ニュースな史点2020年5月29日
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◆夏も近づく75年
今年は第二次世界大戦の終結から75周年。十年ごとだと物足りないからなのか、洋の東西、人々は5年刻みで「節目」を作ってあれこれイベントを行いたがる。それってやっぱり手の指の数が5本ということに由来するのかなぁ。
先月末の4月30日はナチス・ドイツ総統アドルフ=ヒトラーが自殺して75年めだった。それから一週間ちょっと過ぎた5月8日にドイツはソ連との間で降伏文書に調印、ヨーロッパにおける第二次世界大戦はここに終わり、その翌日の5月9日にソ連は大々的な戦勝記念行事を挙行し、以後この日がソ連にとっての「対独戦勝記念日」と定められ祝われることとなった。ソ連崩壊後、その後継国家であるロシア連邦でも同じ日が「対独勝利記念日」として祝われ続けている。
今年もこの「対独勝利日」は75周年の節目ということで大々的に式典を挙行するはずだったのだが、これまた「新型コロナ」の騒動により中止こそしなかったが大幅に規模を縮小したイベントにとどまった(改めて来月に大々的にやるという報道もあるが)。日本の安倍晋三首相はじめ各国首脳も参列するはずだったが、すべてキャンセル。それどころかロシアではミシュスチン首相や閣僚も新型コロナに感染、国内の感染拡大速度もヒートアップ中という状況だ。それでも式典を実施したのは、ロシアとしてはやはりこれだけ外せない、ということだったんだろうな。
ところでこの対独戦勝記念日に関して、現在のロシア政府がソ連時代から引き継いでいるものが日付以外にもある。この戦争についての「歴史的評価」というやつだ。第二次世界大戦のドイツとの戦いでソ連は2000万人以上というとんでもない犠牲者を出しているが、そうした膨大な犠牲を払って侵略者ナチスドイツを撃退しただけでなく、ファシズム占領下にあった東ヨーロッパを「解放」した、というのがソ連および現ロシアの「大祖国戦争」(ロシアにおける独ソ戦の呼称)の評価だ。
かつてソ連時代にズバリ「ヨーロッパの解放」というタイトルの大長編戦争映画が製作されていて、さすが国家事業映画、そのスケールには今でも驚かされちゃう(ついでに俳優たちが演じる各国首脳がみんなほんとにソックリで驚く)超大作戦争映画だが、タイトルの通りでソ連の「大祖国戦争」史観は徹底されている。まぁスターリン時代のものに比べればイデオロギー色は薄いけど。
対独戦勝記念日に先立つ5月7日、アメリカのポンぺオ国務長官と、ポーランド、チェコ、スロバキア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、リトアニア、ラトビア、エストニアの外相が共同で声明を発表、「ナチス・ドイツを敗北させるために戦った全兵士の顕彰」のための生命だったが、「ロシアによる歴史の歪曲」に強く懸念を示すことの方に主眼が置かれていたらしい。アメリカ以外の8か国はいずれもかつての東欧社会主義国、あるいはソ連に併合されてソ連の強い支配下に置かれ、現在はその反動でいずれもNATOに加盟してアメリカを親分に奉じている国々だ。
こうした東欧諸国に言わせれば、確かにナチス・ドイツもひどかったが、ソ連だって結構いい勝負だった。そもそも第二次大戦勃発のきっかけはドイツのヒトラーとソ連のスターリンが「独ソ不可侵条約」を結んでポーランドを分割占領したことから始まるわけだし、第二次大戦のドサクサにリトアニア・エストニア・ラトビアの「バルト三国」は強引にソ連に併合された。東欧諸国は戦後はソ連の強い影響下のもとに社会主義国家群が樹立され、ハンガリーたチェコのように少しでもソ連から自立するような動きを見せたら容赦なく軍事的につぶされてきた。冷戦時代にあっては東欧諸国はソ連同様に民主主義も人権・自由もないような状態に置かれ続けたんだから、「解放」などと言われてはたあったものではないに違いない。
ロシアの「戦勝記念日」がらみではこんな話題も。
第二次世界大戦は最後までしぶとく粘っていた日本の降伏で終結するが、どの日が「終戦記念日」なのかは、とらえ方によっていくらかブレがある。日本では「玉音放送」のイメージが強いので8月15日を「終戦の日」とするのが一般的だが、無条件降伏をふくんだポツダム宣言を公式に受諾表明したのは8月14日の夜のこと。といって8月14日を何かの記念日にしてる例はないような。
