ニュースな史点2020年4月23日
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◆でっか岩!
ここ三か月ばかり、内外のニュースはみんな新型コロナウイルス関連ばかり。そりゃまぁ歴史的に大変な事態には違いないのだが、ニュースがそれ一色になってしまうと、「史点」的にはものすごく困るんである。今回もコロナ関連の記事を最後に書いてはいるけど、正直なところこちらも食傷気味で、なんとかコロナ以外の話題を探して「史点」記事にしてみようと思った。しかし、なかなか素材が集まらないんだよなぁ。そんな中からいくつか話題を。
京都市上京区の、かつて室町幕府の将軍邸「花の御所」の敷地の一部だった場所から、巨大な八つの石や池の跡などが発掘されたと、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。八つの石は直径が95cmのものから2m以上にも及ぶものまであり、最大のものは推定重量9.8トンもあったとのこと。「花の御所」内の庭園を飾るために運びこまれたものと思われ、八つのうち七つは近接して見つかったことから滝をイメージしたものであり、水が流れた形跡がないことから「枯山水」のような水を使わずに滝を表現する「枯れ滝」だったのでは、と推測されるという。
「花の御所」を最初に作ったのは三代将軍・足利義満だ。義満がまだ少年で、管領の細川頼之の補佐を受けていた段階で建造が始まり、当時の京都市街の北のはずれに当たる地区に約7800坪の広大な御所が作られた。庭に多くの花を植えたことから「花の御所」の異名がついたと言われ、また正門が「室町通」に面していたことからこの御所を「室町殿」「室町第」と呼ぶようになり、「室町殿」は足利将軍の代名詞にもなって、後年この武家政府のことを「室町幕府」、その統治時代を「室町時代」と呼ぶことにつながってゆく。義満時代の事情については当サイトの仮想大河ドラマ、その名も「室町太平記」で語ってるので興味のある方はそちらを、と宣伝(笑)。
埋蔵文化財研究所の発表によれば問題の石の周囲から15世紀の土器が出土したそうで、そこからこの巨大な石が運びこまれたのは八代将軍・足利義政の時である可能性が高いと判断されたようだ。足利義政といえば応仁の乱の原因を作ってしまい、結果的に室町幕府の衰退をもたらした暗君みたいに扱われる人だが、政治向きはおいといて文化人、文化のパトロンとしてはかなりの人で、その風流ぶりは北宋の徽宗皇帝に例えられることもある(徽宗は侵攻してきた金に拉致されて北方で死んじゃったんだけど)。義政はその晩年に京都・東山に別荘・銀閣を建設し、彼の時代の渋め和風文化を「東山文化」と呼ぶ、というのは中学レベルの歴史で習う基本事項だ。
この義政の時に巨大な石を運び込んで庭に配置した、というのは確かにありそうな話で。庭園に巨大な石を配置して人工の自然を作り、それを眺めて楽しむ義政、というのは伝えられるイメージそのまんまだ。
その後、応仁の乱以後のいくつかの戦火で「花の御所」も何度か焼失しては再建を繰り返した。だが第13代将軍・足利義輝の時についに「花の御所」は放棄される。現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」(コロナ禍で撮影ストップ、無事に放送続くのか?)にも義輝が出て来るが、あれはそんなころの話なんですな。この義輝は暗殺という最期を遂げ、そのあとあのドラマの主役明智光秀が義輝の弟・足利義昭を織田信長に紹介、義昭を将軍に担ぎ出すことになるが、御存じのようにこの義昭が室町幕府最後の将軍になってしまう。
「花の御所の跡地はその後公家たちの屋敷に転用されたが、今回発見された巨大な石はどけるのも大変なのでそのまま埋めちゃっていたらしい。逆に言えばこうした巨石を運びこめるくらい義政時代の室町将軍は権力が強かった、ということにもなるんだろう。
今回の発掘は、よくあるパターンでビルの新築工事にともなって行われたもの。今回の発見を受けて遺構を残す形にビルの設計を変更するとのこと。さすがに金閣と違って「花の御所」の再建って話は出ないようだな。
◆ヒトが食った話
