獺祭書屋俳話 -3-
正岡子規
(日本叢書 吉川弘文館 1893.5.21〔日本新聞社刊行〕、増補五版 1902.11.15)
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獺祭書屋俳話 < 【獺祭書屋俳話増補】 芭蕉雑談 ※以下、-4-以降のファイルを参照。 歳晩閑話 歳旦閑話 雛祭り 菊の園生 かけはしの記 旅の旅の旅 高尾紀行 鎌倉一見の記 はて知らずの記 俳句 > ※ここまでが「増補」。 立待月 俳諧一口話 俳句二十四体 漢詩と俳句 俳諧と武事 羽林一枝 陣中日記 俳人の奇行 俳人の手蹟 賎の涙 地図的観念と絵画的観念 吉野拾遺の発句 字余り和歌俳句 上野紀行 そぞろありき 王子紀行 閑遊半日 総武鉄道 獺祭書屋俳話正誤
※ 【獺祭書屋俳話増補】以下の原書収載作品は、この 1893_dassaishookuhaiwa_03.htm 以降を参照。下記「目録」は、1893_dassaishookuhaiwa_01.htm の原書「目録」の再掲である。
芭蕉雑談細目: 年齢 平民的文学 智識徳行 悪句 各句批評 佳句 雄壮なる句 各種の佳句 或問 雞声馬蹄 著書 元禄時代 俳文 補遺
目録 (*再掲)
一獺祭書屋俳話 | (二十五年六月作) | 一 |
一芭蕉雜談 | (二十六年十一月) | 七十五 |
一歳晩閑話 | (二十五年十二月) | 百三十 |
一歳旦閑話 | (二十六年一月) | 百四十七 |
一雛祭り | (二十六年三月) | 百六十 |
一菊の園生 | (二十六年十一月) | 百六十三 |
一かけはしの記 | (二十五年五月) | 百六十六 |
一旅の旅の旅 | (二十五年十月) | 百七十九 |
一高尾紀行 | (二十五年九月) | 百九十 |
一鎌倉一見の記 | (二十六年四月) | 百九十四 |
一はて知らずの記 | (二十六年七月) | 百九十七 |
一俳句 | (二十五六年) | 二百三十九 |
一立待月 | (三十一年十月) | 二百八十三 |
一俳諧一口話 | (二十七年二月) | 二百九十二 |
一俳句廿四體 | (二十九年一月) | 三百八 |
一漢詩と俳句 | (三十年二月) | 三百三十二 |
一俳諧と武事 | (二十八年一月) | 三百四十八 |
一羽林一枝 | (二十八年四月) | 三百五十五 |
一陣中日記 | (二十八年五月) | 三百五十七 |
一俳人の奇行 | (二十六年三月) | 三百八十一 |
一俳人の手蹟 | (三十一年六月) | 三百八十七 |
一賤の涙 | (三十年一月) | 三百九十 |
一地圖的觀念と繪畫的觀念 | (二十七年八月) | 三百九十八 |
一吉野拾遺の發句 | (三十年四月) | 四百四 |
一字餘り和歌俳句 | (二十七年八月) | 四百七 |
一上野紀行 | (二十七年七月) | 四百九 |
一そぞろありき | (二十七年八月) | 四百十二 |
一王子紀行 | (二十七年八月) | 四百十五 |
一閑遊半日 | (二十七年十一月) | 四百十八 |
一總武鐵道 | (二十七年十二月) | 四百二十六 |
一獺祭書屋俳話正誤 | (二十八年十二月) | 四百三十 |
獺祭書屋俳話増補序
竹の奧深く垂れこめて花なき窓に餘所の春のさかりを思ひ雨の檐端の小夜更けて月くらき宿の獨り居に煤けたる燈火に打ち向ふ頃古き俳諧の書など繙きてくりかへし誦したることこそこよなう心行くわざなれ先づ冬の日春の日あら野猿蓑はいとみやびて言葉もやすらかに口にたまらぬからに程なく讀み盡して猶飽かず更に
三傑集(*車蓋編『俳諧發句三傑集』。大島寥太・加藤暁台・高桑闌更の中興俳諧三傑の集)蕪村七部集蕪村句集(*高井几董編)など取りひろげて見もて行けば如何にしてか斯うは面白く詠み出だせると覺えず膝を打ちて感ずるにつけても猶今の人の名利に耽り賤しき言の葉をつゞけておのが耻を世に賣
り若干の財を力に宗匠となん呼ぶことのうとましさよ書讀までも發句は作りなん文字知らでも俳諧は出來なんと獨り文臺に向ひて鼻うごめかす非修非學の男だち人のそしりも大方は俚耳に入らざるべし世の中は斯くてもありなんを我は人の如くならで人は我の如くなれかしと思ふ事言はねば腹ふくるゝを蚯蚓のあと覺束なくも書きつらねて一卷とはなりぬ我ながらをこがましく片腹痛きすぢ多かるを見る人は何とかいふらん
明治廿七年四月三十日
反古の山のふもとにて
著者しるす
獺祭書屋俳話増補
獺祭書屋主人著
芭蕉雜談
○年齡
古今の歴史を觀、世間の實際を察するに人の名譽は多く其年齡に比例せるが如し。蓋し文學者技術家に在りては殊に熟練を要する者なれば黄口の少年、面の書生には成し難き筋もあるべく或は長壽の間には多數の結果(詩文又は美術品)を生じ得るが爲に漸次に世の賞賛を受くる事も多きことわりなるべくはた年若き者は一般に世の輕蔑と嫉妬とによりて其生前には到底名を成し難き所あるならんとぞ思はる。
我邦古來の文學者美術家を見るに名を一世に揚げ譽を萬歳に垂るヽ者多くは長壽の人なりけり。歌聖と稱せられたる柿本人麿の如き其年齡を詳かにせずと雖も數朝に歴仕せりといへば長壽を保ちたる疑ひなし。其外年齡の詳かなる者に就て見れば
九十歳以上 | 土佐光信 | 俊成 | 北齋 | | |
八十歳以上 | 信實 | 鳥羽僧正 | 季吟 | 雪舟 | 肖栢 |
| 宗長 | 宗鑑 | 元信 | 梅室 | 貞コ |
| 宗祇 | 也有 | 蒼虬 | 馬琴 | 定家 |
| 兼良 | 蓼太 | 兆殿司 | | |
七十歳以上 | 紹巴 | 蘆庵 | 杏坪 | 宗因 | 野坡 |
| 雅望 | 秋成 | 常信 | 文晁 | 守武 |
| 南海 | 光起 | 千代 | 景樹 | 一蝶 |
| 眞淵 | 鵬齋 | 探幽 | 巣林 | 宣長 |
| 千陰(*千蔭) | 心敬 | 其碩 | | |
六十歳以上 | 一九 | 抱一 | 通村 | 支考 | 蕪村 |
| 美成 | 出雲 | 春海 | 一茶 | 貞室 |
| 貫之 | 契冲 | 笛浦 | 許六 | 種彦 |
五十歳以上 | 半二 | 竹田 | お通 | 昭乗 | 其角 |
| 凌岱 | 京傳 | 光則 | 光琳 | 嵐雪 |
| 大雅 | 白雄 | 山陽 | 西鶴 | 芭蕉 |
四十歳以上 | 濱臣 | 華山 | 三馬 | 李由 | 蘆雪 |
| 丈艸 | 甚五カ | | | |
三十歳以上 | 浪化 | 重恭 | | | |
二十歳以上 | 實朝 | 保吉 | | | |
尤有名なる者のみにて此の如し外邦にても格別の差異あるまじ。華山の如き三馬の如き丈草の如きは世甚だ稀なり。バーンズ(*原文「バーンス」)の如きバイロンの如き實朝の如きは更に稀なりと謂ふべし。是に由て之を觀れば人生五十を超えずんば名を成す事難く而して六十七十に至れば名を成す事甚だ易きを知る。然れども千古の大名を成す者を見るに常に後世に在らずして上世にあり。蓋し人文未開の世に在て特に一頭地を出だす者は衆人の尊敬を受け易く、又千歳の古人は時代といふ要素を得て嫉妬を受くる事少くなめり(*ママ)。▼獨り彼の松尾芭蕉に至りては今より僅々二百餘年以前に生れて其一門は六十餘州に廣まり弟子數百人の多きに及べり(*。)而して其齡を問へば則ち五十有一のみ。▼
▼古來多數の崇拜者を得たる者は宗教の開祖に如くはなし。▼釋迦、
耶蘇、
マホメツトは言ふを須ひず、
達摩の如き
弘法の如き
(*原文「如さ」)日蓮の如き其威靈の灼々たる實に驚くべきものあり。
老子孔子の所説は宗教に遠しと雖も一たび死後の信仰を得て後は宗教と同じ愛情を惹起せるを
見る。然れども是れ皆世上に起りたる者なり。
日蓮の如き紀元後二千年に生れて一宗を開く
(*、)其困難察すべし。
▼况や其後三百年を經て宗教以外の一閑地に立ち多數の崇拜者を得たる芭蕉に於てをや。人皆芭蕉を呼んで翁となし芭蕉を畫くに白髪白鬚六七十の相貌を以てし毫も怪まず。而して其年齡を問へば則ち五十有一のみ。▼
○平民的文學
▼多數の信仰を得る者は必ず平民的のものならざるべからず。▼宗教は多く平民的の者にして僧侶が布教するも説教するも常に其目的を下等社會に置きたるを以て佛教の如きは特に方便品さへ設け其髏キを極めたるなり。
芭蕉の俳諧に於ける勢力を見るに宛然宗教家の宗教に於ける勢力と其趣を同じうせり
(*。)其多數の信仰者はあながちに
芭蕉の性行を知りてそを慕ふといふにあらず
(*、)芭蕉の俳句を誦してそを感ずといふにもあらず
(*、)唯
芭蕉といふ名の自ら尊とくもなつかしくも思はれてかりそめの談話にも
芭蕉と呼びすつる者はこれ無く或は翁と呼び或は