一方で、それより半月ほどのちの9月2日を「終戦の日」とする考えもある。9月2日に何があったかというと、戦艦ミズーリ艦上で日本政府全権の重光葵が連合国への降伏文書に調印する式典が行われたのだ。あくまで手続き、というやつだが、公式に太平洋戦争および第二次世界大戦が終結したのはこの9月2日というのも確かな事実なのだ。そして実際、ソ連軍の南樺太・千島列島への侵攻は8月16日から9月初めにかけて実行されていて、戦争はまだ続いていたのである。
ソ連や中国ではこの9月2日、ではなく、これまたその翌日の9月3日を「対日戦勝記念日」に指定してきた。なんで翌日なのかというと、「対独」の場合と同じで戦勝記念式典が調印の翌日に行われたから、ということみたい。
ソ連時代はこの9月3日が「対日戦勝記念日」であり続け、ソ連崩壊後のロシアでもそれは基本的に引き継がれた。だが終戦65周年の2010年、唐突に9月2日にシフトさせ、その名も「第二次世界大戦終結記念日」として祝うと変更された。当時の報道をみると、ロシア側は「対日」を外したぶん日本に一定の配慮をしたが、日本政府はこの「一日前倒し」を、降伏文書調印日に合わることで北方領土占領の正当化をはかってるんじゃないかという懸念を水面下でロシアに伝えたりはしていたらしい。
ところが、そのすぐ翌年から「やっぱりソ連時代と同じ9月3日がいい」という運動が軍人や政治家の間から起こってきて、何度も法案が議会に提出されるようになる。そして10年目の今年4月、ついに「9月3日を第二次大戦終結記念日」とする法案がロシア議会の上下両院を通過、プーチン大統領が署名して成立に至ったのだ。
「前倒し」の時も懸念を伝えた日本政府だが、報道によると今回の「一日戻し」についても懸念をロシア側に伝えていたという。理由はやはり北方領土占領の正当化につながる、と前の時と同じものだというので、どっちの日だろうと関係ないってことなんだろう。また中国が9月3日を対日戦勝日にしてるのでそれと歩調を合わせることを懸念してるのでは、という報道も見かけた。
さて、上記のような記事を書きあげて、更新を一週間ほど遅らせていたら、妙な「続報」が入ってきた。
5月23日、モスクワ動物園が同動物園で飼育されていた「サターン」というワニ(アリゲーター)が、なんと83歳という高齢で死去したと発表、「一つの時代の終わり」とまでコメントし、その死を悼んだ。ワニが80過ぎまで生きていたということにも驚かされるが、その経歴がまた、なかなかに「歴史的」なのだ。
このサターン、もともとモスクワ動物園にいわたけではなく、生まれはアメリカはミシシッピ州で、1936年生まれであることが確認されているそうな。その年のうちに捕獲され、ドイツのベルリン動物園へと送られた。真偽は定かではないが、当時ドイツの独裁者であったヒトラーの個人的コレクションと噂されたこともあったという。
やがて第二次世界大戦へ突入、1943年11月23日にベルリン動物園はイギリス軍の空襲を受け、多くのワニたちが犠牲となったが、「サターン」を含む何頭かが脱走、どこでどう生き抜いたかは不明だが終戦まで生き抜いた。ベルリン陥落後の1946年に、どういう経緯かイギリス軍が「サターン」を捕獲し、ソ連の占領区域だったためソ連軍に引き渡して、以後「サターン」はモスクワ動物園で長い年月を過ごすことになった。そして戦後75周年を見届けたかのように天寿を全うしたのである。
動物園のコメントでは「戦勝75周年を我々と一緒に祝った」としていたが、当人、いや当ワニには知ったこっちゃないだろうな。
◆ムチというのは恐ろしい
先月の記事でも触れたが、新型コロナウィルスのパンデミックを受けてイスラム教徒の間でも、コロナ対策のために宗教的習慣を一時的に変更する動きがあった。ちょうどラマダン(断食月)にあたっていたこともあり、モスクに人が集まりやすいところだったが、「祈りは自宅で」という呼びかけがなされ、夜にみんなで集まって食事をするのも控えられた。イスラム教でも宗派や地域によりピンキリだが、まぁそこそこ融通はきくという話である。それとは別に、シリアでは新型コロナの影響で隙でもできたのか、あの「イスラム国」がまた息を吹き返しているなんて話もあるなぁ。
