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あいはらきよたね〜あくりっし

粟飯原清胤 あいはら・きよたね ?-1353(文和2/正平8)
親族 父:粟飯原氏光
官職 刑部右衛門尉→山城権守→下総守
幕府 奉行人(御所奉行)・政所執事
生 涯
―室町幕府草創期の官僚武将―

 千葉氏の一族。法名は「道最」。父の粟飯原氏光は早くから足利尊氏の配下に属しており、『太平記』では足利直義に命じられて後醍醐天皇の皇子・恒良親王成良親王を毒殺する役回りにされている(ただし成良については毒殺が史実ではないことが確認されている)。氏光は暦応3年(興国元、1340)に病死し、嫡子の清胤が家督をついでいる。
 清胤は主に足利直義のもとで幕府奉行人つまり政務官僚として活躍しており、直義の命を受けて寺社への使者に立ったり、直義の夫人・渋川氏が異例の高齢出産をした際にも着帯の儀・御産の儀で奉行として監督に当たっている。直義が霊夢を見たとして開かれた歌会にも参加して「ふりぬるに たちかへりつる 道なれば さはらすはこふ みつきものかな」と歌っており、当時幕府の政務全般を管轄していた直義との密接な関わりがうかがえる。貞和3年(正平2、1347)には幕府政所執事となり、幕府財政の中枢を担った。幕府の「御所奉行」を務めていたことも確認されている。

 貞和5年(正平4、1349)、足利直義を中心とする政務派と高師直を中心とする武断派の間の対立が臨界点に達し、直義は師直の暗殺を計画する。『太平記』によれば直義は大高重成・粟飯原清胤・斉藤五郎左衛門入道ら側近らとこの計画を練り、刺客を伏せて師直を自邸に呼びつけるが、「心変わり」した粟飯原清胤が応接の間に師直にさっと目配せをし、察した師直は急ぎ脱出した。その夜、粟飯原は斉藤と共に師直邸を訪れ、直義派の上杉重能畠山直宗を名指しして計画を暴露、師直から感謝されたうえ帰宅している。この暗殺未遂事件の日時は不明だが、洞院公賢の日記『園太暦』によれば同年6月5日に大高重成、6日に粟飯原清胤が将軍尊氏の「勘気」により出仕を停止され、清胤自身はいずこかへ姿をくらまし、武家に動揺が広がったとの記述があり、これがこの事件を受けての処置であったと推測させる。こののち8月の師直派のクーデターにより直義は失脚、その地位を尊氏の嫡子・義詮が引き継ぐが、翌貞和6年(正平5、1350)正月の義詮初参内に先立って粟飯原清胤が洞院公賢を訪問して相談を行っている。こうした点から清胤は直義側近と扱われながらも実際には将軍・尊氏の意向を強く受けていたのではないかとも思える。その後の「観応の擾乱」では動きが確認されないが、直義党に属さなかったことは確かである。

 尊氏が関東に下っている間の文和2年(正平8、1353)に幕府政所執事に再任。この年佐々木道誉が息子・秀綱の面目の問題で領国・近江にひきこもってしまったときに清胤が三宝院賢俊と共に説得に赴いたが道誉から面会を拒絶されたことがある。その佐々木道誉との確執から山名時氏が南朝につき、楠木正儀ら南朝軍と呼応して京都に突入、義詮は後光厳天皇を奉じて京を脱出したが、このとき神楽岡での合戦で、粟飯原清胤と思われる「粟飯原下総入道」が戦死している(『常楽記』6月9日)。『太平記』はこの部分で「粟飯原下野守」の戦死を記しているが、清胤のことを誤ったものと考えられている。
大河ドラマ「太平記」 第44回「下剋上」の回の冒頭に登場(演:武藤章生)。師直暗殺の計画を目配せで師直に伝え脱出させるくだりが古典「太平記」のままに再現されていた。登場するのはこのシーンのみだが、この回で師直が挙兵した際に「粟飯原下総守」が師直方についたことがセリフで示されている。
PCエンジンCD版 甲斐国の北朝方・武田氏配下武将として登場。統率60、戦闘51、忠誠84、婆沙羅86。婆沙羅が高いのは師直暗殺計画を漏らしていることが考慮されたのだろう。同じ国に「粟飯原光氏」がいるが、これは彼の父・氏光を誤ったものだろう。

明石出雲介 あかし・いずものすけ
大河ドラマ「太平記」の役名。→池田親連(いけだ・ちかつら)を見よ。

赤橋流(あかはしりゅう)北条氏
 鎌倉幕府第6代執権・北条長時を祖とする系統。「赤橋」の呼び名はその邸宅が鶴岡八幡宮の赤い太鼓橋の近くにあったことに由来するという。長時の父・北条重時の子孫を極楽寺流と総称するが、そのうち赤橋流はその嫡流とされ北条得宗家に次ぐ位置に置かれ代々幕府の要職を占めた。鎌倉最後の執権・守時もこの系統であり、その妹・登子は足利尊氏の妻となって北条の血筋を足利将軍家に伝えることとなった。

時政 ─義時 ┬泰時 得宗





└重時 ┬為時 苅田流






├長時 ┬義宗── ┬久時 守時 益時



└長弁 └高則 英時



├時茂 常葉流
宗時 重時



├義政 塩田流
種時



├業時 普恩寺流
登子 足利義詮



└忠時 坂田流
└種子
足利基氏

赤橋尾張守
あかはし・おわりのかみ 生没年不詳
官職 尾張守
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加?―

 『太平記』巻三に名が見える人物。後醍醐天皇楠木正成らが倒幕の兵を挙げたため、関東から幕府の大軍が畿内へと派遣されるが、その中の北条一門の大将クラスに「赤橋尾張守」が交っている。ただし『太平記』古態の西源院本にはその名が見えず、この時の合戦についての一次史料『光明寺残編』にも同一人と思われる人物は見当たらない。また知られる限りで当時の赤橋流の人物で「尾張守」であった人物は確認できず、そもそも実在が怪しまれる。『太平記』に後からその名が追加されたことになるが、その事情も不明である。

赤橋重時 あかはし・しげとき ?-1335(建武2)?
親族 父:赤橋宗時 
生 涯
―建武政権に対し伊予で挙兵―

 赤橋宗時の子。父の宗時が駿河守であったことから「駿河太郎」と呼ばれていた。『太平記』巻十二でこの駿河太郎重時が伊予国で挙兵、立烏帽子城(愛媛県松山市)に立てこもって周辺の荘園を荒らしたとの記述があり、これと関係すると思われる土居・得能・忽那氏ら瀬戸内水軍の軍勢催促状や軍忠状が確認されている。それらによれば重時の反乱は建武2年(1335)二月ごろに始まり、六月には平定されたようである。重時のその後の消息は知られず、おそらくは戦死したのであろう。
 重時の前歴についてもまったく不明で、なぜ伊予で挙兵したのかも分かっていない。あるいは父・宗時か、おじの英時に従って九州に下っており、鎮西探題滅亡時に脱出して伊予で機会をうかがっていたのかもしれない。建武2年には建武政権の矛盾が顕在化し、各地で不満を抱く武士たちや北条残党が挙兵しており、重時の挙兵もそれらと連動、あるいは連絡をとりあったものであったと思われる。

赤橋種時 あかはし・たねとき 生没年不詳
親族 父:赤橋久時 
兄弟姉妹:赤橋守時(第16代執権)・赤橋英時・赤橋宗時・赤橋登子(足利尊氏正室)・赤橋種子(正親町公蔭室)ほか
位階
従五位下
官職 修理亮
生 涯
―鎮西探題代行?とも言われる守時の兄弟―

 北条氏赤橋流、赤橋久時の子で、鎌倉幕府最後の執権となった赤橋守時、最後の鎮西探題の赤橋英時足利尊氏の正室・赤橋登子らと兄弟になる。北条氏系図によれば従五位下・修理亮であったとされるが、それ以外の事績は不明。
 ただし、北条氏金沢流で鎮西探題となった金沢政顕の子に「金沢種時」がおり、父の死後に鎮西探題を一時代行したほか、後に九州で建武政権に反乱を起こす規矩高政・糸田貞義の父としても知られている。この「種時」が実は赤橋種時が政顕の養子となったものではないか、との説がある。兄弟の赤橋英時は鎮西探題であり、同じく兄弟の赤橋宗時も九州に下った可能性があることから、種時が彼らに先立って九州入りしていた可能性はある。また規矩高政が英時の猶子となっていることもこの見方を補強するかもしれない。

赤橋登子 あかはし・とうこ(なりこ) 1306(徳治元)-1365(貞治4/正平20)
親族 父:赤橋久時 母:北条宗頼の娘? 兄:赤橋守時(16代執権) 赤橋英時(鎮西探題)
夫:足利尊氏(初代将軍) 子:足利義詮(2代将軍)・聖王・足利基氏(初代鎌倉公方)・女子二人?
位階 従二位→贈従一位
生 涯
 室町幕府初代将軍・足利尊氏の正室にして二代将軍・足利義詮の母、そして鎌倉幕府最後の執権・赤橋(北条)守時の妹。鎌倉から室町へ、北条から足利へと、二つの「幕府ファミリー」をジョイントする役割を担い、南北朝動乱のなか波乱の一生を送った女性である。

―北条の姫・足利の妻―


 父・久時は北条氏傍流で六波羅探題や評定衆メンバーとして幕府政治にたずさわってはいるが,特に目立つ事跡は残されていない。むしろ歌人としての評価が高く、同時代の複数の歌集に歌が載っている。鶴岡八幡宮の反り橋にちなんで「赤橋」という名字を名乗ったところにもそのセンスがうかがえる。登子が生まれた翌年の1307年に36歳の若さで死去している。長兄の守時は11歳も年の離れた兄で、彼が事実上の父代わりをつとめていた可能性は高い。守時は嘉暦元年(1326)に第16代執権に就任している。

 有力御家人である一歳年上の足利高氏と結婚も同時期ではないかと推測される。源氏の嫡流とみなされ潜在的な反北条勢力でもある足利家は代々北条氏と縁組しており、これもそうした政略結婚の一環であった。赤橋家は北条氏の中ではやや傍流だが、高氏とつりあう年齢の姫が他にいなかったのではないか、との憶測もある。なお、高氏は登子との結婚前に加古基氏の娘竹若を、「越前局」なる女性に後の足利直冬を産ませている。竹若は伊豆に、直冬は鎌倉・東勝寺に預けられているが、これは高氏が正室・登子をはばかったものと推測されている。名門武士が側室・妾腹の子を多くもつことはこの当時珍しくないが、高氏のこれら庶子たちに対する扱いは登子が名門北条氏の出であることもさることながら、登子自身の性格が「他の女」の存在を許さなかったのではないかと考えたほうが自然なようでもある。

 登子が嫡子・千寿王(後の足利義詮)を産んだのは元徳2年(1330)7月4日のこと。翌年には「元弘の乱」が始まり、夫・高氏も畿内へ出陣している。元弘3年(正慶2、1333)3月に高氏は幕府の命を受けて再び出陣するが、このときすでに高氏は反北条の挙兵の決意を固めていた。『太平記』によれば高氏は当初登子・千寿王を連れて出陣しようとして幕府に疑われたが、弟・直義から「奥方は執権の妹だから大丈夫」と諭され、人質として妻子を置いていくことになったという。京都に上った高氏は4月27日に丹波・篠村で挙兵、その知らせが鎌倉に届く前の5月2日夜に千寿王は鎌倉から姿を消し、鎌倉は騒動になったという。このとき登子がどうしていたかは不明だが、千寿王と行動を共にしていたと考えるのが自然だろう。このとき伊豆にいた竹若は脱出に失敗して殺害されており、登子・千寿王の脱出には兄・赤橋守時の関与を疑う説も有力である。