芭蕉翁と呼び或は
芭蕉樣と呼こと恰も宗教信者の大師樣お祖師樣などヽ稱ふるに異ならず。甚だしきは神とあがめて廟を建て本尊と稱して堂を立つること
▼是れ决して一文學者として芭蕉を觀るに非ずして一宗の開祖として芭蕉を敬ふ者なり。▼和歌に於ける
人丸を除きては外に例のなき事にてしかも堂宇の盛なる
(*、)芭蕉塚の夥だしきは夐かに
人丸の上に
出でたり。(
菅原の道眞の天神として祭らるヽは其の文學の力に非らずして主として其の人の位地と境遇とに出でたるものなれば
人丸芭蕉と同例に論ずべからず
(*。))
されば
(*原文「されざ」)芭蕉の大名を得たる所以の者は主として俳諧の著作其物に非ずして俳諧の性質が
○平民的○なるによれり
(*。)○平民的とは第一、俗語を嫌はざる事、第二、句の短簡なる事をいふなり。○近時これに附するに平民文學の稱を以てするも亦偶然に非ず。然れども元祿時代(
芭蕉時代)の俳諧は决して天保以後の俳諧の如く平民的ならざりしは多少の俳書を繙きたる者の盡く承認する所なり。元祿に於ける
其角、
嵐雪、
去來等の俳句は或は古事を引き成語を用ゐ或は文辭を婉曲ならしめ格調を古雅ならしむる抔普通の學者と雖も解すべからざる所あり、况んや眼に一丁字なき俗人輩に於てをや。天保に於ける
蒼虬、
梅室、
鳳に至りては一語の解せざる無く一句の注釋を要するなく兒童走卒と雖も好んで之を誦し車夫馬丁と雖も爭ふて之を摸す。正に是れ俳諧が最平民的に流れたるの時にして即ち最廣く天下に行はれたるの時なり。此間に在て
芭蕉は其威靈を失はざるのみならず却て名譽の高きこと前代よりも一層二層と歩を進め來り
▼其作る所の俳諧は完全無缺にして神聖犯すべからざる者となりしと同時に▼○芭蕉の俳諧は殆ど之を解する者なきに至れり。偶〃其意義を解する者あるも之を批評する者は全く其跡を斷ちたり(*。)○(*原文「り」字に圏点無し。)其樣恰も宗教の信者が經文の意義を解せず理不理を窮めず
單に有難し勿体
(*ママ)なしと思へるが如し。
○智識コ行
平民的の事業必ずしも貴重ならず、多數の信仰必ずしも眞成(*ママ)の價値を表する者に非ずと雖も苟も萬人の崇拜を受け百歳の名譽を殘す所以の者を尋ぬれば凡俗に異なり尋常に超ゆるの技能無くんばあらざるなり。况んや多數の信仰はあながちに匹夫匹婦愚癡蒙昧の群衆に非ずして其間幾何の大人君子を包含するをや。顔子のコ、子貢の智、子路の勇、皆他人の企て及ばざる(*原文「及ばさる」)所なり。然れども三人を一門下に進めて能く之を椏ゥし之を啓發し之を叱佗し綽々として餘裕ある者は孔仲尼其人ならずや。蕉門に英俊の弟子多き恰も十哲七十二子の孔門に於けるが如し。▼其角嵐雪の豪放、杉風去來の老樸、許六支考の剛愎、野坡丈草の才敏、能く此等の異臭味を包含して元祿俳諧の牛耳を執りたる者は芭蕉が智コ兼備の一大偉人たるを證するに餘あり。▼
此人々固より無學無識の凡俗にあらねば
芭蕉の簀を易ふると同時に各旗幟を樹て門戸を張て互に相下らざるの勢を成せり。
其角は江戸座を創め
嵐雪は雪中庵を起し
支考は美濃派を開き各〃之に應じて起る者亦少からず。其の他門流多からずと雖も暗に一地方に俳權を握る者江戸に
杉風桃隣あり伊勢に
凉菟乙由あり上國
(*上方)に
去來丈草ありて相頡頏せり。後世に及
びては門派の軋轢愈〃甚だしく甲派は乙派を罵り丙流は丁流を排し各自家の開祖を稱揚し他家の開祖を擠し以て自ら高うせんとのみ勉めたり。然れども其
芭蕉を推して唯一の本尊と爲すに至りては衆口一聲に出づるが如く、淨土と法華と互に仇敵視するに拘はらず猶本尊
釋迦牟尼佛の神聖は毫も之を汚損せざるに異ならず。是れ其コの博きこと天日の無偏無私なるが如く其量の大なること大海の能容能涵
(*涵容でありうること)なるが如きによらずんばあらざるなり。
許六の剛慢不遜なる(*、)同門の弟子を見ること猶三尺の兒童の如し。然れども蕉風の神髓は我之を得たりと誇言して▼猶芭蕉に尊敬を表したり。▼支考の巧才衒智なる(*、)書を著し説を述べ以て能く堅白同異の辯を爲し以て能く博覽強記の能を示すに足る。然れども其説く所一言一句と雖も之を芭蕉の遺教に歸せざるはなし。甚だしきは芭蕉の教なりと稱して幾多の文章を僞作し譏を後世に取る事甚だ謭陋の所爲たるを免れずと雖も▼飜つて其の裏面を見れば盡く是れ芭蕉の學材と性行とに對する名譽の表彰ならずんばあらず。▼
○惡句
芭蕉の一大偉人なることは右に述べたるが如き事實より推し測りても推し測り得べきものなれどもそは俳諧宗の開祖としての
芭蕉にして文學者としての
芭蕉に非ず
(*。)文學者としての
芭蕉を知らんと欲せば其著作せる俳諧を取て之を吟味せざるべからず。然るに俳諧宗の信
者は句々神聖にして妄りに思議すべからずとなすを以て終始一言一句の惡口非難を發したる者あらざるなり。寺を建て廟を興し石碑を樹て宴會を催し連俳を廻らし運座を興行すること固より信者としては其宗旨に對して盡すべき相當の義務なるべし。されど文學者としての義務は毫も之を盡さざるなり。余輩固より
芭蕉宗の信者にあらねば其二百年忌に逢ふたりとて嬉しくもあらず悲しくもあらず、頭を痛ましむる事も無き代りには懷を煖める手段もつかず只爲す事もなく机に向ひ樂書などしゐる徒然のいたづらについ思ひつきたる
芭蕉の評論、知る人ぞ知らん怒る人は怒るべし。
余は劈頭に一斷案を下さんとす(*。)曰く(*「)▼芭蕉の俳句は過半惡句駄句を以て埋められ上乘と稱すべき者は其何十分の一たる少數に過ぎず。否僅かに可なる者を求むるも寥々晨星の如しと。▼」芭蕉作る所の俳句一千餘首にして僅かに可なる者二百餘首に過ぎずとせば比例率は僅かに五分の一に當れり。寥々晨星の如しといふ(*、)亦宜ならずや。然れども單に其句の數のみ檢すれば一人にして二百の多きに及ぶ者古來稀なる所にして芭蕉亦一大文學者たるを失はず。其比例率の殊に少き所以の者は他に原因の在て存するなり。
○芭蕉の文學は古を摸倣せしにあらずして自ら發明せしなり。貞門檀林の俳諧を改良せりと謂はんよりは寧ろ蕉風の俳諧を創開せりと謂ふの妥當なるを覺ゆるなり(*。)而して其自流を開
きたるは僅かに歿時を去る十年の前にして詩想愈〃神に入りたる者は三四年の前なるべし(*。)○此創業の人に向つて僅々十年間に二百以上の好句を作出せよと望む。亦無理ならずや。
普通の文學者の著作が後世に傳はる者は其著作の靈妙活動せる所あればなるべし。○然るに芭蕉は其著作を信ぜらるヽよりは寧ろ其性行を欣慕せられしを以て其著作といへば惡句駄句の差別なく盡く收拾して句集の紙數を増加する事となれり。甚だしきはあらぬ者迄芭蕉の作として諸種の家集に採録したる者多し。○此瓦石混淆の集中より撰びし好句の數五分の一に過ぎざるも亦無理ならぬ譯なり。
芭蕉の俳句盡く金科玉條なりと目せらるヽ中にも一際秀でたるが如く世に喧稱せらるヽものは大略左の如し。
古池や蛙とびこむ水の音
道のべの木槿は馬にくはれけり
物いへば唇寒し秋の風
あか\/と日はつれなくも秋の風
辛崎の松は花よりおぼろにて
春もやヽけしきとヽのふ月と梅
年々や猿に着せたる猿の面
風流のはじめや奧の田植歌
白菊の目に立てヽ見る塵もなし
枯枝に烏のとまりけり秋のくれ
梅の木に猶やどり木や梅の花
此外にも多少人に稱せられたる者なきにあらねど俗受けのする句のみを擧げたるなり。以上の句は其句の巧妙なるが爲に世に知られたるよりは多く「曰く付き」なるを以て人口に膾炙せられたるなりとおぼし。彼れ自ら見識も無き批評眼も無き俗宗匠輩は自己の標準なきを以て單に古人の所説にすがり、彼句は蕉翁自ら譽めたる句なり、此句は門弟某宗匠某の推奬したる所なりといへば只其の句が自ら有難味を生じ來る者にて扨こそ「曰く付き」の流行するに至りたるなれ。「曰く付き」の曰くとは即ち
○古池の句○はいふまでもなく蕉風の本尊とあがめられたる者にして芭蕉悟入の句とも稱せられたり。後世にかくいふのみならず芭蕉自ら已に明言せるなり。
○木槿の句○も稍〃古池同樣に並稱せられ鳥の兩翼、車の兩輪に象れり。
○唇寒しの句○は座右の銘と題して端書に
人の短をいふ事なかれ 己が長を説く事なかれ
と記せり(*。)世の諷誨に關するを以て名高し。
○あか\/の句○は芭蕉北國にての吟なり。始め結句を「秋の山」として北枝に談ぜしに北枝「秋の風」と改めたきよしいへり(*。)而して恰も芭蕉の意にかなへるなりと。此「曰く」尤力あり。
○辛崎の句○は「にて留り」に付きてゥ門弟の議論ありしが爲なり。
○春もやヽの句○は別段曰く無きか。
○年々やの句○芭蕉自ら仕そこなへりといふ。却てそれが爲名高くなりしか。
○風流の句○は奧州行脚の時白河關にて咏ぜし者なり。風流行脚の序開きの句なれば人に知られしならん(*。)
