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莊子謙、名は允益、字は子謙、字を以て行はる、通稱は平五郎、莊田氏、自ら修めて莊となす、江戸の人、臼杵侯に仕ふ
子謙の先は越後城氏の族なり、建久中莊田次郎と云ふ者、源右府頼朝の爲めに亡さる、其子孫播遷(はんせん−ママ)〔漂泊〕して所在聞ゆるなし、父立允に至り、始めて水府の支封〔分家〕某侯に仕ふ、故あり臣たるを致して去る、後臼杵侯に仕へ、田中氏を娶り、子謙を江戸に生む、子謙髫齔〔七八歳〕にして父母を喪ひ、叔父宗伯に鞠養せらる、幾くもなく臼杵に移居し、遂に臼杵の人となる、故に自ら豐後人と稱す
子謙少くして學を好み、晝夜卷を釋(すて)ず〔書籍を放な(*ママ)さぬ〕、叔父深く之を愛して平安に遊學せしめ、數年にして歸る、臼杵侯擧げて儒官(じくわん−ママ)となし、專ら宋儒の説を修めしむ、後侯の駕に從ひ〔乘物に從ひて隨行〕、江戸に來る、嘗て服南郭を見て大に其學術に服し、盡く舊習(きしふ−ママ)を棄てゝ修辭を學ぶ、時に年三十餘
子謙少壯より遊を好み、足跡關左(ぐわんさ−ママ)〔關東〕に遍し、寛保元年を以て富嶽に登り、芙蓉記行(*ママ)の作あり、其文簡奥(かんおう)〔奥深き〕にして所謂古文辭なるもの、我邦近來希なる所なり、服南郭(、)餘熊耳大に之を賞し、以て李濟南の骨髓〔精神〕を得たりとなす、門人世に刊行したれども、後鏤版火に罹り、其書傳はるもの甚だ稀なり
或は謂ふ、子謙は芙蓉記を作りて暴(にわ(*ママ)か)に〔卒然〕歿すと、余臼杵の藤井士成が藏する所の芙蓉記を得て之を讀むに、其登嶽は辛酉の歳七月に在り、其記を作りしは八九月の亥に在らん、而して子謙の歿したるは寶暦甲戌に在り、辛酉より甲戌に至る、中間十四年、豈に記を作りて暴に歿すと謂はんや、葛城英堂が人物志に云く、子謙芙蓉記を作り、其嶄巖峻■(山偏+曾:そう・しょう:山が高く険しいさま:大漢和8458)(ざんがんしゆんそう)の状〔ソバタチケワ(*ママ)シキ状〕を文辭の間に闡發(せんぱつ)し〔發摘顯揚す〕、千古の秘奥を洩らして、罪を嶽神に得て暴に歿すと、人皆山靈の祟を受けたりと謂ふ(*と、又)、江北海が詩史に云く、子謙才を負ひ奇を好み、甞て富嶽に登る、凡そ民庶之に上る者必ず齋戒喫素〔精進潔齋〕して敢て上る、且つ相戒めて山中の事蹟を語るを許さず、子謙其記を作り、始めて造化の秘を漏す、幾もなく暴に卒す、世人以て罪を嶽神に得たりとなすと云ふ(*と)、之を要するに斯言子謙を妬忌する〔ネダ(*ママ)ム〕者の口より出で、素より事實にあらず、二家誤りて之を信ず、均しく是れ無稽〔根據なきこと〕の談なり、余之が爲めに聊か其誣妄を辨ずるのみ
子謙資性謙讓にして、■(手偏+邑:ゆう:拱く・敬礼する:大漢和12105)遜(いうそん)〔抑損して高ぶらざること〕人に下る、門人子弟と雖も、師道を以て之を遇することを欲せず、芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社(ふきよ)社の諸子、文章詩歌を以て一時に振揚する者、各授簡操觚〔文學に從ふ〕の徒を以て自ら處(お)り、動もすれば輙ち世人を睥睨(*原文ルビ「へいげん」は誤植。)し、往々之を以て罪を名教に得る者あり、子謙鵜士寧と臭味相同じく、恒に文士の鋒焔〔ホコサキと氣焔〕(*原文「焔」字の旁を「稲」の旁とする。)を避く、故に社中に於ても、此二人は所謂號なるものなく、士寧は本莊に居るを以て、人呼んで本莊(ほんじやう)先生となし、子謙は新橋の邸に居るを以て、人新橋(しんきやう)先生と呼ぶ、或は其藩封(はんはう)の豐後の臼杵城に在るを以て、又豐城先生と呼ぶ、遂に自號となすものなし
臼杵侯の封境松崎阜、其城西の家野邑に在り、此に大河あり、家野川と云ふ、連年洪水(かうすゐ−ママ)あり、又螟虫〔稻を害するもの〕境に入り、元文中戊午の歳より庚申に至るまで、野に青草(せいさう)なく〔滿野枯て(*ママ)果てたるさま〕、闔境(かうきやう)〔全領地〕大に飢ゆ(*ママ)、侯倉を發して賑濟(しんさい−ママ)し、又子謙をして大禹后稷(かうしよく)〔古代の水を治め農に功ある名君賢相〕を其土に合祀せしむ、子謙祀事を主(つかさど)り、壇を松崎に築き、齋戒すること三日、大に豐熟を祈る、翌年に至り、穀(*原文「穀」の禾を釆に作る。)穣均登(こくじやうきんとう)す〔五穀の稔りたること〕、遂に禹稷合祀碑を建てゝ、之が始末を記す、春秋有司をして祀を致さしめ、今に至るまで絶えず、其より以降永く洪螟の憂なしと云ふ
子謙寶暦四年甲戌三月十一日を以て江戸に歿す、享年五十八、高輪妙福寺に葬る、私に文恭と謚す、著す所春秋世系十三卷、芙蓉記行一卷、豐城集十卷あり
先君子〔著者より稱する語(、)其父〕默齋先生曾て芝■(三水+文:ぶん・びん・もん:山の名〈=岷山〉:大漢和17168)嶺と文藝傳を編輯し、慶元以降各家の文章を評隲〔批評〕す、其書の稿本〔草稿〕文化丙寅の火に罹り、副本あるなし、頃者修辭を評せる一條を、故紙〔反故〕の中に得たれば此に附載す、其言に曰く
余豐城集を得て、之を閲するに、其文章鵜士寧と與に、赤羽社中に於て同じく馳騁すべし〔勝劣なしの意〕、近時■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の學振はず、世皆韓柳歐蘇〔唐宋の四大家〕を崇奉するを知り、何李々王〔明代の修辭家〕を棄置す、知見の開くる一段なりと謂ふべし、然も何李々王は當時に在りて其見る所を以て各一家を成す、盡く之を文體の贅瘤(ぜいりう)〔無用のコブ〕と謂ふことを得ず、今我邦の修辭家に於て竊に甲乙を定め、十有五人を得たり、物徂徠は開祖大師、觜(くちはし−ママ)を此に容れず、第上等は則ち藤東野、釋大潮、宇明霞、縣周南、餘熊耳、中等は則ち服南郭、平金華、板帆丘、武梅龍、東藍田、下等は則ち湯常山、莊子謙、鵜士寧、龍(*瀧)鶴臺、崎淡園、其餘齋静齋、菅甘谷、越雲夢、野東皐、江南溟、龜道載等が如き、未だ全集を得て之を讀まざれば、姑く之を置く
稻葉迂齋、名は正義、迂齋と號す、通稱は十五郎、後十左衞門と改む、江戸の人、唐津侯に仕ふ
迂齋は越智氏、其先は伊豫の人、曩祖河野四郎通信武功を以て、鎌倉源右府の時に顯はる、六世の祖伊豫守良通、初め美濃稻葉山の城祭(さ−ママ)を領す、因りて稻葉氏と稱す、織田右府の時佐命の功〔國を興す時の功(、)創業の元勳〕を以て、從四位に叙し、侍從に任じ、薙髪して入道一徹齋と曰ふ、其第三子但馬守直政神祖に駿府に仕へ、一萬石を濃州曾根城に賜ふ、其第三子兵庫と稱する者、旗下の士山本喜兵衞の鞠育する所となり、其氏を冐し、尾府〔名古屋藩〕に仕ふ、兵庫の第三子正長十太夫と稱する者、始めて出でゝ古河侯(土井利勝)に仕ふ、杉山氏を娶りて二子を生む、長は正春、季は正則、五郎左衞門と稱す、乃ち迂齋の父なり、兄弟共に佐倉に仕ふ、正則大番の騎士〔大番の騎士は旗本〕鈴木源五左衞門政重の家に贅壻(ぜい\〃/)〔入りムコ〕し、因りて其氏を冒し、以て先職を襲ふ、妻は政重の女にして三男一女を生む、迂齋貞享元年甲子九月十七日を以て、麻布六本街の家に生る、其第三子なり
迂齋十三にして三宅尚齋の門人三木信成を見て、之と近世武弁〔武人の蒙る冠、轉じて武人を稱す〕の戰功を談じ、聖賢の道學ばざるべからざるを聞き、道義に嚮注(*原文ルビ「きやうちす」は誤植。)し、又淺見絅齋の門人伊都安崇、赤井直義と與に、經義を講究し、其教導を承く、後佐藤直方に師事す、其學成り名顯はるゝに及び、耆老〔老年〕に至るまで、二子を畏敬すること初の如く、年賀の儀、伏臘の禮〔歳暮の禮〕、■(疑の左旁+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)誠(かんせい)(*真心〈=款誠〉)を輸瀉する(*誠意を尽くす意か。)こと、總角(さうかく)〔アゲマキ(、)少年〕の時に減ぜず、二子の歿するまで、未だ曾て絶えず、常に曰く、吾是二子の爲めに學業成就すと