―激動の世を見とどけた「女丈夫」―

 鎌倉幕府滅亡後の登子については詳しいことはあまり分からない。建武政権下では子・千寿王や義弟・直義と鎌倉にいたと思われるが、夫・尊氏が建武政権に反旗を翻し関東から九州まで走り回るなか、彼女と千寿王がどこにいたのかは不明だ。各地の南朝軍が敗れ、尊氏が征夷大将軍となって足利政権が一応の安定を見せた暦応元年(延元3、1338)ごろに京都の夫のもとに戻ったものと思われ、暦応2年(延元4、1339)に男子・聖王、暦応3年(興国元、1340)に男子・光王(のちの足利基氏)を産んでいる。このうち聖王は貞和元年(興国6、1345)8月に数え七歳で早世している。その後登子は少なくとも二人の女子を産み、いずれも幼くして亡くなっている。うち最後の子となった鶴王という女子については後から「頼子」という名が贈られ、崇光天皇の女御の地位が追贈されている。尊氏にはほかに「了清」と呼ばれる女子がいて直義の養女となり夭折しているのだが、これは登子の子ではなく、そのために登子をはばかって直義が引き取る(直冬と同じパターン)ことになったのではないかとの推測もある。

 『太平記』では直冬が実父・尊氏に冷遇された原因を「継母の讒(ざん)」と記している。「観応の擾乱」のきっかけとなった尊氏による直義排除・義詮後継の処置も登子の意向があったのではないかとみる推測もある。滅亡した北条一族の生き残りとして、登子がその北条の血を足利将軍家に残そうと強く意図していた可能性は捨てきれない。登子は夢窓疎石太平妙準にも師事し、「女丈夫」と称されたという話もあり、あるいはかなり男まさりな性格で彼女は「観応の擾乱」の影の主役であったかもしれない。
 延文3年(正平13、1358)4月30日、夫・尊氏が病死する。入れ代わるように同年8月22日に孫の義満が誕生。その後相次ぐ有力大名の反乱もあったがいずれも早期に鎮定され、南朝有力勢力も次々幕府方に投降するなど、登子は長い動乱の終焉の足音を感じつつ晩年を送ったものと思われる。

 貞治3年(正平19、1364)秋から登子は病を得て、翌年一時回復して亡夫・尊氏が眠る等持院に輿で出かけていることが確認されるが、その年の5月4日に死去した。直接の死因は「悪瘡」であったとされる(「師守記」)。享年60、四十九日の法要の後に尊氏と同じ等持院に埋葬され、6月9日に朝廷から従一位を追贈された。死後2年経った貞和6年(正平22、1367)6月11日に義満が登子の旧宅に住まいを定めている。同年に基氏そして義詮と登子の息子二人が相次いでこの世を去り、孫の義満の時代へと移っていくのである。

参考文献
「歴史読本」1991年4月号「特集・女太平記」掲載の谷口研語「北条登子」および「「太平記」女性人物事典」
田辺久子「関東公方足利氏四代」
大河ドラマ「太平記」 主人公・尊氏の正妻として沢口靖子が可憐に演じ(尊氏役の真田広之とは大河「独眼竜政宗」でも夫婦役)、第一回から最終回まで断続的に登場した。政略結婚ではあるが尊氏と和歌を通じて心を通わせる初対面シーンが印象的だった(家族に歌人が多いことからの創作であろう)。中盤は兄・守時との涙の離別、中先代の乱での逃避行など苦難場面が多く、後半では義詮を溺愛して高師直とつるむ一方、継子・直冬を露骨に嫌って姑・上杉清子と激しく言い争うなど、やや「いやなおばさん」化していた。三枝成彰作曲の「太平記」サウンドトラックでは「愛は水面に映る月のように」と題する登子のテーマ曲が収録されている。
その他の映像・舞台 昭和3年(1928)に市川左団次の自由劇場で上演された舞台「足利尊氏」で市川松蔦が登子を演じている。舞台「幻影の城」の昭和44年(1969)上演では木内みどりが演じた。
歴史小説では 恐らく直木三十五「足利尊氏」(1931)に登場したのが最初。ここでは高氏から事前に幕府への反逆を打ち明けられている設定で、夫をよく支える賢妻として描かれた。吉川英治「私本太平記」では高氏が初対面では「美人とは人はいうまい」と思いつつ、あとで直義に「美人だぞ」とささやく場面がある。ただ小説中でのメインヒロインは直冬の母・藤夜叉ということもありその後は特に目立つ場面がない。杉本苑子「風の群像」でも特に目立たないのだが「さだこ」という読みに設定されている。
少女向けライトノベルの倉本由布「天姫」では北条氏の姫「姫夜叉」の名で登場し北条高時と大恋愛を繰り広げる。峰隆一郎「女太平記・足利尊氏」はスポーツ紙連載の「官能歴史小説」なので当然尊氏との濡れ場あり。
漫画では 横山まさみち「太平記(三)足利尊氏・六波羅の巻」で登場、人質として鎌倉に置かれ出陣する夫を見送りつつ「おきめになった信念に従い男子の本懐を遂げられませ」と励まし、高氏の反逆を察しているように描かれた。石ノ森章太郎「日本の歴史」でも出番がチョコチョコとあり、ここでも高氏の反北条挙兵の意思を事前に打ち明けられている。湯口聖子「風の墓標」は赤橋家の人々を中心とする漫画のため登子は重要人物として登場、継子の新熊野丸(のちの直冬)を夫よりも可愛がる描写があるが、北条滅亡を目の当たりにして北条の血を受け継ぐ義詮への傾斜を深めのちに直冬に冷たく当たる伏線が張られていた。岡村賢二「私本太平記」は吉川英治の原作にほぼ従った登場となっているが、結婚の時以外あまり出番はない。

赤橋英時 あかはし・ひでとき ?-1333(正慶2/元弘3)
親族 父:赤橋久時 母:北条宗頼の娘? 兄:赤橋守時(第16代執権) 妹:赤橋登子(足利尊氏正室)
養子:規矩高政
官職 修理亮
位階 従五位下
幕府 鎮西探題
生 涯
―最後の鎮西探題―

 北条氏赤橋流、赤橋久時の次男で「武蔵修理亮」と呼ばれた。生年は不明だが兄の守時が永仁3年(1295)、妹の登子が徳治元年(1306)の生まれなので間を取って1300年前後の生まれと推測される。鎌倉幕府最後の執権の弟であり、室町幕府初代将軍の義兄という立場にある。元亨元年(1321)12月25日に若き鎮西探題として博多に赴任し、以後ついに鎌倉に帰ることはなかった。

 正慶2年(元弘3、1333)3月、おりから後醍醐天皇が隠岐を脱出して各地に討幕の綸旨を発し、九州でも菊池・大友・少弐の三勢力がひそかに討幕の挙兵を約した。3月11日に菊池武時が挙兵のために博多に入ったが英時はその動きを察知して態勢を整えており、13日に武時が挙兵すると味方につくはずだった少弐貞経大友貞宗は英時側に寝返り、武時は探題館付近で奮戦の末に戦死した。英時は養子の規矩高政に命じて菊池残党の掃討を行い、さらに3月26日に肥前の松浦党に各地の反幕府勢力を討つよう命じている。
 しかし三月中に土佐に配流になっていた尊良親王が反幕府勢力の手引きで肥前に上陸。四国を攻めた長門探題の金沢時直が敗北して逆に厚東氏らの攻撃を受け、英時はこれに援軍を送る一方、規矩高政を肥後から呼び戻して博多の防備を固めた。

 5月7日に英時の義弟にあたる足利高氏が六波羅探題を攻め滅ぼす。その知らせが九州に届くと少弐貞経・大友貞宗は慌てて手のひらを返し英時攻撃を画策する。その噂を知った英時は家臣の長岡六郎を貞経のもとへ遣わして真偽を確かめさせたが、長岡は貞経の子・頼尚に殺害される。英時に疑われていることを悟った貞経は5月25日昼に大友貞宗・島津貞久らと共に博多の探題館を襲撃、英時はかなわず一族郎党約240名と共に自害して果てた。

 父・久時の影響か、英時は歌人としてすぐれ、九州における二条派歌壇の中心人物となり、「臨永和歌集」など当時の複数の和歌集にその作品が収録されている。また探題として発給した文書が約百通現存しており、貴重な資料となっている。
大河ドラマ「太平記」 兄妹の二人が登場するにも関わらず、登場はおろか言及も全くされず、守時・登子のセリフでも「兄妹二人きり」ということにされていた。
歴史小説では 吉川英治「私本太平記」では鎮西探題の滅亡部分が「博多日記」として触れられているほか、のちに九州にやってきた尊氏が九州武士たちの支持を受けた理由の一つに「英時の義弟だから」というものがあったことになっていて、実は人望が高かった設定になっている。
漫画では 湯口聖子「風の墓標」は赤橋家を中心とする物語で架空の兄弟も登場するが、九州に行っている英時については言及はあるものの登場はしていない。
PCエンジンHu版 シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」では北条英時として、なぜか肥前深堀城に登場。能力は「騎馬2」

赤橋益時 あかはし・ますとき ?-1333(正慶2/元弘3)
親族 父:赤橋守時 
生 涯
―父・守時とともに戦死―

 鎌倉幕府最後の執権となった赤橋守時の子とされるが、実は守時の弟・宗時の子で守時の養子となったという見解もある。生年は不明であるが、父の守時が戦死時に39歳であるため、同時点で益時はまだ十代後半か二十代前半であった可能性が高い。執権の子にしては官位等の記録も伝わらないことから、まだ元服直後だったのかもしれない。
 正慶2年(元弘3、1333)5月に新田義貞が率いる大軍が鎌倉に迫ると、父・守時と共に巨福呂坂方面に出陣してこれを迎え撃った。5月18日に洲崎での戦闘で父と共に自害して果てた。

赤橋宗時 あかはし・むねとき 生没年不詳
親族 父:赤橋久時 
兄弟姉妹:赤橋守時(第16代執権)・赤橋英時・赤橋種時・赤橋登子(足利尊氏正室)・赤橋種子(正親町公蔭室)ほか
子:赤橋重時
官職 駿河守
生 涯
―最後の執権・鎮西探題の兄弟―

 北条氏赤橋流、赤橋久時の子で、鎌倉幕府最後の執権となった赤橋守時、最後の鎮西探題の赤橋英時足利尊氏の正室・赤橋登子らと兄弟になる。しかし宗時自身の経歴はほとんど不明で、『太平記』の記述で駿河守であること、建武政権に対して伊予で挙兵した赤橋重時の父であることが知られるのみである。
 あくまで推測の域を出ないが、兄弟の英時に付き従って九州へ下っており、鎮西探題滅亡時に英時と運命を共にしたのではないか。息子の重時が伊予で挙兵しているのも、その時に重時だけは落ち延びさせたということかもしれない。

赤橋守時 あかはし・もりとき 1295(永仁3)-1333(正慶2/元弘3)
親族 父:赤橋久時 母:北条宗頼の娘? 弟:赤橋英時(鎮西探題) 妹:赤橋登子(足利尊氏正室)
子:赤橋益時・女子
官職 左近衛将監→讃岐守→武蔵守→相模守
位階 従五位下→従五位上→正五位下→従四位下
幕府 評定衆・引付頭・幕府執権(第16代)
生 涯
―最後の執権にして尊氏の義兄―

