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2020年2月12日

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◆今年は75周年

  前回「史点」の中国ネタの最後のところで新型肺炎のことに触れたが、それから二週間以上、ニュースの大半がこの関連話題になってしまった、この騒動がいつまで続くのか分からないので「史点」的にはとりあげにくい。しばし様子見。

 去る1月27日は、ナチスがユダや人を大量に虐殺したことで有名な「アウシュビッツ強制収容所」がソ連軍によって解放されてから75周年にあたり、各国の要人や収容されていたユダヤ人の生存者などが参加して式典が開かれた。「アウシュビッツ強制収容所」はポーランド国内にあって、1945年の1月末にはソ連軍がここまで進撃していたことが分かる。このあと4月末にはベルリン攻撃となってヒトラーが自殺、5月に入ってドイツ降伏というスケジュールになる。
 ウン十周年ということで記念式典が行われることは多いが、間の5年ごとにもイベントがよく催される。10年に一度ではやや間が長すぎ、5年に一度くらいイベントをやって思い起こした方がいい、ということもあるのだろう。今年の5月9日にはロシアで戦勝75周年記念式典をやるそうで、安倍首相も出席の意向とか報じられてたけど、この人、不思議なほど「ウラジーミル」さんに愛想がいいよな。

 75年といえば人の一生分といってよく、アウシュビッツに収容されていた人のうち生存者もさすがに少なくなってきた。当時20代なら90代後半以上になってしまうもんな。生存者の多くは当時十代以下で、報道では解放直前に生まれたという人もいた。前にも書いたが、アンネ=フランクだってもう少し生きられていれば今も存命だった可能性があるのだ。

 そのアンネ=フランクの一家は迫害を逃れてドイツからオランダに移り、オランダがナチス・ドイツに占領されると隠れ家での生活を送った。結局この隠れ家を発見されて収容所へ送られてしまうのだが、隠れ家が見つけられてしまったのは近隣住民の密告によるものとも言われている。ナチスの占領下でその命令には逆らえなかったから…という事情もあるが、もともとユダヤ人差別はドイツの専売特許ではなくヨーロッパじゅうに存在するもので、ヨーロッパ各地でのナチスによるユダヤ人狩りに「協力的」だった役人や地元民がいたことも否定できないのだ。アンネを「オランダの歴史的人物」の上位に挙げているオランダ人だって、その点でいくらかうしろめたさもあるんじゃないかと思っている(なお、そのアンネを上位に選出した歴史人物投票の一位はちょうど暗殺された直後の極右政治家だったりした)

 アウシュビッツ解放75周年の前日、オランダのアムステルダムで催されたホロコースト追悼行事で、同国のマルク=ルッテ首相が演説し、「ナチスに抵抗した政府職員もいたが大多数は言われるままだった」と述べ、「我々の国に生存者が残っているうちにオランダ政府を代表して当時の政府の行為を謝罪する」tp発言した。これは70年以上も経ってのことであるが、オランダ首相が「ホロコーストについての自国政府の責任」を公式に認め、謝罪したものとして注目される。
 この件を報じた記事によると、ナチス占領以前のオランダには約14万人のユダヤ人が住んでいたが、大戦終結までにそのおよそ75%が生還できなかったという。生還した人たちに対しても扱いが悪かったようで、これについてはオランダ政府もすでに謝罪しているが、占領下でのユダヤ人狩りに協力したことについてはこれまで公式には謝罪していなかった。国内のユダヤ人団体が長らくそれを求めていて、今回のルッテ首相の発言はそれにようやく応えたものだ。

 ルッテ首相はあくまでナチスへの積極的協力とはしていないが、「ホロコーストという極悪行為」に対してオランダ国民がしたことはあまりに少なく、「ユダヤ人を十分に保護せず、助けず、認識しなかった」ということについて謝罪をしている。それは間違いなくそうだろうけど、なぜ今頃、という気もしてくる。ルッテ首相も言うように「生存者がいるうちに」ということもあるだろうが、ホロコースト否定の言説やユダヤ人や移民を排斥しようとする右翼的な動きはオランダのみならずヨーロッパ各国で近年また目立っていていることへの警鐘の意味もありそう。また、大戦後の「ヨーロッパ統一」の理想を掲げたEUからイギリスが離脱するという事態もそうした動きと根底でつながっている、という意識もありそうな気がする。

 ナチスを生んだ当事者であるドイツの元首・シュタインマイヤー大統領も、アウシュビッツ解放75周年に合わせて、イスラエルのホロコースト記念館やドイツ連邦議会で演説し、「人類史上最悪の犯罪が我が国の人々によって行われた」と繰り返し明言して、ドイツ国民の背負う歴史的責任を明確にした。ドイツでは以前から大統領や首相がそうした発言を行っているけど、これはかなり踏み込んだ表現ではないかという専門家の意見も見かけた。ドイツ国内でも一部で極右勢力の台頭がみられる話は以前書いたが、そうした状況を念頭に大統領といても警鐘を鳴らしておく気持ちがあるのかもしれない。


