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秋山儀、字は子羽(、)小字は儀右衞門、玉山と號す、肥後の人、國侯に仕ふ
玉山世々本藩(ほんはん−ママ)に禄せらる、秋山需菴といふ者玉山の從父にして、扁倉(へんさう)〔古代の大醫二人の名即ち醫者の代表〕(*扁鵲と耆婆か。)の術を以て亦俸を受く、玉山出でゝ之が後たり、早く其技を習ふ、又少より學を好み、博く群籍を窺ふ、發明(*原文ルビ「そのはつめい」とあり。一字脱か。)する所、宿學〔老先生〕皆驚歎(けいたん−ママ)す、是に於て侯命じて更に他子を養ひて醫を嗣がしめ、玉山をして一に儒學をなさしむ、乃ち江戸に來り、祭酒林鳳岡先生に從ふ、先生其才學を奇愛し、講説の日に方(あた)り、己れ疾病あれば、玉山をして代らしむ、久しくして業大に進み、其國に歸るや、贄(し−ママ)を執り門に及ぶ者千に踰ゆと云ふ
寶暦乙亥熊本新に時習舘を剏む、此れ玉山が建議(げんぎ−ママ)して興す所なり、玉山之が提學〔學校總裁〕となり、學規十三則を掲げ、俊才を薦めて子弟を教ふ、是に於て藩中斐然(はいぜん)として〔盛なる貌〕化に嚮ふ、岩謙齋に復する書に曰く、廟學〔孔子廟と學校〕の命新に下る、以て菊地氏の廢を興すに足る、是れ不佞が涓埃(けんあい)〔微少の意〕我公に報を圖る所以なりと、又越子聰に復する書に曰く、弊邑菊地氏の時、蓋し始めて學を建つ、加藤氏に至るに及び、荒廢修めず、絃誦〔禮樂を講ずるより轉じて學問のこと〕久しく熄(や)む、加藤氏亡びて國除かる、未だ幾くならずして我先公實に茅土(ばうど)の封(はう)〔諸侯領地の故事〕を享け入りて立つ、五世今公(きんこう)に及び、儒教(じけふ−ママ)を尊信し、學舘を再興し、扁して時習と曰ふ、臣儀蓋し與(あづか)りて議するありと云ふ、紀平洲が小語に曰く、肥後秋山儀子羽は余と親交ある十數年、會飮醉語、是非四應し、未だ甞て一たび人を拒むの言を聞かず、又曰く、子羽は外(ほか)柔にして内(うち)剛なり、親友に髑髏〔人の頭蓋骨〕の杯を作れる者あり、諸客皆擧ぐ、獨り子羽敢て飮まず、詩を作りて之を諷す〔間接に忠告す〕
富士山に登る者役の小角(せうかく−ママ)(*おづぬ)の法を修め、六月朔より七月二十日に至る間を以て登陟(たうちよく)の期となす、然るに玉山七月二十一を以て登る、是日天清く風和し、獨り攬勝(*原文ルビ「らいしやう」は誤植。)〔見物〕を擅にす、遂に富岳記あり、其文朗暢〔ホガラカにて窮苦の態なし〕にして人の賞する所なり、南郭甞て稱して曰く、天地に富嶽あり、乃ち始(はし−ママ)めて此記あり、苟も神にして文ならずんば、則ち已む、群玉の圃、一たび名山に題して、萬古愈顔色を増す、夫の木華(ぼくくわ)の神の如きは、則ち固より當に粲然(さんぜん)〔笑ふ貌〕玉齒を啓くべきのみと
一日古伯彜と與に劉文翼が所に飮む、玉山謂つて曰く、余は伯彜と同じく酒を嗜(たし−ママ)む、而して伯彜は劉下惠〔古賢にて無頓着〕にして、余は則ち伯夷〔賢者にて孤介をいふ〕なりと、蓋し伯彜は善否を問はず、玉山は醇に非ざれば飮まず、故に此言あるなり
玉山已に詩文を以て一時に冠冕〔首位〕たり、又工(たくみ)に字を作り、短章片墨と雖も、人の爲に傳へらる、赤松國鸞が三上宗順に與ふる書に曰く、秋玉山の詩一首、即ち其手書する所、詩固より超乘〔最上等〕、書も亦凡ならず、遣りて以て清玩に供す、玉山は海内の一名家、僕甞て忘年の交を辱(かたじけな)くす、今は則ち亡し
玉山は林門に出でゝ交道甚だ廣く、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の徒に於て、南郭、仲英、蘭亭、鶴臺が輩と尤も驩(くわん)〔歡と同字〕をなす、南郭、蘭亭の歿するや、爲に詩數首を作りて之を弔す
青木敦書、字は厚甫、小字は文藏、昆陽と號す、武藏の人、大府に仕ふ
昆陽は初め處士〔民間に在るの士(、)官途に仕へざる者〕なり、其才學早く大岡忠相に知られ、官庫の書を觀ることを許さる、自ら謂(おもひら)く草莽〔クサムラにて田間〕の臣にして官書を窺ふことを得るは、古より未だ之あらず、西土〔支那〕と雖も亦然り、皇甫謐が自ら表して書一車を借るが如き、武帝の舊交あるが故なり、予大岡公の遇に非ざるよりは、焉ぞ能く此榮を得んやと、元文己(*原文「巳」は誤植。)未大府の命を拜して典籍の事を管す、後屡旨を奉じて諸州に至り、梵刹(せつ−ママ)〔寺〕民家に投じ、其舊録の以て國家の事を徴するに足るものを捜索して之を進呈す、其著述する所亦上らざるはなし、延享甲子紅葉山〔幕府書庫の所在地〕火番に擧らる、尋いで評定所儒者となり、終に遷りて書物奉行となる
昆陽は伊藤東涯の門に出づ、其學一に有用に志す、經義文章に於て必ずしも究思せず、故に堀川の徒〔伊藤門の弟子〕に類せざるものゝ如し、然も始より他師あるに非ず、山崎氏社中の剳記に、青木文藏といふ者中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋に學び、後淺見絅齋を師とする事を載するは、此れ同名異人にして昆陽に非ず
