「 自らを学ぶ気にさせるには」
何か一つひとつ『あの人にはかなわない』と思わせる場面を見せつけろ
知人のベテラン新聞記者からこんな話しを聞いたことがあります。入社して最初は東北某県の支局に配属されました。そこの支局長がちょっと変わった人物でした。昼過ぎにふらりと出社するのですが、たいてい二日酔いみたいな顔をしています。
支局員にいくつか指示を出すと、ソファに腰をすえて、新聞や雑誌を読み、ほとんど仕事らしい仕事をしません。夕方になると、さっさと引き上げて、一人でどこかへ飲みに行きます。知人の新米記者は、あれじゃあ給料泥棒じゃないか、とあまりいい印象を受けませんでした。
ある日、支局長は帰り際に新米記者氏を呼んで、某革新系市議会議員を夜回りするよう命令しました。『何かあるんですか』と質問すると、『行って見なきゃ、わかんねぇだろう』と相手にされません。『また顔つなぎか』と思いながら、命令どおり、深夜、その議員を尋ねると、ものすごいネタが待っていたのです。
汚職事件にも発展しかねない、市有地払い下げ問題の情報を提供してくれました。知人の支局長を見る眼が違ってきたことは、いうまでもないでしょう誰でも、到底この人にはかなわない、と言う面も見せ付けられると、相手に一目おかざるを得ません。人間心理として、すべての能力は一つだと思うからです。つまり、試験勉強が出来れば、金銭などの事務処理能力や、交渉能力もあるレベルまでは出来る、と勝手に判断します。
もちろん、実際には、違う場合もあるのですが、押しなべてこうした連想を働かせます。これを逆手にとって、仕事を教える際の"下地作り"に生かすことができます。
たとえば、若い部下を連れて"同行営業"をするときに、意識的にかなり込み入った内容の話をしてみます。同行した若い部下の中には、当然、ついていけないものもでてきます。その効果は小さくありません。到底この人にはかなわない、オレも早くこうなりたい。という欲がでてきます。そこで、いったんそう思うと、仕事上の指示や注意を素直に受け入れるようになります。
別に仕事の面だけに限りません。酒、麻雀ゴルフ、何でも、部下より優れているものがあれば多少は演技がかかってもかまわないから、機会を作って、其れを見せ付けておくとかの上司を見る目が変わってくるはずです。
接待で遅くなった翌朝や、仕事で徹夜した翌日などは絶好の機会でしょう。新人にとってもつらいはずのときに、きちんと出社し、バリバリ仕事をこなす姿を見せ付けられて、何も感じない部下は少ないに違いありません。
仕事の面で部下を凌駕するのは、むしろ当たり前と思っている新人類も、体力や遊びで負けたと思うと、意外に素直になるものです。
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先ごろおなくなりになった漫画家の手塚治虫氏もそうですが、締め切りがないとどうにも書けないという作家もいます。一方で、さっさと片付けておき、いったん引き出しに眠らせておくというタイプの人もいます。いずれにしても、"締め切り"という一つの目標を設定されることによって、気の乗らない仕事でも進行する推進力になります。
これを私は"締め切り効果"とよんでいます。クレペリン検査を受けたことのある人も多いことでしょうが、ドイツの先進医学者クレペリンの考案した、人の精神機能や性格の判断方法で、一桁の数の足し算を一定時間行わせる、単純加算作業です。ところが、人によって、初めは良くて、だんだん悪くなってくる人や、その逆の人もいます。ですが、平均して、初めと終わりの仕事量が大きく、これを"初頭努力""終末効果"と呼んでいます。
勉強にしても、必ず中だるみが生じてきます。だからできれば、"初頭努力"と"終末効果が直結したほうがよいです。仕事にしてもそうです。三時間で出来る仕事を昼過ぎに渡して、五時までやっておくれといったとしましよう。受け取った側も、あ、これなら三時間ほどで出来るから、そのうちやっておこうと、すぐにはとり掛からないでしょう。
しかし、あらかじめ相手がこなせる時間の見積もりを立てておき、其れに合わせた締め切り時間を告げておくとその間、受け取って側は緊張を持続することができます。緊張している間は、仕事に熱中している時間であり、部下に早く終わらせようと仕事への欲を書き立てるには絶好のチャンスです。だらだらやれるような形で与えると、能率も落ちます。
特に新入社員の場合など、仕事を与えるということは、その仕事を覚えるということにつながることが多いです。また、単純な仕事から与え始めることでしょう。そうした場合、何時いつまで、とハッキリ告げておいてやると、其れを学び、こなそうとする意欲も高まっていきます。
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◇no-3 逆の提案で"あまのじゃく心理"を利用
わざと逆の提案をして、相手の"あまのじゃく心理"を利用せよ
十人十色という言葉は、人を教える立場となるとつくづくわかってくる言葉の一つではないでしょうか。組織の中には、アドバイスをすると素直に従おうとするタイプの人間ばかりがいるわけではありません。こちらが右といえば左への反応を示し、左だといえば右だという困ったタイプの部下もよくおります。
いうことを聞かないから仕事ができないかといえば、こういうタイプの中に仕事が好く出来る人間がいるから正直には厄介です。
攻撃的で個性が強いタイプのいわば"あまのじゃく型"のにんげんです。
こういう部下は新人より仕事に慣れ始めた中堅の社員に多いようです。企業は組織プレーだから、結局能力は惜しんでも他への影響を考えて、移動させたり、時には排除してしまうこともあります。周りに迷惑が掛かるなら仕方のないことですが、上司の教え方しだいではこうした人間ほど力を発揮します。
かつて、プロ野球で知将の名をほしいままにした三原脩監督は、西鉄ライオンズ時代に野武士カラーの代表的存在だった豊田泰光選手を実に巧みに扱いました。
豊田選手は攻撃的個性派の典型です。クラブを持たせると、真正面へのゴロでさえぽろぽろと落としますが、バットを持たせればがんがん撃ったのです。
強打者だけに、監督がバントでも命じようものなら、フンとばかりそっぽを向いてしまいます。並みの監督ではこの手の選手は扱いかねます。それで、三原監督はどんな方法を講じたのかといいますと、"あまのじゃく心理学"を応用して逆手に出たのです。チャンスにトヨタの打順が来ました。ここは一打得点というよりは、なんとしてもランナーを進めたい。つまりバント作戦です。しかし、強打者トヨタにバントしろといってもそっぽを向かれかねません。知将はそこで、一計をめぐらす。バッターボックスからトヨタを呼んで、「おいトヨ、なあ、ここは打っていったほうがええんと違うか』とやります。攻撃的個性派豊田といえども素人ではありません。ヤキュウノセオリーは知っています。「いや、オヤッさん。ここはバントですよ」案の定まんまと三原魔術のわなにはまってバントで出塁……。と、いうわけです。
右を向けといわれると左を向きたがるあまのじゃく型の個性派、は、こちらのアドバイスがわからないわけでなく、実は十分わかっているのです。わかっていても、ついつい本心にさからってまでも、こちらのいうのとは反対の行動を示したがる潜在的な傾向を、自分でもうまくコントロールできないのです。
こんな場合には、相手の個性を殺さずに、時には、こちらの気持を裏返しにして、回り道をしながらも上手に誘導してやるのも教え方の一つです。こんなことを繰り返しているうちに、相手がこちらの気持を完全に理解するようになれば、じゃじゃ馬も名馬に変身させられるのです。
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◇no-4 考え抜いた末の失敗、褒めてやれ!