食べ物、料理といったものは当たり前だが作った直後に食べられてしまうので、後世に残されるケースはめったにない。だいぶ前に「史点」で取り上げた例では、日本の戦国時代の「おにぎり」が戦闘による火災のために食われないうちに炭化し、400年以上経ってから発見されたというものがある。
3月末に南アフリカの洞窟で「17万年前の焼き芋」が発見されたとの報道があって、これがどうも人類最古の「調理」の証拠だという話になっていて、読んだ僕はまず上記の「おにぎり」のことを連想した。この南アフリカのケースも「焼き芋」で炭化し、同時に何らかの理由で食べられずに済んだ(焼きすぎて焦げちゃったかな?)ために奇跡的に今日に残ったものだ。
「焼き芋」と記事には書かれていたが、記事によると「Hypoxis angustifolia」なる植物の根茎を焼いたものらしい。これはどういう植物なのかググって見るとどうやら「コキンバイザサ科」というあまり聞きなれない分類の植物で、日本でも生えてるみたい。記事によるとこの根茎は炭水化物が多くて生でも食べられるが、焼いて食べればなお美味しいのであろう、という話。洞窟で見つかったところをみると、誰かが根茎をいくつも採集してきて洞窟に持ち帰り、家族で焼いて食べた、という光景が想像できるようだ。
それにしても17万年前である。この「焼き芋」を食べたのは恐らくは現生人類なのだろうが、まだ「出アフリカ」をする前の段階で、最近の説では現生人類といっても現代人と同じような認知・認識の革新がまだ起こしておらず、地球上を征服するなど想像もつかない段階だったと思われる。
我々現生人類より先に「出アフリカ」して中東やヨーロッパに広がったのがネアンデルタール人。近年ネアンデルタール人のイメージは様々な発見によりどんどん塗り替えられているが、ここ一か月の間にもあいついでその手の話題が報じられた。
雑誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された論文で、フランスの遺跡から発見された6センチほどの薄い石器に、何かの繊維がほんの6ミリだけくっついているのが確認されたと発表された。この繊維は樹木の内部樹皮から採取したものと推測され、それをより合わせて「縄」のようにし、石器に巻き付けて使用(手に持ちやすくするなど)、あるいはネット・バッグのようなものに石器を入れて運んでいたのでは、と研究チームは推理しているとのこと。重大なのはこの「縄」の断片の年代が5万2000年〜4万1000年前のものと推定され、そのころだとネアンデルタール人が利用した可能性が高い、という点だ。
「縄」のような繊維品は食べ物同様に後世に残りにくく、人類がいつから「縄」のようなものを使ったのか推定は難しい。これまで最古の出土例はイスラエルで見つかったおよそ1万9000年前のものと推定される繊維の断片で、今回の発見はその最古記録を一気にさかのぼらせた。さらにはそれを作ったのがネアンデルタール人であり、彼らが「縄」の素材となる樹皮の採取時期を把握し、いくつもの繊維をより合わせる数学的思考も備わっていた可能性があると論文では言ってるらしい。最近ではネアンデルタール人が「絵」らしきものを描いていたとの見解も出ていたし、現生人類と「賢さ」ではあまり変わらなかったのでは、との説がよく聞こえるようになってきている。それは現生人類に一部ネアンデルタール人の遺伝子が含まれていて、彼らの「子孫」であることが判明してきたからかもしれない。
ネアンデルタール人の「賢さ」に関わる論文は同時期に「サイエンス」誌にも掲載された。ポルトガルの海岸近くの洞窟にある10万6000年〜8万6000年前のネアンデルタール人の遺跡を調査したところ、ムール貝やカササガイを含む大規模な堆積遺物(つまり貝塚)が確認された、というのだ。
ネアンデルタール人だって海のそばに住んでいれば貝ぐらい食べるだろ、と思ってしまったが、どうも記事によるとこれまでネアンデルタール人が海産物を食していた明確な証拠は見つかっていなかったらしいのだ。今回の洞窟では大規模な構造物といて「貝塚」ができていたので、かなりの長期間、日常的に彼らが貝などの海産物を採取して食べていたということになり、これはこれまで想像されてきたネアンデルタール人の生活を書き換えてしまう発見らしい。また彼らが生きていた当時この洞窟は海岸から2キロほど離れていたといい、彼らが大量の貝を洞窟まで何らかの方法(そこには先ほどの「縄」の利用も含まれる)で運んでいた、ということも想像され、やはりネアンデルタール人が思いのほか「賢い」、そもそも現生人類と差がなかったのでは、という話になってくる、というのだ。