イスラム教国家のなかでも、聖地メッカをかかえるサウジアラビアは、その建国事情もあって、かなり保守的・原理主義的な政策をとる国として知られていたが、ここ最近は欧米諸国からあれこれ言われるせいもあるのだろうが態度を軟化させ、少しずつすこしずつではあるが改革が進められるようになった。女性が車を運転する、なんてことがつい最近認められて話題になったりしていた。
4月末、サウジアラビアの最高裁が「むち打ち刑」の撤廃を表明した。むち打ちの刑罰は洋の東西、それこそ文明発生以来あると思うし、日本でも江戸時代までは存在していた。欧米の近代化のなかで国家による刑罰としては姿を消していったが、、子供のしつけとか、奴隷への私的制裁といった場面で「むち打ち」は生き残ってゆく。特にアメリカの黒人奴隷制度の中での「むち打ち」の凄惨さは、奴隷制テーマの映画やドラマでかなり描かれていて、比較的最近のものだとアカデミー作品賞をとった「それでも夜は明ける」の描写が印象深い。殺しちゃうリンチよりはマシ、という考えもあるが、むち打ちは激痛が延々と続く上に下手すりゃ死んでしまうし、体には一生傷が残ってしまう。
イスラム圏では今も「むち打ち刑」がある、というのは聞いてはいて、比較的最近でもマレーシアでアメリカの強い反対もしりぞけてアメリカ人への「むち打ち」を断行したことがある。サウジアラビアでは結婚相手以外との性交渉や同性愛、さらには騒乱罪、殺人罪といったものに対して「むち打ち」を実施してきた。これまた最近では、サウジで政府批判をしていたブロガーが逮捕され、「むち打ち1000回」の判決を受けてしまって欧米の強い反発を呼んだこともあった。まだ執行はされてないらしいが、むち打ち1000回もやったら確実に死んじゃうぞ。
今回、サウジ最高裁が「むち打ち刑」の撤廃を打ち出したのは、欧米からの「人権圧力」もあるが、それにこたえる形で改革を進めるムハンマド=ビン=サルマン皇太子の意向があるよ言われている。この皇太子、現在のサウジの実質的最高指導者とも言われていて、あっちゃこっちゃの国際会議にも常連で顔を出しているが、トルコのサウジ領事館え起こった反政府系ジャーナリストの暗殺事件にも深く関与した疑いをもたれている人でもある。「むち打ち刑」を廃止しても、手の切断や斬首刑などは残っていて、改革のほどを疑問視する人権活動家の声もあるようだ。
続いて、直接的にイスラム教がらみではないが、やや重なるところがある話題。
5月10日に奉じられたところによると、アフリカはスーダンの暫定政府は、同国に風習として色濃く残る「女性器切除」について、これを完全に禁止する刑法改正を行った。実行いた者には三年以下の禁固刑や罰金が科されるようになるとのこと。
「女性器切除」は生後間もなく、あるいは初潮ごろの女子にほどこすもので、男子の性器の皮を一部切る「割礼」の女性版のような形で行われる風習で、主にアフリカ大陸の中部・東部、赤道のやや北の横長ゾーンの地域で長らく行われてきた。男子の割礼に比べると衛生的にもよくないと以前から言われてはいたのだが、なかなか消えない風習である。それを行う理由については諸説あるが、割礼同様の「通過儀礼」とか、純潔の証明のためとか、いろいろ言われている。これをほどこされる女の子の方も大変だと思うのだが、彼女たちが大人になるとやっぱり自分の娘にそれをほどこす、という繰り返しで今日まで至っていて、最近ではそうした地域からヨーロッパに移民した女性たちがこれを自分の娘に行って児童虐待として逮捕されたりする事例も起きているという。
現地女性の間からもこの風習に反対する動きも起きてはいるようだが、これもやはり欧米からの「人権圧力」という面が強い。昔の中国の「纏足(てんそく)」なんかもそうだが、現代的感覚からするとひどい虐待としか思えない風習が、長い伝統文化として続いていることは多く、それを上から目線的に批判するというのも、ちょっとひっかかるところもあるのだが、この風習での弊害、特に健康・衛生面での問題は確かにあるのは経験者の話からもよくわかるし、この地域の人口が増えるとともにその弊害も増大するとの指摘もあって、スーダン政府の決定自体は間違ってはいないだろう。ただ、この国はそれまでの独裁政権が倒れて混乱期にあり、「暫定政権」のやったことだけに今後どうなるのか危なっかしい。
◆恩返しだ!