甞て歎じて曰く、凡そ罪あり、死刑にあらざるもの、遠く之を島嶼に放つ、要は其をして天年を終らしむるに在るのみ、然るに諸島に穀少く、常に海産木實(ぼくじつ)を以て食に給す、是を以て往々餓死を免るゝ能はず、豈に亦痛からずや、種藝〔栽培と同じ意〕の地も歳歉(さいけん)に遇へば、民菜色なき能はずと雖も、意(おも)ふに百穀の外、以て穀に當つべきもの、蕃薯〔サツマイモ〕に若くはなしと、乃ち官に陳して種子を薩摩に求め、試に之を藥苑中に種(う)え(*ママ)たる〔播植〕に、極めて蕃衍〔繁殖〕す、是に於て國字を以て蕃薯考一卷を著し、其栽植の法を演し(*ママ)、官板に鏤(ろう)して種子を併せて諸島及び諸州に行下(かうか)す、未だ數年ならずして處として種え(*ママ)ざるなし、今に至るまで上下(じやうか−ママ)之を便とす、歳登(みの)らずと雖も、民■(之繞+瑞の旁:せん・ぜん:しばしば・速やかに:大漢和38988)(にわか)に餓えざるもの、實に昆陽の惠無窮に及ぶ、其墓門の碑に題して、甘薯先生之墓と曰ふは以(ゆゑ)〔故〕ある哉
昆陽の時に當り、未だ(*原文「未が」は誤植。)和蘭(おらん−ママ)の學を講ずる者あらず、昆陽獨り以爲(おもひら)く其説に於て、必ず収用すべきものあらんと、而して和蘭の字蚊脚蟹行〔横文字の形容〕、未だ通解し易からず、或は長崎に之きて譯者に質し、或は博く其書に攷(かんが)へ、遂に粗(ほゞ)了會するを獲たり、近者(ちかごろ)此學漸く闢けたれども(、)皆昆陽に本かざるを得ずと云ふ、大槻玄澤が六物新誌に曰く、和蘭學の一途、白石新井先生に草創し〔ハジマリ〕、昆陽青木先生に中興し、蘭化前野先生に休明し、■(壹+鳥:い・えい:鵜:大漢和47315)齋杉田先生に隆盛なり、故に近時斯(こゝ)に從事する者皆四先生に淵源〔原本〕せざるはなしと
昆陽は博學洽聞著書甚だ多し、而して其■(金偏+契:けい・けつ:鎌・刻む:大漢和40635)梓〔上木〕する所のもの、唯蕃薯考の一卷のみ、餘は皆家に藏す、是を以て世未だ其撰する所、何書あるを詳にせず、青木一清といふ者あり、吾之を知る、即ち昆陽の後となす、因りて遍く遺著を見ることを得たり、乃ち其目を記せん
經濟纂要十二卷、後集五卷、續集三卷、官職略記十三卷、刑法國字譯十二卷、昆陽漫録六卷、續録一卷、國家食貨略、國家金銀錢譜、答問小録、奉使小録、對客夜話、夜話小録、一夕話雜集、郡名考、和蘭勸酒哥解、和蘭櫻木一角説、長崎聞書各一卷、和蘭文字略考三卷、和蘭話譯、草廬雜談一卷
奥田士享、字は嘉甫、小字は宗四郎、蘭汀と號し、又南山と號し、又三角亭(*三角)と號す、伊勢の人、津侯に仕ふ
三角幼時表叔柴田蘋洲に就きて學ぶ、蘋洲甞て謂つて曰く、書を讀まば宜く天下第一の人を師とすべし、今の世に當り、京師の伊藤原藏即ち其人なり、汝往きて學ぶべしと、是に於て笈を負ひて東涯の門に遊び、親炙〔側に侍す〕十年、殆ど其室に入る〔造詣深きをいふ〕、乃ち擢んでられて津侯に仕ふ、謹愼事を勤め、四君に歴事し、五十年未だ甞て過あらず、侯亦眷顧甚だ渥し、老年致仕し、後時に之を召見するも、呼んで先生と曰ひ名いはず
三角賦質〔資性〕謙讓年七十七、身後に及び、人の諛墓〔墓に諂ふ〕の文を撰せんことを恐る、是に於て壽碣(じゆかつ−ママ)を建て、自ら履歴を紀す、其銘に曰く、田間に起り、廳直(ちやうちよく)に升(のぼ)る、何を以て之を得たる、稽古〔古を學ぶ〕の力(*と)
年三十三父を喪ひ、翌年東涯に訣(わか)る〔永訣にて死別〕、爲に酒肉を絶ち、心喪(しんも)を服するもの合せて四年
亭の三角と名くるは兪退翁に傚ひ、虧盈(かえい−ママ)(*きえい)〔盈れば缺くる〕の戒(かい)を存するなり、集中亭記及び詩を載す、詩に「人間交際謙損ヲ重ズ、天道循環滿虧ヲ警ム(*人間交際重謙損、天道循環警滿虧)」の句あり、後偏(ひとへ)に物の三角を好み、文房諸具より、百の雜器(ざつき)に至るまで、多く製するに三角を以てすと云ふ
三角の詩、其誦憶して人に益するもの、食禁の歌なり、曰く
天門赤豆鯉ヲ食フ勿レ、葱蒜鼈李鷄子ヲ惡ム、棗菱酢李共ニ蜜ヲ畏ル、無膓公子ハ梨柿ヲ避ク、妊婦ハ桑椹(*「そうちん・そうじん」=桑の実)鯉鱠(*鯉の膾)卵、子薑ハ瘡ヲ發シ枝指ヲ生ズ、苦苣蜜ヲ忌ミ■(魚偏+善:ぜん:海蛇・ごまめ:大漢和46499)醋ヲ忌ム、魚鱠ハ蓼ヲ用ヒテ肚裏ヲ穩ニス、胡桃麻姑■(魚偏+即:せき・そく・しゃく・しょく・ぞく:鮒:大漢和46304)蕎麥、葱麪鮎魚ハ渾テ雉ヲ犯ス、鰻■(魚偏+麗:れい・らい・り:大鮎・するめ:大漢和46626)鰍■(魚偏+善:ぜん:海蛇・ごまめ:大漢和46499)川椒ヲ忌ム、楊梅ト葱ト雀ト李ト、笋鰕糖ヲ畏レ、(*ママ)鶉菌ヲ畏ル、■(艸冠+見:かん・けん:ヒユ・にっこり笑う・喜ぶ:大漢和31074)鴨ト鼈ト■(金偏+奇:き・ぎ:鋸・鑿・釜・傾く・そばだつ:大漢和40560)ヲ同スルヲ休メヨ、魚目睫有リ腹ニハ丹字、鳥足伸ヒ(*ママ)ザルハ是レ自死、■(魚偏+即:せき・そく・しゃく・しょく・ぞく:鮒:大漢和46304)魚糖餅黄魚蕎、一タビ犯セバ永訣シテ(*「シテ」は略字を使う。)屍紫ニ變ズ(醋■(魚偏+善:ぜん:海蛇・ごまめ:大漢和46499)相犯ス、食經ニ載セズ、而して(*ママ)余二人ノ死者ヲ見ル、以て(*ママ)厨壁ニ掲グ)(*天門赤豆勿食鯉、葱蒜鼈李惡鷄子、棗菱酢李共畏蜜、無膓公子避梨柿、妊婦桑椹鯉鱠卵、子薑發瘡生枝指、苦苣忌蜜■忌醋、魚鱠用蓼穩肚裏、胡桃麻姑■蕎麥、葱麪鮎魚渾犯雉、鰻■鰍■忌川椒、楊梅與葱雀與李、笋鰕畏糖(、)鶉畏菌、■鴨與鼈休同■、魚目有睫腹丹字、鳥足不伸是自死、■魚糖餅黄魚蕎、一犯永訣屍變紫(醋■相犯、食經不載、而して余見二人死者、以て掲厨壁))三角集は巾箱本(きんさうほん)五卷、合三冊、詩文略諸體ありて、書牘を缺く、曰く、尺牘〔書簡〕の文固より志(しる)すに足らず、事を言ふは直を賣るに似たり、問に答ふるは智を誇る嫌(けん)ありと