 北条氏傍流で、父・久時から鶴岡八幡宮の反り橋にちなんで「赤橋」を名字としている。父は1307年と早くに亡くなり、応長元年(1311)にまだ16歳の守時が幕府の評定衆に加えられている。しかし北条一族内では傍流とみなされそれほど重要視はされていなかったようである。

 嘉暦元年(1326)3月14日、得宗(北条宗家)・北条高時が病のために出家、執権を辞任した。直後に内管領・長崎高資とその父・円喜金沢貞顕を執権にすえたが、高時の弟・泰家を擁する勢力が反発、貞顕はわずか十日で執権辞任に追い込まれた。結局、4月24日に守時が新執権に就任することになるが、これは幕府内の両勢力が正面衝突を避けるために折り合いをつけた成り行きの人事と思われ、それだけ守時の存在が軽く見られていたとも言える。実際、執権・守時は全く主導権を持てない飾り物で、得宗・高時と内管領・高資の二頭冷戦状態で幕府政治が進められる。
 守時の妹・登子が有力御家人の足利高氏と結婚したのは守時の執権就任前後のことと推測される。足利家は代々北条氏と縁組していたからその流れで、ということもあろうが、政治的後ろ盾のない守時が有力者・足利氏と結びつこうと意図したものとの可能性も捨てきれない。
 単なる飾り物であることに嫌気もさしたのか、元徳2年(1330)に守時が執権辞任を表明したこともあったが、これは周囲の反対にあって実現しなかった。自身の地位すらも自由にならない「鎌倉幕府最後の執権」だったのである。

―謎めいた最期―

 守時が執権をつとめた7年間は、鎌倉幕府崩壊の過程であった。元弘元年(1331)に後醍醐天皇の二度目の倒幕計画が露顕して天皇の挙兵に至り、各地でこれに呼応する反乱が相次ぐなか、正慶2年(元弘3、1333)4月末、守時の妹婿である足利高氏が幕府に反旗を翻し、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。これに先立つ5月2日夜に人質として鎌倉に置かれていた高氏の子・千寿王(のちの足利義詮)が鎌倉から姿を消している。人質とされた千寿王と登子は守時が預かっていた、あるいは監視下においたものと考えるのが自然で(『太平記』でも直義が高氏に「奥方は執権の妹だから安全」と言ったことになっている)、千寿王の脱出には守時が関与しているのではないかとの見方も強い。

 5月18日、新田義貞率いる大軍が鎌倉に総攻撃を開始した。執権である守時も最前線に出陣し、巨福呂坂の防衛線で新田軍と激戦している。『太平記』には守時自身が「高氏と通じているのではと疑われている」南条高直に語るくだりがあり、その疑いを晴らすべく戦った末に自害している。足利方の軍記物『梅松論』では「すさき千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す」と記し、「すさき(洲崎)」とは鎌倉と藤沢の中間付近だったのではないかと言われている。このとき甥の千寿王は高氏の名代として新田軍に参加しており、守時の助命を画策する動きがあったとも想像されるが、幕府執権の立場としてはそれも難しかったのではないか。また義貞の妻の伯父・安東聖秀も降伏の勧めを拒絶して自害したと伝わるように、北条一門と家臣団の結束は相当に強いものがあったのではないだろうか。「梅松論」が伝える「一足も退かず」という表現に複雑な立場に置かれながら最後の執権としての意地を貫いた守時の心情を読み取ることができるかもしれない。

 建武政権成立後の1333年末、尊氏の運動で朝廷から守時の「後家」に一万疋の田地が贈られている。これも守時が登子・千寿王の鎌倉脱出に関与していた傍証とみる向きもある。
大河ドラマ「太平記」 守時のキャラクターを前面に打ち出したのは大河ドラマ「太平記」が最初といっていい。勝野洋演じる守時は第5回から第22回までほぼ出ずっぱりで、幕府の改革・再建を志す開明派でありながら飾り物の執権の地位に苦悩し、高氏の離反を察しつつ登子・千寿王に「新しい武士の世」の建設を託してこれを逃がし、自ら高時に懇願して出陣、高氏からの投降の誘いも拒絶して北条一族と運命を共にするという、あまりにもカッコいい役どころであった。守時が「戦死キャラ」と知って勝野洋は「うれしいな!」と言ったそうである。また三枝成彰作曲の「太平記」サウンドトラックには「孤独の戦士たち」と題する守時のテーマ曲が含まれている。このドラマでキャラクター個人のテーマ曲があるのは他に尊氏・後醍醐・正成・義貞・藤夜叉・登子ぐらいで、守時がいかに重要な位置づけとなっていたかがうかがえる。
その他の映像・舞台 舞台「幻影の城」の昭和36年(1961)上演で徳田実、昭和44年(1969)上演で森川公也が演じたという。
歴史小説では 小説作品中で目立つのは桜田晋也「足利高氏(尊氏)」。鎌倉攻防戦の場面だけの登場なのだが、義弟高氏の裏切りの責任を問われて「特攻」させられる設定で、守時は信じていた高氏に裏切られたことをかなり恨んで、高氏が地獄に落ちるとか、裏切り者は裏切りによって滅ぶから足利の先も見えたとか、ずいぶんなことを言って死んでいく。高氏をひたすらワルに描くこの小説ならではだろう。新田次郎「新田義貞」では主戦派・強硬派の性格に描かれ、鎌倉攻防戦で猪突猛進して戦死してしまうという珍しい書かれ方をしている。
漫画では 最後の執権なので登場していることは多いが北条高時のインパクトが強すぎるため守時が出てこない例も多い。横山まさみち「太平記(五)新田義貞・鎌倉の巻」で守時戦死シーンが印象的に描かれている。小学館の「学習漫画・日本の歴史」では飾り物であるとはいえ執権として正成・護良らの活動に激怒しその討伐を叫ぶ場面が描かれていた。湯口聖子「風の墓標」は赤橋家を中心とする物語のため全編にわたって登場、いつもやつれて病気がちのように描かれ、鎌倉攻防戦では当初死ぬ気はなかったが味方から死を求められていることを悟って自害するように描かれた。石ノ森章太郎「日本の歴史」では自害シーンが1カットだけ描かれる「特別出演」になっている。沢田ひろふみ「山賊王」でも鎌倉攻防戦が長いページをかけて描かれ、守時の悲劇的な最期がじっくりと描かれた。
PCエンジンHu版 シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で当然ながら幕府方武将で登場するが、なぜか美濃国土岐城に配置されている。能力は「弓6」でかなり強い。配置位置の関係で義弟の高氏と戦う羽目になりやすい。
メガドライブ版 楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで登場。能力は体力69・武力83・智力122・人徳84・攻撃力77。 

赤松(あかまつ)氏
 村上天皇の子孫・村上源氏で、家範から「赤松」を名乗ったとされているが疑問も持たれている。ただし南北朝時代にあって赤松氏は村上源氏の北畠氏と深い縁を保っており、少なくとも同時代にあっては村上源氏と認定されていたらしい。南北朝動乱のなか円心(則村)とその息子・則祐らが大いに活躍し、室町幕府草創の功臣として有力大名にのし上がったが、一方で南朝側との縁も続いており両朝の講和を仲介したり、南朝に走った一族もいる。のちに赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する「嘉吉の変」を起こして赤松氏はいったん滅ぼされたが、その遺臣たちが後南朝から三種の神器を奪還する功績をあげ、政則の代に再び大名に返り咲く。しかし戦国時代に一気に没落し、関ヶ原で西軍に味方したため赤松宗家は断絶した。赤松氏の子孫の一部は旗本石野氏や久留米藩主有馬氏として系譜をつないでいる。

宇野頼範 ┬則景 ─赤松家範 ─久範 ─茂則 円心 範資 光範七条






├朝範






├直頼






├師範






範実






貞範 ┬頼則→春日部






└顕則






則祐 義則──── ┬満祐





氏範
├時則 └義雅 ─時勝 ─政則




└円光 別所
├満則



└将則 ┬為頼── ─景頼 ─頼定 小寺
├持則




└範重── 佐用


├義祐→有馬









├祐秀









└細川持之室



赤松氏範 あかまつ・うじのり 1327(嘉暦2)?-1383(永徳3/弘和3)
親族 父:赤松円心 兄弟:赤松範資、赤松貞範、赤松則祐
子:赤松氏春、赤松家則、赤松祐春、赤松季則
官職 弾正少弼
生 涯
―怪力異端児の波乱人生―

 赤松円心の四男。『太平記』では貞和5年(正平4、1349)8月に幕府内の足利直義高師直両派の対立が頂点に達し、両派がそれぞれの屋敷にかけつけ合戦寸前の状態になった時に、父・円心、兄の則祐と共に高師直の屋敷に馳せ参じた場面で初登場している。
 その後の「観応の擾乱」の中で、則祐がかつて仕えていた護良親王の遺児「赤松宮」(陸良親王とみられる)を奉じて一時的に南朝と和議を結ぶと、氏範は赤松宮に従って吉野の山中に入った。則祐はその後南朝から離れるが、氏範はそのまま南朝側に残った(「太平記」に他の兄弟と不仲との表現がある)。正平8年(文和2、1353)に山陰の山名時氏が南朝に帰順して京を攻めると、南朝は四条隆俊を大将としてこれに呼応、この南朝軍に氏範は加わった。
 6月9日、京に突入した南朝軍は四条河原付近で幕府軍と激突、「いつも打ごみの戦(大軍のぶつかりあい)を好まぬ者」である氏範は少数の軍勢で突入、名のある武将を討ちとろうと強敵を探しまわった。北白河から今路に向かう途中で猛将として有名な長山遠江守を見つけ、「長山殿と見た。敵に後ろを見せるか」と呼びかけた。長山に名を問われ「赤松弾正少弼」と名乗ると、「よき敵」と一騎打ちになった。長山が大まさかりで氏範に斬りかかると氏範はこれを小脇にはさみこみ、奪い合ううちに大まさかりは真っ二つに切れてしまった。長山は自分以上の怪力に初めて出会って恐れて逃げてしまい、氏範は「余計に力があったために逃がしてしまった」と悔しがり、もう敵は誰でも同じこと、一人も逃がすまいと暴れまわり、奪い取ったまさかりを振りまわして敵兵を殺戮して回ったという(「太平記」巻三十二)

 正平10年(文和4年、1355)、足利直冬を奉じた山名時氏・桃井直常らが京へ攻め入ると、氏範もこれに合流して京に入った。2月15日の直冬の本陣のある東寺前での戦闘で、氏範は郎党の小牧五郎左衛門が重傷を負っているのを見つけて馬上からその手を引いて歩かせていた。これを見た直冬が「味方を助けよ」と号令すると、氏範は小牧をつかんで本陣の中へと投げ込み、五尺七寸の大刀を振るってただ一騎敵軍に突入して奮戦、敵兵の兜を割って胸板まで切り込み、胴を瓜のように斬って落とすという怪力を見せて敵軍を撃退した(「太平記」巻三十三)

 正平15年(延文5、1360)、氏範は吉野十八郷の兵と共に赤松宮(陸良親王)のもとにあったが、4月25日に赤松宮は南朝に対する反乱を起こし賀名生の行宮を焼き払った。南朝側も兵を集めて対応したため吉野十八郷の兵たちは早くに赤松宮のもとから逃げ出したが、氏範は「今さら弱きを見捨てるのは弓矢の道ではない。やむをえん、討ち死にするほかはあるまい」と言ってわずか26騎で三日三晩奮戦した。さすがの氏範も全身に数か所の傷を負って観念し、赤松宮を奈良へ逃すと、自らは幕府に投降して故郷播磨へと帰った(「太平記」巻三十四)
 康安元年(正平16、1361)9月に幕府の執事・細川清氏が南朝に下ると、10月にこれに呼応して山陰から山名時氏が美作を攻めたため、赤松則祐は兄弟の貞範・氏範と共にこれを迎え撃った。12月に清氏らの南朝軍が京を占領すると、氏範は則祐の指示に従って海路から堺・天王寺方面へ向かい、南朝の後村上天皇および楠木氏の拠点を奪い取る勢いを見せた(「太平記」巻三十七)。このため南朝軍は京を撤退することになるのだが、このとき氏範の甥・範実は一時的に南朝軍に加わっている。