とことん考えさせた上での失敗は、そこそこの成功より褒めてやれ!
NHKの鈴木健二氏といえば、全国に人気を得たタレントアナウンサーですが、一面、NHK一の"始末書男"だったといいます。
何しろ、『入局から定年まで勤めて、始末書を書くなんてのは、何百人に一人いるかいないかだぞ。おまえは、もう賞罰の欄に書き入れるところがないよ』といわれたほどだったそうです。たとえば、専売公社と間違えて電電公社へいってタバコの売り上げについて取材したり、急に頼まれて生番組のスタジオに入り『街頭録音終わります』とやったところ始まりだったとか、例を挙げればきりがないらしかったそうです。
氏は、日本人の特性として、"他人百姓"があるといいます。それは、隣が田植えしたからうちも植えよう, 隣がかったからうちも刈ろうと、人まねばかりして失敗を免れようとすることをいうわけですが、其れが企業意識の中まで浸透して、その場さえうまく乗り切ればいいという考えになっている、と指摘しています。そして氏は、失敗を恐れて消極的に成功するよりは、積極的に失敗したほうがいいと"失敗のすすめ"を説き、失敗という『体験』を『経験』に深めて積み重ね、其れをジャンピングボードとすることだというのです。
本田技研の創始者・本田宗一郎氏も、「失敗しないことよりも何もしないことを恐れよ」というのを持論としていました。そして、氏の目からすれば失敗するとわかっている仕事でもどんどん若手に任せていき、任せた以上はは横から口を挟まずにとにかくやらせてみようと、むしろ失敗を奨励したほどだといいます。F1レースに挑戦したときも、数々の失敗を重ねながら、少しも金を惜しまなかったといいます。後年このレースの指揮を取ったりして苦労した人たちが、次々と同社の社長になったことは、ご存知の方も多いことでしょう。
失敗といってもいろいろあります。ホンダ車の場合は、レースのために様々なエンジンを設計し、製作し、挑戦しては敗れます。様々なシャーシーを考案し、装着し、失敗します。これは必ずしも失敗とはいえないでしょう確かにその場その場のレースに破れても試行錯誤の積み重ねであって、そのつど、エンジンなり部品なりが改良され、進歩していったのです。
つまり、失敗は、結果よりプロセスが大切なのであって、やがてホンダは世界を制覇しました。
同じうまくいかなかったケースでも、『ミスと失敗は違う』といった経営者がいます。うっかりやポカ、準備不測などは単なる怠慢からの"ミス"ですから、厳しく戒めなくてはなりませんが、考えた末の"失敗"は、後でどこが足りなかったのかを考えやすく、成功につながりやすいです。むしろ、良く考えないで得た成功など、たまたま運がよかっただけであり、良く考えた失敗ほどは、多くのことを教えてはくれないのです。
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―――――自ら学ぶ気にさせる仕事の教え方―――――
◇no-5 大怪我させないためには、小さな怪我を経験させよ
『企業の機構上、部下のミスは管理職の責任となります。そのために、ミスによる減点を恐れるあまり、部下の仕事を事細かにチェックする傾向になってはいないでしょうか』と日本電気副会長の大内淳義氏が、あるときに管理職に、苦言を呈していたのを記憶しています。
大内氏によれば、毎日山積みされる書類は斜め読みで判をつくくらいでよく、上司が実質的にノーチェックだと思えば、かえって部下は『しっかりしないと大変なことになる』と自然に考えるようになり、責任を持って仕事をしてくれるようになる、というのです。
管理職にあれば誰しも、有能な部下を育てたいと願うものでしょう。ところがミスを恐れる管理職の場合、有能であることとノーミスとを、性急にイコールで結んでしまいがちです。ミスにこだわるあまり、転ばぬ先にと、部下に杖を与えてしまうのです。
一見、教える人間の親切に思えるやりかたが、教えられる人間の成長を止めてしまうことは身近にもあります。アイロンや針など熱いもの、とがったものは、生活から切り離せないものにかかわらず、危険だというだけで子供の周りから排除してしまうのもその一つです。熱い、痛いを逆に身を持って経験させなくては、子供の情操・判断力は育たないし、熱い、痛いを知らないままでは、将来、逆に大ヤケドや大怪我をすることにもなるのです。
五感で学ばせるこの方法を"体感教育"と言いますが、子供の育て方も仕事の教え方もこの点では同じです。先回りして教えしようとしないで、多少のミスや危険など見て見ぬふりを決め込んでしまったほうが、部下の成長は早いのではないでしょうか。
蛇の目ミシン工業の社長であった島田卓弥氏といえば丁稚から身を起こした立志伝中の人物ですが、元パインミシン代表の小瀬与作氏とのエピソードは語り草です。出会いは戦前のことで、島田氏が今で言う経営コンサルタント・パインミシンは米国資本のシンガーに市場を脅かされ苦境にあった時期でした。
島田氏に見所ありと見た古瀬氏は彼を入社させるや、すぐに販売戦略を任せてみました。ところが、島田氏はここにクレジット制を持ち込んだため、宣伝費は大きく膨らんだのです。これには倒産を危惧する社員から猛反対の声が上がりましたが、古瀬氏は耳を貸さず『彼がいなかったらどうせつぶれていたんです。任せたからには思う存分やらせてみよう』といったのだそうです。其れを聞いた島田氏が、小瀬氏の信頼に応えたのは言うまでもありません。
最近は、いわれたことしかやらない、"無責任主義"社員が多くなったとい言われますが、教え方しだいでは部下が育つはずです。この章では部下に仕事への責任感を持たせて教える方法についてつづけます。
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◇no-6 こだわって見せてから、本人に任せよ
仕事の大勢に影響ない部分にこだわって見せてから、本人に任せてみよ
仕事柄、私は出版社を訪れることが多いです。そこで、顔見知りの編集者が新入社員と議論してる光景に接したりします。それとなく観察してみますと、実に細かいことをいっています。たとえば、著者が書いた原稿をチェックしなからここの語尾は『である』がいいか、『だ』がいいと思うかと問い質しています。どちらが正しいかという問題ではなく、其れは文章に対する好みの範囲に収まる問題でしょう。あるいは、目次の活字の大きさを十三ポイントにすべきか、十二ポイントにするかで、議論を吹っかけます。その編集者の本音を言えば、十三Pointも十二ポイントもそれほど大きさは変わらありません。ほとんど好みの問題でしょう。
じつは、こうした細かいことにこだわるのは、新人を教育するための手なのです。大学を卒業して入社してきた新人は、仕事も出来ないくせに、(時代の感性を先取りするのが私の任務)などと頭でっかちになっています。そこのところを、一見つまらないように思えることが実は仕事を進める上で重要なのだと教えることで、ぶち壊してやるのです。