高惟馨、字は子式、蘭亭と號し、又東里と號す、本姓は高野裁して高となす、江戸の人
蘭亭の父勝春は百里居士と號し、俳諧を以て世に名あり、蘭亭は幼にして徂徠に從ひて學ぶ、既に其大義を了す、而して十七瞽となる(、)是より一に心を詩に潜め〔意を專にして研究す〕、三百篇以下、漢魏六朝唐明大家(が−ママ)の作、大抵之を暗誦す、其自ら賦する所、殆ど佳境〔巧妙の域〕に入る、遂に一時の名士南郭輩と聲譽並馳(へいち)す、紫芝園漫筆に曰く、胡元端の詩藪(しさう)に曰く、唐人宋雍初め令譽なし、瞽疾に罹(かゝ)るに及んで、詩名始めて彰(あらは)〔顯〕ると、雲溪友議に見ゆ、我友高子式年十七にして明を失ふ、厥後(そのゝち)詩才漸く高し、豈に造物の均くせ〔人の長短を平均す〕るものか、人をして其長を兼ねざらしむ、抑も造物の慈なり、人をして彼に失ひ此に得せしむと
蘭亭平生の擧止、悉く相者(しやうしや)〔盲目の引手〕を俟つ、是に於て瞽者■(人偏+長:ちょう・そう:狂う・迷う:大漢和742)々(ちやう\/)〔マヨフ貌〕の状をなさず、甞て曰く、余が明未だ喪はざる時、盲人の動もすれば其左右を摸索〔手サグリ〕するを見るに堪へず、豈に今之に傚はんや(*と)
世に蘭亭盲後の書蹟あり、此れ世人が彊(し)ひて求むるものなり、天履仁數張〔數枚〕を藏す、嘗て曰く、人の蘭亭の書を喜ぶは、徒に玩弄(*原文ルビ「らうぐわん」とあり。)に供するのみ、余は其蹟(せき)をして他日人の■(女偏+喋の旁:せつ:汚す・狎れる・侮る・乱れる:大漢和6524)黷(*原文ルビ「てふとく」は誤り。)(*せっとく)〔汚す〕に逢はしむるに忍びずと、遂に皆土中に■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)(うづ)む
蘭亭の詩、人と往復する者、常に藤華岡に屬して、之を書せしむ、故に時人或は華岡を謂つて蘭亭の書佐〔書記〕となす
吾祖少年にして江戸に在る時、蘭亭と親善なり、甞て祖に謂つて曰く、余婚を覓(もと)(*原文は俗字「不+見」を使う。)〔求〕む、媒媼(ばいをん)曰く、二氏あり、一は姿色多くして女工拙し、一は才徳あれども貌甚だ寢(しん)なり〔陋にて醜なり〕、吁才色並に茂(も)なるは古より得難しとなす、苟も此に一あれば足る、余何れをか妻となさんと、祖曰く、色を愛するは目見て而後心之を悦ぶなり、始めより見るあらずんば、醜美何ぞ論ぜん、如かず其刺繍〔裁縫〕に善き者を納れて、以て家事を理(り)せしめんにはと、蘭亭歎じて曰く、誠に然り、誠に然り、交はるに信を以てするにあらずんば、孰(たれ)か能く之を言はんと、然るに終に才徳を舍てゝ姿色を娶(めど−ママ)る、夫れ婦人は必ずしも責むるに徳を以てせずと雖も、亦色を以て主となすべからずと、蘭亭惑ふ、果して六たび娶りて終に子なし
蘭亭性酒を嗜(たし−ママ)む、而して豪宕〔氣が強く物に拘はらざること〕奇を好む、常に髑髏杯を擧げて飮をなす、伴蒿蹊が閑田自筆に、百井塘雨が筆記を引きて曰く、蘭亭鎌倉の教恩寺に於て、平重衡が舞妓千壽と宴をなしたる杯(はい)を得たり、此より飮に興を添え(*ママ)、尚且つ足らず、大舘次郎が墓を發(あば)〔掘〕きて髑髏杯を製し、以て玩弄に供す、其墓を發くに當りてや、大に雷雨すれども、敢て顧みず、遂に其意を行ふ、翌年此日暴(にはか)に卒すと、此れ妄言(ばうげん)を傳聞して他に考へざるなり、蒿蹊之を信じ、以て蘭亭を毀(そし)るは、甚だ誤れり、凡そ倭學を修むる者は多く儒學を厭ひ〔嫌ひ〕、一味〔只管〕漫罵す、蒿蹊も亦免れず、蘭亭病むこと數月、終に起たず、暴卒にあらざるなりと、山惟熊が撰せる墓誌に見ゆ、余聞く、鎌倉には今現に大舘次郎の墓あり、過ぐる〔經由〕者必ず就きて之を弔すと、奈何ぞ其れ之を發くことを得んや、秋玉山は蘭亭の友人なり、髑髏杯行の詩あり、何人の髑髏なるを知らずと記す、乃ち叙を併せて之を録す、序に曰く
高子式山人は達士〔事物を達觀して超脱せるもの〕なり、髑髏杯を置き、時々把玩す、死生を一にし、形骸を遺(わす)れ、超然自適(してき−ママ)す、少年輩爭ひ飮んで豪擧〔エライ事〕となす、予獨り蹙■(安+頁:あつ・あん:鼻筋:大漢和43447)(しゆくあん)して〔額にシワを寄せるなり〕飮む能はず、衆予が未達〔超脱悟了せざる〕を笑ふ、因りて髑髏杯行〔行は詩の一體〕を作りて自ら嘲り、兼ねて髑髏の爲めに嘲(あざけり)を解く、詩に曰く蘭亭故と勝情を負ふ〔山水の景色を好む〕、鎌倉の山水奇麗なるを喜び、歳に一再名人韻士と相追隨し、品題〔品評して詩文に入る〕殆ど遍し、甞て茅堂(ばうだう)を圓覺寺の傍に結び、松濤館と名け、以て遊息の所となす、曰く、吾死せば、即ち此に安ぜん乎と、乃ち壽碣(じゆかつ−ママ)を建つ、松崎君修記を撰(ぜん−ママ)す、後三年にして江戸に卒す、門人■(木偏+親:しん・かん:棺:大漢和15851)〔棺〕を輿(よ)し、往いて之を營葬す〔葬儀を營む〕