 正平24年(応安2、1369)10月10日、しばらくおとなしくしていた氏範は何か不満があったのか再び南朝に鞍替えして、領地の摂津・中島で挙兵した。幕府は同族の則祐・光範に命じてこれを討たせ、敗れた氏範は天王寺方面へ姿をくらました。
 それから14年後の弘和3年(永徳3、1383)に播磨国で再び挙兵するも敗北し、9月3日に同国清水寺で氏春家則ら息子たち四人および郎党百余人と共に自害して果てた。享年57という。従来氏範の死はこれより三年後の至徳3年(元中3、1386)と考えられていたが、永徳3年9月付で赤松義則(則祐の子)が氏範らが清水寺で死んだので追善のために土地を寄進する内容の書状を書いていることから実際には「永徳3年」没とするのが正しいとみられる。
 後年(恐らく近代以降)、氏範は赤松一族の中にあって唯一の「南朝忠臣」として祭り上げられたようで、播磨の清水寺には彼の墓やら「切腹石」なるものまであり、なぜか詳細な戦死の模様まで伝えられ、昭和初期に顕彰碑まで建てられている。この手の「南朝現象」はあちこちで見られるものでまず信用しない方がいいのだが、それにしても彼が南朝の皇居を焼き打ちしているという「逆賊」そのものの行為が忘れ去られてるらしいのが可笑しい。
  
参考文献

高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
渡邊大門「赤松氏五代」(ミネルヴァ日本評伝選)
メガドライブ版 足利帖でプレイすると京都攻防戦と白旗城の戦いのシナリオで味方で登場、楠木・新田帖でプレイすると白旗城の戦いのシナリオで敵将として登場する。能力は体力97・武力52・智力83・人徳66・攻撃力44。武力はちと足りないが体力がやたらあるのは「太平記」が伝える武勇談の反映か。

赤松円心 あかまつ・えんしん 1277(建治3)-1350(観応元/正平5)
親族 父:赤松茂則 子:赤松範資、赤松貞範、赤松則祐、赤松氏範 甥:宗峰妙超(?)
幕府 播磨守護
生 涯
 播磨の土豪から身を起こし、鎌倉幕府の打倒から建武政権の崩壊、足利幕府の設立にいたる過程で重要な役割を果たして、室町時代の名門・赤松氏の基礎を築いた南北朝大立者の一人。楠木正成と何かと比較される武将でもある。

―「悪党的」なゲリラ戦の展開―


 赤松氏は播磨の豪族で村上源氏とされているが事実かどうかはあてにならない。播磨佐用荘を支配する新興武士であったと思われ、当時播磨に多く発生していた「悪党」との関わりも深かったものと推測されている。
 則村(のりむら)、のちの円心は若き日に禅僧・雪村友梅に出会い、人相を見た雪村から「必ず貴ならん(きっと出世しますよ)」と言われ、「誠に師の言の如くんば敢えて徳を忘れず(本当にそうなったらきっと恩返しいたします)」と感激した、という逸話が『翰林葫蘆集』拈香に載っている。雪村は1307年に元へ渡っているためこの逸話が事実とすればそれ以前のこととなるのだが、当時雪村はまだ18歳の若年でありやや不自然でもある。後年円心がこの雪村と関係が深くなるので、人相の話はともかく渡元以前に面識があったという程度のことなのかもしれない。なお鎌倉末期に花園後醍醐両天皇から帰依をうけた禅僧・宗峰妙超(1282-1337)は、円心の姉が赤松家臣・浦上一国に嫁いで産んだ子とも伝えられている。 

 円心の長男・範資と次男・貞範が尼崎にあった長洲荘で荘官を勤めていたことが嘉暦元年(1326)の起請文に名があることから確認でき、漁業と商業で栄えたこの地に赤松一族が勢力を及ぼしていたことが分かる。こうした点は楠木正成名和長年といった建武政権確立に功のあった「悪党」的新興武士たちに共通している(あくまで一説であるが正成と円心の間に姻戚関係があるとするものもある)。そして円心の三男・則祐は比叡山に入れられ、やはり赤松一族の小寺頼季とともに護良親王の腹心として活動しており、円心がかなり早い段階で後醍醐周辺に人脈を持っていたこともうかがえる。

 元弘元年から反幕府のゲリラ活動を展開していた護良親王から側近の則祐の手により倒幕の令旨が円心にもたらされたのは元弘3年(1333)1月から2月のことと思われる。だがその直前の元弘2年12月9日に護良親王の配下と思われる一隊が京周辺に進出して騒ぎを起こしており、その討伐に宇都宮(公綱?)と共に「赤松入道」が向かったとの史料があり、この時点では幕府側、それも六波羅配下にあって護良派討伐にあたっていたことが知られる(日蓮宗妙光寺金剛集裏書、僧日静書状)。それはあくまで形だけで情勢をうかがっていた可能性もあるが。
 1月21日に円心は一族とともに苔縄城に挙兵、山陽道に進出して摂津・摩耶山にたてこもり、討伐に来た六波羅軍を山の地形と伏兵を駆使した巧みな戦術で撃破する。勢いに乗った赤松軍は3月に山崎へ進出、雪解け水で水位が増していた桂川を強行渡河し、京都市中へ乱入する。さすがに六波羅軍の抵抗も激しく蓮華王院の戦いで赤松軍は大敗を喫して壊滅状態となるが、円心父子らは敵軍に混じって悠然と逃げたとされる。その翌日六条河原に赤松兵の首が数多くさらされたが、その中に「円心入道の首」が5つもあったという。

 いったん態勢を立て直した赤松軍はその後も散発的に六波羅軍と戦うが決定打は足利高氏の反旗を待たなくてはならなかった。高氏とともに六波羅から出陣していた名越高家は赤松軍の佐用範家に射殺され、これを受けてそれまで傍観していた高氏が丹波篠村に移動して反北条の挙兵を行っており、出陣の時点で高氏と円心の間で意思の疎通があったことがうかがえる。高氏が反旗を翻して六波羅を攻撃すると、円心らもこれを助けて京に乱入、放火による霍乱活動を行っている。これら一連の赤松軍の活躍は『太平記』の伝えるところだが、足軽・野伏といったいわゆる「悪党」集団による神出鬼没のゲリラ戦は楠木正成軍の戦いぶりにも通ずるところがある。

―建武政権打倒―

 しかし建武の新政における両者の扱いは大きく明暗を分けた。円心にははじめ播磨守護職が与えられたが間もなくこれを取り上げられ、本拠地である佐用荘一つを安堵されたのみで事実上恩賞はゼロに近かった。これは円心が息子・則祐を通じて護良親王にあまりにも接近していたため、護良を警戒する後醍醐の寵妃・阿野廉子らの一派によって排除されたものとの見方が強い。また播磨国司に任じられた新田義貞の意向をみる説もある。いずれにせよこの結果に円心は絶望して播磨へ戻り、いち早く建武政権から離脱することになる。

 建武2年(1335)、足利尊氏が北条残党による中先代の乱鎮定のために関東へ出陣、事実上建武政権からの離脱を表明した。このとき尊氏は円心に連絡を取り、円心は次男・貞範を尊氏に同行させている。その後尊氏は新田義貞の討伐軍を箱根・竹之下の合戦で破るが、このとき貞範が活躍している。新田軍を破った尊氏は西上、建武3年(延元元、1336)正月に京都を占領するが、間もなく到着した北畠顕家軍に敗れて京から撤退する。このとき尊氏を摂津・湊川に迎え入れたのが円心である。『梅松論』によれば、このとき円心が尊氏に「光厳上皇の院宣を受けて朝敵の汚名を免れ、錦の御旗を立てるべき」という重大な提案を行ったとされる。これが本当に円心個人の提案なのか疑問視する意見もあるが、楠木正成と並んで建武政権の立役者である円心の情勢分析が尊氏らにかなりの重みをもたれた可能性はある。同じ『梅松論』がこの直後に正成が「尊氏との和睦」を後醍醐に提案したと記していることともよく呼応しているとも思える。

 尊氏は態勢を立て直すために九州に下り、追撃してくる新田軍を食い止めるべく山陽道に有力部将を配置した。その最初の関門である播磨は赤松円心が受け持ち、円心は険峻な峯の上に「白旗城」(源氏の白旗にちなんだという)を建設して新田軍を迎え撃つことになる。『太平記』によれば円心ははじめ新田義貞に投降の姿勢をみせ、「播磨の守護職を与えるとの綸旨を受けたい」と条件を示して篭城の時間を稼ぎ、十日後に義貞が綸旨を持ってくると「播磨守護職は将軍(尊氏)より与えられておる。手のひらを返すような綸旨がなんの役に立つか」と痛烈な皮肉で突き返した。激怒した義貞は「なんとしてもこの城を落とす!」と白旗城に総攻撃をかけたが、赤松軍得意のゲリラ戦に悩まされ、ここで50日も足止めを食ってしまったという。これも話が面白すぎて史実かどうか疑問視する声もあるが、円心が義貞軍を翻弄して足止めを食わせたことは事実とみていいだろう。「太平記」では攻めあぐねる義貞に弟の脇屋義助「先年、楠木正成がこもる金剛山(千早城)を落とせぬうちに天下がひっくりかえってしまったではないか」と忠告する描写があり、円心の位置づけが正成とよく似ていると当時も言われていたことをうかがわせるセリフとなっている。

 やがて九州を平定して東上を開始した尊氏の大軍が迫り、義貞は5月18日に白旗城の包囲を解いて退却を始めた。翌日、包囲戦を耐え抜いた円心は室津で尊氏に面会、このとき白旗包囲に参加していた兵たちが残していった旗印を円心が尊氏に見せ、尊氏が「もと味方だった者の旗印もあるが、彼等は一時の難を避けるためにやむなく新田についたものであろう。やがて我らの味方に戻ってくるだろう」と言ってそれらを円心に預けたとの逸話が『梅松論』にある。
 直後の湊川の戦いにも赤松軍(範資)の参加が確認できるが、その後の京都攻防戦には参加していないらしい。これは播磨では守護をつとめた新田義貞の一族による抵抗が続いており、その掃討に力を注いでいたためらしい。これらの掃討が終了したのはようやく暦応3年(興国元、1340)のことと考えられる。この間に円心は播磨の、長男・範資には摂津の守護職が尊氏から与えられ、赤松一族はようやく宿願を果たすことになる。

―晩年―

 功成り名遂げた円心は、かねてから心に決めていた寺院建立を実行に移す。その開山として招かれた高僧が若き日に円心の出世を予言したという雪村友梅である。雪村を本拠地・赤松の地に招いて開かれた金華山・法雲寺は建武4年(延元2、1337)12月25日に円心も参列のもと盛大な落慶供養が催された。4年後に雪村は足利直義から京都五山の万寿寺の住職となるよう要請されるが、雪村はこれを固辞、円心に迷惑がかかるのを恐れて法雲寺を出て隠棲してしまう。結局円心の懇願を受けて万寿寺に行くことになるのだが、その後も二人の交流は続き、貞和元年(興国6、1345)に京都・建仁寺で雪村が逝去すると、円心は建仁寺に雪村を弔う塔を建てて「大竜庵」と名づけ、その近くに私邸を置いて雪村を偲びつつ晩年を送ったという。