迂齋甞て家貧しく生計保ち難きを以て、親舊勸むるに他家に出贅する〔養子となる〕を以てすれども、峻拒して應ぜず、鋭意〔熱心(*に)〕仕を求む、年二十四にして戸田氏利(七千石大番頭)が士を好むと聞き、其邸に客たり、後直方之を唐津侯(利勝の玄孫)に薦め、侯に謂つて曰く、此生は官途胸次を歴(へ)ず、百事皆僕が指揮に依る、更に俸禄の多寡を問はず、高節〔卓絶の操持〕の世を驚かすなしと雖も、其清廉〔潔白にして貨に汚れざる〕に至りては、誰か敢て其右に出でん〔右に出づ(*は)上に出づ〕、侯喜び徴(め)して儒官となす、其父祖の故を以て、俸二十五口を與へ、班〔位次〕上士に比す、時に正徳五年乙未四月にして、迂齋歳三十二なり、後屡加増して禄二百石に至ると云ふ
迂齋の父他姓を冐してより、久しく鈴木氏と稱す、其褐を侯國に解くに至り、屡本姓に復せんと請ふ、家長親戚皆謂ふ、父兄宗家〔本家〕と姓を異にするは、殆ど不可なるに似たりと、遂に果さず、後享保辛丑の冬に及び、固く請ひて本姓に復し、是より稻葉氏と稱す
迂齋喪に居り〔骨肉の死したる際喪に服すること〕、能く其禮を盡す、寶永四年丁亥母歿し、享保四年己亥師佐藤直方歿し、同五年庚子父正則歿し、元文元年丙辰唐津侯利實卒し、同三年戊午伯兄端齋歿し、延享元年甲子津侯利延卒し、寛延元年戊辰妹歿し、寶暦(*原文「寶歴」は誤植。)六年丙子妻武井氏歿す、前後皆其喪に服す、寶暦(*原文「寶歴」は誤植。)十年庚辰叔兄圓齋歿したれども、身の病床に在るを以て、喪を執らず、其餘皆能く禮制に從ふ
迂齋侯の駕に從ひて唐津に之く、文學合田敬勝と云ふ者あり、其人資性疎放〔遣ハナシにて緻密ならざる〕にして邊幅を修めず〔衣服を整へ威儀を正すことをせず〕、頗る狂狷の風あり、唐津侯其性格の衆に異なるを以て、寵遇優渥なり、敬勝藩政を議し、利害を陳し、又屡請ふ隗より始めよの意を言ふ、而して其士大夫(*原文「士太夫」とする。)覊旅(*原文ルビ「きよ」は誤植。)〔漂泊〕新召の臣が動もすれば輙ち擢用せらるゝを妬疾睚眦(がいさい)し〔ネダ(*ママ)ミニラム〕、擧(み)な劾するに其僭越〔身分を超ゆる振舞〕不遜にして舊典を誹謗するを以てす、侯將に之を放逐せんとす、迂齋侯を諫めて曰く、人に君たる者は黜陟(ちつちよく−ママ)〔斥けたり陞せたりすること〕褒貶、衆の倶瞻(ぐせん)する所〔皆視る所〕、敬勝は清狂放誕にして威望少し、以て政事を任ずべからず、而るに已に之を用ひんと欲す、殆ど不明なるに似たり、又恩賜を加へて年なく、將に之を逐はんとす、頗る苛刻〔嚴に過ぐ〕に渉る、此輩及び諸臣の粗妄輕卒、以て此に至るのみ、何ぞ之を罪すべけんや(*と)、侯感悟して其逐を罷む
山崎派の諸儒禮法を維持し、人を處すること甚だ嚴なり、淺見絅齋、三宅尚齋が如き、嚴に他姓を冐すを排して、少しも假さず、其門に入れば先づ異姓を冒す者、必ず本姓に復するを以て學中第一の急務となす、其立志の確(かた)き、貴ぶべきが如しと雖も、吾邦の習俗に於て、殆ど時勢の緩急〔ユルクスべき事とイソグべき事〕と、世變(せいへん)の措置とを察省せざるものゝ如し、達士より之を論ずれば、其狹隘局量〔度量の狹きこと〕の譏を免れず、、迂齋初年再嫁説、養子論を著して之を辯駁し、以て師説に沿從したれども、晩年に至り、大に其趣を異にし、備はる〔十分の事〕を人に求めず、婦女の再嫁する者、士大夫(*原文「士太夫」とする。)の出贅する者、之を惡むこと甚しきに至らず、(*ママ)
迂齋平生短を舍てゝ、長を取り、細過〔小失〕を畧して巨節を揚ぐ、山宮維深(江戸の人)の如き、學醇ならずと雖も、一世の尤物〔優る者〕なり、唐崎彦明(安藝の人)の如き、徳熟せずと雖も、一時の英才なり、二人高簡〔高ぶり自ら慢ずること〕倨傲〔人を禮せざること〕にして諸儒を軽蔑し、自ら視ること甚だ高し、迂齋を見るに及び、節を屈して其人となりに敬服するもの、寛厚の風あるを以てなり、後弟子の禮を執りて之に師事す、數年にして維深變に死し、諸儒醜なりとして顧みざれども、迂齋は奔走して其妻子を弔す、彦明逐はれて、諸友棄てゝ訪はず、迂齋周恤〔救濟〕して其窮迫を救ふ、其洪量〔量の廣きこと〕、寛量、率ね此類なり
迂齋微羔(びよう)〔少しの病〕ありと雖も、藥餌を服せず、自ら謂(おもひら−ママ)く良醫は、(*ママ)售れず〔流行せぬ意〕(*原文頭注「售」を「害」とするのは誤植。)と、夏葛冬裘、飢え(*ママ)て食(くら)ひ、渇して飮み、嗜慾少く、心氣を定む、是れ吾が方劑なりと
迂齋の晩年に至り、山崎派の諸儒先輩皆凋落〔死去〕し盡き、其直方の高足弟子にして、獨り世に存するを以て、其學を奉ずる者、仰慕(かうぼ−ママ)〔欽仰景慕〕せざるなし、秋月侯長清(黒田甲斐守)(、)秋田侯義明(佐竹右京太夫)(、)阿波侯重喜(松平阿波守)(、)龜田侯隆韶(岩城河内守)(、)佐貫侯正興(阿部山城守)(、)岩村侯正弼(内藤美濃守)(、)村松侯直堯(堀丹後守)(、)太田侯正温(松平備前守)(、)土浦侯篤直(土居能登守)(、)長島侯正孝(増山對馬守)(、)新發田侯直範(溝口主膳正)等親(みつか−ママ)ら迂齋の家に至り、弟子の禮を執る、就中(なかにつき)館林侯武雅(松平肥前守)尤も其道を信じ、封境の政刑、迂齋の可否を待ちて〔其意見を聽く〕行ふに至る、其君唐津侯は遇するに賓師〔客分の先生〕の禮を以てし、其歸城毎に必ず近習の人を遣り、之が期を告げて而後發す、之を邸に召せば、必ず轎輿を賜ひて、之を迎送し、極めて慇懃を致す、蓋し近世儒を以て侯國に仕ふる者、優遇恩禮、前後未だ曾て有らざる所なり、其徳義以て想見すべし
迂齋麻布に生れてより、三田戸田氏の邸に寓し、三十二にして唐津侯に仕へ、其鍛冶橋邸に居ること十八年なり、又邸を出で本材木街に居ること一年、後濱街道士井〔山伏井戸〕に卜築し〔地を卜して家を建つ〕、茲に居ること三十五年、寶暦(*原文「寶歴」は誤植。)十年庚辰十一月十日を以て歿す、享年七十七、駒込吉祥山龍光寺の域中に葬る、武井氏を娶り、二男を生む、伯は正直、鐵次郎と稱し、叔は正信、又三郎と稱し、能く家學を繼ぐと云ふ
迂齋甞て其師説を以て一書を著し、伊藤堀河を辯駁(べんはく−ママ)し、名けて初學蓁蕪辯(しんぶべん)と曰ふ、又物赤城が修辭を以て後進を鼓扇(こせん)する〔鼓舞煽動〕するを憂へ、論を著して之を■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃(ばいげき)(*ほうげき)〔攻撃〕せんと欲す、一たび唐崎彦明が辯道斷論を見るに及び、誹詆(ひてい)斥議して復た餘薀(よをん−ママ)なし、終に以て閣筆す〔筆を差し置く〕、其餘著す所文集正論十卷、同續編四卷、同別集附録各一卷、雜稿三卷、和書集五卷、學話二十八卷、同附録十卷あり
長阪圓陵、名は黒肱、字は■(矛+攵+目:ぼう・む:伏し目で恭しく見る・愚か・惑う・乱れる:大漢和23541)人、圓陵子と號す、通稱は平介、上州の人、高崎侯に仕ふ
圓陵の父辰春、通稱は平六、高崎侯の太夫たり、七世の祖長阪宗成は鳥井彦右衛門元忠に從ひ、伏見城に戰死す、宗成宗勝を生み、宗勝宗辰を生む、宗辰濱松侯信視(松平伊豆守)に仕へて宗長を生む、高崎輝貞(松平右京太夫)始めて叔父を以て、別に封を分つに及び、宗長本宗(ほんさう)〔本家〕の附臣〔附屬せらるゝ臣〕として高崎の太夫たり、辰春を生む、辰春職を襲ひ、斎藤氏を娶り、圓陵を高崎に生む、後江戸に來り、本郷丸山の邸に居る、故に自ら圓陵子と號すと云ふ
圓陵十歳の時、丸山邸中に狐狸の祟あり、比隣〔近所〕の樹木(じゆぼく)之が爲に光を發す、夜行者深く恐怖す、圓陵嬉戯の間、群兒を指揮〔指圖〕して、其巣窟を捜索し、枯蘆(ころ)を穴の前に積んで之を燒く、煙氣窟中に入る、是より後其祟自ら消(せう)すと云ふ
圓陵十一歳始めて楠三代記を讀み、欣然として楠公父子を景慕(*原文ルビ「げいぼ」は誤植。)する〔シタフ〕の心あり、自ら古賢の前言往行〔昔時の言行〕を學ばざるべからざるを知り、父に請ひて句讀を郷先生に習ひ、三年にして誦讀既に遍く、頗る能く文を屬す〔文を作る〕、服南郭見て驚歎して〔驚き感服す〕曰く、此子八面敵を受くるの才ありと
圓陵弱冠の後、物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園が復古(ふくこ)の業を追慕し、餘熊耳に從ひて學ぶ、名稍や藝苑〔詞壇文場〕に著はる、自ら文學を以て、一世に振揚せんと欲し、手に卷を釋てず、勉苦病をなし、寶暦(*原文「寶歴」は誤植。)十年庚辰七月二十六日を以て家に歿す、歳僅に二十四、牛込寶泉寺に葬る、其著す所圓陵子二卷及び遺稿あり
元淡淵、名は維寧、字は文邦、淡淵と號す、通稱は曾七郎、中西氏、三州の人、尾藩の竹腰氏に仕ふ