既ニ月支ノ頭ニ非ス(*ママ)、亦智伯ノ仇無シ、山人奇ヲ好ミ奇(*原文は踊り字「々」を使う。)骨ニ至ル、日ニ美酒ヲ盛ルニ髑髏ヲ以テス、少年爭ヒ飮ミテ豪擧ニ誇リ、皆道フ山人ハ達士ノ流ト、坐中ノ一客字ハ子羽、蹙■(安+頁:あつ・あん:鼻筋:大漢和43447)飮マズ心獨リ憂フ、試ニ髑髏ニ問フ汝何ノ辜アリテ甘夢ヲ驚駭シテ休ムヲ得ザル、又問フ汝ハ何物ゾ、奴カ隸カ將タ王侯カ、樽前頭ヲ搖シテ嬉笑ニ供ス、若ハ侏儒ニ非レバ必ズ俳優ナラン、髑髏答テ言フ世ニ在ル時、只タ(*ママ)記ス沈湎シテ酒池ニ飮ムヲ、又記ス朝ニ戴ク漉酒ノ巾、夕ニ著ス白接羅、時有リ興來リテ草聖ト稱ス、帽ヲ脱ス何ゾ妨ゲン■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)ノ糸(*ノ)如キヲ、一タビ蓬累山河ニ歸テヨリ、貴賤貧富復タ知ラズ、我肉既ニ飫カシム烏鳶ノ腹、我顱偶爾鴟夷ニ匹ス、我形須ヒズ司命ノ復スルヲ、我魂要セズ宋玉ノ辭、糟丘煙霞我ヲ喚ヒ(*ママ)起シ、知己誰カ山人ノ奇(*ニか。)如クナラン、山人日々我頂ヲ摩シ、■(骨+饒の旁:こう・きょう:鏑矢:大漢和45276)然何ゾ天下ヲ利スル┐ヲ爲ス、蓬蒿ヲ出離シテ(*原文送り仮名は略字を使う。)綺席ニ厠ル、子羽謾ニ支離ヲ嘲ル莫レ、我聞ク古ノ酒人、一棺徒ニ身ヲ■(揖の旁+戈:しゅう・おさめる:武器をおさめる・集める・安んじる:大漢和11617)ム、縦ヒ陶家ノ土ニ葬ラルゝモ、何ゾ湘水ノ濱ニ異ナラン(*と?)、涓滴到ラズ劉伶ノ冢、南州■(鷄の偏+隹:けい:鶏の本字:大漢和42124)絮豈ニ唇ヲ沾サンヤ、淵明終ニ臨ンデ足ルヲ得ズ、畢卓生ヲ了シテ復晨セズ、古來酒人孰(*カ)我(*ノ)如クナル、宿習綿々天眞ニ醉フ、管セズ功名ノ朽不朽、論セ(*ママ)ズ形神ノ不親親ヲ(*原文「不親親」は「親不親」か。)、未(*ダ)阿梨七分破ヲ作サズ、常ニ■(酉+余:と・ず:麹・もろみ酒・濁り酒・どぶろく:大漢和39867)醉萬斛ノ春ニ染ム、君見ズヤ無功ノ日月醉郷ニ終リ、■(麗+邑:り・れき:〈地名・人名〉:大漢和39753)生ノ意氣高陽ニ盡ク、中山千日偏ニ短キニ苦ム、百年三萬亦長キニ非ズ、■(禾+尤+山:けい:〈地名・人名〉、ここは人名:大漢和8272)(*原文は別体字〈8273〉を使う。)阮化シテ褐之父(*ト)爲リ、黄公■(土偏+盧:ろ・りょ:黒土・粗い土・囲炉裏:大漢和5586)下暗ニ悲傷ス、笑殺ス人間北海ノ守、何ンゾ地下ノ南面王ニ如ン、自ラ誇ル唯我酣暢ナルカナ、長夜首ヲ濡シテ首(*原文は踊り字「々」を使う。)杯ト作ル、子羽頭顱此語ヲ聞キ、口ヲ同シテ子羽ヲ責ム、子羽汝ハ生頭顱ト爲シ、彼ハ死頭顱、生死頭顱亦奚ゾ擇バン、况ンヤ子璋ガ血摸糊ナルニ勝ルヲヤ、蹙■飮マズ一ニ何ゾ愚ナル、汝今飮マズ歳將(*ニ)去ントス、俛仰ノ間彼ト伍ヲ爲サン(*ト)(*既非月支頭、亦無智伯仇、山人好奇々至骨、日盛美酒以髑髏、少年爭飮誇豪擧、皆道山人達士流、坐中一客字子羽、蹙■不飮心獨憂、試問髑髏汝何辜驚駭甘夢不得休、又問汝何物、奴耶隸耶將王侯、樽前搖頭供嬉笑、若非侏儒必俳優、髑髏答言在世時、只記沈湎飮酒池、又記朝戴漉酒巾、夕著白接羅、有時興來稱草聖、脱帽何妨■如糸、一自蓬累歸山河、貴賤貧富不復知、我肉既飫烏鳶腹、我顱偶爾匹鴟夷、我形不須司命復、我魂不要宋玉辭、糟丘煙霞喚我起、知己誰如山人奇、山人日々摩我頂、■然何利天下爲、出離蓬蒿厠綺席、子羽莫謾嘲支離、我聞古酒人、一棺徒■身、縦葬陶家土、何異湘水濱、涓滴不到劉伶冢、南州■絮豈沾唇、淵明臨終不得足、畢卓了生不復晨、古來酒人孰如我、宿習綿々醉天眞、不管功名朽不朽、不論形神不親親、未作阿梨七分破、常染■醉萬斛春、君不見無功日月終醉郷、■生意氣盡高陽、中山千日偏苦短、百年三萬亦非長、■阮化爲褐之父、黄公■下暗悲傷、笑殺人間北海守、何如地下南面王、自誇唯我酣暢哉、長夜濡首々作杯、子羽頭顱聞此語、同口責子羽、子羽汝爲生頭顱、彼死頭顱、生死頭顱亦奚擇、况勝子璋血摸糊、蹙■不飮一何愚、汝今不飮歳將去、俛仰間與彼爲伍)
井通熙、字は叔、小字は嘉膳、蘭臺と號し、又圖南と號す、姓は井上修して井氏となす、江戸の人、備前侯に仕ふ
蘭臺の先は周防大内氏の族なり、七世の祖某は逆臣陶晴賢の難に死す、某井上氏を娶り、了心を生む、了心母(*原文「毋」字を使う。)の姓を冐す、爾後世々之を沿稱す、父通翁字は玄■(玉偏+番:はん・ぼん:魯の宝玉の名〈■與〉:大漢和21247)は大府の醫員なり、三男子あり、伯〔兄〕玄存職禄を襲(つ)ぐ、仲は蚤(はや)く夭す、叔(しく−ママ)〔弟〕は則ち蘭臺なり、幼にして潁敏學を好む、年十二、元日詩を賦して曰く
天邊雲物改、海上日華新ナリ、先ヅ酌ム屠蘇ノ酒、庭ニ趨リテ老親ニ献ス(*天邊雲物改、海上日華新、先酌屠蘇酒、趨庭献老親)父之を異(い)なりとし、期するに他日の盛名を以てす、弱冠天野曾原に從ひて學ぶ、既にして林鳳岡の門に入る、享保中鳳岡旨を奉じて官庫の書を校す〔校正にて誤を訂す〕、蘭臺與かる、時に未だ蘭臺の號あらず、而して人蘭臺を以て之を呼ぶ、遂に以て號となす、元文五年備前侯の辟に應じ、教授(けふしゆ−ママ)の職に任ず