新型コロナウィルスのパンデミックが世界を覆うなか、ブラジルのジャングルで文明社会と隔絶された生活を続けている先住民たちにまで感染が広がって問題となっている。致死率じたいは低い新型コロナだが、もともと外来の病気に免疫がない先住民は下手すると大量死を招きかねない。その昔、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸に進出した際にもそうした悲劇が起きた前例もあるし(その代わりヨーロッパ人は梅毒をもらってしまったが)。
さて現在、アメリカ合衆国は世界最大の新型コロナ感染者・死者を出す国となってしまった。感染は人種を問わないが、医療保険制度のない国だけに死者は貧困層にかたより、黒人やヒスパニック、アジア系などに死者が多くなるという結果を招いている。そして西部に住む先住民、インディアンと総称される人々にも感染は広がっている。なかでも難解な言語で知られるナバホ族では今月はじめの時点で2000人以上が感染、70人以上の使者が出ているという。
こうしたナバホ族やホピ族といったアメリカ先住民たちの窮状が、大西洋を越えたアイルランドに伝えられると、新聞記者がツイッターで彼らへの支援を呼びかけ、クラウドファンディングで多くの寄付金が集まる、という「事件」があった。なぜアイルランドでそんな反応が?と思ったら、アイルランドはおよお170年前にアメリカ先住民から「恩義」をかけられた歴史があり、それへの「恩返し」をしようという話なのだそうだ。
1847年、アイルランドは「ジャガイモ飢饉」と呼ばれる深刻な飢饉に直面、人口の5分の1もの多くの餓死者を出した。ジャガイモはもともとアメリカ大陸原産の作物だが、当時イギリスの支配下にあって零細農民の多いアイルランドでは主食として栽培されていた。普通ならジャガイモは比較的簡単かつ安定して食料となってくれるのだが、このときはジャガイモ特有の病気が流行してしまい、ジャガイモが軒並み全滅状態になってしまい、それが主食であったために多くの犠牲者を出してしまった。生き残った人々も土地を捨ててアメリカに移住するなど、アイルランドの歴史に大きな影響を残した飢饉なのだ。
この飢饉の際、アメリカ先住民のひとつ、チョクトー族がアイルランドの窮状を聞きつけて貧しい中からなけなしの金を集め、170ドルの寄付金をアイルランドに送った、という美談があったというのだ。決して大きな金額ではないが、決して豊かではないチョクトー族たちの善意に当時のアイルランド人たちは感激し、今日までそれを伝えていたのだろう。
一方のチョクトー族というのはミシシッピ州・アリゾナ州に住んでいた先住民で、1830年にアメリカ合衆国政府と条約を結んで先祖伝来の地を二束三文で売却、現在のオクラホマ州へ移住をさせられている(一部はミシシッピ州に残った)。このチョクトー族は白人の「文明」を積極的にとりいれた部族として知られ、アイルランドのジャガイモ飢饉への支援もそうした「文明化」の表れの一つともいえるが、」自分たちの置かれた立場からアイルランド人へのシンパシーを抱いた、ということでもあるのだろう。
ともかく、アイルランド人が「170年前の恩返しだ!」と競い立つぐらい、チョクトー族の支援はアイルランド人の記憶に残った。殺伐とした話の多くなる新型コロナ関連のニュースのなかで心温まる話題ではあるが、恩返しの支援先はチョクトー族じゃないんだよなぁ。同じ「インディアン=アメリカ先住民」というだけで、実質ほぼ別の民族なんだけど。
◆リーチだチョンボだフリテンだ
裏技こみで検事総長の座にリーチをかけていた人物が、つまらぬチョンボをして一発辞職となって面子まるつぶれ。とまぁ、まとめてしまえばそんな話になるのだが、こうして書いていても日本語には麻雀由来の言葉があちこちに入り込んでいるものだ。