淡淵の父は福尾莊左衞門と曰ひ、奥平氏を娶りて、淡淵を三州擧母(*ころも)邑に生む、後尾藩に仕へて中軍(ちゆうぐん)の騎士〔馬廻組の士〕となり、竹腰氏の麾下に屬す、其家宰〔家の長臣即ち老役〕中西曾兵衞淡淵を養ひて、以て嗣子となさんと請ふ、就きて贅し中西氏を冐し、芋生に移居す、食禄二百石、中西氏は原(も)と三州の秋元氏の庶族なり、故に修めて元となし、文事に於ては之を稱すと云ふ
淡淵童子(だうし−ママ)たるの時(*原文ルビ「よき」は誤植。)、韓使尾府を過ぐ、行道比屋〔ナラベル家屋〕、帷を張り〔幕を張る〕て之を視る、其正使の書記姜耕牧淡淵を見て輿を留め、譯士に謂つて曰く、稠人(ちやうじん−ママ)廣坐〔群衆滿坐〕の中(うち)、兒の容貌を視るに、異相あり、必ず文學を以て令名〔好い名聲〕あらんと、筆墨を與へて去る、其言果して兆(てう)あり
淡淵弱冠にして學に志し、暗室に坐するを好む、白晝(*原文ルビ「はちう」は一字脱。)と雖も、戸を閉ぢ、僅に陽光に照して書を讀む、夜は燈檠(とうけい)に照し、毎に鷄明(*ママ)に至り、几に隱(よ)り〔机にモタレル〕て坐睡し、以て平生となす、竟に寢(しん)に就かず、家人之を異とす
淡淵二十歳の比ひに及び、身の長け六尺、手を垂るれば膝を過ぐ、資性温和にして動止■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)重(しんちよう)〔周密にて疎放ならぬこと〕なり、府の文學木蘭皐稱して曰く、亮節威望、以て天下の鄙(ひ)を敦くする〔イヤシキ者を勵け(*ママ)まして篤行の人たらしむの意〕に足る(*と)
淡淵始め芋生に在りて生徒に教授す、歳三十に至り、弟子日に進み、門に遊ぶ者數十百人、幾もなくして尾府に至り、寛延庚午の春を以て、其主竹腰氏に從ひて江戸に來る、竹腰氏の邸は赤阪門外に在り、淡淵邸の官舍に寓す、來りて業を受くる者靡々(ひゝ−ママ)として〔陸續〕已まず、遂に命じて邸を出で、都下に寓居し、博く四方の士に教授せしめ、費銀を賜與せらる、是に於て講堂を芝三島街に築き、叢桂社と曰ふ、竹腰氏事あれば、則ち有司をして之に就きて諮問せ〔意見を尋ぬる〕しむ、朝制議政の事あるに非ざれば、敢て召さず、召せば必ず駕を以てし、恩賜甚だ厚し、四方の士風に嚮ひて輻湊し〔アツマル〕、其聲譽一時に聞ゆ
淡淵學授受する所なく、其經を講ずる漢宋に拘はらず、新古を別たず、人の求むる所に從(したか−ママ)ふ、或は漢唐の傳疎を用ひ、或は宋明の註解を用ふ、蓋し仁齋徂徠が漢宋を指摘し〔其短所を發す〕、其間を取舍(ししや−ママ)し、先儒を謗議するを以て、己が量を知らざる〔自家の識度を知らぬこと〕者となす、常に謂つて曰く、聖人の道は學問の深淺に在らず、全く徳を成し才を育し、其器用を盡すに在るのみ(*と)
或は問うて曰く、某經孰れにか據らんと、淡淵答へて曰く、子が信ずる所に從ひ、子が疑ふ所を闕けよ〔疑はしきを捨て置け〕、其微言〔カスかなる語〕遺旨に於て、吾未だ孰か得孰か失なるを知らず、如かず各其得る所を得て、以て之を人に施し、人に施して裨益あらば、中らずと雖も遠からず、何ぞ必ずしも一を執らんや〔一説に固着せんやとの意〕、近世の諸老動もすれば輙ち曰く、其説は道を得、其論は理を失ふと、皆自ら以て孔孟の意を得たりとなすも、吾未だ之を信ずること能はず(*と)
淡淵敦厚〔手アツク輕薄ならず〕沈默にして、人と競はず、交遊極めて少し、盛名ありと雖も、行(おこなひ)の本に由らざる者は辭して見ることなし、恒に名節を以て人を勵ます、其涵濡(かんじ)〔徳化を及ぼす〕の化自然に門人に及ぶ、其才を育し徳を養ふこと、其言ふ所に慙ぢず、南宮大湫が温藉(おんせき−ママ)風流、伊藤冠峰が信義直諒〔誠實〕、紀平洲が篤學勤行(*原文ルビ「きうかう」は誤植。)、河天民が敏■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)(びんしやう)廉節、飛圭洲が雅量〔大度人を容る〕淹通(えんつう)、鷲東柯が博綜練達の如き、皆得易からざる所、迥に世儒の偏に文藝のみを以て、後進を皷動する者に異なり
淡淵邸中に寓する時、同僚の人來りて其歸を告ぐ、其人寵を恃んで〔君眷を頼んでなり〕權を專にす、淡淵磁盃十枚を以て之に贐(じん)〔ハナムケ〕し、一枚を取りて之を破毀し、其餘を贈りて曰く、盈を虧く形なりと、其人愕然として言はず、曰く偶を使ひて奇を竟(おは)らんよりも、奇を使ひて偶を待つに若ずと、其人感謝す、後自ら抑遜(*原文ルビ「ようそん」は誤植。)して〔何事も差控へる〕能く其身を愼み、終身敗を取らずと云ふ
淡淵常に人の親の病む者あれば、必す(*ママ)自ら之を訪ふ、甞て親の病む者あり、其身も亦臥床す、時に紀平洲寓して塾に在り、之をして代り訪はしむ、反りて其状〔病状〕を問ふに及び、答へて曰く、之を家人に審にするに其病重からずと、淡淵謝して曰く、吾病の輕(かろ)きを知らば、奴をして訪はしむべかりき、思はず子が趾(し)〔足〕を勞すと、其後病篤きを聞き、平洲請うて代り訪ふ、淡淵端坐して〔正しく坐す〕曉に達し、其歸るを待ちて始めて袴を釋く
淡淵の家奴權八なるもの、數主に逐はれ、席暖(あたゝか)なるに暇あらず〔坐席のアタゝマルまでに去る〕(*原文頭注「遑」を使う。)、淡淵に事ふるに及び、此に二十餘年、未だ曾て苦を訴へず、一日泣いて厨下(ちよか−ママ)〔臺所〕に立つ、家人故を問へば曰く、主公未だ嘗て疾言せず、今日吾が爲めに疾言す、罪當に逐はるべしと、家人驚きて之を宥〔慰〕む、淡淵曰く、籬(り)を修むるに竹を用(*原文ルビ「もよ」は誤植。)ひしむるに、其木を用ふるを見る、故に疾呼して之を換へしめんとす、彼れ以て怒るとなす乎、家人其言を以て之を諭せば、奴感悟す、淡淵歿するに及び、遺言して金五兩を與へ、郷里に還へ(*ママ)らしむ、奴悲歎に堪へず、涕泣の餘、自ら剃髪して僧となり、郷に還りて其冥福〔死後の福祉〕を修むと云ふ
淡淵痰を病み、病篤きに及び、弟子之を扶持して几に隱(よ)らしめ、尚講を輟〔息〕めず、將に起たざらんとするを知り、筆する所のもの數本を擧げて、悉く之を燒かしむ、弟子之を惜めば、乃ち曰く、未定の書なり、恐くは後世を誤らん、僅に文集十三卷を以て、之を紀平洲に屬(ぞく)す、遂に寶暦二年壬申七月十五日を以て、芝三島街の寓居に歿す、年四十四、三縁山中の瑞華院に葬る、弟子多く心喪を服す、竹腰氏深く之を悼み〔悲ミイタム〕、有司をして葬車を護送せしめ、又厚く子弟の塾に寓する者を撫〔愛護〕し、數(しば\/)金帛(きんばく−ママ)の賜あり
淡淵の妻は其義父曾兵衞が女、頗る書を讀み文を屬(ぞく)し、又婦行〔婦たるの道を盡す〕あり、一女を生む、竹腰氏命じて太田某をして其女を娶らしめ、中西氏を冐して禄を襲はしむ、其家今尚存すと云ふ
高暘谷、名は彜(い)、字は君秉(くんへい)、暘谷と號す、通稱は忠藏、渡邊氏、本姓は高階氏文事に於ては、自ら單修して高となす、長崎の人
暘谷の義父〔養父〕名は寛、字は春菴、半■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)と號す、華音を善くするを以て、擢んでられて譯士となる、暘谷其職を襲ふも而も之を好まず、西溟(せいめい)〔西海〕の釋大潮に從ひて詩を學ぶ、自ら奇氣を負ひ〔氣位が高きこと〕、詞壇に主盟するを以て期となす、遂に詩歌を以て閭閻〔坊間〕に名あり、寛延中平安に遊び、諸名士と交はり、縉紳の間に稱譽せられ、聲價世に顯はる、赤石の梁蛻巖と、其歌行近體〔古詩と律詩〕の氣格を同くす、人呼んで高無一と曰ふ、其二人なきを謂ふなり
伏見の龍草廬平安に在り、詩歌を以て時に名あり、甞て暘谷に邂逅し、其作る所の結交行〔詩の題〕の古詩を讀み、歎じて曰く、典雅〔上品にて古意を帶ぶ〕整密、高雅綺縟(きじやく−ママ)〔詞藻の美〕、井白石、服南郭の下(もと)に在らずと、暘谷も亦草廬を推轂(すいこく)し、其才情雋穎、豐藻〔文飾のタツプリしたる〕富贍、以て當今第一の人となす、而して相互に其企(くわた−ママ)て及ぶべからざるに感服し、激賞して措かず、後暘谷崎に歸り、草廬の人となりを稱して、其名を播布(ばんふ−ママ)す、草廬も亦屡暘谷が人となりを譽め、以て其聲價を賣り、東西に隔居し、後進を煽惑せん〔オタ(*ママ)テマヨワ(*ママ)ス〕と謀る、識者其虚捏(きよでつ)の呈露するを笑ふ