それがわかってきたら、「ここは君にまかせる」と細部の決定を新人にさせるようにしていくわけです。
こうして決定を任された新人は、些細なことでも慎重に検討するようになります。このような過程を徐々に積み重ねていくことで、大きな決定を下すための判断能力もやがてつき、仕事に対する責任感も次第について行くのです。
これは何も出版業に限らず、普通の企業でも同じ方法が使えます。
たとえば、ちょっとした接待をするとき、(どこの店がいいと思うか)と部下に聞いてみます。部下が(うなぎ屋でいいですか)と応えたら、(うなぎ屋でゆっくり話が出来るの?相手がうなぎが好きかどうかもわからないじゃないか。モノが食えればいいというもんじゃないでしょう。、仕事の接待なんだから』とわざと問題を大げさにしてみます。そうしておいて、『いいよ、君の好きなように決めろ』とぽんといいます。
いわば、責任を部下に押し付けたわけですが、部下のほうも考え込まざるを得ず、あれこれ悩んで慎重に決定するでしょう。仕事の中には、様々に決断が迫られる瞬間が小刻みにやってく。こうしたプロセスが、そこで決断をくだし仕事をする能力が高められていくのです。
小さな仕事ばかりでなく、大きな仕事もできそうだと思えてきます。
仕事をさせながら訓練する場合は、このように大勢に影響のない部分で執拗にこだわって見せ、最後に本人に決めさせるという手が有効です。
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◇no-7 自分がやったほうが速い仕事は部下にさせよ
自分がやったほうが速い仕事でも、あえて部下にさせよ
私がいつも感心している教育の一つに医師の教育制度があります。"手術"という人命に携わわる失敗が許されない仕事を、いつ、どのように新人に教えるのでしょうか。
説明になりますが、医師の教育制度である"インターン制度"とは、用語辞典によれば、いわゆる専門的職業に就くための資格試験の受験の基礎条件として、その専門的な職業教育を受ける学校の卒業者に対し、卒業後、一定期間を特定の施設や期間で実地の練習を課さなければ、国家試験を受験できないような制度のことです。
外科医などの場合、新米医師が始めての手術をするとき、手際が悪いとそばで見ているベテラン医師はつい手を出してしまいそうになるといいます。しかし、それにあえて手を出さず、新米医師に任せるらしいです。
そこで手を出してしまうと、その新米医師はいつまでたっても、手際の悪さを直すことは出来ない。途中で手術の責任を放り出しては、手術に対して責任感を持つことが出来なくなるのです。逆に言えば、責任を全うしない限り、その人の成長はなく、甘えもなかなか抜けないということになります。
封建的だと影口を言われる徒弟制度も、、この壁を越えるために必要な要素が大きいに違いありません。
三年連続日本一になったプロ野球西部ライオンズの森監督は、ルーキーの清原を四番に据え、彼が不調のどん底に陥っても四番をはずそうとはしませんでした。森監督はあるインタビューにこう答えています。『いずれにしろ、彼は将来の主砲なんだから、今のうちからあれこれ教えたり、ベンチに下げたりして気分転換を図ったりしたのでは、かえって逆効果になりかねません。これくらいの壁は越えて貰わなければ……』
この教え方は、今の若い新入社員にも十分当てはまります。何かの壁に当たると、先輩社員に助け舟を出して貰おうとします。わからないことがあれば、どんどん先輩や上司に尋ねるのはいいですが、いざとなるとその壁の処理まで先輩に任せようといいます。甘い考え方をする新人いる。比較的やりやすくわかりやすい仕事を続け、成績も可もなく不可もなく体裁を整えようとします。
仕事を教えなければならないとき、その局面に相手をぶっつけてみることが最も効果的な方法といえます。しかし、医師の場合と同様に、失敗はビジネスにおいても許されません。このジレンマを解決し、仕事を教えるためには、多少冷たいと思われても、常に『部下の後ろに立つ』ように見守り、大怪我をしない限り放っておくしかありません。
普段からこうした教え方をしておけば、"いざ手術"となっても、部下はあわてずに自らの力で仕事が出来るでしょう。
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◇no-8 部下の監督は、見過ぎず、見なさ過ぎず、
見ないで見ているようにせよ
物理学に"不確定性原理"という法則がありますご存知のように原子は物質の最小単位ですが、研究者が原子を見ようとして操作しすぎると、その物体の本質が変質し、見えなくなってしまうといいます。物を見ようとして近づきすぎると帰って本質が見えなくなるという、物理学の原理です。
この"不確定性原理"に似た話は、人間社会にもあります。たとえば、部下の仕事を観察するとき、"見すぎ"も"見なさすぎ"も上司が部下の本質をつかみ、責任感を持たせるには不適切です。"見すぎ"れば、部下はプレッシャーに押され萎縮するでしょう。し、見られているから仕事をするという意識が強くなります。これでは、いつまでたっても自分ひとりの責任で仕事ができないし、あるいは、見られているから仕事をしているのではないという"あまのじゃく心理"が働き、仕事に消極的になります。
"見なさすぎ"が問題なのは、相手に張り合いをなくさせるからです。親の養育態度が子供の性格に及ぼす影響を研究したサイモンズは、過干渉も問題ですが、見なさ過ぎ=無視も、"妙に、攻撃的"な子供を作る、といっています。
そこで、部下を監督するときにも"つかず離れず"の態度が必要です。
部下を鵜飼の鵜にたとえてみれば、そのことがよくわかるはずです。鵜匠の方が鵜につけた紐を引きすぎると、鵜は魚のいるところへ自由に動けず、まったく魚を取れません。逆に、鵜匠が紐を緩めすぎると、鵜は自分勝手に遊び始め、魚を取る"責任"を忘れます。鵜匠が紐を緩めず引きすぎない、"不即不離"の関係になることが、鵜が魚を取る"仕事"を覚えこむのに最もよいという話です。
部下と接するときでなくても、人間関係で"不即不離"が肝心であることは、デパートなどへ行ったときに、実感するはずです。店の人に、あまりしっこく寄ってこられるのはうっとうしく、買う気がしないし、かといって店員に知らん顔をされても、この店は売る気がないのかと買う気がうせます。
この"不即不離"の知恵を実際に用いて成功したのが、阪神タイガースの吉田監督です。彼が優勝した年というのは、選手の練習中、見てみないフリをしていたといいます。選手は、監督はまったく無関心なのかと思っていると、後で監督から昼間のグランドでのあの工夫はさすがだと褒めたといいます。これで選手は、監督は未定内容で見ているのだと感激し、手を抜けぬと思い、さらに努力するようになった。これが、阪神優勝の原動力の一つと考えられるでしょう。
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◇no-9 途中まで一緒にやり、『後は任せる』と投げ出してみよ