○白菊の句○は死去少し前に園女亭にて園女を賞めたる句にして
大井川浪に塵なし夏の月
といへる舊作と相侵す恐れあれば大井川の句をや取り消さんかと自ら言ひし事あり。
○枯枝の句○は古池木槿などヽ共にもてはやされて蕉風の神髓、幽玄の極と稱せられたり。はじめは
枯枝に烏のとまりたりけり(*「とまりたるや」か。)秋のくれ
とせしを後に改めしとかや。
○梅の木の句○は人の子息に逢ひてそをほめたるなり。
以上「曰く付き」の句は「曰く」こそあれ(*、)余の意見は以上の人と甚だ異なれり(*。)次に之を説かん。
○各句批評
●古池や蛙飛びこむ水の音●
此句は芭蕉深川の草庵に住みし時の吟なりとかや、蛙合の卷首に出で春の日集中にも載せられたり。天下の人毫も俳諧の何たるを知らざる者さへ猶古池の一句を誦せぬはなく、發句といへば立ちどころに古池を想ひ起すが如き實に此一句程最廣く知られたる詩歌は他にあらざるべし。而して其句の意義を問へば俳人は則ち曰く▼神秘あり(*。)口に言ひ難し▼と、俗人は則ち曰く▼到頭解すべからず▼と。而して近時西洋流の學者は則ち曰く古池波平かに一蛙躍つて水に入るの音を聞く、▼句面一閑靜の字を着けずして閑靜の意言外に溢る、▼四隣闃寂として車馬の紛擾、人語履聲の喧囂に遠きを知るべし、是れ美辭學に所謂筆を省きて感情を強くするの法に叶へりと。果して神秘あるか、我之を知らず。果して解す(*原文「す」ナシ)べからざるか、我之を信ぜず。夫の西洋學者の言ふ所稍庶幾からんか、然れども未だ此句を盡さざるなり。
芭蕉獨り深川の草庵に在り、靜かに世上流行の俳諧を思ふ。連歌陳腐に屬して貞コ俳諧を興し、貞門亦陳腐に屬して檀林更に新意匠を加ふ。されど檀林も亦一時の流行にして終に萬世不易の者に非ず。是に於てか俳運亦一變して長句法を用ゐ漢語を雜へ漸くにして貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)を脱せり。我門弟等盛んに之を唱道し我亦時に此流の俳句を爲すと雖も奇に過ぐる者は再三再四するに及で忽ち厭倦を生ずるの習ひ我亦此體を厭ふこと漸く甚しきに至りたり。さりとて檀林の俗に歸るべくもあらねば况して貞門の乳臭を學び連歌の舊套を襲ぐべくも覺えず、何がな一體を創めて我心を安うせんと思ふに第一に彼佶屈贅牙なる漢語を减じて成るべくやさしき國語を用うべきなり。而して▼其國語は響き長くして意味少き故に十七字中に十分我所思を現はさんとせば▼(*原文「ば」に圏点を付す。)○爲し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。○さて箇樣にして作り得る句は如何なるべきかなどつく\〃/思ひめぐらせる程に腦中濛々大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只惘然として坐りたるまヽ眠るにもあらず覺むるにもあらず。萬籟寂として妄想全く斷ゆる其瞬間窓外の古池に躍蛙の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く考へに傾けし首をもたげ上る(*原文「もたけ上る」)時覺えず破顔微笑(*原文「徴笑」)を漏らしぬ。
以上は我臆測する所なるを以て實際は此の如くならざりしやも計り難けれども▼芭蕉の思想が變遷せる順序は此外に出でずと思はる。▼○其蕉風○(俗に正風といふ)○を起せしは實に此時に在りしなり。○或は云ふ此句は芭蕉が禪學の上に工夫を開き大悟徹底せし時の作なりと。其事甚だ疑ふべしと雖も此説を爲す所以の者亦偶然に非ず。蓋し其俳諧の上に於て始めて眼を開きたるは禪學の上に眼を開きたると其趣相似たり。參禪はゥ縁を放捨し萬事を休息し善惡を思はず是非に管する莫く心意識の運轉を停め念想觀の測量を止めて作佛を圖ること莫れとあり。蕉風の俳諧も亦此意に外ならず、妄想を絶ち名利を斥け可否に關せず巧拙を顧みず心を虚にし懷を平にし佳句を得んと執着すること無くして始めて佳句を得べし。古池の一句は此の如くして得たる第一句にして恰も參禪日あり一朝頓悟せし者と其間髪を容れざるなり。而して彼の雀はちう\/鴉はかあ\/柳は緑花は紅といふもの禪家の眞理にして却て蕉風の骨髓なり。○古池の句は實に其ありの儘を詠ぜり、否ありのまヽが句となりたるならん。○
眼に由りて觀來る者は常に複雜に、耳に由りて聞き得る者は多く簡單なり。古池の句は單に聽官より感じ
(*原文「感し」)來れる知覺神經の報告に過ぎずして其間毫も自家の主觀的思想、形体的運動を雜へざるのみならず
(*、)而も此知覺の作用は一瞬時一刹那に止まりしを以て此句は殆んど空
間の延長をも時間の繼續をも有せざるなり。
▼是れ此句の最簡單なる所以にして却て摸倣し難き所以なり。▼或は云ふ、
芭蕉已に「蛙飛び込む水の音」の句を得て初五字を得ず之を
其角に謀る。
其角「山吹や」と置くべしといふ。
芭蕉從はず
(*、)終に「古池や」と冠せりと。何ぞや。
芭蕉の意は下二句にて已に盡せり、而して更に山吹を以て之に加ふるは巧を求め實を枉げ蛇足を畫き鳧脚を長くすると一般に自然に非ず。其「古池や」といへる者は特に下二句の爲に塲所を指定せる者のみ。
此句の來歴は兎も角も此句の
◎價値◎に就きては世人の常に明言を難んずる所なり。俳諧宗の信者は一般に神聖なりとし其他は解すべからずとするを以て其價値に及ぶ者なし。余は斷じて曰く。
○此句善惡の外に獨立し是非の間を離れたるを以て善惡の標準にあてはめ難き者なり。○▼故に此句を以て無類最上の句となす人あるも余固より之を咎めず、はた此句を以て平々淡々香も無き臭も(*原文「臭を」)無き尋常の一句となす人あるも亦之を怪まざるなり。▼此兩説反對せるが如くにして其實反對せるに非ず
(*。)善にも非らず
(*ママ)惡にも非ざる者は則ち此二説の外に出でざるなり。
▼要するに此句は俳諧の歴史上最必要なる者に相違なけれども文學上にはそれ程の必要を見ざるなり。▼見よ
芭蕉集中此の如く善惡巧拙を離れたる句他にこれありや
(*。)余は一句もこれ無きを信ずるなり。
▼蓋芭蕉の蕉風に悟入したるは此句なれども文學なる者は常に
此の如き平淡なる者のみを許さずして▼○多少の工夫と施彩とを要するなり。○されば後年虚々實々の説起りたるも亦故なきに非らず。
●道のべの(*原文「道のへの」)木槿は馬にくはれけり●
一説にいふ、槿花一朝榮といふ古語にすがりて其はかなき花の終りさへ待ちあへで馬にくはれたるはかなさを言ひ出でたるなりと。(昔は槿花を以て木槿と思へりしなり)
又一説あり、此句は出る杭は打たるヽといふ俗諺の意にて(*、)木槿の花も路の邊に枝つき出して咲けば馬にも喰はるヽ事よと人を誡めたるなりと。
又一説に、此句他の深意あるにあらず、只其語路の善き爲に傳稱せらるヽものなりと。
ある書に、門人ども木槿の語は動く恐れありとて種々に評議し穗麥などヽ改め見たれども(*、)いづれも善からず(*、)終にもとの木槿に治定したり云々。
寂栞(*加舎白雄『俳諧寂栞』)には古池と此句とを並べて「此二句は蕉門の奧儀(*ママ)なり(*。)つとめて知るべし」といへり。何丸の著せる芭蕉翁句解大成にいふ(*、)「馬の草を喰ふとはもとよりにして是や詩歌の趣なるべきを木槿をくふとは獨り祖翁の始めて見出されたる俳諧のおかしみなれば誠に間然すまじき眼前体なり」云々。
以上諸説あれどもいづれも皆此句を稱揚するに至りては毫も其異あるを見ず。余も今日よ
り芭蕉が如何なる意にて作りしかを推測する能はざれば只其句の表面より之を評せんに句調善しといふ説は薄弱なり。
寂栞は明言せざれば評するに由なし。木槿の語動かずと云ふ説と
句解大成の説と亦薄弱なり。木槿を穗麥に改めたりとて何の不都合かあらん。蓋し此句は何か文學外の意味ある者にて第一説第二説の中いづれかなるべし。若し之を普通の句なりとせんには
道のへに馬の喰ひ折る木槿かな
道のへや木槿喰ひ折る小荷駄馬
等の句法を用ゐざるべからず。▼然るにさはなくて故らに▼◎「木槿は」◎▼といひ▼◎「喰はれ」◎▼と受動詞を用ゐたる處は重きを木槿に置きて多少の理屈を示したる者と見るべし(*。)▼されば第二説の人を諷誡せりとの意或は當らんか。而して其意を現はすに路傍の木槿を以てする者は拙の又拙なる者なり。此勃窣(*勃窣〔ぼっそつ〕はゆっくり歩く様。但しここは唐突・出し抜けの意か。)的の句が何故に人口に膾炙せしかは殆んど解すべからずといへども(*、)我考にては▼教訓の詩歌は文學者以外の俗人間に傳播して過分の稱賛を受くる事間々これ有る習ひなれば此句も其種類なるべしと思はる。且つ譬喩の俳句を以て教訓に應用したるは恐らく此句が嚆矢なるべければ一層傳稱せられし者ならん。▼○要するに此句は文學上最下等に位する者なり。○
