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劉龍門、名は維翰、字は文翼、龍門山人と號す、通稱は三右衞門、宮瀬氏、紀州の人
龍門の系は後漢獻帝の孫志賀穴太村主(しがのあなたむらのきみ)より出づ、應神天皇二十年乙酉其黨類を率ゐ、東渡して我に歸化す、朝廷其流離〔郷里を離れて漂泊す〕を憐み、貴冑たるを念(おも)ひ、之を近江の石鹿郡に封ず、二十餘世にして封を失ひ、子孫諸州に播遷(ばんせん)〔流轉〕す、後數十年、伊豆宮瀬に居る者地を以て氏となす、曾祖宗仙醫を以て始めて紀侯に仕ふ、祖は宗成、父は宗確、先職を繼ぐ、世禄三百石、宗確巖橋氏を娶り、二子を生む、伯は乃ち龍門、叔は維持、字は文幹、龍門の時に至り、故あり籍を削られ、州の龍門山に隱居し、書を讀み力學すること此に年あり、後徂徠の學を聞き、其風を慕ひて江戸に來る、時に寛保元年辛酉夏四月なり
龍門笈を負ひ〔書生の扮裝、轉じて遊學のこと〕て江戸に來る、驛舍に於て盜に遭ひ、資銀を喪ひ、乞食(きつしよく)して關に入り〔函根の關所に入る〕、湯島菅廟〔天神社〕の祠官某家に寓すること一年餘、湯島切通街に僑居し、生徒に教授す、嘗て贄を服南郭に委し、芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社に入る、門下の士鵜子寧、高翼之の輩其能〔才能〕を妬忌し、惡聲〔誹謗惡口〕屡臻(いた)る、是に於て怏々(*原文及び頭注「快々」は誤植か。)(わう\/)〔不滿の心〕望を失ひて引去り、退きて六經を修め、敢て世に交はらず、幾くもなく名聲大に起り、門人益進む、諸侯之を聘する者ありと雖も、皆辭して起たず、當時文章家と稱する者、服南郭、餘熊耳を推し、龍門の名之に亞ぐ〔亞は二番目〕と云ふ
龍門李王の業を修め、其旨之と同くして馳聘趨歩〔運用の法〕は別に一格を占む、當時の諸家は之が趣向を異にし、力を鍛錬に極め、思を字句に潜め、其精微に造詣せんとす、龍門は則ち然らず、詩若くは古文辭を作るに、題に隨ひて意を命じ〔旨意を定め〕、境に遇ひて辭を遣る〔文を行り語を措く〕、意筆先に在り、筆を下して文をなす、意の至る所辭必ず至る、操舍(*原文「操含」は誤植。)(さうしや)〔取捨〕意の如く、縦横自在なり、未だ初より焦心極慮せず、嘗て謂ふ諸子皆屹々(きつ\/)(*原文頭注「■(石偏+乞:こつ・かつ:石〈が硬いさま〉:大漢和24043)々(*よく働く・疲れる)」とする。)〔コツコツ(、)辛苦〕、我獨り由々(ゆゝ)たり〔ユルヤカに迫らず〕と、蓋し天縦(てんじゆう−ママ)の才ありて推敲〔字を練り句を研く〕を勤むるに非ざれば、何ぞ能く斯の如きに至らんや
龍門其業未だ盛(*原文ルビ「なかん」は誤植。)ならざる時、窮迫殊に甚し、傭書して食を給し、嘗て哀王孫一篇を賦し、寓意自ら譬ふ、其詩に曰く
酒ニ對シテ纔ニ憂ヲ忘ル、醉テ臥ス胡姫ノ樓、腰ニ■(萠+立刀:かい・け:縄で巻きつける:大漢和31061)■(糸偏+侯:こう・く:巻柄:大漢和27684)(*「かいこう」=粗末な剣)之長鋏ヲ挾ミ、身ニ■(肅+鳥:しゅく・すく:鳥の名:大漢和47331)■(霜+鳥:そう:鳥の名:大漢和47487)(*「しゅくそう」=西方の神鳥、長頸緑身の雁に似た鳥)之弊裘ヲ被ル、傍ニ美髯ノ少年子有リ、枕ヲ撫シ喚ヒ起シテ交遊ヲ請フ、願クハ一盃ヲ勸メテ然諾ヲ結ハン(、)起坐辭セズ共ニ献酬ス、少年慇懃名姓(*ヲ)問フ、君ガ貌ヲ相スルニ名流ニ非ザルヲ得ンヤ、對ント欲シテ呻吟言フ能ハズ、長跪シテ數謝ス論ニ堪ヘス(*ママ)ト、請フ君劔舞セヨ我節ヲ撃タン、賎子口ヲ開キテ憤魂ヲ緩クセン、憶フ昔シ東漢紀綱傾キ、董賊跋扈風雷ヲ崩ス、善良ヲ枉害シテ雄俊ヲ鋤キ、克復施シ難シ股肱ノ才、主ヲ劫シ都ヲ遷シ逾僭侈、權ヲ弄シ人ヲ殺ス薙ヲ獲ルガ如ク、萬乘ヲ廢立シテ(*原文送り仮名「シヲ」は誤植。)勢ヒ天ヲ回ス、龍種ヲ剪屠シテ(*原文返り点「剪屠〈ニ〉龍種〈一〉」とする。)子遺無シ、赫々タル兩漢ノ帝王州、城闕墟ト爲リ宗祀傾ク、密謀賊ヲ斃シテ纔ニ顔ヲ解ク、那ゾ識ラン蕭墻ニ姦雄起リ、四海ヲ振盪シテ要津ニ據ルヲ、神威遂ニ歸ス傳國ノ璽、王孫狼狽路衢ニ泣ク(、)海内微躬ヲ投ス(*ママ)ルニ所無ク、跼蹐槎ヲ泛フ(*ママ)海東ノ國、海東之國日本ノ都、日本ノ天子聖明ノ主、仁政老ヲ養ヒ且(*原文「旦」とする。)ツ孤ヲ撫ス、帝孫ヲ顧眄シテ播蕩ヲ恤ミ、禮遇更ニ諸臣ト殊ナリ、詔シテ賜フ琵琶湖石鹿ノ郡、紫綬新綰金虎ノ符、何ゾ計ラン異域宗社ヲ祭ルヲ(、)東方世變シテ空ク古ト爲ル、石鹿冑裔亦タ流離ス、今(*ニ)於テ庶ト爲リ草莽ニ竄ス、龍顔隆準赤帝ノ孫、城市口ヲ糊シテ(*原文送り仮名「シヲ」は誤植。)屠估ニ混ス、妻拏數嗟ス甑ニ塵ヲ生ス(*ママ)ルヲ、世人謾ニ指シテ貧窶ヲ嘲リ(、)祖宗ヲ感念シテ獨リ哀號ス、悲憤ヲ遣ルカ(*ママ)爲メニ濁醪(*ろう)ヲ■(貝偏+余:しゃ:掛買する:大漢和36786)(*原文「余」の中を「示」に作る。俗字。)フ、君見ズヤ漢祖蛇ヲ斬ル三尺ノ劒、千歳ノ威靈口嗷々、帝王之孫徴何ニ在ル、人ニ向ヒテ説キ難シ卯金刀(*對酒纔忘憂、醉臥胡姫樓、腰挾■■之長鋏、身被■■之弊裘、傍有美髯少年子、撫枕喚起請交遊、願勸一盃結然諾、起坐不辭共献酬、少年慇懃問名姓、相君貌得非名流、欲對呻吟不能言、長跪數謝不堪論、請君劔舞我撃節、賎子開口緩憤魂、憶昔東漢紀綱傾、董賊跋扈崩風雷、枉害善良鋤雄俊、克復難施股肱才、劫主遷都逾僭侈、弄權殺人如獲薙、廢立萬乘勢回天、剪屠龍種無子遺、赫々兩漢帝王州、城闕爲墟傾宗祀、密謀斃賊纔解顔、那識蕭墻姦雄起、振盪四海據要津、神威遂歸傳國璽、王孫狼狽泣路衢、海内無所投微躬、跼蹐泛槎海東國、海東之國日本都、日本天子聖明主、仁政養老且撫孤、顧眄帝孫恤播蕩、禮遇更與諸臣殊、詔賜琵琶湖石鹿郡、紫綬新綰金虎符、何計異域祭宗社、東方世變空爲古、石鹿冑裔亦流離、於今爲庶竄草莽、龍顔隆準赤帝孫、城市糊口混屠估、妻拏數嗟甑生塵、世人謾指嘲貧窶、感念祖宗獨哀號、爲遣悲憤■濁醪、君不見漢祖斬蛇三尺劒、千歳威靈口嗷々、帝王之孫徴何在、向人難説卯金刀)龍門講經の暇、音律を好み、常に簫を吹き、頗る其技を究む、蓋し我邦中古以降傳ふる所の古樂なるもの、皆隋唐兩部の皷吹にして、六季〔六朝〕の遺毀〔壞れたるもの〕を拾収し、雜ゆるに夷蠻の歌曲を以てして、之が制度となし、其足らざる所を補ひ、以て李唐一代の遺音となす、龍門能く其説を研尋(けんじゆん)す、時に東叡王亦音樂を好み、人をして之を招がしむ、是より後龍門屡王府に詣る、甞て伶官數人と曲を王の前に奏し、湊合均しく■(人偏+八+月:いつ・いち:舞の列:大漢和572)舞(いつぶ)〔八■の舞とて名高き古樂〕を以てす、其屈伸(くわしん−ママ)俯仰(ふきやう−ママ)、綴兆舒疾、盡く節に中る〔度に合ふ〕、再始復亂、著往飾歸、奮疾して拔けず、極幽(*原文ルビ「きくよゆう」は誤植。)して隱さず、滿坐大に其技の妙に入るを歎ず、伶人東儀將曹稱して曰く、所謂翕如(きうじよ)に作(おこ)り、純如に從ひ、■(白+邀の旁:きょう:玉の白色・白い・明らか:大漢和22792)如(けうじよ)に成るものなり(*と)
子綽足下、昔吾を赤羽に薦む、吾常に之を知遇と謂ふ、然も南方草鄙の人、世に於て比する所なし、尚左右に擯せられず、之を浸潤〔讒訴〕の中に拔き、卓爾として衆口に拘はらず、何によりて之を得たるかを知らず、前年島子行吾が爲に緩頬(くわんきやう)〔温顔〕して之を説く、猶未だ其意を悉さず、足下吾が爲に赤羽に詣り、旁午以て議す、乃ち謂(おも)ふ宇子迪なる者徠翁の弟子にして、赤羽が親む所なり、子迪をして請はしめば則ち可ならんと、而して子迪に交驩せ〔打解けて交る〕しめんと欲す、事の始末は島子行に與ふる書に具す、足下未だ之を讀まざるを知る、嚮者(さきに)諸君崇古樓に飮む、吾も亦與かる、至れば則ち子迪在り、足下吾をして觴(さかづき)を子迪に献ぜしむ、既にして吾酬ゆ、笑談歡甚し、足下の喜知るべし、吾事ありて出づ、足下吾を招ぎ、節を子迪に折るべきを慫慂〔勸誘〕す、當時厚誼を辱くするを以て敢て言はずして之を諾せり、且つ聞く君修子迪を諭して吾を納れしめんとすと、此れ猶井に臨んで火を求むるが如し、豈に得ざるのみならんや、故に略足下の爲に鄙衷を陳せ(*ママ)ん龍門明和八年辛卯正月四日を以て歿す(*原文「歿ず」は誤植。)、享年五十三、高田原玄國寺に葬る、著す所古文孝經國字解、東槎餘談、鴻臚傾蓋集、■(土偏+熏:けん・かん・くん:土笛:大漢和5546)■(竹冠+虎:こ・く・ち:大きな竹の名:大漢和26132)(*けんち−笛の類。仲の良い兄弟の意。)集、金蘭集、李王七律詩解、劉氏無盡藏、龍門山人文集等あり