日新製鋼の阿部譲会長は、社員によくこういうことを言っているそうです。『設備を作ると決意したトップは、出来たときにはもう会社にいないんだよ。だから設備投資は若い君たちの問題なんです。設備投資の責任は結局、君たちにかぶさっていくんだからね。』一見、無責任な発言に聞こえるが、なかなか言えることではありません。
普段、私たちは、自分の右腕となってくれている部下のためだと思い、なかなか手がけた仕事を手放そうとはしません。其れが上司の責任に基づくことではもちろんあるでしょう。しかし、いつまでも一部だけしか部下に任せないのでは、依存心を大きくしてしまいます。自分の無責任を大事にするのはいいですが、其れは部下を受身型の責任回避人間にしないとも限りません。
人間は誰かに頼りにされると、俄然張り切るという性質を持っています。それなのに相手の依存心かわいさゆえに、つい見切り時を誤ってしまいます。かわいい部下ほど、自分の責任感がアダになってしまうのです。この見切りをいつつけるかという大切さを、阿部氏の話は語っているのではないでしょうか。
『かわいい子には旅をさせよ』の諺どおり、いつかは、すべて任せることになります。そのための準備として、時には途中まで一緒に仕事をして『後は任せる』と投げ出すことも必要になってきます。たとえ『無責任だ』といわれてもです。
いつまでも細かいやり方まで教わらなくては気がすまないというような部下に、手取り足取り教えているようでは、自分自身で考えなくなり、使い物になりません。
"無責任社員"に育ってしまいます。場合によってはまったく知らない仕事を、最初の指示だけで、すべて初めからやらせるくらいのほうが勉強になります。
かといって、投げ出しっぱなしというわけにはいかない。その後で労をねぎらうくらいの気配りがなければ、上下関係はしっくり行かないことは言うまでもないでしょう。
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◇no-10 見習い期間、訓練段階に独力でやらせる機会を与えよ。
若い人たちを見ていると、近頃なんでもこなしてしまう器用な人が多いのに気づきます。指示されたことは、巧みにやってしまうのです。反面なぜか、自分で考えてことに当たろうという意識が育っていないようで、なにかちぐはぐな印象さえ感じるのです。
これを私なりに考えてみますと、昔と今の大学の環境の違いが一因しているのではないかと思えてきます。
よく言われることですが、今の大学はいわば高校の延長線上にあって、決められた期間の中での"教え一―教わる"関係でしかないような部分があります。昔の大学は勉強というよりむしろ環境を与えられていただけで、そこでは勉強したければ勉強しなさい。いやならしなくて結構、という自主性に任した気風があったと思えます。当然、何年も大学にいすわる猛者も出てくるわけですが、今のようにある年数で放校されることもなく、そんな猛者とのつきあいもまた人間性を磨くのに役立ったわけです。
別な見方をすれば、前者は子供相手にするように面倒見がいいわけで、後者は大人なんだからどうするかは自分で考えろと突き放すやり方というわけですから、その違いは大きい。現代の学生は教えられることにあまりにも慣れすぎ、それが社会人になっても今度は、『指示なれ』現象という形で現れているということではないでしょうか。依頼心から抜けきれないため、器用なのに積極的にその力を生かせない学生、そして社会人が量産されてしまうのです。マニュアルはこなせても、マニュアルに書いてないものをまったくこなせないのは、そのためです。
大学を社会に出るための訓練期間と見るならば、そこで手とり足取り教えられてきたのだからいざ本番で、一人でやれと突き放されてもついていけないのは無理もありません。日本人は本番に弱いという定説も、その辺りのことを考えてくるとうなずけるものがあるわけです。
元明大のラグビー部で、"戦艦大和"といわれた名フランカー大和貞氏は、監督として東京・明大中野高校を全国大会に導いて注目された人です。
練習メニューや試合のフォーメーションまで、すべて生徒に組立てさせるのを身上としてきたという大和氏は『監督の指示でやらされていると、生徒は公式戦で何をやったらいいのかわからなくなります。どんな事態になっても生徒たちだけでプレーできるように……と、あるインタビューにこたえていたが、『指示慣れ』の怖さを熟知して、生徒の自主性にかけた結果がでたのでしょう。
新人教育もまったく同じことで、まず『指示待ち』といった依頼心を排除してやるところから始めなければ人材は育たない。見習い期間にこそなるべく教えないで独力でやる機会を与え、本番ではフォローしてやるくらいの気持でいいのです。
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◇no-11 "結果オーライ"は黙認するな
ある会社での話しです。社外へ配る文書を印刷業者に発注するとき、若い担当者が発注書や現行の印刷指定をきちんとか書かなかったことが判明しました。上司はすぐこの担当者に発注所を書きなおさせると同時に、原稿を印刷業者から引き上げさせようとしました。ところが、このときすでに印刷の作業はかなり進んでしまっており、本刷りに入る前の見本刷りが印刷所から届けられた。幸い、見本刷りを見る限り印刷文は大過なく出来上がりそうです。
こんなとき、あなたなら部下にどんな指示をするでしょうか。手順が悪かったにせよ結果は一応許せる範囲のものだったとして、そのまま進行させ、後で改めて仕事の手順をよく教えなおすでしょうか。私が知ったこのケースでは、担当者が見本刷りを見てほっとし、やり直し作業を中止しようとしたのを上司が許さなかった。印刷所の作業を途中でストップさせ、発注所と原稿の指定を最初からやり直させた。事情を良く知っている印刷業者だったから、たまたま結果が良かっただけであり、このまま進んだのでは若い担当者が仕事を覚えないという上司の判断があったからです。
このようないわゆる"結果オーライ"に対してどう臨むかに、ほんとうのプロになれるかどうかの重要なカギがかくされているということは、優れたプロたちが異口同音に言うことです。早い話、私などがゴルフでミスショットしながら結果オーライだったとき、内心ほっとし喜んでいるが、一流のプロはスコアの良し悪しにかかわらず、試合後、徹底的にこのミスを強制するための打ち込みをするといいます。結果オーライをそのままにしておくと、しだいにぷろとしての仕事に無責任になるのが怖いからです。
もうずいぶん昔の話ですが、かってプロ野球阪急ブレーブスの西本監督が優勝街道を突っ走っていたころ、外人助っ人選手がバントの指示にもかかわらずホームランをかっ飛ばしてしまった。このとき、監督は、この選手を許さず、怒鳴りつけたというエピソードがあります。最近でも中日ドラゴンズの星野監督が、主軸打者の一人にバントを命じたにもかかわらず、この選手が二度バントに失敗して結果としてスリーホームランを飛ばしました。このときも、星野監督は後でこの選手の頭をゴツンとやり、バント練習を改めてやらせたといいます。