通熙竊に以爲く先朝行ふ所にして、而して後主必ず行ふものならば、漢武〔漢武帝〕公羊を好む、宣帝當に穀梁を立つべからず〔公羊穀梁は春秋時代の書名〕、其遇ふ所の時異なればなり、國初の官板諸書、亦皆宋儒の著す所にあらず、豈に盡く程朱の説を取ることをなさんや、文敏公甞て經筵に侍し、論語の厩焚(きうふん)章を進講す、神祖〔家康〕曰く、不(ふ)を讀んで否(ひ)となすは如何と、曰く、臣謂(おも)ふに人を問ふべし、豈に馬を問ふ(*原本「問う」は誤植。)べけんや、曰く(、)然らば朱熹の解にあらず、曰く、臣愚以爲く若し國厩と云はゞ、則ち馬を問ふべし、是れ孔子の私厩なり、人を重んじ、馬を賤む、其義當に然(あた−ママ)るべし、不を讀んで否となすもの、固より朱註の意にあらず、對問の語載せて本集に在り、當時の經筵盡く朱註に依らざる、亦見るべし、享保中講官物先生朝命〔幕府の命〕を奉じて古註疏〔漢唐の傳註にして朱註に異なり〕を校す、室先生亦與かる、編成りて進呈す、悉く以て梓に■(金偏+浸の旁:しん・せん:刻む・彫る:大漢和40474)(しん)し、天下に頒布(はんふ−ママ)す、七經孟子考文是なり、伏して惟ふに朝廷の徳意、先後各立つる所あり、必ずしも相因らず、然らば則ち諸家の學、義相反す〔見解背馳するの意〕と雖も、猶之を並置すべし、豈に偏絶すべけんや蘭臺の學頗る徂徠に似たるものあり、澁井太室曰く、蘭臺は告子〔孟子の門弟〕の言に得ざれば、心に求むる勿れといふが如しと、邨正舒に答ふる書、其所見を陳す、今左に節録す、曰く
夫れ道なるもの大路(たいろ)の如く然り、瞽者も徃き、聾者も徃く、豈に之を辨究せんや、心性なるもの學問の先(さき)とすべき所にあらず、是故に六經は之を論せ(*ママ)ず、孔子も亦罕に言ふ所なり、思孟の書首唱して、而後性道の説紛々〔糸の亂れたる貌〕競(きそひ)起り、遂に宋儒に至りて極まる、其弊や蹶然(けつぜん)〔ツマツ(*ママ)ク〕大澤に陷る、又曰く、夫れ古の聖王道を立てゝ、以て天下の人をして之に由りて行かしむるもの、豈に谿壑(けいがく)の水涸れて徒跣(とせん)〔ハダシなり(、)歩して渉ること〕すべき者の如くならんや、道は猶溟渤〔海水の深き〕の測るべからざるが如し、人性亦猶舟楫(しう\/)の如し、舟楫海(かい)に遵(したが)ひて漕(さう)すれば、百萬の粟も運して致すべし、然りと雖も海と舟楫とは一物にあらず、人性道を守りて行はゞ、億兆の衆教へて用ふべし、然りと雖も道と人性とは一物にあらず、又曰く、熙幼にして孤貧、師保〔教師と保傅〕の訓なし、然りと雖も詩〔詩經〕を誦して雅頌〔詩篇の名〕あるを知り、書を讀んで堯舜あるを知る、然後困學二十年一日の如く、益々仲尼の道を信ず、何の暇ありてか宋儒藤物二家に及ばんや、宋儒聖人を知らず、與に言ふに足らず、藤維■(木偏+貞:てい・ちょう:ねずみもち・親柱・基礎となるもの:大漢和15163)は自ら古學と稱すれども、宋儒の弊を免れず、物茂卿二辨を作爲し、又論語徴、庸學解を著す、亦唯二義及び定本發揮(はつき)と何ぞ擇ばんや、縁飾(えんしよく)する(*文章を飾る。)所ありて、仁齋を駁(ばく)するもの、亦果して是か非か、熙の未だ知らざる所なり井上金峨業を蘭臺に受く、蘭臺之を友視し、待つに弟子を以てせず、毎に謂つて曰く、子は誠に才ある者なり、自ら當に一家を成すべし、吾(わが)籬下(りか)〔カキネの下にて蔭となるの意〕に立ちて人に後るゝ勿れと、金峨後自己の見を立つ、而して尚父執〔父の友〕蘭臺先生と稱し、終身師事す
石川正恒、字は伯卿、小字は平兵衞、麟洲と號す、平安の人、小倉侯に仕ふ
麟洲幼より學を好み、才氣を負ふ、先輩皆其成るあるを期す、初め柳滄洲、堀南湖に從ひて學び、弱冠の比ひ、其父拉し〔携〕て江戸に來り、某生を見せしむ、生即ち修辭家が作る所の艱澁〔難かしく讀みがたきこと〕の文を出して之を試む、麟洲一目、輙ち誦を成す、生驚きて器重(きちよう)す、壯なるに及び、小笠原侯の徴(めし)に應じ、後進を誘掖す〔引立てる〕、其啓迪(けいてき)〔蒙を啓き智を開く〕作興(さくかう)の功尤も多し、寶暦己卯父を京に省す、會(たま\/)病作りて起たず、時に年五十有三
麟洲甞て辯道解蔽を著して、徂徠の學を彈刺す、其持論多くは■(穴冠+款:かん:空虚・穴:大漢和25655)(かん)(*「くわん」が正しい。)〔急處〕に中る、門人増井彦敬亦儒を以て名あり、同じく小倉に仕へ教授となる、石増二先生文抄世に行はる、彦敬甞て書を吾祖に修め、以て交を求む、祖復書して曰く、石子逝く後、其著す所の辯道蔽解(*ママ)を獲て之を讀む、其鄙見と頗る異同あるは論なし、然も其大要は大に鄙衷〔自家の心〕に合するものあり、乃ち潜然(さんぜん−ママ)たる〔涙の流れる貌〕もの久し、曰く夫れ聖遠く道湮(いん)〔沒却〕し、諸家紛然たり、晩生後學墻面〔故事にて壁に向ひて立ち何物も見えぬが如し〕なきにあらず、而して能く卓爾群を出で、以て後進の木鐸たるべきもの、方今僅に石子輩あるのみ、奚すれぞ斯人(このひと)にして長逝するや(*と)
湯元禎、字は之祥、小字は新兵衞、常山と號す、姓は湯淺、修して湯氏となす、備前の人、世々國侯に仕ふ
常山の父子傑素と學を好む、常山結髪(けつばつ−ママ)〔少年の時〕庭訓(ていくん−ママ)〔家庭の訓導〕を受け、書を讀むを知る、時に其藩に曹子漢といふ者あり、伊物の説を學ぶ、常山之に兄事し、勉學倦まず、年二十四、江戸に來る、是時贄を南郭に取り、專ら古文辭を修む、幾くもなく郷に歸り、後八年にして復た江戸に來り、春臺、蘭臺、觀海等諸名流と交を結ぶ、一時嘖々(さく\/)輿稱〔世間の聲譽〕ありと云ふ
寛延庚午侯の命を奉じて讃の丸龜に赴く、海上風濤驟(にはか)に起り、舟將に覆沒せんとす、衆皆生色なし、常山神色自若、朗吟して曰く
南溟使ヲ奉ズ使(*原文は踊り字「々」を使う。)臣ノ槎、直ニ破ル長風萬里ノ波、忽チ値フ怒濤ノ奔馬ニ似タルニ(、)起ツテ雄劍ヲ提ゲテ■(元+黽〈びん〉脚:げん・かん:大海亀・青海亀・いもり:大漢和48261)■(口二つ+田+一+黽脚:た:鰐:大漢和48306)ヲ叱ス(*南溟奉使々臣槎、直破長風萬里波、忽値怒濤似奔馬、起提雄劍叱■■)其豪氣此の如し