吾書を好み、旁(かたはら)歌詩を喜ぶ、常に海内の名家が不逮(ふてい−ママ)〔及ばざること〕を匡すを得ざるを以て憂となし、慨然糧を裹んで關に入る、甞て板美中の宅に飮みて子迪に逢ひ、即ち赤羽に謁せんと欲するを以て之に告ぐ、美中曰く、恐くは衆女蛾眉を妬(ねだ)まん〔美人を妬むの意〕と、今に至り、常に之を知言なりと謂(おも)ふ、子迪曰く、爾赤羽に從ふも何をか能くせん、豈に余に從ひて學ぶに若かんやと、吾笑つて曰く、吾南方に僻處すと雖も、■(肉月+繰の旁:そう:豚の脂・生臭い:大漢和29955)髪(さうはつ)〔胎髪にて幼少〕聞く所、赤羽あるを知る、豈に天壤の中に子迪あるを聞かんや、袵(にん−ママ)を歛(おさ)めて子輩に事ふるならば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らんやと、退きて以爲く、余や凡庸なり、何ぞ此人を尤めんと、以て意に挾まず、既にして赤羽に詣り、諸君の後に從ふも、神意接せず、業を問ふも端(たん)なく、退(*原文ルビ「おそ」は誤植。次の「懼」のルビ。)きて懼るゝのみ、翻然悟りて曰く、氾濫の器(き)、焉ぞ洪流の量を望まんや、然も聖門に不能を矜(ほこ)るの教あり、豈に終に屑しとせざらんや、鵜士寧余を責讓して曰く、聞く爾社中を醜詆して人なしと曰ふと、爾口を守ること瓶(へい)の如くせよ〔瓶子の如く口を大切にし妄に語るな〕、然らずんば與(*原文ルビ「あづ」は一字脱。)ること勿れと、對へて曰く、吾都に出づる數日、未だ時彦(じけん−ママ)の誰たるを知らず、安ぞ其有無(いうむ)を論ぜん、然も士寧は先進なり、敢て規に從は〔戒に服す〕ざらんや(*と)、吾發言せずと雖も、頗る其意を怪み、是より諸君の後に從ひ、唯寒暑を通ずるのみ、業とする所を齎して、口を發せんと欲するも由なく、終に敢て進まず、島子行詰りて曰く、爾何故に社盟に與ら〔社中に列席す〕ざると、吾其本末を陳し(*ママ)て之を子行に告げ、往いて之を赤羽に説かしむ、對へて曰く、余何ぞ拒まん、盍ぞ士寧と之を謀らざると、是に於て足下(、)士寧、仲英、子行を携へて吾に飮み、諸子をして吾に媾(こう)〔和睦〕せしむ、既にして裘葛を更ふる〔夏冬を經過す〕もの十たび、是に於て諸子敢て衷言するなく、又■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遥か:大漢和39198)(ばく)として吾を念はず、吾遂に跡を赤羽に絶つ、吾實に惑ふ、子行復た謂ふ、諸社友の言を聞くに、子迪愬(うつた)へて曰く、文翼なるもの上國の人なり、其行必ず浮華ならん、寧ろ夫子の業に咫尺(しせき)〔近くの意〕して、歸りて其郷に誇るなからんか、然らずんば則ち是を以て名を釣り、徒に以て哺啜(ほてつ)する〔飯を食ふ〕のみ、上國の人其性率ね浮華なり、豈に士新兄弟が徠翁を師とし、翁死して遂に之に叛くに傚ふなからんやと、吾笑つて曰く、何ぞ吾を距(ふせ)〔拒に通ず〕ぐの深きや、寧(なん)ぞ一士新を以て上國億兆の人を概するや、妬に非ざれば則ち愚なり、若し上國の人を以て、概して浮華となさば、赤羽も亦上國の人にあらずや、即(もし)教授束修(*束脩。頭注「束脩」とあり。)〔謝物〕を受くるを以て詬〔譏〕となさば、則ち寒士〔貧士〕何を以て哺啜を計らん、則ち赤羽も亦教授の人にあらずや、夫れ丈夫の世に在る、苟も見る所あらば何んぞ順を以て正となし妾婦の道(*原文ルビ「み」は一字脱。)に從ひ、■(走繞+咨:し:行き悩む・逡巡する:大漢和37245)■(走繞+且:しょ:行き悩む・逡巡する:大漢和37095)(しそ−ママ)〔逡巡と熟しグヅ\/して決意の果ならざること〕詭佞して委曲俗に從ひ、人の餘唾を拾ひて富貴に饕(かく−ママ)(*とう)せ〔貪り食ふ〕んや、彼の所謂豪傑の士、擯せざれば則ち可なり、己を以て權衡となし、之を衆に懸けて、己に同き者を索む、君子は爲さゞるなり(*と)、是れ既に子行に報ずるの語、故に敢て贅せず、今や赤羽既に逝く、乃ち彼の人に俯眉し〔眉を下げる〕て、白面少年の郷先生の鼻息(びそく)を仰(あふ)ぐ者に傚ふは、吾心安んぜず、足下命ありと雖も、吾敢て之を奉ぜず、高誼に戻(もと)る甚し、忸怩(ちくじ−ママ)〔慚愧〕言ふ所を知らず、末減〔罪を輕くす〕を爲さば幸なり
近者(ちかごろ)松君修吾廬を過ぐ、濁醪(だくらう)〔ドブロク(、)ニゴリ酒〕を■(貝偏+余:しゃ:掛買する:大漢和36786)(か)ひ〔懸賣で取る〕、枯魚(こぎよ)(*干物)を炙(あぶ)り、文藝を揚■(手偏+乞:こつ・きつ:撃つ:大漢和11806)(やうこつ)〔褒貶〕し、作者の微を詮次し、談此事に及ぶ、語りて曰く、韓客酬應の詩を讀んで、文翼あるを知ると、後高子式余に謂つて曰く、子未だ劉文翼が詩を讀まざるか、間者(このごろ)門人をして其龍門集を誦せしむ、近體間(まゝ)瑕疵あれども、要するに寸玉たるを失はず、五七言古體に至りては、各妙境あり、翩々たる〔輕くして力なき形容〕(*才知に優れ、洒落た)當世の才子なり、是に於て之を讀むこと益々熟す、竊に怪む、文翼の才を以て、何ぞ赤羽に遇はざるや、豈に其れ故なきを得んやと、後赤羽を過ぎて之を問へば、對へて曰く、余始め文翼を海雲寮社に識り、談笑杯酌を命じ、之を社會に登す〔芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社の會席に列せしむ〕、久しくして聞知する所なし、後文翼をして社盟を尋ね〔舊盟を追うて出席すること〕しめんと計る者あり、之を社友に謀れば、皆曰く、浮華なり、故に許さずと云ふ(*と。ここまで高子式の言。)、君修曰く文人行なきは、古より之を稱す、若し浮華を以て之を律せ〔律は擬律にて法に照す〕ば、古今の士、何に據りて手足(しゆそく)を措かん、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の社東壁子和輩の如き、安ぞ浮華の譏を免れんや、言行相顧み、進退禮を守る者、一世を擧げて幾くもなし、夫れ世の文士娼妓に惑溺して其職業を失ひ、才を遺れ色を存し、躯(み)を袵席(にんせき−ママ)〔寢具にて女色のこと〕に殞(そん−ママ)し、穴隙(けつげき)を鑽(き)り〔處女と私通する故事〕、東家の牆を踰へて其處子を■(手偏+樓の旁:ろう・る:引く・引き集める・引き寄せる・取る・誘う・抱く:大漢和12595)する者之あり、或は沈湎〔酒に醉ひて流連すること〕(*原文頭注「湎」の中を口に作る。)荒飮して檢操を顧みず、宴會に儀を失ひ、街衢の中(うち)人の肩臂(けんひ)に倚りて、怒號拳(けん)を張り、瞋目(しんもく)人を罵り、醜態發露、傍觀者の爲に■(女偏+冊:さん・せん・さつ:そしる:大漢和6169)笑(さつせう−ママ)(*さんしょう)せられ、妻拏に羞惡せらるゝ者之あり、或は博奕輸屈して〔勝負にマケル〕、身を貨物(くわぶつ)に賭し、購うて反ることを得るなく、或は好んで逋債を負ひ、以て其欲を縦にする者之あり、或は浮華流説、世を■(三水+于:お・う・わ:〈=汚〉:大漢和17132)して名を重■(米偏+胥:しょ:糧・白米:大漢和27035)(ぢゆうしよ)に釣る者之あり、余未だ文翼に此行あるを聞かず、何ぞ文翼を目するに浮華を以てせん、是れ必ず前(さき)に赤羽に煬竃(やうさう)する〔タキツケルにて讒する〕者あらん、赤羽若し能く文翼に熟せば、何ぞ此に至らんやと、松山世子英傑の資を以て握沐〔洗髪の時髪を握りて出づる故事、士を好む形容〕士に下る、高子式余を薦めて曰く、文翼の士■(女偏+交:こう・きょう:美しい・艶かしい:大漢和6214)姫(かうき)檻に臨み、春花の爛■(火偏+曼:まん:「漫」の譌字:大漢和19371')(らんまん)たるが如しと、世子余を清燕に延き、國士もて吾に遇ひ、一詩を呈する毎に、未だ嘗て善と稱せずんばあらず、君修傍より之を讃す、世子肥後侯に宴し、赤羽父子陪〔侍坐〕す、世子余が事を問へば、答ふるに才子を以てす、後世子に謁する毎に吾が恙なき〔病なきなり〕や否やを問ひ、而して吾を見んと欲すと謂ふ、赤羽居れば則ち吾を知らず、即ち吾を稱して才子となす、亦怪(*原文ルビ「あし」は一字脱。)むべし、何ぞ對ふるに浮華を以てせざるや、足下子行と屡請ふて許さず、一朝世子の問を受けて、輙ち吾を見んと欲す、益怪むべし、寧ろ參政の世子に諂ふ〔阿諛〕か、名家恐くは權貴に求むるなけん、吾甚だ惑ふ、近者源子澤吾を仲英に問ふ、仲英曰く、吾大人平生韓客に會して名を鬻ぐ者を惡む、文翼を排すは豈に他あらんやと、夫れ吾が韓客に會する、赤羽を去ること幾年ぞ、是れ其窮する所を知る、蓋し遁辭〔申譯〕に近し、寧ろ此を以て罪となさんや、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の輩韓客に會する者多し、亦何ぞ排して絶せざるや、抑も吾事に於ける、何ぞ前後相矛盾〔撞着〕するや、松山世子拙稿に跋して曰く、文翼は温潤〔和易にして露氣のあること玉の如き形容〕(*原文頭注「濕潤」とする。)謙讓、有徳の君子なる者之に近し、子遷余を見る毎に文翼を問ひ、且つ之を見んと欲す、子遷文翼を知らざるにあらず、社中の二三子、文翼が名を擅にするを猜忌し〔ソネム〕て、之を擯するなりと、之を世子に徴して疑はれず、諸を君修に質して譏られず、子式之を輓し〔前から引く〕、足下之を推す、古人己を知る者の一あるを欲す、今既に此の如し、何を苦んで子迪輩と周旋せ〔交際し奔走す〕ん、足下の眷命を辱くす、而して教に從ふを獲ず、慚懼(ざんく)言ふ所を知らず、故に此書を作り、管(くわん)を搦(と)〔執〕りて踟■(足偏+厨:ちゅ・ちゅう:ためらう:大漢和37868)之を久しくす、然りと雖ど(*ママ)も、中心に藏して之を言はざれば、恐くは終身鄙悃(ひこん)を足下に陳ぶるを得ざらん、故に略固陋を述べて左右に呈す、■(爾+見:ら:詳しい・委曲:大漢和34980)縷(じる−ママ)〔長たらしき言〕(*詳しく、事細かなこと)を厭ふなくんば幸甚し、亦唯高誼に戻るの罪、何を以て免れんや
斯人シテ正徳以前ニ生レシメバ、必ズ玉堂ニ上リ金馬ニ躡(*ふま)ン、斯人シテ物子之世ニ及ハ(*ママ)シメバ(、)必ズ當時諸公之下ニ立タズ、富貴天ニ在リ、身ヲ終マデ轗軻、茲ノ多口ヲ増ス、罪豈ニ我ニ在ランヤ、不朽ナルハ文、後世必ズ識者有ラン(*使斯人生正徳以前、必上玉堂而躡金馬、使斯人及物子之世、必不立當時諸公之下、富貴在天、終身轗軻、増茲多口、罪豈在我、不朽者文、後世必有識者)五十九字の間頗る龍門の人となりを盡す、以て其性行を概する〔概略を知る〕に足れり