●物いへば唇寒し秋の風●
此句の人に知らるヽは教訓的のものなればなり。教訓的のものなれば道コ上の名句には相違なけれども▼文學上にては左樣の名句とも思はれず。▼併しながら俳句に教訓の意を含めてこれ程に安らけくいひおほせたるは遉に(*さすがに)芭蕉の腕前なり。木槿の句と同日の談に非ず。
●あか\/と日はつれなくも秋の風●
句解大成に云ふ(*、)「暮秋の風姿言外にありて祖翁生涯二三章の秀逸と袖日記(*志太野坡)にも見えたり云々(*。)」
又同書に云ふ(*、)「つふね(*奴〔つぶね〕か。)云古歌に
須磨は暮れ明石の方は○あか\/と(*原文「と」に圏点無し。)日はつれなくも秋風ぞ吹く(*原文「秋風そ吹く」)○
是等の俤にもあるべし」云々(*。)
▼已に此歌あれば芭蕉は之を剽竊したるに過ぎずして此句は一文の價値をも有せざること勿論なり。▼然れども假りに此歌無きものと見做し此句は全く芭蕉の創意に出でたりとするも猶平々凡々の一句たるに過ぎず。即ち○「つれなくも」○の一語は無用にして此句のたるみなり。むしろ
あか\/と日の入る山の秋の風
とする方或は可ならんか。▼兎に角に此句を稱して芭蕉集中二三章の秀逸となす事返す\/も不埒なる言ひ分なりけらし。▼
●辛崎の松は花より朧にて●
○にて留り○珍らしければ諸書に此句を引用したり。去來抄に此句を論じて曰く(*、)「或人○にて○留りの難あらんやと云其角答曰○にて○は○哉○に通ふ故○哉○留の發句に○にて○留の第三を嫌ふ(*。)哉といへば句切迫れば○にて○とは侍べる(*原文「侍へる」)となり(略)先師重て曰其角去來が辯皆理窟なり(*。)我はたヾ花より松の朧にて面白かりしのみなりと(*。)」
▼芭蕉は法度の外に出でヽ自在に變化するを好みしかば此句も▼◎「朧にて」◎▼と口に浮びしまヽ改めざりしものにして深意あるに非ず。▼何故に「にて」と浮びしやといふに(*、)句解大成に「後鳥羽院の御製に
▼から崎の松▼の緑も▼朧にて花より▼つヾく春の曙
此歌の俤によれるにや」云々とあり。此歌の句調は芭蕉の口に馴れて覺えず斯くは言ひ出だせしものならん(*。)さすれば此句は此歌を翻案せしものなれども翻案の拙なるは却て剽竊より甚だしき者あり。况して古歌なしとするも此句の拙は奈何ともし難きをや。是等の句は芭蕉の爲に抹殺し去るを可とす。
●春もやヽけしきとヽのふ月と梅●
聞えたる迄にて何の譯も無き事ながら中七字はいかにも蛇足の感あり。
不角
三日月は梅にをかしきひつみかな
荷兮
きさらぎや二十四日の月の梅
曉臺
梅咲て十日に足らぬ月夜かな
など如何樣にも言ひ得べきを「けしきとヽのふ」とは餘りに拙きわざなり。されどこうやうの言ひぶりも當時に在りては珍らかにをかしかりぬべきを後世點取となんいふ宗匠にとかう言ひ古るされて今は聞くもいまはしき程になりぬるもよしなしや。
●年々や猿に着せたる猿の面●
句解大成に曰く「古注に云此句表に季とする處見えずと門人の問ひければ年々の詞年のはじめにはあらずやと云々
一書に云此句仕損じの句なりと(*。)許六問(*、)師の上にも仕損じありや(*。)翁答て云毎句有(*。)仕損じたらむに何くるしみかあらむ(*。)下手は仕損じを得せずと」云々。
一偉人の言ひたる理窟は平凡なるものさへ傳稱せらるヽこと例多し。此句も亦其類ならんかし。文學として何等の趣味も無きものを。
●風流のはじめや奧の田植歌●
別に難ずべき句にもあらねどさりとて面白き節も見えず。風流の初とは暴露に過ぎたらんか。
●白菊の目に立てヽ見る塵もなし●
句解大成に曰く「愚考西上人(*西行か。)
曇りなき鏡の上にゐる塵の目に立て見る世と思はばや
此歌の反轉なるべきにや」
出所あるはむしろよけれど白菊の只白しとは言はで消極的に「塵もなし」と言ひたるは理窟に落ちていとつたなし。▼芭蕉は總て理窟的に作爲する癖ありて爲に殺風景の句を見る事屢〃なり。▼
●梅の木に猶やどり木や梅の花●
白菊の句と同じく理窟に落ちては趣味少し。
●枯枝に烏のとまりけり秋のくれ●
此句を以て幽玄の極意蕉風の神髓と爲す心得ぬ事なり。暮秋凄凉の光景寫し得て眞ならずといふに非ず。一句の言ひ廻しあながちに惡しとにもあらねど
○「古木寒鴉」○の四字は漢學者
流の熟語にて耳に口に馴れたるを其まヽ譯して枯枝に烏とまるとは
芭蕉ならでも能く言ひ得べく今更に珍らしからぬ心地すなり。但し
芭蕉の時に在て此熟語此光景は詩文に畫圖に未だ普通ならざりしものとすれば更に此句は價値を増して數等の上級に上らん。
以上は廣く世に聞こえたる句の中にて卑見を附したるなり。さまで名高からぬ句を取て之を評せんには芭蕉家集は殆んど駄句の掃溜にやと思はるヽ程ならんかし。たとへば
二日にもぬかりはせじな花の春
叡慮にて賑ふ春の庭竃
人も見ぬ春や鏡の裏の梅
一とせに一度つまるヽ薺かな
景清も花見の座には七兵衞
暫らくは瀧にこもるや夏の始
おのが火を木々の螢や花の宿
世の人の見つけぬ花や軒の栗
五月雨にかくれぬものやP多の橋
五月雨の降り殘してや光堂
目にかヽる時やことさら五月不二
文月や六日も常の夜には似ず
朝顔に我はめし食ふ男かな
の如き類ひ枚擧に遑あらず。拙とやいはん無風流とやいはん。芭蕉にして此等の句を作りしかと思ふだに受け取り難き程なり。
○佳句
さらば芭蕉は俳諧歴史上の豪傑にして俳諧文學上には何等の價値も無き人なるかといふに决して然らず。余は千歳の名譽を荷はしむべき一點の實に芭蕉集中に存するを認む。而して其句は僅々數首に過ぎざるなり。知らず何等の種類ぞ。
美術文學中尤高尚なる種類に屬して、しかも日本文學中尤之を缺ぐ者は雄渾豪壯といふ一要素なりとす。和歌にては
萬葉集以前多少の雄壯なる者なきにあらねど
古今集(*原文「今古集」)以後(
實朝一人を除きては)毫も之を見る事を得ず。
眞淵出でヽ後稍萬葉風を摸擬せりと雖も近世に下るに從つて纖巧細膩なるかたにのみ流れ豪宕雄壯なる者に至りては夢寐だに之を思はざるが如し。和歌者流既に然り。更に無學なる俳諧者流の爲す所思ふべきのみ。
○而して松尾芭蕉は獨り此間に在て豪壯の氣を藏め雄渾の筆を揮ひ天地の大觀を賦し山水の勝概(*勝景・勝致)を叙し以て一
世を驚かしたり。
○
▼芭蕉以前の十七字詩▼(連歌、貞門、檀林)は陳套に屬し卑俗に墮ち諧謔に失して文學と稱すべき價値なく、▼芭蕉以前の漢詩▼は文辭の間和習の厭ふべきあるのみならず其觀念も亦實に幼稚にして見るに堪へず。▼芭蕉以前の和歌▼は縁語を尊び譬喩を重んじて陳腐と陋俗との極に達し而して眞淵の古調は未だ其萠芽をも見はすに及ばざりしなり。然らば即ち▼芭蕉の勃興して貞享元祿の間に一旗幟を樹てたるは獨り俳諧の面目を一新したるに止まらずして▼○實に萬葉以後日本韻文學の面目を一新したるなり。○▼况んや雄健放大の處に至りては芭蕉以前絶えて之れ無きのみならず▼○芭蕉以後にも亦絶えて之れ(*原文「之をれ」)無きをや。○
○雄壯なる句
其雄壯豪宕なる句を示せば
●夏草やつはものどのの(*ママ)夢のあと●
こは奧州高舘にて懷古の作なり。▼無造作▼に詠み出だせる一句十七字の中に千古の興亡を説き人世の榮枯を示し俯仰感慨に堪へざる者あり。世人或は此句を以て平淡と爲さん。▼其平淡と見ゆる所即ち此句の大なる所にして人工をはなれ自然に近きが爲のみ。▼
●五月雨を集めて早し最上川●
句解大成に曰く「愚考兼好法師
最上川はやくぞまさる雨雲ののぼれば(*原文「のほれば」)下る五月雨の頃
の意を取給ふなり」云々。此歌より換骨奪胎して「集めて早し」と言ひこなしたる巧を弄して却て纖柔に落ちず、▼只雨餘の大河滔々として岩をも碎き山をも劈かんずる勢を成すを見るのみ。▼兼好の作亦此一句に及ばず。况んや凡俗の俳家者流豈に指をこヽに染むるを容さんや。
●あら海や佐渡に横たふ天の川●
越後の出雲崎より佐渡を見渡したる景色なり。▼此句を取て一誦すれば波濤澎湃天水際涯なく唯一孤島の其間を點綴せる光景眼前に彷彿たるを見る。▼這般の大觀○銀河○を以てこれに配するに非るよりは焉んぞ能く實際(*原文「寳際」)を寫し得んや。天門中斷楚江開の詩(*李白「望天門山」)は此句の經にして飛流直下三千尺の詩(*李白「望廬山瀑布」)は此句の緯なり(*。)思ふてこヽに到れば誰れか芭蕉の大手腕に驚かざるものぞ。
ある人曰く「横たふ」とは語格叶はず(*、)如何。對へて曰く(*、)語格の違ひたるは好むべからず。然れども韻文は散文に比して稍寛假すべし(第一)(*。)語格相違の爲に意義の不明瞭を來さヾる者は寛假すべし(第二)(*。)芭蕉の句中此の外にも
一聲の江に横たふや時鳥