 貞和5年(正平4、1349)、幕府の内戦、いわゆる「観応の擾乱」が始まる。8月に高師直がクーデターを起こして足利直義を失脚させるが、このとき師直側に駆けつけた者の中に赤松円心の名が確認できる。このクーデターは尊氏の意向を受けたものと考えられ、円心も師直というよりは尊氏に味方したということなのだろう。このとき直義の養子・直冬は備後に鞆津におり、その東上を阻むため円心は播磨に下り、美作国境付近の防衛を固めている。後に名城として知られる姫路城はこのとき円心らによって築かれたとも言われる。

 播磨の防衛を固めて京都に戻った直後の貞和6年=観応元年(正平5、1350)正月13日、円心は私邸で急逝した。享年74。全く突然の死であったようで、譲状(遺言状)も作られておらず、一族相談の上で長男・範資が家督を継ぎ、遺産の分配も決められている。円心の葬儀は大竜庵で行われ、雪村とともにここに葬られた。現在は建仁寺の久昌院境内に墓は移され、雪村の塔の隣に寄り添うように建っている。故郷の法雲寺にも円心の墓が立てられたが、こちらは現存しないそうである。しかし同地の宝林寺には円心60歳の寿像と思われる見事な木像(左図)が保存されており、そのいかにも「乱世の英雄」らしい強烈な顔つきを今日に伝えている。

―後年の評価など―

 生涯を見れば楠木正成に匹敵する活躍をし、しかもその後の室町幕府で重要な位置を占めた赤松一族の繁栄の基も築いた大物なのだが、戦前は「逆賊尊氏」についたせいもあり風当たりが強く、戦後も今ひとつ光があたらなかった武将である。
 1991年のNHK大河ドラマ「太平記」放映が決まったことがきっかけなのか、放送前年の平成2年(1990)には円心の故郷・兵庫県上郡(かみごおり)町は「郷土の英雄」として「円心くん」という可愛い小坊主キャラクターをつくって町おこしに一役買わせている(円心というより一休さんみたいだが(笑))。平成6年(1994)12月には同町を走る智頭急行智頭線に郷土の英雄の名を冠した「河野原円心」駅が開業している。ちなみにこの路線には「苔縄」「佐用」など赤松ファン大喜びの駅名(笑)があり、ついでに「宮本武蔵」駅も存在する(吉川英治「宮本武蔵」では武蔵は赤松一族家臣の末裔の設定)
 大河ドラマ放映と前後して北方謙三が円心を主人公とする小説「悪党の裔」を発表。平成9年(1997)にNHK「堂々日本史」で三回にわたり南北朝時代がとりあげられ、北方謙三と佐藤和彦両氏が出演、「悪党」をキーワードにトークを行っているが、ここでも北方氏は円心の行動を「天下を動かす転換点をつくる、乱世に生きる男のロマン」と評し、「そんな円心に私は惚れているんですよ」と発言している。

参考文献

高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
大河ドラマ「太平記」 このころから映画・ドラマによく顔を見せるようになった個性派俳優・渡辺哲が演じ、第20回「足利決起」で初登場した。「播磨の悪党」と紹介され、僧侶の頭巾、上半身裸の上に鎧を着て太刀を肩にかけ、子分たち四人に担がせた輿に乗って出陣という、まさに異類異形、どうみても「山賊の親分」としか思えない、あまりにもインパクトあるスタイルであった。しかし脚本集をチェックするとシナリオ段階では倒幕までは息子の則祐のほうが出番が多く、円心本人の登場は建武政権期以降の予定だったように見える。
建武政権下では護良親王の側近として尊氏排除も画策しているが、恩賞問題で激怒、宮中の女官達を突き飛ばしながら退出、後醍醐のみならず護良も見限り、尊氏に慰められて「主とするならこの方」と決意するなど印象的な場面が多い。「院宣を受けよ」と提案する場面もちゃんとあったが、佐々木道誉と共同提案のような形にされていた。第36回「湊川の決戦」では冒頭で新田義貞との白旗城攻防戦がチラッとではあるがちゃんと野外ロケで挿入され(もっと長時間撮ったがカットされた可能性高し)、悔しがる義貞を見下ろして不敵に高笑いするカットが最後の登場となった。残念ながら現在発売されている総集編DVDでは円心の登場シーンが全て削除されており、完全版でないと見ることができない。
その他の映像・舞台 昭和14年(1939)の映画「菊水太平記」で志賀靖郎、同年の映画「吉野勤王党」で荒木忍が演じたという。後者は内容が不明なのだが配役には円心の息子たちがズラリと並び、長男が主役となっている。
アニメ「まんが日本史」では第24回で登場(赤松則村として)、やはり敗北した尊氏が院宣を得ようと決意する場面だが、円心が進言する形にはなっていない。声は佐藤正治
歴史小説では 大河ドラマ放映直後の1992年には、北方謙三の南北朝歴史小説の一作として赤松円心を主役とする「悪党の裔(すえ)」が刊行された。北方流「男のロマン」が漂い、円心が同じ「悪党」である楠木正成と早くから交流し、やがて異なる道を歩んでゆく過程が描かれた。その後北方謙三は「楠木正成」も発表しており、同じ展開を正成側視点から読むことが出来る。
漫画では 重要人物には違いないので学習用歴史漫画にはたいてい顔を見せているが、インパクトはそれほどない。昭和40年代の集英社版では露骨に悪人風(南北朝分裂の原因を作る進言を尊氏にするため)に描かれていた。
沢田ひろふみの漫画「山賊王」は赤松円心が最重要キャラの一人として活躍する注目作品。この漫画は「八犬伝」のように体に星のアザをもつ男たち6人が幕府打倒のために結集していくストーリーになっていて、その6人のうち一人が赤松円心のため同じく「星」の一人である楠木正成とタメをはるほど強烈な存在感を発揮している。建武政権崩壊の過程でこの6人は敵味方に分かれるはずであるが、物語は鎌倉幕府滅亡で終了し、「星」の設定はリセットされるという形で処理された。
河部真道『バンデット』は物語の第一章が「赤松入道円心」と題され、主人公の「石」たちが赤松円心と対決する展開となっていた。円心のキャラはかなり強烈で、物語後半でも六波羅攻撃の模様が詳しく描かれた。
PCエンジンHu版 シナリオ1に朝廷派で播磨・白旗城に登場、能力は「長刀4」
PCエンジンCD版 播磨に拠点をおく北朝系独立勢力の君主。統率・86、戦闘・90、忠誠・71、婆沙羅・36で北朝方でしかも寝返り可能性が低い有力武将で、味方よりも敵に回した時に存在感がある。
メガドライブ版 楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで登場。能力は体力69・武力83・智力122・人徳84・攻撃力77。 
SSボードゲーム版 立場は中立。身分は「武将」で勢力地域は「山陽」。合戦能力3・采配能力5でかなり強力な部類に入る。ユニット裏はなぜか赤松満資。

赤松貞範 あかまつ・さだのり 1306(徳治元)?-1374(応安7/文中3)
親族 父:赤松円心 兄弟:赤松範資、赤松則祐、赤松氏範
子:赤松頼則、赤松顕則
官職 雅楽助・筑前守・伊豆守
幕府 美作守護
生 涯
―各地で転戦した円心の二男―

 赤松円心(則村)の次男。生年は不明だが摂津国尼崎の長洲御厨の大覚寺に残る荘官たちの起請文(嘉暦元年=1326のもの)の中に兄の範資と共に「惣追捕使貞範」の署名があることで実際に若いころ尼崎で荘官を務めていたことが確認できる。

 元弘の乱が起こると父・円心に従って京・六波羅探題を攻略、弟の赤松則祐と共に京に攻め込んで敵軍に紛れて奮戦する模様が『太平記』で語られている。
 建武の新政の論功行賞で不遇をかこった赤松円心は播磨に戻り、建武2年(1335)に中先代の乱が勃発してそれを鎮圧するために足利尊氏が無断で出陣すると、円心は次男の貞範を足利軍に同行させた。貞範は北条時行の軍相手に箱根の水飲峠、相模川の合戦で奮戦、足利軍の勝利に大きく貢献している(太平記)。続いて尊氏を討つべく東下してきた新田義貞らの軍との竹ノ下の戦いでも先頭に立って突撃を敢行した。その後尊氏に従って京へ攻め上り、西から攻める細川定禅の軍に加わっていた兄の赤松範資から手紙を受け取ると淀川を渡って合流して兄弟の再会を喜び合い、兄弟そろって足利軍の京攻略の先鋒をつとめた。

 足利幕府の成立後は創業の功臣の一人として美作守護をつとめた。貞和2年(正平元、1346)から播磨の姫山山上にあった称明寺を移転させ、ここに新たな城の建設を開始、これがのちの姫路城のルーツとなる。また丹波国春日部荘を領したことから「春日部殿」「春日部雅楽助」などと呼ばれていた。貞和3年(正平2、1347)9月には兄の範資と共に南朝の楠木正行の軍と天王寺付近で戦い、敗走している。

 観応元年(正平5、1350)正月に父・円心が死去、赤松家の惣領は円心の長男の範資が継いだ。折しも足利幕府は尊氏・高師直派と足利直義派に分かれた内戦「観応の擾乱」に突入しており、赤松一族は基本的に尊氏側に属して行動している。いったん尊氏と直義が和睦した翌観応2年(正平6、1351)の4月に範資が死去し、赤松家惣領の地位は円心の三男・則祐に引き継がれる。なぜ兄の貞範ではなかったのか疑問もあるが、則祐はすでに幕府の実力者・佐々木道誉の娘婿となっており、実力においても貞範より認められていたためと思われる。この直後に尊氏・直義は再び決裂、7月に尊氏派と見られる武将たちが次々と京から姿を消すが、その中に「雅楽助貞範」の名もあった(園太暦)

 その後、足利直冬を奉じた山陰の山名時氏の勢力が播磨・美作をたびたび侵すと、貞範は則祐らと共に主に美作方面でこれを防いだ。また足利義詮が将軍となり、南朝への攻勢をかけた際にも赤松一族の一員として出陣した。このころ出家して「世貞」の法名を名乗っている。康安元年(正平15、1361)に細川清氏が南朝軍と共に一時京を占領した際にも弟・則祐や甥たちと共に幕府軍支援のために出陣している。
 応安4年(1371)に幕府の重鎮となっていた弟の則祐が先に死去し、貞範もそれから間もなく死去した。『赤松系図』によれば則祐におくれること三年、応安7年(文中3、1374)に六十九歳で死去したとされる。これが正しければ徳治元年(1306)の生まれということになる。

参考文献

高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
その他の映像・舞台 昭和14年(1939)の映画「吉野勤王党」で「円心の二男次郎右衛門」という役があり、舟波邦之介が演じている。ただしこの映画の内容は良く分からず、「円心の二男」となっていても貞範当人を指しているとは限らない。
歴史小説では 赤松円心を主役とする北方謙三「悪党の裔(すえ)」など、一部に登場している。
漫画作品では
河部真道『バンデット』では赤松円心と息子たちがそれぞれに「キャラ立ち」して描かれており、ちょっとしか顔を出さない貞範も「太目キャラ」「ドジキャラ」的に登場する。太目と言われるとキレて、則祐を川に投げ込む場面もあった。
メガドライブ版 足利帖でプレイすると京都攻防戦と白旗城の戦いのシナリオで味方で登場、楠木・新田帖でプレイすると白旗城の戦いのシナリオで敵将として登場する。能力は体力88・武力85・智力69・人徳44・攻撃力76。 