良華陰、名は芸之、字は伯耕、華陰と號す、通稱は平助、良野氏、自ら修めて良となす、讃岐の人
華陰は其先秦氏、土佐長曾我部の支族〔傍系親族、別家〕にして、讃岐那珂郡良野邑の土豪なり、少時侠氣〔男氣〕あり、江戸に遊び、撃劍を長沼不遠齋に學び、其技を以て聞ゆ、又好んで書を讀み、業を林聖宇の門に受く、學成りて京師に來り、講堂を綾小路室街に築き、教授して業となす、其學專ら性理を主とせず、漢唐宋明諸家を折衷し〔諸家の長を採り短を補ふ〕て別に一家をなす、近世の所謂折衷學なるもの是なり、其業宇明霞と雁行す、當時の人宇三良平と曰ふ、宇三は明霞が三平と稱するを以てなり
華陰資性沈厚〔着實〕端默にして、深く輕薄の氣習を厭ひ、肯(あい−ママ)て當世の諸儒に交らず、其江戸に在ること八年、書を昌平學舍に讀む、世其人となりを知る者希なり、獨り桂秘書彩巖善く之を知りて、後之を東叡王に薦む、王甚だ之を敬禮し、廩米〔藏米〕を賜ひて其費に給す、王薨(*原文ルビ「がう」は誤植。)ずるの後京師に之く、勸修王又其名を聞きて之を聘す、遂に文學を以て王府に賓たり
周秦の書彼土に佚〔散佚と熟し紛失〕して我邦に存する者少なからずとなす、孔傳古文孝經が太宰春臺の校本に依り、始めて世に顯はるゝは人の知る所なり、華陰が鄭註今文孝經校本に至りては、之を知る者極めて希なり、寶暦の始め華陰釋■(大+周:ちょう:大きい・多い、ここは人名:大漢和5944)然(てうねん)の遺本を南都に得て、校定之を刊す、是より後鄭註始めて世に顯はる、其餘異本往々にして出で、今に至り鄭註の疏釋〔註解〕頗る多し、其實は華陰が校する所を以て、之が先鞭となすと云ふ
華陰平生小事と雖も、熟思苟もせず、必ず循々として〔丁寧反覆〕序あり、其機得(え)(、)理到るに至りては、能く人の爲し難きをなす、然りと雖も、嗜好の偏〔好む所の常識外れなる〕又異常なるものあり、甞て一狗を畜(やしな)ひて駒と名け、之を愛すること尤も厚し、人其狗の猛を惡んで之を撻(う)つ、華陰大に怒りて其人を罵り、又其人の養狗を執(とら)へて之を撻ち、毫も畏縮の色なし、朝暮群狗の吠聲(べいせい)を聞けば、杖(じやう)を持ちて立つ
華陰文學を以て家を起すと雖も、苟も侯家に仕ふるを欲せず、其意謂(おもひら−ママ)く、方今諸侯に雄才遠志、大に爲すあらんとするの君を見ずと、常に杜甫が「深山短景(*ヲ)催ス、喬木高風易シ(*深山催短景、喬木易高風)」の句を誦し、以て自ら譬ふ
華陰江戸に在るの時、一侯之を聘して仕官を勸むれども辭して就かず、侯に謂つて曰く、今世仕官の■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)徑〔ハヤ途〕たるもの三あり、國用を度支(たくし)〔財政の調理〕し、勾勘(かうかん)〔理財〕に巧にして能く貨財を殖(ふや)す、最も上策となす、運筆(うんひつ)端正能く俗體に通じ、書吏たるに堪ふ、之を中等となす、騎法精錬、閑馬を調肥して獸醫を兼ね、或は兵伍に練習し、禮義を協賛し、或は會計を善くし、衆寡を算料し、毫釐(がうり)〔一厘一毛〕を點檢〔調査〕す、之を下等となす、況んや吾儕(ともがら)詩書を左右し、翰墨〔筆墨又は文墨〕の圃に馳聘し、口舌を以て能となし、博宏才となすもの、是れ最も人情時勢に通ぜざるの甚しきもの、海内儒服(じふく−ママ)に溺(いばり)せ〔儒者を嫌ひて其衣服に小便すること〕ざるもの、幾人かある、此に由りて之を觀れば、文學を以て門戸を張る者は三等の外に在りと、侯笑つて止む
華陰明和七年庚寅四月三日を以て歿す、享年七十二、私に文惠と謚す、洛東の法華寺に葬る、著す所華陰良論、詩評集解、華陰文集等あり
田邊晉齋、名は希文、字は子郁、晉齋と號す、通稱は喜右衞門、平安の人、仙臺侯に仕ふ
晉齋の父希賢世々仙臺に仕へ、京師の邸監〔留守役〕たり、齋藤氏を娶りて晉齋を生む、晉齋幼にして學を好み、業を淺井重遠の門に受け、程朱の學を確信し、經義を以て縉紳の間に稱せらる、專ら山崎氏の説を唱へ、此を以て徒に授くと云ふ
晉齋平安に教授すること七年、其名時に著聞す、仙臺侯之を召見して月俸三十口を賜ひ、別に門戸を立てしめ、以て儒官(じかん−ママ)となす、仙臺に移居し、其職に在ること二年、侯其勞を賞して采地入〔知行領分〕三百石を加賜し、禮遇甚だ渥く、何もなく擢られて世子の傅〔御守役〕となり、又四百石を加賜せられ、先に賜はりし所を合せて七百石となり、班中太夫に至る、其殊恩〔特恩〕非常にして世の君臣の遭遇にあらず、夫れ仙臺は大藩なり、貴重の臣なきにあらず、又文學の臣少きにあらず、然も晉齋の如く出身して進む者あるを聞かず
晉齋幼にして夙慧〔才智の早く開けたる〕、郷先生が孟子を講じ、人皆堯舜たるべしの章を聞き、忻然追慕の心あり、謂て曰く、皐稷〔上古の名相〕伊周は企及すべからざるが如し、其他は未だ學んで至るべからざる者あらずと
晉齋侯の知遇に感じ、名教(*原文ルビ「めいげう」は誤植。)を維持し、不逮(ふてい−ママ)を匡救し、朝野を誘掖するを以て己が任とし、直諌(ちよくかん)〔直言して君を諌む〕忠告、避くる所なし、侯亦能く之を容る、侯甞て江戸に在りて病篤し、晉齋之を憂へ、自ら温泉に浴すと稱し、鹽竃祠に詣(*原文ルビ「まう」は衍字あり。)うで、危坐〔端坐〕絶食すること七日、身を以て侯に代らんことを祈る、家人と雖も、之を知る者なし、蓋し赤心の凝る所、至誠の■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)(おほ)ふべからざるものか、侯病癒ゆ、而して口を緘〔閉〕して深く秘すれども、士太夫(*ママ)の爲に歎稱せらる
晉齋甞て一友人の家に詣り、夜深くして方に出づ、從僕の門に立ちて寒に堪へざるを見、勞して曰く、吾人の家に適〔行〕くも亦自ら安飽(あんほう)す、汝等は此の如きに至る、素と恕〔思遣〕せざるのみと、是より以後公事に非ざれば夜行せずと云ふ
晉齋仙臺侯に從ひて封境を巡按し、某邑に宿す、小兒數十輩來りて衣裾を挽くを夢む、覺て而後父老の言を聞くに、乃ち謂ふ此邑の習俗女を生めば擧げず〔壓殺するなり〕、其生長の後資粧(しさう)を費すを恐るゝなり(*と)、晉齋之を憫み、上疏し〔書を奉る〕て其状を侯に告げ、即ち令を下して嚴に其事を禁ず、又人毎(こと−ママ)に女を生めば、米一石錢五百文を賜與するの制を立つ、邑民今に至るまで其惠(けい)を受く、皆晉齋が建議する所なりと云ふ
晉齋安永元年壬辰十二月十二日を以て歿す、時に年八十一、府城の南兩足山中に葬り、謚して守正先生と曰ふ、著す所伊達世臣傳、仙臺風土記、翠溪文集等あり
南宮大湫、名は岳、字は喬卿、大湫と號し、又煙波釣叟(*原文「鈞叟」とあり。以後の本文の記載により改む。)と號す、通稱は彌六、信濃の人
大湫の父勝世々尾張の上卿芋生の竹腰氏に仕ふ、勝の歿する時、大湫九歳、母の族結城某に養育せらる、幾く(*も)なくして母歿す、時に歳十三、多病を以て仕官せず、淡淵元氏に從ひて學ぶ、夙に神童の稱あり
大湫本姓は井上、芋生の禄を辭して、平安の一貴紳に官遊〔遊事に同じ〕するに及び、姓を南宮と改め、幾くもなく去りて伊勢桑名に往き、僑居徒に授く、從遊者甚だ多し、三都の士名を識らざるはなく、聲價一時に揚る
大湫學既に淵茂し〔深博〕、志を立つるに篤實忠誠を以て自ら勗(つと)〔勵〕む、其子弟を教ふるや、浮華を抑へて徳行を先(さき)にす、自ら處するや、實理を履んで虚動なく、居止進退、禮儀に依り、苟も言笑せず、委巷〔陋巷〕の人と雖も、之と交りて信あり、近隣の子弟之が爲に化せらる、人皆歎嗟して〔感動して歎稱す〕以て眞の君子となす
大湫桑名に在る時、一豪富の家に飮む、主人幻師(けんし−ママ)〔魔術師〕を招ぎて娯樂に供せんとす、幻師將に其技を奏せんとして逡巡進まず、謝して曰く、坐に異人あり、我技成らずと、辭して去る、滿坐の人大湫が凡ならざるを畏敬す、後又洞津に在る時、所親の家に飮む、其幻師又來りて技を作(な)したれども成らず、家人に私語して曰く、嚮に一儒士座に在り、我技成らざりき、豈に彼の異人が座に在るなからんやと、辭して去る、一人先づ歸る者あり、須臾(しばらくして)〔暫時〕走り反つて曰く、歸途村端の橋横架曲りて渡るべからずと、衆以て虚妄となし之を笑ふ、既にして衆皆歸り、橋に至れば果して信なり、大に恐怖し、再び所親の家に至りて投宿し、夜の明くるを待ちて歸らんとす、大湫尚座に在り、其怪を聞きて笑つて曰く、是れ必ず幻師(*原文ルビ「げんしよ」は誤植。)が其技の成らざるが爲に、公等を眩惑する〔目をクラマス〕ものならんと、衆大湫を強ひて偕に出て、又橋に至れば、視る所なし、大湫先ち進んで橋を渡り、衆皆之に從ふ、大に其徳量に服すと云ふ
大湫常に寛洪を以て人に教ゆ、嚴■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)(げんれい)を以て物を格する〔タゝ(*ママ)ス〕を好まず、謂(おもひら−ママ)く寛なれば能く衆を容ると、門人に課するも曾て譴責〔叱咤〕せず、奴婢(どひ)を遇するにも、呵責(かせき)せず、故に遠鄙(ゑんひ)〔田舎〕(*原文「違鄙」とあり。頭注に従い直す。)の人と雖も、主人を愛して、其勞に服事す、是れ世の奴婢を買ふ者と同じからず、一たび其家に事ふれば、自ら人を怨み己を褒(ほう)するの言なし
大湫年四十、江戸に遊(*原文ルビ「あ」は一字脱。)び、日本橋呉昌街に僑居して生徒に教授す、其名一時に高し、王侯貴人(きじん−ママ)より諸藩の士庶に至るまで、其塾に出入する者殆ど虚日なし、毎月二七の日を以て經史を講ず、業を受くる者大抵百餘人、遲れて至る者は講筵に侍する〔座に列す〕を得ず、厨下庭中に於て纔に聲咳を聽くのみ