と云ふ者あるを見れば當時或は此語格を許せしかも知れず、よしさなくとも後世これに摸倣する者さへあるに芭蕉は我より古人を成せしものとしてもよかるべし(第三)(*。)兎に角此一語を以てあたら此全句を棄つるは余の忍びざる所なり。二卵を以て干城の將を棄つ(*僅かな落ち度によって有為の人物を用いない喩え。〔孔叢子〕)と何ぞ擇ばん。
●五月雨の雲吹き落せ大井川●
連日の雨にさすがの大井川水嵩増して雨岸を浸したるさまたう\/と物凄きPの音耳にひびくやうなり。
●郭公大竹原を漏る月夜●
千竿の修竹(*長い竹)微風遠く度りて一痕の新月靜かに光を碎く。獨り滿地の凉影を踏んで吟歩する時杜宇一聲二聲何處の山上よりか啼き過ぎて雲外蹤を留めず。初夏清凉の意肌を襲ひ骨に徹するを覺ゆ、▼山を着けず水を着けず一個の竹篁を假り來つて却て天地の廖廓なるを見る(*。)▼妙手々々。
●かけ橋や命をからむ蔦かづら(*原文「蔦かつら」)●
岐岨峰中の棧橋絶壁に沿ひ深谿に臨んで委蛇屈曲す
(*。)足を欹てヽ幾橋を度り、立て後を顧れ
ば危巖
(*高く峙つ岩)突兀として橋柱落ちんと欲す。但見る幾條の薜蘿
(*蓬と蔦葛)彼と此とを彌縫して紅葉血を灑ぐが如し。此句雄壯の裏に悽楚を含み、悽楚の裏に幽婉を含む、亦是れ一種の靈筆。
▼俗人時に中七字の句法を稱して全体(*ママ)の姿致を見ず(*原文「見す」)、▼即ち金箔を拜して佛体を見ざるの類なり。而して其實、中七字の巧を弄したるは此句の缺點なり。
一笑を吊ふ
●怩燗ョけ我泣聲は秋の風●
如動古人墓といふ古句より脱胎したるにや。「我泣聲は秋の風」と一氣呵成に言ひ下したる處夷の思ふ所に匪ず。人丸の歌に▼「妹が門見む靡け此山」▼と詠みしと同一の筆法なり。
●秋風や籔も畠も不破の關●
新古今集攝政太政大臣の歌に
人すまぬ不破の關屋の板庇あれにしのちはたヾ(*原文「たヽ」)秋の風
これらより思ひよりたりとは見ゆるものから籔も畠も不破の關と名所の古を忍ひ(*ママ)今を叙でたる筆力、十七字の小天地綽々として餘裕あるを見る。高舘の句は豪壯を以て勝り此句は悲慘を以て勝る。好一對。
●猪も共に吹かるヽ野分かな●
暴風山を搖かして(*ママ)野猪吹きまくらるヽさま(*、)悲壯荒寒筆紙に絶えたり。
●吹き飛ばす石は淺間の野分かな●
淺間山の野分吹き荒れて燒石空に翻るすさまじさ(*、)意匠最妙なりと雖も「○石○▼は淺間▼の」とつヾく處多少の窮策を取る(*、)白璧の微疵なり。
滑稽と諧謔とを以て生命としたる誹諧の世界に生れて周圍の群動に制御瞞着せられず能く文學上の活眼を開き一家の新機軸を出だし此等老健雄邁の俳句をものして嶄然頭角を現はせし
芭蕉は實に文學上の破天荒と謂つべし。
▼然れども是れ徒に一の創業者たるに止まるなり、後世に在て猶之を摸倣する者出でざるに至りては實に不思議なる事實にして芭蕉をして二百年間只一人の名を負はしむる所以ならずや。▼蕉門の弟子にしてしかも其力量に於ては决して
芭蕉に劣らざるのみならず往々其師を壓倒する者亦多し、幾百の人材中學識に於て才藝に於て唯一と稱せられたる
晋子其角は如何、古事古語を以て之を掌上に丸め難題を難とせず俗境を俗ならしめず縱横に奔放し自在に驅馳して傍ら人無きが如き其人も造化の秘藏せる此等の大觀に對しては終に片言隻語のこヽに及ぶ者なし。十大弟子中誠實第一なる
向井去來は神韻に於て聲調に於て夐かに
芭蕉に勝りたり
(*、)而して彼は如何。さすがに
去來は一二の豪壯なる句無きに非るも亦是れ
芭蕉に匹敵すべき者に非るなり
(*。)其他
嵐雪は如何。
丈草は如何。
許六支考は如何。
凡兆尚白は如何。
正秀乙州李由は如何。此等の人或は一二句の豪壯なる者あらん
(*、)終に數句を有せざるべきなり。况んや其他の小弟子をや。
元祿以後俳家の輩出して俳運の髏キを極めたるは明和天明の間なりとす。白雄は寂栞を著して盛んに蕉風を唱道せりと雖も其神髓を以て幽玄の二字に歸し終に豪壯雄健なる者を説かず。其作る所を見るも句々纖巧を弄し婉曲を主とするのみにして芭蕉の堂に上る事を得ず。蓼太は敏才と猾智とを以て一時天下の耳目を聳動せりと雖も固より其眼孔は針尖の如く小なりき。蕪村、曉臺、闌更の三豪傑は古來の蕉風外に出入して各一派を成せり。此三人の獨得なる處は芭蕉及び其門弟等が當時夢想にも知り得ざりし所にして俳諧史上特筆大書すべき價値を有す。されば其俳句中には雄健の筆を以て豪壯の景を寫したる者に匱しからず。然れども彼等の壯は芭蕉の壯に及ばず(*、)彼等の大は芭蕉の大に及ばざりき。文政以後蒼虬、(*原文句点)梅室、鳳朗の如き群蛙は自ら好んで三尺の井中に棲息したる者(*、)固より與に大海を談ずべからず。是に於てか芭蕉は揚々として俳諧壇上を濶歩せり。吁嘻芭蕉以前已に芭蕉無く芭蕉以後復芭蕉無きなり。
○各種の佳句
以上擧ぐる所の數句をして
芭蕉一生の全集たらしむるも猶俳諧文學上第一流の作家として
永く芳名を後世に傳ふるに足る。然れども
芭蕉の技倆は决してこヽに止まらずして
○種々の變態を爲し變調を學びありとあらゆる變化は盡く之を自家々集中に收めんとせり。○今こヽに各種の句を示さんに
極めて◎自然◎なる者は古池の句の外に
明月や池をめぐりて夜もすがら
の如きあり。◎幽玄◎なる者には
衰へや齒にくひあてし海苔の砂
ほろ\/と山吹ちるか瀧の音
うき我を淋しがらせよ閑古鳥
清瀧(*原文「清籠」)や波にちりこむ松葉
菊の香や奈良には古き佛だち
冬籠り又よりそはん此柱
人々をしぐれよ宿は寒くとも
◎纖巧◎なる者には
落ちざまに(*原文「落ちさまに」)水こぼしけり花椿
柳の泥にしたるヽ汐干かな
草の葉を落るより飛ぶ螢かな
粽結ふ片手にはさむ額髪
日の道や葵傾むく五月雨
眉掃を俤にして紅の花
白露をこぼさぬ萩のうねりかな
行秋を手をひろげたる栗のいが
◎華麗◎なる者には
紅梅や見ぬ戀つくる玉すだれ
雪間より薄紫の芽獨活かな
木の下に汁も鱠も櫻かな
四方より花咲き入れて鳰の海
行末は誰が肌ふれん紅の花
ひよろ\/と猶露けしや女郎花
金屏の松の古びや冬籠り
◎奇拔◎なる者には
鶯や餅に糞する椽の先
陽炎の我肩にたつ紙衣かな
飮みあけて花いけにせん二升樽
鮎の子の白魚送る別れかな
雲雀より上に休らふ峠かな
啄木も庵は破らず夏木立
蛸壺やはかなき夢を夏の月
生ながら一つに氷る海鼠かな
◎滑稽◎なる者には
猫の妻へついの崩れより通ひけり
麥にやつるヽ戀か猫の妻
是橘剃髪に
初午に狐のそりし頭かな
葛城
猶見たし花に明け行く神の顔
菖蒲生り軒の鰯の髑髏
秋之坊を幻住庵にとめて
我宿は蚊の小さきを馳走かな
盤齋うしろ向の像
團扇もてあふがん人の背中つき
あら何ともなやきのふは過ぎて河豚汁(*ふくとじる)
鳳來寺に詣る途にて
夜着一つ祈り出だして旅寐かな
月花の愚に鍼立てん寒の入
◎薀雅◎なる者には
山里は萬歳遲し梅の花
御子良子の一もとゆかし梅の花 (*おこらご:伊勢神宮で神饌を供する少女。子良館の一もと梅を詠む。)
陽炎や柴胡の原(*相模原の古名)の薄曇り
枯芝やまだ陽炎の一二寸
春の夜は櫻にあけてしまひけり
古寺の桃に米ふむ男かな
原中や物にもつかず鳴く雲雀
山吹や宇治の焙爐の匂ふ時
木隱れて茶摘も聞くや郭公
靜かさや岩にしみ入る蝉の聲
秋近き心のよるや四疊半
病雁の夜寒に落ちて旅寐かな
三井寺の門叩かばや今日の月
旅人と我名よばれん初時雨
しぐるヽや田のあら株のKむ程
雪散るや穗屋(*薄で作った神の御座所という。)の薄の刈り殘し
等の句あり。芭蕉は一生の半を旅中に送りたれば其俳句亦◎羈旅の實况◎を寫して一誦三嘆せしむる者あり。
一つ脱てうしろに負ひぬ衣がへ
蚤虱馬の尿する枕もと
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
寒けれど二人旅寢ぞたのもしき
すくみ行く馬上に氷る影法師
住みつかぬ旅の心や置巨燵
いかめしき音や霰の檜木笠
年暮れぬ笠着て草鞋はきながら
旅寢して見しや浮世の煤掃ひ
◎稍狂◎せる者には
不性さやかき起されし春の雨
君火を燒けよき物見せん雪丸げ(*原文「雪丸け」)
市人にいでこれ賣らん雪の笠
おもしろし雪にやならん冬の雨
格調の變化せる者も多き中に◎字餘◎り(*ママ)の句には
曙や白魚白き事一寸
つヽじ活けて其陰に干鱈さく女
行く春に和歌の浦にて追付たり
歸庵
夏衣いまだ虱を取り盡さず
水鷄鳴くと人のいへばや佐谷(*愛知県愛西市佐屋町)泊り
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
西行谷
芋洗ふ女西行ならば歌よまん
其外◎格調の新奇◎なる者には
苣摘んで貧なる如機による
乙州餞別
梅若菜鞠子の宿のとろヽ汁
奈良七重七堂伽藍八重櫻
花の雲鐘は上野か淺草か