僕が読んだ記事によると、これまでアフリカでは現生人類が海産物を食べた痕跡は見つかっていたが、ネアンデルタール人についてははっきりしたものは見つかっていなかったらしい。そのため、現生人類が「知恵」を発達させたのはもしかして海産物を摂取して脂肪酸を多く得ていたためでは、という仮説もあったという。ひところスーパーの魚売り場で流れていた「さかな、さかな、さかな、魚を食べると〜あたま、あたま、あたま、頭がよくなる〜♪」という頭の悪い歌を思い出してしまったが(笑)、今回の発見によりネアンデルタール人も海産物食ってて賢くなってた、あるいは賢さに海産物摂取は特に関係ない、という話になる。
…とまぁ、こういうふうに近年ではますます「ネアンデルタール人は現生人類並みかそう変わらないくらい賢い」という話が続いていてるのだが、ではなぜその彼らが数万年前に現生人類に追われる形で絶滅してしまったのか、という問題がある。頭脳だけでなく体格的にも彼らの方がガタイがよかったという話もあるわけで。
世界的ベストセラーになったユヴァル=ノア=ハラリの『サピエンス全史』の受け売りだが、現生人類はいつからか「架空のもの」「そこにいないもの」を想像し、語ることができるという「認知革命」を起こしていて、これが彼らに大集団で結束することを可能にし、それでネアンデルタール人に勝ったという仮説がある。例えば今日でもそうだが現生人類は「宗教」だの「民族」だの「国家」だの、あるいは「企業」だのといった、本来は実体のないものを想像し構築して大集団に結束することができる。ネアンデルタール人には賢かったけどそうした「架空のもの」を構想することが出来ず、大集団を形成できなかったために現生人類に敗れた、と簡単にいうとそういう仮説だ。この話を読んだとき、僕はパリディSF映画の傑作「ギャラクシークエスト」で出てくる、「ウソを理解できない宇宙人」(そのために地球のSFドラマを真実と思い込む)の設定を連想してしまったものだが、言われて見るとなるほどと思うところはある。まさに「ウソツキは人間の始まり」だったのだ。
◆「建国の父」暗殺者の処刑
4月12日、バングラデシュでアブドゥル=マジッドという75歳の元大尉の死刑が執行された(なおこの名前を検索すると、かなりありふれた名前のようで同名の人がやたら出て来る)。彼が逮捕されたのは4月7日のことで、なんと5日後のスピード処刑である。裁判とか、いろいろあるはずじゃないの、と思う方もいようが、実は裁判の方はとうの昔に済んでいて、彼の死刑判決は2009年に同国の最高裁で確定していたのである。この元大尉、長年国外に逃亡していて、その間に欠席裁判により死刑が決まっていたわけ。それがつい先日、何があったか知らないがひょっこり戻って来ていて、首都ダッカ市内で人力車(日本語由来で「リキシャ」という)に乗っているところを発見され逮捕されてしまった。死刑への手続きはとっくに済んでいるというわけでのスピード処刑となったのだが、年齢も考えるとちょっと哀れも催してしまう。
で、この元大尉は何をやったのかというと、1975年、つまり45年も前のことだが、当時のバングラデシュ首相で「建国の父」とも呼ばれるムジブル=ラフマンをクーデターにより殺害しているのだ。クーデターであるからこの暗殺には多くの軍人が関与していて、死刑判決を受けた者も十数人はいるそうだ。
ここでバングラデシュという国の現代史を簡単に。
まず広い意味でのインド、現在のインド・パキスタン・バングラデシュはいずれもイギリス植民地「インド帝国」としてひとまとめに統治されていた。第二次世界大戦後にイギリスからの独立が実現するが、この際にヒンドゥー教徒多数地域がインドに、イスラム教徒多数地域であったインドの東西の地域が「パキスタン」になり、現在のバングラデシは「東パキスタン」と呼ばれることになった。しかしこの「パキスタン」は間にインドをはさんで距離が離れている上に同じイスラム教徒といっても文化や言語はかなり異なり、やがて主導権争いを始めて分裂戦争を起こしてしまう。そして1971年にインドが東パキスタンを支援して印パ戦争に勝利、これを機に東パキスタンは「バングラデシュ」として独立国家となった。