さて「政権に近い」としばしば表現される、黒川弘務・東京高検検事長の名前がここ二週間ばかり世間をにぎわせた。ツイッター上でこの人に絡めた法改正への抗議の声が巻き起こったのは5月半ばのことだったが、この人の問題自体は今年はじめから報道はされていた。
黒川氏は東大法学部卒、検事畑のエリートコースを順調に歩んで、2016年には法務事務次官、去年の1月からは東京高検検事長となっていた。だが検察庁法で検事長の定年は63歳と定められているため、今年の2月7日(誕生日前日)をもって黒川氏は退官しなければならなかった。その直前の1月31日、安倍内閣は黒川氏の定年を半年延長するという異例の閣議決定を行った。その根拠とされらのは国家公務員法で公務員の定年について「どうしてもその人でないとやれない仕事がある場合」に定年延長ができるという特別ルールだった。いわゆる「余人をもって代えがたい」というやつである。そういう人のことを「国士無双」と言ったりするとかしないとか(笑)。
検事も国家公務員には違いなく、一見国家公務員法のルール適用はアリに見える。だがこれまで日本政府は検事については一般の国家公務員と明確に区別してきた。検察は時として政治権力者に対しても捜査や逮捕を行って不正をただす役割を担っており、また三権のうち「司法」に属する立場であるため三権分立の原則から行政府の内閣から独立している必要もあるからだ。そうなると国家公務員法の規定より検事そのものについて定めている検察庁法の規定が優先されるのちうのが常識的法解釈で、過去にも1981年にそうした政府解釈の国会答弁が行われている。ところがこれを安倍政権は閣議決定ひとつであっさり解釈変更しちゃったのである。憲法解釈変更だってあっさりやっちゃった政権だけに、その程度は安パイのツモりだったのかもしれないが。
その時にも「脱法行為ではないか」との指摘もあったが、あの時点ではまだ「桜を見る会」疑惑の方が目を引いていたし、すぐに新型コロナ騒動に突入したこともあって、あまり大きな話題にはならなかった印象がある。安倍政権に何かとみられる「お友達人事」なんだろうなぁ、と僕も眺めていた程度だった。
この話がにわかに注目されたのは連休明け。連休といってもコロナ騒動の真っ最中で内外へのレジャーも帰省もできず、みんなステイホーム状態の大型連休だったが。そのステイホームのためにみんな法務の勉強でもしたのか、連休明けに「検察庁法」改正案が国会を通過しそうだ、ということになって、にわかにネット上で抗議運動がわきあがったのだ。
この「検察庁法」改正は、「国家公務員法」改正と抱き合わせになっていて、国家公務員法の方はその定年延長が主眼で、これについては野党側でも異論はとくに出ていなかった。ただそれとセットで出してきた「検察庁法」改正案は定年延長の規定を盛り込み、内閣側が恣意的に検察幹部の人事に影響を与えられる可能性がふくまれていて、これはそもそも異例だった黒川氏定年延長の法解釈変更を「後付け」で合法化した上に、内閣の検察への介入をより可能にする(今までだってなかったわけじゃない)狙いがあるのでは、と批判の声があがったわけだ。
これが法律関係者や野党政治家といった人たちだけでなく、日ごろ政治的発言をしない芸能人たちから幅広く主張されたのが今回の大きな特徴だった。伝統的に日本では芸能人の政治的発言(とくに政府に批判的なもの)を忌む傾向が強いが、今回はとくにリベラルとか社会派とかいったイメージのない芸能人・タレントたちが次々と批判の声を上げたのには僕ですらいささか驚いた。意地悪なことをいえばちょうどコロナ騒動でヒマな芸能人が多かった、ということもあるのかもしれないが、彼らなりにリスクを負って、例によって攻撃もずいぶん受けながらもあくまで主張し続けた、というのは異例のことで、今後の日本の政治風土が変化する流れすら感じさせた
