續近世畸人傳 卷1
伴蒿蹊・三熊思孝、三熊露香女画
井上通泰・山田孝雄・新村出 顧問、正宗敦夫 編纂校訂『續近世畸人傳』
(日本古典全集・第三期 日本古典全集刊行會 1929.4.25)※ 伴高蹊の伝は、解題を参照。
序(浦世纉)
目次
序(三熊花顛)
題言(伴蒿蹊)
桜花帖序(六如)
三熊花顛伝(伴蒿蹊)
巻1
巻2
巻3
巻4
巻5
附録
【巻1】
石川丈山
佐川田喜六
僧元政
仏佐吉
山口庄右衛門
若狭与左衛門子兄弟
以登女
高戸善七
馬郎孫兵衛
續近世畸人傳卷之一
石川丈山
丈山名は重之(後凹と改め、凹凸窩(*ママ)、頑仙子、大拙など其の詩其の書に記せらるゝものあり)、參河ノ國碧海ノ郡泉ノ郷に生れて、若き時は嘉右衞門と稱し、後左兵衞と改む。世々濱松麾下の士なり。源義家第六子左兵衞尉義時石川と稱せしより嗣ぎて氏とす。浪華合戰の時、御麾下(*家康の麾下)に從ひ奉り、天王寺口にありけるが、「人並々の軍せんも見所あらじ。」と將帥の命をまたず、夜をこめて只一騎營中を忍びいでて敵城に攻めかゝり、櫻の門といふ所にて佐々十左衞門と渡り合ひて、佐々が首をとる。其の郎等其の場をさらず切りかゝりしをも、又槍の下に伏せて、大手を走り過ぎ、打取りし首を實檢に備へしに、(*家康は)其の武勇は深く感じ思し召しけれども、軍令に背きたる罪其のまゝに見許しがたく、殊にかねて寵臣のことなれば、依怙の御沙汰も穩かならずとて、惜ませ給ひながら、勘當し給ふ。
さてぞ武門を離れて日枝の山のふもと、一條寺むら(*一乗寺むらか。)に世を避け詩仙堂を創し、自ら六々山人と號し、山水花月に情を慰む。詩仙堂とは、唐宋諸名家三十六人の詩を一首づゝ自書し、像は探幽法印に畫せしめて梁上に掲げたればなり。本朝の歌仙に准らふるなるべし。こゝに隱れて後は京へ出づる事をせず。 後水尾帝其の風流を聞こし召して召されしかど、固く辭し奉りて、
渡らじな世見の小川の淺くとも老の波たつ影は恥かし
と申し上げければ、憐み思し召し、「心に任せよ。」と勅ありしが、殊に此の歌の「波たつ」を「波そふ」と雌黄(*添削)を下し給ひしも忝し。
初め惺窩先生に道を學び、羅山子・杏庵(*堀杏庵)・玄同(*菅玄同)の輩と交はり詩をよくす。平生咏ずる(*原文「咏する」)所の詩若干首集めて『覆醤集』と號く。又『北山紀聞』あり。是れも翁の詩又詩話を記す。ことに隸書にたくみなり。世人稱して本邦中古以來隸書のはじめとす。寛文十二年壬子(*1672年)夏五月廿三日享年九十歳にして歿す。
翁爲レ人剛直にして勇あり。其の頴敏なるも亦人に過絶す。二歳の時のことをよくおぼえ、四歳にして成人のごとく歩行す。十六にして仕へ、三十にして退き、老母につかへて孝を盡し、四十にして隱遁の志を堅くせり。實に希代の隱士といふべし。棲遲(*隠棲)のあと禪尼寺となりて存在す。風景凡て雅趣あり。外面に小有洞、中門梅關、嘯月等の額、皆翁の手書なり。其の所レ藏翁の肖像、探幽圖して自賛を記せらるゝ幅、閣上より望む所十二景の卷(此の閣三重に作れり)、又木崑崙・竹如意の類、生涯愛翫の六物有りて請ふ人には是れを示し、且つ近來其の圖を摸刻し冊となして廣むれば、ここには疣せず(*贅せず)。其の中に七絃の琴は明ノ陳眉公の舊物にして、ことにめづらしと云ひてもてはやすを、靈元法皇聞し召し及ばれて、宮中に召して叡覽ましましけるが、古き絲三筋のみ殘りければ徳大寺家の世臣物加波氏の妻女に勅して、糸(*ママ)四筋を補ひて下し賜ひけるとぞ。物加波氏は世々琴絃を作る來由ありて勅許を蒙り居れる故となん。今右に琴の圖樣を掲ぐ。
佐川田喜六
佐川田昌俊喜六と稱す。姓は高階、世系高市皇子六世峯緒より出づ。承和(*原文「承知」)の比高階を省略して高と稱ふ。先人某下野足利の莊早河田村に食し(*食邑を有し)、遂ひに文字を佐川田にかへて氏とす。貞治四年(*1365年)義詮將軍(*ママ)高掃部助師義をして信濃の賊を討たしむる時、援兵となり、足利基氏鎌倉に居て東國の鎭たる時、手書を賜うて累世鎌倉に仕ふ。その後、六七世を經て、喜六にいたる。
喜六幼くして越前長尾家の將木戸玄齋が養子となる。いまだ弱冠ならざる頃より、三郡の訟へをきゝて判ずるに、議辨よく當れば、人「賢者なり。」とあふぐ。玄齋和歌を好む故、したがひて學べり。後玄齋むなしくなりて、其の家絶えたる後、洛に赴き、慶長五年庚子(*1600年)大津の驛の戰に、ある人(*原文「あの人」)の手に屬し、先登(*せんとう=先陣)し、鎗を壁下にあはせ、左の股を傷つけられて、なほ周旋す。永井右近大夫直勝朝臣、喜六が勇名を聞きて招いてしばしば眷遇し給ふ。