仕事は、もちろん結果が良くなくては話になりません。しかし、仕事を教えるという観点からは、結果だけ見ていると重要な点を見逃し、いずれ大きなミスを招きかねません。その典型が、この"結果オーライ"なのです。
その意味で、たまたまうまく言った結果を黙認しないで、正しい手順でやり直させたこの上司のやり方は、仕事の教え方として理にかなっていたといえましょう。
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◇no-12 スランプに悩む部下は、何もいわずに見まもってやれ
誰でも生涯のうちに二度や三度のスランプを経験しなし人はいない。そう書いてしまうといかにもたいしたことがなさそうですがスランプに陥った人間がそこからは出でるために人知れない苦しみを体験するのも事実です。
仕事の世界でもこのスランプが時々やってきます。そんな時、先輩の目には、後輩の仕事上のスランプからの気分転換や脱却法が手に取るようにわかる。上司や先輩にも同じような体験が必ずあるからです。そこでついつい、゜おい、どうだ、今夜あたりいっぱいやらないか。』と飲み屋にでも誘って適当な打開策を教えてやろうかという気持になります。
しかし、結論から先に言えば、其れはやめたほうが良いです。
若い部下のスランプは、仕事を覚えていく段階の成長の節目のようなものだからです。壁に突き当たった落ち込んでいるときこそ、自分で打開策を考え問題を解決し、ものごとを前進させていくための絶好のチャンスです。スランプに陥ったとき独力で其れを克服させてやらないと、部下はいつまでたっても教え続けなければならない人間になってしまいかねません。
ビジネスマンを成長させるためのオンサジョブ・トレーニングの最終目標は、本人に二つつのジリツ、つまり 自立と自律を教えることだといってよい。スランプはその二つを一挙にモノにする得がたいチャンスの一つと見て放っておくことです。そのせっかくの機会にわざわざ克服法を教えてやっても、その方法は、結局本人にの身につきません。
球界の至宝といわれた大ホームランバッター王貞治選手でさえ、プロにデビューしたとき、二十試合以上もノーヒットという大スランプがあったのです。このときのジャイアンツの水原監督は、黙って何も言わずに王選手を試合に出し続けました。出るほうも、出し続けるほうもつらかったに違いありません。しかし、結局は水原監督のこの我慢が後年の王選手を作り上げる最大の根拠になりました。
松下幸之助氏に『困った困ったと頭を抱えていては、本当に困ってしまいます。困るからこそ困らないんだと、考える』という名文句があります。『困る(ことで学ぶ)からこそ(将来は)困らない』という"経営の神様"の語録は、さすがにスランプ心理学の極意を間欠に捉えて余りあります。スランプ自力で克服するから、商売への自信も深まるのです。
ビジネスの現場で後輩にものを教えるということは、学校などで教師が生徒に知識を教えるのとは違って、これからの長いビジネス社会をどう乗り切っていくかを教えることでもあります。だからこそ、時には非情と見えても実行のある方法をとらなくてはならないこともあります。
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◇no-13 注意して、言い訳や責任逃れする部下には、逆に提案をさせよ。
作家の藤本儀一の娘さんが、あるとき十時の門限を破って朝方酔って帰って来たときがありました。夫人は頭越しに叱りつけて、父に謝るように言いつけたのですが、娘さんはふてくされています。藤本さんは、そんな彼女を一瞥しただけで、一言『アホーッ』と言い捨てて部屋を出てしまったといいます。
娘さんとしては、藤本さんの前で言い訳や抗弁の一言でも考えていたであろうが、藤本さんにすかされてしまった。以後、娘さんは、きちんと門限を守るようになったそうです。
藤本さんは、反発しようと身構えているエネルギーをそらせて、反省のエネルギーに変えてしまったといえます。
アメリカの心理学者ローゼンツヴァイクが、次のような性格テストを行っています。
一人の通行人のそばを通った車が泥をはね、運転手が謝っている漫画を見せるのです。通行人の返答部分(ふきだし)は空白になっていて、そこにどう言葉を入れるかをテストするわけです。ある人は「バカ気をつけろ!」といれ、ある人は『いえ、こちらこそ』と入れたりします。
ローゼンツヴァイクは、その反応を『外罰』『内罰』『非罰』の三種に分類しました。なんでも他に持たせようとするのが『外罰』自分の責任にするのが『内罰』、その場に応じて相手に、あるいは自分に合理的に解決しようとするのが『非罰』というわけです。
最近の風潮として、『外罰反応』が多いようですが、『外罰的人間』はなぜそうなったか考えることもなく、なんら学ぶところもありません。藤本さんの娘さんは、最初に『外罰』の一面を見せたが、藤本さんの一言で、『内罰的人間』に変わり、自分で失敗を学ぶようになりました。
これは仕事を教えるときも同様です。ある会社の話ですが、仕事も出来要領も良いが、何かというと口答えをしたり言い訳をしたり責任転嫁をして、上司に嫌われている社員がいました。歴代の上司はよく大声でやりあい、挙句、『とにかくいわれたとおりにやれ』といってけりをつけていました。
そこへ、新しくやってきた上司は、彼を呼んで其れまでの言い分を散々しゃべらせた。そのあと『じゃあ、どうしたらいいと思う』と逆に意見を求めたのです。彼のふてくされたような態度はなくなり、積極的に仕事をするようになったといいます。
言い訳や責任逃れに対しては、『では代案を出しなさい』といってみることです。い代案が出ればそれでいいし、出なければ出ないで本人も納得するはずです。其れを『言い訳するな』などと頭ごなしに叱ると反発のエネルギーが強化され、『外罰反応』がますます助長されてしまうのです。
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◇no-14 時には、『困った』とわざと弱みを見せよ。
だめな親には良い子が育つ、と、昔からよく言われます。必ずしもそうとはいえないが、こうした事例は少なくありません。つい最近も新聞の読書欄で、けんかが絶えず離婚してしまった親を反面教師に、むつまじい家庭を作って幸せに暮らしている女性の登校が紹介されていました。
親を反面教師に、という側面があるものの、これにはもう一つの心理的な側面があることも見逃せない。たとえば、ダスティン・ホフマン主演の映画『クレイマー・クレイマー』をおぼえているむきもあるでしょう。