關守の宿を水鷄にとふものを
晝顔に晝寢せうもの床の山(*近江国鳥籠山〔鍋尻山〕)
隱れ家や月と菊とに田三反
送られつ送りつはては木曾の秋
蛤のふた見に分れ行く秋ぞ
さればこそあれたきまヽの霜の宿
かくれけり師走の海のかいつぶり
格調に於て芭蕉の變化せる此の如し(*。)されば後世に至りて蕪村曉臺一茶等が少しく新調を詠み出でし外は毫も芭蕉の範圍外に出づる者あらざりき。
豪壯に非ず華麗に非ず奇拔なるにも非ず滑稽なるにも非ず。はた格調の新奇なるにも非ず、只◎一瑣事一微物◎を取り其◎實景實情◎をありの儘に言ひ放して猶幾多の趣味を含む者には
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
さヾれ蟹(*原文「さヽれ蟹」)足這ひ上る清水かな
海士が家は小海老にまじるいとヾ(*カマドウマ)哉
ひいと鳴く尻聲(*長く後を引く声)悲し夜の鹿
松茸や知らぬ木の葉のへばり付く
橙や伊勢の白子の店ざらし
行秋の猶頼もしや(*原文「頼ものしや」)蜜柑
鞍壺に小坊主のるや大根引
鹽鯛の齒莖も寒し魚の棚
の如きあり。▼猶此等の▼外にも
傘に押し分け見たる柳かな
時鳥鳴くや五尺のあやめ草 (*和歌の作法に「五尺の菖蒲に水を掛けたように」とある由。)
不卜一周忌
時鳥鳴く音や古き硯箱
宿りせん藜の杖になる日迄
稻妻や闇の方行く五位(*五位鷺)の聲
蔦植て竹四五本の嵐かな
菊の香や奈良は幾代の男振り
義朝の心に似たり秋の風
馬士(*うまかた)は知らじ時雨の大井河
御命講(*おめいかう。御影供・御会式とも。日蓮忌。)や油のやうな酒五升 (*日蓮消息の語という。)
振賣(*行商)の雁あはれなり夷子講(*ゑびすかう。恵比須神の祭礼。)
ともかくもならでや雪の枯尾花
から\/と折ふし凄し竹の霜
追悼
埋火も消ゆや涙の煑える音
雁さわぐ鳥窒フ田面や寒の雨
石山の石にたばしる霰かな
古郷や臍の緒に泣く年の暮
等あり。之を要するに
▼豪壯勁拔なる者は芭蕉の獨得にして他人の鼾睡を容れず。▼(*鼾睡〔かんすい〕は鼾をかいて睡ること。独擅場であり、他者の容喙を許さない意。「臥榻之側、豈容佗人鼾睡乎。」〔十八史略〕)綺麗なる者輕快なる者幽玄なる者古雅なる者新奇なる者變調なる者等に至りては門輩又は後生にして
芭蕉に凌駕する者無きに非ずと雖も皆其長ずる所の一方に偏するのみ。例へば
其角に奇警なる句有て穩雅なる者無く
去來に穩雅なる句有て奇警なる者無きが如し。而して
○百種の變化(拙劣なる者をも合して)
盡く之を一人に該(*か)ぬる者は實に芭蕉其人あるのみ。○▼蓋し常人の觀念に於て兩々全く相反し到底並立すべからざるが如き者も偉人の頭腦中に在ては能く之
を包容混和して相戻る無きを得るが爲なり。▼
○或問
ある人曰く(*、)芭蕉集中好句其五分の一を占めなば以て多しとするに足らずやと。
答へて曰く(*、)▼本論中好句と言ひしは惡句に對する名稱なるを以つて僅かに可なるより以上を言ふのみ。▼あながち金科玉條の謂に非らず。故に此の標準を以つて論ずれば元祿の俳家は各二分の一乃至三分の一の好句を有すべし、五分の一といふが如きは决して他に例あらざるなり。
ある人曰く(*、)芭蕉雜談を著はし蕉翁の俳句を評し而して其名篇を抹殺し去り其名譽を毀損し了す。是れ俳諧の罪人にして蕉翁に不忠ならずやと。
答へて曰く(*、)芭蕉を神とし其句を神詠とし俳諧と芭蕉とは二物一体なる者と説ける彼芭蕉宗信者より言へば此論或は神威を冐瀆したる者あらん。然れども芭蕉を文學者とし俳句を文學とし之を評するに文學的眼孔を以てせば則ち此の如きのみ。加之▼彼等信者は好句と惡句とを混同して之を平等ならしめんと欲する者なれば其佳句に對する尊敬は却て此論よりも少き道理なり。▼これをしも不忠と言はずんば何をか不忠と言はん。况んや俳句を埋沒して惡句を稱揚する者滔々たる天下皆然り。芭蕉豈彼等の尊敬を得て喜ぶものならんや。
ある人曰く(*、)俳諧の正味は俳諧連歌に在り、發句は則ち其の一小部分のみ。故に芭蕉を論ずるは發句に於てせずして連俳に於てせざるべからず。芭蕉も亦た自ら發句を以て誇らず連俳を以て誇りしに非ずやと。
答へて曰く(*、)○發句は文學なり、連俳は文學に非ず、○故に論ぜざるのみ。連俳固より文學の分子を有せざるに非らずといへども文學以外の分子をも併有するなり。而して其の文學の分子のみを論ぜんには發句を以て足れりとなす。
ある人又曰く(*、)文學以外の分子とは何ぞ。
答へて曰く(*、)▼連俳に貴ぶ所は▼○變化○▼なり。▼○變化○▼は則ち文學以外の分子なり。蓋し此變化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に變化する者に非ずして全く前後相串聯せざる急遽倐忽の變化なればなり。▼例へば歌仙行は三十六首の俳諧歌を並べたると異ならずして唯兩首の間に同一の上半句若しくは下半句を有するのみ。
ある人又曰く(*、)意義一貫せざる三十六首の俳諧歌を並べたるにもせよ其變化は即ち造化の變化と同じく茫然漠然たる間に多少の趣味を有するに非ずやと。
答へて曰く
(*、)然り。然れども此の如き變化は普通の和歌又は俳句を三十六首列記せると同じ。特に連俳の上に限れるに非ず。即ち上半又は下半を共有するは連俳の特質にして
▼感情より
も智識に屬する者多し。芭蕉は發句よりも連俳に長じたる事眞實なりと雖も是れ偶芭蕉に智識多き事を證するのみ。▼其門人中發句は
芭蕉に勝れて連俳は遠く之に及ばざる者多きも則ち其文學的感情に於て
芭蕉より發達したるも智識的變化に於て
芭蕉に劣りたるが爲なり。
○雞聲馬蹄
▼羇旅を以て家とし雞聲馬蹄の間に一生を消盡せし文學者三人あり。▼曰く○西行○▼(和歌)▼曰く○宗祇○(*原文「祇」は●点)▼(連歌)▼曰く(*原文「曲く」)○芭蕉○▼(俳諧)▼是なり。西行は文治六年(今明治二十七年を距る事七百四年前)二月十六日旅中(*河内国南河内郡弘川寺)に歿す享年七十三。宗祇は文龜二年(今を距る事三百九十二年前)七月三十日旅中駿相の境(*箱根湯本)に到りて歿す享年八十二。芭蕉は元祿七年(今を距る事二百年前)十月十二日旅中大阪花屋に於て歿す享年五十一。西行以後大約三百年にして宗祇出で宗祇以後大約二百年にして芭蕉出づ。前身か後身か自ら默契ある者の如し。太奇。
西行は歌人として天下を漂泊したる故に其の歌に名所舊蹟を詠ずる者多く芭蕉は俳人として東西に流浪したる故に其句に勝景旅情を叙するもの多し。獨り宗祇は連歌を以て主としたる故に旅中の發句少し。蓋し連歌は前後相連續する事をのみ務め目前の風光を取て材料と爲し難きが爲なり。我宗祇の爲に惜む。
▼西行はもと北面の武士にして一轉して三衣を着たる漂泊的歌人となり芭蕉はもと藤堂の藩士にして一轉して剃髪したる漂泊的俳人となる。▼其境涯に於て氣
(*概)に於て兩者甚はだ相似たり。
○是に於てか芭蕉は西行を崇拜せり。○(*原文「り」に圏点無し。)(或は云ふ其の筆蹟も亦た
西行を學びたりと
(*。))
芭蕉集中
西行又は
西行の歌に據りたる作に
芋洗ふ女西行ならば歌よまん
西行の庵もあらん芝の奧
露とく\/試みに浮世すヽがばや
蠣よりは海苔をば老の賣りもせで
(*「同じくば牡蠣をぞさして干しもすべき蛤よりは名も便り有り」〔山家集〕に「栗」より「柿」の方が干すことに縁がある〔「看経」に通じ仏縁があるとも。〕と言ったのを承け、「法」にすべしと転じた句。)
西行の草鞋もかヽれ松の露
西行上人像賛
すてはてヽ身はなきものと思へども
雪のふる日は寒くこそあれ 「花のふる日はうかれこそすれ」
(*鈎括弧内の付句が芭蕉の賛。「すてはてて…寒くこそあれ」は伝西行歌。)
の如き作あり。山家集一部は常に半肩の行李を離れざりし芭蕉の珍寳にして芭蕉を惜む句にも
素堂
あはれさやしぐるヽ頃の山家集
といへるあり。又其遺言中にも「心は杜子美が老を思ひ寂は西上人の道心を慕ひ」云々といひたるを見れば以て西行に對する芭蕉の尊信を知るに足るべし。
▼芭蕉又西行につヾきては宗祇をも慕へり。▼
宗祇
世にふるはさらに時雨の宿りかな
とは宗祇が信州旅中の述懷なり。芭蕉亦手づから雨の佗び笠を張りて
世にふるは更に宗祇のしぐれかな
と吟じたるが如き
(*、)自ら顧りみて
宗祇の身の上に似たるを思へば萬感攅まり
(*アツまりだが、セまりと読ませるか。)來りて此句を成したる者なるべし。
芭蕉死後曾て漂泊の境涯に安んじたる俳人を見ず。其意思に於て
蕪村稍之に近しと雖も
芭蕉の如く山河を
渉
(*跋渉)し天然を樂みたる者に非ざるなり。其句に曰く
笠着て草鞋はきながら (*「年暮ぬ笠着て草鞋はきながら」〔野ざらし紀行〕を踏まえる。)