慶長十九年(*1614年)難波の役、侯の營に九鬼某の兵すゝむ時、
「其の間いかばかりかある。又沼川の淺深いかならん。」
と仰せければ、喜六進み出でて、
「おのれ往きて物見つかうまつらん。」
といふ。侯とゞめ給へどもきかず。芦原沼川をわたりて、九鬼の兵と言を交へ、其の淺深などくはしく計りてかへり、
「敵兵必ずいたることを得じ。」
とまうすに、果して明日引退く。水陸の算喜六がことばの如くなるを、人皆奇とす。
すべて弓矢の道にくはしく、孫呉の書を明らめ、經濟の事をもよく知れり。右近大夫の嗣信濃ノ守尚政朝臣、ますます喜六に禮を厚くしたまふ故に、諸士もまた重んず。
寛永十年(*1633年)侯増封を得給ひ、下野より山城の淀に移らる。一時在府の日、封地不熟にして、諸士飢寒す。その比、喜六執事たれば、皆「軍用の金を借らん。」と乞ふに、喜六思惟して、「是れは君にまうし同僚にかたらひては成るべからず。吾れ一人の意にてはからはん。」と、倉をひらき、銀子千貫目を出し、返濟のことを示して分配す。後侯是れを聞こし召して大いに怒り私のはからひを責む。喜六申す。
「軍用金もと何の爲めぞ。諸士乏しく、公の恩を思はざる時は、有りても益なし。今十年を經ば各返納して倉廩もとのごとくならん。されども、此の擧臣一人の所爲なれば、もし義にあたらずと思さば、死を賜はんもまた辭せざる所なり。」
と。その理當れるをもて侯も言なくやみ給ふ。
同十五年(*1638年)疾に嬰りて致仕し、家は息俊甫に委ね、薪村酬恩庵(一休禪師の遺跡)の境内に默々庵をむすびて幽居す。禪に參じ山水を翫び、意を方外に遊ばしむ。壺齋また不二山人ともいふ。茶技(*原文「茶伎」)は小堀宗甫翁(*小堀遠州)を友とし、連歌は昌琢法眼に從ひ、書は松花堂(*松花堂昭乗)に學ぶ。漢學はもとより羅山子に聞けりし。和歌をも好みて、近衞藤公(*近衛信尹か。本阿弥光悦・松花堂昭乗と並んで寛永の三筆とされる。)に參り、中ノ院通勝卿・木下長嘯子にも鴎社(*俗世間から離れた風流の交わり。鴎盟。)をなす。
ある時淀川の鯉を近衞殿に奉りて、
ついであらば申させ給へ二つもじ牛の角もじ奉るなり
(閑田子云、鯉の字古假名は「こひ」なれども、後世は「こい」とかけり。)
御かへし。
魚の名のそれにはあらでこの頃にちと二つもじ牛の角もじ
(來いとの給ふなり。)
又所持の博山の香爐を羅山子に贈る時子答へて、
遠寄2一爐1示2相戀1心如2螺甲沈水錬1。
とよろこべり。此の類ひ風流の交はりの書牘世に殘れるもの多し。擧ぐるにいとまあらず。
昌俊若きときよめる歌に、
吉野山花待つ頃の朝な朝な心にかゝる峯の白雲
これを飛鳥井雅康卿の傳奏にて(*原文改行)
後陽成院の叡覽に入れければ、深くめでさせおはしましけるが、後寛文の皇后(*未詳)、集外歌仙を撰ばせ給ふ中にいりて、忝く宸翰を染め給ふとなん。
連歌においてことに長じけることは、ある人昌琢に向ひて、
「當時連歌に冠たる人は誰れぞ。」
と問ふ。昌琢、
「西におのれあり。東に昌俊あり。」
と(是れは永井侯(*直勝か。)いまだ下野に在城の日なり。)答へられしにて知らる。
寛永二十年癸未八月三日病みて終る。享年六十五なり。墓は酬恩庵境内にあり。
蒿蹊云はく、墓碣に「何でもないこと何でもないこと」とのみ記すとぞ。予先年此の寺に至りしかども、故障ありて、此の墓および其の茶室を見殘せり。今は人の話をもて録す。
僧元政
釋日政、字は元政、妙子と號す。不可思議又泰室とも稱す。姓は菅原、平安の人なり。母石井氏、或夜の夢に、高僧入り來りて、「頼もしきかな。」と云ふとおぼえて後孕めることあり。元和九年己亥二月廿三日、京師一條のほとりに生る。母氏曾てなやむことなし。二歳の時、秋七月十六日夜父携へて東山の送り火を見せしに、大の字をみて、家にかへりて、直ちに其の字をしるす。またさまざまの玩物をならべ置く。人その名をよぶ時、喚ぶに從ひて取ることかつてたがはず。
六歳にしてはじめて書を讀ましむるに、一たび授かりしことは忘るゝことなし。ある日、父にしたがひて、建仁寺大統院に遊び、院主九巖長老にまみゆ。長老云ふ、
「兒何の書をならふや。」
いふ。
「大學を學ぶ。」
と。即ち長老二行を口授するに、たゞちに諳記して誦す。長老掌を打ちて嘆じていはく、
「誰れか知らん、今寧馨兒(*「寧馨」は晋・宋の俗語で「このような」の意。かかる神童。)あり。」
と。