妻に逃げられ父子の生活が始まったはいいですが、スクランブル・エッグすらうまく作れないホフマンの父親に対して、其れを慰め、寄り添う子供の、なんと健気だったことか。多くの女性の涙を誘ったあの子どもの健気さの裏に何があるのかを考えてみれば、私の言うもう一つの側面が見えてきます。其れは『私ががんばらねば』という思いです。
子どもにそんなおもいをさせていいのか、という是非論はとりあえずおくとして、この心理の動きは、子どもばかりか多くの人間に共通なメカニズムといっていいです。身近な人間の弱みやダメさを見せられると、人は『甘えていられない』とか『自分でやらなければ』と思ってしまいます。
いわば自立意欲がかきたてられる訳で、うまくすれば、人間を成長させる指導心理の方法として効果を見せてくれるものです。
部下に教えるのにこの心理を巧みに使い、経営者ともなればさすがだ、と思わせてくれたのは、ミサワホームの社長・三澤千代治氏です。三澤氏は、自らの経験に照らして『経営者は会社の欠点も、困っている話しもおおびらに社員の前にさらけだせ』といった意味のことを、ある雑誌で述べていました。『そのほうが『一肌ぬいでやろう』とがんばるし、また社外からも有能な人がはせ参じてくれる』というのですが、この人間心理を見抜いた考え方から、多くの有能な社員が育てられたと聞いております。
何も自分を無能とおとしめろ、というのではありません。要は、部下が潜在能力を発揮するキッカケを作ってやればいいわけですから、意図的に困った姿を演じて見せる気持でいいのです。『頼りにされている』と感じる部下の心理が』創意工夫を作り出していくことでしょう。
知人に、会議の進行役としては"名人"とまで言われる人がいます。この人はどちらかというと会議の進行ぶりもキレ者というイメージからは遠く、ときにもどかしささえ感じさせるのですが、にもかかわらず会議は、いつも不思議に活気に満ちた実りのあるものになって行くのです。彼の朴訥とした態度から、逆に『自分が発言しなければ……』といって出席者の参加意識が守り立てられる結果でしょう。が、そこにこそ彼の緻密な計算があるに違いないのです。
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◇no-15 ダメでもともとの困難な問題処理をわざと経験させてみよ。
実力が下の相手にはめっぽう強いが、同格かそれ以上の相手には、とたんに借りてきた猫のようになってしまう選手を、スポーツでは"下手ごなし"というのだそうです。つまり融通の利かないタイプといっていいです。
『この下手ごなしを鍛え上げるには、パワーのあるチーム、テクニックに長じたチーム、あるいは他流試合を心がけるしかない」というのは、高校サッカーでは知らぬもののない国見高校の監督・小嶺忠俊氏です。
技術を学んでいく効果ももちろんあるでしょうが、小嶺氏は"場慣れ"を防ぐ目的をその一つに加えています。慣れたグランドでは木や建物まで含んだ見取り図が選手の頭の中に出来てしまい、マニュアルどおりの練習しかしていないといいます。
『校舎の端を目にしたら、シュートはこの角度』という具合では"下手ごなし"の域から抜けられないというわけです。
小嶺流のこの指導理論を、スポーツの世界だけにとめておくことはありません。企業の中にも、ツボにはまれば強いが、苦手なものにはまったくダメな"下手ごなし"社員は少なくありません。マニュアルどおりの仕事しか出来ず、わずかな状況の変化に慌てふためいて、自分の力量にさう不安を感じ始めます。
状況に左右されやすいこうした人間の心理の特性は『場(フィールド)の心理』と呼ばれ、じつは多かれ少なかれ誰にもあるものです』このタイプを、タフで逆境に強い人間に育てなおすには、まずマニュアルに安住させない工夫が必要だということです。つまり小嶺式に他流試合をさせ、わざと揺さぶりをかけてみるのです。
違う部署の仕事を協力させたり、クレーム処理をさせてみます。あるいは違う業種の出来るだけ多くの会社を訪問させてみたり、というふうにするのですが、この方法は『場の心理』の特性からも理にかなっていて、あらゆる状況に部下が対応できるようになります。
住友生命保険は、社員全員を三年ごとに他の部署に人事異動させることで有名な会社ですが、この狙いを会長の千代賢治氏は『現場を知り、総合的に判断できる経験をつませる』ことにあると述べています。これなどはまさに"場慣れ"の弊害を熟知し、『場の心理』の特性を知らずしては出来ない決断ではないでしょうか。
ときには、"下手ごなし"社員に、困難な問題をわざと与えると効果てきです。ある意味では習わせるより慣れさせるほうが、互いの心理的負担も軽くてすみます。ダメでもともとだと思っていても、意外に経験が人間を臨機応変にしてくれるのです。
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◇no-16 どんな未熟な部下の提案でも、一度は興味を示せ。
新しい発想法を生み出すテクニックの一つに有名なブレーンストーミングという手法があります。これはアメリカのオズボーンが考案したもので、ご存知の方も大いに違いありません。
まず小集団のメンバーが与えられた課題に対して、思いつくままに出来るだけ多くのアイデアを出し、それらを組み合わせたり、改良したりして新しい発想を得ようというものです。この方法はあらゆる業種の企画会議などでよく使われています。
ある企業ではこの考え方を取り入れ、一般的に考えればとんでもない部を作ってしまったことがあります。名称は市場調査部というものですが、仕事の内容は朝から夕方、時には深夜まで街から街へ、新しい店が出来たと聞けば、回転時間に駆けつけ、次はこういうものがヒットしそうだと思えば其れを調査する、というのですが、端から見ていると朝から晩までただブラブラ歩いているだけのように見えるところから、「ブラブラ社員」と名づけられました。
これを最初に言い出した社員は、『机の前で何か新しい商品はないかと考えているだけではなく、街に出て、人を見、時節に合わせたものを観察しなければなりません。そのためには出勤時間やタイムカードに縛られていては進歩しない』と発言したそうです。
この企画を聞いた幹部は、何をバカなことを言ってるんだと思ったそうです。確かにこの部下の言っていることはわかるが、この企画を承認したりすると、他の社員の士気にかかわるというのです。しかし、この話を知った社長はすぐにこの社員を呼び、新しい部を作り、その社員に任せたそうです。おかげで彼が見つけてくる商品や新しい発想から新商品が次々に発売され、そのうちの一つは超ベストセラーになりました。
この話の中には、未熟と思われている部下の話しにも、興味を持って相談に乗ることで上司の度量の大きさが問われるとも言えるでしょう。どのような部下であれ、なんらかの企画というものを持っています。しかし、いくら発言の機会があってもそのたびに否定されていれば、やがてはあまりものを考えようとはしない受身の人間になります。