瀧長■(立心偏+豈:かい・がい・やわらぐ:和らぎ楽しむ:大漢和11015)(ちやうかい)、字は彌八、鶴臺と號す、長門の人、本府に仕ふ
鶴臺本姓は引頭氏、瀧の後となり、遂に其姓を蒙る、幼より英邁〔俊敏人に勝る〕學を好む、其郷に居る、周南に從(したか−ママ)ひて徂徠の説を承く、後江戸に來る、時に徂徠の歿する已に三年、乃ち南郭の門に遊ぶ、南郭其才を異とし、視るに弟子を以てせず、既にして去りて京に到り、又長崎に之く、往く所として其才學を重んぜられざるはなし、再び江戸に來れば、則ち名聲大に起り、從遊〔弟子〕甚だ多し、寶暦癸未韓使來聘す、是に於て君命を奉じて郷に歸り、之を接伴(せつぱん)す、韓使其學の該博力あるを歎ずと云ふ
紀平洲が小語に曰く、長門の瀧長■(立心偏+豈:かい・がい・やわらぐ:和らぎ楽しむ:大漢和11015)彌八、郷に在りて一權貴と飮む、酒酣にして問うて曰く、凡そ治(ぢ)をなす、和漢孰か難易(ない−ママ)ぞと、彌八曰く、漢は難く和は易しと、曰く何ぞや、曰く彼れ不學の人をして政職に居らしめば、則ち必ず其制を受くる〔支配せらるゝ義〕を恥づ、我は不學の人政職に居ると雖も、而も下(しも)亦其制(*原文ルビ「せつ」は誤植。)を受くるを恥ぢず、彼れ難く我易き所以なりと、合坐色を失ふ〔顔色を變じて恐怖す〕、其人以て君に告ぐ、君曰く、公等を諷刺す、唯是れ此老のみと、又曰く彌八豪邁物に屈する能はず、然も善言美行(みかう−ママ)を與聞すれば、涙(なんだ)必ず睫(せう)〔目フチ〕に交はると
鶴臺傍ら博く釈氏の書を窺ひ、殆ど其説を極む、行状に曰く、最も佛學に精し、其海北に在るや、佛藏〔佛經〕を傾け其旨を究む、藩の宿僧無隱無學の輩、皆推服を極む、其他緇徒其説を得ざれば〔其理明かならざればなり〕、則ち就きて質す者あり、又無隱禪師の雜華集に載す、瀧彌八が來訪(らいばう−ママ)を謝する詩の引に曰く、瀧生は實に天下の奇才なり、其深く儒術に達し、言語■(久+火:きゅう・く:灸〈やいと〉・つける・ふさぐ・支える:大漢和18872)■(車偏+果:か・かい:〈車軸に注す油を盛る〉油壺:大漢和38380)(しやくくわ)〔談論趣味あること、■(車偏+果:か・かい:〈車軸に注す油を盛る〉油壺:大漢和38380)は車に差す膏〕たるに論なく、傍ら吾佛學に精し、故を以て余と方外〔教派外〕無二の交をなすもの、平生の贈答(そうたう−ママ)を見るべし、而して事此集の序文に詳なり(、)爰に偶ま其來訪を辱くし、別に臨んで此詩を賦し、以て謝し、兼ねて和子萼(しがく)に寄す、詩に曰く
遲日青山黄鳥啼ク、歡ブニ堪ユ陶令幽棲ヲ訪フ(*原文返り点は「レ点」を使う。)、城中ノ靈運若シ相問ハゞ、爲ニ道ヘ君ヲ送リテ虎溪ヲ過グト(*遲日青山黄鳥啼、堪歡陶令訪幽棲、城中靈運若相問、爲道送君過虎溪)雜華集又載す、瀧生書を能くし、其義之の筆法(ひつはふ)を嗜(たし−ママ)むもの、余と癖を同くす、因りて此詩を作りて相嘉尚(かしやう)す、詩に曰く
相逢フ文雅ノ友、臂ヲ把リテ意何ゾ親キ、逸少墨池ノ月、千里兩人ヲ照ス(*相逢文雅友、把臂意何親、逸少墨池月、千里照兩人)鶴臺が南塘先生に與ふる書に曰く、本邦の書、尊圓親王■(女偏+武:ぶ・む:媚びる:大漢和6361)媚(ふび−ママ)(*ぶび)〔ヤワ(*ママ)ラカに弱き〕(*艶めき、媚びる。)脆弱を以て、一家を成してより、後世の書家其毒を蒙らざる者なし、畫に至りても亦然り、狩野氏が浮靡輕佻〔輕薄にて堅實ならざること〕を以て、世俗の好(かう)に投じ、譽(ほまれ)を當時に擅にせしより、聲に吠へ臭(しう)を逐ふの徒、靡然(びせん−ママ)として風(ふう)に嚮ふと、此れを觀れば、鶴臺の書畫に於ける、亦識ありと謂ふべし、春臺嘗て稱して西海第一の才子となす、虚聲の賛揚にあらず
宇惠、字は子迪(してき)、小字は惠助、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水(せんすゐ−ママ)(*しんすい?−大漢和辞典)と號す、本姓は宇佐美、修して宇となす、南總の人、出雲侯に仕ふ
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水は南總夷■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)郡(*現在の夷隅郡か。)に生る、郡に川あり、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)川と云ふ、居之に近し、因りて■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水と號す、父習翁學を好み、志あり、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水年十七、父命じて江戸に來りて徂徠に師事せしむ、乃ち其塾に在るもの僅に三年、徂徠歿して未だ全く徂徠の旨を得ず、留まりて社友と相切■(靡+立刀:び:削る:大漢和2281)(せつひ−ママ)す〔互に研磨す〕、居る六年、板美中を携へて郷に歸り、美中を以て食客(しよくかく)となし、日に切■(靡+立刀:び:削る:大漢和2281)に資す、久くして學大に進む、再び江戸に來り、芝三島街に住し、門を開きて徒に授く、晩に儒を以て出雲侯に顯仕し〔顯職に就く〕、其政を與聞し、勤勞ありと云ふ