八歳にして近江彦根にいたり、武事をならふに又よくす。十三歳、城主井伊直孝君に仕ふ。故ありて母の氏をとなへて、石井俊平といふ。常に官のいとま書籍(*原文「書藉」)をよむに、精力人に過絶す。
一時江戸に下らんとするに、かねてより母氏のもちたる觀音の小像を携へんと乞ふ。此の像は母氏石山にまうづる道にて拾ひしところにて、深くひめ置きたれば、年比得まほしきながら、いはで過ぐせしなり。然るに乞ふに及びて(*母氏)驚きていはく、
「よべの夢に尊像つげて、『俊と行かん。俊と行かん。』との給ひしにあへり。」
とて、即ちあたふ。さて江戸にありて疾し、京にかへりて養ふこと一年、時に歳十九なり。
性山水を樂しみ、風景にあうては終日吟咏す。母氏と和泉和氣に遊んで、日蓮上人の像を拜し、三願を起していふ。「一つには、出家得度せん。二つには、父母の命ながくて孝養をつくさん。三つには、天台の三大部(*最澄『法華経玄義』『法華経文句』『摩訶止観』)を閲せん。」と。時に泉涌寺の雲龍院周律師、法華經を講ずるを聽き、■(立心偏+刀:とう::大漢和10305)利に生ずるの文に當りて、律師、法藏比丘の母をすくふ因縁を引くを聞き、涕泣してやまず。四座も亦これが爲めに袖をうるほす。師(*元政)、律師の徳義をしたひ、出家の志をつぐ。律師いふ。
「汝甚だ少し。出家いまだ遲からず。」
と。さて後八年を經て、廿六歳、妙顯寺日豐上人にしたがひて志を遂げ、果して三大部を閲す。「もし解せざることあれば、僧俗長幼をえらばず、是れを問うて盡す。夢に天台大師と議論あまたゝびにして解すること多し。」となん。しかも愼みて人にかたらず。常に三學(*戒・定・慧の修行)を修して滯らず離れず。又およそ耳目の觸るゝ所ながくわすれず。かゝれば、内外の二典にわたり、かねてよく日本紀に通ず。
後深艸に隱遁の地を占めて瑞光寺と名づく。常に袈裟を脱せず持律誦經怠る時なし。其風をきく者、草の伏すがごとく是れをつぎてあふぐ。又來りて道をとふ者あれば、よく教へてさとす。貴介公子(*貴人・公達)と雖も招くには應ぜず。或は人絹衣を供すれば、棉にかへて徒衆に施す。後父母の舍を寺の傍らに設けて、稱心庵と名づけ、孝養おこたる事なし。
父行年八十七にして終る。母とし七十九に及びて、身延山に詣でん事を告げられしかば、師たすけて共にまうづ。此の時『身延紀行』あり。後母もまた八十七歳にて終る。其の二七日より師俄かに病ひにふし、遂ひに起たざるを覺り給へば、諸徒弟に遺戒し、自ら曼荼羅を書し、弟子惠明に附屬して、法嗣とす。明くる年遷化の前一日、父母の墓に大きに法華の首題(*題目)を書し給ふ。世壽は四十六。寛文八戊申の年(*1668年)二月十八日化す。辭世の歌有り。
鷲の山常にすむてふ峰の月假りにあらはれ假りにかくれて
遺骸を稱心庵の側にはふむり、竹兩三竿(*二三本)を植うるのみにして、塔をたてず。遺命によるとぞ。著はす所、『草山集』三十卷、『草山和歌集』一卷、『釋氏廿四孝』一卷、『龍華歴代師承傳』一卷、『同抄』一卷、『本朝法華傳』三卷、『小止觀鈔』三卷、『艸山要路』一卷、『身延紀行』一卷、『稱心病課』一卷、『元々唱和集』二卷、『扶桑隱逸傳』三卷、『聖凡唱和』一卷、『如來秘藏録』一卷、『食醫要編』一卷、猶ほ考訂のもの甚だ多しとぞ。(以上『艸山集』に眞名にて出でたるを花顛譯し、蒿蹊又正して記す。)
○又花顛ある人のもとにて上人自筆にかたかんな(*カタカナ)して書き給ふ日記のはしを見る。その語平生を見るに足ればこゝに擧ぐ。
十三日、書2和歌懷紙1草紙をこしらへるとて紙を折る。一僧前にあり。その僧、
「是れへ給はり候へ。折り申し候はん。」
と云ふ。予が曰はく、
「是れも修行なり。心からひずまぬやうに(○と脱)すれば、ろくになる(*形がきちんとする)のみにあらず、心も正しくなるなり。手を以て(○のみ脱)することは是れにかぎらず、何事もうるはしからぬ物なり。戸の開け閉ても(○閉てあけをするも)鳴らぬやうに(○と脱)心をつけ、履物(○を脱)ぬぐもゆがまぬやうにするは、見聞のよからん爲めにあらず、心を修めんためなり。見聞のためにするは、甚だしき時はまことの(○に)業にもなるべきなり。心のためにするは、只是れ佛道の因なり。日夜になす所善事といへども、さながら惡業ともなり、さ(○せ脱)らぬことも又功徳善業ともなるなり。心をつくべき事なり。凡そ何事も修行にならぬ事は無し。物を二つにするは皆根本にもとづかぬゆゑなり。」(○此條は瑞光寺所藏の眞筆に據りて訂す。)
十六日。訓2點戒牒及光照寺ノ化疏各一卷1。(*「…訓點す。」)
十七日。午後、讀2源氏須磨の卷十三張半1。僧曰はく、