赤松則祐 あかまつ・そくゆう(のりすけ) 1311(応長元)-1372(応安4/建徳2)
親族 父:赤松円心(則村) 兄:赤松範資、赤松貞範 弟:赤松氏範 妻:佐々木道誉の娘
幕府 播磨・備前・摂津守護 禅律方頭人
生 涯
 赤松円心の三男。上に二人の兄がいていずれも南北朝動乱のなか活躍しているが、三男の則祐はある意味父親以上に異色の経歴をもち、赤松氏を室町幕府「四職」の一つとなる有力大名に押し上げたのは彼の功績によるところが大きい。

―動乱の青春―

 父・円心の意向を受けてのことと思われるが、元弘の乱に先立つ時期に比叡山に入り、天台座主となっていた護良親王の側近となっている。やはり側近として親王と行動を共にした小寺頼季(小寺相模)も赤松一族で、早い段階から赤松一族が後醍醐周辺と関係を持っていたことが想像される。

 元弘の乱が勃発すると護良は比叡山から笠置山、楠木正成の赤坂城へと移動、さらに吉野・熊野の山間部へ潜伏する。このときに「赤松律師則祐」と「小寺相模」も同行し、山伏に扮した彼らの冒険譚は『太平記』序盤の読みどころの一つとなっている。この途中、芋瀬庄司に「誰か人質としておいていけ」と言われた時に則祐は自ら人質役を志願し、護良から「赤松の忠」と称えられている。
 護良や正成による反北条のゲリラ戦が激しくなる中、則祐は護良の令旨を持って播磨の父・円心のもとへ戻り、元弘3年(元徳2、1333)2月に赤松一族をあげての挙兵に至る。赤松軍は神出鬼没の用兵で六波羅軍を撃破、勢いに乗って京都へ攻め込む。このとき雪解け水で水かさを増した桂川に、則祐が父・円心の制止を振り切って飛び込み、彼を先陣として赤松軍が大挙渡河、一時とはいえ京都乱入に成功している。結局六波羅軍の激しい抵抗にあって赤松軍は四散するのだが、赤松父子は敵軍の中にまぎれて悠々と逃走している。

 建武の新政では赤松氏は恩賞で報いられることがなく、父・円心は早々と見切りをつけて播磨に帰った。このとき則祐がどうしていたのかは不明だが、それまで行動を共にしていた護良と一緒にいないところを見ると、父に従って播磨に下ったものと思われる。足利尊氏が建武政権に対して反乱を起こすと赤松一族は尊氏方につき、兄の範資貞範は足利軍に参加して京都の攻防を戦っている。その後尊氏はいったん敗れて九州に下り、赤松氏は追ってくる新田軍を播磨で食い止める役割を果たすが、父・円心による白旗城篭城戦が続く中、則祐は父の使いで尊氏のもとへ赴き、一刻も早い東上を要請している。

―混沌の情勢の中で―

 尊氏軍の東上と湊川の戦い、京都再占領、南北朝分裂という流れの中で、則祐ら赤松一族はもっぱら播磨・摂津の南朝方との戦いを続けていた。そして父・円心が観応元年(正平5、1350)正月に死去すると、家督と播磨・摂津守護職は長男の範資が継ぎ、弟たちはそれぞれの領地を地頭として治めることになった。おりしも観応の擾乱が始まっており、則祐ら赤松一族は尊氏・高師直に従って直冬を討つべく備中へ進出、その後足利直義が南朝と結んで挙兵すると、取って返して摂津打出浜で直義軍と戦っている。この戦いは尊氏側の敗北に終わり、『太平記』によれば尊氏および赤松一族は自害を覚悟したというが、直義側と和睦が成立、尊氏は京に戻った。しかしその途上で師直兄弟が暗殺されている。

 この混沌とした情勢の中で、則祐は独自の行動をとり始める。かつて自分が仕えた護良の遺児で南朝軍を率いていた「兵部卿親王(陸良?)」を迎え入れ、これを奉じたのである。この親王はこれにより「赤松宮」と呼ばれるが、則祐は幕府方の有力武将の一人でありながらも過去の経緯から南朝との間に一定の気脈を通じるところがあったらしい。といって二股をかけたというものでもなく、両朝の平和裏の合体を望んでいたと考えられる。尊氏・直義の一時の和睦が決裂すると、則祐は播磨に赤松宮を奉じて兵を募り、情勢をうかがう姿勢をとった。

 この混沌のさなかの観応2年(正平6、1351)4月、赤松家惣領の兄・範資が急逝した。尊氏は摂津守護職は範資の子・光範に継がせたが、赤松惣領の本拠というべき播磨守護職は則祐に与えている。円心の次男・貞範は問題行動の多い人物だったらしく、実力者・佐々木道誉の婿であり歴戦の勇士、しかも南朝に一定の関わりをもつ則祐が赤松家の惣領の地位を継ぐにふさわしいと判断されたのだろう。
 直義と再び戦うことになった尊氏は、恐らく赤松則祐を仲介者として南朝に降伏し、ここに「正平の一統」が実現した。南朝・後村上天皇の勅使忠雲僧正が京都に入るにあたっては、則祐が護衛役を務めている。「正平の一統」は尊氏が関東へ出陣して留守の間に南朝軍が京都に侵攻、一時占領することで崩壊するが、則祐はこの時点で完全に南朝と縁を切り、足利義詮を助けて楠木軍らと戦っている。このとき末弟の赤松氏範は南朝方にとどまり、のちに赤松宮を奉じて南朝内部で反乱を起こして則祐のもとへ戻ってくることになる。

 文和4年(正平10、1355)1月、山名時氏桃井直常らが足利直冬を奉じて南朝軍と共に京都へ突入、このとき則祐は舅の佐々木道誉と共に義詮を助けて摂津から京都奪回を目指し、神南で山名軍と激闘している。このとき山名軍が義詮の本陣に迫るなか則祐と道誉が敷皮の上に悠然と腰をおろして一歩も動かず、義詮に「我らの討ち死にを見てからご自害なされ」と言い、さらに則祐が陣幕を押し上げて「天下の分け目はこの一戦にある。命を惜しむな。名将(義詮)の前で戦死して名を後世に残せ」と兵らを叱咤、山名軍を撃破したことが『太平記』に印象的につづられている。その後も則祐は山陰の山名軍と国境でにらみ合い、その動きを牽制した。

―晩年―

 康安元年(正平16、1361)、管領・細川清氏が佐々木道誉の策謀にはまって反乱を起こし、南朝軍と共に京都へ攻め込んだ。このとき義詮の子・春王(のちの足利義満)は京を脱出して赤松則祐に白旗城に迎えられ、ここで一時を過ごしている。このとき則祐が春王を楽しませようと見せた家臣たちの踊りが「赤松ばやし」で、以後義満が赤松邸を訪ねるたびに行われ、円心の命日正月13日の恒例行事になったという。こうした縁で則祐はのちのちまで義満に信頼され、世間は義満を「則祐の養君」と呼んだという。

 動乱が次第に落ち着いていく中で則祐は播磨・摂津の守護職をつとめつつ国人層を家臣化して領国経営をすすめ、赤松氏の有力守護大名としての地位を固めていく。一方で末弟の氏範が南朝から戻ってきても落ち着かず、その後もたびたび南朝について挙兵し、則祐らの追討を受けている(結局永徳3年(1383)に自害に追い込まれる)。幕府内では応安3年(建徳元、1370)に道誉のあとをうけて禅律方頭人(禅・律など宗教関係を扱う長官)に任命されるなど要職を占めた。

 応安4年(建徳2、1372)11月29日、赤松則祐は肺炎と思われる病気で七日間寝込んだだけであっけなく世を去った。享年61。臨終に立ち会い末期の説法をおこなった太清宗渭はそのときの問答をこう述べている。則祐は太清に「生死もただこれ夢。この夢は何回ほどあるのだろうか」と問うた。太清が「この時にいたって夢だ幻だ、などと考えるのもまた妄想であります。妄想をなされますな」と答えると、「この時において趙州無字(犬に仏性があるか、の問いに趙州が「無」と答えたという禅の公案の一つ。「無」の概念をめぐる哲学的難題である)こそが真理でありましたか」と則祐は言って息を引き取ったという。
 なお、結婚の時期は不明だが則祐の妻は佐々木道誉の娘である(正室らしいが不明確)。彼女が嫡男・義則の母とすれば義則は延文3年(1358)の生まれなので結婚の時期はかなり遅かったものと推測される。建武政権の崩壊と足利幕府の成立後に両家の関係を深めるため縁組が行われたものと考えられる。

参考文献
高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
大河ドラマ「太平記」 第12回「笠置落城」で、笠置山にはせ参じた楠木正成に後醍醐方についた武将たちが挨拶する場面で小寺頼季とともに17歳の少年として紛れ込んでいる(演・斉藤拓)。その後第24回「新政」で護良親王が尊氏打倒の相談をしている場面で円心の脇に座っているが、俳優は変更されておりセリフもない(演・齋藤志郎)。脚本集をみると第22回「鎌倉炎上」のラストで尊氏と鎌倉陥落について語り合うのは円心ではなく則祐の役回りになっており、当初は出番が多かった可能性もある。
その他の映像・舞台 戦前の昭和14年(1939)に森一生監督「吉野勤王党」という映画があり、市川男女之助が「円心入道の三男三郎兵衛」を演じている。ただしこれが則祐のことなのかどうか良く分からない。
歴史小説では 現時点で則祐自身を主人公とした小説としては藤本哲氏による自費出版「赤松則祐」(1982)が存在する。藤本氏は地元の研究者で赤松氏に関する書籍を多く書き、その一冊として「則祐」をとりあげたもの。小説と伝記をいったりきたりな内容で自費出版ということもありやや入手困難かも。
父・円心を主人公にした北方謙三の小説「悪党の裔」や、足利義満を主人公とする平岩弓枝「獅子の座」、あるいは護良親王を扱った作品で脇役として登場している。ついでながら当サイト掲載の架空大河ドラマ「室町太平記」でも前半の主要人物の一人で、神南の戦いでの道誉との奮戦ぶりや義満を白旗城に預かった時の逸話が描かれた。新田次郎「新田義貞」では京都大番役を務める義貞が京市内で護良親王一行と出くわし、それぞれ代表を出して相撲を取らせることになる場面で護良側の代表に指名されたのが則祐で、一説に徳川氏の先祖とされる世良田経広と相撲を取る(元ネタとなった記事が実際にあるらしい)。その後父・円心だけでなく関東まで足を延ばして新田・足利ら各地の武士たちに護良の令旨を届けて回る。
漫画では 甲斐謙二・画「マンガ太平記」で父・円心とともに桂川で六波羅軍相手に奮戦する模様が古典に従って詳しく描かれた。少年漫画では沢田ひろふみ「山賊王」で護良親王の従者、および赤松円心の子ということでそこそこ出番がある。
集英社・学習漫画「日本の伝記」シリーズの「足利義満」(漫画・荘司としお)では序盤で幼い義満を白旗城にかくまった則祐が義満の「養父」としてふるまう様子が描かれる。やたらにファンキーな「面白いオジサン」の雰囲気だが細川頼之の芝居を見破るなど切れ者ぶりも発揮、強烈に読者の印象に残る。義満に看取られながら忠告を残しつつ息を引き取るという完全なフィクションながら泣かせる名シーンもある。
河部真道『バンデット』では赤松一族が活躍しており、則祐も少年時代から登場、護良親王の側近となって成長した姿も描かれる。六波羅攻撃の場面では『太平記』の川に騎馬で乗り込んで先陣するくだりが兄・貞範に川に投げ込まれるという形に変えられていて、ブラックな笑いを誘う。
PCエンジンHu版 シナリオ2に登場しており、能力は父・円心と同じ「長刀4」
PCエンジンCD版 播磨にいる父・円心のもとに一族ともども登場。統率・64、戦闘・84、忠誠・86、婆沙羅・42でかなり能力は高い。
メガドライブ版 楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで登場。能力は体力69・武力83・智力122・人徳84・攻撃力77。 