暘谷平安に講説すること六年にして崎に歸り、後又屡來り屡往く、當時高名の士、江北海、清澹叟(*■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟)が如き、皆暘谷が詩歌に精きを賞す、是より先き文藝を以て崎に名ある者、數十人ありと雖も、皆遠く及ばず、甞て詩社を結び、瓊浦〔長崎の別名〕の芙蓉詩社と曰ふ、其聲遠邇に振ふ
暘谷詩鈔二卷を著し、批評を清人沈魚石に請ふ、魚石は南京の人、屡互市〔貿易〕の商船に從ひ、崎に來る者なり、甞て暘谷の詩を稱して曰く、我中國の王漁洋、施愚山の外、之と伍をなし難しと
暘谷聲譽を自負し、華夏〔中國〕と通ぜんと欲し、金帛を贈りて之を譯士に屬し、清商杭人の錢尚二人と謀り、鄭重苦諭す、二商謂ふ、■(二水+熈:き:和らぐ:大漢和1721)朝(きてう)に沈歸愚先生なるものあり、斐藻(はいさう)〔美なる詞采〕麗逸、翰林學士より起り、禮部尚書に累遷〔歴陞〕し、今參政たり、是を以て公卿の間に延譽し、聲(こゑ)朝野に振ひ、顯寵亦衆に異なり、文學の士朝に滿つと雖も、咸■(三水+自:き・ぎ:注ぐ・潤う・及ぶ:大漢和17369)(およ)〔及〕ぶ能はず、吾儕(*原文「吾濟」)小人幸に不棄を蒙り、知遇を門下に受く、歸りて沈公に至り、慇懃を通せ(*ママ)ば、公喜んで必ず報を致さん、此事賤商別に理會〔工夫〕あり、請ふ念となす勿れと、暘谷大に喜び、幣帛〔金や絹〕を準備(じんび−ママ)して調撥し、且つ一封の書及び詩五章を附し、暘谷詩稿の序を作らんことを請ふ、又別に呉中の七子に寄贈(きそう−ママ)する詩を以て之に投託し、二商に賄賂する〔マイナフ〕に金銅(きんどう)絹紬(けんぢう−ママ)の類を以てす、二商誑賺(きやうけん)〔欺きダマス〕實の如くし、船を運し海に帆(はん)し、數を盡して還る、時に丁丑の正月我寶暦七年、彼の乾隆二十二年なり、二商相謀り、裝を促して程に登り、使節儀從〔伊勢(*ママ)從者〕、以て北京に至り、暘谷を以て侯伯の執政者となし、日本高公の使臣なりと僞り、幣帛書筒(しよとう)を致して、答を客館に待つ、沈氏竊(*原文ルビ「ひそ」は一字脱。)に其書及び詩を覽る、其文に曰く
彜資性愚劣、知識する所なし、齢三十四、其學未だ立たず、竊に自ら量らず〔分を測らず〕、曉々古人立言の志を慕ふ、以爲く士今の世に生れ、文辭に非ざれば以て功をなさず、甞て夫子〔先生、先方を敬する尊稱〕の撰する所古詩源、唐明詩別裁、七子詩選等の書を讀むに、未だ甞て吾心に中らずんばあらず、其採■(手偏+庶:せき・しゃく:拾う・拾い取る:大漢和12624)(さいしよ−ママ)(*さいせき)〔取りアツメ〕の簡嚴にして、其評論の確當なる、毫も偏黨なし、風雅の則、是に於てか立つ、夫れ非常の功は必ず非常の人を待つ、苟も一代に崛起(くつき)して斯道に主盟する者にあらずんば、焉ぞ能く斯の如くならんや、噫夫子微せば、其れ長夜ならん、乃ち西顧し、固陋の説を陳し、敢て函丈〔故事(、)先生に對する語〕を涜(けが)す、竊に惟みるに両漢の詩、神奇渾樸(こんぼく)〔朴茂にして氣力あり〕、天巧を極め人致を奪ふ、煌々〔輝く貌〕乎として風雅頌の遺聲なるか、魏晋に變じ、六朝に衰へ、以て唐に至り、則ち古詩亡びたり、若し夫れ唐の創體〔創造されし一體〕は玉楊玉振し、沈宋金聲す〔玉振金聲は詩を金玉に譬ひ(*ママ)て形容す〕、王の秀なる、李の神なる、岑の華なる、李杜集めて大成す、組織(そしよく)の麗、琢磨〔ミガク〕の妙、千古偶なきもの、是を極盛となすか、夫れ物の盛なる、極まれば衰に即くは自然の符なり、大に元白に變じ、下りて宋元に至りて響絶す、嗚呼詩の漢唐あるは、諸を人倫に周孔あり、鱗羽に麟鳳あるに譬ふ、此を過ぎて以往、明人其傑なり、苟も復古(ふくこ)に志さば、明人を以て梯航〔ハシゴ〕となすに非ざるよりは惡ぞ可ならんや、明詩劉高始めて雅音を振ひ、吾が適從する所のものは、李何前に龍擧し、李王後に虎視す、此四家は才氣雄鷙(ゆうしつ−ママ)にして〔ツヨキ〕、古を修むるを以て自ら擧ぐ、漢唐の上に刻意し、之と與に京(けう)〔齊〕するなし、其餘の英物■(金偏+鹿+烈火:ひょう:銜・くつばみ:大漢和41022)(じやう−ママ)〔クツワヒラ〕を連ね駕を方(なら)べ、綺繍を爭裂し、華蔚(くわうつ)を互擒(ごきん)す、郁乎〔文物の盛なる貌〕盛なり、彜夙に四家を以て準則(じんそく−ママ)となし、心を古範に鑄ること十有餘年、未だ壺奥(こおう)を窺ふに遑あらず、竊に謂(おもひら−ママ)く北地は雄渾、然も其滓(さい)を諱まず、信陽は麗則、然も其弱を諱む能はず、濟南は矜貴、然も其複を諱む能はず、■(合+廾:えん・かん・こん:覆う・合わせる、ここは州名:大漢和9610)州は濶綽(かつしやく)、然も其■(艸冠+奔:もう:「莽」の俗字:大漢和31133)(まう)(*莽)〔粗雜〕を諱む能はず、前規を鑑戒して以て自ら警(いまし)〔戒〕む、夫の萬暦以後の如き、詩體屡變じ、袁徐一たび興りて、信じて古を好むの義熄む、其作は格卑(ひく)くして氣弱し、薪を宋元に傳へて、爰に竟陵が鬼國に漂ふに至る、其説怪僻〔奇怪にネジケたる〕なり、野狐外道〔異端〕の人を惑はすものと謂ふべし、豈に懼れざらんや、彜が疾(にく)む所のもの、虞山の錢氏に若くはなし、斯人猶ほ逢■(萬+虫:たい:毒虫の名・長尾の蠍:大漢和33694)(ほうたい)の如きか、妄見邪識、力めて歴下の輩を排斥し、松圓を推尊して、一代の詩老となす、冤〔無實の誣〕焉より大なるはなし、夫の松圓の詩は腐にして淺し、耳觀(しくわん−ママ)〔耳食と同じく聽くだけにて自ら研究せざる者〕の徒蠅襲して、毒を藝圃に流す、彜未だ曾て扼腕發噫(はつい)せずんばあらず、此時に當り否道斯に極まる、旨あるかな夫子の詩を説くや、曰く詩大端あり、始めは則ち宗旨〔其精神の寄する所〕を審にし、繼き(*ママ)ては風格〔格調〕を標(へう)し、終には神韻〔言外の韻致〕を辨ずと、宗旨は性情に原(もとつ−ママ)くものなり、風格は氣骨に本くものなり、神韻は才思の餘に溢れ、虚與委蛇して其跡を留めざるものなり、三者具して一に自然に歸す、嘗て此論を持して以て準的となし、古今の詩を選び、並に皆深造渾厚し、和平淵雅し、言志永聲〔志を言ひ聲を永すは詩の定義〕の旨に合して而後止む、又曰く、洪永の詩に於ては、其輕靡〔ウスソ(*ツ)ペラ〕を刪り、弘正嘉隆の詩は其形似〔格恰だけ眞似たる〕を汰(た)す、萬暦天啓以後寥々たり、雷同沿襲し、浮艶淫靡す、凡そ美刺に當るなき者は之を屏(しりそ−ママ)く、而後袁徐の纎靡〔よはよはしき〕除き、竟陵の怪僻黜(しりぞ)き(*ママ)、虞山の誣妄露はる、言々的を破り、字々衡を秉る、其採擇の精き、歴下雲間、必ず當に三舍を避くべし、所謂人傑(げつ−ママ)の首功ならんか、彜故に曰く、聒蟄(くわつちつ)爆聾一代の亂を拯(すく)ふ、夫子微せば其れ長夜ならんか、讀んで七子の詩に至り、愕然之を久しくして曰く、夫れ前者崛起し、後者代興す、啻に同じ州郡のみならず、各韜世(たうせい)〔世にツゝム〕の景を負ひ、感に應じて起る、一旦互に鞭弭(べんじ)〔ムチ〕を執れば、執友の正、■(女偏+合+廾:えん・あん:女が慕う:大漢和6505)雄(かういう−ママ)の麗、襟(きん)を吹き懐を同し、人をして■(弗+色:ほつ・ぼう・ふつ:気色ばむ・怒る:大漢和30606)然(ふつぜん)として心醉はしむ、其運用や秘思を抽き〔心の奥を引出す〕、研辭(げんじ−ママ)〔美なる言〕を■(馬偏+叟:しゅう・しゅ:求める・探す:大漢和44891)(は)せ、音韻頓挫し、金石の聲あり、其材を取るや、纎を去り濫を除き、結撰〔章の組立〕迥に殊にして、其力以て冗腐を破るに足る、正始の音復茲に觀る、是れ東呉に大造〔巨功〕あるなり、愉快何ぞ盡さん、僕が寡見を以てするに、清朝宇を御してより、文明の化宇内に被り、漁洋綿津諸公の如き數十家あり、其籍具在す、美ならずとなさず、然も明季に襲習し、縦誕(じゆうたん−ママ)にして〔檢束なき〕克たず、躑躅(てきしよく−ママ)して進まず、獨り南海の屈翁山氏綺縟〔華麗〕翩々たり、他の李漁氏の如き、侏孺(しうじ−ママ)〔一種の藝人〕(*原文頭注「侏儒」とする。)