ−ママ)し、以て戰國五百年斯文の抑欝を雪(そゝ)ぐ、則ち亦一振と謂ふべしと、蓋し人の好惡各異なり、是非互に講ず、要は公論を待つべきのみ、原田東岳が士新を視るは甚だ卑(ひく)し、東岳筆疇に曰く、徂徠東涯二先生は匹〔配對〕たり、而して徂徠は堂に在り、東涯は室に在り〔堂と室は(、)堂は座敷室は部屋にて一層深し〕、南郭春臺二子は匹なり、而して南郭は戸に在り、春臺は門に在り、蘭隅(*ママ)周南二子は匹なり、而して偕に廊廡(らうぶ)〔廊下庇下〕の下に在り、金華士新二子は匹なり、而して偕に門牆を窺ひて入る能はず、宇氏最も等の劣れるものなりと、筆疇又曰く、士新妄に其博覽(はうらん−ママ)を誇りて、自ら其執拗撩撥(りつはつ−ママ)〔片意地にして事をカキミダス〕を知らず、旗幟を建てゝ勝(かち)を徂徠先生に取らんとす、多く群書を引きて論語考を著す、然も其説泛然として〔浮きて沈着せぬこと〕適從する所なし、華人の經に於ける、傳註を爲る者甚だ多し、而して此の如きもの未だ曾て之あらず、其文大抵霑潤舒暢(てんじゆんじよちやう)〔ウルホヒ氣ありて枯れずノンビリして迫らざること〕を缺く、故に其綴絹(てつけん)結構する所のもの、所謂樗櫟(ちよれき)〔雜木の棟梁とならぬもの〕殺接、是れ謬(あやま)りて古文辭に擬するなり、豈に哀れならずや、明霞遺稿の如き、識者之を駁(はく−ママ)す、則ち徂徠先生に及ばざるる(*原文一字衍。)もの遠き甚し
明霞遺稿に載す、澤村琴所が墓銘の叙、野子賤以て文辭佳ならずとなし、改撰して琴所の刪稿を附す、其後に書して曰く、先生の歿するや、門人前島當完等其遺事を状して、以て墓碑に銘せんことを平安の宇先生に乞ふ、宇先生病んで且に歿せんとす、其文乃ち成る、其門人片徽猷に遺命し、浄寫以て諸を當完の所に致す、余受けて之を讀むに、銘辭流暢〔安す(*ママ)らかに口調の好きこと〕誦すべし、其叙文に至りては則ち蕪甚し、蓋し其終に臨みて門人に口授(くじゆ)し、門人受けて之を經記し、盡く其意の如くなる能はざるが故に、此鹵莽(ろもう)〔粗放にて整頓せざる〕を致すのみ、今茲(ことし−ママ)將に稿本を木せんとし、同志の士之を附刻せんとす、乃ち相共に議して其叙文を去る、但銘の孤行〔獨りあるきにて他の同伴を待つの意〕すべからざるを以て、其叙中の數語を節取し、以て諸を其端(たん)に辯じ、以て一篇の文を具すと云ふ
吾先友天履仁、人となり寡欲世味(せいみ)に於て、泊如たり、惟(たゞ)肘(ひぢ)の案を離れざる〔讀書止まざる形容〕を以て人間の至樂〔最上の樂〕となす、而して甚だ吾祖と宇氏兄弟とを慕ふ、其著書皆自ら寫して珍藏し、稱して口に容れず、論語考里仁より雍也に至る三卷、上梓亦履仁の手に成る
宇鑒、字は子茹、改字は士朗、小字は兵介、士新の弟、平安の人
士朗は士新と友愛篤至、其學の充實相讓らず、世平安の二宇先生と稱す、而して年僅に三十一、士新に先ちて卒す、嗟呼天少しく年を假さば、其樹立未だ量るべからず、士新遺稿に序して曰く、余士朗と同學する者十餘年、而して自ら成す所を顧みるに、曾て未だ士朗の如くなる能はず、士朗は誠に才(*原文ルビ「さご」は誤植。)あるかな、且つ余は疾(やまひ)を以ての故に、思慮を省き、精神を一にして觚を操ら〔筆を執る〕ざるもの久し、則ち其余に先ちて翩々たる〔カケル貌〕固より宜べなり、而して先(さきた)づ(*ママ)べからざる者の先づは獨り何ぞや(*と)
嘗て江戸に來り、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の社に入り、周南、南郭、金華輩と相交はる、何(いくば)くもなく京に歸る、徂徠贈言あり、于季子を送るの序是なり、春臺の斥非に曰く、兵介甞て東都に遊び、我徂徠先生に從ひて古文辭を修む、既に平安に歸りて之に畔(そむ)き、其兄(けい)と倶に徂徠を非(そし)る〔惡言〕と、此言は過激なり、士朗未だ必ずしも然らず、其大潮師に答ふる書に曰く、夫れ物翁は當世の龍門〔出世の門〕、四方の士其門に踵(いた)る者何ぞ限らん、而して翁容れず、曰く、我を溷(けが)〔汚〕すことを爲す勿れと、即ち之を容るゝも、再三往かざれば見ることを得ず、即ち見ることを獲(う−ママ)るも、亦必ずしも其提誨を得ずと云ふ、鑑の謁を取る、翁方に客を會して笙を炙(しや)す〔口にす〕、輙ち鑑を呼入れて坐を命じ、又之に食を命じ、遂に二三子の後に從はしむ、我を博し我を約し、其両端を叩いて竭(つ)くす、鑑は鄙人(ひじん)なり、才性駑下(どか)〔才の鈍なる馬の如き意〕、何を以て翁に比するあらんや、唯師の故愛屋宇に及ぶのみと、又玄海師に與ふる書に曰く、文豈に言ひ易からんや、古今を綜該し〔スベル〕、天地を包羅し〔アツメツゝム〕、然後得たりとなす、今其人を求むるに、海内の大にして一物先生在り(*と)
芥彦章が丹丘詩話に曰く、絶句の義遂に定義なし、近體の首尾或は中二聯を裁すと謂ふも、恐くは憑〔據〕るに足らず、吾友宇士朗謂ふ、絶句なるもの一句一絶を謂ふ、律詩は句々聯排〔對偶〕、絶句は律詩に對するの稱のみと、此説明白にして據るべし、古人未だ曾て言及ばず(*と)
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[ ] 参照書()との異同 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10) ・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25) ・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。 |