大湫呉昌街に在ること五年、其業盛にして門前常に軒車〔貴人の乘る車〕駕籠を絶たず、其居狹隘(けふわい−ママ)に堪へざるを以て、講堂を八町堀牛草橋畔に築く、其樓より芙蓉峰〔富士山〕を望むべし、因りて扁して晴雪樓と曰ふ、晴雪樓の名當時に在りて、婦人小兒と雖も知らざる者なく、朝野に傳播(でんはん−ママ)す
大湫善く飮み斗を盡くす、年五十に至りて克己(こくき)〔自家の欲を制す〕酒を罷む、安清河之を訪へば、■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)待するに豐饌を以てす、大湫之に對し、未だ嘗て涓滴〔シヅク〕も飮まず、清河酣暢の餘、座客に語りて曰く、南宮は眞の君子、能く衆を包容すれども、杜康〔酒〕に於ては相善からず、之と絶す(*は?)憾むべしとなす、其意酒を罷むるを諷刺するに在り、而して其言甚だ傲(おこ−ママ)れり、大湫謙遜色を正して曰く、寒家(かんか)素と酒錢に乏し、飮を罷むるの後、幸に厨釀〔臺所にて造く(*ママ)る酒〕の費を損せずと、清河深く慚ぢて自失す〔憮然として手持なきこと〕
大湫東に來るの後、其塾に寓する四方の生徒常に二三十人、少き時も又十七八人に下らず、其貧なる者に至りては、大湫塾中の費銀を収めず、衣食を給して精を學業に專にせしむ、學生に非ざる者と雖も、其志す所を視て、窮迫を憐み、之を家に寄食せしめ、舊契〔故舊〕新知を擇ばず、其をして生計家産を得せしむ、妻林氏も亦大湫の人となりに類し、氣宇洪量〔度量宏きこと〕、物として容れざるなく、好んで人に施與(せよ)す、常に一人の手を以て、三十人許の衣服を裁縫す、聞く者歎嗟せざるなし
大湫同門の士紀平洲と情交尤も密なり、平洲既に郷里を離れて江戸に遊び、帷を下して教授す、屡書牘(しよどく)を投じ、大湫に東下して諸侯に仕へんことを勸む、大湫平安に官し、又美濃の岐阜に之き、伊勢の桑名に之き、松阪に之く、漫游數年、東西相隔つ啻(*原文ルビ「たゞに」は衍字あり。)に參商(さんしやう−ママ)(*しんしやう)〔星の名にて相隔つ(、)因りて遠隔の事に用ふ〕のみならず、相見ざること幾(ほとんど)二十餘年、明和中始めて江戸に來り、平洲が濱街道士井の家に寓すること、二十五日にして其僑居に移る、其際情話盡期(じんき)(*盡くる期、か。)なく、悲歡交至り、舊を談ずるの外他事なく、平洲之が爲めに病と稱して來客を謝し、講席(*原文ルビ「こうせつ」は誤植。)を息(やす)むこと十餘日、朝暮一室に在りて相(あい)談す(*ママ)る、緒(ちよ)を引き〔糸口を引出す如く間斷なき形容〕繭を抽(ぬ)くが如く、縷々として盡きず、塾生私に語りて曰く、二先生二十年來相思の情、抑欝〔積りあること〕の久しき、今日に至り發して狂病とならんと
大湫嘗て一侯の徴(めし)に應じて其邸に至り、歸路に五郎兵衞街を過ぎ、攫兒(くわくじ)〔掏摸〕に遇ひ、懷にする所の夾袋(かみいれ)を失ふ、其翌日牛草橋頭の箆頭舖(へとうほ)〔理髪床〕に一封包(ほうはう)を投ずる者あり、署して曰く、尊翁を煩はす、南宮先生に傳致せよと、即ち夾袋なり、姦凶の輩と雖も、大湫の人となりを敬慕すること此の如し
大湫の江戸に來るは本と某侯に仕官せんが爲めなり、居る二年にして其聲朝野に振ふ、諸侯之を聘する者多し、而して深意あり、思を仕途に絶ち、煙波釣叟(えんはてうさう)と號すと云ふ
大湫安永七年戊戌三月三日を以て歿す、享年五十一、牛島弘福寺に葬る、著す所論語師説述義、孝經指解補註、今文尚書定本纂、禹貢指掌圖考、學庸旨考、春秋三傳批考、守成編、勸學編、講餘獨覽、積翠閑言、病餘瑣言、芸窓放言、漁翁私言、大湫文集等あり
男壽、字は大年、藍川と號す、通稱は大助、學博く行修まり、能く箕裘〔遺業〕を繼ぐ、後尾張に仕へて侍讀となると云ふ
林東溟、名は義卿、字は周父、東溟と號す、通稱は周介、長門の人
東溟總角(そうかく)の時、山縣周南に師事し、州學〔藩學〕の明倫館に寓す、年十三擧げられて生員〔官費學生〕となる、遂に同門の士和智棣卿、山根清、田望之、小倉實廉、瀧長■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)、津田恭、田長温、仲由基、窪井惟忠と、長州十才子の稱あり、其聲夙に關西に著(あらは)る、中に就き棣卿、長■(立心偏+豈:かい・がい:楽しむ・和らぐ・凱歌・開ける・大きい:大漢和11015)、東溟、之を山縣門の三傑と稱す
正徳中物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園始めて李王修辭の學を江戸に唱ふ、此時に方り其業を和する者極めて希なり、特(ひと)り安藤東野、山縣周南其説を信じ、羽翼を相爲す〔ツバサとなりて幇助す〕、後周南其君長州侯に任用せられ、建議して學を起し、明倫館と曰ふ、學政一に物氏に從ふ、是を以て物氏の學盛に關西に行はる、東溟此中に在り、第一の才子と稱せらる、歳二十四、故ありて郷里を去り、浪華に來りて講書業となす、又平安に移り、四條高倉街に居る、從遊の士、日一日より多く、京攝の間操觚の士、藝園に奔走する者稍や物氏の學を崇奉するもの、東溟之が嚆矢となす、而後諸家往々其説に左袒する者あるは實に東溟より起ると云ふ
東溟浪華に在る時、備後の人鍋島公明、字は傳藏と云ふ者あり、東溟に學びて物氏の學を篤信す、嘗て物氏及び服南郭が人に與へて文章を論ずる國字の書〔假名交文の書〕二種を僞作(*原文ルビ「ぎさ」は一字脱。)し、其一を南郭燈下書と云ふ、書舖博文堂之を得て大に喜び、序を瀧鶴臺に請ふ、鶴臺輕信して以て眞となし、序を作りて與ふ、遂に世に刊行す、其一を徂徠國字牘と云ふ、書舖管生堂將に之を刻せんとし、東溟に序を求む、東溟其擬託〔眞似〕なるを辨知せずして其請に應じ、又世に刊行す、而して二書皆大に四方に流布す、後數年にして人皆其贋造なるを知る、燈下書は僞作の跡を徴檢〔立證〕することを得ざれども、國字牘に至りては、書中文罫を著す事に及ぶ、蓋し文罫は何人の所作(しよさ)なるを知らず、徂徠の家固より其書なし、通編譯筌題言を剽竊し、數條を點竄(てんさん−ママ)〔添削加除〕せるものなり、其僞作の跡現に掩ふべからず、是を以て服南郭、太宰春臺等皆東溟を以て後進を欺罔する〔ダマス〕ものとなす、東溟其責(*原文ルビ「せあ」は誤植。)を逃るゝを得ず、之が爲に排擯を受く
東溟年二十一、長州に在りて物徂徠歿すと聞き、七律三首を賦して遙に之を哭す、其詩傳へて■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園社に至る、高蘭亭稱して曰く、服子遷が哭詩の外、東溟を以て諸子の上に在りとなす、其詩に曰く
招魂ヲ賦シ得テ下泉ニ訴フ、幾囘カ涙ヲ掬ス白雲ノ邊、楊雄ノ奇字元授リ難シ、徐福ノ尚書誰カ已(*ニ)傳フ、僊客長ク辭ス江都ノ月、文星遙ニ隕ツ武陵ノ天、仲尼去テ後君(*ノ)若キハ少シ、五百還タ須ツ一大賢(*賦得招魂訴下泉、幾囘掬涙白雲邊、楊雄奇字元難授、徐福尚書誰已傳、僊客長辭江都月、文星遙隕武陵天、仲尼去後若君少、五百還須一大賢)
牛門ノ諸子總テ風流、手ヲ把リ多時半ハ遊ニ倦ム、東海ノ文章初テ漢ニ歸シ、中原ノ禮樂未(*ダ)周ヲ知ラズ、人空ク天禄燈猶挑ケ、春■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園ニ滿チテ鳥自ラ愁フ、風雨朝來天地ニ起リ、世間長ク此ニ呉鉤ヲ失フ(*牛門諸子總風流、把手多時半倦遊、東海文章初歸漢、中原禮樂未知周、人空天禄燈猶挑、春滿■園鳥自愁、風雨朝來天地起、世間長此失呉鉤)
十載名聲海内ニ加ハル、東流返ラズ長ク嗟スルニ耐ユ、樓頭遙ニ灑グ詞臣ノ涙、門下曾テ看ル長者ノ車、上國ノ黄金駿馬(*ヲ)亡ヒ、漢廷ノ明月仙槎ニ上ル、知ラズ遺草今存スルヤ否ヤヲ、中使先ツ(*ママ)臻ル司馬ノ家(*十載名聲海内加、東流不返耐長嗟、樓頭遙灑詞臣涙、門下曾看長者車、上國黄金亡駿馬、漢廷明月上仙槎、不知遺草今存否、中使先臻司馬家)東溟郷里を去りてより、誓つて仕進の門に就かず、王侯の聘問を謝絶し、髦士(まうし)〔俊物〕を京攝の間に教育すること殆ど三十年、後江戸に來り、本所横網街に居りて、生徒に教授す、而して先に國字牘(どく)を刊行せし故を以て、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の諸家之と交はらず、之が爲に卑薄せ〔イヤシミウトンズ〕られて聲價漸く減ず、常に詩酒を以て豪放〔放縦我まゝ〕自逸し、儒を以て居らず、其晩年に及び、紫碧仙叟と稱し、老莊の學を好み、優游〔氣樂〕以て身を終る
義卿は不佞が少小の友、國學に在るに及び、同じく周南に事ひ、與に筆硯を共にす、不佞東都に在る時、彼故ありて國を去り、不佞西歸の日、一たび手を浪華に握(にき−ママ)る、爾来二十年、今復洛〔京都〕に見る、彼今東都の行あり、彼在れば吾去り、吾來れば彼往く、離合常ならず、人をして益■(立心偏+宛:えん・わん:嘆く・意気が衰える:大漢和10771)悽(えんせい)〔寂しく感ず〕に堪へざらしむ、義卿門下に籍を列せ〔門弟となる〕んと欲するもの久し、是行や亦唯是故の爲めのみ、是より先き彼著書假託の名を以て、罪を諸先生に獲たり、辭の以て解くべきなしと雖も、其時に當り、京攝(けいせつ)の間能く復古(ふくこ)の業〔古學修辭〕を主唱する者なし、彼年少にして勇壯鋭氣、吾道を皇張〔鼓吹振起〕す、其情恕すべきものあり、伏して願くは海涵〔寛恕〕して既往を咎めず、彼をして灑掃(*原文ルビ「さいさう」は誤植。)の末技に供する〔掃除にて弟子となすこと〕を得せしめんこと、至願に勝えず東溟安永九年庚子九月二十五日を以て江戸に歿す、享年七十三、終に臨んで自ら墓誌を撰す、其墓江東牛島弘福寺に在り、著す所明官古名考、文則、詩則、明月編、林塾學規、東溟詩稿等あり