俳優の音、大に詩教に害あり、斯集一たび出で、亂を撥して正に反へす、此れ其嚆矢にして其功偉なり、是れ名山川の出す所と雖も、天美を此人に鍾めたるものか、實に夫子木鐸の隆(さかん)なる、一代に風被(ふうひ)し、彜等に波及するもの、夫子の餘光なり、彜幸に諸公の世に生れ、盛事を與聞し、且つ其人を慕ふ、■(叔+下心:でき・にゃく・どく・のく:飢える・憂える・嘆く・失望する:大漢和10755)焉(しゆくえん−ママ)(*できえん−愁い悲しむ様)擣(つ)くが如し、豈に固陋〔頑固陋劣〕を以て默止せんや、恭しく野詩五章、及び七子諸公に呈する詩七章、拙稿五本を呈す、伏して祈るらくは夫子寛大の仁、彜が愚悃(ぐこん)〔愚なる誠意〕を憫み、菅■(萠+立刀:かい・け:縄で巻きつける:大漢和31061)(くわんかい)を棄てず、塗掲郤示(とけいげきじ)〔刪正の意〕し、以て不逮(ふてい−ママ)を匡し、且つ夫子及び七子諸公中の片言隻辭を賜ひ、其首に冠玉せ〔卷首に序す〕ば、啻に朽篇の光を生ずるのみならず、冀くは華袞(くわこん)〔立派〕の賜を拜し、以て饑渇の懷を慰し、驥に附して行かん、是れ百世を竢ちて疑なし、惠孰(いづれ)か大ならん、顧ふに大君子の懿徳(ゐとく)、彜愚陋と雖も、銘肝刻膽〔肝膽に彫り附けるの意〕、永く忘れざるを矢(ちか)ふ、暗投の怒、幸に大に罪する勿れ、噫白雲天に在り、蒼波極りなし、領(くびす)を延きて西望し、日月以て冀(ねが)ふ、萬里一域、神書と馳す、伏して惟ふに氷鑑せよ、惶恐不宣其詩に曰く
曾テ朱■(糸偏+拔の旁:ふつ・ふち:綬・まとう:大漢和27345)ヲ辭シテ西湖ニ臥ス、玉檻彫欄畫圖ニ入ル、明鏡天開テ波練ニ似タリ、白銀界濶ク月珠ヲ懸ク、■(宛+鳥:えん・おん:鳳凰の一種:大漢和47023)鸞(*朝官の行列)昔シ綴ル周ノ宗伯、彫鷺長ク盟フ越ノ太夫、聞道ク湘靈能ク瑟ヲ鼓スト、天風定メテ鳳鳴ヲ聽クヤ無(イナ)ヤ(*曾辭朱■臥西湖、玉檻彫欄入畫圖、明鏡天開波似練、白銀界濶月懸珠、■鸞昔綴周宗伯、彫鷺長盟越太夫、聞道湘靈能鼓瑟、天風定聽鳳鳴無)
浮世時ニ棹ス具區ノ煙、花月清吟年ヲ記セズ、禮ヲ掌リテ曾テ班ス廊廟ノ上、著書還タ國門邊ニ掛ク、叨ニ徴ス玄安先生ノ序、深(*ク)愧ツ(*ママ)中州■(人偏+倉:そう:卑しい・田舎者:大漢和964)父(*田舎者)ノ篇、自ラ是レ登龍珠履滿ツ、糧ヲ裹ンデ南北群賢ヲ走ス(*浮世時棹具區煙、花月清吟不記年、掌禮曾班廊廟上、著書還掛國門邊、叨徴玄安先生序、深愧中州■父篇、自是登龍珠履滿、裹糧南北走群賢)
凌雲賦ヲ獻シ(*ママ)テ京華ヲ動ス、矯々雄才五車ニ富ム、名股肱ニ屬シテ聖代ニ逢ヒ、職喉舌ニ當リテ天家ニ寵セラル、毫ヲ弭メテ夜直ス龍樓ノ月、蹕ニ扈シテ朝ニ陪ス鳳闕ノ花、一(*ニ?)冠ヲ掛ケテ逸陰(*ニ)耽ケルヨリ、茅■(革+奚:かい・げ:靴・鞋:大漢和42974)踏ミ遍シ赤城ノ霞(*凌雲獻賦動京華、矯々雄才富五車、名屬股肱逢聖代、職當喉舌寵天家、弭毫夜直龍樓月、扈蹕朝陪鳳闕花、一自掛冠耽逸陰、茅■踏遍赤城霞)
洞天三十六芙蓉、林屋ノ僊翁氷玉ノ容、寶■(竹冠+録:りょく・ろく:文籠・本箱・道家の秘文:大漢和26734)誦シ來リテ瑤草静ナリ、■(玉偏+睿:せん・ぜん・けい・えい:美しい玉:大漢和21311)臺嘯ク處綵雲重ナル、丸日月ヲ彈トシ(*日月ヲ彈丸トシ、か。)朱鳳ヲ驂トス、咳唾ハ珠珠■(玉偏+幾:き・け:玉の名:大漢和21253)白龍ニ跨ル、昨夜天風廣樂ヲ聞ク、華胥國裡ニ夢相逢フ(*洞天三十六芙蓉、林屋僊翁氷玉容、寶■誦來瑤草静、■臺嘯處綵雲重、彈丸日月驂朱鳳、咳唾珠■跨白龍、昨夜天風聞廣樂、華胥國裡夢相逢)
矍鑠タル中原ノ一老師、■(車偏+酋:ゆう・ゆ:軽い車・使者の車・軽い:大漢和38436)軒(*天子の使者の乗る車)採選ス國鳳ノ詩、參商遠ク隔チテ神想ヲ勞シ、夜夢西ニ飛ヒ(*ママ)テ鳳凰ニ謁(*ス)、青鳥情有リ錦字(*ヲ)傳ヒ(*ママ)、美人意無シ環枝ヲ報ス(*ママ)ルニ、名山許(*サ)ズ書ヲ藏シ去ルヲ、旗鼓方今華夷ニ震フ(*矍鑠中原一老師、■軒採選國鳳詩、參商遠隔勞神想、夜夢西飛謁鳳凰、青鳥有情傳錦字、美人無意報環枝、名山不許藏書去、旗鼓方今震華夷)沈氏之を讀みて、肯(あい−ママ)て嘉納(*原文ルビ「かかう」は誤植。)せず、乃ち其屬吏をして幣帛及び書筒(しよどう)を郤け〔返付(*せ)〕しめて曰く、朝家の大典■(三水+典:てん・とん:汚れる:大漢和17654)■(三水+忍:でん・ねん・じん・にん:垢で汚れる・悪酔いする:大漢和17532)(てんにん−ママ)(*てんでん)す〔弛ベ犯すの意〕べからず、上諭聖訓、最も私謁を禁ず、中國は日本と大に界限あり、必ず通ずべからず、固より朝鮮韃靼等の屬國が歳に國相〔國の宰相〕を使し、方物を貢するに比すべからず、汝輩商估何故に彼が爲に私屬(しぞく)せられて來るや、且つ日本の貢使、明の世既に舊例あり、皇朝鼎新〔革命維新〕以後未だ嘗て貢使の中國に入るあらず、而して今竊に文書を通じ、敢て嚴憲〔重き法律〕を犯す、愚賤無禮此より甚しきはなしと、二商大に恐れて爲す所を知らず、倉皇〔周章〕措を失ひ、乃ち其幣帛書筒を収め、屬吏に阿媚し、過失を懲芥して其罪を固密にせんことを請うて去り、日夜程を兼ね、狼狽(*原文「狼狼」は誤植。)して杭に歸る、便計齟齬し〔違ふ、失敗に歸す〕、機會所を失ひ、相與に再び其事を謀る、一老商あり、曰く、■(龍+共:きょう・く:供給する・奉る・謹む・〈=共〉:大漢和48837)生(きやうせい)なるもの近ろ杭に客たり、其故を苦諭し、何ぞ之に屬して其答を僞造せざる、日本の人資性愨實(かくじつ)〔愚直〕欺き易し(*と)、二商之に從ひ、席を設けて■(龍+共:きょう・く:供給する・奉る・謹む・〈=共〉:大漢和48837)生を速(まね)ぐ、■(龍+共:きょう・く:供給する・奉る・謹む・〈=共〉:大漢和48837)生之を保結し〔受負ふ〕、其餘の學究(がくきう)五六輩、亦相聚まりて、沈氏が答書和詩及び呉中七子の和韻詩數首を僞作す、又各自書する者を雇ひ、戯慢■(言偏+闌:らん:欺く・偽る:大漢和36142)辭(ぎまんらんじ)〔ナク(*ママ)サミに出放題〕、相次ぎて書し畢る、卷秩表裝尤も耀麗を致す、二商大に喜び、■(龍+共:きょう・く:供給する・奉る・謹む・〈=共〉:大漢和48837)生をして幣帛を収めしめ、其餘各人に分與す、翌年二商崎に來り、之を傳致す、暘谷之を得て再三拜跪し、啻に手舞足蹈(しゆぶそくたう)のみならず、其僞沈氏の詩に曰く
昭代ノ聲華四表ニ光リ、國風十五大文章、尚人傑(*ヲ)シテ暘谷ニ鍾ラシメ、猶遍ク歌謠越裳ヲ譯ス、萬里銀濤錦字ヲ飛シ、百篇玉戞笙簧ヲ奏ス、元音自ラ是レ天地ニ盈チ、酬唱相思望洋ヲ歎ス(*ママ)、大雅林(*ノ)如ク今古芳シ、原ト人ノ堂ニ登ルベカラザル無シ(*原文返り点「無〈三〉人不〈二レ〉可〈レ〉登〈レ〉堂〈一〉」)、文鳴似ルヲ得タリ東西漢、才調能ク勝ル中晩唐、讀テ君ガ詩ニ到リ撃節ニ堪ヘタリ(、)誰言フ我論周行ヲ示スト、多ク四海ノ心理ヲ同スルニ縁リ、渺々鍾情大方ヲ憶フ(*昭代聲華四表光、國風十五大文章、尚教人傑鍾暘谷、猶遍歌謠譯越裳、萬里銀濤飛錦字、百篇玉戞奏笙簧、元音自是盈天地、酬唱相思歎望洋、大雅如林今古芳、原無人不可登堂、文鳴得似東西漢、才調能勝中晩唐、讀到君詩堪撃節、誰言我論示周行、多縁四海同心理、渺々鍾情憶大方)七子の詩及び其文皆長きを以て此に録せず、暘谷朝暮展玩して〔ヒロゲテ見る〕手之を釋てず、乃ち「才調能勝中晩唐」の句を篆刻して私印を造るに至る、自ら謂く吾才は我國に於て、曠古あるなし〔曠古は空古にて昔時からなし〕(*と)、世人も亦益々之を羨む、其後數年にして沈氏詩鈔東渡し〔舶來す〕、其中に詳に暘谷が請ふ所を卻けたることを載す、又互市の商客、錢尚二人の詐欺を談じ、崎人皆其騙せられたる〔ダマサレタル〕を知る、釋元皓が魯寮筆記、原東岳が詩學新論、粗(ほ)ぼ其始末を載せ、暘谷が躬自ら滿假して、二商の爲めに欺惑せらるゝを指笑せり
山脇東洋、名は尚徳、字は玄飛、東洋と號す、通稱は道作、後養壽院と稱す、法眼に叙せらる、平安の人、幕府に仕ふ
東洋の父は清水東軒と曰ふ、丹波龜山の人、醫を山脇玄修に學び、京師に移居し、駒井氏を娶りて二子を生む、伯は東洋、叔は敬長、字は源吾、玄修の父玄心東福皇后の侍醫となり、法印に叙して卒す、玄修職を襲ひて法眼に叙し、養壽院と稱す、所謂禁裏附の御醫なり、甞て東洋の人となりを愛し、將に其女を以て之に嫁せんとし、東軒と之を約す、時に東洋十二三歳なり