「戒律を持するは養生にもなるべきと存ず。」
予曰はく、
「何ぞたゞ戒のみならん。八萬の法藏皆是れ良藥なり。身心のために病をなほすより外のことなし。詩歌の道をよくすれば、即ち是れ
定・
惠の二法
(*前出「三學」注を参照。)を修するなり。二法具すること詩歌一致なり。己れが藝にほこり、人の耳目をよろこばしめんとするは、詩歌の邪路なり。
西行上人、
明惠上人に語りしは、
『我が歌をよむは遙かに尋常に異なり。花・子規・月・雪すべて萬物の興に向ひても、凡そ所有皆虚妄なること眼にさへぎり、耳に滿てり。又よみ出す所の言句皆眞言にあらずや。花をよめども、實と思ふことなく、月を詠ずるも實に月と思はず。只如レ此して隨レ縁隨レ興よみ置く所なり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かゞやけば虚空明らかなるに似たり。然れども、虚空もと明らかなるものにもあらず。又色どれるものにもあらず。我れまた此の虚空のごとくなる心の上において、種々の風情を色どるといへども、更に蹤跡なし。此の歌即ち是れ如ノ形體なり。されば、一首よみ出でては一體の佛像を造る思ひをなし、一句を思ひよりては、秘密の眞言を唱ふるに同じ。我れ此の歌によりて法を得ること有り。もしこゝに至らずしてみだりに人此の道を學ばゞ、邪路に入るべし。』
といふ。
山深くさこそ心は通ふとも住まであはれは知らんものかは
これも西行上人の其の時のうたなり。『明惠傳記』に見ゆ。」
十八日。天大晴。嘗レ粥即出2高槻1。肩輿中念誦已畢而看2須磨一帖1。書坊白水來出2叡山戒壇院ノ戒牒一卷、世尊寺行忠筆1。予閲一遍。又示2爲家卿ノ書、古今ノ作者ノ傳一帖1。古今集ノ歌人之履歴尤詳也。予乃覽了還レ之。
廿一日。午後、省2養壽院(○庵)1。見2源氏物語十五六張1。下略(○廿、廿一日眞本に據りて訂す。)
蒿蹊云はく、上人の詩歌其の集(*草山和歌集)あれば、こゝに贅すべからず。しかれども秀逸と聞ゆる歌、又その志を見るべきもの少し擧ぐ。
深草の里に住みなれて後
住までやは霞も霧も折々のあはれこめたる深草の里
山家ノ橋
朽ち果てねなほ折々は訪ふ人の心にかゝる谷の柴橋
宇治川の水上にのぼりて、人も通はず靜かなる所に久しくながめて、柴船の往きかふを見るに、薫大將の「誰れもおもへば」(*源氏物語・橋姫での薫の述懐を指す。)など云ひしも面影にうかびて
世の中は誰れも思へば水の上に浮きて漂ふ宇治の柴船
(*草山和歌集129「人のよは誰もおもへば水の上に浮きてはかなき宇治のしばふね」)
同じく平等院にて
はかなくて今日も暮れけり明日知らぬ三室の山の入相の鐘
新發意の東へ行くをはなむけすとて、人の歌よみけるをみて、
武藏野の雪も氷も踏み分けて果てなき法の道をきはめよ
大方の世に濁るとも住みなれし我が山水の心忘るな
折句の歌に、ふゆのはな、
ふみ分けし雪の深山の法の道はるけき跡に猶ほ迷ふかな
歸鴈
迷ひ出でし人の心を故郷にいざさは誘へ歸る雁がね
春の歌の中に
咲きて散るものも思はじ山櫻色香の外に花を眺めば
「妙の一字を書きて、歌よみて。」と人のいひしに
心にも及ばぬものは何かあると心に問へば心なりけり
凡調にあらざる歌、あまたなれどもこゝに止む。
○又花顛、彼の法嗣惠明師の手書にて隨筆を見しうちにありし一條、面白き事なればとて擧ぐ。
○熊澤次郎八(*熊沢蕃山)は陽明の學にして、備前岡山侯に教へし人なり。後俸祿をすてゝ、洛陽上御靈の邊にかくれて名を蕃山了芥と改む。甚だ樂を好めり。伶人を日々招きあつめて樂を稽古しけり。
ある時伶人某といふもの了芥をして艸山に來り謁せしむ。爾來節々艸山に來れり。又伶人を携へ來て樂を聞く。余(*恵明)も草山に從ふ。
又(*蕃山は)師に請うて折々法華經の訓讀を習ふ。梵語の心得がたき所などを聞く。譬喩品に至りてやみぬ。又源氏物語をも師に聞けり。これは全篇聞きけるが、師の前にしては強ち佛法を破することなし。但だ當世の僧の行ひなどの怪しき事を歎く。釋尊に當世の僧を見せたらば、「此の人は何といふものぞ。」と仰せてん、孔子に當世の儒者を見せたらば、「これ何ものぞ。」と仰せてんなど語りけり。
寛文二年霜月七日の日、了芥又伶人三四人并に小倉少將といふを伴ひて、艸山の稱心庵にして樂をなす。了芥は琵琶を彈じ、少將は琴をひく。師は和歌をよむ。
天地の心にかなふ調には山の岩木も動くばかりぞ
後了芥、吉野山に庵りを結びて隱れたりける比、消息したりし、
此の春は吉野の山の山人となりてこそ知れ花の色香を