永富獨嘯菴、名は鳳、字は朝陽、獨嘯菴と號す、通稱は昌菴、後鳳介と改む、長門の人
嘯菴本姓は勝原氏、赤馬關(*赤間関)の永富友菴なる者の爲めに養はれ、其家に嗣子たり、後荻(*ママ。「萩」か。)府に至り、山縣周南に師事し、晝夜孳々(じゞ−ママ)(*しし)〔孜々〕として讀書を廢せず、群籍を蒐獵(しうろう)すること人に倍す、或は其精しからざるを疑ひ、圍繞(*原文ルビ「ゐぎやう」は誤り。)し〔取捲く〕て以て問へば、之と論對すること、丸を阪上に投ずるが如し、同門の士屬目(ぞくもく−ママ)(*しょくもく)せ〔望を屬す〕(*注目する意。)ざるなし、周南大に之を奇とし、常に曰く、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の餘響〔遺風〕、鳳能く獨り之を繼がんと、其稱揚せらるゝこと此の如し
嘯菴二十歳にして平安に遊び、始めて郷人栗文中なる者に依り、始めて山脇東洋に謁す、東洋鑑識〔人を鑑定するの明〕あり、一見して蓋世の才氣を眉宇の間〔眉の邊〕に看取し、其小數(*「數」は道理〈理数〉の意か。)を以て教ふべからざるを知り、輙ち謂つて曰く、洛の繁富、以て四方の風を觀るべく、山川の佳麗、以て達人の志を養ふべし、子若し余に意あらば、何ぞ必ずしも醫事是れ爲さんやと、塾中に寓せしむ、嘯菴醫を以て居ると雖も、既に其技を厭ひ、時輩を嘲笑し、益六經を研尋(けんじゆん−ママ)し、小節を修めず〔細かなる禮節に拘はらず〕、時に門下の士百を以て數ふ、屡嘯菴を東洋に讒して(*讒するもの〈あり〉)曰く、惡莠〔稻を害する惡草〕以て苗(ない−ママ)を損ず、鳳(*原文「凰」を文脈により改める。)は則ち莠なりと、東洋申諭(しんゆ)して曰く、汝が知る所にあらず、復言ふ勿れと、益之を優遇す
嘯菴年十一、古人の節を慕ひ、好んで經史を讀む、既にして良師友なきを憂へ、一夜青錢(せいせん)百文を持し、亡(に)げて赤馬關に走り、舟を買ひて東の方京に遊ばんとす、或は(*あるひと)諭して曰く、兒は實に兒なり〔子供は矢張り子供なり〕、百錢以て千里に遊ぶべけんや(*と)、嘯菴笑つて曰く、子何ぞ迂なる〔世事に通ぜず〕、父母之を聞かば、人をして追はしむるや必せり、固より遠遊を許さずと、遂に京に如く、居る期年(*數年か。)、志を得ずして歸ると云ふ
東洋常に人に語りて曰く、藤惺窩の羅山に於ける、物徂徠の藤東野に於ける、師弟の間益友と謂ふべし、吾が鳳に於ける、一敵國〔強き敵國の味方となるの意〕を得たるが如しと
東洋嘯菴に謂つて曰く、漢魏以來數百千年、彼の海外の國、割據試擧〔兵を起して一方に蟠踞すること、科第に登りて公卿たること〕、以て豪傑の爪牙を逞(*原文ルビ「たくま」は一字脱。)くす〔才を展ぶるの意〕べし、誰か敢て拘々(かう\/)として方技を守らん、宜(う)べなるかな其離倫超絶の士、志を濟世に留(と)むる者なきことや、今幸に張長沙の書あり、其人知るべからずと雖も、周漢の遺術備(つぶさ)に存す、古今の醫其條理を知りて之を施す者なし、元々の民養榮益氣の説に死すること一日にあらず、吾子蹤を醫卜に混じて〔蹤を混ずは仲間に入る〕心に快しとする者ならんや、而も生靈を夭折〔早く死す〕に救ひ、之をして天年を終へしむるは、其功良宰相と同じ、寧ろ我志を佐けて二千年の沈滯を闡發せ〔迷妄を啓發す〕んか、吾子唯焉を擇べよと、嘯菴之を聞きて、益其言行の時流に異なるに服(ぶく−ママ)し、始めて節を屈して志を醫術に專にすと云ふ
嘯菴東洋の一言に志業を感發し、終身の趨向〔方向の適從する所〕始めて定(さた−ママ)まり、鋭意(えい−ママ)憤勵、群籍を研究し、自ら處方〔治療の方法〕を試み、痼疾〔宿病〕を摧挫するを以て之が專務となす
嘯菴同門の士及外人と醫事を論ずれば、則ち面折排撃、餘力を遺さず、或は之を銜(*原文「含」を頭注により改める。)んで〔怨を含む〕劍を懷にして迫(*原文ルビ「せま」は衍字あり。)まる、嘯菴聲を勵まして詰りて曰く、醫は公務なり、而して私を以て其理を誣ゆ、何ぞ人を尤めん、子自殺せよ(*と)
嘯菴東洋の門下に在りと雖も、名聲都下に顯はる、某侯其術の精きを聞き、禄三百石を委して之を徴せんとす、而して之を東洋に謀る、東洋固より嘯菴の覊絆す〔馬の如く繋留める〕べからざるを知る、敢て之を強ひず、竊に語りて曰く、先聖曰く、仕へざれば義なしと、何の謂ぞや(*と)、嘯菴笑つて曰く、斯言豈に鳳の爲に發せんやと、之を固辭すと云ふ
嘯菴其居る所の室に一横■(匚+扁:へん:薄い・平たい・扁額:大漢和2689)(あうへん)〔額面〕を懸けて、之を愛重す、曰く、「乾坤我豪ヲ容ル(*乾坤容我豪)」の五字、何人の書する所なるを知らず(*と)雖も、其書高致風韻あるを以て、之を骨董舖に買ふと云ふ、自ら謂ふ、吾意匠此五字の外に出でずと
嘯菴資性豪放、好んで曠達(くわうたつ)〔流俗を抽きて氣まゝなる〕自縱(じじゆう)の行をなす、雄飮斗酒を盡す、其沈醉する毎に、友人至れば新知と舊識とを論ぜず、必ず牽挽して飮しむ、性飮に勝えざる者も、之を強ひて其醉嘔(すゐおう)するに至りて已む
嘯菴長崎の人飛鳥翰なる者と、東洋の塾に相知る、交誼親密なり、之と製糖の事〔此時代まで砂糖は支那より舶來するのみ(、)内地に産せず〕を談ず、翰曰く、郷里に長慶といふ者あり、尤も其製に精し、曾て之を華人に受くと、嘯菴人を遣して之を招ぎ、兄某と同じく就きて之が製法を習ふ、後尾州侯に説き、之を名古屋に肇造(ちやうざう)す〔初めて作る〕、其精なること華製〔支那製〕に超ゆ、傳播(でんばん−ママ)漸く博し、大に利を獲て其地を益す、之に依りて藥肆糖店の暴富を致したるものあり、其製今に至るまで之を沿用すと云ふ
嘯菴名古屋に製糖を創めてより、其製に傚ふ者漸く衆し、兄某も亦郷に歸り、之を長の荻(*ママ)府に製す、是より先き官長崎及び平戸五島諸國に命じて糖を製せしむるも、其法精ならざるを以て罷む、後數年にして尾長の産四方に流布す、官其或は姦に出づるを疑ひ〔密輸入の疑〕、寶暦六年丙子有司三員を長に下し、其製を按檢〔取調〕せしむ、長の藩吏大に怖れ、以て藩に不利なりとし、急に兄某を錮し、又嘯菴を召して之を幽囚す、一日有司其製を檢覈(けんかく)す、嘯菴其法を悉(つ)くして之を示し、極めて民間に利益ある事數條を陳す(*ママ)、有司其言を聞き、製糖の世に便あるに駭き、直に之を政府に奏す、政府以て世珍(せいちん)〔珍らしき産物〕を産する者とし、官命あり、幽囚を解かしむ、後白銀を賞賜し、關東山陽諸州に其法を頒(わか)ちて之を製造せしむ
嘯菴囚中に在ること六十五日、甞て警吏に謂て曰く、事を識るは姦ならず、而して自ら殃(わざわい−ママ)(*わざはひ)を生ぜんとす、疆■(土偏+易:えき・やく:国境・畦・畔〈くろ〉・道:大漢和5194)(きやうえき)(*原文及び頭注「疆場」は誤植。)〔邊境〕事なきは士君子の幸(*原文ルビ「さひはい」は誤植。)なりと、警吏其罪(*原文ルビ「つえ」は誤植。)に非ざるを憐む、嘯菴筆墨を請ひ、論一篇を著し、抱道論と曰ふ、後又四編を繼ぎ、嚢語と曰ふ、抱道論は嚢語中の道術第三是なり、嘯菴常に曰く、吾平生見る所斯五篇に過ぎずと
嘯菴經世〔世を治め國家を經營すること〕を以て自ら任ず、其言に曰く、道〔修身齊家治國平天下〕を學ぶは志なり、醫を行ふは業なり、敢て志を以て業を廢せず、業の爲に志を棄てず、夫れ志は勉めざるべからず、業は精ならざる可らずと
嘯菴東洋の門に學び、既に能く死生を決し、痼疾を摧く、來りて治を請ふ者、日に數十百人、之を試驗するに得る所の汗下(かんか)〔汗は汗を取り(、)下は下劑を以て利通す〕の方を以てす、後越前の奥村良筑が吐〔胃中の物を吐かす〕方に精きを聞き、東洋の男仲陶と與に徃いて見、悉く其法を受けて歸り、之を東洋に授く、東洋大に汗下吐の三法始めて備はるを喜ぶ、其技益習熟し、天下に治(ぢ)すべからざるの病なきを知る、甞て嘯菴に謂つて曰く、黄梅八千の衆、僅に一六祖〔六祖は釋迦の高弟〕あり、方外と雖も、人を得るの難き、其れ此の如し、而るを況んや、吾道に於てをやと
嘯菴遊を好み、足跡諸州に遍し、一歳の中京に居ること半(なかば)にして、大阪、伏見、奈良、萩府、長崎、岐阜、名古屋、江戸に相徃來すること此に五六年なり、後浪華に僑居し、薙髪して獨嘯菴と曰ふ、醫をなすの志始めて定まり、經史の講説を罷む、其業吉益東洞と雁行し〔平行に至らざるも少し後れて行く(、)猶雁の列飛する如し〕、名聲遠邇に喧傳す
吉益東洞は東洋より長ずること三歳、嘯菴より長ずること三十一歳、其藝州より平安に來る時、東洋其人となりを推轂(すいこく)〔推薦〕して、其業を顯揚す、後東洞古醫方を以て、一世を風靡す、其論著する所東洋と大同小異なり、常に東洋を稱して曰く、我醫方之を今の儒流(じりう−ママ)に譬ふれば、東洋は伊藤仁齋なり、衆に先ちて其端を啓けり、吾業は敢て物徂徠に讓らず、隱として一敵國の如きは、永富氏の子なるか、吾死せば我醫術は應に此人を以て海内の冠冕〔第一位〕となすべしと、其推重せらるゝこと此の如し
嘯菴常に近世の偉人四人を追慕して曰く、我國慶元以來大豪傑の士僅に四人あるのみ、山鹿素行、熊澤蕃山、伊藤仁齋、荻生徂徠、恨むらくは之と世を同くして吾心膓〔衷情〕を吐露せざることを(*と)
嘯菴浪華に僑居する時、人屡禄仕を勸むれども、皆之を辭す、後其煩に堪へざるを以て、一聯句を壁上に書して羈絆すべからざるを示す、曰く生涯潦倒(*ろうとう)ヲ■(手偏+弁:へん・ふん:手を打つ・打ち合う・翻る:大漢和11966)シ、世事浮沈ヲ甘ズ(*生涯■潦倒、世事甘浮沈)(*と)