東洋七歳の時、諸經の句讀(くどう−ママ)を渡邊葭谷に受く、十三にして能く文を屬し、好んで修辭を作る、十八にして父東軒歿す、母駒井氏性質端正〔方直〕、頗る能く書を讀み、大義(だいぎ−ママ)に通曉〔熟知〕す、其二子を率ゐるに嚴に義方を以てす、常に書を樓上に讀ましめ、其階梯を撤〔取去〕し、飯を喫し厠に行く外、樓を下るを許さず、東洋源吾と日夜憤勵して學に從事し、玄修益之を愛す、享保丙午の春母に苦請し、東洋を養子とし、山脇氏を冒さしむ、翌年丁未九月玄修卒して、東洋職を襲ふ、時に年二十三
東洋山脇氏の後となる時、醫を以て專門となさず、經史を講じ、子弟に教授す、漢魏の傳註に左袒し、宋儒の心性説を辯駁す、門人頗る多し、世之を儒醫(じい−ママ)〔二者兼業〕と曰ふ、當時後藤艮山(*原文「良山」は誤植か。)、香川秀菴(*香川修庵)、香月牛山、稻若水等の如き、皆業を輦轂(れんこく)の下(もと)〔天子の在す所〕に唱へ、之を儒醫と稱す、東洋之と交はり、相與に討論し、己が見る所を發す、諸家之が爲に舌を吐き〔驚く〕、及ぶべからずと稱す
東洋初年性理説を喜び、其家學に於て既に唐後の醫説非とすべきもの多きを覺ゆ、未だ一見を發する〔獨得の意見を立つること〕能はず、六藝を旦暮し、百家を渉獵し、三十以後自ら道に古今あり、技藝も亦然るを識る、一旦大に開發する所あり、斷然儒に於ては漢魏の古學を主とし、醫に於ては長沙を主張し〔近代の醫説を取らず長沙の説を唱ふ〕、勵精之を攻む、醫術大に達し、療を求め治を請ふ者、日に其門に相踵ぐ、名聲揚躍して海内に滿ち、一時の俊傑吉益東洞、永富獨嘯菴の如き、皆其門下より出でゝ、其業を奬成す〔スゝメナス〕
東洋は天資■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)悟〔機敏〕、加ふるに強健を以てし、經史を貫通す、甞て林東溟が許に在り、史記を講ずるを聽く、講畢りて後戯に始皇及び項羽本紀を背誦〔諳誦〕するに、一字を遺さず、又談梅花に及べば、梅花の詩二百首を諳誦す、東溟大に其強記なるに感ず
東洋容貌■(斤+頁:き・きん・こん:丈が高く立派な様:大漢和43370)哲〔肥えて色白き〕、眉目畫くが如く、大に京樣(げふやう−ママ)〔京都風〕あり、甞て撃劍を學んで其蘊奥(をんあう−ママ)を究む、其掌中皸斑(たこ)多し、又衣裝(いさう)を好み、嚴猛にして威容あり、東洋をして武弁(ふべん−ママ)の氣習あらしめば、必ず縉紳〔公卿〕貴冑(きちう)と同く、自然に高貴の氣象ありて、其尊卑(そんひ−ママ)を認め難からん
東洋常に謂(おも)ふ、近世諸子各著述を出して世に刊布(かんふ−ママ)するも、彼國先修〔先進者〕の有益の書を翻刻して、以て後人を惠むに若かずと、甞て命を奉じて王■(壽+烈火:とう・どう・ちゅう:照らす、ここは人名:大漢和19519)が外臺秘要四十八卷を校勘〔校正〕して刊行す、今に至るまで醫を學ぶもの之を寶とす
東洋寶暦甲戌の歳を以て、官に請ひ斬首者の死屍を請ひ、其臟を觀る、文を作りて之を祭り、明に舊説を辯じ、臟志〔書名(、)臟の解剖を記す〕を著す、按ずるに觀臟の擧、宋に歐陽範が五臟圖あり、元に王好古の臟説考あり、吾邦に於ては未だ曾て之あらず、或之を難じて曰く、醫は仁術となす、死屍と雖も、之を屠〔割切〕りて其臟腑を觀るは、寧ろ甚しからずや、診脈察症、藥を投じ劑を與ふれば、資して効を得るあり、何(なに)ぞ必ずしも臟を觀ることを是れなさんやと、東洋笑つて曰く、其術を善くせんと欲すれば、講究多端〔いろいろの手段〕ならざるを得ず、斯擧蓋し已むを得ざるに出づと、更(とも−ママ)に與に較せず、壬午の歳再び官に請ひ、又臟(*原文「臙」〈えん〉は誤植。)を觀る、是より以後越前の半井伯玄の臟覽あり、長崎吉見南岡の五臟明辯あり、皆東洋を以て之が嚆矢〔初め〕となす、長門瀧鶴臺臟志の序を作りて曰く、相傳ふ本藩姦賊を城中に獲るあり、侍醫之を■(咼+立刀:か・け:割く:大漢和2094)剥(くわはく)せ〔細に切り皮を除く〕んと請ひ、畫工をして即きて圖せしむ、其圖秘して出さず、曰く此圖一たび出でなば、醫籍盡く廢せん〔駄目とならん〕と、近ろ竊に之を覽るに、志に載する所の如く、分毫も差(たが)はず、是に於て益素靈難經明堂銅人等の諸書に五臟六腑を説くもの妄誕なるを知る、苟も臟■(肉月+付:ふ:腑〈はらわた〉・肌・腫れ物:大漢和29380)の位(くらゐ)する所〔位置〕、關節の束(つか)ぬる所、水轂(すゐこく)の輸する所〔喉より胃膓、食道〕、氣血の運(うん)する所を明(あきらか)にせずんば、安ぞ能く■(病垂+黴:ちょう:病の名:大漢和22608)結(ばいけつ−ママ)〔病源〕(*腹に固まりのできる病・足の瘡)の所在を知りて之を治せんや、而して上下千餘年、欺を容れて疑はず、迷(まよひ)を執りて返へらず、衞生の道淪胥(りんしよ)〔衰微〕窮まる、豈に生民の不幸にあらずや、君其の此の如きを憫み、奮然志を發して、千古の迷蒙を撥(はつ)〔闢〕し、濟世(さいせい)の標準を掲げ、以て其人を將來に傳ふ、其功大にして且つ遠いかなと
東洋寶暦十二年壬午八月十三日を以て卒す、享年五十八、深草山霞谷に葬る、著す所醫則一卷、臟志二卷、濟世餘言三卷、文集六卷あり
平竹溪、名は義質、字は子彬、竹溪と號す、通稱は平太夫、三浦氏、江戸の人、初め甲斐侯に仕へ、後吉田侯に仕ふ
竹溪は三浦大助義明の長子、左衞門尉重經(しげつね)の裔なり、重經より上總介隆有に至るまで凡そ二十世、周防吉敷郡仁保村に居る、其子甚右衞門尉爲重織田信雄に仕ふ、之を竹溪の曾祖となす、其子權兵衞重久初めて江戸に來り、津和野侯に寓して邸に在り、其子重政、通稱は平右衞門宇津木氏を娶り、竹溪を江戸に生む、重政仕へずして身を終はる、竹溪年十五にして甲斐侯に仕へ、生徒に教授す、時に享保四年己亥(*原文「巳亥」は誤植。)の冬なり
竹溪弱冠にして甲斐侯に仕へ近侍たり、侯其豪氣撓ます(*ママ)、矯俊〔敏捷〕節ある〔氣節氣概(*ママ)あること〕を喜び、恩寵特に厚し、寶永二年臘月十八日常憲大君侯の邸に臨み、諸學士其前に肆業す〔業をナラフにて講釋す〕、竹溪歳僅に十七、孟子の道邇(ちかき)に在りの章を進講す、言語爽利にして〔サハヤカに流暢滯らざること〕甚だ儀容あり、時服を賞賜せらる、人皆之を榮とす
竹溪幼にして學を好み、中年の後業を物徂徠に受く、天資穎敏、未だ數年ならずして群經〔多くの(*原文頭注「多のく」は誤植。)經書〕を究め、見解奇拔、人の意表に出づ、又楷書を善くす、徂徠常に其聰敏を愛し、著書數種、稿を脱すれば必ず竹溪をして之を繕寫〔淨書〕せしむ、徂徠の手書多く草行を以てす、皆之を習熟し、悉く其旨を得たり、故に徂徠終に臨み、遺書を竹溪と南郭とに屬〔託〕すと云ふ
竹溪甞て社友五六輩と雜司谷に遊ぶ、道に刀を拔きて叫呼する者あり、人皆之を恐避す、竹溪之を拒み、扇を以て其刀を打ち墮す、農夫數人出でゝ之を捕縛す、特り詩を吟じて過ぐ
竹溪甞て鎌倉に遊び、夜に入りて途を失ふ、篁藪に入り、刀を拔きて竹數竿(かん)を斬る、里人以て盜なりとし、喧擾して〔騒ぐ〕之を問ふ、曰く、月黒し、吾以て炬火を作らんとす、汝輩何をか尤(とが)めん(*と)、其聲甚だ■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)(はげ)しく、威貌近き難し、里人之を勞し、燭を供して之を送ること數里(*なり)
竹溪恒に執強(しつきやう)〔一コク〕の言をなす、始めて謁見する者あれば、曰く、事あれば來れ、事なければ來るべからず、吐款(とくわん)す〔實を陳ぶ〕べく、軟飾す〔ゴマカス〕べからずと
竹溪尤も志を經濟に留め、律學に精し、享保中執政濱松侯信祝(松平伊豆守)幣を厚くして之を聘すれども、肯(あい−ママ)て起たず、物金谷(名は道濟、徂徠の嗣子)之を強ひて然後諾す、然も進むに儒官(じくわん−ママ)を以てせず、其好む所に非ざればなり、遂に俸二十五口を受けて、上士に班し、政府の典簿〔調方〕を爲す、所謂案詞方なるものなり
竹溪吏才あり、尤も執政參政の事とする所、諸官の職とする所を熟知す、其掌る所政府の要務なるを以て、意を先朝の舊典、歴世の沿革〔舊典沿革は舊例故格〕に留む、六經諸子より以て傳記小説に至るまで、其務むる所、專ら經國〔國を治むること〕の業に在り、其練達すること諸を掌(たなごゝろ)に視るが如く、官に事あり、來り謀る者成すべからざれば則ち止む、之を爲せば必ず遂ぐ、而して之を謀るに術あり、其指揮に由〔從の意〕れば則ち得、其指揮に由らざれば則ち得ず、自ら謂(おもひら)く人の吏となりて、其志す所を成さゞるは、則ち其の之を謀る所以の道を得ざるが故なり、直情徑行〔思ふまゝに行ふ〕、何ぞ時に行はるゝことを得んと、是を以て人皆敬服す