○蒿蹊因に云はく、陳元贇(*ママ)は明末の亂を避けて歸化す。朱舜水と同時とぞ。初め尾張にありて元政師に相見の趣、其の『身延紀行』に見ゆ。後京師に住みて、常に師と交はりを結ばれしよし、其の贈答の詩文を集めたる書、『元々唱和集』なり。おのれ(*伴蒿蹊)も(*陳元贇が)元政師に贈られし尺牘を買ひ得たるを左に録す。
久違2慈範1、毎切2神馳1未レ省。邇日法體若何。老邁自2遷居1後、目涙・腰疼・足痺駢集而來、苦楚萬状、寸歩如レ登2九折1。縁レ是不レ能下趨2候寳山1以聆中清誨上、疎譴豈容2筆舌1。想高明當レ鑒2愚之衰憊1耳。前承借五雅九冊謹遣2奚奴1奉璧。希■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)收幸甚。餘惟隆冬、保嗇是顫(*この字、印字不鮮明により未詳。)■(瑞の旁:せん・たん::大漢和28880)。此不宣。
特筆。寶山多レ竹。小者乞賜2一竿1。以備2衣桁之用1。勿レ吝。是懇。
陽月晦 俗子陳元贇 花押
艸山元政師最愛下
此の人學才あるのみならず、柔術に妙にして、今も本邦に行はるゝは此の下流多しとぞ。文武の君子にして北狄に從はんことを惡みて皇國に來る。其の爲レ人知るべし。(此の人所持の觀音の像及持物、北野東向の觀音寺にあり。しかれば京にて終へられし成るべし。)丈山老人もまた師と友とし善し。詩仙堂へ茶を乞はれし書簡をある人持てりし。
深草眞宗院は、淨土深艸流儀の本寺なり。師其の中興慈空上人とつねに伴ひて遊行せられし。隣寺といひ、同じく律を持て齋食なれば、かたみに煩ひなしとよろこび給ひしとなん。自他宗の嫌忌なきを尊ぶべし。
佛佐吉
永田佐吉は、美濃の國羽栗郡竹が鼻の人にして、親に事ふることたぐひなし。又佛を信ず。大かた貧しきを憐み、なべて人に交はるにまことあれば、誰れとなく「佛佐吉」とは呼びならしけり。
いとけなき時、尾張名古屋紙屋某といふ家に僕たりしが、いとまある時は砂にて手習ふことをし、又四書をならひよむ。朋輩のもの妬みて、
「讀書にことをよせ、あしき所にあそぶ。」
など讒しければ、主もうたがひて、竹が鼻にかへしぬ。されども、なほ舊恩を忘れず、道のついであれば、必ずたづねよりて安否をとふ。年經て後、其の家大きに衰へければ、又よりよりに物を贈りけるとかや。
主のいとまを得て後は、綿の中買といふわざをなせしが、秤といふものを持たず。買ふ時は買ふ人にまかせ、賣る時は賣る人にまかす。後には佐吉が直なるをしりて、賣る人は心しておもくやり、買ふ人は心してかろくはかりければ、幾程なくゆたかに暮しける。
父には早くわかれ、母ひとりを養ひしが、母餅をつきて賣りたきよしを云ふ。佐吉其の心にたがはず、餅賣ることをはじめしが、
「必ずちひさくし給へ。」
とすゝむ。母いぶかりて其のゆゑを問ふに、答へて、
「近きあたりにもとより餅うる家あり。大にせば彼れがさはりにならん。」
といふ。其の意を得て小さくすといへども、外と同じく買ふ人ありけり。
ある冬、年せまりて、近國へ金あつめに行くことあり。歸るさ日くれて道に迷ひしに、山賊いでて此のかねを奪はんとす。佐吉いふ、
「我れむかしはまどしかりしが、今はかばかりの金與ふるも傷むにたらず。」
と、投げ出しあたふ。
「さらば其の衣類をも脱ぎて與へよ。」
といふ。
「これも易きことなり。いかさまわぬしら定めて寒からん。猶ほ欲しくば我が家に來れ。皆皆に與へん。」
と、まづ心よく着たるものを脱ぎて、
「さて此代りには街道に出づる道をしへよ。我れけふは道に迷ひたり。」
といふに、一人の山だちつくづくと佐吉を見て、
「我れ教へん。いづくへ歸る人ぞ。」
と問ふに、
「竹が鼻の者なり。」
とこたふ。
「さは佐吉ぬしにあらずや。」
「しかり。」
と云へば、
「こはあしき人のもの取りたり。我が黨の者にいひきかせて、明日かへすべし。」
といふ。
「否ぬしたちに與へたる上は、又取るべきやうなし。」
と、行く道を聞きてわかれぬ。其のあくる日、云ひしごとく取りたる物みなもて來て還したり。佐吉色色に云へどもさし置きて走りさりぬ。
又ある時、諸國の神社佛閣を拜みめぐりしに、出羽の邊にて、疾ひおこり死せんとしければ、心中に拜みて、「今一度母にまみえしめ給へ。」と祈りしかば、速かに癒えけり。本國へ歸りて老母にかくと物語りしてよろこびしかば、母、
「其のやまひ癒えしは佛の御加護なれば、佛像を鑄て謝したてまつれ。」
といふ。こゝに江戸の某といへる鑄工に作らせけるが、やがて成就して船にて登せける道、遠江灘にて風烈しく船覆らんとせしかば、荷ども海に打入れけるうちに、此の佛像をも沈めける。舟人此のよしを告げて詫びければ、佐吉かへりて大いに悦び、