この新生バングラデシュの初代首相となったのが、ムジブル=ラフマンだ。このため彼は「建国の父」とされるのだが、独立後の民族紛争、災害などで混乱が続き、4年後の1975年8月にクーデターが起こり、ムジブルは殺害されてしまう。今回の元大尉の「犯行」」はこの時の話なのだ。その後、1977年からはジアウル=ラフマン少将が大統領となったがこれもまた1981年にクーデターにより殺害されてしまう。なおムジブルの長女で現在バングラデシュ首相となっているシェイク=ハシナ(父暗殺のクーデター時はイギリス留学中で命を拾った)はこのジアウルこそが父暗殺の黒幕だと長年主張していたそうだが、ジアウルの未亡人らから否定されてるとのこと。
その後も軍政が続いたが1990年代に入るとようやく民主化が実現、紆余曲折の末に1996年にハシナは首相に就任、政権を握ることになる(この人の経歴見てると隣国のアウンサン=スーチーとか、インド文化圏の女性指導者の共通パターンがかなり見られるな)。これにより、それまで罪に問われなかったムジブル殺害犯たちへの追及が始まり、今回処刑された元大尉をはじめとする容疑者たちは国外へ逃亡した。1998年に当人たち欠席のまま下級裁判所で死刑判決が出されている。ハシナはその後いったん下野するが2008年の選挙に勝利して2009年に首相に復帰、その年に最高裁で死刑判決が確定してるというのも、やっぱり政権と連動してるんだろうなぁ。
法的手続きに特に問題はないのだろうが、この元大尉のスピード処刑はやはり現首相の「父の仇」だからだろうなぁ。ダッカ市内をなぜノコノコうろついていたのかというのも不思議だが、20年以上も亡命してる彼を「あいつだ!」と即気づいたというのも不自然で、やはり密告のたぐいがあったんじゃなかろうか。
◆神も仏も…
ほんと、連日「新型コロナ」のニュースばかりで、こちらも食傷気味なのだが、パンデミックの例としても世界史的事件になってきてる状況を無視もできない。ここは「史点」的に新型コロナパンデミックと世界各地の宗教関係で一本書いてみよう。
イタリアで感染が拡大、高齢者を中心に多くの死者が出てしまったが、この際にカトリック聖職者にも感染が拡大して多くの犠牲者が出ていた。そう、カトリックでは臨終にあたって聖職者が信者の体に油を塗ったりする儀式があり、それによって接触→感染というパターンが多発してしまったのだ。そのうちに死者が続出して葬儀もあげられない状況になり(スペインなどでも人が集まるのを防ぐために葬儀禁止令が出ていた)、教会(?)にズラッと並べられた棺に聖職者が歩きながら次々申し訳程度に十字架を振って祈りをささげる「流れ作業方式」をやってるのをテレビで見た。
エルサレムにある「聖墳墓教会」はイエス=キリストの墓があるキリスト教徒の聖地として有名だが、ここも新型コロナパンデミックを受けて閉鎖となった。これ以前にこの教会が閉鎖されたのもパンデミックが原因で、なんと1349円、あのペスト大流行の時だったというから、まさに「歴史的」な事件なのだ。
同じエルサレムの中心部には、ユダヤ教の「超正統派」と呼ばれる人たちが住んでいる。ひとくちにユダヤ教といってもピンからキリまであるのだが、この「超正統派」は文字通りの敬虔というか頑固というか、とことん旧約聖書以来の信仰を中心に生きている人たちで、イスラエル建国の時に彼らの支持を得ようとした政府から兵役免除や免税などの特権を認められ、宗教指導者のもとで神学・信仰中心の生活を送っているという。「昔ながら」の信仰生活を守るためにテレビやラジオ、インターネットや携帯電話も使用が制限されているといい(この辺はアメリカのアーミッシュを連想するな)、言語もイスラエル公用語のヘブライ語ではなくドイツ語系のイディッシュ語(アユケナージ系ユダヤ人が多く使用する)を話すので、イスラエルの中でも孤立した集団になっているらしい。