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水家世々南總に居(お−ママ)り、豪富を以て聞ゆ、熊耳が■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水の父を壽する頌に曰く、翁本と大姓(たいせい)藤氏に系す、先づ北越に著れ、武功是れ以(もち)ゆ、子孫綿々宇佐美と稱す、中葉微なりと雖も、祀(し)を絶つに至らず、來りて爰に居るより、此に數世、農と賈とに服し、家富(かふ)を以て起る、豪宗(がうそう)多しと雖も、曾て共に比するなし、翁其業を繼ぎて、益以て不貲(ふし)〔資産の多きこと〕、鐘(しやう)を鳴し鼎に食す〔富者豐食の形容〕、千指(し)に幾(*原文ルビ「ちよ」は誤植。)し、聚まれば斯(*原文ルビ「こ」は一字脱あり。)に之を散じ、亦唯是理し、郷鄰を賑及(しんきふ)す
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水篤く徂徠を信じ、畢力〔極方〕其遺著を校刻す、高足の弟子と雖も、及ばざる所なり、四家雋、古文矩、文變考、絶句解、絶句解拾遺、南留別志の如き、校刻皆其手に成る、自ら著す所辯道考、辯名考、絶句解考證、絶句解拾遺考證、亦皆徂徠の意を領會〔了得〕するを以て主となせり
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水莊重〔威儀を正して重々しき〕嚴毅にして、師道卓然たり、列侯教を請ふ者あれば、先づ己を待つの儀を書し、之を致して而後往く、井金峨の匡正録に曰く、近世諸侯の招(まねぎ)に應じ、豫め之が禮待を期し、是の如くならざれば、吾敢(あい−ママ)て見ずと曰ふ者あり、夫れ見ざれば止む、唯見て禮至らずんば、亦以て去るべきのみ、惡ぞ先づ之が極をなして而後往(*原文ルビ「ゆく」は一字衍。)く者あらんやと、金峨の此言義に於て乖(そむ)けりとなさず、然りと雖も世の道を學びて苟も合ひ容(いれらるゝ)を取る者■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水に觀れば、慚(はぢ)なかるべけんや
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水經義を以て任となす、頗る春臺の風あり〔趣あり〕、熊耳の長技〔得意の藝〕は文章に在り、殆ど南郭を追うて交相善し、熊耳謂つて久要兄弟の誼(ぎ)ありとなす
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水一男あり、多病家學に堪へざるを以ての故に、片山兼山を養うて子となす、兼山徂徠の説を喜ばず、是を以て終に歡を承くる〔父に事ふるの道にて機嫌を取る〕を得ずして出づ、是に於て姪(てい−ママ)徳修字は子莱を以て後となす
武欽■(搖の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)(きんいう−ママ)、字は聖謨、梅龍と號す、初名は維嶽、字は峻卿、中ろ名は亮、字は士明、私に文靖と謚す、美濃の人
梅龍本姓は武田氏、其先三河の篠田村に處す、故に世々篠田を以て氏とす、梅龍初め襲うて之を稱す、明霞遺稿中篠士明と稱するもの是なり、後本姓に復すと雖も、田を省きて單姓となす、少年にして伊藤東涯を師とす、東涯爲に維岳字は峻卿の説を作り、以て之を勗(つと)め〔勸め勵ます〕しむ、而して年二十一、東涯下世(かせい)〔死〕す、乃ち祭文(さいぶん)あり、是に於て宇新(*士新)に從ふ、居る十年士新亦世を異にす、乃ち哭詩あり、此時學既に大成し、終に召されて妙法院親王〔大佛宮〕の侍講(しこう−ママ)となる
梅龍特に藝文に通ずるのみにあらず、兼ねて武事に名あり、其昔を憶(*原文ルビ「あも」は誤植。)ふ歌に云く
東山年少クシテ雄圖ヲ抱キ、弓ヲ學ビ馬ヲ走ラシテ孫呉ヲ讀ム、腰間ノ龍劍金轆轤、青雲ヲ睥睨シテ常ニ鳥呼ス、翻然節ヲ折リテ前途ヲ改メ、自ラ見ル當年ノ君子儒(*東山年少抱雄圖、學弓走馬讀孫呉、腰間龍劍金轆轤、睥睨青雲常鳥呼、翻然折節改前途、自見當年君子儒)又宇士新の贈詩(そうし−ママ)あり云く、「關ヲ閉チ(*ママ)テ我ヲ憐ム┐久シ、劍ヲ説キテ君ヲ愛スル┐深シ(*閉關憐我久、説劍愛君深)」(*と)
家祖原瑜(ゆ)、字は公瑤小字は三右衞門、雙桂と號し、又尚菴と號す、平安の人、唐津侯に仕ふ、(侯後古河に移封す)
祖の父は光茂(*原文ルビ「みつしび」は誤植。)と云ふ、小字は三右衞門、甲斐武田機山公の將原虎胤六世の孫(そん)なり、平安に住して仕へず、原芸菴の女を娶る、享保三年十月十三日を以て、祖を生む、祖生れて凝雋群兒に異なり、十歳にして章句を伊藤東涯に受く、稍や長じ學を嗜(たしな)むこと飢渇の如く、口誦手録〔讀むと書くとなり〕、晝夜廢せず、父母之を奇とし、其或は病を得んことを過慮す、謂つて曰く、帷(*原文「惟」は誤植。)を下し、憤を發するは成人の事、兒今童年、唯學間斷なければ可なり、祖曰く、早起して文字を尋思(じんし)すれば、心下(しんか)の鬆爽(しやうさう)〔サツパリ心地よき〕を覺ゆ、稍や晏(おそ)〔遲〕ければ則ち頭(とう)岑々として〔痛む貌〕心裏甚だ安からず、人或は曰く、其先美濃守驍勇〔剛健にして勇氣あること〕を以て著はる、此子他日文事を以て、大に人に過ぐるものあらんと