蕪村
▼芭蕉去て其後未だ年暮れず▼
○著書
▼芭蕉は一部の書を著はせしことなし。▼然れども門人が芭蕉を奉じて著述せる者は枚擧に遑あらず。恰も釋迦孔子耶蘇等が自ら書を著はさずして弟子の經典を編輯せるに同じ。時の古今地の東西を問はず大名を成すの人自ら其揆を一にす。
▼俳諧七部集▼といふ書あり。最遍く坊間に行はる。板行の書亦五六種より猶多かるべし。此書は「冬の日(*」「)春の日」「ひさご」「あら野」「猿蓑」「炭俵」「續猿蓑」の七部を合卷となしたる者にて安永の頃より始まりし事にや。其後寛政享和の頃續七部集及び七部集拾遺出で文政十一年に新七部集を出だせり。其外天明以後には其角七部集(*・)蕪村七部集(*・)樗良七部集(*・)曉臺七部集(*・)枇杷園七部集(*井上士朗)(*・)道彦七部集(*・)乙二七部集(*岩間乙二)(*・)今七部集等續々出でたれば此等に對して俳諧七部集を芭蕉七部集とも言ふべきか。
專ら
芭蕉に關せる事のみを記せし書籍亦甚だ多し。
▼泊船集▼(
元祿十一年)
(*風国編)▼芭蕉句選▼(
元文三年)
(*擲筆庵華雀編)は俳句を輯めたる者にして
▼芭蕉翁文集(*蝶夢編)芭蕉翁誹諧集▼(
安永五年)
(*蝶夢編『芭蕉翁句集』か。)は文章と連俳とを輯めたる者なり。
▼翁反古▼(
天明三年大蟻編)は
芭蕉自筆の短册によりて世に傳はらざる俳句を記載し
(*偽書という。)▼芭蕉袖草紙▼(
文化八年奇淵校)は主として
芭蕉の連俳を蒐めたり。
▼俳諧一葉集▼九册(文政十年)
(*仏兮・湖中編)は
芭蕉の全集にて俳句連俳文章は勿論其消息より一言一行總て
芭蕉に關したる記録を網羅し盡せり。全集とは言へ斯く完全に一個人を盡したる者は他邦にも
(*原文「他邦にき」)餘り其の例を聞かざる所なり。然れども考證の疎漏は單に多きを貪りて
芭蕉の作ならぬ俳句をも交へ記したるは遺憾といふべし。
▼芭蕉翁句解大成▼(文政九年)は俳句の注釋にして
▼奧細道菅菰抄▼(
安永七年)
(*高橋梨一著)は
奧の細道を注釋したるなり。然れども注釋は往々牽強附會に失して精確ならず。
芭蕉の傳記に關する書目は時に之を見ると雖も其書は甚だ稀なり。
▼芭蕉翁繪詞傳▼(
寛政五年蝶夢編)
▼芭蕉翁正傳▼(
寛政十年竹二編)など稍普通なれど尤疎雜なり。近者
宗周なる人の編める
▼芭蕉傳▼といふ寫本を見たり。編年体にして詳細を極む。板本の有無之を知らず。此外
▼芭蕉翁行状記▼(
路通著)等諸書あれども未だ之を見るを得ず。此外芭蕉の筆蹟を刊行したる書あり。
こヽに一奇書あり(*、)題して○芭蕉翁反古文○と云ふ(大蟻の編める翁反古とは別物なり)(*。)或は▼芭蕉談花屋實記▼とも▼花屋日記▼とも云ふ。芭蕉終焉の日記なり。(*文暁著。創作という。)(其角の書ける終焉記は此日記などに據りて作る(*。))こは元祿七年九月二十一日に起りて芭蕉沒後の葬式遺物の顛末にまで及べり。惟然、次郎兵衞(*寿貞尼男)、支考、去來等病牀に侍し代る\/に記したる者にして芭蕉の容体言行より門人の吟詠知人の訪問等迄一々に書きつけて漏らす事なし。一讀すれば即ち偉人が最期の行状目を覩るが如し(*。)實に世界の一大奇書なり。而して此書始めて梓に上りたるは文化七年ならんか。芭蕉死後百數十年間人の篋底にありて能く保存せられたるは我等の幸福にして芭蕉の名譽なり。
○元祿時代
近年に至りて元祿文學なる新熟語出來たり。ある人の如くこれを以て單に
西鶴の小説を指
せる者と爲さずして元祿一般の文學を含む者と爲さば最便利なる言葉なり。コ川の天下漸く基礎を固めて四海泰平を謳ひ初めたる元祿時代は實にコ川文學の將に蕾を發かんとするの時期なりき。
▼此の時期に際して文學上の三偉人は天命を受けて突然下界に降り來れり。三偉人は殆んど一樣の年齡を以て世に出でしかも各相反せる方角に向つて其驥足を伸ばしぬ。▼三偉人とは誰ぞ。曰く
○井原西鶴○曰く
○近松巣林○曰く
○松尾芭蕉○是なり。ある年表は此三偉人を以て同じく共に
寛永十九年に生れたりと記せしは誤れり。然れども
西鶴と
巣林は
寛永十九年に生れ
芭蕉は
正保元年に生れ間僅かに二年を隔てたるも亦奇ならずや。(一説には
巣林子を以て
承應二年の出生とす
(*。))
(*今日では後説。)
▼西鶴は一種の小説を創開せり。▼御伽草子の簡樸と小理想とに傚はず(*原文「傚はす」)赤本金平本の荒唐と乳臭とを學ばず。目觀る所耳聞く所のまヽを寫し出だすに奇警なる文辭と簡便なる語法とを以てせり。其記する所卑猥なるは甚だ惜むべしと雖もしかも源氏物語以來始めて人情を模寫せんと力めたるは西鶴ならずや(*。)八文字舍の爲に法門を開きたるも亦西鶴ならずや。小説界の西鶴に受くる所亦多しと謂ふべし。
▼巣林子も亦一種の演劇を創せり。▼能樂の古雅以て普通一般の好尚に適する能はず、金平本の脚色穉氣多くして長く世人の耳目を樂ましむるに足らず。乃ち彼と此とを折衷し敏瞻流暢
の文字を以て世間の状態人生の
情
(*熱情)を寫し之を傀儡に託したり。錯雜なる宇宙の粉本を作りて舞臺の上に活動せしめたる者實に是れ
近松の功なり。
▼芭蕉も亦一種の韵文と散文とを創開して後生を導けり。▼其散文は韻文の如く盛ならざりきと雖も風俗文選(*・)鶉衣の如きは俳文と稱して雅文軍書文淨瑠理(*ママ)文の外に一派を成したり。平賀源内及び天明以後の狂文も亦間接に俳文の影響を受けたるに非るを得んや。
▼此の如くして三偉人は殆んど同時に出でヽ三方に馳驅せり。其著作に就て精細に吟味しなば固より多少の疵瑕あるべけれども三人▼○は盡く是れ其各派の創業者たる事を忘るべからざるなり。○▼殊に最注意すべき一點あり(*。)▼○そは三人共に從來の荒唐無稽なる空想と質素冗長なる古文との範圍外に出でヽ實際の人情を寫し平民的の俗語を用ゐることなり。○三人各〃聲を異にして色を同じうす(*。)末は則ち分れて本は則ち一なり。是に於てか元祿文學在り。
○俳文
三偉人の内近松は世に出づる時稍〃後れたり。西鶴と芭蕉とは殆んど同時に名を揚げ同時に歿し從つて其文章も亦甚だ相似たる所あり。其似たる所は共に古文法を破りて簡短を尚び成るべく無用の語を省きたるに在り。其異なる所は西鶴は多く俗語を用ひ芭蕉は多く漢語を用ゐたるに在るなり。
芭蕉の文は長明の文、謠曲の文より出でヽ更に一機軸を出だしたる者なり。昔より漢文は漢文、邦文は邦文として全く特別の物に屬し同一の人にして全く二樣の文を作る事あり。長明稍此兩者を調和し太平記更に之を調和し謠曲又更に其歩を進めたりと雖も要するに漢語を用うる事の多きのみにして其句法の上には古代の邦文と非情の差あるに非ず。然るに芭蕉の文は單に漢語を使用したるのみならず一句一章の結搆に於て亦多く漢文の臭味を雜へたり。(更に適當なる語を用ゐば元祿の臭味を帶びたり(*。))而して其記する所は天然の風光に非ざれば則ち自己の理想殊に老佛の出世間的觀念を多しとす。其例を擧ぐれば野ざらし紀行(貞享元年)の冐頭に
千里に旅立て路粮をつヽまず三更月下無何に入るといひけん昔の人の杖にすがりて貞享甲子秋八月江上の破屋を立いづる程風の聲そヾろ寒げなり(*。)
と記せるが如き(*、)一讀して古代の邦文と全く其の句法を異にするを見るべし。鹿島紀行(貞享二年)の初めに
(略)
○伴ふ人二人(*、)一人は浪客の士ひとりは水雲の僧。○僧は鴉の如くなる墨の衣に三衣の袋を衿に打かけ出山の尊像を厨子にあがめ入てうしろに背負
(*、)柱杖曳ならして無門の關もさはるものなくあめつちに獨歩して出ぬ
(*。)今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず鳥鼠
の間に名をかうぶり
(*原文「かうふり」)の鳥なき島にもわたりぬべくて門より船に乘て行徳といふ處にいたる
(*。)
若し普通の文章ならば少くとも
▼伴ふ人二人あり(*、)一人は浪客の士●(にて)●一人は水雲(*原文「水運」)の僧▼●なり(*。)●
と書かざるべからず。然れども元祿以後は一般に文章の簡單を尚びしかば芭蕉も亦自ら此句法を用ゐし者なるべし。其他眞面目の語を以て時に諧謔の意を寓する處(*、)是れ所謂俳文の胚胎せるを見る。笈の小文の首に
百骸九竅の中に物あり(*、)かりに名づけて風羅坊といふ(*。)誠にうすものヽ風に破れやすからん事をいふにやあらん(*。)かれ狂句を好む事久し(*。)終に生涯の謀となす(*。)或時は倦て放擲せん事を思ひ(*、)ある時は進むで人にかたん事をほこり(*、)是非胸中に戰ふて是が爲に身安からず(*。)しばらく身を立ん事を願へどもこれが爲にさへられ(*、)暫學で愚を曉ん事を思へども是が爲に破られ(*、)終に無能無藝にして只此一筋に繋がる(*。)