竹溪寶暦五年九月を以て病に寢す、身體衣被皆潔清を好んで曰く、病の臭穢(しうくわい)なるは惡むべしと、來りて病を問ふ者あるも、皆謝して見ず、遂に翌年丙子五月五日を以て歿す、享年六十八、市谷蓮秀寺に葬る、著す所射學正宗國字解、律學正宗國字解、明律釋義、竹溪文集等あり
木蓬莱、名は貞貫、字は君恕、初め嶺南と號し、後蓬莱と號す、通稱は勝吉、尾張の人、勝山侯に仕ふ
蓬莱は尾藩の上卿〔元老〕犬山の成瀬氏が邦内苅安賀邑なる農夫の子なり、年十二にして江戸に來り、物徂徠に謁す、幾くもなくして徂徠歿し、乃ち郷里に歸り、力學すること數年、後京師に之き、講説して業となす、其名稍や都下に顯はる、勝山侯忠隣(酒井越前守)大衞將(たいゑいしやう)〔御城番〕となり、二條城を護(まも)る、曾て其名を聞きて之を聘し、禮遇頗る厚し、遂に文學を以て之に仕へ、侯の駕に從ひて、江戸に來る、時に延享の初年なり
蓬莱の經義を講説(こうせい−ママ)する、譬(たとへ)を取りて教諭す、言語明爽〔ハツキリ、サワ(*ママ)ヤカ〕、頗る中江藤樹の人となりに似たり、故に至愚の人と雖も、其旨を領了し、師徳を仰慕(かうぼ)す、常に謂く、白鴎水に在り、悠然として浮び、清間自得し〔餘裕ありて得意〕、而も其足躁擾して小息するを得ず〔少しも休む間なきの意〕、是を以て其性を失はず、人の世に處する、亦此の如きのみ(*と)
蓬莱甞て曰く、己不善にして人之を譽むとも、以て喜ぶに足らず、己善ならば、人之を毀(そし)るも、以て憂となすに足らずと
蓬莱少き時、家貧にして常に十日の食なし、流氓(りうみん−ママ)男女の來りて門外に立ち、食を乞ふ者あれば、米櫃(べいき)を倒(たほ)して之を救ふ
蓬莱(*原文「逢莱」は誤植。)資性直諒、類(おほむ)ね密行多し、齋居獨處す〔人なき處に在り〕と雖も、皓然〔明々白々〕自ら欺かず、書生たる時甞て酒樓に飮み、娼妓の絃歌を善(*く)する者二人を知る、其後二人主人の爲に逐はれて、依頼する所なく、來りて蓬莱が家に寓せんと請ふ、蓬莱之を憐み、二人を家に置き、之を遇すること賓客の如く、未だ甞て■(女偏+世+木:せつ・せち:狎れる・乱れる:大漢和6524)狎(てうかう−ママ)(*せっこう)〔猥褻の行爲〕せず、自ら謂ふ爾曩に樓に在りて妓たり、今は則ち處婦なり、卑賤なる者に非ずと、之を安撫すること愈厚く、其資裝〔嫁資にて衣服調度〕を整へて之を嫁す
蓬莱苟も合ふを欲せず、其勝山に官し儒員(じゐん−ママ)となるに當り、俸米僅に十五口のみ、妻妾の爲めに口を斗升(としやう)〔微禄の故事〕に糊するに非ず、勝山侯能く其己を知りて優遇し、以て爲すあるに足るが爲めなり、侯將に大いに用ひて、之に藩政を委任せんとし、半途にして館を捐つ、世子封を襲ふに及び、封内歳饑(う)え、財用足らず、諸臣には賜を止むるも、獨り蓬莱に儉ならず〔節約せず例の如くすの意〕、其優禮以て視るべし、其餘敬待率ね此類(るゐ)なり
蓬莱明和二年丙戌十二月二十五日を以て、駒籠の邸に歿す、享年五十一、日暮里の臨江寺に葬る、一たび内〔妻〕を喪ひ、再び娶らず、以爲く後を立つるは吾志に非ずと、遂に嗣を立てず、其好む所に從ふなり、著す所玉壺詩選二卷、蓬莱詩稿四卷あり
赤松大(*ママ)■(广+叟:そう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)(たいゆ−ママ)、名は弘、又通稱に用ゆ、字は毅甫、太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)と號し、又赤草と號す、述齋、木瓜翁皆別號なり、江戸の人
太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)の父、名は舊邦、字は新甫、沙鴎と號す、播州の人、其先赤松則村入道圓心より出づ、其第三子初め釋に入り、律師則祐と曰ふ、足利將軍に從ひ、屡武功あり、後播磨國守護職となる、則祐七世の孫肥前守治忠豐太閤に仕ふ、乃ち舊邦の曾祖たり、舊邦元禄中始めて江戸に來り、儒を以て松山侯に遊事す、櫻井氏を娶り、太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)を松山侯箕田の邸中に生む、時に寶永六年己丑の歳なり
太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)弱冠にして家庭に學び、慨然として〔奮起の貌〕歎じて曰く、先王〔支那の昔時三代の聖君〕の教(をしへ)は成周〔周代〕に備はり、昭々として日月の如し、今封建の制に遇ふ、是時に際し、經術を修めずんば、男兒の業に於て、果して何をかなさんと、是に於て精を六經に專(もつぱら)にし、研究已まず、遂に經藝を以て當時に名あり、其學專ら漢宋を主とせず、自ら一家言を成す、後易、書、詩、春秋、三禮、孝經、論語解を著し、九經述と曰ふ、書成る、凡そ百三十卷、富むと謂ふべし、我邦群經の註解を作る、未だ曾て斯の如く卷帙の浩瀚〔洪大澤山〕なるものあらず、識者歎服すと云ふ
太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)當時芙■(艸冠+渠:きょ・ご:蓮花:大漢和31962)社諸子の詩歌に耽る者を厭薄(えんはく)し〔忌み嫌ひ輕視す〕て、之と交はらず、曰く、名譽は人の賊なり、喧傳は徳の賊なり、摸擬剽竊、吟哦を精思する者は、抑も亦詩の賊なり(*と)
太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)常に名教〔人倫の道〕を以て己が任となし、其自ら信ずること甚だ厚し、王侯貴人厚弊豐禄を以て招く(*ママ)と雖も、敢て官に就かず、吾が四方俊髦(しゆんぼう)の士〔天稟卓絶の人〕を得て、之を教育し、各其徳を成し各其材を達し、之をして國家の用に供せしむるに若かんやと、敢て顧みず、人皆其操志を高しとなす
太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)資稟雍熙〔高雅にして品格の備はれる〕、絶えて浮躁粗豪の氣なし、其行敦篤にして■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)重(しんちよう)〔周密苟もせざる〕なり、松觀海稱して曰く、毅甫は風儀高標、一世に雄視す、以て後進の師表となすに足る(*と)
太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)明和四年丁亥四月十二日を以て歿す、享年五十九、父沙鴎尚存す、太■(广+叟:そう・しゅう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)を喪ひてより、追傷の餘、哀毀〔悲哀の極身體の衰弱(*すること)〕病を成し、其冬十一月晦日を以て歿す、享年百歳、其墓麻布善福寺に在り、近世の儒流(じりう−ママ)にして、壽(じ−ママ)の頤(*原文は俗字体を使う。)期(ゐき)〔百歳〕に至る者は、江村雪齋と沙翁とのみ
中根東里、名は若思、字は敬夫、通稱は貞右衞門、伊豆の人
東里の父、名は重勝、字は千義、武濱と稱す、三河の人なり、延寶中伊豆に遊び因りて移る、淺野氏を娶りて五男一女を生む、存する所は東里及び弟孔昭、字は叔徳、鴨居と號す、其餘は皆夭〔早死〕す、下田に家して農桑を業とし、頗る軒岐家の言を好み、其説に精し、就きて治療を請ふ者衆く、其名郷里に聞ゆと云ふ
東里年十三にして父を喪ひ、母に事へて孝謹なり、母命じて父の冥福〔後世の福祉〕を修めんが爲に釋氏に歸せしむ、乃ち郷の一禪門に入り、薙髪して證圓と曰ふ、後宇治の黄蘗山に登り、悦山禪師に師事す、蓋し禪家の課業は佛祖の眞面目〔眞相〕を得るに在り、博く群書を讀むを許さず、東里其課の煩はしきを厭ひ、竊に寺を出でゝ江戸に來り、下谷の蓮光寺に寓し、淨宗の學を研究し、■(彳+扁:へん・べん:遍く行き渡る・巡る・偏る:大漢和10174)(あまね)く經典を閲す、寺主徂徠と交あり、屡東里が明敏にして衆に異なるを稱す、平常書を讀み、通ぜざるあれば、歴年の舊と雖も、記して臆〔胸臆〕に在り、事に觸れて發明すと、徂徠之を聞き、試に東里をして李攀龍が白雪樓集一本を句讀せしむ、東里傍訓國讀〔假名を振り返り點を附す〕を其書に附して之を返へす、時に年十九なり