年十四父を喪ひ、哀毀〔悲しんで身體の弱ること〕禮に過ぐ、服■(門構+癸:おわる:終わる:大漢和25556)(おは)〔終〕りて大阪に之く、既にして江戸に來り、舅氏原芸菴に依り、青厚甫、高子式、呂玄丈輩と往還して文を論ず、居る三歳母を念うて已まず、乃ち大阪に赴く、母尋いで病歿(びやうぼづ−ママ)す、喪を治め素を茹(くら)ひ〔野菜を食ひ魚肉を避くること〕、遂に復た京に歸る
祖兼ねて醫を善くす、其京に居るや、遠近來りて治を請ふ者履恒に戸外(とぐわい)に滿つ、時に土井侯良醫を召す、祖■(立心偏+番:はん・べん:変心する・翻意する:大漢和11237)然(はんぜん)〔變心〕聘に應じて起つ、山脇東洋來り謂つて曰く、請ふ辟に就く勿れ、君は學富み量深し、他日必ず當に三顧の人〔劉備の孔明に於けるが如き人〕に遇ひ、以て其用を竟(お)はるべし、醫術の如き、他人に於ては稱すべし、君に於ては末技のみ、末技を以て僻遠の藩に屈仕するは甚だ之を惜む(*と)、祖曰く、子が言ふ所のものは、宇内に幾くかある、吾烏(いづくん)ぞ敢(あい−ママ)て當らん、且つ既に其召に應ず、義辭すべからずと、遂に唐津に適(ゆ)〔行〕き、十八年を閲して京に歸遊す、途(と)に東洋に遇ふ、東洋祖の手を握り、歎じて曰く、平々たる庸器〔凡物〕にして、皆貴顯に列し、海内の名士をして僻遠に屏處せしむ、信に命なるかな(*と)
唐津に在るの日、地を掘りて髑髏に遇ふ、其夕月明■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)紙(そうし)に女子の影あるを見、出で視れば則ち無し、家人大に怖る、祖は讀書すること自如たり〔平氣〕、頃(しばらく)ありて先子〔先父〕(時に十二三)に謂つて曰く、是れ狐狸の爲す所なり、兒弓を將(も)ち〔以〕て之を射よと、是に於て女影自ら滅す
甞て芳野に遊び、耽戀(たんれん)〔フケリシタフ〕三日去る能はず、遂に一枝を折りて携へ去る、後製して杖となし、終身之を手にす、其常に帶ぶる所二剱の柄(つか)飾るに金を以てし、櫻花を彫刻す、亦其忘るゝ能はざるを表(へう)す
家に二馬を蓄(やしな)ふ、一は蓬莱と名け、一は瑤池(えうち)と名く、仙臺の産、駿逸〔スグレたる逸足〕常に異なり、初め某侯重價(ぢゆうか)を出して購はんと求む、而して蹄噛(ていし)〔蹴り咬む〕近くべからず、遂に之を鬻ぐ、是に於て鹽車(えんしや)に役(えき)し、又飼秣を奪ふ、祖之を聞きて曰く、惜しいかな其能を展(の)べ〔十分に伸ぶる〕ず、而して暴戻自ら縦(ほしいまゝ)にす、此れ之を御する者、其術を得ざるに由るのみ、因りて之を數金に買ひ、一食一石の粟を盡さしむ、則ち雄姿龍の如し、然も其亂氣初の如し、諸(もろ\/)騎を善くする者、各其術を施すも御するを得ず、祖其■(馬偏+兇+夂:そう・す:たてがみ:大漢和44868)(ちう)〔タテガミ〕を捉り、躍りて之に上(の)れば、即ち鞭策(べんさく)の威を假らずして其訓に安んじ、進退周旋〔廻はること〕意の如くならざるなし、詩あり、曰く
驕氣龍鍾タリ村客ノ家、三年虞阪鹽車ニ苦ム、一朝忽チ英雄ノ駕ヲ獲テ、飛電風生シ(*ママ)テ白沙ヲ捲ク(*驕氣龍鍾村客家、三年虞阪苦鹽車、一朝忽獲英雄駕、飛電風生捲白沙)祖奮然道を究め經を治むるを以て志となす、漢儒以來の諸説に於て、窺はざる所なし、久くして以爲く咸聖人の旨を得ずと、遂に自己の見を立て、論孟を以て根據となし、細に道徳性命を講ず、甞て一書を著し、洙泗微響と曰ふ、謂(おもひら)く是れ以て百世聖人を竣(ま)ちて惑はざるに庶幾(ちか)かる〔迷はず疑はずの意〕べしと、其大意(*原文ルビ「ただい」は誤植。)増彦敬に復する書中に詳にす、書既に雙桂集に載すれば、茲に復た贅せず〔無用の事を反覆せず〕、夫れ漢唐訓詁の學、道に於て得る所なし、宋に至り、大に變じて大に行はる、然も亦聖人の旨にあらず、此邦元寛以來學者亦皆宋儒に從ふ、伊藤仁齋に及び、始めて之を排す、物徂徠亦一家の言をなし、海内の士と別に旗鼓(きこ)を建てゝ〔學派の陣を張る〕馳す、然も其説聖人の學を去る益遠し、祖の時に當り、學者朱に非ざれば則ち物、物に非ざれば則ち藤なり、是に於て慨然非朱詰物疑藤の三種を作り、洙泗微響と併せて以て梓に■(金偏+雋:せん:鑿・刻む・穿つ・彫る:大漢和40924)(しゆん)せんとす、而して天早く年を奪ひ、大業をして終はらざらしむ、深く惜むべきかな
寂寞空山一片ノ碑、庭ニ趨リ憐ム爾ガ詩ヲ學フ(*ママ)ノ時、面容髣髴トシテ(*原文送り仮名「シテ」は略字を使う。)猶見ルガ如シ、涙ハ滴ル丘前春樹ノ枝(*寂寞空山一片碑、趨庭憐爾學詩時、面容髣髴猶如見、涙滴丘前春樹枝)次諱は恭胤、字は敬仲、即ち吾先子なり、次諱は光寛、四歳にして夭す
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( ) 原文の読み | 〔 〕 原文の注釈 | |
(* ) 私の補注 | ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字 | |
(*ママ)/−ママ 原文の儘 | 〈 〉 その他の括弧書き | |
[ ] 参照書()との異同 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10) ・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25) ・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。 |