「遠江灘は昔より人多く溺れし所なり。そこに佛像いらせ給ふことは幸なるかな。ねがひてもなすべき作善なり。其の費はいとふべきに有らず。急ぎて今一體鑄たてまつらん。」
と、價を舟人に託しければ、また幾ほどなく成就したるは、今も竹が鼻にあり。その像たやすく成すべきにもあらず。大なる御佛なり。又石佛五百體建てんことを誓ひしが、終に七百體に及びしとぞ。
およそ母に事ふること、晝は起居に心をつけ、夜はいね靜まるさまを見ざれば、おのれ枕をとらず。常の所行かぞへ盡すべからぬ中に、ある時母柑子をのぞみしかば、近村に求むれどもなし。只同村に此の木を持ちたる人あれども、生得吝嗇甚だしき人なれば、これに乞はんもいかゞとは思ひながら、せんかたなく、たゞ一つを乞ひけれども、果して與へず。さるに、其の時おもひがけず一陣の烈風吹き來て、かの柑子を多く落しければ、あるじも今は惜む心なく、拾ひてあたへける。佐吉が心天に通じけるならし。
又思ふやう、「母身まかり給ひて後は、百味の珍膳もかひなし。生前にまゐらするこそ。」と、大人(*尊貴の人)を招請するがごとく饗應せしこと二度ありけるとぞ。常に善事をなすこと多きが中に、細かなることには、道行くごとに布の嚢を腰につけ、米■(穀の偏の「禾」を「釆」に作る。:こく::大漢和27067)のおちたるを、手の屆くほどは拾ひ置きて、雪中の餓鳥にほどこす。大きなることには、處々の大橋、洪水の時に落つる事を恐れて、自ら財を捨てゝ、石橋とす。およそ至孝をはじめて、其の所行を國侯きこし召して、米を多くたびて感賞し給ひ、
「何事にても望む事あらば申しいでよ。」
と仰せくだされければ、其の時よみて奉りける、
ありがたやかゝる浮世に生れきて何不足なき御代に住む哉
閑田子按ずるに、作者のこゝろ、世は憂き習ひなれども、不足なき御めぐみの御代に住めば有りがたしと云ふなるべし。和歌者流の規矩をもて論ずべからず。たゞ心をとるべし。故に花顛子しるせるまゝを寫せり。
老後、覺翁また實道といふ。壽八十九歳にして、寛政元年(*1789年)十月十日に終る。
山口庄右衞門
大和の國十市郡八條村莊屋、山口與十郎と云へる者、寳暦の比凶作により、同郡八ヵ村の長とともに訴へ出づることありて、其の趣き私あるに罪せられ、皆々伊豆の新島といへる所に流さる。其の子庄右衞門七旬に餘る祖母を養ひて過すが、もとより家財田地等も沒入せられければ、但だ力作をもてからき世を凌ぎ渡る中にも、父の意を慰めんとて、ひらき文を贈る。(凡そ流人に文通するには、封を附けずして往復するを、ひらき文といふとぞ。)
さて年を經て祖母身まかりしかば、今は島の父の許へ行きて仕へんと志し領主へ願ひけれども、たやすき事にもあらず、力なく過ごしけるあひだ、大赦の御事あり。此の事を聞くとひとしく、弟の清右衞門と云ふ者をあづまに下して、願ひ奉りけれども、何の御いらへもなく、其の年も暮れて、明くる年遠江の某といふもの、西國順禮して尋ね來り、
「おのれも新島の流人なりしが、去年大赦にあひて歸りぬ。彼の島にて與十郎殿には隔てなく交はりし。與十郎殿は隣村の三郎助なる者と酒を商はれしが、其の三郎助盜人にあひ横死せし後、與十郎殿も眼病にて盲と成り給へり。」
など語りしかば、庄右衞門いよ\/心ならず、高野に伯父の僧ありしもとへ行き、「しのびて彼の島に渡らんや。」と思ふよしを告げしかば、其の僧、
「げに孝の心は淺からねども後もし御赦しあらん時の障りとなるべし。たゞ命をかけて願ひまうさばよも御免しなき事はあらじ。」
と諫めければ、庄右衞門聞きうけて、夫れより又領主へ願ひを奉りけるに、孝養の意を感じ給ひ、官廳に達し給ひしかば、明くる春免許を蒙り、新島に渡りぬ。妻も其の親にあづけ、衣服調度を代なし(*〔=代替ふ〕品物を売って金品に替えること。)て路費に充つ。かくて領主の邸に出でし時、まづ其のたくはふる所を尋ね給ひしかば、有りの儘に答へまうすに、
「かばかりにては心もとなし。糧盡きばいかに。」
と重ねて問はせ給ふ。
「それは物種をたくはへ侍れば、士さへある所ならば二人が食物心やすく作り出してん。」