其説く所全く老莊の主旨を出でず(*、)其述ぶる所盡く漢文の結搆によらざるはなし。▼哲學的思想を叙述する此の如く多く(*、)漢文的句調を混和する此の如く甚しき者は他に其例を見ざる所(*、)蓋し芭蕉の創體に屬するなり。▼それより一年を越えて奧の細道といふ紀行あり。其中に
月日は百代の過客にして行かふ年もまた旅人也(*。)船の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは日々旅にして旅を栖とす(*。)古人も多く旅に死せるあり(*。)予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊のおもひやまず(*、)海濱にさすらへ去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやヽ年も暮(*、)▼春立る霞の空に白川の關こえんとそヾろ神(*原文「そヽろ神」)の物につきて心を狂はせ道祖神の招きにあひて取物手につかず(*、)股引の破をつヾり笠の緒付かへて三里の(*ママ)灸すゑる(*ママ)より松島の月先心にかヽりて(*、)▼住る方は人に讓り杉風が別墅に移る(春立より以下(*原文「暮」から傍点を付す。)數句西鶴の文と似たり(*。))
抑ことふりにたれど▼松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥ぢず(*。)▼東南より海を入て江の中三里淅江の潮をたヽふ(*。)島々の數をつくして(*、)欹つものは天を指臥するものは波に匍匐(*はらばひ)(*、)あるは二重にかさなり三重にたヽみて左に別れ右に連る(*。)負るあり抱けるあり(*、)兒孫を愛するが如し(*。)
と書けるが如き(*、)前の文章に比して稍圭角の少きを見る(*。)これ啻に文章に於て然るのみならず俳諧も亦同時に一樣に變遷をなしたるなり。
所謂俳文なる者は此の如く莊重老健のものならずして常に滑稽諧謔を以て勝れるを以て直ちに此文を以て俳文の開祖と爲すべからずと雖も和歌の外に一種の文を起したるは則ち疑
ふべからず。門人諸子のものせし俳文はこれ等より脱化せしものに非るを得んや。然り而して彼等が諧謔をのみ主として
芭蕉の如く眞面目の文章を爲し得ざりしは恰も
芭蕉に壯大
(*原文「壯者大」。「者」はあるいは「得ざりし者は」と続くものか。)雄渾の俳句ありて彼等に之れ無きと一般
(*同様)自ら其才識の高卑を知るに足る。
○補遺
芭蕉に就きて記すべき事多し。然れども余は主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる處を指摘せし者にして爰に芭蕉に評論するの餘暇を得ざれば一先づ筆を擱かんとす。乃ち言ひ殘せし事項の二三を列擧して其題目を示し以て本談の結尾とせん。
一
松尾桃名は宗房、
正保元年伊賀國上野に生る。
松尾與左衞門の二男なり。十七歳
藤堂蝉吟公に仕ふ。
寛文三年(廿歳)
蝉吟公早世、乃ち家を出でて京師に出で
北村季吟に學ぶ。廿九歳江戸に來り
杉風に寄居す。四十一歳秋東都を發し東海道を經て故郷伊賀に歸り翌年二月伊賀を發し木曾路より甲州を經て再び江戸に來る。此歳、月を鹿島に見る。四十四歳東海道より伊賀に歸る。翌年伊勢參宮尋で芳野南都を見て須磨明石に出づ。木曾を經、姥捨の月を賞し三たび東都に來る。四十六歳東都を發し日光白河仙臺より松島に遊び象潟を通り道を北越に取りて越前美濃伊勢大和を過ぎ伊賀に歸り直ちに近江に來る
(*。)翌年石山の西幻住庵に
入る。四十八歳伊賀に歸り京師に寓し冬の初め四たび東都に來る。五十一歳夏深川の草庵を捨てヽ上洛し京師近江の間を徘徊す。七月伊賀に歸り九月大阪に至る。同月病に罹り十月十二日歿す。遺骸
(*原文「遺駭」)を江州義仲寺
義仲の墓側に葬る。
一芭蕉が今杖を曳きしは東國に多くして西國に少なし(*。)經過せし(*原文ここに句点を打つ。)國々は山城、大和、攝津、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相摸、武藏、下總、常陸、近江、美濃、信濃、上野、下野、奧州、出秩A越前、加賀、越中、越後、播磨、紀伊、總て二十八ヶ國なり。
一▼芭蕉は所謂正風を起したり。▼○然れども正風の興る(*、)固より芭蕉一人の力に在らずして時運の之をして然らしめし者なり。○▼貞室の俳句時として正風に近き者あり。宗因、其角、才丸、常矩等の俳句亦夙く正風の萠芽を含めり。冬の日、春の日等を編集せし時は正風發起の際なりと雖も此時正風を作す者芭蕉一人に非ず(*、)門弟子亦之を作す(*。)門弟子亦皆之を作すのみならず他流の人亦之を作す。而して正風發起後と雖も芭蕉の句往々虚栗集的の格調を存す。▼(*原文「存す」の「す」に圏点を付す。)此等の事實を湊合し精細に之を見なば正風の勃興は時運の變遷自ら然らしめし者にして芭蕉の機敏唯能く之を發揮せしに過ぎざるを知らん。
一
○芭蕉の俳句は單に自己の境涯を吟咏せし者なり。○即ち主觀的に自己が感動せし情緒に非ずんば客觀的に自己が見聞せし風光人事に限りたるなり。是れ固より嘉すべきの事と雖も
全く己が理想より得來る目撃以外の風光、經歴以外の人事を抛擲して詩料と爲さざりしは稍
芭蕉が局量の小なるを見る。(上世の詩人皆然り
(*。))然れども
▼芭蕉は好んで山河を渉(*跋渉)したるを以て實驗上亦夥多の好題目を得たり。▼後世の俳家常に几邊に安坐して且つ實驗以外の事を吟ぜず
(*原文「吟せず」)而して自ら
芭蕉の遺旨を奉ずと稱す。井蛙の觀る所三尺の天に過ぎず。笑はざらんと欲するを得んや。好詩料空想に得來りて或は斬新或は流麗或は雄健の
芭蕉を作し
(*オコシか。)世人を罵倒したる者二百年獨り
蕪村あるのみ。
一鳴雪翁曰く芭蕉は大食の人なり(*。)故に胃病に罹りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に
○一▼もち米 一升▼ 一▼K豆 一升▼ 一あられ見合
右今夕の夜食に成申候間御いらせ傳吉にもたせ御こし可被下候云々
○只今田舍より僧達二三人參候(*。)俄に出し可申候貯無之候(*。)さぶく(*原文「さふく」)候故にうめん(*煮麺)いたし可申候そうめんは澤山有之候(*。)▼酒二升▼御こし頼入候云々
とあり(*、)且つ沒時の病は菌(*キノコ)を喰ふてより起りしといへば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此手紙を以て大食の證となすは理由薄弱なりと雖も手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説當を得たる者ならんと思ふなり。多情の人にして肉体の慾を他に伸ばす能はざる者往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。
一(*この章から改行後一字下げ。)芭蕉妻を娶らず。其他婦女子に關せる事一切世に傳はらず。芭蕉戒行を怠らざりしか(*、)史傳之を逸したるか(*、)姑らく記して疑を存す。
一後世の俳家芭蕉の手跡を學ぶ者多し。亦以て其尊崇の至れるを見る。
一芭蕉の論述する所支考等ゥ門人の僞作又は誤傳に出づる者多し。偶〃芭蕉の所説として信憑すべき者も亦幼穉にして論理に外れたる者少なからねど(*、)(*原文句点)さりとてあながち今日より責むべきに非ず。
一芭蕉の弟子を教ふる(*、)孔子の弟子を教ふるが如し。各人に向つて絶對的の論理を述ぶるに非ず(*。)所謂人を見て法を説く者なり。
一芭蕉甞て戯れに許六が○鼾の圖○を畫く。▼彼亦頓智を有す。▼稍萬能の人に近し。
一天保年間諸國の芭蕉怩記したる書あり。曾て其足跡の到りし所は言ふを須たず(*、)四國九州の邊土亦到る所に之れ無きは無し。余曾て信州を過ぎ路傍の芭蕉怩撿するに多くは是れ天保以後の設立する所に係る。今日六十餘州に存在する芭蕉怩フ數に至りては殆んど枚擧に勝へざるべし。
一寛文中には宗房と言ひ(*、)延寶天和には桃芭蕉と云ふ。いつの頃か自ら
發句あり芭蕉桃宿の春
と云ふ句を作れり。芭蕉とは深川の草庵に芭蕉ありしを以て門人などの芭蕉の翁と稱へしより雅號となりしとぞ。普通に「はせを」と假名に書く。書き續きの安らかなるを自慢せりといふ(*。)桃といふ名は何より得來りしか詳ならず。余臆測するに芭蕉初め李白の磊落なる處を欣慕し▼李白▼といふ字の對句を取りて▼桃▼と名づけしには非ずや。後年には李白と言はずして杜甫を學びしやうに見ゆれども(*、)其年猶壯にして檀林に馳驅せし際には勢ひ杜甫よりは李白を尊びしなるべしと思はる。
芭蕉雑談 <了>