どんなに奇抜な提案、奇をてらったものであっても、一度は受け入れてやることで、部下は自分の発言に責任を持ち始めるし、さらに新しい発想が生まれる可能性もあります。「言いたいことを言わせてくれる」環境づくりが、『相手の言うことも聞こう』つまり仕事を教える環境づくりにつながるのはいうまでもないでしょう
世の中で大ヒット商品と呼ばれるものが売り出されるまでの陰には、必ず様々な中傷や批判が渦巻いていたはずです。其れを切り捨てなかったために会社もその社員も成長したという例はいくらでもあります。
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◇no-17 見込んでいるからこそ教えます。と、将来を考慮した教育であることを伝えよ。
教育の語源を探ってみますと、英語でもドイツ語でも『教育』という語源は、「かくれたものをあらわにする」とか『引き出す』というところからきていることがわかります。。
もって生まれた能力を発見して引き出す、さらに磨きをかけることが、ビジネスの場においても、研修や新人教育の主眼でしょう。誰も悪意を持ってものを教えたりするはずはないのですが、教わる側はそこまで思いをめぐらす余裕がありません。
人は、反面教師など特殊な例以外は、教えるがわに善意が見られない相手から教育されると、"押し付け"と感じ猛烈に反発します。
好意を持っているかいないかは、人間心理の中で一番重要な要素なのです。中傷や誹謗ばかりの人間からものを教わろうとする人は、おそらくいません。
しかし、教育の現場では、時にはきつく叱らなければならないこともあり、相手の能力以下の単純作業を命じなければならないこともあります。きれいごとばかりでの和気藹々で仕事を教えるわけには行きません。だからといって、説明もフォローもなしで厳しく教育されては、教えるものに対し部下は疑心暗鬼になってしまうでしょう。部下としても、何のために教えられているか"責任"のありかが不安なのです。
三菱電機元社長の高杉晋一氏は、三菱銀行時代に支店勤務を一見風采のあがらない当時の支店長・森川鑑太郎氏に出会ったときのことをいまだに良く覚えているそうです。挨拶に行くと『君は将来外国へも行くことでしょうし、三菱を背負って立つ人間になるのですから、いまから大きな志を持って仕事をし、大いに勉強してほしい』といわれ、その一言を支えとしてどんな仕事も喜んで引き受けたといいます。
学校生活で、好きな教師、きらいな教師によって得意な教科、不得意な教科が決まってしまったなどという体験をお持ちの方もあるでしょう。
相手に好意を持つ、あるいは相手から好意を持たれる影響は計り知れないものがあるが、高杉氏のように、ビジネスの場では、好意はもちろん将来的なことを考えての指導なのか否かが、教えられる側の受け入れ幅を大きく左右します。
『見込まれている』といわれれば、おのずと『やらなければ』という気になるものです。
仕事を教える立場にいると、つい忘れがちですが、『言わなくてもあいつはわかっているはずだ』が一番いけません。特に、"気弱なタイプ"に黙って叱っては、部下は、自分を過小評価し、不安を増大させるだけに終わってしまいます。
こうしたときは、『将来のために』を再確認させるように「見込みのないヤツは初めから叱らない』『叱られないようなヤツはダメだ』という言い方も時には必要でしょう。
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◇no-18 部下が知らないことでも教える前に『知っていると思うが』と前置きさせよ
人は、少しでも知っている話しを聞くと『また説教か』と心を閉ざしてしまいがちです。同じ話しをするにも、『君は知っていると思うが……』と前置きされると、身を乗り出す。
社会心理学者の堀川直義・成城大学教授が行った『尋問の心理』についての興味深い実験があります。まず、ベテラン刑事を被験者に『都電とトラックの衝突現場写真』を見せ、これを良く覚えてほしいと頼みます。つぎに、質問者が『都電の窓から顔を出していたのは何人か』『トラックから道路に落ちた荷物は二個か、三個か』などとたずねて行くのです。ところが、こんな情報は写真からは読み取れるはずがない質問なのです。結果は、このトリックを見破った人は誰もいないばかりか、『三人』とか『二個』など、見えもしない答えが出てきた。
この現場を堀川氏は,『誤前提暗示』と呼び、尋問の仕方しだいで自白の内容が左右されてしまうことを証明したのですが、このような現象がなぜ起こるのか。一つには、お互いの了解事項となっていることを否定することに、強い心理的抵抗が働くからだと私は考えています。
『知っていると思うが』という前置きは、このお互いの了解事項に近い働きをします。よほどのあまのじゃくでない限り、『知りません』と応えるには、ある種の抵抗があるはずです。もし、上司に面と向かってこう応えれば、了解という信頼状態に達していた関係が壊れてしまう恐れを感じるからです。このため、了解事項に対する疑問や反発などは封じこめて、いままでの信頼関係を壊さないような心理メカニズムが働くのです。
『知っていると思うが』というのは、"暗黙の了解"を求めるほかに、『お前の能力を高く買っているぞ』という意思表示にもなります。もし、本当に知っていることなら、こちらのレベルを正確につかんで話しをしようとしていると思い、真剣に聞こうとするでしょう。
もし、知らなければ上司の信頼を失ってはならない』という心理メカニズムが働き、居住まいを正して懸命に聞こうとするはずです。
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◇no-19 教えるときはまくし立てるより、"沈黙"を挟め。
名僧・良寛にこんなエピソードがあります。良寛の甥にあたる馬之助という男が放蕩無頼の生活を送っていたので、母親から説教してくれと頼まれた。良寛は三日三晩家に泊まったが、母親の期待に反して何もいいません。最後の最後、暇を告げる段になって、馬之助に『すまぬがわらじの紐を結んでくれ』といった。
馬之助がかがんで、紐を結んでいると、その襟元に涙が一粒落ちた。馬之助がハッとして見上げると、良寛がじっと見つめています。良寛そのまま無言のうちに立ち去った。が、馬之助が其れから心を改めたといいます。
この良寛の例が示すように"沈黙"はときとして"饒舌"よりもはるかに絶大な教育効果を生み出すことがあります。「ああしなさい、こうしなさい」と声高にまくしたてるよりも、何もいわずに突き放したほうが、教わる側はより多くのことを学ぶ場合があるということです。
この"沈黙効果"について、戦前右翼の大物の東山満がこんな話しを残しています。ある中学校で講演したときです。東山は演壇に上がり、一礼したあと、十分過ぎても、二十分過ぎても一言も話さなかった。会場の異常な雰囲気が頂点に達したとき、彼ははじめて口を開き、『諸君も、一生懸命勉強しないと、今日の私のようになりますぞ」と、はなしました。