とまうす。さて是れを聞きつたへ給ふ諸侯、又富豪の家家より「奇特の孝子なり。」とて、餞別を若干得たり。梶取水主も官より給はり伴船二艘に引かせ、新島に着きて見れば、纔に九尺四方許の柴の庵に、與十郎は實にも盲人になりて、さし俯きてあり。庄右衞門下り來りしよしを云へども、初めは實とせず。委しく物語るにおよびて、且つ驚き、且つ喜び、「夢ならば覺めずあれ。」などまどひしこそ理なれ。庄右衞門も悲み喜び交交にてむせびける。其のあたりに福と云へる老婆、與十郎が盲になりしよりは、萬づ扶持し、朝ゆふ心をつけていたはりしかば、此の庄右衞門が下りしを聞き、共に喜ぶこと大かたならず。かゝる海島には珍らしき人柄なりき。さて介抱の餘暇には、持ち來りし物種を蒔かんと見めぐりしに、野よりは菜を生ぜず、山よりは蔬(*山菜・野菜)を出さず。わづかに野老を掘り、葛をもとめて喰ふのみ。冬は魚も乏しくて、芋にて命を支ふ。唯綿・たばこの類を植ゑ、米に代なして老を慰む。後には山のかなたにたま\/沃土を見出して、麥・米なども作りしとぞ。島人もかく庄右衞門が父に仕ふるを見て、父子孝慈の道を知りけるとかや。「孝子ともしからず。天その類をたまふ。」とは是れをや云ふらん。或時彼の福女、老父が外に出でたる間、庄右衞門に向ひて、
「妻や子はおはしますや。」
と問ふに、しかじかのよしを語りければ、
「情なき人哉。此の四五年がほど假初にもいひ出し給はぬことよ。」
といふ。
「その事なり。もし父此のことを聞き給はゞせんなき事に心ぐるしう思し召さんと隱しつるなり。」
といへり。此の一つにても常の心もちゐ知らる。さて流罪御免のこと再應(*再度)願ひ出しければ、島の長もその孝心を感じ、官の御聞に及びて、赦にあへり。江戸にいたりし時、是れを賞嘆して金銀を贈る人もあり。通行の路上これを見る人も如レ堵(*「堵〔と〕のごとく」)(*垣根を廻らすように人が見物すること。)なりしとぞ。
若狹與左衞門子兄弟
若狹ノ大飯郡小堀村に、與左衞門といへる農父あり。わかき時より慈悲深く、人もたゞならず思ひけるに、ある夕暮、二人連れの女道者門に立ち、
「我等は西國巡禮にてさぶらふが、行き暮れて道も辨へがたし。御情に一夜明かさせ給へ。」
といふ。與左衞門憐み心よくもてなしけるに、一人の女、懷より男兒を出して、
「便なき申し事にさぶらへども、旅はもの憂き習ひなるに、女の足のはかばかしからず、此の小兒にわびて折々は捨てもやせんと思へど、犬狼の懼れあればそれもえせず。あはれ此の子を養ひ給はらば、心よく巡禮仕候はん。」
といふ。與左衞門これを聞きて、妻にはかりて云ふ。
「我れ年比子といふもの無し。此の子を養はゞ、まことの子を得たるも同じことにあらずや。如何に。」
と。妻も心うつくしき人にや、
「實にさることに侍る。」
とて、速かにうけひきければ、巡禮は涙を流し拜みよろこびて朝とくたち出でぬ。
さて夫婦其の子を宗四郎と名づけ、天より與へ給ふ所なりとて、大切に養育せしが、此の後八年をへて實子をまうけ、名を磯八とつけたるが、兄弟睦じくやうやう長じてともに稼稷をつとめ、父母に仕ふること孝順なり。後、磯八はある人に奉公してありしが、宗四郎きかず、
「己れはもと巡禮の子にして所生も知られぬ者なり。磯八は肉を分けられし者なれば、彼れに讓り給へ。」
といふ。父此のよしを弟にかたれば、
「いな、もとは知らず。吾れ生れぬさきよりの兄なり。家を繼ぎたまふこそ順なれ。」
といふ。宗四郎かたくうけがはず。
「己れ此の家にあらば、いつまでも此の論絶えじ。されども跡をかくさば、父母の哺養なしがたからん。如何にせまし。」
と思惟して、つひに隣村の豪農をたのみて奉公し、給米をことごとく父母に贈りて家には歸らず。しかる間、與左衞門老病にてむなしくなりしかども、家を嗣ぐものなく、村長もてあつかひて(*持て余して)、兄弟相讓る旨を官に訴へければ、國君感賞し給ひ、宗四郎には米若干を賜ひて家を繼がしめ、剩へ租税を免じ給ひ、弟磯八には別に月俸を賜ひ帶刀をゆるして、褒美し給ふとぞ。
いと女
いと女は、若狹三方郡甲瀬浦、佐左衞門が妻なり。孝心深く、よく舅姑に仕ふ。姑は先に死し、舅年八旬に餘り、老耄して非理なることを云ひ罵れども、少しも逆ふ色なく給仕す。ある日いと女外より歸りたるに、老人藁をちらして孫とあそぶ。
「何事をし給ふ。」
と問へば、
「子産むまねしてあそぶなり。」
といふ。
「さらば我れも子を産まん。」
とて、又藁を持ち來り同じく戯るれば(*ママ)、老人興に入ること斜ならず。其の他の扱ひもおして知るべし。(蒿蹊云はく、老莱子(*中国春秋時代の楚の賢人。老いても嬰児の身なりをして親に歳を忘れさせ、喜ばせたという。)が兒戯をなすに倣はずしてあたれるものなり。)
一とせ深雪軒をうづむころ、
「茄子の羮を食はん。」
といふ。いと心よくうけがひ、近きほとりの寺に走りて、茄子の糠漬をもらひ、水にひたして鹽を去り、羮にしてすゝむ。