寶暦中江戸に志道軒なる者あり、肆〔店〕を開きて、太平記、難波戰記等の野乘〔軍記雜書の類〕を講演す、其人尤も談論に長じ、其言■(女偏+尾: : :大漢和 )々(びゞ)として聽くべし、常に木造(ぼくぞう)の大陰莖を持(ち−ママ)し、手之を撫しつゝ、古に託して當時政府の得失を諷刺す、聽く者日に市をなす、官有司に命じて之を督すれ〔取締〕ば則ち曰く、我は是れ狂人なりと、他事を言はず、有司之を放ちて檢問〔■(糸偏+斗:とう・つ:告げる・黄糸:大漢和27267)訊〕せず、爾後豪誕〔放縱〕益甚し、嘯菴江戸に遊ぶの日、講肆に就きて、其太閤記を講ずるを聽き、之と姓名を通じ、相交遊す、志道軒は嘯菴より長ずること三十九歳、視るに後進を以てせず、大に其奇才を稱し、其志す所を奬成して曰く、我調舌〔滑稽談〕を以て、口を糊(こ)すること殆ど二十年、與に語るべき者なし、今吾子を獲たるは、我が大幸なり、夫れ猛獸も孤疑すれば、蜂■(萬+虫:たい:毒虫の名・長尾の蠍:大漢和33694)(ほうたい)〔形小なれども蟄せば人を毒す〕の毒を致すに若かず、高議して及ぶべからざるは卑論の功あるに若かず、古の人道義を抱負して一世の用をなさず、耕漁の間に隱るゝ者あり、天下を憂ふるの心を以て、耒耜(らいし)〔鍬鋤〕の利ならざるを憂ふるの心となし、人民を思ふの情を以て、網罟(まうこ)〔漁具〕の密ならざるを思ふの情となす、百畝(ほ)の田(でん)、五尺の水、栖々焉(せい\/えん)として〔忙はしき貌〕耕し、由々然として漁す、然も豈に敢て一日も天下を忘れんや、夫の風雲の會に乘じて其績を顯はし、水魚の遭遇〔君臣相得ること〕を得て其志を伸ぶる者と、其跡は異なりと雖も、其意は未だ甞て同じからずんばあらず、我意も亦此に在り、吾子亦之を知るかと、嘯菴其言の雋逸悲壯なるに服し、之を東洋に告ぐ、東洋屡之を稱して曰く、竊に此言を味へば、發憤(はつふん−ママ)すべき意あるが如し、斯人孰か英雄隱跡の徒にして、怪誕〔出放題〕自恣の言を假り、以て其沈鬱(*原文頭注「沈欝」とする。)〔胸に積りし不滿〕不平の氣を洩露するに非ざるを知らんや(*と)
嘯菴明和元年より痰喘(*原文ルビ「たんぜい」は誤り。)を患(うれ)へて臥床す、然も未だ其業を廢せず、義母妻孥郷里より來りて其病を看る、居ること五閲月(えつげつ)、病少しく癒ゆ、之を郷里に還らしめ、優游養生す、復た起つべからざるを知り、遺書を門人某等に附託し、三年丙戌三月五日を以て、浪華の僑居に歿す、享年三十五、門人相議して城南藏鷺菴に葬る、著す所吐方考、漫遊雜記甲乙編、嚢語、葆光秘録等あり
嘯菴の妻は義父友菴の女、二男を生む、伯名は友、字は充國、五島侯の文學〔御儒者〕たり、後仕を致して、江戸に講説す、享和元年辛酉六月十五日、歳四十五にして歿す、先君子〔著者の父〕默齋之と善し、其才學頗る父の風あり、叔通稱は又内、浪華の騎士西尾氏の後たりと云ふ
谷玄甫、名は友信、字は文卿、藍水と號す、通稱は玄甫、又以て號となす、横谷氏自ら修めて谷となす、江戸の人
玄甫の高祖、名は盛次、字は宗與、通稱は治兵衞、山城の人なり、京師新町武者小路に住し、彫工〔金物の鐫刻をなすもの〕を以て聞ゆ、寛永中始めて江戸に遊び、正保中に至り、官命あり彫物師となり、十口二百石を賜ふ、男名は次貞、字は宗知、襲うて治兵衞と通稱し、其職を繼ぐ、其子名は友常、字は宗■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)、後薙髪して遯菴と號す、其彫工は近世の上手なり、所謂宗■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)が一輪牡丹の類世人の熟知する所なり、故ありて禄を辭し、享保十八年八十餘にして歿す、其子名友貞、字は宗■(玉偏+與:よ:玉の名:大漢和21297)、三子あり、伯は友次、字は宗民、仲は友武、字は宗清、傳三郎と稱す、季〔末〕は即ち玄甫なり
玄甫六歳にして痘を病んで明を失ふ、八歳多紀玉池翁に從ひ、醫術を學ぶ、常に指を以て字を掌上に畫(くわく)し、書傳を記憶す、日に萬言を誦す、年十四五、其技略通じ、治療も亦頗る驗(げん)あり、遂に鍼醫(しんい)を以て專門となすと云ふ
玄甫年十七、服南郭が李攀龍の唐詩選を講説するを聽き、詩歌(しか−ママ)を以て醫術に換へ、唐明諸家の詩を講ぜんと欲す、人をして之を讀ましめ、一たび聽けば則ち記し、年を經るも忘れず、諸學生の解する能はざる所、通曉〔了解〕尤も敏なり、後高蘭亭に從ひて詩歌を學び、業を改めて詩人となる、遂に蘭亭の門に於て、五子の第一と稱せられ、名聲一時に嘖々たり
玄甫志を詩歌に專にしてより、昭明の文選、揚士弘の唐音(たうおん−ママ)、高廷禮の唐詩品彙、李攀龍の古今詩■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)、李杜全集の類、皆之を暗記す、常に曰く、諸君靦(てん)たる面目〔詩經の成語(、)面前に見るの意〕あり、而して不慧(ふけい)斯の如し、五官果して何の用ぞやと、其古を談じ事を策する、老博士の如し、人神仙を以て之を目するに至る
初め高蘭亭の詩を以て江戸に興るや、服南郭と並び、海内を旗鼓し、一時を風靡し、聲稱薦紳(せんしん)〔官吏〕の間に藉甚(せきじん)す、蓋し二家■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の教(けう)を奉じ、唐明を誦法(しやうはふ)し、李王に刻意し、其格調整合し、紀律森嚴〔峻嚴〕、一に之に■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)傚(もかう)す、蘭亭歿する後、其門人多く玄圃(*ママ)に從ふ、南郭特(ひと)り耆壽(きじ−ママ)にして世に存し、其赤羽橋に居るを以て、人之を赤羽と稱し、玄圃は萱葉街に居るを以て、人之を萱洲と稱す、王侯大人より青衿〔書生〕子弟と緇流黄冠(くわうくわん)〔山伏道士〕に至るまで、苟も詩を學ばんと欲する者は、刺を其門に通ぜざるなし、南郭歿するの後、玄圃蘭亭の高弟なるを以て、詞壇に主盟すと云ふ
玄圃詩歌を以て關東に睥睨し、聲價一世に高しと雖も、謙讓自ら居り、常に謂く予が性聲音(*原文頭注「聲青」に誤る。)〔音樂〕に拙く、針按に拙し、失明の後其の學習する所、百事通ずる所なし、惟詞藻は他技に較ぶれば、耿々として〔光る貌〕線路の明あるのみ(*と)
劉桂山の醫■(月+卷の頭+貝〈偏〉:よう・しょう:余る・無駄・残り:大漢和36878)に曰く、文卿中年鍼(しん)を棄て内醫に移り、藥方三百有餘を記す、道を行くの際、口之を誦す、予嘗て其廬に造(いた)る、坐に抽■(尸+世:てい・たい:抽斗:大漢和7670)(ひきだし)箱子(はこ)あり、其内に小紙袋(したい)を實(み)〔充〕つ、藥を貯ふること二百許(ばかり)、余に謂つて曰く、僕桂枝を用ふ、必ず東京の上好なるものを選ぶ、請ふ試みよと、手を伸ばして■(尸+世:てい・たい:抽斗:大漢和7670)(ひきだし)を引き、直に小袋中の物を取出して之を示す、其爲す所明目者に異なるなし、人或は以爲く小袋(たい)の次第に依りて之を記するならんと、竊に其一間を亂抽(らんちゆく−ママ)すれ〔順序を亂してヌク〕ば、或は摸し、或は嗅ぎ、而して其藥を言ふ、曾て一差なし、人皆驚歎(けいたん)す、是に於て其技亦權貴の間に行はる、遂に仕進の志あれども果さずして歿す
玄圃安永七年戊戌八月を以て病に罹り、十一月二十九日に至りて易簀す、享年五十九、平生天台の釋慈周と善し、病蓐に在り、將に自ら舊稿を改竄して以て全集となし、其批評を請はんとす、荏苒〔徒に時日を費す〕未だ業を卒(おは)らずして歿す、門人之を編輯して六卷となし、題して藍水遺草と曰ふ
鵜士寧、名は孟一、字は士寧、鵜殿氏、自ら修めて鵜となす、通稱は左膳、其本莊に居るを以て、人本莊先生と呼ぶ、幕府に仕ふ
士寧は家世々親衞騎〔旗本〕なり、所謂兩御番の御小姓組なるものなり、采地入一千石、父の蔭補(いんほ−ママ)を以て、夙に出身して其職に補せらる、官署に出入して之が當直をなすこと二十有餘年、後病を以て致仕家居すと云ふ
士寧幼にして讀書(とくしよ)を好む、性理家の學を修む、後徂徠が復古の業を喜び、之に嚮注し、遂に服南郭に從ひ、修辭の説を學び、李濟南に刻意す〔骨を折る〕、其題樣句法、一に之に■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)傚(もかう)し、機軸(きちく−ママ)氣韻稍や肖たり、當時稱して古文辭の一大家となす
紅葉山の寢廟〔御靈屋〕毎年正月十七日を以て、幕府登拜の禮あり、士寧大駕〔將軍の乘物〕に扈從(こしよ−ママ)して、馳道(ちだう)〔御成道〕を警衞す、俄頃(にわか−ママ)の間に五言排律一首を賦し、之を口吟す、其詩に曰く