ツイッター上で「検察庁法改正に抗議します」というハッシュタグが生まれ、またたく間に数百万ツイートにまでふくれあがったのは、横目に数字を見ていて凄いな、と僕も思った。それへのアンチで作られたハッシュタグが「検察庁法改正に関心ありません」だったのが、アンチ側の心理をものの見事に表してしまっていたが。
このネットデモともいえる活動に、一般人はもちろんのこと、先述のようなタレント的著名人も数多く参加していたが、僕も知る、あるかなりの右翼論客までが検察庁法改正に反対を表明、ほかの保守言論人を叱りつけていたケースもあった。自民党議員でも疑問を呈して強行採決に反対した人はいたし、話を知ればそれだけ無茶で「権力の私物化」と言われても仕方のない話だと分かるということなのだ。
検察OB有志による、異例の反対意見書もすごかった。大変な長文で、法律家らしく難しい解釈論議の部分も多いのだが、安倍首相が「法解釈を変えました」の一言で済ました国会答弁を、フランスの絶対王政君主として名高いルイ14世の言葉として伝わる「朕は国家なり」という「中世の亡霊のような言葉を彷彿とさせる姿勢」と厳しく断じている。この歴史引用に対し、当の安倍首相は国会で「私はルイ16世ではない」と言い間違えちゃっていたけど。ルイ16世はフランス革命で処刑されてるからそっちと早とちりしたのかもしれないが、14世の方が明らかに暴君度高いんだよな。ま、「朕は国家なり」という言葉をそもそも知らなかったということかも。安倍さん、自分のことを「立法府の長」と国会で発言したこともあるし、そもそも三権分立なんて頭に入ってないのかもしれない。
この反対意見書では啓蒙思想家ジョン=ロックの「法の終わるところ、暴政がはじまる」という言葉も引用していて、法律だけでなく歴史的教養を感じさせるものがありましたね。法律の世界だって、今どうしてそういう仕組みや規定があるのか、という歴史的経緯の把握は絶対必要なんだよな。
こうした一連の反対運動が巻き起こったが、それでも政府与党は当初の予定通りに5月15日にも委員会採決、翌週一気に本会議通過で改正案を成立させるつもりだった。だが強行採決も予定されていた15日の金曜日に採決の来週への先送りが決まり、この時点で何か様子が変わった気配があった。報道でもネットデモなんぞ怖くない、強行して一時支持率が下がっても国民はすぐに忘れる、といった与党側の舐めた姿勢が報じられていたが(まぁこれまでがこれまでなので、舐められるのも無理はない)、この延期には、公明党あたりが日和ったかな、などと僕は思っていた。それでも週明けに通してしまうのは間違いないんじゃないかな、と。
ところが週が明けても強行採決はなされなかった。あとから分かったことだが、このころ週刊文春が黒川氏のスキャンダルを報じる準備を進めていて、それが政界に同様を広げていたわけだ。まさに「文春砲」であるが、麻雀で他人に振り込んでしまうことを「放銃」という(笑)。
前日の水曜日にその内容が明かされたが、5月21日木曜発売の週刊文春で、コロナ騒動の最中の5月はじめ、黒川検事長が産経新聞記者二名および朝日新聞元記者と産経記者宅で賭け麻雀に興じていた事実が報じられた。それこそ「三密」になる状況で実際に雀荘も営業自粛している中での行為(中国ではコロナ騒動で雀卓が官憲により破壊されたりしてた)、当人が政治問題化している最中、おまけに本来法的に禁止されている賭博行為を法の番人的立場のトップといっていい人間がやっちゃっていた、という何重ものスキャンダルで、これで話は全部吹っ飛んでしまい、黒川氏は速攻で辞任となり、検察庁法改正の件もどうなることやら、という状況になってしまった。ネット上の国民の声の影響がどれほどあったか気になるところだが、その声があるうちにタイミングよくスキャンダルが報じられたことで結果的に政治を動かした、ということにはなるだろうか。