赤松範実 あかまつ・のりざね 生没年不詳
親族 父:赤松範資 養父:赤松則祐
兄弟:赤松光範、赤松朝範、赤松直頼、赤松師範
生 涯
―先陣争いは友情の始まり?―

 実父は赤松範資で、「彦五郎」の呼び名がある。兄の朝範直頼らと共に叔父・則祐の養子となっている。文和4年(正平10、1355)1月に南朝方の山名時氏らが足利直冬を奉じて京に攻めのぼり、2月に赤松則祐は足利義詮と共に神南山に陣して山名勢を迎え撃ったが、このとき則祐の養子たちが奮戦、範実も初めて史料上に登場する(「太平記」)
 
 延文4年(正平15、1359)末、将軍になったばかりの足利義詮は南朝に対する大掛かりな攻勢を開始し、赤松一族もこれに加わった。翌延文5年(正平16、1360)閏4月29日、幕府軍は楠木正儀らがたてこもる竜泉寺城に攻撃をかけたが、ここで赤松範実は幕府の執事・細川清氏(猛将として知られる)と先陣争いを演じた。清氏が城の下の崖の前に旗を立てて「先駆けは清氏にあり」と叫ぶと、範実は城の中へと飛び込み「先駆けは範実でござる。後日の証拠にしてくだされ」と名乗りを上げて塀を乗り越えた。これに勢いを得た幕府軍は竜泉寺城を攻め落としている(「太平記」)

 翌康安元年(正平16、1361)9月、執事・細川清氏が佐々木道誉との対立から幕府に反旗を翻し、南朝に投降して京を攻めた。先の先陣争いの時に親しくなったものか、赤松範実はこのとき「摂津国兵庫から出陣してそのまま山崎を攻めよう」と清氏に呼応する動きを見せ、そのまま清氏や石塔頼房ら南朝軍と共に京を攻め、12月8日にこれを占領した(南朝軍の第四回京占領)。しかし養父の則祐からさまざまに説得と勧誘を受けて清氏から離れ、播磨の則祐のもとへ走った(「太平記」)

赤松範資 あかまつ・のりすけ ?-1351(観応2/正平6)
親族 父:赤松円心(則村) 兄弟:赤松貞範、赤松則祐、赤松氏範
子:赤松光範、赤松朝範、赤松直頼、赤松師範、赤松範実
官職 左衛門尉・信濃守
幕府 摂津・播磨守護
生 涯
―赤松円心の嫡男―

 赤松円心(則村)の長男。生年は不明だが、『赤松記』「若き時、尼崎之城に居住」と記され、摂津国・尼崎にあった長洲御厨の庄官たちが嘉暦元年(1326)に作った起請文にも「執行範資」の名が弟の貞範と共に記されている。
 元弘3年(正慶2、1333)閏2月に父・円心が護良親王の令旨を受け、摂津摩耶山で挙兵すると、範資ら息子たちもこれに従い六波羅軍と連戦する。5月7日の足利高氏らと連動した京都攻撃では赤松軍は東寺を攻め、範資が楼門近くであぶみを踏ん張って左右を見回し、「誰かある。あの木戸、逆茂木、引き破って捨てよ」と命令を出す描写が『太平記』にある。

 討幕戦で功績を挙げた赤松氏だったが建武政権の論功行賞では冷遇され、やがて建武2年(1335)末に足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと赤松氏もこれに呼応した。このとき範資はぎりぎりまで京都に残っていたらしく、翌建武3年(延元元、1336)1月7日に京都から脱出して播磨に帰国しようとする途中で四国から攻めのぼって来た細川定禅の軍と出会い、これに加わった。定禅は京攻撃にあたって元弘の時の吉例にあやかろうと範資に先陣を命じている。範資はこのとき尊氏の軍に加わっていた弟の赤松貞範に自筆の手紙を送って連絡をとり、合流して兄弟の再会を喜びあった(「太平記」)

 その後足利尊氏が九州へ敗走すると、赤松一族は新田義貞軍を播磨で食い止め、九州を平定した尊氏が東上してくるとこれに合流して湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破した。尊氏が建武4年(延元2、1337)8月3日付で出した感状には範資が湊川合戦で「比類なき働き」をしたと認め追って恩賞を与える旨が記されており、このころに範資は摂津守護職に任じられている。ひとまずの成功をおさめた節目であったためか、範資はこの年に摂津に広巌寺を創建している。
 暦応元年(延元3、1338)から範資は兄弟らと共に播磨・摂津に残存する新田一族の金谷経氏ら南朝勢力と連戦している。また貞和3年(正平2、1347)9月には弟の貞範と共に南朝の楠木正行と天王寺付近で戦ったが、楠木軍の勢いの前に敗走している(「太平記」)

 観応元年(正平5、1350)1月17日、父・円心が京都・七条の屋敷で死去した。急死であったために相続についての遺言を残していなかったようで、一族で相談の末に半年ほどして相続方法が決まり、長男である範資が赤松氏惣領の地位を引き継ぎ、播磨守護職のほか氏神である白旗鎮守八幡・春日両社の神職も引き継いだ。京・七条の屋敷も範資のものとなり、赤松氏の彼の系統は「七条家」と呼ばれることになる。
 折から足利幕府は足利直義派と高師直(実質尊氏派)の対立が激化して「観応の擾乱」と呼ばれる内戦に突入しており、赤松一族は一貫して尊氏=師直派に属し主力として戦った。観応2年(正平6、1351)正月10日に範資は尊氏と共に大渡で直義軍と戦い、2月には範資が強く進言して直義方の光明寺城を攻撃、しかし2月17日の打出浜の戦いで尊氏・師直軍は大敗し、尊氏らは範資がいる湊川城へと逃げ込んだ。このとき一同はもはやこれまでと思い、範資は「最後の酒盛りをして自害の覚悟を決めよう」と酒樽をもってこさせ、十三歳の息子・直頼を呼び寄せて「お前はまだ幼いから一緒に自害しなくても非難はされまい。以前からお前を則祐の養子にする約束があったから、則祐を真の父と思って一生を任せるか、あるいは僧にでもなってくれ」と涙ながらに落ちのびるよう諭した(「太平記」)。直頼はこれを聞かなかったが、結局土壇場で和議が成立し、尊氏や赤松一族一同みな命は助かることになる。

 それから間もない観応2年(正平6、1351)4月8日、範資は京・七条邸で急逝した。一応和議がなったとはいえ、高一族が殺戮され、尊氏・直義の間にまた不穏な空気が流れる状況の中での急死であった。享年は不明で、太清宗渭が導師となって葬儀が執り行われ、範資には「摸叟世範」の謚が贈られた。
 摂津守護職は嫡子の赤松光範に受け継がれたが、播磨守護職および赤松家惣領の地位は円心三男である則祐に引き継がれた。以後赤松家の惣領の地位は則祐の系統に引き継がれるが、範資系の七条家も一門内で一定の力を持ち、戦国期には赤松氏惣領の地位を奪回してもいる。

参考文献
高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
その他の映像・舞台 戦前の昭和14年(1939)に森一生監督「吉野勤王党」という映画があり、主人公が「円心入道の長男・中の荘の大弥太」で、市川右太衛門が演じている。ただしこれが範資のこととはあまり思えない。
歴史小説では 赤松円心が主人公の北方謙三「悪党の裔」ほか重要な役ではないがところどころで登場している。
漫画作品では
河部真道『バンデット』は赤松父子がそろって濃いキャラで登場するが、範資はその中では比較的地味な登場をする。父の円心が主人公たちを殺さなかったのを見て「親父も丸くなった」とつぶやくセリフが印象的。
PCエンジンCD版 播磨にいる父・円心のもとに一族ともども登場。統率・78、戦闘・87、忠誠・88、婆沙羅・32
メガドライブ版 足利帖、楠木・新田帖いずれのプレイでも京都攻防戦や湊川合戦のシナリオで登場。能力は体力88・武力134・智力97・人徳73・攻撃力105。 

赤松則村 あかまつ・のりむら
赤松円心の俗名。→赤松円心(あかまつ・えんしん)を見よ。

赤松光範 あかまつ・みつのり 1320(元応2)-1381(永徳元/弘和元)
親族 父:赤松範資 
兄弟:赤松朝範、赤松直頼、赤松師範、赤松範実
子:赤松満弘
官職 大夫判官
幕府 摂津守護
生 涯
―赤松七条氏のルーツ―

 赤松範資の長男。観応2年(正平6、1351)4月8日に赤松家惣領であった父・範資が京・七条邸で急死すると、光範は父の摂津守護職を世襲したが、赤松惣領家の地位は叔父の赤松則祐に引き継がれた。これは則祐の経歴と実力(則祐は佐々木道誉の婿でもあった)によるものと見られるが、まだ光範が若く実力不足と見なされてこの乱世を生き抜くために則祐が一時的に惣領の地位を預かった、ということであったかもしれない。光範と則祐がとくに不和であった様子はなく、翌文和元年(正平7、1352)に南朝軍が京を攻撃、占領すると、則祐と光範は共に南朝軍と連戦し、3月17日には光範が摂津・神崎にて南朝の楠木正儀軍を破るなどしている。
 
 延文4年(正平14、1359)12月、第二代将軍となったばかりの足利義詮は南朝への大攻勢をかけ、自ら出陣して翌年3月に光範の居城である摂津・尼崎城に入った。光範は地元・摂津守護職としてこの戦いに積極的に参加したが、翌延文5年(正平15、1360)10月になって義詮から「尼崎での接待の仕方がよくなかった、また兵糧米の提供が不足していた」といった不始末を理由に摂津守護職を剥奪されてしまう。この事情について『太平記』は、将軍の側近たちが光範の兵糧提供について文句をつぶやいているのを聞きつけた佐々木道誉の策謀とし、執事の細川清氏が光範を守ろうと何度も反対したとしている。実際に後任の摂津守護職は道誉に任されたが、細川清氏の反乱が鎮圧されたのちの貞治元年(正平17、1361)に摂津守護職は道誉の娘婿でもある則祐にまわり、それから翌年に再び光範の手に取り戻されることになる。

 その後貞治5年(正平21、1366)8月の斯波高経失脚(これも道誉の策謀であった)に巻き込まれて一時的に摂津守護職を失い回復するも、応安7年(文中3、1374)に管領・細川頼之の弟の細川頼元についに摂津守護職を奪われ、以後回復することができなかった。永徳元年(弘和元年、1381)10月3日に死去、享年62。
 光範の子孫は京の屋敷の所在地から「七条家」を名乗るようになり、惣領を則祐の系統にとられながらも一定の位置を保ち続けた。戦国時代には七条家から出た赤松義村が赤松宗家に養子として入っている。

参考文献
高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)

赤松義則 あかまつ・よしのり 1358(延文3/正平17)-1427(応永34)
親族 父:赤松則祐 母:佐々木道誉の娘 
兄弟:赤松時則、赤松満則、赤松持則、有馬義祐、赤松祐秀、細川持之の妻
子:赤松満祐、赤松祐尚、赤松則友、赤松義雅、赤松則繁、直操、則槃
官職 左近将監・上総介・兵部少輔・大膳大夫・左京大夫
位階 従四位下
幕府 播磨・備前・摂津・美作守護、侍所別当
生 涯
―「三尺入道」?の勇将―