 75年ではなく78年となるのだが、ロシアではあの「スターリングラードの戦い」のために生き別れとなっていた姉妹が今年1月に78年ぶりに再会を果たした、という話題もあった。
 この姉妹は、姉のロザリナ=ハリトノワさん)94と妹のユリア=ハリトノワさん(92)。スターリングラードの戦いが起こった1942年当時、この二人は16歳と14歳だったことになる。二人とも両親と一緒に暮らしていたが、戦いが始まるとロザリナさんは働いていた工場の同僚と共に1400キロ離れた工業都市チェリャビンスクへ、ユリアさんの方は母親と共に500キロ離れたペンザへとそれぞれ避難して、その後の混乱もあってか完全に連絡が取れないまま生き別れとなってしまった。
 70年以上もなんとか消息がつかめないものなのか、とこちらは思ってしまうが、そこはロシアも広大だし、ソ連時代にはいろいろ事情もあったのだろう。ソ連崩壊後のことではないかと思うのだが、姉のロザリナさんは一度テレビ番組に出て妹探しをしたことがあったが、その時は見つからなかったという。そして最近になって妹のユリアさんの娘がロザリナさんの捜索願を警察に出し、警察がロザリナさんの以前のテレビ出演を突き止めて連絡を取ることに成功。先月チェリャビンスクでめでたく姉妹は78年ぶりの再会を果たしたのだった。
 うーん、長生きはするものだ、と思うと同時に、第二次大戦もそんなに昔のことではないことも思い知らされる。しかし当時を生きてる人が確実に少なくなって行く中で「記憶」が継承されるかどうか怪しくなってきてるのも確かだ。



◆聖書に出て来る人の墓 

 「ヘロデ大王の墓発見!」
 …という報道を見て、「おお、あの人か!」とキリスト教徒でもない僕でもちょっと心が躍ってしまった。キリスト教徒ならほぼみんな知ってる名前なんじゃないかと思う。僕は昨年たまたま映画「奇跡の丘」(原題は「マタイによる福音書」)を見ていたので、よけいに「ヘロデ王」のイメージがわきやすかった。
 
 ヘロデ大王というのは、紀元前1世紀にユダヤ人の王となった実在の人物。ユダヤ人の王といっても当時ユダヤ人はローマ帝国の支配下に入っていて、そのローマ帝国から「王」に任命されたのがヘロデ、ということである。だから王には違いないが実質的には帝国内の民族自治区の長といったところだ。「大王」という呼び名も別に凄いことをしたわけではなく、息子に同じ名前がいるから区別のために呼ばれてるだけ。それでもヘロデはローマの支配を従順に受け入れつつ、、ユダヤ人にとって重要なエルサレムの神殿を大規模に改築、港湾を整備するなどユダヤ人の王としてなかなかやり手だったと考えられている。
 だがキリスト教徒にとってヘロデ大王の所業として一番印象的なのは「幼児の大量虐殺」だ。新約聖書の「マタイによる福音書」によると、ベツレヘムの馬小屋でイエスが生まれた直後に、星に導かれた「東方三博士」がイエスのもとを訪れたが、そのあとに彼らはヘロデに面会してイエスのことを「新しい王になる」と語った。ヘロデはその赤子が自分にとってかわるのではと恐れ、命令を下して2歳以下の男児を全て殺させたが、イエスの両親マリアヨセフにはお告げがあり、エジプトに逃れて命を拾った、という話になっている。

 この幼児の大量殺害はひどい話なのでよく知られているが、史実かというとかなり怪しい。なぜかといえばこの話は新約聖書の中でも「マタイによる福音書」にしか記されておらず、同時期を扱う他の福音書、さらにはヘロデ王の事績を伝える史料類にも一切出てこない。普通に考えればイエスの生誕を神秘化する意図で作られたフィクションということになる。ただヘロデがその晩年、後継者をめぐる問題で妻や息子たちをはじめ多くの人を処刑している事実はあり、それがこのフィクションに反映しているかも、ということは言えそうだ。
 なおヘロデ王は紀元前4年に死去している。現在世界的に使われている西暦の「元年」は本来イエスの誕生年として定められたものだが、この逸話の真偽はともかくイエス誕生時にヘロデはまだ存命だった可能性は高いんじゃないかということで、イエスの誕生年を「紀元前4年?」とするようになっている。