岡巒郭ニ臨テ欝タリ、原廟基魏ヲ兆ス、石燈紅葉ニ攀チ(*ママ)、宮牆翠微ヲ遶ル、雙ヒ(*ママ)高シ華表ノ柱、次ニ列ス綺疏ノ扉、禁禦人到リ難シ、奥區ハ靈(*ノ)依ル所、■(艸冠+惠:けい・え:香草:大漢和31968)肴時物饗シ、珠匣月遊衣、冥漠猶ホ在ガ如ク、■(君+列火:くん:燻す・香気・香味菜:大漢和19069)蒿且違ハズ、蓋■(敬+手:けい・ぎょう:捧げる・挙げる・高い・峙つ:大漢和12808)初日動キ、伏帶彩雲飛フ(*ママ)、霜露凄トシテ其下ル、壇庭肅トシテ未(*ダ)晞(*かわ)ガ(*ママ)ズ、鞁聲邃宇(*ヲ)開ク、爐氣重■(門構+韋:き:宮中の小門・役所:大漢和41425)ニ煖ナリ、孝思神明ニ應シ(*ママ)、和祥邦國歸ス、松標長ク蔚茂シ、棣萼又芳菲、蹕ヲ駐メテ儀服嚴ナリ、班ヲ分チテ羽■(方+ノ+一+斤:き・げ:旗・旗印:大漢和13638)ヲ擁ス、群公祭祀豫(*をゆる?)シ、我輩光輝ヲ共ス、頌ニ代ル新詩ノ句、小臣筆(*ヲ)抽キテ揮フ(*岡巒臨郭欝、原廟兆基魏、石燈攀紅葉、宮牆遶翠微、雙高華表柱、次列綺疏扉、禁禦人難到、奥區靈所依、■肴時物饗、珠匣月遊衣、冥漠猶如在、■蒿且不違、蓋■初日動、伏帶彩雲飛、霜露凄其下、壇庭肅未晞、鞁聲開邃宇、爐氣煖重■、孝思神明應、和祥邦國歸、松標長蔚茂、棣萼又芳菲、駐蹕嚴儀服、分班擁羽■、群公豫祭祀、我輩共光輝、代頌新詩句、小臣抽筆揮)詩成る十四韻、稿點を加へず、傍觀者皆其敏■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)なるを歎ず
伊藤錦里、名は縉、字は君夏、錦里と號す、又別に凰陽と號す、通稱は莊治、平安の人、越前侯に仕ふ
錦里は坦菴の孫、龍洲の子なり、龍洲名は元基、字は崇、龍洲は其號、又宜齋と號す、本姓は清田氏、播磨赤石の人、始めて京師に遊び、坦菴の門に遊びて其學を得たり、坦菴其人となりを喜び、嗣子なきを以て、其女を以て之に妻(めあ)はし、伊藤氏を冐さしむ、後職を襲ひて本藩の文學となる、其操行學術家聲を墜さず、河村氏を娶りて三男を生む、伯は則ち錦里、仲は北海、出でゝ江邨氏の後となる、叔は■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟、父の命に依り、清田氏を復して其祀を奉ずと云ふ
錦里家庭に學び、經藝を以て都下に聞ゆ、蓋し坦菴より錦里に至るまで既に三世、箕裘相繼ぎて後進に領袖たるを以て、之を崇奉する者多し、伊藤東所(東涯の長子)と與に人之を京師の兩伊藤と曰ひ、婦人小兒と雖も、其名を知らざるなし
錦里は二弟北海■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟と與に、聲價一時に高(*原文ルビ「だか」は誤植。)し、錦里は經藝を以て聞え、北海は詩歌(しか)、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟は則ち文章、愼士佩蘭清公稱して以て伊藤氏の三珠樹(しゆじ−ママ)〔珠玉の樹にして麗はしき形容〕となす
錦里資性愼重、名を好まず、謁見を請ふ者ありと雖も、贄(し)を執る者に非ざれば、概して之を謝絶す、謂く博交泛游〔何人とも漫に交際すること〕は人の名を好むが爲めなりと、故に當時の儒流(じりう−ママ)其人となりを知る者少し
錦里越前に仕ふる殆ど四十餘年、數(しば\〃/)江戸若くは福井に祇役すと雖も、奉職惟れ謹んで外交をなさず、其休暇して京に在るに當り、經義を講説して徒に授け、足閾(しきみ)を履まず〔外出せず〕、習俗應酬の詩文(しもん−ママ)を爲(つく)らず、而も其名遠く時輩の騷雅博交を以て、藝苑に鳴る者の上に出づ
錦里居る所の室、壁上に「志士ハ溝壑ニ在ルヲ忘レズ(*志士不忘在溝壑)」の語を掲げ、以て自ら警(いまし)む〔戒飭〕、常に子弟を訓(おし−ママ)へて曰く、士たる者は此語を念はざるべからずと
錦里曰く、學に志してより殆ど三十年、獨り道を明(あきらか)にするを得ざるを以て憂(うれへ)となす、而して大に名教に戻ることなし、終日己が過を省せ〔顧みて己に反求す〕ざれば、聖賢の旨を絶す、終日人の過を言へば、天地の和を傷(やぶ)る、吾此二者に於て人に讓らず(*と)
錦里安永元年壬辰三月九日を以て歿す、享年六十三、私に謚(*原文「溢」は誤植。)(おくりな)して文格先生と曰ふ、京極大雲院に葬る、著す所邀翠舘集、尋海草、尋山草等あり、二子伯名は聖謨、字は世典、紫山と號す、叔名は聖訓、字は世奏、江亭と號す、皆早く歿す、播磨の人鹽田士善を養ひて嗣となす、士善字は榮吉、君嶺と號す、其才學父祖に減ぜず、職を襲ひて以て藩に仕ふ
江邨北海、名は綬、字は君錫、通稱は傳左衞門、八幡侯に仕ふ
北海は伊藤龍洲の第二子、錦里の弟なり、正徳癸巳の春京師に大火あり、龍洲の家災に罹る、妻河村氏播州赤石に往き、兄河村某に寓す、三月十四日を以て北海を茲に生む、居る數月龍洲の家經營〔造營建築〕既に成りて京に歸る、北海京に居るを以て、自ら平安の人と稱すれども、其實は播州の産なり
北海九歳より十八歳に至るまで、叔父(しゆくふ)河村某の許に在り、赤石に成長す、未だ甞て學を知らず、好んで習俗の所謂俳諧を作り、頗る其奥を究む、時人目して以て錦心繍膓〔腹中綺麗なる織物より成るの意〕となす、赤石の文學梁蛻巖一見して其才を愛し、勸むるに學に從はんことを以てし、謂つて曰く、子が才を以て若し吟哦(ぎんか−ママ)〔詠懷〕をなさば、盛唐諸家騷雅〔詩歌〕のあるあり、豈に方俗の十七言俚歌を苦思せんやと、北海此言に感激し、始めて學に志すと云ふ
北海學に志してより、晝夜孜々、手卷を釋てず、誦讀既に遍(*原文ルビ「あま」は一字脱。)し、此に從事すること僅に三年、享保甲寅春年二十二にして父龍洲に代りて經史を講説し、生徒に教授す、兄錦里と家學を研尋し、先業〔先代より傳承の業〕を羽翼す、又子弟を遇するに誘掖(*原文ルビ「ゆうえ」は一字脱。)虔誠〔敬信誠實〕、殆ど老成の人の如し
北海の義父毅菴名は簡、春甸と號す、專齋の曾孫なり、專齋の第二子宗■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)幽齋と號す、其子名は宗流、訥齋と號す、毅菴の父なり、毅菴二子あり、長名は宗實、季名は如圭皆先ちて歿す、毅菴宮津侯(青山大膳亮)に遊事す、曾て侯の駕に從ひて江戸に在り、病篤し、其家龍洲と數世の通家(つうか)なるを以て、一封の書を以て、後事〔死後の事ども〕を龍洲に託し、享保十九年甲寅六月十二日を以て歿す、享年六十九、龍洲毅菴と約し、北海を以て其嗣となす、是より北海職を襲ひて宮津侯に仕ふ、時に年二十二
北海談論に長じ、其經史を講説する、聽く者皆其窈妙〔奥妙〕を剖析し、精義神に入る〔精微極まる〕に感じ、稱して三珠樹中の第一となす
北海常に子弟に謂つて曰く、余の人を取るや、其忠厚誠愨(せいかく)にして、言口より出す能はざるに似たる者を喜ぶ、論辯縱横談説飛騰し、鼓觜〔喙を鼓動す〕饒舌にして修短〔長短〕を注射する者は要するに盛徳の事にあらず、余言語を以て諸名士の間に稱せらるゝは、深く慚愧(ざんぎ−ママ)する所なり(*と)
北海資性敦厚〔篤實〕精緻、之に加ふるに風雅温藉(をんせき−ママ)〔雅致ありムツクリとして圭角なき有樣〕を以てす、人皆之に附和依頼す、俊才の士多くは其門より出づ、當時之を三都の三北海と稱す、(大阪の片山猷、字は孝秩、北海と號す、江戸の人入江貞、字は子實、北海と號す)
北海文學を以て、宮津に仕ふること殆ど九年、三十に至りて、吏才あるを知り、擢んでられて京師の留守(るすい−ママ)となり、兼ねて錢穀の出納を掌る、事に幹たる〔成語にて擔任〕こと此に二十四年、邸舍大に理まる、後侯美濃の郡上に移封せらるゝや、北海を召して大に用ひんとし、果さずして世に即く、乃ち致仕して對梢館を室町四條の下街に築き、翰墨〔筆墨〕を以て自ら娯み、諸侯の聘問を謝絶し、再び仕進の門に入らず
北海文學を以て、一時に鳳鳴すと雖も、其他姓を冐すを以て、抗顔(*原文ルビ「」は誤植。)經義を以て專門となすを欲せず、自ら好む所の詩歌(しか−ママ)を以て、遠迩に振揚すること五十年、是より先き詩歌を以て、業を輦轂(れんこく)の下に唱ふる者ありと雖も、四方推奉の多く、藝苑慕悦〔景仰〕の深き、未だ北海の盛なるが如きはあらず
北海の經を講ずるや、一に朱子の説に從ひ、又家祖專齋剛齋の遺説を敷演し〔擴めて述ぶる〕、未だ曾て一言も自説(じぜつ−ママ)を發せず、常に己が説を以て、朱説を辯駁する者を指笑す、嘗て岡白駒と經義を論談す、白駒口を極めて朱説を非斥す、北海曰く、伊物二先生より己が所見を以て是非を論定し、得失を取捨し、遂に私言を以て門戸を皇張し〔一家を立つる〕、其臆斷〔獨斷〕新奇の説を逞くし、務めて先儒(せんじ−ママ)と異をなす、爾後人々之に傚ひ、經義を以て世に名ある者、各論語の解を著さゞる者なし、是れ一部の論語以て崇奉すと爲すか、戯弄すと爲すかと、白駒爲に赧然たり
北海義高祖專齋より家世美を濟(な)〔成〕し、箕裘相繼ぎて先業を墮さず、上は縉紳より下は士庶〔士人と平民〕に至るまで、崇尚他に異なり、毎月十三日を以て、諸名士門人子弟其賜杖堂に集まり、詩を賦すること、既に五世百五十八年を經て、未だ曾て斷絶せず、當時賜杖堂の詩盟會と曰ふ、是れ海内未だ曾て有らざる所なり
北海天明八年戊申二月二日を以て歿す(*原文「ず」を改める。)、洛東善正寺に葬る、著す所蟲諌、樂府類解、授業編、諸子■(手偏+頡:けつ・けち:採る・採取する・挟む:大漢和12900)英、明七子詩譯説、日本詩選正編、同續編、日本詩史、日本經學考、杜律刪注、唐詩訓解刪注、北海詩鈔、北海文鈔等あり