賭博行為は金額の多少にかかわらず法的には原則禁じられている(競馬など公営ギャンブルは別、パチンコはグレーゾーン)。そりゃまぁ友人同士でちょっとした「賭け」をした経験のない人はいないだろうし、以前国会で質問が出た例があるのだが、家庭内以外の麻雀でいっさい「賭け」がないということは常識的にはない。今回の黒川氏のケースではレートはまぁ高くはないレベルだが、過去に賭け麻雀で有名人が摘発された例を考えると、検察トップが賭け麻雀、というのはやはり示しがつかないというものだろう。しかも常習的だったようだし。
敗戦直後、違法な闇市のものは食べられないという姿勢を貫いて餓死した裁判官がいたっけな、と連想もした。「現代の伯夷・叔済」と言われた(知ってる人には説明不要だけど、殷を打倒した周のものは食べないと抗議して山中で餓死した兄弟の故事ね)この人ほどの潔癖さまでは要求しないが、ずいぶんとまぁいろんな意味でルーズになってた人なのではないかな。やはり首相に近い人物、ということで驕りや油断もあったのではなかろうか。こういう人が「余人をもって代えがたい」といってたのは何だったのか。もしかして麻雀ではカモだったとか(笑)。
それと、一緒に卓を囲んでいたのが大手新聞の検察関係記者たちだったというのも、彼の油断の一因だろう。それじゃ新聞はこんなスキャンダル報じられないもんな。いわゆる「接待麻雀」のようなもので、それで記者たちは検事長と個人的な関係を作り、そこから情報を得たりする、という昔ながらの手法なんだろうけど(新聞社のハイヤーで送迎までしてた)、それって単に癒着だよなぁ。政治記者でも聞かれる話ではあるが、それって情報を得られる代わりに情報コントロールされちゃうってことだし。今回の件は、マスコミの取材の在り方にも一石を投じる事件ともなった。
この黒川さんの大チョンボに、直後の内閣支持率は20%台まで低下。かなりテンパった状況にも見えるけど、なにせ安倍政権はこれまでにも「森友問題」「加計問題」「桜を見る会問題」と、いずれも権力の私物化をうかがわせるスキャンダルを連チャンで起こしてそのつど支持率を下げながらも、しばらくするともとに戻る、ということを繰り返していて、そりゃ国民も舐められちゃうわと思うばかり。今度だって黒川氏への処分の甘さと責任転嫁の姿勢を見てると、やっぱり逃げ切りをはかってるようにしか見えない。
「安倍一強」と言われるように、政府与党内で批判勢力がほとんど出てこないのも問題だ。かつての派閥政治がいいともあまり思わないが、与党内で派閥が競い合い足の引っ張り合いで。しくじりをした首相が他派閥にひきずり降ろされる、というのは一つの「健全化」ではあったと思う。派閥政治=金権政治という面も確かにあったが、今だって金権と無縁でないことは河合前法相夫妻を見ても一目瞭然、ロンより証拠。物陰に人を連れ込んで「まぁとっとけや」と胸ポケットに札束つっこむという、「仁義なき戦い」の一場面みたいなこと(広島だけに)をするのが法務大臣やってたんだもん。事務次官やってるほうも常識が抜け落ちていくのも無理はないんじゃないかと。あおくまで憶測だけど黒川氏の「異例人事」も河合夫妻問題が絡んでるんじゃないかとの見方もある。
「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」とはジョン=アクトンの有名な格言。古今東西を問わない歴史的真理である。また「麻雀は傾国の遊戯」という格言も中国にはあるそうだが、そりゃまぁそれだけ面白いってことですけどね。パチンコや競馬競輪と同じく、のめりこまずにほどほどに、とケイコクしておきます。
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