 2月8日にイスラエルのヘブライ大学考古学研究所は「ヘロデ大王の墓発見」と発表したが、それはヨルダン川西岸ベツレヘムの近郊にある、「ヘロディウム」と呼ばれる宮殿遺構の北東斜面で見つかったという。「ヘロディウム」という名前が示すようにここはヘロデが建設した人工の山・要塞のようなもので、史料的にもヘロデはここに埋葬されたとちゃんと伝えられていた。ヘブライ大学の考古研は1970年代からこの地を発掘調査していて、それで今になって見つかった…ということかと思ったら実は2007年にも「墓発見!」と発表、それなりに大きく報じられたことがあたのだった。結局その時は決定打に欠けるということでひとまず話が流れたらしく、それから十年以上経って「今度こそ」と発表したもののようで。

 今回は石棺の破片などが見つかったということだが、報道によると厳密に言えばまだ決定打は見つかってない。「ヘロデの墓」と明記した石碑などがあったわけではなく、発見場所や出土品の性質などから発掘にあたっている教授らが「間違いない」と判断したとのことで、ちょっとまだ危なっかしさも感じてしまう。興味深いのはその石棺が破片の形で見つかっている点で、これについて発掘にあたっている教授は、ユダヤ人がローマ帝国に抵抗した「ユダヤ戦争」(66
ー73年)の際に破壊されたのではと推測している。墓の主がヘロデ大王かどうかはともかく、死後もなかなか安らかには眠らせてもらえなかったようだ。



◆前国王の落としだね

 「前国王」といえば、日本では昨年代替わりがあり、今月は令和最初の「天皇誕生日」がやってくる(去年はそれ自体がなかった)。退位したばかりの上皇も先日一時意識不明になったりした騒ぎもあったから、確かにお年はお年、80代になったら君主としての公務などやってられないというのが実態なのだろう。この記事の主役であるベルギーの前国王アルベール2世も日本の上皇とほぼ同世代(一つ年下)で2013年に生前退位をしている。これも上皇の生前退位にいくらか影響を与えてるかもしれない。
 …という「お年だね」という話ではなく、「落としだね」の話題である。そのアルベール2世にはかねてより「落としだね」別名「隠し子」がいるとの疑惑があったのだが、ついにそれが「事実」と認定されたのだ。

 1960年代、アルベール2世は妃も子もいる身で、当時こちらも人妻だった女男爵シベル=ド=セイル=ロンシャンと公然の愛人関係にあり、1968年にこのシベルが娘デルフィーヌ=ボエルを産むが、これはシベルの夫ジャック=ボエルの子ではなく国王アルベール2世が父親だ、とはずっとささやかれていた(なおシベルさんは78年に離婚、のちに別の男性と資産家している)。しかしアルベール2世は断固として認めず、やがてアーティストになったデルフィーヌさんを呼びつけて「お前は私の子ではない」と直接言い渡したりしたそうだが、それがかえって火に油を注ぎデルフィーヌさんは認知を求める訴訟を1999年に起こしている。それから20年も経つわけだが、2018年に裁判所は最終的決着方法としてDNA鑑定を命じたのだ。

 前国王は当初DNA鑑定を断固拒否した。しかし昨年5月に「鑑定を受け入れないと一日5000ユーロ(約60万円)の罰金」と命じられたため渋々応じた。その結果が1月末に出て、デルフィーヌさんと法的な父親であるジャック=ボエル氏からとったサンプルの鑑定で、二人の親子関係は完全に否定された。それで裁判所は「そうなると前国王が実の父親と推測される」と結論した(と報じられているのだが前国王のサンプルは採らなかったのかな?)
 この結果を受けて、さすがにアルベール2世前国王は観念し、デルフィーヌさんを自分の子と認知することを弁護士を通して声明した。ただしデルフィーヌさんの生活や人生の決定などに父親として関与することは一切なかったとも明言している。この認知によりデルフィーヌさんは前国王の第4子ということになるのだが、さすがに王位継承権は認められない。

 「アルベール2世」といえば、現モナコ大公、あのグレース=ケリーの息子さんもアルベール2世で、偶然にもこちらにも隠し子、というか「非嫡出子」がいる。独身時代のことなのでそれほど問題にはされてないけど、二人もお子さんがいて、こちらも継承権は認められていない。世が世ならお家騒動、というより日本での「天一坊事件」みたいなことになりかねないけど、今さらねぇ。

