盧ドウ[金堂](ろどう)
対倭寇戦に活躍した武将の一人。福建・汝寧衛の世襲軍人の家の出身で、職を継いで福建都指揮僉事となった。嘉靖27年(1548には都御史朱ガンの命令で双嶼港攻撃戦の指揮を執り、福建から水軍を率いて双嶼港を壊滅させた。しかしその直後に朱ガンが弾劾を受けて自殺すると、盧ドウもまた罪を問われて死刑になりかけたが、幸い赦免され、福建で倭寇対策に従事することになる。

嘉靖32年(1554)から「大倭寇」が勃発すると福建の兵士たちを率いて浙江各地で連戦するが、倭寇側にも福建人が多く、しばしば配下の兵士の内通に悩まされた。嘉靖33年4月、盧ドウは兵と共に徽州商人の宿舎に泊まったが、そこで一人のショウ[シ章]州出身の兵士が銀の杯を盗んだため盧ドウはこれを斬罪に処して見せしめとした。しかし同郷の兵士達がこれを恨みんで倭寇側と内通し(こちらにもショウ州出身者が多かった)、示し合わせて戦場で盧ドウを罠にはめることにした。河を挟んでの孟家堰(孟宗堰)の戦いで盧ドウは罠にかかって敵兵に囲まれ、馬で渡河して命からがら逃げのびたが1400名以上の戦死者を出す大敗を喫することとなった。その後参将となり、王江の戦いに参加して大勝利している。

嘉靖34年9月、林碧川烏魯美他郎率いる倭寇集団が浙江台州方面を襲撃して沖合の島・大陳山に立てこもったところを、盧ドウは兵を率いて上陸し、林碧川・烏魯美他郎ら84人を生け捕りにする功績を挙げた。翌嘉靖35年には総督・胡宗賢と共に徐海集団の鎮圧にあたり、徐海の副将の日本人・辛五郎を計略をもって海上で捕縛した。

その後も長江北岸や河口の三沙など各地で転戦したが、弾劾を受けて職を奪われたりまた職に復帰したりと地位はなかなか落ち着かなかった。胡宗賢の信任を受け王直討伐に功績があったとしてて昇進したが、胡宗賢の失脚に巻き込まれてまたもや弾劾を受けることになる。それでも赦免されたあたりは意外に世渡りがうまかったのかもしれない。没年は不明だが、「明史・盧ドウ伝」は「盧ドウは将略があった。倭寇が始まったとき諸将はことごとく風を望んで敗走したが、盧ドウと湯克寛だけは敢然と戦った。名は兪(大猷)戚(継光)につぐ」と評してその功績を称えている。

主な資料
「明史」盧ドウ伝
「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」
「籌海図編」
「江南経略」

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