又一年、冬のころ、鮮魚をもとむ。折ふし海あれ、漁なければ、如何にともせんかた無けれど、さらぬ樣にもてなして門に出で、とやせん、かくやせんと思ひ煩らふ折、忽ち足のもとに魚をどりたり。いと女天を拜みて喜びて、即ち調じてすゝめけり。隣の人見しには、鳶、魚をつかみ來ていとが家の棟にとまりしが、やがて魚を落して飛び去りたり(*と)ぞ。これ誠に孝の心、鬼神に通じけるならん。遂ひに其の行状を國侯聞こし召し、米若干賜はり、家の租をも免し給ふとぞ。
高戸善七
備中ノ國鴨方村に、高戸善七郎、後に孫兵衞と云へるは、父に仕ふること極めて孝なり。其の父曾右衞門四年にあまりて病に伏し居けるに、晝夜側を離れず。弟源次郎もまた孝順にて、兄と等しく懇に心を盡しける。少しく快き日は、近きあたりに休息所をかまへ置きたるへ伴ひ行き、割子やうの物開き、そのわたりの人を集めて、酒をすゝめ、心を慰ましむ。
善七郎は公務の外他行せず。介抱にのみ心を盡し、行状正しく、すべて人の及ばざること多しとなり。旱損水損ありといへども、毛見(*稲の取り入れ前に作柄を調べ、徴税高を定めること。)をも願はず。田地破損し、或ひは砂入りせる時も自ら費を出して修理し、官邊のために煩しきことを願ひ出でず。金銀を人に貸し與ふる時も、貧者には利足を輕くし、他の物を借れるよりも益あるやうに實義を以て計り、己が利をさらに云はず。窮せるものに合力をなすこと多く、此の蔭によりて、貧家も富におもむける者多し。乞食など我が門に立ちより乞ふ時は、分に過ぎて施すとなり。領主の聞に達し、寛延三年(*1750年)二月饌を賜はり二方金(*「方金」は方形の金貨。一分金・二分金、一朱金・二朱金など。)を與へて賞美し給へりと、『備前孝子傳』に見えたり。(これは備中の國なれども、備前の支封池田信濃ノ守殿の領地とぞ。)
此の人頗る文字もあり。老後人の飼ひたる山雀の翅を殺ぎたるを憐れみ、乞ひ得て愛養し、翅長ずるに及び、籠を開きて去らしめんとするに去らず。程なく翁京へ上らんとて、家より一里ばかり出でたる竹輿のうちにて頓死しければ、家にかへしてとかく事をはかる間、彼の山雀を其の家の東一丁ばかりある親族のもとへ移したるに、翁の死をや知りけん、籠を破りて飛び去りぬ。さて葬儀など終りて後、妻子翁の墓にまうでて見れば、彼の鳥そこにあり。「此の墓所は翁の家より西にて、移したる家よりは五丁ばかりも有らんに、いかに知りて來りしにか。」と、人々怪しみて、例のごとく手を動かして試むれば、手につきて舞ひ鳴きぬ。いと悲しうて連れ歸らんとしたれば、やがて又雲に飛び去りぬとぞ。
馬郎孫兵衞
木曾山中(里の名を遺失す。)馬夫孫兵衞なる者あり。花顛が知己何某の阿闍梨、江戸よりのかへさ、此の馬夫が馬に乘られたるに、道あしき所に至れば、孫兵衞馬の荷に肩をいれて、
「親方あぶなし。」
と云ひて助く。度々の事にていとめづらしき爲業なれば、阿闍梨、
「如何なればかくするぞ。」
と問ひ給ふに、
「おのれら親子四人、此の馬にたすけられて、露の命を支へさぶらへば、馬とはおもはず、親方と思ひていたはるなり。」
とこたへ、
「さて御僧に一つの願ひあり。此のあなた清水のある所にて、手あらひ候はんまゝ、十念をさづけ給はれ(*南無阿弥陀仏の十念称名によって信者に阿弥陀仏と結縁させること)。」
と乞ひければ、
「いと殊勝のことなり。」
とうけがはるゝに、はたして其の所に至りて、阿闍梨を馬よりおろし、己れ手水をつかひ、馬にも口すゝがせて、其の馬のおとがひの下にうづくまり、ともに十念を受くる樣なり。
かくて(*十念を授かって)大きに喜び、又馬に乘せて次の驛にいたる。其の賃錢とて渡し給へば、先づ其の錢の初穗(*初めて食わせる物)とて、五文をとりて、餅を買ひて馬にくはせ、つひにおのが家のまへにいたりける時、馬のいなゝきを聞きて、馬郎の妻迎へに出でて、取りあへず馬にもの食はせぬ。男子も出でて阿闍梨をもてなしける。其の妻子のふるまひも、孫兵衞にならひて心ありき。此の阿闍梨にかぎらず、僧なればいつもあたひを論ぜず乘る人の心にまかせて、
「馬とおのれらとが結縁にし侍る。」
など語りしとぞ。阿闍梨ふかく感じて話しせらるゝまゝに記す。
續近世畸人傳卷之一終
【巻1】
石川丈山
佐川田喜六
僧元政
仏佐吉
山口庄右衛門
若狭与左衛門子兄弟
以登女
高戸善七
馬郎孫兵衛
序(浦世纉)
目次
序(三熊花顛)
題言(伴蒿蹊)
桜花帖序(六如)
三熊花顛伝(伴蒿蹊)
巻1
巻2
巻3
巻4
巻5
附録