 ヨーロッパの王族話が出たついでに、昨年取りこぼした話題を。
 昨年の10月に、「ナポレオンの子孫とハプスブルグ家の子孫が結婚式」という報道があった。「え?ナポレオンの子孫なんて残ってたっけ?」と思って確認してみたら、ナポレオン1世の直接の子孫ではなく、彼の弟の子孫で現在はこの系統がボナパルト家の「家長」を務めている。昨年結婚したのがその系統で「ナポレオン7世」とも「8世」とも呼ばれる(ややこしいことに実父と家長の地位を争っているため)ジャン=クリストフ=ナポレオン=ボナパルトさん(33)。ボナパルト家の血はもちろん母方はブルボン家のご出身という凄い組み合わせ。その花嫁になったオリンピア=フォン=ウント=ツー=アルコ=ツィンネベルクさん(31)の方は母方の先祖がハプスブルグ家オーストリア帝国皇帝につながり、イタリア王家の血も引き、父方ではバイエルン王家の系統という、まぁとんでもないお家柄である。まぁヨーロッパの王族や貴族は家柄での婚姻が多いから、めぐりめぐってこういうことになってしまうもので、新郎新婦ともに遠い親戚関係でもあったりした。この組み合わせに、かつてナポレオン1世とハプスブルグ家のマリー=ルイーズとの結婚の再来、との声もあったとか。今の時代じゃさすがにヨーロッパ政界に影響はそんなにないとは思うけどね。
 


◆最古の漢字使用例?

 昨年のうちから、弥生時代の石器でそれまで「砥石(といし)」と見られていたものが実は「硯(すずり)」ではないのか、とみる事例がいくつか聞こえてきた。「すずり」ということは当然墨を使い、その墨で文字を書いたということになり、そうした「すずり」の表面に墨の痕跡が見つかって、それが文字、つまり漢字ではないかとする意見も出ていた。ただそんなにハッキリ見えるものではないので慎重論もあり、僕も「史点」ネタとしてはスルーしていたのだが、今回は四つ目のネタがなかったこと(笑)と、少し具体的な話になってきたかな、という感もあるので採り上げてみた。

 2月1日、福岡県の研究グループが、松江市の環濠集落遺跡「田和山遺跡」(弥生中期=紀元前後)で出土した8センチほどの石製品について、その材質や中央がこすられてくぼんでいることなどから「国産のすずり」であると判断し、さらにその裏側の真ん中に黒っぽい二つの「文様」が漢字二文字である可能性が高い、と発表した(ああ、長い文章だ)。漢字であるかどうかの判定は京都大学の中国考古学・中国古代史の専門家に依頼していて、漢代の「隷書」に似た字体で、はっきりと読み取れるものではないが、上の文字が「子」、下の文字が「戌」の可能性がある、との判断が出されたのでこのたびの発表に至った、ということのようだ。

 テレビでその「文字」の部分を拡大して映してくれていたが、うーーーーーん…これはなかなかキビシイ。そう言われればそう見えるし、そうじゃないと思えばそうじゃなくも見える。「子」「戌」の二字だと熟語にはならないが、どちらも干支を現す文字なので何らかの意味を持ってそれを書いたのかもしれない。あるいは単なる落書きか、年賀状の練習でもしていたのか(笑)。それにしても「すずり」の裏に書いてることはない気もするなぁ。分析にあたった専門家は「人名の可能性もある。そうだとすると物の私有意識の表れかも、とまで言っていた。
 地元の松江市埋蔵文化財調査室の方は慎重姿勢。福岡の研究グループの結論を受けて赤外線撮影を試みたが、特にはっきりと映ったものはなく、墨書ではなく「単なるよごれ」の可能性もあると。確かに勇み足は禁物だ。

 これまで日本における漢字使用例は、はっきりしてるものでは古墳時代の鉄剣に刻まれたものが一番古い。だがそれに先立つ弥生時代の土器に漢字らしきものが書かれている例がいくつか確認されていて、使用は2〜3世紀ぐらいまでさかのぼるだろうという推理はあった。そもそも3世紀にはあの「邪馬台国」が存在し、中国と外交を行っているのだから、ある程度漢字は使えたとみるのが自然。邪馬台国のことを記した「魏志」の記述でも文書を担当する部署らしきものがあったことも書かれている。

 今回の例は紀元前後と推定されるので、それより200年はさかのぼる現時点で最古の例となる。時期的にはあの金印で知られる「倭の奴国」の時代が近い。あの奴国だって漢と交渉をしたのだから少しは漢字が扱えても不思議ではない(漢字がわかんないと金印に刻まれてる文字の意味もわからん)。そのころには朝鮮半島などとの交易などで漢字使用が始まっていたのではないかとする説もある。だから今回の「すずり」に残っていたものが文字ではなかったとしても、使用していた可能性自体は高いと思う。
 さらに想像をたくましくすれば、こうした環濠集落の住民自体がみんな「渡来人」で、漢字を使う人たちだった、って可能性もあるんじゃなかろうか。


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