沈黙というのは、人とのコミュニケーションを一方的に断つということです。断たれたほうは、なぜ何もいわれないのか一向にわからないので、だんだん不安になってきます。おじの良寛が訪ねてきたとき、馬之助は『これは何か言われるな』と思ったに違いありません。東山満を前にした生徒も同様です。それが何も言われないと、不安感から心の中まで波が立ちはじめます。良寛の涙や東山の一言が強いインパクトを持つのは、そういった感情の起伏が大きくなって、頂点に達したときに、投げ与えられたからです。
『下手な鉄砲も数打ちゃあたる』と言いますが、この場合、逆です。のべつまくなしに言葉を連発しても、相手は受け止めてくれないことが多いです。むしろ、ためにためた後で放った一粒の涙なり一言なりと言ったコミュニケーションの"弾丸"こそが、深く相手の心に突き刺ささります。
また、饒舌な言葉は、聴くものを受身にさせるという問題もあります。人が何事かを学ぶとき、他人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分の頭であれこれ考えたほうが、はるかに血肉になるものです。流暢に語られた説教は、相手に考える隙を与えません。
反対に、沈黙は、聞くものを受身のままで終わらせない。相手から何の話も出なければ、自分で"沈黙"から先の話を汲み取らねばならず、教わる者に必死に物事を考えさせる時間をもたらすのです。
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◇no-20 失敗を成功に結び付けるには、途中で責任追及せず、原因を考えさせよ。
出版界でベストセラー作りの神様と異名を取った故・神吉晴夫氏(元光文社社長)は、一見奇妙な方法で部下の心を自家薬籠中のものにした経営者でした。一言で言うと、細かいことにはやたらうるさいことを言うが、大きなことでは部下を叱りません。
細かいところにはうるさいほどこだわったこの経営者は、部下が大きな企画を立てて失敗したような場合には太っ腹を示して決して叱ったりせず、『いいと思った企画が、どうして失敗したのか、よく考えてみようじゃないか』と度量を見せたのだといいます。
「失敗は成功の母」などとい言われますが、失敗を一つの成果、とすでに終わってしまったものを捉えずに、評価の対象にしないことも必要でしょう。せっかく、立案し、実行したものが、なんらかの原因によって失敗しました。立案に問題があったのかもしれないし、実行部分で不手際や努力を欠いたのかもしれません。しかし、ここで思いっきり叱ったのでは、すべてを否定することにつながり、何も残りません。それよりも、良いところを残す冷静な分析が必要になってきます。
ただし、失敗を成功への一段階、"失敗は成功への"一里塚としてとらへ、その教訓を生かすには、あいまいな、部分を残さない追求が必要でしょう。ただしからないだけでは、身勝手なふるまいが身についてしまう恐れがあるからです。
失敗のつど叱られ、責任を追及されていると、人間は責任を回避するため、失敗だけを恐れるようになります。失敗さえ避けていれは、安泰という消極的な処世術が身につきます。これでは、ますます部下を無責任社員にしてしまうばかりか、なぜ失敗したのか原因を考えようともしなくなります。
原因がわかれば、次回の成功へも結び付けられるのですが、わからないままでは同じ失敗を繰り返すことになります。
また、失敗した本人は十分に反省していることが多いのです。ここへさらに叱って追い討ちをかけても、落ち込むだけで、なんらえるところがないどころか、これが、いずれは企業自体の競争力を低下させる原因になることはご存知のとおりです。
かくいう私にも失敗談があります。かつて箱根の友人の別荘に、数人で出かけたときのことです。あらかじめ、地元の電気屋さんにカラオケ用の立派なレーザーディスク装置を頼んでおいたところ、その電気屋さんが配線に失敗して、いざというときに装置がまったく使い物になりません。
せっかく楽しみが台無しになり、アルコールが入っていたことも手伝ってみんなでその電気屋さんをせめたのです。責任を感じた電気屋さんは、かわいそうなほどすっかり落ち込んでしまいました。失敗の追い打ちは、何も生み出さず、かえって相手の反感を強めるだけです。
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◇no-21 ときには『こんなことを言える立場ではないが……』
とへりくだってから教えてみよ。
もうなくなられましたが、某大手出版社にHという名物編集者がいました。そのH氏が昭和三十年代の初めに週刊誌を創刊したときの話しです。創刊前の企画会議で、部員の一人が連載エッセイの筆者に三島由紀夫の名前を挙げました。雑誌の性格からいって、おそらく断られるでしょうけれど、三島由紀夫なら最高だといいます。H氏は『よし、オレが頼んでみる』と言い出しました。部員が連絡すると、ともかく会ってくれるといいます。三島邸に乗り込んだH氏は主が現れると、最敬礼して開口一番こういった。『私は先生の作品を一つも読んでおりませんが、ぜひお願いしたいことがございまして……』これには、三島由紀夫もびっくりしたらしいが、大笑して『あなたみたいな正直な編集者に初めてあいました。何でもお引き受けしますよ』と応えたといいます。
H氏は最初の口上で信用されたのですが、その成果は心理メカニズムから説明できます。
たとえば、永年連れ添った奥さんに「あなたってステキね」といわれても、何か魂胆があるな、と思うくらいで、別に驚くこともない。ところが、初対面の美人に同じことをいわれたら、ドキッとします。つまり、同じ情報でも、与える人が違えば、受け止め方も違ってきます。
三島由紀夫に仕事を頼みにいく編集者なら、最低、作品の一つや二つは読んでいます。たとえ読んでいなくても、読んだ振りくらいはします。ところが、H氏は『何も読んでいません」と正直に白状して、三島由紀夫に信頼されました。つまり、編集者としての"役割期待"を裏切ることによってついに原稿依頼に成功したのです。
"役割期待"を裏切るという方法は、上司と部下の関係にも応用できます。上司が部下に何かを教えたり注意したりするときは、どうしても部下を見下ろすような態度になりやすいです。部下もまた、反発して"聞く耳"をもたなくなります。しかし、そのとき「あまりえらそうなことを言える立場じゃないんですが、」とでも一言、前置きします。
部下にすれば、当然、上司は偉そうに教えるものと"役割期待"をしています。ここでヘリ下って"役割期待"を裏切れば、謙虚なイメージが増幅されます。押し付けがましいイメージがなくなり、部下は素直に耳を傾けることができます。
また、上司に期待している"教えてくれる"という役割責任も上司がへりくだることによって、薄められてしまいます。その分、部下には"教わり、学ぶ"責任、自分で仕事をする責任が生まれてきます。部下としても、「オレに期待をかけてくれるなら、やってやろうじゃないか」と思うようになるわけです。