で、この超正統派で多くの新型コロナ感染者が出てしまい、結局はイスラエル全土で都市封鎖が行われる事態に至ってしまった。この超正統派の人々は都市部の一画(いわゆる貧民街が多いらしい)に密集して住む傾向があり、しかも家父長的な大家族が狭い住居に一緒に住んでいるため、「ステイホーム」であろうが人の密集状態になって感染の温床を作ってしまった。しかも宗教指導者が集団での礼拝などを政府の注意を無視して実行したため余計に感染を拡大させてしまう。さらにさらに、上記のようにテレビやネットも見ないから情報に疎く、周囲からも孤立してるから感染に関する情報が得られかった、という指摘もある。こも「超正統派」との関係は分からないがイスラエルの宗教保守政党の指導者が「新型コロナは同性愛者に対する神罰」などと発言したら当人が感染しちゃった、というケースもあったようで。
今度の件で疑問を抱いたのか、超正統派をやめる若者も次々現れている、というニュースも流れていた。まぁそういう人はもともとある程度疑問は持っていて、今度のことが飛び出すきっかけになった、ということなのだろうが。
ユダヤ教、およびそこから派生したキリスト教・イスラム教は、来るべき「最後の審判」に備えて遺体は基本的に土葬で火葬にはしない。最近キリスト教徒では火葬もアリという考えも出て来てるみたいだが、イスラム教やユダヤ教ではまだまだ厳格に禁じていると聞いている。それが、今度の新型コロナパンデミックを受けて、イスラエルでは火葬を認めることになったというから、ちょっと驚いた。そのくらいの融通は利くんだな、と思うと同時に、こういう事態には神様も何もしてくれないと開き直るしかないってことなのかとも思った。
イスラム教の方では火葬についてはまだ何も動きは聞いていないが、集団での礼拝やラマダン(断食月)におけるイベントでの感染予防が呼びかけられていると聞く。一か月ほど前だったか、バングラデシュで「新型コロナを祓う祈祷」を何万人もの大集会で挙行して、それってかえって感染拡大しないかと思ってしまったこともあったり、しばらく感染報告がなかったインドネシアで政府高官が「神への祈りが効いているのだ」と発言していて、ずいぶん国ごとに態度を変える神様だな、とツッコンだりもしたのだが、まぁとにかく神様をアテにしても仕方がないというのは確かなようだ。
日本でも、流行初期に春日大社がウイルス退散の祈祷をやってたと報じられたが、現状を見る限りでは霊験はなかったようで。逆にこうした寺社も「三密」になるってんで(余談ながら「三密」ってなんか仏教用語っぽいよね)参拝停止の措置があちこちでとられるようになっているから、神仏にお祈りすることすらままならない。聖徳太子が創建した四天王寺が創建以来の閉鎖になったとしてニュースにもなったが、そもそもどこの寺社もこうした事態は初めてだろう。昔だったらむしろ大々的に祈祷したり参拝者を受け入れたり救済活動したりしていたような。閉鎖や中止ではないが、靖国神社の春の例大祭に、閣僚どころか国会議員の誰も参拝しないという事態も起こっている。
あちこちの有名なお祭りも中止が相次いで発表され、今年は神様たちもヒマを持て余しそうだ。京都の祇園祭の見せ場である山鉾巡行も中止が発表されたが、過去の中止や延期の例を見ると、さすがは京都のお祭りと感心してしまう。祇園祭自体は平安時代から、山鉾巡行は鎌倉時代に始まったそうだが、応仁の乱の時に30年ほど中止(京都人が「さきの戦争」と言うのはこのせいなのか)、本能寺の変の時は11月に延期して実施、幕末の禁門の変で山鉾巡行を支える山鉾町が焼かれてしまったので翌年中止、明治時代のコレラ流行で延期、太平洋戦争の後半や敗戦直後にも中止…とまぁ、日本史年表みたいなことになるのだ。こうなると今年の新型コロナ禍もこれらに匹敵する大事件ということになるだろう。一方で、前回、1962年の中止の例は阪急電鉄が地下路線延長工事をするためだった、という特に歴史的でもない(鉄道史的には重要だろうけど)ケースもあるんだよな。
そもそも祇園祭は平安時代に災厄が相次いだために「厄払い」を企図して始まったとされていて、人が集まるのを避けるためとはいえそのクライマックス部分を災厄のために中止にしてしまうというのも皮肉な話である。
2020/4/23の記事
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