東里蓮光寺に寓すること、茲に數年、自ら僧の道に非ざるを知り、屡蓄髪還俗せんことを請ふ、寺主雄譽(ゆうま−ママ)上人頗る鑑識〔人を識るの明〕あり、將に其意に任さんとす、而して其法を蔑視〔輕視無視〕するに似たるを以て、陽に許さず、陰に疾ありと稱し、髪を寺中の別舍に蓄(*原文ルビ「たく」は一字脱。)へしむ、東里益書を讀み、刻苦(こくく)日も亦足らず、稍や徂徠の學を疑ひ、作る所の文章數篇を取りて悉く之を燒き、其所謂修辭の業を薄(うす)んず、時に細井廣澤雄譽上人と善し、東里が人となりを聞き、大に之を奇とし、其家に寓せしむ、幾くもなく郷里に歸省す、其母尚在り、遂に母に請ひて還俗し、中根貞右衞門と稱す、室鳩巣其名を聞き、引きて其門客たらしめんとす、東里素より其學を慕ふ、質(ち)を委(ゐ)して〔弟子入りする禮〕之に師事す、時に年二十三(、)享保元年の正月なり
東里の父善く飮む、出づる毎に、醉へば則ち家に歸ること晩し、東里常に燭を挑(かゝ)げて之を迎ふ、甞て之を途に■(之繞+牙:が・げ:迎える:大漢和38756)(むか)ふ、父醉ふこと甚しく、東里か他人かを辨ぜず、大に之を罵り、遂に樹下に倒れて睡る、之を扶持(ふぢ)すれども起きず、走り歸りて■(虫偏+厨:::大漢和に無し)(かや−ママ)を家に取る、而して母の安んぜざるを恐れ、故らに父の某が許に宿し、今夜醉客多く、其家に餘■(虫偏+厨:::大漢和に無し)(よちう−ママ)なきを以て、兒と一宿して還ると稱し、遂に父の醉處に到り、■(虫偏+厨:::大漢和に無し)を樹に張り、之を護して夜を徹し〔通宵にて曉に達す〕、其睡覺むるを待ちて家に歸る、郷人其孝を稱す
東里室鳩巣に從ひ、賀州に在ること二年、享保戊戌還りて江戸八町(*ママ)堀に居る、一年にして去りて鎌倉に赴き、鶴岡廟の側に居ること二年、再び(*原文「再ぴ」は誤植。)江戸に來り、辨慶橋畔に僑居して、生徒に教授す、葆光(ほうくわう)〔ヒカリヲツゝミにて自ら誇耀せざること〕自ら晦まし、當時の諸儒と頡頏するを欲せず、常に退落を甘んじ、資用乏しければ、則ち綿糸繍針の類を市に鬻ぎ、又竹皮の履を造りて之を售り、數日の費錢を得れば、戸を閉ぢて書を讀み、從遊の士(*の)外、人に接見せず、沈默自重す、人之を目して皮履先生〔皮草履先生〕と曰ふ
東里■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社に在る時、徂徠其才を愛し、常に坐客を顧みて曰く、文章は僧證圓、藤東壁の如くにして、而後能く左氏史公を學ぶと稱すべしと、其誘掖〔指導〕至らざる所なし、其後還俗するに及び、義當に之を徂徠に謀りて、而後之を作すべし、東里未だ曾て之が可否を謀らず、髪を蓄ふること百餘日、徂徠之を聞きて悦ばず〔不快に思ふ〕、東里又其説を疑ひ、論を著して之を駁し、自ら見る所を述ぶ、山縣周南、太宰春臺等其稿を覽て大に之を慍(いか)〔忿〕り、排撃■(齒+奇:ぎ・き:噛む・囓る:大漢和48698)■(齒+乞:こつ・けつ:噛む・囓る:大漢和48590)(きけつ−ママ)(*ぎこつ)〔カミツク〕、東里をして其門に入る能はざらしむ、東里も亦是より後之と絶すと云ふ
東里詩才雋逸、文尤も跌蕩(てつたう)なり〔奇拔にして抑揚あり(、)平凡ならざる〕、其機軸(きちく−ママ)觀るべし、下毛天明郷菅神廟の碑、相州鶴岡祀堂の記の如き、近世の柴栗山、井四明、太田錦城等の諸家皆稱して、慶元以來希有絶無の文なりと曰ふ
東里資性狷介にして〔峭直にてカドあること〕苟も世に容れらるゝを爲さず、高潔自ら持(*原文ルビ「ち」は誤植。)し、從遊者と雖も、皆之を憚る、室鳩巣特に之を愛して曰く、強項(きやうかう)不屈〔頭の堅き(、)物に撓ゆまぬこと〕、■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)默(しんもく)競はず、能く磨涅(まてつ−ママ)の中〔誘惑の間に立つの意〕に處して、更に■(三水+緇の旁:し:黒・黒く染まる:大漢和17616)■(石+燐の旁:りん:雲母、ここは人名:大漢和24481)(しりん)〔惡俗に混ずるも染まり摺れざるの意〕の損なしと
延寶中東里江戸の煩喧を厭ひ、下毛の仁田に遊び、高克明(九峰と號す)が家に客たり、其曠野の清閑を愛して還らず、遂に天明郷に移居し、悉く舊習を捨て、王姚江が學〔王陽明〕を尊信し、專ら其説を唱へて、以て子弟を誘(いざな)ふ、闔郷之が爲めに化して東里を景慕し、婦人兒輩と雖も東里の名を知ると云ふ
東里天明に在る時、其弟高昭業を失ひ、又妻を喪ひて其女を鞠育する能はず、携へ來りて東里に託す、女僅に三歳、東里之を懷にして庇養〔擁護養育〕撫育盡さゞるなし、人皆之を難しとなす、甞て之を機として一册子を著し、鳥獸を其端(たん)に畫き、飾るに朱縁を以てし、名けて新瓦と曰ふ、謂く穉子蒙昧〔無智、物の分らぬ〕にして、未だ教諭するを得ず、生長の後躬ら之を弄し、能く之を讀まば、則ち吾が汝を撫育するの意を知らんと、余甞て其書を得て之を讀むに、啻に文辭の平易流暢、人事を敷演(ふえん)(*原文「演敷」は誤植。)するのみならず、思はず人をして感動せしむ
東里明和二年乙酉二月七日を以て、相州浦賀に歿す、享年七十二、海關の顯正寺に葬る、娶らざれば妻子なし、終に臨み、藤梓なる者を以て嗣となす、著す所新瓦一卷の外に遺編なし、門人須藤温其詩文を輯めて東里文集二卷とし、世に刊行す
石瀬濱、名は宣明、字は子諠、瀬濱と號す、通稱は多仲、奥州の人
瀬濱の高祖宣常射術を以て武田晴信に仕へ、勇武を以て世に聞ゆ、所謂甲斐の強弓石金左馬助即ち是なり、晴信其技を試みんと欲し、堅甲を石上に置き、之を射らしむ、宣常一矢を抽(*原文ルビ「ね」は誤植。)き、從容として進み、一發(ぱつ)して貫き、洞汰して石に著(ちやく)し、鏃の入ること寸餘、晴信歎じて曰く、古の善射は曩祖陸奥守(八幡太郎)と鎭西爲朝とあり、而も未だ石を穿つ者あるを聞かずと、氏を石金と賜ふ、勝頼の時に至り、遇はず〔用ひられざること〕して去り、奥の瀬上邑に隱れ、自ら耕して食を給す、其後甲斐亡び身死するを得ざるを以て恥となし、謂(おもひら)く士の義を失ふと、因りて子孫を戒めて出仕することなからしむ、故に世々農業をなし、宣明に至り、始めて學を好み、江戸に遊び、同郷の故を以て、餘熊耳に學び、教授して業となす
瀬濱自ら石金を修めて石となし、啻に文事の上のみならず、通俗に於ても〔平常にてもの謂〕概ね石多仲と稱す、當時の人其複姓なるを知(*原文「しる」は衍字あり。)るなし、或は之を難じて曰く、文辭の上に於て、複を裁して〔二字の姓を削りて一字となす〕單となすも例なしとせず、通俗に於て之を單とするは、自ら是れ其姓系を蔑する者なりと、瀬濱笑つて曰く、吾輩賎丈夫何ぞ家先の世貫(せいくわい−ママ)に管(くわん)せん、金素と兼(かね)となすも亦此類なりと、少しも較せず
瀬濱熊耳の塾に寓すること十年、日夜誦讀して經史を貫く、其几に對する坐下足著兩磚(せん)の處、之が爲に穿つと云ふ
瀬濱記性〔記憶の賦性〕人に過ぐ、毎年臘月に至れば、暦子一册を買ひ、之を厠(し)中の壁上に糊塗し、厠(かはや)に上ること十二次にして、來歳十二月の干支〔子丑寅等の十二支〕運動(*原文ルビ「うんうう」は誤植。)時令より、晝夜の短長、氣節の旺相に至るまでを諳記し、而後其糊を去り、以爲(おもひら)く暦子の展卷、厠に上る間に在れば、寸時を費さずと
瀬濱經義文章■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園を主とす、二十九歳にして帷を三田に下す、生徒稍や集まり、其名時に顯はれ、業將に大に行はれんとす、寶暦八年戊寅疫を病んで歿す、年三十八、娶らざれば子なし、門人相議し、其遺骸を護して郷里に送葬す、著す所嘉隆文體四卷、修辭緒言一卷、瀬濱遺草六卷あり、皆門人の輯録する所、未だ全く脱稿せずと云ふ
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