清田■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟、名は絢、字は君錦、初め字は元■(玉偏+炎:えん:削る・玉を琢く・美玉の名:大漢和21073)、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟と號し、又孔雀樓主人と號す、通稱は文興、平安の人、越前侯に仕ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟は龍洲の季子〔末子〕なり、龍洲出でゝ伊藤氏を冒すを以て、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟をして本姓に復歸(ふくき−ママ)し、清田氏の祀を奉ぜしむ、清田は播州の著姓〔望族にて有名なる家柄(*原文頭注「柄」を手偏に作る。〕にして赤松圓心の裔、別所の庶族なり、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟家庭に學び、龍洲が蔭補(いんほ)を以て擢でられて、儒官(じくわん−ママ)となり、月俸二十五口を賜與せられ、兄錦里と其優遇を均しくすと云ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟の字は其原(もとづ)く所を詳にせず、門人端隆(字は文仲、春莊と號す、近江の人)曰く、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟は何の義たるを知らず、甞て之を先生に問へども、先生笑つて答へずと云ふ、余甞て孔雀樓集を讀むに、昔者蘇東坡■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)に在り、固より形跡を流品に存せず〔文人の顔をなさず〕、故に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)人坡が書を得んと請ふ者なし、余が坡に及ばざる萬々なり、而して隣人時々余が書を請ふ、其■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)人より賢(まさ)ること甚だ遠しの語あり、蓋し此に原(もとつ)くものか(*と)
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟總角(そうかく)の時、梁蛻巖(*原文「嚴」は誤植。)を赤石に訪ひ、其家に寓すること數十日、平安に歸るに當り、蛻巖贈言(さうげん−ママ)あり、蛻巖集中載する所、滕元■(玉偏+炎:えん:削る・玉を琢く・美玉の名:大漢和21073)を送るの序是なり、其中言へるあり、曰く曠達を慕ひて彝倫〔人倫の道〕を棄(*原文ルビ「すつ」は衍字あり。)つること勿れ、藻繪(さうくわい)〔詩文の字句を彫琢すること〕に耽りて大業(だいげふ)〔經世の要務〕を廢すること勿れと、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟朝暮此二語を誦すと云ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟性酒を好まず、平生糖菓を嗜(たし−ママ)んで(*原文「て」を改める。)之を喫す、其門酒を載せて字を問ふの人なく、皆糖菓を贈る、晩年に至り、糖を食(くら)ふこと多きを以て、痰塞の病を得たり
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟人の爲めに壽詩を作るを好まず、或人其親(しん)の爲めに壽賀(じゆか−ママ)の詩を當時の諸名家に請ひ、多得を以て歡となす、亦來りて請ふ、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟曰く、子第(たゞ)〔只〕能く賀せよ、人の子たる者、其親を壽するに、何ぞ多言を須ひん(*と)
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟少年にして家庭に學び、又齋靜齋(名は必簡、字は大禮、安藝の人、南郭の門人、京師に講説す)と與に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學を講究し、古文辭を喜ぶ、既にして其非を悟り、經義は一に朱子を以て主となし、其説を確信す、文章は專ら歐蘇〔歐陽修(*ママ)蘇東坡〕を以て法となし、別に機軸を出す、晩年稗官小説を讀み、尤も象胥〔支那音〕の學に精し
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟時習の嘉隆七子〔明の七詩人〕の詩を厭ひ、深く初年之に從事したるに懲り、屡門人に語りて曰く、才は學に生ず、學は才に由らず、僞唐の詩を作らん乎、黄金歴下生を鑄よ〔黄金鑄は崇拜す〕、眞唐の詩を作らん乎、鐵鞭歴下生を打てよ〔鐵鞭打は排撃す〕、首長となるも奴隷となるも、其人に在るのみ(*と)
兄北海詩歌を以て四方を風靡し、名聲一時に喧傳するより、四方の士之と交を結び、詩筒往來し、贈答唱和し、從遊の徒も亦其爲す所に倣ひ、應酬人を擇ばず、虚稱空譽、發揚實に過ぎて〔相互に褒合ひ實價に過ぐ〕、輕薄習をなす、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟之を以て憂となし、意甚だ悦ばず、後北海慶元以來の詩を選び、日本詩選となす、四方の士其擧を聞き、爭ひて選擇を請ふ者頗る多し、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟北海に謂つて曰く、家祖坦菴先生より今に至るまで、奕世〔歴代〕の業、幸に家聲を墮さず、儒林に嘉稱せらる、經義の專門すら漢唐を辯別し〔漢唐の經説を識別する者さへ未だ出來ずの意〕、衆説を折衷するに遑あらず、而るを况んや、我邦の詩歌をやと、之を罷めんと請ふ、北海其言に從ふこと能はず
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟其業未だ盛ならざる時、桃花大宮西街に僑居す、兄北海と其趣を異にし、博く當世に交はるを好まず、又儒者(じしや−ママ)を以て人に稱せらるゝを欲せず、隣に賣粉店あり、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟素と其人を識らず、其人も亦■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟が果して何等の人なるかを知らず、居る數日稍や往來し、後大に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟を親敬するに至る、其人釣魚を好み、間暇ある毎に一出三四十里、若くは四五六十里、魚を獲て歸れば必ず■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟に供す、其家に湯浴(たうよく)を設くれば、先づ■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟をして浴せしむ、蓋し■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟が此に僑居してより四隣の風俗自ら善く、少年の輩花街(*原文ルビ「くつがい」は誤植。)柳陌
〔花柳■(艸冠+大+巳:::大漢和に無し)(*巷)と稱して遊廓〕に遊ぶ者なきを喜ぶなりと云ふ
福井の地たる、冬に入れば雨雹交作し、而して後雪降り、猛風亦加はること多し、故に士人從僕をして長柄(ちやうへい)の大油傘(からかさ)を■(敬+手:けい・ぎょう:捧げる・挙げる・高い・峙つ:大漢和12808)(けい)せしむ、奴隷の徒能く之に習熟し、猛風怒吼に遇ふも、雙手把持(はち−ママ)し、全力を以て之に敵す、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟福井に在る時、其僕京より從ひ、未だ曾て北地の習俗に閑(なら)〔慣〕はず、其臂力未だ大油傘に任(た)へず、往々風の爲めに奪(うばへ−ママ)去らる、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟乃ち常傘を用ひ、自ら之を持するも、素と足不良なり、風雨中に出づる毎に、傘を左にし仗(つえ)を右にし、彼此相激し、全身顛朴(てんぼく)〔轉倒〕して衣服を泥塗にするより、其勞に堪へず、已むを得ずして遠きに行く際の若き、蓑笠(*原文ルビ「さりつ」は誤植。)を著し、草鞋を履む、觀る者之を■(女偏+冊:さん・せん・さつ:そしる:大漢和6169)笑(さつせう)せざるなし、■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟曰く、冠服〔冠服(*ママ)にて朝服〕を脱して野に隱るゝ者は古者(*原文ルビ「いにしい」は誤植。)之あり、今蓑笠(さりつ−ママ)を著して仕ふる者は吾を以て始めとなさん(*と)
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟平生好んで温史〔司馬温公の資治通鑑〕を讀む、三十歳の時既に世の所謂三遍(へん)通鑑〔三遍讀むの謂〕を讀むこと十三回なり、自ら批評を作りて娯(たのしみ)となす、晩年に至り積歳記する所數十卷、其要を拾■(手偏+又4つ:てつ・たつ・せつ:拾い集める・抜き取る:大漢和12241)して十卷となし、資治通鑑批評と曰ふ、其批評する所盡く人の意表に出づと云ふ
■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟天明五年乙巳三月二十三日を以て歿す、享年六十七、京極大雲院に葬る、著す所五經傍訓、史記律、資治通鑑批評、五雜俎纂註、唐詩府、藝苑談、藝苑譜、孔雀樓筆記、孔雀樓文集、同遺稿等あり
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