 赤松則祐の長男。母は佐々木道誉の娘であるが、二人の結婚はかなり遅く、則祐が兄・範資の死(1351)を受けて赤松家の惣領となった時期に、幕府の有力者である道誉と結びつくための政略結婚であったとみられる。延文3年(正平17、1358)に長男の義則が生まれるが、このとき則祐はすでに48歳の高齢であった。則祐の子たちはいずれも義則のあとに生まれているため、早くに出家していた則祐は道誉の娘との結婚が初婚であったようである。

 応安4年(建徳2、1372)11月に父・則祐が死去し、まだ14歳の義則が赤松家惣領の地位と播磨・備前・摂津守護職を引き継いだ。康暦元年(天授5、1379)2月に大和へ出陣した土岐頼康に不穏な動きがあるとして、義則は三代将軍・足利義満からこれを討つよう命じられているが、これは間もなく撤回され、閏4月に逆に斯波氏・土岐氏らの軍が「花の御所」を包囲して管領・細川頼之を失脚させる「康暦の政変」が起こった。この政変を受けたものか、義則はこの年に侍所別当に任じられている。

 明徳2年(元中8、1392)に細川頼之が復権、頼之と義満の策謀により追いつめられた大大名・山名氏は叛乱を起こし、「明徳の乱」となった。12月30日に京の内野で行われた合戦に、再び侍所別当となっていた義則は弟たちや一族を率いて参戦、弟の満則をはじめとする武将57名を戦死させたが(「明徳記」にも義則ら赤松勢の奮戦ぶりが語られている)、その奮戦を評価されて敵将の山名義理が持っていた美作守護職を与えられた。義則は山名に仕えていた守護代英保立賢の罪をとがめずそのまま守護代に任じて美作の統治をスムーズに進めている。また戦死した弟の満則の遺児・満政を不憫がり、ことのほかこの子を寵愛したと言われる。
 さらに応永6年(1399)に堺に上陸した大内義弘が叛いて「応永の乱」が起こると、義則も諸大名と共に堺攻撃に出陣、これを攻め落としている。またこのころまでに出家し、「延齢性松」と号して息子の満祐を守護代として領国支配を代行させた。

 義則の時代に赤松家は播磨・備前・美作における守護領国化を進め、幕府においては一色・山名・京極と並んで要職を占める「四職家」の地位を固めた。義則は実に半世紀以上にわたって幕府の要職にあってほとんどを京の西洞院二条の屋敷で過ごし、四代将軍・足利義持の時代には幕府の宿老として重んじられた。応永34年(1427)9月21日に死去、享年70の長寿であった。「竜徳寺殿延齢性松」と謚された。
 赤松惣領は嫡子の満祐に引き継がれたが、嘉吉元年(1441)に将軍・足利義教を殺害する「嘉吉の変」を起こし、赤松氏を一時滅亡に追い込むことになる。
 
 伝説的記事の多い『赤松記』によると義則は極端に背が低く、「赤松三尺入道」と呼ばれたという。ただし『赤松系図』では子の満祐が「身長最短、世の人三尺入道と号す」とあり、親子のどちらが「三尺入道」だったのか分からない(両方、という見方もある)
 『赤松記』に載る伝説はさらに面白い。そのころ京都では髪を長くのばした大きな児(ちご)のような姿の「大わっぱ」という妖怪が馬で走り回り、手当たり次第に切って回っていた。「なんとかしてあいつをつかまえたなら天下の忠義である」と帝の宣旨があったが、たやすくつかまえられそうになかった。だが「三尺入道」はぜひつかまえてみようと弟たちも連れずにただ一騎で都のあちこちを走り、幸運にも「大わっぱ」とめぐりあって馬上で渡り合い、これを斬って落としたという。義則がこのとき使った太刀はそのまま「大わっぱ」と名付けられ、代々受け継がれたが戦国時代に焼失してしまったという。

参考文献
高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
濱田浩一郎「播磨赤松一族」(新人物往来社)

顕子 あきこ
 大河ドラマ「太平記」に登場した、北条高時の愛妾。実質ドラマオリジナルの架空キャラである。元弘の乱で後醍醐天皇が隠岐に流された後の第15回から登場し、高時の側に無言で侍って人形のような妖しい美しさを見せ、滅びゆく北条一族の退廃ムードを象徴させる役割を担っていた。
 高時の正室は安達時顕の娘だったのでそこから「顕子」の名がつけられたのではないかと思うのだが、劇中のわずかなセリフによれば顕子の父は六波羅探題に勤めており、足利高氏の攻撃を受けて戦死したとわかるので正室ではない設定なのだろう。第22回「鎌倉炎上」では高時から化粧され、高時の自害を見届けて真っ先にのどを突いて後を追った。吉川英治「私本太平記」で高時の自害を促すため先に喉を突く16、7歳の小女房が出てくるので、これをヒントにしたかもしれない。
 演じたのは「国民的美少女コンテスト」でグランプリとなり、これが実質デビューとなった小田茜。セリフは「顕子の父も」「みなさま、お先に」の二つしか無かったが、独特の存在感が見事にドラマに生かされていた。

秋田城介 あきた・じょうのすけ
 鎌倉時代に安達氏が代々務めた官位で、「秋田城介」といえば安達家当主を指す。大河ドラマ「太平記」で「秋田城介」役名の人物が9回、11回、12回に北条高時の側近として登場、高時による長崎円喜父子暗殺計画の首謀者のように描かれた(演者は9回は佐藤文治、11・12回は佐藤祐治。同一人物か?)。実名が明示されないが、年齢からすると高時の正室の父である安達時顕の子・高景ではないかと思われる。→安達高景(あだち・たかかげ)を見よ。

悪讃岐 あくさぬき?-1331(元徳3/元弘元)
生 涯
―比叡山の荒法師―

 比叡山延暦寺の桂林坊に属した悪僧(荒法師)。元弘元年(元徳3、1331)8月28日、後醍醐天皇に味方した比叡山の僧兵たちが六波羅探題の軍勢と唐崎浜(琵琶湖西岸)で戦闘に及んだ際にその名が見える。名の知れた悪僧であったらしいが、この唐崎浜の戦いで戦死している。
 これに先立つ正和3年(1314)に比叡山に属する新日吉社の神人と六波羅探題の武士がトラブルとなり、比叡山の僧兵たちが六波羅へ押し寄せ合戦しようとする騒ぎが起こっているが、このとき騒ぎの張本人として六波羅の取り調べを受けた悪僧の中に「桂林坊讃岐泰賢」の名がある(西園寺公衡の日記)。これが『太平記』の「桂林坊の悪讃岐」と同一人物である可能性は高いとみられる。本来の法名が「泰賢」で、あだ名の「悪讃岐」の方が有名になってしまったのだろう。

参考文献
岡見正雄校注「太平記」(角川文庫)補注

飽浦信胤 あくら・のぶたね 生没年不詳
親族 父:飽浦長胤
官職 左衛門尉・薩摩権守
生 涯
―密通がばれて南朝に走った瀬戸内豪族―

 本姓は「佐々木」で、備前国児島郡飽浦(現岡山市)に拠点を置いたことから「飽浦」を名字とするようになった。飽浦信胤『太平記』では「佐々木三郎左衛門尉信胤」としてその名が記されている。
 「太平記」でその活動が最初に確認されるのは、建武2年(1335)12月。おりしも関東に下った足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、これに呼応して四国で細川定禅が挙兵していた。その定禅の呼びかけを受けて備前の飽浦信胤も田井信高らと共に挙兵し、備中・福山へと進出した。これを討つべく児島高徳をはじめとする備後の武士たちが出陣したが、建武政権に不満を持つ武士たちが信胤らのもとに集まり、寝返りもあって児島高徳らは大敗を喫してその急報を都へ送っている。児島高徳の実態そのものに疑問符がつくのだが、信胤の挙兵自体は事実とみられる。

 この時の功績により足利幕府から重んじられた信胤だったが、思わぬところで失脚するはめになる。京の公家・今出川(菊亭)実i尹の屋敷に「御妻(おさい)」と呼ばれる美貌の侍女がおり、数多くの男たちから求愛を受け、また彼女自身も浮気性で多くの男と関係を持っていた。やがて彼女は高師秋の実質的妻となったが浮気性は相変わらずで、その彼女の愛人の中に飽浦信胤がいたのである。妻の浮気を知った師秋は彼女に仕えていた少女から「お通いになる殿方は大勢いましたが、最近とくに飽浦三郎左衛門とかいう方がとても熱心に通っていて人目もはばからなかった」と聞きだし、信胤を深く恨み、彼を攻撃しようとまで謀った。これを知った信胤は危険を察知して京を離れ、小豆島で南朝方に鞍替えして挙兵したという。以上の話は「太平記」が伝えるもので、話がいささか面白過ぎ、そんなことで南朝方につくというのも考えにくい。塩冶高貞高師直の有名な逸話を連想させるところもあり、塩冶の場合と同じく色恋沙汰ではなく何か政治的背景があったと見るのが自然だろう。
 ともあれ、南朝の興国元年(暦応3、1340)前後に飽浦信胤は南朝方に投じ、南朝軍の総帥的立場にあった脇屋義助を四国・伊予へ送り届けている。脇屋義助は伊予に渡った直後に病死してしまったためこの作戦はほぼ無駄に終わるのだが、以後備前沖の瀬戸内海では飽浦氏の水軍が南朝方としてにらみを利かしていたようである。正平2年(貞和3、1347)4月に小豆島で神人(じにん)の蜂起があったが、ここを支配していた信胤により鎮圧されている。

 その後しばらく彼の動向は知られないが、正平16年(康安元、1361)に幕府の政争に敗れて南朝方についた細川清氏が讃岐に渡り、従兄弟の細川頼之と対決したとき、飽浦信胤が清氏を助けて水軍を率いて海上封鎖を行い、頼之軍を苦しめたという記述が「太平記」に見える。その後の動向は不明だが、淡路細川氏の家臣となり小豆島の肥土荘を支配したとの記録もあるという。
 小豆島では彼が「太平記」に南朝方として姿を現し、またちょこっと色恋沙汰がからむこともあってか、「御妻(お才)」を小豆島に連れていったとか、北朝軍相手に果敢に戦って戦死したといった伝説や旧跡・踊りなどが多く残されている。ただ「太平記」を読む限りそんな事実は確認できず、江戸時代以降の付会であろうと思われる。
大河ドラマ「太平記」 ドラマ中への登場はないが、第35回で諸国の武士の蜂起が伝えられる中で、「備前の佐々木信胤」が細川定禅らと共に挙兵したと言及されている。

悪律師 あくりっし生没年不詳
生 涯
―大塔宮についた比叡山の荒法師―

 比叡山延暦寺の中坊(なかのぼう)に属した悪僧(荒法師)。詳細は全く不明だが、『太平記』巻二においてその名が他の荒法師と共に列挙されており、実在した人物と考えられる。
 元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をし、大塔宮護良親王のいる比叡山延暦寺は後醍醐に呼応して六波羅探題の軍と戦った。しかし後醍醐になりすまして比叡山に入っていた花山院師賢の正体がばれて比叡山は同様、多くが六波羅方に寝返ってしまう。このとき護良親王・宗良親王のもとに馳せ参じたのはわずかに三、四人ほどで、その中に「中坊の悪律師」の名がみられる。その後の動向は不明。


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