1597年 豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による一度目の朝鮮出兵(文禄の役)は、明国軍が朝鮮を援助して戦線が膠着し、飢饉のため兵糧が欠乏したため、講和交渉が行われたが、小西行長はなんとしても講和を結ぼうと策謀を用い、秀吉の意図が明国王にそのまま伝えられず、それを知って激怒した秀吉は再度遠征の命令をくだした。1596年(慶長元年)9月2日のことである。 翌1597年(慶長2年)に、日本は、再度、約14万の大軍で朝鮮へ攻め込んだ(朝鮮では「丁酉の再乱」、日本では「慶長の役」と呼ぶ。)。 今回は、朝鮮側の防備ができており、戦線は再び膠着し、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去して日本は撤退した。 この戦乱により、多くの人命が失われ、朝鮮の田畑が荒廃した。儒者や陶工・活字印刷などの技術者が日本に連れ去られ、一般の捕虜は奴隷として外国へ売り飛ばされた。 【会戦】 秀吉が再征の令をだした1596年(慶長元年)9月2日の時点で、朝鮮半島にとどまっていた軍は、釜山および加徳島にあった若干部隊にすぎなかった。それは、小西行長の策謀した講和交渉で全軍撤退という条件を満たすため、小西行長が諸将に撤兵を呼びかけていたことによる。 小西行長は講和交渉の策謀が明らかとなったとき、誅殺されるところをまぬがれたので、軍功により罪を償おうとして、1597年(慶長2年)1月、全軍の部署が定まる前に朝鮮半島へ渡ろうとすると、加藤清正もこれと先を争った。彼らは、慶尚道を攻撃している。 秀吉は、2月20日に諸将の部署を定め、総勢14万余人となった。 このとき、朝鮮の水軍では、元均が李舜臣の功をねたんで讒言し、李舜臣は投獄されていた。また、日本の水軍も、前回の反省から大艦をもってあたった。このため、7月15日の巨済島の戦いで朝鮮の水軍は全滅し、日本が完全に制海権を握った。 朝鮮半島に渡った部隊は、8月には全羅道を攻撃した。また、忠清道で明の軍隊と戦いこれも破ったが、漢城(現在のソウル)にはすでに明軍が入っていたため、近づき難かった。 朝鮮の水軍が、ふたたび李舜臣を起用すると、日本の水軍は敗北が続いた。 明軍の攻撃と、寒冷期が近づき兵糧に欠乏をきたしたため、日本軍は朝鮮半島南部へ移動した。 【撤兵】 翌1598年(慶長3年)3月になると、一部の軍に帰国が命じられ5月29日に撤兵した。 秀吉は、病により8月18日に死去したが、喪はしばらく伏せられ、朝鮮からの撤兵が行われた。8月25日、徳川家康と前田利家は、2人の使者を朝鮮半島に送り、諸将をして和を講じ、軍を撤収させることを命じた。 朝鮮の水軍は撤収する日本軍を襲撃したが、李舜臣の戦死によって襲撃はやんだ。 12月10日に最後の軍が日本に帰国した。 【参考ページ】 ![]() ![]() 【LINK】 朝鮮出兵 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 李舜臣 ![]() ![]() ![]() 朝鮮人陶工 ![]() 戦国時代の日本とヨーロッパの関係 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著、中公文庫、1974年 「地域からの世界史1 朝鮮」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 更新 2024/7/1 |